1 :
ヤマトモモソヒメ :
2006/01/14(土) 18:55:01 九州馬鹿しつこいよ マキムク遺跡が邪馬台国なのは考古学的常識で学会の多数派 祭壇跡も出とる!!!! 第一どうやって小さい九州に7万戸と5万戸の人口を支えれるか? 日本の最初の首都マキムク 九州説などアマチュアの変人の戯言 それを九州人と朝鮮人と左翼が結託して喚いてるのが九州説 日本人なら関西説だよな!! 反論があれば何でも受け付けて論破してやる 馬鹿九州説かかってこいやっ!!!!!!!!!!!!!11
3 :
ヤマトモモソヒメ :2006/01/14(土) 18:59:34
史書による邪馬台国全盛時代と古墳隆盛が一致してきたことが最新の考古学的成果 学界的には古墳の時代は繰り上がってるんだよ!!! 捏造本で捏造を推論するより土(考古学的考証)を見ろ!11!!
4 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 19:02:06
↑ 皆さん、アホゥがスレ立てますた。 どぅか構ってやって おくなまし とにかくアホゥです。 難しい質問は避けて下さい
今年の初詣で、初めて箸墓へ行ってきました。 孝霊天皇って架空の天皇だよね。
6 :
ヤマトモモソヒメ :2006/01/14(土) 19:05:46
アホウで結構!! 九州説の偽造を暴いてやる為には鬼になるまあ自分は関西説と言ったが 九州から関西までの統括された国が邪馬台国で出雲が5万の対抗勢力だと研究した。
7 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 19:07:03
>>2 大人の対応で感心しました。
最近はレベルの低い罵り合いや思想の押し付け合いが増えてきて事実の追求や意見交換の雰囲気はなくなりましたね。
8 :
ヤマトモモソヒメ :2006/01/14(土) 19:08:15
そんで西の都が宇佐で東の都がマキムクだ 学会ではこんなのは常識だが九州アホウが多すぎてもう。
9 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 19:11:17
ミマキ・イリヒコのミ・マキとマキ・ムクとは関係があるのだろうか?
10 :
ヤマトモモソヒメ :2006/01/14(土) 19:17:59
>>2 「魏志倭人伝」等を読む
↑
九州説をぜんていとした偏ったスレタイだよ
「古墳史跡」等を見る(邪馬台国はどこですか20)
こうしたらおまえら九州説亡者はどう思う?
11 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 19:19:45
12 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 19:21:53
>1 漏れは九州説だが基本的におまいの説とかわらんよw 邪馬台国の勢力域はでかいんだよ。
初心者にわかりやすく言うと邪馬台国は 現在の「大分」「宮崎」「瀬戸内海沿岸」「大阪」「奈良」の連合国家で 首都はマキムク副都心は宇佐 那国は現在の福岡で邪馬台国の衛星国家 なんで福岡やら熊本やら佐賀が邪馬台国なんだよ、ボケ!
質問が無いようですので去ります 実際九州説も説を疑ってるのが本当のところだろう 邪馬台国探求も 中国の証拠(史書)、日本の証拠(考古学・史書)、を平等に付き合わせて科学的考察するのが筋 本読んで推論はどこまで行っても推論でしかない(永遠に説で真実にはならない) 魏志倭人伝は一つの資料でしかない事を忘れるべからず。 では股
15 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 19:38:03
九州説だが基本的に1に同意。 今時古典的な九州説唱えてる玄人はいないでしょ
古事記の年数をそのまま信じてしまえば、邪馬台国は穴太。
17 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 20:09:59
畿内の前方後円墳は倭国大乱(九州奴国と畿内大和)後の和睦の象徴。 両国の瀬戸内海戦があったという。 この後和睦、九州奴国の甕棺は廃止、同時に畿内の銅鐸も廃止。 そして倭と畿内の和睦の象徴前方後円墳が築かれた。
倭国大乱=武埴安彦の乱? 崇神天皇が全国平定を目指し四道将軍を各地へ派遣したが、 異変を感じた大彦命が引き返し、鎮圧。
19 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 20:28:09
基本は1のいう通りでしょうから、 なぜ神武の東征などという話が盛り込まれたか これベースにして考えるべきだと思う。 素人的に考えると直ぐ朝鮮人が九州入って 本州一帯に広がったみたいなアホ理論展開しがちで困る。
20 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 20:32:44
学者の意見などあてにならん
スレ主消えてるしw
22 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/17(火) 11:57:27
まず倭人伝からどうやったら畿内にたどり着くのか 説明してみてください
23 :
日本@名無史さん :2006/01/17(火) 12:47:28
>>22 倭人伝からはたどり着けないよ。
そんなことが可能ならとっくに白鳥、内藤論争のあたりで決着していただろう。
要するに3世紀の北部及び中部九州に、政治、宗教、物流における拠点となったと思われる遺跡が存在しないから
九州島内では想定できなくなっただけのことだ。
どんな小規模遺跡でもいいが、その痕跡を匂わせるものすらないのだからしょうがない。
さらには九州の発掘成果が進み、各集落が高い独立性を有していたが故に連合化が進まなかったとの見解が有力となっている。
逆に畿内、東海はその経済的基盤の脆弱さによって連合化を余儀なくされた。その結果として広範囲な大規模流通が可能となり
勢力を伸ばしたと見られている。
問題はそのゆるやかな経済連合のなかで、どのような過程を以ってして「大王」が発生したかが
現在の課題と言うわけだ。
24 :
23 :2006/01/17(火) 12:59:12
しかし
>>1 の言うような、変な畿内説を唱えている奴は少ない。
と言うか、ちょっと変だなw
纏向とその周辺(旧畿内)を合わせても7万戸なんて不可能だし
モモソヒメも後付けの伝承の可能性が高い。
三輪山信仰の概要が出来上がったと見られる6世紀中葉、つまり神武伝承とほぼ同じ頃に両方とも出来上がったと見られている。
箸中山も3世紀中葉に位置付ける研究者もいるが、第3か第4四半期と見るのが妥当ではないか。
まあ掘ってみんことには何とも言えないがね。
伝承や神話はいつごろ発祥し、その体系が整ったのがいつなのかを検証してからでないと
資料どころか参考にもなりはしない。
その作業を怠ってむやみに「根拠」とするのは無謀だよ。
25 :
23 :2006/01/17(火) 13:16:56
>>1 はうわ言の様に「最新の考古成果」を連発しているが
嘘ばっかり書かれると考古学サイドにとっては迷惑なんだ。
3世紀上半期に宇佐に有力な遺跡など無い。むしろ何故ないのかが不思議なんだ。
別スレでも甕棺が見事に日田から東に進んでいないってあったろう。
別の勢力が存在したと言うより、明らかに過疎地域なんだよ。
大和も東南部(纏向、唐古・鍵など)と北部や東部(芝など)では4世紀になっても相互流通が進んでいない。
東南部は出雲、吉備などの遠隔地との直接交流が2世紀には確認されるのに、北部は東海(伊勢湾沿岸)が少々見られる程度と
一口に畿内勢力とは言い難いわけですよ。
だからこそ初期大和連合がどのようにしてその勢力範囲を拡大して行ったのか。
その重要な手段として前方後円墳や三角縁が使われたのか。
また東海を中心とする前方後方墳勢力とはどのような政治的、経済的な繋がりを持っていたのか。
このあたりを
>>1 はあまり詳しく知らないのではないか?
寺沢薫が、あるシンポで畿内説の敵は九州説でも東遷説でもなく
妄想畿内説だと言って場内を爆笑させていたがまさにそのとおりだ。
26 :
23 :2006/01/17(火) 13:50:16
せっかくだからある程度足跡を残しておこうか。
>>13 >那国は(中略)邪馬台国の衛星国家
無茶言うなよ。いくら西新町で交易の後が確認されたからと言っても
それは連合参加以上でも以下でもないよ。
ただ斜陽の奴国が瀬戸内勢力の助力を得て再開発されたとの見解はしてもいい。
そのうちに奴の首長の地位が次第に低下していったとは十分考えられる。
伊都国も同様。こちらは集落放棄の道を歩んだが。
>>17 これも時代がごっちゃになっている。
巨大青銅器祭祀の終焉は1世紀あたりから徐々に始まっており
まず九州、続いて瀬戸内、そして東海に飛んで最後に畿内。
高地性集落の第2時ピークと見られる2世紀にはほとんどのところで巨大青銅器祭祀は廃れている。
このあたりは森岡秀人の各論文を参照のこと。
つーかそれは基本中の基本ですよ。
倭国乱にしても肝心の戦跡が一切見つからない上に、高地性の防御性能そのものが疑われている。
前線基地に女子供と一緒に住んで、土器や農具工房を作ってどうするんだ?
前方後円墳の形態や築造技術が、各地域の持ち寄りだと言うのは有力説だが
阿波、讃岐、河内なんかにその初期基本モデルと考えられる墳墓がある。
そのうえで吉備や出雲さらには東海の技術が集結している。
大和東南部は土木よりもむしろ木造建築技術などで貢献しているようだ。
魯般尺などの魏尺も唐古・鍵でも確認されている。
宗教に関しては「鬼道」も含めて確定的なことは言えないが
纏向大溝の最深部では唐古・鍵の鳥形木器がわんさかと出る。
そこに加えて吉備の特殊器台や阿讃の石囲い、播磨の土器製作技術なんかが色を添える。
27 :
23 :2006/01/17(火) 14:03:22
問題はホケノ山で出土した鉄器(鏃など)だが 確かに豪華な威信具は北部九州の大きな特徴で、何らかの関係があったのではないかとも考えられる。 だがどうやら形式や材料の分析報告を読む限りでは、吉備産の可能性が高いらしい。 九州が直接関与したにしては、逆におそまつな2級品なんだな。 これらをどう解釈するかは議論の余地がある。 出雲の関与だが葺石なんかはまさにそうだが、丹後経由とも考えられる。 ただ出雲は2世紀には吉備と並んで大和川流域に貿易拠点らしき集落を築いている。 全出土土器の70%までが出雲系土器に占められる遺跡すらある。 これらは唐古・鍵とも綿密な関係あったと見られるので、個々の技術に拘泥するよりも 大きな流れのひとつとして捉えたほうがいいのかも知れない。
28 :
23 :2006/01/17(火) 14:14:12
>>18 >四道将軍
これなどは前方後円墳の普及ルートと極めてよく似ていることから
征伐や戦争ではなく連合参加への交渉など(無論様々な手口を使ったろうが)の
伝承化と解釈したほうがいいだろう。
これもまた戦跡が一切発見されないことからも、初期大和連合の正体が
各クニの経済連合だったとの仮説が有力となる。
オオヒコの実在については、伝承上の共通始祖との可能性が高い。
これは欠史八代も同様の性格を有している。
29 :
23 :2006/01/17(火) 14:31:19
>>19 >なぜ神武の東征などという話が盛り込まれたか
これは崇神を「ハツクニシラスノスメラミコト」と位置付ける伝承のほうが先にあって
その記憶が記紀には崇神、景行から成務あたりで語られていると見られている。
しかしこの時代はどうやら、緩やかな連合での寄り合い所帯以上のものではなく
「オオキミ」が存在したかどうかがかなり疑わしい。
居たにしても祭祀専門の担当者か、もしくは氏族ごとに交代で勤めたかだと思われる。
そのうち半島情勢の混乱もあって、記紀に言う三韓征伐を主張する一派の台頭があったと見られる。
実際博多湾沿岸では4世紀中葉あたりから大規模な土木工事跡が多数出土する。
このいわゆる軍部にあたる一派の代表が応神ではないかと考えられている。
大和連合内でもかなりの確執があったようで、それまでほとんどみられなかった戦跡が
特に瀬戸内や畿内、北部九州で確認される。
また百舌鳥古墳群が仁徳グループだとすれば、佐紀や馬見は別のグループだとの解釈もありうる。
アカデミズムではそこまで先鋭的な見方は少数だが、かつての三王朝交代説とは違う
「大和連合内での軍事的勢力の群雄割拠の時代」だと見る向きは多い。
30 :
23 :2006/01/17(火) 14:43:13
前置きが長くなったが、6世紀の政治勢力の状況の中で 連合の単なる代表であり、祭祀、政治的な側面の強かった崇神より 軍事指導者としてのカリスマを持った応神タイプの始祖を求める機運が芽生え始めた。 その結果生み出されたのが「神武」であろうと考えられている。 そういう意味では神武のモデルが応神にあるとの仮説は、的を射ているかもしれない。 考古学的には橿原宮や葛城近辺には、3世紀以前に大きな勢力が存在した痕跡はない。 またどうやら天武(当時大海人)が神武伝承の熱烈な信者であった可能性も指摘されている。 記紀編纂時にこれらの伝承が整理され、ひとつの叙事詩となったか あるいはその前に纏められたかは今は何ともいえないが。
>>30 コテハンつけてみれば?あなたのカキコしてる内容、すごいです。私
も畿内説にしようかと。
32 :
太国 :2006/01/17(火) 14:52:59
33 :
23 :2006/01/17(火) 14:59:23
>>22 倭人伝における方角、里程の解釈や各中国史書との整合性については
山尾幸久が纏まった論文にしている。
これが一番手に入りやすいので目を通してみるといい。
要するに原田大六が最初に唱えた説だが
「夏に緯度を南下した場合に天体から観測される現在地は
実際の方向とは反時計回りにずれる;というもの。
また報告した郡使が北部九州から出ていない、つまり伊都国周辺しか訪れていないというのも
当時伊都国が連合内で重要な位置にあったためとみられている。
朝貢時の段階では卑弥呼などという単なる祭祀者に権限などなく
それが「魏の女王認定」によって勢力地図が劇的に塗り替えられたと見るべきだろう。
それまでの纏向は単に各クニが共同で開発した「市」でありその取引に付随した「ウケイとしての祭祀機関」であったとみられるためだ。
これが纏向に派遣された各クニの担当者が権力を持ち始めた引き金に成り得たのだろう。
もちろん流通中枢に位置することで得た「旨み」による蓄財や
集積した「技術力」と「人材」も含めてのことだが。
34 :
23 :2006/01/17(火) 15:04:38
>>31 いやこれは単に現在の古代史定説の列挙に過ぎないんです。
みんな何故か定説を頭から嫌うので、せめて知っておいて損はないですよ
くらいの気持ちで紹介しました。
概略は以上です。
これをたたき台にして「嘘やでっち上げ、徹頭徹尾妄想」みたいな
呼んでてこちらの神経が参ってしまいそうな論調が少しでも減れば本望です。
35 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/17(火) 15:06:45
昨日から見てたけど、畿内説も大和説も甲乙付けがたくなってきたと思います。
36 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/01/17(火) 15:10:32
あと、23氏に質問したいのですが、「石剣」の出土は畿内と九州ど ちらが多いのですか?
37 :
23 :2006/01/17(火) 15:18:16
>>36 何を以ってして「剣」とするかによりますが
石包丁も含めるとあまり変わりません。
ただこれらは出土数で文明度や文化度を比べる訳にはいかず
数だけ見たら東北のほうがはるかに多いです。
形式的にはバラエティに富んでますが
復元による性能差はたいした違いはなく
何かの祭祀的要素としての出土物と見るには、あまりにぞんざいな扱いですので何ともいえません。
お役に立てなくてごめんなさい。
>>37 いえいえ。ありがとうございます。そうすると武器的な物はないのですか?
ここは読書感想文コンクール会場ですか? 先学者の著書や論文内容を抜粋し繋ぎ合わせ、自分の意見としているだけで、全く新鮮味に欠けます。 2ちゃんねる掲示板なら、もそっと独創性を生かしたスレの方が、良いかと感じます。 こんなオウムスレなら、某スレのコテハン諸氏のレスの方が楽しいし、真実っぽい でハでハ
40 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 16:24:12
考古学だけで邪馬台国や卑弥呼を特定するには、直接的な物証が必要です。例えばここは邪馬台国ですという石碑だとか、卑弥呼の名を記した墓碑銘だとか、倭人伝にでてくる人達の出勤簿だとかが 必要です。直接関係のない遺物が、トラック何台分でてきても証拠にはなりません。
41 :
太国 :2006/01/17(火) 16:27:26
考古術といったほうがいいぞ。丸で電化の宝塔のような気分でいる連中だから。w
>>39 「仮説」の範囲にとどまるならそれでもいいでしょう。
44 :
日本@名無史さん :2006/01/17(火) 18:16:26
>>39 2ちゃんは独創性さえあれば電波を発信していいような場所じゃないよ
どうやら日本史板の質的低下の諸悪の根源は、こういう馬鹿が跋扈し始めたからだな
45 :
日本@名無史さん :2006/01/17(火) 18:30:31
>>43 指南車?ホームラン級の馬鹿だな。
自分で引用したサイトをよく読んでみろ
>『指南』の原理は、車が向きを変えたとき
>その転回した角度分指南人形(仙人像)を反対に回して
つまり角度分だけ手で回すんだよ。
勝手に南を向いてくれるわけではない。
海上でどうやっていちいち角度を修正できるんだ、馬鹿。
それと仮に正確な角度調整が可能だったとしても
狗邪韓国から対馬国の時点で「東南」を「南」に間違えてるじゃないのさ。
日本史板でコテを名乗るのは100年早いぞw
魏使は太陽の昇る位置を方角の目安にしたと思われる。 当然季節や緯度が違えば太陽の昇る角度は違ってくるので、 方位がずれていったものと思う。
>>44 質の低下と言いますが、過去に2ちゃんねるにての新発見等有りましたかな?
全てのレスが五十歩百歩に、見えてしまいます。
一見、理路整然と書かれているレスにも誤りを数多く発見しますし
その反面、纏まりの無い幼稚な文章構成レスに、一瞬「ドキッ」とする内容を発見することも有ります。
要は、書き手の質低下では無く、受け取り側の質低下を訴えたく思うのです。
48 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 18:50:01
季節によるずれなど、旅行者はしっていたはずです。渋谷をうろついている女の子じゃないのですから。 それに第一、現地の案内人がついていたはずですよ.
49 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 19:16:23
>>2ちゃんねるにての新発見等ありましたかな? 「九州王朝はなかったのか」の912からご覧下さい。 「東テイ人はどこに住んでいたのか」で謎の民族東テイ人の居住地を見つけました。 しまりのない幼稚な文章構成レス 私のことですね。自覚しております。
>>45 あんたも「宮崎」級のあほだな!
方位を、自然観測だけじゃなく道具を使って測定することを知っていた
それを言いたくてソース提示したんだよ
51 :
日本@名無史さん :2006/01/17(火) 19:22:01
サガミさん
>>39 や
>>47 のように名無しとコテを使い分けるのはやめたほうがいいですよ
癖のある句読点のつけ方や変換でバレバレです
元教員がそんな卑怯なことをしてはいけませんね
それとも巷のうわさどおり形式上の依願退職、事実上の解雇ですか
そうとられても仕方ないですね、自作自演をするような輩は
52 :
日本@名無史さん :2006/01/17(火) 19:30:07
>>50 嘘の上塗りをするな「小嶋&姉歯」級の嘘吐きが!
>自然観測だけじゃなく道具を使って
そんなもん中国人だけじゃなく、世界中で様々な道具が当時からあるわい。
誰でも常識として知ってることをソースとかぬかすな、ほら吹きが。
言い訳するな、みっともない!
間違えたなら間違えたでいいと前にも言われていただろうが、この千三つが!
53 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 19:50:40
54 :
日本@名無史さん :2006/01/17(火) 19:52:24
喧嘩はやめてください
名無しでコテを非難するのは卑怯です。
>>51 根拠がない。
>>52 =
>>51 なのは私でもわかりますw
55 :
51ですが :2006/01/17(火) 20:00:20
サガミさん。書き込み時間でもバレバレなんですって
ちなみに
>>52 こそ私じゃないですよ
>>54 の名無しサガミさん
56 :
日本@名無史さん :2006/01/17(火) 20:08:11
>>55 くだらない。
サガミさんはそういうことをするように思えない。
サガミさんは猪突猛進型だと思うw
だいたいわかるでしょ
ここには悪魔が常駐している様なので退散します。 >コテ付けるのは100年早い ★100年経ったら知らせて下さい。 今度このスレにお邪魔するときは、名無しで来ます。
58 :
23 :2006/01/17(火) 21:30:56
うわぁ・・・荒れてるよ。 そんなに定説がお嫌いですか、そうですか・・・。 コテハンが混ざるとぐちゃぐちゃになるのは困ったものだなぁ。 彼らだけでどこかでひっそりとやってくれないものだろうか・・・。
59 :
サガミハラハラ ◆dOL2PLFNfk :2006/01/17(火) 22:02:00
60 :
八墓 :2006/01/18(水) 08:31:47
たたりじゃーあ、卑弥呼様のたたりじゃーあ。
61 :
日本@名無史さん :2006/01/18(水) 17:22:11
>>1 纏向遺跡は飯場の遺跡じゃないの? 生活臭が全く感じられない。唐古・鍵遺跡
の方が生活臭がある。
あの辺には初期の巨大古墳が多いから、各地から人夫を駆り集めて、古墳造って
たんだ。その跡地が纏向遺跡だろう?
62 :
日本@名無史さん :2006/01/18(水) 17:25:58
★古代カラ半島国家の歴史★ 【志良岐】 国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の 南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。 シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、 木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは、 「国を治める皇孫」の意味であり、稲飯命の別名なのである。 この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、 『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、 また、新羅と表記するのが一般的ある。 神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった 志良岐は、古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係に あった国である。 その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(クニキシ。コニキシとも呼ばれる)という長官 が置かれ、王の統治を補佐するという独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、 志良岐王(シラキのキミ)は、臣下である第十七代・国吉士(クニキシ)=金奈勿に王権を 奪われることになった。 奈勿は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の血を引く志良岐王族を皆殺しにした。 そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。 金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(倭人)ではなく、朝鮮人である。 金氏は謎の一族である。彼らが、いつ、どこから来たのか、どのような方法で志良岐に 移住したのか、それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。 韓国に伝わる新羅の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話があるが、 もちろん作り話である。新羅建国(奪国)者=金氏に関する歴史的資料は皆無なのだ。 これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
63 :
日本@名無史さん :2006/01/18(水) 18:20:56
ミミ ヽヽヽヽリリノノノノ ミ ,,、,、,、,、,、,、,、、 彡 l i''" i彡 .| 」 ⌒' '⌒ | ボク、ホリエモン。 ,r-/ -・=-, 、-・=- | シラキは日本領土でしょ。 l ノ( 、_, )ヽ | そんなの、あたりまえ。 ー' ノ、__!!_,.、 | 朝鮮人の金奈勿が乗っ取る ∧ ヽニニソ l までは日本人の国だったじゃん。 /\ヽ / / ヽ. `ー--一' ノ/ヽ ノ7_,,, 、 ______ / (⌒、"⌒ソ⌒ヽ─ '" `、 ( ィ⌒ -'"",う/壱 / /万:/| 〜''(_)(_)(_)(_)ソ ヽノ ,イ^_.|≡≡|__|≡≡|彡|
64 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/22(日) 12:43:18
崇神の時代に造船技術がなかったことが記紀に記されているのに 邪馬台国が畿内なわけないでしょうに。
65 :
日本@名無史さん :2006/01/22(日) 15:19:38
★古代カラ半島国家の歴史 2★ 【任那】 地名の読みは、ミマナである。 日本国の第十代大王(オオキミ)である崇神天皇=孫木入彦命(ミマキイリヒコ)の御名を 記念して命名された。地名の意味は「皇孫の名」である。 志良岐の西側にあった日本国領土である。 任那は、正確に言えば「国」ではない。ヤマト朝廷が直接統治する天皇家の「領地」であった。 神武天皇が日本国を建国する以前から、任那には多くの倭人が住んでいた。隣接する志良岐や 久多良とともに、任那は日本文明圏を構成する地域の一つだったのである。 崇神天皇の時代に日本国の正式領土となった任那には、ヤマト朝廷が管理する鉱山と製鉄所が 置かれ、日本列島および志良岐、久多良へ鉄材が輸出されていた。 これらの鉄は、鍋などの生活用品を製造するための原材料として使われると同時に、剣や槍など の武器の製造にも利用された。 そのため、日本にとっての任那は、経済面だけでなく、軍事面でも重要な意味を持つ地域で あった。任那にはヤマトから派遣された軍が常駐していた。任那の軍は、任那の独立を守る ための組織であると同時に、志良岐および久多良に対する軍事支援を行う任務も持っていた。 また、カラ半島北部の騎馬民族勢力に対する監視活動・情報収集活動等も行っていた。 朝鮮人国家の金氏新羅に征服されるまでは、多くの倭人が居住し、日本文化が花開く美しい 土地であった。
66 :
日本@名無史さん :2006/01/22(日) 15:21:03
★古代カラ半島国家の歴史 3★ 【久多良】 国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。 6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と 同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。 久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。 クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。 古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」 「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。 久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的 に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。 久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も 大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識 で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから である。 久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が 担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。 古代の日本列島およびカラ半島南部には、ヤマト(日本国)を中心にした日本文明圏が形成されて おり、久多良・志良岐・任那は、日本文明圏に属する地域だったのである。 3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家 に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの 久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。 なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が 我々と同じ日本民族だったからである。 現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、 我々の体の中で生き続けているのだ。
67 :
日本@名無史さん :2006/01/22(日) 15:22:05
★古代カラ半島国家の歴史 4★ 〜謎の民族=カラビトの正体〜 古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。 『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。 カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、 彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。 シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、 古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。 つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。 戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を 組織的に展開しているが、これはデタラメなのである。 古代日本に移住したのは、カラ半島に住んでいた倭人=カラビト(韓人)であり、彼らは日本民族 だったのである。 カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。
68 :
日本@名無史さん :2006/01/22(日) 22:45:08
邪馬台国は大和 高天原は北九州
69 :
太国 :2006/01/23(月) 15:33:55
WW!! age
スレ閑散としてるんで・・・ 考古学から見れば、大和に邪馬台国があった可能性は高いと思いますね。
71 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/24(火) 18:49:16
四道将軍の頃が倭国大乱だとすると、卑弥呼は豊鍬入姫だな。 男王(崇神)が祭儀を司ると謀反が起きたので、豊鍬入姫を 斎王として伊勢神宮を移転させ、現在の地に祀らせて平和を 取り戻した。
また豊鍬入姫の兄弟の垂仁天皇が、皇后の日葉酢媛命が無くなった時に、 初めて埴輪が登場している。それまでは殉葬が行われていた。卑弥呼の 時は殉葬があった訳だから、当然垂仁が禁止する以前の人である。倭姫 や神功皇后が卑弥呼であるはずは無い。 垂仁天皇は娘の倭姫を斎宮にして伊勢神宮を祀らせたのだから、倭姫が 卑弥呼の宗女壱与だろう。
倭人伝の中にある鬼奴国というのは、垂仁天皇の兄、豊鍬入彦が 支配する、栃木県の鬼怒川流域にあった毛野国の事だとすれば、 倭人伝に描かれている倭国というのは、九州とか畿内といった 狭い範囲の事ではなく、ほぼ日本全土を網羅していることになる。
75 :
日本@名無史さん :2006/01/24(火) 21:38:33
★古代カラ半島国家の歴史★ 〜カラとは何か〜 加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。 カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の 大和言葉である。 このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」と いう意味である。 カラの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄え ていた。カラは倭人の世界だったのである。 現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から 南下してきたのである。
77 :
日本@名無史さん :2006/01/24(火) 22:35:34
>>33 の後半部分の論は面白い。
根拠の明示とさらなる論の展開を頼む。23氏よ。
>>26 >>そのうちに奴の首長の地位が次第に低下していったとは十分考えられる。
那珂八幡古墳は?那珂比恵遺跡の規模や構造、博多遺跡の鍛冶を見るとそうとも言えないと思うぞ。
>>伊都国も同様。こちらは集落放棄の道を歩んだが。
????
三雲遺跡は5世紀前半までかなりの大型集落として存続しているが?
>>29 >>実際博多湾沿岸では4世紀中葉あたりから大規模な土木工事跡が多数出土する。
これは何のこと?
神功皇后伝承の「裂田溝」のこと?
何でしょう?
良スレ上げ
80 :
日本@名無史さん :2006/01/24(火) 23:04:31
スマソ、上げてなかったわ
81 :
日本@名無史さん :2006/01/24(火) 23:52:04
23氏の登場を希望
82 :
日本@名無史さん :2006/01/25(水) 03:25:45
邪馬台国は北部九州(宇佐八幡を中心か?)とした本州政権に対する クーデター政権かもしれない。 元々伊都国、奴国、など筑前、豊前は本州政権の支配下にあったが その臣民は南の狗奴国的な人達が多く、本州政権に対する 不満が高かった。そんな中、邪馬台国(宇佐?あるいは近畿の一部) が主導的な立場に立ちこの地域を中心としたクーデター政権を たてた、それが女王国邪馬台国ではないか? そうすると、女王連合国家の首都は小城であっても、近畿であっても 小城の土蜘蛛征伐等の関係で否定材料とまでは言えないかもしれない。 (ちょっとわかりにくい文書いてしまった〜) 狗奴国とはその女王国とも本州政権とも連合を組まない 熊襲、熊民、隈民、蘇民、土民だったのである。 狗奴国の人達は頑なに火、水信仰(玉垂命)をもっていた。
83 :
日本@名無史さん :2006/01/25(水) 07:26:00
説を垂れ流ししないで根拠を述べよ でないとただの妄想
那珂=奴国であるならば、北九州と北関東、 二つの奴国が存在したことになる。
85 :
日本@名無史さん :2006/01/25(水) 12:44:50
はあ?
>>85 倭人伝には奴国が二つ記載されている。
女王国へ行く途中と、女王の境界の尽きるところ。
那珂郡も二つ。 常陸那珂と筑前那珂。 恐らく女王の支配地域の境界が勿来。
88 :
日本@名無史さん :2006/01/25(水) 15:29:43
じゃ狗奴国は?
89 :
日本@名無史さん :2006/01/25(水) 15:50:14
ナなのかな?本当はドなんじゃねーの
>>88 倭姫が剣を授けて討伐に向かわせた人物が小碓尊なので、その行き先。
或いは、景行天皇が不知火などの故事を生んだ時の行き先。
91 :
日本@名無史さん :2006/01/25(水) 19:08:38
だから何処よ? しかしこうなると狗奴国は女王国の南どころか東、いや北になるがw
馬鹿が寄ってたかってアーでもない、コーでもない だから余計に、複雑になるw
93 :
日本@名無史さん :2006/01/25(水) 22:45:25
2chはみんなそうだろw
>>91 景行天皇は熊襲征伐で西都に六年滞在しているから、
一番可能性が高いのは南九州だな。
95 :
日本@名無史さん :2006/01/26(木) 04:36:32
漏れは熊本北部、菊池付近と思う。 官がクコチヒコ=菊池彦、中心遺跡は山鹿の方保田東原遺跡。 邪馬台国が九州でも畿内でも狗奴国はここで決まり。
96 :
日本@名無史さん :2006/01/26(木) 04:50:13
馬鹿の意見は時々ためになるんだよ。 馬鹿の意見を馬鹿の意見として切り捨てるのはいつでも出来る。
97 :
日本@名無史さん :2006/01/26(木) 04:55:04
そうそう、それに世の中は基本的に馬鹿ばかりなので 世の中は馬鹿が動かしているものと思うよ。 頭いい人にばっかり理解して貰っても意味がない。
98 :
日本@名無史さん :2006/01/26(木) 05:00:29
山鹿は八幡の山鹿とルーツは同じだと思う。 八幡の山鹿氏に征伐されたかなんかの関係ではないかな? もちろん、今山鹿氏なんてのはどこいったかわからない。 とにかく狗奴国の宗教は、水、火を崇拝する 玉垂命だよ。 神武の母、隼人の海人の女性が「玉」の字がつく、 征伐された土蜘蛛の名は「垂」 玉垂命は九州の反大和朝廷の人の宗教である。 彼らは「天」はもとより「日」さえも信仰していない。
>>95 一大卒=伊都都比古
難升米=田道間守
卑弥弓呼=川上梟師
だと思う。
101 :
日本@名無史さん :2006/01/26(木) 05:32:35
>馬鹿の意見は時々ためになるんだよ。
>>1 >馬鹿の意見を馬鹿の意見として切り捨てるのはいつでも出来る。
>>98
男王=崇神天皇 卑弥呼=豊鍬入姫 男弟=垂仁天皇 卑弥呼の宗女壱与=垂仁天皇の娘倭姫 女王=斎王
箸墓は最古の前方後円墳と云われていたが、数年前のホケノ山の発掘で、 ホケノ山が最古の前方後円墳とされるようになった。箸墓とホケノ山は 隣接している。しかもホケノ山からは、埴輪片は出土しなかった。 箸墓=倭迹迹日百襲姫墓、ホケノ山=豊鍬入姫墓という伝承だが、新しい 方の墓に倭迹迹日百襲姫が、旧い方に豊鍬入姫が埋葬されているとするのは おかしいだろう。恐らく伝承が途中で入れ替わって、本当は箸墓=豊鍬入姫陵 なのではないか。
ホケノ山がボケノ山に見える
105 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/01/26(木) 12:01:36
16歳の素人の意見ですが、邪馬台国は九州の宇佐あたりですね。 このへんが1番怪しい。しかし5世紀には邪馬台国の存在は消え 大和朝廷を中心に国がまとまっていますし、記紀でも邪馬台国の 存在は隠蔽されてるみたいですし、隠蔽するからにはそれなりの 理由がなければならないのですが、神功・応神のコンビが邪馬台国の 一族で東遷し、畿内王朝をのっとったんでしょう。 巨大古墳の出現なども九州と畿内が合体し国力が倍増したと 考えればつじつまが合うわけです。
>>105 巨大古墳は三世紀に出現している訳だが。
NHK教育TV日本史で、 マキムクからは各地方の土器が発掘されると・・・
崇神、垂仁の頃にかけて、稚武彦や豊城入彦などの吉備、毛野の 統治などが成功し、景行の頃に熊襲、蝦夷の征伐が行われている。 仲哀の時に再度の熊襲の征伐とそれに引き続く三韓征伐によって、 周囲の情勢が落ち着き、応神、仁徳の頃にかけて、内政に専念し 河内の湖や海の干拓に成功して豊かになった為に、天皇の名に 「仁徳」などの最大の賛辞が付けられるようになったのだろう。
109 :
日本@名無史さん :2006/01/26(木) 23:48:02
アゲ
110 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:02:02
高良玉垂命って谷川健一によると物部の神だというが。
111 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:02:26
スレ主はどこじゃ?九州説かかってこいとか言いつつ逃げ点の家?wwwwwwwww
112 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:04:27
>>110 関東からみるとそうみえるだけ、
物部の子孫なんか九州にはまず居ない。
なによりそう解釈しないと都合がわるいというのが実情ではないか。
113 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:09:06
玉垂命は熊本、長崎と有明海の神だからな。 どうみても物部とはつながらん。
114 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:21:59
磐井の乱後、高良山を支配したのは物部。 物部臭がするのはそのせいだろう。他には太宰府天満宮も 天孫菅原の降臨がその由来。 しかし、九州には菅原、物部の子孫は殆どいない。 物部姓ニニギは元々出雲系の五十鈴の系統だが 実際、物部姓が与えられたのは ずっと後の事。 本州の支配者、菅原、物部に服従した証かも
115 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:23:31
九州に物部に関係する地名があるってほんと?
116 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:30:58
いや筑紫には物部系氏族がかなりいたはずだが。谷川健一の『白鳥伝説』を見てみ。
117 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:33:39
>>116 その本持ってないんで、できれば代表的氏族をカキコキボンヌ
118 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:34:59
土蜘蛛征伐の大屋田彦の裔、日下部(朝倉、筑紫)などが 日族の系統である。 彼らは八幡に陣を構えここから広がっている。 物部系、スガハラの末裔は殆どいない。
119 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:43:06
八幡香月でヤマトタケルが白鳥になり戻ってきたという伝説があるが おそらくこの当時に上層部、支配層の人に この白鳥伝説と鳥のトーテムが 半島か本州経由で入ったものと考えられる。 当時の上流階級の一つの流行だったのかもしれない。
120 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 18:54:42
阿蘇家が速瓶玉命だし、阿多隼人が玉衣命だから 玉が中部から南九州人に由来してるのは明らかなんだが
121 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 19:11:43
久留米大善寺の玉垂は藁に火を付け火を祀っている。 御井神は水の神だ。 この玉垂命は水と火の神であることは間違いない。
122 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 19:20:31
>>116 ソース、ソース頼む。
早くしないと嘘つき認定するぞ。
123 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 19:32:49
そもそも松浦(マツラ)、高良(コウラ)にみられるように 元々、古九州語と古韓語が似ていたいと思う。 むしろ、天孫族系のシラギ、ギをつけるのが九州にとっては 渡来的な名称だったような気がする。
124 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 19:35:47
>>116 九州に物部の子孫がいるなんて初めて聞いた。
本当か???
125 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 19:41:22
肥前高木氏あたりが物部と関係あるかも、 草野、少弐あたりと 姻族関係結び北朝に与した一派だろう。 日族(本州系)
126 :
日本@名無史さん :2006/01/27(金) 19:45:23
物部(五十猛、五十鈴(銅鐸)、スサノオ、扶桑) といえばコテコテの関東だろう???
どっちにしても言えること、 九州人と本州人は全く別の系列から発展している。 九州人と本州人は全く出自が違う。 天孫系の人はどうしても本州にルーツがあるから それ以外が九州土民。
九州には神社そのものがあまりない。 これはなぜか。 物部支配が遅かったからか???
肥前高木は草野と組み、九州では珍しく 源氏、北朝についてる。 彼が御井神を高木神とか言ったアホなんでないか??? おそらくこいつが磐井の乱後に九州に入った物部の末裔のように思う。。
記紀どうりだ、高麗人は最初に出雲に入る、そに後本州に広がる。 九州平定は後の話。 皇(高)孫がもっとも遅くはいったのは九州。
だからソース書いてあるが
133 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 09:23:53
>>61 で、纏向遺跡は飯場の遺蹟というのがあるのをみて思いだしました。
かの有名な勝山古墳の周濠で発掘された木片は、纏向遺跡のゴミが洪水で流されてきた
ものだという説があります。
ねぇよ。
135 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 10:05:30
あれ?しらないの?
136 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 13:42:13
その説もうちょっと詳しく希望。 実際に、勝山の年輪年代の木片が勝山の築造年代かは怪しい。 洪水かはともかく混入の可能性はある。勝山と周囲では庄内式初めてから布留1式まである。木片の出た層は布留0が多いが古いのも混じるみたいだし、なぜか後期古墳の埴輪片がわずかにあり二次堆積だろう。 ただ朱がべったり付いた壺とカメが周溝に出ているので、これが築造のマツリに関係するかもしれない。
137 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 14:28:56
伊都国臣民は体に朱を塗ってるので おそらく、何時の時代かに白を強制されたのでしょう
138 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 16:18:46
あの木片の形態は、板の端を斜めに鉈状のもので断ちきった形跡があります。(その時点で端材かゴミである。) 古墳の北には旧巻向川がながれており、天井川である。古墳の濠は川より低い。 発見場所がくびれ部分であり、ゴミがたまりやすい。 上流の巻向が飯場や加工場があるなら、そこで加工された材木の端材が洪水で流されてきてもふしぎではない。 ざっとこんなところでした。
139 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 18:03:42
フヨ病患者=朝鮮人に注意! こんなこと言う奴です ↓ ↓ ↓ 北方アジアから朝鮮半島を短期間で突き抜けて、 九州北部に侵入した特定の単種の北方モンゴロイド扶余族が 九州地方に上陸し、古代ヤマトを建国した。 皆さん、フヨ病患者の言うこと、信じないでね!(笑 クタラ(久多良・百済)を建国した余氏は、 帯方郡出身の越人(倭人)ですよ。 扶余族がカラ半島を短期間で通過することは不可能。 遼東を中国人が支配してたから。 半島北部には楽浪郡があるので南下できない。
140 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 22:06:50
141 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 22:07:33
142 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 22:33:25
歴史研究という月刊誌の488号(2002年1月号)に、「勝山古墳出土の木片について(筆者、後藤幸彦)」と題して 掲載されております。
どことなく、アンポンタンのにほいがする
145 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 22:45:56
しつこく聞いてくるからばれちゃったじゃないか。
146 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 22:58:33
本人さんはいつもこの板にいますので、別に驚くことじゃない。
147 :
日本@名無史さん :2006/01/28(土) 23:34:23
後藤幸彦って誰? サガミハラ?
要するに本の宣伝ね。 まあ、買う奴は居らんし、売ってるところも無いがw
149 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 13:35:03
>>130 ★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★
朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと
信じ込み、
「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」
と、主張する。
だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。
また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは
存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、
日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。
そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人)
が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。
つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の
レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。
たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。
しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、
朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに
文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。
150 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 13:35:19
誰れ?との質問がありましたのでお答えします。 サガミハラーー正しくはサガミハラハラ 居住地のサガミハラしの相模原音頭のサガミハラハラ ハラリとサイサイ からとりました。 後藤幸彦 昭和22年 青森市生まれ 弘前大学卒業 昭和45年より相模原市立小学校教員 平成12年 持病(拡張型心筋症)のため退職、以後古代史研究に専念している。 業績 @ 邪馬台国を発見する。 A 委奴国、倭面土国、出雲を通した倭国の歴史を考察。日本古代史のはじまりを、天孫降臨の時代(AD40年代)まで引き上げることに成功。 B 神功皇后の実在を証明し、景行天皇から雄略天皇までの年代の確定に成功している。 著書として、「倭国歴訪」「卑弥呼の登場」「神功皇后の実在の証明(仮題)執筆中」がある。 定説や通説にとらわれることなく、原点にたちかえって分析しなおす面がみられ、斬新な懐石ながら妄想や夢想を排し、人間行動における常識の範囲で歴史をとらえようとしている。 平成における上古代史研究の天才の1人である。
151 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 15:51:22
人間行動の常識? 劇藁w 非常識の間違いだよなw てかこの紹介自分で書いてたらさらに劇藁w
↑ピンポーン!(^^)!
2chのコテの個人批判は禁止。 人それぞれの考え方がありますし、 他人を尊重して書き込みしましょう。
154 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 16:16:28
禁止ってったってこのサガミハラは酷いが。 放置していいのか?
155 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 17:52:24
放置つーか、スルーの徹底ヨロ!
156 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 18:41:46
つーか、さがみさんの説を受け入れられなければ、論で潰せば良いだけ それをせずにスルーとは 情けなくないか?
157 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 19:57:11
論で潰そうとしても話が噛み合わず、というか自説に拘泥して証明になってない自説のみの論理を「証明」と称したり、どうしようもない。
議論にならんから誰も相手にしてないんだろうが。 2ch始めたばかりの人は案内スレで学習してきなさい。 サガミの人となりについて興味があるなら、 一年くらい前の(奴のデビュー時)の過去ログを漁ってごらん。 まともな議論などする意思の無い奴だと言うことはすぐわかるよ。 これだけ嫌われても居座り続けるのは本の宣伝のためだろう。
159 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 21:37:38
激しく同意w
160 :
日本@名無史さん :2006/01/29(日) 21:38:31
>>158 それなら『あぽーん』っていう方法もあるぞ。
彼は今後も出続けるだろうし、自説を流し続けるだろう。ならば
その説を論破するだけ
流石の彼も、大阪を『パリ』とは言わんだろう。
論破する側に隙があるから、ともとれる
あ!
>>160 は、プラムです。失礼しました。
とにかく論破です。
それあるのみ
『スルー』は何時でも出来ます。
>>161 じゃ、オマエがやれ。
スルーは何時でもできるから俺は以前からそうしている。
俺は営業目的の電波作家にかかわる気はない。
確かに奴はパリを大阪とは言わなかったな。
しかし、「奴」を「ト」と読むとは言った。
奴だけが持っている角川書店の漢和辞典にはその読み方が出ているそうだw
そんな存在しないものを根拠に「議論」をされても話にならんだろう。
そう言えば、何を勘ちがいしたか知らんが、その時も奴に同調してた○鹿が一匹居たなあ。
だれだったっけかな・・・・
>>162 風呂敷被った、名無しのアンタに言われなくてもそうするつもり
アンタぐらいだよ
一年前の出来事ウダウダ言ってるのも
ま、懐かしい思い出として何時までも語ってくれ
無くなると寂しいから!
>>163 そうかい、じゃ、早く論破してくれや。
すっとぼけてないで、有言実行でお願いしますよ。
追加 >「名無しのアンタに」・・・都合よく名無しとコテを使い分ける奴に言われたくねーなw
ハイハイ (^-^)/ね
166 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/01/30(月) 09:08:22
随分にぎわっていますね。異論のある方は、バンバン論破してください。私は過ちは過ちとしてみとめ、いくらでも 正しい説に転向いたします。私の求めるものは真実です。定説通説が即正しいとは考えません。 私の考えは、当2ちゃんねる日本史のあちこちにのっています。 それから、本は私の説を広めることを目的として出版したものです。 奴の倭人伝での読みですが、辞書にどうのっているかではなく、理由を述べてください。 私がトと発音するのがよいとしたのは、残存地名や国名、倭国の歴史等を考慮した場合、トとよむのがもっともすっきりあてはまるからです。
167 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/01/30(月) 10:53:45
賑わいは何時もの事で、この粘着が無くなったら寂しいですから! ところでサガミさん 『魏志倭人伝等を読む』すれにて、行程をカキコしておきましたので ぜひとも御意見お聞かせいただきたく思います。 ここではスレ違いに成りますので、あちらのスレにてぜひとも!
169 :
日本@名無史さん :2006/02/03(金) 12:20:05
アゲ
170 :
日本@名無史さん :2006/02/03(金) 16:57:35
世界史板で、こんなん見つけました。 世界@名無史さん :2006/01/12(木) 00:46:24 0 たびたびあっていた海外からの侵略 日本が外国勢から侵略を受けるのは、「元寇」が初めてではない。 日本側の記録によれば(『太宰管内志(大宰府管内誌)』『類聚三代格』『日本三代実録』 『百練抄』 『日本紀略』『扶桑略記』等)、それまでたびたび侵略を受け、 九州北部はもとより薩摩大隅にまで及んでいたことが記録されている。 詳細(海賊・倭寇の起源を探る) その大半は、朝鮮半島からのものであった(これが倭寇の正体。倭寇=朝鮮人)。数隻の賊船に よるものがほとんどであったが、中には、 45隻・2500人の新羅の者が来襲し、捕らえた捕虜が「王の命令を受けて略奪に来た」と 述べたこともあった。(『扶桑略記』) また、どこの国のものかは定かではないが、最大規模のもので、 承徳元年(1097年)、 異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せ、 大宰府官兵・九州軍士が賊船を撃破し賊徒数万を 海没させた、という記録がある。 九州大宰府は、古代から日本外交の窓口の役割を果たしてきたが、同時にそこは外冦防衛の 拠点でもあった。
171 :
日本@名無史さん :2006/02/04(土) 12:43:33
ヤマト説アゲ
172 :
日本@名無史さん :2006/02/06(月) 00:38:28
アゲとく
一応保守
174 :
日本@名無史さん :2006/02/07(火) 22:55:08
保全アゲ
男王=崇神天皇 卑弥呼=豊鍬入姫 男弟=垂仁天皇 卑弥呼の宗女壱与=垂仁天皇の娘倭姫 女王=斎王 倭国大乱=崇神天皇の時代 (四道将軍による地方平定、武埴安彦の反乱。 三輪山の神の祟り、天照大神の祟りによる 大神神社、伊勢神宮の創建)
日本書紀、卑弥呼=神功皇后説 隋書、邪馬台国=畿内説
177 :
太国 :2006/02/09(木) 08:29:48
紀が 卑弥呼=神功説 を採る根拠は何なの?
編年上の都合、
179 :
太国 :2006/02/09(木) 11:11:08
説明が抽象的でなっちゃぁいないよ。
保守
181 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 18:16:03
保守あげ
182 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/22(水) 16:58:09
日本書紀編纂の際にもっとも重視したのが魏志倭人伝のようでした。 その結果なんとか日本の記録(伝承口承)といっちさせようとしたようです。 そこで皇后が卑弥呼の年代に来るように調整したのです。(2倍年暦では、偶然皇后の年代が卑弥呼の時代に近くなったことも影響している。)
183 :
横から失礼します。糸 :2006/02/23(木) 14:30:42
邪馬台国の都跡か祭殿跡が遂に発見されたもようです。。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が発見されました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが窺えます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。
参考HP 中段お知らせのトップ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html
185 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 01:21:08
あげ
186 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 15:32:18
伊都国の中心かもしれんが邪馬台国の宮じゃないだろ?
187 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 19:48:43
「最近、あちこちで(日本人に)文句を言うと、『出てけ』とか『帰れ』と言われる。 そうすると、『ハイわかりました。朝鮮人はみんな帰ります。天皇つれて帰ります』 と言ってやる。(笑)。だけど、アイツ働かないからな(笑)」 【「正論」2003年号1月号81ページ 憲法集会での辛淑玉の発言】 ↑ 救いようのないバカ(嘲笑 ★★ 朝鮮人は、古代日本に移住していない ★★ 朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと 信じ込み、 「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」 と、主張する。 だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。 日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、 日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。 つまり、『同一の文化』を共有していた。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準のレベルに差があった、 などということはありえない。古代においては、日本列島もカラ半島南部も『倭人の世界』だったのであり、 同じ倭人どうしが交流していたのだ。朝鮮人は、古代日本とは何の関係もないのである。 朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)ではない。 朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。 このワイ族は、古代カラ半島北部にあった中国の自治領=帯方郡の東部地方・ワイ郷(現在のソウルの東方地域)に 住んでいた少数部族であるが、高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に難民となって南下し、 日本領=シラキに移住したのである。後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、 王権を簒奪して志良岐を乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。 朝鮮民族は、けして韓人(カラビト)ではない。 もちろん、倭人=日本人でもない。 辛淑玉は、日本人と朝鮮人を同族だと思いたいようだが、残念でした、何の関係もありません(笑
188 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 21:52:34
倭と韓が日常的に交流があったのは事実が、韓半島が倭の世界だというのは間違いだな。 文化が違いすぎ。考古学資料見れば歴然。 また倭に韓半島系の影響があるのも歴然。韓半島系土器の流入とか5世紀とか著しい。 反論あるならどうぞ。考古学資料の事実を並べてアゲルカラ。
189 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/27(月) 11:08:46
畿内説は基地外説
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾 『嫌韓流2』発売中 駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
191 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 18:54:29
192 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 19:06:44
人足寄せ場が輝ける女王の国かよw 学会とやらもクズばっかりなんだな(プゲラ
193 :
日本@名無史さん :2006/03/02(木) 22:59:12
卑弥呼は公孫氏の出なんでしょ もしかして高天原って公孫氏の本拠地のことだったんじゃないのと思う今日この頃
194 :
太国 :2006/03/02(木) 23:03:58
公孫≒皇孫
ネタ乙