何で平安遷都百周年の年に遣唐使廃止しちゃったの?

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1あう使い
なんで? せっかくの記念すべき年だったのに。
2 ◆2get8Nt9C6 :2006/01/10(火) 15:06:53
2
3日本@名無史さん:2006/01/14(土) 13:03:18
菅原道真が唐に行きたくなかったので、廃止させました。
4日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:31:39
適当だなぁ。行きたくなかった理由は?
5日本@名無史さん:2006/01/14(土) 19:14:37
宇多天皇は藤原氏を牽制するため、菅原道真を重用するが、
時の権力者、藤原時平はこれに対し、道真の排斥を図る。
で、嫌がらせ第1段が菅原道真を遣唐使として追いやってしまおうというもの。
これに対し、菅原道真は何だかんだと理由を付け、これを拒否。
唐も末期の状態でもあり、船旅で命を落とす危険をおかしてまでも行くことは
無いのではないかという考えもあり、
宇多天皇に遣唐使廃止を提言してゆるされました。

要するに菅原道真のワガママで遣唐使廃止させたというのは事実。
6日本@名無史さん:2006/02/04(土) 12:51:21
なくしたのはなぜ?
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7日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:03:58
第1回(630年)は犬上御田鍬らが派遣された。
第3回(654年)は高向玄理らが派遣された。
第8回(702年)は粟田真人、山上憶良らが派遣された。
真人は大使で、文化人として名を馳せた。憶良は、「貧窮問答歌」を著わした万葉歌人である。
第9回(717年)は阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ぼう(日偏に玄)らが派遣された。
第12回(752年)は藤原清河、吉備真備らが派遣された。
清河は大使で、元旦の儀式で新羅の使臣と席次を争った。
阿倍仲麻呂らと帰国する途中、台風に遭いヴェトナムに漂着した。その
後、唐に仕えて客死した。真備は副使で、帰国の船には鑑真が同船した。
第18回(804年)は空海、最澄、橘逸勢{たちばなのはやなり}らが派遣された。
第19回(838年)は円仁{えんにん}らが派遣されたが、最後の遣唐使となった。
そして、第20回(894年)は菅原道真が派遣される予定だったが、
唐に行きたくなかったので、廃止させました。
8日本@名無史さん
天皇どころか派遣予定の本人が「行きたくない」と思っただけで朝貢を廃止したなら、
唐の皇帝も軽く扱われていたもんだな。