八幡、河合酷評してたね
471 :
470 :2009/11/07(土) 09:08:31
河井の間違いだったスマン
「還暦以後」の後書きで松浦怜が30〜40代に書いた文章を60代になって読んでみると、
気持ちや文章に余裕が無く、せっかちに結果ばかりを求めていた。
とあります。
八幡の文章にもそれを感じるけど。八幡も60代まで生きていたら、わかるでしょ。
松浦氏は正確に文献を当たるけど、八幡は適当なうえに文献を提示しないし、
批評も的外れであることがかなり多い。
徳川日本が鎖国をしてけしからんというのであれば、同じ頃に小さい領土で貿易国家として存続しながら、
ヴェネチア共和国のように、環境破壊や伝染病から来る国力の疲弊、戦争の連続から来る大衆の厭戦気分、
外交努力に応じてくれない近隣諸国などで結果ナポレオン1世の頃に滅亡した国家を持ってきて、小さい
領土の国は鎖国をしても、国を開いて戦い続けても、疲れるだけですよ。
というようなことを述べれば、良かったのだけど。
明治維新を絶対視するけど、タイの王政復古やイタリアの祖国復興運動、オーストリア=ハンガリーの
同君二重帝国、プロイセンのドイツ統一戦争など、答えは幾重にもあるのに、明治維新という答えだけ
を押し付けるのが余裕の無い証拠だね。
八幡が留学していたフランスにしたって、1950年代〜65年ごろにかけてアフリカの植民地で何をしていたか、
(特にアルジェリア)だよ。
日本国内でそこまで言うのなら、八幡の宗主国ともいうべき、フランスの植民地の歴史についてもぜひ論評
してもらいたい。
善政を行っていたのか、本国の国民と同じように植民地の住民にも選挙権を与えていたのか、政府が反対勢力
を虐殺していないかとか。
>>472 まぁ、宗主国から分離独立したいということが、悪政の裏返しだね。
フランスにしても、ベトナムやアルジェリアで大失敗をしたからね。
八幡君はその大失敗をした国に留学をして、何を学んだのかな。
日本の出来損ないエリート崩れが、大失敗した国の行政院のエリート教育を受けて、
キャリア競争に敗れて、官職を辞し、反論の無さそうな、あるいは影響力の無い末裔のいる、
歴史上の人物を叩いていい気になっている訳だ。
歴史研究家の大久保利兼氏と比較すると、新雪と下水の汚泥位の差があるね。
あいつのブログ、相変わらず上から目線だな。昔、拉致問題で読者から脅迫めいたメールだかブログだか来たから告訴したと、この2ちゃんでも祭りになったらしいな。
エリート気どりは良いが、関西人の役人のおちこぼれ特有の、東京コンプレックス丸出しの東京批判はやめてほしいよな。
江戸幕府嫌いで物議をかもしてるが、要は関東が感情的に嫌いなだけでしょ。
あれで地元の首長になろうとするんだから有権者を馬鹿にしてるぜ。橋下なんて下らねえ奴を推してるし。
あけまして、おめでとうございます。
さて、今年の大河は坂本竜馬。
継之助と直接関係はありませんが、海援隊に参加した人物に鵜殿団次郎の弟、
白峰駿馬がいます。
彼は果たして出番はあるのでしょうか。
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シュネル兄弟の兄の方は、アメリカで
日本人(会津人)と結婚してたのか?
子供は日系一世だな
外国人のお友達紹介(笑)
ジェームス・ファブル・ブラント 1841年(天保11年)9月23日〜1923年(大正12年)8月7日
スイス人。貿易(横浜外国人商人、時計輸入)。
1841年(天保11年)9月23日、スイスのルロックルで生まれる。
1862年(文久2年)、日本との修好条約締結の為、時計組合総裁・元参議院議員A・アンベールを団長としたスイス特派使節団の一行16名の一員として来日した。
1864年(元治1年)、条約は日本スイス両国間で締結されたが彼はそのまま日本に留まり、横浜居留地52番で時計宝石商を開業した。
1866年(慶応2年)、横浜大火の際この店は焼失したが、彼は居留地175番に新規の営業所を開設し、スイス時計の輸入商として日本各地にスイス時計の販売促進を行った。
1874年(明治7年)、横浜に出来た町会所に時計台を設置し、また横浜の名所でもあった高島町岩亀楼の建築は彼の工夫によるもので、何れも幕末・明治初期の横浜名所として浮世絵などに描かれた。
1923年(大正12年)8月7日、避暑先の長野県軽井沢の別荘で心臓発作の為死去。享年82歳。遺体は横浜山手の外人墓地に埋葬された。
なお、彼は戊辰戦争の際には、薩摩島津家、長岡牧野家などに武器・弾薬等を供給したほどの商売上手であった。
昨日は平成8年(1996)2月12日に亡くなられた司馬遼太郎先生の命日です。
玄人好みの継之助を世に出してくれた、大功労者なのです。
それまであまり騒がれなかった継之助が注目されるようになったのです。
賛否両論有りましょうが、司馬先生に感謝しましょう。
483 :
日本@名無史さん:2010/02/20(土) 10:41:26
『藤沢周平が書ききれなかった歴史』-『義民が駆ける』を読む‐
青木美智男著 柏書房
http://www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?cmd=d&isbn=978-4-7601-3248-5&backlist=1 庄内酒井家、長岡牧野家、川越松平家の三家を巻き込んだ天保11年(1840)の三方領地替え。
庄内農民の義挙といわれる、この騒動。本当のところはどこにあったのか。
実は、長岡牧野家が新潟港で行われている薩摩島津家の密貿易を見逃すばかりか、
その上前を撥ねていることを調べ上げた徳川幕府が長岡牧野家に対する懲罰として、
川越に転封しようというのが話の始まりであるという。
川越松平家は、財政難でどこか良い転封先はないかと、幕府に掛け合った結果、
当時の老中水野忠邦が個人的に折り合いの悪い庄内酒井家を長岡に転封させ、
川越に牧野家を、松平家を庄内に転封させようとした、というのである。
さらに付け加えると、新潟港と酒田港を直轄地にしたうえである。
19世紀中盤の東アジア情勢と絡めて説明しています。
三方領地替えが挫折した後、牧野家は新潟港を越後国内の別の土地と交換されます。
事実上の召し上げですね。
これでいったら、三方領地替えを挫折させたのは庄内農民ですが、
きっかけを提供したのは、長岡牧野家なのですね。
この三方領地替え騒動時、継之助は少年期だよね。
どういう受け止め方をしたのだろうか。
485 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 00:51:52
峠をドラマ化してほしい
主役は誰が良い?
487 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 02:59:50
>483川越の大和守が大御所にねだったのが発端じゃないの?
>486中村雅俊か原田大二郎がよい。肖像画に似ている。
489 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 11:54:31
2009年12月の出来事です。
新潟
5分の1「ガトリング砲」が完成
長岡の製造業者有志、継之助記念館に寄贈
戊辰戦争時に長岡藩家老、河井継之助が撃ったとされる手動機関銃「ガトリング砲」の5分の1サイズの模型を、
長岡市の製造業者有志が作った。
「長岡の歴史を広く伝えたい」との思いで、27日に同市のホテルで開かれる河井継之助記念館の開館3周年記念講演会で、同館に寄贈する。
ガトリング砲は、1862年に米国で発明され、継之助が日本で最初に使ったといわれている。
模型を作ったのは、同市南陽2の精密産業機械メーカー「旭精機」など同市の製造業3社。
同社は、同館に展示されている原寸大模型の製作に協力しており、その際に使った図面を活用して、縮小版を作った。
模型は鉄製で長さ約40センチ、幅約20センチ、高さ約30センチ。1カ月掛けて製作した。
6本の銃身を回転させるハンドルや、銃身の角度を調節するダイヤルなど、実物と同様に動かせるよう精密に作った。
同社の中村康夫専務(55)は「小さいと組み立て作業が細かく、逆に作るのが大変だった」というが「出来はかなりいい」と自信をみせる。
模型は5台製作しており、寄贈する1台以外は希望があれば15万円で販売する。
中村専務は「ガトリング砲は長岡のシンボルだと思う。継之助や幕末に興味のある人に広めたい」と話した。
490 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 15:32:58
491 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 07:28:40
492 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 07:40:22
493 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:14:25
ほほー
495 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 15:09:44
新吉原稲本楼のお職花魁 小稲大夫
497 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 06:17:42
戦闘指揮官の河井が、ガトリング砲なんか使うなよな。
そんな威力のある砲なら、敵も狙撃するだろ。
防御板が付いてないなら欠陥商品じゃないのか、しかし西部劇なんかでも
付いてなかった気がする。
498 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 06:56:01
会津の佐川官兵衛と何回か接触してるが、それぞれの人物評は残ってないの
だろうか?
英雄同士のエピを期待したいのだが、両者ともよい印象を持たなかったのかな。
河井と佐川なら間違いなく対立してるでしょ。
まあ、佐川は軍議では対立しても、それ以外では評価してたかも知れないが
500 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 04:41:04
長岡藩程度の戦力で、あの局面での中立は無理だろう、官軍側の交渉相手が
岩村よりましな一線級であっても交渉が成立できたと思えない。
ただ河井が負傷せずに、戦闘が長岡藩有利な状況で和解して官軍に参加、列藩
同盟への交渉役などで影響力を発揮し、新政府でのいいポスト獲得ならあり
えたかもな。
無理と思うのは後世の発想が多分にあって、当事者は事態を自分に都合よく解釈しがち
米沢藩の宮島への広沢真臣の忠告が示すように、
事前情勢的には新政府側が折れる可能性に望みを託しても不思議ではない
502 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 14:42:58
503 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 14:35:33
河井に「もし戦国に生まれていれば、素手で百万石くらいとれるかもしれない」
と言わしめたのが安田鉚蔵、ところが安田は強硬な恭順派で河井に蟄居させられる。
自分は河井にシビレルが、長岡の人たちにとっては安田ら恭順派の方がよかった
だろな。
稲垣さんたちの体制ならそれで良かったかも知れないけど、山本家も含めたら、
藩政改革を行った牧野忠恭の下では抗戦派が実務の中枢だったんじゃない?
505 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 19:01:55
河井と勝海舟に共通点を感じるが、表舞台に出るのが遅かったから、勝に比べて
使える手駒が少なくてちょっと気の毒。
506 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:29:10
直参の勝は島津斉彬とも親しかったから、西郷も初対面から一目おいていた。
河井とは背景がかなり違う、むしろ己を誇り過ぎるきらいのあった佐久間象山
の方が近いとおもう。
ガトリング砲を自分で操作したのは、郷土の英雄の謙信の司令長官なのに
前線で戦う姿を重ねて藩士たちに印象づけたかったのかも、官軍との交渉も
腹心をやって成立しなければ腹を切らせて、それを政治利用するくらいの事
をやれよ。
みんな自分でやりすぎる。
戦後の長岡の人は、河井を戦争犯罪人としその遺族を居ずらくして石もて追い
恭順派の安田らには逆に不忠の腰抜け武士と罵っているな。
>>498 佐川官兵衛は長岡で一緒に戦ったでしょ
河井が居る本陣隣の農家に泊まってた記録もある
皆それぞれ分宿なのでこれは相当に良い扱い
>>506 長岡市内じゃそうかもな焼け野原になって維新後に県都も奪われた訳だから
ただ長岡は長岡藩の領地より天領地の方が広かったので領民は
徳川に江戸時代通じてずっと豊かに暮せた恩もあったので
意地を通した河井はそれなりに尊敬されたろう
508 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 20:28:47
安田鉚蔵もサムライなら河井に蟄居させられてても、開戦したら戦闘指揮官と
して参戦すべきだろう、関ヶ原の大谷刑部みたいな死に方の方選べよな。
官軍に投降なんて腰抜けめ。
509 :
日本@名無史さん:2010/05/08(土) 14:01:51
510 :
日本@名無史さん:2010/05/10(月) 09:29:32
関ヶ原の大谷刑部もいいが、西南の役の貴島清もカッコいい。
死に方が武士らしい、それにつけても安田の腰抜けめ、河井の人物眼もあてに
ならんわい。
河井は戦友である会津、米沢は警戒してたが、庄内は信用してたらしいね。
512 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 10:19:34
越後長岡・米百俵塾 入門編を開塾します
人材育成の重要性を説く「米百俵の精神」を、長岡の歴史や文化を通じて学びます。
今回の入門編では、『ノモンハンの夏』、『昭和史』、『幕末史』等で有名な作家の半藤一利氏、
河井継之助記念館館長 稲川明雄氏、長岡郷土史研究会の今井雄介氏が講師・ガイドを務め、
「米百俵の精神」と長岡の歴史について、わかりやすく解説します。
初めての方にも配慮した内容となっておりますので、
「米百俵」や長岡の歴史に興味をお持ちの方はぜひご参加ください。
実施日 平成22年6月15日(火)、16日(水)
対 象 18歳以上で、原則として2日間参加できる方
受講料 10,000円(宿泊料、15日夕食、16日朝食、16日昼食、講師料、教材費含む)
※宿泊、食事が不要の場合は1,500円となります。
※上記金額には現地までの往復交通費は含まれていません。
受付期間 4月26(月)〜5月25日(火)
申込方法 所定の申込書に必要事項を記入のうえ、
郵送、FAXまたはメールでお申し込みください。電話での受付も可能です。
お問い合わせ
申込先 〒940-8501 新潟県長岡市幸町2−1−1
越後長岡・米百俵塾実行委員会 事務局(地域振興戦略部)
電話:0258-39-2260 FAX:0258-39-2254
E-Mail:
[email protected] 長岡市ホームページはこちら
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/shisei/kome100-jyuku.html >>511 単純に庄内酒井家が強いということと、領地が海に面しているということ。
会津松平家・米沢上杉家とも、領地が内陸部で海に面していない。
庄内酒井家は酒田港という東日本随一の港を有しており、
そこから船で海外亡命という選択肢を実行する事も可能。
実際、牧野家家臣団は仙台でスネル兄弟に海外亡命の可能性を打診したが、
お金が足りないとの理由で、亡命を断念した話が残っている。
大村が長岡に来れば、3日で河合を倒せるでしょ。
514 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 13:36:19
大村が長岡に来ても、
酒の肴の豆腐を隠しておけば発狂するから3日で江戸に帰っちゃうよ。
516 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 13:35:20
われこそは、継之助信者という方はいかかですか?
書道吟の夕べ 〜河井継之助を偲ぶ 漢詩の心を感じて〜 開催のお知らせ
詩吟の流れに合わせ、 詩の内容を書き表していく書道吟。
視覚と聴覚の両方で詩の世界を味わうことができます。
今回は、越後長岡藩幕末の三傑、河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎にまつわる漢詩を吟じます。
詳しい詳細は、こちらへ。
http://tsuginosuke.net/tomo_event.html#senbei 河井継之助記念館ガイドボランティアの会について
河井継之助記念館ガイドボランティアの会は、来館者と記念館の架け橋となるよう願って設立されたものです。
主に、土・日・祝日を中心にガイド活動をしています。
来館してくださる方へ「おもてなしの心」で対応していますので、ぜひご利用ください。
また、会員も随時募集中です!「河井継之助や長岡の歴史について興味がある」
「歴史はよく分からないけれど、生涯学習のつもりで勉強したい」という方は、
ぜひご入会ください。年会費は1,000円です。
詳しい詳細は、こちらへ
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/miru/siryou/gv.html
517 :
日本@名無史さん:2010/05/22(土) 18:44:41
>>513 大村って、山縣が援軍の要請をしても無視していて、
木戸や岩倉や西郷や大久保が越後に大軍の派遣を決定すると嫌な顔をしたとあるね。
大村的には、仙台や米沢を倒してから、会津を倒せば、世の中丸く収まると考えていたから、
越後は眼中になかったのでは。
むしろ、久保田を離反させて戦力を分断して、共食いによって、
越後や会津に戦力が来ないようにしていたのでは。
>>498 ちなみに、会津軍は略奪放火等の乱暴が多く、
佐川官兵衛がその指揮官であったことから、
河井継之助が彼によい印象を持っていたとは思えない。
519 :
日本@名無史さん:
「鉄と麦と赤レンガ〜河井継之助と外山脩造 志のリレー」
維新の動乱期にあって最も激しい戦いが繰り広げられたとされる北越戦争。
官軍に立ち向かった長岡藩・軍事総督 河井継之助が最期に伝えた「志」とは?
ラストサムライの遺言を実直に、そして見事に成就させたのが弟子の外山脩造だった・・・。
外山脩造(1842〜1916 長岡市出身)
北越戦争で一敗地にまみれるも、師と仰ぐ河井継之助の言葉をよりどころとして立志。
逆境をバネとして大蔵省、日銀大阪支店長等を経て、アサヒビール、阪神電鉄、商業興信所(日本初の信用調査会社)等の創業に関わる。関西財界の礎を築いたといわれるほど功績は大きく、経世済民、常に庶民の立場に身を置き利己を排した志の人。
越後・維新の物語
http://uxtv.jp/info/echigo/ 河井継之助と外山修造の特別番組やるらしいぞ!