【開拓使】 村橋久成 【サッポロビール】

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1日本@名無史さん
幕末に薩摩藩が国禁を犯して英国へ留学生を送った(1865年)1人に村橋久成がいた。
彼は帰国後、戊辰戦争を経て北海道開拓使に入り日本で初めての官営ビール醸造所を札幌に造るが・・・
華やかな明治史の中で埋もれてきた愚直な九州男児の不器用な生き様を語りましょう。
2日本@名無史さん:2005/12/27(火) 01:00:08
仕掛けて殺して日が暮れて
橋の欄干腰下ろし
遥か向こうを眺むれば
この世はクマった事ばかり
片手に線香 花を持ち
おっさん おっさん何処行くの
私は必殺熊斬人 中村主水と申します
         ,..-──- 、
       /. : : : : : : : : : \
      /.: : : : : : : : : : : : : : ヽ
     ,!:: : : :,-…-…-ミ:: : : : :',
     {: : : : i -' ゙ー  i:: :: : : :}
      {: : : : | ェェ  ェェ  |:: : : : :}
     { : : : :|   ,.、   |:: : : :;!
      ヾ: :: :i r‐-ニ-┐ | : : :ノ
       ゞイ! ヽ 二゙ノ イゞ‐'
         >` ー一'´<
        .イ  ゝ ノ | ヽ
「それで今日は、何処のクマーを殺ってくれと仰るんで?」
3日本@名無史さん:2006/01/06(金) 16:33:56
明治八年(一八七五年)、開拓使は醸造所建設を決定、東京出張所勧業課長だった村橋が建設を担当することになる。
建設予定地は東京青山の官園の敷地内だった。

時は北海道に移植するための農作物を東京で実験栽培していた。
官園というのはその試験場だ。言い換えれば、これは珍しい輸入植物や最新技術を見せ、
開拓使事業をPRしようとする黒田の政治的もくろみでもあった。
しかし、村橋には政治的パフォーマンスなど関係ない。「
北海道で栽培するものは最初から北海道で試験栽培すべき」と考えていた。
ビールの醸造所についても同じである。「北海道の農業振興が目的で麦やホップを栽培し、
それを原料にビールをつくるのだから、醸造所は最初から北海道につくるべきだ。
その方が費用も無駄にならないし、気候だってビールづくりに適している」。
村橋は建設地変更を迫る稟議書提出に踏み切る。失敗すれば全責任が自分にかかる。
覚悟の上の訴えだった。

稟議書が認められ、醸造所の建設地が北海道に決まってからの村橋は、
何かに取り憑かれたかのように工場建設に没頭する。
 
4日本@名無史さん:2006/01/06(金) 16:39:57
ビールづくりの技術を任されたのは中川清兵衛だった。
新潟に生まれた中川は村橋が留学した年に密出国して渡英。
その後ドイツに移り、最大手のベルリンビール醸造会社で学んだ。
明治八年(一八七五年)、帰国した中川と村橋の二人三脚が始まる。
中川は醸造所の設計と資材の調達、村橋は工場用地の選定から
建築資材、ビール原料の入手、建築費の確保や人材の手配に奔走した。
中川が醸造を学んだドイツでは、麦汁を十度以下で冷やして発酵させる下面発酵という方法を用いていた。
それには冷却のための大量の水が不可欠だった。村橋は工場用地に札幌を選んだ。
豊平川扇状地と呼ばれる一帯は、すぐ脇を伏篭川が流れ、地下水も豊富だ。
黒田からの命で、葡萄酒醸造所と製糸工場の建設も同時進行する。
明治九年(一八七六年)九月二十三日、麦酒醸造所(のちのサッポロビール)、葡萄酒醸造所、製糸所の開業式が行われた。
5日本@名無史さん
次は東京での販路確保である。当時はビール瓶の工場もなく、
港町に外国人が持ち込んだ瓶を買い集めた。栓はコルクだった。

明治十年(一八七七年)六月、初めて東京に到着した「札幌冷製麦酒」は、
早速大久保利通ら政府首脳に届けられた。しかし、長旅の間に中味が全部噴き出し、
瓶の中には一滴も残っていなかった。そんなエピソードもあったが、ビールの味は上等で、次第に評判も高まってゆく。

しかし、ようやくビール製造が軌道に乗り始めた明治十四年(一八八一年)、
村橋は突如辞表を出し、姿を消す。この年、開拓使廃止に伴う官有物の払い下げをめぐって一大スキャンダルが巻き起こり、
「薩摩閥の官財癒着」はマスコミの格好の餌食となって、国民の怒りに火をつけた。
辞職はこのスキャンダルの直前。すべてを知っていた村橋の無言の抗議だったのかもしれない。

村橋が歴史の表舞台から姿を消してから、神戸の路上で病に倒れるまで、
彼がどこでどんな生活をしていたのかは今も謎のままである。