帰ってきて疲労により就寝。さきほど起床した際、メールを見ましたら
大鳥圭介の「流落日記」についてのメールがありました。大鳥圭介に興
味を持っていた方のブログに私が若干の書き込みをしたことにより、そ
れが波及して、大鳥圭介ファンを刺激してしまったようです。
ひとつだけ言えば、新発見という言葉はどのあたりを発見というかに
あります。
本当の新発見といえば、国立国会図書館に寄託した時点でもう新発見な
のです。もしやすれば一部学術関係者は拝見していたとしても、どの分
野に出てるかというところまでの調査が行き届かない部分もあります。
ですので大鳥ファンには知られている場合もあるので、新発見という言
葉に誤解を与えたことをお詫びしたいと思います。ただ弁解するとすれ
ば、その可能性もあるかと思い、ブログの表題としなかったことをお察
しください。
話は変わりますが、研究というものは全体像の歴史からその人物史、
地域史と各種の分野に分かれます。最近思うのですが、発見とは実に大
変なことですが、しかし、一番大事なのはそれを世にどう出すかという
ことで、既説からの訂正にかける努力はなみ大抵のことではありません。
私は今回、とある町の歴史について、公文書を中心とした新説を発見
しております。しかし、それ以前に疑問を呈す内容を公表した方がいた
のですが、とある人物によってその公表した人物の説を完全に抹殺する
という事件がありました。その内容たるや公の場所で書ける言葉でない
ものが多く浮かんできてしまうくらいに怒髪天を突くような話ですが、
それが現状だったりします。
その関係がけっこう新選組研究にも結びつき、いままで幕末の佐幕派
の一部隊の動向ゆえ、私含め愛好者が好き勝手に書けた時代がありました。
しかし、その弊害が現在、歪みとして出てきており、それが今回の大河続
編を観た大鳥圭介ファンの憤慨などにも繋がります。
別にドラマですので、史実と観なければ笑いの場面も多く、楽しかった
ですが、史実という一面で観ようとするファンには噴飯ものらしいです。
それと話は転換いたしますが、複数の関係者から聞いた話では、とある
出版社で執筆したい場合、私の名前を公言することはタブーらしいようで
す。なんかの機会で私の話をしただけでその出版社では執筆ができないと
いうことになっているようです。ある意味喜劇です。