136 :
日本@名無史さん:
そういえば
ペリー来航のとき黒船艦隊については幕府に限らず諸藩も何か独自の情報を
手に入れよう懸命でしたが、そんな中、黒船に忍び込むことに成功した藩がありました。
それが津藩。11代藩主・藤堂高猷が
沢村甚三郎に黒船進入を命じて成功している。津藩は忍者で有名な
伊賀上野を所有しており、土地の地侍や土豪を士分にして組織化していたから
沢村甚三郎はもしかしたら忍者かもしれないです。
で、忍び込んだ成果は、パン、タバコ、ロウソクを各2つと二枚の文書。
後日、文書を解読すると内容はその日の食事のレシピとメモであったという。
忍びのスキルが高くても一般教養が高くないとあまりためになる物を持ってこれないという例ですた(w
後日、江戸屋敷で藤堂高猷が戦利品のパンを一つ賞味して楽しんだと記録にあります。
特殊技能を利用して忍んで入ったのでは無く、普通に歓談して帰ったらしい。
稗史などでは夜間潜入云々とされていますが、こちらの方が現実的。
メモの内容は、
「イギリス女は床上手、フランス女は料理上手」
「音無き川は水深し(諺)」
沢村家は「忍びノ衆」の一角を占め、狼煙や火薬を司っていたとか。
まあ、オランダ通事でも無かった沢村に多く求めるのは酷というものです。
メモの方も後(多分維新後)に解読文を添えてあり、努力はしてある。
パンを望んだのは、十二代高潔であったとも言います。
>忍びノ衆
定員20人。これも下手をすると前述の松浦家の柘植某の様になるところで
したが、藤堂家が定期的に研究成果を発表させるなど力を入れていた事から、
理系の藩士というぐらいの能力は残せた様です。
明治以降は、藤堂家中に限らず、薬学や火薬(花火)、大道芸や警吏で生き残
ったとも言う。専門知識や技能を活かさない手は無かった。
139 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 00:38:37
>>137 とうことは歓談の隙に、落書き2枚をくすねてきたということでしょうか。
船員に書いてもらったんじゃありませんか。お土産用という事で、日本人で
も理解する術があるオランダ文で書いてくれた船員がいたと。
現存するメモ2枚は、結構な達筆で書かれているそうですが、オランダ文が
書けるぐらいの人なら当然か。
141 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 17:17:07
江戸時代のお抱え忍者は世襲制でしょうから「特殊技能」自体の伝承は
困難だったでしょうね。
「格闘技や手裏剣武器術、薬物知識」等は、ある程度訓練で伝承可能ですが
体臭がしない、瞬間的に画像を記憶する、睡眠が少ない、とかは
ある種「才能」なので人材を選ぶ必要があったと思います。