古代近江のなぞ

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1日本@名無史さん
神功皇后VS近江政権
継体天皇の出自と擁立勢力
壬申の乱での近江豪族の動向
息長氏と和邇氏
大津京のことなど
2日本@名無史さん:2005/12/17(土) 19:08:47
3日本@名無史さん:2005/12/20(火) 14:24:26
継体、敏達、天武
この影には息長の勢力がある
4日本@名無史さん:2005/12/21(水) 14:27:38
景行、成務、仲哀の三代の都があり、息長足姫が伝承に登場するあたり
かなり古くからヤマトと息長に接点があったと思われる。
それは鉄の交易だったのではないか?
5日本@名無史さん:2005/12/21(水) 22:38:05
age
6日本@名無史さん:2005/12/22(木) 12:40:20
息長氏については本もあるけど、でもいったい息長ってなんだ?
実体を各人どのように把握してるのかよくわからない。
豪族なのか皇族なのか?豪族なら敏達皇后広姫は豪族で皇后になったことになる。
広姫は皇女や女王という記載も氏名もない不思議な存在だ。父は王となっているけどね。

7日本@名無史さん:2005/12/22(木) 12:46:10
 ↑ 氏名=ウヂナ でした
8日本@名無史さん:2005/12/23(金) 10:30:48
舒明天皇の和風諡号が息長だよな。
田村の名前にも関係あるのかな
9日本@名無史さん:2005/12/26(月) 17:09:14
額田王が近江出身という説も、蒲生で歌を詠んでいることと、
舒明陵内に鏡王女の墓があり鏡王女は額田姉説がある、ということで
息長と関連づけている?
10日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:52:54
倭建命は伊吹山の神の堪気に触れて命を落とした
華やかな戦績のなかで最大の敗北
11日本@名無史さん:2005/12/27(火) 13:42:22
近江はなぜ畿外なんでしょうか。
12日本@名無史さん:2005/12/27(火) 23:40:54
今も昔も田舎だから
13日本@名無史さん:2005/12/28(水) 12:40:48
近江京といい安土といい、首都として栄えるチャンスは何度かあったのに、いずれもものにできなかった。
のろわれている。
14日本@名無史さん:2005/12/28(水) 12:49:58
舒明の名に息長が盛り込まれているのは、やはり祖母の系統息長を色濃く反映しているということだろう。
敏達・推古系(蘇我系)が断絶した当時としては、用明系の上宮王家(蘇我系)と敏達・広姫系(反蘇我系)が皇位を争っていたわけで、
後に乙巳の変で蘇我を滅ぼした中大兄によって反蘇我を強くうちだした命名かと思う。
15日本@名無史さん:2005/12/28(水) 13:37:04
信長があの後も安土に留まったとは思えんけどなw
16日本@名無史さん:2005/12/28(水) 14:02:14
ふうん、そうなんだ。その根拠は?
17日本@名無史さん:2005/12/28(水) 14:03:57
ふうん、そうなんだ。その根拠は?
18日本@名無史さん:2005/12/28(水) 23:48:23
大津遷都は渡来系大友村主氏が支えた
19日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:08:51
大友皇子となにか関係があるのかな。
20日本@名無史さん:2005/12/29(木) 20:54:34
大友皇子の養育氏族と思われる
21日本@名無史さん:2005/12/30(金) 09:59:53
近江といえば、犬上家の一族も忘れないでね
でも御田鍬以外は誰も知らんな
22日本@名無史さん:2006/01/04(水) 02:23:28
age
23日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:06:57
息長氏が北近江の大豪族なら和邇氏は南部の主要豪族。小野神社を中心に継体期に大和に進出したと考える。
天皇の妃はほとんどが葛城−蘇我系豪族と和邇−春日系豪族が占めている。直接天皇は生まなかったが、大王家と深い関係にあった。
24日本@名無史さん:2006/01/29(日) 21:44:52
近江ってしょぼいもんなw
滋賀県在住だけど。
25日本@名無史さん:2006/01/29(日) 22:12:05
>>23
和邇氏は大和発祥だよ
26日本@名無史さん:2006/01/29(日) 22:22:40
近江って、琵琶湖の恩恵を受けて、大昔から豊かな穀倉地帯なんだよな。
しかも大和から比較的近く、日本海に抜けるルート上にも位置する。
権力闘争の渦に巻き込まれて当然の地域といえるな。
27日本@名無史さん:2006/01/29(日) 22:25:31
訂正:闘争X→抗争○
28日本@名無史さん:2006/01/31(火) 01:59:41
今の日本の領地よりも、その当時の大和の領地の方が狭いのは、自明のこと。
そして、山林が切り開かれて、昭和初期のような農地(棚田・段段畑)の原形
が形作られたのは、鎌倉〜室町期といわれている。
ということなので、当時の大和における、近江の農業生産性というか、穀倉ウ
エイトは、今日我々が想像する以上に高かった。
しかも、山を越せば越の国、今日的に言えば、越前・若狭、それに丹後にも抜
けることが可能な場所に位置する。つまり、古代貿易ルートの扇の要になって
いたということが言える。
記紀の記述通りとしたら、狭義の大和に次いで、大王家の影響力が及ぼされて
いたのは必然と考えられる。
29日本@名無史さん:2006/01/31(火) 02:05:00
極端にいえば、近江を制する者が大和を制する、的な存在だったのではないかな。
30日本@名無史さん:2006/01/31(火) 09:58:35
考古学的には丹後や吉備みたいに王朝と呼べるほどの規模のものが出てないが、
記紀伝承には志賀高穴穂宮や息長を冠した皇族があらわれている。
息長は製鉄集団だから、穀倉地帯だけでなく、軍事的にも近江は重要視されていた。
31日本@名無史さん:2006/02/05(日) 20:21:04
近江人は渡来人の末裔です!
この者どもに惑わされることのないように!
32日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:38:20
百済寺ていう近畿では有名な寺があるし、秦荘て地名もあるにょ
33日本@名無史さん:2006/02/06(月) 02:46:05
念のため言っておきますが、久夛良木は純日本な地名です。
34日本@名無史さん:2006/02/12(日) 21:40:46
>>31
意味不明。
>>32
むしろ、それが近江の重要性を物語っている。
何も、韓国の変な学者が言うような、「韓国人が日本を」論じゃなくてね。
当時、外国から来た技術者集団を支配出来たのは、皇族か大豪族なわけ。
だから、近江は皇族or大豪族の支配下にあった、という証拠なんだよ。
>>31の人にも言えることだが、本当に日本に誇りをもっているのなら、
日本史の一部分や日本の一地域を悪意に捉えるのではなく、むしろ大和
文化の美しさに結び付けていただきたい。
恥かしいと思うな!誇りに思え!

35日本@名無史さん:2006/02/15(水) 02:27:46
安国造の末裔は???
36日本@名無史さん:2006/02/15(水) 22:39:30
古代近江って、琵琶湖畔で穀倉地帯としても周囲を圧倒していた感じだよね。
応神天皇の子が京都宇治に住んでいたみたいだけど、宇治川から船で琵琶湖に上れたのかな?
宇治に古代王族が住んでいた事は明らかだから、古代近江と手を組んでいたら結構な国力を持ったみたいに思えます。
37日本@名無史さん:2006/02/15(水) 22:47:29
宇治から瀬田川を遡るのはかなり厳しいと思う、流れが急な地点が多すぎる
ただし豊かな穀倉を下流にしこたま流すことは可能
38日本@名無史さん:2006/02/15(水) 22:48:44
ちなみに東大寺、薬師寺を支えた木も近江南部から切り出し瀬田川宇治川に流した
39日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:42:50
大海人皇子が壬申の乱で古代近江の覇権を握って、天皇と称したキッカケが古代近江の豊かな穀倉地帯だったかもしれないですね。
40日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:57:01
>>39
それはお前の妄想
41日本@名無史さん:2006/02/18(土) 00:02:02
>>39
古代東西決戦
42日本@名無史さん:2006/02/18(土) 09:47:22
>40
先日のNHK「その時歴史は動いた」で大海人皇子が壬申の乱で勝利して、初めて「天皇」の称号を名乗ったって放送していたと思うのですが・・?
43日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:00:51
昨日明治会館で、巨大な日の丸異様な人も数人 天皇万歳とまあ、基地外ごっこに行ってきた。
大体
44日本@名無史さん:2006/02/28(火) 12:37:25
畿外に都がおかれたのって滋賀県と東京だけじゃね?
45日本@名無史さん:2006/02/28(火) 12:44:28
仲哀天皇「・・・」
46日本@名無史さん:2006/02/28(火) 15:19:48
斉明天皇もだorz
47日本@名無史さん:2006/03/01(水) 19:03:49
>>32
遅レスだが、「秦荘町」は「秦川」と「八木荘」が合併して出来た町名。
まあ、元も渡来系の地名ですけどね。
48九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/03/03(金) 01:35:40

大津宮は副大宰府?
49日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:11:08
秦荘町も愛知川町と合併して愛荘町になってしまった

これまたどちらも渡来系
50日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:25:07
琵琶湖の沖の島って流罪地なの?
51日本@名無史さん:2006/03/04(土) 23:07:48
>>50
時代が違うが、↓こういう例ならある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%8F%82%E5%B1%80
52日本@名無史さん :2006/03/23(木) 15:10:37
古保守
53日本@名無史さん:2006/03/32(土) 18:09:49
>>49
愛知川は、aichigawa?echigawa?語源は何ですか?
愛荘町って、aishou-chou?eshou-chou?
54日本@名無史さん:2006/03/32(土) 18:39:02
>>45
仲哀の子供たちは滋賀に勢力を張ってたから実際の京はその辺だと思う。
神功らの反逆を誤魔化す為に記紀はそれを隠したというのが真相だろう。
55日本@名無史さん:2006/03/32(土) 21:22:35
>>53
愛知はエチと読み、愛荘はアイソウと言うらしい。
渡来人の依知秦造氏の本貫地とされている。


>>54
景行〜応神紀の近江の記事は、継体天皇が応神の裔であることを示すために
祖先伝承を反映させたものでしょう。
息長系のクニ(神功)と志賀のあたりのクニ(忍熊ら)との間に争いがおこっていたものと思われます。
56日本@名無史さん:2006/04/05(水) 23:24:49
高穴穂宮は天智の大津宮の投影だと思います。
57日本@名無史さん:2006/04/07(金) 09:31:50
王権と呼べるようなものは、考古学的にはなにもないので
継体天皇に伝わった伝承がモデルになったのでしょう。
そして、かつて都がおかれた伝承をもとに、天智天皇は大津宮に遷る計画を立てたのでしょう。
58日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:34:03
>>23
>天皇の妃は・・・和邇−春日系豪族が占めて・・・
いたのは、仁徳系の諸大王の時期だったっけ?
59日本@名無史さん:2006/04/11(火) 21:18:19
山背、近江の和邇氏(小野、粟田)と大和添上の和邇氏(春日、柿本)は、もとは別の氏族だったのかも。
そうすると伝説の武振熊は近江かな。
60日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:24:26
近淡海国造と安国造の本拠地を教えて。
61日本@名無史さん:2006/04/11(火) 23:01:55
>>60
安氏はやっぱり野洲市だろw
近江国造はわからん
62日本@名無史さん:2006/04/12(水) 21:58:25
>>59
>山背、近江の和邇氏(小野、粟田)・・・
近江は湖西志賀だな。山背の拠点って、何処?
63日本@名無史さん:2006/04/12(水) 21:59:27
近淡海国造=安国造という説もあるね
64日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:03:44
>>62
山城国愛宕郡粟田(京都市東山区)
65日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:03:05
山背国愛宕郡小野郷(京都市山科区)もある
小野小町の出身地といわれている
66名無しさん:2006/04/13(木) 23:46:32
盗撮の疑いで大津赤十字病院職員逮捕 JR大津駅

滋賀県警鉄道警察隊と大津署は4月12日、県迷惑行為等防止条例違反(盗撮)の疑いで、
大津市下阪本、大津赤十字病院総務課長 辻 勝 容疑者(43)を現行犯逮捕した。
 調べでは、辻容疑者は同日午後9時15分ごろ、
大津市のJR大津駅の階段で、
大津市の高校3年の女子生徒(18)に後ろから近づき、
携帯電話のカメラでスカートの中を撮影した疑い。
大津署によると、辻容疑者の携帯電話には、犯行時の写真のほか、
他の人物のものと思われる盗撮写真が十数点保存されていたといい、
同署は余罪を追及する。
同容疑者は容疑を認めており、「仕事でストレスがたまっていた」と供述。
辻容疑者は大津赤十字病院に勤務し、総務課長。
67日本@名無史さん:2006/04/16(日) 19:01:18
>>54
>仲哀の子供たちは滋賀に勢力を張ってた・・・
彦人大兄女の大中姫命所生の麛坂・忍熊兄弟のこと?
滋賀に勢力の出典は何ですか?
68京都人:2006/04/16(日) 22:24:17
>>65
 京都市内で小野郷と言えば北区の小野郷(旧葛野郡小野郷村)しか知らないんだが……。
 愛宕郡は雲ヶ畑、鷹峯までだったと思う。
 それに、今の山科区は昔は宇治郡だったと思うが。
69日本@名無史さん:2006/04/17(月) 02:55:42
>>68
醍醐近辺に小野がなかったっけ?
愛宕郡は、確かに今の京都市西北部のはず。
70日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:07:19
>69西北は葛野郡だろ。愛宕郡は東北。
71日本@名無史さん:2006/04/21(金) 20:55:30
>>59
>武振熊は近江かな・・・
本拠地は、淀川水系の山城のどこかと思われ。
72日本@名無史さん:2006/04/22(土) 02:02:19
難波は? >難波根子武振熊
73日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:55:01
日本書紀に、野洲郡に霊泉が湧いたという記事があるらしいが
今もその跡地(伝承地)はあるの?
74日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:07:39
近江八幡と宇佐八幡との関係は?
どちらも同じ古代頃栄えた都市で
あったことは確か。
75日本@名無史さん:2006/05/13(土) 21:37:54
>>74
近江八幡に、古代頃栄えた都市があったってのは初耳なんだが。
古代頃って、何世紀頃の話なんだ?米原近辺の息長氏でさえ、
都市と言えるような遺構は、残しておらぬのに。
76日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:09:06
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/okinaga.htm
そうかな、漏れには古代宇佐八幡と近江八幡は
後に大和の中枢となる氏族の拠点だったとしか思えない
つまり古代の大都市だったとしか思えない。
おもえない
おもえない。
おもえ ない。
77日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:12:25
つまりだ。
近江、宇佐の八幡連合国家は出雲を併合し
大和政権の中核になる。
78日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:14:06
高天原もおそらく宇佐か近江近辺であることは
ほぼ、いや十中八九間違いない。
まちがいない
まちがいない
まちがいない
79日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:00:07
そういえば大津京の近くに宇佐山があり、そこに宇佐八幡宮が鎮座している
80日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:09:01
八幡鎮座は出雲大社の少し後、八幡はまさに土蜘蛛征伐などの時代である。
八幡鎮座は征伐された地であるかした地であるかのいずれか
81日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:11:11
知る人ぞ知るヒボコも近江に降り近江に散る
散る、近江に散るちる
82日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:28:40
息長は製鉄のとき、炉に息を吹き込むことからついた名
というはなしを聞いたことがある
83日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:50:43
オウムね、
出雲、近江、大和、吉備、宇佐、濃尾関東
あたりの政権が連合したのがヤマト政権である。
84日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:52:26
八幡なんてそこら中にあるよw
85日本@名無史さん:2006/05/14(日) 01:08:47
出雲系神社のあるとこは早くから大和傘下にあっった地域。
八幡はその少し後に傘下に入った地域。
また客神としての八幡もあるのでそれは除外して考えよ
86日本@名無史さん:2006/05/14(日) 08:42:33
神功と香坂・忍熊が戦っている伝承から見て
宇佐・近江連合が成立していたとするのは違うんじゃないか
87日本@名無史さん:2006/05/14(日) 10:05:55
>>82
息長は漁労のとき、海に息つぎせずに長く潜る技からついた名
というはなしを聞いたことがある。息長氏は海人族なので。
88日本@名無史さん:2006/05/15(月) 23:28:06
滋賀県は他の近畿の県に比べて、古い地名が多い傾向にある地域だよな。

和邇とか蓬莱とか
89日本@名無史さん:2006/05/16(火) 00:16:04
>息長氏は海人族
根拠は?
90日本@名無史さん:2006/05/16(火) 00:35:20
>>86戦ってる以前に神宮と血が繋がっていると書いてある。
これは同盟より関係は蜜だ
91日本@名無史さん:2006/05/16(火) 01:09:56
つながってないだろ?
香坂・忍熊兄弟の母は大中姫
92日本@名無史さん:2006/05/16(火) 13:54:15
忍熊方の将、倉見別は近江の豪族、犬上君氏の祖先とされる
93日本@名無史さん:2006/05/16(火) 14:05:36
神功の夫中愛で繋がってるだろ、親族だろが
94日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:17:39
>>91
>香坂・忍熊兄弟の母は大中姫
            ↑
           多氏かな?



95日本@名無史さん:2006/05/16(火) 20:31:29
★★ 朝鮮民族の先祖はワイ族だった!! ★★

最近、韓国人が宣伝している歴史観は、韓国人=フヨ人説に基づいた『騎馬民族征服論』である。
満州地方に住んでいたフヨ(扶余)民族が、朝鮮半島に侵入し、半島南部に新羅や百済を建国し、
さらに対馬海峡を渡って日本列島の先住民(日本人)を征服して、古代ヤマトを建国したという説。
『2ちゃんねる』の日本史板や考古学板を中心に、この説を宣伝している。
もちろん、すべてデタラメであるが。
朝鮮人はフヨ人ではない。フヨ人の子孫でもない。フヨ人に征服された民族が、朝鮮人である。
高句麗およびその後継国=渤海国はフヨ人の国である。また918年に建国された高麗もフヨ人の国である。
そして、フヨ人とは満州民族であって、朝鮮民族ではないのである。
朝鮮人は、韓人(カラビト=倭人)でもない。
朝鮮民族の先祖として、もっとも可能性が高いのは、穢(ワイ)族である。
このワイ族は、現在の韓国の江原道地方(ソウルの東方地域)に住んでいた少数部族であるが、
高句麗が楽浪郡=帯方郡を滅ぼした313〜314年頃に南下して、日本領=シラキに移住した。
後に、高句麗と手を組んで稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪して志良岐を
乗っ取った金奈勿(キン・ナブツ)も、ワイ族であった。
おもしろいのは、韓国の歴史学者や政治家たちは、朝鮮民族の先祖について語るとき、フヨ人や韓人に
ついては積極的に語るが、このワイ族については語ろうとしないことである。
おそらく、韓国朝鮮人は、自分たちの先祖がワイ族であることに、うすうす気づいているのだろう。
ワイ族のワイ(穢)には、「汚い」「ケガレている」という意味がある。
このような名前の部族が朝鮮民族の先祖だとは、認めたくないのだろう。
彼らは、楽浪=帯方郡を支配していた中国人から、そのように名付けられた部族なのである。
朝鮮民族は、けしてフヨ人ではないのである。
もちろん、倭人=日本人でもない。

ウィキぺディアなどで、朝鮮人の工作員が、
「ワイ族は扶余族だ。ワイ族が改名して扶余族になった。高句麗人も百済人も、
 みんなワイ族だ!日本人もワイ族だ!」
と、宣伝しているが、大ウソなので、騙されないように。
96日本@名無史さん:2006/05/17(水) 01:10:00
>>93
だから、血は繋がってないだろ
97日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:00:52
>>92
そうか、犬上氏ってマイナー豪族と思っていたが
そんな古い伝承にかかわっているということは
案外継体を担ぎ出すのに加わった勢力の一翼だったかも
98日本@名無史さん:2006/05/17(水) 22:25:55
>>96
たしかに血は繋がってないが
今で言う親戚。
(文献上)
99がいやまん:2006/05/18(木) 12:18:41
左通行のスレで右側運転をやって、ブーイングがでてしまった↓
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1100762403/menu:120
漏れとしては京都、近江、岐阜、福井の辺りを中心に銅鐸の残党、狗奴国
があったのではないかとにらんでいる。狗奴国とは狗の国の意味で、夫余の
行政単位である「加」を用いると久我、甲賀といった地名になり、犬上とか、
犬山とかはこれに関するものと見る。倭人伝の狗奴国王クガチヒコ、とか
垂仁朝に征伐されるクガミミの司とか言うのはこの残党であろう。神功・仲哀
時代にこの対立がぶり返したのではなかろうか。
100日本@名無史さん :2006/05/30(火) 13:57:54
代保守
101がいやまん:2006/06/17(土) 19:47:53
近江は末期銅鐸文明の中心地であり、終焉の地である。末期銅鐸文明は到来した
アメノヒボコによって技術的に最盛期を迎えた直後に終わっている。この間の事情は
天孫側のオオクニヌシに対する大きな譲歩として書紀に描かれたとおりであろう。
三上山の信仰システムは温存し、大和三山に天の香具山を残すというのも妥協で
あったのだろう。神武が香具山の土を奪い、新たな土器デザインを宣言したのだろう。
その背後にあったのは銅鐸、銅鏡、土器、埴輪、古墳製作、建設のコングロマリット
のようなものであったのではあるまいか。国家建設の偉業は記紀編集者が魏志倭人伝
の方角を真に受け、時代を河内王朝時代と誤認したためにとんでもないピンボケとなった。
102がいやまん:2006/06/17(土) 20:10:12
神武は出撃する方角から見て吉備、阿讃播連合方面の政治家であり、オオクニヌシ
と互角に張り合えるところを見ると楯築遺跡あたりの名家の出身者なんだろうか。
卑弥呼も同じ系統であろう。神武から卑弥呼にいたる間は倭国乱れ、歴代王はなかった
と見てよいだろう。銅鐸文化が最後の輝きを見せた時代であったのだろうか。
103がいやまん:2006/06/17(土) 20:51:22
卑弥呼らの邪馬台国を支えたのは神武が遠征した沿岸地域以西の瀬戸内海勢力
であるが、残余の近畿銅鐸勢力圏は邪馬台国に反目していたと見てよかろう。これが
狗奴国というものではないか。これを東軍とすると西軍は投馬国連合とでも言えばよ
かろうか。
104日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:21:03
まあ、琵琶湖を徹底的に発掘したらよか
105がいやまん:2006/06/30(金) 07:52:41
↑鹿児島県出身、京大卒、原口正三教授が詳しくまとめている。
106日本@名無史さん:2006/07/09(日) 20:08:19
ほう
107日本@名無史さん:2006/07/09(日) 21:25:45
記紀の中で初代・2代天皇の母が「鰐の娘」となっているが、
「和邇の娘」との掛詞になっているのだろうか?
前から気になって、仕方ない。
108日本@名無史さん:2006/07/10(月) 00:02:48
壬申の乱まで、大和や飛鳥は越から見て田舎の勢力なんだろ。
日本海〜琵琶湖と伊勢湾〜大阪湾に掛かる要所を完全に抑えてたのは
越なんだし。大海人が美濃に援軍を求めてスムーズに動けたのは
越の勢力圏と一致する。壬申の乱は大和内での越勢力の抗争に見える。
倭の主体は大和の勢力だろうが、日本国の主体は越の勢力。
109がいやまん:2006/07/10(月) 09:34:50
↓下記URLを詳細に検討する必要がある。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/okinaga.htm
110がいやまん:2006/07/10(月) 10:46:13
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152216234/menu:84
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152216234/menu:85
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152216234/menu:86
壬申の乱の布陣にはその500年前の日本建国時の布陣、その半分前の神功・
忍熊王の内乱の秘密、つまり、渡来人の政治関係が秘められているのだろう。
111がいやまん:2006/07/24(月) 16:56:25
>>109 ここでは<本拠地>として、下記があるが:
AAA 息長氏 
    滋賀県坂田郡天野川(息長川)流域、三重県桑名郡多度町
    京都府京田辺市付近、
    大阪市天王寺区玉造、
    福井県三国町
    これは下記の坂田郡を中心に狗奴国を含む北陸、東海を統治したもの。
BBB 息長丹生真人氏  滋賀県伊香郡余呉町丹生、滋賀県坂田郡米原町丹生
    これはそのうちで江北に特化したもの
CCC 三上氏 滋賀県野洲郡野洲町、京都府舞鶴市行永(若狭湾一帯)
    丹後系
DDD 凡河内氏 兵庫県姫路市広嶺
    播磨・河内系
EEE 山背氏 大阪湾から播磨灘の沿岸地域
同上
FFF 糸井・三宅氏   北九州糸島半島彦山周辺
   これは三雲・平原遺跡方面の豪族か
日本書紀の神代一書ではヤスカワにおいて激しい国譲り交渉があったことが
記されている。これはオオクニヌシvs天孫であるが、高天原を伊勢遺跡とすれば
CCCがどう見てもオオクニヌシである。天孫はFFFははっきりしているが、この背後
には吉備があったのかもしれない。残りはオオクニヌシの影響の強いものであり、
播磨・河内は天孫に付いたのかもしれない。息長一族はそれ自体がリトル倭国の
ようなもので内乱を起こしたりするものであったのであろう。自民党の派閥華やか
なりし頃のようなものであったのか。しかし、丹後の大和宿禰などは天孫政権に
加担したようだが。



112がいやまん:2006/07/24(月) 17:11:05
CCCはおそらくは銅鐸の神であったはずで、オオクニヌシというのはこの場合その尊称
であろう。国譲りの重大な結果は銅鐸の代わりに銅鏡、近畿先土師器を布留式に統一、
方形周溝墓のように銅鐸同様地の神を敬う形式の墳墓から、中間型の前方後方墳
ないしは前方後円墳の採用という、宗教・産業大革命をともなう国土再編であったのだろう。
113がいやまん:2006/07/24(月) 17:18:43
記紀の欠史八代では尾張ヨソタホ姫とか、カミヌナカワミミ等が登場するので
国譲りの頃は息長ではなかったのかもしれないが、中身は同じようなものだろう。
114がいやまん:2006/07/27(木) 14:18:02
古代の磐座、古墳型礼拝遺構(ヒモロギ、須弥山遺構)、鏡の名称、司祭者の職能など
において、宇宙を沖津(天上界)、中津(地上界)、辺津(冥界)に三分する宇宙観が見ら
れる。司祭者においては宗教的行為をもっぱらにするものと、支配・統治をもっぱらに
するものの二分化も見られる。鉱山土木巨石運搬冶金技術などの当時としては錬金的
魔術を有する集団には神の住む世界とのつながりを有するものと見られており、近江に
おいて古来から銅鐸製造に関与する集団にはこうした天界とのつながりが認められて
いたのであろう。オキナガという言葉はこの司祭者、オキ、と、地域を支配統治する
もの、ナガが一緒になって、鬼道と政治を同時に行うヒミコのような存在がオキナガと
呼ばれたのであろう。邪馬台国、巨大前方後円墳、銅鏡、庄内・布留式土器とは近江に
存在したこうした銅鐸文化圏の再編成から始まったのではなかろうか。そしてこれが
山城南部でオキナガのタイトルを
持つ氏族の台頭へと結びつく。しかし、こうしたオキナガタイトル氏族はその後河内
中部においても台頭し、内戦を経ながら山城南部のオキナガは、河内中部にと統合
され、それが乱れた際に、血脈を持つ継体が登場する。

115がいやまん:2006/07/27(木) 14:34:33
日本の天皇の本源は北部九州の平原・三雲地方にあり、これが遠賀川方面に
東進した際に安曇と住吉に分かれる。そして安曇が近江方面から南下、住吉は
吉備方面から近畿に圧力をかける。もし、神武が初代であるとしたらそれは吉備
方面からの最初の攻撃であり、そのころ安曇はすでに河内に入っていたのではな
かろうか。
116がいやまん:2006/07/27(木) 14:44:31
電流というのは電子が走るのではなく、その場その場の電場が波のように揺れるのだ
という。天皇というのも安曇・住吉の天皇場というものが、たとえば天日矛といった
イベントによって振動し、天の、百伝ふ、神権の降臨によって、ローカルの氏族が
天皇になるのであろう。天武も神武も同じ現象かもしれない。
117がいやまん
>>111
河内、播磨、糸島半島出身の豪族はいるが、吉備出身はいない。ところが、吉備の
特殊器台は銅鐸思想を継承したもの。すると、吉備というのは近江において銅鐸思想が
鏡神社で象徴される鏡思想に切り替えられた後で成立し、特殊器台も銅鐸が変身
したものということか。銅鐸文明の発展的解消か、正、反、合の動きか。その時代は
大体BC180年頃であろうか。下記の妄想と書かれた部分参照↓
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/kouko/ml/izumo2.htm
糸島の三雲、平原などはどのへんに位置づけるか。記紀などから考えると、どうも
それが一番先に来るようであるが。