織田信長は天下統一目前半ばの1582年6月2日未明、家臣の明智光秀によって命を奪われ49歳の若さで命を果てました。
彼がどうして秀吉や家康のように天下を取れなかったのか論じましょう
2 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 21:43:05
光秀に殺されたからだろ。
終了。
3 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 21:47:37
日本史板ってレベル低すぎだな。
4 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 22:12:01
ちょっとマジスレして、部下の扱い方が悪いのと変革を取りすぎたから。
後の両者との違いは部下への最終的な処置の仕方。
信長がいきなり処断し、追放、惨殺するのに比べて、二人はチャンスを与えたり、形だけでも温情措置を取る。
信長が旧来の物をどんどん打破したのに対して、二人は旧来の物を全肯定しないまでも否定はしなかった。
緩やかな変革だから、成果はすぐに上がらなくても確実に、安心感と共に変化させられるから
急進中央集権主義だったから
6 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 00:25:04
超合理的主義者だったから
7 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 00:35:55
横山やすしって信長の生まれ変わり?
8 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 01:35:21
そういう運命だったから
9 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 02:02:51
林通勝とか、30年近くも前の裏切りを理由に挙げてまで切る必要あったのかね?
どうせ、数年経てば死ぬんだから
信雄は勝ち組
11 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 02:24:02
急ぎすぎた。朝廷をビクビクさせすぎたな、もう少し持ち上げつつやって行っても良かった。
>>9 林・佐久間らの重臣の追放の理由は、単に織田家にとって役に立たないからだろ。裏切りが真の理由だったら柴田勝家も即刻北陸討伐司令官から外されてるよ。
秀吉や滝川や明智みたいな新参者でも能力のある人間は大きく登用し国持ちの大名にまで抜擢してくれるが、逆に能無しの家臣はもう要らないからという理由で簡単に切り捨てられる。
後年天下を取った豊臣秀吉も主君の真似をして人材登用には積極的で諸大名の家臣でも有能な人間を自分の家臣として重用したし。
13 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 20:08:24
14 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:15:59
>>13 朝廷が暗躍して、朝廷贔屓の明智をけしかけたという話があるが・・・
15 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:34:04
16 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 08:32:27
ガセなの?明智はなぜやったんだろう・・・私怨のみ?
大坂本願寺及び一向一揆が信長を苦しめ天下取りを阻んだため。信長はこのせいで弟も失い、これを恨みに一向宗門徒は容赦なく虐殺するようになった。だから私怨でもあるのだ。
戦争ばっかりで
国を統治するビジョンがなかったから
などと言って見る
>>1 信長は民衆からは好かれていたし、身分の差別もせず、能力重視で武将を選んでいたから。
その分、金を民衆から取れなくなったり、能力がなかったらすぐに外された大名達からは好かれてなかった。
けどそのおかげで、秀吉みたいな農民上がりや、家康みたいなどこぞやの馬の骨の家系でも
信長のお陰で将軍になれたわけだけどな。
20 :
日本史@名無しさん:2005/12/05(月) 10:41:02
>>1 それは
日本史最大の謎であり、戦国史最大の謎でもある、
「本能寺の変の真実」を追究することが、
結果として織田信長の戦略、戦術、政策を追求することにもなるでしょう。
すでに本能寺の変の答えは出ています。
その答えは「朝廷説」です。嘘ではありません。事実、答えを書いた本が出た一九九七年以後に出た書物は
殆ど「朝廷説」+「近衛前久」です。
これは、あまり的外れ説を書くと笑いものにされることと、確固たる証拠が出ているのでもう無視は出来ないからです。
嘘だと思うなら調査すれば良いです。
ではなぜ、本能寺の変が起きたかと言うと、
そこには信長の戦略的な過ちが見えます。
それは両面作戦を行ったことです。
これは部下の正確な状況把握を困難にしたのです。
なぜなら彼は情報局を持っていなかったからです。
死んだからに決まってるだろ
生きてれば間違いなく天下とった
これは「本能寺で死ななかったら」の次スレ?
23 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 11:25:03
>>20 >事実、答えを書いた本が出た一九九七年以後に出た書物は殆ど「朝廷説」+「近衛前久」です。
「答えを書いた本」って何?
まさか『日々記』のことじゃないよね。
「朝廷説」なんて一過性のもので、第一人者であった桐野作人も立花京子も既に
逃亡しちゃってるよ。
24 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 13:00:38
坊やだからさ
>>20 1997年?
朝廷説ってけっこう古くからあった気がするんだが。
26 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 13:09:16
生きていれば天下とれた。
一応、天下人じゃん
28 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 13:27:38
信長は軍事が下手で、あれだけの物量を持ちながら実際には窮地に
陥る事が何度もあり、その度に朝廷に泣きつき勅命にて延命して来た。
だが、正親町天皇が思うようにならなくなると、譲位を迫る。
家臣団の疑心暗鬼により、本能寺あたりではかなりズタボロになってた。
家臣団、朝廷、未だいる足利義昭(征夷大将軍)、中国、四国、九州、東北、
関東、そして上杉と、畿内、中央を押さえただけの信長には敵も多く、
どのように考慮しても、本能寺にて死す時期あたりで限界に来ていた。
変わった秀吉が信長とは真逆の方法で、統一し、家康がさらに安定させ、
長期政権を築いた。
家康や秀吉には信長なくして天下など夢であったが、信長では天下など
取れるはずもなかった。
歴史というのはそういった連鎖により動いていく物だから、信長厨はよく
考えて発言しろ
軍事が下手ってまたすごい言い方だな
30 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 13:56:56
信長が死ぬ直前の信長の直轄領ってどれくらいの石高だったとですか?
濃尾平野は早めに信長が支配下に納めたので騒乱も少なく、安定した
収益を上げていたと言われているが、太閤検地前の状況はよくわかってない。
それと信長は尾張時代から直轄領の石高はあまり多くなかったはず。
直轄領は米所よりも津島、桑名(伊勢湾交易)、堺津(大阪湾・海外)、
大津、草津(琵琶湖交易)など交易の拠点になっている所が多かった。
32 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 14:31:44
>30
直轄領とか石高って概念がその当時あったかどうかは定かじゃないんで
よくわからんけど、およそ600〜800万石が信長の支配圏の石高で、
動員兵力は総力20万とかいう資料もあるにはある。
だが、実際の石高と動員兵力はイコールではなく、関ヶ原における
動員人数などにも過大評価されている物が多い。
本能寺に迫った明智は1万3千。
33 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 14:37:36
俺は本能寺で信長が生きてたらのスレで誰かが言ってたように、
生きていたらそのうち朝廷から朝敵とみなされ、討たれていると思う。
そうなったら、秀吉〜家康のラインもなくなり、日本の発展など
望めなかったか、遅れたと思う。
あそこで死んでこその信長であり、死んでくれなきゃならんって事だろ。
34 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 15:28:13
義元が天下をとれなかったのは力がなかったから。
信玄が天下をとれなかったのは力がなかったから。
謙信が天下をとれなかったのは力がなかったから。
信長が天下をとれなかったのは力がなかったから。
35 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 15:38:03
ドイツやイタリアみたいに近代までゆるい連邦国家だっただろう
36 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 15:46:21
武田攻めの後、信長は信忠に「天下の儀」を譲ると言っていますから、
彼は間違いなく天下人でした。
ただし全国平定はできませんでしたが。
天下の儀=天子様の下、つまり京都の政治のことで、全国政権という意味ではありません
天下布武も、京都を武威で治めますという意味。
38 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:13:02
織田、徳川、豊臣の全盛期の石高は
徳川400万石>豊臣240万石>織田150万前後って感じですかね。
39 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:14:01
40 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:48:17
>39
討つ力とういのは、実際に何を指すのか意味不明。
信長家臣団に疑心暗鬼が起こっていて、秀吉の毛利戦も進展は遅く、
関東には北条がどかりと腰をすえ、甲斐は未だ統治がうまく行かない。
お家騒動より、力を戻しつつある上杉ともどっこいな柴田。
そこに来て、本能寺もなく、謀反を起こさなかった明智が中央におり、
朝廷から信長討伐が下れば、崩壊すると思うぞ?
実際に、信長包囲網を足利義昭が出した時も、信長は困窮し
崖っぷちにまで行っている。
朝廷よりの勅命により和睦を行って助命しているが、それだけ
敵の連携は恐怖だと言う事。
41 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:48:41
信長さんの子孫の方はスケートで天下を取りましたね。
>>40 > 甲斐は未だ統治がうまく行かない。
甲斐が混乱したのは本能寺直後に起こった国人一揆のため。
川尻秀隆の統治に問題があってうまく行ってなかったと言っているのは
一揆を扇動したと言われている徳川方の史料だろ。
> 関東には北条がどかりと腰をすえ、
どかりと腰をすえたのは、神流川合戦で滝川勢を破ったから。
> 謀反を起こさなかった明智が中央におり、
本能寺が無かったら明智勢は中国地方にいるでしょ。
×川尻
○河尻
44 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 18:24:54
>42
本能寺が起こらないって仮定では、明智がどこまで行った時点で
何が起こるかなんかわかるわきゃないでしょ?
甲斐の統治政策がうまくいってねーのは事実だろ?
北条討伐なんかする体力が信長に当時あったんか?
しかし本能寺の変後の穴山梅雪暗殺や甲斐国人一揆を煽動して川尻秀隆を暗殺し甲信領国を取ったりと家康の謀略には黒いモノがあるな
46 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 18:34:19
>45
それが戦国じゃまいか?
家康にせよ、秀吉にせよ、織田側であっても簡単に裏切る口実と
利があれば一発で裏切るもんだ。
それがわからん信者はどうかしてるわけだが。
>>44 > 何が起こるかなんかわかるわきゃないでしょ?
それなら
>>40の「明智が中央におり」にも突っ込めよ。
> 甲斐の統治政策がうまくいってねーのは事実だろ?
だから事実かどうかわからんって言ってるの。
そもそも河尻が実質的に統治を始めたのは信長の去った四月末以降
なんだから実質一ヶ月しかない。評価が出てくるには早すぎるだろ。
> 北条討伐なんかする体力が信長に当時あったんか?
本能寺の変時点では織田と北条は同盟関係だっての。
48 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:25:52
>47
明智が中央にいて、本能寺が起こってなければ?って40は言ってるんだろ?
いつ、朝廷から信長討伐の勅命が降りたかなんて仮定の話しなんで、
何言われてもよくわかんねーもんさ。
甲斐の統治がうまくいってないと、君も言ってるでしょ?
よくわかんねーんだけど、君は何か勘違いしてると思われ。
本能寺の変以降、荒れちまった甲斐ってのは理解できるが、
それくらいうまくいってないって事が結論なんだよね。
実質一ヶ月で評価って言われても、信長の危うさを指し示す事にしか
ならんので、実質40の言っている信長を追い落とす勢力の有無に対する
レスはは正しいと思うよ?
北条と同盟関係にあったから何?
北条とは、密接な同盟関係なんか存在してないよ?
朝廷から勅命が降りても心中する程の強烈な同盟関係があったなんて
聞いた事もない。
君はスレの流れを読むべきだ。
あくまで仮定の話で全て進んでいるのだから、本能寺以前のバランスではなく、
朝敵となった場合、信長が生きながらえる根拠となる物を語るべき。
何を言いたいのかさっぱりわからん。
50 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:32:41
バカにはわからんきがす....
51 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:45:41
ヒント >33 >39 >40 >42 > >48
オマイのレス >42 >47 >49
オレ >46
河尻秀隆は旧武田遺臣に対して召抱えると騙して、降参したものを打ち首にするようなあんな過酷な政策を実行するから、国人一揆は起こされて当然だよ。4月に赴任して6月に殺害と甲斐国はたった2ヶ月の統治しかでない。
勝頼は農民に対して年貢の増税をして苦しめてたのに、武田を滅ぼして入った後に減税政策などをして農民の支持を得てないことも充分に大きいよ。
信長を真似した政策だと言われてるが、信長は真田やら木曾なんていう元々武田の臣下ではなかった者に対しては降伏を許してるよ。それどころか武田と縁の繋がりが深い穴山梅雪を許している。
それは信長は実は元々、名家である武田家を潰す気はなく、いつか時が来れば武田家の再興を考えていたとも言われている。
信忠に降参して打ち首になったのは武田を裏切った小山田とか裏切った親類衆だけだ。
53 :
日本史@名無しさん:2005/12/06(火) 10:54:50
本能寺の変については「朝廷説」と言うのは仮定としてあった。
しかし、綸旨がない、光秀自筆の手紙にそんなことは書いてないなどで、ただの仮定黒幕説のひとつ、だった。
それらに正当な論理的解釈、新証拠が出たのが一九九七年二月。
事実、これ以後は殆ど「朝廷説」、ブームと言うよりこれが動かしようない真実だから。
実際、芥川賞、直木賞作家とか、ベストセラー作家などは本能寺の変について書かないだろう?
昔は色々と書いてた。書かなくなったのは、
それが「朝廷説」で解明されたから。
的外れ説を書くと笑いものになるし、朝廷説で書くと「盗作だ」とか「二番煎じ」と非難されることを恐れて書けなくなっている。
つまりは名声に傷がつくのを恐れる世界だからな。
54 :
日本史@名無しさん:2005/12/06(火) 11:03:21
○織田信長の戦略の間違いは、両面作戦を常に取ったことだろう。
彼の場合、それで常にピンチを迎えている。
たとえば過去に武田信玄などには浅井、朝倉とか、本願寺、足利義昭などに挟み撃ち的な攻めをされている。
戦線が小さい場合、軍の移動が手早く出来るのでそれでいいが、本能寺の変時のように大きくなると、各軍団長の意見の伝達が遅れて、予備軍の行動などが鈍くなり、
遅れが出るわけだ。
信長が配下の羽柴や滝川にまかせきりならそれでいいが、自分が手綱をとりたいといちいち意見を言うようだと遅れ、齟齬が出る。
結局、本能寺の変の原因も戦線の広げすぎで、部下を把握できなくなってきたのが問題なのでは?
相手の同盟破棄によって生じた展開を両面作戦と言わんだろ。
別に両面作戦はとりたくてとったわけじゃねー
京(首都)を支配下に置けば天下取ったも同然
逆に言えば地方をいくら支配しても天下人じゃない
自分が皇帝にでもなれば別だが…
58 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 12:42:00
北条も毛利も上杉ももじり貧で滅んでいただろう
信長に勝てる要素がなにもない
島津や伊達なんかの僻地大名も信長に討伐されてたら徹底的に滅ぼされていただろう
信長が死に秀吉が天下人になったのは全ての大名にとって運がよかった
>>12 >逆に能無しの家臣はもう要らないからという理由で簡単に切り捨てられる
佐久間は、秀吉・光秀ほどじゃないにしても十分に能力はあったし、でなければ
畿内南部の旗頭として最大の敵・石山本願寺攻めの主将を任されるわけ無い。
「能無し」だったのではなく、石山本願寺降伏後に与える恩賞が惜しいから
クビにされただけ。
秀吉たちほどの能力があれば、まだまだ酷使するためにリストラを免れただろうが、
中の上・上の下程度の武将であったがゆえに、この上さらに追加の恩賞を与えるのが
もったいなかっただけ。
それは、信長が佐久間追放の理由としている譴責状の内容があまりにも言い訳がましく、
大したことじゃないものをあたかも重大事のように騒ぎ立てていることからも判る。
信長が自分たちの側近に土地を与えるために功臣を邪魔にしていたことは、柴田勝家から
越中を取り上げてさらなる前線に送り込み、越前は側近の菅谷長頼に与えようとし
ていたことや、明智光秀から丹波を取り上げこれまた前線に送ろうとしていたこと、
秀吉が先手を打って「中国地方を側近衆に差し上げたい。自分は九州に行き、それから
明へ行く」と媚びを売っていることからも、彼ら軍団長の領地取り上げは既定路線。
ただ、佐久間には取り上げたあとに新たに戦場を与えるほどには価値が無かっただけのこと。
>>59 石山本願寺という名称は当時は使われなかったらしい。呼び方としては大坂本願寺が正しい。
61 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 13:28:46
>>1 >彼がどうして秀吉や家康のように天下を取れなかったのか論じましょう
無意味なスレだ。
「なぜ取れなかったか」は「家臣の反逆で死んだから」とハッキリしており、
「なぜ反逆されたか」を論じるスレはほかにあり重複している。
おまけに、ある程度出来上がったものをトップの挿げ替えで天下を取った
秀吉・家康と、その一大名からトップまでのしあがった信長とじゃ、
条件が全く違うのだから比較しても意味が無い。
========================== ス レ 終 了 ==========================
========================== ス レ 終 了 ==========================
========================== ス レ 終 了 ==========================
========================== ス レ 終 了 ==========================
いや、だから能力重視で選ぶ信長は大名からは好かれてなかったんだよ。
だからこそ、光秀の裏切りに乗る者がいたわけだが
秀吉や柴田みたいに、本当に能力があって
家系にすがる事ができない武将は、裏切るってことはしなかった。
>それは、信長が佐久間追放の理由としている譴責状の内容があまりにも言い訳がましく、
>大したことじゃないものをあたかも重大事のように騒ぎ立てていることからも判る
これってただの主観だよな。じゃあ他の家臣は何をしていたか?まで列記されてるのに
当時比べようも無く小身だった池田より功績を上げず無策だったらそりゃ重臣だからこそ譴責も受ける罠
しかも信長の要求は「再度功績を立てることにチャレンジするか、高野山に行くか選べ」だから失地回復のチャンスを取ることもできたはず
負け狗根性で即逃げる程度の武将は信長には不要だったんだろう
>>59 「飛鳥尽きて良弓仕舞われ、狡兎死して走狗煮らる」
古今東西、動乱期から統一期に至る過程で問題になるのは
軍人の処遇なんだが。下手に力を持っているだけに面倒。
そうなった時には秀吉のように外に敵を求めて進出していくか
家康のように赤貧に追い込むか、もしくは劉邦のように殺すしかない。
(つか中国は劉邦に限らず、基本的に粛清しているね)
単に信長は最後の選択を追放という形でやっただけだろ。特別じゃない。
それは、統一後のことだろ
まだ戦争があるのに、リストラする馬鹿いるか
信長はよくヒトラーやナポレオンと比較されるが、イワン雷帝と似てる気ガス
67 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 21:19:38
信長は董卓だろ。
戦いに強く天下もある程度おさめたが最期は部下に殺されたあたりそっくりだ。
支那で信長に相当する人物はいない。まああえて言うなら曹操が信長に一番近いかも。
>>67董卓について良く知らんのでもうちょい詳しくお願い
信長は童貞なんかじゃないよ子供だっているだろ
馬鹿だな
71 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 21:57:33
>>68 曹操と信長を同レベルにするのは曹操に失礼。
優秀な人物を登用し大事にする曹操と、
部下に裏切られるほど馬鹿な信長では器量が違いすぎる。
72 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 22:14:05
間違いなくいえることがひとつ。
本能寺の変で信長が滅んだことにより、日本史が圧倒的に面白くなった!!
と、思いません?
73 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 22:20:05
>>72 禿同。
あっさり織田で太平の世じゃつまらん。
部下に裏切られるのって馬鹿なのか?
オレからすればはるかに劣勢だった劉備を潰し切れず、のんきに魏王だってふんぞりかえっているうちに蜀とられて漢中戦で負けて挫折した曹操がそれほど賢いとは思えん
要するに信長は外敵に負けなかったわけだし
>>71 >優秀な人物を登用し大事にする曹操と、
そりゃ信長も同じだよ。
>部下に裏切られるほど馬鹿な信長では器量が違いすぎる。
ワロタ。全然具体的じゃ無いなお前w
器量って便利な言葉だな。
>>71のような馬鹿でも誤魔化すときに適当に使える単語。
76 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 09:43:51
誰かに例えて話す事に無理があるんじゃあないか?
まあ、そうだ
信長は信長、曹操は曹操だ
78 :
日本史@名無しさん:2005/12/07(水) 11:31:35
「自分が日本六十余州を統一したあとは、一大艦隊を造って、朝鮮、明国に攻め入る」
と信長はフロイスに語ったと言うし、、これが最終目的なら、まだまだ優秀な部下は必要。
という訳で、佐久間とか林通勝はやはり無能と評価されただけでは?
結局、組織が思った以上に巨大化し、より優秀な部下、ブレーンが必要になったのに、昔の連中ばかりを使った。
つまり組織が巨大化して、一人の目では各所の変化に追いつかなくなった、と良くある話なのかも?
なんにせよ、日本統一時は、軍隊の装備、規模、士気が一番高いときだろうし、、、
ありあまった軍のエネルギーをどうするかは問題となっただろう。
結局外征になっただろうな。
彼は、そういう計画を部下にはっきりと話さなかったのでは?
で、部下に無用な不安を抱かせた、というのはあるかも?
能力重視で選ぶ信長は家系重視の銭ゲバ保守大名からは好かれてなかったんだよ。
だから、能力重視の信長に不満を抱き光秀の裏切りに乗る者がいたわけだ。
結果的に、家系重視の裏切るような大名は主に、能力重視を受け継いだ秀吉に光秀が討伐されたときに指揮を失った。
80 :
日本@名無しさん:2005/12/07(水) 12:20:46
比叡山の政治には関係なく修行に励んでいる僧侶を殺しすぎた。
織田家は日蓮宗ゆえに。
>比叡山の政治には関係なく修行に励んでいる僧侶を殺しすぎた。
欲に溺れてたし励んでない
政治を壊そうとしていただけ
イラクのテロリストみたいな信念を持っていた奴らがその僧侶
比叡山攻略は秀吉がキリスト教徒を抹殺したのと同じ動機
イラクのテロリストよりオウムに近い
84 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 19:48:00
というか信長が横暴で比叡山は被害者
>>81 むしろアフガンに近い気が。
自分達と敵対している浅井、朝倉(ビンラディン)を匿っていた比叡山延暦寺
(タリバン政権)に差し出すように命令した信長(ブッシュ)。
比叡山は戦争は無いと読んでのらりくらりと時間稼ぎをしていたんだが、キレた
ブッシュはいきなりバンカーバスターぶちかまして本拠地ごと丸焼きにした。
途中からごちゃ混ぜになっているが話の筋は変わってないだろ?w
当時の叡山は仏教を侮辱しているような状態
焼き討ちが正当だとはとても言えんが罪のない被害者とも言えん
>>79 能力主義で引き上げられた光秀が裏切ったというのは皮肉だな
>>85 アフガンの一般人そのものに罪はないからブッシュと信長は違うな。
テロリスト達が集まる巣窟に先手で潰しに行った。これが信長。
89 :
日本史@名無しさん:2005/12/08(木) 11:13:01
○織田信長は、ダイエー創業者の中内功氏に似ていると思う。
新機軸で大きく最初は商売を成功させた。
しかし、組織が巨大化すると自由に動けなくなった。
そして細部に目が行き届かなくなり、部下の把握が出来なくなった。
90 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 13:59:59
つまりそれが限界だったということだ。
限界に来ている人間にその先を期待するほうが間違いだな。
信長厨は馬鹿だから信長の限界を認めたがらないが。
どうでもいいけど、とにかく事実を認める努力くらいはしろよ。
むしろ信長は勢力が大きくなるほど独裁色を強めて家臣団の統率を強めていったけどな
光秀は信長の地位を脅かすものではない
言わば通り魔に殺されたようなもの
92 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 14:41:44
>61
通り魔?
謀反には、命を賭したそれ相応の理由があるよ。
信長の地位とかそういうわけではなく、天皇黒幕説もあるし、
もともと光秀のバックボーンを見れば、彼がそれに至った経緯も
勉強くらいは出来る。
通り魔ってのはありえねーよ?
独裁者で、その後うまく行った奴なんかいやしないよ。
独裁は滅ぶ。特に独裁者の死後はズタズタだな。
93 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 16:50:52
通り魔に殺される時点で自分の身も守れないようなザコになりさがったってことだ
通り魔に殺されたようなものだと仮定しても
結局その一つの要因で崩れ去ってしまう程度のシステムしか作らなかったわけだしな
まあ作らなかったからこそ独裁的に振舞えたとも言えるが
いずれにしろ長く続けるのは無理だっただろう
>>94 通り魔に刺されたのは信長だけじゃないからなあ。
あの時信忠が同時に死んでなければどうなっていたか判らない。
ただまあ、言い出したらキリが無いよ。
秀吉だってあれだけの大博打で中国地方から戻ってきたが、毛利が
後北条と同じくらい野心を持っていたら追激戦をやっていただろうし、
家康だって護衛の少なさでは同じ状態だったのだから。
どっちも相手の出方次第では死亡、もしくは失脚していた可能性があった。
それを生き残ったから天下に手が届いたわけで。
(この両名が黒幕ではなかった場合ね)
理由:弱かったから
信長政権末期は信長辺りは将軍、村井貞勝辺りが高級官僚で、秀吉や勝家は方面軍の指揮者 だから主君と家来と言っても尾張時代と違って身近な存在ではなくなってるだろう
98 :
日本史@名無しさん:2005/12/09(金) 12:14:01
織田信長ってスケールは小さいが、ローマのジュリアス・シーザーに似てないか?
辺境で、戦いで名を上げて私財と兵力を得る、で、中央と対立。
ついにルビコンを渡って、首都を手に入れる。で、宿敵を倒していく。
で、ついに皇帝位がどうのといわれるようになって、暗殺。
その部下やらが敵討ちする、
その後の政権を手に入れるとか、、、
ところで秀吉の大土木工事による三木城とか、鳥取城の包囲戦はローマが良く行っていたような気がするんだが、、
そういうローマの歴史とか宣教師から聞いていたようなことはないのだろうか?
よく考えるとそれまで死ななかったのが異常なんだよ
家督を継いで以来何度死線をかい潜ってきたか
異様に運がよくてすり抜けてきたけど普通の人間なら何回も死んでる
年がら年中誰かが裏切る組織の長
明智がこけても誰かがまた裏切った
101 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 13:36:14
結論は出てるんだよね。
信長はそこで死ぬ程度の男だし、あそこまでの地位まで上った男だ。
裏切り、離反は信長の器じゃ、いっぱいいっぱいのトコまで領土も、
家臣数もきちゃってたって実証だね。
本能寺前から、そういう兆候は何度もあったんだしね。
朝廷や将軍の力を利用して、何度も泣きついて、生き残って、自分より
圧倒的に強い相手には媚びへつらう政治手法だった信長では、皇帝など
夢もいいとこ。
>99が言ってるように運はよかった。
>>101 お前、毎日のように同じ事書くならコテにしてくれ。
文体と内容が毎回同じで飽きてきた。
103 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 15:03:53
じゃあ論破してみてくりょ
104 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 15:11:38
105 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 15:13:12
信長厨必死であーる
106 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 15:23:15
107 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 15:40:11
あ〜おれおれ
異論は無いけど、ただ考察を結果論で言っても意味無いと思うけど。
>>103 論破?
あなたの定義する「器」ってのが、結果から出されているものだから
「信長の器ではあれが限界だった」という結論は循環論法。
論破以前に「論」にすらなってない。
111 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 02:26:52
家来に殺されるわ、人心は掌握できないわ。
人望のなさは天下人の器ではないわな。
112 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 08:58:26
結局、”おしい所”まで行く実力はあったが
天下を治めるにふさわしく無かったって事か信長は。
(何だか結果論ばかりのようだけど、結果そうなのだから言いようが無いわな。)
ただ、何かと「器が小さい」的な事で結論付けてしまうけど、
当時誰も無し得なかったこと、考えつかなかった事を
信長自身、自分がやる事なす事全てが初体験、初めての事だったなか
ここまでやっていった信長の評価がこれでいいのかな・・・
113 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 10:16:17
是は世界史でも言える事だけど、軍事的天才では天下が取れないんだよ。
ハンニバルやナポレオンと言った軍事的天才だと、
何時も碌な最後を迎えず天下も取れないしね。
対照的に頼朝や家康、劉邦と言った連中は戦は下手だが、何故か運だけはいい。
天下取りの秘密は程ほどの戦上手であること。
114 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 10:28:29
まだそういった評の方がなるほどと思えるな。
器、器ではな−。
115 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 15:16:23
楽市楽座・関所撤廃・鉄砲の大量使用・兵農分離・尾張は商業国家だった・
比叡山焼き討ち・一向宗徒大量虐殺と、信長の先見性と伝わるものにもいろいろあるけど、
楽市楽座の史料とか尾張が商業国だった史料とか実在すんの?
作家がいろいろ書いてるけど、いまいち信用できんのよ。エロい人おしえて。
>>111 秀吉の方が民衆から指示されてないと思うぞ。じゅ楽第に落書きしたガキどものいたずらを許さず耳鼻削ぎ落として晒し首にした男だぞ
信長は反逆する敵ならいざしらず、一般の町人には優しったし。
117 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 21:25:14
a
118 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 21:31:36
信長が天下を取れなかったのは途中で死んだから。
秀吉、家康が天下を取れたのは信長がいて途中で死んだから。
>>115 山門焼き討ちと一向衆徒大量虐殺は「公記」にあるけどね、
あとはだいたい後世の捏造伝説だよ。楽市楽座も本所が不明だしな。
関所撤廃ってのも、関所税は取ってるし。秋山駿と津本陽(原史料を読んだこともない偽作家)
の妄言に、構造改革派(現首相)が乗っかっただけの現象だな。
長篠設楽原は完全に覆されたし。
楽市は岐阜じゃなかったか
ついでに言うと特に独創とか先見というわけでもなく
近江の六角や駿河の今川なども早くに行っている
121 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 22:54:45
楽市楽座(実態は不明…)が「他国からの商人が情報をもたらした」
って、まるっきり軍事的な観点でしか評価されてなくて、信長の経済政策と
切断されてるよね? そもそも尾張美濃の特産商品って何だったのか、ワカラソ。
よく甲斐の「農業経済」(経済学的には小商品生産経済)と尾張美濃の「商業経済」(経済学的には
流通経済?)が比較されて、織田氏の武田氏に対する優位が説明されるんだけど、
これって資本主義の拡大再生産で解釈してないん? 16世紀に資本制の工場規模の
拡大再生産があったのかと、小一時間…。小商品農産物(農民の仕事)と手工業生産物(職人の仕事)
なんだから、おんなじでしょう? ちなみに、累計的な資本の集積(金融)を実行してたのは
保守的とされている上杉謙信なんだが…。
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123 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 23:16:37
>>121 安土城下には弩級戦艦と機関銃を作れる大工場があったのさ(w
そういえば、爆撃機と重戦車も設計されていたらしいよ。
>>121 いわゆる「楽市楽座」と言われるものは、許認可制から自由競争への転換と
ショバ代の支払い先を寺社から領主(税)へと転換させただけの話。
これが出来るのは寺社勢力の利権を奪えるだけの力が必要、誰でも簡単に
出来るものではなかった。信長が比叡山をはじめとする仏教勢力と全面対決に
なった要因の一つでもある。
その点では特に信長のオリジナルというわけじゃないが、領地内の関所の撤廃と
交通インフラの整備の結果、他国の領内で商売するよりは織田の領内で商売
した方が売る方も買う方も楽で得をするという状態になった。
(売る方はピン撥ねされる額が減る、買う方は自由競争で安く買える)
そして領内で売買が活発に行われるようになれば、織田の税収も増えていく。
武田(だけじゃないが)の農業型経済というのは、基本的に農業生産量を超える
お金が動くわけではないが、流通経済の場合は自国内の生産量以上に外から
引き込むことができる(商売下手なら出て行くけど)という点で根本から違う。
125 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 00:24:58
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126 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 05:54:58
>>124 それって、津本とかのトンデモ作家が言ってることでしょ?
原史料は何なの?
>農業型経済というのは、基本的に農業生産量を超えるお金が動くわけではないが、
>流通経済の場合は自国内の生産量以上に外から引き込むことができるという点で根本から違う。
一見もっともらしい理屈なんだが、経済を知らない人の説だな。
農産物であれ手工業生産物であれ、流通経済の基本は商品交換。流通経済(商業)が生産物を
離れて、自国内の生産量を超える商品流通×流通マージン(税収)があるとしても、
動くのは市場に見合った量の貨幣であって、周辺経済の生産量を上回るものではない。
先物取引とか証券取引があれば名目上の貨幣を一箇所に集積することは可能だが、
16世紀末には不可能。したがって、畿内の経済の規模が推し量れる史料が存在しない以上、
農業経済(土地+労働力=商品)でしか価値を測る方法は存在しないわけだ。
つまり、商業(流通)は商品(農業生産)に立脚しているということ。安土でも岐阜でもいいが、
当時、どの程度の市場があったのか? この点を解明できないと、楽市楽座の実態はワカラソ。
ところで、座の本所はどこだったの? 座が扱っていた商品は?
これもワカラソ・・・・。
>>126 >原史料は何なの?
天正5年6月の「定 安土山下町中」と思われ。
でもこれだと、
>>124の
>領内で売買が活発に行われるようになれば、織田の税収も増えていく。
が説明できん。なぜなら、条文に諸座・諸役・諸公事(税金)をすべて免除とあるから。
仕方ないんで、楽市楽座は「諸国の情報が入りやすくする政策だった説」が定説。
けど、関所税も撤廃してるんだから、織田信長の収入源は何だったのか?
ということになる。で、上記史料の信憑性が問題になる(「信長公記」にもないし)
んだが、洩れは堺や本願寺への矢銭の要求などが収入源だったんではないかと思う。
128 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 08:14:31
本能寺でころされたんでしょ
撤廃したと言われているのは美濃や安土などの特定の土地だけ。
京都などの座は撤廃してないし、伊勢湾、琵琶湖交易は重要な収入源。
だから情報の流通以外にさしたる効果はなかったということになる。
> 座の本所はどこだったの? 座が扱っていた商品は?
油、馬、船、紙、軽物、金物、鍛物…山のようにあるだろ。
130 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 10:46:55
>129
ありがとう。
>油、馬、船、紙、軽物、金物、鍛物…山のようにあるだろ。
悪いが、出典史料教えてください。油は山城に座があったんじゃなかったっけ。
132 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:26:41
>>131 スマソ。ありがとうございました、参考にさせてもらいます。
けど、信長の「楽座」は何か、資料的に裏付けがないんスねぇ・・・。
133 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 23:30:39
>「軽物座」を安堵。〔「橘文書」〕
>「座人」以外の売買を厳禁することを通達。〔「福原氏文書」〕
史料サンクス。けど、まったく定説と逆じゃねえのかな?
>織田の税収も増えていく。
税を取ったのか、座の収益だったのか・・・・???
疑問ばっかで、すまん。
134 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 00:44:19
135 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 13:00:22
>>134 サンクス
上杉氏の天正座小判や武田氏の甲州碁石金は貨幣とは認められないのか?
「貴金属を集めた(資本蓄積)は金本位制が自然発生していたと見做していいんだろ。
↓史料の裏付けがない作文を読まされても、ちょとなぁ〜orz
>大名自身が貨幣が発行できず、さらには家臣の大半が生産者であるという織田家
>以外の大名については、室町時代の流通体制の域を越えないといえます。
>また織田家についても支配地が増えれば増えるほど同様の傾向がみられます。
>>134 貨幣も基本的には「物々交換」の一手段に過ぎないんだと気が付けば
こんな文章にならないと思うんだが…貨幣経済が浸透していない時代は
「貨幣の価値が高い」と「物の価値が低い」は等価じゃない。
物々交換している限り、貨幣の価値がどれほど高すぎても流通も売買も
低下しないから経済も停滞しないわけで、いわゆるデフレの状態とは違う。
(貨幣経済に比べてそもそも停滞しているって面もあるが)
>>135 そう考えるほうが自然でしょ>金本位制の自然発生
当時まじで源平交代思想なんてあったんかいな
それを匂わす資料とかなーーーんもないから、どーもねぇ
139 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 15:59:30
>>138 源平交代思想は江戸時代の歴史解釈だね。
室町末期の世阿弥能や平家物語、太平記なんかを戦国大名が好んで読んでいたとして、まるっきり東国源氏史観
というか、平氏はメチャ弱虫に書かれてるわけで、わざわざ平氏を名乗るのはどんなものかと・・・。
信長は変わってるところがある(信忠の幼名が奇妙丸)から、世の中の風潮に反発して平氏を名乗ったのかもしれんが(元は藤原姓を名乗る)。
140 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 16:21:40
ところで、織田一門は情けなかったよな
>>17 単なる弟じゃなかった事が大きい。バサラで享楽的な嗜好が一致する相性の合う弟だった。
尾張時代の情報収集や工作活動の中心人物だった側近中の側近・森可成も同じ時期に失ってしまった。
この頃から、信長の戦略眼が少しづつ狂い始めた。
142 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 16:43:12
信長が現代に残した最も大きな軌跡とは何か?
それは 北 陸 道
信長以前には北陸道は湖西を通っていた。
北陸道が湖東になるのは大坂本願寺包囲以後である。
×信長が現代に残した最も大きな軌跡
○信長が北陸人に残した最も大きな軌跡
>>143 「軌跡」と書いただろ。
地図見れば一目瞭然という意味ね。
強いて現在も恩恵を得ているとすれば湖東の滋賀県民ぐらいか。
北陸道は、信長以前は湖西から直接京都に入る道だった。
145 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 19:36:59
広辞苑には↓とあるが、近江が入ってないのは何故?
ほくりく‐どう【北陸道】
五畿七道の一。若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7国。
また、そこを通ずる街道。くぬがのみち。こしのみち。ほくろくどう。
律令時代ということは、京都すらまだない時代だな。
その時代なら、山背入りを意識した幹線であるはずがない。
いや、おまいら…その北陸「道」は道路じゃなく行政単位の「道」
そこを通る幹線道路を同じ言葉で示しているだけ。
150 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 20:20:53
安土に遷都したと思う?
151 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 20:30:39
信長にそれは無理。
信長の戦略について考える時、
北陸道に対する現代人との認識の違いについて考慮しておく必要がある。
当時、北陸道が湖西から京都に直接接続していた点を踏まえて、
・信長入洛前の時代に、長尾景虎が北陸道だけを通り、畿内豪族の干渉をうけることなく、比叡山や京都を訪れた点
・朝倉・浅井連合が比叡山を軍事拠点として立て籠もったことさえある点
・大坂本願寺包囲に当たって、北陸道が兵員・武器・食料の補給ルートに成りかねない点
以上の点から、信長の「北国への過剰とも思える戦力投入」を理解しよう。
>・信長入洛前の時代に、長尾景虎が北陸道だけを通り、
>畿内豪族の干渉をうけることなく、比叡山や京都を訪れた点
ちょっと違うかも。
長尾景虎(上杉謙信)の上洛は、朝倉や六角に誼を通じて
大金をばら撒きながらだったこと。畿内(堺・高野山)をも訪ねている。
一回目は2000、二回目は5000の兵力で、三好も幕府と和議をしていた。
とくに信長が北国へ過剰な戦力投入をしたとは思えんのだが?
謙信との加賀をめぐる攻防は柴田以下50000、甲斐攻めはもっと多かったんじゃね?
>>153 朝倉・六角への工作は上杉にとって十分ペイする。
彼ら自身に越後への商業利権があったため。
朝倉・六角が上洛を妨害するべき理由は最初から存在しなかった。
甲斐攻略軍は常駐型でない。
また、その時点の総戦力との比で考えるべき点もお願いしたい。
そろそろノミくらいの器な男が信長信者を攻撃
>>154 ふーむ・・・。だが、
>信長の「北国への過剰とも思える戦力投入」を理解しよう。
の織田信長研究における積極的な意義は何なのかと・・・。
>>156 無理・無駄ともしか思えない琵琶湖畔への本拠移動の理由について知るための一助。
>>156 室町中期から安土時代まで北陸地方が持っていた特殊性の再確認。
>>157 ふぅーむ、坂本や安土あたりは地政学的に、南北朝騒乱、応仁の乱、
とくに義晴・義輝親子が何度も三好勢から退避した場所として重要なんでは?
単純に上洛の拠点・洛中への影響力、攻められやすい京都よりも堅固な山岳城砦が築ける
とか考えてしまうんだが・・・・。
>無理・無駄ともしか思えない琵琶湖畔
とは、海洋貿易のための海路・港がないという意味ですかね?
>>158 うーん・・・。研究ジャンルとしては地味だが、意義がありそうだ。
みどもも北陸沿海商業の実態については、いろいろ考えてみたいと思っていました。
>>159 南方の観音寺城と違い、安土城は堅固な山岳城塞には相当しない。
安土城の軍事拠点としては価値ゼロ。
>北陸沿海商業の実態については、いろいろ考えてみたいと思っていました。
応仁の乱以降、
室町将軍や浄土真宗関係者などの知識人が北陸に大挙して移住してきていた。
北陸地方が実質的に京都の奥座敷と化していた時代だった。
語弊を恐れず断言すれば、この時期の北陸地方は近畿地方の一部だった。
この2つの地方をおよそ100年ぶりに寸断する事業に乗り出したのが織田信長。
北陸方面なら五箇山の硝石産地とかも争奪戦になったんかなぁ?
鉄砲・火薬の産地でいうと、堺・紀伊根来・近江国友・五箇山という伝承(文献は曖昧)
があるわけだが。黒色火薬=硝石(硝酸カリウム)・硫黄・木炭粉。
北陸地方の当時の世間での評価について理解しておく必要がある。
加賀国(今の石川県北部)を与えられた前田利家が当時、羨望の的であったことなどから、
織豊政権の人々が北国に対して富裕・肥沃の印象を抱いていたことを想像できる。
逆に織豊政権の人々が地元・濃尾平野の力を過小評価していたことも窺える。
現代のような詳細な国勢統計が存在しなかった時代であることを理解しておこう。
それは北陸地方を与えられたからじゃなく、加越能三国百万石が
与えられたからじゃないのか?十分羨望の的になるだけの領地だろ。
しかも能登半島は日本海航路の要所だからそこからの収益もあるし。
164 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 15:24:33
【信長も重視した北陸はどうして天下の中心にならなかったのか?】
に、スレタイを変更汁!
165 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:13:09
で、なぜにして信長が軍事的天才だとのたまう人がいるの?
どのへんが軍事的天才なのかサッパ-リわかりましぇん。
どっちかてーと軍事苦手な人に一票
ノシ
軍事というと範囲が広すぎないか
いわゆる戦下手というのは間違いないだろうが
季節を問わない動員などは見るべき所があるとは思う
168 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:00:19
戦いそのものは強いんじゃ?
ただ天下をとる力はあっても天下を治めるほうは苦手そうだが。
>>165 尾張統一時代には、「那古屋の赤武者」は近隣に武勇が轟いてた。
桶狭間の勝利は幸運だけじゃない。むしろ義元本陣とのガチンコ対決。
義昭擁立後は水ぶくれの大軍なので、子飼いのエリートが各地方軍団に分散してしまった。
>>167 >季節を問わない動員などは見るべき所があるとは思う
え?織田軍兵士に凍死者が出る有様だったのに?
あ、この無様な補給体制も「見るべき所」のひとつですね。失礼しました。
170 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:11:03
尾張近隣に強烈な強い大名なんか存在してなくね?
そもそも、疲弊しきった中枢を、何度も死にそうになりながら
やっとこさ押さえたって印象なんだよね。
戦下手は確定してるとおもわれ.....
171 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:38:54
しかしなんだかんだ言っても尾張一国から京都周辺をぶんどるまでの巨大勢力になったんだから、
そこは評価したいと思うんだが。
なお俺は信長オタではないです、信長に天下取れるはずないって何度もここで書いてるモノで。
172 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:44:07
別に信長をかばうわけではないが、戦下手でどうしてあそこまで勢力をのばせようか?
そもそも戦上手、戦下手って何をもって決めるのだろう?
敗れただけで、とくに何も変わらない局地戦もあり、命運のかかった大いくさもあり
将棋のように局地で押されていても大局で相手を制するみたいのと同様で
いくさ上手とはその大局、戦略のうまさのことだと思うのだが・・・
>>169 そう、だから兵站がどうとまでは言ってないし戦略的に云々という事を言うつもりもない
それでもその動員によって何とかなった事もあるわけで軍事が苦手、という言い方で全てを否定しまうのもどうかと
174 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:47:28
戦国最強は信長だろ?
野望やってみろって、圧倒的能力の家臣団が近隣を短期で呑み込みながら
ふくれあがった軍団で多方面作戦も楽だ。
武田騎馬隊との一戦だって鉄砲という近代兵器で圧勝してる。
今川への奇襲から始まった戦歴を考えれば最強と認識しない奴が変人。
天皇や将軍を利用したとか言うけど、政治力あって出来る事だろ。
街道一の弓取りと言われた家康だって、同盟とはいえほとんど配下だ。
中央であれだけの勢力の三好を破った事なんか考えれば、決して
強敵がいなかったわけじゃない。
浅井家だって強烈に強い大名だし、六角なんか戦術にたけた大名も
破っている。これを最強と言わないで、何が最強だ?
175 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:50:17
家臣の裏切りが多発している時点で最強ではない。
やはり秀吉・家康のように天下人にならなければ強いこといえないのだよ。
秀吉も信長の家臣だったと言うだろうが、
言い換えれば信長は利用されていたってこと。
176 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:55:40
>172
そりゃ、誰も信長の評価が彼のやった事以下に言ってる香具師はいないだろ。
ただ、命運のかかった戦に負けて、普通ならば危うい状態な時が数度となく
あって、その時々に、朝廷や将軍の権威にすがって助けられている。
それと、領土、動員力が上であるのに、猫なで声で強いと思われる領主には
媚びている事などから、軍事下手は信長が一番理解している所だろうと
いう意見になる。
そしてなにより、権威にすがり、強い者に媚びて最後には自分から裏切っていく
やりかたではスレタイの答えとして、あそこまで勢力をのばせたが、あそこ以上は
行く訳がないという事になる。
君の言う通り、あそこまで勢力をのばしたんだから、並大抵の人間ではない
のは当たり前だが、戦国の世で天下をとる程の実力があったか?
ではノーとなる。
信長の場合、比較とか、基準のスケールが他とは違う。
177 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 21:08:52
君らの理屈だとイワン雷帝とかどう説明すんの?
信長がかわいく思えるほどの人格破綻者だけど?
178 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 21:09:56
信長は戦争は強かった 桶狭間の戦いや長篠の戦など見ればわかる
浅井、朝倉との戦いでもトンズラもうまかった
やはり少年時代からの戦争の練習のたまものだろう
だが、残念なことに天下統一後の統治のプログラムを持っていなかった
どうしていいか、わからないというところだろう 所詮尾張の成り上がり
秀吉も同じような悩みがあったが、朝廷と結びつくという戦略を選んだ
それまでは飾り物のような制度だったが持ち上げて権威付けをした
その点、家康は統治のプログラムを持っていた どういうわけか
武田が作った日本統治のプログラムを入手していた
家康はそのプログラムどおりに統治システムを作り上げた
が、外交については甲斐は山国なのでプログラムを作っていなかった
だから、家康はわからないので鎖国にした 内政はほぼプログラムどおりだ
179 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 21:30:34
>176
それは了見の狭い意見だと思うな。
それは信長の策というもんでしょ?
その信長の策に、はまってまんまと騙されていたものたちは
強いものとはいえないな。
そもそも信長が恐れていたつよいものってどれ?
今は戦うべきにあらずと布石を打ったという方が正しいのではないだろうか?
180 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 21:52:51
>>178 君は有名なノミ器量の奴かな?
つーか武田ファンか?君は。
武田が作った日本統治のプログラムなんて始めて聞いたけど
そんなのあるのか??
知ったように答えているが・・・
それと外交。
鎖国といわれるようになったのは家光の時だと記憶しているんだが。。。
信長アンチって
「信長は政略はいいけど軍事は素人」って言うやつと、
「軍事は認めるが政治力はない」
と相反する意見を言ってるやつがいてちょっと面白い。
信長の統治する世には、住みたくない。
晩年の秀吉の統治する世には、もっと住みたくない。
家康の統治する世には、・・・立場による?
183 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 22:49:57
織田嫡流は滅んだ
それだけのハナシ
>>181 いきなり否定的意見の奴をアンチ扱いするのも考え物では?
俺なんかは、いろんなとこで信長評って見るけど疑いなく軍事は天才って
言う人が多くて疑問だったクチ。
俺の中での信長は組織の統率者としてはさほど評価できない。
家中の調停は上手くないし、家臣を使い捨てにする点もあまり高く評価できない。
外交と政略は上手く、戦力を集めて戦場を設定する事にかけては秀でていても
戦争そのものが上手かったとは思っていない。
そういうと尾張平定までの戦術を挙げる人が多いが。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/16(金) 02:41:08
朝倉勢 一揆 上杉勢
波多野 浅井勢
本願寺 将軍 .←信長 武田勢
三好一族 一揆 雜賀 伊賀
囲 ま れ す ぎ 。
>>184 そもそもお前は軍事をどんな風に定義してるんだ?別に定義でなく思ってるでもいいけど
>戦力を集めて戦場を設定する事にかけては秀でていても
これは意味わかるが
>戦争そのものが上手かったとは思っていない。
結論がこれでは矛盾してるぞ、戦力を集めて戦場を設定する事は戦争に含まれるだろう普通
187 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 05:28:45
秀吉が天下をとれたのも家康が天下をとれたのも信長がいたからだ。
信長が天下統一を成し遂げられなかったのは信長以前に信長がいなかったからだ。
188 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 05:31:34
>>1 本能寺の変の真相が分からないことには議論しづらいテーマだと思うな。
189 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 08:38:42
なんで信長は右大臣を返還したんだ?
>>187 マジレスすると、信長が天下統一成し遂げられなかったのは、一向一揆及び大坂本願寺との抗争に手を取られてたため。
流浪の将軍・足利義昭が毛利輝元を盟主として、武田・大坂本願寺らとともに反織田同盟を画策してたが、1980年(天正八年)に大坂本願寺壊滅によって信長の畿内平定は終わった。
これによって信長が事実上の天下人として認めてもいいんじゃね?
>>186 本人が理解して言っているかどうかわからんが、
>>184は
「戦略能力は高かったが、戦術能力は高かったと思ってない」
と言っている。信長の評価としては一般的だと思うが。
>>190 それを政治権力としてはぶっ潰したから、その後の秀吉に繋がる。
だから信長が〜とは言わないが、秀吉の宥和政策が機能したのは
その前に「抵抗勢力」を無慈悲に切りまくった信長がいたから、ってのは事実。
信長が坊主の力弱めたから秀吉も家康も楽だったろう
将軍も追放したしね
194 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 11:58:52
>>193 日本史スレに書き込むなら、もう少し基本を勉強してくれ。
信 長 は 義 昭 を 追 放 し て い な い
義昭が挙兵に失敗し、消沈して信長の元を去ったというのが実態だ。
信長は義昭を慰留しようとしたが義昭は応じなかった。信長が義昭にフラれた格好だ。
「信長は天下政権のグランドデザインを持っていた」と過大評価する池沼インテリが多いが、
実際には義昭が自分の元を去って狼狽していたというのが実態。
その後しばらく、信長は、義昭の実子・足利義尋を新将軍にすべきかどうか迷っていた節がある。
そうやって将軍の首をすげかえる事を
できる立場にあるってことが重要だとおもうんだけど
池沼インテリじゃないからわからんな
>>194 > 義昭が挙兵に失敗し、消沈して信長の元を去ったというのが実態だ。
> 信長は義昭を慰留しようとしたが義昭は応じなかった。信長が義昭にフラれた格好だ。
すっげー恣意的な解釈だな。何の史料が元になっているんだ?
1573年7月18日
織田信長、山城国槙島城を焼き打ちする。
足利義昭、嫡男の義尋を人質として提出して山城国枇杷庄へ退く。
足利義昭は逃亡中に一揆の略奪に遭遇。〔『兼見卿記』一〕
7月20日
吉田兼見、山城国宇治郡五ヶ庄の織田信長を見舞う。吉田兼見、
塙直政へ鮎1折を贈る。吉田兼見、足利義昭が河内国若江城の
三好義継のもとに逃れた旨を知る。〔『兼見卿記』一〕
どう見ても戦い敗れて落ちていっただけの気がするが。
>>195 その理屈だと、三好長慶・松永弾正・三好三人衆と区別がつかないね。
>>196 だらだらとコピペご苦労さん。
失礼だが、信長がフラれていないことを示す情報が書かれてないのだが。
>>197 三好長慶は天下人だとおもうけどな。
だた古い価値観の人だったということで。
弾正と三人衆は…殺すのと権力によってすげかえるのではちがうとおもうぞw
>>199 とりあえず、信長が率先して義昭を追放したことを証明すればいいんじゃないかな。
追放令の発布とか。例えば、義昭に特定地域への立入禁止を命じた書状とか示せばOK。
君ならきっと簡単にできるさ。
>>201 あなたの中では二者択一なの?
別に俺は追放したと言っているわけではなく
「義昭が信長を振った形だ」と言うのに反証を示しただけ。
記録を読む限り義昭がフったのか、口約束だけで戻れば殺されると思い
命からがら逃げ出したのかわからんだろ。
慰留しようとしたのに断って去った将軍が一揆に略奪されるのか?
べつにこのスレに限った話じゃないんだが、どうして日本史スレでは
Aの事象についての真偽についてBの証明をしなければいけないの?
BであればAではないが、Bでないからと言ってAであるとは限らんのに。
204 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 12:47:56
長島ジェノサイドは残忍極まりない。荒木の一族に対するやり方はさらに酷い。
あれじゃあ天下人にしたいなんて誰も思わないよな。
>>202 世間一般の感覚では、
妻が暴力亭主から命からがら逃れたら、妻の側がフッたことになると思うぞ。
状況全然違うだろ。
で、信長が将軍を追放したことを示すソースは見つかったの?
世間で広く「将軍追放」って認識されている(?)みたいだし、
ソースを見つけるのなんて屁みたいなもんでしょ。
208 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 14:58:06
信長が、義昭の「反信長策謀」を打ち破ったので、義昭が逃げ出した。
実質「将軍追放」だし、実質「足利幕府滅亡」だった。
それでいいじゃん。www
そうはいっても、義昭に対して洛中入りを禁止したりしたわけではないんだよねぇ。
> 足利幕府滅亡
これも概念としては歴史用語でしかない気がするな。
211 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 15:19:37
義晴や義輝も何度か洛中を追われてるが
何度も幕府が実質滅亡したことになるん?
もともとあってないような時期しかない幕府だしな
>>180 >武田が作った日本統治のプログラムなんて始めて聞いたけど そんなのあるのか??
「日本統治」かどうかは別にして、「軍鑑」が徳川宗家の軍学書であり政治の聖典
だったことは確かだな。譜代の赤備えや八王子千人同心など、軍政も武田流だし。
義昭は信長を捨てて毛利領の「鞆の御所」に移ったんじゃないのか?
幕府の存在が天下だとすれば、信長が家来にアボンされたとき、毛利の天下だった。
>>211 復活したら「滅亡」では無い気が。言葉遊びだが
>>209 毛利と長宗我部が義昭の「帰洛」に関して交渉している。
それが織田側から「帰ってきてくれ」というお願いをしたのか
毛利側から「なんとか戻らせてあげて」なのかは知らないが
あの頃の記録って、言葉遣いが事実関係を示してないから
よくわからん。
信長が各大名に書いている書状では、義昭が勝手に兵を挙げて
勝手に負けて(w)、勝手に出奔したようにしか読めないんだが。
216 :
大納言:2005/12/16(金) 15:53:23
>>209足利義昭が京を追放された後も征夷大将軍の地位は剥奪されていないので形式上、室町幕府は存在していた事になりますね。
しかし実質的には『都追放』により将軍としての職務遂行能力を失った訳ですから“足利幕府の滅亡”と表現されているのだと思います。
征夷大将軍としての職務遂行能力なら京都に居なくても
できるんじゃね? 鎌倉幕府も武家の統率は出来たわけで。
職務ってなにすんの?
将軍の職務=歌舞音曲、公事(裁判)書類への加判など。
220 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 18:36:19
信長は実力主義、能力主義、実践主義、合理主義、現実主義の男だったから
門地門閥にとらわれず、秀吉のような微せんな者を登用したり
滝川や明智のような流れ者に近いようなものも重用した
拡大拡張のときは抜擢人事も効果を発揮したが、反面新参者は
危険な側面も持ち、裏切り、謀反ということも起こりやすい
裏切りが日常茶飯事の美濃の出身の明智に道半ばにして
寝首をかかれてしまった
あれだけ人を殺すと早かれ、遅かれ明智のような者が出現して
非業の死を遂げることもやむを得ないことだろう
信長本人も覚悟の上のことだろう
が、中世を打ち壊し近世を開いたのは豪傑、信長だった
征夷大将軍の職務は東方・北方への武力行使・支配
幕府とは関係ない
征夷大将軍の職務=頼朝以後は諸国総追捕使(守護職=追捕使の統括)
追捕使とは、受領や荘官の上に立つ検断(警察)で、義経を追討する目的が最初。
幕府はそもそも幕末の言葉。
223 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 20:56:14
確かに新参のよそ者を多用すれば基盤も脆弱になろう。
信長の長所は能力のあるものをどんどん登用したことで光秀や秀吉や家康が世に出たわけだが、
それが弱点にもなるのはしかたないよな。
本能寺の変は起きるべくして起きたのだから天下がとれなかったのは当然だ。
224 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 21:07:40
>中世を打ち壊し近世を開いたのは豪傑、信長だった
信長は戦乱を終わらせるには至っていないから中世のままだな。
秀吉の時代が中世から近世への移行期間。
なんか「中世を終わらせ近世を〜」というのが信長の評価になってるけど、
中世ってそんなに悪いのかって感じだ。
清盛や頼朝を、「古代の政権を打ち壊し中世を開いた」なんて褒める奴、
聞いたことないもん。
信長中世だっていいじゃん。
225 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 21:16:52
戦争の仕方にしても、それまでの農業しながらの在地領主から
城下町に住まわせる専業武士の制度を導入したのも信長だし
商業も楽市楽座方式を導入、活性化を図った
中世の象徴のような比叡山の焼き討ちもやったし、
十分中世を壊したといっていいだろう ただ道半ばで倒れたのが残念
226 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 21:33:40
と、小説と史実の区別がつかないセンセイが熱弁を(r
227 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 22:29:30
と、ゲームの中で武田が強いのを真に受けて武田最強を信じるセンセイが熱弁を(r
>専業武士の制度を導入した
ちがう!
信長が城下に住まわせたのは旗本(もともと専業武士)で
軍役衆(半農武士)はそのまま。正しくは、秀吉の刀狩以降が兵農分離。
>商業も楽市楽座方式を導入、活性化を図った
不明!
上のほうの議論にあるとおり、信長も座は固守した。
税を取った文献がないので、商業の活性化が織田政権の経済基盤とは
考えられない。
>中世の象徴のような比叡山の焼き討ちもやったし
山門や一向衆徒は中世の象徴というよりも、近世の支配構造の末端。
宗教を統制できずに滅ぼそうとした信長は、人心掌握の手段を持たなかった。
その結果が、本能寺で自殺に追い込まれる。
近世をこえて近代を模索していたと言うなら、単なるアナクロ。
229 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 23:49:48
兵農分離は、平時の兵力削減の一環として行われるのであって、
戦時下で行われることなどありえない。
まして、常に戦争していた織田軍が兵農分離をすべき合理性がない。
スレ住人に十分に注意してもらいたいのは、
・信長が兵農分離したと思い込んでいる人
・信長が兵農分離しなかったことを欠点とみなす人
この2点のいずれかに該当する人は池沼インテリだということです。
ルネサンス時代のマキャベリは、兵農分離の逆つまり皆兵制を導入したことで評価されています。
兵農分離は斬新であるどころか、時代に逆行したことになりますね。(プゲラ
まじで池沼インテリは死んでください。
230 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 00:28:38
信長の出陣した日をまとめてみろよ。
他の戦国武将と比べ、どの季節が多いか。
話はそれからだ。
231 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 00:30:45
伊賀を1581までほっといて鳥取まで攻め込むのは戦略の失敗
232 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 00:41:56
信長のやったこと
1楽市楽座 六角定頼が既にやってる 2兵農分離 応仁の乱まで兵農分離だった
3大量の鉄砲 三好と根来はもっと前から 4鉄砲三段打ち 雑賀がやってた
5馬防柵 戦場での陣地構築など川中島でもやってる
6西洋かぶれ 宗麟のほうが古いしもっと凄い 7比叡山焼き討ち 細川政元がやってる
8寺社弾圧 北朝軍も逆らう南朝派の寺を焼いてる
9関所の廃止 関所なんか南北朝のころもぶっ壊されてなかった
10貨幣の流通 幕府がやってた
11正規兵による農繁期攻勢 朝倉は年がら年中出兵しまくってた
12気に入らない者をすぐに殺す 足利義教のほうが酷い
233 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 00:49:59
234 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 02:10:34
>233
信長は貨幣を作ってないよね?
貨幣も作らんで、何で流通を支配できたん?
実力のある戦国大名ならやってることなのに、貨幣鋳造までは真似できんかった?
>>232 6西洋かぶれ 宗麟のほうが古いしもっと凄い
12気に入らない者をすぐに殺す 足利義教のほうが酷い
この二つが個人的に受けた
できればもっと挙げて欲しい
236 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 02:16:54
足利義教は普通に怖いよ。
>>232 >7比叡山焼き討ち 細川政元がやってる
細川政元ではなくて足利義教なのでは・・・。
日本史上で信長に一番近いのは足利義教かも。しかし信長よりも頼朝が日本史上一番冷酷な男だと俺は思うね。
238 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 12:54:41
>>227 俺226なんだけどさ、
信長>(越えられない壁)>信玄
て思っているんですが何か?
239 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 13:08:21
>信長よりも頼朝が日本史上一番冷酷な男
そうだな、冷酷でなければ時代を動かす天下人になれないさ。
信長は冷酷と言うより残酷ってヤツだな。
信長は冷酷でも残酷でもないだろ
異常に道義に五月蝿い潔癖な性格なだけ
厳しく処断したのは裏切り者や人をたぶらかすような輩とか怠けてる部下だけだし
普段は周囲に凄く気遣いしている
「裏切り者」・「怠けてる部下」の定義が身勝手な時点で駄目でしょ。
この状態をまさしく冷酷と呼ぶ。
松永久秀・三好三人衆と妥協した時点で、信長の政権担当者としての中立性・公共性は消滅している。
足利義昭が袂を分かった最大の理由は、信長の身勝手な価値観についていけなくなったからだよ。
243 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 20:43:02
光秀の裏切りを光秀の責任ばかりにしているけど、
部下に背かれ命を落とす時点で主君として失格なんだよ。
秀吉も家康も部下に背かれることはあったが、
しかし殺されるほど馬鹿ではなかった。
奥羽方面では、伊達、南部、津軽、柿崎などの諸大名が信長に臣従を誓ってるね。九州も大友・島津も信長と誼を通じてるし、信長に反抗してるのは、長宗我部、毛利、上杉だけだったんじゃね?
長宗我部は元々同盟関係だぞ
信長の方から切っただけ
死んで極楽思想の相手と戦うとき、捕らえた者達を思想・宗教そのままで放免すると
また同じ事の繰り返しになりそうな気がしない?
宗教脳の相手って国家神道の神風や一億玉砕、イスラム自爆テロみたいに死んで花咲く思想でしょ。
武装宗教団体相手に信長はどうすれば良かったのか誰もわからないよね。
>>246 一向一揆が猛威を振るったのは信長領だけ。これ重要。
家康領では三河統一後、一向一揆が起きていない。
父為景の代に禁教していた上杉領でも一向一揆は起きていない。
同じことの繰り返しになるようなことを仕出かしたのは信長自身。
多くの大名の場合、家臣に真宗門徒がいた。
森蘭丸の母親や秀吉の母親も真宗門徒だったはずだ。
信長による宗教勢力の粛清が「新しい時代」に必要だったというのなら、
「新しい時代」から放置された毛利領や徳川領の立場はどうなるのだろうか。
249 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 21:52:21
250 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 22:17:18
本願寺を敵に回した政治力のなさ。
信長が天下人になれなかった原因だと言うことを認めるんだな。
本願寺を敵に回したこと自体が問題だったわけではないだろう。
かつて佐々木六角氏が法華門徒とともに山科本願寺を攻撃したことだってあったし。
佐々木六角氏は滅んでいないし一揆の脅威にも晒されていない。
能力は素晴らしいとして
信長自身のエネルギーはそれを遥かに上回っていた。
策略のため、自らの意思を変えることができなかった。
253 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:35:21
家来に殺されたバカ殿が、天下の人心を掌握できるはずもなし。
尾張のうつけを崇めてるのって、小泉改革の信奉者ばっかなんだろ?
254 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:37:51
武装した宗教勢力は、どのみち信長の敵、打倒対象
>>247 朝倉義景が手を焼いたのって一向一揆じゃなかったっけ?
信長は他勢力と仲良く共存なんて初めから微塵も考えてなかっただろ
全国を織田領にするまで全て潰し続けたろうな
徳川にしたって武田潰した後に貰った領地なんて…
東を任せるとか言っても明らかに後から徳川を潰す意図が見え見え
あれだけ尽くした同盟者でもそうなんだから
敵対勢力は懐柔より殲滅を選ぶのは当然だ
>>247 一向一揆を宗教的な活動だと思うからそういう理解になる。
単に街にヤクザを残して平穏な生活を維持しようとした警察署と
一掃しようとして前面対決した署の差。どっちが正しいという話ではない。
ただ結果として、日本は「葬式仏教」の国になったわけだが。
>敵対勢力は懐柔より殲滅を選ぶのは当然だ
で、家来に殺されたとw
自業自得だわな。
259 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 06:15:30
>>257 仮定が間違っている。
一向一揆によって既得権益を脅かされた階層(武士・他宗派の宗教者)か否かにより、
一向一揆に対する評価が著しく変化する。
武士の地位を脅かした一向一揆を殲滅し、兵農分離で身分の固定化を図って、
ヨーロッパ列強による植民地主義・帝国主義に、日本を乗り遅れさせてしまった功績は、織豊政権にある。
これは、決して徳川政権固有の責任ではない。
家康は、小牧・長久手戦で領内に総動員令をかけている。
北条氏も小田原攻めに際して、領民を城下に受け入れて総動員体制を取っている。
「職業人による戦争」を開明的と捉える似非インテリが多すぎる。
近代国家の成立と真っ向から矛盾するのに、似非インテリにはそれに気づかない者が多い。
ここで断っておかなければならないのは、本願寺と室町将軍との関係である。
一向一揆が武士階級に脅威を与えるならば、
その頂点にたつ室町将軍が本願寺を信用・利用するのは矛盾ではないか?という疑問である。
回答は簡潔。
地方大名と室町将軍は根本的に立場が違うからある。
将軍のなすべきことは中央集権化の強化であって、反乱の火種となる地方大名を擁護することではない。
幕府は現地への直接支配力を強化するために、大名を介さずに地侍を重用するケースが多かった。
また、この傾向は足利一門の大名にもみられ、現地の地侍を重臣として起用した。
越前織田氏の台頭は、足利一門・斯波氏の現地採用の結果齎されたものである。
織田氏にせよ豊臣氏にせよ、皮肉にも、自家の台頭のきっかけとなった要因を
政治体制から排除する功績を残している。
泥棒行為で立身した者が泥棒取締りで手柄をあげるようなものである。
261 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 10:18:42
>「職業人による戦争」を開明的と捉える似非インテリが多すぎる。
あるあるwwwww
乾かぬ口で幕末の奇兵隊を誉めてたりする。
思い切り「新しい時代」に取り残されたらしい毛利領だな、長州はwwwwww
信長をヨイショする文化人には、曲学阿世の徒が多い希ガス。
何ツーか、自分の頭で考えることをしないっつーか。
こういう連中にとって最も縁遠い存在だろ、信長は。
最も縁遠い連中に祭り上げられる信長も可哀想だな。
>武士の地位を脅かした一向一揆を殲滅し、兵農分離で身分の固定化を図って、
ヨーロッパ列強による植民地主義・帝国主義に、日本を乗り遅れさせてしまった功績は、織豊政権にある
秀吉は明に攻め入ったじゃんw
「一領具足」は未開人のすることだ。
織豊政権の洗練された開明的政策によって、土佐は既得権益破壊の脅威から解放された。
お前ら、織豊政権に感謝しろ。特に高知県民。
265 :
甲斐犬:2005/12/18(日) 11:44:26
農民兵でも農繁期に出兵できるよ。当時の農業は大規模経営だから、領主が、
従業員の一部を率いて、農繁期でも何とか出兵可能。そして、出兵が続くと
兵は農村に生活基盤を失い、城下町に集住しやすくなる。太閤検地による
兵農分離は、先進地では、既成事実の公認に過ぎなかったろう。
>出兵が続くと兵は農村に生活基盤を失い、城下町に集住しやすくなる。
脳内では、生活基盤を変えるほどの凄まじい長期戦を想定しているんだな。
ご苦労なことだ。
267 :
甲斐犬:2005/12/18(日) 11:50:59
戦国時代は、丘陵地や山麓から、平野部への人口移動期だと、検定を合格
した教科書に絵で描いてあった。
平野部に新興農村や新興市場が開け、新興宗教が流行しやすくなる。そこに
蓮如によって新興宗教化された一向宗が入り込む。一方、武士階級も、新興
農村と市場の利権の支配に勤める。
信長が若くして天下統一を、望んだのは、濃尾平野の巨大新興利権を大方、
手中にしてたからだろう。
そして、その障害となるのは、本願寺派浄土真宗。土地制度を巡る戦国時代の
実質決勝戦を、信長は早くから戦ってきた。
268 :
甲斐犬:2005/12/18(日) 11:55:50
266>
読み間違えるなよ。もっともこちらも説明不足なんだが。
もともと、生産効率の高い地域だから、出兵しやすい。でも、生産効率
が高いから、「いなくてもいい人」になりやすい。そゆこと。長期戦
でなくても、わずか数週間でも忙しい時期なら、「いなくてもいい人」
になってしまう。現代の職場でもね。
269 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 11:58:42
楽市楽座について信長支持者の皆さん、わかりやすく解説してください。
心からお願いします。
>>267 なるほど。
その土地制度を巡る戦いを経験できなかった地域、つまり、
中国・四国以西と関東以東の土地制度はずっと遅れたままだったということだね。
土地制度を巡る戦いを経験させてくれた信長に感謝しろよ、お前ら。
272 :
甲斐犬:2005/12/18(日) 12:21:22
いや、そこまで言うつもりはないんです。
戦国大名という新興勢力は、過去の守護大名よりは、新しい土地制度を
志向はしていたと思います。
しかし、一向一揆との戦いは、その先をいっていたということだと思います。
それは、階級闘争という側面もあること(これを過大評価してはいかんと
思いますが。)と、新興農村市場を巡った戦いであることで。
民衆圧力の存在が、織豊政権に「一銭切り」の軍令を徹底させた最大の理由だろう。
武田軍・上杉軍でさえ略奪し放題だった一方、
織豊政権は常に物資調達のときに農村に対価を支払い続けた。
織豊軍の略奪に晒された経験がある地域が、
農村ではなく上京・堺・坂本などの特権保有地域だったというのも皮肉だな。
>>272 一向一揆が階級闘争って…自民党と公明党の争いは階級闘争なのか?
「実利」を餌に人を集めて力を持った勢力と宗教の力で人を集めた勢力。
それらが利権を奪い合い全面対決した。ただそれだけの話だ。
もちろん下っ端のほうは考え方が違うが、上のほうは大差ない。
持っている「タテマエ」が違うだけだ。今だってそうだろ?
>>273 武田、上杉軍には民衆圧力が無かったから略奪し放題だった?
敵地の民衆が頼れる存在が敵大名以外にない場合、
その敵地に攻め入ってほしいままに略奪すれば、
そのまま敵大名に損害と権威失墜をもたらすことができる。
一向一揆が優勢だった土地では、大名は常に民衆心理に配慮した戦いをすすめる細心さが必要だった。
武田・上杉などは、一向一揆のような軍事的独立を保った勢力を抱えておらず、躊躇なく略奪行為が行えた。
物資の現地調達と略奪の区別がついてないやつが居るな。
階級闘争とか言っているから、戦国大名にそれぞれの土地の者が
提供することなんてありえないから略奪したに違いない…ってことなんだろ。
逆に一揆は民衆運動だから土地の者は喜んで提供したと思ってるんじゃね?
信長なんて天下人じゃないよなー
東京人を馬鹿にしすぎ
280 :
甲斐犬:2005/12/19(月) 20:04:55
>「実利」を餌に人を集めて力を持った勢力と宗教の力で人を集めた勢力。
それらが利権を奪い合い全面対決した。
それって階級闘争の否定になってないぞ。そもそも、階級闘争の目的は利権
の奪い合いなんだから。
あくまで、階級闘争の一面があるということだ。
信長も戦国大名だから、国人領主階級の代表、あるいは、武士階級の代表と
言える。
一方、一向一揆には、本願寺の新荘園勢力という側面では、信長より「上」で
あり、地侍・名主層が主力という点では、信長より「下」。
事は単純ではないが、明らかに階級闘争の一面を持つ。
>>280 >それって階級闘争の否定になってないぞ。
昨日、私も
>>274の意見が尻切れトンボであることを指摘しようとしたが、
リファラがどうのこうのでスレに書き込めなかったのでそのまま放置してた。
要するに
>>274は何の意見も述べていない空虚なレス。
>本願寺の新荘園勢力という側面では、信長より「上」
同意。
大名にとっては財政上の損失ともなりうる楽市楽座を敢行した最大の理由は、
当時、神道・仏教勢力が行っていた商業保護政策に対抗するため。
武家と非武家との間で、その存在意義をかけたせめぎあいがあった事実を無視すべきではない。
これは現代の企業間サービス競争に通じるものがある。
身分制度=職業分類が成立しない現代社会では、階級闘争はないだろうけどね。
武田信玄が敵地の民を奴隷として使役したり女郎小屋に売り飛ばしていたことは有名。
上杉謙信が関東出兵するたびに北関東で奴隷市場が開かれていた。
九州の大名が同じ日本人を奴隷としてヨーロッパ人に売っていた。
一方、
左派学者の間で独裁者・極悪人として認識されている豊臣秀吉は、九州の日本人奴隷売買を廃止させた。
>武田信玄が敵地の民を奴隷として使役したり女郎小屋に売り飛ばしていたことは有名。
って、黒川金山のこと? 信頼できる史料はないんだが・・・。
>上杉謙信が関東出兵するたびに北関東で奴隷市場が開かれていた。
って、信頼できる史料は原本の所在が明らかではないんだが・・・。
>豊臣秀吉は、九州の日本人奴隷売買を廃止させた。
って、秀吉傘下の大名たちは、朝鮮では民衆を略奪して売り飛ばしてますが・・・。
>>283 >って、黒川金山のこと? 信頼できる史料はないんだが・・・。
黒川金山?
捕らえられた捕虜は作男として遺族の田畑の農作業に従事させられた。
>って、秀吉傘下の大名たちは、朝鮮では民衆を略奪して売り飛ばしてますが・・・。
朝鮮人を日本人と同列にみなすほどの寛大さが貴方にあるのは素晴らしいことだと思います。
あなたこそ生粋の国際的日本人ですね。おなじことを当時の人々にも説教してあげてください。
>>280 それ階級を「作って」ないか?
本願寺にも大量に武士が参加しているし、下間や七里などは
単なる戦国武将でしかないぞ。それも「地侍」なのか?
あくまで分類なんて学術上の便宜のために存在するもので
分類できるから階級がある、階級があるから階級闘争だなんてのは
主観(仮説)の上に主観(仮説)を載せているだけだ。全くの無意味。
>下間や七里などは単なる戦国武将でしかないぞ。
・・・某ゲームのやりすぎか?
戦国武将や地侍もただの分類でしかない。
下間氏は親鸞時代以来の家老格だよ。
この時代の個々人が、どのような政治体制を望み、
どの勢力に参加したかが重要だ。
新興勢力と保守勢力の争いがあることはいつの時代も不変。
かつて新興勢力だった本願寺や後北条氏が保守勢力へと変化していく流れもまた不変。
自分たちが実力で得た特権を誰にも手渡したくない、
「かつての自分たちと同じ手法で立身しそうな者」を弾圧したいと思うようになるのも不変。
現代でいえば中国共産党がまさにそうだ。
現代に若き日の毛沢東が生きておれば間違いなく弾圧対象となる。
下間一族とかまさに今の公明党みたいな
宗教の上にふんぞりかえった権力亡者だったらしいな。
それで反感くらって"おはぐろ"つけた死体をさらしたとかなんとか
>>286 だから「武士階級の代表」だの「地侍や名主層が主力」だの言ってる
>>280の分類に意味が無いと言ってるんだが…なんで俺のに反論する?
分類わけするときに記号を使うわけにもいくまい。
xやαとでも言えばいいのか?
お前の望むとおり、xやαも意味がない。これで満足か?
ガキか?
>>289 満足も何も、話がずれ過ぎて意味がわからんよw
xとαに分けても別に何の問題も無い。
それが何を示しているかを併記すればね。
問題はそうじゃなく、分類なんて基準の置き方でいくらでも変わるもので
その違いを前提にして構築される理論なんてただの妄想だと言ってるだけだ。
「任侠ヤクザと経済ヤクザは分類可能だから、その争いは階級闘争という
一面を持つ」とか言ってるのと変わらんわけよ。
まあマルキの人達には立場の違う人達の戦いは全て階級闘争だと
言ってる人もいるからな。そういう人達にとっては階級闘争なのかもしれんが。
(それだって何を基準に同じ立場とするかで変わってしまうんだが)
>>291 要するに、「立場・利害の異なる勢力の間に争いが生じることを認めたくない」ということか?
本願寺が天下人になったら下間氏が将軍に就任すると思っている
>>285,291
294 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 17:57:16
>「任侠ヤクザと経済ヤクザは分類可能だから、その争いは階級闘争という
>一面を持つ」とか言ってるのと変わらんわけよ。
特に問題ないと思うぞ。
任侠流儀を貫く勢力と手段を選ばない勢力が争うと思えばいい。
両方の要素を取り入れている勢力が生き残るというのも十分想定内だろう。
>>292 >>293 何でそうなるかな…俺はAという結論に対して懐疑的な反論をしているだけ。
それが何で「要するにBってことか?」になるんだよ。煽りじゃなくマジなの?
>>294 >>291にも書いたけど、そこまで入れて階級闘争と言っていたなら解釈の違い。
ただそこまで広い定義になると「〜の一面もある」じゃなくなっちゃうんだけどね。
296 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:26:53
某ゲームに影響を受けただけの生半可な知識を知ったかぶって
論じている奴多いな。
>>295 >ただそこまで広い定義になると「〜の一面もある」じゃなくなっちゃうんだけどね。
どうして?脳内ルール?
298 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 19:13:39
一向一揆 対 織田信長
階級闘争そのものだ・・・・・マルクス馬鹿
階級闘争ではない・・・・・反共かつ半狂
階級闘争の一面を持つ。・・・・・当たり前田のクラッカー
299 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 19:23:12
285>
下間や七里は、戦国武将だが、戦国大名ではない。
戦国武将というのは、一種の職業みたいなもんだ。戦国の武将でしかない。名の
ある戦国の武士は、ほとんど、戦国武将である。
しかし、戦国大名は、地位であり、階級である。その定義は、戦国武将より
ずっとせまい。
そゆこと。
300 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 19:45:12
285>あくまで分類なんて学術上の便宜のために存在するもので
分類できるから階級がある、階級があるから階級闘争だなんてのは
主観(仮説)の上に主観(仮説)を載せているだけだ。全くの無意味。
それは、間違いではない。しかし、それは、歴史論議ではなくて、哲学論議
だな。
あくまで分類なんて学術上の便宜のために存在するもので
動物を分類できるから馬がある、馬が競うから競馬だなんてのは
主観(仮説)の上に主観(仮説)を載せているだけだ。全くの無意味。
>>299 > しかし、戦国大名は、地位であり、階級である。
そういう定義の上で階級闘争と言ってるのはわかった。
(どこで「大名」とそれ以外を分けるのかって疑問はあるけどね)
>>300 哲学論議じゃないよ。サイエンスの基本中の基本。
> 動物を分類できるから馬がある、馬が競うから競馬だなんてのは
あんまり返しとしては面白くないなぁ…概念変わってるし。
そんな適当な分類で行くと下克上全てが階級闘争ということになりかねんが
304 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 20:49:03
>そんな適当な分類で行くと下克上全てが階級闘争ということになりかねんが
下克上は、すべて、階級闘争の一面が強いよ。「下」が「上」に勝つのだから。
家臣と君主は階級が違う。武士の中にだって、階級があるしな。
階級闘争とは似て非なるものだよ
階級闘争という言葉の意味をもう少し考えたほうがいい
ちなみに、江戸時代に、もっとも身分差別に苦しんでいたのは下級武士。
庶民の場合、実用優先傾向であったため重苦しい差別は少なかった。
テレビ時代劇で武士ばかりが悪役にされていると可哀想に思えることがある。
彼らこそが身分制度の真の被害者なのに、と。
下級武士出身だった福沢諭吉の言葉を
思い起こしていただければ、納得してもらえると思う。
「門閥は親の仇でござる」
明智が毛利を攻めて、秀吉が近畿にいりゃよかったのに。
そうすりゃ死なずに済んだのに。
なぜ、明治維新において、
武士出身者主導で身分制度破壊が行われたのかを理解するには、
同じ武士にも色々な立場の人がいたことを理解しておく必要がある。
309 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 21:20:13
305>
その考え方は、マルキシズムで言うところの最も狭い意味での
「階級闘争」ではないかい?
310 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 21:25:18
いや、共産党宣言では、
「あらゆる歴史は、階級闘争の歴史」
と言っている以上、階級闘争の言葉の意味を拡大解釈する事は間違いでは
ないのではないかな。マルキシズムの立場では。
残念ながら漏れはそういう立場ではないんでな
それぞれの事象を表すのに違う言葉が用いられるのはそれぞれに意味があるからだし
全てを一つの言葉に当てはめるのは言葉と歴史に対する侮辱にしかならんと思ってる
一向一揆 vs 織田信長
このデスマッチの果てに確実に負け組になるのは誰か?
多分、武士だろう。
どっちが勝っても武士が走狗煮らるる状況になっただろう。実際そうなった。
織田に比べてリストラの手ぬるい豊臣・徳川時代さえ失業武士が大量に発生した。
仮に信長が全国を平定したとしても、全国各地の大名に朝鮮・明への出兵命令をしたと思うよ。つまり秀吉は信長路線を推し進めただけとも言える。
信長は本願寺の跡地に城を築く計画もあったそうだし
朝鮮・明への出兵は全国各地の大名の兵力と財力を削ぎ落とすための謀略と俺は思う。
>>313 >朝鮮・明への出兵は全国各地の大名の兵力と財力を削ぎ落とすための謀略
本当にそうなら、邪魔な家康をいの一番に前線に送るだろう。
日本全国の大名が朝鮮出兵に結構乗り気だったのが現実ではないか。
一部例外もあるだろうけど。大東亜戦争がイケイケムードで始まったのと同じ。
315 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 22:02:21
311>
私もマルキストではないし、君をマルキストと断定していたわけでもない。
しかし、マルキシズムにも便利なツールが有り、それを利用するのも、
一興だと思うぞ。
それに、この板で全てを「一つの言葉に当てはめる」奴っていたっけ。
そりゃ、「階級闘争あるのみだ」は間違いだが、「階級闘争の一面が
ある。」は適切だよ。それを否定するのなら、「一向一揆対信長に階級闘争
の一面は無い、あるいは、ほとんど無い、」と論証すべきだろう。
>>315 他人の説を批判はするが自説を言わないところが万年野党議員のアホどもっぽい。
君よりも、むしろ反論者らの方が共産主義者・社会主義者のケがあると思う。
それは便利ではあるがその使い方は安易というんだよ
318 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 22:24:02
>君よりも、むしろ反論者らの方が共産主義者・社会主義者のケがあると思う。
もし、非難擁護として「共産主義者・社会主義者」を使っているのなら、
あまり関心しませんな。
仮に「共産主義は1000年先の理想だ。現代では、築けぬがな。」
と、言われたら否定はできんよ。
319 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 22:25:02
317>
では、どう使えば適切なのかね?教えてくれんかな。
320 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 22:33:35
317>
君って、通俗語「戦国武将」と歴史用語「戦国大名」を区別できなかった285
じゃないよね。
285は、地侍と武士を別物と考えているようだし。
まあ、固定HNを使うべきだな。
かりに唯物史観で戦国時代を語るとして、信長はナポレオンかね?
それともロベス・ピエールかね? はたまたバブーフかね?
堺法華衆や一向衆徒はパリ・コミューンに比定してもよさそうだが。
322 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 22:37:39
321>
誰も唯物史観で、戦国時代など語ってないが。
階級闘争の一面を認める事=唯物史観じゃないしな。
ついでに、唯物論=唯物史観でもないし。
まっ、おもしろそうだから、続けてくれ。
323 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 22:44:35
1000年やそこらで人間が神になれるとは思えない。
純粋な共産主義・社会主義など不可能。
20世紀、国際ルールを守ないケダモノに近い民族性の
ロシア・中国が身の丈に合わない理想を身にまとったのはかなり滑稽だった。
着る服を変えれば心が変わると思い込む愚者も同然だった。
325 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 22:48:39
323>
いや、資本主義だって、中世の人間には、驚天動地だったんだよ。中世には、
1,契約を守る気が無い
2,時間を守る気が無い
3,必死こいて働く気が無い
中世の人間に言わしめれば
「契約と時間を守って、必死に働く奴が大量に現れる時代など1000年先にも
来ない。」
だったんだよ。
326 :
信長厨:2005/12/20(火) 22:53:01
共産だのマルキだの出たら飛ばしてます(^-^)
共産主義は香辛料にすぎない。
香辛料を主要な調味料として使った馬鹿丸出しな連中、
それが、モンゴル帝国人民。
彼らはモンゴルの蹂躙をうけてモラルが崩壊したのであろうか。
彼らは、自らの悪臭を誤魔化すために強い香水を使わなければならなくなった。
同じ人類とは思えないほど民度が低い。
328 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 22:57:43
327>
なんだ、こりゃ。新興宗教か?自分の不幸の根源を「共産主義」に仮託しとらんか?
326氏の言に従おう。信者には何言っても無駄だしな。
329 :
327:2005/12/20(火) 23:02:01
>>328 ・・・おいおい。
「モンゴル帝国人民」ではなく、「モンゴル帝国人民の末裔」と書けばよかった。
そうすれば時系列が飛びまくる電波野郎だと誤解されずにすんだ。
>>324 秀吉がナポレオンなら(何となくそぐわないが)信長はダントンってことで。
ロベス・ピエールが光秀。で、テルミドール反動は筒井順慶と細川藤孝。
その前に、プロシアのフリードリッヒ大王が信玄。オーストリア女帝マリア・テレジア
が謙信(女性説もあることだし)。ロシア王朝が毛利ってことで(スマソ
331 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 23:04:43
329>
いやあ、そう書いてても、
「自分の不幸の根源を「共産主義」に仮託しとらんか? 君が女にもてないのは、
共産主義者の陰謀ではないぞ。」と、書いてしまいそう。
わざわざコテつけてまで話す事はないよ
スレ違いだし
333 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 23:09:23
おもろそうなので、まぜてくれ。
仮に、無理に唯物史観で見れば、「信長対一向一揆」は、16世紀のドイツ農民
戦争じゃないかな。プロテスタント農民 対 絶対王政をめざす諸侯。
まっ、しかし、強引な比定だな。通貨も作らなかった織田信長の近代性を、過大
評価すべきでないしな。絶対王政には遠い。
334 :
327:2005/12/20(火) 23:11:45
>>331 >君が女にもてないのは、共産主義者の陰謀ではない
もちろんだ。
共産主義などという高邁で胡散臭いものは自分に全く縁がない。
下馬評での優位にも関わらず新参者の日本にあいついで
敗北した老大国のロシア・中国のあせりが、
彼らを共産主義という麻薬へといざなってしまったのは確かだ。
エリザベスT世(佐藤賢一風に女信長)がスペイン無敵艦隊(武田騎馬軍団か毛利水軍)
を破った戦術革命に比定するのが、何となく楽しそう。
フランス革命よりも時代的に近いし。
ドイツのユンカーは、確かに畿内武士団なのだが・・・
336 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 23:18:32
334>
ほおーつ、すごい。日本が彼らを共産主義に追いやったのか。その小説の作者は
誰?
ちなみに、史実では、ロシアで人気の無い共産主義の、さらに人気の無いボルシェビキ
が勝ち残ったのは、ドイツの支援と、権力闘争や軍事戦略が、他党派より優れて
いた事が大きい。決して、ロシア人民に選ばれた連中では無い。
憲法草案総会における革命の簒奪者、ロシア社会民主党(ボ)
ウラジミール・イリイチは家康に決まりだな・・・・orz
>通貨も作らなかった織田信長
いや、尾張で流通する通貨を上方の通貨にしようとしてた。
同じく、尾張で使われていた三島暦を朝廷に採用させようとしてた。
いずれも挫折。
339 :
甲斐犬:2005/12/20(火) 23:27:26
>いや、尾張で流通する通貨を上方の通貨にしようとしてた。
えっ、そりゃ初耳だ。尾張の通貨があったとは、驚きだ。
>>338 正しくは選銭令で、尾張の通貨も諸国と同じ永楽通宝
ようするに、中国産の外貨なんだが・・・orz
金貨を鋳造したのは、武田氏(甲斐碁石金)と上杉氏(越座小判)のみ
尾張で京都と異なる通貨が流通していたからといって、
尾張独自の通貨が存在したことには全くならない。
共産主義を信奉する輩は馬鹿ばかりだな。
>尾張で流通する通貨を上方の通貨にしようとしてた。
が、
>尾張の通貨があったとは、驚きだ。
と、批判されて、
>尾張で京都と異なる通貨が流通していたからといって、
>尾張独自の通貨が存在したことには全くならない。
という中間的な立場のカキコで逃れた。
と、書いてみるテスツ・・・スマソ
343 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:17:22
age
344 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:27:46
はいはい共産共産
参謀の策彦周良(沢彦とされてる人物)が死んだあたりから、
信長も何をやっていいかわかんなくなっちゃったんじゃね?
沢彦の没年て、いつ?
信長の「六天魔王」を自称するブラックジョークは、
仏教の素養なしには出てこないブラックジョークだ。
347 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 20:33:50
>沢彦の没年
井沢元彦の没年かと思うた
348 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 20:48:24
沢彦宗思(〜1587)※こいつは偽者
策彦周良(1501〜1579=天正7)
井沢元彦(1954〜)
349 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 20:52:49
策彦周良と沢彦宗恩
この二人は同一人物ではない。
ネットを見ると、信長の心の師として両方の説が流布しているようだが、どっちが本当なの?
策彦(サクゲン)が正しい。心の師どころか、朝廷との交渉や有職故実、暦の知識、
第六天魔王の名乗り、安土築城の様式まで、すべてこの禅僧が指導していたらしい。
上総守を名乗っていた信長に「うつけ者、そんな守護名あらせんがな。
名乗るなら上総介じゃ!」と、たしなめた。
351 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 02:18:12
>>350 サンクス。
策彦て、元は大内家の外交僧で、中国へも行ったことがあるんだよね。
そんな大物坊主が、大内家が滅亡した後だろうけど、
よく、尾張半国をまとめ切れてない織田信秀のうつけ息子の教育係を引き受けたものだなー。
岐阜の命名、天下布武のスローガンの決定にも影響を与えたんだよね。
>>350,351
ソースも貼らずに自作自演かよ。さっさと出てけ。
353 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 12:08:30
じゃ、策彦周良が天下布武の裏の実行者ということで、よろしこ?
信長が天下を取れなかったのも、策彦の逝去によると。
>>352 自分が知らん話題になると「自作自演」かよ?wwwwwwwwww
355 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 19:31:36
第六天魔王は、武田信玄への挑発でそう書かれていたと聞いた。
信長は実にユーモアだ。
天台座主信玄「山門(叡山)を焼き討ちにするとはけしからん」
第六天魔王信長「何が悪い、わしゃ仏敵じゃい」
357 :
おバカさんへ:2005/12/24(土) 07:11:52
358 :
おバカさんへ:2005/12/24(土) 07:17:14
タクゲンとサクゲンを同一人物視していたのは日本城郭史学界の西ヶ谷某。
後に「同一人物視していた研究者もいたが別人」と白々しく訂正しているよ。
359 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 18:06:45
>>357-358のおバカさんへ
とっくに回答レスはあったんだがwwww
沢彦宗思(〜1587)※こいつは偽者
策彦周良(1501〜1579=天正7)
360 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 18:33:27
\(^O^)/ジサクジエーン
361 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 21:48:15
俺もググッてみた。
策彦周良は、当時の臨済宗の高僧で、大内家の遣明史、後に甲斐武田に数年住すなど、幅広い活動をしているが、
おもに京都で最高水準の文化人として活動していたらしい。
沢彦宗恩は、ググッた結果では、信長との関連でしか出てこなかった。
妙心寺系の禅僧で、信秀と親交があり、
信長の名付け親で、政秀寺の開山で、
岐阜の命名、「天下布武」にも、信長の諮問に答えたのは、沢彦であろう。
策彦も、信長と接触はありそうだが、たぶん信長の上洛後の一時的なものだろう。
350は言いすぎだと思う。
なぜなら、遣明史や京都で活動していた策彦は、信長の元服時に、たぶん尾張にいなかったから。
信長の少年期から影響を与え、信頼を得ていたのは沢彦のほうだと思う。
362 :
日本@名無史さん:2005/12/26(月) 03:43:24
>>361 信長の信頼を得ていたのが、沢彦だって??? そりゃ、平手の逸話だろ?
ちっとは原史料に当たってから書き込めよなぁwww
ネットでガセ「史料」をググッても、まったく意味がないぜぇwww
少なくとも、信長公記に関連する編纂ものを読んでから書き込めよ!
ブハハwww
363 :
おバカさんへ:2005/12/26(月) 05:18:38
>>362 >信長の信頼を得ていたのが、沢彦だって??? そりゃ、平手の逸話だろ?
ちっとは原史料に当たってから書き込めよなぁwww
って具体的にどんな逸話のことかな?
>少なくとも、信長公記に関連する編纂ものを読んでから書き込めよ!
ブハハwww
って自分こそ小説家やエセ歴史家のモロ影響受けじゃないの。
実際の平手は家中での権限も大きく、信長にとってはウザイ存在だったから
難癖つけられ自害に追い込まれたんだよ。
牛一がそんなこと正直に書ける訳無いじゃん。
364 :
361:2005/12/26(月) 22:27:59
>>362 > 信長の信頼を得ていたのが、沢彦だって??? そりゃ、平手の逸話だろ?
俺は、「岐阜」や「天下布武」について、信長から諮問を受けて応えたのは、
策彦でなくて、沢彦だろうと書いただけで、平手は関係ないなぁ。
元服時の名付け親であり、平手を弔った政秀寺の開山であるなら、
信長は少年時代から薫陶を受けていたわけで、「心の師」と信頼していても不思議でない。
少なくとも、「岐阜」「天下布武」の文字選びについて相談するくらいには信頼している。
365 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 11:16:11
>彼がどうして秀吉や家康のように天下を取れなかったのか論じましょう
答え:家臣の明智光秀によって命を奪われ49歳の若さで命を果てましたから。
1はオオバカですよ、オオバカ
366 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 11:50:39
1が何を論じ合いたいのか意味がわかってないんだねえ・・・
367 :
日本@名無史さん:2005/12/27(火) 12:02:09
天皇になろうとしたから、歴史が討伐してくれた。
天孫降臨のとき、付き従ったのが2神で一方が中臣
他方が、忌部 蘇我バカが天皇になろうとしたとき
中臣が守った。 忌部出の織田がなろうとしたので
中臣が、明智にのりうつり信長を殺した。
義満も子供を天皇にしようとしたけど、子どもは
皇族ではないが、遺伝子は皇族を持つから、少し
許してやって、義満本人の急死ですませてあげた。
来年は、小泉か吉川に不幸がくるよ。見ててごらん。
このまま女系を進めると、逆臣は討たれちゃうのがわが国史
の歴史ですね。
つか、
> 49歳の若さで命を果てましたから。
この程度の国語力だし。
秀吉や家康は帝から牛車兵仗を許されたのに対し、信長は許されていない。
>>370 信長が有職故実を嫌ったから朝廷が遠慮したのだろう。
年齢も50歳に届かない若年だし。
天正10年の馬揃え(軍事パレード)では、天皇が信長の馬上槍投げの再天覧を希望なされた。
光秀が信長の征夷大将軍就任を阻止させるために奇襲したという説はスッカリ否定されているの?
374 :
オツムの弱い人へ:2005/12/28(水) 21:50:09
>>372 既に信忠に「天下の儀」の継承を表明している以上、信長自身の将軍就任は
ありえないよ。
375 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 01:36:43
376 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 02:16:03
家康は簡単に源氏の系図デッチ上げて幕府開いたわけじゃん
じゃなんで信長はわざわざ平氏を名乗ったのか・・・
そのナゾに対するもっとも有力な答えが「源平政権交代説」らしいね
源氏と平氏が交代に政権を担って行くのがもっとも理想とする考えてさ
実際、源頼朝(源氏)→北条氏(平氏)→足利(源氏)→信長(平氏)→家康(源氏)
で、光秀がなぜ信長を殺したかと言うと、光秀は源氏なんだよね
だから自分こそが信長の次の政権を取るべきだと野心を抱いたわけ
ま、秀吉だけはどうしようもなかったから苦肉の策で藤原氏に連なったわけだけど
377 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:13:56
家康が源氏名のったのって「征夷大将軍」なんか全然頭にない三河時代 だよな?
378 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:25:50
いや、秀吉は最初、平氏を名乗ってる。
そこそこの身分になったら、どんなヤツでも本姓を自称する必要があるわけで、
秀吉の場合は主君信長にならって平氏を称してた。
379 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:29:04
>>371 >天皇が信長の馬上槍投げの再天覧を希望なされた。
現在の天皇ならともかく、歴史上の天皇に敬語を使うのは研究対象に対する客観性が欠け、
学問板にふさわしくない。
380 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:38:59
だったら旧帝大の教師・生徒になるなよ。小夜
>>379 あほか。礼節を守ることと客観性は別だ。
その辺の区別の出来ない輩が「客観性」なんて冗談にしか聞こえん。
>>379 研究対象が天皇本人じゃないからいいんじゃないかな。
以後、スレ住人は可能な限り、信長以外の同時代人全員に敬語をつけて書き込むこと。
源平政権交代説が一番でっち上げかもな
385 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 12:44:07
天皇であれ誰であれ、歴史上の人物に敬語を使うのは党派性や思想が丸出し。
>>383 それは敬意の強制じゃないか?
使うかどうかは個人が主体的に決めれば良いだけの話で、
使ったかどうかは論旨とは無関係だからそれで客観性がどうのと
噛み付くのもおかしい。それだけの話だろ。
>>382 じゃあチミの客観性は無視してもいいのねん
>>386 複数の書き込みを同一人物によるものと思い込んでるんじゃないのか?
くれぐれも自作自演断定とか始めるなよ。
日本史板を敬語強制にしたら、その時代の臨場感がでるかも。
歴史学的な冷静な視点とは一味違う、人間関係のシガラミの当事者気分が味わえるだろう。
391 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:41:28
ぶっちゃけ・・・敬語使おうが使うまいがどうでもいい話
392 :
オツムの弱い人へ:2005/12/29(木) 18:16:51
>>375 >お前の発想の狭さがありえないな。
君の知識の薄さが笑えるな。
393 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 03:23:18
じゃ、本題に戻ろうか。
394 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 04:48:48
>>392 自分の薄識が正しいとしか考えられない君の頭に感服するよ。
腹がいて。
>>372 関白か太政大臣か征夷大将軍のどれに就任するか信長は迷っていたらしい。
光秀が「征夷大将軍を選んだら・・・」と過剰に心配して奇襲したという記述も見たことあるけど。
なんだよ単に迷ってただけなのか
織田幕府設立だったら仏教は確実にキリスト教に滅ぼされていたな。
信長はキリスト教を保護したが信仰の対象ではなかった。
信長が死なずに子息らに全権委譲された場合、
実子・三七信孝や、一門格の幕僚に抜擢されるであろう娘婿の前田利長や蒲生氏郷によって、
仏教が排撃された可能性はかなり高いと思う。いわゆるマジ弾圧。
そしたらイスパニア人やポルトガル人は日本人を奴隷として売りまくって儲かり放題になり日本は確実に滅びていたじゃないか。
信長は死んでよかったのか。
400 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 14:36:00
400
401 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:47:47
信長の一番の功績は、宗教勢力を封じ込んだこと。
これにより17世紀以降、各国が悩むことになる
宗教による国内抗争を経験しなくてすむことになる。
402 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 16:33:42
信長も単に好奇心と知識欲と交易に伴う物欲でキリスト教を支持しただけ。
信者が増え、彼等が神を信長や領主の上に置くことを示す事件が何件か
起きれば、たちまち弾圧にまわっただろう。
多分、信長が九州平定したとしても、その先でキリシタン大名の寄進地が植民地になり、そこから日本人が奴隷となってる事実を知ることになるだろう。ルイス・フロイスもおそらく法王のスパイとして殺されるだろうな
そしてキリスト教弾圧という道を採択するはず。だから俺は秀吉がキリスト教を徹底的に弾圧した気持ちがわからなくもない。高山右近は秀吉から棄教するように命ぜられたけど、それを拒否したために国外に追放になったが。
>>403 宣教師らが殺害される可能性は低い。
イタリア人のバリアーノ神父は、日本布教にあたって伝統に対して寛大な姿勢をとる方針を決めていた。
むしろ暴走したのは外国人宣教師ではなく日本人信者ら。
あるいはそれが宣教師らの意図だったかもしれない。
高山右近ら有力者が領内で熱心な寺社破壊を行ったことが秀吉の逆鱗に触れた。
あまり関連の無い話だが、当時イエスズ会が作ったセナミリヨって武家など身分の高い家の子弟しか入学させなかったらしいな。
この時点でイエス様の教えを破っていると思わないか?
信長晩年の村井や菅屋などの官僚組?はどのくらい権力があったのだろうか?
彼らは、独裁色の強い信長政権の下ではただの事務家にすぎなかったのだろうか?
407 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 04:12:48
>>405 ルイス・フロイスが本国宛の書簡などで布教対象とする階層を変更すべきことを反省点として挙げている。
当初、イエズス会は社会的地位の低い階層を対象に布教活動をしていた。
これらの布教の成果が、地域の有力者の圧力によってたやすく翻弄されてしまう現実を味わったため、
キリスト教の保護者が必要であるという結論に達した。
セミナリオはのちに保護者となってくれるエリートの育成を目的としていた。
フロイスの「日本史」では、当時の市井の女性の堕胎処置について述べている。
(赤子の首を足で踏みつけて窒息死させ、死体を犬に食べさせる。)
これは、生活の荒んだ庶民をも布教対象としていなければ目撃することのできない類の話だ。
408 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 09:37:55
>406
少なくとも、村井は所司代として、結構自身の判断で処理していたらしいよ。単なる事務屋では無かったようだ。
特に三職推任については、村井が公家等との日常接触の雑談の中で「そろそろ上様にも官職を・・・」みたい感じで話をしたら、朝廷側が重大視して、三職推任と言う流れ、って言う説も出てる。
信長があっさり断ってることを考えると、信長の意向ってのは、あまりなさそう。
右大臣を辞任した時の辞状の中に、自分への官位より、嫡男・信忠を取り立ててくれるように望んでるし。
信長としては、家康のように無官の「大御所」的な存在で、信忠を表に立て、彼を後見し育てながら、自由な立場で実質的な統治を行いたかったのかも。
自由裁量は幅広く認めても、信長の基本政策に反することまでは
認められないんじゃない?
その三職推任とやらの件も、村井の背後に信長の意志が働いている
ことを朝廷側がしたうえでの行動と考える方が納得いくなぁ
裏で村井に猟官工作、表では辞退・・・たまにこれやる奴いるし
無私無欲・謙虚さの演出、あるいはより高い官位獲得が狙いだろうか・・・
まぁだからこそ朝廷側には村井やら明智らと付き合うことで信長の
意志やら望みやらを知るメリットがあるって言えるじゃない?
>>408,409
だらだらと中身のない感想文を書かないでくれ。
411 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 13:49:03
信長って側室いっぱいいるし子供も山ほどいるけどエロ親父のイメージないね
412 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 13:53:38
>409
>>信長の基本政策に反することまでは 認められないんじゃない?
そりゃ、基本的な部分だよ。それを踏まえた上で、って事です。
三職推任について、少なくとも朝廷側は村井とのやりとりから、信長がいずれかの官職を望んでる、と受け取ったのは間違いないね。
ただ、これは村井の「勇み足」と言う説も最近出ている模様。
この時期は武田氏滅亡直後で、信忠に対して「天下の儀」も譲ると言ってる。
やっぱり、自分はともかく、信忠を顕職に、って意向だったんじゃないかな。
>410
じゃ、中身のある文とやらを書いて頂きたいですね。
さぞ、内容の濃い文章でしょうね。
>>411 秀吉なんて側室は余裕で三桁だったが、それでも種無しオヤジだったぞ
お茶の方が出産した2人の子供については秀吉の子ではないという説もあるし
414 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 14:04:06
>じゃ、中身のある文とやらを書いて頂きたいですね。
>さぞ、内容の濃い文章でしょうね。
傍観者だが、そのレスは見当違いだぞ。キミの文の中身の有無は知らないが、
歴史における論文を書く以上は根拠を提示して書かないといかん。
掲示板に論文って書くもんなんすか?
であるか。
417 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 22:12:17
論文書く場所じゃ無いだろ、ここは。
>>414こそ見当違い。
ソース提示なしに己の予測・願望・感想だけをだらだらと長文で書く奴はマジで氏ね。
新年早々ではあるが遠慮なく氏ね。許す。
419 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 22:50:38
折角、学問系の板なんだから質の高い話をしたいとは思うね。
長文っつーほどのものでもないやん
421 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 23:02:30
自分でも語れば良いと思うが。文句垂れるくらいなら。
422 :
408:2006/01/01(日) 23:25:52
ええと、三職推任について、立花京子氏が「信長への三職推任について」と言う論文の中で、三職推任は村井が持ち出したもの、その背後には信長の意思がある、との説を出したのに対して、
堀新氏が「織田信長と三職推任」と言う論文で、村井が関与したが、信長の意思では無いだろう、と言う反論を出しました。
私は堀氏の考察の方に同意出来ると思い、その論文を元に書き込みをしたわけです。
ソースとしてはこんなもんです。
少々荒らしてしまったことをお詫びします。
423 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 23:38:41
>4 猿も結構酷いよ。宇都宮(本家、伊予、城井)の潰しかたとか、無能な椰子(木村、戸田等)を封じて、良民を苦しめたりとか…
どうせ滅びるなら、織田に政権を還せばよかたのにな。
424 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 08:20:55
最新の説としては、桐野作人氏(堀氏シンパ)が「三職推任」は誠仁親王が言い出したもの
との見解を示されています。
武田攻めの後、信長と面会した勧修寺晴豊は、「信忠に天下の儀の移譲」との信長の意向を
誤解し?親王に信長への「三職推任」を進言したというのが真相じゃないかな。
あるいは息子の前に先ずは父親をってことだったのかも知れない。
425 :
sage:2006/01/02(月) 08:43:06
親父を飛び越して息子にっていうんじゃ親王も「明日は我が身」だからね。
426 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 22:38:43
馬鹿だなぁ。信長は自ら悪役を買って出たんじゃないか。憎まれ役を
演じることで
427 :
名無し@:2006/01/02(月) 22:43:46
なぜ天下を・・・・?
信長はすでに天下を取ってたとおもうが。
なんのための憎まれ役?
429 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 00:30:14
>427
信長自身は「天下統一までは」ってんで右大臣を辞任してるが。
天下統一フラッグはどのような条件で立つんだ?
431 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 00:33:34
信長は天皇を廃止し、日本の新生皇帝(・・の様な者)たらんとした
安土に自分の像を作り拝ませたようだ
皇室と明智の作戦で死んだと、おれも思う。
432 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 00:57:44
>431
>>安土に自分の像を作り拝ませたようだ
これ、信長を生神様として崇めさせ、自分の化身として石かなにかを拝ませた、って話だと思う。
でも、フロイスの記述のみなんだよね。
そのフロイスも、この事について記述したのは信長が死んでから半年近く後で、信長がこれを行ったとされる時期は九州に行ってて実見してない。
当事京洛におった公家等の記録にも出てないし、本能寺で不慮の死を遂げた信長に対して、キリスト教的な死の理由を捏造したんじゃないかな。
つまり、自分を神格化なんて馬鹿げた事するから、謀殺されるんだ、と。
433 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 01:01:28
>>432 そうなんですか
浅い本からの知識でした。すいません
434 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 01:03:37
>>432 人々に、5月の自分の誕生日に安土に参詣に来るように命じたもの捏造かね?
国中に発令したのであれば何らかの史料が残っていそうだが。
大河ドラマなどで「蛇石(へびいし)」と呼ばれるのは、
番組制作者による歴史考証を無視した根拠のない演出なのか?
ちなみに、フロイス「日本史」には神体の代替として”ボンサン”とのみ記述されており、
蛇石という記述は一切ない。
436 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 03:27:18
自分にとって都合のいい事は、採用して
都合の悪い事は捏造だとして、否定する。
まるでどこかの国の人みたいだな。。。
>>435 >ちなみに、フロイス「日本史」には神体の代替として”ボンサン”とのみ記述されており、
蛇石という記述は一切ない。
「蛇石」という呼称こそ記されていないが巨石のことは記されているよ。
いい加減なことは言わないでね。
438 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 11:22:32
>435
その誕生日に参詣するように命じたとする部分もフロイスしか記述してないようです。
吉田兼見などの日記にも一言も載って無いです。
また、信長公記の天正10年5月頃のイベント的なものは徳川・穴山両者の御礼に対する饗応程度しか記述されてません。
もし、国中に参詣を命じたとするなら、これほど大きな事件を記述しないのも変だと思います。
でも”ボンサン”を贈ったのは吉田兼見。
440 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:02:15
>439
誕生日の参詣については全く言及してないでしょ。
吉田兼見が「ボンサン」を贈る=自己神格化の祭典って訳じゃないよね。
441 :
439:2006/01/03(火) 19:26:03
>>440 >吉田兼見が「ボンサン」を贈る=自己神格化の祭典って訳じゃないよね。
でも 「ボンサン」は誕生日の贈り物だよ。
442 :
435:2006/01/03(火) 23:30:05
>>437 >「蛇石」という呼称こそ記されていないが巨石のことは記されているよ。
>いい加減なことは言わないでね。
君の主観によると、私はいい加減なことを書いたようだな。
フロイスは石の大きさには一言も触れていないと私は認識している。
いい加減なことばかり書く愚かな私(
>>435)にも判りやすいように、
君が巨石と断定するにいたった史料を提示して欲しい。
「一種の安置所、ないし窓のない仏龕(ぶつがん)を作り、
そこに石を収納するように命じた。」と、フロイス「日本史」にある。
また、信長に盆山を贈呈した人物については「ある人物」としか書かれておらず、
フロイス「日本史」には吉田兼見の名前は出てこない。
443 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 23:31:10
>441
だから、吉田が誕生日に贈り物を贈ったとしても、それが=神格化云々ではないだろう、って事。
信長の化身として、その石を拝めや、と言う命令は記録されて無いでしょ。
天主指図によると、神体となる盆山は、
安土城天主の地上1階の南の座敷「盆山の間」の上段書院に安置されていた。
宝塔は中央吹き抜けの地下一階から地上1階に抜ける形で東向きに設置されていた。
總見寺は安土天主の尾根伝い・南西方向の位置にあった。
130mに及ぶ大手道の石階段から安土山の山頂を望むと、
右に天主、左に總見寺を仰ぎ見る位置関係となる。
神体霊石を一般公開する際に、
總見寺に盆山が移設されることがあったと考えるべきかもしれない。
フロイスが各地から偶像を安土に集めさせたと書き残しているが、
実際、安土は宗教施設の集積地の様相を呈していた。
總見寺の六間四面の仏殿は甲賀から移設されたものだった。
この仏殿は「円通閣」と呼ばれ十一面観音を本尊とし、信長願の弁財天が祀られていた。
三間四面の三重塔も同じく甲賀から移設されたもので、
安阿弥の作成した大日如来を本尊とし、脇侍に不動・毘沙門を配置した。
また、鎮守に熱田神宮を勧請している。
445 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 02:27:40
シコシコシコシコシコシコシコシコシコシコ延永シコシコシコシコシコシコシコシコシコシコ信長
446 :
これは愚問だ:2006/01/04(水) 02:32:51
どうして前右府が天下を取れなかったか、だって?
日向に殺されたからだよ。
生きていれば天下統一は間違いなかった。
もう一つ。
城介が逃げていれば織田家による天下統一はかなっていた。
なんで城介は死んだんだ。有楽も玄以も三法師も助かったのに。
たぶん長門のせいだ。どうせ長門が
「この寺では日向の軍勢、迎え撃つことできませぬ。二条の御所にお移り下さい」
とか言ったんだ。織田家を没落させたのは日向でも筑前でも、まして中将と三七の確執でもない。
長門だ!!!
長門は「信長の野望」でも毎回戦闘力が低い。城介、なんで長門の忠告なんか聞いた?
織田家の家督は城介がとうの昔に継いでるんだから。自分で決めろっ!
え?自分で決めたって?
城介、なんて決断したんだ(落胆)武田攻めは本当にあんた指揮を執ったのか?
ちゃんと考えれば分かるはずだ。生きていれば、武将は、大名は、生きている限り、必ず復権できる、と。
だから甲斐攻めの時、さんざん四郎を追いかけ回したんだろう。首を討ち取るために。
四郎を見習って逃げたら良かったんだ。鴨川、伏見、宇治川に沿って逃げれば目の前が近江だったのに。
447 :
世界@名無史さん:2006/01/04(水) 03:55:11
>生きていれば天下統一は間違いなかった。
ソースを提示してくれ。
448 :
439:2006/01/04(水) 09:27:44
>>442 >君の主観によると、私はいい加減なことを書いたようだな。
フロイスは石の大きさには一言も触れていないと私は認識している。
いい加減なことばかり書く愚かな私(
>>435)にも判りやすいように、
君が巨石と断定するにいたった史料を提示して欲しい。
君は本当に『フロイス・日本史』を読んでいるのかな?
今はちょっと手元に出せないのでどの章かは明示できないが、築城時の様子を記した部分に
『信長公記』のそれ(石曳き)と類似した記述がなされているんだけどな〜〜〜。
>また、信長に盆山を贈呈した人物については「ある人物」としか書かれておらず、
つまり「贈り物」であるとの認識はあったわけだよね。
確か『フロイス・日本史』にはその全体を見ても吉田兼見の名は見受けられないと思うが何故
だろうね。
それに対し褒美を貰ったことを兼見は日記にちゃんと記しているよ。
信長の誕生日とみられる五月十二日前後の記事を探ってごらん。
>>443 >だから、吉田が誕生日に贈り物を贈ったとしても、それが=神格化云々ではないだろう、って事。
>信長の化身として、その石を拝めや、と言う命令は記録されて無いでしょ。
フロイスは御神体の「盆石」が誕生日の贈り物であることから聖誕祭のようなものを創作したの
かも知れないね、信長批判の一環として。
盆山って「坊さん」が語源?
>>404 亀レスだが
つ「日本二十六聖人」
このうち日本人は20人だったそうです
平幹二郎の易占いを無視したから
452 :
近代地:2006/01/05(木) 04:39:08
「人間50年」と言って49歳で死んだ信長は10代の時に「30曲作る」と言って29曲作って死んだ尾崎豊のようだ。
453 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 04:55:56
てゆーか信長なんて実際にいたのか?架空の人物ちゃうの
400年前のことなんか信じるなよ
454 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 10:46:28
↑こういう馬鹿ってよくいるんだよね。
455 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 10:58:56
456 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 11:02:36
人間50年と言ったのは平敦盛だろ
ココワラウトコロ?
458 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 13:19:58
幸若舞「敦盛」の一節
しかも敦盛は16で死んでいる
>>452 それも数え年だから今で言うと48歳だけどな
460 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 00:14:56
461 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 01:42:01
黒人が手術される事になって、手術台に上った
ふと医者が彼の下半身を見ると、
彼の男の印は巨大で、ズボンの右足の部分の膝の辺りまで膨らんでいた
あまりの大きさに失笑すると、黒人は顔を赤らめてこういった
「笑うがいいさ!お前さんだって手術台の上に上れば
恐怖のあまりこうやって縮み上がるってものさ!」
新人物往来社から「歴史を歩く・織田信長」が出てた。
あいかわらず、典拠史料なしのビジネス系作家たちの
法螺記事・出まかせ・のぶなが崇拝本なんで、買わなかったよ。
463 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 20:48:30
実際のところ、嫡男信忠の器ってどんなもんだったの?
わかるわけにゃあーが
いわゆる時代小説はフィクションなんだから別に法螺も出まかせも良いんだが
その視点のまま歴史を語るのをやめて欲しい
467 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:16:14
信忠の器か・・・小山田信茂を
「主君を裏切ったような奴はいらん」と言って殺したのは痛いかな。
信長は義景を殺した景鏡を本領安堵してあげてるし。
ひょっとして、武田殲滅戦の総大将だった信忠が加増されてないのは
そのためかも。
本能寺の変の時、余裕で逃げられたはずなのに逃げずに戦ったのも痛かった。
あの場面、普通の武将なら逃げている。
468 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:41:34
後30年も生きていたら、関白あたりになり天下をとっていたかもしれん。
実際は部下の謀反の可能性を夢想だにできず、死に様まで足利義教に似た、
器量で言えば秀吉より劣る人物だったわけだ。
469 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:43:51
総大将ならなんで加増されなきゃならないのかな?上げる方だろう。
野戦ならいざ知らず、普通の武将なら居所を攻められれば応戦するだろう。
470 :
238の白寿丸:2006/01/08(日) 16:50:40
>>463 凡将説が多いな。だけど、信長は信雄や信考などより特別扱いして美濃・尾張を与えたらしい。
471 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 23:32:08
>467
>>469が言ってるが、天正中期頃から、ほとんど信長に替わって指揮してるし、武田戦後、信忠の与力だった河尻や森武蔵等が信濃・甲斐に封じられてるから、信忠の管轄地域は美濃・尾張に信濃・甲斐も増えてると思うが。
つうか、すでに上記の通り、信長の替わりを勤めているし、武田攻めが順調に推移した事を賞されて「天下の儀も、その方に与える」とまで言われてる。
すでに所領の増加とか言う立場では無かったんでないの?
>470
嫡男だから、当然養子に出した次男以下とは扱いが違う。
と言うか、織田家の家督相続に伴って、美濃・尾張を与えられたんだけど。
天下の儀云々は何とも言えん
舘ひろしの信長が許せん。
あのキャスティングはなんだ?
474 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 09:22:46
>>472 >天下の儀云々は何とも言えん
「天下の儀」とは要するに「朝廷のこと」。
天正6年の両官辞任のおりの「顕職の与奪」を実現させるということだろうね。
つまり信長としては息子に対する「三職推任」を望んでいたのさ。
舘ひろしはすごいな。うん。
一話限りならいいんだが、信長だから究極だな。
サングラスをかけてもおかしくないし、そっちのほうがまだ見てられそうでw
サングラスは戦闘機のパイロットから
477 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 20:09:32
>474
織田家の家督から天下人の後継者って事かね。
478 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 20:13:52
信忠は信長の後を継いで何ができただろう。
479 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 20:20:28
まぁ、大御所家康の下での将軍秀忠ってところだろうね。
480 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:30:36
信忠と秀忠の武功を比較してみ。
段違いだろう。
てゆうか、秀忠には武功なんて、ひとつもなかったわな
481 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:44:13
秀忠は何も考える事を許されないかのような一生。
482 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 13:31:27
>>474 「天下の儀」の「天下」は、「天下布武」の「天下」。
つまり、「日本」のこと。
「天下の儀は信忠に譲る」は、武力制覇後の日本の政権は信忠に譲るという意味。
483 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 17:59:29
>>482 >「天下の儀」の「天下」は、「天下布武」の「天下」。
> つまり、「日本」のこと。
小説萌え〜〜〜
天下=天子様の下=京都の政治のこと。
公儀=将軍府のこと。
485 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 19:40:23
「天下人」「天下様」は、朝廷に仕える第一人者(殿上人のトップ)、という解釈もあるよ
486 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:03:32
普通に読めば、信長の後継者としてと言う意味だろな。
487 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:31:02
>484>485
一般的な用法では「天下の・・・」は天子様(帝)の下(足下)で、
「日の本の国・・・」だが、狭義に「朝廷に仕える政治・臣下」が正しいとおもわれ。
488 :
K:2006/01/12(木) 23:30:16
信長って何代目魔王なんですかぁ?
489 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 01:22:59
凡人が天才を計るのは無理
>>487 天下(てんか)=あめがした、、、すなわち、天の下に生きる人間と社会をさす言葉だろう。
天皇も、朝廷も、信長も、その他の民衆と同様、天(アメ)が下の存在。
>>490 室町当時に「天」という概念は、天皇以外にありえない。
天・地・人とは、帝(地を司る)・地(大地=農地)・人(民草)
したがって、天下は天皇の下部であり、具体的には朝廷政務のこと。
>天皇も、朝廷も、信長も、その他の民衆と同様、天(アメ)が下の存在。
これは鎌倉以降の禅宗の思想だが、理想化された信仰の理念で、
人類が具現化するのはフランス革命以後。日本においては明治中期〜戦後の思想。
現代人の発想で「天下」を捉えると、戦国時代を読み誤るよ。
492 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 15:00:49
>>491 天高く馬肥ゆる秋
天上天下唯我独尊
お天道様
運は天にあり
天の与うるところ
にわかに天が曇り
鷹が天空に舞い上がる
槍を天に突き上げる
武勇天下第一
人間五十年、下天のうちをくらぶれば
安土城天守閣
天が下しる五月かな
どの「天」を見ても、天=天皇、とは解釈できないな。
室町末期の当時においても、>491 のように考えていたのは、ごくごく一部の者だけだろう。
そんなに尊崇を集めていたのなら、天皇の一声で戦乱は終了したはず。
実際は、塀を修理する金もなく、惨めな生活だったんだよねぇ。
大部分の大名〜民衆にとっては、「てんのう?Who?」て感じだっただろうね。
それと、
>天皇も、朝廷も、信長も、その他の民衆と同様、天(アメ)が下の存在
これを、フランス革命以後の平等思想と同一視しているのも、テラワロス。
天が下にも身分の上下はあるので、
実力を持つものが天下を取り、責任を持って仕置きするというのが、信長の思想。
493 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 17:05:06
妄想で「天下」を騙らんでくれよ。
「天下」の定義については信長が義昭に突きつけた条々から解るだろうに。
494 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 19:28:21
>492
じゃ、何で天子様になるん??
天子様に仕えるから「天下の儀」じゃないん??
エンゼル
神の使徒
496 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 08:20:31
>>494 天孫(天子様)だから、天は皇祖皇霊
天下のことは臣下
497 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:15:50
>>493 >>496 そっちこそ、妄想で語らんでくれよ。
そうゆう、皇国史観が国民一般に浸透したのは、明治〜昭和の初期くらいまで。
室町末期の頃は、文字を読める者の一部が記紀を読んだくらいだろう。
それと、
信長公記現代訳〜異見十七ヶ条
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho9.html どこに「天下」の定義があるのやら。
義昭への事細かなイチャモン付けをしているだけが(w
第15条で、(余計な人事を行って)「天下の非難を受ける」と指摘しているくらいのもの。
不必要な代官職を設置したり、非分な裁判を起こすことは(民衆にとって迷惑なことなので)、
「天下の非難を受ける」といっている。
>天下=天子様の下=京都の政治のこと。
>天下は天皇の下部であり、具体的には朝廷政務のこと。
と、解釈すると、ずいぶんとおかしなことになるだろうね。
大体、京都の政治、朝廷政務が「天下」だとしたら、その他の地域は天下布武の対象外なのか?
京都だけを守れば、天下統一したことになるのか?
妄想を捨て、もっと勉強しる。
498 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:54:43
>497
ちょと、違うぞなも
天下布武---京都の政治(朝廷)を武をもって供奉する
天下統一---現代人が勝手に名付けた概念。豊臣政権・徳川政権の別称
499 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 02:36:23
>>498 おまいの視野には、京都と朝廷しかないのか(ww
東北も、関東、九州も戦乱の中にあったんだぞ。
信長の視野は、単に京都・朝廷だけではない。日本全体を見ている。
「天下布武」は、
日本全体の戦乱を、武をもって平定するぞ、というスローガン。
日本全体の戦乱を鎮めるまでは戦い続けるのだという決意の表明でもある。
500 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 06:54:02
>>499 小説萌え〜〜〜
ちゃんと史事実を見ようね。
501 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 07:15:04
東北関東九州は従えばそれでいい、従わなければ潰す、
ぐらいの価値だろう。
502 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 07:28:51
信長の場合、京都に対しても似たようなものだろう。
使えるうちは利用して用がなくなったら潰す。
503 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 07:42:18
たかだか美濃、尾張の二国を領したくらいで全国制覇なんて表明したら
周囲の笑いものだし、本気だと知れれば袋叩きに遭っただろうね。
>>503 >周囲の笑いものだし
だからこそ、「身の終わり」と笑われたわけだが。
505 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 08:43:42
>>504 >だからこそ、「身の終わり」と笑われたわけだが。
また小説ネタでつか。
506 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 10:07:53
尾張の半国大名に潰された守護大名達萌え
507 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 12:34:52
家来に殺されたバカ殿萌え
510 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 14:49:30
>>503 本気だったわけだが(ww
実際に、ほぼ達成している。
「信長の野望の主人公」という視点で見てるから、なぜ信長が天下を取れなかったか悩むことになる。
512 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 15:59:35
>>510 >本気だったわけだが(ww
>実際に、ほぼ達成している。
結果だけでものを見るお気楽極楽サン。
信長がアボンした後、織田の領国支配がまたたくまに
崩壊したのが問題。軍団も崩壊してるし。
これで天下を取ってたとは言えんだろ。
後継者から内務官僚まで一度に消滅しては当然かと思われ。
515 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 07:41:25
516 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 08:05:27
慢心だろうね。
>>497 > 室町末期の頃は、文字を読める者の一部が記紀を読んだくらいだろう。
ここで話題になっているのは国民一般の概念としての「天下」なのか?
そのまさに「一部の者」の概念の話じゃないのか?
518 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:12:01
天とか天下とかお天道さまとか、言葉にはいろいろな用法があるから注意してね。
「天」というのは中国の文献に基づく語だが、中世から近世の日本でも「天」「天下」は
「日本」(境界線は曖昧だけど)を示す地理的な概念でもあるし、日本の支配体制を示す
政治的な概念でもあるし、そこに住む民衆を示す社会的な概念でもある。
この時代には天・天下の語は通俗的なレベルで支配層から民衆まで広く使っていたらしく、
多くの文献に頻出するから、あんまりこだわって狭義の定義を論じても意味ないよw
あと、一般の庶民が体系的かつ通史的な「日本の歴史」を勉強する機会は
明治までほとんどない。それまでは儒学者等が歴史の勉強をしていたに
すぎないが、儒学者の間では「皇国史観」の源流にあたる議論はあるけどね
(崎門学派とか水戸学派とか)。
>>518 情報化された現代ですら、立場によって言葉の概念が異なる場合も
珍しくないのだから、明らかに違うことを示す事例はともかく、それ以外は
個々のケースで判断しないとどういう概念かはわからないと思うのだが。
少なくとも今続いている議論は、信長が信忠に渡そうとした「天下」とは
何を示す概念だったかという非常に狭義の「天下」の話でしょ。
520 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:31:06
>>519 >少なくとも今続いている議論は、信長が信忠に渡そうとした「天下」とは
何を示す概念だったかという非常に狭義の「天下」の話でしょ。
武田攻めで勅使と応対したのは信忠だし、家康に同行して上洛したときにも
朝廷との間で頻繁にやり取りがみられるから、今後「朝廷」の扱いは任せる
ってことでしょう。
糞番組や三文小説で歴史を学んだつもりでいるような幼稚な輩には容認し難い
って言うか理解できないだろうけどね。
521 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:58:12
>国民一般の概念としての「天下」
こんなこと言い出すヤシがいるから狭義にこだわるなといったわけで。
趣旨は分かりますた、スマン。
>少なくとも今続いている議論は、信長が信忠に渡そうとした「天下」とは
>何を示す概念だったかという非常に狭義の「天下」の話でしょ。
しかしこれを狭義で受け止めるか広義で解釈するかは別。
信長の後継者は信忠というのは周知のことで、広義ならばその確認を
したにすぎない。狭義ならば朝廷という理解も成り立ちうるが、
他の傍証がないのならば深読みというか、牽強付会だと思うが。
短期的には朝廷の件かも知れんが、徐々に信忠への権限委譲を進め、
最終的には織田家の家督=天下人の地位の相続という理解を
妨げるものではないし、その一環のことと考えても不思議ではない。
だからごく少ない史料を「妄想」で読んでも、何がやりたいのか
分かんないのだが。
522 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:59:53
糞番組や三文小説、でないもの教えろw
>>520 >>517も
>>519俺なんだが、俺の書いた
> 国民一般の概念としての「天下」
というのは
>>497の
> 皇国史観が国民一般に浸透したのは、明治〜昭和の初期くらいまで。
> 室町末期の頃は、文字を読める者の一部が記紀を読んだくらいだろう。
に対してのものだよ。
あと、俺の言っている「狭義」というのは、「一般的な概念ではなく信長が
どういう意味で言っているか」という狭い範囲の定義と言っているだけであって
「狭義」が「朝廷」、「広義」が「後継者」と言っているわけじゃない。
524 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 11:11:57
>だからごく少ない史料を「妄想」で読んでも、何がやりたいのか
分かんないのだが。
自分自身で史料を読む分には「妄想」しても良いが、第三者の「妄想」
=糞番組や三文小説で歴史を学んだつもりでいるような幼稚な輩が多いからね〜
525 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 11:30:20
>あと、俺の言っている「狭義」というのは、「一般的な概念ではなく信長が
>どういう意味で言っているか」という狭い範囲の定義と言っているだけであって
>「狭義」が「朝廷」、「広義」が「後継者」と言っているわけじゃない。
だから、どうとでも読めるし、ごくわずかな史料しかないから言ったもん勝ちだよw
前後の文脈をたどるにしても、あまりに記述が少ないと「深読み」するしかない。
何でも言えば、って感じだねw
おそらく「歴史学って言うのは、史料さえあれば何でも言えるからね」という批判に
応えることができなくなるだろうがね。史料批判が出来ない歴史学者は少なくない。
526 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 16:02:48
22万部突破っていうけど『信長の棺』てどうなんでしょう?
内容的にさほど目新しいものはないし、っていうか既刊小説等のパクリみたいな
部分(アイデア)も見受けられるけど・・・・・
小泉が読んでるそうだからなぁ
528 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 16:41:35
ミ ,,、,、,、,、,、,、,、、 彡
l i''" i彡
.| 」 /' '\ |
,r-/ -・=-, 、-・=- |
l ノ( 、_, )ヽ | 信長はケチだったんだよ
ー' ノ、__!!_,.、 |
∧ ヽニニソ l
/\ヽ /
/ ヽ. `ー--一' ノ/ヽ ノ7_,,, 、 ______
/ (⌒、"⌒ソ⌒ヽ─ '" `、 ( ィ⌒ -'"",う/諭 / /吉:/|
~''(_)(_)(_)(_)ソ ヽノ ,イ^_.|≡≡|__|≡≡|彡|_____
ヽ/`、_, ィ/ ヽ─/ ̄//|≡≡|__|≡≡|/諭//吉 :/|
/ / ) / ≡|__|≡|≡≡|__|≡≡|≡≡|__|≡≡|彡|
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\ ノ |≡≡|__|≡|≡≡|__|≡≡|≡≡|__|≡≡|彡|
\__ / ノ|≡≡|__|≡|≡≡|__|≡≡|≡≡|__|≡≡|/
529 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 19:48:10
軍事的天才では天下を取れないと言う歴史の法則がある。
義経(自殺)、信長(自殺)、大村益次郎(暗殺)と言った軍事的天才は碌な最後を遂げなかった。
是は世界史でも言えて、ハンニバル、ロンメル、ナポレオン、岳飛、韓信、
呉起、白起、ヒトラーなどなど・・・。
対照的に軍事的無能が天下をとるケースは少なくない。
劉邦、頼朝、家康、尊氏。
> 対照的に軍事的無能が天下をとるケースは少なくない。
> 家康
おい、ちょっとまてw
531 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 20:00:40
政治と軍事のバランスは重要だけどね
信長もなかなかのものだと思うぞw
うまく朝廷を利用して和睦の道具にしたり
官位の叙任を通じて家臣の序列を定めたり。
>>526 信長が登場しないのに、新しい信長像(週刊朝日評)もないだろうと、小一時間。
本能寺の秘密トンネルに山の民(秀吉)は、何をや言わんか・・・。
ただし、牛一を主人公にした点や老練な文章はいいと思うた。
まるで小説になってない津本の「下天・・・」よりは楽しめるよ。
533 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 20:30:58
足利尊氏は政治も軍事も天才。
>>529 つーかそのうちの何人かは天下もクソも単純に戦闘馬鹿ってだけだが
535 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:49:53
尊氏は軍事オンチだろ。
俺は尊氏が軍事の天才政治オンチだと思ってたよ。
537 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 22:57:12
義直失脚→師直排除→義直殺害=将軍権限の一元化という流れは天才政治家だね。
538 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 23:00:30
ゴメン直義だね。
539 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 23:33:10
清洲会議を見ると、織田家の諸重臣に織田家への忠誠心があったのかどうか
疑問だよ。
2男・信雄は尾張国を、3男・信孝は美濃国を相続し、
信長の4男で秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を相続した。
家臣団では、柴田勝家が越前国を安堵の上で、勝家の希望から秀吉の領地である長浜を割譲され、加増された。
新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城国が与えられた。(ウィキ参照)
新当主・三法師の所領が少なすぎる。これでは、中堅家臣以下じゃないか。
秀吉や柴田は、三法師を主君と思っていない証拠だ。
とてもじゃないが信長に天下をとる器なんてなかった
チビで華奢だったらしいな、公記によると。
542 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:43:48
おまいらは信長の研究書では、何を参考にしてますか?
洩れは『織田政権の基礎構造』(脇田修、東京大学出版会)
を読み始めましたよ。
543 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 17:54:28
ルイス・フロイス「日本史」
「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は
快調で極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、
正義において厳格であった」
「酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて素直で、自己の見解に尊大であった」
キリスト教布教の朱印状要請で銀の延べ棒を贈られたことについて
「予には金も銀も必要ではない、伴天連は異国人であり、もし予が
金銭の授与を受けるならば、予の品位は失墜するであろう」
フロイスが目覚まし時計を献上しようたしたことに対して
「予は非常に喜んで受け取りたいが、受け取っても予の手もとでは
動かし続けることはむつかしく、駄目になってしまうだろうから、
頂戴しないのだ」
本能寺の変について南蛮寺からの報告によると、
手と顔を洗い終え手拭いで身体をふいている信長を明智軍が見つけ
背中を射た、信長はその矢を引き抜き、長刀を手に戦ったが、
腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと
いわれ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、
生きながら焼死したと言った
「「我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を
戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず
廃塵に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては
地上に残存しなかったことである」
>ルイス・フロイス「日本史」
19世紀に編纂された偽記録(フロイスの原本はルソンの司祭の手ですべて焼却された)なわけだが・・・・。
>>544 偽はいい過ぎ
写本と言おう
最近、フロイスの日本史は
信頼性を再認識されてきつつある
547 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 18:14:46
「信長公記」(町田本)の桶狭間の年号が
天文21年(実際は永禄3年)になってる件で、意見のある人いませんか?
2000人(じつは1万以上動員できた)で4万5000に勝った伝説づくりではという説もあるらしいんですが
548 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 18:54:42
殺される前に信長が新皇名乗ってたらどうなったか教えてくれ
549 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:07:29
>>548 日本の諸悪の根源を除いておけば日本の近代化を早めたろう。
天皇は独裁者の隠れ蓑にされて利用される存在のため天皇の名の元にメチャクチャなことをすることができる。
明治政府も天皇の名の元に国を暴走させ昭和20年に滅びるまで国民と他国民を苦しめた。
信長はそんな諸悪の根源の天皇を潰そうとしたのだろう。
550 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 19:24:46
>547 俺もそれ知ってる
あれだよね 父親の領地40万石くらいあったらしいから
うまくまとめていれば1万人は動員できたよね
551 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:14:00
>>547 > 天文21年(実際は永禄3年)になってる件で、
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho2.html を見ると、永禄3年になっているが・・・?
> 2000人(じつは1万以上動員できた)で4万5000に勝った伝説づくりではという説
尾張の石高から、1万人動員できるが、
桶狭間方面の5砦に、各500人配置したとして、2500人
清洲城、および主要な城に警備の兵は必要なので、3000人
敵対している美濃斉藤家から、隙を突いて侵攻があるかもしれないから防備の兵を配置したはず、2500人
以上のように兵力配置したとすると、信長直率軍は、2000人しかいない。
552 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:30:29
最近山口敏太郎て人の書いた「是非に及ばず」って本が出てたんで
読んだんだけど。まあ、あくまで小説なんだけど信長殺しの犯人が
実は明智ではなく、信長は本能寺の変を事前に知っていた。。って
展開なんだよ。ちょっと面白かった。
553 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:41:32
>>551 まあ、それが通説だな
各砦や支城に兵配置しなきゃならんから
動員数丸々使って攻められるわけじゃない
信長の動員数が1万なら本隊は2、3000千がいい所だろうな
>>551 町田写本(いちばん古い写本)の記述は天文21年だよ。
リンク先のは、たぶん年代の新しい近衛写本だと思う。
2000人じゃ少なすぎるって、のちに迂回奇襲説が生まれたわけで、
そこからまた、町田写本(なぜか天文21年がくり返し強調される)への疑問が生まれるんです。
555 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:46:41
まぁ、俺が言いたいのは桶狭間で買った灯油だけは使うな!
という事だ。
556 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:49:42
>555
藻前早いなw愛知県民か?
558 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:10:49
>>554 信長公記は、もともと首巻は間違いが多いといわれています。
牛一も、何十年も経ってから記憶を頼りに書いてるし、
記憶違いや、風説や伝聞を事実と思い込んで書いている部分もあると思います。
桶狭間合戦の記述も、あいまいなところや矛盾があります。
>558
そりゃ、誰もが前提の議論でしょ。
なぜ、町田本で天文21年が強調されているのかが問題というか謎を解く鍵
牛一使えねぇ…
…ゲームでは。
今川義元の西上説にも疑問があるらしいね、4万5千も大杉だし
正確に数えた奴なんていねぇだろ・・・
目算だよ。
うわ〜〜〜〜〜すげぇ!4万はいるな!よし!
尾張統一してるんだから、今川と石高大して変わらんよね。
なんでそんなに動員力に差があったのかさっぱりわからん
横目(合戦の監視役人)が見てたはずだから、当時は正確な人数を確かめてた
と思うよ。
565 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 03:22:03
>>559 牛一は天文21年だと思い込んでいて、そう書いた。
町田本ではそのままにしたが、
後世に写本した人は、あまりに明白な間違いなので、永禄3年と直して写した。
のだろう
>>563 今川が駿遠東三を長年安定支配していた能登
桶狭間の頃には尾張へも今川勢力が浸透し始めていた唐。
つけ加えれば準備期間の差
今川は出陣までに一年くらいかけてる
568 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 13:57:23
569 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 14:50:40
今川軍の総兵力は、4万位は、あったのでは?
桶狭間近辺だけで、25000だから。
三河、遠州、駿河の守備軍も加算すれば、4万はあったはず。
今川の領地の静岡県は石高は低いが、商業は盛んだった。
570 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 18:03:58
>>561 織田家臣に引抜をかけていたから尾張奪取が目的では。
571 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 18:14:21
金山もあったしね。
572 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 18:19:16
そういえば金山の価値ってどんなもんなんだろ。
鉱山を目当てに戦争してる例もあるけど、
ないところでも国家の運営ができるだろうし。
「公記」の記述どおり正面からぶつかったのなら
織田1万5千 今川2万てのが実態だったんじゃね?
町田写本の天文21年は牛一の記憶違いじゃなくて
写本する段階で細工されたんじゃねぇかな、
だって牛一は他の段では年号をあまり書いてないし。
574 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 18:27:11
>>572 貫高制だから金山があるとないとでは
国力に相当の開きがあると思うよ。
金が採れない地方は農民からあれこれ税を取り立てるわけだから。
とうぜん農民が疲弊したり逃げたりする
575 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 20:57:27
>>573 > 「公記」の記述どおり正面からぶつかったのなら
> 織田1万5千 今川2万てのが実態だったんじゃね?
「公記」には、正面からぶつかったなんて、どこにも書いてない。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
尾張の最大動員可能数は1万程度、
そのうち、城や砦に配備した兵を除き、信長の直率軍は2千くらい。
576 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 22:05:42
従来、織田軍は善照寺から北に迂回し、桶狭間北方の太子ヶ根に出て眼下の谷間にいた今川軍を攻撃したと語られてきたが
、最近では中島から東海道沿いに南東へ直進し、桶狭間南方の山に陣を取っていた今川軍を一挙に叩いたとする説が有力となっている。
速力はこの頃の織田軍の最大の強みであり、信長はそれを見事に活かした。
>>575 「公記」に迂回奇襲したとでも記述あんの???
578 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 03:27:18
>>576 >>577 藤本信者、こんなところに出てきたのかぁ。
速度が最大の強みの織田軍の速度は、秒速何km?(w
中島砦から義元の本陣までは、約2kmの登り坂、
歩兵が主体だから、具足をつけた兵が普通に駆け足で行って、約30分。
戦いつつ進むのだから、当然、30分以上かかるわな。
1時間、2時間・・・無傷で義元本陣にたどり着けたら奇跡だよね(w
丸根・鷲津の2砦を落として、今川軍は次のターゲットである中島砦への包囲体制を整えつつある時、
義元本隊も、敵の最前線基地に対して二重三重の防衛体制を敷いていたはず。
とすれば、中島砦から義元本陣までの間には、今川兵は二千の数倍はいたと想定できる。
正面攻撃で、これを撃破できるのかな?
一部の部隊が敗走したとしても、他の部隊が黙って見ているかな?
たちまち、数倍の今川軍に包囲殲滅されるわな。
公記に、「迂回奇襲した」とは書いてないけど、正面攻撃した描写もない。
数倍の敵と戦って、誰某が討ち死にしたとか、誰某の首を取ったとか、そんな戦いの描写は一切なし。
正面攻撃から義元本陣まで迫ったのならば、この合戦で最も激しく苦しい戦いだったはずで、その記述がないのは不自然。
公記に書いてあるのは、
中島砦を出た後、山際に兵を寄せ、
その時、急雨が振り出したので、
雨が止んだ時に、『かかれ!』の号令をかけた、、、ということ。
公記を信じるならば、
中島砦から山際までの間に、今川軍とぶつかっていないし、
雨が降っている間、待機していたわけだが、今川側からの攻撃はなかった、、ということが読み取れる。
故に、経路に今川兵はいなかったし、待機中の織田軍は今川側から見えなかった、、としか解釈しようがない。
公記は迂回奇襲説で書いている。
これから正面攻撃だなどと言い出す奴はDQNとしか言いようがない。
580 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 10:05:02
>578
帝国陸軍の「信長公記」解釈でつか??
>>578 まともにレスしてるつもりならその痛い文章をなんとかしよう
相手を小馬鹿にした意見なんて誰もまともに相手になんかせんよ
他人をDQN扱いしていても、おまいも同類にしか見えん
582 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:57:14
栃尾刈谷田川の戦い ○謙信軍 対 ●反乱軍
謙信の初陣。病弱な兄、晴景に変わって出陣した。
実戦経験の無い謙信だったが、油断していた敵を畳掛け、初陣とは思えない華々しい勝利を飾った。
これによって家中の期待が高まり、上杉家は謙信が継ぐ事になった。
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。 関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり、殺されまくりで小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領として始めての戦であった。
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
松川の戦い ○上杉軍2千 対 ●伊達軍4万
この20倍にも及ぶ戦力差を本庄繁長の巧みな戦術で克服し、奇跡的な大勝利を得ている。
伊達軍は大量の死傷者を出して大敗、撤退する。
この戦いを捏造と言う伊達厨がいるが、もちろん負け惜しみから来る妄想なので注意が必要である。
583 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:22:21
てか今川氏って貫高制成立してたの?
牛一の戦争の記述を良く見ると
驚くほど正面突破が多い事がわかる
牛一は戦略とか戦術を知らなかった可能性がある
>>583 貫高制以前に石高制(慶長検地以降)があったとでも?
織田信常って知ってる?
信秀の長男(次男が信広、三男が信長)
信秀の美濃攻めで討ち死
かなり前に本(図書館の郷土資料本だったと思う)で
読んで覚えていたんだけど、ググっても出てこないのは実在が否定された?
587 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 10:19:06
>>585 もしや全国に一律に戦国期=貫高制,太閤検地以降=石高制とでも思ってんの?
ちょっとは勉強してから言え。
高校の教科書レベルだったらまぁそう思っちゃうんだろな。
なんで
>>587みたいな煽りしかできん奴が偉そうにしてるんだろうな
説明のひとつも書けば有意義だろうに、無知も困るが無恥はもっと勘弁
589 :
587:2006/02/05(日) 10:26:24
かいといてあげる。
戦国期なんて完全な地方分権なんだから全国一律の基準なんかない。
ただ北条は16世紀はじめに検地から貫高制作り上げてるから
今川にもあった可能性はある。
調べてないから
>>583聞いてみたんだよね。
ちなみに畿内近国は撰銭が横行しすぎて銭自体が嫌われてくる。
その後銭にかわって登場してきたのが米。
例えば1577年の織田信長が越前で行った検地の後は石高制が成立してる。
太閤検地以前でも地域差があるんだよ。
太閤検地は畿内近国の石高制とか信長後期の土地政策の継承なんだよ。
太閤検地の意義は全国一律の基準で検地をして一律の石高制を形だけでも成立させたこと。
わかった?
590 :
587:2006/02/05(日) 10:27:06
592 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 12:24:44
織田信長が生まれたのは名古屋の西の勝幡城だったかな?
あのあたりは昔よく車で走り回ったところだが、かなりな平野で
川が多かったように記憶している 津島神社の祭礼で信長も一緒に
踊ったとかの記録もあるようだが、信長は商人大名というような部分も
多かったのではないか?楽市楽座の発想とか、金や銀をそれまでの銅銭経済に
組み込んだのも信長だし、なんといっても大量の鉄砲を買い付ける
資金力を持っていた 武断的な側面ばかり強調されている信長像が多いようだが
経済に強い信長にも注目する必要があるようだ
そう思う。
美濃統一後伊勢に向かったのは伊勢湾掌握,近江は琵琶湖,越前・若狭は日本海。
物流ルートを押さえるために進んでる印象がある。
楽市令自体は城下町振興政策くらいで信長以前からあったけど。
>楽市楽座の発想とか、
六角氏や道三、今川義元が先にやってるよ。
>金や銀をそれまでの銅銭経済に組み込んだのも信長
謙信と信玄は小判(越座小判・甲斐碁石金)を鋳造してるが、
信長は独自に鋳造したわけじゃなく、明銭の流用なんでしょ??
>大量の鉄砲を買い付ける資金力を持っていた
長篠の鉄砲は畿内の武将から借りたもの。
595 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:17:09
長篠の戦が鉄砲で織田が勝利したとか思ってる香具師ってマジでまだいるの?
三段にして一斉射撃なんて、無線でもなきゃ無理なんだがね。
だいたいあそこは湿地で、山や谷だらけなんだから、効果的にちょびちょび
と、山道を馬防柵で埋めててっぽーは使ったのは事実だけどなぁ、だいたい
兵数の差もかなりあるんだが。。。
596 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:20:03
あれは武田が甘く見て1部隊づつ突撃させたから。
全軍突撃をやっていれば突破できた。
597 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:48:50
>596波状攻撃の伝統に固執し過ぎましたね
当時の馬は、今の競馬ウマよりだいぶ小さい(人間の身長も低いが)から、騎馬軍団とはいえそんなに破壊力は無いのでは?
598 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:13:30
597よ、それ以前にあんなクソ狭い場所で馬が突撃したって、
無理だろ。
>>594 >楽市楽座の発想とか、
六角氏や道三、今川義元が先にやってるよ。
先人の先見性を自分のものとして取り入れるのも、
1つの手柄だろ。
>598
おまえ、595か?
いったい何処の話してるんだ?場所まちがってないか?
信長の先進性とされる楽市楽座や鉄砲の集中使用や兵農分離(の先駆け)とか
他の戦国大名もやってるんだよな。
信長が他の大名よりも優れていたところは、平気で新参を重臣に抜擢していったこと
もっとも最後にはそれが裏目にでたわけだが
織田軍の鉄砲3000丁以上に武田騎馬軍団がありえないんだがw
織田は物語を否定して武田は否定しないんだなw
603 :
587:2006/02/06(月) 08:36:16
おはよう。
自宅に環境ないからみれなかったんだけど,偉そうぶった
>>588からは何か有意義なことが聞けるのか?
お前みたいなのが一番無知で無恥なことに気づけよ。
だいたい
>>589で書いたのくらい日本史板なら知ってるやつのが多いと思うぞ。
信長の野望・日本史教科書・小説程度で勉強したと思わないように。
といいつつおれも深く勉強してないからこれ以上いえないw
>602
佐々・前田などに1000
金森に馬廻りから500
酒井に鉄砲・弓の精兵が計2000(内訳不明)
織田・徳川それぞれの本陣や他の部隊にもふくめて、
総数3000丁なら不思議でもなんでもないな。
集中砲火や三段はともかく数自体はそう大げさではないよね。
ゲームやったことある人はすくねーって思うほどw
公記の3000挺書き直しもそうだが、その後本願寺を相手に
鉄砲を大量使用してない。長篠の「勝因」を信長が生かしてない
ところに、3000挺3段撃ちの眉唾性があるんだよね。
実際信長は鉄砲をどの程度利用してたんだろ?
織田軍の弱さを鉄砲とか長槍でカバーしたのは本当なのか?
「戦いは数だよ。兄貴」
609 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 21:08:24
当時、織田家も含め、兵力の10%程度の鉄砲は所持していた模様。
>>606 公記で、「千挺」を「三千挺」と書き直してある、という事実だけで、
本当は千挺しかなかった、と決め付けるのも早計ではないか。
誰かが、写本の誤りを見つけて訂正したのかもしれない。
信長は傘下の鉄砲隊をかき集め、雑賀・根来の鉄砲衆を雇い入れれば、
三千挺くらい、軽く集めたと思う。
>>607 実際は石投げの方が有効だったという話を聞いた事もあるくらい利用してたと思う
>606
火縄銃はどっちかと言うと防御に有効な武器だし、
その上、戦場が広いから数があっても集中は難しいだけだろ。
613 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 08:18:50
あげ
614 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 10:24:58
死んだからだろ。
信長は優秀だったけど短気すぎた
彼に心酔している家臣はいても、織田家に心酔している家臣は作れなかったって事だ
ま、光秀がなぜ謀反したのかは諸説ありすぎて訳分からん感じだがな
616 :
587:2006/02/10(金) 14:29:56
>>615 信長に心酔している家臣がそんなにいたとも思えないけどね。
人望ではなく恐怖で統率してる感じ。
>>615>>617 同意
結局人格的に問題あるうつけだと思う。
よく信長に憧れるっていうの聞いたりするけど、首かしげてしまう。
実際に会った事ないからわかんないけど
厨のヒーローだからな信長は
マヌケな死に様のおかげで厨は妄想しまくり
>>618 恐怖で統率はちょっと言い過ぎたかも。
恐怖と実利、が事実にちかそう。
621 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:48:28
でも信長とウマの合わないやつは信長に仕えても出世できないんじゃないの?
622 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 21:38:34
>>621 信長とウマの合わないやつ=光秀は、大出世したじゃまいか。
623 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 21:40:30
信長と光秀がウマが合わないというのはお前の思い込みだよ
624 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 21:40:57
>>622 逆。光秀は信長とウマが合ったから義昭からの乗り換え組なのに大出世できた。
625 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:40:55
>606同じ手が何回も通用するかよw
626 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:42:39
>>606 城に立て籠もっている相手にいくら鉄砲撃ってもなんにもならないだろ
627 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:49:45
坊やだからさ
628 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 19:18:38
ま,とりあえず信長マンセーって言っとく。
声が甲高かったからじゃない
630 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 19:56:16
信長は圧倒的な能力があったが、悲しいかな、時代に殺されたのだ。
631 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:11:03
信長が天下取れなかったのは、取る前に光秀に討たれたからだろ。
そんなの小学生でも知ってるよ。そんなことも知らんのか君達。近頃の若いもんは馬鹿しかおらんのか。
632 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 06:06:37
と在日韓国人が申しております
つまり優勝間違いなしと思われていた朝青龍が負けたのと同じってことだ。
とりあえず殺されたのは自業自得だね。
今川義元が無残にもザコ兵に刺されて戦死したのと同様、
信長の死なんぞ同情するこたぁない。
内部に不満が渦巻いているような親分では天下取れるはずないのさ。
せめて、
・暗殺されないようにできなかったか
・暗殺されなかったら本当に天下とれたのか(結局他の誰かに暗殺されたか)
に話もってけよ
>暗殺されないようにできなかったか
秀吉・家康・光秀・長秀・勝家・成政・一益などによる合議制の君主を目指すとか。
独裁者でありつづけたことが問題だった。信長自身が最前線で戦ううちは機能するけど、
一度織田王国の中心に居座ってしまい安全地帯に入った瞬間、前線の武将達がムッとするのは当たり前。
信長自身が変わらなければ光秀に限らず謀反はあったと思うよ。
そういった目に見えない部分を無視して戦力だけで天下盗りを語る人は「信長の野望」だけにしておけや。
秀吉も家康も独裁者だろ
640 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:06:34
少なくとも秀吉は独裁だな。
641 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:41:40
俺信長好きだけど明智光秀も好きなんだよな。
本能寺の変はミステリーだね。事実は小説より奇怪。
あ〜タイムスリップしてー
642 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:44:38
桶狭間から何も学んでないな
油断しすぎ
こうすりゃ良かったんじゃないか?
織田信長は、政務を執るため近畿辺りに幕府を開く。
血縁者と柴田・羽柴・明智・丹羽などを大名に(できる限り要望を聞く)
毛利や島津など地方大名はなるべく、外交交渉で織田家の属大名になるようにする。
大名達の経済政策や領地経営などは織田家の官僚を派遣してアドバイスや資金を提供する。
大名は安土幕府に勤める事を義務付ける。
緩やかに統治すれば、まあ良いかなと…できれば隠居料(年金)なんかも出してあげれば言うこと無いけどね。
644 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:00:33
>>640 信長がいかに傑物でも秀吉と較べたら小粒も小粒だよ。
秀吉の晩年は恐怖政治だったが天下をとるまでは敵を優遇する大器量人。
信長は反発ばかり招いていたから天下をとれなかった。
>>643の続き
先祖代々の土地を安堵するか、石高を上げた土地を与えるかして家臣や大名達に安心感を与えないと駄目だと思う。
あと、家臣達の収入を扶持米制にして、幕府や藩(大名)で管理するのも、有効かもね。
そんくらいかな(´・ω・`)
647 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 07:49:52
>暗殺されなかったら本当に天下とれたのか(結局他の誰かに暗殺されたか)
もしも、秀吉が小牧長久手で、家康が関ヶ原で死んでいたら同じような議論に
なってたんじゃね。
秀吉も家康も天下人としての器量は無かった、ってね。
天下統一後の支配体制が機能する前では、その人物が本当に天下人足り得る
器量人かどうかは分からないと思うが。
ま、もっとも部下に殺されるのは天下人としては失格、と言われてしまえば
それまでだが……。
648 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 13:21:34
部下に殺されるのは天下人としては失格。
>もしも、秀吉が小牧長久手で、家康が関ヶ原で死んでいたら同じような議論に
>なってたんじゃね。
死ななかったから天下をとれた。つまりそれだけの力があったと言うことだ。
649 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 14:19:58
信長と秀吉は統一の路線が違ってる。
信長の天下布武と秀吉の天下統一は別もの。
別なんだから結果で器量を判断できない。
651 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 14:41:56
秀吉の天下統一は天下布武の妥協路線なんだが。。。
652 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:37:18
妥協したことが成功につながる。信長はそれが出来なかった。
秀吉との違いはそこですな。
653 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:16:44
朝廷を脅威にさせたことは大きい。
654 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:24:46
>暗殺されなかったら本当に天下とれたのか
信長が本能寺で殺されなかったら確実に天下とってただろ。
北条も臣従しているし島津や大友も中央政権としての信長の権威を認めている。
毛利も秀吉が申し出た講和に喜んで飛びつくような状況。
本願寺は壊滅したし朝廷も信長べったりだし。
向かうところ敵なしじゃない?
これで信忠が優れた後継者に成長していれば織田王朝は安泰だったろう。
655 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 23:40:19
>>641 自分も両方好き。しかし両方とも天下とれる器じゃないというか
天下とれても長続きしたとは思えない。信長は子供の頃親の愛情
もらってれば・・・歴史に名を刻むことはなかったかも。
光秀は秀吉か朝廷に、信長を討つように仕向けられた(暗示にかかった)と思う。
秀吉の方が信長より上手だった。その秀吉よりも家康の方が上手だった。以上
656 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:06:18
家康は、秀吉の生前は手も足も出せなかった。
秀吉は、信長の生前は、顎でこき使われるだけの存在だった。以上
657 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:13:00
似たようなのって強引さで平清盛かな
658 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:14:47
取れても秦の始皇帝状態になって早く滅亡する
>>656 信長は、生前は顎でこき使ってただけの存在に手も足も出なかった
を忘れてるぞw
660 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 08:36:29
いや,確かに妥協したからこそ秀吉は短期間で統一に成功したわけだが。
自身が死んですぐその政権が崩壊していったことを考えても成功とは思えないな。
統一した後の権力の世襲構造を作りきれなかった政策ミスも要因のひとつだろうが,
やはり妥協して徳川家康に代表される大大名を残したのが根本的なミス。
だから信長が全国を統一できなかったので失敗,秀吉は妥協しても統一したから成功,
こういう評価を下すには疑問が残りまくる。
661 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 08:42:49
連投すまそ。
ちなみに家康は秀吉を反面教師として自身の権力委譲に力を費やした。
徳川政権も関ヶ原の結果外様大大名がたくさん残った。
構造的には秀吉政権とよく似てる。
ただし,家康が関ヶ原後16年生きたこと,権力委譲を工夫したことで
その後の安定政権が作れた。
ここから考えても秀吉には時間がなかった。仕方ないといえば仕方ないのかもしれん
織田信長だから、天下が取れなかった。
んじゃないの?
663 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 09:27:49
天下とれなかったが戦国時代一番の英雄には間違いない
>>654 そこまですんなりいくとはとても思えないのだが。
各方面に司令官を配して拡大路線にあるなかで、その後も膨張するであろう各地の
司令官をどうするのかもわからないし。
それぞれ司令官を使い捨てて親族に摩り替えるにしろ、領土を削ぐにしろ、全員が
揃っておとなしく従うとも思わない。
むしろ敵対した大名と結んで独立しようとしたりするかもしれない。
それに朝廷は信長とべったりでもないんだが。
>>576-584 藤本見解は無理がありすぎw
公記の信憑性にも疑問あるし、この時期の記載は。
667 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:12:48
>>664 信長が重臣を使い捨てにすると決めつけるのはどうかな。
信長はウマの合う相手とはちゃんと仲良くやれる男だよ。
信長の子飼いの武将は信長とウマが合ったから出世できた。
そう簡単に切り捨てられたとは思えない。
林と佐久間を甘くみたのが終わりの始まり
669 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 08:40:42
やり方が愚直すぎたからじゃまいか。
670 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 12:53:14
だな。ある意味正直すぎる生き方をしたと思う。
愚直、正直というより傲慢、過信
672 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 14:43:15
そういいかえる根拠は?
どのあたりを見て傲慢・過信になるのかようわからん。
光秀謀反や、長政、荒木の離反は過信が招いたとおもーけんね
傍目からもそう見えたんじゃないの?
暗黒寺とかも高転びに倒れるって予測してるじゃん
人の上に立てる器じゃなかた
676 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 20:41:24
あんなおっかない上司がいたら、最初のうちは仕事もはかどるだろうが、
だんだん恨みが積もってきて社員全員によるストライキが起きる。
信長の高転びは自業自得だよ。
あと光秀の反乱の陰で敵対勢力が糸を引いていたとすれば、
信長はその敵に敗れたと言うことになるね。
公家に負けた
>>675 50年近くおおむね人の上に立ってますが?
その程度だったってことだろ。
680 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:25:47
朝廷は信長に徹底してへつらっていますが
>>1 信長は絶対王政を目指したから、外部だけでなく家臣の一部からも反感を買った。
また、人間50年と思って焦った。以前は、調略で甘い対応もあったが、それが厳しい
対応に変わり、それで、急激に抵抗が増えた。そのように私は理解している。
682 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:36:53
>>680 信長の暴挙な行動に恐れおののいていたから・・・
683 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:41:08
>>682 お湯殿の上の日記を見てごらん。
信長との贈答・音信のやりとりはお互いにそれはそれは丁寧なものだ。
信長は公家衆にふんだんに経済的援助をしているし正親町天皇にも天皇が念願する誠仁親王への譲位を約束して喜ばせている。
朝廷が単純に信長を恐れていたと見るのはまちがい。
むしろ室町将軍のほうが朝廷にはつらくあたっていた。足利義昭の朝廷に対する態度ははっきり言って信長よりはるかに冷淡。
684 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:46:27
秀吉があれだけ早く天下を統一できたのは信長の遺産をほぼ無傷で継承できたからで、秀吉個人の才覚だけでは説明できないと思う。
信長が本能寺で死んでいなければ、信長自身の手で天下統一が実現していたのではないだろうか。
685 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:04:51
>>683 信長は朝廷に対しては、建前上の礼をしていただけ。
686 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:07:19
>>685 建前すら守っていなかった室町将軍や細川・三好勢力に比べたらずっとマシだろう。
687 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:12:37
論点からはずれてるよ。
688 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:15:04
信長は天下統一の礎をした。
明智に謀反をされて自害したが、運も又天命。
689 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:27:51
光秀が三日天下だったのも運
秀吉の後継者が秀頼だけだったのも運
家康が秀吉より長生きしたのも運
690 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:37:55
うん、そうだ。
691 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 01:16:29
本能寺で殺されなければ信長が天下を取っていた。まちがいないね。
とする根拠は?
693 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 14:14:16
歴史に詳しい隣のおじさんが言ってました
695 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 18:29:43
本能寺で殺されなければ秀吉が信長を殺していた。まちがいないね。
とする根拠? 俺がそう思うから。
696 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:56:13
>彼がどうして秀吉や家康のように天下を取れなかったのか論じましょう
明智光秀に殺されたから。
このスレ終了。
697 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 01:34:34
698 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 02:32:59
やっぱり…過信が命を縮めたとしか思えん。
切り取ったばかりの領地を二〜三人でぶらついたり、
流れ弾が飛んできても平気で飯食ってたり、
わずかばかりの従者との無謀な単独行動の数々はあまりにも……
むしろ本能寺まで五体満足だったことのほうが不思議なくらいだ。
699 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 03:00:33
信長は気が短すぎて家来に恨まれていたのかもしれない。
たいしたミスをしてない家来を解雇したりしている。光秀は
堪忍袋の尾が切れて怒り心頭であったかもしれない。
明智光秀が裏切らなくても誰かに殺されていた可能性大と思う。
700 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 03:13:02
小姓を切り殺した数では歴代一位だからな……
むしろ祟りか怨霊の仕業とでもい(ry
701 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 08:40:09
>歴代1位
ソースきぼんぬ
702 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 11:44:17
本能寺で殺されなければ信長が天下を取っていた。まちがいないね。
703 :
まる:2006/02/26(日) 12:11:41
光秀がやらなくても 家康がやったよ!家康は敵の残党を全滅させなかったんだから・・・幽閉 毒殺! 武田家家臣
>>698 部下の謀反を警戒するにも信長レベルの大大名が常に充分な護衛をつけることは不可能。
近習や旗本で数百人程度では部下の大名の手勢に対抗できないし、
十分な兵力の部隊を形成してもその指揮官が裏切る可能性がある。
とすれば、複数単位の部隊を動員して相互監視体制を作るしかないが、それでは大掛かりになりすぎる。
滝川と丹羽が畿内東西にそれぞれ3千の部隊を常駐させるなんてのはムリムリ。
706 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:55:48
信長がいなければ秀吉や家康の天下も無かった。
その事実だけで充分。信長は凄い。
707 :
まる:2006/02/26(日) 15:02:04
706誰が天下をとったの?
本能寺で死んだけど、これだけ有名なんだから本人もご満悦だと思うね。
IFがあるほうが天寿まっとうするよりロマンをかきたてられるからな、、、
わざと殺されたんじゃないの?
天下取っていたとしても秀吉や家康より寿命で先に死んだら結局、
乗っ取られてただろうし…ってのは息子に失礼か。
>わざと殺されたんじゃないの?
こんなこと言うから厨だと馬鹿にされる
710 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:23:30
信長が本能寺で殺されなかったら確実に天下とってただろ。
北条も臣従しているし島津や大友も中央政権としての信長の権威を認めている。
毛利も秀吉が申し出た講和に喜んで飛びつくような状況。
本願寺は壊滅したし朝廷も信長べったりだし。
向かうところ敵なしじゃない?
これで信忠が優れた後継者に成長していれば織田王朝は安泰だったろう。
しかしそうだとしても100万石クラスで柴田・羽柴・明智・滝川・丹羽・徳川・毛利・北条・大友・島津・佐竹・伊達・最上・宇喜田
くらいの大名家ができるか?
ずいぶん不安定な政権になりそうだ。
712 :
まる:2006/02/26(日) 19:49:56
強権にも限界があるし 朝鮮出兵を画策していた節がある。いくら当時、世界最強でも軍隊でも失敗するだろう。どちらにしろ 家康に天下は流れる!
713 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:51:41
>>711 徳川幕府も安定するまでに3代かかってる。
信長が生きているうちに完璧な統一政権を築くことを求めるのは酷じゃないか?
714 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 20:39:15
跡継ぎ争いが出てきそうだ。
715 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 20:49:40
徳川幕府も跡継ぎ争いならあったよ
716 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 20:59:49
>>711 なんで、そいつらに100万石も与えるのか?ありえん。
半分は冥土へ送って、残りには50万石でも十分だ。
717 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:33:31
その行程でほとんどが信長政権に背き戦国に逆戻りだな。
相手だって信長の思い通りにはさせないよ。
だから信長は天下人にならなかったわけだが。
718 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:36:50
>>717 羽柴や徳川も相当の数の大大名をつぶしているが戦国に逆戻りはしなかったぞ。
織田だけがなぜ戦国に逆戻りと決め付ける?
719 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:11:34
秀吉はそれだけ偉大。
信長はそこまでではない。歴史が証明している。
720 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:13:21
>歴史が証明している。
結果論。
海外貿易その他、経済中心の社会に移行していれば、石高なんて意味無いよ。
722 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:18:54
>>720 だったら信長がやった偉業も全部結果論だろうがw
723 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:34:59
>>722 いずれにしても「歴史が証明している」というのは、秀吉なら成功し信長なら失敗したということを証明する明示的な根拠ではないね。
724 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:47:41
でも秀吉は成功して信長が失敗しているのは事実だよね。
信長は天下統一しつつあり義元が全然だったのは結果論だといっても、
信長擁護派は相手にしないでしょ?
725 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:49:35
そもそも本能寺の変は信長の失敗と言えるのか?
桶狭間の戦いが義元の失敗かどうかも藤本正行氏がすでに疑問を投げかけているが。
726 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:52:44
失敗でないなら当人の限界、でいいではないか。
別に信長の悪口言っているのではないのだし、
なんでそこまで信長の天下統一にこだわるのかね。
だから信長ヲタは現実を認めることができないと言われるんだ。
俺信長派だけど、ヲタのせいで本当に迷惑してるよ。
727 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:56:06
逆に「信長では天下統一はできなかった」と主張する厨のほうがウザイ
728 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:02:20
事実だろ
729 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:05:27
事実だな
事実やん
事実です
事実でよ
733 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 15:05:12
事実どす
734 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 15:07:47
ヽ(●´Д`●)つ旦~~
735 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 17:24:27
事実ニダ
736 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:48:18
実際取れずに死んでるからなぁ……
馬鹿です。
739 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 19:09:08
信長オタは馬鹿という見解で決まりですね?
それでは本題に戻りましょう。
信長は何故裏切られなければならなかったのか、どうすれば家臣の離反を防げたのか、
皆様の御意見を伺いたいのですが。
明智・柴田・羽柴・丹羽・細川・滝川・佐々・佐久間などによる合議制で物事を決めてたら、
家臣もある程度は反発しないで済んだと思うのですが。
740 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 19:37:37
信長さんが美少年を独り占めしたから、他のみんなもプンプンしちゃったの。
でもおさるさんは冷静沈着でした。
49で死んだのに美を感じる
742 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 20:15:19
>>739 各軍団長にスパイ(忍者)をつけ監視する。これ独裁者の基本ね。
743 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 00:44:13
>>742 本能寺に向かってる明智勢を察知することが出来たはずだよね
逃げる時間は十分にあるわけだし
ヒント:ボウヤだからさ。
=========終了==============
745 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 21:04:18
>>742 もちろんスパイはつけていた。
が、スパイもろとも寝返った。
これは光秀の人望だな。
746 :
堀田道空:2006/03/07(火) 22:25:19
新しい事を成し遂げようとする者はいつも必ずその道を妨げる者と同時に現れる。
理想に向かって49年間走り続けた男、それが織田信長。
死んだらただそれまでのことなり。
結局、織田信長の理想って何だったんだろう。
748 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:30:28
カードダスを一家に一台普及させるのが夢だったらしい。
こないだテレビで言ってた。
749 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:33:32
750 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:30:10
世界大帝の日本国代理人である天皇に逆らって、逆鱗に触れたから
淘汰されたのだよ。
秀吉は信長よりはちーと賢かったが、今一歩。
家康は身の程を知って、おとなしくしていたから助かったのだよ。
751 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 08:24:13
信長・秀吉が政権を取ってた時代を安土・桃山時代というが、その呼称がおかしい。安土・大坂時代というのが正しいのでは?
蘇我入鹿・織田信長・坂本竜馬
三大暗殺事件の共通点を見れば答えが見えてくる。
外国カブレは尊皇攘夷のもとに滅ぼされるのが歴史の繰り返しのようだ
753 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 11:35:17
754 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 22:57:22
なんか秀吉が成功して信長は失敗しているという語りがあるが
天下統一という観点からは信長は失敗して無いだろ。
秀吉の成功は信長が実質完成寸前まで言ってたのだから。
本能寺の変が失敗と言うのなら
信長の部下管理の失敗というべきだろうが、この点に関しては
秀吉も成功してないぞ・・自分の死後股肱の家臣にまで裏切られてるしな。
755 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 23:06:43
>>754 家康も成功したとはいえないぞ。
家康は御三家・親藩・譜代大名を要所に置き、外様を地方に封じた。
鳥羽・伏見の合戦では、殆ど役に立たなかった。
忠誠心の風化という言葉を忘れていたようだ。
何をもって天下を取ったとするかだな、時代によって天下の広さ違うし
信長でも、秀吉でも、家康でも失敗はしている。
タイミングと結果の違いは運としか言いようがないと思う。
>>756 天下取る=朝廷から政権運営の実質的権限を与えられる
関白も将軍も天皇の補佐またわ代理という基本的役割だから、少なくとも
戦国時代の武将が目指した天下はこういう意味で間違いないだろう。
信長はさらにその上を目指したともいうから、信長の天下は東アジアかもしれんが。
そもそも天下統一と天下とるは別物だろう。信長は統一までしてないし。
鎌倉幕府やそれ以前も統一とはいえない。
759 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 08:04:52
家康。
ああいうおっとりした天下人が都合が良い。
天下統一したようで出来てないようだし。
色々な勢力が息を吹き返した。。。また、生まれた。
信長のような神経の塊りのような政権では何も出来ない。
760 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 08:31:42
よほど信長は成功者、他はダメと決め付けたい人がいるな。
成功者かどうかは知らんが、他人と少し違う視点の持ち主だったとは思う。
>>758 足利義昭が天下を取ったような言い草だ。
763 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 10:13:14
国外に雄飛する気概をもった真の英雄→信長、秀吉
少しばかり有能な統治者→家康
前者と後者とでは人間のスケールが違う
764 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 10:27:30
信長の場合気概はあっても能力がついて(ry
765 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 10:42:15
1560年〜1579年の日本戦国市場
一部上場 | 足利 今川 武田 上杉 毛利 浅井 朝倉 北条 細川 島津 大友 三好
二部上場 | 北畠 神戸 波多野 大内 伊達 最上 別所 六角 長曾我部 京極
新興市場 | 織田 徳川 斉藤 松永 宇喜多 九鬼 筒井 生駒 真田
店頭市場 | 本願寺(浄土真宗) 比叡山 堺衆 イエズス会 雑賀衆 伊賀衆 根来衆 一揆衆
1580年〜1599年の日本戦国市場
一部上場 | 羽柴 徳川 前田 毛利 上杉 北条 細川 島津 大友 伊達
二部上場 | 丹羽 池田 宇喜多 小早川 吉川 直江 北畠 神戸 長曾我部 九鬼 筒井 最上
新興市場 | 石田 小西 安国寺 長束 黒田 加藤 福島 浅野 金森 生駒 山内 有馬 真田
店頭市場 | イエズス会 本願寺(浄土真宗) 堺衆 雑賀衆 根来衆
いまどき店頭て
なんで三英傑の優劣の話になるんだろうな、最終的に天下統一できたのは
三人のそれぞれの特性がうまくつながったからだと思うけど。
もちろん創業という意味では信長の力は一番だけど、信長一人で統一するなら
もっと時間かかったし、殲滅戦の繰り返し。それを秀吉がクリアした。
家康だって法整備とかちょっと有能どころの騒ぎではない。
768 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 17:04:40
信長以前に家康のような人材がいたかもしれんがその時代には通用せず、
逆に信長に相当する逸材家康の時代に現れたって活躍の場はないわ。
秀吉ほどの大天才ならどちらの時代に現れても活躍できるだろうが、
それは上司に巡り会っての話であり。
まあ信長・秀吉・家康の順番で世に現れたのは天佑だったな。
769 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:39:14
信長がまだ生きようが最後にはどうせ狸爺が出てきた。
770 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:39:47
今の時代に信長生まれてもどうなるかわからんしな
771 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:49:15
772 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:51:06
長らく放置プレイされてた安土城址を見れば、
あわれ頓死した武将の一人ってな風情だな。
773 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:56:38
放置したのはタヌ(ry
774 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:08:46
じゃあ狸のせいなの?
高名な学者がよく頓珍漢な過大評価しているけど、ザルザル秀吉が一番格下だな
信長もちょっと謀反起こされすぎだから、家康が一番政治に長けてるといえよー
776 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 02:40:27
>>775 家康は、家臣の半数が一向一揆に加担して、ガタガタになったことがあることを知らないのか?
家康を見限って出て行った配下も何人もいる
778 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 03:42:17
サルも織田を立ててれば、自家の滅亡はなかったろうに…
779 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:56:16
反論できなくなった信厨が負け惜しみの秀吉叩きですか?
うっ悔しいがそのとおりだ。
信長が秀吉や家康に逆立ちしたって勝てないことくらいわかっているが、
あんまり本当のことばかり言われてつい他人の些細な欠点ばかり並べてしまった。
今は反省している。
>>776 知ってる。でも、その為の措置は的を得、致命傷を免れたっしょ
それにひきかえ、秀吉の緩い結合の上へ立つ体制は
秀吉死去の影響が途方もなく大きいとはいえ、アッという間に瓦解してしまったし。
782 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 13:33:11
信長も秀吉も裏切りが致命傷で勢力が一気に崩壊したからな。
家臣の統率をしっかりした家康が安定政権を作ったと。
784 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 11:56:26
信長は当時格上(国力兵力共に)だった今川義元に奇跡の勝利を治めた。
家康は当時格上(国力兵力共に)だった武田信玄に当時の実力通りコテンパンにやられた。
これが後の明暗を分けたかも
785 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 13:58:06
家康は政治には向いているが
信長のように経済・軍事に革命を起こせるほどの人物では無いかと
秀吉は普通だな
家康の考えがその当時一番まともだったから人心を集めた。
>>385 家康も十分に革命的だよ。
関東地方に大いなる革命をもたらした。
流血が一切なかったから革命っぽくないだけで。
>>784 つっても、将器が信長は義元より格上だけど
この頃の家康は信玄より格下だから仕方ないんじゃない
逆の立場だったら信長もコテンパンだろうし。
>>785 経済・軍事に革命起こした、なんて事実あったか?
やたらと革命という言葉が好きな、しかし歴史も知らない奴が、信長を必死に持ち上げる典型的な会話だw
790 :
784:2006/04/05(水) 00:20:54
>>788 家康は捨て身の勝負で信玄という本物にやられたからこそ敗北から学び天下人に成れたという意味で書きました。
個人的な感想ですが信長、家康ともに恵まれない幼少期をすごしているからか、
極限では捨て身で勝負をするようなところがこの2人けっこう似ていると思います。
791 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 01:46:12
>>790 天下人になれたのは、ただの運なのだが。
秀吉や秀長が長命で、子作りもしっかりしてるか、
淀君の最初の子がしっかり成人してたら、
徳川家は丹羽家のように2代目で大幅減封か、改易が落ちだろう。
792 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 02:43:43
>>791 それに加えて
秀吉の死後、ふと気づいてみたら、自分より強大な勢力が全部死んでしまっていて、
秀吉の相続を争うライバルが存在しなかったこと。
秀吉の遺臣が、武断派と文治派(またはねね派と淀派)に分かれて抗争していたこと。
何がふと気づいたらだよ。計算通りだよ。
794 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 03:39:38
歴史の勝者に運は必要、しかしチャンスをモノにする実力がなければ運があっても成功しないよ。
信長、秀吉、家康の三傑は運を掴んだからこそ日本史に名を残している。
>>791 ただの運であれだけの大名を関が原で東軍には取り込めないと思うよ。
家康の外交能力が優れていたからこそだよ。
その書き方だと運があれば馬鹿でも天下取れそうに聞こえるよ。
>>791 秀吉は別段短命ではないでしょ
それに、子供がいても秀吉の政治能力だと安定させるのは無理だと思う。
>>792 北政所派=三成・秀家
淀殿派=清正・正則
ですよ。
秀吉が早くに子を生んでそいつが成人していたら・・・
798 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:05:25
家康自身が自分の天下とりは幸運のおかげだと言ってなかった?
799 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:22:10
>>798 そもそも、桶狭間で義元が油断しなければ、
あるいは自身は出馬しないで、岡部あたりを総大将にして派遣してれば
家康(元康)は生涯、義元のご機嫌をうかがう一武将だしね。
非常に運がよかったことは確かだ。
そう言えば、北条滅亡後の関東へは、徳川、上杉のどちらかを移封するか、
豊臣家臣団の意見は五分五分だったが、それが徳川に決まったのも運だ。
800 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:32:38
801 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:36:28
よって秀吉こそが実力で天下をとったただ一人の男である
802 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:36:56
>>799 言いたい子とは解るけど、それじゃ議論にならんでしょ〜よ
不運を克服できるのは実力なんだから、そういう話しましょってスレじゃ
ないの?
803 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 19:41:41
>>802 そいつらは家康の実力を認めたくないだけ
信長はどうしたら本能寺の変を避けられたのだろうか?
805 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 20:19:37
本能寺に行かなきゃよかったんだ
806 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 20:49:09
根本的な解決になってない。
>>804 光秀が謀反を起こした理由がわかればさけられるんじゃない?
808 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:04:33
「なんとなくやってみた」だと思う。マジで
809 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:45:33
サルの誘い(罠)に乗らなければなぁ。。。
>>1 秀吉に真っ二つに斬られて、でも再びくっついて歩いて
自分の血で茶を入れて、説教したから。
811 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 00:12:13
光秀は信長を殺そうと思えばいくらでもチャンスはあった、
永禄13年には、京の光秀邸に、信長はわずかな供回りで宿泊している。(2回)
まあ、太らせて殺し、おいしいところをごっそり頂戴できるまで、待っていたんだろう。
下克上の時代だから、能力のない主君は、殺してもかまわないんだが。
812 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:04:57
結局証拠が出てこないわけだから突発的にやったと考えるのが自然じゃないか?信長カシンの中で光秀はやっぱり特殊な感じだから。
813 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:57:22
>>812 あんまり特殊とは思えないな、行政、軍事、対朝廷外交と何でもこなせるので、
信長にとっては使い勝手がよかったことは確かだ。
まあ、佐久間への弾劾状では軍事で目覚しい働きをしたと褒められ、
近畿を中心に所領を貰い、近畿の武将のほとんどを組下にしていたほどだし、
まさか、下克上にあうとは思わなかったんだろう。
突発的といえば、そうかもしれないが、
もし身代をごっそりいただけて、リスクが少ない機会があればと
常に狙っていたのではないかな。
もし、そういう機会が訪れなければ、それはそれでOK。
814 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 09:31:24
>>803 家康の実力って何だよ。
戦といい女の扱いといい学習能力は高いとは思うが元からの実力者じゃない。
どうでもいいが家康も信長ほどじゃないにせよ変な逸話多いよな。
815 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 09:51:44
単純に家康が生き残った頃に、
まじで天下狙ってたのは家康だけだったからじゃないのか。
伊達は諦めてたし。
家康が生き残った頃まで、天下を狙える政治状況のまま推移させたのが
秀吉の限界だな。
本能寺の変の当時、光秀はノイローゼだったという説もある。
818 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:17:11
>>817 ノイローゼだったら、あれだけの行動はテキパキできんだろう。
信長、信忠親子を滅ぼした後には、やつぎばやに近江を併呑、
京に引き返して、大規模な献金などして朝廷を味方につけ、
もともとの組下大名の多い近畿の諸将の掌握に着手。
ただ、残念ながら秀吉の「大返し」は想定外、
柴田のように動けないか、信雄(丹羽)軍のように空中分解すると思っていた。
光秀は10日程度でやれることは十分やってるんだよな。
問題は、事後よりもむしろ事前。
ギリギリまで秘めてたからこそ信長、信忠親子を
滅ぼせたんだろうけど、周りにとっては
あまりに急すぎて大半は混乱するだけだろう。
暗殺としては超一流だが、クーデターとしては三流かと。
820 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 02:14:59
まぁ相手が秀吉じゃしょうがねぇべ
821 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 02:27:44
結局、秀吉にいいように利用されたんだよ
光秀が格下だったんだよ。
822 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 02:48:35
>>821 まあ、秀吉は運がよかった。
うまく、だまして(今に光秀を初めとして、信長も出馬する)、
講和をし、信長の死を知っても追撃がなかった。
毛利の情報収集能力がスグレていれば、
秀吉は、対北条での滝川のようになるかもしれなかった。
光秀は三好長慶に仕えた、松永弾正のような存在なのだろう。
823 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 03:17:16
北條と違って毛利に追撃されても秀吉は普通に勝っただろうけどね
824 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 03:23:29
結論としては光秀は負けてしまったが。
結果としては信長を滅ぼす事に成功した。
825 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 11:05:52
>>823 そうかな、信長親子の死を知れば、今は秀吉にしたがっている中国の武将も
離反しかねない。すくなくとも大幅に武力の真空地帯(明智軍以外)となって
いた近畿に戻るのが遅れ、光秀の組下の武将は、みな光秀についただろう。
相手は秀吉だけじゃないと思うが…どう考えても光秀が勝つのは厳しかった。
827 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 13:01:53
四国に渡ってた十河存保って長曽我部に追撃されなかったな
讃岐・阿波両国も一時期は信長の支配化に入ってたみたいだし、土佐の長曽我部も信長と同盟結んでたわけだから、伊予を除く四国は平定してるようなものだ。
毛利も当初敵対関係じゃなく、信長に歩み寄ってたみたいだな
安国寺恵瓊 [あんこくじ えけい]
?-慶長5(1600).10.1
安芸安国寺の禅僧で、博学であったため、毛利輝元に重用され、外交僧として活躍する。
天正元(1573)年、毛利家に寄寓していた将軍足利義昭の京都復帰を交渉するため、輝元の使者として信長と対面した。
天正10(1582)年6月、備中高松城を水攻めにしていた秀吉と、毛利方の使者として講和をまとめた。講和後、信長の死を知った毛利方が秀吉追撃を計ろうとしたが、和議は成ったとして異を唱えたという。
天正11(1583)年、秀吉の家臣となる。関ヶ原の合戦では秀頼方に加わるが、徳川方に寝返った吉川広家に敗れ逃亡。後、京で捕まり石田三成らと共に京の三条河原で斬首される。
(恵瓊は信長と対面した時の印象を、「信長の代は三年から五年は持つだろうが、やがて仰向けに転ぶ(横死する)だろう。秀吉はなかなかの者だ」と国元に送った書状の中で述べている。「変」の起こる十年近く前のことである)
ttp://www.sky.sannet.ne.jp/kyoshio/HJ/Who/WhoA.htm#Ekei
830 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 13:31:56
>>826 そんなことは無い、秀吉も含め各軍団長が滝川や、
川中島4郡を失った森のように、自滅しないまでも、
反転が遅れたなら、その間に近畿を中心とした光秀傘下大名の所領は
300万石程になる。とても対抗できんだろ。
負い目のある分統制が弱いから、対抗は可能かな
どちらが勝つかは分からんけど
832 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:21:37
ヒットラーと同じ。悪は滅びる。
信長は巨悪。
北海道の蠣崎まで安土に来てたのだから、信長は天下人じゃないのか?
834 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:16:14
信長も天下人でもいいけどその場合は三好長慶も天下人だけどいいか?
あとその場合、秀吉、家康に天下人に代わる新しい呼び名を考えないとな
三好や信長と同格じゃ日本を支配した彼らに失礼だからね
忍者武芸帖では、本願寺を降した段階で
「信長の天下統一は成ったり」としていたな
>>834 あくまで室町幕府の臣下としての立場を貫いた三好と、将軍を追放して実質的に天下を手中に収めた信長とは全然意味合いが違うと思うが。
三好は自分で天下人だと思ってないだろうし、それに九州や奥州や蝦夷地から使者を送って服従を示した大名が一人でもいたか?
837 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 15:20:23
>>836 長慶は当時の京畿の人に天下人と呼ばれていたよ
>>836 >それに九州や奥州や蝦夷地から使者を送って服従を示した大名が一人でもいたか?
確かに信長へ使者を送って服従を示した大名は
九州や奥州や蝦夷地にいないな。
839 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:11:14
信長家臣団内部で信長に反旗をひるがえした武将たち(明智光秀、松永久秀、荒木村重)は信長をどう評価していたんだろう?
840 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:16:02
>>836 誼を通じようとしてるのと服従してるのは違うぞ
841 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:49:13
842 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:59:43
光秀は信長殺害の後、山崎で敗れたふりをして家康のもとに脱出。
実際に光秀の首級は確認できていない。
光秀は天海と名を変え、以後、家康の参謀として幕府の基礎を築く。
全ては家康の掌の上の出来事。
光秀=天海説は信憑性が薄いと思うな。
844 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:11:25
そんなに生きれないと思うよ
845 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:14:53
日光東照宮に桔梗の紋がある。
徳川・明智がグルである証拠。
仮に光秀は死んでいて天海ではないとしても
徳川・明智密約があった可能性は残る。
846 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:35:53
桔梗の紋は明智光秀のみの家紋でもないし・・・
家康は本能寺の変が起きたことで危険な伊賀越えを断行している。
伊賀忍者勢力の強力で成功したが本能寺の変を知っていたならこんな危険な事は避けていたと思う。
847 :
訂正:2006/04/14(金) 21:37:33
>>838 確か、蠣崎・伊達・葦名・南部・大友などは安土に使者を送って信長に対して恭順の意を示していたはずだと思うが。島津は信長に会いにわざわざ薩摩から京都に出て来てなかったっけ?
北条氏政なんて、甲州征伐の折に信長を領国に迎えて接待までしてたし・・・でも本能寺の変後は神流川の戦いで滝川を関東から追い出してるけどw
849 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:34:32
つまり信長は騙され続けていたというわけだな。
信長だって信玄を騙して恭順しているようにみせかけとったがな。
>>849 田舎大名に貢物を送るのと、天皇を戴いてる大名に貢物を送るのとは比較にならんだろ。
どう考えても同じだろうにw
850はアホの子なのかな?
852 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 23:55:02
カウンターで携帯いじって 天気予報したワットマンヒルに指示したワットで携帯いじってるけどねぇ、どうよしたワットくさいですが私は
853 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:16:34
こっそりと言葉を「服従」から「恭順」とすり替えようとしてもそうはいかんよww
854 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 03:02:38
>>849 確かにそうだよ。
信長は謙信には、よく贈り物(貢物)をしていた。
洛中洛外図なども贈って、私は謙信殿の先方として京を治めているにすぎません、
と主張していた。
855 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 04:29:41
>854ジジ殺し?
あのままほっとけば信忠の時代には天下取れただろうってことで天下人と考えてええんでないの
信長は天下を取ったと言える
858 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 14:35:07
F1でマンセルがゴール直前でガス欠リタイヤしたときもそのままゴールできてたら優勝できたんだから
マンセルはそのレースのチャンピオンといえる・・・ん?
859 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 18:39:48
信長は天下は取れたが天下を統一はできなかった、じゃないか?
860 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 08:27:42
>>856 だったら信長が足利義昭を将軍のままほっといてやれば、
「義昭はそのまま天下をおさめていたってことで、義昭は天下人といえる」かよ。
>>860 信長に実権を握られてはいたが名目上は義昭は天下人。
862 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 20:26:15
そのままほっとけば信長が死んだ時点で足利の天下ってことかな。
信長が仮に天下統一したとしても、秀吉辺りが謀反を起こしそうな気がするんだが
統一後に謀反しても意味ないような
日本史上でコイツほどマヌケな最後の人間もいないだろ
自分の懐刀に焼き討ちにあってあぼん
あまりの残虐性に部下がついてこれなくなった。ってのは足利義教もそうだが
こいつと同評価でいいよ。
結論は、信長は無能だったってことでいいと思う
>>856 自分の最も信頼していた部下であった光秀に暗殺されるようなヘマやらかす人間に天下は望めない
明智の謀反は氷山の一角と考えれば、あのままほっといたとしても、どこかしらで暗殺されていたと思う
>>866 まったくもって同意。けどそう書くのならば本能寺が氷山の一角という事も証明すべき。
868 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 13:09:37
本能寺で殺されなくてもいずれは明智にそむかれていたっちゅうことではないか。
いくら叛かれたところで本能寺以外では殺せなかっただろうがな
あれは歴史的空白をついた理想的クーデターだから
絶対に部下に殺されないって言う前提がありなら
足利義教だって、自分の政敵を全て滅ぼして、英雄になれるだろう
871 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 13:42:03
やはり、恐怖政治は良くないな。
細川政元、 足利義教、織田信長。
872 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 14:22:52
873 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 18:01:37
戦闘で勝てない時には戦略で勝負する。
信長は戦闘で勝ち続けたが戦略で敗北したということ。
本能寺の変がなかったらというのは、今川義元が桶狭間で負けなかったら、
武田勝頼が天目山で勝っていたら、みたいな無意味な仮定だよ。
874 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 19:10:41
>>873 そのとおり、桶狭間での油断がなければ麿が天下人じゃった。
義教みたいな鬼と比べられるのは信長に対して失礼だと思うが、秀吉黒幕説っていうのは無いのか?
へうげものって漫画じゃないけど、光秀と秀吉が組んで信長を亡き者にしようとした説。
秀吉が毛利と和議を結んで備中高松城から京に引き返すのがあっさりし過ぎで、何故、毛利勢が羽柴勢に追い討ちをかけなかったのかが不思議だし。
しかし信長は人を信じ過ぎてるのか裏切られることが多い人生ばかりだな。松永久秀しかり荒木村重しかり浅井長政しかり明智光秀しかり・・・。
876 :
日本@名無史さん :2006/04/18(火) 19:19:06
>>866 光秀以外で、具体的に誰が信長を討つと思う?
秀吉、丹羽、池田、柴田、滝川、前田、佐々、河尻、村井、蒲生、細川、筒井・・・。
秀吉かな>
878 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 20:08:08
譜代ではあるが、柴田の以前は弟側について信長と戦っていたね。
879 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 21:57:16
信長って言われてるほど独創的でもないよな。
独創的とされているもの
楽市楽座(斉藤道三)
政教分離(足利義教)
鉄砲の大量使用(本願寺)
豪壮な天守閣(松永久秀)
実力主義(五代後天皇)
まあ独創的
兵農分離(秀吉、家康が完成させた)
検地(秀吉が完成させた)
鉄鋼船(局地戦で役に立ったのみ)
ただ、先人から受け継いだものは確実に昇華させているし、逆に独自で生み出したものは、
不完全に終わっている。信長はたしかに、日本の歴史上では3指に入る政治家だが、
そんなに神視するほどではないな。
信長は人を信じ過ぎてる?初耳だ。
信長「人を疑い続けるよりも信じて騙される方が良い。」
882 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 22:27:54
たまたま運が悪かった。どんなにオエライ学校で研究してもそこに行き着くんだよな!光秀が狐にツママレたと。敷いて言えば最晩年の信長はもうこれで天下取れるやと油断してるのがカシンに見透かされていた感じがね、、
本能寺のときのような、部下に裏切られたら勝ち目の無い状況、というのは
信長政権下では割とあったことなのだろうか。
それとも光秀がたまたま千載一遇のチャンスに出くわしただけなのだろうか。
884 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:28:11
>>883 殺すチャンスは何回もあった。永禄13年には50騎以下の人数で、
2回も京の明智邸に宿泊している。
光秀が本願寺勢に天王寺砦で囲まれ絶体絶命の時に、
銃撃を受けてまで救出したほどだから、よほど光秀を失いたくなかったのだろう。
本人は獲物が太るまで待っていただけだったが。
(他の軍団長を全て地方に派遣し、自分が近畿管領になるのも光秀の策謀)
ハイハイ。
生前中は一度も裏切られた無かった秀吉って戦国では珍しい部類じゃないのか。
忠義の三河武士を擁する家康でさえ、石川とか一向一揆とかで結構裏切られているし
>>886 それは、秀吉が誰かの部下の立場が長かったからの話では?
そして独立勢力になってからは、誰も裏切るのが困難なほどの大勢力になった。
たとえば、播磨の別所や鳥取城で山名を追い出した城兵たちは、制度上では信長
を裏切ったのだが、直接的には秀吉を裏切ったともいえなくもない。
そのかわり秀吉が死んだ後の豊臣家の裏切られっぷりが凄いからなあ。
直近の武田攻めなんてモロに光秀の勢力下。
殺すだけならいつでもできただろ。
本願寺の変の時期に有力武将が本拠地を離れてるのが大きい。
しかし、信長の次男の信雄が7〜8千の軍勢を持って伊瀬にいたし
正直タイミング的には微妙。
890 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 10:59:04
>>889 でも、武田攻めで畿内が、真空地帯となり光秀の手勢しかないとしても、
既に当主になってる信忠が大兵を率いて信濃甲斐にいるのでリスクが大きい。
でも、鳥居峠の戦いの前なら武田もまだ抵抗力はあったので、
いくらかの足止めにはなったかも?
でも、僕が光秀ならやはりリスクが大きいのでこの時点では決行しない。
891 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 12:32:15
「豊臣家はどうして天下泰平を築けなかったのか」
(徳川家康が豊臣家を裏切らなければなあ)
892 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 12:35:10
>>891 天下を取った後の秀吉がバカになっちゃったからだよ。
天下を取ったとは言えない、ゆるぽんな支配体制だからこそ豊臣家の傘下に入ったんだろ
894 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 23:59:53
>>891 おねも淀みたいに誰かと浮気して妊娠し、それを秀吉の子だと言い張ればよかったんだよ
そうすれば後継者問題もなく豊臣も安泰だった
>>876 当時の感覚でいえば
答えは全員
なにせ重臣トップの光秀が裏切ったわけだからな
>>895 意味不明。
政権の重臣に一つの傾向があったら、他の臣もそれに追随しなければならない
理由がどこにある?
徳川家では政権の重臣、ナンバー2と言っても過言ではない石川数正が秀吉に
寝返ったが、他の徳川家臣たちも同じ思いでいたとでも?
信長は実力主義を採用したのが最後の敗因ではないか
なぜ君主が、儒教的な道徳や列序を重んじるかといえば
それは一重に自分が家臣に殺されないためであって‥
信長の場合、実力さえあれば、どんどん上に上がってよいという風潮を作り出し
またその競争原理は信長を対象として含むもので、主君すら自分より劣れば蹴落としてよいという形にした
その原理から、明智や秀吉は織田家を蹴落としたわけで
信長の死は全く自業自得
実力主義を推奨する一方で、その安定装置のための一定の秩序や自分ほどに力を付けてきた家臣はつぶす
というバランス感覚はほしかった。
>>896 意味不明はお前だろ
筆頭家老でさえも、実力があれば信長を殺していいという風潮があるなら
基本的に末端までこの調子であったと普通に推測できないか
あと石川の出奔は家中の派閥争いで石川が負けたのが原因だから
光秀のそれとは全然趣旨が違う
899 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 01:48:25
秀吉もその他重臣も
信長が死んだら織田家なんて一瞥すらしなくなったしな
織田家なんてものはそもそも幻で
「俺様が社長でなきゃ駄目なんだ」みたいな連中が単に利害関係のみで結びついていたに過ぎなかっただけなのかも
まあ、そういう社風にしたのは他ならぬ信長だがな
900 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 02:14:07
>>899 少なくとも柴田は、信孝を立てようとしているように見えたが?
大旦那と若旦那がいっぺんに死ねば、番頭のやり放題だな。
901 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 06:55:46
信長が謀反にあったのは天誅というか必然だろ。
あれだけ酷いことやってりゃ
真に人の上に立てるようなキャラじゃない。
けどまあどんだけ酷いことやってても運良く天寿を全うする奴なんてのは結構いるからな。
903 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:13:12
日本では和の精神が重要らしいから、あまりズレたこと(当時の常識から見れば)
をすれば、排除される。
というより、重臣の権限、権力が巨大すぎたからのような
905 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 16:19:31
戦国時代は、日本の歴史の中で、最も和の精神が崩壊した特殊な時代で、
織田家はその象徴のような組織であったことは確かだろう。
ただ、それだけで、「筆頭家老でさえも、実力があれば信長を殺していいという風潮」
があったと断定するのはどうかな。そんな空気が現にあったとしたら、
無防備で本能寺に泊ったりするか?だとすると、信長は全く空気の読めないウルトラバカということになるが。
いくら下克上奨励、実力主義の織田家でも、忠節の概念はあっただろう。
まして光秀は、中年までうだつが上がらなかったのを、信長のおかげで大大名にまでのしあがったわけだし。
光秀の謀反は、当時の人々にとっても驚天動地、摩訶不思議だったはず。
906 :
905:2006/04/21(金) 16:37:39
まあ、柴田、丹羽、池田ら譜代も、信長が死んだら、忠義などそっちのけで
利権闘争に走ってるから、信長には感謝してるが、その子、しかも嫡子ではない者に
まで忠節を尽くす義理はない(後ろめたさはある)程度のもんであったろうが。
907 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 17:13:17
>>905 >まして光秀は、中年までうだつが上がらなかったのを
は?
光秀は、うだつが上がらないどころかエリート街道まっしぐら。
越前朝倉氏に仕官していたときも高給取りだった。
文学作品で浪人扱いされる北条早雲も、
実際は幕臣出身のエリートによる地方への天下り。
「コネをフル活用するエリート」よりも「徒手空拳の素浪人」が大活躍することを望む読者。
>905
光秀を軽視する史観に毒されてる
下克上でただの恩を忘れた謀反人レベルじゃないよ、
あの人は、ただもんじゃないよ
910 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 18:17:49
揚げ足とりは勘弁してくれ
信長が空気読めない、敢えて読まないのは確かだと思う。
912 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:05:36
なにしろ当時の機内は軍事的真空地帯。
空気を読もうとしても読めない。
913 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:25:07
いるんだよなぁ
空気嫁ないヤツって
光秀が天海だとしたら戦国英傑4番目の男確定だな
名古屋人三人の次は信玄謙信元就あたりでしょ。そんで島津四兄弟に政宗元親。
それから美濃の蝮に松永弾正北条早雲。その下あたりでやっと光秀だろ。
どうにもこうにも、何もかもあまりに無知すぎw
だよな。光秀はもっと下。
918 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 13:26:22
>>そんで島津四兄弟に
,r';;r" |;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;;;;
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l;;' /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;',;;;;;;;
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. ',.' ,  ̄ , ' ノ /./ ヽ,
. ヽ.  ̄´ / ,、 ' / / \
ノ:lゝt-,-‐''" / ,.ィ゙ /
,、 - '''´ | ヽヽ /,、ィ /
919 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 17:28:04
信長がナンバー3は認めるけどな。
どうも信長好きの連中はダントツの1位でなければ信長の悪口を言っていると思い込むのが辟易する。
毛利元就、徳川家康に次ぐナンバー3ですな
次点は秀吉か信玄か
921 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 19:01:40
俺的には秀吉・家康・信長の順番か。
スタート地点と最終地点の比率で見れば北条早雲と毛利元就が信長より上位。
1.秀吉 2.早雲 3.家康 4.信長 5.元就
ただし天下人の価値は無限大とも取れるため、家康が2位で信長が3位とも言える。
さらにその後の安定政権の基盤を作った家康の功績も相当だから秀吉以上かもしれない。
信玄や義元はこの五人に較べると格段に落ちるな。
元就は中途半端なところで勝ち逃げしてるからなぁ
そこは評価落ちるでしょ
923 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:20:35
三傑の順位
江戸時代
家康>秀吉>信長
戦前
秀吉>家康>信長
現代
信長>>他ニ名
924 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 21:20:19
三傑の順位
生殖能力
家康>信長>>>秀吉
子供への愛情
秀吉>信長>>>家康
裏切られた回数(生前)
信長>>>家康>秀吉
裏切られた回数(死後)
他二名>>>家康
925 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:11:17
信長は殺人鬼的なところが評価分かれる
大天才と持ち上げる人もいるが、
大方の人は天下取らなくてよかったと思ってるだろう
926 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:40:11
信長が三傑トップみたいに扱われるようになったのはつい最近だね
やっぱりゲームの影響下ねえ
信長は、イチローみたいなもんだろ。おれの想像では。
同じ愛知出身だし。
その道の才能は他の追随を許さないが、
かわい気がなく、嫌みがあって、生意気で、
人間的には好きになれないタイプ
性格が嫌味なだけならまだマシだけど、大量殺人マニアだからな
こんなのに権力もたせたらまずい
929 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:58:08
>>917 結果論で言えば、秀吉 > 家康 > 光秀 > 信長だな。
信長は光秀に下克上にあい、光秀は一時的に天下様と言われた。
その光秀に秀吉は勝利し、家康は秀吉の生前は秀吉の家臣だった。
930 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 00:00:36
結果論で言えば、 家康> 秀吉 > 光秀 > 信長だろ。
家康≧ 秀吉≧ 信長>光秀かな
家康は自分が死んだ数十年後、数百年後のことまで地固めをやったからな
やっぱすごいんじゃないかと
信長・秀吉もすごいんだが、最晩年は権力者という甘い蜜で酔っ払ったという感じがする
光秀は中間管理職の器
>>926 一昔前に比べたら明らかに秀吉の人気は落ちたな(特に若い歴史ヲタの間で)
かといってライバル家康の人気が上がったとも思えずコチラも目減りしてる
戦国武将好きにも様々な嗜好が生まれていって人気が分散する中
信長ファンだけは若いファンが激増していったのは矢張りゲームの影響か
933 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 00:32:36
つ 信長の野望
秀吉って最後の方を見るとどうも勝ち組とは思えん。
失禁するボケ爺が鼻水垂らしながら「秀頼をお願いしますじゃぁ〜」だぞ?
家康もこいつ痛いなと思ってたに違いない。
男として最後は大切、テンプラで死んだデブ狸と便所で死んだアル中軍神
は駄目だろ、失禁ボケエロ爺のエテ公よりはマシだろうけど。
その点信長はカッコ良いよね、勝家とか長政とかも。
男なら討ち死にか自害だ。光秀も殺ったのが土民というところを上手くごまかせば
マシな方だ。
936 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 01:04:08
>>932 若死にしない限りみんなそんなもの。
つーか、かえすがえす秀頼の事をお頼み申すって丁寧にお願いはしているけど
失禁するボケ爺が鼻水垂らしながらなんてどっかのドラマの演出でしかみたことないわ。
鼻水は知らんが失禁するボケ爺だったのは確か
部下に裏切られて死ぬってのも別の意味で無様だと思うがなぁ
じゃあ布団の上でカッコ良く死んだ伊達政宗が戦国一の勝ち組だな
940 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 01:37:52
>>936 実は家康に言った最後の言葉は
「もし、秀頼が日ノ本を治めるに足りなければ、君が代わりに日ノ本を治めよ」
だそうだ。
実際、秀吉は秀頼を可愛がってなかったらしいからな。
鼻水とか云々の話はどうも徳川史観の後付けくさい
それなんて劉備と孔明?
てか秀頼の器がどうこうとか言う前に家康やっちゃったけどな。
>>940 家康がマジで日ノ本を治めてさえなければ感動的なんだが
むしろ秀頼の器が足りたから潰すと決意した家康
>「もし、秀頼が日ノ本を治めるに足りなければ、君が代わりに日ノ本を治めよ」
聞いたことないんだが本当?
945 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 02:24:23
>>931 家康が、実力主義で登用した軍団長は光秀、秀吉、滝川だが、
光秀を最上位にランクしてたのは確かだろう。京の前後を固める位地に
領地を与え、細川、筒井、中川、明石らはみな組下だからね。
想定外の「大返し」がなければ天下を取っていた。
なので 秀吉 > 光秀 > 信長。(秀吉には運があった。)
家康が勝ったのは秀頼(淀君)になので 家康 > 秀吉 とはいえない、
やはり 秀吉 > 家康。
>>944 多分嘘だろう、三国志から持って来たんだろう。
家康も含む五大老は、秀頼に忠節をつくすという誓書を何枚も書いてる。
946 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 04:40:26
でも秀吉が、秀頼にそこまで愛着が無かったというのはガチ
秀頼が生まれても、秀吉は淀殿に一切まかせっきりで殆ど面倒見なかったそうだよ
秀吉が息子を可愛がっていたのは「秀勝」までだろう
一代目秀勝 長浜時代の秀吉の長男。幼くして死去。
二代目秀勝 信長の四男。1585年に病死。享年18歳。
三代目秀勝 秀次の弟。朝鮮出兵のさなか巨済島で病死。享年22歳。
秀吉は初代秀勝によほど未練があったんだな。
同じ名前を子3人につけるなんて他に例がないし
947 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 05:25:49
やっぱ秀吉は偉大だなぁ
そして元就、家康は超偉大だぁ
949 :
金吾秀秋:2006/04/23(日) 06:02:23
漏れ様はもっと偉大なんだぜ(´・ω・`)
950 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 10:33:35
まあ一番「こいつに任せておけば(日本全体にとって)超絶斜め下はしでかさないだろう」って安心できるのは家康だな。
一番大人。家康が晩年の秀吉みたいに耄碌するのは想像できないな。
信長みたいに当時から見た人道に外れ気味な所業をすることもあるまい。
ま、陰湿ではあるのだがw計算の上、というか制御できる範囲の陰湿さ、という印象。
秀吉は信長死亡後から天下取りへの経緯は神。
結果論からは信長の遺産を受け継いだだけ、と思いがちなわけだが、
リアルタイムで見てれば60万石そこらの信長の一介の重臣に過ぎなかった農民出身の男が
3、4年かそこらで織田領の分裂を完全に防ぎまとめあげ、関白にのし上がって天下を差配してるわけで、やっぱり異常とも思える切れ者ぶり。
信長はなんのかんのいっても初代。信長がいなければ天下人の秀吉も家康も存在しなかったであろうことを考えると、
やはり無から基礎を作った実績は戦国トップクラス。
本能寺が無く天下統一まで漕ぎ着ければ圧倒的に一番だったんだろうが。
日中戦争時、抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、強圧的に拡大して
満州と中国との国境とした万里の長城線一帯を無人化する作戦を実施した。
指定地域内の住人を総て強制収容所に移住させ、ゲリラと住人との接触を断ち
ゲリラ出没地域での耕作を一切禁止するというものである。
その過程において、首を切り落とすなどして殺害した農民は8万1千人、
拷問のため施設送りの後処刑した者4万6千人。合計127000人を殺害した。
集落によっては村民が殆ど皆殺しになった所もある。
人囲いと言われる強制収容所は粗末なもので、宿舎は無く、移住させられた住民は露地に藁を敷き、露天で寝るしかなかった。
宿舎としてのバラックや要壁などは住民の手で作らされた。
農期には収容所近くの耕地で農作業を強制された。
収容所の環境は劣悪で、満足な食料、薬もなく、病気や飢えで何万もの人が命を落とした。
表題の三光とは、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすと言う意味である。
幾つか例を挙げると
豊潤県潘家峪では一度に1230人が虐殺された。
密雲西白連峪では、全村落を破壊し、最後に破壊から偶然逃れていた一軒を発見し、そこに居た70歳重体老人を家ごと焼殺、幼児2名を銃殺。
王廠溝、南大門一帯では、580人を逮捕し、380人を虐殺し、残り200人を強制労働の為、東北へ送り、内80%が死亡。
石柱子村では、村民700人中300人を虐殺。
興隆県秋木林、大莫峪では、全130戸から180人の青年壮年男を逮捕し、虐殺。寡婦の村とする。
興隆県ではその一帯に多数の寡婦の村が出来た。
更に寡婦の村を襲撃し、逮捕した者で使えそうな者を日本兵の慰め者にし、残りは処刑した。
興隆県では、人口16万人が戦後、10万人に減少していた。
大帽峪の村人など120人を後手に縛り、虐殺。
引っ立てて来た魯家峪住人を一人ずつ目隠しをして井戸の前に座らせ、
日本刀で首を跳ね飛ばしては井戸の中に放り込んだ。
952 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 17:48:59
日本史における功績
家康>信長>>秀吉>>>>>>>>>>>>信玄謙信元就早雲元親政宗
一人の人生としての凄さ
秀吉>>>>>>元就>早雲>>久秀>>>信長>家康>>>>>信玄政宗>元親>>>>謙信
953 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 17:54:42
秀吉は中卒フリーターから大企業のバイトから正社員になり、重役までのし上がり、
その後独立して日本一の大企業の社長に。
信長は大企業の二代目社長から、ライバル社をM&Aしまくって、暫定日本一企業に。
家康は中小企業の社長から、他社の傘下で実力を伸ばし、最終的に親会社を潰して日本一企業に。
>>950 >やはり無から基礎を作った実績は戦国トップクラス。
それは空想のお話
秀吉は身の程ってものをわかってない。農民の分際で天下?
案の定晩年で育ちの悪さがでた、所詮器が足りなかったってことだ。
権力を持った猿ほど始末の悪いものはない。
一司令官としては優れていたかもしれないが日本を治めるには幼少から帝王学を
学んできた人間じゃないとね
956 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:23:33
また在日かピザ狸ヲタか
957 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:26:48
>>956 ピザ狸ヲタ=家康マンセー
は、わかる。
在日=信長マンセー
ってことですか?
958 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:28:46
元就→アパートの一室を間借りした弱小企業から、国内屈指の有力企業
早雲→東大出からエリート官僚、定年後、地方で企業立ち上げ、大企業へ
959 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:56:21
>>957 何をどう考えればそうなるんだwwwwwwww
960 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 16:58:32
というか、秀吉ヲタの「秀吉嫌いは在日」という発想はどうよ。
秀吉が英雄なのは認めるが、奴の趣味の悪さにはついていけない。
961 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:30:04
秀吉の晩年は悪行三昧、とても英雄とは認められない。
(と言うとまたチョンとか言われるw)
何でいつのまに秀吉の功罪を語るスレになってんだ!?
信長のスレにまで来てわざわざ秀吉の悪行が
どーたらこーたらやるから在日扱いされるんだろ
963 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 19:46:05
もう埋めようぜ
964 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:06:25
秀吉の愛情はまったく利己的で、まるで博愛精神というものがない。
身内以外は敵、それも自分から遠いものは、どうなってもかまわんという考え方のようだ。
朝鮮出兵しかり。
秀次のように最初身内と思われていても、もっと近い存在が現れると敵と見なされる。
勘弁してほしいよ。
在日扱いしてもかまわんぞ。
965 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 21:25:01
>禿同
966 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 01:33:33
967 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 01:34:16
信長と龍馬って良く比較されるけど、何でだろうな。
馬鹿が多いんだろ。
さらに信長や竜馬の人生を引き合いにして現代人の生き方まで指南とか始められた日にゃあ
970 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 17:22:58
信長も龍馬も志半ばで倒された中途半端人間だが、
中途半端な奴に限って人気あるんだな。
志を達成しえる本当に優れた人は、低俗な奴らには支持されないってことだな。
秀吉にまんまと誘き寄せられた所を明智に討たれた
毛利の差し金だな
972 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 18:14:24
つまり戦いに敗れた人間。武田勝頼と同じ。石田三成と同じ。
所詮負け犬だ。
な〜にが「本能寺の変がなかったら」だよ。
戦が全部自分の思い通りになるなら誰だって天下人になれるさ。
信長に限ったことではない。
足利義教とかな
974 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:58:48
>>966-967 964だが、在日扱いしてもかまわんといったからな。
965は自演ぽいが俺じゃないぞ。
そういうセコい真似は趣味に反する。
おまえと反対の考えの人もたくさんいるということ。
>>968 比較されてるかなぁ?
人気のある歴史上の人物一位二位、みたいな感じで名を連ねているのはよく見るけど。
976 :
965:2006/04/28(金) 05:27:02
964の言い分は秀吉の本質を突いてると
思ったから賛同しただけ。
こう書くと、また自演というレスが来るんだろうな。
964さん、すいません。
977 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 05:40:58
先日、NHKの視聴者調査で信長と光秀の支持率を
比較調査したら、光秀の方が勝っていた。
なぜか、ほっとした。やはり信長はあまりにやりすぎ
ということなんだろう。
978 :
日本@名無史さん:
>>964 >>975 愛だの恋だのの何が、天下人に必要なのかが全くわからない。
そもそも歴史上の天下人で、そういう類のものを持っている人間がいるとは思えない。
あのナポレオンも、「私は誰も愛さない」みたいなこと言ってるし。
そういう、現代の論理を用いて、フェアじゃない
感情論で秀吉叩きするから在日扱いされるんだろ。