日本書紀紀年法は、応神元年を西暦三九〇年と位置付けて、以下の式に
表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。
192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年
また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統十一年までの
一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって並列構造になっています。
このように考えますと、日本書紀紀年法をきれいに説明することができますが、二〇〇三年に、
研究成果を発表したところ、古代史研究家、ならびに、一般からの反応があまりありません。
賛成意見、反対意見、どちらでも構いませんし、また、異論があれば、お聞かせください。
2 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 18:36:08
2
3 :
シバザクラ:2005/11/16(水) 18:42:17
発表したといわれたところで、どの書物なのか、公開していただけないと、意見のしようがありません。
書名及び出版者名をおしらせください。図書館でさがしてみます。
4 :
シバザクラ:2005/11/16(水) 18:44:34
3の出版者は出版社のあやまりです。
5 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/16(水) 19:21:50
七支刀について。
石上神宮につたわる七支刀の年号について。
日本書紀神功皇后52年に百済王よりおくられたとある。
刀には泰和四年(369年)に製作されたとの象嵌がある。泰和は太和と同じであり、この年号は正しいとみる。
私の皇后の年代では、369年は神功26、27年にあたる。
この食い違いについての考察である。
紀の記事から、皇后の時にこの刀が伝来したことは間違いないとみる。
皇后49年 半島遠征、百済王と盟約。
皇后50年春2月 千熊長彦久テイらが百済よりかえった。
皇后51年 千熊長彦を久テイらにつけて百済につかわす。
皇后52年秋 千熊長彦と久テイら帰る.七支刀を持ってくる.
皇后49年を369年とすると、369年に七支刀を製作し、皇后51年に千熊長彦がいって受け取り、
皇后52年に持ち帰ったことになり、つじつまがあい、皇后52年は372年となる。
私の皇后の年代では、372年は皇后32、33年である。皇后52年ではない。
元々の皇后の記録には、七支刀のことが実際の年代でかかれていたものであろう。
しかし、日本書紀を編纂する男になって、神功応神紀の年代を、百済の記録より干支ニ巡120年くりあげたのである。
百済記では、372年贈とあったので、干支ニ巡120年繰り上げて、252年とした。
西暦252年は皇后52年である。
国内資料と外国資料を対比させた場合、外国資料を優先させるという前提にしたがったわけである。
よって本来は神功皇后33年(二倍年暦)372年秋年であったのを、修正して神功皇后52年とした。
尚、皇后49年から52年の記事は二倍年暦ではなく、普通暦である。
シバザクラさんへ
著名は『日本書紀の真実 −紀年論を解く』
出版社は講談社です。
ぜひ、御一読ください。
7 :
シバザクラ:2005/11/16(水) 19:55:48
早速捜してみます。
サガミハラハラさんへ
サガミハラハラさんの説ですと、七支刀の年代との関連で、神功元年は
西暦三四〇年代となっているようです。おそらくサガミハラハラさんは、
神功紀四世紀説に立脚されておられると拝察いたします。
わたくしの説は、
神功紀の編年においては、神功元年は、西暦二〇一年と西暦三二一年の
2箇所に設定されているというものです。
すなわち、応神列(A列)の神功元年は、西暦三二一年で、
雄略列(B列)の神功元年は、西暦二〇一年です。
七支刀と関連する神功五十二年条は、雄略列(B列)上にて考えるべき紀年となります。
神功紀には、3世紀の『魏志』倭人伝の記事を載せ、一方で、
4世紀後半の百済王の即位と薨年の記事を載せているという、
研究史上問題視されてきた大きな矛盾がありました。
この矛盾は、神功元年が2箇所に設定されているという考えで説明できると思います。
サガミハラハラさん、ならびに、皆様いかがでしょうか。
ご意見をお聞かせください。
日本書紀の真実 森博達(音韻の専門家)
で検索すると、出て来る様ですが。
山野野衾さんへ
6にて、「著名」と書いてしまいましたが、「著名」は有名という意味ですので、
正しくは「書名」でした。
わたくしは、森博達氏ではありません。
森氏の著書には、『日本書紀の真実』という書名のものはありません。
森氏の著書というは、『日本書紀の謎を解く −述作者は誰か』(中央公論社)のこと
ではないかと思います。
シバザクラさんへ
御一読されましたなら、ぜひ、ご感想をお聞かせください。
13 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/17(木) 07:50:48
私の神功元年について
神功33年(2倍暦)は、元年から16年目にあたります。よって372−16=356で
356年秋年が皇后元年とみています。
山野野衾さんへ
おっしゃられていることの意味がよくわかりませんでした。
もし、森氏が拙著について書評でも書かれておられたということでしたら、
どちらに書評が掲載されていたのか、教えていただきたいと思います。
サガミハラハラさんへ
サガミハラハラさんは、二倍年暦で、神功元年を西暦三五六年に
位置付けていらっしゃることはわかりました。
それでは、神功三十九年条などに、3世紀の魏志倭人伝からの引用文が見えること
につきましては、どのようにお考えでしょうか。
二倍年暦ですと、8で述べたような研究史上指摘されてきた矛盾は解けません。
神功紀には、神功元年を二〇一年と三二一年とする2本の「年代列」があると
考えたほうが、きれいに矛盾を説明できます。
16 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 09:14:42
孝霊紀から壬申紀までは
133/60/68/99/121/121/99/68/60/133
と区切れて面白い
スレット番号16さんへ
非常に、面白い指摘であると思いました。
これは、スレット番号16さんが計算され、お気づきになられたのでしょうか。
もし、スレット番号16さんがお気づきになられたのであるのならば、
発表はされておれますでしょうか。発表されていないのであれば
早くに発表された方がよいと思います。
また、既発表の説であれば、論文名や書名を教えていただきたくお願い申し上げます。
わたくしは、日本書紀紀年法は数学的構造物であり、
また、壬申年が区切りとなっていると考えております。
スレット番号16さんのご指摘は、わたくしの説を補強してくださっていることになるのです。
スレット番号17さんへ
お調べのとおりです。ぜひ、御一読いただきまして、ご感想をお聞かせください。
20 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/17(木) 19:40:46
皇后が卑弥呼の時代であるように紀の年代が構成されている理由ですが、一つは初めから卑弥呼=皇后とした構成を考えていた
ことがかんがえられます。もう一つは、安康帝の時代から、2倍年暦で年代をたどっていったら、偶然、卑弥呼の時代になったことから、卑弥呼=皇后としたと考えられます。
201年元年の理由ですが、これは、皇后の和歌山滞在時に日食に遭遇したという伝承から、皇后元年に日食があり、それが三国史記新羅本紀に201年日食があっ
たとの記事から、その時和歌山でも日食があったと考えて、201年を皇后元年としたとかんがえています。
サガミハラハラさんへ
それでは、サガミハラハラさんは、神功元年は二〇一年と三五六年の二箇所に
設定されているとお考えなのでしょうか。
わたくしの説は、神功元年は二〇一年と三二一年の二箇所に設定されているというものです。
わたくしの説ですと、もう一箇所は三二一年となりますが、
サガミハラハラさんの説ですと、もう一箇所は三五六年となるということなのでしょうか。
22 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/17(木) 22:26:06
日本書紀では、201年に設定していますが、神功元年の実年代は356年です。
実年代ですので設定ではありません。
23 :
16:2005/11/18(金) 06:58:38
>>1さん
自作です。
既出文献等の有無は知りません。
発表とかもしないので自由に使って下さいな。
スレット番号16さんへ
孝霊紀から壬申紀までが133〜133となっているという説は、
御自作で、発表もなさらないということですが、発表なさったほうがよい
ように思うのですが。
わたくしは、現在、日本書紀紀年法の研究を進めておりますが、スレット番号16さん
の説を自説の支証として、用いさせていただきたいと考えております。
また、これらの数字の意味についても考えてみたいと思っております。
しかしながら、拙論・拙著を作成する原則として、どなたの説を参照したのかを記さねばなりません。
孝霊紀から壬申紀までが133〜133となっているという説は、
スレット16番さんの説であることを明記しなければなりません。
スレット16番さんの発見は、大変重要であると思います。
スレット16番さんは日本書紀紀年法の研究者でいらっしゃれるのでしょうか?
サガミハラハラさんへ
神功紀は、西暦三五六年を元年として二倍年暦で2/69のおおよそ34年ほどで、
応神元年は三九〇年とお考えのわけですね。
それでは、なぜ、『日本書紀』は、安康紀から二倍年暦で計算して神功皇后が卑弥呼
の時代となるように編年したのでしょうか。
実年代と編年が異なる根拠をサガミハラハラさんはどのようにお考えでしょうか。
わたくしは、むしろ、日本書紀紀年法においては、二〇一年と三二一年の2箇所に
神功元年が設定されていると考えたほうが、紀年法を編年と実年代という2つの問題
に分離せずに、『日本書紀』の編年にアプローチすることができるのではないかと
思うのですが。いかがでしょうか。
26 :
7師:2005/11/18(金) 12:44:55
結局はどの説も何処かに矛盾があります。
天皇陵を発掘調査しない限り、真実は闇の中でしょうね。
近い将来、許可が降りればよいのですが…。
わたくしの説では、日本書紀紀年法について矛盾なく説明できることから、
スレットを立てさせていただいて、皆様の意見をうかがおうと考えました。
例えば、
192(応神元〜雄略5年までの紀年数の合計)−72(実際の経過年数)=+120
69(神功元〜69年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120
という式は成立します。応神元年を西暦390年、雄略五年を西暦461年と考えて
どうぞ、皆様、試みに計算してみてくださいませ。
28 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 19:56:15
>>26 まず、天皇陵自体、江戸時代中期〜明治初期に認定されたもので
殆どが特定されていないものらしいし。
被葬者が確定されている天皇陵は、皆無といってよいと思います。
天皇陵を調査いたしますと、
例えば、隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡銘の「日十大王」が、誰のことであるのか、
いまだにわからないように、被葬者の確定問題は発生するかもしれません。
しかしながら、墓誌が出土した場合、崩年がはっきりしますので、
『古事記』の崩年干支や『日本書紀』の編年の歴代天皇の末年とを較べることによって、
被葬者がわかるかもしれません。
天皇陵の調査は、『日本書紀』の編年の研究に役立つのではないかと思います。
しかしながら、いつになるかわからない天皇陵の発掘に頼るよりも、紀年法の構造問題からアプローチ
してみることは、有意義ではないでしょうか。
例えば、応神元年は三九〇年で、仁徳元年が三九七年であることなどは
紀年法の構造上、はっきりしています。
30 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/19(土) 12:44:54
応神元年を同三年の阿辛王即位年(392ねん)から、390年としていますが、三国史記では好太王即位年が
392年となっており、百科辞典の391年と1年のくいちがいがあります。
三国史記が1年ちがっているとすれば、阿辛王即位は1年くりあげることになります。
そのようにスライドすると応神元年は389年となりますが、この点いかがでしょうか。
サガミハラハラさん
わたくしは、『日本書紀』が、応神元年を西暦三九〇年に設定しているという
ことが、大切なことだと考えています。すなわち、『日本書紀』の編纂者が、
応神元年を何年に設定していたのかという点が最も肝要なのです。
『日本書紀』が、1)応神元年条に「是年也。太歳庚寅。」と記していること、
2)応神三年、応神八年条、応神十六年条に百済王の即位と薨去についての
記事が見え、『三国史記』に記される当該百済王の即位年と薨年から逆算
してみますと、応神元年は、西暦三九〇年となることから、
『日本書紀』は、応神元年を西暦三九〇年に設定しているとしか、考えられません。
『日本書紀』の設定を踏まえて、日本書紀紀年法の構造がどのようになっているのか
検証してみますと、その構造がきれいに説明できるようになります。
LYO.s2lkEwさん
ご提案いただきまして恐縮いたします。
まだ、出版社は決まっておりませんが、研究成果を刊行いたしたいと
考えており、脚注、または、参考文献にLYO.s2Ewさんの
「133〜133」説を掲載する際に、ご提案のとおりの記載とすべきか、
もしくは、他にもっと適切な表記があるのか、もうしばらく考えてみたいと思います。
なぜ、このように紀年数を計算してみようとお考えになったのでしょうか?
また、なぜ、発表なさらないのでしょうか?
『日本書紀』の編年は、
応神元年=西暦三九〇年(応神列<A列>)
仁徳元年=西暦三九七年(仁徳列<D列>)
允恭五年=西暦四三七年(允恭列<C列>)
雄略五年=西暦四六一年(雄略列<B列>)
となっています。
複数の「年代列」が並列しているのです。
したがいまして、応神元(三九〇)年から持統十一(六九七)年までの紀年は
すべて実年代を求めることができます。
日本古代史は、見通しがよくなったことになります。
例えば、仁徳天皇陵の築造は、仁徳六十七年に始められますが、
この年代は、西暦四六三年です。
35 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 15:39:55
仁徳元年は、なぜ西暦三九七年になるのですか。その根拠を教えてください。
『古事記』には、歴代天皇15代にのみ崩年が干支で記載してあります。
これらの崩年干支と『日本書紀』の編年との間には、
『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支年
という等式が成り立っています。
この等式を仁徳天皇に適用してみますと、
仁徳天皇の皇子のいざほわけ皇子(後の履中天皇)の立太子年は仁徳三十一年、
仁徳天皇の崩年干支は西暦四二七年(丁卯年)となりますので、
西暦四二七年は仁徳三十一年であることになります。
仁徳三十一年を西暦四二七年と設定して、仁徳元年を求めれば、西暦三九七年になります。
また、応神天皇の崩年干支は西暦三九四年(甲午年)ですが、これに空位年の2年を加えて
仁徳元年を求めれば、これも三九七年となります。
37 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 18:28:57
古事記には、15代のみに崩年干支が記載されているとのことですが、この15代全てに『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支という等式が成り立っているのでしょうか?
歴代15代は、崇神、成務、仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、雄略、継体、
安閑、敏達、用明、崇峻、推古天皇です。
しかしながら、立太子の記述のない場合には、36で示した式を適用できません。
西暦三九〇年から西暦四六一年までの間に設定されている「プラス・マイナス120年構想」
では、履中天皇と允恭天皇に36で示した式が適用できます。
また、仁徳元年を三九七年と考え、西暦四二七年の履中天皇の立太子を即位と考えれば、
履中末年の履中六年は西暦四三二年(壬申年)、反正末年の反正五年は四三七年(丁丑年)
となり、崩年干支と完全に一致します。
このことからも、仁徳元年が西暦三九七年であることが示されています。
『日本書紀』は、しばしば、即位と立太子を同義とみなす場合があるのですが、
他の天皇の崩年干支につきましては、説明が長くなりますので、おって、説明したいと思います。
39 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:59:59
古事記の崩年干支と日本書紀の天皇即位の年とが凡そ一致することは解りました。ところで、日本書紀には、複数の年代列が設定されているとのことですが、この古事記崩年干支と一致する日本書紀の年代とは、どの列のことなのでしょうか?
40 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:06:48
>>38 ああ、あの本ね
読んだよ、でも高すぎだぞw
しかし二倍暦はどうかねー?
継体のところとかは頷けたけど
41 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:10:33
>>40 自己レス
ごめんほかの本と勘違いしてた。
こんど読んでみてあげるよ。
その前にここで概略を説明してくり
トリップ間違ってました正確には「16/YXRFBRM」です、
16または16/YXRFBRMと呼んで下さい。
>>1さん
7,8年くらいこの紀年の対照構造について考察された本やサイトを探していたんですが
見つからないので書いてくれそうな人を探していたんですよー。
40さん
わたくしの説は、二倍暦を用いていません。きっと勘違いなされて、別の本を
お読みになられたのだと思います。
拙著は『日本書紀の真実 −紀年論を解く』です。
16/YXRFBRMさん
日本書紀紀年法は、数学的構造物のようなものです。
対称構造につきましては、16/YXRFBRMさんが発見なされた
「133(孝霊紀)〜133(壬申紀)」だけではなく、
他にも、数字を用いた対称構造が設定されています。
研究成果をまとめて、刊行しようと考えておりましたところ、
スレットへの書き込みで、16/YXRFBRMさんの
「133〜133」という対称構造もあることを知りました。
いずれにいたしましても、日本書紀紀年法には対照構造があるということを
認識される人々が増えるということは、うれしいことです。
39さん
仁徳列(D列)です。応神天皇から反正天皇までの実際の在位期間は、
以下のようになります。
応神天皇:三九〇年〜三九四年(甲午年)(応神列<A列>)
三九五年〜三九六年(空位年)
仁徳天皇:三九七年〜四二七年(丁卯年)(仁徳列<D列>)
履中天皇:四二七年〜四三二年(壬申年)(仁徳列<D列>)
反正天皇:四三二年〜四三七年(丁丑年)(仁徳列<D列>)
このように、仁徳列(D列)は、第十六代仁徳天皇、第十七代履中天皇、
第十八代反正天皇の三帝を扱っていると考えますと、
『古事記』の崩年干支と完全に一致することになります。
47 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 15:19:27
この解明された日本書紀紀年によりますと、日本書紀には、複数の年代列が並列しているとしています。つまり、実年代の候補は列の数だけ存在することになるのですが、どのような根拠から、仁徳天皇から反正天皇までの在位期間は、D列が適用されていると判断されたのですか?
47さん
実年代の候補は、「年代列」の数だけあるのではありません。
例えば、仁徳列(D列)は限定的な「年代列」で、仁徳紀、履中紀、
そして、反正紀の三帝の天皇紀の紀年のためのみの「年代列」です。
換言すれば、仁徳紀、履中紀、反正紀の紀年は、
仁徳紀(D列)上で、実年代を求めねばなりません。
応神紀の紀年は応神列(A列)、允恭紀の紀年は允恭列(C列)といった具合に、
どの「年代列」上に、実年代を求めるべきであるのかは、決まっているのです。
また、仁徳天皇から反正天皇までの在位期間が、仁徳列(D列)に適用される
ことの根拠ですが、これは、『古事記』崩年干支と完全に一致するからです。
49 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 17:57:58
逆から見ますと、仁徳天皇から反正天皇までの実年代は、『古事記』に崩年干支の記載があったからこそ、D列が適用されていることが確認できたのですね。それでは、何らかの史料から実年代を特定できる箇所が、他にありましたら教えてください。
50 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:07:46
このスレってあの本の丸写しか?
47さん
『日本書紀』の編年と『古事記』の崩年干支は、
グランド・プランのもとに極めて密接な相互補完関係にあるといえます。
また、他の史料としては、『宋書』、『梁書』、『南斉史』、『南史』などがあります。
これらの史料には、倭の五王の歴代中国王朝への遣使年代や倭王位の継承順について
などの記述が見えます。
これらの史料は、『日本書紀』の編年との間には、大きな不整合がありますが、
『古事記』の崩年干支との間に整合性が認められることは、研究史上、指摘されてきました。
したがいまして、倭の五王関連史料は、非常に参考になります。
50さんへ
「あの本の丸写しか」のあの本とは、『日本書紀の真実 −紀年論を解く』
でしょうか。
もし、あの本というのが、『日本書紀の真実 −紀年論を解く』でしたならば、
このスレットを立てているわたくしが、著者自身です。丸写しではなく、自説を
このスレットで、紹介、説明させていただいているのです。
1で述べましたように、拙著で、自論を発表いたしましたが、反応があまり無いので、
皆様のご意見をうかがいたくスレットを立てさせていただきました。
また、もし、あの本というのが、わたくしの本でなければ、いったいどの本
なのでしょうか?このスレットで述べている説は、わたくし以外には唱えおられる方は
いらっしゃられないはずです。
53 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 19:47:12
よろしければ、『宋書』、『梁書』、『南斉史』『南史』における記載との対照によって確定できる日本書紀の実年代がありましたら、教えてください。
「倭の五王」といわれていますが、これらの史料には、賛、讃、珍、弥、済、
興、武の名が見えますので、いずれの天皇に比定されえるのかにつきましては、
研究史上議論があります。
しかしながら、倭王の遣使年は、比定された歴代天皇の在位期間に含まれていると、
考えられますので、歴代天皇のおおよその在位期間は推定できることになります。
例えば、「珍」の遣使年の四三七年は反正天皇の在位期間を、
また、「済」の遣使年の四四三年と四五一年は、允恭天皇の在位期間を
確定するのに役立っています。
換言すれば、解明された日本書紀紀年法によって求めた歴代天皇の実際の在位期間が、
『古事記』崩年干支と倭王の遣使年のいずれとも矛盾していなければ、
それが、正しい可能性は高いということになります。
55 :
太:2005/11/21(月) 20:23:13
倭の五王は各天皇にあらず。
50さん
50さんは、このスレットでわたくしが述べていることが、拙著『日本書紀の真実
−紀年論を解く』の内容とほぼ同じであるとお気づきになられたのですから、
相当によく拙著をお読みになられたのでしょう。ありがたく存じます。
しかしながら、多少異なっているところもあります。
拙著を書いた段階では、まだ研究が不十分で、その後の研究で判明したこともあります。
現在、研究成果をまとめており、いずれ、刊行したいと考えております。
50さんは、日本書紀紀年法にご興味がおありのようですので、
ぜひ、御一読いただきたいと思います。
太さん
倭の五王が各天皇ではないというご意見は、ある意味では正しいのかもしれません。
この当時は、「天皇」という号は無かったのですから。
しかしながら、太さんは、それでは倭の五王とは、いったいどのような存在であると
お考えでしょうか。
58 :
太:2005/11/21(月) 20:44:30
貴下は東京にお住まいならばまたは東京にある程度いたことがあるとかならば、
JR線の3列平行線レールなる東京駅〜神田駅の山手線京浜東北線中央線のことを
知っておられるでしょう?知らないならば、とにかくこの間3線のレールが並行
して二駅の区間を電車が走っているんですよ。そのうち(たとえですが)
1本が大和朝廷、1本が九州王朝、残り1本の路線が倭の五王朝なのですよ。
この3者はおおむね應神世から雄略清寧(もう少し伸びれば仁賢)世の時代、
この日本に鼎の脚のごとくに3つが存立して存在していたのです。
59 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 20:45:35
『古事記』や海外資料が存在する場合には、日本書紀の実年代を特定することは分かりました。そうしますと、全く対照すべき資料が存在しない場合には、その箇所の年代を確定することは、不可能となってしまうのでしょうか?
60 :
日本古代史愛好家 ◆m3XwMsEekQ :2005/11/21(月) 22:42:50
>>56 著者ご本人でしたか。失礼致しました。
小生は門外漢ゆえ日本古代史愛好家と名乗らせていただきます。
『日本書紀の真実−紀年論を解く』発売されるとすぐ購入し、
拝見させていただきました。大変独創的な内容で感心いたしました。
ところで、2,3質問させていただいて、よろしいでしょうか?
素人らしい素朴な質問ですがご容赦いただきたく。
(1)複数の「年代列」は日本書紀に先行するいくつかの史書
があり、それを参照したため生じたものと考えてよろしいので
しょうか?
(2)、『宋書』、『梁書』、『南斉史』『南史』等中国の史書を挙げて
おられますが、『三国史記』についてはどうお考えでしょうか?
(3)古事記の崩年干支はどの程度の信頼性があるとお考えで
しょうか?
以上、ご教授いただきたくよろしくお願いします。
62 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 07:43:31
age
64 :
俺等05772:2005/11/22(火) 08:17:20
>>60 横レス失礼。『三国史記』についてですが、安本美典氏の方法で
調べれば分かりますが、王の在位期間は百済本紀は正確、新羅本紀
は故意に引き延ばし、高句麗本紀は王自体を捏造・スルーしている
ように見えます。
59さん
日本書紀紀年法は数学的構造物です。そして、また、それぞれの紀年に相当する実年代
もわかるように、「プラス・マイナス120年構想」などのさまざまな構想が設定されています。
日本古代史愛好家さん
拙著を御一読いただいたとのこと、ありがたく存じます。
さて、ご質問につきましては、以下のように答えさせていただきたいと思います。
(1)のご質問は、複数の「年代列」が並列していることを解明していても、
複数の「年代列」が並列している理由については、論じていないという点を
ついておりますので、まことに鋭いご質問であると思いました。
日本史愛好家さんは、その理由を先行するいくつかの史書があったからであると
想定なされておられるようですが、応神元年から雄略五年までは、実際に経過した
年数は72年であるにもかかわらず、ちょうど「120年」分の紀年が加算されて
いることからは、数学的構造上の理由に拠るのではないかと考えております。
しかしながら、これでも、なぜ、並列であるのかという理由を説明するものとはなりませんので、
天皇と皇太子、没後継承と生前譲位などの視点からのアプローチなどが必要なのではないかと
考えております。
(2)の『三国史記』ですが、『三国史記』は成立年代が12世紀であるため
史料批判は必要とされますが、この編纂には、今日では散逸しているもととなる史書があった
そうですので、『日本書紀』の編年を考えるにあたり、参考になります。
レス17のbookweb.Kinokuniyaのアドレスはいたずらです。
著者名と略歴が正しかったので、拙著を紹介してくださっているとばかり
思っておりましたところ、悪質な悪戯であることに、気づきました。
68 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 15:52:51
>>67 いたずらではないと思いますが。
2ちゃんねる内からから他のサイトのアドレスのリンクを
クリックすれればアダルトサイトの宣伝ページを経由しますが、
それは2ちゃんねるの仕様です。
69 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 16:38:08
数学的構造から各年代列の適用期間を判明できるというご説明のようですが、それでは、『古事記』の崩年干支や海外資料が存在しなくても、各年代列の適用期間は、確定できると理解してもよろしいのでしょうか。
68さん
宣伝ページを経由するとは、知りませんでした。
びっくりしてしまいました。
教えておただきまして、ありがとうございました。
69さん
『古事記』の崩年干支が伝わっていたからこそ、日本書紀紀年法の構造が
解明できたのです。したがいまして、崩年干支が存在しなければ、日本書紀
紀年法は解けなかったことになります。
また、「宝算年差の法則」というものがあります。『日本書紀』と『古事記』の間には、
歴代天皇の享年(宝算)が異なっているという相違がありますが、実は、
この年差には意味があり、歴代天皇の史実としての在位年数を示しています。
これも、紀年に相当する実年代を求めるのに役立ちます。
レス17さん
せっかく、拙著についてお調べいただいたのに、
いたずらなどと申しまして、申し訳ございませんでした。
73 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 20:00:35
日本書紀紀年法研究家さんのおっしゃる数学的構造とは、『古事記』の崩年干支と「宝算年差の法則」から構築されたもの、と理解してもよろしいのでしょうか。それとも、他に、年代列の適用範囲を決定する法則など…が存在するのでしょうか?
そのとおりです。
『日本書紀』の編年は、実質的には崇神元年を西暦九一年に設定して始まっています。
崇神元年以降の紀年は、『古事記』の崩年干支と「宝算年差の法則」を適用して、
1でも述べたように、「プラス・マイナス120年構想」などの構想が構築されており、
実年代を求めることができるようになっています。
太さん
太さんは、拙論の日本書紀の編年においては複数の「年代列」が並列している
という点に賛意を示されておられ、
これを、三王朝並立という考えで説明なされようとされておられるのでしょうか。
76 :
太:2005/11/22(火) 20:30:33
貴下の論は小難しいので、保留ですよ。研究方法が貴下とまったく異なりまして
自己の論はありますが、秘で、時いまだ来てませんので・・・、2chには書き込み
しないつもりです。〜よく研究しておられますね。感心しています。
そのぅ〜他スレの2倍暦、傾聴に値する論スレだと考察してます。
あの時期、三王朝並立はこれを支持しています。
77 :
61:2005/11/22(火) 21:25:38
>>63 綏靖天皇を無視した日本古代史研究に喝だ!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1089985729/36 > 36 名前:日本@名無史さん 投稿日:04/10/21 13:28:01
> 開化60年間=清寧〜宣化60年間
> 崇神68年間=允恭〜雄略68年
> 垂仁99年間=仁徳〜反正99年間(反正後の空位含む)
> 景行〜成務121年間=仲哀〜応神121年間(応神後の空位含む)
>
> 欽明以前の日本書紀の編年は創作です。
これを読んだ私はなるほどと思って、後に試算してみたところ、
「孝霊・孝元133=欽明〜壬申133」の等式にも気付いたのだが、
書き込まないうちにスレストされた。 出典ないのかな?
79 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 10:26:14
それでは、崇神元年以前の日本書紀の記述については、実年代を確定する方法はまったくない、と理解してもよろしいのでしょうか?
61さん
36さんが「綏靖天皇を無視した日本古代史研究に喝だ」
で指摘された対称関係は確かに成り立ちます。
しかしながら、欽明以前の日本書紀の編年は創作ではありません。
欽明以前の日本書紀の編年も、実年代を求めることができるように構想されています。
対称関係が成り立つことと、日本書紀における実年代の設定とは別問題なのです。
79さん
これまでのわたくしの研究からは、現段階では、『日本書紀』は神武元年の問題
は別として、崇神元年以前の西暦九一年以前には実年代は設定されていないので
はないかと、考えられます。
ただし、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇の紀年に位置付けるべき実年代が
無いというわけではありません。
82 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 12:23:04
西暦九一年以前には、実年代は設定されていない、とのことですが、それでは、すべての年代列も、崇神元年で途切れてしまう、ということになるのですね。
82さん
「年代列」のいくつかは、崇神元年を西暦九一年を起点として始まっています。
すなわち、西暦九一年が、『日本書紀』の編年において、実質的なスタートラインとなっているのです。
日本書紀年法は、複雑な数学的構造物です。
これは、「綏靖天皇を無視した日本古代史研究に喝だ」の36さん、61さん、
16/YXRFBRMさんが指摘されおられるように「133(孝霊紀)〜133(壬申紀)」
という対称関係が成立していることによっても示されていると言えます。
しかしながら、80で述べたように、だからといって、欽明天皇以前の日本書紀の編年が
創作であるというわけではありません。
たしかに、『日本書紀』だけを検証してしまいますと、『日本書紀』の紀年に
相当する実年代は、でたらめなのではないかという印象を受けます。
しかしながら、『日本書紀』は、『古事記』と密接な相互補完関係にあります。
『古事記』の崩年干支を用いれば、「年代列」が形成されてきますので、
実年代を求めることができるのです。
すなわち、日本書紀紀年法は、『日本書紀』と『古事記』がグランド・プランの
もとに二書一対で成立していると考えることによって、はじめて、解明することができるのです。
85 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 15:38:06
『日本書紀』と『古事記』が二書一対で成立したといたしますと、『古事記』が推古天皇末年で筆を擱いている理由は、これ以降は、単列構造となっているということを示すためであったのでしょうか?
85さん
『日本書紀』の編年のみということでしたならば、ちょうど元嘉暦が
使われるようになる雄略列(B列)の雄略元年からは、単列構造になります。
したがいまして、推古紀以降も、当然、単列構造です。
しかしながら、グランド・プランには、グランド・プランとしての独自の構想があり、
これにつきましては、いずれ、発表いたしたいと考えております。
87 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 16:02:33
日本書紀紀年法によりますと、崇神元年の西暦九一年から雄略元年の西暦456年までの期間のみに、複数の年代列が並列しているとのことのようです。それでは、『古事記』が推古末年で終えている理由は、紀年法とは別のところにあると考えられるのですね。
87さん
雄略元年以降持統十一年までの紀年は、雄略列(B列)において実年代を求めるべきです。
しかしながら、
允恭列(C列)の「延長紀年」が四七四(允恭四十二)年、
仁徳列(D列)の「延長紀年」が四八三(仁徳八十七)年まで設定されています。
「延長紀年」とは、46で示した歴代天皇の史実としての在位期間を「確定紀年」
と考えて、これに加えられている紀年のことです。
例えば、允恭列(C列)ですと、允恭元(四三三)年から允恭二十二(四五四)年までが「確定紀年」で、
允恭二十三(四五五)年から允恭四十二(四七四)年までが「延長紀年」となります。
「延長紀年」が設定されていること、そして、その数字には、何らかの意義、理由があるようです。
また、『古事記』が推古末年で終えている理由は、別のところにあります。
日本古代史愛好家さん
ご質問の(3)を読み落としてしまったようで、66では、(1)と(2)のみしか、
お答えいたしませんで、失礼いたしました。
ご質問の(3)につきましては、『古事記』の崩年干支につきましては、非常に高い
信憑性を認めることができます。その理由は、88で87さんのご質問への答えとして
述べましたように、各々の「年代列」には、「確定紀年」と「延長紀年」という区別がありますが、
この区分線は、『古事記』崩年干支の年代によって引くことができるからです。
そして、「確定紀年」と「延長紀年」からなる複数の「年代列」が並列していること
によって、きれいに「プラス・マイナス120年構想」が成り立つようになっているのです。
90 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 12:25:27
日本書紀とは、各年代列の「確定紀年」の継ぎ接ぎであって、「確定紀年」として書紀に記載された部分以外は、すべて「延長紀年」として省略してしまっている、と考えられるのですね。
90さん
日本書紀紀年法において「延長紀年」に属している紀年は、
省略であると捉えるよりも、他の「年代列」の紀年と並列していると捉える
べきであると考えられます。
これは、88で述べたように、「延長紀年」には意味・意義があるからです。
92 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:36:39
ところで、日本書紀のある年の出来事には、複数の年代列上の事件が記載されている、ということはあり得るのでしょうか?それとも、「確定紀年」となる年代列の記事のみを載せているのでしょうか?
92さん
複数の「年代列」上の事件が、ある年の出来事(条)に記載されていることはありえます。
「延長紀年」には意味や意義がありますので、「延長紀年」に属する紀年条に記載される記事は、
紀年延長のために、便宜上、創作されたというものではありません。
「延長紀年」に属する紀年条の記述は、日本古代史研究において、
検証せねばならない貴重な課題となっています。
94 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 20:05:31
複数の年代列が並列しているのは、年代列の数だけ原本となる史書が存在したからなのでしょうか?それとも、日本書紀の作者は、実際の経過年数を縮めるために複数の年代列を人工的に設定したのでしょうか?
『新唐書日本伝』によると
次欽明欽明之十一年直梁承聖元年次海達
次用明亦日目多利思比孤直隋開皇末始輿中國通
次崇峻崇峻死欽明之孫女雄古
欽明の十一年は、梁の承聖元年(西暦五五二年)にあたる
次は用明、また、なづけて多利思比孤という。
隋の開皇(五八一年〜六〇〇年)の末にあたる。はじめて中国に通じた。
用明〜推古も「延長紀年」してるのでは?
96 :
日本古代史愛好家 ◆m3XwMsEekQ :2005/11/24(木) 23:29:43
>>66 >>89 どうもご回答ありがとうございます。
(1)の複数の「年代列」が並列している理由については、今後の御著書の
中で説明いただけると期待しております。
あと、(3)で
>古事記崩年干支に非常に高い信憑性を認めることができます。
ということは、日本では干支は古くから使われており、「古事記崩年干支」は
それを伝えていると考えておられるのでしょうか?
あるいは、干支が日本に輸入された時に、早くに天皇の崩年が干支として
記録されたのが、「古事記崩年干支」であるということですか?
干支が日本に輸入されたのは、4,5世紀かなと漠然と思っていたのですが。
少なくとも、日本書紀の紀年は「古事記崩年干支」を一つの基礎としている
のは、間違いないということですね?
しつこく聞いてすいません。
97 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 23:38:19
>>64 つまり、安本美典氏によれば、百済紀は実年代の確定に使えると言うことでしょうか?
またかよw
この手の説は10年おきくらいに新説がでては忘れられ、の繰り返しだけどなー
クイズじゃないんだから答えが分かるようにはなっていない、と思うのだが?
自分の考えを正当化するために次々勝手な理論を持ち出しては誰も納得しないよ。
都合の悪いことを無視するようではダメだということだ。
日本古代史愛好家さん
わたくしは、干支紀年法による年代表記は、かなり早くからあったのではないかと
推論ております。
干支紀年法は、60年周期ですが、年代を表記するのに便利ですので、輸入されて
用いられるようになったのは、早ければ、1世紀頃と想像することもできます。
例えば、『日本書紀』は、日本書紀紀年法で神武元年を設定する前に、
「神武東征」に出立する年代を「是年也太歳甲寅」と記していることに、
干支紀年法による年代表示が先にあったことが示されているのかもしれません。
また、日本書紀紀年法は、古事記崩年干支があって、はじめて実年代を求めることが
できる複列・並列編年を構成してきますので、崩年干支がひとつの基礎となっている
ことには間違えはありません。
もし、仮に、崩年干支が無かったならば、このスレットで、何人かのかたが、
「133(孝霊紀)〜133(壬申紀)」という対称関係があり、欽明天皇以前の
紀年は、まったくの創作と指摘されているように、日本書紀紀年法には実年代が
設定されていないとみなされてしまっていたかもしれません。
『日本書紀』と『古事記』は、二書一対の史書として成立したのではないかと推論
することができます。
98さん
99さん
このスレットを立てて、皆様のご意見をお聞かせ願いといと考えましたのは、
1でも述べましたように、
192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年)−189年(実際の経過年数)=−120年
という「プラス・マイナス120年構想」と名づけました構想が成り立って
いることが、動かし難いからです。
いわゆる「とんでも説」ではないことは、応神元年を三九〇年、
雄略五年を西暦四六一年として、
実際に「プラス・マイナス120年構想」の式のとおりになるか、
日本書紀の紀年数を計算なされば、わかります。
「とんでも説」ではありませんので、どうぞ、皆様、ご意見、
ご質問をお寄せください。
94さん
94さんのご質問は、応神元年から雄略五年までの間において、実際の経過年数
の72年に対して、配布されてある紀年数の合計が192年で、この間が、並列構造
となっていることによって、120年分の紀年が加算されていることについてのご質問と拝察いたします。
おそらく、『日本書紀』の編纂者の考えとしては、実際の経過年数の72年がまずあって、
これに、どのように120年の「延長紀年」を、それぞれの「年代列」に配分
してゆくのかが問題であったと考えられます。
すなわち、実際の経過年数を縮めたのではなく、西暦三九〇を応神元年、西暦四六一年を
雄略五年と設定して、この72年に、複数の「年代列」を設定して、それぞれの「年代列」に
合計120分の紀年数を配分して加えていったのです。
103 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 19:28:52
104 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 19:51:12
「延長紀年」の合計が、120年とのことですが、それぞれの年代列への配分は、すでに解明されているのでしょうか?
104さん
加算された120年の各々の「年代列」への配分は、すべて解明されています。
ただし、120年すべてが「延長紀年」であるわけではなく、「確定紀年」と
「確定紀年」が2箇所で重なっています。これには、理由がありますが、ここに
書き込みますには、説明が長くなってしまいますが、
おりおりに、ご説明いたしたいと思います。
95さん
用明紀や推古紀などの紀年にも問題が認識されるのは、「延長紀年」を理由として
いるのではなく、別の理由があると思います。
わたくしは、「法興年号」の問題や、日本書紀紀年法に設定されている別の構想に起因
していると推論いたしたいと思います。
107 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 21:13:00
「法興年号」とは、一体、どのような年号なのでしょうか。また、年号が使用され始めましたのは、何時ごろのことなのでしょうか?
>>1さん
「聖徳太子と法隆寺の謎」を読ませてもらいました。
同一人物を別人扱いしている件は記紀全般にあると思いますか?
それとこれは「とんでも説」なんですがタリシヒコとは欽明天皇の
原型である人物ではないでしょうか?
107さん
「法興年号」とは、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘文に「法興元三十一年歳次辛巳」
とあること、そして、『伊予国風土記』所引の「道後湯岡の碑文」に
「法興六年十月歳在丙辰」とあることから、研究史上、その有無が議論となっ
てきた年号のことです。
両史料に見える年号の紀年と実年代と対称関係には整合性が認められます。
法興元年は西暦五九一年、法興三十一年は西暦六二一年に位置付けられています。
わたくしは、法興年号はあったのではないかと考えております。
16/YXRFBRMさん
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎』を御一読いただき、ありがたく存じます。
さて、ご質問ですが、同一人物を別人扱いしている件は、記紀全般に
あるのではないかと、考えております。
研究を進めて、他の事例も探してみようかと思っております。
また、タリシヒコが欽明天皇の原型であるというお説は、面白いと思いました。
わたくしは、一応は、厩戸皇子がタリシヒコではないかと考えておりますが、
研究史上、動かし難い定説と言えるような説はありません。
飛鳥時代は、まだまだ本当はどのような状況であったのか、わかっておりませんので、
さまざまな仮説からアプローチしてみる必要があるのではないかと考えております。
案外、「とんでも説」のなかから、思わぬ発見があるかもしれません。
111 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 12:23:06
「法興年号」が実在するとしますと、それは、何れかの天皇の在位期間と考えられるのでしょうか?
当時はまだ一世一元制度じゃないから
君主が死んでも変わらない例もある
111さん
法興年号は、『日本書紀』の編年上のいずれの天皇の在位期間とも合致いたしません。
あるいは、合致しない理由を、113さんのように考えることはできるのかもしれません。
しかしながら、あえて何れの天皇であるのかといえば、推古天皇と想定できます。
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎』では、推古天皇には、厩戸皇子の母の間人皇女
の人物像が投影されていると推論いたしました。
理由は、釈迦三尊像光背銘文において、法興年号は「法興三十一」まで
用いられており、翌年については、「法興三十二年」とは表現されておらず、
間人皇女の薨年が、法興末年と考えることができるからです。
『日本書紀』は、法興年間があったことを意識しているようで、「長磯陵」と
いう用語によって挟まれた期間が法興年間となっています。
115 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 15:36:17
「長磯陵」に挟まれた期間とは、具体的には何時から何時までのことなのでしょうか。また、法興元年と考えられる年には、日本書紀において、何か、特別の記事が載せてあるのでしょうか?
115さん
法興元年は西暦五九一年に相当しますが、この年は『日本書紀』の編年
では、崇峻四年となります。崇峻四年条に「磯長陵」と見えます。
法興三十一年は西暦六二一年に相当しますが、この年は『日本書紀』の編年
では、推古二十九年となります。推古二十九年条にも「磯長陵」と見えます。
推古二十九年は、厩戸皇子(聖徳太子)の薨年であり、
「磯長陵」は厩戸皇子(聖徳太子)の御陵です。
117 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 19:56:58
崇峻天皇と厩戸皇子の御陵とが、同じく「磯長陵」と名づけられていることには、日本書紀の編纂者の意図が隠されているとしますと、それは、紀年の構造を解き明かす鍵を隠そうとした、ということなのでしょうか?
117さん
「磯長陵」という用語の役割は、紀年の構造を解き明かすというよりは、むしろ
「法興年号」という年号があったことを伝えるためではなかったかと考えられます。
『日本書紀』は、何らかの理由をもって、法興年号を編年においては用いなかったの
ですが、法興年号があったことと、その使用期間を伝えておきたかったのでしょう。
119 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 09:15:53
崇峻天皇も厩戸皇子も実は暗殺されたのであり、
どちらの御陵にも先に別の人が葬られている。
磯長陵とはそれを表しているに過ぎないよ。
121 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 11:49:22
それでは、一体、「磯長陵」には、どなたが埋葬されているのでしょうか。もしかしますと、複数の方の陵である可能性もあるのでしょうか?
119さん
崇峻四年条の「磯長陵」とは、敏達天皇の母で、欽明天皇皇后であった石姫皇女の
御陵のことです。崇峻四年条に記載されている記事は、敏達天皇を石姫皇女の
「磯長陵」に改葬したというものです。116では、説明不足で、申し訳ありませんでした。
崇峻天皇は、崇峻六年に崩御されますが、御陵は倉梯岡上陵です。
崇峻天皇は暗殺されていますが、「磯長陵」との関連は希薄に思えます。
いずれにいたしましても、なぜ、厩戸皇子も暗殺されたとお考えなのでしょうか。
また、「別の人」とは、誰なのでしょうか。
123 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 12:18:29
紀年法とは直接には関係ありませんが、古代において御陵を改葬する場合には、何か特別の理由があるのでしょうか。どなたか、教えてください。
124 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 14:58:03
厩戸皇子は母穴穂部間人の陵に自分が殺した妻膳部大郎女とともに葬られている。
125 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 15:11:49
古代におきましては、親と子で同じ御陵に葬られるという慣習が存在していたように思われます。この慣習は、親と子の間で、祭祀権と統治権とを分けていたことの証なのでしょうか?
124さん
124さんは119を書き込まれたのでしょうか?
厩戸皇子が暗殺されたのではなく、厩戸皇子が膳部大郎女を暗殺したの
ですか?
いずれにしても、たしかに、厩戸皇子、穴穂部間人皇女、膳部大郎女が
一廟に埋葬されているという伝説はあります。
なぜ、このような伝説があるのでしょうか。
125さん
推古天皇が、皇子の竹田皇子と同じ御陵に埋葬されたことなども、よく
知られております。
津田左右吉氏が、「二重政体」などとして指摘されておりますように、祭祀権と
統治権、すなわち、聖俗を分けるという考えは、古代においてあったのでは
ないかと考えております。『魏志』倭人伝などにも、祭祀権を担う卑弥呼と
政治を担う「男弟」についての記述が見えます。
しかしながら、親子で同じ御陵に埋葬されていることが、その証となるかど
うかまでは、まだ、何とも言えません。
むしろ、同じ時期に首長墓と考えられるような古墳が2基築造されている
ことを、「ヒメ」・「ヒコ」制などによって説明しようとする研究があります。
128 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 16:39:02
古代の政体については詳らかではない部分が多いものと思われますが、日本書紀において並列する年代列が複数存在することは、「二重政体」と何らかの関係があるのでしょうか?
129 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 19:31:52
並列する年代列が複数存在するということは複数の王朝が存在したということでしょ。
それ以外に考えられないな。
128さん
関係あるかもしれません。
津田氏は、摂関政治、院政、朝廷と幕府など、幕末まで続いていた日本の統治体は
「二重政体」のヴァリエーションと捉えているようです。
わたくしは、聖俗について、聖を「天」、俗を「地」という概念で解釈しております。
拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』では、
史書の編纂記述様式との関連で「天」と「地」の問題を論じております。
ご興味がございましたなら、ぜひ、御一読いただきたく存じます。
129さん
複数の「年代列」が存在していることについて、複数の王朝が存在していたから
であるという理由によって説明することも、一案です。
有力なアプローチかもしれません。
しかしながら、わたくしは、他にも様々なアプローチがあるのではないかと
思います。
わたくしも、複数の「年代列」がある理由については、まだ研究段階ですので、
『日本書紀』、『古事記』、金石文などに精緻に検証を加えることを通して、
いずれ、明らかにしなければならないと考えております。
132 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 20:08:37
日本書紀に複数の年代列隠された理由は、「天」と「地」の思想と何らかの関係があるのでしょうか。
133 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:31:52
年代列が隠された理由は複数の王朝が存在したことを知られたくなかったからでしょ。
単一王朝の事跡にまとめよと言われていたのに素直にできなかった学者の自己表現だね。
134 :
太:2005/11/27(日) 21:33:00
知られたくなかったという相当な理由とは何か?
135 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:37:40
容易に分かるように書かれていたら学者たちの首が吹っ飛んでるよ。
136 :
太:2005/11/27(日) 21:39:31
未来の学者の首が飛ぶから知られないようにしたのか?ww
137 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:50:24
万世一系神話を創作しろと命じられていたのに
年代の中に暗号を隠したのは何故か、
わからんのかね?
138 :
太:2005/11/27(日) 21:51:05
だれが創作したのか?
139 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 21:55:56
稗田阿礼、太安万侶ほか多数の学者たち
命じたのは天武天皇
140 :
太:2005/11/27(日) 21:58:28
どこで、何時ころ明治たのか?ww きみは目前で見ていたように言う。暗号とはどんなものか?w
141 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:01:14
暗号を解いたこのスレの >1 に聞いてくださるか本を読んでください。
俺も読んでないから知らん。
142 :
太:2005/11/27(日) 22:03:20
「創作した」というのは君の頭脳の捜索ではないのか?
143 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:05:56
暗号が隠されていたという事実に対しての私の考察ですよ。
では他にどのような理由が考えられるのかい?
144 :
太:2005/11/27(日) 22:07:39
それは真に事実なのか?記のどのへんだ。文を出してくれ。
145 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:11:24
だから >1 が自信満々に書いてるじゃないか
>>17 の本読んだら
146 :
太:2005/11/27(日) 22:14:16
>1の件。現在保留中だ。
147 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:19:37
考古学的にもかなり明らかになりつつあるのね
崇神王朝、葛城王朝、九州王朝、継体王朝
継体以後でも1400年あるんだから
もう良いじゃないか秘密にしなくても。
148 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 23:02:34
>>126 伝説ではない 事実だから磯長陵と言う名前が付いてる。
法興年号を隠すためだなんてでたらめもいいとこだよ。
「贋 倉西裕子」さん
拙著をスレットにご紹介いただきまして、ありがたく存じます。
しかしながら、名前を「贋 倉西裕子」とされたのは、どんなものでしょうか。
「贋」とは付いておりますが、わたくしが書き込んだと勘違いされてしまいます。
これでは、わたくしは、「本物 倉西裕子」と表記しなくてはなりません。
132さん
複数の「年代列」と「天」と「地」の思想は、関連があると考えられます。
しかしながら、このスレットでも、数名の方々が、複数の「年代列」の問題について、
複数の王朝があったとする仮説をもって説明なさろうとされておられるように、
複数の「年代列」が並列していることの理由を探求することは、
面白い研究課題です。また、複数王朝説だけでなく、さまざまなアプローチがあります。
わたくしも、現在、研究を進めておりますが、どうぞ、皆様も考えてみてください。
148さん
崇峻四年と推古二十九年の「磯長陵」という用語は、法興年号を隠すためではなく、
伝えるために設定されてあると考えられます。たしかに、『日本書紀』の編年は、
何らかの理由から、法興年号を用いておりません。
しかしながら、『日本書紀』の編纂者は、用いていないからといって、法興年号を
完全に無視しようとしていたとは考えられません。
むしろ、用いることのできなかった法興年間を、「磯長陵」という用語で
挟むことによって、法興年号が実在していたことを伝えようとしたのではないかと
推論できます。
『日本書紀』に用いられている用語には、紀年構造との関連で設定されているもの
があります。これも、面白い研究課題です。
>>123 改葬された二人(用明、堅塩媛)は推古の兄と母である。
物部氏の滅亡により豪族間のパワーバランスが変化したため、
その地位に見合った適切な陵墓に葬り直した。
154 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 15:00:41
法興年号の他に、「朱鳥」という年号が存在していたと思いますが、この年号につきましては、日本書紀の記述の中に朱鳥年間を特定できるようなヒントはあるのでしょうか?
154さん
「朱鳥」は、『日本書紀』では、天武天皇の十五年目の西暦八六八年の1年のみ
に用いられています。
「朱鳥」は法興年号とは異なり、『日本書紀』でも用いられている年号です。
しかしながら、『万葉集』にも「朱鳥」という年号が見えますが、これは
六八七年が元年となっております。また、『日本書紀』では、「朱鳥元年」のみ
であるのに、『万葉集』では「朱鳥四年」や「朱鳥六年」などの紀年も見えます。
したがいまして、「朱鳥」も、議論が必要とされる謎の年号であることになります。
156 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 17:06:24
そういたしますと、朱鳥の年号が、実際に何年から何年の期間であるのか現在のところわからない、ということのようですが、この期間を確定することができる何らかの方法はあるのでしょうか?
「法興」や「朱鳥」などの逸年号は、九州年号が紛れ込んだものだよ
158 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 17:47:17
もしも、九州年号が存在していたとしますならば、それは、何時ごろまで使用されていたのでしょうか?
日本国の最初の年号「大宝」が公布される前辺りまででしょうね。
詳しくは検索して見て下さい。
161 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 19:36:54
日本書紀によりますと日本国の最初の年号は、西暦645年の「大化」ではなかったかと思います。この「大化」という年号もまた、九州年号とお考えなのでしょうか?
156さん
朱鳥年号が、実際に何年から何年まで用いられていたのかは、はっきりしていません。
『万葉集』には「朱鳥七年」という紀年は見えますが、何年まで朱鳥年間
が続いていると想定されているのかは、わからないのです。
ただし、『万葉集』は、持統十一年の六九七年を「天皇元年」として、
文武天皇の年紀として表記していますので、この年代よりは前となります。
あるいは、『万葉集』を分析することで、判明してくるかもしれません。
畿内日本国の最初の元号は、大宝でしょう。
九州王朝の最初の元号は、継体でしょう。
164 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 20:30:45
日本書紀に複数の並列する年代列がある理由は、九州年号から説明されるのでしょうか?また、もし、この九州年号説が主張されるとしますと、その根拠をお示しくださいませんでしょうか。
そもそも年号は権力者が決めた物とは限らないのでは?
単なる私年号をどうこういっているのとはこの場合違うでしょ。
>>1に年号など関係ない。
確認できうる大和朝廷が決めた年号というのは大化が始まりなのでは?
そんな私年号の暗号を日本書紀に入れているとしてる時点でだめだめとも言える。
>>1 を幾ら考えてもよく分からん。
もっと詳しく説明してくれ
>そもそも年号は権力者が決めた物とは限らないのでは?
例外だけですべてを語るなよ。
166さん
たしかに日本書紀紀年法と年号とが関係があるのかと言えば、あまり関係がない
かもしれません。
しかしながら、日本書紀紀年法は、1年という単位を非常に重視しています。
1で述べた「プラス・マイナス120年構想」や、ゆ年称元法という編年法にも、
年という単位が重視されていたことが示されています。
166さんは、おそらく法興年号のことをおっしゃられているのではないかと
拝察いたしますが、『日本書紀』という史書の面白さは、一見すると、
数学的構造物を構築することだけに専念しているようでいて、
その実は、非常によく日本古代史を伝えようとしているところにあるのです。
わたくしは、法興年間がわかるようにしてあることも、そのような『日本書紀』
編纂者たちの努力の一つなのではないか、と考えております。
169 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/29(火) 10:41:03
二倍年暦について、
小生、東アジアの古代文化を考える会の会員研究発表会において、二倍年暦についての研究を
発表することになりました。
「応神紀における二倍年暦ー応神紀と好太王碑文は符合する」です。
12月18日(日)一時から、渋谷区勤労福祉会館(渋谷パルコ向い)です。
会員以外でも聴講可、無料です。
二倍年暦に関心のあるかた、是非聞いてみてください。
170 :
太国:2005/11/29(火) 12:55:25
皇紀930年 と 西暦390年 か 〜?
>>1さん
法興年号についてはその時の斎宮が在位した期間を示すために
奈良時代に創作されたものと考えて良い?
もうひとつ、聖徳太子=多利思比孤は過去の「足彦」同様
実際は庚午年に亡くなっているという説はどう思いますか?
16/YXRFBRMさん
法興年号は、斎宮が在位されていた期間を示していると考えられます。
しかしながら、わたくしは、法興年号は奈良時代に創作されたのではなく、実際に
六世紀末から七世紀前半にかけて、用いられていたのではないかと推論しています。
むしろ、16/YXRFBRMさんは、どのような理由で、奈良時代に斎宮のために
年号を創作する必要があったとお考えなのでしょうか。面白い着想であると思います。
また、庚午年についてですが、過去の「足彦」とは、景行天皇と成務天皇のことですね。
『日本書紀』は、計画的に景行天皇と成務天皇に、60年づつの紀年数を割り振って
いますので、景行天皇と成務天皇のふたりの「足彦」が庚午年に崩御されていることには、
別段、意味があるわけではないと考えられます。
したがいまして、庚午年にこだわる必要はないのではないかと思います。
ただし、庚午年は推古十八年で、隋の煬帝が使人を遣わしてきた年代となっており
外交上重要な年代であることは、少し、気にかかります。
16/YXRFBRMさん
孝安天皇も庚午年であることには、気づきませんでした。
16/YXRFBRMさんは、108で書き込まれておられるように、
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎』をお読みになられているようですので、
「足彦(タリシヒコ)」は、太子のことではないか、というわたくしの説は、
どのようにお考えですか。
「足彦」が太子ならば、庚午年は、薨年というよりは、むしろ太子と関連がある
年なのではないでしょうか。
すなわち、庚午年には、太子と関連のある事件があったと推論できます。
前に「足彦」は欽明の原型だと書きましたが、
もちろん太子の原型(つまりオリジナル、実体)でもあります。
612年に堅塩媛改葬の記事がありますね、
何故この時期にだと思いますか?
庚午年の件も考慮すると610年に「足彦」が崩御したからだ、
と安易に思ってしまう訳です。
177 :
太国:2005/11/29(火) 21:32:00
仲哀天皇も御名が似てる個所あるな?
178 :
韋駄天はふと考えた:2005/11/29(火) 21:56:52
見た目では判断できない日本人か朝鮮人かを見分ける方法
(天皇家も実は朝鮮人の子孫だったという真実は、天皇家の里帰り帰省の話を
避けることでわかる)
世界一古い家柄を持つはずなのに、天皇家には帰省する故郷もなければ、
故郷に帰省する習慣がないというということで、天皇家は古代から延々と
日本人家系でないことがわかる)
・朝鮮人の場合、自分の出身地を決して語らないのと、里帰り帰省の話は避ける。
・朝鮮人の場合、自分の経歴をウソだらけにしているので矛盾する所が多々ある。
・朝鮮人の場合、自分の器を大きく見せようとするので、ウソで話が大きくなる。
要するに日ごろからウソが多くて、帰省する故郷がない日本人らしき風貌の人は、
間違いなく朝鮮人家系である。
179 :
太国:2005/11/29(火) 22:00:21
PuPuPu!!ww
16/YXRFBRMさん
108にて、16/YXRFBRMさんは、「足彦(タリシヒコ)」は欽明天皇の原型であ
るとお書きになり、そして176では、欽明天皇は、太子の原型でもあるともお書きに
なっておられるということは、欽明天皇は、6世紀前半ではなく、7世紀前半の人で
あるとお考えなのでしょうか。
取り急ぎ
>>1さん
欽明天皇が太子の原型だ、とは書いてませんよ。
176の2行目の主語は「足彦」です、
> 足彦は太子の原型でもあります。
ということです。
言葉足らずで御迷惑かけました。
それから欽明(天国排開広庭)天皇は諱も字も分からない
謎の人物と考えてきましたが、やはり架空の人かと思います。
(子孫もいませんし…)
16/YXRFBRMさん
わたくしは、拙著『聖徳太子と法隆寺の謎』において、「足彦(タリシヒコ)=
太子」という説を提起させていただきました。これには、ご賛同いただける
わけでしょうか。
また、16/YXRFBRMさんは、『隋書』の「タリシヒコ」と「足彦」は無関係
とお考えのようですが、わたくしは、「足彦」は「太子彦(タリシヒコ)」
という一般名詞なのではないかと推論しております。。
取り急ぎ
>>1さん
「多利思比孤=聖徳太子」説は賛成です。
また「阿毎多利思(大足)」はこの人の諱であり、
太子の音訳の類ではないと思います。
あまたりしひこは、九州王朝の天子です。
聖徳太子は王様ですらありません。
まったくの別人です。
185 :
日本@名無史さん:2005/11/30(水) 18:30:43
聖徳太子につきましては、さまざまな説を唱えていらっしゃるようですが、皆様方のご説の根拠をお教えいただけますでしょうか。
聖徳太子は、天子でもなく、天皇でもなく、王様や豪族の長ですらない、
ただの高貴な畿内人。
聖徳太子が日本列島の代表者だとか、煬帝に遣隋使を派遣したとか、
中国に対等外交を示しただとか、嘘八百を唱える根拠を先に示されたい。
16/YXRFBRMさん
それでは、「足彦」と「大足」は、それぞれ異なる定義で、
「足彦」は「太子」の原型で、「大足」は「多利思比孤」の諱
ということなのですか。
わたくしは、「足彦」=「多利思比孤」=「太子」であると思いますが、
では、「足彦」や「大足」の「足(たらし)」は、どのような定義とお考えですか。
186さん
聖徳太子につきましては、虚構論も含めてさまざまな議論があります。
その議論のなかで、「多利思比孤」の問題と聖徳太子の問題が、よく整理
されていないことに、議論に混乱がもたらされている原因があるのではな
いかと考えております。
『隋書』に記載のあるとおり、「多利思比孤」という人物が実在しており、
煬帝に遣隋使を遣わしたことは確かです。
しかしながら、「多利思比孤」が、『日本書紀』のなかの誰のことであるのか、
といった比定問題があり、厩戸皇子のこととなりますと、聖徳太子であるという
ことになります。
186さんは、「多利思比孤」の存在をも否定なさっておられるのでしょうか。
189 :
太国:2005/11/30(水) 20:26:39
何かが「具足」されている意味ではないでですかな?w
アメノタリシヒコ つまり天から舞い降りてきた人という意味だよ。
オオキミの枕詞みたいなものだ。
そんなことより数学的な年代列とやらを説明してよ。
191 :
太国:2005/11/30(水) 22:16:22
ははぁ、天孫降臨者か?すると孝安天皇は「日本足彦國押人尊」だがこの御名の意味は
どうなるのか?日本国から舞い降りてきたのかい?
192 :
186:2005/12/01(木) 00:58:51
>188
>186さんは、「多利思比孤」の存在をも否定なさっておられるのでしょうか。
肯定しています。否定しているのは「むりな比定行為」です。
お互い外国人である多利思比孤と聖徳太子が、なぜ同一人物なのでしょうか?
多利思比孤は北部九州の天子です。聖徳太子は経済的には豊かですが
領土的には狭い畿内の宮廷人です。二人の外人をどうしてくっつけて比定するのですか?
190さん
『日本書紀』には、1をお読みいただきましたならわかりますように、
「プラス・マイナス120年構想」などを構成する「年代列」があります。
例えば、「プラス・マイナス120年構想」ですと、
「応神元年=西暦三九〇年」を基準年とする応神列(A列)、
「雄略五年=西暦四六一年」を基準年とする雄略列(B列)
「允恭五年=西暦四三七年」を基準年とする允恭列(C列)
「仁徳元年=西暦三九七年」を基準年とする仁徳列(D列)
という、複数の「年代列」が並列する構造になっています。
応神列(A列)と雄略列(B列)間の実年代との対称関係における年差も120年です。
図表を用いないで説明いたしますと、わかりずらいのですが、実年代との対称関係が
それぞれ異なる年表が複数並行して並べてあると考えれば、わかりやすいかもしれません。
『日本書紀』には、「プラス・マイナス120年構想」の他にも、別の構想を構成する
「年代列」もあります。わからない点、疑問点がありましたならば、どうぞ、ご質問ください。
192さん
仮に、多利思比孤が九州王朝の天子で、聖徳太子が畿内の宮廷人
であるのならば、『日本書紀』の厩戸皇子とは、どちらのこととお考え
なのでしょうか。
195 :
192:2005/12/01(木) 14:19:23
日本書紀の人物研究をしたことがないので、よくわかりませんが、
古事記を編纂したあとで、畿内王権は九州王朝の王室記録などが
手に入ったので、これを取り込んで日本書紀にしたわけですが、
畿内人と漢籍に記述のある九州王朝人を重ね合わせるように努めました。
時はちょうど、武韋の禍が過ぎて、畿内王朝一元史観を唐や新羅に
公式認定してもらいたい時でした。
こんななかで、複数の人物の業績をひとりの人物に仮託したり、
別人の中間的な呼称を多用して結びつけたりしましたね。
「上宮聖徳法皇帝説」などは、この捏造が如実に出ていると思います。
別人による「三経義疏」著や「法隆寺」建立も仮託ですね。
196 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 15:24:37
もしも、日本書紀の編纂の目的が、唐や新羅といった外国に求めてもらうことであったならば、より正確な漢文体で記述されたのではないでしょうか。
195さん
195さんは、九州王朝説をとなえられておられますが、これは『隋書』の「竹斯国」
のこととお考えなのでしょうか。また、「竹斯国以東皆附庸」という『隋書』の
一文をどのように解釈されておられるのでしょうか。
基準年とは元年という意味か?
それとも書記が確信を持って定めている年代という意味か?
例えば応神列に含まれる事跡とは何か、その実年代とは
120年構想とは実年代とのずれなのか?
>>191太国さん
日本足彦國押人尊とは大和に舞い降りたる国を治めし人という意味ですよ。
多利思比孤の記述は600年にはすでに天孫神話が成立していたことを証明する物です。
200 :
太国:2005/12/01(木) 21:11:08
>>199 じゃぁ、「足仲彦尊」は舞い降りる途中で頓死した意味かい?
198さん
基準年とは、『日本書紀』が確信をもって定めている紀年と実年代との1対1の関係のことです。
基準年が一箇所決まれば、他の紀年は次々と実年代に対称させてゆくことができます。
例えば、応神列の基準年は「応神元年=西暦390年」ですので、応神二年は西暦391年
となります。このように基準年をもとに紀年と実年代を次々に対称させてゆくと、
「年代列」が形成されてくるのです。応神紀の事蹟は、応神列上に求めた年代に発生
したと考えることができます。
「プラス・マイナス120年構想」とは、1で述べたような神功元年から雄略五年までの
間に、成り立っている構想のことをいいますが、「応神元年=390年」が基準年の
応神列と「雄略五年=461年」が基準年の雄略列とは、実年代との間に
120年のズレがあります。これも、120年構想といえます。
>>1さん
「足(帯)」の『シ』は「石」のことで
「石」の原義は不明です。
足⇔石の交換は可能と考えています。
例えば敏達の母「石姫」は「足姫」です。
203 :
195:2005/12/02(金) 06:09:44
イ妥国でしょう。
204 :
195:2005/12/02(金) 06:10:34
>197
イ妥国でしょう。
16/YXRFBRMさん
仮に、「足(帯)」が石のことであるのならば、
それでは、なぜ、『日本書紀』は、石のことに「石」という字を充てたり、
「足」という字を充てたり、使い分けをしているのでしょうか。
皇極天皇も「石姫」ということなのでしょうか。
また、石が訛って「足(あし)」となったのであるならば、「太子(たいし)」が
訛って「足(たらし)」であるというわたくしの説も説得力があると思いますが、
いかがでしょうか。
195さん
『隋書』において「倭国」が「たい国」となっていることから、195さんは
「竹斯国」は、「たい国」のことであると推論なされたと拝察いたします。
しかしながら、斐世清は、「竹斯国」を経由して目的地へ向かっております。
「たい国」は、畿内にあった可能性のほうが高いのではないでしょうか。
わたくしは、「たい」は、やはり「倭」の誤記ではないかと考えております。
207 :
太国:2005/12/02(金) 09:46:02
まるで「妖女ゴーゴン」だな?w
太国さん
「妖女ゴーゴン」とは、何のことであるのかわかりませんでした。
やっとわかりました。
孝安天皇さん、景行天皇さん、成務天皇さん、葛城磐姫さん、石姫皇女さん、
皇極天皇さんは、みなさん「妖女ゴーゴン」を見てしまったというのですね。
209 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 20:53:14
日本書紀の紀年が、複数の年代列によって構成されていることを示すような、何か、確実な根拠がありましたら教えてくださいますでしょうか。
>>1さん
多利思比孤の件はしばらく保留にしましょう。
>妖女ゴーゴン
仁賢天皇も追加して下さい、
皇極は宝皇女で葛城磐之姫はイワなので除外です。
211 :
195:2005/12/03(土) 00:32:17
>206
小野妹子が隋の国書を紛失したのに、
どうして罪に問われていないのかを問題にすべきでしょう。
実は、小野妹子は煬帝の国書をはじめから受け取っていません。
つまり、隋に国書を送ったのは、畿内の王権じゃないのです。
斐世清が本当に畿内に来たかどうかは、
研究したことが無いから知りません。
横から失礼。
裕子さんにお願い。番号やIDの前にアンカー、>>←これを付けてください。
それで幾分か読みやすくなります。
213 :
太国:2005/12/03(土) 09:45:28
>>212さん
読みづらい書き込みになっておりまして、申し訳ありませんでした。
これからは、「>>」を付けるようにいたします。
215 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 09:58:33
>>214 レス番号は半角文字にした方が便利です。
クリックすれば該レスに飛びますので。
>>209さん
>>1にて述べましたように、神功元年から雄略五年までの間に、
「プラス・マイナス120年構想」が成り立つことによって示されています。
また、神功紀には、『魏志』倭人伝からの引用文と4世紀後半の百済王の
即位と薨年についての記述が見えますが、これらの海外史料を踏まえますと、
神功元年は、西暦二〇一年と西暦三二一年の2箇所に設定されていると、
考えざるをえません。そして、西暦二〇一年と西暦三二一年の年差は120年
です。2箇所に神功元年が設定されていることは、複数の「年代列」が設定され
ているという考えにおいて、説明することができます。
>>215さん
ご指摘いただきまして、ありがたく存じます。
>>214では全角にしてしまって、どうも間違ったのではないかと考え、
>>216では半角にしてみたところ、ご指摘のとおり、半角でした。
複数の「年代列」とは結局神功紀に海外資料を間違って引用したという意味だけかい?
>>195さん
『日本書紀』では、小野妹子が国書を紛失したとされていることについては、
確かにさまざまな憶測をすることができます。
わたくしも、この問題については、研究中です。九州王朝説という考えも、
もちろん、ひとつのアプローチでしょうし、また、ゆるい形にせよ、
統合されていたという考えもひとつのアプローチとなるでしょう。
どちらのアプローチからの研究も、まだ、定説に至っておりませんので、
面白い研究課題であると思います。ぜひ、議論したいものです。
>>218さん
複数の「年代列」は、神功紀に海外資料を間違って引用したから発生したのではなく、
『日本書紀』は、神功紀で、西暦二〇一年から西暦三八九年までの189年間を扱って
いるのです。
>>216で、神功元年は西暦二〇一年と西暦三二一年の2箇所に設定されている
と述べましたが、応神列(A列)上の神功元年が西暦三二一年で、雄略列(B列)上の
神功元年が西暦二〇一年です。神功紀は、189年間を2本の「年代列」によって
表現しているのです。このため、神功紀には、3世紀と4世紀の海外資料が含まれて
いるのです。
16/YXRFBRMさん
「石」の訓が「いわ」であるのか、「いし」であるのかが問題なわけですね。
それでは、『日本書紀』や『古事記』では、なぜ、「いわ」に対しても「石」
という漢字を充てている場合があるのでしょうか。
223 :
太国:2005/12/03(土) 15:11:47
「イワスワケノミコト」でよろしいんじゃぁないんですか?
224 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 15:37:44
『日本書紀の真実』を読ませていただきました。『日本書紀』には複数の年代列が並列しているとしますと、何故、倭の五王の比定が、これまでの定説と異なってくるのでしょうか。
>>224さん
拙著『日本書紀の真実』を御一読いただきまして、ありがたく存じます。
『日本書紀』が、五世紀を複数の「年代列」において扱っていることが、
はっきりしたことによって、五世紀に実在していた倭の五王の問題も解けて
くることになったからです。
また、わたくしが、倭王武雄略説ではなく、倭王興雄略説を提起させてい
ただいていることにつきましては、これは、日本書紀紀年法が解けたから
ではありません。むしろ、研究史上、よく検証されないで、倭王武雄略説が
感覚的に成立してしまっていたことに主な原因があります。
226 :
太国:2005/12/03(土) 16:10:17
なぜ、興王が雄略天皇なんだろう?間違いだよ。
228 :
太国:2005/12/03(土) 17:06:06
「興」が雄略の「オオハセノワカタケルノミコト」とぜんぜん名が違う。
宮の名、「泊瀬朝倉宮」にも「興」の字など出てこない。
どれもこれも五王に共通点はせいぜい雄略の『武』くらいしかない。だから
『武』字はたまたま一致しただけで、別人だ。
五王は天皇にあらず。
要するに神功記を120年短くする代わりに
応神と雄略の間を引き延ばして
仁徳を入れたわけだな。
まず、定説化されております倭王武雄略説につきましては、以下の点から疑問を指摘
することができます。
1)『宋書』に載る西暦四七八年の遣使の際の「武」の上表文の内容から、西暦四七八年は、
「武」が倭王位を継いでまもない頃と考えられますが、西暦四七八年は、すでに雄略末年に
近く、雄略二十二年に相当しています(雄略紀は雄略二十三年までです)。
2)「興」の遣使の年代の西暦四六二年は、雄略六年に相当しています。「興」の次の
倭王が「武」ですので、「興」の想定在位期間は、雄略六年から雄略二十二年頃まで
となり、雄略天皇の在位期間と重なります。
したがいまして、「興」が雄略天皇に比定されえると考えられます。
>>229さん
応神元年は西暦三九〇年で、雄略五年が西暦四六一年ですので、この間に実際
に経過した年数は、72年ですが、応神元年から雄略五年までに配布されている
紀年数の合計は192です。したがいまして、神功紀を120年短くしたかわりに、
応神元年から雄略五年までの間で、120年長くしていることになります。
仁徳紀を入れたというよりも、この間の各天皇紀に「延長紀年」が加算
されています。これを「プラス・マイナス120年構想」と名づけました。
232 :
太国:2005/12/03(土) 21:35:53
ここは古代史の中で余にとってはもっとも難しい個所なので、説明不十分な点
が出てくればその分お詫びしたいところだが、少なくとも余は倭の五王が各天皇
ではないことは覚知している。
さて、これを易しく理解してもらうにはなかなか容易ではないが、
まず
>>228 の点だけでも多少は不等号であることが、呼吸を静かにして
客観的に考察して、そうである事がうっすら読める筈だ。しかしいったん研究
重ねている各位にあっては、なかなか自己の論からの脱却は困難ではあろう。
残念でならない。即位、在位等がどのくらい合うのか?それくらいでは等号
にはならないのである。
江戸幕府が各将軍を立てていっても、結局は双立で朝廷の天皇も即位している。
将軍は天皇ではない。これと同様に五王は各天皇ではないのである。
当時、朝廷の他に、短期に五王朝が日本のどこかに存在したのだ。
確かに北九州に王朝の出先機関があり、かなりの権力を持っていたことはあり得る。
室町幕府における鎌倉のようなものを考えることは不可能ではない。
仁徳紀はまた別の年代列を形成しているのだから、
仁徳紀を挿入したと考えても良いのでは?
235 :
太国:2005/12/03(土) 22:52:00
高木彬光氏の「古代天皇の秘密」のお考えを踏襲しておられるのですかな?
確認したいのですが
たとえば321年は日本書紀が応神列における神功元年の実年代と想定した年で、
それが本当に実年代かどうかは文献だけでは分かりませんよね?
237 :
太国:2005/12/03(土) 23:00:08
>>234 >>235 ははぁ、間違いでしたか?逆だったようです?挿入でなく抜いたんでしたっけ?
かなり昔に読んだので忘れてしまいました。失礼。
応神紀ー雄略紀は九州にゆかりのある年代列に対して
仁徳(葛城)は畿内だけの年代列とも考えられないかと考えたんだけど。
高木さんは何を抜いたんですか?
239 :
太国:2005/12/03(土) 23:14:03
仁徳だったと思います?随分昔のことで出版直後購入しましたが、
記憶が薄れてしまっています。1回読んだきりなので・・・・・。
いや仁徳を抜けば実年代となると考えられる。
高木さんは正しい推理をしている。
241 :
太国:2005/12/03(土) 23:24:07
余はその説を採っていません。夜が更けました。明日にまた・・・・。
>>222-223 違います。「石」の訓が「シ」であるか否かが問題な訳で、
「石」に「イワ」「イシ」「イソ」等他の訓が存在しても何ら問題ありません。
(中略)
石姫(敏達母)の諡は「石」の前に何か省略された文字があるはずで、
それは「科長」と「奈良」かと思うんですよ。
訂正
>>210 > 葛城磐之姫
は葛城磐之媛の間違いです。
6世紀になっても播磨国が外国だった畿内王権にとって、
倭の五王は単なる外国人。
畿内のオオキミに、倭の五王を比定するのは
沖縄県知事と北海道知事をイコールで結ぶような
お間抜け努力。
>>太国さん
わたくしは、倭の五王の存在は、『日本書紀』に反映されていると考えております。
倭の五王が、畿内の朝廷とは別王朝の首長であったのならば、『宋書』収載の倭王武上表文
に伝わる、「祖禰」の業績はどのようにお考えでしょうか。「禰」の業績についての
記述からは、倭の五王の朝廷は、地理的に畿内に所在していたと推測できるようです。
また、朝廷と幕府というアプローチもありますが、天皇と太子というアプローチも
あるのではないかと思います。
>>236さん
たしかに、『日本書紀』が西暦321年を応神列上の神功元年に設定したことと
『日本書紀』が神功皇后とみなしている人物が、西暦321年に、本当に摂政と
なっていたのかは、別問題です。雄略列上の神功皇后は卑弥呼とと与である
ことははっきりしておりますが、4世紀後半代に神功皇后として認識される
ような人物が、実在していたのかは、課題となるでしょう。
したがいまして、現時点では、日本書紀紀年法の構造において、神功紀には
西暦二〇一年と西暦三二一年の2箇所に設定されているという点のみが、
はっきりしていることになります。
渡平海北九十五国(宋書倭国伝)
炤知麻立干の時代まで新羅を攻め続けた倭人って九州王朝の海賊かな?
248 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 12:49:22
”天皇”という称号は、天武朝の頃に成立したと言われておりますが、倭の五王の比定問題も、古代国家において如何なる地位や職があったのか、という問題からアプローチする必要があるように思われます。古代国家とは、如何なる政体を形作っていたのでしょうか。
249 :
太国:2005/12/04(日) 14:58:22
>>245 その業績とやらは神武以前の日本のことと考察しますな。
そのころに日本に五王の先祖がいて、神武世から仲哀世までは、その先祖から
五王の間の五王の王系が、ある秘匿される理由で大中断してるという意味なんです。
日本書紀紀年法研究家 はご自分が確定した日本書紀の年代よりも
宋書の方が実年代に近いと考えますか?
私は倭の五王は北九州にあった大和朝廷の出先機関の長と考えます。
出先機関の長といっても天孫の一族であり、
「祖禰」の業績の記述は偽りではありません。
>>249さん
それでは、神武天皇をいつの時代の人物であるとお考えなのでしょうか。
また、太国さんのおっしゃられる「五王の間の五王の王系」につきまして、
『宋書』と『梁書』の間に、倭の五王の系譜に若干の相違があることを、
どのように解釈されておられますか。
>>250さん
わたくしは、倭の五王は、一応、『日本書紀』の人物に比定にされえると
考えております。『宋書』などに記載される倭の五王の遣使年と確定した
各々の「年代列」上の天皇の史実としての在位期間との間には、あまり矛盾点
が認められないからです。しかしながら、『宋書』と『梁書』の間に、倭王の
名や系譜の違いが見られることも含めて、多くの問題が残されていることも確かです。
250さんのように、後の大宰府のような大和朝廷の出先機関の長であったというお考え
ひとつの有効なアプローチかもしれません。
>>248を読んで感じた、倭の五王に関して素人なりの考察ですが、
大和朝廷の権威が通じにくい地域(例えば半島など)での交渉時のため、大陸の権威が必要だと思った朝廷が、
当該機関(例えば任那日本府)の長官の権威付けをするために大陸へ出向かせ、称号をもらいに行ったのでは。
現在の日本にも王と呼ばれる人は数人います。
倭王武の上表文とは何かです。
後の遣隋使に置ける国書とは大違いです。
もし本当に天皇の書類であるなら、天子等の語を用いるでしょう。
それから出先機関ですが、任那と考えても良いかなと思ってます。
強気すぎますか?
>>254さん
確かに、倭王武上表文については、ご指摘のとおり、史料批判が必要であると思います。
しかしながら、わたくしは、上表文は、問題点は多くあるものの、五世紀の状況を
自国の側から語った極めて貴重な史料であるとも考えております。
また、倭王たちの爵号に含まれている諸国を踏まえますと、出先機関を任那ではないか
とする254さんの説は、一案であると思います。
いずれにいたしましても、『魏志』倭人伝によりますと、政治は、卑弥呼ではなく「男弟」が
携わっていたようですので、日本古代における統治のあり方などを、もう少し研究
してみる必要があるのではないかと考えております。
256 :
平和市民!!日中友好!!:2005/12/04(日) 19:49:09
257 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 20:22:08
>>253 倭の五王を任那の長官であると仮定しますと、『宋書』には系図が載せておりますので、世襲官職であったことになるのでしょうか。
>>257 国造とかも世襲だったと記憶してますので、もうワンランク上の、皇族もしくは
現地で大和朝廷に恭順した王族クラスが長官になったのかと想像してます。
任那日本俯の所在地もはっきりしないし、
宇佐八幡も捨てがたい。
強気に出すぎて左翼に目を付けられても困る。
260 :
太国:2005/12/04(日) 23:45:53
>>251 そこんところ(いずれの書が正か?)が難しいんです。
残念ながら、これに関してはまだ?です。
なお、
>>249 の「五王の間の五王の王系」というのは誤解を招く説明の仕方で
あいすみません。神武以前の五王の先祖から、おおむね
神武〜仲哀、神功あたりの世の間の王系が大中断されているという意味です。
「 」内は五王の時代の途中の分断の意味ではなく、上述の意味であり是正します。
ということで、業績とやらは、五王の世のことではなく神武以前の先祖の活躍
を云っているわけです。五王自体は各天皇ではありません。
262 :
太国:2005/12/05(月) 08:29:15
>>240 あの先生のやり方はうまくないと思いますよ。
五王もそうですが、年号が合わないとかで、合わせるために1代分の天皇を除くのは
まずいです。帯に短し襷に長しで、いろいろと思い悩んでのあと、ああこれがいい、
よく合うと考えたんでしょうが、それは襷を勝手に数センチメートル短く切断したわけで、
これなら服装にピタリと合うに決まってますよ。勝手に切断はうまくないです。
倭の五王問題をめぐっては、天皇や倭王はどのような存在であったのか、という点が解明され
ない以上、倭王と『日本書紀』の天皇との関連を明かとすることも難しく、議論が平
行線をだどってしまっているようです。
>>1で述べましたように、日本書紀紀年法は、五世紀代を、応神列(A列)、雄略(B列)、
允恭列(C列)、仁徳列(D列)という複数の「年代列」で扱っております。
倭の五王も、五世紀代ですので、「プラス・マイナス120年構想」は、倭の五王
の問題を解明するのに、必ずや何らかの役に立つのではないかとは考えております。
しかしながら、わたくしも、まだ、研究段階で、問題点をきれいに整理しておりません。
そこで、倭の五王の問題にこだわらず、まずは、仁徳紀が仁徳列(D列)
に属し、仁徳元年が西暦397年に位置付けられていることについて、
賛否両論どちらでもかまいませんので、ご意見をお聞かせください。
>>240さん
>>262さん
応神元(390)年から雄略五(461)年までの72年間に対して、加算さ
れている紀年数120年の内訳において、仁徳紀に加算されている「延長紀年」は、
57年ですので、仁徳紀一代分が加えられているという考えも、また、仁徳紀一代分を
除くとう考えも、成立しないと思います。
>>261さん
わたくしが、日本女子大学文学部史学科卒であることからのエールでしょうか。
ありがたく存じます。
允恭列(C列)仁徳列(D列)の定義に関して疑問質問がある。
1)允恭五年紀は武内宿禰の名を出している時点で
信憑性に欠けるのではないか?
2)応神仁徳間の空位二年と宇遅若郎子と仁徳の
儒教的美談で埋めているがこの話の意図は何だと思いますか?
3)反正允恭間空位一年の扱いの真意についてどう思いますか?
>>266さん
ご質問に以下のように、お答えいたしたいと思います。
1)「武内宿禰」につきましては、確かにご指摘のとおりに、実在の人物であるのか
否かも含めて問題はあるかと思います。しかしながら、わたくしは、「武内宿禰」を
もって、允恭五年紀すべてが信憑性に欠けるとは考えておりません。むしろ、瑞歯別
天皇(反正天皇)の殯の記事に注目いたしました。
2)史実として、宇遅若郎子と仁徳天皇との間に皇位継承争いがあったのではないか、
と考えております。
3)反正允恭間空位一年は、仁徳列(D列)上において西暦438年に相当しています。
そこで、『類聚国史』、『日本紀略』、『水鏡』などには、反正六年とあることが注目されます。
反正天皇の崩年は、反正五年の四三七年ですが、反正天皇に比定されえる倭の五王の「珍」
の遣使年は438年ですので(没後に遣使が宋朝廷に到着したと考えられます)、
『日本書紀』などは、「珍」が反正天皇に比定されえることを示すために、
允恭元年を438年に充てず、空位、もしくは、反正六年としたと、推論しておきたいと思います。
268 :
太国:2005/12/05(月) 16:21:52
2)争いはワキイラツコと大山守命の間でないの?
269 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:53:20
>>259 宇佐神宮の宮司さんがお書きになりました著書によりますと、宇佐神宮は応神天皇と関係があるようです。そういたしますと、応神天皇が、倭の五王の一人である可能性もあながち否定できないものと思われますが、いかがでしょうか?
270 :
太国:2005/12/05(月) 19:57:26
違いますな。
>>268さん
応神仁徳間二年の空位は、宇遅若郎子と大山守命との間の争いと、その後に発生いたし
ました宇遅若郎子と仁徳天皇との間の皇位の譲り合いという2つの事件が原因
しております。
>>266さんがおしゃられる「儒教的美談」とは、宇遅若郎子と仁徳
天皇との間の皇位の譲り合いのことです。
272 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 20:27:54
>>270 応神天皇が、倭の五王のお一人ではない、ときっぱりと断言されておられますが、その根拠をご説明くださいませ。
273 :
太国:2005/12/05(月) 20:41:53
>>228 のとおりです。
>>245 の宗書の祖禰の業績の話の内容で、五王が畿内に
係りあるように見えることから五王を当時の各天皇に当てたくなるのでしょうが、
その>228の件と、そこの業績とやらが、五王の先祖(神武以前に相当)の
大昔の制覇の話だと考察するのが至当だと判断したためです。
五王と天皇の御名、号が、「武」以外ほとんど合わないので各別人と認定します。
衆夷が九州から近畿、毛人が美濃以東。
半島が海北となってるので起点は九州。
で後に主権が近畿に移っても半島=海北を踏襲、って感じじゃないの?
276 :
261:2005/12/06(火) 02:25:35
>265
私は男ですが、入り口の枝垂桜と、しっとりとした校風が好きでした。
日本書紀紀年法研究家さんの言葉遣いが、その印象そのもの。
すれ違い失礼。レス不要です。
277 :
太国:2005/12/06(火) 06:23:14
>>275 五王と当時の各天皇との系譜の一致ということでしょうか?
一致してるんですか?合わんでしょう?
>>273さん
「祖禰」を先祖という意味の一般名詞とお考えなのでしょうか、それとも、
「興」や「武」のように固有名詞とお考えなのでしょうか。
また、倭の五王の比定については、例えば、「武」にしても『日本書紀』は
「武(たけ)」ですが、『古事記』では「建(たける)」です。「武」もまた、
天皇の御名や号とは一致していないと考えられます。
音韻学からアプローチいたしますと、「武」も含めて、歴代天皇に比定することは
難しいようです。
279 :
太国:2005/12/06(火) 09:39:17
>>278 神武以前の事ですからね〜。ここまでさかのぼりますと記紀でも大昔すぎて欠落
とか無記録とか不明な点がある程度あると見ています。記紀にはない事項で、
古史古伝にはウガヤフキアヘズ72代位が存在したとの記録が残っていますし・・・。
ところが記紀も古史古伝等も神武以降の各天皇の存在とかはおのおのがまず一致
していますので、アナログ的視点では誤認は少ないぞと考察します。
デジタル式では記紀は不明確でしょう。天皇の歳数字が記紀の双方は不一致
でありますから・・・。そういうことで、
神武以前の「祖禰」のことは単に先祖の意味だけなのか、そのような固有名詞の
先祖がいたのかということは、記録不足でまだ分かる段階ではありません。
とにかく、そこの「業績」とやらが実は神武以前の神代の記録の言葉であり、
五王の存在が畿内ではなくともつじつまが合うことがご理解頂けると思います。
東西の情勢を話した「業績」の内容は、神代のある時の消息でありますから、
これは貴重な、神武以前の日本の姿を説明した有価値ある文ということになります。
先に、神武天皇が何時ごろの人なのか?との問いをいたしましたよね・・・?
2倍暦は合理性あると思いますが?秘的研究で私論ありますが、2chに書き込む
ことは時期尚早のために保留中なのです。
>>279さん
太国さんが、秘的ご研究の成果を、今後発表なさることを楽しみにしております。
ところで、
>>279でおっしゃられる「古史古伝」とは、いったいどのようなものな
のでしょうか。口伝なのでしょうか。
>>279-200古史古伝
主に幕末明治初期に作られた偽史書。
お勧めの本は長山靖生の「人はなぜ歴史を偽造するのか」(新潮社)
>>267 1)つまり五年紀には殯の記事さえあればいいということですか、
3)岩波文庫の注などには反正五年紀の日付は六年ではあわず五年が正解らしいけど?
282 :
太国:2005/12/06(火) 14:30:58
>>280 刊行されてますよ。偽書のレッテルを貼られているようです。
注意は必要です。
>>281さん
「古史古伝」については存じておりませんでした。教えていただきまして
ありがたく存じます。
また、
>>267につきましては、以下のように、お答えいたしたいと思います。
1)の反正天皇の殯の記述につきましては、『古事記』の崩年干支に
よる反正天皇の崩年が西暦四三七年ですので、この年代が、允恭五年に相当
することを示すために、殯の記述が設定されていると考えました。允恭列(C列)
の「基準年」となる「允恭五年=四三七年」を特定するのに、役立ちました。
3)は、反正允恭間一年の空位年が、反正六年のことではないかと推論
いたしました。
いやー、いつの間にか五王の話題になってますね。
もちろん、興味深い話題ですけど…。
天皇のいずれかなのか、それとも九州王朝?の王なのか…。
いつかわかる日がくるといいですね。
>>282さん
「古史古伝」が刊行されていることを教えていただきまして、
ありがたく存じます。どちらの出版社から刊行されているのでしょうか。
また、太国さんは、「古史古伝」は偽書ではなく、部分的には史実も伝えている
とお考えなのでしょうか。
286 :
太国:2005/12/06(火) 15:31:03
>>285 八幡書店から殆ど復刻されているはずです。たとえば
「神皇紀」「上津文」「九鬼文献」「秀真伝」「竹内文献」等あります。
それにご存知でしょうが、「旧事紀」、また「先代旧事本紀大成経」他あります。
上の書はほぼ神武以降の各天皇の存在に関しては、大略そのとおり主張してますので、
その点においては疑念はまず不要ですよ。
ただ最も槍玉に上がっているのは「竹内文献」で、これはお止めになったほうが
いいかも知れません。信じにくいです。
長山さんの著書を2点ばかり読ませてもらいましたが、記紀はいいとして、
「魏志倭人伝」「宗書」「梁書」等はまだ偽書だとは本人は主張していないと
思いますので、先述の五王の祖禰の「業績」においては堂々論理の展開ができるで
しょう。「業績」の内容は神武以前の日本の姿を簡略に言っている貴重な文です。
287 :
太国:2005/12/06(火) 15:42:37
「大成経」のほうは八幡から出ていなかったかもしれません。
私の持っているのは 宮東齋臣編 のです。ググッてみて下さい。
ほかに「天書」(アマツフミ)とかいう書もあります。どこかの図書館の
所蔵の書だったと思います。過去の「ワンダーライフ」とかいう今は廃刊の
雑誌にこれの解説が載っていましたよ。
>>286さん
偽書といわれるさまざまな書物があることを教えていただきまして、
ありがたく存じます。わたくしは、これまで『日本書紀』や『古事記』、そして、
『先代旧辞本紀』、『扶桑略記』、『帝王編年記』などの範囲にて、
研究しておりましたが、偽書とされているような書物の存在にも目を配らねばなら
ないのかもしれません。
しかしながら、『日本書紀』や『古事記』にしても、やはり史料批判が必要ですのに、
これらの書物の内容の真偽を見極めるのは、大変なことであると思います。
289 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 20:43:17
倭の五王が話題となっているようですが、やはり、古代日本国の政体を解き明かしますことが、倭の五王の比定問題を解く鍵になるように思えます。天武期以降に”天皇”と呼ばれるようになる地位は、氏族連合を束ねる役割であったのでしょうか?
天皇の並外れた長寿と在位期間、中国史書に明記されながら特定できない「倭の五王」。
1300年にわたって日本人を悩ませ続けた、「書紀」の非合理な記述の謎。
すべてを「紀年」の鮮やかな切り分けにより解き明かす!
この本は倭の五王の謎を解き明かしています。読んでください。
291 :
↑:2005/12/07(水) 02:54:48
この本とは、どの本ですか?
>>34 これが正しいなら仁徳天皇陵は雄略天皇が立てたのか?
>>290さん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』を評価してくださいまして
ありがたく存じます。
>>1で述べましたように、拙著の発表後において、古代史研
究家、ならびに、一般からの反応があまりなかったものですから、
議論の場として、このスレットを立てさせていただきました。
日本書紀紀年法や倭の五王につきまして興味がありましたならば、皆様、ぜひ、
議論にご参加くださいませ。
>>292さん
>>34のとおりですと、たしかに、五世紀後半に築造されたと推定されている
仁徳天皇陵は、雄略天皇陵である可能性が出てまいります。
しかしながら、
>>34においては述べませんでしたが、各々の「年代列」には、
「確定紀年」と「延長紀年」の区別があります。応神元年から雄略五年までの
実際の経過年数の72年間に、120年分の紀年が加算されていますので、
「延長紀年」というものがあるのです。允恭列の「延長紀年」は西暦四七四年、
仁徳列の「延長紀年」は西暦四八三年まで延びてまいります。したがいまして、
仁徳天皇陵を雄略天皇陵と決め付けてしまうことは早急で、まだ、議論が必要です。
295 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 12:31:16
それでは、仁徳天皇の御陵と言われております大山陵古墳は、どなたの御陵なのでしょうか?
>>98-99がすべてだよ。
日本書紀を古事記で修正する以外に妥当性のある方法はない。
しかしその結論が妥当かどうかは別問題。
>>296さん
>>36と
>>46をご覧いただきたいと思います。わたくしの紀年論は、『古事記』の崩年干支
と『日本書紀』の編年との間には、
>>36で示しました法則があることに
気づいたことから解けたものです。したがいまして、『古事記』の崩年干支と極めて
高い整合性を認めることができます。結論においても妥当性を主張できるのではないかと
思います。
>>36,
>>46の法則は仁徳列だけの法則でしょうか?
他の年代列についてもご説明していただけないでしょうか?
>>298さん
仁徳列と允恭列において
>>36の法則が適用できます。しかしながら、允恭列の場合は、
逾年称元法で整理しなければなりません。『古事記』では、允恭天皇の崩御後に、
木梨軽皇子が「日継」に定められたと見えますので、允恭天皇の『古事記』崩年干支の
西暦四五四年の翌年の西暦四五五年が、『日本書紀』で木梨軽皇子の立太子の記述
の見える允恭二十三年に相当してくると考えることができます。
また、応神列と雄略列については、応神紀や雄略紀に記載される百済王の即位年や薨年などと
海外史料とを較べることによって、「基準年」が確定されてくることになります。
換言いたしますと、允恭列や仁徳列の扱う天皇紀には、海外史料と較べることに
よって、「基準年」を確定できるような記述が無いため、
>>36で述べたような法則が
必要とされていたことになります。
舒明は義慈元年に王の名代として倭国に派遣された男だよ
天智は舒明の弟塞城、古事記でいうと中津王だ
301 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 19:34:53
>>300 舒明天皇が男性であって、天智天皇は、弟にあたるとのご説ですが、その根拠をお教えくださいませ。
302 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 21:00:23
とにかく、明治時代の英国人の学者が
2倍年暦を指摘したんだけど、当時の考古学者というか
日本政府は、2600年に拘ったんだよね。
実は日本書紀って、結構、断定ではなく推定で締めくくったりしている。
つまり、最初から作り話をしてやろうと感じで書いてはいない。
>>302さん
明治時代の英国人学者とは、ウィリアム・ブラムセン氏のことで、
"Japanese Chronological Tables"という論文です。
わたくしは、二倍年暦はあったかもしれないと、考えておりますが、日本書紀紀年法
は、三善清行も「革命勘文」にて指摘しているように、しん緯暦運説の天数などを用
いて構築された数学的構造物と推論しております。
また、数学的構造物だからといって、作り話ではなく、紀年に相当する実年代が、
わかるようになっているところに、日本書紀紀年法の面白さがあるのではないかと
考えております。
304 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 19:59:02
他にも、紀年論争に参加した外国の研究者の方は、いらしたのですか?
>>304さん
『日本書紀』を英訳された英国の外交官、G.アストン氏や『古事記』を英訳された東京
帝国大学招聘教授のB.H.チェンバレン博士も、明治時代に紀年論争に参加されています。
306 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 09:39:34
紀年法の研究史につきまして、簡単にご説明いただけないでしょうか。
>>306さん
日本書紀紀年法についての研究は、明治時代に実証主義史学が導入されてから、盛んに
なりました。特に、一八八八(明治21)年から翌年にかけて、「紀年論争」と
も称することのできるような活発な議論が、文芸雑誌『文』上において展開
されることになります。おもに、実証主義史学を標榜していた修史局学派と
国学派との間で活発な議論の応酬となり、甲論乙駁の様々な説が、唱えられるようになります。
結果的には、日本書紀紀年法については、万人が納得するような説はもたらさ
れませんでしたが、応神天皇以降の『古事記』崩年干支に相当する実年代については、
極めて蓋然性の高い説が提起されて、今日でも定説とされています。
また、明治時代の「紀年論争」を通しても、日本書紀紀年法が解明されなかったことが、
日本書紀紀年法が研究史上、難題中の難題と見なされるようになった原因で
あるとも言うことができます。
308 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 10:41:11
戦後、日本書紀の記述は作り事である、との見解が広く唱えられる状況にありましたが、年代列並列説をとる日本書紀紀年法は、この創作説に対しまして、どのような反論の根拠を与えることになるのでしょうか。
>>308さん
『日本書紀』の各天皇紀に相当する実年代が確定できることになりますので、
『日本書紀』は、まったくの創作ではなく、ある程度は、歴史的事象をもとに記述
されていると考えることができるようになります。
しかしながら、もちろん、各々の条の記述内容には史料批判が必要で、そのままに歴史的
事実と考えてしまうことも、また、早急であると言わねばなりません。
わたくしは、むしろ別の時代の出来事の投影やざん入の如何を整理することが、
各々の条に対して、まず、行わねばならない研究課題なのではないかと考えています。
例えば、用明紀や推古紀には、120年後の奈良時代の歴史的事象が投影されている
記述があります。
310 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:44:02
そうしますと、複数の年代列によって構成されている『日本書紀』の記述には、複数の時代の出来事が含まれているということでしょうか?
>>310さん
複数の時代の出来事が含まれている可能性があります。
『日本書紀』の各々の天皇紀(応神紀以降)は、
>>1で述べた「年代列」によって
実年代を求めることができますが、時々、別の時代の出来事ではないかと考えられ
るようなケースがあります。したがいまして、よくよく『日本書紀』の記述は検証、
吟味してみなければならないのです。
さらに、応神列と雄略列が、実年代との対称関係において120年ズレて
いることを利用して、『日本書紀』は、奈良時代の出来事を飛鳥時代に重ね
あわせております。これについては、拙著『聖徳太子と法隆寺の謎 −交差
する飛鳥時代と奈良時代』において論じました。
312 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 10:22:50
奈良時代と飛鳥時代との重なりの他にも、『日本書紀』の記述の中に、複数の時代が重複するような事例がありましたら教えてください。
雄略二年の百済新撰の干支はどういう意味なんですか?
>>312さん
例えば、神功紀もまた、実年代との対称関係において120年のズレがある応神列
と雄略列によって構成されていますので、『魏志』倭人伝の記述の見える神功三十九
年条などは3世紀、枕流王など4世紀後半の百済王の即位や薨去についての記述の見える
神功六十四年条や神功六十五年条などは、4世紀を扱っていることになります。
したがいまして、神功紀も、3世紀と4世紀という2つの時代が重なっていること
になります。
また、実年代との対称関係において120年ズレる応神列と雄略列は、日本書紀紀年法
において、時代を重ねるなどのさまざまな役割を果たしておりますので、
基本「年代列」であると言うことができます。
>>313さん
313さんのご質問は、仁徳紀以降において、海外史料との対比によって実年代
を確認できるようになるのは、雄略五年条ではなく、雄略二年条なのでは
ないかということを、ご指摘なさったものなのでしょうか。
雄略二年条に『百済新撰』の記事として、確かに「己巳年」という干支が見えます。
しかしながら、これは、過去の出来事について扱ったものです。雄略二年は
「戊戌年」ですので。
一方、雄略五年条には、同じく『百済新撰』の記事として、「辛丑年」と
見えます。そして、雄略五年は「辛丑年」です。このことから、紀年と実年代
の対称関係を確定するに際して、注目せねばならないのは、雄略五年条であると
考えました。
もしかしましたら、ご質問を誤って解釈しているかもしれませんが、雄略五年条
の意義は、紀年と実年代を対称させることができることにあると思います。
また、もし、ご質問の解釈を間違っているようでございましたなら、あらためて
お答えいたしたいと思います。
316 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 13:06:57
今後、日本書紀紀年法の研究が進みますと、年代列の構造を解くことによって、複数の年代列の重複を直列上の置き換えることは可能なのでしょうか。つまり、短縮された120年を埋める形で、実年代の日本の古代史が姿を現す日が訪れるのでしょうか。
>>316さん
複数の「年代列」を一本の年表にまとめてゆくことは、技術的にはできます。
しかしながら、なぜ、複数の「年代列」によって表現せねばならなかったのか、
その理由が確定することができない限り、安易に、一本の年表化することには
問題があるのではないかと考えております。
わたくしも、研究を進めており、いずれ、わたくしなりの見解を発表いたしたいと
思っております。
318 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 19:28:08
それでは、『日本書紀』において明確に実年代を特定できる部分は、100%とはいかないまでも、どの程度になるのでしょうか。
その百済新撰のいう己巳年に立った蓋鹵王とは餘慶でもなければ餘毘でもない
百済王四代目蓋婁王のことではないでしょうか?
すると雄略紀に南朝を呉と表記するのも納得できます。
近肖古王初年と直支末年は180年ズレて五代肖古王初年と六代仇首末年に一致しています。
このスレの質問居士は、どうしてコテハンを名乗らないのかなぁ〜
だな、同じ人と見受けるが。
322 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:25:33
同感一歩進めて、Q&A方式。両者呼吸合いすぎは穿った見かたか。
323 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 22:52:28
興味深くレスを読ませていただきました。
全くの素人の私の質問ですが、どうか笑わずに答えていただきたいです。
古墳を調べる事は何故出来ないんですか?
天皇の墓を調べればもっとはっきりした事が分かると思うのですが?
宮内庁の許可がおりない理由は何でしょう?
やはり天皇家の始まりに何か公に出来ない理由があるからではないんでしょうか?
324 :
大和@名無史さん:2005/12/11(日) 23:42:26
日本書紀紀年法研究家さん。
>わたくしの説は、神功紀の編年においては、神功元年は、西暦二〇一年と
西暦三二一年の2箇所に設定されているというものです。
既にご研究済みと考えますが、崇神天皇318年没年に於けるご見解をお聞
きしたいのですが。
住吉大社神代紀研究による田中卓氏崇神天皇258年崩年説の信頼度、評価
を知りたいのです。私には根拠を検証するほどのレベルになく宜しくお願い
致します。
相当逝っちゃってる皇学館の田中卓氏・・・だいぶ危ないな・・・
326 :
大和@名無史さん:2005/12/12(月) 07:43:19
>>325さん
『だいぶ危ないな』ありがとうございます。
>>1さんはいかがでしょうか?。
>>318さん
およそ80%ほどは、実年代を特定できています。
さらに、一条一条、丁寧に検証を加えれば、
実年代の確定率を100%に近づけることができるのではないかと思います。
>>319さん
おっしゃられるとおり「己巳年」を西暦一二九年と考えれば、
『三国史記』百済本紀にいう第四代蓋婁王の即位年を、踰年称元法で整理
した年代となります。
おそらく319さんは、百済側史料に、180年(3×60)や300年
(5×60)など、干支数運分のズレが生じていることに起因していると
お考えなのではないかと、拝察いたします。
そこで、雄略二年条分注をめぐっては、
1)雄略二年条分注は、2世紀前半のことを記している。
2)『百済新撰』は、干支数運分ずらして2世紀の出来事を5世紀の出来事として記していた。
3)『百済新撰』は、干支数運分ずらして5世紀の出来事を2世紀の出来事として記していた。
というように3つぐらいの仮説を立てることができるのではないかと思います。
わたくしは、現段階で、いずれの仮説が正しいのか結論できませんが、
雄略二年条分注は、興味深い研究課題となっていると思います。
>>320さん
>>321さん
>>322さん
質問居士とは、わたくしの妹のことです。妹は、わたくしの研究に非常に
興味を持っており、時々、質問してくるのです。
>>323さん
天皇陵に指定されている古墳の発掘調査に対して、宮内庁の許可がほとんど
おりない理由につきましては、憶測として多くの説があります。323さんも
おっしゃられているように、発掘調査によって、天皇家の始まりが芳しくない
調査結果として公になってしまうことを憂慮しての不許可説が、もっとも信じ
られている説ではないかと思います。この他にも、天皇陵は、一木一草動かすと
祟りがあるとか、一部の考古学者が自説を守ろうとしている、など諸説があります。
わたくしにも、不許可の理由はわかりません。
>>324さん
崇神没年の問題は、『古事記』崩年干支における崇神天皇の「戊寅」年が
実年代において何年に位置してくるのか、という設問に置き換えることができます。
三一八年説と二五八年説は、研究史上、諸説のなかでも、特に有力な説とさ
れてまいりました。
田中卓氏は勝れた研究をなさっておられますし、皆様それぞれ、様々な論拠を挙げて
三一八年説や二五八年説について論じられておられます。
しかしながら、これらの説が発表された頃は、日本書紀紀年法には「プラス・
マイナス120年構想」が設定されており、神功元年のひとつが西暦二〇一年
に設定されているということは、判明しておりませんでした。
したがいまして、わたくしは、崇神没年については、再検証すべきであると考えて
おります。
ちなみに、わたくしは、日本書紀紀年法において、崇神没年は西暦一三八年、
崇神元年は西暦九一年に設定されていると考えております。
>>325さん
>>326さん
意味が不明です。「あぶない」とは、何があぶないのでしょうか。
おっしゃりたいことが、よくわかりません。
>>328 結論からいえば、百済三逸史は日本書紀の紀年の他に
百済王が鎮東将軍として倭王の安東将軍より上位の存在で
あったことを隠蔽することを目的としてでっちあげられた
扶餘王をモデルとした架空の百済の歴史を記した書だと思います。
つまり1)〜3)はいずれも当てはまりません。
>>329 正直だね(わら
334 :
大和@名無史さん:2005/12/12(月) 10:10:32
>>333さん
それでは、百済三逸史が、架空の百済の歴史を記したものでしたならば、
なぜ、そのような史書が作られたのでしょうか。百済三逸史は、日本側と
百済側のどちらで、作られたとお考えなのでしょうか。
また、
>>329につきましては、妹が適切な質問をしてくれますので、妹の質問に答える
という形式をとれば、ちょうどQ&Aのようになり、このスレットを一読いただければ、
日本書紀紀年法について、ご理解いただけるのではないかと考えました。
Q&Aのようになっているというご指摘は、うれしい限りです。
もちろん、妹以外に、このスレットにご参加いただいている方々から、
鋭い、そして、すばらしい多くのご質問をいただいております。
>>335 > なぜ、そのような史書が作られたのでしょうか。
>>333 > 百済王が鎮東将軍として倭王の安東将軍より上位の存在で
> あったことを隠蔽することを目的
> 日本側と百済側のどちらで、作られたとお考えなのでしょうか。
任那
338 :
質問のいらつめ:2005/12/12(月) 16:43:26
質問居士と申しますに、男子にあらずして、”質問のいらつめ”ではいかがでしょうか(いささか美化・・・)?
339 :
324:2005/12/12(月) 19:30:39
>>331さん、ご返答ありがとうございました。
参照する資料により、研究成果も自ずと変わってくるものだと実感致しました。
著書がベストセラーになれば宜しいですね、今後のご活躍を祈念申し上げます。
340 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 19:42:50
>>330 お返事ありがとうございます。
発掘調査を出来るような活動、運動等はないんでしょうか?
国民の関心が高まれば「出来ません」だけでは済まないと思いますが?
資料のみから空想を交えて議論するより、科学の力で真実を解明して欲しいものです。
>>337さん
任那とは、任那日本府のことでしょうか。
また、337さんは、任那(任那日本府?)と百済との関連をどのように推論なさって
おられるのでしょうか。
>>324さん
崇神紀など、神功紀より前の天皇紀につきましては、まだまだ、研究課題
がたくさんあります。わたくしの説も、仮説のひとつに過ぎませんが、
これを契機に、『日本書紀』や『古事記』の研究が進めばよいのではないか
と思っております。
また、エールをありがとうございました。
>>340さん
多くの方々が、天皇陵に指定された古墳の発掘調査を望んでいると思います。
しかしながら、現実には、発見物(壁画など)や副葬品などを保存するための
技術などの問題もあるでしょうし、多くの課題をクリアしなければならない
のかもしれません。ただし、340さんもおっしゃられているように、これまでの
文献史学による研究成果は、資料のみからの空想と言われてもしかたがない
ような状況にあると思います。
>338さんへ
(・∀・)イイ!! > 質問のいらつめ
日本書紀紀年法には、神武元年が、なぜ紀元前660年に設定されているのか
という問題があります。
研究史上、推古九年を起点とした一蔀1260年説や、斉明七年を起点とした
一蔀1320年説など、さまざまな説によって説明されてまいりました。
みなさまは、どのようにお考えでしょうか。ご意見をお聞かせください。
倭は九州なのに、卑弥呼だの壱与だのを、
畿内の権力ある女性に比定しようとして
それに推古を持ってきたために起きた
時代のずれではないでしょうか?
>>341 日本人と倭人が雑居していた帯方界以南の旧馬韓を含む半島南部を広義の任那とする
日本府は反倭・百済で親新羅、威徳王と密かに連携していた。
とします。
>>346さん
『日本書紀』神功紀において、卑弥呼や壱与のことを、既に、神功皇后として
扱っているようであることにつきましては、どのようにお考えでしょうか。
また、神功皇后と推古天皇との関連は、どのように解釈なさっておられますで
しょうか。
>>347さん
なぜ、日本府が、反倭なのでしょうか。
>>333にて、347さんが述べておられるように、仮に、百済王の爵号が倭王の爵号よりも上
であることを隠匿するために、任那日本府が百済三逸史を作ったのであるならば、
反倭ではなく、むしろ、親倭であると思います。
上道田狭の反乱でも想定してるのかね?
351 :
346:2005/12/15(木) 00:07:33
>348
おわびします。これはうっかりしてました。
推古じゃなくて、神功皇后の誤りでした。
訂正させてください。
>>349-350 倭は九州勢力、日本の名称の起源は旧唐書の説を支持します。
雄略紀の一部は干支一巡遡らせて記述されていると推定します。
>>346さん
346さんは、神功紀では、卑弥呼や壱与を神功皇后と見なして、九州地方のことを倭
として扱っていると解釈されておられるわけですね。
わたくしは、倭は、やはり畿内大和を含む範囲であったのではないかと考えております。
それは、考古学的にも、既に3世紀までには、唐古遺跡や纏向遺跡などの大規模な
集落遺跡が検出されており、また、銅鐸文化圏が形成されているからです。
倭を九州のみと考えてしまいますと、畿内の文化圏は、どのように考えたらよいので
しょうか。畿内もやはり、倭であったのではないでしょうか。
畿内の
>>352さん
『旧唐書』の説は、「倭」が九州地方であるとまでは、記しておりません。
『旧唐書』において、なぜ、「倭」と「日本」という2つの条が立てられて
いるのか、そして、「倭」と「日本」という名称が、どのような意味において
『旧唐書』では用いられているのかは、国号の成立問題と関連して、
確かに重要な研究課題であると思います。
わたくしも、興味がございます。
しかしながら、「倭」が九州であると決め付けてしまうことは
早急であるように思います。
>>354さん
桓武天皇は、何を設定し直されたのですか。
一蔀1320年を一蔀1260年に変更されたということなのでしょうか。
仮に、変更があったといたしましても、諸般の状況からは、変更があった年代は、
桓武天皇即位以前に遡るのではないかと考えられます。
元々「日本紀」は192年を神武元年に設定したいたが
192年から671年(天智末年)の480年間を三倍にして
781年の1440年前を神武元年にした。とかはどう?
>>1
山部=三倍
完璧だ!w
>>356 そもそも桓武の経歴からして
紀の変更は即位してなくてもいいのでは?
>>357さん
357さんが「元々「日本紀」は192年を神武元年に設定していた」
とおしゃられる根拠は何でしょうか。「192」という数字は、応神元年
から雄略五年までの合計紀年数ともなっています。『日本書紀』が重視していた年数
であると思いますが、神武元年との関連はよくわかりません(『日本紀』は西暦を
用いて編年されていたとも推論できてしまいます)。
西暦192年が神武元年であることと、仲哀天皇とは関連があるのでしょうか。
また、192年から671年までが480年(60×2×4)となることは、非常に面白い
着想であると思いました。もしかしましたら、意味があるのかもしれません。
しかしながら、「1440」は、『易緯』のじょう玄注の一蔀周期年数の解釈には、どうしても
合ってきません。神武元年は、一蔀周期年数とは関係がないとお考えでしょうか。
朝廷では、神武元年との関連で、「大変」として、一蔀周期年数は、重視されていたと思うのです。
192年は
>>16などの理論で言えば中心の年、これだけが根拠です。
ホントは甲子年に東征開始したんですよ、きっと。
1440は120引けば1320になります。
780年の120年前は百済が滅亡した年です。
362 :
大和@名無史さん:2005/12/15(木) 23:25:10
お訊ねいたします。
>>360-
>>27 192(応神元〜雄略5年までの紀年数の合計)−72(実際の経過年数)=+120。
とのこと。
応神[41年]+仁徳[87年]+履中[6年]+反正[5年]+充恭[42年]+安康[3年]+雄略[5年]
=189年(一説に反正6年説)となり、192年と整合しません。
お手元の資料と、どの天皇の治世年が合っていないのでしょうか。
>>362 あのですね、応神・仁徳間に空位期間が2年、
反正・允恭間に空位期間が1年存在するんです〜。
あなたのお手元の史料は安くて誤植が多く
原文にない注記が追記されている上下巻のヤツですか〜?
履中〜安康間の暦法はなんですか?
365 :
大和@名無史さん:2005/12/16(金) 08:28:06
>>363さん。
なるほど、ありがとうございます。見直してみます。
>>361 朝廷では、60年毎の辛酉年を「小変」、一蔀周期年毎の辛酉年を「大変」
と考えて、辛酉改元は、いずれにおいて行うべきであるのか、議論があり
ました。「小変」という考えからは、1440年から120年を引けば1320年、
180年引けば1260年になりますので、問題はないようです。
しかしながら、桓武天皇即位は、『日本書紀』に因んで、辛酉年となるように、時期を
選んで敢行された可能性はあると思います。そこで、1440という数字となった
のではないでしょうか。
わたくしは、やはり、神武元年は、きれいに一蔀周期年数に合うように設定され
ており、神武元年は、厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩宮を興した推古九(601)
年から1260年を引いた紀元前660年に設定されていると考えたいと思います。
>>364さん
履中〜安康間の暦法は、儀鳳暦です。
『日本書紀』の暦日につきましては、元嘉暦と儀鳳暦という2種類の暦法が用いられています。
元嘉暦は5世紀の南朝宋の時代、儀鳳暦は7世紀の唐の時代に編まれた暦法です。
研究史上、安康紀か雄略紀の頃に暦法の変更があったとされておりました。
今日では、神武元年から安康3年までが儀鳳暦、雄略元(四五七)年以降が元嘉暦
を用いてるという考えが主流です。わたくしも、雄略紀からが元嘉暦と考えて
おります。
>>362さん
363さんが、ご親切に、ご説明くださっておられますが、空位年の3年がありますので、
192年となります。応神元(390)年から雄略五(461)年までの間の
実際に経過した72年間に、120年分の紀年が加算されていることになるのです。
120年という数字は、三善清行が「革命勘文」にて、『易緯』のじょう玄注の説として、
重要な天数として挙げている数字です(清行は、「勘文」にて、試みに
『日本書紀』の紀年を120と240に区分けしております)。
120年という数字には、意味がありますので、「プラス・マイナス120年構想」
が設定されていることは、確かなことであると言うことができるのです。
>>360 > (『日本紀』は西暦を用いて編年されていたとも推論できてしまいます)。
西暦は関係ないでしょう、おそらく西暦元年は辛酉なので…
>>367 小川清彦の「日本書紀の暦日」によると儀鳳暦としては
仁徳末年までしか確認できないとしているようですが?
また元嘉暦も雄略即位前紀の安康3年から確認できるということです。
さて
>>1さんの説によれば仁徳列は397年を元年とし
古事記の崩年干支をもって427年を仁徳末年としていますね?
仁徳列の延長紀年というのが483年までだそうですが
[日本書紀]履中元年(400)〜安康紀3年(456)の暦法不明期間と
[仁徳列]履中元年(427)〜仁徳延長紀末年(483)の期間が
57年間で一致してます。
>>370さん
「日本書紀研究家」が、わたくし、すなわち
>>1のことですので、
>>360も
>>367も
わたくしの書き込みです。
さて、
>>360につきましては、「192」という数字に拘れば、偶然、西暦192年
となっておりますことを、面白いと思いました。
>>367につきましては、安康3年というのは小川氏の説です。履中元年から安康
3年までは、偶然、元嘉暦で計算しても、儀鳳暦で計算しても同じ朔となるそうです。
そこで、小川氏は、安康元年からが元嘉暦と考えられたようです。
しかしながら、有坂隆道氏の研究によりますと、雄略元年からが元嘉暦なのではないか
ということで、わたくしも、雄略元年説を支持しております。
また、
>>370での、57年というご指摘は、興味深いと思いました。安康3年までは
儀鳳暦と考えられますが、57という数字には何か別の意味があるのかもしれません。
少し、考えてみたいと思います。
>>371さん
朝廷とは、幕末までの朝廷のことです。明治時代に西暦が採用される以前は、
具注暦を作るなど、暦法や改元の問題は、朝廷において扱われておりました。
374 :
大和@名無史さん:2005/12/16(金) 22:00:14
>>369さん。
重ねてのご説明おそれいります。風土紀に云う宇治天皇の治世ということで
、>363さんにも謝辞。
応神天皇即位年紀大歳庚寅(390年)から雄略五年辛丑年(461年・三国史
記蓋鹵王七年)翌、壬寅年(462年)は宋書大明六年条。
>>315に於ける、
「一方、雄略五年条には、同じく『百済新撰』の記事として、「辛丑年」
と見えます。そして、雄略五年は「辛丑年」です。このことから、紀年と
実年代の対称関係を確定するに際して、注目せねばならないのは、雄略五
年条であると考えました。」
納得です。しかしながら、
宋書大明6年 (462年)「倭国王世子興為安東将軍」
同書昇明元年(477年)「興死弟武立」
同書昇明二年(478年)「以武為安東大将軍」
とあります(田中卓著作集より)。だとすると、少なくとも雄略治世以降
もう一代、倭国王が必要と捉えますがいかがでしょうか?。
375 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 00:45:55
南朝と北朝ってなにが違うんでしょう?
今の天皇家は北朝の系統?って事は天皇が二人いた時期があるんですか?
でも南朝、北朝の天皇は血のつながりはあったんでしょう?
素人なんですが、興味あります。
教えて下さい。
>>375 思いっきりスレちがい。南北朝スレは二つ三つあるから探してみ。
377 :
真相はコウダ:2005/12/17(土) 01:17:21
後嵯峨天皇が4歳の次男に譲位する→後深草天皇
でも後嵯峨上皇、後深草天皇が可愛くない
「おい、おまえっ譲位せい」
後深草天皇、弟(七男)に譲位する→亀山天皇
後深草上皇、持明院にて院政→持明院統(後の北朝)
「おい、オレはお前に譲位してやったんだ、お前、次の天皇、オレの子にさせろ」
亀山天皇、後深草上皇の子に譲位→亀山上皇、大覚寺にて院政、大覚寺統(後の南朝)→後醍醐天皇の祖父
ちなみに、後深草と亀山の兄は幕府将軍宗尊親王です。
亀山の子孫、南朝後亀山天皇
足利義満に騙されて北朝の後小松天皇(一休さんのおとん)に
三種の神器(車、カラーテレビ、クーラー)を返す。
後亀山「絶対に、次の天皇はオレの子なんだな」
義満「んだ」
次の天皇は一休さんの兄になりました。
大和@名無史さん
>>374にて、もう一代倭王が必要とのことですが、
わたくしは、「興」が雄略天皇であると考えております。
研究史上、倭王武雄略説が、定説化されておりますが、「興」の想定在位期間と
雄略天皇の在位期間は重なっています。また、「武」を清寧天皇に比定いたしますと、
もう一代倭王は必要ないことになります。
>>375さん
日本史では、南北朝時代という時代区分があり、これは、13世紀のおよそ
60年間です。
わたくしは、日本中世史の専門ではありませんので、南北朝時代の概略のみを
述べさせていただきますと、以下のようになります。
後嵯峨天皇から、持明院統と大覚寺統に分かれるようになり、皇位は交互に継承
されるようになります(377さんが、ご説明くださっておられます)。
しかしながら、大覚寺統の後醍醐天皇が、皇位を持明院統に譲らず、
皇子の後村上天皇を即位させたことから、持明院統が、独自に光厳天皇を立てます。
ここに、後醍醐天皇の南朝と光厳天皇の北朝が立ち並ぶことになり、
以後、数代にわたって、両朝並立の時代となります。これを南北朝時代
といいます。後小松天皇の時代、一三九二年に、南北朝は解消されます。
白髪「武」広国押稚日本根子
で子なのに弟とはこれ如何に
>>380さん
雄略天皇と清寧天皇が兄弟ではなく、親子関係にあることが、これまで、「興」を
安康天皇、「武」を弟の雄略天皇と考える説の根拠とされてまいりました。
わたくしは、清寧天皇は雄略天皇ではなく、「済」=允恭天皇の子なのではないか
と推論しております。
>>381さん
明治時代に、南朝が正統とされております。わたくしは、明治史については
詳しくありませんが、これには、国学派の水戸派と呼ばれる学派が関連して
いるのではないかと考えられます。水戸派とは、水戸光圀による『大日本史』の
編纂過程を通して形成されてきた学派のことで、もちろん、幕末の思想史にも
影響を与えております。
『大日本史』においては、南朝を正統と見なしております。南朝の後醍醐天皇
は政治を執っており、これは「建武親政」と呼ばれています。『大日本史』では
天皇による親政を政治のあるべき姿として捉えていたことになりますので、
大政奉還によって成立した明治政府において、南朝正統とする考えが出てきた
のでしょう。
384 :
大和@名無史さん:2005/12/17(土) 22:40:08
>>382 日本書紀紀年法研究家さん
水野氏・田中氏と一味違った六王説、ではなく変則五王説。
安康天皇はいずこへいかれたのですか。
済 → 允恭 → 允恭
世子興 → 木梨軽 → 雄略
武 → 安康 → 清寧
つまりこうですか?
安康紀によると安康天皇は允恭天皇の第二子として
一云第三子の方が前後の矛盾なく収まるのに
わざわざ不可解な説を本文としている。なぜか?
清寧紀も奇妙だ、清寧天皇は雄略天皇の第三子となっている
すると磐城皇子と星川稚宮皇子が第一子、第二子となるんだが…
雄略紀内の時系列はおかしい。安康3年に円大臣殺したあと
韓媛を妃にしたのなら雄略3年の栲幡姫の記載は年齢的に矛盾する
また清寧天皇は栲幡姫の兄とされているが…
磐城皇子と星川稚宮皇の母稚媛は雄略7年以降に雄略天皇に
娶られたので、ここでも兄弟関係に矛盾が出る。
稚媛の親の吉備上道臣[雄略元年紀]または吉備窪屋臣[一本云]
または葛城襲津彦の子玉田宿禰[雄略七年紀]と異伝が多い。
また顕宗紀では磐城王は允恭天皇の子になっている
玉田宿禰が前に登場したのは允恭5年で何故かここでは
襲津彦の孫になっている、公卿補任では
> 武内宿禰─葛城襲津彦─玉田宿禰─円大臣
なので允恭5年に関しては円大臣は玉田宿禰に置き換えられている
のではないかと思われますので、葛城韓媛と稚媛(毛媛)は
同一人物がモデルとも推測できます。ゆえに磐城皇子、星川稚宮皇子、
清寧天皇、稚足姫の四人は同母兄弟ということになり
上のいくつかの疑問が解決できます。
>>384 大和@名無史さん
『宋書』や『梁書』などにおいて、「興」⇒「武」ですので、安康天皇の問題が
抜けてしまうことにつきましては、『宋書』において、「済」の没時と西暦四六二年
の2度「興」の遣使があり、この間、8〜9年の空白期間があることに、注目いたしました。
385さんが、わたくしの説について、「世子興→木梨軽皇子→雄略」ではないかと、
憶測されておられますが、憶推のとおり、木梨軽皇子と雄略天皇は同一人物で、
安康天皇の在位期間は、空白の8〜9年の間にあると考えております。
>>385さん
>>385は、大変面白く、興味深いご指摘であると思います。
わたくしも、ご指摘されている矛盾点が、倭の五王の問題を解く鍵となっていると
考えております。すなわち、同母兄弟姉妹の問題などがあるようです。
また、「済→允恭→允恭」と「世子興→木梨軽→雄略」は、根拠を挙げることが
できますので、ほぼ、確実視できます。しかしながら、「武→安康→清寧」に
つきましては、他の可能性も含めて、根拠をもう少しはっきりさせねばならない
と考えております。
388 :
質問のいらつめ:2005/12/18(日) 10:53:26
「倭の五王の時代」におきましては、同母兄弟が多く存在していたようですが、父系であることの他に、皇位の継承には、何らかの法則や条件があったのでしょうか?
質問のいらつめさん
『日本書紀』や『古事記』の天皇位の継承、『宋書』や『梁書』の倭王位の継承については、
いずれも、父子継承と兄弟相承があったと伝えております。
皇位継承の条件は、はっきりはしているわけではなく、重要な研究課題と位置付けられます。
しかしながら、群臣の意見や人々の人望の有無も大切な要素であったと推論できる
ような記述があります。
>>388-389 父系としては仁徳、允恭、履中、磐坂市辺押羽皇子が同母御子の父だね。
母方は内訳は葛城氏系三例、息長氏系一例
で、例外の忍坂大中姫なんだけど古事記に応神・迦具漏比売の子として
記載される忍坂大中比売が気になる〜
磐之媛に関してはおそらく聖武の皇后に光明子を皇后にするための
伏線として予め日本書紀に仕組まれたものでその存在自体が怪しさ大。
履中、住吉中皇子、反正、允恭はこのスレッド的に時系列がバラバラだ。
允恭の子たちも上にあるようにワケがわからん入り組み様だ。
履中紀に登場する車持君は継体紀に久羅麻致支彌で現れ、
雄略紀に登場する廬城部キコユは安閑紀に再登場する。
市辺の子の異伝は飯豊姫の例を考れば混乱が甚だしいのが分かる。
何らかの都合により一つにまとめた可能性はあると思うよ。
五王代ではないが景行天皇が良い例です。。。
>>387 武→安康→清寧の同一性を求めるのは諦めた方がいいよ
>>385でも色々考えたが清寧が允恭の子である可能性に
近づけただけだし、木梨軽=雄略の証拠は苦しいものだと思うよ
>>390さん
『日本書紀』や『古事記』におきまして、確かに5世紀代の系譜に混乱があります。
このことは、日本古代において、以下のような慣習があったからなのではないかと
推論することができます。
1)同父兄弟姉妹の通婚が認められていたこと。
2)一夫多妻であったこと。
3)女性の再婚が認められていたこと。すなわち、異母兄弟姉妹に加えて異父兄弟姉妹
があったこと。
4)男女ともに初婚年齢が低く、兄弟姉妹間に年齢差があり、異世代間の婚姻が
頻繁であったこと。
これらの慣習によって、実子であるのか継子であるのかといった問題や、伝承と
して伝わっていた系譜が、父を基準にみた系譜であるのか、母を基準にみた系譜
であるのか、など多くの問題が発生してしまい、『日本書紀』や『古事記』に
伝わる系譜に、甚だしい混乱が見られるのではないかと考えられます。
系譜関係の錯簡を正すことは、パズルを解くようなものです。
>>391さん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』では、一応、倭の五王の比定案を
提起させていただきましたが、現在、再考しており、清寧天皇の問題も含めて、
もっとも蓋然性の高い説明ができるように努力しております。
また、日本書紀紀年法の構造と海外史料などから判断いたしますと、「興」は、木梨軽皇子
=雄略天皇となります。
>>384で述べたように、「興」の二度の遣使間に8〜9年の開き
がありますが、二度目の四六二年の上表によって、この頃に「興」が倭王位を継いだことが
わかります。すなわち、8〜9年間の間において、混乱があったと想定
することができます。木梨軽皇子(興)⇒安康天皇⇒雄略天皇(興)という
仮説は成り立つと思います。
興(木梨軽・雄略)は重祚しているということですか、しかし…
円大臣滅亡の事件が玉田宿禰滅亡の焼き増しなら
眉輪王の安康天皇刺殺事件も允恭5年の事件になる可能性がある。
眉輪王が殺したのは反正天皇だったのではないでしょうか?
安康天皇の行動は実際は反正天皇のものだったのです。
その後の連続皇族殺害事件は允恭天皇の犯行になります、
安康天皇と木梨軽太子の戦いは倭王武と世子興の皇位争いの話になるでしょうが、
これは清寧天皇と星川稚宮皇子の皇位争いの焼き増しです。
あるいは逆かも
つまり重祚する必要ありませんね。
>>394さん
重祚ではなく、「興」の一度目の遣使は、未即位の状態であったと思います。これは、
二度目の遣使において、初めて倭王位を嗣いだという表現が見えるからです。
また、『日本書紀』には、付会説、すなわち、焼き増説ではないか、と考えられる
ような記述が確かにありますので、394さんのお説は面白いと思いました。
しかしながら、安康天皇と反正天皇とは同一人物ということになるのでしょうか。
また、研究史上、反正天皇は「珍」とする説が定説化されておりますが、これに
ついては、どのようにお考えでしょうか。
396 :
太:2005/12/19(月) 13:15:02
各天皇と五王をいろいろと対応させてみても、何時になってもピッタリと合わない。
当然の当然、何時になっても帯に短し襷に流しということは、各天皇と五王が
まったくの別人だということなんだよ。だから、これからも対応をいくらやっても
合うわけがない。別人とすると合わない不合理がすぐ氷解するだろうが。w
合わないことが、別人物である証明になっているわけさ。お退屈さま。ww
397 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 14:00:28
仁徳帝から安康帝までの天皇の在位年は二倍年暦になっていますので半分にして
あわせてみてください。ぴたりとあうはずです。雄略帝からは、普通暦です。
398 :
太:2005/12/19(月) 14:09:43
合うんだったら、大半の人が納得するはずだが、いろいろと対応させている人が
大勢いる。すなわちもう解決済みになるくらいすっきりする。
それをああだこうだとか、矛盾あるとか言ってきている。納得していないからさ。
同一人物なら5人のうち4人くらいは名が一致するはずだし、天皇なら5人の前の
神武〜仲哀くらい +14代で、倭の20王とかいうくらいの名前になってるはずだ。
それがなっていない。5人だけだ。つまり別人だからさ。ww
安康が反正と同一人物というわけではありません。
つまり、幡俊皇女を自分の弟の妃に云々の一連の話で
安康が反正に置き換わったものが実態だという仮説です。
>>385で允恭5年に関しては円大臣は玉田宿禰に置き換えられている
と仮定を立てていますが円大臣と玉田宿禰が同一人物だと
言ってる訳ではありません。安康・反正の件も同じです。
韓媛と稚媛も今更ながら同一人物にする必要性はないですな。
允恭の妃ならいいわけですから別人です。訂正。
そういえば有坂隆道氏本持ってました学術文庫の「古代史を解く鍵」ですね。
毎回一章だけ飛ばして読んでたので、こういうこと書いてあるとは
夢にも思わない(わらい)ただの高松塚の本かと思ってました。知ったかしてスミマセン。
履中〜安康間が元嘉暦・儀鳳暦両方で通るのは明らかに作為的だと思います。
元嘉暦が伝わる前から元嘉暦が採用されていておかしいとかは単なる偏見です。
元嘉暦で紀年を延長している段階で儀鳳暦が輸入されたのではないでしょうか?
これまでまで色々仮説を立ててきましたが五王とはまったく関係ありませんでしたね。
珍についてもそうーゆーことです。
400 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 14:26:51
倭の五王の名は対外交上の名であるから、記紀の和風の名とは一致しません。
倭が対外的交流上漢名を持つようになったのは応神帝(倭王旨)の時からです。それも雄略帝でおわっています。
二倍年暦であることを考慮して年代を考えるならば納得できるはずです。
話変わります、七支刀なんですが230年製作の品ではないでしょうか?
尉仇台が倭王に送ったものだと思います。
太さん
太さんは、『日本書紀』と『古事記』の歴代天皇と倭の五王との関連は、
全く無いとお考えのようですが、わたくしは、歴代天皇と倭の五王とは
関連があると想定しております。ここ1年くらいは、倭の五王から離れて、
研究対象を百済観音像や『万葉集』などに、向けておりましたが、現在、
倭の五王の比定問題に、再び、検証を加えております。いずれ、発表いたし
たいと考えておりますが、日本書紀紀年法からは、歴代天皇と倭の五王は
関連していることを示す仮説を提起することができます。
サガミハラハラさん
雄略紀からは元嘉暦であるという考えは、おそらく、サガミハラハラさんの
二倍年暦説も含めて、あらゆるアプローチから異論がないのではないかと思います。
しかしながら、仁徳紀から安康紀までを二分の一とすると考えるよりも、
応神紀元年から雄略五年までの間で、複数の「年代列」が並列していると
考えるほうが、倭の五王の問題を無理なく説明できると思います。
安康紀以前の紀年は延長されているという考えにおいては、サガミハラハラさん
とわたくしの見解は違いませんが、紀年延長の理由をめぐっては、大きく見解を
異にしていると言うことができます。
>>394さん
「置き換え」という表現は、『日本書紀』や『古事記』において、例えば、
「安康天皇」の事蹟とあるのは、実は「反正天皇」の事蹟であったというような
ことでしょうか。
また、元嘉暦で紀年が延長されている段階で儀鳳暦が輸入されたということは
ないと思います。それは、儀鳳暦は7世紀に成立した暦法であるからです。
わたくしは、やはり、元嘉暦で編年した『日本書紀』の原典となるような
史書があたと推論いたします。
したがいまして、たとえ作為的であったにせよ、履中元年から安康三年ま
での間は、儀鳳暦が用いられていると考えられます。
>>401さん
七支刀銘文に見える紀年は、どのように解釈されておられますでしょうか。
また、百済は、4世紀に馬韓諸国を統合して成立した国ですので、230年
において、百済は、馬韓諸国の一国の「百斉」に過ぎません。このことは、
どのようにお考えでしょうか。
倭の五王時代、畿内の大王なんぞ、
大陸に勢力が伸ばせていないんだがな。
407 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 18:47:18
倭の五王の前の応神天皇は、帯方の故地(ソウル)まで軍をすすめています。広開土王碑文より。
>倭の五王の前の応神天皇
五王は九州、応神は畿内。
お互い、異国の王ですが。
409 :
太:2005/12/19(月) 22:29:11
410 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 22:32:30
4世紀以降は九州王朝は存在しません。大和朝廷に服属しています。
411 :
太:2005/12/19(月) 22:38:14
九州王朝は崇神天皇の世のころから九州に存在していたのが正解。
671年九州王朝の王、薩野馬が捕虜となって帰国した時、
唐は日本列島の代表として、薩野馬=九州王朝しか認めていませんが。
畿内なんて目じゃありません。
413 :
太:2005/12/19(月) 23:14:28
671年のころは、九州王朝はまだあったよん。
414 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/19(月) 23:18:11
スレ違いのようですのでお開きにしましょう。
>>404 失礼、儀鳳暦伝来後でなければ合わせられませんでした。訂正。
> 置き換え・事跡
そういうことです。
各人年齢的矛盾が少なくなります。
> 元嘉暦で編年した『日本書紀』の原典となる史書
この時点ですでに百済三逸史が編年に利用されていたと思いますか?
>>405 肖古王・貴須王が百済王の祖とされたのは聖明王以降と考えられますので
それ以前に貴須王の名が出るのは今ある七支刀が
複製刀だから!です。
仁徳延長紀年末(483)を改めて履中元年とし
雄略列宣化4年を安康3年と置き換えれば…
欽明元年は雄略元年になります。
417 :
大和@名無史さん:2005/12/20(火) 01:19:04
日本書紀紀年法研究家さん。
>>386で「興=木梨軽皇子→雄略」とのこと。
水野先生は「興」を木梨軽皇子とし、「武」を雄略とされる。
>>278を含めてお説
は水野説の延長上にあるものと捉えさせていただきました。有り難うでした。
>>345にて、日本書紀紀年法には、神武元年が、なぜ紀元前660年に設定されてい
るのかという問題があります。
菅原道真追放の立役者、三善清行の辛酉革命論(所功氏・孫引き田中卓著作集)は
難しいので横に置いておくとして、通説の那珂通世氏推古九年説やご指摘の鄭玄注
説に組する田中卓氏は斉明七年説の積極支持者。
私は讖緯説もさることながら、漢書2[表・志上](前漢書)に見える暦法[19章・
3統・1元=4617歳]の基準点、西暦前104年大初元年がすべての始まりとの
と考えております。この一世紀中頃編纂の漢書などは論語や仏教書と同じく飛鳥・
奈良の宮廷人には是非ものの一冊、キトラや藤木古墳の主のように天文・歴法にの
っとった紀年手法が使われているものと考えます。[感想まで]
418 :
大和@名無史さん:2005/12/20(火) 08:05:05
>>417間違っておりました。
19章は81章の間違いです。お詫びし訂正いたします。
>>406さん
募兵の問題は、小さくありません。
古今東西、いずれの国にとりましても、兵士の確保は難しかったのです。
『宋書』や『梁書』などに記載されている倭の五王の爵号や、『三国史記』の倭関
連記事、そして、「高句麗好太王碑文」の銘文は、当時、大規模な兵力を募ること
ができるだけの範囲に行政を及ぼすことのできる政府があった可能性を示しています。
わたくしは、九州のみで、それが可能であったのか疑問に思っており、たとえ、幾つかの
地域的なまとまりはあったにせよ、やはり畿内を含めた地域を視野に入れるべきではないか
と推論いたしております。
>>372にて、「日本書紀研究家」が
>>1、すなわち、わたくしのことであると、書いて
しまいましたが、正しくは「日本書紀紀年法研究家」です。お詫びして訂正いたします。
サガミハラハラさん
>>397にて、二陪年暦で計算いたしますと、倭の五王の在位期間と合ってくるとの
ことですが、二倍年暦を紀年法に置き換える際に、当年称元法と踰年称元法のどちら
の考えにもとづいて、編年されているとお考えでしょうか。
>>408さん
>>409太さん
『隋書』にて、九州が「竹斯国」とされておりますように、九州は地域的まとまりを
形成していたと考えられます。しかしながら、「異国」と表現できるような状況で
あったか、否かは課題であると思います。『隋書』には、「竹斯国」が倭に属して
いたと記されているからです。「紀」・「記」神話にも示されておりますように、
九州は、皇室の故地ですので、むしろ、畿内との間に密接な関連があったと想定
できます。
>>415さん
『日本書紀』において年齢的矛盾が見られるのは、日本書紀紀年法が
5世紀に複数の「年代列」を並列させていることにも起因していると
考えられます。
また、百済三逸史が、いつ、編纂されたのかはわかりませんが、
百済三逸史は、『日本書紀』の編年に利用されたと考えられます。
それは、『日本書紀』のように並列構造を持つ史書では、「基準年」となる
ような重要な紀年の実年代を示すためには、海外史料を用いねばならない
からです。
>>416さん
面白いご指摘であると思います。何か意味があるのかもしれません。
考えてみたいと思います。
大和@名無史さん
「興」木梨軽皇子説は、水野氏の他に明治時代の久米邦武氏が唱えておられます。
神武元年設定問題につきましては、わたくしは推古九年説を支持しております。
また、『漢書』の暦法につきましては、興味深いご指摘と思いますが、
わたくしは、日本書紀紀年法では、「120」という数字が、随所に散りば
められているという点にむしろ注目しております。
これは、三善清行が「勘文」で述べている、「四六二六相乗」という天数と
考えられます。したがいまして、神武元年も、じょう玄注のしん緯暦運説に拠って
設定されているのではないかと、推論しております。
426 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 13:12:29
日本書紀紀年法研究家さん
>>402にて、百済観音像や『万葉集』についての研究をなさっておられると
のことですが、どのような研究をなさっておられるのですか。
>>426さん
百済観音像につきましては、誰をモデルとした仏像であるのか、など百済観音
像をめぐる謎を歴史的背景も含めて解明した研究です。来年3月に刊行されます。
『万葉集』につきましては、大和三山に譬えられている人物の謎と大和三山の争い
という伝承の歴史的背景を解明した研究です。
わたくし一人で、研究しておりますので、遅々として進まない時もありますが、
年間3つほどのテーマをペースに、研究しております。
1)雄略の崩年干支はどう解釈されますか?
2)朝日郎は允恭天皇と関係があるのですか?
3)歌と物語の主人公としての面が雄略には強調されていますが
飛鳥時代においてすでに広く親しまれていたと思いますか?
429 :
408:2005/12/20(火) 15:15:03
>422
王権がまったく別という意味での異国です。
>>428さん
1)の雄略天皇の崩年干支が、西暦四八九年となってしまうことについては、研究史上、
多くの説があります。わたくしは、『日本書紀』の継体末年の継体二十五年の
西暦五三一年から、『古事記』に記載される継体天皇の享年の43を引くと、西暦
四八九年となることに注目しています。雄略天皇の崩年干支については、もう少し
検証を加えてみる必要があると思っております。
2)わたくしも、朝日郎と允恭天皇との間には、何か関連があるのではないかと、
ずいぶんと考えてみましたが、結論が出ておりません。
3)『万葉集』でも、第一番歌が雄略天皇謹製歌です。雄略天皇と歌とは、
関連があったと考えられます。雄略天皇の事蹟と御歌は、飛鳥時代に広く親しまれ、
『国記』などにも収録されていたと想像できるかもしれません。
>>408さん
わたくしは、九州の地域的まとまりの大豪族と畿内大和の王権との間には、
いつの頃からか、何らかの系譜的つながりがあったのではないかと、
考えております。大豪族は、独立を志向する場合もあったのかもしれませんが、
まったく無関係ではないのではないかと推論いたします。。
408さんは、九州と大和は、系譜的にもまったく無関係の王権であると
お考えなのでしょうか。
神武は九州の王家の傍系だからそういう意味では無関係ではないんじゃない?
433 :
408:2005/12/20(火) 18:41:09
>431
王統に関係はあるでしょう。
王権に関係はありません。
畿内の大王が、極東の将軍号・大将軍号はもらえません。
434 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/20(火) 18:58:32
>>421について
二倍年暦では一年が前後(春と秋年)にわかれるのですが、春年に死んだ場合、秋年に即位ということになるようです。
よって普通暦では、同年に崩御と即位があったり、明くる年が即位年になったりします。
サガミハラハラさん
『日本書紀』の編年の踰年称元法と同じ法則ということのようですね。
仮に、春年が1月から6月までで、秋年が7月から12月までとなりますと、
秋年の即位は、必ず9月ということでしょうか。
また、仮に、3月に崩御されたとなりますと、9月の次帝の即位までは、現実に
空位であったとお考えでしょうか。
『日本書紀』の編年において踰年称元法が用いられていることをめぐっては、
編年上の操作であるという考えと、現実に空位期があったとする考えがあるかと
思いますが、サガミハラハラさんは、どのようにお考えでしょうか。
>>430 引田部赤猪子の話に出る「八十歳」という単語は80年間の意味ではなく
「長い間」の意味とすると崩歳124歳は80歳上乗せされた年齢になるのではないでしょうか。
雄略の実崩歳を44歳とすれば、允恭元年は439年とするとその7年は445年に当たり
雄略の誕生年に一致します。
437 :
太:2005/12/20(火) 22:10:59
>>422 抽象的には、ある意味あいで、密接な関係あることはそのとおりだが、
具体的には当時の状況を考慮すれば、疎遠な関係だとするのが妥当だね。
時代が降下して、元禄の刃傷の連絡を、早馬で江戸から赤穂まで届く時間を
考えれば、おのずから畿内と九州の物理的弱密接性が分かろうというもの。
五王の名が中国名ということは、中国に近い九州が交流多い傾向があったと
考察されることから、その王朝の存在は畿内ではなく九州のほうというべき
である。各天皇がもっと疎遠の中国名がついているなどとはなおさら考え
にくいのだが、百歩譲ってそうだというなら、記紀に例えば『反正天皇』
と名が書かれるよりは『興天皇』などと記載されるのが理にかなう。
さらに、号をもらって光栄であるとか不満たらたらでその号を破棄したとか
そういう文面が記紀に載るはずだがどっちもそれがない。
ということは、各双方が別人物であると考察すべきなのである。
月並みな説…
雄略列には延長紀年が10年分存在すると思われます。
清寧顕宗仁賢以下には別の紀年列が必要です。仮に清寧列群とします。
清寧列群(仮称)では雄略列雄略22年(478)の白髪立太子を以って清寧元年とすべきでしょう。
清寧3年(480)に億計立太子を仁賢元年とし清寧5年の翌年(483)が顕宗元年
顕宗は8年間なので490年が末年、同時に仁賢も末年です。
その前年仁賢7年(489)小泊瀬稚鷦鷯の立太子を以ってこの年崩御した雄略天皇を継いでの即位とします。
武烈は8年なので496年まで…
439 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/21(水) 08:42:21
日本書紀の年代はかなりの操作がみられます。即位年は大体一月としているようです。
空位年については、3月に死んで、即即位したのか、落ち着いてから即位したのかについては、はっきりいってわかりません。が、
没年と即位年がかさならないように操作記録しているようです。
古事記分註天皇崩年干支(二倍年暦)では、大きな空年があっても、前帝の在位年を伸ばして空年が生じないようにしています。
>>436さん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』では、雄略天皇は、允恭列において
允恭七年に相当する四三九年に出生して、雄略列の雄略二十三年に相当する
四七九年に没したと考えて、雄略天皇の享年は、史実としては、41歳
であったと推論いたしました。「124」という数字は、仁徳天皇の享年の83
に41を足した数字と考えましたが(83+41=124)、この数字を説明
するのには、別のアプローチがあるかもしれませんので、もう一度、考えて
みたいと思っております。
また、436さんは、なぜ、允恭元年は四三九年と推定なされておられるのでしょうか。
太さん
密接でありながら、疎遠というのが、九州と畿内の関係でしょうか。わたくしの祖母
の家は、高倉宮神伝院という九州遠賀の総社の宮司家ですが、『日本書紀』仲哀紀に、
先祖のことが記されています。
この家では、毎年、必ず、朝廷まで赴くことになっていたといいます。
>>438さん
清寧列説は、大変興味深い説であると思います。
お説の内容につきまして、蓋然性と妥当性があるのか、ぜひ、議論させて
いただきたいと思います。
「プラス・マイナス120年構想」は、神功元年から雄略五年までをスパンに
構成されておりますので、雄略五年以降に、438さんが唱えておられる清寧列
という構想が設定されている可能性はあると思います。
サガミハラハラさん
天皇即位という事象については、践祚、即位式、そして、大嘗祭という3
つの儀式がかかわっており、それぞれにタイムラグがあることに関連して
いるのかもしれません。
また、『日本書紀』の編年に見える前帝の没年と次帝の即位年が重ならない
という編年の原則は、「年」という単位が重視されていたからではないかとも
推論できるかもしれません。
失礼、嘘を申しておりました。489年は清寧列群顕宗7年でした。
小泊瀬稚鷦鷯立太子は清寧列群仁賢7年(486)
486年が武烈元年に訂正です。(一気に魅力ダウン
なお486年の前年は清寧列群顕宗3年です。
445 :
太:2005/12/21(水) 15:53:56
>>441 仲哀の条にどのように載っていたんでしょう?
そのころから九州に貴下のご先祖が住んでいて、九州からはるばる畿内旅行を
して朝廷へはせ参じたとかいうことが記述されているというここでしょうか?
それも、そのころから毎年天顔を拝していたとかいう記録になっているんで
しょうか?時代の下った〜
江戸時代、お伊勢参りとは一生に一度の体験旅行。九州から伊勢の手前の朝廷まで
毎年行かれていたとはすごいものです。例外的記録なのかといささか驚異です。
江戸時代の天皇でさえも、伊勢の近隣の畿内におられましても、ただの一度も
伊勢行幸はないはずですな。仲哀前後の天皇もないはずですが・・・?
446 :
太:2005/12/21(水) 15:55:35
誤 ここでしょうか? 正 ことでしょうか?
>>太さん
わたくしのご先祖は、孝元天皇の第一皇子大彦命の長子伊賀彦と申します。
仲哀天皇の九州親征に従い、そこで祝となりました。以後、高倉宮の宮司となり
ましたが、8世紀末には、社僧として神伝院を興しています。曽祖父で七十八代目と
なります。拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』のプロローグでも述べました
が、『高倉宮祝部岡君氏本紀』という系譜が伝わっており、この記録と『日本書紀』
の編年が、同じように延長されていることに気づいて、わたくしは、日本書紀紀年法
には、法則があると確信いたしました。
そこで、日本書紀紀年法の解明を試みて、研究成果をまとめたのが前出拙著なのです。
高倉宮については、貝原益軒の『筑前国続風土記』に詳しいので、ご参照ください。
また、九州に残った後も、朝廷と密接な関連を保っていたようで、毎年、朝廷を訪れ
ていたのは、復命であったのではないかと、考えております。
448 :
太:2005/12/21(水) 23:03:38
失礼かと存じますが、伊賀の流れ、忍びの系でございましょうか?学不足で・・・。
ならば、多数回の畿内入りは例外的にありうるかと思考しますが?
弘文天皇とのご関係はお有りなのでしょうか・・・? ところで
畿内の西方の九州に仲哀天皇が行幸となれば、すでに秘密伝来の甲賀の忍びの
基礎材料の外国からのその秘匿輸入を断ち切るのが天皇の宿命となり、これを
「西方に国あり、金銀のくさぐさの珍宝その国に多なるも、あれ今汝に寄せん。」
の言葉の拒否信念を発動をしたようなのです。話を戻し、ご先祖様の場合は
やはり特例でして、ある程度は少いながら九州の情報が畿内入りしていたことは
確かです。畿内のほんの一握りの者らが九州の情勢の希少部分を把握していたの
でしょう。忍びならばこれがやれましょう。
>>447 大彦命って、四道将軍の大彦ですか?
ヲワケノオミの銅剣にも出てた?
451 :
大和@名無史さん:2005/12/22(木) 10:50:18
太さん
伊賀忍者とは、まったく関係がありません。伊賀忍者発祥よりももっと昔の
ことですから。しかしながら、参内して、朝廷に九州の情勢を伝えていたと
想像することはできるかもしれません。
家の伝承では、弘文天皇の子孫とされています。伊賀うね女宅子との関連
かもしれません。このスレットでも、日本書紀紀年法と壬申年との関連を
ご指摘なされておられる方々がおられますが、仲哀紀と壬申の乱のどちらも
伊賀氏が関連しております。
ご先祖の問題からも、わたくしは、日本書紀紀年法に興味を持っております。
>>449さん
そのとおりです。大彦命の長子の大伊賀彦が、九州に留まりました。
伊賀彦古墳という大伊賀彦のお墓が高倉宮境内にあります(『福岡県
の歴史散歩』山川出版社をご参照ください)。
>>450さん
わたくしも、忍者については、よくわかりません。伊賀というのは氏族名
ですので、忍者とは関係がありません。
『日本書紀』天武紀によりますと、古代では、むしろ東漢直などが、忍者の
ようなことを行っていたのではないかと、考えることができるかもしれません。
大和@名無史さん
貝原益軒の『筑前国続風土記』を御紹介くださいまして、ありがたく
存じます。
456 :
太:2005/12/22(木) 13:06:05
四道将軍の関係での大伊賀彦が九州に留まったとなりますと、九州王朝の先走りと
しての身分かとは思考します。九州王朝は崇神天皇の世のころからが始りですので
大伊賀彦が係りあう可能性がありうると観てます。
>>456さん
興味深いご意見をありがたく存じます。
実は、わたくしは、ご先祖のことを、もっとよく調べたいと思っております。
九州と畿内大和との関連が見えてくることになるかもしれないからです。
高倉宮宮司家に伝わる伝承が、どこまで、本当のことなのか、わたくしにも
よくわかりませんが、多少とも史実が反映されているのであるのならば、歴
史的背景などを研究してみることは、日本古代史を明かとするために、多少
意義があるのではないかと考えております。
458 :
太:2005/12/22(木) 14:00:09
弘文天皇の別名を「伊賀」というのはご存知だと思います。
弘文天皇の遠い祖は月読命であります。外出しますので話しは次回に・・・。
太さん
月読尊は、「紀」・「記」神話にて、天照大御神とともに、天に並べられた神様
ですが、わたくしは、天智天皇と月とは、関連しているのではないかと、
推論しております。
弘文天皇の遠い祖先が、月読尊とおっしゃられるのは、どのような理由から
なのでしょうか。
>>438さん
一考の価値のある御説であると思います。
いずれにいたしましても、清寧紀、顕宗紀、仁賢紀、武烈紀の問題は、以下の点
を矛盾無く説明することができれば、かなりの説得力を主張できるでしょう。
1)清寧天皇の立太子が、雄略二十二年の西暦四七八年に設定されていること。
2)『古事記』において顕宗天皇の在位期間が8年であり、『日本書紀』の3年
と異なっていること。
3)『日本書紀』の雄略末年は西暦四七九年ですが、『古事記』は雄略天皇の
崩年干支を西暦四八九年と伝えていること。
4)武烈天皇の立太子が仁賢七年に設定されていること。
461 :
太:2005/12/23(金) 13:40:39
>>459 月は地上から天空を私どもが眺めた場合分かるように、夜を支配する天体です。
忍者は夜が活動のメインです。月は夜の食国の統治ですな。
そういうわけで、伊賀の祖が月読命なんです。
月読命さまは忍び覆面をしていて、その姿、正体を拝するのは困難です。
>>440 反正の崩御は437(丁丑)年7月[古事記]
允恭紀5年7月の反正の殯の記事は437年7月のことである。
允恭列允恭5年1月(437)までは反正の治世でこの月反正は崩御、
反正の殯は允恭列允恭5年1月〜5年11月。
允恭紀には6年の記事がないのは、空位期間が反映されているとみるべき。
允恭紀7年12月の記事は允恭紀元年12月允恭即位の話の続きである。
真・允恭元年は允恭列允恭7年(439)のこととなる。
真・允恭元年(439)は6年前倒しで允恭紀元年とされていたので
真・允恭7年(445)も6年前倒しで允恭紀7年に記録されていた。
雄略の崩歳を124-80=44歳と仮説から、誕生年は445年。
百済武寧王の例から当時は満年齢。
記では衣通郎女は允恭の娘で木梨軽と不義の仲になり
書紀では衣通郎姫は忍坂大中姫の妹である。
応神記、迦具漏比売の子の登富志郎女は衣通郎姫か?
また百師木伊呂弁の子の藤原琴節郎女(上宮記では布遅波良己等布斯郎女)
衣通の原型は上宮記や応神記後段の系図より応神記前段の系図が近いと考えられる。
応神記後段は継体に系図を繋げるために追記されたものである。
允恭紀の衣通に関する記述は允恭天皇ではなく木梨軽太子の事跡だと…
古事記に近くなる。木梨軽は允恭の子ではないとすれば
安康天皇は允恭の第二子(第一子は境黒彦)で矛盾なく
忍坂大中比売も木梨軽の皇后になる。雄略は木梨軽の子かな?
允恭紀23年=允恭列允恭23年(455)木梨軽立太子。
雄略紀18年(474)は允恭列允恭42に当たる。この年まで木梨軽の治世と考えれば、
雄略紀19年(475)に穴穂部を設置したのでこの年が安康の治世だったと考える。
476年、大泊瀬幼武天皇満31歳で即位が妥当です。この年が真・雄略元年?
木梨軽=雄略の場合は重祚か?古事記の木梨軽の歌いっぷりが…怪しい。
>>442>>460 新撰の記事を基準に武烈4年=502年とし、武烈紀から雄略列に戻す。
清寧列群は清寧・顕宗・仁賢・継体・宣化・欽明の年代列と定義します。
安閑は雄略列に属する。
464 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 18:44:35
>>461 ご説によりますと、伊賀氏の祖=弘文天皇=月読命とのことですが、文献の史料によりまして、この説の根拠をお示しいただけないでしょうか。また、古代伊賀氏から後代の伊賀の忍者が派生したとお考えなのでしょうか。
465 :
太:2005/12/23(金) 23:54:23
>>464 スレ違いが大きくなってきますので、どうしますか・・・?
そこはイコールではないですよ。忍びは秘匿性高く、希少では有るのかも知れません
が、仲々どうしてそのような文献資料などは顕在のものなどまず滅多にあるものでは
ありませんな。萬川集海、正忍記等はその希少の文献類なわけです。
私のほうでは他の方法で、過去の長き研究により把握した結論をお伝えしているので
ありますから・・・、研究のやり方が特殊でして貴下にはいっぺんで理解できる代物
ではないと思います。ここのスレ主さんとか大半の方々はデジタル式の研究方法を
採用しているようですが、私どもではアナログ式研究も力をいれてやっていますので
抽象的回答ですが、上の話は長い間そういう見地から導き出した結論なのですよ。
>古代伊賀氏から後代の忍者が派生したと・・・・・
そういう考えはいまのところ持っておりません。まあ可能性は否定はしませんが?
とにかく、皇統の線とは別の見地で、大友皇子の遠い祖が月読命さまなんですよ。
イメージ的には過去にTVでやってました「月光仮面」がピッタリですねぇ。
>>462さん
わたくしも、允恭五年の西暦四三七年が、反正天皇の崩年と考えております。
しかしながら、反正紀、ならびに、反正允恭間一年の空位年は、仁徳列に属する
と推論できますので、允恭元年は四三九年という462さんのお説には賛同できません
(允恭元年を四三二年に設定しなければ、
>>36で示しました法則が成り立ちません)。
ただし、允恭七年の雄略天皇出生年を重視されようとなさるお考えには、興味深い
ものがあります。
また、わたくしな、木梨軽皇子と雄略天皇を同一人物と考えておりますが、親子
とする462さんのお説も面白いと思います。允恭天皇と雄略天皇の系譜的関係は、
祖父と孫の関係とお考えなのでしょうか。。
467 :
質問のいらつめ:2005/12/24(土) 10:17:05
>>465 月読命は、正義の味方なのですね。ところで、デジタル式とアナログ式の違いとは、文献史料に頼る実証研究型か、伝承や聞き取りなども重視するフィールドワーク型か、の違いなのでしょうか?
もし、月読命、大友皇子、あるいは伊香氏の祖などについて、アナログ式研究の成果がありましたら、お教えくださいませ。
>>463さん
463さんは、四七四年までは、木梨軽皇子の在位とお考えのようですが、
わたくしは、四七四年までは、允恭天皇が、譲位帝として、何らかの地位
にあったのではないかと推論いたしております。
いずれにいたしましても、允恭天皇、木梨軽皇子、雄略天皇の3者の関係
を解明することができれば、5世紀後半の歴史が明らかとなってくると考え
られます。463さん、462さん、そして、わたくしも、同じような箇所に関心
があるようです。
>>462さん
>>463さん
>>462さんと
>>463さんは、お説の内容から、それぞれ別の研究者と拝察いた
します。お二方とも、それぞれの論拠から面白く、そして、一考に価するお説
を唱えておられます。しかしながら、似て非なるお説を唱えておられるお二方
とも「日本史@名無史」では、紛らわしい気がいたします。もし、おさしつか
えなければ、何か、あだ名を用いていただけないでしょうか。もちろん、
「日本史@名無史」がよいのでしたなら、名無しのままでも結構です。
470 :
日本@名無史さん:2005/12/24(土) 10:55:27
アマチュアの言葉遊びはもういいよ。
隅田八幡宮人物画像鏡銘の「日十大王」とは誰か?
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟」
563年 日十大王(忍坂彦人大兄皇子) 男弟王(不明) 斯麻(吉備嶋皇祖母命)
503年 日十大王(許勢男人) 男弟王(継体天皇) 斯麻(百済武寧王)
443年 日十大王(大江王)(景行天皇皇子にして仲哀天皇の義父、香坂王、忍熊王の祖父、 倭建命から数えると允恭天皇
と同世代となる。) 男弟王(不明)斯麻(不明)
大江王の系譜には疑問が多いが度重なる九州の反乱を鎮める為にその戦で死んだ王の縁者が大和の豪族の再結集に必要だった
のかもしれない。(仲哀天皇は記紀編纂時に架上された王という考えに立てば年代を見直す必要が出てくるがいずれにしろ
記紀編纂時に大王とは認められなかった
プロフェッショナルな研究者の方でも、アマチュアの方でも、日本書紀紀年法に
興味のある方でしたならば、どなたでも、どうぞ、このスレットにご参加ください。
様々な視点から、未解明の研究課題にアプローチすることは、必要なことであると
思います。わたくし自身は、自宅に引きこもって研究に没頭しておりますので、
プロフェッショナルであるとも、アマチュアであるともいえます。
>>471さん
隅田八幡宮人物画像鏡銘は、わたくしも興味がございます。人物画像鏡銘
をめぐる課題は、以下のようにまとめることができるでしょう。
1)「癸未年」が、西暦で何年に相当するのか。
2)「日十大王」とは誰であるのか。
3)「男弟王」とは誰であるのか。
4)「日十大王」と「男弟王」とは、どのような関係にあるのか。
5)「意柴沙加宮」は、いずれの天皇の宮で、どこに所在していたのか。
471さんは、様々な仮説を立てておられ、四四三年説を主張されておられる
ようですが、四四三年説ですと、むしろ、允恭天皇との関連は、考えられ
ないでしょうか。允恭天皇の皇后は、忍坂(おしさか)と関連がありそう
なのですが。いかがでしょうか。また、なぜ、仲哀天皇との関連を想定して
おられるのでしょうか。
>>469 どー考えても
>>462-463は同じ人であり「いつもの人」ですw
>>462-463は長かったので途中で分けました
思いついた事を箇条書きにしてテキトーに繋げてるだけなので、
支離滅裂なのはデフォルトだと思って頂ければ幸いです。
また、倉西氏とは異なる結論があるのですが
このスレでは倉西氏の説に合わせてレスしてるのです。
前にも書きましたが研究者とかではありません。
この手の人はいっぱい居ますw
名無しで書き捨ての方が調子良いのでこれからも名無しのままで
>>472 >>470さんはきっとプロの方ですよ、ちゃんと挨拶された方がいいですよ。
>>472 プロ、ご迷惑おかけます。
しつもん
履中2年、瑞歯別皇子立太子の扱いに関してどう考えていますか?
それから今更ですが綏靖スレの36
>>77は16/YXRFBRMと同じ人です。
別人を装って本物を待っていたのですが来ませんでした〜
どうも、混乱している方々がいらっしゃられるようですので、
ここで、はっきりとさせておきたいと思います。
わたくし、すなわち、「日本書紀紀年法研究家」が、倉西裕子です。わたくしが、
このスレットを立てました。このスレットで「日本書紀紀年法研究家」とある
のは、すべて、わたくし一人の書き込みです。「倉西氏の説」というのは、わたく
しの説のことですが、わたくしの説に合わせる必要はなく、異論でもかまいません。
また、わたくしは、拙著に載る略歴のとおりの経歴の人物ですし、拙著は、すべて、
わたくしの本名で刊行しております。
◆16/YXRFBRMさん
「日本史@名無史」となっておりますと、思いつきのお説ですと、似て非なる説
となって、判断できないのです。また、「いつもの人」とは、どなたのこと
なのでしょうか。「いつもの人」というのは、◆16/YXRFBRMさんご自身の
ことなのでしょうか。それとも、このスレットに、よく書き込まれる方が
いらっしゃるのでしょうか。
◆16/YXRFBRMさんの書き込みの文章は、誤解と混乱を与えてしまっているような
気がいたします。恐縮ではございますが、学問的議論の場として、このスレットを
立てておりますので、もう少し、主語や目的語などをはっきりとさせた、
意味の通った文章にしていただきたいと思います。
>>470さん
言葉あそびのような書き込みが多少ありますことを、大目に見ていただけ
ましたなら、幸甚でございます。
また、わたくしは、昨年11月の史学会大会にて、「日本書紀紀年法」をテーマに
発表しております(『史学雑誌』一一三扁十二号に発表内容の概略が掲載されており
ます)。日本書紀紀年法は、大変面白い構造を備えておりますので、これから
議論を、もっと発展させなくてはならない重要な研究課題と考えられます。
>>1などで、述べさせていただきました拙論につきましては、ぜひ、ご意見を
お寄せいただきたくお願い申し上げます。
479 :
太:2005/12/24(土) 19:55:00
>>471 地獄の十大冥王を想起するねぇ〜。w
『十大』は「本」の旧字の『夲』とみれば、
「日十大王」とは『日夲王』のバラシ字かなぁ・・・?バラシたわけは・・・?
「男弟王」はやはり「繼體天皇」を考えるねえ〜?
◆16/YXRFBRMさん
履中二年の反正天皇立太子の記述につきましては、以下のように考えております。
>>36で示しました『日本書紀』の編年と『古事記』の崩年干支の間の法則にしたがい
ますと、
「四三二年=反正天皇の立太子年(『日本書紀』)=履中天皇の崩御干支(『古事記』)」
という式が成り立たっていることになります。
そして、『日本書紀』では、立太子と天皇即位を、同義として見なす傾向にあります。
したがいまして、西暦四三二年は、反正天皇の即位年として考えることができます。
四三二年を反正元年と考えますと、仁徳列上の反正末(反正五)年の四三七が、
反正六年となります。宮内庁所蔵本の『日本書紀』には、「六」の傍に「五」の文字が
注記されていること、『類聚国史』、『日本紀略』、『水鏡』でも、反正末年が「六年」
とされていることは、このことに起因していると考えられます。以前は、「六年」問題
を空位年との関連で設定されていると想定しましたが、崩年干支との関連で「六年」問題
が発生していると考えるほうが、「六年」問題を、合理的に説明できます。
なるほど、今まで履中反正の紀年法に関して微妙な勘違いをしていました。
(どう勘違いしていたかは省略)
空位年の謎を解く鍵は反正の崩年干支が七月のみで日がないこと、
雄朝津間稚子宿禰が立太子せず天皇に即位していることに関係すると思われます。
立太子していなかったから反正の崩年干支に日付が『分からなかった』とも考えられます。
反正の崩年干支の月は允恭紀5年の反正の殯の記事に反映されていると見るべきです。
允恭即位は允恭7年(439)から6年前倒し元年に分割記載されているので
允恭6年は空位年(438)に対応している言えます。
>>36 >『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支年
そんな方式ないでしょ???
反正「六年」の問題は明らかに後世的解釈から生まれた誤修正であり、
允恭即位前紀・元年紀の件も合わせて「六年」とするのは
書記編者の本意から外れるのではないでしょうか?
>>482さん
>>36で述べました法則は、わたくしが、発見した法則です。
例えば、この法則に従いますと、「仁徳天皇の崩年干支の西暦四二七年=次帝の履
中天皇の立太子の年の仁徳三十一年」という等式が成り立ちます。そこで、仁徳三十一
年を西暦四二七年と考えて仁徳元年を求めれば、西暦三九七年となります。
また、応神天皇の崩年干支の三九四年に空位年の2年を加えて仁徳元年を求めれば、
三九七年となります。
◆16/YXRFBRMさん
>>483で述べましたように、
『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年=『古事記』のA天皇の崩年干支年
という法則は成り立っています。この法則によって、反正「六年」の問題
を説明することができます。
また、允恭即位前紀・元年紀は「六年」含まれておりません。
仁徳列では、反正元年は西暦四三三年ですが、この法則ですと西暦四三二年とな
ります。したがいまして、反正天皇の崩年干支の四三七年は、前者では「五年」、
後者では「六年」となるのです。このことから、「六年」問題が発生したと推論
することができるのです。
16/YXRFBRMさんは、「六年」問題を後世的解釈とお考えのようですが、
それでは、後世的解釈とは、どのような解釈なのでしょうか。
>>484 百歩譲ってそんな方程式があったとしても
それは日本書紀編者が紀年を創作する時に古事記の干支を
素材に使ったというだけで、史実を復元するための手がかり
にはならないでしょう。
>>486さん
複数の「年代列」のうち、特に、允恭列と仁徳列の「基準年」は、
>>484で仁徳列を
例にあげて述べましたように、『古事記』の崩年干支を用いることによって、求める
ことができます。「年代列」によって、紀年と実年代との対称関係がはっきりして
まいりますので、『日本書紀』の記述が、仮に、史実、もしくは、史実をある程度反映
しているものであるのならば、おおよそいつ頃の歴史的事象であるのかがわかります。
『日本書紀』をまったくの創作と見ない限りにおいて、「年代列」は史実を復元するのに
役に立つと思います。
後世的解釈とは空位年の存在を疑った人間が五を六に勝手に改めたことです。
その人は複数の年代列が隠されているなど夢にも思わないので。。。
反正天皇の治世は反正即位前1年(432)から反正5年(437)の6年間、
ちなみに履中天皇の治世は履中即位前4年(427)から履中2年(432)の6年間。
と、認識していますが問題ありますか?
489 :
太:2005/12/26(月) 14:00:41
とにかく、勝手に継ぎはぎして「ああ合った」とかいうやり方結論はまずい。
ただ特段の合理的理由があれば別ですがね。2倍歴は一応合理性があるね。
◆16/YXRFBRMさん
◆16/YXRFBRMさんが、反正天皇の在位期間と考えておられる西暦四三二年から西暦四三七
年までの6年間は、
>>485でも述べました法則によって求めることのできる在位期間と
一致しています。しかしながら、仁徳列においては、西暦四三三年から四三七年までの
5年間が、反正天皇の在位期間となりますので、反正天皇の在位期間は、2通りの計算
ができることいなります。わたくしは、これが、5年説と6年説の原因となったのでは
ないかと、推論いたしました。
また、反正末年条に載る月朔干支からは、反正末年は五年と考えられておりますので、
五年であるべきを六年としたことには、相当の根拠があったのではないかと考えら
れます。
わたくしも、当初は、空位年と関係があるのではないかと考えましたが、やはり
>>485でのべた法則に起因していると推論したほうが、蓋然性が高いと思います。
太さん
試みに、
>>1で述べました式を計算していただいたらわかりますように、
勝手な継ぎはぎではなく、数学的に、また、構造的に理にかなっております
ので、日本書紀紀年法へのアプローチとして、方法論的に間違ってはいない
と思います。2倍暦は、確かに、古代において用いられていたかもしれませんが、
日本書紀紀年法では、しん緯暦運説や数学などが、むしろ、大きな構成要素と
なっていると考えられます。
太さんも、ぜひ、一度、
>>1で述べた式を計算されてくださいませ。
>太
いいんだよ、目処がついたとこから確定していけば…勝手なのはお互い様。
一応
>>1=日本書紀紀年法研究家=倉西氏の立てた理論には従っている。
異なる年代列の同年に類似の事件等が発生するところにコレの魅力がある。
>>490 履中反正は仁徳列に含まれないと考えるべきです。
履中列、反正列という短い個別の年代列を想定すると良いでしょう。
◆16/YXRFBRMさん
「年代列」が並列していることにご賛同いただきまして、ありがたく存じます。
さて、履中紀、反正紀の属する「年代列」につきましては、『日本書紀の真実
−紀年論を解く』では、允恭列に属するのではないかと推論いたしましたように、
また、
>>485で述べた法則を用いて考えますと、反正紀についてのみは、
◆16/YXRFBRMさんと同じ結論になりましたように、まだまだ、再検証しなければ
ならない点があると思っております。
但し、履中紀、反正紀は、仁徳列に属すると考えますと、『古事記』崩年干支と末年
が合致してきますので、仁徳列に属しているという仮説は有力です。しかしながら、
仁徳列を「確定紀年(三九七〜四二六)」と「延長紀年)(四二七〜四八三)」によって
のみ構成される「年代列」と考えて、履中紀と反正紀は、それぞれ別の「年代列」として
解釈することもできるのかもしれません。わたくしの結論が、絶対に正しいわけではなく、
学問の発展には、批判や再検証が必要ですので、どのような解釈にもとづいて、何本の
「年代列」によって構成されていると考えると、日本書紀紀年法をもっともよく説明する
ものとなるのか、考えてまいりたいと思います。
さてさて反正云々はしばらく置いといて、
おいっ「履中即位前4年」って何だよ(わら
という人のために皇后の年代紀(仮称)の説明をせねばなるまい
が、今考えついたばかりなので詳細があるなら後日。
398 磐之媛立后。
427 仁徳崩。履中立太子。
431 磐之媛薨。黒媛立后。
432 履中崩。反正立太子。
434 八田皇女立后≒忍坂大中姫立后(※1)。
435 黒媛薨。草香幡梭皇女立后。
437 反正崩。
439 允恭即位。
※これが允恭即位記事が6年前倒しの原因です。
允恭の即位前から『立后』していたら後世的に不都合でしょ?
≒はトンデモ。
◆16/YXRFBRMさん
>>494でのお説によりますと、以下のような仮説が想定できます。
1)允恭天皇と仁徳天皇は、同一人物であり、重祚であった。
2)八田皇女と忍坂大中姫は同一人物であり、允恭天皇に再嫁した。
わたくしも、仁徳列の八田皇女の立后と允恭列の忍坂大中姫の立后が同年となること
は、気にしておりました。トンデモであるのか、ないのかは、2つの仮説も含めて一考
してみるだけの価値はあるかもしれません。但し、允恭列で允恭三年となる四三九年が、
允恭即位年であるのか、もしくは、6年前倒しして允恭列の允恭元年の西暦四三三年が、
允恭即位年であるのかも、検証してみなければならないと思います。
496 :
太:2005/12/27(火) 21:14:44
稀なる例外はあろうが、ま〜ず同一人物説は失敗だね。
イコール説は、だいたいは外れ。
>>494訂正
436 草香幡梭皇女立后。
>>495 允恭天皇の治世は允恭7年(439)から允恭22年(454)
木梨軽の治世は允恭23年(455?)から允恭42年(474?)
1)崩歳と崩年干支から允恭は反正の弟では有り得ないが、
仁徳と同一人物ではない理由にもなる。
>>495 2)まず忍坂大中姫の存在自体が疑問ですな…
499 :
太:2005/12/28(水) 00:06:24
重祚だったら記紀に記述される。隠す必要などまるでない。
だから記紀に重祚となければご両人は別人である。
皇極、斉明に関しては紀に記述があるとおりである。
太さん
わたくしは、「延長紀年」はなぜ設定されているのか、という疑問から、譲位や
重祚の可能性を考えております。4本の「年代列」が並列している理由は、拙著
『日本書紀の真実 −紀年論を解く』でも十分には検証しておりません。これから
の研究課題と考えております。
◆16/YXRFBRMさん
草香幡梭皇女の立后は、履中六年(仁徳列)ですので、西暦四三二年となる
のではないでしょうか。
>>501 履中列(履中前4年=427年、履中2年=432年)なので問題ありません。
この時期は葛城氏等の女子が天皇位にあって、
大王家(?)の男子は皇太子位に就いたと考えています。
当年称元法的に黒媛の薨去と草香幡梭姫の立后が
同年の可能性もありますが435年か436年かまだ判断できません。
503 :
太:2005/12/28(水) 22:02:53
履中のころに女が天皇がいるなどとは空想小説だ。
記紀にもそんな重要な女即位の件を抜かすわけがない。
女天皇になれない神功皇后だって紀に大幅に記述があるんだから、
そのころ、女の即位があればたっぷりそのへんに記録なされているよ。w
しかも、天智までは九州の王のほうが、格が上だから
畿内のオオキミは天皇じゃないし・・・
505 :
太:2005/12/28(水) 23:45:07
格の上下はどうしてわかったか?
天智まで、唐が本気で相手にしているのは、九州だから。
天武からは畿内。
507 :
太国:2005/12/29(木) 00:14:30
すると中国側にちかいほど格上だな?ww
国際情勢から見て、唐>新羅>九州>畿内だな。
またヒガミ鮮人の電波説かよ。
おいおい違うぜ、ヒガミ鮮人じゃなくて、九州の王、薩夜麻が
捕虜になっていたころだからしょうがないのさ。別に新羅に
思い入れなどない。
16/YXRFBRMさん
履中紀の紀年問題をめぐっては、16/YXRFBRMさんのお説とわたくしの説が異なって
いるために、履中六年に相当する実年代も違っているようです。
16/YXRFBRMのお説ですと、履中天皇の『古事記』崩年干支とは不整合を来している
ようですが、この点は、いかがお考えでしょうか。
「天皇」という号の定義の問題が、関連しているのではないかと思います。
16/YXRFBRMさんが
>>502で、葛城氏系の女性天皇が立っていたと主張され、
太さんが
>>503で、そのようなことはありえないと主張されていることには、
津田左右吉氏が指摘されている「祭政二重統治」という考えにおいて、「祭」
を掌るのが天皇であるのか、「政」を掌るのが天皇であるのか、という定義
の問題が関連しているのではないかと推論いたします。『魏志』倭人伝には、
卑弥呼が「祭」、男弟が「政」を担っていたとあります。
16/YXRFBRM説の履中列における履中天皇の崩年は履中2年に当たり
崩年干支から432年です。また同年に瑞歯別皇子立太子しています。
履中3年から6年は延長紀年、黒媛の治世の残りなんですよー。
◆16/YXRFBRMさん
◆16/YXRFBRMさんは、
>>494にて、黒媛の薨去を四三五年と想定されておられますが、
四三五年は、◆16/YXRFBRMさんのお考えの履中列では、「延長紀年」の履中五年に
相当するのではないでしょうか。
>>513での履中六年までを黒媛の治世とするお説
と矛盾しているようです。
また、◆16/YXRFBRMさんは、五世紀について、歴代女帝が立った時代とお考えのよう
ですが、『日本書紀』や『古事記』では、女帝は6世紀末の推古天皇を初めと設定
しております。このように推古天皇を初の女帝と見なしていることを考えますと、
わたくしは、五世紀を女帝の時代と考えるのは、早急な気がしてならないのですが…。
失礼、黒媛(5年まで)と草香幡梭皇女(6年または5〜6年)の治世に訂正です。
>>502の「天皇」というの単語にも些か語弊がありました。
たんなる皇后ではなく執政者としての姫王という意味です。
また履中たちが五王であり、この時代が5世紀であるとは16/YXRFBRMとしては考えていせん。
西暦は紀年の基準を表すのに仮に使用していただけで本当は干支一巡下がる予定です。
例えば履中崩年は432年ではなく492年。
下巻巻頭の注記からと古事記の設定では飯豊は天皇扱いなので
実際に5世紀後半黒媛たちが女帝として存在しても問題ないでしょう。
516 :
太国:2005/12/31(土) 11:12:05
黒媛は女帝にあらず。
日本書紀紀年法についてのスレットを立ててから1ヶ月半ほどが経ちました。
賛否両論や、派生的課題をめぐっての議論など、様々な書き込みがあって、
思わぬ発想やご意見にびっくりしたり、また、鋭い反論に戸惑ったり、実に
楽しく過ごさせていただきました。
日本書紀紀年法に関心があれば、どなたでも、来年も、ぜひスレットにご参加いただ
き、そして、様々なご意見をお聞かせくださいませ。
皆様、よいお年をお迎えくださいませ。
>>471 牧野古墳には二つの石棺があったがやはり共に葬られているのは忍坂彦人大兄皇子に嫁いだ
敏達天皇と推古天皇の娘である小墾田皇女か桜井弓張皇女だろうか。盗掘時か石棺の損傷が
激しいか゛
墓誌でも出ないと被葬者の特定は難しいね。
520 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 21:52:33
>>519 墓誌がでないことを知ってて云ってんのかね。少なくとも候補者3名云えるの
でしょうね。
>>518は比定者を絞り込んだ上で盗掘で出ないことを承知で書き
込んでいるように見えますよ。
失礼しました、そうですね。
牧野古墳が忍坂彦人大兄皇子のものなら地縁関係から考慮すると
合葬されているのは東漢氏に近いと思われる大俣王が有力でしょう。
522 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 09:43:15
>>521 なるほど、横槍にたいして真面目にご返答いただき失礼いたしました。無礼スマソ。
明けましておめでとうございます。
本年も、実りある議論ができるよう努めてまいりたいと思います。
524 :
大和@名無史さん:2006/01/04(水) 14:18:53
>>1 あけましておめでとうございます。
この休みに『聖徳太子と法隆寺の謎』立ち読みする機会を得ました。
懐と相談の結果、買えませんでした。ごめんなさい。
>和銅開珎の検出
これは五重塔心柱根元の葡萄鏡に共伴したものですか?。
それとも瓦に共伴したものですか?。失念しております。
文献史学の立場でいくと再建論者かな。
>若翁(和歌彌多弗利)
以前所属する会で話題になったことがあります。
木簡と聖徳太子と能楽の『若翁』との関連づけ等です。しかし、『若翁』を号に持つ皇子
が多いのには驚きました。勉強になりました。
変った訓をしておられたようですが隋書の人物は別人と?。
>紀年法
以前からぜひお聞きしたかったのですが、
『讖緯説』支持で天孫降臨1,792,470余歳、天地開闢1,594,323歳を説明できるのですか?。
>天地開闢1,594,323歳
なんですかそれ↑は?
月の満ち欠け暦でしょう。
大和@名無史さん
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎』を御一読いただきまして、ありがたく存じます。
まず、和同開珎は葡萄協と共伴したものではなく、弥勒院門前の土中から
の出土です。わたくしは、法隆寺西院は、飛鳥時代の建築物の用材を転用
して、和銅年間に再建されたのではないかと考えております。
「若翁」につきましては、わたくしは、これを「わかんどうり」という
「おぼっちゃま」や「おじょうちゃま」を意味する一般名詞と考えております。
『隋書』の「和歌彌多弗利」は、遣隋使が人称固有名詞ではなく、一般名詞で
答えたものと解釈しております。
紀年法につきましては、ご指摘の数字は、しん緯暦運説において、どのよう
な意味となる天数となるのか、残念ながらまだ解いておりません。
重要な研究課題として位置付けております。
大和@名無史さん
天孫降臨の1,792,470年については、神武即位前紀に記載のある
数字ですが、
>>525さんも指摘されておられるように、天地開闢の
1,594,323という数字につきましては、わたくしも、『日本書紀』
のどこに記載のある数字であるのかわかりません。
529 :
大和@名無史さん:2006/01/04(水) 20:53:31
>>525-528、大変失礼致しました。
「天地開闢1,594,323歳」は別資料の混入の可能性もありますので今回は
お見逃し下さい。前資料を検証せずにUPしましたご容赦を。
1,792,470余歳ってことは干支であらわせば
甲申(1,792,470)〜癸巳(1,792,479)の間
西暦でいえば264〜273年あたりかな?
531 :
太国:2006/01/05(木) 10:52:50
?? w
264〜273年ってのは1792470余歳から試算した天孫降臨の年だよ>太
16/YXRFBRMは天孫降臨と神武東征の実態に関してだけ
竹田昌暉氏の説を支持しているのだけど…
実際の神武東征は辛酉革命説に合わせて行われたわけでは
ないだろうから、10年くらいズレると考えれば間違っちゃいない(苦
274〜283年の間に断続的に各地に降臨(=強襲)して来たんだと思うよ。
533 :
太国:2006/01/05(木) 17:10:54
大数と比べ、え〜小さすぎると疑念を持たないか?w
だったら、最初から紀はそのくらいの3桁数で記述すればよいではないか?
間違った…
乙亥(1,792,479)〜甲申(1,792,470)でした。
天孫降臨は255〜264年くらい。
535 :
大和@名無史さん:2006/01/05(木) 21:11:23
>>532-533 >264〜273年ってのは1792470余歳から試算した天孫降臨の年だよ>太
661-388=273・・・○ or × 教えて!?。
> 661-388=273
??
神武即位前紀によると東征元年=甲寅年(BC667)という基準年の1792470余年前に
天孫降臨したことになっていて1792479+667〜1792470+667の干支が乙亥〜甲申にあたるわけです。
この干支を三世紀に求めるとAD255〜AD264になります。
537 :
大和@名無史さん:2006/01/06(金) 09:50:19
引き続き書き込みしたかったのですが撥ねられてしまいました。
○×だけでは判らなかったですね御免なさい。取り敢えず○×は横に置いておいて
>>532に一票。辛酉革命説による神武天皇即位年BC660年は根拠薄弱ですよね。
>1792470
この数字は特段意味なさないのですか?。
そこで、
>>1-532-533 さん書紀紀年法に於いて、
漢書地理志(日本語訳・ちくま書房2)に記す、太陰太陽暦の元嘉暦の一種なのか
「3統1元(4617年)に還る」と述べられて有ります。この記述の弱点はどう言う
ところにあるのでしょうか。差し障りなき範囲で教えて頂けないでしょうか。読む
限りは納得できるようなのですが。
>>537さん
大和@名無史さんは、
>>1であるわたくしと、
>>532の◆16/YXRBRMさん、そして
>>533の
太国さんの3人それぞれに対して、意見を求めておられるのでしょうか。
わたくしでは、まず、大和@名無史さんが、なぜ、「3統一元(4617年)」という
数字で、納得なさるのか、わかりませんので、ご質問にお答えすることができません。
もう少し、根拠を詳しくご説明していただきたいと思います。
おそらく、わたくしと ◆16/YXRFBRMさん、ならびに、太国さんとは、日本書紀紀
年法について見解を異にしておりますので(わたくしが解明した
>>1などで述べた
日本書紀紀年法の構造に対して、お二方には賛同していただいておりません)、わたくし
以外のお二方にご質問されてはいかがでしょうか。
はじめに
書紀編纂当時、西暦を知り得るわけが無いという偏見があるのですが
単にその手のことに関して無知なだけとも言えます。
1792470を179と247に分け、これを西暦の表示と考え
それぞれ光和2年と正始8年に当てるのはどうでしょう?w
何だか卑弥呼の在位期間に関係する気配有りですよ!
偶然書紀紀年では神功摂政元年が西暦201年、69年が西暦269年
と下二桁が一致しています。
おそらくこの考え方は偶然であり気のせいなので除外したい。
なぜなら偏見を持っているからです。
1792470を分解すると1792470=2*3*5*149*401
となりますがこれの意味するところも分かりませんね。
三統暦せよ何にせよ十干十二支の概念にこだわった結果であることは確かでしょう。
540 :
太国:2006/01/06(金) 15:37:07
ならば1792と470に分けるなどという論が出てくる。
もうおしまい、滅茶苦茶になっちゃう。w 179と2472もありうるぞぉ〜?ww
分割は間違いだな。2倍暦法で考察するのならば、合理性から真があるやも知れぬ。
542 :
大和@名無史さん:2006/01/06(金) 20:46:45
>>538 紀年法研究家さん
>根拠を詳しくご説明していただきたいと思います。
暦法の成り立ちは詳しくありませんが、太陰暦19年7閏月法により19年を一章とし、
81章で一統1539年となる。一統を一終して日数の端数がなくなる。しかし日の甲子
はまだ復帰しない。一統を三たびして一元4617年を得、これを一終して日が干支まで
どう一にもどり、甲子に復る。(日本語訳漢書地理志2・ちくま書房より)
{(4617×365)+(4617÷19×7)}÷4617=元封七年即ち、前漢武帝
詔による旧暦改め漢暦の大初元年(紀元前104年)が有史以来の暦法の基点となりうる
考えを支持するものです。
この説が根拠薄弱なる辛酉革命説なるものよりどうして劣るのか知りたいのです。
>>532-533さんも含めて如何なものでしょうか。
史記暦書によると太初元年(BC104)の干支が甲寅であることを参考にすると
天孫降臨は壬子(BC1,793,146)年〜辛酉(BC1,793,137)なってしまうな…
ちなみに東征元年は辛卯、神武元年は戊戌、崇神元年(BC97)は辛酉
>>541 今年は上の1795149年です。
そのスレでは1792476年説の原出典が明らかにされてない、何だろう?
545 :
大和@名無史さん:2006/01/07(土) 14:15:09
>>543◆16/YXRFBRMさん
>天孫降臨は壬子(BC1,793,146)年〜辛酉(BC1,793,137)なってしまうな…
なるほど天孫降臨年と齟齬をきたすから×と。合わないか色々やってみます。感謝!!。
>>544 いや下の方が正しい。上の説だと日本書紀より10年も差がでる。
下の説の出典は天神祇王代記だが、神皇正統記や倭姫命世記もこれと大差ない。
大和@名無史さん
>>542にて、「三統一元」と「辛酉革命説」のいずれが、日本書紀紀年法をより合理的に
説明しえているのか、につきましては、わたくしは、やはり、「辛酉革命説」であると
考えております。これは、三善清行が「革命勘文」において辛酉説を以って神武元年
を説明しているように、日本書紀紀年法の構造をよくよく検証してみますと、神武元年が
辛酉年に相当しているだけではなく、「120年」など、しん緯暦運説において重要な
天数が用いられていることが、はっきりしているからです。
しかしながら、「1,792,470」という数字に関しましては、わたくしも、
しん緯暦運説に拠る数字であるのかも含めて、その意味が、まだわかりません。
ただし、必ずや、意味のある数字であると考えております。
わたくしも、この数字についても解明したいと考えておりますが、どなたか、
この数字をきちんと説明する仮説を提起していただきたいと思っております。
548 :
太国:2006/01/08(日) 21:10:42
だいたい 11カラブトゥン くらいの年月の経過だな〜、
「179万2470余年」に関していうなら
「三統一元」でも「辛酉革命説」でもぜんぜん説明できてないですよ。
隋の煬帝に、イ妥国・九州豊国王朝・蘇我大王家の君臨者・小野妹子(女王)が
「日本国」と名乗りましたが、認められませんでした。
【小野 妹子〔蘇 因高〕……「卑弥呼・ピぃむこ」の「ピ」音が欠落】
即ち、春秋呉〔李歴〕⇒「イ妥国〔イザナミ〕」⇒ 西暦645年の「大化改新」
=【イ妥国化への改新〔この後、畿内に東遷〕」】により、「大倭国〔の君臨家に〕」⇒
⇒「白村江の戦い」に勝利した「天智天皇【新羅武烈王】の近江王朝・日本国」に。
三国呉(太伯)⇒「倭国(イザナギ)・九州筑紫王朝・物部系」⇒ 西暦639年に、
「イ妥国」と「倭国」が合併建国し、「大倭国」に。「君臨者・皇極&統治者・孝徳」朝。⇒
⇒「(国譲りした)大国主命」=【孝徳天皇】⇒「〔国譲りされた〕天照大神〔蘇我系〕」=【斉明】。
「皇極(太上天皇)」=【物部系最後の君臨者】≠「斉明〔太上天皇〕」=【蘇我系最初の君臨者】
>>427さん へのレス
中大兄【弘文天皇】の三山の歌
高(香具)山【大田(十市)皇女】は
雲根火【舒明・鎌足】雄男志等
耳梨【大海人皇子(天武)】と 相争ひき
神代より かくにあるらし
古(いにしへ)も しかにあれこそ
うつせみも 妻【大田(十市)皇女・弘文妃】を争ふらしき
(巻1・13)
なお、【私見】は、
【古を推しはかる】意味の「推古天皇」は、
【大津皇子〔諡号は、聖徳太子〕の母・大田(十市)皇女】です。
真の『万葉集』
http://homepage1.nifty.com/shoumu/
552 :
太国:2006/01/10(火) 22:39:26
小野妹子は女王? 男じゃない?w
553 :
大和@名無史さん:2006/01/10(火) 22:52:27
>>547 紀年法研究家さん。
再返事いただき有り難うございます。私用で近畿を離れておりまして謝辞が遅くなりました。
仰るように何方かからの提起があれば宜しいですね。
>>549さんには第三の解決法をお持ちな
のですか。後学の為、自論をご披露いただければありがたき幸せ。
>>459さんへ
和歌や古典文学には、共通する【寓喩訳に依る、裏意(真意)】が存在しています。
「表意」=【擬物法や諷喩に依る、裏意(真意)】
「花」=【君臨者(太上天皇・女王)】
青によし奈良の都は咲く花【君臨者・むろ女王】のにほふが如く今盛りなり (巻3・331)
花【君臨者】の色はうつりにけりないたづらにわが★御代にふるながめせし間に 小野小町
「鳥」=【統治者(大臣・男王)】
鳥【統治者】となりて(鳥翔成)あり通ひつつ見らめども人こそ知らめ松は知るらむ (巻2・145)
「風」=【君臨者(太上天皇・女王)】
君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋【蘇我大王家】の風【君臨者】吹く (巻4・491)
「月」=【統治者(大臣・男王)】
この世をばわが世とぞ思ふ望月【統治者(の権勢)】の欠けたることのなしと思へば 道長
「天皇」=【天の白い王(字形分解)……「月(の通り道)」を「白道」と言う】
>>462さん
「衣通郎姫(白人金髪)」=【鵜野讃良皇女(持統)】
「木梨軽皇子」=【大津皇子〔⇒ 人麻呂〕】
「柿本(朝臣)人麻呂」=【「官房長官(の名乗り)」・朱鳥元号時】
>>552さんへ
通説では「小野妹子は男」ですが、
【私見】は、【(天照大神)・イ妥国の君臨者は女王・姫(姓)】
です。
556 :
太国:2006/01/10(火) 23:27:10
???
>>499さんへ
『紀』の、「皇極、重祚して、斉明」も、「天智称制」や「持統称制」、
「孝謙【光明皇后】、重祚して、称徳太上天皇【阿閇内親王】」も、
欺瞞(嘘)です。
禁忌した「孝謙太上天皇(光明皇后)の愛人」は【藤原朝臣仲麻呂(恵美押勝)】
うらうらに照れる春日(はるひ【鮮卑・せんぴ】)にひばり【藤原仲麻呂】上がり
心悲しもひとりし思へば 家持【(借名の)聖武天皇】(巻19・4316)
「称徳太上天皇(阿閇内親王)の愛人」は、【道鏡=藤原朝臣豊成(仲麻呂の兄)】
>>503さんへ
空想小説と考える貴方が間違っていると思われる。
『古事記』は【石上 布留<古>の<事>を<記>した史書・<夏>】であり、
『日本書紀』は【天智系(春)・近江王朝の史書】だが、
「合わせ鏡」に成っていて、同じ処で嘘を付いている。
『万葉集』は、『記&紀』を正してある。
「花鳥風月」に、【寓喩訳に依る、裏意(真意)の、君臨者&統治者】が
存在する以上、「君臨者」は【女王】、「統治者」は【男王】です。
ただ、殆どの君臨者(女王)を隠しているだけです。
>>543さんへ
「天孫降臨」とは、【持統太上天皇と、その恋人の人麻呂〔大津皇子〕との児・房前】、
即ち、【持統(桜児)挽歌】=「泣血哀慟歌(巻2・207〜219)」の中の、
「〜 我妹子【持統】が 形見に置ける みどり兒【藤原(北家)房前】の 〜
(巻2・213)」を指しています。
「持統」を、【倭国・九州筑紫王朝・物部系(三国呉・太伯の姓は「孫」)】
の「孝徳天皇の皇太弟・天武」と見ている。
何云ってんの?
天照の孫が九州本土に侵入したから、天孫降臨でしょうが?
書紀暦法は太初暦と同じ甲寅を干支の初年に設定し、なおかつ辛酉革命説とったので
東征期間を7年間に縮小する必要性が発生した、このため古事記と書紀では経過年数が異なる。
『1792470余年』はおそらく1792476年のように詳細な年数を求めるのは無意味だろう。
>>549氏の説はある意味正しいでしょう。甲寅以前は現行の干支が存在せず、日本書紀における
紀年法の範囲に入らない。別の暦法で表現された紀年であると考えられます。
563 :
太国:2006/01/11(水) 08:01:32
>>557 読みにくくて理解しにくいが、皇極斉明の重祚等が嘘だと主張するのかい?w
皇極斉明のそれが嘘だというのならば、嘘を造る特段の理由がなければ
そんなことをする必要などない。その並外れた利害の多い何かがあったのかね?w
ただ紀を読んでて単に貴女が嘘だと考えるのなら、貴女の脳内での創作だよ。
それともその頃の朝廷や舎人親王らに嘘八百を紀に書く大きな理由があるかい?w
564 :
太国:2006/01/11(水) 08:15:19
>>558 履中の頃にも女帝を造って嘘をつきたい朝廷の大きな困った理由があったのかね?
そういう何か重要な利害がなければ、ストレートに当時の歴史を記述するよ。
それは資料不足で確かにいささかは間違い記述に陥ることもあったろうが、
女帝がいたいないは陰陽いずれか二者選択で誤魔化しが利きにくいし失敗はないな。
特筆すべきが無ければ、履中の頃の世に女帝がいたなどとは空想小説だよ。
そういう利害関係を貴女の脳内で自発選考すのでなく、客観的見地から発見等して
どうやらそれが見つかったので女帝がいなければおかしいとなってきて、初めて
真面目に聴く耳を持つべき論となるわけだ。
565 :
太国:2006/01/11(水) 09:22:02
>>564 ははーん。一寸訂正。w
履中のころに女帝がいたのを、男帝に造作したということだな?
その利害が係わる、重要なあるものとは?取替えねばならぬほどの理由とは何か?
両方いたんじゃない?
567 :
太国:2006/01/11(水) 10:23:48
だから女帝のほうは何って名なっだね?w
どこかの文献に載っているのか?ww
何も資料等なく、そういうことを言っているならば、君の頭脳の自作創造だよ。w
推理小説家には向いているがね。ww
568 :
太国:2006/01/11(水) 10:26:40
誤 何て名なっだね? 正 何て名だったのかね?
いたほうは男帝の片方さ。w
考え方の違いだよ。
なんなら男の方は帝じゃなくてもいい、
現代風に言えば皇配殿下でもいいよ。
>>561さんへ
「天孫降臨」とは、【三国呉の太伯の姓の「(天)孫」降臨】を言う。
「天」とは、【一(壹)+大(臺・イ妥)=「邪馬(連合)壹国」+「邪馬(連合)臺国」】
の事です。
具体的には、「天孫」とは【中衛高明閤下・「藤原北家(祖・房前)」
=【持統・物部系<夏>と{大津皇子(人麻呂)=聖武天皇〔秋〕}の子】】を言う。
【私見】は、「二重式読法」に拠る、
「神功皇后」=【君臨者・牟漏(むろ)女王=房前妃】
青によし奈良の都は咲く花【君臨者・むろ女王】の
にほふが如く今盛りなり (巻3・331)
「(事切れた)仲哀天皇」=【中衛高明閤下・房前=牟漏(むろ)女王の夫】
「神功皇后と仲哀天皇は、博多の香椎宮に祀られている」のではないでしょうか?
田子の浦【浦(ウラルトゥ)の天子】ゆ うち出でて見れば 真白にぞ
富士の高嶺【房前】に 雪は降りける【藤原氏(雪)を従えて】 赤人【美努王】(巻3・321)
「新編国歌大観」準拠版 『万葉集』(上下巻)を使用。
『万葉集』の(巻5・813)から(巻5・817)の間に、
房前と牟漏(むろ)女王・悟桐の日本琴(やまとごと)の事が
記載されています。
>>561さんへ 続き
『記&紀』も『万葉集』も、【肝心な事は、裏に隠している「隠書」】です。
また、『記&紀』の建て前は、「万世一系」です。
だからこそ、
「天智天皇」=【新羅王(武烈)・金春秋】、
「天武天皇」=【高句麗王・泉蓋蘇文】、
即ち、「天智と天武は、赤の他人」である事を隠しているのです。
572 :
太国:2006/01/11(水) 11:53:59
>>569 考え方の違いはそのとおりだが、当時女帝の即位はない。
記紀に記載がなく、とりわけ男女を入れ替える必要など、太安万侶や舎人親王
にも古代推理小説を作る目的であったとかの理由もない。古史古伝にも無い筈だ。
もしそうなら、舎人親王は太安万侶の盗作をやっていたことになる。
そんなことはありえない。むしるそのような小説を作っているのは、失礼ながら
貴殿の脳内ということになっちゃうよ。
>>567さんへ
私は、一介の素人『万葉集』研究家です。
拠って、『記&紀』よりも、『万葉集』の史観を大切にしています。
失礼ながら、はっきり言えば、
『万葉集』とは何か?
「貴方は、その半分も知らない」
と私には想えます。
『万葉集』は、表裏一体の二重構造を持つ、「表」は歌集、
【裏】は史書、になっていて、
【裏】の史書は【大倭国・九州豊国王朝・蘇我大王家〔聖武天皇〕の勅撰史書】に
なっています。
古史古伝ならウガヤフキアエズ朝に女帝がたくさんいたはずだけど?
この時代じゃねーから関係ねーか!w
ま。さんざん弄った紀年にあらわれる連続した立后と皇后の薨去が
論拠の源なわけだが、ほかに証拠に類するものを挙げろと言われても
女性が葬られたとされる古墳があるだろー!とかこの時代は
儒教的男尊女卑ではないとか、そんな程度のことしか思いつかん。
そんなんじゃ納得しないだろ?なんかこだわりがあるなら
この件に関しては電波説・脳内小説でいいよ。
575 :
太国:2006/01/11(水) 13:16:14
>>573 それは
>>566さんへの話です。まあそれはよいとして、
おっしゃるとおり、余は万葉集は貴女の半分もわからんですが、
裏が史書になっているというのは、示唆を含んでいるからありえましょうが、
そのことを念頭において・・・記紀とは全く逆の内容をその裏とやらで決め
るというのは、よくよく注意たほうがよろしいと思います。
記紀の双方が一致(不一致の個所もあり)していて、古史古伝も同様なこと
を言っているとなれば、裏とやらが正反対のことを主張していても、
かならずしも真とは言い切れず、むしろその裏を遺棄否定するほうが安全です。
ただ、その裏に対してよっぽどの側面からうなずける資料等が多少なりとも
ある、出てくるならば、事実の可能性出てきますがねぇ・・・。
576 :
太国:2006/01/11(水) 13:20:31
>>575さんへ
私は、ただ一点「史実の(追求)解明を目指すのみ」です。
古代史の中で、最も難しかったのは、「人麻呂の正体」です。
「柿本(朝臣)人麻呂」=【「官房長官(書きの基の 一麻呂)」の名乗り】
「山柿の門」=【人麻呂(筆名)&赤人(筆名)&憶良(借名)】
★終焉地は「隠岐島・島後・西郷町・加茂(鴨山の、かも。 巻2・223)」
「桃栗三年」では判らずに、「柿八年」を要しました。
蛇足
「清少納言」=【聖書 納言】
『記、紀、万葉』には、彼女【清少納言の筆が入っています】。
ここ数日間忙しくしておりまして、スレットを開いてみましたら、随分とにぎやかに
議論が展開しておりまして、驚きました。
さて、「1792470」につきまして、思いついたことは、
1+7+9+2+4+7=30+0=300
で300という数字と関連しているのではないかということです。
300という数字ですと、しん緯暦運説と関連していることになります。
いかがでしょうか。皆様、ご意見をお聞かせください。
秋山彩香さん
秋山さんは、大変独創的な研究をなさっておられるようですね。
『万葉集』の大和三山につきましては、わたくしも研究をしており、わたく
しなりの見解を持っており、いずれ、発表いたしたいと思っております。
秋山さんとは、随分と解釈が異なりますが、『万葉集』が歴史的記録として
の価値がある見なしているという点においては、意見は同じです。
しかしながら、秋山さんの歴史観は、わたくしの理解の範囲を超えています。
581 :
太国:2006/01/13(金) 09:33:40
>>577 記、紀はそれぞれ712年、720年の成立なのに、清少納言の筆が入っているというが
当時彼女は生存していなかったはずじゃないのか? だから
万葉はいいとして、記、紀に彼女の筆が入っているとは到底考えられない。
>>581さんへ
貴方は、『記&紀』の「万世一系」や712年や720年の成立を
信じて疑わないのですか?
もしも、そうであれば、貴方との議論は無駄です。
『記&紀』の最終編纂は平安時代の大和朝廷(梨壺)に於いて、なのですから。
『記、紀、万葉』のいずれも、「隠書」です。
表面に書かれている事だけでは、解明出来ません。
それらがある程度判っているから、
>>1さんがこのトピを立ち上げられたのでは
ないでしょうか……。
583 :
太国:2006/01/13(金) 15:33:20
そんじゃぁ、記紀のどこにどういう清少納言の文面があるのかい?ww
同女が記紀の中に何ゆえそんな真似をせねばならんのか? これを
生きているとしての太安万侶と舎人親王が知れば、おおいに怒るんではないか?
なお、皇統は萬世一系に続いているものである。
>>583さんへ
お隣の中国同様に、平安時代の大和朝廷(梨壺)が前時代までの史書の
『記、紀、万葉』を同時に、最終編纂しています。
そうでなければ、『記、紀、万葉』の整合性は取れないからです。
★『古事記』は、【石上 布留、<古>の<事>を<記>した、
倭国・九州筑紫王朝(卑弥呼)・物部系<夏>の史書】
★『日本書紀』は、【日本国・近江王朝・天智系[春]の史書】
★『万葉集』は、表裏一体の二重構造を持つ、「表」は歌集、
【裏】は史書、になっていて、【裏】の史書は
【(イ妥倭⇒)大倭国・九州豊国王朝・〔秋〕蘇我大王家〔聖武天皇〕の
勅撰史書】になっています。
『万葉集』や和歌、名だたる古典文学に共通する【寓喩】
「表意」=【擬物法や諷喩に依る、裏意(真意)】
「春夏秋冬(四季)」=【四つの皇統】
「春」=【日本国・近江王朝・天智(新羅・大伴・隼人)系】
「夏」=【倭国・九州筑紫(三国呉・太伯の末裔)王朝・物部系】
「秋」=【イ妥国・九州豊国(春秋呉・李歴の末裔)王朝・蘇我大王家】
「冬」=【日本国・藤原(北家)王朝・(朝鮮半島の百済・巨勢)系】
太安万侶や舎人親王が最終編纂しては居ません。
彼らの名前を借りているだけです。
585 :
太国:2006/01/13(金) 16:21:14
なら、そのとき二人の名とせず、現実の最後編纂者の名も付加すべきではないかね?
万葉集に記述されているか知りませんが、九州筑紫説に関しては、かなり真に近い。
その春夏秋冬の件が清少納言の記紀に入っている語かい?
むしろ枕さんに記述すれば事足りることじゃないのかい?
>>583さんへ 続き
「春」=【日本国・近江王朝・天智(新羅・大伴・隼人)系】
「夏」=【倭国・九州筑紫(三国呉・太伯の末裔)王朝・物部系】
春【弘文朝】過ぎて夏【天武朝】来たるらし白妙【斯廬(しろ・新羅の古名)絶え】の
衣【死装束】乾(干)したり【乾坤(意味は、天地)の天。干すなら、可汗(王)】
天の香来山【高麗王・泉・蓋蘇文=天武】 (巻1・28)
「秋」=【イ妥国・九州豊国(春秋呉・李歴の末裔)王朝・蘇我大王家】
「秋山われは」=【(本来なら)私・大田(十市)皇女こそ、
額田王〔奴佳臺王・蘇我大王家〕なのに……。】
「冬」=【日本国・藤原(北家)王朝・(朝鮮半島の百済・巨勢)系】
冬【舒明・鎌足(嘉摩の足らし彦)・金 多遂】こもり
春【天智・武烈・金 春秋】さり来れば 〜
>>585さんへ
貴方の頭の構造は単純なようですね。もう少し血の巡りを良くした方が良いですよ。
平安時代の大和朝廷に於いて、『記、紀、万葉』は「国家プロジェクト・梨壺」により
最終編纂されているのです。
中心人物に、馬内侍(清少納言)が居たのです。
『万葉集』の、「春夏秋冬(四季)」=【四つの皇統】が、
清少納言の『枕草子』にも、それとなく記載されているでしょ?
冒頭抜粋
「春はあけぼの」=【天智系は日の出の勢い】
「夏は夜」=【天武系は滅亡間近】
「秋は夕暮」=【蘇我大王家の勢いは日の入りに】
「冬はつとめて(早朝)」=【藤原系は新参者】
「白き灰勝ちになりぬるはわろし」=【斯廬(しろ・新羅の古名)の隼人(ハイト)寄りに
なるのは、良くない事だ!】
588 :
太国:2006/01/13(金) 16:59:06
記紀にですよ、清少納言の系の不利益が記述してあるとか同女の怨恨を生むような
ことが載っているとか、それに準ずる同女に関し面白くないことが書いてあるとか
がなければ、先達の国家的文面に記述を差し入れるなどということは、清少納言が
気が触れてない限りそんなことをやるわけがない。
先述のとおり、枕草子にでも自己の主張する歴史観を書けば事足りると思いますが
いかがですか?
30年近く前、天の香具山に登頂したのを想い出しますな。いい天気だった。
登山口の所に火神を祀る天香具山神社があったな。頂上は蜘蛛の巣、草等の妨げで
縦横無尽には観光出来なかった。頂上にて、誰が落としたか分からないが、
8mm位の水滴形の貝のヘッドのペンダントが落ちていて奇異に感じたのを回想する。
駄弁を振るいすぎたが、神秘の山だよ。もう一度行きたいねぇ。
秋山彩香さんに対する皆さんのレスをみるにつけ、ここの皆さんってホントに紳士淑女ですね。
>>588さんへ
貴方が知らないだけです。
清少納言はちゃんと、同族の物部氏が殆ど殿上人で無い六位で
不利益を被っている事を『枕草子』に記載しています。
ま、それは藤原氏全盛時代なのでやむを得ないでしょう。
貴方のように、現代人の感覚で古代人を推し量ろうとするのは間違いです。
少なくとも、清少納言は貴方よりもずっと賢いのですから。
浄瑠璃の近松門左衛門は、「かぐや姫」の語源が「香具山」だと
知っていたようです。
「女形(おやま)」は「お山(香具山)」から来ている。
それを知らない人を「ま抜け」と言ったとか……。
「かぐや(ま)姫」。
591 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 21:33:00
>平安時代の大和朝廷
この人アフォですか?
592 :
太国:2006/01/13(金) 21:56:16
余も自分の力を過信しすぎて失敗したことがあるが、なんで清少納言より知能が
下回る旨の判定するのか?貴女はザ掲示板のジンギスハーンのスレの余の書き込み
を読んだんじゃぁないのかね?w
余は神代文字『卜』からの神占たる鹿卜、亀卜の運用を自力で研究し、いろいろの
関係スレで論を張っている。だから神代の考えを行使する古神道皇道派の者だ。
決して現代人的感覚でのみで古代に物差しを当ててはいない。
現代人の感覚の者が萬世一系をストレートに認容するか?(稀にはあろうが)
そうじゃないだろう? ところで
太安万侶、舎人親王らの与えた清少納言への不利益とは、具体的にどんなんだ?
593 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:26:22
A列、B列・・と、森博達氏のα群、β群とに関係があるのかな?
>>593さん
森氏のα群とβ群の分類は、ある程度関連していると想定することができます。
理由は、α群とβ群の区切りが、巻十三と巻十四の間となっており、雄略列(B列)
が、巻十四から有効となっていることと関連しているようであるからです。
拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』で、
区分論についても、多少言及しておりますので、興味がございましたなら、
ぜひ、ご一読ください。
秋山 彩香さん
わたくしの日本書紀紀年法を多少、ご理解いただいているようで、ありがたく存じます。
わたくしも、『日本書紀』と『古事記』は、七二〇年と七一二年に成立
したわけではないと考えております。しかしながら、その成立は、平安時代
までには下らないのではないかと想定しております。すなわち、8世紀代と
推論しております。
それから、このスレットに書き込まれる方々は、いずれも、独創的で、思わぬ
視点から日本古代史にアプローチをなさっておられます。
>>594での書き込みの
ように、馬鹿と言ってしまうのは、いかがなものでしょうか。秋山さんの説も
人によっては「とんでも説」で、わたくしの理解を超えております。
一見、「とんでも説」でも、一考の価値のある面白い説はたくさんあります。
>>596さんへ
『懐風藻』の末尾に、「寒月、無邊を照らす」の「亡名氏」が載っていますが、
彼の実名がお判りですか?
彼の名は、「新編国歌大観」準拠版 『万葉集』(上下巻)『万葉集』
(巻3・248)左注の「石川朝臣君子(きみこ)」です。
日本@名無史さんは、彼の「爪の垢」でも煎じて飲めば、賢く成れるかも。
私は、是々非々主義者です。良いものは良い、悪いものは悪いとハッキリ言います。
また、ふりかかる火の粉は払うべく、辻斬りの刃には、斬り返します。
>>578 『一百七十九萬二千四百七十餘歳』という年数は何らかの
暗号解読的解釈が可能であるという点について同意です。が
「一、七、九、二、四、七」の各数値と順番には意味があるものと考える場合
安易に合計すべきではないでしょう。
599 :
太国:2006/01/14(土) 19:52:58
>>590 清少納言と貴女とは、いったいいずれが賢いんだろう??ww
600 :
きとら:2006/01/14(土) 23:50:16
三冊とも拝読しました。まだ、整理はついていませんが。(笑)
森説に依りますと、α群の筆録者は続守言(と薩弘恪)
B列が巻十四から有効としますと、B列の設定は続守言ら?
山田史御方や紀清人らは別の年代列設定?
ついでに、江口洌『古代天皇と陰陽寮の思想』の「聖数」説については如何お考えですか?
明日香の「菖蒲池古墳」は、
【額田王〔奴佳臺王〕・大田(十市)皇女陵】である。
額田王〔奴佳臺王〕、近江天皇【夫の弘文天皇】を偲ひて作る歌一首
君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋【蘇我大王家】の風【君臨者】吹く (巻4・491)
なお、この歌は、「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は簾をかかげて見る」・
『白氏文集』の「簾」から発想された歌で、
「真の作者」は【清少納言{実名は、高階(たかしな)貴子(きし・たかこ)}】と考えられる。
清少納言〔高階貴子〕の娘の、中宮定子が、廊下を歩いて居た道長を見つけ、
傍に居た清少納言に「香炉峰の雪【道長を揶揄】は如何ならむ」と言ったので、
清少納言は、簾を掲げて(恋人の)道長を見たのだ。
「清少納言(聖書納言)」=【高階貴子=<源>紫式部・『源氏物語』の創作者。光源氏のモデルは、須磨流しの儀同三司伊周(これちか)・息子】
『枕草子』では、娘の中宮定子を「をかし」と、
『源氏物語』では、息子の伊周を「あはれ」と表現。
正史『日本書紀』の欺瞞に対抗しているのが、我が国の古典文学です。
『源氏物語』も然り。
紫式部は「螢の巻」で光源氏の口を借りて述べています。
玉鬘(たまかづら)のもとをおとづれた源氏は、そこで物語論の花を咲かせる。
「物語というものは、この世にあることを書き残したには違いないが、
正史としての日本紀などは、ほんの一面を伝えるに過ぎない。
むしろ、これらの物語類の中にこそ物の道理・人生の真実が写されていよう」
と説(と)く。 『源氏物語』 円地文子 訳
>>秋山彩香さん
あなたの説は非常に興味深いと思います。
ただ、このスレではスレ違いになる要素をかなり含みますので、専用スレを建てられてはいかがでしょうか。
もちろん、日本書紀紀年法研究家さんの研究とのすり合わせにより、
真実に近づくはずだと思いますから、必要時にはこちらにも書き込みされることを望みます。
秋山 彩香さん
『懐風藻』の末尾に「寒月、無邊を照らす」という「亡名氏」があることは、
存じ上げておりませんでした。しかしながら、いずれにしましても、「亡名氏」が
『万葉集』の「石川朝臣吉美侯」であるということが、何の意味があるというので
しょうか。
また、「亡名氏」が「石川朝臣吉美侯」であるという根拠はどこにあるのでしょうか。
秋山さんは、「さかしまごと」がお好きなようですが、わたくしのように単純な者
には、
>>597でおっしゃられたいことが、何であるのかわかりません。
ただし、『万葉集』の左註は、二四八番歌(旧番号二四七)が、石川宮麿朝臣と
石川朝臣吉美侯のどちらが作ったのかわからないという内容です。「亡名氏」とは、
作者として名が伝わっていないと解釈されますので、左註の内容と関係があるので
しょうか。なぜ、わたくしに対して、このような書き込みをなさるのか、まったく
理解できません。拙著3冊は、すべてわたくし一人の研究成果です。これから刊行
される拙著もわたくし一人の作品です。
秋山さんの書き込みは、イメージ戦略として、わたくしの作品には、別の作者がい
るという間違った印象を周囲に与えるものです。正直申し上げて、不愉快です。
◆16YXRFBRMさん
合計で300という数字は、わたくしとしては、面白い仮説と考えております。
しかしながら、
>>598でのご指摘のとおり、数字の順序などに意味があるとい
う考えには、賛同いたします。数字の順序の意味についても、これから考えて
みたいと思います。
606 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 13:59:59
このスレッド 興味深くじっくりっと読んできましたが、
「万葉集」のユニークな研究家が登場した以降、急にしらけて
しまいました。発言の場をオープンにするとこういう災害に
みまわれることがあるんですね・・。残念です。
嵐の去るのをじっと待つほかないのでしょうかね・・・。
専ブラでNG登録後スルーが吉。
きとらさん
拙著3冊すべて御一読いただきまして、ありがたく存じます。
巻十三と巻十四の間に区分線があることは、区分論、日本書紀紀年法、
そして、暦法においてもはっきりしています。その原因が、森氏が主張される
ように、述作者にあるのか、それとも、『日本書紀』の原典となったような
史書にあるのかがわからなければ、議論は進まないと思います。
わたくしは、雄略列(B列)の設定問題も含めて、原因は、『日本書紀』の原
典となった史書にあるのではないかと考えております。
609 :
きとら:2006/01/15(日) 14:54:18
紀年は人為的な設定ですね。
三十巻を貫徹する紀年形式があるとすれば、それは最終編纂者の手になるものでしょう。しかし、複数の紀年形式が見て取れるとすれば、それは、『書紀』の編纂・改稿の過程を解明するためのいい切り口になります。
江口洌説に依りますと、天皇の即位、在位年数に、主に、19と26の整数倍という人為が見て取れます。冠位一九偕・二十六階を反映しているようです。
あなたの見出された数列と江口氏の見出された数列との整合性なども考察の対象になると思います。
原点となった史書とは、いわゆる「帝紀」のことですか?
>>1 でさえ相当に電波なのに、ますます電波が集まってきているな。
きとらさん
きとらさんが
>>609でおっしゃられている複数の紀年形式が見て取れることが、
『日本書紀』の編纂・改稿過程の解明に役立つというお考えに、わたくしも賛同
いたします。恥ずかしながら江口氏の研究書をわたくしは、まだ読んでおりませんが、
易緯の註の「120」や「240」などとは、別系統の聖数の問題があるようですね。
『日本紀(日本書紀)』の原典となった史書の問題、『日本紀』の成立過程の問題、
そして、『日本紀』から『日本書紀』への改編、改稿問題という3つの段階的問題が、
『日本書紀』の成立には、複合的に関連しているとわたくしは推論しております。
『日本書紀』をめぐっては、まだまだ研究課題がたくさんあると言うことができます。
>>610さん
「>>1でさえ相当に電波なのに、ますます電波が集まってきている」とは、
どのような意味でしょうか。
わたくしが、
>>1ですので、気になります。
>秋山 彩香(あやか)さん
ヤフーとここは勝手がずいぶん違うはずです。
まずは自説の根拠を述べた上での展開を心掛けて下さい。
意外と専門家が多く常駐している2chならではの流儀ですので、ご了承を。
>日本書紀紀年法研究家さん
本物の倉西女史ですか?ならばご無沙汰しております。
貴説のa列、b列に関しては森氏とほぼ同見解ですが
c列より後が独自の見解によるものでしたよね。
そのあたりが例に出されていた小嶋憲之氏の見解と異にするのですが
そのすりあわせ作業は進んでいますか?
私?この指摘をもってして推測してください(笑)
それでは新刊を心待ちにしております。
>>612 日本書紀紀年法研究家さん。
私は610ではありませんが、解説します。デンパとは2ちゃん特有の言い回しです。
以下にその解説を引用します。
>でんぱ
>意思疎通不可の精神異常者、またはその言動を指す。
>今では真性キチ○イに限らず気軽に、天然系、独り言系、
>一般との意思疎通が出来ない系の人に使われる。
しかし、真面目に受け止めたり必要以上に気になさらないで下さい。
ここでは「あなたの説は珍説、奇説」と煽られた、とお考え下さい。
2ちゃんでは、多くの意見を直接聞けるというメリットもありますが、
反面あなたほど真面目に参加していない方からのからかいなどにもさらされます。
これは軽く流していただくのが得策かと存じます。
615 :
きとら:2006/01/15(日) 22:52:28
江口洌『古代天皇と陰陽寮の思想』提示の数字の一部を紹介します。
引用に誤りがあるかも知れません。
また、大事な部分の遺漏があるかも知れません。
検算はお手のものでしょう。
神武在位年数 76 (19×4)
安寧在位年数 38 (19×2)
孝霊在位年数 76 (19×4)
孝元在位年数 57 (19×3)
応神即位 神武崩御から855(19×45)
仁徳即位 垂仁即位より342(19×18)
履中即位 応神即位より130(▲26×5)
雄略即位 仁徳崩御より57(19×3)
武烈即位 雄略崩御より19
継体即位 允恭即位より95(19×5)
仁賢即位より19(19×1)
神武崩御より1092(▲26×42)
616 :
きとら:2006/01/15(日) 22:54:54
舒明即位 →26斉明即位
皇極即位 →26天智即位
天智崩御 →26文武即位
天武即位 綏靖即位より1254(19×66)
崇神崩御より703(19×37)
垂仁即位より702(▲26×27)
草壁立太子 →26元明即位
草壁薨年 →26元正即位
持統即位 雄略即位より234(▲26×9)
神武即位より1349(19×71)
応神崩御より380(19×20)
履中崩御より285(19×15)
617 :
きとら:2006/01/15(日) 22:56:37
文武即位 孝安崩御より988(19×52)
孝霊崩御より912(19×48)
孝元崩御より665(19×35)
開化即位より855(19×45)
継体即位より190(19×10)
元明即位 神武崩御より1292(19×68)
応神即位より437(19×23)
仁賢崩御より209(19×11)
元正即位 顕宗崩御より228(19×12)
武烈崩御より209(19×11)
神武崩御より1300(▲26×50)
継体即位より208(▲26×8)
用明即位より130(▲26×5)
草壁薨年より▲26
618 :
きとら:2006/01/15(日) 23:15:24
常識的に考えまして、天皇の崩御や即位が、
19年、26年周期で発生するはずがありません。
例えば、
草壁立太子 →26元明即位
草壁薨年 →26元正即位
元明、元正の即位年が史実としますと、
草壁立太子・薨年は作為の可能性があると思います。
619 :
きとら:2006/01/16(月) 00:57:11
一方、草壁立太子・薨年が史実としますと、
元明・元正の即位事情はそれに影響されたという可能性があります。
あるいは26という数字は偶然という可能性もあります。
新しい時代から、一つ一つ検証して行くべきだと思います。
620 :
六ちゃん:2006/01/16(月) 08:37:16
(603)の?原一派さんが 秋山綾香さんに 専用のスレを建てたらいかがですか なんて余計なことを 発言したから・・ 彼女の意見を知ることが 出来なくなったしまった。本当に残念です。 余計な一言を発言した 603番が問題なのよ!
621 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 09:18:08
>>620 彼女の意見など知る必要ありません、貴方たちが問題なのです。
おうちへ帰りなさい。
>>613様
大変、ご無沙汰いたしております(もしも、万が一推測が間違っておりましたならば、
大変失礼にあたりますので、お名前をここに記しますことを慎ませていただきたいと思います。
森氏や小嶋憲之氏の研究と日本書紀紀年法とのすりあわせにつきましては、
きちんとした結論を出せるよう、努力してまいる所存でございます。
叱咤激励をいただきましたこと、あつく御礼申し上げます。
橿原一派さん
「デンパ」の意味をご説明いただきまして、ありがたく存じます。
気にかけないようにいたします。
きとらさん
江口氏の研究をご説明いただきまして、ありがたく存じます。
>>615から
>>619までの内容からは、『日本書紀』において、「19」と
「26」という聖数が重視されていることは、否めないと考えられます。
「19」と「26」は、しん緯暦運説では説明の難しい数字ですので、
やはり、別系統の構成論理があることになるのでしょう。
草壁皇子と元明天皇・元正天皇との関連の問題からは、七二〇年の『日本紀』
の成立段階、もしくは、『日本書紀』の成立段階に設定されたのではないかと
推論できるかもしれません。(『日本紀』が改編されて『日本書紀』として
成立したのは、七二〇年よりも数十年後と考えています)。
625 :
六ちゃん:2006/01/16(月) 15:33:32
(620)の日本@名無史さん 「彼女の意見など 知る必要がない」って返答しなくても結構よ。貴方は?原一派さんですか? 関わりの無いところに口を挟みたいのは・・・おばさんだからかな(笑) それとも 一派さんと同じ人なの(笑)
626 :
きとら:2006/01/16(月) 17:46:57
ところで、江口氏の挙げられる聖数関係には、不思議なことに、推古・聖徳太子が見当たりません。私の読み落としかな?
もし、推古が無視されているとしますと、
推古は聖数関係構成後の加筆であり、加筆者は聖数関係を考慮しなかった、という可能性も出てきますね。
きとらさん
きとらさんは、拙著『聖徳太子と法隆寺の謎 −交差する飛鳥時代と奈良時代』を
御一読いただいておられるとのこと、ありがたく存じます。推古紀には、120
年後の奈良時代の歴史的事象が投影されている記述が多くあることを拙著では、
論じております(拙著の副題が「交差する飛鳥時代と奈良時代」であるのは、
このためです。)。応神列(A列)と雄略列(B列)との実年代との対称関係のズレ
も120年ですので、120年の交差は、応神列(A列)と雄略列(B列)に関連しています。
このことから、きとらさんが
>>626で述べておられるように、仮に江口氏の指摘される
聖数関係構成の後に加筆があったといたしましたなら、それは、奈良時代の歴史的事
象を推古紀に反映させるという加筆(改編)ではなかったかと、推論することができます。
これは?
>>626 元明即位(707)の19×6(=114)年前、推古元年(593)厩戸皇子立太子
文武即位(697)の19×4(=76)年前、推古29年(621)聖徳太子薨去
こっちは苦しいか?
元正上皇崩御(748)の26×6(=156)年前、崇峻5年(592)推古即位
大炊王即位(758)の26×5(=130)年前、推古36年(628)推古崩御
629 :
きとら:2006/01/17(火) 19:01:29
あれ?
推古や聖徳太子にも、元明・文武との聖数関係があった?
やはり、私の読み落としのようですね。(笑)
草壁立太子 →26→元明即位
草壁薨年 →26→元正即位
厩戸立太子 19×6→元明即位
厩戸薨年 19×4→文武即位
ここから何を読み取るべきでしょうねぇ。
>>604さん
貴女も和歌や古典文学への「論理と感性」が欠如しているようですね。
貴女が理解出来ず、また見解の相違を乗り越えられない以上、
無駄な事はしたくないので、私はこのスレッドから撤退します。
では、さようなら!
秋山 彩香さん
和歌や古典文学が、歴史的事象を反映している場合があることについては、
わたくしもそのように考えております。
秋山さんの場合は、論拠や論証過程を提示することも無く、結論のみを書き込まれる
ので、荒唐無稽の説として、認識されてしまうのではないでしょうか。
多くの人々が納得する仮説とは、論理構成に蓋然性と合理性が認められえるものである
必要があると考えております。このスレットは、議論の場ですので、見解の相違は
当然のことです。わたくしは、どのようなお説でも、提起していただければ、
議論に応じたいと思います。
ただし、根拠となる史料をしっかりと提示していただきたくお願い申し上げます。
◆16YXRBFRM、きとらさん
推古紀の聖数が、奈良時代と関連していることは、興味深いことです。
>>627で述べた推論は、成り立ちませんが、奈良時代の歴史的事象が
120年遡って推古紀に反映されていることの支証にはなります。
633 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 17:19:32
★古代カラ半島国家の歴史★
【志良岐】
国号の読みはシラギ。正しくはシラキ。4世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)の
南東部にあった国である。神武天皇の兄・稲飯命によって建国される。
シラキとは「治らす木」の意味である。治らす(シラス)は日本語古語で治めるの意味であり、
木とは神木、すなわち天孫たる日本皇族のことである。したがって、治ら木(シラキ)とは、
「国を治める皇孫」の意味であり、稲飯命の別名なのである。
この事実から考えるならば、シラキの国号をその意味と音に合わせて漢字表記する場合、
『治良木』と書くのが適切である。しかし、わが国では昔から志良岐と表記したり、
また、新羅と表記するのが一般的ある。
神武天皇の兄=稲飯命によって建国され、その子孫が代々の王(キミ・国の主)となった
志良岐は、古代東アジア半島の南部諸国の中で、日本国(ヤマト)ともっとも友好関係に
あった国である。
その政治制度は、王(キミ)の下に国吉士(クニキシ。コニキシとも呼ばれる)という長官
が置かれ、王の統治を補佐するという独特のシステムであった。しかし、この制度が原因で、
志良岐王(シラキのキミ)は、臣下である第十七代・国吉士(クニキシ)=金奈勿に王権を
奪われることになった。
奈勿は、高句麗と手を組んで謀反を起こし、稲飯命の血を引く志良岐王族を皆殺しにした。
そして、志良岐の国号を『新羅』に改め、自分が新しい王となったのである。
金奈勿は金氏新羅の初代王であるが、志良岐人(倭人)ではなく、朝鮮人である。
金氏は謎の一族である。彼らが、いつ、どこから来たのか、どのような方法で志良岐に
移住したのか、それを記した資料はなく、すべてが謎に包まれている。
韓国に伝わる新羅の建国神話によれば、稲飯命が森の中で拾ってきたという逸話があるが、
もちろん作り話である。新羅建国(奪国)者=金氏に関する歴史的資料は皆無なのだ。
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
>>633 バカか?
半島側で自分のことを‘シラギ’もしくは‘シラキ’と呼んでいる例があるのか?
日本側で勝手に付けた呼称だろう?
新羅と書いてどうして“シラギ”などと読めるんだ?
せいぜい“シルラ”としか読めないだろう。
百済と書いてどうして“クダラ”と読めるのかも理由を書いてくれ。
ア ホ よ。
635 :
きとら:2006/01/19(木) 09:50:26
推古に関してですが、
私は聖徳太子は虚構だと思う。
大山誠一氏は厩戸皇子は実在とされるが、私は怪しいと思う。
キリスト伝説みたいですからね。
推古も虚構だと思う。当時の倭王は男性でしょう?
あなたも、推古は天皇として在位していなかった、とされる。
広義の推古虚構説になるのではありませんか?
636 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:32:33
古代カラ半島国家の歴史 2★
【任那】
地名の読みは、ミマナである。
日本国の第十代大王(オオキミ)である崇神天皇=孫木入彦命(ミマキイリヒコ)の御名を
記念して命名された。地名の意味は「皇孫の名」である。
志良岐の西側にあった日本国領土である。
任那は、正確に言えば「国」ではない。ヤマト朝廷が直接統治する天皇家の「領地」であった。
神武天皇が日本国を建国する以前から、任那には多くの倭人が住んでいた。隣接する志良岐や
久多良とともに、任那は日本文明圏を構成する地域の一つだったのである。
崇神天皇の時代に日本国の正式領土となった任那には、ヤマト朝廷が管理する鉱山と製鉄所が
置かれ、日本列島および志良岐、久多良へ鉄材が輸出されていた。
これらの鉄は、鍋などの生活用品を製造するための原材料として使われると同時に、剣や槍など
の武器の製造にも利用された。
そのため、日本にとっての任那は、経済面だけでなく、軍事面でも重要な意味を持つ地域で
あった。任那にはヤマトから派遣された軍が常駐していた。任那の軍は、任那の独立を守る
ための組織であると同時に、志良岐および久多良に対する軍事支援を行う任務も持っていた。
また、カラ半島北部の騎馬民族勢力に対する監視活動・情報収集活動等も行っていた。
朝鮮人国家の金氏新羅に征服されるまでは、多くの倭人が居住し、日本文化が花開く美しい
土地であった。
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
637 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:35:48
★古代カラ半島国家の歴史 3★
【久多良】
国号の読みはクダラ。正しくはクタラ。
6世紀以前の東アジア半島(現在の朝鮮半島)南部にあった国である。日本国・志良岐・任那と
同じく、日本語を公用語とする倭人(日本民族)の国である。
久多良(クタラ)の語源は、降つ(クタツ)である。降つは、降る(クタル)ともいう。
クタツ=クタルは日本語古語であり、「日が傾く」「日が沈む」という意味の大和言葉である。
古代日本領であった志良岐や任那から見て、西側に位置していたことから、「日が沈む方角にある国」
「西の国」という意味でクタラと呼ばれていた。それがそのまま国号となったのである。
久多良(クタラ)の地には、紀元前から倭人が居住していた。もちろん、日本列島の倭人とは日常的
に交流があり、経済面だけでなく、政治面、軍事面でもヤマトと一体であった。
久多良は、古代日本の一部であり、久多良文化は日本文化である。久多良人(クタラビト)も
大和人(ヤマトビト)も、同じ古代日本語を話し、日本文化を共有していたため、両者は強い同族意識
で結ばれていた。大和と久多良が、対高句麗戦争で常に一体となって戦っていたのは同族だったから
である。
久多良の統治は、大和の天皇(スメラミコト=清めら御子人)が任命する国吉士(クニキシ)が
担った。クニキシはコニキシとも呼ばれ、カラ半島南部の国を統治する役人の最高位である。
3世紀の半ばに、志良岐が、朝鮮人の国吉士・金奈勿に乗っ取られ、『金氏新羅』という朝鮮人国家
に変質した。この金氏新羅が、6世紀に久多良を侵略して滅ぼしたが、久多良が滅びた時、多くの
久多良人(倭人)が大和(日本国)に亡命し移住した。
なぜ、大和朝廷は、久多良人(クタラビト)の日本への移住を許可したのか。それは、久多良人が
我々と同じ日本民族だったからである。
現在、久多良という国はない。しかし、久多良人の血は、今も日本民族に受け継がれ、
我々の体の中で生き続けているのだ。
これコピーして、近所にバラまけぇ〜〜〜っっ!!
きとらさん
わたくしは、『日本書紀』の「聖徳太子」には、天平時代の首皇子と『隋書』の
「多利思比孤」の二人の人物像が投影されているのではないかと推論しております。
そして、「多利思比孤」のことを『日本書紀』では、厩戸皇子のこととして扱って
いると考えております。すなわち、問題は「多利思比孤」で、厩戸皇子も虚構である
のならば、いったい「多利思比孤」とは、誰であるのかという問題が認識されてくる
ことになります。きとらさんは、「多利思比孤」について、どのように解釈されてお
られますでしょうか。
>>633・
>>636・
>>637の日本史@名無史さん
日本古代史研究においては、半島問題をめぐって日本⇒半島と半島⇒日本とい
う2つの史観があるように思います。日本史@名無史さんは、日本⇒半島と
いう史観を持っておられ、このスレットにしばしば書き込みをされていた
秋山さんという方は、どうも半島⇒日本という史観を持っておられたように
感じます。この問題は、感情的になる面もあって、研究者も含めて皆様論じる
ことを避けているように思います。
わたくしは、『隋書』百済伝に、百済地域には日本人が居住していたと記されて
いることから、半島に日本人があったことだけは確かであると考えております。
日本史@名無史さんは、独創的な仮説を提起されておられますが、日本人の半島
における足跡を辿ることは、重要な研究課題であると思います。
↑コピペにマジレスかよw
641 :
きとら:2006/01/21(土) 00:46:33
当時の倭王は男性だったろう、という程度ですね。
女王は無理があります。ですから、
裴世清に会ったのは馬子だ、厩戸だという説が出るわけでして。
名前、称号に関しては、
100%当時の実情を反映しているかどうか?
多利思北孤、利歌弥多弗利は隋書筆録時に採用されたと言えないかどうか?
七世紀初頭の形かどうか?
新しいような感じがしませんか?
隋書はさておき、推古の在位は怪しい。
642 :
太国:2006/01/21(土) 08:50:57
その、どんなことが怪しいんだろう?
きとらさん
わたくしは、推古天皇の在位につきましては、拙著でも述べましたように、
『日本書紀』が、酢香手姫皇女が37年間斎宮位にあったと伝え、推古天皇
の在位年数も37年であることに着目しております。
そもそも、推古紀は、120年後の元明朝と元正朝の時代の歴史的事象を
投影させながら、斎宮酢香手姫皇女を推古天皇として扱って述作されていると
考えられます。
また、称号については、何とも言えません。わたくしは、7世紀初頭と推論して
おりますが、仮に、『隋書』筆録時でしたならば、どのような経緯で、7世紀
初頭の称号として扱われるようになったとお考えでしょうか。
644 :
きとら:2006/01/22(日) 08:25:47
>斎宮酢香手姫皇女を推古天皇として扱って述作されていると
考えられます。
斎宮≠皇后 勿論 斎宮≠天皇 ですから、
推古は在位していなかった。
つまり、大王は男性。裴世清を謁見したのが、
厩戸の場合は大王から皇子に格下げ?
馬子の場合は大王から大臣に格下げ?
いずれにしても、大王は抹殺されているということになりますね。
敏達はどうです?
当時の大王は抹殺され、代わりに、
欽明・敏達が述作されているという可能性はありませんか?
隋書に関してはあまり追求しておりません。
きとらさん
わたくしは、『隋書』に「倭王は天を以って兄となし、日を以って弟となす」
という一文に注目しております。ここで云う「日」とは、天照大神のことで、
「弟」とは、「弟姫」とあるように女性であり、斎宮のことではないかと、
推論いたしました。わたくしの説は、斎宮が祭祀権者であり、この時代、
執政権者と祭祀権者による統治が試みられていたのではないかというものです。
斎宮の立場が、後の「天皇」としての立場に近かったことから、『日本書紀』
は、斎宮を「天皇」として扱ったのではないかと考えたのです。
執政権者である「大王」は男性という点はかわりませんが、この点は、きとら
さんとは、見解が異なっています。
きとらさんは、もし、仮に、「大王」が存在していたのならば、『日本書紀』が、
大王の存在を隠匿した理由は何であるとお考えでしょうか?
646 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 15:59:38
★古代カラ半島国家の歴史 4★
〜謎の民族=カラビトの正体〜
古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。
つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を
組織的に展開しているが、これはデタラメなのである。
古代日本に移住したのは、カラ半島に住んでいた倭人=カラビト(韓人)であり、彼らは日本民族
だったのである。
カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。
つまり、
日本人と韓国人は同祖ではない。
日本人と韓国人は同祖ではない。
日本人と韓国人は同祖ではない。
日本人と韓国人は同祖ではない。
日本人と韓国人は同祖ではない。
日本人と韓国人は同祖ではない。
647 :
きとら:2006/01/22(日) 23:33:26
「ヒコ・ヒメ制」という言葉もよく見かけますね。
どこまで実証できるのだろうか、と疑問です。
「帝紀」も存在していたのだろうか?
天国排開広庭天皇(欽明)
渟中倉太珠敷天皇(敏達)
和風諡号のみあって名がない。
この諡号は、
天命開別天皇(天智)
天渟中原瀛真人天皇(天武)以後のものではないか。
帝紀があれば名を漏らすことは考えにくい。
帝紀はなかったのではなかろうか?
帝紀があったとしても、欽明・敏達の名はなかったと思える。
しかし、王はいただろう。別の名の・・。
なぜ『書紀』に書かれていないのか?
可能性の一つとして王統の交替が考えられる。
しかし、当時の歴史をあれこれ想像するより、
『書紀』の分析が先ですね。
欽明紀・敏達紀の類似を如何お考えですか?
>>646日本@名無史さん
よくわかりませんが、以下のような説があることは、日本@名無史さんの研究の
参考にあるのではないでしょうか。
1)『魏志』倭人伝に、「狗奴韓國」と見え、これが日本側に属する国であるという説。
2)『魏志』韓伝に、弁辰十二ヶ国のひとつで、新羅の前身となる「斯ろ國」の名が
見え、これが「しろ」という日本語を表しているという説。
3)『三国史記』「新羅本紀」に新羅建国の始祖の「朴」氏は、瓢にのって「たばな
国」という国からやって来ており、「たばな国」は丹波のことではないか、という説。
4)旧百済地域に前方後円墳があり、これは穂積氏が築いた古墳ではないかという説。
5)古代朝鮮語が日本語に近いという説(半島では、日本語が使われていた)。
きとらさん
「帝紀」の問題は、拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書
と「地」の史書』で扱いましたが、わたくしは、「帝紀」はあり、おそらく
皇統系譜を記すものであっとと推論しております。朝廷から諸家に伝わった
「帝紀」には、誤写や改竄が加わったため、欽明二年条分注に見えるように
多くの異本が派生したのではないかと考えられます。
また、欽明天皇と敏達天皇の問題については、確かに、両帝には類似があります。
両帝の人物比定や継承順をめぐって異伝があり、『日本書紀』の編纂時において、
両帝が混同されてしまったからではないかと、わたくしは推論しております。
650 :
きとら:2006/01/23(月) 20:53:13
八木充氏が、大化五年間と白雉五年間の類似を指摘しておられますが、
欽明紀と敏達紀の類似もそれに似て、
一種のカーボンコピーとは考えられませんか?
例えば、物部の仏教排撃記事は、敏達紀を欽明紀にコピーした。
きとらさん
大化五年間と白雉五年間や欽明天皇と敏達天皇の問題など、一種のカーボンコピー
と表現できるような記述は、『日本書紀』におきましては、よく見られる問題です。
応神元(390)年から仁徳87(483)年までの間は、複数の「年代列」が、
並列していることにその原因を求めましたが、おおよそ継体紀以降における類似
記事の問題は、別途考えねばならない課題であると思います。
ただし、わたくしは、佛教興隆年が、欽明十三年であるのか、敏達十三年であるのか、
という問題はあるものの、物部氏と蘇我氏の間の佛教関連記事には、時系列的な経緯と
して、大きな不整合はないのではないかと考えております。
>>539の自説において西暦元年を基準年と捉えられる可能性がありました。
神武立太子の年(BC697)と文武即位年(AD697)です、
653 :
日本書紀紀年法研究家:2006/01/28(土) 17:18:24
◆16/YXRFBRMさん
◆16/YXRFBRMさんの神武立太子年(BC697)と文武即位年(AD697)
というお説は、大変興味深いお説であると思います。文武即位年は、立太子年でも
ありますので、立太子という事象が西暦元年を軸に対称関係にあることになります
日本書紀の編纂期には、中国歴代王朝との交流などを通しまして、キリスト教
(ネストリウス派?)が既に本邦にも伝わっていた可能性はあります。
◆16/YXRFBRMさんは、キリスト教の影響とお考えでしょうか。また、神武天皇と
文武天皇との関連をどのようにお考えでしょうか。
いずれにいたしましても、大変な発見であると思います。
654 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 17:41:57
★古代カラ半島国家の歴史★
〜カラとは何か〜
加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の
大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」と
いう意味である。
カラの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄え
ていた。カラは倭人の世界だったのである。
現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から
南下してきたのである。
656 :
太国:2006/01/28(土) 20:03:35
カル+エ→カエル 帰る か〜。w
唐土→トード toad
657 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 22:15:00
>>653 おいおいそんな簡単に同調するな。
ネストリウス派は異端・追放で、「西暦」が創られた頃にはペルシャに行ってるだろ。
それに西暦が実際に流通するのは、だいぶ後世になってからじゃないのか。
658 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:03:49
あと付け足し。
西暦元年を軸にしたんなら、
神武立太子はBC696年じゃないとおかしいんでない?
とりあえず、軸という考え方がマズイ。仮に697年周期というのがあるとして
第一期は神武立太子年から始まり第二期は文武即位年に終わるわけです。
660 :
日本書紀紀年法研究家:2006/01/29(日) 10:08:50
>>657・
>>658の日本史@名無史さん
ネストリウス派は、遅くとも唐の貞観九(六三五)年には、ペルシャから中国に伝わ
っています。『日本書紀』の成立は8世紀ですので、遣唐使などによって、本邦にも
伝わっていた可能性はあります。日本書紀紀年法を研究しておりますと、踰年称元法
が用いられているなど、通し番号的に紀年を捉えているという印象を受けます。
当年称元法が用いられ、1年に複数の紀年がある元号制よりも、西暦が、便利ではなか
ったかと、考えられます。そこで、西暦の影響があった可能性を示す◆16/YXRFBRM
さんのお説は、興味深いと思いました。もちろん、偶然であるなど多くの問題はあり
ますが、検証してみるにあたいする示唆に富んだ面白いお説と考えられます。
また、西暦元年という表現は、適切ではありませんでした。BC1年とAD1年の間
ということになりますでしょうか。
661 :
日本書紀紀年法研究家:2006/01/29(日) 10:19:55
◆16/YXRFBRMさん
>>660で述べましたように、西暦元年ではなく、ただしくは、BC1年とAD1年
の間ということになります。また、◆16/YXRFBRMさんは、対称ではなく、周期
と考えておられるようですが、以前に、孝霊天皇即位年から壬申年までの
間、仲哀紀を中心に紀年数が対称しているとのお説を主張されてはおられなかった
しょうか。わたくしは、神武立太子年と文武立太子年は、やはり対称と考えほうが、
蓋然性が高いと思います。
周期とお考えになる根拠を、もう少し説明してはいただけないでしょうか。
662 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 13:38:56
>>655 唐はモロコシ
モロコシ=諸越(百越から転じた言葉)
663 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 13:42:31
カラは『離る』が語源だから、最初は中国のことも唐(カラ)と
呼んでいたが、中国との交流が深くなるにつれて、半島と中国を
区別する必要が生まれた。
そこで、モロコシという言葉を使うようになったわけだ。
664 :
657−658:2006/01/29(日) 19:04:10
>>660 のめり込む前に、批判することを忘れないで欲しいのです。
現代の万国暦の感覚で、当時の「西暦」は捉えられません。
西暦がローマの神学者によって創出された6世紀前半、世界では様々な紀年法が行われていました。
西暦はそのうちの一つに過ぎぬどころか、西欧においても長いこと一般化しなかったものです。
一方、破門されたネストリウス派は、5世紀末にはササン朝ペルシャに本拠を移しており、
その後の布教活動は専ら東方へと向かいます。
ローマとペルシャの間には、ビザンツ帝国だってありました。
西暦が普及し始めるのは、8世紀以降西方ヨーロッパの一部からのようです。
ネストリウス派と西暦との接点を見い出すのは、ちょっと難しいような……。
「絶対に、当時の景教徒は西暦を知らなかった」とは言い切りません。
しかし、限りなく知らなかったに等しいと思います。
664氏と同感です。西暦と一致する件は偶然の可能性も検討すべきでしょう。
垂仁30年(AD1年)は辛酉の年であり区切りと考えるに値すると思われます。
孝霊〜壬申の紀年群は明らかに数値的な対称構造でありますが、
神武・文武の立太子は書紀紀年の上限下限に配置されていることを理由に
対称構造であるとは言いきれないでしょう。
697年周期…この数値は正確には17と41の係数で構成されているとすれば、
さらには以前出た19と26(実は13)の係数(聖数?)も合わせて
これらの数値が編纂時に諸記事の紀年決定に関係あるとも考えられます。
666 :
日本書紀紀年法研究家:2006/01/30(月) 10:33:14
>>664の657・658さん >>◆16/YXRFBRMさん
偶然である可能性が高いというお二方のご指摘は、もっともと思います。
しかしながら、以下の理由から、まったく否定して去るのも問題ではないかと思います。
1)紀元(Epoc Year)が、ローマの修道僧によって創出されて、時の教皇ボニファティ
ウス二世(在位:530〜532)によって承認され、そして、これが暦と結びつい
て西暦として普及するようになるのが8世紀です。したがいまして、紀年法としての
紀元年は8世紀以前から用いられていた可能性があります。
2)ネストリウス派経由ではなく、ローマ商人などローマからやってきた人々とと
もに伝わっていたという想定もできます。
3)斉明三年条にも、百済から駱駝が献上されたとありますので、おそくとも7世紀
後半には、ローマからの文物が伝わっていたとも考えられます。
4)『日本紀』が改編されて『日本書紀』として成立したのは、740年頃と考えられ
ますので、正倉院御物に示されますように、当時ローマの文物は伝わっていたと推論
することができます。
すなわち、暦としてではなく紀年法として伝わっていたという考えを提起することが
できるのではないかと思います。
667 :
質問のいらつめ:2006/01/31(火) 14:29:31
>>665さん
日本書紀の紀年法には、19と26(2×13?)の法則が存在しているとお考えのようですが、これらの数が、他の数字とは異なる特別の数(聖数?)であると根拠は、どこにお求めなのでしょうか。
668 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 15:24:20
今日このスレを見つけました。
>>1さんの著書を読んでおりますが、もう一度読み直して見たいと思います。
ご著書は、以前に読んだときは、系列区分の根拠のところが分かりにくかったという記憶です。
あと、安本美典さんが、「応神天皇の秘密」で書かれていたような朝鮮資料の流用による紀年部分と
そうでない部分との区分論などとの整合性はどうなるのだろうかと思います。
669 :
日本書紀紀年法研究家:2006/01/31(火) 19:39:16
>>668日本@名無史さん
拙著を御一読いただきまして、ありがたく存じます。
さて、「系列区分」とは、「年代列」の「基準年」の根拠のことと拝察いたします。
根拠につきましては、説明が不十分であったかもしれません。これからは、もっと
わかりやすい記述を心がけようと思います。
また、安本氏の説につきましては、安本氏は、「百済本紀」などの海外史料にかなり
信頼を置いており、応神天皇を400年頃の天皇、そして、雄略天皇を478年頃
の天皇と考えており、この間、実際の経過年数よりも紀年数が大幅に超過している
ことを、天皇の平均在位年数という統計学で解決なさろうとされたと考えられます。
わたくしは、応神元年が390年、雄略五年が461年で、この間、実際の経過
年数よりも紀年数が大幅に超過していることを、多列・並列構造で説明いたしました。
実際の経過年数よりも、紀年数が超過している期間、すなわち、「朝鮮資料の流用に
よる紀年部分」を合理的に説明しようとする研究アプローチは同じですが、安本氏は
統計学を用い、わたくしは並列構造という紀年法の構造面に着目したという違いがあります。
わたくしは、多列・並列構造のほうが、より、合理的・論理的に説明できるのではな
いかと考えておりますが、いかがでしょうか。
670 :
668:2006/01/31(火) 22:06:21
>>669 ご返答有難うございます。その観点からご著書を読み直して見たいと思います。
私の考えには、日本書紀を書いた時点では、日本の資料には古代の天皇の在位時期や期間に
ついての正確な資料が無かったということが前提としてあります。
そこで、日本側の資料を、百済・中国等の資料とつき合わせて、執筆者の判断で干支をあてはめて、
日本書紀は記載しているに過ぎないのではないかと考えます。
この状況では、各天皇の在位時期や期間について、正確な系列化を作れるような条件が執筆者には
なかったように思えます。
私は、日本側の資料は、特定の人(天皇)の時代にその事件があったというレベルでは相当に信頼性が
あると考えておりますので、学説上は少数説とは思いますが神功皇后の征韓伝説を、ある程度の事実の
核があると考えると、広開土王碑文との対応から応神天皇の即位年は390年からはやや下るようにも思います。
671 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/01(水) 13:17:33
>>670さん
「日本の資料には古代の天皇の在位時期や期間についての正確な資料」があったのか、
無かったのかの問題は、どちらであっても論証することの難しい課題であると思います。
現時点では、作業仮説を立てて、結論に論理性と蓋然性があるかないかを検証してみる以外
アプローチはないのではないかと考えられます。
わたくしは、仮に、歴代天皇の即位や崩年についての年代が伝わっていたのであるならば、
それは、『古事記』に崩年干支が伝わっておりますように、干支紀年法による伝承
ではなかったかと想定しております(拙著でも、崩年干支を用いて「基準年」を求めています)。
また、668さんは、「神功皇后の征韓」の年は392年であり、応神天皇の即位は
392年より後のことと考えていらっしゃるのならば、それは何年頃と推論なさって
おられますでしょうか。
672 :
668:2006/02/02(木) 14:03:49
>>671 現在『日本書紀の真実』と『「記紀」はいかにして成立したか』を読み直しつつ、
このスレの1から少しづつ読んでいるところです。
私の考え方は、確実性のレベルの高いものを範囲を限定して採用するというものです。
1、稲荷山の碑文から辛亥年(471年)に雄略天皇が実在した。この頃には、干支の知識が
ある程度(以上に)広まっていた。
2、広開土王碑文から、391年当時、倭国が朝鮮半島のかなり奥の方まで出兵した。大規模出兵と関連
できるのは神功皇后のみであり、この頃には実在した。
という2点を重視しております。
3、没年干支については、古事記の異文の一つであり、この部分を書いた執筆者の見解の可能性もあると
考えております。
>>1さんの説で分かりにくかったのは、執筆者が「応神元年=390年」と考えて、これに整合するように
百済側の記事を挿入しているいることと、実際の応神元年が390年であるのかは別であることに、どのように
対応するのかという点です。
私は、親筆者は、実際の年代を知らないので、神功皇后を一方で卑弥呼と比定したりして混乱している
と考えており、これは干支の附属した日本側原資料が、特に450年頃以前はほとんどなかったからではないかと
考えております。干支を用いていれば、「壬申の〜」のように事件名が記憶・記載されていたと思います。
PS:ちょっと仕事も忙しいので、これ以降はレスが遅くなると思いますが、ご容赦下さい(と仕事中にレス)。
673 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/02(木) 19:56:11
>>680さん
3月に百済観音像について著した次作が出版になりますので、わたくしも忙しく、
わたくしのレスポンスも遅くなっておりましたので、
>>680さんもお忙しいとのこと、
ここで、のんびりペースというところでしょうか。
さて、
>>680さんのご指摘で、第二点が気になりました。確かに「広開土王碑文」からは
大きな出兵があったと想定され、これに対応するような記述は、神功伝承しかないの
ではないかと思います。しかしながら、あえて応神天皇の事蹟と考えれば、それは
応神天皇の即位と関連していたのではないかと考えることもできます。すなわち、
応神天皇は、新羅や百済と地縁的関連のある人物で、応神天皇の即位が高句麗を
刺激したという仮説です。この仮説はいかがでしょうか。
また、干支紀年法が、いったいいつごろ本邦に伝わっていたのかという問題は、確かに
重要であると思います。わたくしは、もっと早くに伝わっていたと考えますが、
どのような理由で、450年以前には干支の付属した日本側資料がなかったと推論
なさっておられるのでしょうか。
674 :
きとら:2006/02/02(木) 23:57:51
皆さん、お忙しいようですね。
百済観音像に関する新著は楽しみにしております。
基本的な点に関してですが、私は『書紀』の記事の史実性を考えるのは、先のこと、と考えます。欽明紀・敏達紀の仏教伝来記事に関しては、
「敏達十三年の「仏教の初」が欽明十三年の「仏教公伝」に架上された」とする見方があります。(池田定道『推古朝こそ原帝紀成立期』1995)
史実性は脇に置いておいて、ある記事を、別の天皇記の同一年紀に架上させるという「構成法」が採られているようですね。
また、池田氏は同書で、
神功六十二年、壬午年 加羅滅亡
欽明二十三年、壬午年 任那滅亡
「欽明二十三年壬午の加羅滅亡事件が干支五運繰り上げられて、神功六十二年壬午の加羅滅亡記事に架上されたとみる方が、合理的な見方であるといえよう」としておられます。
ある記事を、
別の天皇の同一年紀に架上する。
別の天皇の同一干支に架上する。
架上された部分の史実性は疑問ですね。
さて、元の部分の史実性は?
それを考える以前に、まず、『書紀』の構造を解明すべきだと思います。
その意味で、紀年論から『書紀』を分析されるお仕事に期待しております。
675 :
太国:2006/02/03(金) 08:00:52
「架上」っていうのは架空の上乗せですか?
それを執り行なう、理由は何なんでしょうか? 利害が強くなければ八百長は
やらんでしょうからねぇ? 理由がないとそれを「架上」と主張した方の「架上」
ということになりなすよ。
676 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/03(金) 10:53:41
きとらさん
次作を楽しみにしてくださいまして、ありがたく存じます。
さて、欽明13年と敏達13年の問題は、池田氏のおっしゃられるところの
「架上」であるのかないのか、わたくしは両面からのアプローチを試みています。
「架上」ではないのなら、欽明13年条には僧侶が出てこず、敏達13年条には僧侶がでてまいり
ますので、『日本書紀』の編纂期において僧侶があってこそ佛教伝来と考える人と
そうではない人との間で意見の相違があり、それぞれ13年にあたることは偶然で
あるという仮説です。
「架上」であるのなら、原因として、欽明天皇と敏達天皇の父子の取り違えなどを考えております。
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎』では、応神列と雄略列の120年のズレを用いて、奈良時代の
歴史的事象が飛鳥時代に投影されていることを論じました。これも「架上」の一種と
考えられますので、「架上」については紀年論は有効なアプローチとなります。
欽明紀と敏達紀の問題につきましても、研究を進めてまりたいと思います。
677 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 19:01:12
新羅と志良岐は違う国じゃん。
新羅(シルラ)は313年以降に、朝鮮人=金奈勿一派が建てた国だろ。
志良岐(シラキ)は、稲飯命が建てた日本民族の国じゃん。
金奈勿が高句麗と手を組んで、志良岐王家を滅ぼし、新羅を建てたのが真相。
金奈勿は、もともとは志良岐王家に仕えていた役人だけどね。
稲飯命・・・→天之日矛・・・・→酢鹿諸男=昔脱解→昔氏
日子坐命=朴赫居世→朴氏
本智和気命=金閼智→金氏・・・・→金奈勿王
679 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/09(木) 10:57:47
新羅王家は、昔、朴、金の3家から構成されており、それぞれに始祖問題があり、
677さんや678さんのお説なども含めて様々な解釈が成り立ちます。
いずれにいたしましても、『日本書紀』、『古事記』、『三国史記』、『三国遺事』など
には、昔、朴、金の3氏に関する伝承が見えますので、これらの史料を検証、分析
すれば、ある程度、史実がどのようなものであったのか、わかってくるのではないでしょうか。
680 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 10:09:32
日本書紀上の出来事の実年代を確定するために有効性が期待できる海外資料には、どのようなものがあるのでしょうか?
>>680 7c以前はないんじゃないかな。
記紀が主張する天皇の名と海外史書が主張する倭王の名が一致しない以上は。
682 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/10(金) 13:12:59
>>680さん、
>>681さん
『日本書紀』においては、実年代を確定できるような記述は、そう多いわけではありません。
神功紀の神功三十九年条、神功四十年条、神功四十三年条には、「魏志云。」とあり、「景初三年」、
「正始元年」、「正始四年」という中国魏朝の年号が見えます。また、神功紀と応神紀には百済王の即位年
や薨年についての記述が見えます。
このことから、少なからず、『魏志』倭人伝、『三国史記』、『東国通鑑』は、
実年代を確定するのに、有効性が期待できる海外資料であることになります。
また、『日本書紀』に倭の五王に関する記述が見えないことについては、わたくしは、
日本書紀紀年法が5世紀という時代を複数の「年代列」で扱っていることに原因があると考えております。
683 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/10(金) 13:16:55
>>668さん
>>673にてのわたくしの書き込みで、「668さん」と書くべきを「680さん」と間違えて書いてしまいました。
ご無礼をいたしました。
>>682 それはあくまで記紀の編者がそう比定してるというだけじゃないの?
それ以上の事は言えんと思うがな。
685 :
668:2006/02/10(金) 21:47:06
>>683 全然気にしておりません。レスが途絶えてしまったのは、まだ考えがまとまらないからです。
私の基本的な考えは、干支を実年代と仮定して検討すれば、「60年の整数倍の誤差」が出るのは
当然で、これをもって実年代を導こうとするのは、循環しているのではないかという点です。
但し、干支の知識は卑弥呼が朝貢した頃には一部の人には伝わっていたはずで、没年干支も
後世のものとは言い切れず、実年代との整合性もある程度あると思います。
また、安本氏の年代統計論にも若干疑問を感じております。安本説の弱点は、統計という性質上
個々のサンプルの誤差を数世代では吸収できないという難点があると思います。
安本説で神功皇后の時代を390頃からとすると、それ以前の朝鮮への派兵があったと思われることの
説明も難しくなります。
あと、応神天皇が幼少で即位していることで安本説でのサンプル誤差部分がこの頃に生じていたとも
考えられます。実際に応神天皇は妻子が多数いて在位も長そうです。
そうなると、
>>1さんのように、応神天皇を390年頃にあてても神功皇后が摂政ないし政治的影響力を
有していたとすれば、記紀との関係でも問題がないわけで、こっちの方がすわりが良いようにも思います。
686 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/11(土) 10:26:25
>>684さん
『日本書紀』と『古事記』が、実年代を比定していることは重要であると思います。
わたくしには、8世紀に『日本書紀』と『古事記』の編纂に携わった人々には、自国の歴史的
経緯をなるべくきちんと後世に伝えようという意思が無かったとは思えないからです。
拙著『日本書紀の真実』でも述べましたように、事実、日本書紀紀年法は、これらの実年代を用いる
ことによって、各々の紀年に相当してくる実年代がわかるようになっております。
687 :
太国:2006/02/11(土) 10:45:04
そのとおり、紀の編纂者はキチンと後世に伝えようとしたんですよ。
宝算関係で、記の記述をひるがえして改めているのは、よぽど自信あったんですよ。
記の成立を踏まえ、同編纂者が記の粗の箇所を矯正したわけですよ。
だから、紀の立太子、即位崩御の数字は信頼できるものなわけですよ。
ところが、現実には不合理な面があるのを否めない。現代の感覚で物事を考え
るからで、やはり2倍暦が合理的と認容すべきですな。
紀に倭の五王の記述がないのは、女王国と同様、畿内から遠隔の地に五王朝が
あったからです。五王朝は畿内にありませんよ。だから各天皇に非ずが正です。
688 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/11(土) 10:46:02
>>668さん
わたくしも、崩年干支には信憑性を認めることができると考えております。
また、安本氏の統計論につきましても、神聖ローマ皇帝位や東ローマ皇帝位など
をめぐる平均在位年数と実際の在位年代との対比研究から、今日では統計学は、
実際の在位年代を求めるのには、あまり有効性を主張できないとされています(大きく
ズレてしまうからです)。
また、
>>1はわたくしのことです。三九〇年を応神天皇の即位年と考え、
雄略五(四六一)年までの間に、複数の「年代列」が並列していると想定しますと、
応神紀、仁徳紀、履中紀、反正紀、允恭紀、安康紀、雄略紀までの歴史的経緯が、
ずいぶんとはっきりしてきます。
689 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/11(土) 10:57:53
>>太国さん
宝算関係で、「自信あった」のは、敢えて別々の数字を記すことによって、
両数字の差となる「宝算年差」を求められるようにして、史実としての歴代天皇の在位年数を
示そうという構想を設定しているからであると思います。『日本書紀』と『古事記』は
同じような時期に編纂されながらも、宝算が異なることに対して、これまで蓋然性の高い
説はもたらされていませんが、「宝算年差」という構想が設定されているという仮説からは、
興味深い結論を導くことができます。
>>689 > 両数字の差となる「宝算年差」を求められるようにして、史実としての歴代天皇の在位年数を
> 示そうという構想を設定しているからであると思います。
それはどうかな?
そもそも「紀」は「記」を黙殺しており、長い間「記」は世に出なかった。
よってそのような意図が編者にあったというのはムリがあると思う。
691 :
太国:2006/02/11(土) 11:41:22
692 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 13:36:20
★ 三国史記に記された百済の建国神話 ★
【百済の建国 (三国史記より)】
高句麗の始祖である朱蒙(しゅもう)には3人の子があり、長男の類利(るいり)が高句麗を継いだ。
後継者争いで身の危険を感じた弟の温祚(おんそ)は、高句麗から逃げ出し、自分の国を建てるために
南方へ向かった。10人の臣下と大勢の百姓がこれに伴った。10人の臣下にちなんで、当初は国の名を
「十済」とした。しかし、百姓たちが自分にしたがったことを喜び、百姓たちにちなんで国号を「百済」
に改めた。
【呉の建国 (史記より)】
『史記』によると、呉を建国した太伯(たいはく)は、周の古公亶父(たんぽ)の長男であったが、
後継者問題で身の危険を感じ、南方の江南の地にのがれて文身(いれずみ)・断髪し、後継者となる
意志のないことを表明して句呉と称したという。こうした事情を知って、この地の人々、千余家が
彼にしたがった。太伯は彼らを臣民として呉を建国した。
12世紀に成立した三国史記の『百済建国神話』が、中国の「史記」からのパクリであることは
間違いない。
693 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/11(土) 13:44:47
>>690さん、太国さん
『日本書紀』は『古事記』を黙殺していたわけではないと思います。『古事記』が鎌倉時代までは
世に出なかったことにつきましては、以下の仮説を立てることができます。
1)『古事記』の崩年干支によって日本書紀紀年法が明らかとなり、紀年と実年代との
関連がはっきりしてくることが問題視しされていたため、『古事記』は世に出なかった。
2)『古事記』の崩年干支の役割が忘れられていたため、史書として重要視されていなかった。
3)日本書紀紀年法の構造がわかっていたので、『日本書紀』のみで十分であると考えられていた。
3つの仮説を立ててみましたが、いずれにしましても、『日本書紀』と『古事記』は、
二書一対で編纂されたと想定できるほどに密接な相互補完関係にあります。
また、「宝算年差」につきましては、仮に、「宝算年差」によって構築されてくる
歴代天皇の在位年数構想に、ほかのアプローチからの説との間に整合性を認められるの
でしたならば、蓋然性を持つのではないでしょうか。拙論「『紀』・『記』間における
歴代天皇の宝算年差をめぐる一考察」では、「壬申(672)年」との関連を論じておりますが、
このスレッドで仲哀紀を対称軸に「壬申年」までの紀年数がシンメトリーとなっていることを
指摘された方がいらっしゃいますが、そのお説との間には整合性を認めることができます。
>>693 > 3つの仮説を立ててみましたが、いずれにしましても、『日本書紀』と『古事記』は、
> 二書一対で編纂されたと想定できるほどに密接な相互補完関係にあります。
それは結果論だよ。
幸い古事記が残ったおかげでこういう検証が出来るようになっただけで、両書の編者にそのような意思があったと考えるのは到底無理。
だいたい二書一対という意識で編纂されたならあなたの立てた仮想の1)はまったくの矛盾ではないか?
695 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/11(土) 19:56:11
>>694さん
たしかに『日本書紀』も『古事記』も現存しているがゆえに、こうして研究ができますことは
すばらしいことですが、編纂当初において既に二書一対の構想があったかなかったかは、
両史書の性格と相互の関係を十分に検証することによって、解くことができると考えております。
わたくしは、結論としては、編纂当初から、グランド・プランとも呼称しえるような構想が両史書には
構築されていると考えております。
『日本書紀』は、天皇を神祇祭祀を担う存在として認識しており、『古事記』は「治天下」、
すなわち、政治を担う存在を天皇として認識しております。すなわち、『日本書紀』は「天」の史書、
『古事記』は「地」の史書であり、両書は、「天」と「地」の一対となっているのです。
696 :
太国:2006/02/11(土) 21:02:10
誕生、立太子、即位、崩御、宝算の記述をパズル、判じ物のように考えて
やって行くと、知らないうちに破綻を来たしている。
そんなに小難しくいじくらないで、ストレートに並べていくのが安全無事だと思う。
よく考えれば、素直に2倍暦で真に近づくな。
>>695 「記」は天智が、「紀」は天智の子弘文を倒して皇位についた天武がそれぞれ編纂を命じている。
こういった事情を加味すればとても二書一対の構想を持って書かれたと主張するのはムリがありすぎる。
元資料に対してそれぞれ異なった方針で編纂された結果、二書を検討することであなたが立てた説を主張することができると言う以上の意味は無いと思います。
698 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:12:03
以上の操作で、天皇の元年・没年が、倭王に関する事項と、次のように対応します。
天皇 元年 日本書紀 復元式 復元値 X 補正 補正後 倭王 出来事
没年 の年代Y の年代
神武 元年 −660 X=(Y+843)/3 61 -3-1 57 倭奴国王 金印を授かる
安寧 元年 −548 X=(Y+843)/3 98 10-1 107 帥升 朝貢する
開化 元年 −157 X=(Y+843)/3 228 10+1 239 卑弥呼 金印を授かる
没年 −98 248 -1 247 没する
崇神 元年 −97 X=(Y+843)/3 248 0 248 台与 即位する
応神 元年 270 X=(Y+902)/3 390 +1 391 ? 百済・新羅を破る
没年 310 404 +3 407 高句麗に惨敗
仁徳 没年 399 X=(Y+475)/2 437 0 437 讃 没する
履中 元年 400 X=(Y+475)/2 437 0 437 珍 即位する
反正 没年 410 X=(Y+475)/2 442 0 442 珍 没する
允恭 元年 412 X=(Y+475)/2 443 0 443 済 即位する
没年 453 464 -3 461 没する
安康 元年 454 X=(Y+475)/2 464 -3+1 462 興 即位する
安康 没年 456 X=Y+20 476 +1 477 興 没する
雄略 元年 457 X=Y+20 477 0 477 武 即位する
武烈 没年 506 X=Y 506 0 506 武 没する
http://www.geocities.jp/yasuko8787/2-28.htm
699 :
きとら:2006/02/11(土) 22:16:36
『古事記』の「治天下」は、
単に表記を統一あるいは単純化しただけのことではないでしょうか。
詔勅記事に関しても、
『古事記』は「詔曰」で統一されているはずですよ。
(すいません、この部分、記憶に頼ってます)
『書紀』の即位関連記事、詔関連記事は筆者が異なり、
『古事記』は同一筆者、ということではないのですか。
700 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:20:54
701 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:46:35
702 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:47:50
雄略五年と云えば武寧王が生まれた年だね
703 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 00:10:39
>>1 雄略5年以降は年代補正の必要がないとするのなら、『日本書紀』における
雄略の崩年が『古事記』の崩年干支と合わないことをどう説明しますか?
704 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 01:30:19
>>1 葛城ソツヒコについて複数人物の投影と考えられておられるようですが、この
人物と同一と思われる人名は百済側の史料にも出てきていたような気がします。
古事記の崩年干支に従えば仲哀の崩年は西暦362年となり、神功紀が初出の
ソツヒコの活動年代が仁徳初期くらいまでに及んでいても同一人物として
不自然ではないような気がします。
むしろ、貴方の説に立てば、百済側の史料からソツヒコの関連記事を拾えば
神功紀にさらに新たな基準年を見いだすことも不可能ではないような・・・。
705 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 03:37:30
>69年(神功元年〜神功六十九年)−189年(実際の経過年数)=−120年
この189がどうやって求まった方がサッパリわからん
解る人ーーー挙手!
神功の在位年間69に百済本紀とのズレ
干支二巡分の延長期間120を足したのが189だろ?
707 :
太国:2006/02/12(日) 07:16:38
>>701 成仲天皇なんているわけがない。w いかが?
708 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 09:52:36
>>696太国さん
日本書紀紀年法は、パズルのようなものです。
パズルは解けないうちは、複雑で難しそうにみえますが、解くための法則がわかれば、
難しいわけではありません。
>>1で述べたような構造であることがわかれば、研究史上、未解明であった『日本書紀』の
編年上の多くの問題点を、二倍暦よりも、合理的、論理的に説明することができます。
709 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 10:02:52
>>697さん
まず、『古事記』の序文によれば、『古事記』は天武天皇の時代に編纂がはじまり、
元明天皇の時代の和銅五(712)年に成立したと考えられます。『日本書紀』も
天武十年三月条にみえる「帝紀」と「上古諸事」の編纂をもってはじまり、元正天皇の時代、
養老四(720)年に成立したとされております。したがいまして、両史書は編纂の開始から
成立までの時期をほぼ同じくしており、両史書が、まったく無関係に成立いたと考えることには、
むしろ無理があるように思います。
710 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 10:12:57
>>698さん
独創的なお説であると思いますが、復元式と補正の年代の数字の根拠は、どのような
ものとなっておられるのでしょうか。海外資料に見える実年代にあうように式が設定されている
ようですが、実年代に近づけるために適当な数字であるといった印象を受けてしまいます。
暦運説などにもとづく数字なのでしょうか。
711 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 10:26:45
きとらさん
『日本書紀』では、天皇の役割を「あまつひつぎしろしめす」と表現しており、
「治天下(あめのしたしろしめす)」という用語はほとんど見られません。
ところが『古事記』では、必ず「治天下」であり、また、稲荷山古墳出土鉄剣銘文
にも「治天下」とみえ、『古事記』の表記は、むしろ金石文の表現によく似ています。
わたくしは、この問題を両史書の性格の違いにおいて説明しようと試みています。
きとらさんは拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』を
お読みくださっておられたかと思いますが、拙著では、『日本書紀』は「天」の概念、『古事記』
は「地」の概念に重きを置いて編纂されていると結論いたしました。
このように考えますと、摂関政治、院政、幕政など、津田左右吉氏などが唱えておられる
祭政二重政体論を、よく説明できるのではないかと考えております。
712 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 10:37:55
>>700さん、
>>701さん
日本書紀紀年法を数式で解明するといった研究アプローチには、様々なお説があるようです。
わたくしが、
>>1や
>>101などで述べた日本書紀紀年法も数式ですが、演繹法よりもむしろ
帰納法的に導かれた数式となります。すなわち、最初から仮説として数式を設定していたわけではなく、
結果的に、
>>1や
>>101で示したような数式が成り立っていることがわかったのです。
「とんでも説」ではありませんし、これまで唱えられてきた複雑で難解な数式説よりも、
むしろ、すっきりしており、単純でわかりやすいのではないかと考えております。
713 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 10:47:18
>>702さん
『日本書紀』では、海外資料との年代対比によって実年代を確かめることのできる紀年は
巻十応神紀から次が飛んで、雄略紀の雄略五年条となっています。すなわち、仁徳紀、履中紀、
反正紀、允恭紀、安康紀には、海外資料との年代対比ができるような記述はまったくないのです。
日本書紀紀年法が複数の「年代列」によって構成されていることを解くために、
雄略五年はキーとなる年代ですので、『日本書紀』には、雄略五年が西暦461年に相当することを
確実に示しておこうとする意図があったのでしょう。
714 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 10:56:38
>>703さん
雄略天皇の崩年干支による崩年が489年であり、『日本書紀』の編年における雄略天皇の
崩年の479年とズレていることにつきましては、現時点では、仮説のみしか提起することができません。
「A天皇の皇子の立太子の年代(日本書紀)=A天皇の崩年(古事記)」という等式が成り立っていることからは、
『古事記』は、489年に白髪皇子の執政があったことを伝えているのかもしれません(日本書紀では、
しばしば、「皇太子」を執政者として認識している場合があります)。
715 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 11:16:19
>>704さん
神功六十二年条分注の『百済記』の「沙至比危」のことですが、神功紀は189年間を扱い、
神功元年が西暦201年となる雄略列と、神功元年が321年となる応神列の2つの「年代列」が
設定されており、神功六十二年は応神列上に実年代を求めるべき紀年となりますので、382年に
相当してきます。また、襲津彦は仁徳四十一年を最後として、出てこなくなりますが、仁徳四十一年は、
四三七年ですので、この間50年、一代と考えることはできるかもしれません。
しかしながら、神功五年条にも襲津彦が、出てまいりますので、325年から437年まで
存命と考えるのは、少し難しいのではないかと考えております。
716 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 11:27:56
>>705さん
『日本書紀』の編年によりますと、神功元年は201年です。一方、応神紀に記載される百済王の即位年と
薨年を『三国史記』「百済本紀」に載る当該百済王の即位年と薨年から、応神元年は390年であることは
動かし難いと言えます。神功紀の次が応神紀ですので、神功紀は、201年から389年までの189年間
を扱っていることになるのです。また、このことから、神功紀に配布されてある紀年数の69年に120年分の
紀年が加算されていることになります。
69年(神功紀に配布されてある紀年数)+120(加算された紀年)=
189年(西暦201〜389年)
>>706さんは、よく理解してくださっているようです。
717 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/12(日) 11:31:02
>>太国さん
わたくしは、成務天皇は実在したのではないかと考えております。
その理由は、『古事記』崩年干支が設定されているからです。
おそらく2世紀頃の在位なのではないでしょうか。
718 :
太国:2006/02/12(日) 11:39:56
古史古伝も神武以降は各天皇の記述はおおむね一致していることから、神武
からの天皇の実在は欠史八代を含めて実在は疑う必要はありません。
問題はウガヤフキアヘズ朝70数代が実在かどうか?ということであり、
記紀には記述ないので今のところ保留状態で考察中です。
なお竹内文献は極端過ぎて採用は滞るほかはありません、お勧めできませんが?
719 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 13:09:56
旧事紀、古語捨遺、天書紀の皇統が一致するのは原典が同一だから
720 :
太国:2006/02/12(日) 13:16:14
原典が同一と決められる理由は如何?
721 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 13:31:51
>>1 中国史料と日本書紀にある百済の王暦の相違をどう考えているの?
722 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 13:41:20
けれども、驚くべきことに、全くのでたらめように思われる日本書紀の年代が、
注意深く見て行けば、きちんと復元できるようになっているのです。
まず、天皇の人数を増やせば年代延長の不自然さが目立たなくなるのに、
そうしないで、初期の天皇の年齢の多くを100歳以上にし、
年代の延長に気付きやすくしていることです。
さらに、書紀の編者は、自らが正しい歴史の知識の持ち主であることを示すために、
卑弥呼と台与に関する史料の年代を正確に捉え、神功皇后に関する記録の中に挿入しています。
その際、120年のズレがある百済王関係の記事を交え、実年代を意味する、
百済史の辛酉の年、X=361年が、延長することによって神功紀の辛酉の年、
Y=241年に一致するようになる、というヒントを提供しています。
だから、武内宿禰の約300歳という長寿を年代延長率3倍というヒントと受け止め、
年代延長式をY=3X+C と置いて、X=361,Y=241を代入すれば、C=−842が求まります。
このY=3X−842が、Y= X とつながるのは、X=3X−842を解いた、
X=421の時ですから、倭王讃の名が中国史書に初登場する辛酉の年、
X=421年のことになります。
このことは、言い換えると、辛酉の年を座標とする2点(361,241)、
(421,421)を結ぶ直線の方程式が、 Y=3X−842 であるということになります。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0hukugen-BC.htm
723 :
太国:2006/02/12(日) 13:50:31
気付きやすくなんかしてはいないよ。ww
724 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 14:00:48
>720
一致するからでしょ?
王年代紀や神皇正統記、愚管抄等中世史料も同様です
725 :
太国:2006/02/12(日) 14:02:41
一致すると同一なことになるんかい?w
726 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 14:05:20
復元式を保証する古事記没年干支
代数 天皇 書紀の年代 Y Y と X の関係式 X 実年代 倭王 古事記没年 X−Z
干支 西暦Z
【10】 崇神 元年−97 X=(Y+843)/3 248 248 台与 戊寅18 258 −【10】
合成 成仲 没年200 X=(Y+842)/3 347 合成 丁巳57 357 −【10】
15 応神 没年310 X=(Y+842)/3 384 404 誉? 甲午34 394 −【10】
16 仁徳 没年399 X=(Y+435)/2 417 437 讃 丁卯07 427 −【10】
合成 正中 没年410 X=(Y+435)/2 422 442 珍 壬申12 432 −【10】
19 允恭 没年453 X=(Y+435)/2 444 461 済 甲午34 454 −【10】
21 雄略 没年479 X=Y 479 502 武 己巳09 489 −【10】
26 継体 元年507 X=Y 507 507 男大迹 丁未47 527 −20
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0hukugen-AC.htm --------------------------------------------------------------------------------
復元式はその解の古事記没年との差が特定数である事で保証される
727 :
太国:2006/02/12(日) 14:06:48
特定数?こんなんは記紀のどこに編纂者が記述しているのかね?w
コピペしてる人はそのサイトの作者なの?
729 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/13(月) 13:36:53
>>721さん
中国史書と「百済の王暦」との相違ということですが、「百済の王暦」とは、具体的に何のことでしょうか。
『三国史記』に記される百済王の即位年や薨年ということなのでしょうか。
730 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/13(月) 13:51:41
>>722さん
722さんは、
>>698・
>>726さんと同一人物と拝察させていただきました。
わたくしは、日本書紀の紀年と実年代の関係は復元することができ、また、
『古事記』崩年干支に信憑性を認めることもできると考えておりまして、
それを、722さんが独自の数式でも示してくださっておられることは、うれしい限りです。
ただし、崇神天皇、成務天皇、仲哀天皇の崩年干支につきましては、
わたくしが崩年干支が正しいことを論証するために用いたアプローチによる結果とは、随分と異なっております。
そこで、以下の質問をさせていただきたいと思います。
1)3もしくは2で割るのはなぜでしょうか。
2)842や435という数字自体には、意味があるのでしょうか。
731 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/13(月) 13:56:54
>>728さん
「コピペ」とは、いろいろなスレッドに同じ内容の書き込みをすることでしょうか。
「サイトの作者」とは、スレッドを立てている人という意味でしょうか。
このスレッドにも、時々、ほかのスレッドの書き込みとまったく同じ内容の書き込みがある場合が
ありますが、このスレッドを立てておりますわたくしが、コピペをしているわけではありません。
>>731 コピペとはコピー&ペーストの意味です。
つまり、誰かがウエブ上で書いた文章のコピーを貼り付けたものです。
往々にして多数のスレッドに貼られますが、そのことがコピペたる要件ではありません。
この場合の「サイトの作者」は「最初にこの文章を発表した人」の意でしょう。
あなたのことを指したのではないと思われます。
733 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/13(月) 16:38:13
>>732橿原一派さん
「コピペ」と「サイトの作者」につきまして、ご親切にご説明いただきまして、
ありがたく存じます。
>>728さんは、このスレッドにも貼られているコピペは、
果たして貼った本人が書いた文章なのだろうか、と疑問に思われたわけですね。
734 :
668:2006/02/13(月) 23:03:53
>>685でも書いたのですが、
私の根本的な疑問は、干支を実年代と仮定して検討すれば、「60年の整数倍の誤差」が出るのは、
当然で、これをもって実年代を導こうとするのは、循環しているのではないかという点です。
>>1さんのご見解では、この疑問がどうしても気になります。
この点は、
>>698、
>>722、
>>726さんの考えでも気になります。
あと、両説とも、条件が多いため、アドホックな方法(その問題の解決のみに適用される解決式)と
なりはしないかとの疑問も感じます。
と言っても、私自身は、自分の説というものはないのですが・・・
735 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 23:46:34
>>1 貴方は記紀の記事の実年代を復元しようとされているわけですから、当然記紀の
内容については大筋で史実を反映しているというスタンスだと思います。
その上で、成務・仲哀両帝の崩年干支の実年代を2世紀に比定しようとされて
いるわけですが、そうすると考古学側での成果との整合性を保つことは
できるのでしょうか?
崇神・垂仁両朝の頃の宮都とされる場所は、記紀によればマキムクですが、
考古学側での成果に基づけばマキムク遺跡の始まりは3世紀初頭くらいと
されています。
崇神・垂仁両帝を実在と考え、なおかつ宮都の場所などに関する記紀の記述に
大きな誤りがないと考えるのであれば、この両帝の時期は3世紀代に
持ってこなければ都合が悪いように思うのですが。
736 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 00:40:11
3で割ると云う事は、つまりは式を変形すれば
【書紀年代Y】=3【復元年代X】-843
所謂3倍歴
2で割ると云う事は、つまはり式を変形すれば
【書紀年代Y】=2【復元年代X】-435
所謂2倍歴
-842や-435ってのはXが0の時の一次関数(?)のアレ
>>728 いやまさかw
737 :
668:2006/02/14(火) 01:46:56
>>735 出典の文献を教えていただけないでしょうか。
1、マキムクが3世紀初頭
2、崇神、垂仁の宮都がマキムク
の2点の前提に疑問を感じます。
私は、いわゆる津田学派(考古学主流派、左翼学派)の側の見解は、畿内の遺跡の年代を古く
見すぎているという安本氏の見解(年代バブル)の方が説得力があるように思います。
その津田学派でもマキムクが3世紀初頭とまでは、言っていなかったという記憶です。
あと、古代天皇の実在性否定に傾いている考古学主流派がマキムクに限って、これを認めていると
いうこともあるのでしょうか?欠史8代とか11代以降も空白を認める学派内でどれだけの支持の
ある考えなのでしょうか。
なお、私は記紀の史実性を否定しすぎる考古学主流派の考えには賛成できません。
738 :
735ではないが:2006/02/14(火) 02:10:38
>>668さん
1に関しては津田学派はあまり関係ない、というか全く無関係です。
津田左右吉氏は基本的に文献学者であり、しかも戦前の論文が戦後再評価されたというのが実情ですね。
考古学者が纏向遺跡の築造開始を3世紀初頭(もしくは2世紀末)と見るのは
最初の工事である纏向大溝の最深部から出土した土器の年代を根拠にしたためです。
もしこれらが3世紀初頭よりももっと後だと仮定するならば、北九州の各遺跡ももっと後という事になります。
(相互交流によって、特に北九州に庄内式が共伴していますので)
要するに考古学の成果と津田史観は無関係だということを認識してくだされば結構です。
続いて基本的に考古学は文献の登場人物や事象から離れて、出土物から構築される学問です。
特にこの流れを大事にするのが、いわゆる峻別派と呼ばれます。
それに対し文献との整合性を図ろうと試みるのを、総合派、最近では認知派と総称します。
彼らにしても各天皇の実在性については、実は天武帝以前のものは相当に懐疑的です。
ただ
>>735氏は「記紀にそういう記述がある」との意味で紹介しただけではないでしょうか。
一般的には、記紀(特に日本書紀)の崇神から成務紀に見られる記述が
各地(畿内のみではなく)の出土状況との一致が顕著であるとの見方が有力ですが
それがそのまま各天皇の実在性に結びつく訳ではありません。
739 :
735ではないが:2006/02/14(火) 02:24:07
それとちょっと気になったのは、津田史観=左翼というのは
あまりにうがった見方であり、基本的に歴史学者はイデオロギーを研究に持ち込みません。
古代天皇が実在しようがしまいが、邪馬台国がどこであろうが
それに対して何らかの思想的位置づけを目論むのは、学者として失格のレッテルを貼られます。
欠史八代にしても、津田氏の研究とは別のアプローチ、つまり記紀の記述にある場所から
一切それらしき遺跡が発掘されないが故に、否定的なだけです。
それと安本氏の一連の研究ですが、数理文献学の是非はともかく
現在の考古成果からすれば、非常に無理があると言わざるを得ません。
これは時代を古く見ようが新しく見ようが同じです。
これ以上はスレ違いになりますので、詳細をお知りになりたければ考古板あたりでお尋ねください。
740 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 03:15:18
歴代天皇の年紀的史料が錯綜・欠落していたから、
書紀編纂者は何らかの計数処理を施したんでしょ。
我々は、彼らがどんな手法で紀年を構成したのか推測することは出来ても、
書紀から日本史の実年代を導き出すのは不可能と思われ。
獲加多支鹵の宮が記紀の雄略と一致しない例から見ると
他の天皇も同様に一致していない可能性は考えられないでしょうか?
743 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 07:45:53
744 :
太国:2006/02/14(火) 09:32:26
>>740 計数処理なんかやちゃあいないよ。w
だからパズルと思ってひねくり回す結果になるんだ。
冷静に考えて、帯に短し襷に長しを素直に受け止め、切断接着等はやんない事だ。
小難しくあっちこっちと操作しないで、ストレートに各年を敷き詰めれば、
自ずから真は見えてくる。2倍暦は合理性があるしな。
745 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 09:41:17
>>668さん
明治時代に所謂「紀年論争」というものがありまして、『古事記』崩年干支につきましては、
応神天皇以降の崩年干支には定説があります。すなわち、応神紀以降の天皇紀に記載
される百済王の即位年や薨年と海外資料を対比することによって、60年周期の干支紀年法であっても、
崩年干支に該当する実年代を求めることができるのです。応神紀に記載のある百済王の即位年によって、
応神元年は390年、雄略紀に記載のある百済武寧王の誕生年によって、雄略五年は461年と確定できますので、
応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の崩年干支は、390年と461年の間の72年間に実年代を求めることができるのです。
このようにして求められる崩年干支と『日本書紀』の編年との間の関係を具に検証してみますと、
日本書紀紀年法には、
>>1で述べたような式が成り立っていることがわかるのです。
746 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 09:53:43
>>735さん
垂仁天皇と景行天皇の宮址の纏向遺跡は、纏向石塚遺跡の周濠から出土したヒノキの伐採年が、
年輪年代測定法によって、A.D.177頃と推定されております。
景行天皇の在位を177年頃と考えますと、
次帝の成務天皇の崩年干支は2世紀末と考えて考古学側との整合性は保たれているのではないでしょうか。
747 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 10:14:53
>>736さん
すなわち、日本古代におきましては、崇神天皇から応神天皇の時代までが三倍暦、
仁徳天皇から安康天皇までが二倍暦、雄略天皇以降が普通暦が用いられていたということですね。
雄略紀からは、元嘉暦が用いられていることがはっきりしておりますので、大変面白いお説であると思います。
ただし、『日本書紀』で雄略紀以前に用いられている儀鳳暦と二倍暦・三倍暦との関係は、どのようにお考えでしょうか。
いずれにいたしましても、わたくしは、『日本書紀』には暦の問題と紀年法の問題とがあるのではないかと思います。
暦と紀年法は異なりますので、『日本書紀』における暦と紀年法との関係を明かにすることは、
重要な研究課題として認識されてくることになるのではないでしょうか。
748 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 10:28:44
>>735ではないがさん
735ではないがさんの「基本的に歴史学者はイデオロギーを研究に持ち込みません。
〜それらに対して何らかの思想的位置付けを目論むのは、学者として失格のレッテルを貼られます。」
とのご意見に賛同もうしあげます。
749 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 10:40:37
>>740さん
わたくしは、『日本書紀』は複雑な数学的構造物と考えております。
このことは、わたくしが
>>1などで述べた式が成り立っていることのみならず、
このスレッドで、何人かの方々が、数字の対称関係や計数処理の問題があることを、
指摘されていることによっても、示されています。
わたくしは、数学が用いられている原因として、錯綜・欠落を補うためだけではなく、
実年代を伝える目的ためにも、数学的構想が設定されているのではないかと推論いたしております。
例えば、
>>1で述べた「プラス・マイナス120年構想」によって、少なからず、
応神元年以降の紀年は実年代を求めることができるようになっています。
750 :
太国:2006/02/14(火) 10:44:27
神古(シンプル)に考えましょう。w
751 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 10:49:19
>>741さん
「獲加多支呂」の宮の「斯鬼」であり、雄略天皇の長谷朝倉宮と一致しないことにつきましては、
『和名抄』に、長谷は「大和国城上(しき)郡長谷郷」となり、『帝王編年記』にも、
「大和国城上(しき)郡磐坂谷」とあることから、むしろ一致していると言うことができます。
752 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 11:04:55
>>742さん
中国史書とは、『宋書』、『梁書』、『南史』などのことで、すなわち、
「倭の五王」や百済王の遣使年代と『日本書紀』、『古事記』、『三国史記』、『三国遺記』
との年代的不整合の問題を指摘されておられるわけですね。
百済王の遣使年代をめぐる中国史書との整合・不整合の問題については、まだよく調べてはおりませんが、
「倭の五王」につきましては、『古事記』崩年干支によって推定されてくる歴代天皇の在位期間と
一致してくる天皇が、当該倭王と考えられます(ただし、「珍」=反正天皇の438年の遣使のみは、
1年のズレがあり、「武」=清寧天皇の478年の遣使は、立太子年となります)。
753 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 11:21:39
>>743さん
743さんと698さんは、神武元年をA.D.61年と算出されておられるようですね。
わたくしは、『日本書紀』のA天皇の皇子の立太子年は、『古事記』のA天皇の崩年干支となる
という等式を用いて、崇神元年は、A.D.91年と推論しております。
神武元年はその30年前ということになります。
いずれにいたしましても、わたくしは、まだ、743さんと698さんの計数処理方法について、
まだ、よくわかっておりませんので、是々非々を検証いたしましてから、いずれ、
質問させていただきたいと思います。
754 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 11:33:01
太国さん
現実に複雑な構成となっておりますものを、いくら単純に考えるようにといわれましても、
無理であると思います。複雑なものを、誰にでもわかるようにやさしく説明することはできても、
複雑な構成であるという現実を無視することは、学問への冒涜であると思います。
二倍暦説に、誰もが納得するような合理性や蓋然性があったのならば、
日本書紀紀年法は、とっくに、二倍暦説ということで解決していたはずです。
二倍暦説では、説明しきれないことに、紀年論争が続いている要因のひとつがあるのです。
もう少し、まじめに、考えていただきたいと思います。
755 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 13:07:05
代 天皇 皇子の立太子年 太歳干支(西暦) 崩年干支(西暦) 治世 宝算 西暦 干支 宝算
10 崇神 BC050崇神48辛未24歳 甲申(BC97) 辛卯(BC30) 68 120 258 戊寅18 168
ここから一体どうして崇神元年がA.D.91年になって、
神武元年はその30年前のAD61年なんだぜ?
欠氏八代は(゚∀゚≡゚∀゚)?
あぁー、それとも神武AD61説だとしたら、崇神AD91説の30年差だねってだけの事?
古事記が示したい崇神崩年は258説?318説?
つか崇神元年がA.D.91年なら崇神末年は??
>>743の上は要するに2.82倍歴だね
書紀年=即位実年x2.82…-833.33…
下のは2.65倍歴
1倍歴以前は、2倍歴、3倍歴と切り替えなんかががないと云う前提らすぃ
フラクタルなんだよ、難しいね。
757 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 14:55:46
>>755さん
現時点における結論として、崇神元年は、西暦91年と考えております。
理由は、崇神四十八年条に次帝の活目皇子(後の垂仁天皇)の立太子についての記述が見えることによります。
崇神四十八年を、崇神天皇の『古事記』崩年干支の戊寅(138)年と考えれば、
崇神元年は西暦91年であることになります。
ちなみに、崇神元年を91年と考えて誉田別皇子(応神天皇)の立太子年の神功三年が、
実年代で何年に相当するのか求めてみますと、西暦390年となります。
すなわち、応神天皇の立太子と即位が390年という年代で一致してくることになります。
また、神武元年を61年とする説は、わたくしの説ではなく、698さんと743さんのお説です。
758 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 15:03:05
>>746 『古事記』の崩年干支が正しいという前提で、これを2世紀後半に求めると
西暦175年になり、貴方のいう177年より前になります。
しかも成務の崩年を175年に設定した場合、垂仁の即位は2世紀前半になって
しまいますが、これについて考古学との整合性は維持できますか?
マキムク遺跡の始まりが2世紀代前半まで遡る可能性はあり得るのですか?
759 :
758:2006/02/14(火) 15:06:11
『古事記』の崩年干支が正しいという前提で、
『古事記』の崩年干支が正しいという前提で、これを2世紀後半に求めると
760 :
758:2006/02/14(火) 15:08:13
>>758について下記のように訂正いたします
× 『古事記』の崩年干支が正しいという前提で、
○ 『古事記』における成務の崩年干支が正しいという前提で、
なお
>>759は誤爆です。無視してください。
761 :
太国:2006/02/14(火) 15:27:44
倭の五王は各天皇に非ず。それを天皇として年を策定しても無理な理由をつけない
限り合うわけがない。無理やり何か理屈をつければ合うがね。w
殆ど五王と天皇の名が合わない。せいぜい「武」とかいう文字が合うくらいだ。
当然だよ、各別人だからさ。w
まず、別人ということに覚醒し、そこから年を定めていかないと失敗に至るよ。
762 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 15:32:18
そうそう、別な国の王同士を
1000年比定しても無意味。
763 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 16:07:09
崇神元年AD91じゃ世代モデルが合わないよ
書記年代 実年代
10崇神天皇 BC97 AD091
11垂仁天皇 (AD150)
12景行天皇 (AD210)
--日本武尊 13成務天皇 (AD270)
14仲哀天皇 (AD320)
15応神天皇 AD270 AD390
崇神元年から応神元年までの300年を5世孫で配分すれば一世60年。つまり例えばこれは、
10崇神天皇が20歳(091)で即位して、60歳(130)で皇子誕生、80歳(150)までの60年間在位して
11垂仁天皇が20歳(150)で即位して、60歳(190)で皇子誕生、80歳(210)までの60年間在位して
12景行天皇が20歳(210)で即位して、60歳(250)で皇子誕生、80歳(270)までの60年間在位して
----------が20歳(270)で即位して、60歳(310)で皇子誕生、
14仲哀天皇が20歳(330)で即位して、60歳(370)で皇子誕生、80歳(390)までの60年間在位して
15応神天皇が20歳(390)で即位
と云う事でしょ
764 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 16:45:07
>>758さん
日本書紀紀年法では、崇神元年を91年に位置付けて、「プラス・マイナス120年構想」
のように、やはり、複数の「年代列」からなる構想が設定されています。
これは、
>>757でも述べましたように、神功三年と応神元年が390年で一致して、
応神天皇の立太子年と即位年が一致するようになる「年代列」と、宝算年差によって求めることのできる
崇神天皇から仲哀天皇までの歴代天皇の在位年数をつなぐことによって、応神天皇の即位年と神功三年が203年で一致する
「年代列」です。
実際の崇神天皇から仲哀天皇の在位年数は、『日本書紀』において配布されてある紀年数よりも短いので、
成務天皇の在位が2世紀末となっても問題はありません。
765 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 16:49:21
>>760さん
わたくしは、成務天皇と仲哀天皇の崩年干支につきましては、
干支の支は誤記ではないかと考えております。したがいまして、
「宝算年差」によって求めることのできる在位年数が、実年代を求めるのに
有効なのではないかと推論しております。
766 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 16:57:18
太国さん
『日本書紀』は『梁書』を参照していることは、漢籍の研究から明らかとなっておりますので、
『日本書紀』の編纂者は、倭の五王の存在を知っていたと考えることができます。
それでは、なぜ、倭の五王の存在を無視しているのか、ということになりますが、
わたくしは、日本書紀紀年法が何らかの理由によって5世紀を4本の「年代列」において扱っているから
であると考えております。
その理由につきましては、研究を既にまとめており、出版社に刊行を引き受けていただけますか、不確かなのですが、
いずれ、発表したいと思っております。
767 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 16:59:03
>>762さん
「別な国」とは所謂「九州王朝」のことでしょうか。
768 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 17:04:32
>>763さん
>>764で述べましたように、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇の在位年数は、
『日本書紀』において配布されている紀年数よりも短いのです。
また、歴代天皇の宝算は、『日本書紀』と『古事記』において、最初から別々の数字が設定されており、
宝算の年差が、史実としての在位年数を表していると考えられます。
このように推論いたしますと、これまで謎とされてまいりました歴代天皇の宝算をめぐって、
『日本書紀』と『古事記』の間に相違があることを、合理的に説明することができます。
769 :
太国:2006/02/14(火) 17:15:30
当時、九州には二王朝があったんですよ。
一つは卑弥呼の女王国系で、期間はおおむね 崇神〜文武世の間。
もう一つは倭の五王朝で、こちらは短期王朝で 應神〜清寧世の間。
ただし、若干の期間の前後、ズレがありえますよ。
五王の記述が記紀にほぼ無い理由は、女王国の無記述と同様に九州が畿内
から遠隔の為に情報が流れて来てないからで、資料が殆ど0に近い状態の
為ですよ。
770 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 17:26:13
短いって言っても崇神元年から応神元年まで300年なんでしょ
771 :
太国:2006/02/14(火) 17:29:47
>>770 短いというのは、朝廷と女王国関係から観た相対的意味ですよ。
短いということは五王朝のことで、崇神世からでなく、おおむね應神世からですよ。
772 :
太国:2006/02/14(火) 17:32:03
いや、本当は絶対的なんですがねぇ。
こんな事を言い出すと混乱しますから、今のところそれで理解して下さい。
スレ主さん お邪魔します。「紀・記」については、まったくの素人ですのでお手柔らかに!
ところで、
神功紀三十九年〜六十六年の間に、紀年数239〜385の146年間の史実をカキコしています。
その大部分の内容は、252年迄の情報ですが、385年の三国史記も利用し構成されています。
一人物の内容としては余りにも矛盾する内容であります。
私見として
「神功」は一人の固有の名詞ではなく、女王としてトップに立った女性を表す「代名詞」と考えます。
如何でしょうか?
簡単なカキコですが
774 :
太国:2006/02/14(火) 17:38:47
神功皇后はお一方です。
775 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 17:47:52
(北九州育ち)
九州 奴国王←漢魏公認九州王朝→台与 筑紫国造磐井
‖ vs
近畿 神武←――欠史八代――→崇神――応神←南朝公認倭の五王→継体
(南九州生まれ)
>>774太国さん
>神功皇后はお一方です
★百人中九十八人はその様に答えるでしょう。
私も以前は、その様に認識していましたし!
しかし、その事を理路整然と証明する事が出来ないのです。
太国さんや、他の住人さん達はどうですか?
777 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 18:23:59
半島資料は-120年
大陸資料は通常歴
列島資料は三倍歴
778 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 18:31:30
倭の五王は、新羅を建国した朝鮮人=金氏の連中だろうな。
朝鮮人が倭人に偽装していた、と。
これがいちばん可能性が高い。
新羅以前の志良岐(シラキ)は倭人国だったから、中国側も
倭人だと思ったんだろう。
779 :
太国:2006/02/14(火) 19:30:42
>>776 プラムさん。考え過ぎですよ。一人二役とか
そういうのは映画とか探偵小説とやらだと、いくらでもありうることですが、
現実には考慮の外に置いてて十分です。そこまで、証明を考えるなど、
金にならない労働をやるようなもんで、勿体無いですよ。
まるで藤林長門守が百地三太夫であるなどと主張するのと同様ですよ。
石川五右衛門の昔のTV番組を観るようなものではないですか?w
780 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 19:34:14
>>770さん
日本書紀紀年法では、神功紀において西暦201年から389年までの189年間
を扱っておりますので、実質的には西暦91年から202年までの100年ほどに、
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の在位期間が入ってまいります。
すなわち、
>>764で述べましたように、崇神元年を91年に設定した2本の「年代列」があり、
このうちの一本が、仲哀九年が202年となる「年代列」で、史実としての歴代天皇の在位期間を示しています。
781 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 19:40:51
>>773・
>>776プラムさん
わたくしも、神功皇后は複数の人物像が投影されていると考えております。
神功紀の記述から、まず、卑弥呼と台与の二人を神功皇后として扱っていることは、
はっきりしております。また、日本書紀紀年法において、神功紀は西暦201年から
389年までの189年間を扱っておりますので、4世紀後半の人物もまた、
神功皇后として扱っていると推論することができます。
782 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 19:45:47
>>775さん
「漢委奴國王」金印や『魏志』倭人伝に見える奴国が、九州王朝であるというお説は、
面白いと思います。それでは、『魏志』倭人伝の狗奴国は、775さんのお説では、
どのような位置付けになっているのでしょうか。
783 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 19:52:50
>>777さん
「半島資料は−120」とは、二倍暦というわけではないわけですね。
半島資料(『三国史記』・『三国遺記』)に記載されている歴史的事象が、
史実としての年代よりも、120年遡った年代のこととして、
すべて記述されているということなのでしょうか。
784 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/14(火) 19:58:22
太国さん
わたくしも、プラムさんと同様に、『日本書紀』の神功皇后には、複数の人物像が投影されていると
考えております。仮に、神功皇后が一人であるのならば、なぜ、神功紀は、卑弥呼と台与のふたりを神功皇后
として扱っているのでしょうか。わたくしは、『日本書紀』の記述に従うべきであると思います。
785 :
太国:2006/02/14(火) 20:01:41
紀に卑弥呼と台与が神功と?そんな事は記述されいなかったと思いますが?
第一、どちらも神功に名前が一致せんでしょう?
>>784 注みたいな感じで卑弥呼と壹与の朝献を名を伏せて記述してるが、それを以って複数の人物像を投影してるとは言い難いと思うよ。
787 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/14(火) 20:26:24
>>784 主さん
これは頼もしい援軍
まさかとは思いましたが!
まぁ太国さんの考えが、一般的な共通認識であることは重々承知の上
しかし、孤立無縁で無いのならば、もう少し掘り下げてみるのも、一考
どうしても無理な考えなら「ふりだし」に戻ればいいだけです。
788 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:27:44
あの注はいろんな意味で怪しい。
789 :
太国:2006/02/14(火) 20:32:34
プラムさん。余は他スレの義経=チンギスハーンのスレで同一人物か?
と書き込みをいれていますが?まだ断定したわけではなく、可能性を
追求して楽しんでるだけです。矛盾のようですが、ある理由があってのこと
でああいう書き込みをしてはいますが、神功の場合は唯一人ですよ。
790 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 20:57:39
★★ 和漢同盟と百済建国 ★★
4世紀(西暦300年)以前に成立した
日本と楽浪郡=帯方郡の同盟、いわゆる和漢同盟について、皆さんの意見を書き込んでください。
和漢同盟があってこその、百済建国ですね。
反高句麗で連帯していた、大和と楽浪=帯方郡。
和漢同盟が基礎となって百済が建国されたという事実から推測するならば、百済はやはり倭人国家か。
百済が、最初は、日本領・任那の北部地域に建国されたという事実に注目しましょう。
任那とは、日本国の第十代大君=崇神天皇が建国した、あの任那です。任那は、志良岐の西側に、
広大な領土を持っていました。
中国の自治領である楽浪=帯方郡の南方にあった倭人の二つの国、それが志良岐と任那です。
任那から分離して誕生したのが百済。最初は駒国(狛国。コマ)と呼ばれていました。
楽浪=帯方郡が古代日本人から「コマ」と呼ばれていた点に注目してください。
百済が任那領内に設置されたコマ(楽浪=帯方郡)の亡命政府であった事実が見えてきます。
西暦313年、高句麗の攻撃によって、楽浪=帯方郡が滅ぼされました。その時、コマ(帯方郡)の役人や武将、
民間人が、難民となって任那に流入したことは容易に想像できますね。
791 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/14(火) 21:10:03
太国さん
義経=成吉思汗
いいですねー!
>ある理由で
知りたいですねぇー!
★清王朝末裔 エイセイの天城山心中
「しずやしず…なすよしもがな」
それでは太国さん
(神功=代名詞)説の立証を、可能な限り追究してみます。
792 :
ききお:2006/02/14(火) 23:27:02
日本書紀紀年法研究家さん、始めまして。
古代史好きのシロートですが、少々質問させてください。
>>780
「実質的には西暦91年から202年までの100年ほどに、
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の在位期間が入ってまいります。」と仰っていますが、
これは崇神を2世紀初頭前後の人物と想定されているということでしょうか?
しかし、仮にそのような想定に立つ場合は、この位の時代を描いている書紀は、重要な部分において史実を反映していない可能性が極めて高いのではないでしょうか?
というのは、近時の考古学上、箸墓古墳は布留0式期の造営と推測されていますが(3世紀第3四半期か)、
他方、書紀では箸墓古墳造営を崇神の時代と想定しているからです。
書紀と考古学を整合させようとするなら、崇神は3世紀後半あたりに活躍の人物と考えるのが妥当ともなります。
従って、仮に書紀が崇神を2世紀初頭前後の人物と想定しているとするならば、それは考古学とは整合せず、書紀はこの2世紀初頭の崇神の時代に3世紀後半の箸墓古墳の話を適当に結びつけてしまったというとことになりそうです。
そうなると、崇神なる大王が実際に存在したのかどうかすら疑問になる所だと思うのですが・・・
応神以降の年代比定とは別に、その前の崇神あたりの年代比定をどう考えていらっしゃいますか?
793 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 00:04:23
中国史書の卑弥呼・台与関連記事を年代軸の基準年としては使わないほうが
よいと思う。
794 :
ききお:2006/02/15(水) 00:32:29
793さん、始めまして。
>中国史書の卑弥呼・台与関連記事を年代軸の基準年としては使わないほうが
よいと思う。
しかし、邪馬台国=畿内説の前提に立つ限りは、3世紀倭国の史実の核心は卑弥呼・台与の中にあるということになります。
ところが、肝心の記紀がほぼ卑弥呼・台与を無視している。特に書紀は、滅茶苦茶な年代比定をしていますね。
その理由としては、記紀は卑弥呼・台与について詳細を書きたくなかったか、あるいは、この時代の資料が十分なかったため詳細を書くことが出来なかった、というような可能性が考えられると思います。
後者の可能性を考えるなら、例えば古事記の崇神の崩年干支が正確であるなどとは、とても言えないように思います。
要するに、纏向時代に相当しうる記紀の記載は、おおよそは参考にはなるにしても、とても鵜呑みにすることはできない記事が多いことが問題だと思います(特に時代設定が間違っているケースが多いのではと推測してます)。
さらに問題は、纏向後の神功・応神や仁徳の時代の記述でさえも鵜呑みにはできないものがかなり存在するのではないかという疑いです。
その点で、これくらいの時代について記紀が記載する在位年代等にどれだけ正確性があるのかが問題であり、在位年代等を過度に重視して構成する方向には脆さがあるのではないかという印象を感じます。
795 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 01:02:45
>>794 邪馬台国=畿内説でも、卑弥呼・台与を神功皇后と見なす必要は必ずしも
ないでしょう。
応神の母后である神功は、系図通りならば年代的にも卑弥呼・台与とは明らかに
合わないはずなのに、『日本書紀』は何らかの意図を持ってわざとこれを
結びつけようとしたという可能性もあり得るでしょう。
実際、神功紀での卑弥呼・台与関連記事の引用の仕方は、応神紀以降の
百済関連記事とはどうも性格が違うと思う。
『日本書紀』の編年では、百済関連記事に関しては、外国史書と照合すれば
年代が合わないことが明らかにも関わらず、内容は詳細で具体的なものも多い。
一方、卑弥呼・台与に関しては、年代だけは合うのだが、内容的には中国史書を
ただ引用しているだけ。
このことから考えて、『日本書紀』の作者は、前者については実年代を
特定されてもよいつもりで書いているが、後者については作者自身も
卑弥呼・台与が何者かが分かってなかった、あるいは分かっていたが真相を
どうしても隠す必要があったかのどちらかのような気がする。
そして卑弥呼・台与を神功皇后とするためのつじつま合わせによって無理矢理
年代の引き延ばしをやった結果、5世紀代の編年までその影響を受けた・・・
というような可能性もありかと。
もちろん年代引き延ばしは神武即位を前660年にするためという面もあるが、
それだけが目的なら、内容的に外国史料による実年代特定が不可能な欠史八代
以前だけをのばしてもよかったと思うし。
このあたり
>>1氏がどう考えているのか聞きたい。
796 :
668:2006/02/15(水) 01:03:17
>>738 マキムクについての文献をお教え願いないでしょうか。読んでみます。
>>739 イデオロギーについては、感受性の違いだと思います。私は王朝交代説や河内王朝説
などは、イデオロギーを考えないと理解できない部分が少なくないと受け止めております。
20年位前まで、学会の会合のたびに極左思想に近い表明をしていた事実も現に存在します。
イデオロギーから目をそむけることは、逆に事実から遠ざかる面があることも否めないと思います。
歴史学とイデオロギーは密接不可分というのが、各時代の歴史学の実体でもあるので、私は、
イデオロギーも含めてありのままに考えることが事実に接近する方法だと考えております。
ただ、このスレでは、この話はもう止めます。なお、私はもちろん、学者ではありません。
あと、安本説批判の良い文献があればお教え願えないでしょうか。
>>746 ヒノキの伐採年が建物の建築年と言い切れるのかは、疑問に思います。古代の建築物で
建築年が判明しているものと、木材の伐採年に数十年や100年以上のずれがある場合も少なくない
ことや、解体した木材の流用例もあることから、一応の参考程度にする方が穏当ではないかと思います。
797 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 01:06:11
>>795続き
そういう点で私は、
>>1氏が『日本書紀』のなかでの百済関連記事と神功紀での
中国史書の引用を、どっちも同じように考えて実年代特定の基準年に使っている
ことに危うさを感じる
798 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 05:49:19
799 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 06:17:58
そんな事書いてたっけ?
800 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 07:13:55
実年代
091-202崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇
201-389神功皇后
390----応神天皇
それで神功皇后が複数人物説?
801 :
太国:2006/02/15(水) 07:56:11
いよいよこのスレも、明智小五郎の登場を待つか〜?ww
>>798 それは
景初二年と三年両方正解なんですよ!
魏志倭人伝に書かれている朝見記事だけと、とらえる方が不自然
倭人伝にカキコされている記事は、抜粋されたほんの一例でしょう。
803 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 08:27:08
本文比較
・書紀の該当部
卅九年是年也大歳己未魏志云
明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守■夏遣使將送詣京都也
・魏志の該当部
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都
つまり書紀は引用部冒頭に明帝を付けて、二を三に訂正して也で終わってる
804 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 08:37:32
「景初二年も景初三年も遣使しており魏志はその一方を書き記しただけで
だから両方とも正解だ」
と云う趣旨だろうか
>>802発言は
魏志の「二」は「三」の誤植説は?
806 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 09:24:45
807 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/15(水) 09:41:27
>>804 そういう事です。
半島付け根の公孫事情等を考慮すれば
二年から三年に渡っての魏朝への初朝見儀礼ととらえても、なんら不思議ではありません。
808 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 10:03:19
太国さん、
>>786さん
>>798さんがご丁寧に、記してくださっているように、「倭の女王」として、
卑弥呼と台与が出てまいりますので、この記述のみに拠るならば、神皇紀は3世紀を扱っています。
しかしながら、神功紀と応神紀に記載される百済王の即位と薨去に関する記述からは、
神功紀は4世紀を扱っていることになります。
このため、研究史上、神功紀三世紀説と神功紀四世紀説の2説がありました。
わたくしは、神功紀は、3世紀から4世紀、すなわち201年から389年までの189年間を
扱っていると結論しております。これは、
>>1で述べた「プラス・マイナス120年構想」によっても
示されます。神功紀は189年間を扱っておりますので、当然、神功皇后に比定される人物も、
複数あるのではないかと推論することができます。
また、宮室の楼に閉じこもっていた卑弥呼の性格と、親征に赴く神功皇后の性格の相違にも、
着目する必要があると思います。
809 :
太国:2006/02/15(水) 10:10:31
>>808 『神皇紀』というのは、古史古伝の一、三輪義Xさんの書ですが・・・?
神功紀のことでしょうか?
810 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 10:15:48
プラムさん
拙著『日本書紀の真実 −紀年論を解く』では、『日本書紀』は、神功元年を201年と321年に
設定しており、神功皇后には複数の人物像が投影されていることを論じています。
(神功=代名詞)説を追求なさりたいとのことでしたなら、ご参考になるかもしれません。
811 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 10:20:17
(265年)神功65年の「百濟枕流王薨=実年代385年」の記事の次の年に
(266年)神功66年の「晋武帝泰初二年=実年代266年」の記事が書いてるのに
どうして神功元年を、書紀年に忠実に201年と設定したまま
神功65年の記事が385年であるとして、神功69年を389年とするのだろうか?
神功65年を120年シフト説を取るなら、元年も120年シフトでしょ
神功を卑弥呼なんかと位置付けたいのは日本書紀ライターの表向きの意図なんだから
201神功元年に拘ったら日本書紀ライターの意図通りじゃん
812 :
太国:2006/02/15(水) 10:23:38
日本書紀紀年法研究家さん、プラムさん
『神皇紀』はお持ちでないならば、入手しても参考になると思いますので、
東京神田あたりで探せば見つかりますよ。ああ、八幡書店から出ていると
思います。偽書と言われる古史古伝の中では役に立つ書かも知れません。
いささか高価かな〜?
813 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 10:34:06
ききおさん
わたくしは、崇神紀にみえる箸墓古墳の記述は、はじめて前方後円墳が築かれたことを指しているのではないかと、
考えております。
纏向遺跡の纏向石塚古墳の周濠底出土したひのきの伐採年が年輪年代測定法で「A.D.177+18」
ですので、纏向石塚古墳よりも、さらに多少年代が遡る前方後円墳があったのならば、
それは、2世紀初頭から中頃に築かれたと想定することができます。
崇神天皇の時代に、はじめて前方後円墳が築造されたことを、『日本書紀』は、
あのように表現したのではないか、と考えたいと思います。
814 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 10:48:10
>>795さん
>>1でのべましたように、日本書紀紀年法は「プラス・マイナス120年構想」を設定して、
神功紀で189年間(69+120)を扱い、応神元(390)年から雄略五(461)年までの72年間に、
120年の紀年を加算しております。
>>795さんが述べておられる「無理やり年代の引き延ばしをやった結果、
五世紀代の編年まで影響を受けた」という状況は、「プラス・マイナス120年構想」のことなのです。
神功紀は189年間も扱っており、この間の歴史的経緯がはっきりしなくなっていることはたしかです。
>>795さんがおっしゃられるように、真相を隠すためであったかもしれませんし、また、
別の理由もあったかもしれません。神功紀の問題は、研究課題です。
815 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 11:04:07
>>800さん
拙論の年代観を、きれいに、年表化していただきましてありがたく存じます。
このように考えますと、『魏志』倭人伝の「その国は、もとは男子をもって王となしていた。
七、八十年治めたが、倭国は乱れて、相攻伐して年を経た。そこで、ともに一女子を立てて
王となした。」という経緯と整合してくると考えられますが、いかがでしょうか。
816 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 11:06:51
太国さん
「神皇紀」は、「神功紀」の誤記です。お詫びして訂正いたします。
817 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 11:13:46
その言い方って、もしかして魏志倭人伝がその対象が
日本書紀で云う崇神〜神功を扱ってると思ってるの?(゚д゚≡゚д゚)ソリハ正気カ??
818 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 11:16:25
じゃあ、魏志倭人伝が云う処の
倭の三十国が何処にあったと思ってるかも一応聞いて置こうか
819 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 11:57:26
古代邪馬台国は剣山で復活する!!!←↓↑→
820 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 12:06:36
先生はどう思うの?
821 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 12:41:26
>>817さん
『魏志』倭人伝に云う男子の王の即位は、倭国大乱のあった170年代から80〜70年前と考えられます。
170年代から80〜70年を引けば西暦90年頃となります。
したがいまして、『日本書紀』が崇神元年を西暦91年に設定しているという仮説は、
十分に成り立つ余地があります。
822 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 12:50:03
818さん
魏志倭人伝の時代は、多少語弊はありますが、盟主を擁立してまとまった連邦国家の時代であると言うことができます。
『魏志』倭人伝の30ヶ国とは、連邦を構成する国々ですので、後の国造のような立場の者達によって、
治められる地域的まとまりであると、想定することができます。
入れ子のようであったとも考えられます。
823 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/15(水) 13:08:44
スレ主さん
(神功=代名詞)説を遂行するには、まず応神を神功と、切り離す作業が必要かと思われます。
詰まり、日本書紀の構成を幾つかのブロックに分け(だいたい均一な年代)、そのブロックをタイムスリップさせる作業です。
天智紀等はそのまま使えそうですが(誤りを記せば則天武皇に、笑われる)
神武紀等は、そのまま使用出来ないことは明白です。しかし、その神武紀の内容も、必ず何処の年代にリンクするはずです。
824 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 13:18:18
>>823訂正
則天武皇……×
則天武后……〇
失礼しました。
★『記・紀』の内容を複雑化させた目的を
・天皇家の出生の隠蔽
・天皇家の系図の工作
・天皇家の内紛の隠蔽
・天皇家の侵略の隠蔽
と、考えます。
826 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 14:21:12
金印王朝は九州でFA
827 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 15:26:36
>>プラムさん
>>1でも述べましたように、神功元(201)年から雄略五(461)年までの間には、
「プラス・マイナス120年構想」という構想が設定されております。
したがいまして、神功紀と応神紀を切り離すというよりは、むしろ、マイナス部分は、
マイナス部分の問題、プラス部分はプラス部分の問題として考えるといったアプローチが
必要なのではないかと考えられます。
例えば、推古紀には、120年後の奈良時代の歴史的事象が投影されておりますので、
プラムさんのおっしゃられる「タイムスリップ」の発想は、『日本書紀』の構想を理解するうえで、
案外、有効なのではないかと思います。
828 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/15(水) 15:47:29
>>827 主さん
私が
神功と応神を切り離そうとしているのは、神功が代名詞である場合
『応神は神功の子供では無い』
複数の女性から一人の子供を産むのは、不可能ですからね!
ただ、応神は「第四子」と設定されていますから、神功四代目の子供と言う推理が、考えられますが?
829 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 18:31:11
>>827 ★天皇の系譜は循環している★
まず「地図」(総ての道標となるもの)を見ていただきたい。
諸々の系譜を分析した結果、結論として見えてきたことは何か。
それは、天皇の系譜が「循環している」(月宿に依拠する)こと。
説話において同じモチーフが繰り返されたり、同じ名前がセットで
異なる時代に出てきたりするのは、もともと系譜が循環しているから。
このことに気づいてみると、古事記の系譜の全体に見通しが与えられる。
http://www.platz.or.jp/~hvhy/keifu/k029.html
830 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 19:37:25
プラムさん
応神天皇の位置付け、すなわち、神功皇后と応神天皇との間の系譜的位置付けが、
史実としてはどうであったのかは、たしかに難しい問題であると思います。
神功紀は189年間を扱っておりますので、神功皇后に投影されているいずれの人物の子が、
応神天皇、もしくは、応神天皇の数代前と考えられるのかにつきましては、はっきりしておりません。
「プラス・マイナス構想」としては、マイナス部分となりますが、現時点において、わたくしも、
有効な仮説を提起することができません(プラス部分はおおよそ解明しております)。
マイナス部分の検証は、わたくしにとりましても、これからの課題です。
831 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/15(水) 19:39:01
>>829さん
具体的に、どのように循環しているのでしょうか。
832 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/15(水) 19:56:20
>>830 主さん
私も正直な所、雲を捕まえておりません。
なかなか手強い相手のようで、私のようなトンデモではいかんせん……。
勉強不足です。
833 :
ききお:2006/02/15(水) 22:07:35
>>795 >邪馬台国=畿内説でも、卑弥呼・台与を神功皇后と見なす必要は必ずしも
ないでしょう。
仰るとおりです。
書紀編纂者は、単に時代設定の目安として魏志の卑弥呼記事を利用したに過ぎないと思います。
>このことから考えて、『日本書紀』の作者は、前者については実年代を
特定されてもよいつもりで書いているが、後者については作者自身も
卑弥呼・台与が何者かが分かってなかった、あるいは分かっていたが真相を
どうしても隠す必要があったかのどちらかのような気がする。
ここらへんの問題は、実に面白いところですね。古代史の醍醐味の一つです。
ひょっとしたら、大和政権の成立と発展の問題が関わってくる問題なのかもしれません。
例えば、卑弥呼の纏向政権と後世の大和政権との連続性の有無・程度の問題、万世一系思想の影響の問題、対等外交の思想の影響の問題、などなど。
もちろん、単に古い出来事の詳細がわからなかったという可能性もありそうです。
例えば、銅鐸について記紀が触れていないといったケースなどは、それにあたるかもしれません。
ただ、卑弥呼の時代については、書紀の箸墓伝承が存在するため不気味です。
834 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 23:25:00
>>798 当時日本が所蔵していた三国志には「景初三年」とあったから。(推測)
ただし私は、神功紀の魏志注記事が初めからあったのかには疑念を持っています。
・本文記事無くいきなり注釈文からのスタート
・「倭女王」という記載そのまんま
・中国史書の(しかも「伝」の)記事をただそっくり写しただけ。
などなど怪しすぎさ満載の部分です。
>>802 景初2年は魏vs公孫戦争の真っ最中では?
835 :
793=795=797:2006/02/15(水) 23:33:25
あともう一つ考慮しなければならないのは、中国史書が「王」と書いていても
国内で実際に王と見なされていたかどうかとは別問題ということもある。
卑弥呼・台与の場合、のちの時代でいうところの伊勢斎宮や賀茂斎院のような
国家の祭祀権を持つ女性とイメージがかぶる。
実際の統治権者が別にいた可能性は否定できないし、卑弥呼の場合は男弟が
それに該当する可能性もある。
いずれにしても、国内的には王ではないものを中国史書が「王」と見なしている
ことは後世にも例がある。
『隋書』においては、当時の日本が推古朝であるにも関わらず、倭国の王は
男王だと書かれている。
また14世紀の『明史』においては、明の建国を伝えるために日本に派遣された
使者が、当時九州にいた懐良親王(後醍醐の皇子で南朝の征西将軍)を
日本全体の「王」と誤認して「日本国王良懐」と書いている例もある。
836 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 23:37:39
さらにちょっと特殊な例としてはこんなのもある。
15世紀初頭には足利義満が「日本国王源道義」として明の冊封体制に
入るものの、この「日本国王」の称号は外交上の方便であり、国内的には何の
意味もない称号であった。
>>836 > 国内的には何の意味もない称号であった。
称号自体にはあるいは意味がないかもしれないが実質的には王だったので、この場合は例として不適格じゃないか?
838 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/15(水) 23:49:09
>>834 詳しいことは魏書を参照されたし!
景初二年八月に、公孫淵が司馬懿に滅ぼされ、幕引きとなるが
確かそれ以前に、帯方郡は懿の手中になっていたと記憶する
そうなると、公孫氏と交戦中であろうが可能である
839 :
ききお:2006/02/16(木) 00:04:55
>>813 日本書紀紀年法研究家さん、有難うございました。
>わたくしは、崇神紀にみえる箸墓古墳の記述は、はじめて前方後円墳が築かれたことを指しているのではないかと、
考えております。
>崇神天皇の時代に、はじめて前方後円墳が築造されたことを、『日本書紀』は、
あのように表現したのではないか、と考えたいと思います。
なるほど。
箸墓造営関係の伝承記事を、いわゆる箸中山古墳(=ホケノ山古墳の近くの例の古墳です)のことだと特定化して考えずに、より一般的な古墳造営起源伝承として考えるというお立場ですね。
確かに、2世紀前半頃造営の前方後円形の墳丘墓が大和で発見されるようなことになれば、興味深いです。
もっとも、今の所は、そのような墳丘墓は見つかっていないのかもしれません。が、掘削とかされてしまっている可能性もありうるのかもしれません。
とりあへず、自分が「箸墓=箸中山古墳」と考える理由を別レスで書いておきます。
840 :
ききお:2006/02/16(木) 00:11:31
崇神紀の箸墓造営伝承では、下記の点で箸墓が特定されていると思います。
1場所=大市→於保以智郷なのでしょうね。箸中山古墳の場所と整合します。
2名称=箸墓。
また天武元年7月条では箸陵での戦いが出てきますが、上つ道などの記載からすると、崇神紀の箸墓と同じものと考えてよいのでしょう。
3構造=大坂山の石の利用。
専門的なことはよくわかりませんが、箸墓より古いと推定されているホケノ山古墳では、大坂山の石は利用されていないようです。
葺石や石囲い木槨の石も、纏向周辺の石だそうです。
一方、箸中山古墳では、竪穴式石室に利用されると推測される芝山産の板石が見つかっており、これは大坂山の石にあたる可能性があるそうです。なお、中山大塚古墳では春日山石の板石が見つかっているそうです。
いずれにしても、箸中山より古いホケノ山では大坂山の板石は使用していない以上、大坂山の石は箸中山あるいは中山大塚あたりから利用体制に入ったと考えることもできるかと思います。
4被葬者=女性。
5画期性=「昼は人が作り、夜は神が作る」とか、歌謡の内容からすると、画期的な墓であるとの推測も出来ます。
以上の1〜3を考えますと、崇神紀の箸墓とは箸中山古墳のことであると単純に考えた方が自然だと感じます。
また、上記5に関係しますが、箸中山古墳の規模・各地葬祭様式の融合等の考古学上の画期性を考えますと、箸中山古墳こそ造営伝承が記録されるにふさわしい実体があると思えます。
この「書紀の箸墓=箸中山古墳」の立場からしますと、
崇神紀の中には3世紀後半の話が含まれていることになります。
もっとも、個人的な推測ですが、崇神紀では、箸中山の3世紀後半から三輪山祭祀の画期である4世紀後半(子持ち勾玉祭祀など)、さらには陶邑伝承の5世紀といった長期間にわたる伝承が統合されているような気がするのですが。
841 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:28:34
>>840 被葬者が女性だと箸墓が特定されるというのはどういうこと?
もうちょい具体的にお願い。
842 :
ききお:2006/02/16(木) 00:35:28
>>841 おっと、この「4被葬者=女性」というのは余計でした(当初はこれに関連した記述を文末で書いていたのですが、入りきれなくて削ってしてしまいました)。
844 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:39:27
>>837 確かに微妙ではある。
ただそうすると推古朝の聖徳太子も実質的には王といえるかも知れない。
しかしそれでも国内の制度的に王ではない。
足利義満は当時の朝廷内で摂関家以上の地位を得て公家たちを自分の事務官僚の
ように使っているし、軍事的に国内をまとめているあたりからは、確かに
実質的には王と言えるかも知れない。
しかしそれでも当時の日本では「国王」といったら天皇であり、「王家」と
いったら皇室であり、それ以外を指すことは史料上あり得ない。
義満自身も明から貰った王号を国内向けに使用していることはない。
845 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 00:39:32
>>840 例え箸墓の被葬者が女性であっても、卑弥呼とは結びつきませんよ!
『魏志 倭人伝』を読めばすぐ解ることです。
846 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 00:56:02
箸墓って元々円墳だったのを、のちに前方部を継ぎ足して前方後円墳にした
可能性も考古学側から指摘されてなかった?
橋墓?
848 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 04:25:25
なんか邪馬台国ヲタがぞろぞろ湧いてスレ汚ししているような気がするが
>>1さんは紀年法についての議論がしたくてスレ立てしているので、邪魔をしないようにね。
考古学的には箸中山古墳は纏向型前方後円墳の定型化及び
最初の200m級との位置づけだとしか言いようがない。
築造時期は3世紀第3〜4四半期あたりと見られるが
墓室調査ができないので、それ以上は何ともいえない。被葬者も判らない。
ただ最初からバチ型であったことは周濠調査から判明している。
>>846の説が唱えられたのは調査以前の話。
849 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 04:40:01
考古学者にヤマト連合説提唱者が多いのは
純粋に国内に中央集権的な権力を有したと見られるほどの
遺跡や遺物が存在しないため。
当時最大かつ最新の都市である纏向(太田)にしても
各地の文化や技術の集積によって形成されている。
これらを統治したと見られる絶対君主としての「オウ」または「王権」の存在が
探しても探しても見つからない。
これは
>>835氏が述べられているように、魏が卑弥呼を女王と認定した以上の何物でもなく倭国の実情は
1氏が
>>822で言う「(各クニの通商及び不可侵)連合」の時代だと解釈するのが正解だろう。
850 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 04:54:57
話題を戻すためにも、少々のネタ振りをしておこう。
小嶋憲之氏の記紀研究における白眉は
「記紀がどの中国史書を参考にしたか?」を語句の用法や内容から復元したものだが
1氏も自著でそれを踏まえたうえでの仮説提示をされている。
さて、そこで皆さんに知っておいていただきたいのは
「記紀編纂者は梁書を参考にしたことは間違いないが、宋書はおそらく入手していなかったであろう」という事。
特に倭の五王関連については、宋書に見られるような細かな朝貢事実を知らなかったと見られている。
更に梁書の記事のみを参考に、それに辻褄を合わせようとした形跡すらある。
(履中以降の唐突な兄弟譲位や、景行の不自然な筑紫入りなど)
1氏は自著の中で表にされてはいたが、これに関しては言明を避けていたように思われる。
今現在では、どのような見解をお持ちか出来ればお聞かせ願えませんか。
851 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/16(木) 11:05:02
プラムさん
「神功皇后」という用語は、神功紀に記される事績を行った人物を意味するのか、
それとも、引用文(『魏志』倭人伝・『晋書』)中の人物を含めた存在を意味するのか、
研究者によって定義が分かれているのではないかと思います。
例えば、ぷらむさんは、代名詞的にお考えであり、一方、
>>833で、ききおさんのように、
引用文の「神功皇后(卑弥呼・台与)」は、単に、年代を示す目安として用いられていると、
考えておられる方もおられます。いずれにいたしましても、まずは、「神功皇后」の定義とな何かから、
議論したほうがよいのかもしれません。
852 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/16(木) 11:17:58
>>793=795=797さん
史書に云う「王」について、わたくしも、「王」の定義は時代や機能において異なると考えております。
このような「王」の定義をめぐる問題は、「祭政二重統治」や「ヒメ・ヒコ制」として、
神祇祭祀を掌る「王」と政治を担う「王」による統治形態の問題として、これまでにも指摘されてきております。
わたくしも、日本古代におきましては、「祭」と「政」という統治機能の相違は認識されており、
「祭」は「天」、「政」は「地」として捉えられていたのではないかと、推論しております。
853 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/16(木) 11:30:48
>>836・
>>837さん
中国史書に云う「王」と、日本側の国内事情とが異なっている問題は、実は、遅くとも、
卑弥呼の時代からあったのではないかと考えられます。
『魏志』倭人伝の卑弥呼という「王」と『日本書紀』の神功皇后という「皇后」との不整合の問題があります。
また、「倭の五王」が、『日本書紀』のいずれの「天皇」へ比定されるべきか、
という比定問題が、未解明となっていることの一因ともなっているでしょう。
『隋書』の「多利思比孤」と『日本書紀』の推古天皇の問題もしかりです。
854 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/16(木) 12:03:07
ききおさん
>>840にて、詳細にわたって、崇神紀の箸墓古墳が、箸中山古墳を指することを論じておられ、
大変、するどいご指摘であると思いました。
反論を試みてみますと、以下の仮説を提起することができます。
1)『日本書紀』は、「箸墓」という用語に、前方後円墳という墳型を象徴させている。
『日本書紀』の編纂期において、どの前方後円墳が最初に造られたのかがわからなかったので、
当時、最古級の大型古墳としてよく知られていた「箸墓」の名を、前方後円墳を表すのに用いた。
2)崇神十年条において、箸墓伝承は「是後。…」を頭に書き出しており、「是後。」が、
いったいどのくらい後のことであるのかわかりません。そこで、『日本書紀』は、
「是後。」を3世紀第3〜4四半期と考えている。
3)「箸墓」は、天武元年条の壬申の乱についての記述のなかにも出てまいりますので、
壬申の乱の遠因として、崇神天皇の時代からの何らかの要因があり、壬申の乱の遠因を示すため、
『日本書紀』は、崇神紀に「箸墓」についての記述を載せた。
このように考えてみましたが、いかがでしょうか。
855 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/16(木) 12:17:05
>>850さん
ご質問に、以下のようにお答えいたしたいと思います。
小嶋氏の研究によりますと、『日本書紀』は『宋書』を参照していないことになります。
わたくしは、『日本書紀』は中国史書を参照しながらも、中国史書の記述内容と整合させるために、
無理をしたとは考えておりません。中国史書の記述内容にあわせたのであるならば、もっと、
『日本書紀』は中国史書と整合していてもよいからです。中国史書にあわせていたら、
「倭の五王」の比定問題などは、存在していなかったはずです。
むしろ、中国史書に記録されることのなかった歴史的事象をも伝えようと苦心した結果、
5世紀代を複数の「年代列」によって表現するという「プラス・マイナス120年構想」が、
考案されたのではないかと推論いたしております。
856 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/16(木) 15:55:16
スレ主さん
私は、宋書から「倭国伝」になった事に注目しております。
これは、ご存知の様に
「武」が順帝に478年『上表文』を出した事によるものと考えます。
倭が国として認知されたのです。
詰まり、ほぼ一つに纏まり一国一都制が始まり出し、統一王の誕生です。
何かのパターンに、似ていませんか?
★新しい王権誕生⇒初めての王⇒倭国王『武』……?
857 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:19:55
倭王武の陵墓も謎だ。河内大塚山古墳を挙げる考えもあるが築造年代が
6世紀後半あたりならこの時期のどの大王陵の規模をも凌ぐ人物がいた
ことになりまた新たな問題が出てくる。
858 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:02:52
前・欽明陵だろうな
859 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/16(木) 20:23:26
プラムさん
わたくしも、5世紀代において、いわば、行政府が整ってきたのではないかと考えております。
それは、「武」が「開府義同三司」を自称していることからもわかります。
「開府義同三司」は文官です。
しかしながら、一方で、この時代、神祇祭祀を担う「王」も、やはり、存在していたのではないか、
と推論しております。
860 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/16(木) 20:30:20
>>857さん
倭王「武」は、5世紀代の倭王ですので、河内大塚古墳の築造年代とあいませんが、
仁徳天皇陵をふくめて、5世紀代には大規模な古墳がいくつか築造されておりますので、
そのうちのどれかであると思います。
天武紀には、寿陵の築造には、募兵という意味があったという記述が見えますので、
5世紀代に大規模な古墳が次々に築造されていることは、海外資料に記録されておりますように、
この時代が軍事行動が活発な時代であったことと無縁ではないのでしょう。
861 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 20:35:14
朝鮮人のキチガイが、いろんな掲示板にこんなもん貼ってますよ。
『大韓列島』の詩らしい(苦笑
太古の昔より打ち続く我らの島
それは大韓列島、それは大韓列島
それは我が島、それは我が島
いつの日にか、倭奴どもが乗っ取ったのか、
いつの日にか、日本列島などと言い出したのか、
太古の昔より打ち続く我らの島
それは大韓列島、それは大韓列島
それは我が島、それは我が島
いつの日にか、倭奴どもが乗っ取ったのか、
いつの日にか、我が島を掠めとったのか、
許すまじ、許すまじ、倭奴ども、許すまじ
倭奴どもを皆殺しにして、我が島を我が手に取り戻すまでは。
キチガイには困ったもんだ(笑
スレ主さん
その辺をもう少し掘り下げて、勉強してみます。
でも、難しい!
ところで、
倭王武=神武紀
不可能な考えでしょうか?
記年法の話はどこ行った〜!
>>859 > 「開府義同三司」は文官です。
儀同ね。
開府儀同三司は加官のはずで独立した文官の官職ではなかったと思いますが?
あと武の称号として基本をなすのは倭国王であり、使持節・都督、六(七)国諸軍事、安東大将軍(後に征東将軍)です。
軍事力に基づいた支配権を主張しています。
ついでに862の倭王武=神武紀(紀は余計ですか?)ですがいずれも兄の死を受けて立ってますが、あまりに事績が違うような気がします。
少なくとも神武の伝承には半島は出てきませんし。
865 :
ききお:2006/02/16(木) 22:16:56
>>835 少しトピずれするかもしれませんが、一応書いておきます。
>あともう一つ考慮しなければならないのは、中国史書が「王」と書いていても
国内で実際に王と見なされていたかどうかとは別問題ということもある。
確かに、考慮してよいです。
>いずれにしても、国内的には王ではないものを中国史書が「王」と見なしている
ことは後世にも例がある。
ただ、例として挙げられている隋書のケースについては、色々解釈できるところですね。
例えば、隋書においては倭王の一般的呼称が記載されているに過ぎないと考えれば、当時の倭王が男王だったと読む必要もないでしょうし、
あるいは、倭国側からの作為の介入によって、中国側が性別を誤認したという可能性もありえます。
また、後世中国側に誤解の例があるからといって、魏志の頃も同様だったはずとは言えません。
この点、倭人伝では、確かに卑弥呼は見えない女王になっていたらしき記載がありますが、他方で、卑弥呼が政治的決定権をなんら有していないという記載は無いのみならず、男弟はあくまで「佐治」していたことになってます。
従って、実務は男弟らが担当しつつも、最終的な政治的決定権は女王卑弥呼に留保されていたと考えることはできます。
この解釈は、倭国乱後に女王を共立することによって安定がもたらされたという経緯、その他の倭人伝の記載内容とも矛盾はしません。
そして、これら倭国の政治体制の詳細は倭国側からの情報を基にしたはずですが、本件では性質上、例えば倭国側が作為により誤情報を提供するといったような問題は考えにくいです。
そこで、卑弥呼は文字通り女王だったと考えてなんら不都合はないと思ってます(ただし、祭祀的能力が重視されるいわばカリスマ女王です)。
ヒメ・ヒコ制ないし祭政二重体制の視点を過度に重視して倭人伝を解釈する必要は無いと考えます。
>卑弥呼・台与の場合、のちの時代でいうところの伊勢斎宮や賀茂斎院のような
国家の祭祀権を持つ女性とイメージがかぶる。
確かに、卑弥呼・台与と斎宮との関係は非常に重要だと思います。
但し、上記の通り、卑弥呼の場合は祭祀権限者のみに限定する理由はなく、むしろ卑弥呼・台与の存在が斎宮制度にどのような影響を与えたのかが面白い問題だと思います。
866 :
ききお:2006/02/16(木) 23:40:31
>>854 だいぶトピずれしてきまして、すみません。
ちょっと入りきらないので、レスの順番を変えてあります。
>1)『日本書紀』は、「箸墓」という用語に、前方後円墳という墳型を象徴させている。
なるほど、墳形の象徴的表現ですか。
例えば、前方部が橋に見える墓として「橋墓」といったイメージなどが考えられそうですね。
なぜ「箸墓」と呼ばれたのかという難問にぶつかってしまいそうでして、ますますズレそうなのでここらへんで。
>3)「箸墓」は、天武元年条の壬申の乱についての記述のなかにも出てまいりますので、
壬申の乱の遠因として、崇神天皇の時代からの何らかの要因があり、壬申の乱の遠因を示すため、
『日本書紀』は、崇神紀に「箸墓」についての記述を載せた。
ここも面白そうですね。ご著書における「天」・「地」の思想とか祭祀権・政治的権限とかに関係する話のような気はしますが、
将来、崇神あたりをテーマにご執筆される機会でもありましたら、ぜひ詳細を読ませてください(^^)。
続く。
867 :
ききお:2006/02/16(木) 23:44:56
続きです。
>2)崇神十年条において、箸墓伝承は「是後。…」を頭に書き出しており、「是後。」が、
いったいどのくらい後のことであるのかわかりません。そこで、『日本書紀』は、
「是後。」を3世紀第3〜4四半期と考えている。
確かに、崇神紀の「是後。」は唐突ですね。
まあ、なにしろ例のモモソヒメですが、古事記の場合はモモソヒメなしであの一連の話が完結している以上、書紀の例えば太田田根子の伝承においてもモモソヒメが元来必要不可欠な要素であったのかはかなり疑問に感じます。
逆に言うと、書紀の「是後。」の部分は、他のモモソヒメが登場してくる話とは独立の話ではないか。
またまたズレそうなので、これくらいに。
なお、考えてみれば、記紀において、ある天皇の治世に別の時代の出来事が記載されているということは、それほど問題というわけでもないのかもしれません。
例えば、垂仁紀32年条では埴輪の起源伝承が記載されてますが、この話、人・馬のいわゆる形象埴輪にまで言及してますから、厳密には5世紀位の話が入っていることになります。
が、通常は、垂仁時代を5世紀初頭前後とは考えないでしょうから、おかしな記録ではあるのですが(苦笑)。
まあ、記紀編纂者が古い時代の話をすべて正確に掌握できたわけではないですし、事実誤認があったからといって他のすべての垂仁紀の信憑性に当然問題が生じるというわけでもないでしょうし。
しかし、史実を探求するには厄介な問題ではあります。
スレ主はついに>860でリタイア カワイソス
869 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/17(金) 11:06:51
>>861さん
日本古代史について、きちんと議論しようといたしますと、時々、感情的な対応をなさる方々がおります。
韓国・朝鮮の大勢の方々が、日本が嫌いなようで、その感情を学問の場にもってこられますと、論理的、
客観的な議論が阻まれて、困ります。韓国・朝鮮の方々に申し上げたいことは、自民族、自国を大切に思う気持ちは、
いずれの民族、国民であろうと変りません。日本人もまた、自民族、自国を大切に思う気持ちを持っているのです。
互いに尊重しあう気持ちを、持っていただきたいと思います。
870 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/17(金) 11:13:59
プラムさん
「タイムスリップ」的発想で、「武」が神武天皇に投影されているというお説は、
面白いと思います。わたくしは、神武紀には、複数の歴史的事象が反映されていると考えております。
「武」が、その一人である可能性はあるでしょう。
『宋書』や『梁書』によりますと、「武」は「済」の子となっておりますので、
初代天皇であるにもかかわらず、神武紀が、神武天皇を皇太子としている点と合致します。
871 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/17(金) 11:19:13
>>863さん
日本書紀紀年法を論じるにあたっては、派生的にいろいろな問題が出てまいります。
このスレッドで、皆様が提起されている様々な話題は、派生的には日本書紀紀年法と関連しております。
>>863さんが、紀年法についてのご質問やご意見などを書き込んでくださったのなら、
話題は、日本書紀紀年法に戻るのではないかと思います。
872 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/17(金) 11:25:22
>>864さん
「開府儀同三司」につきましては、独立した文官ではないという、ご指摘いただきまして、
ありがたく存じます。
行政に力を入れてきていることを示す事例として用いましたが、語弊があったかもしれません。
873 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/17(金) 11:48:42
ききおさん
『日本書紀』において、しばしば「ある天皇の治世に別の時代の出来事が記載されている」原因については、
以下のような理由が考えられるのではないでしょうか。
1)奈良時代の歴史的事象が120年遡った推古紀に投影されているように、
編纂者が、「応神列(A列)」と「雄略列(B列)」が、実年代との関係において、
120年ズレていることを利用して、計画的に120年ズレた別の時代の天皇紀に記載したから。
2)編纂者には、正確な年代がわからなかったから。
3)120年のズレのみならず、『日本書紀』には、「タイムカプセル」的発想があり、
ある紀年に記載される事件には、いくつかの時代の歴史的事象が投影されている場合があるから。
このように考えてみましたが、他にも理由があるかもしれません。
また、箸墓問題は、崇神紀をテーマに執筆する機会がありましたなら、ぜひ、論じてみたいと思います。
874 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/17(金) 11:51:10
>>868さん
リタイアしておりません。これからも、日本書紀紀年法につきまして、
議論してまいりたいと思います。
875 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 18:27:02
スレ主さん
「記・紀」を編纂する以前から、天皇家の歴史を記した史書(旧辞や帝紀)が
存在していたのではないか?
等と、考えたことありますか?
876 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/17(金) 19:58:23
プラムさん
『日本書紀』と『古事記』の原典となった史書は存在していたと考えております。
拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』は、
「帝紀」と「旧辞」の問題を扱っております。
遅くとも、継体・欽明朝のころまでには、二書一対で「帝紀」と「旧辞」は編まれており、
「帝紀」は天皇家の系譜、「旧辞」は政治的事柄を記した史書ではなかったかと推論しております。
877 :
太国:2006/02/17(金) 20:39:34
そのわけ方なら、「天」の史書は古事記、「地」の史書は日本書紀だな。w
878 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 21:17:27
「帝紀」って九州倭国王の記録じゃないんですか?
879 :
太国:2006/02/17(金) 21:22:04
「帝」は大雀命にも「聖帝」で使っているし、九州王のなら同王の記述
が記紀のどこかに一定量の記載が残るはず。記述無しとすればそうでないな。
880 :
ききお:2006/02/17(金) 22:59:46
>>873 スレ主さんへ。
仰るような様々な理由が考えられそうですね。
120年のズレの問題等については、改めて「日本書紀の真実」を読み直してみます(発売当初に本屋で買いました。他の二冊も最近購入して読みました。善良な読者ですね(~o~)
個人的には、昔から、倭の5王の古墳の比定につまずいており、うまく解決できてません。
ではまたその内お邪魔します。
881 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/18(土) 12:00:14
太国さん
「天」の史書が『日本書紀』で、「地」の史書が『古事記』です。
理由は、『日本書紀』は、「天皇」の定義について、神祇祭祀を担う立場と認識している傾向にあり、
『古事記』は、これを「治天下」、すなわち、政治を担う立場と認識している傾向にあるからです。
882 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/18(土) 12:04:42
>>878さん
「帝紀」と「旧辞」の史書としての性格の違いは、別々の王朝の記録であるという
理由によってもたらされているわけではなく、それぞれが扱っている事柄の性格が違うことによって、
もたらされています。
883 :
太国:2006/02/18(土) 12:05:51
古事記は冒頭に『高天原』から始まっている。
日本書紀は『国之常立神』からの話である。
前者には「天」の字あり、後者には「地」に対比される「国」の字が
あることから、古事記を「天」日本書紀は「地」とするのがgoodである。
884 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/18(土) 12:12:12
ききおさん
拙著3冊とも、わざわざ購読してくださいまして恐れ入ります。
『日本書紀の真実 −紀年論を解く』において、日本書紀紀年法は5世紀代を、
複数の「年代列」で扱っていることを論じましたが、これが、倭の5王の比定問題を
難しくしている一要因となっていると考えられます。
885 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/18(土) 12:17:03
太国さん
『古事記』の冒頭の「高天原」は、皇祖神についての記述であり、「天皇」についての記述ではありません。
『古事記』は、「天皇」については、すべて「治天下」と記しておりますので、
『古事記』が「治=地」であると思います。
いかがでしょうか。
886 :
太国:2006/02/18(土) 12:29:08
天皇は道教の天帝ではなく、日本国を治める「地」に対しての天皇である。
天皇は「天」を治めるんではないし「国」のほうだから、「地」を治める
ことに対しては記紀双方、同じことを行う記述であるといえる。
『高天原』は天地の初発に天を重視させ成立したことを古事記は記述して
いるから、古事記のほうを「天」とし、国の成立から『国之常立神』との
神名の記述から始まるる日本書紀をば「地」とするのがbestである。
887 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 13:00:56
書紀年代 経過年 実年代 経過年
-96〜200 105年 091〜202 112年 崇神〜仲哀
201〜269 069年 201〜389 189年 神功
270〜461 192年 390〜461 072年 応神〜雄略五年
これで良いのか?
888 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 13:07:59
書紀年代 経過年 実年代 経過年
-96〜200 297年 091〜202 112年 崇神〜仲哀
201〜269 069年 201〜389 189年 神功
270〜461 192年 390〜461 072年 応神〜雄略五年
>>887
889 :
太国:2006/02/18(土) 13:09:49
記紀を天地に配したのはクリーン・ヒットですな。
ただ逆のほうがベストですよ。
なお、古史古伝の特殊なのに『天書』(アマツフミ)があります。
890 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 13:58:18
【『嫌日流』まとめサイト】
http://homepage3.nifty.com/hakch/ マンガで描かれている日本人の顔と朝鮮人の顔がおもしろい(W
目が細く、目尻が吊り上った、一重マブタの、着物を着ている女二人組が
日本人だという。
1)目が細い
2)目尻が吊り上っている
3)一重マブタ
これらの特徴は、朝鮮人の顔に見られるものなんだが(W
逆に、マンガに登場する韓国人の女たちは、二重マブタ(笑)で、
目が大きい日本人顔で描かれているよ。
よく、
「韓国人が、日本人について語っていることは、すべて韓国人自身に
当てはまることだ」
と、言われるが、ニセ嫌日流は、まさに日本人と韓国人の容姿を逆転させて
描いているんだよな(笑
韓国人は、いつも、事実を真逆に語る(描く)よな。
嫌日流が日本で出版されたら面白くなるね(笑
891 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/18(土) 16:12:51
太国さん
「天皇」は道教の天帝ではありません。
わたくしは、「天」と「地」という概念について、聖界において神祇祭祀を専らとする立場を「天」、
俗界において政治を執り行う立場を「地」と考えているのです。
このように考えますと、摂関政治、院政、幕政など、幕末までの日本の統治体制の特徴を、
よく説明することができます。
892 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/18(土) 16:22:43
>>887=888さん
わたくしの説ですと、崇神元年はA.D.91年となります。
日本書紀紀年法は、崇神元(91)年から応神元(390)年までの間に、
独自の紀年構想を設定していますので、
>>887=888さんが整理してくださった年代観よりも、
もう少し複雑になります。しかしながら、崇神元年の年代を除いては、整理してくださったような年代観となっています。
>>892 横からすいません。
ということは神功=卑弥呼+台与というお考えでしょうか?
記紀間における歴代の宝算年差の考察を読みました。
予想した内容と違っていたので宝算年差について
現在あらためて思案中なんですが、これとは関係ない質問です。
古事記上で明記されていない欽明の崩年干支は庚寅と仮定して
良いと思いますか?
こう仮定する場合、雄略崩年干支己巳と欽明仮定崩年干支庚寅が
己卯,庚辰を中心に対称位置にあり同様に乙卯と甲辰、壬子と丁未が
それぞれ対称位置の配置されています。
もちろんこれはこの事例だけに適用できる偶然的例外と
考えられますが面白いでしょ?
895 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/20(月) 20:34:03
>>890さん
たぶん「コピペ」であるかと思いますので、まじめに答えてよいのかわかりませんが、
わたくしは、生粋の日本女性ですが、目は二重で(少なからず一重ではありません)、
目じりは上がっていません。
896 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/20(月) 20:43:46
>>893さん
>>851で述べましたように、「神功皇后」の定義が、皆様まちまちであるという問題
があるように思います。神功紀は、201年から389年までの189年間を扱っておりますので、
3世紀中ごろに実在していた卑弥呼と台与は、「神功皇后」に投影されていることになります。
4世紀後半の女性も投影されているのでしょう。しかしながら、神功紀のそれぞれの条に記される事蹟が、
いずれの人物の事蹟であるのかが、別問題としてあるように思います。
897 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/20(月) 20:52:40
>>◆16/YXRFBRMさん
宝算年差についての拙論において提起させていただきました説は、
◆16/YXRFBRMさんのおっしゃられていた紀年数の対称関係において、
壬申年が重要な年代であることと関連があると考えております。
拙論において、日本書紀紀年法においては、
壬申(672)年には意味があるのではないかと想定しておりましたので、
◆16/YXRFBRMさんのお説は、大変興味深いと思ったのです。
また、欽明天皇の仮定崩年干支の庚寅については、考えてみたいと思います。
898 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:43:26
>>891 摂関政治、院政、幕政をどう説明できるのか述べてください。
899 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/21(火) 12:28:26
天武以前
最初の文字に『神』を付けてる登場は
『神武天皇と神功皇后』
だけなんですよね!
後、関連系で
崇神 応神 武烈 皇極 天智 天武
900 :
太国:2006/02/21(火) 13:20:54
>>896 まるで映画を観てるような、ファンタジック的内容だなぁ。
902 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:30:25
ない。
日本書紀の漢風諡号(神武、神功、天智…等)は淡海三船が選定したものとされています
日本紀から日本書紀に改題される過程で追記されたのでしょう
904 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 09:53:01
>>898さん
摂関政治では天皇(祭)と藤原摂関家(政)、院政では天皇(祭)と上皇(政)、
幕政では、朝廷(祭)と幕府(政)となります。
神祇祭祀を担う者(祭)と政治を行う者(政)というように、幕末までは、いわば「二元統治」、
「二重政体」と言えるような統治体制が採られていたのではないかと考えられます。
905 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 10:01:40
プラムさん
たしかに「神」の文字が頭にある漢風し号は、「神武」と「神功」のみで、これは、
>>903さんも指摘されているように、8世紀に選定されています。
しかしながら、8世紀までは伝えられていた、なんらかの故事伝承を考慮して、
「神武」と「神功」という漢風し号を考え出したと推論することもできます。
「神武」と「神功」の間に何らかの相関関係が設定されているのか、いなかは、
考えてみる必要はあるかもしれません。
906 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 10:08:44
太国さん
歴史学とは、史実を探求する学問ですので、わたくしは、リアリストです。
「神功皇后」についての拙論は、ファンタジーではなく、日本書紀紀年法の構造上、
「神功皇后」には複数の人物像が投影されていると考えざるを得ないという、
現実にもとづいて、提起させていただいたものなのです。
907 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 10:13:00
>>903さん
『日本紀』から『日本書紀』に改題された時には、内容や編年についても、
かなり、改めたのではないかと推論いたしております。したがいまして、
漢風し号が、改題の際に追記されたことは、ありえると思います。
908 :
太国:2006/02/22(水) 10:13:08
まだタケウチノキネス複数説のほうが聴く耳をもてるがねぇ?w
マウスで文字をなぞって反転させた状態で右クリックすると
コピーが選べますよ
910 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 12:26:57
太国さん
たしかに、300年歳という高齢はありえませんので、
武内宿禰の複数説は、襲名説も含めて一考の余地があります。
「神功皇后」についても、基本的には同じ発想なのですが、いかがでしょうか。
911 :
太国:2006/02/22(水) 12:30:30
だからタケウチノギネスはその半分弱くらいの寿命でしょう。
ただ、複数説には聴く耳をもってますが・・・?w
でも〜神功皇后までは〜〜?w 一人方ですよ。
912 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 12:31:30
>>909さん
なるほど、書き込み文章を引用する場合には、そのようにすればよいのですね。
マウスの操作に疎いもので、教えていただきまして、ありがたく存じます。
913 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 12:34:20
太国さん
それでは、仮に、神功皇后がお人方であるのならば、それ方は、何年から何年まで実在していて、
そして、どのような事蹟のあった方なのでしょうか。
914 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/22(水) 12:35:14
いっそのこと
神功紀に登場する人物を架空としたら如何ですか?
或は全て「代名詞」。
915 :
太国:2006/02/22(水) 12:41:43
事績は記紀と古史古伝のほか、神社等の由緒などからしか詳細な行動は
今のところうまい方法が出る以外、だれもわかわんでしょう。w
オキナガタラシ姫の実在の年は研究中で、質問を受けて回答する段階では
ないので詳細は言いませんが、現研究段階では(今後修正あるかも)
摂政になられたのが、まあおよそ西暦300年前後でしょうな。
ほとんどの社伝が制作されたのは記紀編纂期以降とみていいかな?
日本紀の講義は社伝制作のためだったとすれば。。。
>914
わかってないようだけど日本書紀全体がモデルのあるフィクション
であることは確実です。
918 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 14:05:32
201〜247 卑弥呼
247〜321 台与
321〜389 神功
919 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/22(水) 14:43:08
>>918 残念!
神功は
二世紀後半〜四世紀末迄
独裁政権最高位権力者“女王”『斎』あるいは『彌』の事です。
920 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 17:03:22
日本書紀紀年法においては、神功紀において201年から389年までの189年間
を扱っていることは、はっきりしています。
また、『日本書紀』に『魏志』倭人伝が引用されていることからは、250〜60年頃までは『魏志』倭人伝の卑弥呼や台与のことを、
「神功皇后」のこととして設定しているのであろうと想定することができます。
そして、神功50年条代となりますと、「七支刀」などについての記述が見えますので、
4世紀後半の人物を「神功皇后」として扱っているのではないかとも考えられます。
したがいまして、260年から360年頃までの100年間についてが、日本古代史上、
もっとも解明の困難な時期なのではないかと考えられます。
皆様が様々な仮説を立てておられるのは、この100年間が、いわば「空白の世紀」となっており、
誰も、まだ、論理性、蓋然性の高い説を提起されていないからなのではないかと思います。
921 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/22(水) 18:32:22
主さん。倭王珍の嫁さんはどうでしょう。
922 :
太国:2006/02/22(水) 19:20:43
もっとも解明困難なのは神武以前ではないんですかな?
七支刀の件はまず300年代前半ですな。
923 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 19:36:15
プラムさん
日本古代において、「独裁政権最高位権力者」が存在したのかいなかは、難しい問題
であると思います。『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼は神祇祭祀を担い、
政治は、「男弟」が執り行っていたとあります。
日本では、一元支配は嫌われる傾向にありますので、はたして独裁的女王の存在が、
認めていたかどうかは、疑問に思います。
924 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/22(水) 19:43:28
太国さん
260年から360年頃を、「空白の世紀」と表現した理由は、紀元後くらいから250年頃までは、
『漢書』地理志、『魏志』倭人伝、『後漢書』などにおいて、日本(倭)についての記述が見えますが、
260年から360年にかけては、日本(倭)についての記録が、中国史書には見えず、
また、『三国史記』や『三国遺事』にも、わずかに見えるのみで、海外資料をたよりに、
推論すら立てることができないからです。
「七支刀」の銘文につきましては、東晋の年号が見えますので、4世紀後半であると思います。
925 :
太国:2006/02/22(水) 20:09:06
いろいろお詳しく研究されてますなぁ。
いまのところ私の研究はまだ未完成的で発表段階でもないですから、
貴下からなにかと教えてもらうことが多々あると思います。
七支刀の件ですが、それは神功皇后の時のと別物のだと思いますな。
926 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/22(水) 23:14:41
「七枝刀」って369年に百済で作られ372年に、神功皇后へ献上されたのでは?
百済王が七枝刀や七子鏡を献上したのは、郡の大守(鎮東将軍に任命されても、裏切りの野心がない事を表意する為
神功は、百済王が鎮東将軍になった事を喜んでいなかった。
この刀が、天皇家の宝物にならなかったことが
当時の神功の気持ちを表している。
天皇の象徴“三種の神器”その共通するものは!
《光り輝く》
927 :
太国:2006/02/22(水) 23:21:58
369年。仁徳天皇の御代でしょうな。神功皇后はすでに亡くなっているようですが?
928 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/22(水) 23:29:32
神功の代は389年迄続きますよ!
929 :
太国:2006/02/22(水) 23:54:24
神功皇后崩御も300年代前半です。お休みなさーい。zzzzz
930 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/23(木) 10:07:33
太国さん
わたくしも、まだまだ研究が足りていません。少しずつ、わかったところまで、
研究成果を発表していっているだけで、既発表の拙著・論文でも、多少お詫びして訂正
しなければならない箇所もあります。できるだけ、きちんとした形で、研究成果を発表したいと思っており、
これからも、まだまだ、努力しなければなりません。
931 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/23(木) 10:11:20
プラムさん
「七支刀」銘文には、倭王「旨」という人物名が出てまいりますが、
プラムさんは、「旨」を神功皇后とお考えなのでしょうか。
932 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/23(木) 10:37:21
主さん
『旨』が、誰を指すかは解りませんが(年代からして讃帝の先代か先々代?)
表の顔は解りませんが、実権はやはり『神功』と考えます。
『帝』になる為には、天照一族の女帝を正室にすることが絶対条件
その様子が如実に出た時代が『神功時代(180〜390)』と、考えます。
933 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/23(木) 10:45:53
『白村江の戦』
表向きは天智天皇の戦ですが、私は
『則天武后』VS『天智の娘』(名前忘れた?スマソです)
女の激しいバトルと、考えています。
934 :
太国:2006/02/23(木) 11:22:41
『旨王』っていうのは九州王朝関係の王でしょう。
普通百済から畿内までは遠路のため物が届きにくいので、当時あんまり畿内に
百済の品物を持って来るということはよっぽどのことで滅多にあることでは
なかったでしょうが、稀には流通が少ないながらあったわけです。
神功皇后時の七枝刀もそういう性質のものでしょうな。
そこで、刀の文字の王名は九州王朝関係と観るべきです。
次代が合わないよ
936 :
太国:2006/02/23(木) 11:28:35
旨王の次代のことですか? 神功の次代ですか?
937 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/23(木) 12:27:15
プラムさん
>>932と
>>933のお説は、面白いと思いました。
「神功皇后」とは、天照系の歴代女帝で、歴代「倭王」とは、実権のないいわば入り婿ということでしょうか。
しかしながら、『魏志』倭人伝によりますと、卑弥呼よりも、むしろ、「男弟」に実権があるようなのですが、
この点は、どのようにお考えでしょうか(卑弥呼と「男弟」との系譜的関係も、女帝と入り婿ではなく姉弟です)。
また、「神功時代」を西暦180年からとしたのは、なぜでしょうか。
938 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/23(木) 12:31:49
太国さん
仮に、七支刀が「九州王朝」のものであるといたしますと、石上神宮に伝世されているのは、
なぜでしょうか。石上神宮と「九州王朝」の間には、どのような関連があるとお考えでしょうか。
939 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/23(木) 13:02:55
スレ主さん
無謀かも知れませんが
『卑弥呼』=『代名詞』とかんがえます。
役職名か位?
180年とは、卑弥呼擁立です
それも初代卑弥呼の
>弟王
★別に権力があるような感じでもないと思います。
他の王達と同じような権力では?
登場回数も一回だけですし
940 :
太国:2006/02/23(木) 17:44:49
>>938 その前にお尋ねしますが、刀の文面のは 泰■4年ですか? 秦■4年ですか?
941 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 22:12:17
神功皇后の三韓征伐はいつですか?
942 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 22:43:04
古事記の没年干支は信用出来るのか?
そんなに無理はないように思うが。
せっかく貴重な記録が残っているのに
それを素直に読まないで好き勝手にネジ曲げてる奴ばっかりだな。
憤りごもっともですが記紀は素直に読めません。
945 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/24(金) 09:56:31
>>プラムさん
仮に、180年代に初代「神功皇后」と言えるような存在があったならば、
それは、以下の理由によって、成務天皇なのではないかと推論することができます。
1)「宝算年差」にもとづく編年によると、成務天皇は180年代に在位されていたと考えられます。
2)『続日本紀』には、奉幣するのに、成務天皇陵と神功天皇陵を間違えたという記述が見えます。
3)成務天皇と神功天皇の陵は、「狭城盾列陵」という同じ名でもあります。
これらの理由から、成務天皇は、卑弥呼のような女帝ではなかったかと考えており、
プラムさんの180年代という年代観には興味があります。
また、プラムさんの
>>933の書き込みについて、663年の白村江の戦は、高宗の在位中の出来事ですので、
則天武后が権力を掌握するのは、もう少し後のような気がします。
946 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/24(金) 10:05:29
太国さん
「泰和四年」です。「泰和四年」は、東晋(317〜419年)の海西公(在位365〜370年)
の年号と推論いたしております。ただし、他にも魏朝(220〜265)の「太和四年」説、
西晋(266〜316年)の「泰始四年」説、北魏の「泰始四年」説もあります。
「七支刀」につきましては、拙論「「七支刀」銘文解釈をめぐる一試論」にて論じておりますので、
興味がございましたならば、御一読いただければ、ご研究の参考になるかもしれません。
947 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/24(金) 10:11:58
>>941さん
神功皇后の三韓征伐の時期につきましては、日本書紀紀年法によれば、
201年、もしくは、321年頃となるのでしょうけれども、はっきりとはわかりません。
それは、「神功皇后」には複数の人物像が投影されているため、『日本書紀』が、
いずれの人物を想定しているのかが、わからないからです。
このスレッドでも、神功皇后について甲論乙駁があるのは、このような問題に一因しております。
948 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/24(金) 10:16:26
>>942さん
『古事記』の崩年干支には、信憑性を認めることができます。
これは、
>>1でも述べた日本書記記年法の「プラス・マイナス120年構想」において、
複数の「年代列」の「基準年」は、『古事記』の崩年干支によって求めることができるようになっているからです。
数学的に、『古事記』崩年干支に信憑性があることは、論証することができるのです。
949 :
日本書紀紀年法研究家:2006/02/24(金) 10:38:25
>>943さん
日本書紀紀年法が議論となっておりますのは、『日本書紀』の編年のとおりに素直に読んでまいりますと、
常識的、現実的に考えて、どうしても変なところがあるからです。
例えば、天皇の享年(宝算)においても、非現実的な数字が見えます。
『日本書紀』をそのまま素直に読んで、その内容がまったく正しいと信じてしまうことに、理性から躊躇せざるを得ないのです。
そこで、研究者を含めて多くの人々が、『日本書紀』の編年や内容は、本当はどうなのでしょう、と考えるようになりました。
このようにして、日本書紀研究には長い研究史があります。
そして、『日本書紀』や『古事記』には、まだまだ解明しなければならない多くの課題があるのです。
950 :
太国:2006/02/24(金) 13:55:08
>>946 回答有難う存じます。ちょこっと考察をしてみますわ。
しかし、紀の神功皇后の記述の七枝刀じゃぁないと思いますが・・・?
刀の文面から5月とか10月、11月とかなんでしょう?
紀の記述から9月10日ではなかったと思いますが?月日が一致していませんので。
>>938 石上神宮が別剣を祭祀している関係から同剣を蔵したんじゃないんでしょうか?
まあそれは私論の段階ですが?w神宮と九州王朝との直接の関係は少ないでしょう。
稀に珍品だからか、九州経由でか畿内へ持ち込まれたのでしょう?
当時、こういうことはたまにはありえたことなわけです。
951 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 13:56:26
神功の三韓征伐は、+120年で約360年前後、古事記崩年干支
から仲哀の没年362年からも、そう無理はない計算になる。
実際、363年頃の「三国史記」にも倭の侵攻記事がある。
広開土王碑文による391年より以前に、やはり神功三韓征伐
はあったのではないか。
372年に百済から七支刀が贈られたのも、
倭軍出兵への感謝の印かもしれない。
それとも、実際には好太王碑文の391年からの戦のことが
三韓征伐として誤伝されたのか。
>>950 > 稀に珍品だからか、九州経由でか畿内へ持ち込まれたのでしょう?
距離が問題だ
953 :
太国:2006/02/24(金) 16:34:51
女王国の距離と同レベル同等にやれば、過去の余の論と矛盾しそうですが、
その件、神功紀にも九州の情勢が少しは入っていますよ。
何が何でも流入してるわけではないです。距離はやはりものを言い、たやすく
畿内にはあちらからは入って来れませんよ。
百済から千字文等が入ってきたとか、稀なる珍品が畿内に少し入ってますよ。
阿直岐からかウジノワキイラツコが文の勉強を聴いているそうな・・・?
だから、女王国は北九州の海岸付近にあったのではなく、九州のたとえば山奥とか
のもっと畿内に情報が入りにくい場所にあったということになるわけですよ。
同海岸あたりじゃ、先論と矛盾しますから。
954 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 17:50:56
七枝刀を石上神宮に持ち込んだのは、壬申の乱以降だと思うが。
欧米の博物館に、エジプトやメソポタミアの遺物があるのと同じ。
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
神功皇后が複数の人物の投影という話が出てますがどういうモデルを想定してるのでしょうか?
1.神功皇后の紀年に含まれる複数の女王を投影。
→その場合、その間男王がいたのか?いないのか?
→いたのならその間の男王の事績も統合されたのか?除去されたのか?
2.特に年代は連続していないが複数の女性の投影。
またそれに付随して
3.仲哀と応神の関係。忍熊王らの存在はどうなるのか?
957 :
太国:2006/02/24(金) 21:40:50
これに関しては一人二役、一人多役は考えないほうがよい。
映画、演劇、推理小説化しちゃう。w 例外はあるけどね。
>>957 まあね。オレもそう思うんだけどさ。
ただ神功皇后紀が実は複数の代を含んでるんなら
1.仲哀と応神は親子関係ではない。
or
2.仲哀は実は天皇位についてない。
どちらかということになるんじゃないかなと同時に思うわけよ。
まあ神功皇后紀が実は複数の代を含んでいなくても1と2の両方の可能性はあると思うけどね。
959 :
太国:2006/02/24(金) 21:47:14
例えば、
神武=崇神=應神
天照大御神=卑弥呼=神功皇后
そうなってくると以下の様な事を遠い未来、イコール説者が言い出す。w
平城天皇=平成天皇
960 :
太国:2006/02/24(金) 22:07:47
その未来に
平城京は(平成天皇の住む)東京に合ったとかいう奴がでて来るわけだ。w
その時、「そうじゃない。」と正しく否定する者に、推理小説的とか自己擁護の
奇抜な論で強引に肯定して曲げない頑迷固陋の者が居続ける。
女王国畿内説で、奇抜な擁護論を振りかざす者も同類だよ。w
(天照系)……【〇→卑彌呼→壹與→〇…〇】=神功皇后
と、
神功皇后→→讃→→珍→→〇(嫁?)→→済→→興→→武(神武天皇)
962 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:22:43
倭の五王は熊本県菊池市あたりの勢力だろう。
福岡県出身の卑弥呼・壱与・神武とは別系統。
963 :
太国:2006/02/25(土) 05:36:21
別系統に関してはは正解です。お見事。
>>945 成務が女帝ってのは紀では后妃がいないから?
そのような性転換発想ができるなら
同様に后妃がない清寧も女帝の可能性を考えられますね。
ま。紀ではの場合ではですが…
記だと成務は妃が記載されているし清寧はナシですが
武烈安閑崇峻もナシなのでこの法則では女帝になってしまう。
965 :
太国:2006/02/25(土) 07:17:52
まるで、明智小五郎の登場する探偵小説「黒蜥蜴」の女賊が男装しているような
話だな?w 大間違いの始まり。
古事記の崩年干支で日本書紀を修正すればいい。ややこしい議論はいらないだろ。
967 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/25(土) 07:49:03
そのとき、古事記崩年干支を二倍年暦とすることをお忘れなく.
古事記の崩年干支や宝算と日本書紀の編年はこれまで
紀年法について考察してきた結果、明らかに作為的な
代物と見えるワケでどちらが正しいと言えるものでは
ないと思います。
>965
神功即位前紀で神功が男装してるがこれは小説?
969 :
太国:2006/02/25(土) 08:33:30
これは一本とられたね。w
そこからこんな話が出てきたのかな? 指摘ありがとう。
しかし、何を言ってもやはり複数は大間違いになるよ。
970 :
太国: