「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか18)
1 :
日本@名無史さん :
2005/10/31(月) 15:26:36
2 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/10/31(月) 15:27:37
お!次スレここですかいのう?
3 :
日本@名無史さん :2005/11/01(火) 02:13:19
【情報】中韓ですら米国産牛肉の輸入を禁止。日本は中韓に先んじて輸入再開。
2004年度に米国では38万8,000頭について狂牛病感染検査を行ったが最近まで
ジョハンズ長官は検査頭数を4万頭に削減するよう検討させていた。現在のところ、
日本、韓国、香港、台湾、ロシア、中国が米国産牛肉の輸入を禁止している。
ジョハンズ長官の代理を務めるチャールズ・ランバート氏と
デイル・ムーア氏はいずれも全米肉牛生産者・牛肉協会出身者。
(業界団体の人間が官僚になるのは米農務省の通例のようになっている。)
日本から派遣された衆院農林水産委員会の調査団を恫喝したとされる、
米農務省海外農務担当次官J・B・ペン氏は牛肉業界ロビイスト出身。
米農務省広報官エド・ロイド氏の説明によると、
ペン氏は恫喝などしておらず、日本側との会見は「和やか」であったという。
日本のPR業界には朗報:米農務省はアメリカ食肉輸出連合向けに、
1205万5,587ドル(約13億1,757万円)の販促費拠出を決定した。
http://human5.2ch.net/test/read.cgi/ms/1111209733/374- 成長ホルモンを使っているアメリカの牛肉をEUは全然輸入していない。
http://human5.2ch.net/test/read.cgi/ms/1111209733/202-
4 :
白木人 :2005/11/01(火) 12:15:09
書き写すたんびに間違えて 写して谷 500点追加
5 :
日本@名無史さん :2005/11/01(火) 22:41:13
1000里とか2000里とか都合のいい数字ばかり書いてるのは、 やらせか
>>5 > 都合のいい数字ばかり書いてる
「切りの良い数字」の意図では? それなら、「概略はそんなもの」。
7 :
日本@名無史さん :2005/11/02(水) 09:41:16
当時の人口分布から推定すると倭人伝に記された邪馬台国の戸数は関西地方でないと説明できないという解釈を見たことがあるけどどうなの?
8 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/02(水) 15:26:04
>>7 倭人伝の記載ははっきり言って大和でも説明不可能。さらに弥生時代の年代が
はやまったのも上記の理由の一つ。
9 :
太国 :2005/11/02(水) 15:30:31
>>7 当人の恣意的解釈では・・・? 推定ならば耳を傾ける程度でいいかね・・・?
12 :
太国 :2005/11/02(水) 15:40:32
それだけ大きいとすれば大和に情報が入り易くなり、記紀に多数記述が残るはずだ。
13 :
日本@名無史さん :2005/11/02(水) 16:10:29
>>10 海洋民の古代的大都市だから、農業的国家的に考えたら小さすぎるだけ。
むしろ複数の港を結ぶ海洋面の広がりのある国家の都市だったろう。
古墳だけで判断する土建国家として判断すると見誤まる。
15 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/02(水) 18:14:57
前スレでの結果として、 女王国は、奴国或は不彌国ではないでしょうか? PS スレ主さん、またカキコさせてもらいます。
16 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/02(水) 22:50:07
奴国・不彌国共に伊都からミニ放射説を利用すれば 郡より どちらも萬二千餘里(自説計算)で合格です。 《自女王国以北其戸数道里可得略載其餘旁国遠絶不可得詳》 この文に当て嵌まる国は 対馬・壱岐・末廬・伊都・奴・不彌 と、なります。 投馬国や邪馬壹国は、道里が書かれていないため 除外します。 すると、この中で一番南にある国が女王国です。 伊都国より東南と 書かれている「奴国」が、倭人伝に道里記載されている最も南の国になります。
17 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/02(水) 23:31:42
「奴国」は二十三文字という簡素な記事に成っています。 しかし、《二萬餘戸・二つの奴国・伊都〈郡使最終目的地〉以降の記載》と、改めて奴国に注目すれば 色々と、周りの国との違いに気が付きます。 伊都国から同じ距離にある不彌国との違いを表記してみると 不彌(家)奴(戸) 不彌(東行至)奴(東南至) と、一文字を錯して褒貶しています。 明らかに差別化です。 伊都国の千餘戸(魏略逸文萬餘戸)に対し、奴国の二萬餘戸の違いも異様ですし、 仮に伊都の萬餘戸を採用してもこの二国は、当時の人口からは虚数としか思えないほどの異様
>>プラム ◆RvhHf7kqyY
前スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1124943289/991-992 「少なくとも、東夷伝の中に面積を示した文は無いと認識しています。」
これも意味が判らない。
夫餘在長城之北〜方可二千里
高句麗在遼東之東千里〜方可二千里
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東〜西南長可千里
韓在帶方之南〜方可四千里
至對馬國〜方可四百餘里
至一大國〜方可三百里
これらの文章は全て「距離」を表していると言う主張ですか?
「貴方がそうでないと判断する理由をご説明下さい」
「陳壽の筆法」でない理由なら説明していも同じだろう。
魏略 南度海、至一支國。置官与對同。地方三百里。
魏史 南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。
「方三百里」は陳壽のオリジナルではない、先行資料からの引用なのだから・・・
19 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 00:45:16
『倭人在帯方東南大海之中』 どなたもご存知、この文章から倭人伝は始まります。しかし、先学では一向にこの文の始まりに注目しておりません 残念の極みです。 皆さん不思議に思いませんか? 確か、日本列島は90度右回りずらされ南北に連なる島国とイメージの元書かれている訳ですよね! それが、初っ端から(東南)と、中途半端な方角を持ち出し表記されている事に誰も異義を挟まずに 今日まで来ました! これでは、何百年も論争終結しませんよ! 視点を変えてこの文から想像して下さい。 今まで感じとられなかった世界が見えますよ
倭人は民族名だから、帯方の東南に遍在していたわけです。 しかし倭人の国は個別に各地で発生する。
「帯方東南」に有るのは「大海」、倭人はその中に在るだけ。 郡から見て「東南」にあることに違いは無いが、それにより倭人の地の姿かたちに制約が生じるわけではない。 もともとが「漢書」以来の伝統的標記の引用に過ぎない・・・と言う意見が多い。
22 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 01:13:57
>>18 面積の求め方ごぞんじでしょうか?
面積を求めるのに必要な材料は?
魏略逸文ですか?
確か?逸文の中に魏の最後の皇帝である陳留の時代の事が書かれていますし、司馬昭を(文王)と記してましたよね!
確か(文王)の号は、晋の泰始元年に送られたもの
その事がカキコされてる
魏略は、三国志と同時代の書ではないでしょうか?
ゆうなれば兄弟的な史書
或は
魏略の編纂の方が遅かったとしても異義を挟めません
コテハンにしないのですか?
23 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 01:17:54
>>21 陳壽は何故『漢書』に無い方角を入れたのでしょう?オリジナリティーをだすためでしょうか?
24 :
日本@名無史さん :2005/11/03(木) 01:38:05
倭人を和人と読みとった思い込みじゃないの?
25 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 01:43:08
前レスにて 蜀の使者と呉の高官との会話を紹介しましたが 三国時代の高官の間では『漢字』分解し、 一つの文を作る と、いう 知的遊戯が流行していたみたいです。 『倭人在帯方東南大海之中』 この文を分解して 遊びませんか? 倭人伝は難しく考えないで気軽に楽しく読みましょう
26 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 08:40:25
>>18 >先行資料からの引用
では、その先行資料を提示して下さい。
27 :
日本@名無史さん :2005/11/03(木) 09:21:09
東なのか南なのかわらへんねん
28 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 09:56:05
《倭人在帯方東南大海之中》 この文から地名の「帯方」を除いて見ると 「倭人は東南の大海の中にある」と、なります。 キーポイントは、「東南」と「大海」ですね ここで何か気付かないでしょうか?
29 :
日本@名無史さん :2005/11/03(木) 10:18:38
ここはネタスレ。
30 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 12:56:41
倭人伝の文中で「東南」の文字が見えるのは 伊都国と奴国です。 伊都はご存知のように、郡使が常駐し最終目的地ですし、奴国は女王国です。 この一致を 偶然やコジツケで片付けられますか? では、「大海」はどうでしょう。 よく、誤字や誤写(私的には筆法)の話題に上る文字です。 対馬⇒對(海)・壱岐⇒一(大)と倭人伝に記載されてる文字です 倭人は、(伊都・奴)(対馬・壱岐)に在る と、最初の文で語っているのです。 《文を錯ふるを以って義を見し、一字を以って褒貶を為す》とは 正にこのことです。 漢字を使用した知的遊戯
31 :
日本@名無史さん :2005/11/03(木) 16:38:00
>漢字を使用した知的遊戯 プラム以外の誰にも読み取れないように書いた陳壽は、 間違いなくアフォですねw
32 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 16:48:18
>>18 先行資料の件ですが
魏志と魏略がほぼ同時代に書かれた史書としたら
その先行資料となる書は、やはり、王沈編纂の《魏書》となるでしょう
陳壽に先駆け、王沈が独自の筆法を用いて書き上げ
それを土台に、陳壽が書き上げたと考える事も出来ます。
33 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 17:08:42
>>31 >プラムにしか嫁ない
そうではなく、貴方が勝手に『孔子』を無視してきたんでしょ!
一度でも『孔子の考えを継ぐ』として 中国歴史書を眺めて見れば
『春秋の筆法』を無視して以降の歴史書を読む訳には行かないでしょう。
近道をするのはもう止しましょう。
私の『筆法』解釈は未熟で話に成りませんが
歴代の正史には、必ずその編纂者独自の技法を施し
書かれているはずです。
34 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 17:24:39
算数の問題を解くのに 文字が読めなければ話に成りませんよね! その文字に当て嵌まるのが『孔子の論語』であり『孔子の考え』であります。 いきなり、中国歴史書(算数の問題)を解釈するまえに 孔子の考え(文字)を基礎としましょう。 私も、頑張って勉強しますので ヨロシク!
35 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 17:31:36
ここは中卒と高卒に、完全占拠されもうした。 その他グループの惨敗で乙
37 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 21:09:26
???奴国が二つ????《莫廬国・馬延国・奴国》韓伝馬韓に莫廬が二つ 韓伝弁辰に馬延が二つ 倭人伝 に奴 が二つ 決して奴国の特長ではない 馬韓は、55の国を書き並べ陳壽は(凡五十餘国)と 弁辰は、25の国を書き並べ弁辰合二十四国と 陳壽はどうしてこの様なカキコを? 私は、《文を錯ふる》と考えたい。 詳しくは後日! では、後漢書韓伝を見てみよう! そこには、馬韓・弁辰合わせて(凡七十八国)としており、馬韓の莫廬、弁辰の馬延のダブリを取り除くと、54国・24国 計78国と 魏書、後漢書とも数があう
38 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/03(木) 21:54:38
後漢書韓伝に、「馬韓在西有五十四國」と 一般的には、後に范曄が陳壽の誤りを書き直したと言われていますが 陳壽は、55国カキコし、「凡五十餘国」していて 弁辰でも 馬韓の「莫廬」弁辰の「馬延」は、何か特別な国として二回カキコしたのだと思います。 同じ国を二回カキコした片方は架空の国であるが、何か特別な意味を持つ国である
39 :
18 :2005/11/03(木) 23:56:53
>>22 貴方とレスのやり取りをするのは、とても疲れる。
何故、人の質問をはぐらかしたり、一レスで書けば良いようなことを何レスにもわけてダラダラ書くんだ?
何もナゾナゾごっこをしているわけではない、もう少し他人に理解しやすい文章を書く努力をしてくれ。
そして、他人の文章を良く読んで理解しようよ。
論点は貴方が主張する箇所に「陳壽の筆法」なるものが施されているかどうかだ。
いいかい、倭人伝の路程中、海路部分の距離、倭人伝の記述は簡略化激しく、
例えば對馬國〜一大國の千餘里には、起点と終点が明確に示されていない。
対馬南端から壱岐の北端までが千餘里なのかもしれないし、両島の寄港地間の距離かもしれない。
だから、郡から狗邪韓までの7000里、海峡間の3000里のほかに、
海路では方形としてイメージされる二島の二辺に沿って船が進むとして400里×2、300里×2、
都合1400里を加算する考え方も昔から言われている。
その方法だと伊都か奴辺りで12000里地点に到達するので、これは郡使常駐の地までの距離を示していると言うわけだ。
「一萬二千餘里」が、どういう性格のものかも意見の分かれるところだが、もともと路程中の各距離記載は概数であり、
12000里の正確な内訳を路程記事中に記述する編集では無いようだ。
女王國まで12000里であることさえ明確であれば、途中の島の二辺を足してなどと計算する必要も無い、
だから、距離記述の測定点を明示する必要も無い、簡略化の為には不要なことは書かないと言うこと。
それを貴方のようにサンズイの無い「度」が使われているから・・・などと何処にも前例の無い論理を持ち出して
陳壽の趣向が施されていると主張は無意味だ。
島の二辺の長さを加えるくらいのことが、何故、「陳壽の筆法」なる技法で語られなくてはならないのか?
貴方には、その理由を説明していただきたいわけだ。
追伸 魏志と魏略が兄弟と認識されているようだが、兄弟には必ず「親」がいるだろうw
女王の支配下までの距離なら、対馬までの距離をかく
41 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 07:22:57
>>39 何処が理解できないのでしょうか?
「方四百里」云々でしょうか?それとも「筆法」そのものでしょうか?
回答の質も、自ずと変わって来ますので!
別にはぐらかしたりしませんよ!
とことん付き合いますのでどうぞ
司馬遷は、はっきりと「孔子を継ぐ」と言ってるのです。
42 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 08:02:13
>>39 韓伝にも「筆法」を使用した形跡が見られますので
東夷伝全体も、無視は出来ないでしょう。(私は未だ未検証)
方〜里云々の前に、
貴方は、倭人伝の文頭をサラリと流されたのですか?前レスでもカキコしましたが どう考えても「東南」は、異常でしょ!
それとも、先学の例がない限り疑問すら感じないのでしょうか?
43 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 10:25:43
>>39 >サンズイがあるなし云々
《一字を以って褒貶を為す》
>母体史書
前レスでもカキコしましたが、王沈の魏書が有力候補でしょう。
「陳壽の筆法」が気に入らなければ「王沈の筆法」ではどうでしょう。
筆法の技法に個人差はあれども、その基本は「春秋の筆法」でしょうから
私のマドロッコシイ説明を聞いてるよりも、
貴方が完全否定をされた方が合理的と思います。
完全否定されれば、私も無駄な努力をせずに済みますし、
ヨロシクお願いいたします。
44 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 12:38:53
さて 倭人伝を解釈すうえで 女王と女王国が混同されているようですが 私見では、別物と解釈すべきと考えます。 伊都国=皆統属女王国 狗奴国=不属女王 邪馬壹国=女王之所都 斯馬国〜奴国=女王境界所尽 其戸数道里可得略載=自女王国以北 一大率=自女王国以北 復有国皆倭種=女王国東渡海 こうして「女王」と「女王国」をきっちり別けています
何で、ここで司馬遷が出てくるのだ?
46 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 21:22:26
>>45 「孔子を継ぐ」
これは、孔子だけではなく後世の歴史家に受け継がれて行く
受け継がれて行く事を、司馬遷を例に出しカキコしたまで
47 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 21:37:50
それに
>>39 海峡に於ける「起点と終着点」だが
釜山(約110q)厳原(約80q)郷乃浦(約40q)唐津
これじゃあばらばらで話にならない。
数字を合わせるなら
釜山(約45q)対馬北端
対馬南端(約45q)壱岐北端壱岐南端(約40q強)唐津
だろう。
それに、陳壽が「東夷伝 倭人」であり范曄が「東夷伝 倭」なのか
考えた事がありますか?
48 :
日本@名無史さん :2005/11/04(金) 21:43:16
いつになったらプラムの妄想は終わるのだろうか???
49 :
18 :2005/11/04(金) 22:14:10
>>47 下は前スレの貴方のレスだ。
>では、陳壽はたんにサンズイを付け忘れた(ごじゃっぺ)野郎だったのか?
>それとも、資料を忠実に写した為なのか?
>私は両方とも違うと考えます。
>これぞ「筆法」 同じ意味を持つ似たような文字を使い、建前文の意味を変えずに裏の真実を語る技法
>『一字を以って褒貶を為す』です。
『裏の真実』を語るとある。
で、その裏の真実とは何なのか?
対馬の二辺は800里ですよ。壱岐の二辺は600里ですよ。
それだけのことだろう。
そんなことは裏だろうが表だろうが変わりはないだろう。
普通に読もうが貴方風に読もうが、結論に違いは無いものを、
敢えて『筆法』が施されていると『考えてしまう』理由を知りたいのだ。
50 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 22:28:31
>>49 「度・渡」
ですが 同じ(わたる)ですが「度」には、ただサンズイをとっただけではなく
「物の長さを測る」と言う意味があり、狗邪国を起点に何かの長さを測り始めたと
言ってます。
これが解らないと後々不便に成ってしまう大事な文字です。
>プラムの妄想
私の説明はまだまだ不備が多く、聞き手にしたら「妄想」でしょう
しかし、基礎である「筆法」は、現実に存在し、多くの史書で使われているはずです
「日本書紀」も、その例外では無いと思います。
51 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 22:46:14
>>49 普通に解釈して
その様に解釈出来るならそれでいいんじゃない
>理由を知りたい
知ってどうするの?
知った所で、普通に解釈して表文では解らない所まで見える人には関係無いことですよ!
普通に面積と解釈してしまう人に、「そうではない」と、言ってるまでですから
こう言う「錯えた文」や「一字」変えた文字が有るときは、普通に解釈せずに
違った解釈が有りますよと、それが「孔子」から代々引き継いだ「筆法」ですよ!と、言ってるまで
52 :
18 :2005/11/04(金) 22:46:54
>>50 「後々不便に成ってしまう大事な文字です」
だから、後々不便になる『理由』をさっさと書けよ!
理由や根拠を一切明かさず、面々と駄文を書き連ねるから『妄想』といわれるのだ。
相手に自分の論旨を理解させること。
いい加減に、掲示板でのルールを覚えろ!
『筆法』という手法が存在することは、貴方の主張を正当化することとは何も関係ないことだ。
筆法、筆法と呪文を唱えていれば全て正当化されると考えているのだろうが、
自説の正当化とは、理に適った論証でしか成しえないものだと思うぞ。
53 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 23:03:01
>>52 倭人伝地理誌最後にでてくる「周旋可五千餘里」(実航海距離)の起点
実航海コースとは
《狗邪国⇒(対馬沿岸を通り)⇒壱岐⇒(末廬・伊都に上陸せず⇒不彌の港》
この詳しい説明は、一部前レスで簡単に説明したし、長くなりますので
機会(レスが閑散したら)が有ったら後ほどカキコします。
54 :
18 :2005/11/04(金) 23:20:47
>>53 それが「理由」かあ?
それでは、『何故、「陳壽の筆法」なる技法で語られなくてはならないのか』という問の回答にはならないのだがな。
それに「周旋可五千餘里」が、何故「実航海距離」になっちまうんだか・・・・
私と貴方とでは、コミュニケーションというものは作りようがないようですね。
55 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 23:27:51
>>52 貴方の言ってる事は正論です。
>相手に自分の論旨を理解させる
確かにそうかも知れません。しかし、
ここまで繰り返し「筆法」についてカキコしてきましたが
誰も それについて触れようとしませんでした。
正しい「筆法」の使い方も説明無しに、いきなり「妄想」呼ばわり
私のカキコが間違っているのなら その正しい使い方を説明し「妄想」であることを知らせるのも
掲示板のルールではないでしょうか?
>自説の正当化
いえいえ
一年間スレに常駐して
誰ひとり「筆法」を語る人が居ないのでこの機会にカキコしたまでです
56 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 23:33:41
>>54 それはちがうでしょう。
その理由は前レスにて説明したはず
一つの文にて
航海距離やコースの違う往路と復路を表したと
そのような技法が「筆法」だと、説明済みだが
なんで筆法なんて使わないといけないの?
58 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/04(金) 23:58:16
>>57 中国歴史書の根本は、自王朝の正当化です。
その王朝の皇帝は世界のNo.1であり天命としていますそこに存在するのは「正義」であり 決して「偽者」ではありません。
でも、現実の皇帝は「どうしようもない馬鹿で有ったり」「虐殺マニア」だっりします。
一応歴史書で有る限り、真実を追究し事実をカキコしなければなりません
しかしそのような事、表だって書けません
その、「現実と建前」を一つの文に纏める技法を「筆法」と、いいます。
その応用が、色んな場面で活用されているのです。
筆法のことは、解ってるよ。 だから、なんで筆法なんか使う必要があったのかな。
もっと、ストレートに書くと都合の悪いことがあるのかなあ?
往路と復路でコースが違うとか、周旋の起点がどこかとかなんてことを そんなことをなんで回りくどい方法で表現しないといけないのかな。 はっきり書くと陳寿のクビが跳ぶのかな。
プラムさんのカキコってどこかでも見たことのあるんだよな。 大論争とかでだけど。 そことまったく同じカキコが多いんだけど、もしかしてアソコの某コテ氏がここのプラム氏かあ。
63 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 00:27:47
>>59-60 -61
とりあえず
「孔子を継ぐ」という事にたちかえれば
その目的は、「簡素化・リズ厶良く」でしょう。
往路と復路を一つにしている時点で「簡素化」でしょう
あと、晋王朝への「いやみ」
64 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 00:36:29
>>62 そうですよ!
覗いたついでにカキコしましたが
何故か場違いみたいで
さっさと退散してきました。
あそこは掲示板ではなく
チャットですね
何がいやみなのかなあ。 他人からいやみ言われてるのに気付かない奴もいるけどねw
でもって、筆法読解のお力で邪馬台国の場所はわかったのかなあ。
プラムさんって全くもって理解しがたい人なんだね。
とりあえず、孔子を継ぐと往路と復路を一緒に書けるんだな。 ノートに書いておこう。
寝る前に一言 『孔子を継ぐ』とは批判の心を継ぐということだよ。
70 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 00:59:35
>>66 いえいえ
やっと女王国が見つかっただけですよ
でも、今まで見つけることの出来なかった一つが見つかりましたので
後は、その女王国に肉付けして行く作業です。
71 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 07:21:52
>>65 >何がいやみなのかなあ
前レスにて理由を書きましたので参照ください。
72 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 07:27:15
>>69 批判の対象になるような要素は無いとおもいます。
取るに足らない「妄想」にはスルーが一番かと
73 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 07:57:47
陳壽編纂の「三国志」は、魏略と類似する部分がかなり多く、魏略を参考母体とし書かれていると 以前から言われてきたが 近年の研究により魏略の編纂時期が下り、その根拠を成さなくなってきた。 魏略は、中身の類似から三国志を母体とし、編纂された可能性もある 三国志以前に編纂された「魏書も、現存に至らず 陳壽が参考資料とし、写本したとする形跡も見当たらない と なると 三国志は、当面陳壽オリジナル正史と見なければならないだろう。
74 :
日本@名無史さん :2005/11/05(土) 09:44:20
75 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 11:35:18
>>73 追加
尚、王沈の書いた「魏書」には東夷伝が無かったと言う
76 :
大和@名無史さん :2005/11/05(土) 18:22:48
>>62 さん
大論争って今も閲覧可能なのですか、何処にいけば観れますか教えてください。
>>76 プラムさんなら場所をご存知のようですね。
今も書き込めるみたいですから、教えてもらってください。
>>64 名前:プラム ◆RvhHf7kqyY [] 投稿日:2005/11/05(土) 00:36:29
>>
>>62 >>そうですよ!
>>覗いたついでにカキコしましたが
78 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 19:02:06
>>62 ヤフーの掲示板の事でしょうか?
もし認識の違いが有りましたらスマソです。
>>76 大和さん
私が覗いたのはヤフーの掲示板です
Yahooの掲示板には何人か大論争流れの人がいてる。
80 :
大和@名無史さん :2005/11/05(土) 19:38:07
プラムは、大論争を知らなかったようだなw
82 :
大和@名無史さん :2005/11/05(土) 20:07:45
>>81 さん
どうかは存じませんが古代史掲示板で一世風靡した板なのでつい懐かしくて
いえ、私は此処とおなじように拝読するだけでしたが。
83 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 20:13:02
>>81 全く知らなかった。
なんせ、一年前は古代史なんか全く興味ありませんでした
中国=麻雀ですから
84 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 20:51:38
大和さん そこのURL解りますか?
検索ということをしらんのか。人に頼る前にぐぐれ。
87 :
大和@名無史さん :2005/11/05(土) 22:13:02
>>84 プラムさん
アドレスバーに「大論争」と入れればヒットします。
88 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/05(土) 22:51:36
>>87 大和さん
ヒットしました。サンクスです
>>86 氏
相変わらずキツイですなぁ
>>87 大和さん
邪馬壹國を見つけるより、先に狗奴國を何とかしなければ 邪馬壹國は、浮かび上がって来ないような
気がします。
邪馬壹國と狗奴國は、双生児の様に離れないのです。それに、伊都國と狗奴國って 何か関係が有るように思えてならない、今日この頃です。
89 :
大和@名無史さん :2005/11/06(日) 07:08:32
「大論争」は大部以前に終わった板です。内容は例の如く不毛の論宜し く決着を見ることはないでしょうが、結構勉強になります。過去ログ くぐれば如何かと。 魏志倭人伝は基本的には軍事用侵攻作戦マニュアルと考えております。 ですから九州島上陸までの大まかな方位・距離と倭人の性格や人口、 兵糧確保の観点から島礁の詳細な事情記述があればOKなのです。 九州島に上陸してしまえば東であろうが南であろうが敵の居るほうに 侵攻するのみで、あっちの国、こっちの国は関係なく島内どこにあっ ても同じことで詳細を記す必要はなにもない。とする立場です。 でも平凡ながら、読むとするならば連続読みで投馬国より水行10 日+陸行1ケ月のところに邪馬台国があり、狗奴国は2万餘戸の奴国 の南にあるとしております。1里は435m、陸行・水行とも1日 30里。又、狗邪韓国を一国とし、奴国は重複であり、その餘の傍 国は20国であり、以北は9国で狗奴国を入れて30国のとんでも。 逃げ道として道中は土佐日記風であろうと推察するものです。
90 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 09:19:18
>>89 大和さん、おはようです。
人口(戸数)記載は魏志倭人伝の特徴です。
では何故、以降の正史ではその特徴を無視するかの様に、その記載を止めてます。
投馬国=五万 邪馬台国=七万
これをそのまま受け取ればとてつもない数値です。
先学では、これを実数と受け止める方も見受けられます。
これを東夷伝にある文と比較してみれば、
その数の持つ意味が解るでしょう 投馬国五万は半島に匹敵します。
その投馬国も、以降の歴史から消え去ります。
91 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 09:34:06
普通なら「東夷伝 倭人」に付随し、 弁辰や馬韓のように 東夷伝 投馬 や 邪馬壹が有っても不思議では有りません その辺り、先学では殆ど無視され現在に至っております。 魏志倭人伝以降の記録から(投馬国=五万・邪馬壹国=七万)は、消えて無くなります。
92 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/06(日) 10:17:45
プラム氏に質問。「ヒナモリ」が共通している国についての意見はないのです か?
93 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/06(日) 10:27:43
また、わざわざ対馬島の一辺と壱岐島の一辺を距離に入れる必要も無い! どういうことかと言えば、弥生時代に「全島」通しての共通集落など、普通 にありえないからだ。だから、一個の拠点集落までは普通海路で行くのが、 セオリーでしょうね。
94 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 10:31:56
>>92 安曇さん
今、そこまで頭が回らないのが現状です。
「卑奴母離」が官名なのか人名なのかもはっきりしませんので
ただ一つ「卑奴母離」の中に「奴」「母」と、
女性を連想させる二文字が有ることには、注目しております
倭人伝の主人公は「女王」や「女王国」……
先行き楽しみです。
95 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/06(日) 10:41:02
96 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 10:53:06
>>93 安曇さん
対馬の「方四百里」壱岐「方三百里」は、一体なんなんですか?
それに、島の中にあるピンポイント集落一つ解れば
その島全体が
中国や郡からしてみれば
島全体がその集落でしょうそれほど小さな島なのです。
しかし、海上測量と成ると陸地から陸地が基本でしょ!そうなると、半島南端から対馬北端の距離を提示するのが
地理的測量でしょう
その根拠を示す為に、歴史家は、「渡」では無く「度」の文字を、海上測量の最初に、その文字を使用したと考えます。
97 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 10:59:32
>>93 安曇さん
今から図書館に行き
「春秋左近」を借りてきますので しばしの間中座します。
98 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/06(日) 12:11:58
>>96 それは普通に倭人が使者に伝えたものでしょう。なぜかというと、中国の使者
にそんな全島島巡りようなことをしている暇はないでしょう。ちょっと現代的
感覚ですが。
99 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 12:57:38
>>98 安曇さん
>普通に倭人が使者に伝えた。
安曇さんは、そのような情報何処から仕入れてきたのです。
>>90 誤)投馬国五万は半島に匹敵します
正)投馬国五万は弁辰に匹敵します
注1)魏志韓伝馬韓段 『大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。』
注2)魏志韓伝弁辰段 『弁辰合二十四國、大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。』
101 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 14:03:09
>>100 訂正感謝!
正確に書かなくてはいけませんね
一つは、「春秋」に見られる孔子の歴史批判の態度。 二つは、些事を列挙し、大局を書くことなくそれを説く論法。 三つは、書くべきところを書かず、書かなかったことによりその事由を知らしめる手法。
103 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 14:56:21
三国志の中でも特に重きを置いた部分が「韓」であり「倭人」とかんがえます。(その理由は今更なので省略しますが) よって 韓と倭人に記載有る数値は殆ど「一を用いて十となす」この法則が必ず下地にあるとおもいます。 「千餘里」は実測「百餘里」 「二万餘戸」は「二千餘戸」
>>94 > 「卑奴母離」が官名なのか人名なのかもはっきりしませんので
> ただ一つ「卑奴母離」の中に「奴」「母」と、
> 女性を連想させる二文字が有ることには、注目しております
音写の文字には意味などふくまれていないのが定説では?
逆説の日本史でものってたけど。たとえば仏蘭西国は仏を信じているのかとかになる
105 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 16:07:43
>>104 その事は以前にも話題にのぼりましたので
しかし、何処から何処までが音写であり、そうでないの区別を提示された方が
今だ皆無です。
同じような事で
この記事は「倭人からの伝聞」だから云々
が有りますが、今だにそのような区分け資料に
巡り会っておりません
106 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 16:51:52
仮に「音写」によるものとしても、漢字選定にはそれなりの理由は有ったと思われます。 「卑奴母離」がどのように発音されたかは存じませんが、「卑」「奴」「母」「離」それぞれが、その文字以外に存在していなければ話は別ですが 選択枠が存在していれば、その文字を選んだ理由はあるはずです。 まして陳壽は抜きん出た歴史家「春秋の筆法」をその下地にした学者なら尚の事、漢字一文字に神経を使うはずです。
プラム君。 何故、そこで筆法を使わなければならないのか考えなくてダメだよ。 自分流の考えで理に適わない部分は、全て筆法のせいにするつもりに見えますよ。
108 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 18:40:09
いえいえ
>>107 さん
全てを筆法に押し付けるつもりは有りません
未だ自分成りに確立していない技法
とにかく、今は慣れる事を第一としてますので 間違った使用が多々目につくと思います。
こうして
貴方に、欠点を指摘されつつ徐々に修正して行きたいと考えてます。
「素人が筆法を考えるのです」並の努力だけでは身につきません
これからも間違いが有りましたらドンドン突っ込みよろしくお願いします。
109 :
大和@名無史さん :2005/11/06(日) 19:43:16
>>90-91 プラムさん、こんばんは。遅くなりました。
プラムさんと情報を共有する為に
>>89 で大和の基本的なスタンスを提示させて頂
きました。符合するもの異とするもの、到底受け入れられないものいろいろかと
思います。記されたResに同意、不同意の根拠を予め明示すれば不要な労力も防げ
るというものです。宜しく。
>人口(戸数)記載は魏志倭人伝の特徴です。
漢書地理書(後漢期成立)にも県邑の人口は記載されて有ります。魏志倭人伝
のみの特徴ではないかと。後漢書(倭伝のみ以外は存じ上げません)は先行す
る倭人伝に記載があり風俗・習慣等短文に留めたと捉えます。以降大和として
統一政権下の隋書までの晋書(読んでおりません)以下北史(読んでおりませ
ん)まで倭人伝を踏襲したのではないでしょうか。
>投馬国=五万 邪馬台国=七万
戦国時代斉の都城臨淄(りんし:東壁西壁各長2200m、南壁北壁各長140
0m)には7万戸21万人(戦国策-斉策一、孫引き)あったとする。
長安の都城が36平方km、8万戸24万人(漢書地理志)を宇都宮清吉氏は
11万人と想定(西漢時代の都市、孫引き)
洛陽5万戸(漢書地理志)、洛陽伽藍記に京師(500年ごろ)は東西20里、
南北15里に戸数十万九千戸とあります。
>これをそのまま受け取ればとてつもない数値です。
上記の如く1都城でこれらの数字が記されております。投馬国・邪馬台国がど
れだけの広がりを持つ国か定かでは有りませんが、ご指摘のような「とてつも
ない数値」ではなく十分考えられる数字ではないでしょうか。
>その数の持つ意味が解るでしょう 投馬国五万は半島に匹敵します。
当時の半島は帯方郡より南側は良く判らなかったと思いましたが、当時の半島
の人口は正確に把握されていたのでしょうか。
110 :
大和@名無史さん :2005/11/06(日) 19:49:32
続き >普通なら「東夷伝 倭人」に付随し、弁辰や馬韓のように 東夷伝 投馬や邪馬壹 が有っても不思議では有りませんその辺り、先学では殆ど無視され現在に至って おります。 韓半島は元々前漢時代から楽浪・帯方が滅びる4世紀初めまで漢の領地です。 半島の変遷を記すに必要な事柄だから別伝を立てたのでしょう。 倭はあくまで倭であって国ではないのはご承知の通りですが、大海の中に在っ てジパング倭人の地として不思議な地域だったのではないでしょうか。 >魏志倭人伝以降の記録から(投馬国=五万・邪馬壹国=七万)は、消えて無くな ります。 中国正史が手抜きしたのではないですか。良く判りません。
111 :
大和@名無史さん :2005/11/06(日) 20:08:04
112 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/06(日) 20:22:22
邪馬壹國や投馬國が里数ではなく日数に成っていますが (私見) 書く必要が無かった 既にカキコしている為、二重になることをさけた その様に捕らえる事は出来ないでしょうか?
113 :
大和@名無史さん :2005/11/06(日) 22:05:29
プラムさん それはないと思います。万二千余里を分解して、邪馬台國や投馬國に当ては まる里数があれば二重記述になるのでしょうが、残念ながら該当する記述は ありません。周旋五千里でも然りですね。里程・水行・陸行各々の実距離が 判明しないと一本につながらないと思います。 あくまで万二千余里=餘里+(水行+陸行)若しくは五千里=1/2(狗邪韓 国〜不彌国+水行+陸行)但し、奴国除く[大和]の勝って読み。となります。
114 :
日本@名無史さん :2005/11/06(日) 22:08:23
>>112 倭人の領地は、中国人には慣れない「獣道風」の道だったので、
踏破しないで倭人に聞き込み調査をして済ませたためだと思うのですが、いかが?
>>114 その可能性は高いね。イト国だけみてすませたか、
そうかんがえれば、養蚕をしてたとか、鉄器があったのもあてはまる
116 :
大和@名無史さん :2005/11/06(日) 22:54:47
117 :
大和@名無史さん :2005/11/07(月) 10:01:11
>>115 さん
養蚕とか鉄器で郡使の足跡が捉えられるなら、信州の養蚕を含めて大和は
おろか東海・関東まで足を延ばした事になりませんか。特に前方後方墳に
大量の鉄器が副葬されるのみると、お説には根拠がないように思われます
が。
118 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/07(月) 10:52:32
確かに大和さんの言われる通り矛盾しますね
物の移動=人の移動
この方程式は確実ですが
その移動に携わった人の特定は、記録でもない限り
不可能でしょう
>>114 さん
「草茫々」で云々
この記事は末廬の記事です。
九州八女説ってどうなの?
120 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/07(月) 11:01:46
>>114 さん
獣道=対馬でした。
訂正します。
>倭人の領地
私も未だはっきりと区別出来ないのですが
「倭人」「倭」「倭国」
この区別はきちんとすべきとかんがえます。
中国正史でも
東夷伝 倭人
東夷伝 倭
東倭伝 倭国
と、区別されていますので
121 :
日本@名無史さん :2005/11/07(月) 13:18:14
「卑彌娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望」 これを日本語に訳せる方居られませんか
122 :
ここに訊くべし :2005/11/07(月) 13:37:07
123 :
日本@名無史さん :2005/11/07(月) 17:21:00
卑彌娥 なんだ後世の捏造か
124 :
大和@名無史さん :2005/11/07(月) 19:32:03
125 :
↑ :2005/11/07(月) 19:32:05
著者が変人だっただけで、捏造の逆。本人は大真面目。
126 :
↑ :2005/11/07(月) 19:33:02
ごめん、矢印は>123に対して。
127 :
日本@名無史さん :2005/11/07(月) 20:00:12
それよっか 何で今更翰苑何だw
128 :
大和@名無史さん :2005/11/07(月) 20:13:54
>>123 卑彌娥
いやー良いヒント戴いた。
卑彌娥=卑彌+娥(確か娘とか?)。
卑彌呼=卑彌+呼(子?=巫女)
卑彌弓呼=卑彌+弓呼(彦?)
卑彌(姓=かばね)+娥(尊称)
卑彌呼と卑彌弓呼、夫婦か姉弟(兄妹)とも考えられる。
ん、プラムさんならどちらを選択しますか。
>倭人の領地
私も未だはっきりと区別出来ないのですが
東夷伝 倭人
東夷伝 倭
東倭伝 倭国
と区別されていますので、
図書館直行かな。
129 :
日本@名無史さん :2005/11/07(月) 20:57:21
>>114 里数=実際に行ったところ
日数=行ってないところ(聞いたところ)
というわけではないのか?
130 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/07(月) 21:07:52
>>128 大和さん
どちらか?と言うより
漢字のボキャブラの少なさにビックリです。
国名、官名等には
ほんの数種類の文字を組み合わせたに過ぎない様に感じられます
この全てが音写なら
倭での言葉の数の少なさを感じます。
131 :
大和@名無史さん :2005/11/07(月) 21:30:59
プラムさん
>>88 の
>邪馬壹國と狗奴國は、双生児の様に離れないのです。
>>128 はお呼びでない。ごめんパスして。
132 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/07(月) 21:57:18
>>131 大和さん
「狗奴國」
官の(名前?)を知っていながら その国のおおよその戸数、里数、ちょっとした風俗等解っていなかったのかという疑問を持ちます。
突然、遠い星から攻めてきたエイリアンではないでしょう
陳壽は、狗奴国の様子を少なからず知っていたのではないかと考えます。
(私見ですが)
狗奴国の概略は、書かなかったのではなく
狗奴国記事の前に既に紹介済みであるため、詳しく書かなかったと考えます
133 :
大和@名無史さん :2005/11/07(月) 22:40:07
プラムさん
倭の使いが郡に着き、「説相攻撃状」相戦う状を説く。と帯方太守が魏都洛陽
の監督官庁に報告している。報告書を読める立場にある陳寿としては知ってて
当然かと。冊封国倭国(?)に敵対する狗奴国の事情など関知しないとのスタ
ンスだったのではないでしょうか。孫氏の本家本元、色々戦略を練ってたと思
います。根拠ありませんが。
>紹介済みであるため、詳しく書かなかったと考えます。につながるのですか?
>>88 解説希望。
134 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/07(月) 23:01:25
>>133 大和さん
その辺の所は、まだ頭の中がごちゃごちゃで、スッキリ整頓されていないので
後ほど纏まり次第カキコします。
伊都国と奴国と邪馬壹國と狗奴國
そんなに離れた所の出来事ではないような
そこに、委奴国(倭奴国)を絡めれば
それに、邪馬壹國の女王って、本当に「卑弥呼」なんですか?
魏志倭人伝には、はっきりとカキコしていないんですが
135 :
大和@名無史さん :2005/11/08(火) 08:17:33
>>134 プラムさん、おはようです。
「頭の中がごちゃごちゃ」ですか、いたしかたないですね。
>伊都国と奴国と邪馬壹國と狗奴國そんなに離れた所の出来事ではないような
「伊都国と奴国」は里数が明示されておりますので良しとして、「奴国と邪
馬壹國」及び「邪馬壹國と狗奴國」の距離感は分りませんね。どこからどこ
までをもって近距離・遠距離とするのか倭人伝には判断材料が示されており
ません。
>それに、邪馬壹國の女王って、本当に「卑弥呼」なんですか?
魏志倭人伝には、はっきりとカキコしていないんですが
文意に於いて齟齬がないように思います。料理の味付けみたなもので個人の
味覚や、風土・環境に影響されるのではないでしょうか。
136 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 09:29:07
>>135 大和さん、おはようです。
大和さんが今、
>>135 でカキコした内容全てが「倭人伝」の総評です。
陳壽がそれらの国について詳しい情報を得ていたとすれば
わざと、霧の中に隠してしまう行為と受け止めて、差し支えないでしょう。
何故そのような事をしたか未だに解りませんが!
後、全く情報が無く断片的な過去の資料を繋ぎ合わせただけ!
そのような考え方も出来ますが それはどうでしょう?
これは、私個人が感じとれる事では無く、全ての読者が感じ取った最初の印象ではありませんか?
137 :
日本@名無史さん :2005/11/08(火) 09:39:26
魏志が編纂された当時は竹に墨で記録していたのかな? 朝鮮半島や日本に派遣された役人はどうやって記録をとっていたんだろう?
●『梁書』諸夷伝・ 倭の条 「倭は自ら太白の後という。俗、みな文身す。帯方を去ること万二千里。 大抵(おおよそ)、会稽の東に在る。相去(はな)れ、絶えて遠し。 帯方より倭に至るには、海に循(したが)い水行す。韓国を歴て乍 (たちま)ち東し 乍ち南し七千余里。始めて一海を度る。海を闊(へだて) ること千余里、澣海(かんかい)と名づく。一支国に至る。 又、一海を度る千余里、末盧国と名づく。又、東南陸行五百里、 伊都国に至る。又、東南行百里、奴国に至る。又、東行百里、不彌国 に至る。又、南水行二十日、投馬国に至る。又、南水行十日陸行一月、 祁馬臺国に至る。即ち、倭王の居る所。(中略)。漢の霊帝の光和中に倭国 乱れ、相攻伐して年を歴る。乃ち、一女子卑弥呼を共に立てて王と為す。 弥呼に夫婿なし。鬼道能(よ)く挟(みにつ)けて、衆を惑わす。故に国人、これ を立てる。男弟ありて国を治るを佐(たす)く。王と為してより、見る者あるも 少なし。婢千人をもって、自らに侍(さぶら)わす。ただ、一男子を使わして、 教令を伝うるに居所に出入りす。常に兵ありて宮室を守衛す。 景初三年、公孫淵を誅後、卑弥呼始めて使を遣わし、魏に至り朝貢す。 魏、以って親魏王と為し、金印紫綬を假(あたえ)る。正始中、卑弥死す。 更に男王を立てるも国中が服わず。更も相誅殺す。復、卑弥呼の宗女・臺與を 立てて王と為す。その後、復男王立つ。並びに中国の爵命を受ける。晋の 安帝の時、倭王賛あり。賛死して弟の彌立つ。彌死して子の済立つ。済死し て子の興立つ。興死して弟の武立つ。斎の建元中、武を持節督、倭・新羅・ 任那・伽羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事鎮東大将軍に除す。(以降略)」
139 :
日本@名無史さん :2005/11/08(火) 19:12:13
漢書と後漢書全文の読み下しって何処かにないですかね
140 :
大和@名無史さん :2005/11/08(火) 20:33:25
>>136 プラムさん、遅いのは仕事許徐。
>陳壽がそれらの国について詳しい情報を得ていたとすればわざと、
霧の中に隠してしまう行為と受け止めて、差し支えないでしょう。
霧といいますか、書全体の情報量から書き得る情報も自ずから制約があろうかと
思います。因みに、大まかですが字数を数えてみました。(概数)
3国志倭人伝65巻[1983字]、後漢書倭伝120巻[676字]、宋書倭国伝
100巻[565字]、隋書倭国伝85巻[1293字]、晋書倭人130巻[371
字]、梁書倭56巻[726字]『新訂魏志倭人伝他3編・石原道博編訳岩波文庫』
より拾い出し。
他書より少ない巻数ながら、より多くの字数で倭について述べられていることが
良く判ります。ことさら隠していたのではないと考えます。
>>139 知らないですね、ごめん。
141 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 20:53:34
大和さん 気にせずに 倭人伝=邪馬壹國であればそうでしょうけど 実際は45字です。 総戸数七万の国が僅か45文字ですよ それも、水行十日陸行一月等と抽象的 これなら 行程記載無しのほうがスッキリします
142 :
日本@名無史さん :2005/11/08(火) 21:05:28
プラムさんは原文は何を参照してるんですか? 中華書局のやつ?
143 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 21:13:08
>>142 さん
ネットや数冊の本ですが
常に側に有るのは、鳥越氏の「倭人・倭国伝全釈」です。
144 :
大和@名無史さん :2005/11/08(火) 21:18:46
>>141 プラムさん、
>これなら 行程記載無しのほうがスッキリします
私の
>>89 のように軍事侵攻用説に転びますか、気が楽になります。
>>139 さん
ネットでなければ、国会図書館でいつでも閲覧できます。
145 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 21:38:42
大和さん
>>89 を否定する材料を今、持っていませんので何とも!
でも、陳壽がそんな中途半端な記事を作る筈が有りませんので
何らかの意図が有ると考えてます。
それに、范曄の後韓書が陳壽の「東夷伝 倭人」を引き継がず「東夷伝 倭」としたのも、陳壽の文献の意味を理解しての行為と思われます。
146 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 22:09:53
そしてその「後漢書」 《倭在韓東南……國皆称王世世伝統其大倭王居邪馬臺國》 《楽浪郡砦去其國萬二千里……》 邪馬臺國と其國を分けて述べており邪馬壹國は登場しません そして、邪馬臺國の王は、倭王でも倭奴國王でもない大倭王です。 確か、陳壽の倭人伝にも「大倭」は、登場しましたねそして「世世王」は、伊都國の記事に 范曄も、短い文章で有りますがなかなかどうして 陳壽とひけをとりませんな
147 :
大和@名無史さん :2005/11/08(火) 22:12:02
プラムさん、 僭越ですが、佐伯有清氏の『魏志倭人伝を読む上・下』吉川弘文館各¥1700円 お持ちでなければ是非お奨めいたします。既に持って居られたら許徐。
148 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 22:16:54
大和さん 佐伯有清氏解説の「邪馬臺國論考」1:2:3 なら 先日図書館から借りてきましたので、今手元に有ります。
149 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 22:26:44
でも、 この年に成ってこれほど図書館通い詰めの、勉強しいのになるとは…… こんなことなら もっと若い時に基礎学力位ちゃんとつけとけば良かったと、反省します。
150 :
大和@名無史さん :2005/11/08(火) 22:39:26
プラムさん そうですか、流石ですね。若いときに古代史やっていれば燃え尽き症候群で 多分今頃、別のことを必死になって勉強されていると思います。 何時までもチャレンジ精神で果敢にアタックいいじゃ有りませんか。奥様に 二度惚れされますよ。私の知っているサークルでも結構年配の方が切り盛り してあっちの遺跡、こっちの古墳と楽しく飛び回っておられます。
151 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/08(火) 23:03:22
いやいや 大和さん 私達四五十代の連中は、簡単に言えば 「単細胞」この一言です。 夢中になったら 正面しか見えません いや!見ませんから 今度、自分にゆとりが出来たら 筑波大の聴講生にと考えています。 若い時に遊び過ぎたツケが今頃回ってきました。
152 :
日本@名無史さん :2005/11/09(水) 11:53:51
佐賀駅の北側の遺跡から日本最古の 木製の器みたいなのが出たらしい ちなみにこの遺跡の北にある場所の名前は佐賀大和 やっぱり邪馬台国はこの近くにあったんじゃないかな
153 :
日本@名無史さん :2005/11/09(水) 12:00:23
>>ALL 魏志倭人伝で邪馬台国が記されて以降の..(適当に約してるが..) 次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り 〜中略〜 次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。 その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。 女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。 〜中略〜...その南に狗奴國有り。 その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。 これを素直に解釈したら、邪馬台国は九州だろ?
154 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/09(水) 12:27:15
>>153 邪馬台国が九州であろうが畿内であろうが、それより
「女王境界」
「不属女王」
「自郡至女王国」
この使い分けの方が重要だよ
女王=女王国なら、全て「女王」もしくは「女王国」で統一すればいいに
155 :
日本@名無史さん :2005/11/09(水) 12:34:02
156 :
日本@名無史さん :2005/11/09(水) 12:40:05
吉野ヶ里も近いし、九州最大の前方後円墳もあるし、 日本書記にも八女津姫という神が政を行っていたとあるし、 この地に巫女によって統治する国があったに違いない。
157 :
邪馬台国は何度も遷都した :2005/11/09(水) 13:13:23
いわゆる邪馬台国(邪馬壱国・イ妥国)は、 博多湾岸→唐津湾岸→佐賀県有明湾岸→熊本県八女地方→博多湾岸 と遷都していると思う。 初期博多湾岸時代は加持祈祷政権だったが、帯方・楽浪郡の消滅に伴い 極東四百年戦争の時代に突入、熊本政権時代は純粋な軍事政権。
>>157 八女は福岡県では?
柳川の隣で熊本との県境付近。
159 :
157 :2005/11/09(水) 14:29:45
おおこれは、失礼しました>158 福岡県八女地方から、熊本県菊池地方にかけての地域です。
160 :
大和@名無史さん :2005/11/09(水) 20:03:09
プラムさん、朝は急ぎました許餘 筑波大ですか、夢が膨らんで宜しいですね。私の後が団塊の世代だから私は 人生7合目、でも結構古代史に嵌まっております。 でここでお知恵拝借。 「・・・皆臨津捜露・・・」、「津」は一般的に伊都国の港とされます。 又、「・・・對海國・・乗船南北市糴・・・」、「對海國」は対馬で半島 交易に言及しているように思われる。 一方、王が魏都や郡・諸韓国へ使いを遣わす時、又、郡の使いが倭国(に いたる時)「皆臨津捜露」ですね。 この「皆」が問題なのです。(都合上現在風で) 「皆」とは、伊都国の港湾官吏職員、それとも共立国からの派遣職員。 「伊都国の港湾官吏職員」なら、女王に対する貢物や文書類が大量に有り、 職員総出で欠品、破損がないか、また所謂横領、紛失がないか照合するわ けですね。でありますと、伊都国の津は女王への貢物の単なる中継港であ り、伝送の為の荷揚げ港になります。が、「女王が都」とする邪馬台国は 水行30日、陸行1ヶ月の先にあります。貢物は当初陸送しながらある地 点(不彌国)から船便にならざるを得ない。まず伊都の港で荷降しをしな いといけない状況にあるとすると、邪馬台国は外洋船が出入りできない小 型船でしかいけないところに在るわけです。当然投馬国も小型船でしかい けない地になるわけです。なぜなら再度乗船するなら献上物を運ぶ専用大 型船が直接、邪馬台国に行けばいいことなのです。
161 :
大和@名無史さん :2005/11/09(水) 20:05:50
続き 「共立国からの派遣職員」なら、女王への貢物も、共立国への物資も所謂 混載貨物で伊都国の港に到着するわけです。で共立国係官により迷い貨物 の防止や荷受國への配送、女王への貢物に間違いないよう正確を期すわけ ですね。そうすると、伊都国の津は「皆臨津捜露」の為の荷降しや、大陸 ・半島へ荷出しする為の集積港になるわけです。 対馬・壱岐は大陸・半島への荷出しは一旦伊都の津に集まり、あらためて 壱岐國、対馬國を経由して半島なり魏都になり送り出すことになります。 一旦送り出したものが再び発送地に戻る事になる訳ですが、外洋船や海運 の発達しないこの時期、玄界灘を何らかの意図をもって往復する必要があ るのかどうか疑問の残るところです。なによりも文頭の「・・對海國・・ 乗船南北市糴・・・」と齟齬をきたすことです。 又、本文が「皆臨津捜露」の直前に「倭国」と記していることです。 即ち「倭国皆臨津捜露」となる訳です。大まかな読みは「倭国にいたるや 皆、津に臨み捜露する」ということでしょうか。だとすると倭国=伊都国 の津からとなり、倭国の定説(対馬等、共立国を含めた国々)に外れるこ とになります。即ち、ここでいう「津」とは狗邪韓国の列島への渡航口の 港が候補にあがるのではないかなと密かに楽しんでおります。 以前に少し触れましたがこの論どのようにお考えになりますか。
162 :
亀井静香 :2005/11/09(水) 20:06:49
邪馬台国は500%庄原
163 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/09(水) 20:42:47
>>161 大和さん
「し〜っ !」
ここでそんなことカキコしたらイケマセンよ!
誰が見てるか解らない
大和さんもそこに注目しましたかぁー
実は、以前(五月頃か?)一大率や伊都は狗邪韓国の港に有り、ここで双方の荷を最終チェックするとカキコし、散々笑い者に成りました。(懐かしい!)
今でも、
伊都=狗邪韓国は、捨てませんけど 名前こそ違うが 何か繋がりの有る国と、考えます。
164 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/09(水) 20:53:27
私が再三に渡り「女王」や「女王国」の区分けにこだわりを持つのは、その辺に未だこだわりがあるからです。 一般には 倭国=女王国(連合?)=邪馬壹國 等と認識されてるようですが 私はそんなに、スッキリとされていないと考えます。 今の私の頭の中は 狗邪韓国⇔伊都国⇔狗奴国こんな図式がベースに成っています。
165 :
大和@名無史さん :2005/11/09(水) 20:58:16
>>163 プラムさん。こんばんは
そうだったんですか、主旨は若干違うように思いますが受けて立ちますが。
166 :
大和@名無史さん :2005/11/09(水) 21:06:07
>>163 あッなるほど、でも大丈夫です。私のほうが先に発表いたします。
167 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/09(水) 21:47:07
>>166 大和さん
あの当時、私の考えは実に単純でして
荷を最終チェックするに辺り、お互いに共通利益を齎す場所を考えただけですから
郡側からすれば、陸を離れる前に不備を確認したいはずだし、倭にすれば難関の海を越え上陸した時点で
最終確認をしたいのではと考えたのです。
その上陸場所が、倭と関係が深い場所で有れば尚更
万が一の場合
事が大事になる前、お互いに引き返せる場所ですから
168 :
大和@名無史さん :2005/11/09(水) 22:38:01
プラムさん
>>165 は以外です。
論陣は簡潔明瞭がいいですね。ぐだぐだ書くとお読みいただけない。
>>一大率や伊都は狗邪韓国の港に有り
>>伊都=狗邪韓国は、捨てませんけど
なるほどそういうことだったのですか。「津」つながり。
別にね、「津」は単独の記述にしてもおかしくないですね。無理に伊都国
に娶わせなくても。結果そうなったという事であればそれはそれで研究成
果、堂々と論陣はればいいのではないですか。負ければ説が弱く脱帽です
169 :
日本@名無史さん :2005/11/09(水) 22:42:25
動植物の記述から考えることはできないのか
170 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/09(水) 22:44:22
つい最近カキコした「不彌國上陸説」をベースにカキコ 《皆臨津捜露》 こうゆう場所には 必ず人が常に集まっており それなりに 市がたち賑わいの(当時なりに)あった場所と推測します。 それに、この港が「伊都国」管轄とは何処にも書いて有りません(一大率は伊都管轄ですが) では、この港周辺を管轄していたのは? 倭人伝の内容からすれば 《国国有市交易有無使大倭監之》 私の考えでは、『大倭』がこの辺りの取締役ではないでしょうか? 一大率を伊都が管轄し、その伊都は女王国に統属 そして 不彌の港を大倭が管轄し、その大倭の元締が…
171 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/09(水) 23:22:00
その大倭の元締が 邪馬臺國に居る大倭王なのです。 「後漢書」 《倭在韓東南……国皆称王世世伝統其大倭王居邪馬臺國》
172 :
153 :2005/11/10(木) 09:57:29
>プラムさん 私が特記したいのは魏志倭人伝は、分る事、知ってる事は結構細かく書いて 聞いただけの事は適当に書いている面が多々ある事です。 >その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。 この付近の(きっと島々の事だと思いますが)風土、風習に付いては結構 細かく書いてますしね=流通があったと云う事でしょうし..! 会稽の東治の東って事が明確ならば、そこから遡上して行けば邪馬台国に 至るわけでしょうから..九州南部..そう、私はオサホ・メサホ古墳があり 中小規模の古墳、生活集落のあった西都が怪しいと思いますが..??
173 :
日本@名無史さん :2005/11/10(木) 10:27:41
九州から朝鮮半島にかけてだろ 天皇を含む支配者層が朝鮮系で農奴が縄文弥生人 で、朝鮮半島系の勢力に完敗し啓蒙・教育された民族が現日本人
174 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 12:42:56
>>172 さん
>会稽の東冶の東
この表現は、陳壽が東夷伝を書くに辺りオリジナルの表現と前提のうえ 私見します。
地理的には、呉の中程海岸沿いで、日本の琉球列島あたりです。
280年呉が滅び、東夷伝カキコの時は既に晋の統治下にあったと思われます。
陳壽が倭の国土を、会稽東冶の東に設定することにより
新に領土と成った旧呉の、東の海の向こうに有る「倭」も、帝祖である司馬懿の功績により、我が帝国の息がかかっている
こうなると、東側で晋王朝に刃向かう輩はいない。
こう成ったのも、帝祖である司馬懿の功績であると
175 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 12:54:34
と言う意味を、全て「会稽東冶の東」と言う短な文の中にうめこんだのではないでしょうか? 気候や風俗なんかは、当時の琉球列島や辺りの様子と推測しますよ! だからと言って 邪馬台国が、南九州や琉球に有ったと言う証明にはなりません 東倭伝倭人に、そのような意図が有る限り 逆を言えば そのような場所に、邪馬台国は存在しないという、証明にも利用できます。
176 :
シバザクラ :2005/11/10(木) 13:36:37
そうだ。南九州や琉球に邪馬台国はない。
177 :
大和@名無使さん :2005/11/10(木) 17:56:34
>>170-171 プラムさん、昨日はご忠告、サンクスです。
今迄クッキー規制に引っかかっておりました。
一大率、単位は卒。今でも無官の軍人さんを一兵卒と表します。
又、漢書に農監[農を監る]、池監[池を監る]とあり大倭監のみ、大「倭が監る」
なんか都合よくひっくり返っておりませんか。実際のところ良く判りませんが。
又、突然入れなくなるかなー。許徐。
178 :
大和@名無使さん :2005/11/10(木) 18:00:35
南九州に一票
179 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 18:10:02
>>176 シバザクラさん
それでは、
邪馬臺國はどこですか?
それと、邪馬壹國はどこですか?
180 :
シバザクラ :2005/11/10(木) 18:48:52
私は後藤幸彦氏の邪馬台国小城説を支持しています。 邪馬台国は小城です。邪馬壱国は吉野ヶ里で卑弥呼の在位中に小城に遷都し、大いなる壱の国 として邪馬の大壱国と称し、中国人は大壱を台(済みません旧字がでなくて)の字で表しました。
181 :
大和@名無使さん :2005/11/10(木) 18:57:36
>>177 訂正 「単位」は「官位」が正しい。
>>174-175 プラムさん。
実際のところ、陳寿の考えはどうなんでしょうね。
[まさにそのどうりをはかるに]、どうも例えで使っているように思うのです
が。
182 :
シバザクラ :2005/11/10(木) 19:05:19
安本美典氏は会稽等東ヤは慣用句だといっていますよ。
183 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 19:18:55
>>180 シバザクラさん
そうですか!
後藤説ですね、わかりました。
私の場合(初公開)、邪馬壹國の所在は《会稽東冶の東で、投馬から南へ水行十日陸行一月》の所です。
この意味解りますか?
184 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 19:44:16
>>181 大和さん
そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないですか?
《会稽東冶の東は、会稽東冶の東》です。
日本の南西諸島あたりです。
不彌から南へ水行二十日、そして投馬から南へ水行十日陸行一月行った所が、会稽東冶の東に当たる場所です。
そう読まなければ、陳壽の努力が水の泡です。
185 :
大和@名無使さん :2005/11/10(木) 20:11:57
>>183-184 プラムさん。
>私の場合、邪馬壹國の所在は会稽東冶の東、
メモさせて頂きました。
陳寿の努力とはいかようなものですか?。
186 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 20:34:39
大和さん >陳壽の努力 一言で言えば《本音と建前》ですか? 数日前、このスレにて HN「春秋の筆法」さん から、「どうして筆法を使わなければ成らないかを、考えなければイケナイ」 と、指導されました。 それからは その文字が頭から離れず でも、大和さんとレスのやり取りしている間にその理由が見つかったのです。 それが《本音と建前》です。 本音が「邪馬臺國」建前が「邪馬壹國」ですかね! 今は、「プラムの頭が壊れた」と思われるでしょうが以後、追い追いご説明致します。
187 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 21:01:36
大和さん
私の、
>>174-175 を今一度参照していただき その事を前提に
「魏志倭人伝」
《自女王国以北其戸数道里可得略載其餘旁国遠絶不可得詳》
《当在会稽東冶之東》
「後漢書 倭」
《倭在韓東南……(中略)……其大倭王居邪馬臺國》《楽浪郡砦去其国……その地大較在会稽東冶之東》
この四つの文を、素直に自説を捨て読んで
そこから浮かび上がる意味を考えてみてください。
きっと 今までに浮かばなかった新しい考えが湧いて来ますよ!
188 :
ちょっと疑問 :2005/11/10(木) 22:04:58
サガミハラハラさん=シバザクラさん ?
189 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 22:17:04
>>188 《違う》って
別スレで言ってたよ
別にどっちでもいいんじゃない
私は《=説》だけど
でも、サガミさん
以前シバザクラ見に行ったまま戻らないんだよ
この関連スレに
幕末スレには居るんだけど
190 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 22:25:30
それよりか 陳壽が「邪馬壹國」は、投馬國の南で水行十日陸行一月で「会稽東冶の東」って書いたのに それを捩曲げて解釈し、泥沼化させた、最初の加害者は誰?
191 :
日本@名無史さん :2005/11/10(木) 22:46:33
陸行の「一月」に関しては誰も言及しないようだけど 東夷伝どころか三国志全般において、たとえ伝聞でも 月数表記した箇所はここしかないというのは、皆さんご存知なのかな? 明らかに誤写であると考えられているのだけど プラムさんとかは学者の定説がお嫌いらしく、絶対認めないのだろうね。 しかし他の皆さんはどうなのかな? ちなみに原文が「一日」だった可能性もまた低いと見られてますがね。
192 :
シバザクラ :2005/11/10(木) 22:48:18
勿論新井白石ですよ。
193 :
シバザクラ :2005/11/10(木) 23:02:56
陸行1日なら、里数を記しているでしょう。
194 :
日本@名無史さん :2005/11/10(木) 23:03:14
それともうひとつ。 現在では文献史学の通説では「難升米」を「ナ(那、奴)の升米」と 解釈するのが有力ですが、これについてはどうですか? 「都市牛利」が「都市(これは官名)である牛利さん」というのと同様ですね。 更に言うならば、邪馬台国と三十ヵ国を九州内に求める論者は たとえ九州説にしても現在では誰もいない(一部カルトを除く)のですが これも皆が何故そう考えるに至ったのか、ご存知ですか? 学閥やらには逆らえないとか、嘘を書くのはやめてね、プラムさん。 ついでにこれは純粋な忠告。 鳥越氏の本は参考にしないほうがいいです。 あの人はわざと嘘を書いたり、都合の悪い箇所は省略したりするから。 三品氏の本を借りられたのなら、次は佐伯氏 そして岩波の文庫本(注釈は古い解釈なので無視してください)などで お調べになったほうがよいと思います。 鳥越氏の著作と比べれ読めば、私の言わんとすることが 中傷誹謗ではないことがお判りいただけると思います。
195 :
日本@名無史さん :2005/11/10(木) 23:09:28
>>193 水行の後に里数表記はしませんよ、たとえ短距離でも。
実地踏破した部分は、無理矢理にでも里数に変換し
伝聞(未踏破)部分は日数で表記するのが、三国志のルールです。
ただ、十日や二十日程度の水行を日数表記したというのも
実は全体的には例外的なんですけどね。
普通は百日とか二百日ほどの単位で使用していますので。
197 :
日本@名無史さん :2005/11/10(木) 23:12:38
「水行の後」→× 「水行を日数表記した後」→○ 申し訳ない、訂正。
198 :
日本@名無史さん :2005/11/10(木) 23:21:52
>>174 「会稽の東冶の東」
この表現は陳寿のオリジナルではありませんよ。
魏略にも同じ一文があります。
ちなみに魏略より三国志の成立が先だとする説は初耳です。
どなたがそのような異説を唱えておられるのか、是非知りたい。
少なくとも学者でそれを言う方は、私はは知りませんので。
それと「会稽の東冶」って、これも鳥越氏の違訳ですか?
普通は「会稽又は東冶のあたり」ですよね。
前者と後者では地理的にも中国史としても全く意味が変わりますので
単なる間違いでないのなら、新説として根拠の提示を述べるべきですよ。
199 :
シバザクラ :2005/11/10(木) 23:43:58
普通だったら水行十日の次に上陸地をかきますよね。それから陸行ですよね。
200 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/10(木) 23:49:00
やはりスレが活発化しましたね
定説や学者非難めいた発言には敏感なんだから
>>174 が妄想類であることを証明してください。
こちらも物証が有る訳では無いので
それをつかれると苦しいですが!
魏略ですね
別に、絶対的に後とは言ってませんよ
魏略の内容に晋朝の形跡が見られる以上、その可能性が有ると言っているんです。
201 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/11(金) 00:00:28
《会稽東冶之東》を (会稽東冶の東)と自訳しただけですよ 鳥越氏とは関係ありません。 私には(会稽東冶の東)で十分何ですが もし異論が有りましたなら、正確な和訳を御教授下さい それに、反論や意見は有り難いのですが 出来れば(コテハン+トリップ付)でお願い出来ませんでしょうか? 私は、隠れませんので
202 :
日本@名無史さん :2005/11/11(金) 00:14:13
>>201 いや、あなた有難いとか言いながら自説に反するものには
のらりくらりと話をそらすでしょw
議論を望むのなら、まずそれを改めてからですよ。
タイプミスならそう言えばいいんですよ、誰もそこまで責めません。
はぐらかしてごまかす必要などありません。
>>174 と
>>201 をご自分で読み比べてください。
201は174の説明にも何にもなってませんよ。
もう、さっそくごまかすんだからw
それと嘘や誹謗中傷を書かれたら、誰でも不快になりますよ。
そういう手法で活性化を図るのは
不惑を超えた大人のすることではないと考えます、今後はお控えください。
203 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/11(金) 00:31:22
>>194 さん
>三十国を九州内に求める人は誰もいない(カルトを除く)
なんか 多数決みたいですね
ま、全ての国の位置が解った訳じゃ無いでしょう?ようするに、理論的に不可能だと
それに、私は先学の功績が嫌いな訳では有りませんよ先ずは自分ありき
ではないでしょうか?
先学の知識や功績は逃げませんし、活字に成っていますので何時でも自由に検証・照らし合わせは、出来ます。
204 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/11(金) 00:45:30
>>202 さん
以後注意します。
確かに
>>174 はタイプミスですね
会稽「の」東冶の東
「の」が余計に入っていました。
ご指摘感謝です。
でも、どうなんでしょう?この板は「2ちゃんねる」とはいえ学問板
これは以前散々住人さんから言われた事です。
だから私は最初からコテハンにしています。
学問するのに「名無し」で出席は無いと思いますが
如何でしょう?
>>198 一部ユーザのスレマナーに関する提言と魏志と魏略の先後関係については同意ですが、
『會稽東冶之東』の解釈論に対する見解に意義ありなので横レスします。
”普通は「会稽又は東冶のあたり」”ですか?
『會稽』と『東冶』では、地域名の性質(面積)が違うので並置的に読み取ることはできなでしょう。
ちなみに岩波版(石原道博訳)も『會稽』の東冶』だったと思いますが・・・
206 :
日本@名無史さん :2005/11/11(金) 01:00:04
>>203 >先ずは自分ありきではないでしょうか?
いい大人がそんな言葉で自分を騙してどうするんですか?
掲示板は個人のメモ帳でもストーミング会議でもなんでもないですよ。
発想を得たらまず証明のための検証作業
それを経た上で発表に値するとの自信を持ってから
ようやく人様の前に出せるわけですよね。
普段のお仕事でもそういう手続きを踏まれておられるでしょう?
少しきつめに書いたのは、おそらく私とプラムさんが同世代だと
あなたの書き込みによって判断したためです。
思いつくをそのまま口にする、ましてや文章にして
世界中に発信するなど、もう許される年齢ではないですよ。
お互い社会の最前線に位置する年齢じゃないですか。
真剣にやっても間違えたり結果が出なかったら評価されない
そういう年齢に、悲しいかななってしまったんですよ、私たちは。
もう趣味だとか、素人だとかも免罪符には成り得ないほどの
社会的責任を背負わざるを得なくなった訳ですよ。
ちなみに191=194=195=197=198=202です。
あなたが真に建設的議論や意見交換を求めるのならば喜んで応じます。
コテにもしましょう(前はコテにしていましたので)。
知る限りの情報や資料も提示致します。
しかし現状の態度を変えないのならば、お受けすることはできません。
耳が痛いでしょうが、同世代のよしみでも忠告と受け取っていただけたら幸いです。
207 :
198 :2005/11/11(金) 01:09:45
>>205 春秋氏
石原氏は当時「会稽が統治する東冶」の意でそう訳されたのですが
晩年自説を修正されています。
ただご指摘のとおり「会稽又は東冶のあたり」で
又はとかあたりってのは新たな誤解を招きそうですね。
ここは無難に「会稽、東冶を起点に東の方向」に訂正致します。
ご指摘感謝いたします。
>>200 単なる地理的な説明文にすぎないものに、ワケの分からない意味を付け加えようとしないように。
209 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/11(金) 01:34:11
>>206 さん
確かにそうですね
これを機会にしばしの間
レスの書き込みを控え「春秋左伝」でも読みます。
また、登場したおりはよろしくお願いいたします。
最後に、
邪馬壹國とは、陳壽が苦肉の末に作り上げた架空の国です。
実際は、九州北部の邪馬臺國の出来事、でも邪馬臺國は現在の日本の位置ではなく、西南諸島辺りでないといけないのです。
理由は
>>174-175 では、しばし休憩致します
大和さん!
少し勉強してきます。
レスが中途半端に成ってしまいましたが 後日穴埋めします。
スレ主さん
レス汚し失礼致しました。
>>209 > でも邪馬臺國は現在の日本の位置ではなく、西南諸島辺りでないといけないのです。
当時において現代的な意味で正確といえる測量が出来た可能性はない以上、「現代の地図を見て真東」
に惑わされて、根本から間違えているとしか考えられません。
また、本土の勢力が西南諸島決定的な影響を及ぼし続けているのは承知の通りですが、その逆の
可能性はないので、その点でも空想としか考えようがないです。
出れ一人止めることのできなかった あのプラムが退治されてる! 206 GJ! しかしこの文体は見たことあるぞ… も、もしかしてあのお方が再降臨したのかも
あのお方って、去年の今頃に九州説に引導を渡して 2chの邪馬台国関連を事実上終わらせたあの教授か? だとしたら違うと思うぞ なんにしてもGJには違いないが
213 :
シバザクラ :2005/11/11(金) 07:12:04
古田武彦氏は東冶ではなく東治であるとしました。 で、大胆な提案ですが、東治は東冶の間違いではなく、郡治の誤写であるとしたほうがすっきりするのではないでしょうか。 会稽郡治(郡治とは郡の役所)の東なら九州島となります。
214 :
シバザクラ :2005/11/11(金) 08:40:43
九州説に引導を渡して邪馬台国関連を事実上終わらせた。? とは聞き捨てなりません。 再登場をねがいたい。
215 :
大和@名無使さん :2005/11/11(金) 09:33:44
プラムさん。 連日のこれだけのResお疲れです リフレッシュ休暇楽しんでください。
216 :
日本@名無史さん :2005/11/11(金) 10:19:19
古墳に天文図を書けるほどなら、方角を間違えるはずがないので、南西諸島に あったのが正解にしたい
217 :
大和@名無使さん :2005/11/11(金) 11:51:25
>>213 シバザクラさん
>大胆な提案ですが、
会稽郡治とは具体的にどの地を指すのですか。因みに冶も会稽郡治の一つ
とみれますが。
陳寿「そう・・旨いよ、卑弥呼・・すごく・・・もう循海岸水行しそうだよ・・」 時間と共に激しさを増す卑弥呼の水行七千餘里に、陳寿は乍南乍東していた。 正直、いまだ子供の卑弥呼では充分満足できる徇葬者奴婢百餘人は得られないと思っていたのだが、 卑弥呼の激しい鬼道は思った以上の 邪馬壹國状態。 卑弥呼「お兄ちゃん、どう?自称大夫?」 陳寿「あぁ・・・すごく、卑狗、卑奴母離だよ・・」 陳寿の上で求詣天子朝獻する卑弥呼の真珠青玉を愛撫する。 陳寿「愛してるよ、卑弥呼・・・こんなに相攻伐歴年しちゃった以上、もう更立男王したりしないから・・・・・・・」 卑弥呼「うん・・・ぅ、ん・・更立・・男王しないでっ・・私たち・・もう會稽東冶之東なんだから・・・!」 陳寿は卑弥呼の青大句珠二枚を舌で黥面文身し、 卑弥呼は南至投馬國を更に水行二十日する。 陳寿「ああ・・・お前は最高の親魏倭王だよ・・!」 卑弥呼「私・・もう・・・ダメ・・・倭国大乱・・・!」 卑弥呼の帶方東南大海はもう百餘國だ。 卑弥呼「あ、あぁ・・・ぁぁあああっ・・・っっっっ!」 卑弥呼の金印紫綬が破れた・・・・・・。
219 :
ハツクニシラス伝説 ◆HCmIhYMlyc :2005/11/11(金) 12:13:22
はじめまして。 私、「ハツクニシラス伝説」という 私的小説を現在書いてるものです。 現実世界における卑弥呼の金印をめぐる 殺人ミステリーと、在日朝鮮人が 邪馬台国の時代にタイムスリップして 活躍する歴史ファンタジーを同時進行で 融合させたストーリーを書いております。 どうぞよろしく。
220 :
シバザクラ :2005/11/11(金) 12:27:03
>>218 もう少し魏志倭人伝に沿った内容の妄想をしてください。
221 :
シバザクラ :2005/11/11(金) 12:38:47
>>219 ところで卑弥呼の金印は中国にかえされたのではないかとの説があります。
代りに壱与が「親晋倭王」の金印をもらったと言う説です。
ストーリーの中でどのような解釈をなさるか楽しみです.
222 :
ハツクニシラス伝説 ◆HCmIhYMlyc :2005/11/11(金) 12:53:46
ちなみに最終的には男王=崇神天皇=ハツクニシラス に もっていくつもりです。主人公のジョンスという在日朝鮮人を かばって東へ落ち延びていく王です。 南海大地震により家族を失い、日本人から不当な扱いを受けて 日本人嫌いになり病み疲れ果てた ジョンスが古代へ行き、日本人と朝鮮人が共に 新しい国を作ろうとしてるのを見て、現実世界に戻り 強く生きていこうとするところで物語を終わらせる予定です。 現実世界での殺人ミステリーは一人二役のトリックを 織り交ぜて面白くしたいです。
223 :
ハツクニシラス伝説 ◆HCmIhYMlyc :2005/11/11(金) 13:11:08
ちなみに邪馬台国の場所は宇佐にもっていく予定です。 卑弥呼の死後は男王軍とその他の国々との戦いに 移行し、最終的に壱与を中心とした連合国家体制に移行します。
224 :
日本@名無史さん :2005/11/11(金) 13:34:13
宇佐じゃなくて唐津湾岸にしてはどうですか? それが熊襲系に支えられた男王軍に移行。 リアス式海岸は外国から攻めにくい地形です。
>>219 >>222 >>223 お、ヒッキーじゃん。
釣られてやるよ。
>そしてこの不毛な作業からも完全に手を引きます。
>歴史学とはやはり後ろ向きの学問であり
>のめりこむものではないと思います。趣味程度で
>ちょろっと本読む程度で十分です。
相手にしてもらいたくてまた来たのか?
張り付いてないでなんか趣味でも持てw
やっぱヒッキーは、在日だったか
>>213 文法的に全く出鱈目で文章になっていません。
今まで誰も、邪馬台国を見つける事が出来なかったんだよね。 するとプラムさんの >邪馬壹國は、陳寿の創作この説も満更でも。 誰か本当の事教えて
229 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/11(金) 18:19:36
郡治とは郡の役所のあるところだそうで、現日本では県庁所在地にあたるでしょう。 会稽郡治は現コウ州市の東南50kmの紹興の地だとおもいます。
230 :
名無しSATURN ◆yagi3nMXmk :2005/11/11(金) 18:51:37
>>229 スレ違いですみません。
サガミハラハラさん、ご指定の郵送先に切手1500円分を同封した封筒、
「宛先不明」とスタンプ押されて帰ってきました(涙)
もう一度送ってみますので、また宜しくお願いいたします。
231 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/11/11(金) 19:01:36
>>230 〒229−1134
神奈川県相模原市下九沢1668−19
後藤幸彦
です。
>>231 サガミハラハラさん、
やはりこちらの記入が違っておりました。
誠に申し訳ありません。
>>229 何故に取って付けたようにピンポイントの地名が出てくるのか意味不明だと思います。
ここは定説の通りに「冶」の書き間違い(いつ生じたかは不明)ということで何も問題ないでしょう。
>>233 >何も問題はない
問題ありだ
紹興本を覗くと、會稽東(治)としており、どう見ても(冶)には見えない
誤写した時期も解らないんだったら、発言を控える様に。
235 :
大和@名無使さん :2005/11/11(金) 21:43:58
>>213-229 サガミハラハラさん、代返頂きサンクス。何かを訊ね様と思っており
ましたが忘れてしまいました。許徐
>現コウ州市の東南50kmの紹興の地だとおもいます。
僭越ですが、
「紹興=山陰」その東に「旧上虞=莽に会稽」というのがあります(漢書3)
「東郡(山東省の西)、秦に置く。莽に治亭」。会稽(郡)東(郡)治(亭)
の東、即ち広がりを持つ東シナ海上の地域。誤写という推論より、読んで字の
如くではありませんか。これを元に描かれたのが[古今華夷区域揔要図1100年
頃成立・海野一隆氏]と想像する。扶桑・倭奴・蝦夷・琉球等が島状に描かれ
ている。
237 :
大和@名無使さん :2005/11/11(金) 23:07:06
>>236 さん
同じものでした。これは著作権に触れてませんか、心配です。
原図は801年(現存しない)のものがベースと著書にはあります。
>>237 別に金銭が発生する訳ではないので 心配いらないと思います。
ただ、これを引用し、有料著書を制作販売すれば、この限りではないでしょう。
たまたま迷い込んだド素人なんですが 奈良と大阪の県境辺りに在る大和川沿いの 亀ノ瀬って所は、昔は滝になってて モモソヒメ(卑弥呼?)が先導になって ガリガリ削って奈良盆地の水を抜いたって(箸墓伝説?) 話についてどなたかご存知ないですかね? 近くにある金山彦神社と龍田大社はその頃出来て その工事の後遺症かいまだに国が工事やったりしてる トコなんですが。
>>234 > 紹興本を覗くと、會稽東(治)としており、どう見ても(冶)には見えない
基本的な常識。
> 誤写した時期も解らないんだったら、発言を控える様に。
現存する最古のテキストがいつのどういう形式のものかも知らないような低レベルの者が
まことしやかなデタラメを並べないように。
>>235 > 「東郡(山東省の西)、秦に置く。莽に治亭」。会稽(郡)東(郡)治(亭)の東
「そういう風に称するのが常識だった」という根拠がいくつもあるならともかく、
先例が多いからといって「捏造」しないでください。
>>242 > 先例が多いからといって「捏造」しないでください。
↑
考古学では、という話。念のため
244 :
大和@名無使さん :2005/11/11(金) 23:55:53
>>244 無知なせいで「漢字の羅列」にしか見えないからといって、好き勝手に嘘読みするのは
「捏造」の類いでしょう。
>>240 >底レベル
あの版木、貴方の捏造品?今度は誤字しないでね
誤字した事は、本人(犯人)しか知り得ないからね
これで起訴出来ますな
本人しか知り得ない証言は、証拠になります。
247 :
大和@名無使さん :2005/11/12(土) 07:31:08
>>245 さん
八つ当たりではなかったんだ。
でも捏造は人聞き悪い、勝手読みにしていただけません。
248 :
日本@名無史さん :2005/11/12(土) 22:23:49
あの〜ぅ ここですか?次々にコテを追い出し、自由帳に開放したスレとは
そうですけど、何か?
250 :
日本@名無史さん :2005/11/13(日) 11:05:56
邪馬台国が九州にあると言えば、ウソを言ういうなといわれて、停止、 邪馬台国が奈良にあると言えば、ウソを書くなと言われて、停止状態なんです あるていどウソと妄想を認めてもらわないと、止まったきりで
今は妄想だらけなわけだが、何がいいたいのか (゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ?
252 :
日本@名無史さん :2005/11/13(日) 12:55:52
定説を追い掛けても行き場が無くなるのは何故でしょう? 教えてください。
>>252 それは、二言めには低レベルの連呼。
彼等は膣の中の細菌を探す事は得意だが、まだ自分の肉棒を使った事の無い
真性童貞野郎
彼等のチャチが入る段階で潮が引く
254 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/13(日) 15:56:24
プラム氏は、具体的に「邪馬台国」はどこにあったと考えてるんですか?
255 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/13(日) 16:38:09
久し振りのカキコです。
>>254 邪馬壹國=陳壽の創作
邪馬臺國=不彌の港は、邪馬臺管轄の港
まだピンポイント攻撃は不可能ですが、博多湾からそれほど離れた地域ではないと思う。
256 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/13(日) 16:54:29
プラム氏、もっと「倭人伝」を読んでください。
257 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/13(日) 16:58:49
>>256 安曇さん
もう暗記出来るほど読んでいますが!
258 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/13(日) 17:28:05
ならなぜ、邪馬台国=不彌国なんていう説が出るんですか?
エラク早く戻ってきたな・・・
260 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/13(日) 18:26:23
>>258 安曇さん
邪馬臺國=不彌國とはしていませんが、
とりあえず不彌の港と
それでは安曇さん。
不彌國とはどのような国でしょうか?
不彌國と邪馬臺國との相違は?
邪馬臺=不彌と、成り得ない理由は?
不彌≠邪馬臺國とは、単なる感覚だけでは?
261 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/13(日) 18:34:49
262 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/13(日) 18:44:42
この辺できっぱりと言っときます。 「魏志倭人伝」の中には、邪馬臺國への旅程は一切カキコしていないと、言うことです。
263 :
シバザクラ :2005/11/13(日) 19:48:08
つまり、東行フミ国にいたる。百里。で切れているということですか。
264 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/13(日) 20:23:38
265 :
ハツクニシラス伝説 ◆HCmIhYMlyc :2005/11/13(日) 21:33:31
皆さん、よく飽きもせず延々と・・
オマエモナー (´ー`)y─┛~~
素人考えだとは思うんですが、 古文書とにらめっこしてるじゃだけじゃ、 いたちごっこだと思うんですけど。 最悪、女系天皇容認から天皇制廃止までいって、 古墳が暴かれた結果、邪馬台国が生駒山の 隣にあったとか書いてある東日流外三郡誌や 日ユ同祖論が証明されたら、不謹慎とは思いますが 面白いとは思います。
268 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/13(日) 21:53:26
「自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」 つまり (戸数道里可) 対馬・壱岐・末盧・伊都・奴・不彌国 よって女王国とは、(奴・不彌)のどちらか この女王国以北に、水行二十日の投馬国や水行十日陸行一月の邪馬壹国を加えたら、 不彌国〜投馬国の間には、全く国などなく 不毛の土地が続くか、海が続くかになる 投馬国〜邪馬壹國の間も、同じだ そして、斯馬国〜奴国(女王境界)は、もっと遠方地 こんなので納得しているの? でも、ここにも邪馬臺國は出てこない。
269 :
日本@名無史さん :2005/11/14(月) 07:51:52
>>170 > (一大率は伊都管轄ですが)
あれ?見逃してたけど、一大率は伊都国管轄じゃないでしょ?
役所があっただけで。「治」ってそういう意味だよね。
>>269 さん
これは、こちらのミスです。
確かに「伊都管轄」と、カキコしています 気が付きませんでした。
「伊都に、役所があった。」と、書くべき所でした。
気付いてくれて感謝です。以後、注意しカキコしますので
272 :
日本@名無史さん :2005/11/14(月) 19:14:15
↑倭人伝は魏書と晋書だけです。
273 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/14(月) 21:10:35
カキコ (魏略:魏書) 始「度」一海千(書だけ:餘)里至對馬國 (魏略) 南「度」海至一支國 (魏書) 又南「渡」一海……至一大國 (魏略) 又「度」海千里至末盧國(魏書) 又「渡」一海千餘里至末盧國 魏書では、「度」と「渡」を使い分けている
274 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/14(月) 21:34:15
「女王國と女王」 「邪馬臺國と邪馬壹國」 「奴國と奴國」 倭奴國……倭國之極南也界 こうカキコすればスッキリと纏まる! 邪馬臺國=女王國=奴國 邪馬壹國=女王 =奴國(極南界)
275 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/14(月) 22:16:08
邪馬壹國=邪馬壹國に都する女王=最後の奴國 これらは全て架空です。 《実在するのは、》 邪馬臺國(後漢書)=邪馬臺國に都する女王=奴國(伊都國より東南百里、二萬餘戸?) AD57年の「倭奴国」は後に、(邪馬臺國と狗奴國)に別れた。
276 :
日本@名無史さん :2005/11/14(月) 22:50:35
>>271 まさに読みたいと思っていたものだ
ありがとん
『北史』倭国伝 夷人不知里數、但計以日。 東夷の夷人は里数(距離計算)を知らない、ただ要した日程で計っている
『北史』倭国伝 その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程、 各々が海に至る。その地形は東が高く西が低い。邪摩堆ia ma toiで暮らす、 魏志に則れば、言うところの邪馬臺ia ma taiである。
280 :
日本@名無史さん :2005/11/15(火) 17:15:34
顕慶四年(659年)に、「北史」「南史」ともに完成 この年代なら日本書紀の方が詳しくわかるだろう。 それにしても、えらく新しい史料持ち出したな
281 :
日本@名無史さん :2005/11/15(火) 19:18:39
邪馬台国から只今帰国しましたよ〜 何か聞きたいことある?
282 :
日本@名無史さん :2005/11/15(火) 19:24:57
283 :
日本@名無史さん :2005/11/15(火) 20:11:03
284 :
日本@名無史さん :2005/11/15(火) 20:40:44
↑ すんごく イカ 臭かったよ。
285 :
日本@名無史さん :2005/11/15(火) 21:53:47
邪馬台国ネタは打ち止めですか?
286 :
日本@名無史さん :2005/11/16(水) 00:20:12
機内説は方角を無視している。九州説は水行陸行の計算方法を変えている。委鬼志イ委人イ云の通りだと邪馬台国は沖縄の海の上になってしまうからだ。 数万年前、日本は大陸と陸続きだった事は有名だ。日本列島が徐々に水没したのなら2000年前に現在の海底の一部が陸地でも不思議はない。与那国島等にある沖縄の海底遺跡が邪馬台国だった可能性はないだろうか? 委鬼志によると邪馬台国の人々は体に入れ墨をしていたというが、入れ墨は南方系の文化だ。アイヌも入れ墨をするらしいが、アイヌと琉球人は元々同じ民族(縄文人)という説がある。
287 :
日本@名無史さん :2005/11/16(水) 01:01:59
↑ 残念だがそれは無いんだな。
偽書、韓伝に、洲古が馬韓国の西にあったとかかれている。 実際は西に島はない。これはチェジュ島といわれているが、南にある。 邦楽が倭人伝以前に45度かわっていた
289 :
日本@名無史さん :2005/11/18(金) 04:11:37
うひょ?
290 :
三角@名無史さん :2005/11/18(金) 18:10:33
プラムさんってすごい観察力があるのですね。37,38は、すごい。 奴国が1つだと証明したようなものだ。今、三国志しかないので、後漢書 は、みてないけど。魏書では2つともに抜けたのかな?みなさんも 追認しましょう。奴国が1つだと、邪馬台国論争簡単になる。
291 :
シバキザクラ :2005/11/18(金) 19:26:03
奴国は二つありますよ。一つは肥前山口.もう一つは筑後山門です。 委奴国はイト国です。奴国ではありません.
292 :
日本@名無史さん :2005/11/18(金) 19:34:59
293 :
日本@名無史さん :2005/11/18(金) 19:47:56
邪馬台国=瀬戸内王権・中国地方本拠・北九州も勢力下=毛利家型王権 狗奴国=畿内王権・大和盆地南部本拠・濃尾平野も勢力下=織田家型王権 これで、ガチじゃね〜のか? 日本は農耕社会下では一定して 関東王権、畿内・濃尾王権、中国・北九州の瀬戸内王権 の3大勢力が並立する傾向が強い。 古代から近世まで、その傾向はそれほど変化が無いように思う。
294 :
日本@名無史さん :2005/11/18(金) 19:50:17
中世の中国の使節が 日本国王だと思って交易した日本の勢力は 大内氏だったり毛利氏だったりするわけで。 ともに、中国地方・瀬戸内を本拠に 北九州にも侵攻・勢力圏においていた。 おそらく、古代の3世紀も、これと同じ状態のように思う。
295 :
日本@名無史さん :2005/11/18(金) 20:45:28
抽象的杉だから却下
296 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/18(金) 23:06:19
297 :
三角@名無史さん :2005/11/18(金) 23:29:08
シバキザクラさん 2つ書いてあるから、2つあった。当然の解釈ですね。 説明いらないと思うのですが、同時に同じ国名が存在するかの疑問も。 その答えが37,38にありそうですが。 292さん、プラムさん 後漢書ありがとうございます。国名はなく、 数だけなのですね。私の、中華書局版三国志では、もれて追加してる みたい。他の三国志からかな?後漢書ではないのですね。もう1度 そのHPで魏書みてみます。
298 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 00:03:31
何故、女王卑弥呼の時代の後の約100年間、 中国との公の関係が断絶したかというのが興味深い。 もし、邪馬台国がその後も継続していたら こんなことは有り得ないはずだ。 つまり、その後の日本の政治状況が中国を嫌っていた可能性が高い。 この場合、邪馬台国を支援していた魏を嫌う国といえば 邪馬台国と絶えず戦闘を繰り返していた「狗奴国」 ちょうど、卑弥呼よりも少し後ぐらいに 崇神天皇が吉備や出雲を制圧して、四道を置いたという記述がある。
299 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 00:42:32
卑弥呼が死んだあと、しばらくして西部九州勢力が実権を握る。 極東は、半島鉄の取り合い合戦になり、軍国主義の時代が始まって、 呪術的政治から、軍事的政治の時代に突入したのだ。 北部九州の勢力(ニニギ〜卑弥呼ら排出)は次第に重んじられなくなった。
>>298 魏はAD265年に滅びます。
続く晋も304年に中原を追われます。
晋が領域を山東付近まで回復するのが400年代初頭。
その間、華北では、北方系の前秦が40年間ほど統一支配した以外は、
漢人系北方系入り乱れての小国が分立する動乱期です。
いわゆる五胡十六国時代、この時代をカバーする中国の正史は晋書がありますが、
史料的価値は低いものです。
【晋書倭人伝】
倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。
舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。
男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。
昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。
計其道里、當會稽東冶之東。其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。
婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。
其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。
有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣迎之。
死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。
其舉大事、輒灼骨以占吉凶。不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。
國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。
舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。
及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
301 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 01:11:14
どうみても思考回路が単純、よって298は煽りの類と捉えるべき。
302 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 01:20:48
まあ、崇神の年代を信じちゃってる時点で>298はアウト。
303 :
本田 :2005/11/19(土) 03:00:27
>>300 > いわゆる五胡十六国時代、この時代をカバーする中国の正史は晋書がありますが、
> 史料的価値は低いものです。
いや、卑弥呼が遼東半島の公孫氏だと云ってるところの史料価値は高い。
>漢末、倭人亂、攻伐不定。
>乃立女子爲王、名曰卑彌呼。
> 宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。
304 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 03:05:44
そこへ高坂昌信がやってきて曰く 「我が主君武田大膳大夫がここにお泊まりになられる。さあ、野次馬は帰った帰った」
305 :
:2005/11/19(土) 10:00:01
公孫氏という出地を隠すために歴史から消された可能性もあるな
306 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 12:05:21
↑んな可能性なんかある訳無いだろ(w
邪馬台国が、どこにあるか? ってどういう意味があるの? どこでもいいんじゃないか? あんまり日本や日本史に関係ない事じゃないか? 観光客誘致や単なる興味はべつとして
308 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 13:02:14
じゃ来るな
関係ないが、ヒミコの人物像ってどんな感じだったんだろうか? 同じ奈良の人間、且つ神懸り的な人物像 といえば、ミヨコ(引越オバサン)的な人物 が思い浮かばれる。
310 :
:2005/11/19(土) 17:40:46
卑弥呼の後にトヨが選ばれたのは卑弥呼が偉大だったからだろ。
311 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 17:43:37
卑弥呼の本命一番人気はモモソヒメで1.5倍ってとこだろ
312 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 17:47:57
じゃあ対抗はみかよりひめで3倍ってとこだろう
313 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 17:53:33
↑ んな訳ないだろ。
314 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 17:56:56
卑弥呼はいなかったに1点買いで100ニダー
315 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 17:58:57
そこへ高坂昌信がやってきて曰く 「我が主君武田大膳大夫がここにお泊まりになられる。さあ、野次馬は帰った帰った」
邪馬台国があった場所は現在の国で言うと日本じゃないに100万デジコ。
317 :
日本@名無史さん :2005/11/19(土) 19:26:04
じゃ俺は、1000万ザーメン
>>298 > 中国との公の関係が断絶したかというのが興味深い。
中国の状況を見れば一目瞭然。
> その後の日本の政治状況が中国を嫌っていた可能性が高い。
単に朝貢と称する貿易に出向いても意味がないからで、嫌うとか嫌わないとかいうレベルではない。
321 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 12:27:37
邪馬台国畿内説を採っている方々、誰か以下の国を何処に比定したら良いか、 教えていただけませんか。彌奴(みな)國は美濃の可能性が高いと思いますが、 他の4国がどうしても想定できないのです。 次に都支(たき)國有り。次に彌奴(みな)國有り。次に好古都(こかた)國有り。 次に不呼(ほこ)國有り。次に姐奴(つな)國有り。
322 :
日本@名無史さん :2005/11/21(月) 12:33:43
それは、もともとに無理があります。この場合の国とは、 律令制下で言う郡、つまり大化前代の国造くらいの領域です。 例えばコユ國は日向國児湯郡です。
323 :
日本@名無史さん :2005/11/21(月) 12:47:24
九州説では、郡くらいにおさまりますが、近畿説ではかなり広範囲にしないとおさまりません。 ところがそうすると、全ての範囲に国がはいらず、あちこちに空白地域ができてしまうという、 お笑いの世界になります。
324 :
日本@名無史さん :2005/11/21(月) 13:08:06
空白範囲があって当然です。領域支配なんて遙か後代の話です。 当時は人的支配を中心とした、いわば点の支配です。せいぜい 線です。面的支配ではありません。拠点だけ押さえていればいいのです。 その拠点地名は令制国名よりも、令制郡名、場合によっては 郷村名と一致するほうが遙かに多いとすべきでしょう。 そもそも令制国名が当時あったのか、後の令制国としてのまとまりが すでに存在していたのかは、甚だ疑問だと思います。 雄略の上表文の国数を見ても、その感を強くします。
325 :
日本@名無史さん :2005/11/21(月) 13:35:16
海中に沈んだ都市じゃねーの。魏志倭人伝の記述通りの海中とか捜索したらいいやん。 ムー大陸だったりして
326 :
日本@名無史さん :2005/11/21(月) 14:19:28
邪悪の邪 とか 奴隷の奴 とか 卑怯の卑 とか、 失礼な命名ですよね
327 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 15:59:42
>>323 色々問題あるかも知れませんが、畿内説の場合のヒントだけでも
知りたいのです。たとえば、こんな具合に
↓
巴利(はり=播磨)→支惟(きい=吉備)→烏奴(あな=穴)→奴(な=筑紫)
御承知のように、長門の昔の名は穴門です。あと安芸は穴城だと仮定します。
すると、穴=(安芸+周防+長門)
一方、吉備=(備前+備中+備後+美作) それ故、
播磨→(備前+備中+備後)→(安芸+周防+長門)→筑紫 となって
播磨から筑紫までが、連続して全て埋まることになります。
全ての国名について、このようにして行きたいのです。
328 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 18:15:18
>>327 次に対蘇(つさ)國あり。次に蘇奴(さな)國有り。
次に呼邑(こお)國有り。次に華奴蘇奴(かなさな)國有り。
の場合、対蘇(つさ=土佐)、蘇奴(さな=讃岐)と考えると、あとの2国は
四国内の国と推定出来ます。華奴蘇奴=金讃岐とすれば、別子銅山を有する
伊予国になります。呼邑(こお)が 何故、阿波国か分かりませんが推定は
出来ます。
でも、
>>321 の国はどうしても比定出来ない。
329 :
太 :2005/11/21(月) 19:28:22
無理な字のあて方だな。僕も他のことでは冗談等ではよくやることだが・・・。
330 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 19:43:38
331 :
太 :2005/11/21(月) 19:46:05
まあそれもおおいに結構だ。とにかく女王国は九州にあったのだよ。w
332 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 20:07:57
>>331 邪馬台国畿内説を採っている方々に頼んでいるのです。
九州説の人には及びでない。Ww
333 :
太 :2005/11/21(月) 20:21:20
あったのは邪馬壹國。邪馬台国というのはなかったわけさ。w
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、
不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、
次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、
次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、
次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、
次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
余傍21ヶ国の読み(上古音)
斯馬 sieg-mag 已百支 di(e)g-pa[v]k-kieg 伊邪 i(e)[v]r-(g)ia[v]g
都支 tag-kieg 彌奴 mie[v]r-nag 好古都 hog-kag-tag
不呼 piu(e)g-hag 姐奴 tsia[v]g-nag 對蘇 tu(e)d-sag
蘇奴 sag-nag 呼邑 hag-i(e)p 華奴蘇奴 (h)ua[v]g-nag-sag-nag
鬼 kiu(e)r 爲吾 (h)iuar-(g)ag 鬼奴 kiu(e)r-nag
邪馬 (g)ia[v]g-mar 躬臣 kio(g)-ghien 巴利 pa[v]g-lied
支惟 kieg-diu[e]r 烏奴 ag-nag
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/wajin.html
女王国をもって北は、あらまし記載できるが、そのたの国はってことは、女王国の北にないってことだろ。 だから播磨などはあてはまらないとおもう。 それに順序良くかかれたものだとおもう。 名国の次がクナ国は確かだとおもうけど
336 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 20:34:43
好古都 hog-kag-tag を博多とするひとがいるが、奴国の人口から北九州のかなりの土地が網羅されてるだろうに、 小さい都市名が国のなまえにはなりにくいだろう
338 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/21(月) 21:53:34
>>337 私もそう思うよ!
奴國は、小さな都市国家ではなく、周りの国と比べてもかなり広い範囲の地域ではないでしょうか
その証拠に、
「東南至奴國百里」と書いてある
伊邪を伊予と考えたら? 不呼 piu(e)g-hag を肥後か日向で
340 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 22:43:26
>>339 私もそのことは考えました。しかし、それでは前後の国家に四国に相当する
国はありません。古代人も現在の人が県名を挙げる時と同様、数える時は、
隣接した国家順に国名を挙げたと思います。
次に斯馬(しま)國有り。次に己百支(じはき)國有り。次に伊邪(いや)國有り。
ですが、斯馬(しま)=志摩、己百支(じはき)=???、伊邪(いや)=伊那
又は伊勢の誤記が一番最もらしいのではないでしょうか。
すると、己百支(じはき)=尾張 が候補として上がります。
341 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 22:50:59
>>339 すみませんが、>340は伊邪についてのみの言及です。
不呼については、いずれ述べたいと思います。
342 :
シバキザクラ :2005/11/21(月) 22:52:43
好古都国(ハカタ)は、香椎の宮辺りを』中心とする有力国です。 ハカタの港はその南の端のほうにあります。地名が端っこに残る例は江戸の地名が東はずれに 江戸川としてのこっています。
343 :
俺等05772 :2005/11/21(月) 22:58:39
>>342 ありがとう御座います。参考としてコピーして置きます。
344 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 03:26:12
沖縄の海中に沈んだ遺跡って邪馬台国?
奴国、伊都国に明らかなように、後世の国名がつくとは考えがたい。 志摩国は妥当だと思う。壱岐・対馬同様、2郡の下國だし(もとは一郡)。 己百支は伊吹。この地方が古くからのヤマト朝廷の直轄領で、 天武の湯沐の可能性が高いことは、最近の田島氏の研究に詳しい。 >全ての国名について、このようにして行きたいのです。 先に結論ありきは、資料を読む際に絶対やってはいけないことです。 自分の考えに引きつけるために史料をねじ曲げてはいけません。 先入観無く、無心に、素直に読まなくてはいけません。
346 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 07:11:39
347 :
太 :2005/11/22(火) 08:31:25
ひとつの方法だとしても、まあ失敗の道だね。 ところで、女王国は九州にあった。しかもだ。邪馬台国ではない。邪馬壹國が正。 近隣の畿内にあればどんどん記紀に卑弥呼と天皇、大和朝廷との交流が記載され、朝貢、 住民の風俗等もかなり載っていることになる。それがまるでといってよいほどない。 当然だよ。女王国が九州にあったからだ。
348 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 09:05:25
>>347 まだ、邪馬壹國かよ。古田武彦はもう時代遅れだよ。
同じ九州説なら、安本美典に乗り換えたらどう?
349 :
太 :2005/11/22(火) 09:35:04
まだ分からんのか?邪馬壹國が時代遅れでない当時にあって、時代遅れが現代だと したら邪馬台国に変わるわけか?笑止千万。www
350 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 10:12:42
↑真正単純バカ(w
351 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 11:27:08
>>349 時代遅れの意味が分からんとはなあ。流行遅れとは違うぜ。
初め魅力的な説に見えても、皆さんから色々欠点を指摘されて、
段々、化けの皮が剥がれて来たってことを言ってんの。
352 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 12:30:55
邪馬台国の場所を確定する魏志倭人伝のキーワード 邪馬台国九州説の方、「真珠、青玉を産し、山には丹有り」を説明して! 畿内説ならいくらでも、説明できるぜ。W
353 :
太 :2005/11/22(火) 13:02:04
なにをおかしなことを抜かしてるんだろう。九州にも少なくても産する。女王国が 記紀に記述がないのに畿内にあるわけがない。当時は九州と畿内は非常に遠隔であった。 今なら航空機、新幹線で遠隔の感は少ないが、そのころはそうは行かない。 情報が極めて少ないから記紀に記述ができにくかったわけだよ。それをだ 女王国を記紀の編者が隠匿したなどと推理小説のようなことを言っている。 事実を考察すれば、隠匿などするわけがない。不利な武烈天皇の横暴さをもちゃんと 記述に残している。女王国は九州にあったんだよ。
354 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 13:36:30
>>353 九州説の場合、具体的に「青玉」って、何を意味し、何処で採れるの?
きちんと説明してね。
355 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 14:12:10
>>353 記紀は、九州王朝のことは抹殺したかったんじゃないんですか?
あるいは九州王朝のことを部分的に我がことのように記したのかなと思ってましたが、違うのかな。
356 :
↑ :2005/11/22(火) 15:36:02
ココの通説では、まさしくその通り。
357 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 15:48:57
記紀と言っても乞食と日本食器とでは、同じような神話を 扱っていながら、全体を貫く世界像はまったくべつものだよ。 例えば乞食は中国については触れておらず仏教を語ることも無い 聖徳太子は名前だけで功績なんて何一つ書きとめてない。
358 :
太 :2005/11/22(火) 15:49:43
>354 そんなことをいうなら、畿内説の君はどうして太古の九州にだ、絶対に採れない という断定の理屈を説明したらどうだな?そんなに九州のすみずみすみずみまで 尻毛が抜くくらいに見てきたのか?この前の話では断定は早計過ぎる。
359 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 15:52:01
乞食について当時の人間が自分たちの世界観をどのように語ろうとしたのかを 考えながら読むと面白い、外来の文化に対抗する意識が働いていたであろうことが バカでもわかる。
卑弥呼が誰のまえに、その前の大乱と、トヨまでちゃんと記紀で説明つくの?
361 :
太 :2005/11/22(火) 16:11:58
>>357 それはわからんぞ?「西の方に国あり・・・」とあるしね。
仏教がないと言っているが、それはこういうわけだ。
古神道は菊花が象徴の花だ。天皇の紋章がこれなのは強く古神道と関わりあるからだ。
菊花は通常だと十六弁であり、象徴的に各代の天皇が1弁ずつの対応となるのだ。
その菊花のデラックス形が三十二弁の菊花座なのだ。それで十六代の仁徳天皇で代数
どおり16弁を各天皇が占める。そして17代履中天皇で菊花の中央を占める。その為
に履中という御名がついているのだ。その後残り16弁を反正から33代の古事記最後
の推古が即位して 16+1+16=33 の等式のとおり32弁菊花紋章が構成される。
それを黙示すれため古事記は33代推古で終結するのだ。だから蓮台の佛座は8弁にて
34代の舒明以降に話をもっていかれる構成なのだ。要は古事記は菊花強調のため蓮台
の仏教関係は記述後回しとしているのだ。無記述とはいってもそれを放置せず、次の
日本書紀で記載を行ってその欠の補填を行っているのだ。だから仏教が記に載って
なくても紀がカバーするのでどうっていうことはないんだよ。
362 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 16:25:14
>>361 少なくとも「古事記」が語ろうとしたのは
外国からの文化とは別のところにあった
自分たち元来の世界感だろうな。
>>紀がカバーするので
記紀を別個にしないで一気に編纂すれる方が合理的だと風雨に思わない?
説明ヨロ。
363 :
太 :2005/11/22(火) 16:31:38
神仏混交になるので、それは避けられるべし。 〜だとしたのさ。 外来神との区分をし、一線を入れているわけだ。それが緩和されたのが紀のほう。 神仏習合はあとでの方策さ。
364 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 16:45:10
>>363 外来文化に対し一線を隔す
あるいは対抗する、も
表現の仕方が違うだけで、神仏の区別化つまりは
古事記において仏教も含めた反外来そのものは、漏れの反復だよ。
365 :
太 :2005/11/22(火) 16:50:12
意味がよくわからんね? とにかく混ぜ物なしの古神道としたいわけさ。
366 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 16:54:33
神聖で尊いものを守るために 都合が悪い事実は改竄歪曲した可能性は大だな
367 :
太 :2005/11/22(火) 16:56:48
都合の悪いこととはどんなことか?
368 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 16:58:18
神話にしたのは何故だ?
369 :
太 :2005/11/22(火) 17:00:10
だれが神話にしたんだ?太安萬侶が記の前文で「神話だ」とか言っているのか?
370 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 17:00:22
大昔のことだからおぼろげにしか把握できない よって暈し入れて神話にしたってか?哂うよ
371 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 17:06:59
記紀は事実を散りばめた神話だよ
372 :
太 :2005/11/22(火) 17:08:35
PuPu !w そんなことまで明瞭とできるならば、大昔から難事件は全部解決さ。 浜のまさごは・・・・・。w ぼけざるを得なくても太安萬侶の責任になるか。 もっと易しい文字を使え。漢字の学のあるのはよう分かった。
373 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 17:13:28
稲羽の素兎が事実ならそれこそコミックだなw
374 :
太 :2005/11/22(火) 17:16:03
浅野和三郎は古事記は預言書だと主張していたから、何かの啓示かも知れぬ。
375 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 17:22:51
>>358 つまり、九州説では具体的に「青玉」の種類さえ想定できず、何処で採れる
可能性があるということも判らんということだ。おそまつー!W
仮に「青玉」が勾玉で使われる硬質ヒスイの場合、産地は世界中でミャンマー
と日本の糸魚川近傍以外は無い。
随書 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として 倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、 南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に 在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また 東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以 て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余 国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。 これらの地名はわかりますか?
377 :
太 :2005/11/22(火) 17:31:30
それは今の話だろうが。君は「女王国は現代にあった」と言っているのと同類に近い。 太古の当時の採掘がしっかり想定できるのか?尻毛を抜く位九州を闊歩調査したのか? 江戸時代は刀をさしているのが多数いた。今はそうではない。 断定なんぞ時代錯誤の論だ。 それでも今に絞るのか?ならば日本でにしき蛇や蠍、ガラパコスも捕れるぞ。w
378 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 17:33:27
>>321 しつこいようですが、畿内説の方、誰か教えて下さい。
>>339 不呼を肥後か日向にすると、狗奴国内になっちゃうんで (>_<)
狗奴がクマソで確定するんですか? 日向なら大丈夫だとおもいますが
380 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 17:47:40
>>377 地質学的に硬質ヒスイの場合、産地は世界中でミャンマーと日本の
糸魚川近傍以外は採れない。つまり、過去にも採れない。
だから、九州説で「青玉」産出を主張するなら、他の玉を考えねば
ならない。さあ答えて!
381 :
太 :2005/11/22(火) 17:52:59
PuPu ! 単純だよ。結論が・・・。青とは言っているが緑色だったかもしれぬし、 かなり薄い青で空色かそれ以上にうすい空色を青だと記述したのかもしれぬ。 他ので聞いたが馬邪文明では青も緑も同一文字で使っているそうだ。 青玉即畿内説正解は成り立たない。
他の地方から買ったとしても、青球を産するになるだろう。同じ倭だから。 着ないに鉄が出なくても、九州にあるからOKってことなんだろ?
383 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 18:06:27
>>380 >硬質翡翠の産地は世界中でミャンマーと日本の糸魚川
そのことは解った。
では、ミャンマーの何処かね?産出場所は?
384 :
太 :2005/11/22(火) 19:04:09
>>380 >ミャンマーと日本の糸魚川近傍以外採れない
そうすると馬邪文明の聖地パレンケの碑銘の神殿出土の王のヒスイの仮面は硬質で
ない石なんだね?双方の場所からほど遠いからねぇ。でも少し勉強ななったな。
ところで、倭人伝のその青石は何で硬質のだとわかったのかい?
斯馬 sieg-mag 已百支 di(e)g-pa[v]k-kieg 伊邪 i(e)[v]r-(g)ia[v]g 都支 tag-kieg 彌奴 mie[v]r-nag 志摩、伊吹、伊賀、多気、美嚢 などが推定できるが、 そうすると、鬼を紀伊とは出来ないってことか?場所が近いのに別々に書かれてるから
386 :
太 :2005/11/22(火) 19:16:47
地名をあてて行くのも、場合によっては成功もあるだろうが、 それだけではまずい。だいたい畿内説が正解ならば、魏志倭人伝の記述の中に 歴代の当時相当の天皇の記事となりふり等があるはずだ。 それがまったく無いとすれば、九州説が正であることは自然にうなづくに至る。
387 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 19:27:27
九州説は所詮、傍流の説に過ぎない。
388 :
太 :2005/11/22(火) 19:31:41
傍流が正解とは面白い。臥海は早急に九州説に固定しないと後で大恥を かくことになるだろう。w 畿内に卑弥呼はいなかったんだよ。w いたなら、記紀に近隣にいます天皇と卑弥呼の交流記事が多数載る。
389 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 19:32:12
自演房乙
>>388 そのとおりまったく記録が残らないなんてありえない。
だから邪馬台国は日本にはなかったとしか思えません。
美嚢とか志摩とかの順番でいきなり土佐にいくのはおかしくないのか?
392 :
太 :2005/11/22(火) 19:40:21
倭人伝に「倭」とある以上外国は望みない。
倭人伝を記した人が実際に倭人の住む土地へ行かされた人かは知らんが、 少なくとも情熱的に現地をリポートする姿勢を見せてないのは明らかだよな。 ずっと酒と女をあてがわれてたんだろ、(たぶん)この下級役人は。 それが倭人の目的で、倭人は「倭人の国は実にしっかりと存在して、中国の使者をしっかり 迎え入れ歓待した」という 事実が欲しかったし、それ以外の「事実」は教えたくなかったんじゃないの。 地理を推理する上で、肝心のポイントがことごとくうやむやなのはそういう政治的作為が倭人により 企まれていたため、で、よいでしょう? 始皇帝のころからなんだかいい国で、地理も明確じゃあんた、 あっというまに植民地 ですからね。 で、ヤマト国は進んだ距離だけで判断してよい。はい、近畿地方。 何が文句あんだ。バカ共。
倭では使われていない、もしくは食用とされていない植物などもあげてるから、 ある程度の観察はされているだろう。 「倭人はこれらの植物のうまさを知らない」など、 山にはいるかして、調べたんじゃない?
395 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 20:09:54
>>388 >傍流が正解とは面白い。
と、思っているのは、
ほんの一部の機知外と、
お前だけ。
次有不呼國、 日向 次有姐奴國、? 次有對蘇國、土佐 次有蘇奴國、讃岐 次有呼邑國、 ? 次有華奴蘇奴國、? 次有鬼國、 紀伊 次有爲吾國、 ? 次有鬼奴國、 ? 次有邪馬國、 邪馬台国 次有躬臣國、 ? 次有巴利國、 播磨 次有支惟國、 吉備 次有烏奴國、 安芸 こうかんがえていけば、日向から回転するように奴国いけることを発見しました。 だから美濃・志摩は不正解です
397 :
太 :2005/11/22(火) 20:18:51
>>395 「面白い」を除けば俺の言い出した言葉ではない。
>>387 だ。
お前さん(一部の×××と俺)以外者は「面白くない」というわけか?
どうしてそれが分かる。世界中のIT者の意見を聴いたのか?
PUPU! どうして超大量の意見が君に知れたのか?www
398 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 20:49:42
399 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 21:36:00
>>398 倭人伝には青玉の事は書いてあるが、産出云々の記事を見出だす事が出来ないぞ
三世紀当時国内交易が活発に行われていたことは、出土品を見れば一目瞭然
別に産出地でなくても、九州に翡翠が有っても不思議ではない。
中国から見れば
関係無い話し。
400 :
俺等05772 :2005/11/22(火) 22:06:41
>>396 サンキュウ
次に斯馬(しま)國有り。 志摩国
次に己百支(じはき)國有り。 (尾張国)←前後の関係より推定
次に伊邪(いや)國有り。 伊那又は伊勢国
次に都支(たき)國有り。 ??? ←前後の関係より推定出来ないか?
次に彌奴(みな)國有り。 美濃国
次に好古都(こかた)國有り。 ???
次に不呼(ほこ)國有り。 ???
次に姐奴(つな)國有り。 敦賀国
−−−−−−−−−−−−
次に対蘇(つさ)國あり。 土佐国
次に蘇奴(さな)國有り。 讃岐国
次に呼邑(こお)國有り。 (阿波国)←前後の関係より推定
次に華奴蘇奴(かなさな)國有り。 金讃岐国←伊予国
−−−−−−−−−−−
次に鬼(き)國有り。 紀伊国
次に為吾(いが)國有り。 伊賀国
次に鬼奴(きな)國有り。 (近江又は畿内諸国)
次に邪馬(やま)國有り。 山城国
次に躬臣(こじ)國有り。 越国
−−−−−−−−−−−−
次に巴利(はり)國有り。 播磨国
次に支惟(きい)國有り。 吉備国
次に烏奴(あな)國有り。 穴国=安芸+周防+穴門
次に奴(な)國有り。 筑紫国
此れ女王の境界の尽くる所なり。その南(ここはそのまま南)に
狗奴国有り。 建日向日豊久士比泥別=日向国・肥国・豊国の一部・阿蘇山を含む国
>>400 http://www.bensey.co.jp/book/1398.html 「倭人語」の解読 安本美典 著
>1 「蘇奴国」を解読する
>すべての「倭人語」が「万葉仮名の読み方」で読める/国名は「奴」の字のつくものが多い/「倭人語」の「奴」は、助詞の「の」の意味の「な」/
>「蘇奴国」は、「佐嘉(賀)郡」の地/ひとつの国名の解読は、連鎖反応をおこす/伊勢の国「佐那那県」も候補たりうる/
『魏志倭人伝』の国の大きさ/「蘇奴国」のその他の候補地/「末尾子音活用の読法」について/音をおぎなわなければ読めない/
「対馬国」が、上古音で読める!/「子音重複の表記法」について
>2 「好古都国」を解読する
>「倭人語」に、「h音」はあったか/「好古都国」は「岡田国」/京都府相楽郡にも、「岡田」はある
著者は九州説だけど参考になるんじゃね?
402 :
日本@名無史さん :2005/11/22(火) 22:34:48
青玉ジャスパーなんか各地で採れるだろうが。 糸魚川ヒスイも九州王朝の勢力下だし。
403 :
大和@名無史さん :2005/11/22(火) 22:45:20
>>400 俺等さん、素朴な疑問です。
これらの地が『遠絶不可得詳』の地なのですか?。
畿内大和を邪馬台国とした場合、通過地域、若しくは隣接する地域をお考え
のようですが『遠絶不可得詳』とのあいだに齟齬を生じませんか?。
ご指摘のクニグニは共立国よりもっと濃密な関りが疑われる地域を含んでい
るように思われます。「俺等さん」にとって『遠絶不可得詳』の地はどのよ
うな地とお考えなのでしょうか。ご教示いただければありがたいです。
404 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/22(火) 23:31:33
大和さんお久しぶりです。 「其餘旁國遠絶」も、気になりますが 「丗有王皆統属女王國」や「狗古智卑狗不属女王」がもっと気になります。 狗奴國は、三十国の内の一つでしょうかね?
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳 詳細を得ることができないのは戸数、距離のことだろう。
已百支だったら伊吹、伊吹山周辺があるが、 都支は多気とか でも、いきなり中部から四国にいくのはおかしい。 島原あたりから、水俣ミナをこえて日向へいくほうが連続性がある
水俣ー彌奴 鹿児島?−好古都 日向ー不呼piug-hag
408 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 01:47:21
>>401 んなもん参考にならん。
そいつは機知外中でも筆頭格だぞ。
「「倭人語」の「奴」は、助詞の「の」の意味の「な」」
なんて言ってる時点で、機知外オオバカである事が明白。
409 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 02:15:32
古田武彦に安本美典が近寄ってきて、 「俺と組んで古代史学会に嵐を起こさないか?」 と誘ったそうだ。 古田が「学問は、組むとか組まないという問題ではない」と断ると 突然、古田攻撃を始めて、学会をにぎわせたそうだ。 なんでこれ(安本)が心理学の教授なんだ?
410 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 02:40:46
>>400 単に音が似てるってだけでは駄目だぞ。
甲類、乙類の分類があるものについては、
それらが一致してるかも調べないと。
411 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 03:02:58
>>406 イブキ・タキ。偶然とは思えんが。意外に合ってるんじゃ。
あるいはトキとか。
一般に「分かれて百余国」から「三十国」へと統合が進んだと
考えられてるがそうだろうか。百余国のうち、女王国に統属してたのが
30ということではないのか。相変わらず百余国だったのでは。
雄略上表文に出てくる数も合計百いくつだし、國造の数も百二、三十だし。
邪馬台国は公孫氏のことなど大陸情勢に詳しく、外交使節を送り
市を監督するなど、部分的には文書行政も進んでいたろう。
シャーマンだとか、とかく原始的なことが言われるが、実際は
かなり行政制度の進み整った国家だったのであり、上表文も作成したろう。
だとすれば国名表記も中国音にこだわらず、和風で考えればいいのではないか。
「已百支」が後世に見える「五百木(部)」という表記と似ているのは
偶然では無かろう。
412 :
俺等05772 :2005/11/23(水) 06:58:48
>>403 方向に関し、次のような仮定を設けます。
@ 魏の使いが比較的よく知っている倭国内については、方向を45°変え東→南とした。
A 魏の使いが不案内な倭国内については、倭人から聞いた方向をそのまま記した。
@については伊都國から邪馬台国までが適応され、戸数・距離まで判る。
>>405 に同意。
Aには狗奴国、女王国の東諸国、渡海千里余の国、小人国、裸国・黒歯国が適用される。
『遠絶不可得詳』の地は女王国より東の諸国でしょう。渡海千里余の国は 関東の国で、
昔は箱根越えが出来なかったので、船で行くしか無かった。小人国は八丈島。
私の予想では、例え邪馬台国に属する全ての国々が比定出来ても、山陰8ケ国は、出雲
【投馬(づま=出雲)】を除いて、空白地域になると思います。すなわち、石見、出雲、
伯耆、因幡、但馬、丹後+丹波、若狭 は邪馬台国の統属国ではない。かと言って敵国
でもない。同じような国は九州の豊国もそうです。共立国はそのような国々と思います。
413 :
大和@名無史さん :2005/11/23(水) 07:59:50
プラムさん、おはようございます。久かた許徐。
まず、「使譯所通三十国」で「丗有王皆統属」の「丗」は三十になり得ない。
次に、「狗古智卑狗不属女王」の『狗古智卑狗』が『狗古智卑狗』として魏国
皇帝の認識が得られたのか。私見ですが、倭国・狗奴國は倭人の国として同時
平行に魏国の朝献國として存在していた。と考えております。
>>狗奴國は、三十国の内の一つでしょうかね?
魏国と通交している國としての認識はあったとしますので、当然三十国の一
つにしないと自説のあいだに齟齬を生じます。
>>405 さん。代返ありがとうございます。
『其餘旁國不可得詳』ならご指摘通りかと。原文には『遠絶』も使われてい
るので
>>405 さんの思考回路に『遠絶』も加味していただかないとね。でも、
著名人でも堂々と
>>400 さんのような比定地論を発表されておりますのでそれ
はそれで、学会内では通用する作業なのでしょうね。
414 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/23(水) 09:22:12
お久しぶりです・・・唐突に、
>>413 の前半部分に禿胴
415 :
鵺 ◆aV5RsggWb2 :2005/11/23(水) 09:48:42
もし狗奴国が「倭国」の人種・風俗と違う国だったら、簡単な「狗奴国伝」 を陳寿が書くと思います。
416 :
俺等05772 :2005/11/23(水) 10:19:34
>>376 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、
達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。
○羅國:済洲島。都斯麻國:対馬。一支國:壱岐。竹斯國:筑紫国。秦王國:中国語を話す国。
海路で畿内へ。途中、右に4国、左に6,7カ国あることを聞く。達於海岸:難波津着。
素直に読めばこんな処かな。 で、九州内になぜ秦王國があるかと言うことを知りたいの?
417 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/23(水) 10:20:58
知りたいです。詳細気盆です、はい。
ここでやるのはちょっとアレだが・・・許されよ。 前から疑問なのだが、 「其人同於華夏」 はどういう意味だろう? 「その人」とは誰なのか? これが秦王國の住人の全て、もしくは大半が中国系であるとすると、秦王國はさほど大きい国とは思われない。 それこそ一つないしは数個の集落遺跡ですんでしまう規模の可能性がある。 「その人」が秦王國のトップという住人のごく一部なら、秦王國は今の市町村から県レベルの大きさでもかまわないわけだが・・・・ どっちだろう?それによって秦王国をどう考えるかが大きく変わってくる。
秦王国は「秦氏」の治めていた国だった、というのはどうでしょう?
420 :
俺等05772 :2005/11/23(水) 10:44:54
421 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/23(水) 10:59:48
わかりますた 雄略の記事読み終わったらまた報告を
>>419 秦氏の本拠地は、京都太秦あたりですよ。
秦王國が九州と畿内をつなぐ航路上のにあるのは自明なので無理でしょう。
斯馬を五島列島にしてみたらどうか。 五島列島に伊福貴町というところがある。イフキだろうが、音写でいくとイプッキ 海をわたると伊王島がある。その東に高来郡。次に水俣。 順列的に完璧に近くなるんだけど。
424 :
本田 :2005/11/23(水) 14:02:24
>>419 > 秦王国は「秦氏」の治めていた国だった、というのはどうでしょう?
そうだと思う。
425 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 18:09:05
秦氏ってあの秦始皇帝の? バカな質問で・・許されよ。
426 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 18:41:32
違和感を感じる九州弁ってやっぱりあの辺だよな
427 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 18:48:25
>>408 >「「倭人語」の「奴」は、助詞の「の」の意味の「な」」
>なんて言ってる時点で
具体的にどこが間違っているの?
428 :
日本@名無史さん :2005/11/23(水) 19:25:46
そもそも「倭人語」ってなんなの?
429 :
三角@名無史さん :2005/11/23(水) 21:46:23
近畿説って、邪馬台国は、近畿で魏志の南を東にかえればいい。九州説は、 外基地ってては話は合わない。近畿説と九州説は、何処で別れるのかな? 九州説は、放射式だから伊都国からわかれるのかな? だったら、放射式が正しいか、連続式が正しいのか、論議すればいいのでは。 すくなくとも18になっても、まだ決着しないのは、いままででた候補地 や考えは、間違ってるとおもうけど。鏡は、あとでふれるとして、まず、 魏志で読むとどうなのかな?
430 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/23(水) 22:51:35
>>429 >魏志で読むとどうなのかなぁ
邪馬壹國は架空
だから何時まで経ってもエンドレスなのさ!
見つける可きは「後漢書」に登場する邪馬臺國或は、倭だよ
431 :
太 :2005/11/23(水) 22:55:58
???
432 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 06:01:41
>>429 九州説を採る者は権威に弱く、韓流ファンなんだよ。しかも思い込みが強い。
北九州説は最初、東大の先生方が支持した。一方、京大の先生は畿内説支持。
東大の先生方が言うのだから、という権威思想に従順なのが、日本人の風習。
北九州説論者は支那様に地理的に近い韓国が統一されてないのに、何で日本
が統一国家であるはずがあるのか!という韓国>日本の意識が根底にある。
今は嫌韓流の時代なのに、時代遅れな奴等は哀れだ。
北九州説論者は鏡の分布、丹・青玉・真珠の産地、総人口等で、九州説では
説明できない事を全て無視している。思い込みでメクラになってるだけだ。
彼らには総合的な判断が出来ないんで無いの? 説得しても無駄。
433 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/24(木) 07:23:39
>>432 ストレス溜まったか?
今更君に指摘されなくても……
畿内説の正当性を主張するのなら、コテ付けて堂々と表に出てきなよ!
歓迎するよ
434 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 07:51:36
ここで九州説だの近畿説だの言っているお前ら 岡田英弘の「日本史の誕生」(弓立社)を読んだことないのかよ? 邪馬台国=秦王国=角国(つののくに)=山口県 なんだよ。 バ〜カ
435 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 08:01:51
邪馬台国が山口県だったかどうかはともかくとして、秦王国山口県説はありますね。 あそこは何と言う国かという質問に、「スオウ(周防)のクニ」とこたえたのを、シンオウとききまちがえたという説が。
秦王は中国の音でスオウとは聞こえないだろ。
437 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 08:57:02
「・・・また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人、華夏に同じ・・・」(隋書) 竹斯(筑紫)=九州 の東隣は山口県に決まっている。 岡田は、住民が陝西方言をしゃべったのだろうと言っている。
もともと、中国系の朝鮮人だろ。陝西方言って・・・・・・
439 :
太 :2005/11/24(木) 09:20:03
440 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 09:30:06
岡田説によると 倭人諸国は華僑の集落を中核にして育ったものであり 「親魏倭王」卑弥呼の都が華僑の大集落として残った。 これが隋使のみた秦王国だという。 だから邪馬台国=秦王国
441 :
太 :2005/11/24(木) 09:43:03
何で国名がこんなに違うの?そのわけは?
442 :
俺等05772 :2005/11/24(木) 10:53:48
>>439 >>398 は
>>380 を訂正したもの。 >380 は大筋正しい。
特に、硬質ヒスイは日本では糸魚川付近でしか採れない《絶対に》。
で、九州説では青玉は、どんな玉で、何処で採れた、と説明するの?
443 :
太 :2005/11/24(木) 11:06:02
青玉とやらがなぜヒスイと決まるのだ? なぜ
>>380 >過去にも採れない
と結論付けたのか?九州に採れる場所がいま見えいとしても過去に採り尽せば出てこないよ。
貴重品ならば採掘量は極めて少量でもおかしくはない。それにだ、九州に、当時の場所が
未発見なのかもしれない。さらにだ、その青玉が安価ならばヒスイでなく塗色の物かも知れない。
だから、畿内に現在採れて九州に現在採れなくても九州説に矛盾はあるとは言えない。
今日本人が刀をさしていないからと言って、当時もさしていなかったとは言えないんだよ。w
貴下の思考不足の短絡的結論だと考えてしまう。
444 :
太 :2005/11/24(木) 11:06:56
誤 見えい 正 見えない
445 :
俺等05772 :2005/11/24(木) 12:12:51
>>443 硬質ヒスイは九州では絶対に採れない。それ故、もし、九州で青玉が
産出するなら、他の玉を考えねばならない。そこで、何度も質問だが、
九州説では青玉は、どんな玉で、何処で採れた、と説明するの?
446 :
太 :2005/11/24(木) 12:23:36
なぜ絶対と言えるのか?君は九州をX線透視できるクラークケント、スーパーマン なのか?青は緑か紺色かもしれんぞ?宝石で青はヒスイだけじゃあないだろう。 君は研究していて、たまたま青玉の語から勝手にヒスイと独断で確信し、ああこれで 「女王国は畿内だ」と大間違いのその確信から絶対とかいう語を固めて主張して書き込ん でいるんだろうが?完全な失敗だぞ。まあ、俺も過去にそうだった。大きく脱線して あとで大失敗だとの覚えがある。猛省して即断しないように注意するようになっ たものだ。そういう失敗を君にもさせたくないから言うんだよ。
447 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/24(木) 12:36:23
>>445 畿内説俺等さん
『自郡至女王国萬二千餘里』 このカキコを
畿内説ではどぉ説明するのですか?
448 :
太 :2005/11/24(木) 12:57:08
サファイア、ブルートパーズ、アクアマリン、ラピスラズリ・・・それに インドヒスイっていうのはヒスイと別物だぞ。緑ならばエメラルド・・・。
449 :
俺等05772 :2005/11/24(木) 13:31:31
>>448 古代日本で青い玉というのは、碧玉(青メノウ)と硬質ヒスイだけど
太君の希望なら、どんな玉でもよいよ。
九州産の青玉は、どんな玉で、何処で採れるか、ちゃんと述べてね。
450 :
俺等05772 :2005/11/24(木) 13:44:32
>>447 古田武彦説で引っ掛けようとしているんだ。釣りですね。笑
451 :
三角@名無史さん :2005/11/24(木) 14:19:32
確か、吉野ヶ里の王墓で青い管かな?首飾りですが出てますね。 姫川産かはしりませんが。10個はあったな。 それより、南は東になる説明がほしいな。狗奴国は、南でいいとかの 説明も。日の出と日没の間が、南なのは、1年中いつもかわらないけど。 周の時代の書物に南中時の棒の影の長さで南北の距離を計る方法が でてる。南北の距離を計る技術ある国が方位を間違えるかな? もし、水行20日が倭人からきいたのなら、何回も行き来してる場所 だから、方位、距離はこの部分では間違いがないと思うけど。 先入感ありすぎかな?
452 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 14:27:53
スレタイに即していえば、 邪馬台国=岩手県 に決まっているだろ。 ウソだと思うなら「邪馬台国はどこですか」でググってみな。
453 :
俺等05772 :2005/11/24(木) 15:29:24
>>447 今日は暇だから、プラムさんに釣られて見るか。
>郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、乍南し乍東し、
>その北岸狗邪韓国に到る。七千余里。
乍:たちまち=急に
郡から船で沖に出たら、急に南に方向を変え、四千里程行き、そこで急に
東に方向を変え三千里程行くと、倭の北岸の狗邪韓国に着く。で、七千余里。
はじめて一海を度る、千余里。対海国に至る。(中略)また南一海を渡る。
千余里。一大国に至る。(中略)また一海を渡る千余里、末廬国に至る。
一海を渡る、千余里。:これは全部一律だから、正しい距離ではない。
計算からは、女王国まで二千余里しか残らないが、これでは少し短すぎる。
狗邪韓国から邪馬台国まで五千里だと倭人に聞いていて、倭人は狗邪韓国
から末廬までを、二千余里で計算していたとすれば、残り三千余里になる。
三千余里でも若干短いが、一応妥当な値になる。
454 :
俺等05772 :2005/11/24(木) 16:23:55
>>451 吉野ヶ里の王墓で青い管はガラス管ではないの?そんなの玉じゃないよ。
また、遺跡で出ても、その国の産とは限らない。ゴウホラ貝は北九州産
では無く、沖縄産だよ。
455 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/24(木) 16:33:03
>>453 畿内説俺等さん
>釣?
違いますよ!
郡⇒女王國間(萬二千餘里)と、実数でカキコしているのに
倭人伝では
郡⇒不彌國間 萬七百里(連続)しかカキコしていません。
これをどぉ 説明するかです。
引き算云々で片付けてしまうのですか?
456 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 17:21:36
>>452 東北考古学研究所?の方ですか。東北人は捏造系ですね。
少なくとも、あと百年は信用されませんよ。 (^_^;)
457 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 17:38:52
藻前らさぁ ロムっているオレ様の為にもっと激しく踊れよ つまらんだろ。
458 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 17:42:16
彼等はエンターテイナーですか?(^_^;)
459 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 18:03:22
>454 だから、九州勢力圏の糸魚川でヒスイが採れましたという 単純なことなんだが。
460 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 18:13:48
はぁ?
461 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 18:39:59
462 :
俺等05772 :2005/11/24(木) 19:17:27
>>455 私、理系なもんで、引き算云々で片付けてしまうのです。
でももう一度、やり直して見ますか。数日程度時間を下さい。
463 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 19:21:42
>>459 九州勢力圏の糸魚川って、どこにあるんですか? 具体的に言ってね。
464 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/24(木) 19:52:45
>>462 俺等さん
じっくり考えて見てください。
(参考に)
笵曄カキコの後漢書と併用して見当下さい。
新しい何かが発見出来るかも!
465 :
三角@名無史さん :2005/11/24(木) 20:41:58
でも、その論法では、奈良県からヒスイがとれないといけなくならないかな?
466 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 20:53:34
奈良県でヒスイが採れないから、ヤマト政権は×。
この仕掛けは、卑弥呼率いる30国の倭国が全部九州で、中国地方・四国以東は 女王國東渡海千餘里の倭種の国、というタイプの九州説には有効。 で、実際多いんだな。こいつが。 畿内説の場合、卑弥呼傘下の30国に北陸も含むと考えるから無問題。 上のタイプの九州説はアウト。
468 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 21:32:04
で、畿内政権は極小領地しかないから、全部ダメ。
469 :
三角@名無史さん :2005/11/24(木) 21:34:47
前に大和さんが書かれたと思うけど21か国は、遠絶。だからわからない。 北陸とか、中国地方に21か国をおくのは、魏志を無視してる。 話もどって、吉野ヶ里のいい資料みつけた。プロジェクトxのDVD。 王が眠る 神秘の遺跡 っていうの。レンタルビデオにないかな? しかし、近畿説だと奈良から、九州まで投馬国1つ。空き地多いと 思うけどな。。。。
470 :
三角@名無史さん :2005/11/24(木) 21:58:51
対馬から邪馬台国まで8国。奈良とすると、その3倍弱を奈良より東に 置かざるをえない。で、さらに狗奴国があり、そこと戦う。北海道 まで必要になると思うが。時代くだった、毛人考えるときつくないかな? それより、九州説アウトの理由がわからない。多くの人がいるという ことは、正しいの説明になると思うけど。
471 :
本田 :2005/11/24(木) 21:59:18
>>449 >
>>448 > 古代日本で青い玉というのは、碧玉(青メノウ)と硬質ヒスイだけど
> 太君の希望なら、どんな玉でもよいよ。
> 九州産の青玉は、どんな玉で、何処で採れるか、ちゃんと述べてね。
>オンファス輝石岩の発見
>九州中央山地では1980年の晩秋,
>熊本県立多良木高等学校地学部により,
>緑色岩体周辺の蛇紋岩の捕獲岩として初めて発見され,
>1982年の日本地質学会学術大会(新潟大学)において初めて紹介されました。
> (中国地方大佐山にも同様な岩石が出現:
> 源岩はダイアベース【輝緑岩】でオフィオライト層序の岩脈群を構成する部分の岩石とか)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sirokaze/hisui.html
http://www.athome.co.jp/academy/genetic/gen04.html ここの地図の中で、黄色で区分けされている地域をみてみましょう。
黄色は酒に弱い遺伝子を持つ人間が多い地域、緑は強い遺伝子を持つ人間が多い地域。
倭人伝に酒を好むという記述があるにせよ、それは海洋民族地域(このリンク先でいう九州)
の記述に収まる話であるのが妥当。九州地方とくっつけて、この地図のなかの
黄色の地域は即ち、倭人の世界を伝える次に云々次にカンヌンの道程と一致するんじゃね。
よく引用されるリンクらしいが、このスレでは出ていないので使ったよ。
ちょっと考えて見れ。
>>469 >しかし、近畿説だと奈良から、九州まで投馬国1つ。空き地多いと思うけどな
対馬から不彌まで、3万戸、投馬と邪馬台で12万戸ですから。
これくらのスペースがないと説明つきませんです。はい。
>>470 >対馬から邪馬台国まで8国。奈良とすると、その3倍弱を奈良より東に置かざるをえない。
なぜ?
邪馬台まで瀬戸内航路を取るとして、余旁国二十一国は、
山陰にも四国にも九州南部にも九州北部にも置けますが?
何か?
>>472 またですか。もうあきましたよ、それは。
そうとうな貢献だと思うぞ。 プレゼン下手なおまえらに、いい年忘れの材料を投下してやった。 ちなみに黄緑色の地域は混血地域として見れるし、地政学的にヤマトの準会員として の勢力地域であろう。関東以北など、ちょうど親ヤマト的蝦夷の地域と、反ヤマト 的蝦夷の地域が綺麗に色分けされておる。 もひとつちなみに、上のほうで現在の山口県地域が重要な拠点として持ち上げた レス郡があったが、よい目のつけどころだ。 まあ皆ひいひい言いながら1000まで続けるこった。おれは年賀状の準備でも 始めるかな。
476 :
日本@名無史さん :2005/11/24(木) 22:36:57
>472の資料は秋田を中心に朝廷があったとでもいうのかい? 馬鹿も休み休みいったらどうだ。
>>476 そのレスこそ馬鹿も休み休み言えよ、だ。
どう鑑賞したらそんな認識を得るんだ?
アホか、おまえは。
478 :
三角@名無史さん :2005/11/25(金) 02:22:32
瀬戸内海が投馬国ですか?確か、魏志には20日でつくになっている。 通過するのに20日かかるではない。原文改ざんしないように。あと南 を東にする理由が知りたい。
479 :
大和@名無史さん :2005/11/25(金) 08:55:18
凄い勢いでRes出し、埋もれている。自虐的に遅だしアウト。
以下の皆様、返Res不要扱いで。プラムさんもおはようです。
>>412 俺等さん、返事ありがとう許徐。
方位・方向は結論なき論にて放置で。
>『遠絶不可得詳』の地は女王国より東の諸国でしょう。
なるほど、今で云う関東以北の地という事ですね。だから傍國として瀬戸
内・近畿・東海の地域があっても俺等さん的にはおかしくないんだ。
だとすると、‘おいら’的には不満です。「使譯所通三十国」の21国、詳
細なきはおかしいですね。
>邪馬台国の統属国ではない。かと言って敵国でもない。
だから共立国として名を連ねたと。
>>414 安曇連浜子さん、
「禿胴」は何と読むの。褒め言葉ならお礼を、褒め殺しなら読めずにおこう。
安曇連浜子さんなんとなく神戸の匂いが!?。違ったらごめん。
>>473 さん、
30国って『使譯所通』の30国ですよね。傍国の21国は倭国、若しくは
女王国の属国ですね。もし、魏と通交している30国の21国なら、共立国
と対等で、倭国若しくは女王国の役割は何なんでしょうね。
>>469 三角さん、引用有り難うございます。
>あと南を東にする理由が知りたい。
これは解なしちと厳しい。文献史学より考古的判断が優先されていると思う。
大半の九州説(北部九州説)も事情は同じでないですか。厳格に説くならサ
ガミハラハラさんの小城方面説に一票。でも方位は良しとしても国々の営み
に難あり。確かな証が欲しいところ。
480 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 08:59:13
阪神大震災は笑えた! 死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ? (よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって) でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然、騒ぐほどじゃないし。 阪神大震災は笑えた。まじで ニュースで知って、手を叩いてわらったなぁ。 おまえらが震災にあってる間、家でワイン飲んでた アホだなーこいつらって思いながら わざわざ神戸まで行って記念撮影しようかと思ったよ。 でも阪神大震災のおかげで何かしらの利益を得た人だっている訳だし 結果的には良かったんじゃないかな。 たしか知事や市長が自衛隊の救援要請を渋っていたけどさ、 あそこらへんって部落が多いからそのまま全滅させたかったんだよね。 今でも仮設住宅に住んでるやつがいるらしいけど、 せこいんだよ!俺らの税金なんだよね。むかつく。 ところで震災直後はあいつらってトイレどうしてたの? もしかして野グソ?汚ねぇなぁー。 どちらにしろヘリからの映像はまさに温泉町のようで壮観だった! 気持ちの良い夕刻でした
>>479 >魏と通交している30国の21国なら、共立国と対等で、
対等というより、共立国でしょう。普通に考えて。
482 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 09:50:20
>>471 >オンファス輝石岩の発見、九州中央山地で
宝石にならないような石は、玉と言えませんぜ。何故糸魚川付近だけで
硬質ヒスイが採れるのか? それはフォッサマグナの中でも最も圧力が
掛かっている場所だから。フォッサマグナは東日本と西日本が押し合って
強い圧力が掛かっているために出来た。他所での圧力は小さいからダメ!
九州で硬質ヒスイが採れない訳が解ったら、九州説は取り下げてね。勝った勝った!
483 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 10:25:03
484 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 11:27:05
>>483 次に躬臣(越)國有り。「播磨は外国だった」は悪質なネタ。
485 :
岡田英弘 :2005/11/25(金) 12:15:55
ここの住人は方法論上の論争はしないの? 九州説の古田のように、魏志倭人伝の文理解釈・文言を重視するアプローチのほかに 岡田説のように、魏志倭人伝の政治的意図などからアプローチする いわば社会学的アプローチがあると思うんだけど。 後者の立場からすると 魏志倭人伝における倭人諸国の距離と方角は信用ならない、ということになる。
いきなり信用ならないと言われても? どのように信用ならないかご説明下さい。 お付き合い出来る範囲で、お付き合い致します。
487 :
三角@名無史さん :2005/11/25(金) 13:02:30
文献を読むとは、投馬国から5万、7万となると、なぜ、急に大きな 数字か、疑問に持つべきである。1000からでも50倍。そして、 それが水行20日の日数表示からおきてると考えると、倭人の数えた 数と考えられる。これを不彌国までの数字と同一にあつかうべきでない。 とするのが、文献の読みかたである。水行20日は100里とするのは、 無理だということ。同時代に数に大きな差があるのは不自然である。
488 :
岡田英弘 :2005/11/25(金) 13:20:01
>>486 魏志倭人伝が編纂された晋朝の政治力学が
倭国を、西のクシャン朝インドに匹敵する東の大国として
記述することを要請したということです。
晋朝の実質的創始者・司馬懿の業績(倭の朝貢)を真実以上に
宣伝する必要があったのです。
489 :
三角@名無史さん :2005/11/25(金) 14:06:18
邪馬台国を宮崎とすると、神武天皇東遷により、王統が1系になるのだが。 近畿を邪馬台国とすると、何故、宮崎からきたのかが説明できない。 朝鮮半島ならともかく、、、
490 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/25(金) 14:35:23
>>489 岡田氏
同意です。
しかし、正史です。
建前としてのカキコと
史実としてのカキコ
両方書き表さねばなりません。
史実の無い文章は、お伽話です。
491 :
太 :2005/11/25(金) 14:42:31
>>449 ここの他のスレ人と違って、
君は吟味、検討もないようで、青玉からストレートに畿内説正解を結論付けるから
その論は価値が全くと言っていいほど無い。完全に失敗論だ。青ければ何も瑪瑙
翡翠でなくても青の勾玉は工作できる。w
ここでの青玉がなぜ翡翠一つに決まるのか?君の脳内だけくらいだ。
それともスーパーマンのマークのS父韻を付けてAO(青)はASO(阿蘇)で
ないことに決まるのか?ww
492 :
もえ :2005/11/25(金) 14:54:22
493 :
太 :2005/11/25(金) 15:07:32
>>482 先手
君の飛垂の駒は採れなくても君の玉は詰んでいるよ。
494 :
太 :2005/11/25(金) 15:14:05
495 :
俺等05772 :2005/11/25(金) 15:59:39
>>489 台与が晋に使いを送った直後に、狗奴国王の神武東征が始まったのです。
こうであれば、鏡・剣・玉の問題、銅鐸が畿内で消失してしまった原因、
倭国がその後 150年間晋と国交を絶ったこと、三輪の神が祟りをなした
理由等、全ての疑問が解消します。
邪馬台国九州説者の誤りは神武の東征後、始めて畿内に日本の統一政府が
出来たと思い込みをして、そこから抜け出せないことです。
496 :
俺等05772 :2005/11/25(金) 16:02:36
>>491 太君、九州産の玉の種類と、産地はマダ−? 待ちくたびれたよ。
497 :
太チンコ :2005/11/25(金) 16:41:30
私は天才であるが故に、どんなつくり事でも本当に書ける かどうかと云ふ事には疑ひをもつてゐる
498 :
三角@名無史さん :2005/11/25(金) 17:27:24
神武天皇の前に、天皇がいたのですか?それは、確かに知らなかった。 ぜひ、教えてもらいたい。記紀になかったので知らなかった。 神代のことかな?それ以前?
499 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/25(金) 18:10:30
>>495 俺等さん
>狗奴國から神武?
何を根拠に、そんな事を!狗奴國は女王國の一員です、決して女王國と争ったりしていませんよ
もう一度、倭人伝をよく読んで下さい。
500 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/25(金) 18:17:43
『狗奴國の立場』 同じ自民党員で、たまたま小泉総裁の掲げる郵政民営に反対する一派が、卑彌弓呼率いる狗奴國派です。
501 :
的外れ :2005/11/25(金) 18:42:45
目に青葉 山不如帰 初鰹 季節はずれの歌ですみません。 レスも送れてすみません。 青玉とあり、ヒスイのことのように話しがすすんでいますが、(上質の翡翠は緑色) つまらない質問ですけど、よろしくお教えください。
502 :
的外れ :2005/11/25(金) 18:48:05
途中が消えてしまいました。 青玉とあり、翡翠のことのように話しが進んでいますが(上質の翡翠は緑色) 日本では、緑色のことを青ともよびますが、中国でも緑色を青とよぶことがあるのでしょうか。 つまらない質問ですが、よろしくお教えください。
いくつか漢和から拾って見ますた。 青青:「緑竹青青=緑竹の青青たり」〔詩経・衛風・淇奥〕−緑が青だというとります。 青山:「青山横北郭=青山北郭に横たはる」〔李白・送友人〕−山は緑ですわな。 青磁:磁器の一つ。うすい緑や藍(アイ)色のうわぐすりをかけた焼き物。 青松:「青松在東園=青松東園に在り」〔陶潜・飲酒〕−松も緑ですわな。 青銅:銅の鏡。「紅埃覆青銅=紅き埃の青銅を覆ふ」〔白居易・感鏡〕−青銅は青くありまへんえ 青銭:青銅の貨幣。「過眼青銭転手空=眼を過ぐれば青銭は手を転じて空し」〔蘇軾・山村〕−上に同じ
504 :
太 :2005/11/25(金) 19:25:02
>>496 後手の玉が取れずに詰まないか?www
単純結論の君の考察にはあきれているよ。そんな理屈位じゃ九州説は倒れない。
俺にとっては説じゃあなく、九州不動で固定されている。何回畿内説をそんなこと
で直球で玉をキャッチャーへ放って三振をとったつもりでも何のことはない。w
いいか、女王国は九州にあったのだ。
時代の数読みは動かない。過去に先述したとおり、各時代の主導権の照鳥居は
人類発生〜天照大御神誕生手前頃までが 0 ←四国
天照大御神誕生〜神武天皇頃までが 1 ←九州
綏靖天皇世〜明治時代頃までが 2 ←畿内
大正時代〜現代〜・・・ が 3 ←東京
・・・・・・・・・・・・・(未来) 4 ←青森
・・・・・・・・・・・・・(未来) 5 ←函館
・・・・・・・・・・・・・(未来) 6 ←外国へ・・・
と古代からの時代区分は絶対に動かない。
それで、この1の時代にあるとりわけ重要なXの理由の為に取り損なった、出現
ができなくなった部分時代が残存していたのだ。このためここの残存の1を
2の時代のある時(神功、應神頃の時代)その残った1の残存時代を消化させ
んがため2と部分残存の1とを並行して秘素鳥居とさせるのが真の古代史の
機密なのだ。だからその意義を未来の現代人にわからせる為と言ったらいささか
言いすぎだが、数字により国名に残させたのが『邪馬壹國』なのだ。
だから女王国は1を示唆する九州にあったのだよ。
それで1を意味する『壹』がついているのだ。女王国は絶対に畿内ではない。
あれば近隣のため、卑弥呼と天皇との交流等が記紀にうんと載るわ。www
邪馬台国などあるわけがない。www
505 :
太 :2005/11/25(金) 19:34:11
>>498 神武前
ウガヤフキアヘズ尊 72代 古史古伝等の内容。
>俺にとっては説じゃあなく、九州不動で固定されている。 あっぱれ!ここまで言い切ったのははじめて見た。 普通は、見栄はって多少なりとも理屈があるところを見せようとするものだが。 見事だ。
507 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 19:39:06
ワロ太
508 :
太 :2005/11/25(金) 19:40:44
わかったか?『壹』は神武前の時代数字なのだ。その某消化できない理由で 残存したため、神武後の時代に出現したのが『邪馬壹國』だ。 どうだ。思い知ったか?
509 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 19:48:10
はいはいその通りその通り
神武以前に天皇がいるなんて言い出したら、 もう、めちゃくちゃだな。
511 :
太 :2005/11/25(金) 20:11:50
>>504 訂正 ごめん。急いで書いたので。次のとおり
誤 函館 正 札幌
512 :
大和@名無史さん :2005/11/25(金) 20:39:23
>>481 さん、Res有り難うございます。
いえね、「女王国以北特置一大率検察」この検察される国々が共立国と捉え
ておりました浅はか許徐。因みに狗奴國と境を接する女王国の終りの国は奴
国、始めの国は何国なのですか後学のためご教示希望。
>>499-500 プラムさん。面白い。
>狗奴國は女王國の一員です
俺等さんの代わりに読みました。確かに「女王」に属さずで、女王国に属さ
ずとは書いていない。でも一員とも書いてないようですが、それらしき記述
はあるのですか。
513 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/25(金) 21:28:11
大和さんこんばんは! 狗奴國の記事をよく見てください。 王名・官名・事情そこまで解っていながら 道里・戸数が書かれていない、不思議ですね! (私見では……書く必要がなかった) ・狗奴國記事の前の文 『此女王境界所尽』です。・狗奴國記事の後の文 『自郡至女王國萬二千餘里』 ・狗奴國記事文中 『不属女王』 陳壽の文章は、すごいです。
514 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/25(金) 21:47:37
私は以前から 『女王』と『女王國』を別物として、考えなければイケナイとカキコしてきました。(かなり不評でしたが) 卑弥呼共立時、全員一致の賛成意見とカキコしてありましたか? そんな事何処にもカキコしてありません。 『女王境界』とは、卑弥呼擁立に賛成した国の境であり、狗奴國は反対派の為、境の内側に入れないのです。だから『不属女王』ですしかし 女王國の一員であるため 『自郡……餘里』の内側に入る事が出来たのです。 狗奴國も、女王國の一員ですのでその距離も萬二千餘里以内と、言う事です。
515 :
猫厨-改9999 :2005/11/25(金) 22:21:10
自女王國以北21国が「大和」ら見て 北東の方向にあった国々の名前と その多くが対応すると言う事実から見ても、 21国の「奴国」は九州にあった「奴国」 とは別物であり、「狗奴国」は、その 更に南(修正方角は、東)にあるのだ。 「狗奴国」は、現在の神奈川県辺りです。
亦、訳の解らないヤシが現れた これから冬休みが始まると、季節限定ヤシが増えるんだろうな!
517 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/25(金) 22:40:01
>>515 猫さん
>修正東
どのように修正するのか教えて下さい。
518 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 23:06:49
邪馬台国がどこにあったかって、 そんなに大事なことなの?
519 :
大和@名無史さん :2005/11/25(金) 23:15:52
>>513 プラムさんどうもです。
>陳壽の文章は、すごいです。
女王→女王国→女王。確かに女王・女王国を使い分けているようにも見れますが、
『此女王境界所尽』と『不属女王』、男王を挟んでのせめぎ合いで納得できます。
さしあたり、プラム説は『自郡至女王國萬二千餘里』がキーワードと捉えますが
この一文で女王国の一員にするには根拠が弱いように思います。
考えますに、『自郡至女王國萬二千餘里』ここに記す「国」は起点・終点を表す
為に必要な文言で、ことさら女王と女王国を意識した使い分けをしているように
思えないのです。又、位置的には倭国の国勢・民力を記し終えた直後で、風俗・
風習に移る為の段落文の理解で十分と思います。陳寿が果たして、プラムさんが
お考えになるほどの文意を持たせたかどうかはなはだ疑問です。
520 :
大和@名無史さん :2005/11/25(金) 23:25:03
プラムさん、続きRes不知御免。
>>514 申し訳ないですが不同意ですね。
521 :
日本@名無史さん :2005/11/25(金) 23:25:52
522 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/25(金) 23:38:57
大和さん では、何故段落最後に、『萬二千餘里』の文を持ってきたのでしょうか? 郡とは何処ですか? 『楽浪砦⇔邪馬臺國』 萬二千里 『郡⇔女王國』 萬二千里 邪馬臺國=女王國なんでしょうか? 陳壽はどぉして、 郡⇔不彌國(連続として)萬七百里しかカキコしなかったのでしょいか? この辺の数字の謎が キーポイントと考えます。
523 :
猫厨-改9999 :2005/11/25(金) 23:41:05
>>517 つまり、「南」とは書いてあるが
実際の方角は「東」という事です。
で、ないと陸じゃなく海に出る。
524 :
大和@名無史さん :2005/11/26(土) 00:48:37
>>522 プラムさん。
>では、何故段落最後に、『萬二千餘里』の文を持ってきたのでしょうか?
郡とは何処ですか?
>>519 で。帯方郡と心得ております。
>『楽浪砦⇔邪馬臺國』
萬二千里
『郡⇔女王國』
萬二千里
邪馬臺國=女王國なんでしょうか?
邪馬臺國=邪馬壹國=邪馬台国で齟齬ないものとしております。
倭国・女王国・邪馬台国、各々の絡みは未だ良く存じ上げません。
>陳壽はどぉして、
郡⇔不彌國(連続として)萬七百里しかカキコしなかったのでしょいか?
採用資料依存と考えております。
>この辺の数字の謎がキーポイントと考えます。
倭人伝の研究姿勢は古田先生に通じるところがあり大いに勉強になります
その内に目にする事がありますでしょう。楽しみにしております。
525 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 07:14:52
>>524 大和さんおはようございます。
(倭人伝)
郡=帯方とすると
@女王國≠邪馬臺國
A女王國=邪馬臺國ではあるが女王國の勢力範囲が魏王朝時には、楽浪⇔帯方の距離分拡大した
と、この二通り考えられます。
私の今の所の考えは、
郡= 楽浪・帯方の両方含みを持たせたカキコと解釈しております。
(理由)
後漢書では
(楽浪砦⇔狗邪韓国)
魏書倭人では
(郡⇔狗邪韓国)
両方とも七千里と同距離です。
しかし、楽浪郡の方が遠距離で有ることは疑う余地も無いでしょう。
526 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 07:57:26
郡⇔(萬七百里)までしかカキコしなかったのは、決して資料不足の為とは考えません。 残り千三百里が楽浪⇔帯方間の距離てあり、不彌國迄が後漢時代の『倭奴國』(倭の大乱以前)の交流範囲かと考えます。 二つの時代を一つの文に簡略し、如実に表すカキコかと 当時の歴史書を書く為の基本ではないでしょうか!
527 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 09:23:20
>>525 プラムさんの考えがやっと見えてきました。
>後漢書では (楽浪砦⇔狗邪韓国)
>魏書倭人では (郡⇔狗邪韓国)
>両方とも七千里と同距離です。
>しかし、楽浪郡の方が遠距離で有ることは疑う余地も無いでしょう。
もし、古田武彦式に陸路をジグザグに狗邪韓国に行くのなら、その結論は正しい。
しかし、海路なら疑う余地、大ありです。
楽浪郡時代でも、楽浪・帯方に2分した時代でも、出発港は変わらない。
出発港から狗邪韓国までの距離なら、どちらの時代も同じになります。
>>512 ご教示といわれても、書いてないものはわかりませんです。
>>500 >>512 これはありだと思っているです。女王国ではなくて「倭国の一員」ですが。
はっきりした根拠があるわけじゃなくて、倭人伝を読んで受ける印象に基づく物なので、
受け入れてもらえなくてもしょうがないですが。
>>526 倭人伝のはじめの方に「從郡至倭」とあり、これは「倭人在帶方東南大海之中」の直後であるため、
この郡が帯方を指すのは明らかです。そのあとに、「郡使往來常所駐」ともありますが、これは、
卑弥呼−台与との通交の拠点となった郡ですから、帶方です。
そしてそのあとに、「自郡至女王國萬二千餘里」があるわけです。
ここの郡だけが帯方ではなくて楽浪を指すとしたら何か注釈を付けないと読者が混乱するわけで、
そんな書き方はしないものです。ここの郡も帯方ですよ。疑う余地なく。
529 :
日本@名無史さん :2005/11/26(土) 10:10:59
新羅系の難波吉志、草壁きし、等が淀川の水運を担当してたので、白木人は 船に強かったのか
530 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 10:46:30
>>528 >注訳を付けないと読者が混乱する
陳壽の文章は、難解かつ簡素で有る為、後にハイショウイが注訳文を付けています。
それに、あまりにも文章の見事さに自信を失い、魏書の編纂を途中放棄した編者(名前忘れた)も表れます。
一般の人は、理解できなくて当然です。
でも、笵曄は理解したみたいです。
現代一般常識を超越してるのです。
>>530 >陳壽の文章は、難解かつ簡素で有る為、後にハイショウイが注訳文を付けています。
でも、「自郡至女王國萬二千餘里」には付けてませんよね。
必要ないということです。
>現代一般常識を超越してるのです。
ははは。笑うしかないですな。現代一般常識を超越した話は岡板がふさわしいですよ。
梁書諸夷伝も「去帯方萬二千餘里」になってます。
プラム流には、姚思廉も読めなかったみたいですね(ワラ
現代日本人はともかく、唐代の史家にも読めない文章書いてどうするんでしょ。
>>530 ああ、書き忘れました。
>でも、笵曄は理解したみたいです。
笵曄は楽浪郡とは書いてないですよ。
樂浪郡徼、去其國萬二千里(後漢書)
【楽浪郡の境界はその国{倭国)を去ること1万2千里。】
楽浪郡の【境界】が1万2千里なんです。
当然、楽浪郡治の位置よりは大きく日本列島側によった場所です。
漢代には帯方郡がなかったので楽浪起点に書かざるをえなかったものの、
楽浪−帯方間の距離を知らなかったので、こんな書き方になったんでしょうね。
>>531 笑えますか?
そうですかぁー!笑えますか!
大いに笑って下さい。
笑う事も少なくなった昨今
大いに笑いましょう!!
私のカキコで
534 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 12:30:14
>>531-532 笑い止まりましたか?
では
私は今の所、先ほどカキコした認識しか持ち合わせておりません。
貴方は、その説明に笑いを込め一掃しました。
さぞかし深い思慮のもとかと推察致します。
ではご教授下さい。
先ほど私がカキコした、〔楽浪砦⇔邪馬臺國〕=(萬二千里)=〔郡⇔女王國〕
の同距離記載の解読
陳壽編纂三国志魏書の正しい解釈の仕方
ハイショウイがわざわざ注訳を付けた理由
陳壽の史書を見て自分の著書を放棄した
本当の理由。
どぉか教えて下さい。
535 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 12:41:37
どなたか!お知恵拝借 楽浪砦⇔邪馬臺國 (萬二千里) 郡 ⇔女王國 (萬二千餘里) この二つの同数値について 多数の著書やHPを覗いて見ましたが 殆どの人達がこのことに、触れようともしていません。
当時の楽浪は大砲も含んでいた。 公孫度が楽浪の南部を割って帯方郡をつくった。204年
>>536 早速のレス感謝
では、楽浪の砦=帯方郡なのですか?
538 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 12:57:42
539 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 13:52:17
>>537 漢代のことを記すべき史書に無理やり邪馬台国を持ってきてしまったため、おかしな事になっているんだよ。
>>536 氏のレスの意味がわからないようですね。
それよりも、別の資料(後漢書)の記述をもって来て、魏志の解釈をするのだったら、ほんの一部分だけを都合よく取り出すのではなく
もう少し全体的に整合性のある部分を抽出して、提示してください。
倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。
自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。
其大倭王居邪馬臺國。【案:今名邪摩惟、音之訛也。】樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。
其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、タン耳相近。故其法俗多同。土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績爲「糸兼」布。
出白珠、青玉。其山有丹土。氣温ドン、冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。
【鵲或作「奚隹」】其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨爲鏃。男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。
其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈「糸介」、衣如單被、貫頭而著之;並以丹朱「土分」身、【説文曰:「「土分」、塵也。音蒲頓反】
如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。飮食以手、而用ヘン豆。俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。人性嗜酒。
多壽考、至百餘歳者甚衆。國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不ト。
又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞爲樂。
灼骨以卜、用決吉凶。行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰「持衰」。
若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之。
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。
侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飮食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。法俗嚴峻。
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國。人長三四尺。
自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。
541 :
日本@名無史さん :2005/11/26(土) 14:16:08
ハワイ 古代中国では邪を「ハ」、馬を「ワ」、台を「イ」と発音していた関係から。
542 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 14:18:57
>>538 俺等さん
>二分していた時代でも、出発地は同じ
楽浪郡は、『砦』としているんですが
543 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 14:53:23
>>540 そうじゃないだろう。
>都合のいい部分を一分取り出して
カキコしてある事実を取り上げているので都合云々の問題では無いし、私の勝手な思い込みでもない
邪馬臺國を記述したことの間違い、正解を
貴方だけの判断で振り分けられるのかい?
それに、後漢書の併用は、魏書を解釈するうえで不可欠
そう思わないかね?
ところで、貴方の意見はどうなんだね
>>540 私のレスの意味も解らないようですね・・・
545 :
日本@名無史さん :2005/11/26(土) 15:08:31
邪馬台国は東京にあったのです。九州や奈良のような田舎にある訳が ありません。
546 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 15:28:53
>>542 徼が『砦』なら「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」
全てが名詞の羅列になり、文章になりません。徼は動詞で、求める」でしょう。
547 :
太国玉 :2005/11/26(土) 15:33:52
>>504 の件
筑紫のことを「竺紫」とも書く。『竺』の下部は数字の『二』である。
太古の時間区分、筑紫(九州)は1の時であることを解説した。それなのに
何故『二』たる2が竺紫の『竺』に付加されているのかと問われれば、
2たる綏靖世〜明治世の間のある時、遅れて1数を支配する九州の邪馬壹國を
この2の時代の間の中どこかで執り行うための黙示なのである。
『二』字の下の長めの横線が畿内皇朝、上の短い横線が短命の九州王朝を示唆する。
両王朝は双方が並行して当時存続となるという意味である。
筑紫の国を白日別という。白玉の点採り虫の石で青色を意味する「碧」の文字と
なる。
>>539 氏のストレート独断方式を俺もいま真似れば、青玉=碧玉 として
2色示唆の竺紫の国、白日別の古事記の文がうなずけることとなる。
畿内に玉虫の厨子があり、紫にも青色にも緑色にも輝くこの虫は九州にも生息
しているのではないのか?ww PuPuPu!!
『碧』の字は、点採り虫の点の無い「王」と、「白」「石」との構成文字である。
548 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 15:39:29
>>544 どぉゆうことでしょう?
『邪馬臺國』が気に入りませんか?
『其國』=邪馬臺國ではいけませんか?
『倭國』でしょうか
『倭奴國』でしょうか?
『帥升の出地』?
九州説もその他30国は機内までを含む。ならメノウもまったくもんだいない。 遠絶の国に邪馬国がある。これが大和国でしょう。
550 :
太国玉 :2005/11/26(土) 15:53:49
志摩の真珠だとさ。w 魏志倭人伝に三重県あたりの記述が載るんだとさ?w それが記紀に天皇と卑弥呼の交流記事がまるでない。三重県までシナの遠方の文で 記述されているとするなら、ニホンの記紀に畿内近隣の女王国の記述のほうはまるでといって よいほど記述がないのはおかしい。だから志摩の記述が倭人伝の文だとする比較は誤り であり、畿内に女王国があることにはならない。
551 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 15:55:03
>>546 俺等さん
成る程『徼=もとめる』ですか!
また一つ学習内容が増えました。 参考にして、思考してみます。
感謝です。
このように、自分だけでは見逃してしまう事が多々有ります
これからも御協力よろしくお願いします。
>>539 >>396 21国は九州を発して四国をまわって九州にたどりつくことが証明されましたので。
シマ国=志摩は無しです。誰かさんが言ったように、この国順は整然とつながっていく必要があります。
つまり機内説も中部地方は領地外です。
553 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 16:07:52
>>542 徼を『砦』とすると名詞ですので「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」
は文章的におかしくないですか? 「徼」は動詞だと思います。
「徼」を辞書で引くと、「求める。要求する。」と出ています。
「樂浪郡は倭國へ行くのに萬二千里を必要とし、倭国の西北界拘邪韓國へ行く
のに七千餘里を必要とする。」だと思います.
554 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 16:30:49
>>552 俺等さん
仕事先で詳しくは解りませんが、確か『徼』の意味に、(国境)があったのを思い出しました。
すると
>>536 の言おうとしたこととは このことか?
555 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 16:33:10
556 :
本田 :2005/11/26(土) 17:00:03
557 :
本田 :2005/11/26(土) 17:13:44
558 :
太国玉 :2005/11/26(土) 17:26:32
青色の隕石を磨いて玉のようにすれば、青玉となるな。九州は隕石は落ちんのか? モルダバイト など。 はは、隕石砥(インセキト insect)か〜。
559 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 17:57:06
>>553 いえいえ、書き込んだはずのが見つからないので、又書いてしまったのです。
要は「激」は動詞だと言うこと。「国境」の意味はありますが、それだと、
名詞になります。これは私の考えなので、絶対正しいという保障はしません。
560 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 18:13:51
>>559 俺等さん
『徼』=動詞の意味は解りますし、その方が違和感が無いでしょう。
『其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里』
一般的に、『…國。樂…』と、文を切りますが
もし、そこで切らないとすれば
…名詞名詞…と、続きますよ!(*^_^*)
(だから切るんだw)ま、単純過ぎますが
漢文は苦手です
>>559 「激」が動詞ならその訳文は、『楽浪郡が求める』ですよ。
『求める』という行為主体が楽浪郡。意味が通らないですね。×です。
562 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 19:32:31
>>561 『徼』=要求する、つまり必要とする、だと思います。最初間違えた
のですが、『去』=行くの意味があり、『楽浪郡は必要とする』です。
何を必要とするかですが、「萬二千里を」必要とするのです。
「去其國」は、その国に行くのには、でしょう。
つまり、「楽浪郡は、その国に行くには、萬二千里を必要とする」
で、意味が通ります。×(×です。)→ ○です。
563 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 19:52:49
>>562 俺等さん
その意味だと、次にくる
『去其西北界拘邪韓国七千餘里』
の解釈をどうしますか?
564 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 20:22:55
>>563 『樂浪郡徼、去其西北界拘邪韓国七千餘里』
つまり「楽浪郡は、倭の西北界の拘邪韓国に行くには、七千餘里を必要とする」
>>562 >「楽浪郡は、その国に行くには、萬二千里を必要とする」
自分で書いていて日本語がおかしいと思いませんか?
566 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 21:33:48
と、言うか 物凄く回りくどい言い方だと感じる 『去』=さる でいいんじゃないの?
567 :
日本@名無史さん :2005/11/26(土) 22:21:21
ドルフィン
568 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 22:22:15
つーか! 帯方郡治が何処に有ったかも問題だ! 一般的に、ソウル(京城)〜開城付近と、言われているが 北朝鮮黄海道鳳山郡(沙里院)の古墳内部に積んだレンガに「帯方太守」の文字が発見され 沙里院付近説が浮上しているが でも、樂浪郡と帯方郡が余り近すぎるのも分割した意味が無いと思うので 沙里院説を指示するのも?かと思う。 やはり、ソウルでいいんじゃないかな!
569 :
俺等05772 :2005/11/26(土) 22:44:35
>>565 日本語としてはおかしくても、英語ではおかしくない。
まあ、日本語が変なことは自覚してるんだ。 で、どんな英語?
571 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/26(土) 23:46:03
「投馬國」 南至投馬國水行二十日……(可)五萬餘戸 「邪馬壹國」 南至邪馬壹國女王之所都…(可)七萬餘戸 【(可)〜であろう】 推測を表す意と、捕えることが出来るが? 投馬國と邪馬壹國の記事にだけ(可)……と、してあり 推測記事の範囲を脱しきれない。 こんな細かな一文字にも、架空を匂わせる その様に捕えることが出来ないだろうか? その他の対馬・一支・末盧・伊都・奴・不彌の諸国は全て、 (有)……餘戸〔家〕
572 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/27(日) 00:24:11
『東夷伝韓・倭人』 編纂者である陳壽の立場と晋の首席秘書官である張華の個人的かつ政治的意図が色濃く影響しており 韓伝・倭人伝を書き残す動機付けとなっている 恩義ある司馬昭の父懿の功績を過大評価し、(大月氏国と同程度遠方かつ規模)魏から晋への継承の正当性を最優先事項とした。 因みに、洛陽と周辺12国の1 1萬戸 と、邪馬壹国七万・投馬五万が いかに過大数値であるか解る
573 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/27(日) 09:11:15
後漢書は信用するにあたらない。
574 :
大和@名無史さん :2005/11/27(日) 10:08:37
プラムさん・俺等さん・浜子さん、進行早すぎて手出せず。読むだけで許徐。
575 :
日本@名無史さん :2005/11/27(日) 10:35:44
倭人伝の数字が全部と思ったら大間違い
576 :
俺等05772 :2005/11/27(日) 10:44:16
>>570 日本語は科学論文を書くのに適していない。日本語としてはおかしい
と言う判断基準は間違っています。要は文の述べている事柄が合理的に
判断できるか否かです。英語は喩えで、ドイツ語でもよろしい。
577 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/27(日) 10:48:40
>>576 漢文の解釈は日本語で読めるように解釈しよう。
578 :
日本@名無史さん :2005/11/27(日) 11:05:57
プラム降臨期待あげ
>>576 今度はドイツ語ですか。次は、ロシア語あたりですか。
何語であれ、意味が通らないのは同じですよ。
東京は、大阪に行くのに、600kmを必要とする
こんな訳語、どんな言語からも出てきやしません。
>合理的に判断できるか否かです。
合理的な解釈ですか?既に出てるでしょう?
魏志韓伝に
建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡
とあります。建安年間に公孫康が楽浪郡南方で放棄されていた荒れ地に帯方郡をつくったという記事です。
笵曄は、この『楽浪南部の荒れ地=のちの帯方郡』を『樂浪郡徼=楽浪郡の境』と表現しただけですよ。
580 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/27(日) 14:21:35
>>573 安曇さん
>後漢書は信用するにあたらない
これは大問題ですね!
陳壽カキコの史書よりも、信用性は高いと考えてますよ陳壽の三国志の編纂背景は昨夜カキコしましたので
省きますが
笵曄の後漢書編纂には、少なくとも、陳壽の政治的背景にこだわる必要がありませんから
どの辺に疑問をお持ちでしょうか?
581 :
本田 :2005/11/27(日) 15:10:35
>>573 > 後漢書は信用するにあたらない。
まさか日本書紀なんか信用してるんじゃないでしょうね?
582 :
俺等05772 :2005/11/27(日) 17:18:37
>>579 「樂浪郡徼、去其國萬二千里」の文の構造はどうなっていますか?
文中の主語S、動詞V、目的語O、補語Cを指摘して下さい。
583 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/27(日) 17:38:15
>>580 後漢書の成立は「三国志」よりも後ですからね。もちろんもっと編纂が遅い
日本書紀は一部を除いて邪馬台国論争に関係ないと思いますね。はい。
584 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/11/27(日) 18:02:59
>>582 >楽浪郡は、倭の西北界の拘邪韓国に行くには、七千餘里を必要とする
これを、「楽浪郡から、倭の西北界の拘邪韓国に行くには、七千餘里を必要と
する」に変えるのはいかがでしょうや?
585 :
活版屋 :2005/11/27(日) 18:11:18
古典の場合、誤写や誤刻、脱落等による劣化も含めて善し悪しを言うことが多いですね。 つまり、魏志にしても後漢書にしても、現存の通用本を基にして正しい部分の多い少ないを判断してるわけ。 著者の信念とか、思想性とかと同様に重要なこと、その辺のところを常に意識して、議論しないといけないですね。
586 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/27(日) 18:48:32
>>582 俺等さん
正直なところ、
その常識的な文法知識は、ひとまず机の引き出しに仕舞って取り組んだほうがいいと思います。
中国歴史書の根底には、
より簡素に、よりリズムカルに
たった漢字四文字の羅列に見える文にも、想像を遥かに越える内容が詰まっているものです。
そこには、主語や述語・動詞や助詞も規則正しくならんでいる訳ではありません
確か、三国志魏書の中にもそのようなケースがあったかと
587 :
日本@名無史さん :2005/11/27(日) 18:58:01
当該箇所は韻文ではない。四六駢儷体でもない。四字熟語でもない。
588 :
日本@名無史さん :2005/11/27(日) 19:04:46
てゆうか、韻文だって最低限意味の分かる程度には文法に従う。 順序は変わろうが、最低限必要な品詞はなければならない。
590 :
日本@名無史さん :2005/11/27(日) 19:09:07
どこが専門的なんだよw 誰が見たって散文だろ。 ああ、皮肉ね。なら納得。
>>582 存在するという意味の動詞が省略された形ですね。
類例。探せばもっと出るでしょうけど。
・漢書西域伝
都護治烏壘城、去陽關二千七百三十八里
出陽關、自近者始、曰[女若]羌。[女若]羌國王號去胡來王。去陽關千八百里、去長安六千三百里、
・魏志東夷伝
北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里
・魏略西戎傳
驢分王屬大秦、其治去大秦都二千里。
592 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/27(日) 23:50:13
『後漢時代・樂浪郡の境界認識』 後漢時代、半島の支配に余り関心を示さず 樂浪郡の組織も在地豪族を主体とした 位置的には、ピョンヤンを中心とした狭い範囲と、なった。 南の境界も鎭南浦辺りで
593 :
活版屋 :2005/11/28(月) 01:22:28
>>592 何か、思考回路が迷走状態に陥ったみたいだねw
単純なことだ、笵曄は後漢書倭伝を各にあたって、三国志を参考にしている。
だから、倭との位置関係も魏志の記述に依存しているわけだが、
魏志で倭への起点とされる「帯方郡」は、公孫氏が勝手に分郡したものだから、
漢朝の史書では、使える言葉ではない。
そこで、やむなくかわりに「楽老の境」なんて表現を使い誤魔化してるだけだ。
こだわるようなところじゃないだろう。
どうせ、こだわるなら、その前の『其大倭王居邪馬臺國』とか
『使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統』にしてくれ。
これは、魏志の倭人伝に対する笵曄の解釈なんだからな。
>>593 活版屋さん
了解。
使譯を使驛 丗を丗丗に
凄く興味が有った場所だから
595 :
俺等05772 :2005/11/28(月) 08:22:00
>>586 プラムさん
皆さんの熱心さに脱帽です。 もう一度、この問題、考え直してみました。
もし「去」が 〜から...離れている という状態を表す自動詞なら、「徼」は名詞で
良いと思います。この場合、おっしゃるように「徼」=国境、または、砦 です。
だだし、少し問題があります。「樂浪郡徼、去其國萬二千里」では、其國(倭)を基準(主)
にして、樂浪郡徼は、基準からどれだけ離れているかという従の関係になっていることです。
中華思想から言えば、樂浪郡徼が主、邪馬台国が従、で無ければならない。
都護(S) 治(V) 烏壘城(C)、【略】去(V) 陽關 二千七百三十八里。 【略】=関係詞略
驢分王(S) 屬(V) 大秦(C)、其治(S) 去(V) 大秦都 二千里。 の場合、
上記2つの文の内、上の文は、陽關が基準、烏壘城が従であり、下の文は、大秦都が基準、
其(驢分王の)治が従の関係になっていて、こちらは何の問題もないのです。
596 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/28(月) 11:55:05
>>595 俺等さん
成る程!
この部分は、これから掘り下げて見当してみたい所ですね。
もう一つ、
どぉして後漢書も、魏書も狗(拘)邪韓国にこだわりを見せたのでしょう。
単なる境ならば、笵曄は省略することも出来た筈です。
この辺の疑問を解明しない限り、この問題の真相は見えてこないのではないでしょうか?
| |⌒彡 学問カテだってこと・・・・・ |冫、) |` / 忘れてない? | / |/ | | サッ |)彡 | | |
598 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/28(月) 23:14:45
まずはこれから 『東夷傳倭人』 丗有王皆統属女王國 『後漢書倭』 國國(國)皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國 「丗有王」一般的には(世々王有り)と、訳されるようだが 「丗有王」は、 ☆三十人の王 と、訳し 三十人の王は、皆女王國の旗下に有る と、解釈すべきでは! 「丗丗傳統」は、 代々とりまとめる と、解釈し、 三十の国々皆王と称えていおり、それを邪馬臺國に居る大倭王が代々取り纏めていた。
599 :
活版屋 :2005/11/29(火) 00:40:13
>>595 「中華思想から言えば、樂浪郡徼が主、邪馬台国が従、で無ければならない。」
確かに「中華思想」も大事だが、文字数も大事だ。
貴方がこだわっている文章は、
「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。」と
樂浪と倭地、樂浪と拘邪韓と並置的に記述されている。
これを中華思想の面子を立てて、始点を樂浪にすると「樂浪郡徼」が重出してしまい
文字数も増える、笵曄はこれを避けたのだと思われます。
因みに梁書では「去帯方萬二千餘里」とあっさり書かれていますね。
600 :
俺等05772 :2005/11/29(火) 06:09:54
>>599 梁書では始点(主)が帯方、邪馬台国が従ですね。結局、論争は
>>562-566 の処に
戻ってしまいます。英語と同様、中国語でも無生物主語に他動詞が付くか?の問題
に帰着します。私が論争を再開したのですが、少し、冷却期間を置きましょうよ。
601 :
俺等05772 :2005/11/29(火) 17:49:02
>>447 >>462 >>464 プラムさんの宿題に対する回答
距離の問題については、文献を捏ね繰り回すより、実際に測って比較した方が楽なので、
ディバイダー(コンパス)を使って測ってみました。半島や島にぶつからない事を考慮に
入れて、可能な限り直線距離で測ります。
・仁川から半島南西部の海岸までは 400km, そこから金海までは 300km, 合計 700km。
したがって、七千里= 700km。→ 一里= 100m。
・金海から唐津までは直線距離で 約 200km。従って「一海を渡ること千余里」は不正確。
「渡海千余里」の距離は、郡使が体験から出した主観的距離と思われる。
・海路で、志賀島〜難波までが 500km、したがって、海路で仁川〜難波までは 1400km。
仁川〜難波を、海路のみの距離とすると、萬二千里= 1400km。→ 一里= 117m。
金海〜難波を、海路のみで行くなら、五千里= 700km。→ 一里= 140m。
602 :
俺等05772 :2005/11/29(火) 17:51:25
(つづき) ・郡使は金海で乗り込んだ倭人の水先案内人に、狗邪韓國〜邪馬台国の距離を聞き、水先案 内人は金海〜難波の距離を五千余里と答え、編者は合計して萬二千余里にしたと思われる。 ・北九州の主要部分は、夜須を中心にして、ほぼ 60km =六百里の円内に納まる。 したがって、末盧から邪馬台国まで二千余里では、北九州域内には納まらない。
すげえじゃん。俺等乙。
604 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/29(火) 22:03:58
>>601-602 俺等さん
その気持ち十分解りますよ!私も、以前通り過ぎた事ですので(私だけじゃなく大勢の人達)
では、魏の洛陽から遼東迄400〜500q位ですか?
ま、いいでしょう
主観的と、とらえながらもきっちりと距離計算(換算値を割だし)をする矛盾行為だと思いますが
605 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/29(火) 22:19:54
俺等さん 私の距離認識は、「終止符をうつスレ」の287-288にカキコしましたので 暇な時でも参照下さい。 (一里=一里)ですよ!
606 :
俺等05772 :2005/11/29(火) 22:36:45
方向・距離の問題については、A. 誰から得た知識か、B. 編者が内容をどれだけ修正し た可能性があるか、の吟味が必要である。 A.については、a. 倭人から聞いたこと、 b. 郡使が実体験して記したこと、c. 郡役所にとって既知の知識、に分けて扱うべきである。 方向・距離に関して、次の仮定を設ける。 魏志倭人伝の編者は @ c. に対しては、方向・距離をそのまま採用した。方向・距離共に、信頼性が大きい。 A b. にも、方向・距離をそのまま採用した。方向・距離共に、陸路は概略信頼できる。 B a.で かつ編者の熟知している領域に対しては、聞いた方向を90°時計回りに変えた。 C a.で かつ編者の不案内な倭国域には、判からないが故に、方向をそのまま記した。 @ 郡より海岸に循って水行し、韓國を歴て、乍は南し、乍は東し、その (倭の)北岸狗邪韓國に到る。七千余里。 南→南、東→東北東、七千余里→正確 A 始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。 ○→南南東、千余里→不正確 A 又南に一海を渡ること千余里、一支國に至る。 南→東南、 千余里→不正確 A 又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。 ○→南、 千余里→不正確 A 東南陸行五百里にして伊都國に到る。 東南→東南、 五百里→概略正確 B (伊都國より) 東南、奴國に至ること百里。 東南→東北、百里→正確 B (伊都國より) 東行、不彌國に至ること百里。 東行→北行、百里→正確 B (不彌國より) 南、投馬國に至る。水行二十日。 南→東、水行二十日→正確 B (不彌國より) 南、邪馬台國に至る。水行十日、陸行一月。 南→東、日程→正確 B 女王國より以北は・・・。 以北→以西 C 奴國有り。そ(奴國)の南に狗奴國有り。 南→南、○→隣接 C *女王國の東、海を渡る千余里また國あり、皆倭種なり。 東→東、千余里→やや正確 C また侏儒國あり、その南にあり。女王を去る四千余里。南→南 四千余里→倭種〜侏儒三千余里 C 裸國・黒歯國、その東南にあり。船行一年にして至るべし。東南→東南、日程→概略 * 仮定:邪馬台国時代、箱根越えは未だ不可能で、伊豆半島を船で廻って東国へ行った。
607 :
俺等05772 :2005/11/29(火) 22:41:32
>>606 前のレスを考慮すると、次のような図が出来ます。
_ 邪馬台國の全体像を、簡略図で示す(文字サイズを小に願います)。
─-┘ \倭と韓の国境 (末盧・伊都・奴・不彌は都市名(点)、後出の奴国は国名(面))
狗邪韓國\ (末盧=唐津、伊都=吉野ヶ里、奴=須玖、不彌=三雲の各遺跡)
\
↓(南南東)
対馬
\ (東南) 女王圏の東境
\ (東、水行二十日) |
一支 ┌→−−−−−−−−−−→投馬國 |千余里
| ↑→−−−−−−−−−−−−−−−−→邪馬台國−−−→|−−−→倭種国(南関東)
↓ ↑ (東、水行十日、陸行一月) | ↓
末盧 不彌 ↓三千里
\ ↑ 奴 ↓
(東南)\↑/ 奴 国 ↓
伊都 侏儒國(八丈島)
−−−−−−−奴國と狗奴国の境
狗 奴 國
608 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/29(火) 23:01:41
>>606 俺等さん
大事な事忘れてますよ!
その大事な事が解ったので、私はその(
>>606 )作業をしなくなった。
大事な事って、何か解りますか?
先ずは、正確に史書を理解する この一言ですよ!
『自郡至女王國萬二千餘里』
私は、郡=樂浪郡とカキコしておきます。
609 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/29(火) 23:24:32
>>607 俺等さん
乙です。
今は、この言葉が精一杯
ゴメン!
610 :
三角@名無史さん :2005/11/30(水) 00:06:23
まあ、東説いい考えですね。でも略載した国は、どこにあったのか、 とか一大卒(あれ?字違うかな?)は、どこをみはってたとか、 少しだけ疑問のこりますね。 邪馬台国宮崎説は、不彌国を行橋市として、南に水行20日で延岡を 投馬国として、次をオア式で南水行10日で、宮崎市を邪馬台国と する。オア式にするのは、起点国名がない。方位がないから、末ロ国 は記載されてる。南に水行、陸行できるのは、南北に海岸がある、 日南海岸を示す。延岡から宮崎市までの75kmが水行10日であり、 陸行1月である。ここを2つしめしたのは邪馬台国の距離を示すための ものさしとして書いた。ロゼッタ石理論。不彌国から宮崎市まで、直線 で200kmある。水行30日なら75x3=225km。国東半島 迂回を考えればほぼ正確。さらに不彌国から邪馬台国は陸行3月になる。 隋書の南北3月行、各々海に至ると合う。
611 :
俺等05772 :2005/11/30(水) 07:08:31
>>610 以前掲載した各国比定を再掲します。全部載せると、改行が多すぎのエラーが
出るので、2分割して掲載します。特にB中枢国に注目して下さい。
奈良県の周りをぐるりと反時計回りに1周して西に向かっているのが判ります。
邪馬台国畿内説より見た各国比定(修正版)
@東国
次に斯馬(しま)國有り。 志摩国=(志摩+伊勢の海側)
次に己百支(じはき)國有り。 尾張国=(尾張+三河)←前後の関係より推定
次に伊邪(いや)國有り。 伊那国
次に都支(たき)國有り。 土岐国(美濃の東半分)
次に彌奴(みな)國有り。 美濃国(美濃の西半分)
次に好古都(こかた)國有り。 ???
次に不呼(ほこ)國有り。 ???
次に姐奴(つな)國有り。 敦賀国か?
A四国
次に対蘇(つさ)國あり。 土佐国
次に蘇奴(さな)國有り。 讃岐国
次に呼邑(こお)國有り。 阿波国 ←前後の関係より推定
次に華奴蘇奴(かなさな)國有り。伊予国 ←(金讃岐国:銅生産より推定)
612 :
俺等05772 :2005/11/30(水) 07:13:45
>>610 (つづき)
邪馬台国畿内説より見た各国比定(修正版)
B中枢国
次に鬼(き)國有り。 紀伊国
次に為吾(いが)國有り。 伊賀国=(伊賀+伊勢の山側)
次に鬼奴(きな)國有り。 近江国 ←前後の関係より推定
次に邪馬(やま)國有り。 山城国
次に躬臣(こじ)國有り。 河内国=(河内+摂津+和泉)
次に巴利(はり)國有り。 播磨国
次に支惟(きい)國有り。 吉備国=(備前(+美作)+備中+備後)
次に烏奴(あな)國有り。 穴 国=(安芸+周防+穴門(長門))
次に奴(な)國有り。 筑紫国
此れ(奴國)、女王の境界の尽くる所なり。その南(ここはそのまま南)に
−−−−−−−−
C敵国
狗奴国有り。 球磨国=建日向日豊久士比泥別=日向・火・豊の一部・阿蘇山の国
−−−−−−−−
D出雲連合(共立国)
空白域1=石見+出雲+伯耆+因幡+但馬+(丹波+丹後)+若狭+越
(ただし、投馬(づま)=出雲 のみ記載あり)
E不明国
空白域2=豊国
613 :
的外れ :2005/11/30(水) 08:45:48
そうですか?旧石器時代から可能だったとおもいますが。
614 :
的外れ :2005/11/30(水) 09:02:52
613は606への返答です。
615 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/30(水) 12:41:41
皆さんすごいですねぇー 邪馬臺國も、特定出来ない私は 恥ずかしいです。 その他の旁国なんて、一生無理でしょう! 載斯…斯馬国(王・主) 烏越…烏奴国(王・主) 牛利…巴利国(王・主)
>>611 だから不呼を日向にしシマを島原にすると一度もワープすることなく順番にならんでるって
617 :
俺等05772 :2005/11/30(水) 19:42:18
>>615 >>611-612 は、これから修正して行くべきものです。以前は躬臣(こじ)國を
越国に比定していたのですが、すると彌奴(美濃)→好古都→不呼→姐奴(敦賀)
の系列と、鬼奴→邪馬(山城)→躬臣(越)の系列が途中で交差してしまいます。
こうしたことは、国の数え方としては通常有り得ないことです。
それで、躬臣=河内に修正したのですが、これによって一方で中枢国の座りが
良くなった反面、困ったことに越国に相当する国が無くなってしまいました。
仮に空白域として越国を出雲圏に組み入れると、姐奴(敦賀)を邪馬台国圏に
想定しているために、越国は出雲圏内の飛び地で無ければならなくなります。
だから、姐奴=敦賀とするには、未だかなりの疑問が残っているのです。
618 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/30(水) 21:54:31
>>617 俺等さん
かなり広い範囲にちりばめられていますが
その広い範囲の(王或は主)が 卑弥呼共立や朝貢の使者に、どのように集合するのでしょう
619 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/30(水) 22:12:41
俺等さん これらの諸国の(王或は主)は、常に女王の近くに居たのでしょうか? それとも、国元に?
620 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/11/30(水) 23:25:25
(倭人傳)漢時有朝見者今使譯所通三十國從 (倭伝) 使驛通於漢者三十許 漢の時、三十人の者が使いとして挨拶を認められていたが、今(魏時)は三十国を従え朝貢する
>>620 「倭人傳」「倭伝」・・・中途半端な名称なんですよね。
とても紛らわしい、つーか呼んでて苛つきます。
あなたの「魏書」と言う単語の使い方にも言えますが、
ご自身の用法には、何らかの拘りがあるようですね。
でも、少し考え違いをしていると思う。
正確を期して正式名を使うと言う考え方がありますが、
同名のものが複数あれば、出来る限り読者が判断しやすい「用法」で標記すべきです。
で、「倭人伝」ですが、通常は三國志魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷傳の
「倭人在帶方東南大海之中」で始まる一章の通名として使われる言葉です。
これは、中国の刊本でも採用されていますが、正式なタイトルではないですよ。
単に冒頭の「倭人」をもって、そう呼び習わしているだけです。
貴方もご存知のとおり「倭人伝」は他の書(晋書)でも使われる言葉でしょう。
そして「倭伝」・・・ですか。これは、正史では後漢書だけだと思います。
しかし、他人に読ませる文章なのですから、読む人にわかり易い書き方、
一般的な用語法で語られたらいかがですか?
「倭國伝」なんて言ったら、出典がどの書からなのかは、よほどの見識のある方でなければ判りませんよ。
二つの文章を例示して、その出典を添えるなら単に書名を表示していただいた方がわかりやすい。
620の場合、「魏志」「後漢書」と素直に書いてくれた方が普通の人は読みやすいと思います。
622 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/01(木) 06:09:44
>>621 これはこれは
以後注意します。
確かに、『倭人』はいけませんな
『魏志』『倭人伝』『倭人の条』『魏志倭人伝』……ん…〜
私も正直、『魏志倭人伝』と使用したいのですが
以前、
『そのような書物は無い』と、何度も指摘されたもので
現在も、苦慮しているしだいです。
623 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 08:37:10
>>618 各国をちりばめたのではなく、隙間が無いように、
>>607 の邪馬台国勢力圏の領域
全てを各国で埋めた積りです。
でも、どうしても埋まらず、空白域になってしまった場所がある。それが出雲を
除く山陰・北陸諸国(石見、伯耆、因幡、但馬、(丹波+丹後)、若狭、越)です。
後漢書に「桓靈間(147-189)、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主」とありますが、
私は出雲を中心としたこれら諸国と、邪馬台国を中心とした諸国の争いだったと
思っています。結局、勝負がつかず、話し合いの結果、卑弥呼が倭国の王となる
ことで決着した。
卑弥呼共立は、基本的には出雲圏と邪馬台国圏2勢力の話し合いの結果でしょう。
貢物は邪馬台国勢力圏では直接邪馬台国へ、出雲勢力圏では一旦出雲に集められ
出雲を通して邪馬台国に送られたと思います。その中から選んだ物を魏に贈った。
朝貢の使者は邪馬台国本国の使者と伊都の役人だけでないでしょうか。文書で倭
諸国を代表して、と書いただけだと思います。
624 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 08:39:11
>>619 解りかねます。笑
私は、埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の持ち主は雄略紀にある身狭村主青、熊本県江田
船山古墳の大刀の持ち主は檜隈民使博徳、と想像しています。身狭村=武蔵村、
檜隈=肥後で、国の出身地毎に村を作り、若い時は大王に仕え、年取ったら国に
帰り、国の主となる。そして子弟を中央に送り、奉公させる。
卑弥呼の時代も同じだったのでは無いでしょうか。少なくとも出雲の子弟達は確実
に三輪山付近に住んでいたと思います。
625 :
太国 :2005/12/01(木) 09:21:25
外国たる支邦の魏志倭人伝にだ、畿内の向こうの三重県までの記述があったとしたら、 蝦夷はまあよいとして、よく遠方のここまで記述ができるなぁと感服するが、ならば 女王国により近い自分たち日本の記紀にはまさか畿内のより近い場所に位置する女王国の姿、 卑弥呼と天皇との関係、女王国の周辺の国々との位置関係、いやそれが無記述であっても 何らかのそれに準じるあるいは匂わせる記述が、倭人伝の内容と同等位かそれをを上回わる 記述がその記紀にあるのかと考えれば 遠方外国の魏志倭人伝には 女王国とその周辺の詳細がおおく記述ある。 近隣本国の古事記書紀には 女王国とその周辺の詳細がまるで記述ない。 本来は記紀に詳細があるべきなのに、それが逆になっているというこの事これは 何を物語っているものなのか?知れたことよ。w 当然の当然。女王国は九州王朝のあったその九州に存在したからなのだ。
626 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/01(木) 12:45:42
>>624 俺等さん
中華側の認識範囲は、後漢時代も魏時代も、それほど変わっていないと思いますよ!
627 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/01(木) 14:11:37
質問ですが、吉野ヶ里遺跡は「傍国」の中に入っているんでしょうか?
628 :
太国 :2005/12/01(木) 14:41:58
>>625 たとえて考えればだ、
日本ソバ屋のメニューに モリソバが無い。
中華ソバ屋のメニューに モリソバが有る。
という皮肉な状態が、魏志倭人伝と古事記日本書紀の文面なのだ。
本来有るべきはずの日本のほうにそれが無いという状態がこれらの史書の内容なのだ。
ならば、逆になっているこの矛盾を冷静に考察すればだ、女王国が九州になけらば
ならないのだ。卑弥呼の国は九州にあったとするのが正解なのだ。
629 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/01(木) 14:47:48
630 :
日本@名無史さん :2005/12/01(木) 14:49:53
631 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/01(木) 15:06:56
632 :
日本@名無史さん :2005/12/01(木) 16:43:36
今北よん だいたい倭人伝が存在しなかったら邪馬台国も卑弥呼も無かったわけだし その上、記紀と比べて あ 〜 だ こ 〜 だ 論じて結論まで導き出しなんて、超が付くくらいアホ杉ですね
633 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 18:18:27
>>625 おっ、太君だ。君には出来るだけ解り易く、理解できるように述べまっせ。何せ、
邪馬台国九州説で凝り固まった太君を、畿内説に寝返りさせれば、大成功だから。
>>607 の図を見て下さい。末盧・伊都は昔は国だったんですが、卑弥呼の時代には
肥前国の都市名になっています。でも、中国人は未だ国だと錯覚していたんです。
奴・不彌も同じく都市名で、後出の奴国は国名、現在で言えば、福岡市と福岡県の
ような関係です。
>>607 の図の左端(西)に奴國と狗奴国の境界があり、南側が狗奴国になっています。
この地域は古事記の国生みの箇所で、建日向日豊久士比泥別と書かれている国です。
久士比泥=奇火根=奇しい火の根=火山の麓=阿蘇山の麓、ですが、建日向日豊を
どう分けるかです。建日・向日・豊と分ける人が多いのですが、私は建日向・日・豊
で分け、日向国・肥国・豊国(の一部)、と読みました。
つまり、日向出身の神武天皇は狗奴国王ということになり、神武が邪馬台国を滅ぼし
たのなら、敵国の女王であった卑弥呼について叙述する必要はなくなります。しかし、
正統な倭の女王でしたので、卑弥呼を天照大神として祀った可能性は大です。
崇神天皇は宮廷内で祀っていた天照大神の勢いを恐れて、大和の笠縫邑に神殿を移し
ています。もし、天照大神が本当に天皇家の先祖なら、大神の勢いを恐れる必要はな
いはずです。
634 :
太国 :2005/12/01(木) 18:31:46
>>633 所詮、貴殿は俺の敵ではないよ。w
何だって、神日本磐余彦火々出見尊が卑弥呼の国を滅ぼしたって?時代感覚が大錯誤だ。
○○も休み休み言ってくださいよ。w 聴いちゃいられんよ。全く・・・・・。w
卑弥呼が天照大神だって?w どちらも間違いだらけ・・・・・。
日神は卑弥呼にあらず。まあ君はお二方がイコールだから、アマテラス男神説は否定だろ?
635 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 18:40:16
>>629 木下籐吉郎も羽柴秀吉も豊臣秀吉も同じ人物です。棒読
×鉄剣→○大刀。 「ムリテ」って読むの?
636 :
太国 :2005/12/01(木) 18:44:59
>>635 それはそうだが、必ずしもそうはならない。何となれば、おのおの名の違う
「俺等05772」の君と「太」という俺とは別人なのは自明だろうが・・・?w
637 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 18:57:55
>>634 時代感覚が大錯誤だ、という話大いに興味あり。きちんと話してよ!
638 :
太国 :2005/12/01(木) 19:03:58
どの信用のおける文献にだ、神武天皇と卑弥呼が同時代の人物だとの記述があるのか?w
639 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/01(木) 19:18:50
俺等さん 狗奴國は、女王國(三十國統制)旗下だと思いますか?
640 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 19:44:45
>>638 神武天皇と卑弥呼は同時代でなく、神武の方が後の時代です。
根拠は安本美典氏の古代天皇平均在位10年説でも読んで下さい。
倭国と後の日本が同じ地域だと無条件に信じ込むのは危険ではないのか? ほんとうにちゃんとその点は検証されているのか? 邪馬台国が九州だの畿内だのそんな枝葉末節以前にこのことをちゃんと検証すべきではないのか?
642 :
太国 :2005/12/01(木) 19:51:38
太安萬侶と安本美典氏とどちらを取る?太安萬侶は神武の方が先の時代と
云っているんだ。
>>640
643 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 20:00:02
>>639 プラムさんの意図が判らないので、うっかり答えられない。
644 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 20:06:47
>>642 年代論に関しては当然、統計論を駆使した安本美典氏を取るね。
645 :
太国 :2005/12/01(木) 20:13:54
>>644 どうしてそっちを取るんだ?
いいかい、卑弥呼の国は成務、仲哀、神功、應神のあたりの世だ。
神武はもっと手前の御世だ。アマテラスならばもっともっと数万年手前あたりだぞ。
天照大御神=卑弥呼 とするからこんな間違いをしでかすのだ。w
646 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/01(木) 20:30:44
647 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 20:46:32
>>645 高天原の情景は弥生時代の成熟期です。田があり、灌漑用の溝があり、
機を織り、鶏を飼い、鉄剣があり、銅鏡があり、新嘗祭が有る。
数万年手前あたりでは、まだ縄文時代にもなりませんよ。もう少し、
高天原の情景を、古事記や日本書紀から読み取ってください。
648 :
俺等05772 :2005/12/01(木) 21:02:49
>>645 神功、應神の時代は朝鮮半島で、新羅が辰韓の統一国家として成立している。
卑弥呼の時代は、未だ馬韓・弁韓・辰韓が多数の小国家群に分かれていて、
統一国家になっていない。卑弥呼の方が断然神功、應神より古い。
649 :
太国 :2005/12/01(木) 21:16:55
>>648 貴殿の頭を冷やすためにだ、アナログ計算式で説明してるんだよ。
だから、卑弥呼は魏の時代に合わせれはいいんだよ。道教百枚増加でな。
ヒミコ 139 のだ、
139+100=239年 だ。ww
分かったか?www
650 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/01(木) 21:48:44
魏の京都に朝貢の使者として二十九名『自古以来其使詣中国皆自称大夫』の国主これが、女王國(三十国体制)下の(丗有王)であるでも、これでは一名 足りない。 その足りない一名が、狗奴國王である卑弥弓呼であると、考える
651 :
日本@名無史さん :2005/12/01(木) 23:49:33
652 :
太国 :2005/12/01(木) 23:58:57
百済無いことを聞くな。俺は眠い。明日相手をしてやる。 だいたい云っている意味が何を指すのかわからんぞ。
653 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 00:05:55
「百済無い」……ガゼビア 「下らない」……関西から江戸に来る酒「下りもの」じゃない酒のこと
654 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 00:09:27
>>652 じゃあ最初から解かりやすく書けやボケw
松浦の現地のアクセントはどんなかんじですか?
>越国は出雲圏内の飛び地で無ければならなくなります。 飛び地で何が悪い。当時は(てゆうか前近代一般)海路のほうが 陸路より遙かに意味が大きい。越と出雲の通交など、渟名河姫の故事を挙げるまでもない。 ムサ・檜隈は高市郡。こんなのあたりまえ。武蔵? 肥後? アフォか。デムパ決定。
657 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 06:58:52
>>656 >ムサ・檜隈は高市郡。こんなのあたりまえ。
何か誤解をしてますね。昔、札幌の近くに広島村があったのだが、そこは
広島県出身者が造った村。身狭・檜隈は武蔵・肥後から天皇に奉公に行
った集団が住んでいた高市郡内の村だと言っただけですよ。
658 :
俺等05772 :2005/12/02(金) 07:02:55
誰か「葉木(はこ)国」のことを詳しく知っていたら、教えて下さい。日本書紀の最初に、 天地が初めて分かれた後、生じた神の一人に「葉木国野尊」がいます。この国が何処を 指すかを知りたいのです。魏志倭人伝に、次に不呼(ほこ)國有り、がありますが、音感 が非常に良く似ています。 >657 HN付けるの忘れちゃいました。
659 :
太国 :2005/12/02(金) 09:35:32
>>654 専横がどうのこうのって?な〜んだというのか?
>649は俺等05772さんの結論付け方法を準に真似たのさ。w 一寸のからかい。w
>654のままじゃ、デムパといわれてもやめを得んからのう。だからwww3個付け。
「百済ない」でも「下らない」でもよそから来たものをありがたがるつまらない根性が丸見え。 どっちにしてもしょうもない言葉だ。
661 :
太国 :2005/12/02(金) 10:00:39
お前さんは「地理ビアの泉」の見すぎ。
662 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 12:26:40
新丸礼治は嘘つき
仕事しなさいお前ら
664 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 15:57:33
665 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 18:35:02
新丸礼治でぐぐったら、キモサヨor在日であることが粗判明しますた
666 :
三角@名無史さん :2005/12/02(金) 21:23:51
邪馬台国 宮崎市説 で確定かな?やっと、終止符かな?
667 :
俺等05772 :2005/12/02(金) 21:39:20
誰か、伊勢神宮は何故、伊勢神宮なのか知っていたら教えてくれませんか? 通常、国名の付く神社は殆ど無い。出雲大社があるけど、元々からその土地に ある神社だよな。多賀大社は多賀町にあるが、名の元は多賀大社じゃないの? 伊勢神宮神宮のようにあちこちの神社に移転した後、伊勢に居座った神社の ように、伊勢の国名を冠する神社は他にあるのかな? 逆に伊勢神宮が出来た後、国名を伊勢としたのなら、話は判るよ。
668 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 21:44:13
●豊雲野神(トヨクムヌノカミ) ●豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト) ●豊国主尊(トヨクニヌシノミコト) ●豊組野尊(トヨクミヌノミコト) ●豊国野尊(トヨクニヌノミコト) ●葉木国野尊(ハゴクニヌノミコト) ●国見野尊(クニミヌノミコト) 豊じゃね?
669 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/02(金) 22:34:23
670 :
大和@名無史さん :2005/12/02(金) 22:57:15
>>666 三角さん。
宮崎説、万世一系は宜しいのですが何でも食いつくプラム氏も流石にお手上げ?。
鹿児島吾平山上陵に眠る『フキアワズノ命』神武の父上とされ皇宮警察の厳重な
る警備ももっともらしい。故に半島系というよりも南方系隼人族の流れではない
の?。厳密にいえば鹿児島東遷説があってもよろしい。
671 :
日本@名無史さん :2005/12/02(金) 22:57:56
672 :
大和@名無史さん :2005/12/02(金) 23:10:02
↑これはまた、立派な風呂敷を拡げていらっしゃる。降参。
673 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/02(金) 23:11:06
>>670 大和さんお晩です。
唯一、天皇関連だけは手を出しません。
それに、未だ中国正史関係が中途半端なもので
『記紀』に、進めません
記紀の知識は、小学生以下ですから文章見ていて目眩がします。
674 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/02(金) 23:47:05
天皇との関連より、考古学との関連を考えた方が良いような・・・
平安、鎌倉、江戸、明治新政府、進駐軍といろいろ時代をくぐりぬけてきても、 現代まで受け継がれている、とある綺麗な分布がある。 やっぱり、邪馬台国はそこにあったんだろう。
>>670 「ウガヤフキアエズノ命」じゃなかったけか?
677 :
大和@名無史さん :2005/12/02(金) 23:54:10
>>673 プラムさん、ご無沙汰です。
>天皇関連だけは手を出しません。
これは逆差別ですよ。思想的に右左はあろうかと思いますが、古代史を研究
するからには避けて通れません。列島・半島・大陸、一気飲みしないと縺れ
た糸は解れません。過剰な謙遜は百害あって一利なし、生意気許徐。
大和に邪馬台国時代の有力な遺跡があったかな?
679 :
大和@名無史さん :2005/12/02(金) 23:59:27
>>676 浜子さん
そうです。ご指摘サンキュです。
680 :
大和@名無史さん :2005/12/03(土) 00:03:36
>>浜子さん。 邪馬台国の時代って西暦でいつ頃のことなのですか。
683 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 00:29:37
邪馬台やまた → 大和やまと 小バカにされるんだろ〜なあ〜
畿内説は天皇万世一代を否定するようなもの。 共立された女王に、血縁のない二代目女王など
>>657 >天皇に奉公に行 った集団が住んでいた
そんなことは知ってるよ(天皇だの、奉公だのって語は非歴史的だがな)
飛鳥近辺に諸国の国名が残ってるのが、その名残だなんてことは、遙か昔に指摘されてる。
肥後國、武蔵國はあるが、檜隈國・身狭國なんてのがあるか?
肥後國がいつ出来たか知ってんのか。それより遙か以前に已に
桧隈は存在するんだよ、ヴァカ。
てめえみたいな、電波コジツケ妄想のヤカラがいるから、いつまでたっても進展しねえんだよ。
>>658 >>668 氏の言う通り。「葉木」は「豊」の誤写と考えられる。
これはすなわち書紀(或いは一書)が参照した資料が、(口承ではなく)
書物として存在していたことを示しており、興味深い事例とされている。
686 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 07:16:01
>>668 書紀をそのまま読めば、そうなるけど。葉木だけちょっと異質に感じる。
687 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 07:24:26
>>685 「隈」は奥深い処という意味だ。「前」を示す場合もある。
>「葉木」は「豊」の誤写と考えられる。
左翼学者の受け売りじゃん。さしづめ、岩波の書紀でも見たかな?
688 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 09:01:52
>>685 左翼学者の言葉を鵜呑みにするアホ。自分では考えることも出来ないのか。豐國野尊は
既出じゃないか。2度も3度も同じ事を言うアホは古代人にはいないぞ。同じ誤写なら
「次に」葉木國野尊と曰す。「次に」見野尊と曰す。の方が遥かに意味が通るぞ。
・國常立尊と號す。亦は國底立尊と曰す。
・次に國挾槌尊。亦は國挾立尊と曰す。
・次に豐國主尊。亦は豐組野尊と曰す。亦は豐香節野尊と曰す。亦は浮徑野豐買尊と曰す。
亦は豐國野尊と曰す。亦は豐齧野尊と曰す。
・亦は葉木國野尊と曰す。→「次に」葉木國野尊と曰す。
・亦は見野尊と曰す。→「次に」見野尊と曰す。
689 :
太国 :2005/12/03(土) 09:07:37
貴殿のほうは、安本先生の論を鵜呑みにしてないか?w
690 :
大和@名無史さん :2005/12/03(土) 09:39:18
>>682 浜子さん。
卑弥呼、魏へ朝献(239年)金印紫綬授与。壹興、西晋へ朝献(266年)以後不明。
後漢書云う、大倭王、邪馬臺国に居ると。
邪馬臺国=邪馬壹国とするならば、邪馬台国時代は相当遡らないといけない。
金印漢委奴国王の57年まで遡る必要はないものの、107年倭国王師升はクリアー
する必要があるのではないでしょうか。
とすると、大和に於ける邪馬台国の関連遺跡は57年以後の一世紀後半から確実視
される二世紀初頭を含めて探り、お終いは三世紀末頃でしょうか。凡そ250年の
期間を想定する必要があります。卑弥呼の時代はその中の一時代でその限りに非
ずと捉えております。
691 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 09:43:34
>>684 畿内邪馬台国を狗奴国王が東征して滅ぼしたのなら、何の問題もなし。
そこで王が替わったから、国自体は万世1系じゃなくなるけど。
692 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 10:02:19
>>680 略年表(どなたかのをコピーしたものです)
西 暦 出 来 事
A.D. 57 倭奴国王、後漢に朝貢。光武帝より金印を賜る。
107 倭国王師升ら、生口160人を後漢の安帝に献じ請見を求める。
倭国大乱、この後、邪馬台国連合成立。
238 卑弥呼、魏の明帝に朝貢。魏王、卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬
(239) 銅鏡百枚などを下賜する。
240〜245 倭王からの朝貢、魏帝からの賜物が行き来する。
少帝、黄色の軍旗を倭王に与えることにし、帯方郡に託す。
247 邪馬臺国、狗奴国と交戦。卑弥呼、魏に援助を求める。
帯方郡太守、張政に詔書・黄色の軍旗をもって行かせ、檄文を授ける。
? 248 卑弥呼死去。径百余歩・殉葬の奴婢百余人の墳墓を造る。
男王立つ→国中服せず→殺し合い→卑弥呼の宗女、13歳の臺与が即位。
266 倭の女王の使者、西晋に入貢。
邪馬臺国消滅?
693 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 10:22:35
>>692 その前
日中の年表対比から見た渡来弥生人のルーツ
中国側戦国時代の年表 日本側弥生時代薄明期の年表
前473年 呉が越に滅ぼされる 約2500年前 高知県土佐市、居徳遺跡 金属器で殺傷
前379年 越が呉に遷都する
前334年 越が楚に滅ぼされる 約2300年前 土井ヶ浜遺跡 縄文人と異なる身体の渡来系弥生人
約2300年前 泉大津市池上曽根遺跡の始まり(大規模工房&蛸壺)
約22X0年前 吉野ケ里遺跡丘陵南端周辺で始まる
前223年 楚が秦に滅ぼされる
前222年 燕・代、秦に滅ぼされる
前221年 秦が斉を滅ぼし天下を統一
前219年 徐福、第2回出航
弥生時代の薄明期は、呉や越が滅んだ頃から始まります。国の滅亡に際
して、彼土地から逃れてきた。徐福はもっと後なので関係なさそうです。
その後、約500年程して邪馬台国が出来た。
694 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/03(土) 10:30:07
>>690 大和さん
おはようございます。
そう言うことですね!
695 :
大和@名無史さん :2005/12/03(土) 11:23:02
>>694 プラムさん。謝々。
大同小異、そういうことですよね!!。
>>693 俺等さん。>692略表サンキュウです。
歴博発表の弥生500年遡り、今のところは考慮するに価せずですか。
696 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 11:34:21
>>689 太君は
>>693 の年表見てから、物言ってね。 この年表、かなり苦労して
作ったんだけど、君の年代に対する考えは間違ってることが判るでしょう。
安本美典=九州説、私=畿内説だから、全く考えが別ですよ。
697 :
太国 :2005/12/03(土) 11:43:30
貴殿は矛盾してるみたいだが?w
698 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 11:45:59
>>695 考慮するに価せずでも無いのですが、・・弥生時代の定義が問題ですね。
500年遡るって言った場合の弥生時代って、何を意味するかです。
699 :
太国 :2005/12/03(土) 11:52:22
>>696 間違ってるのは貴殿のほう。神武と卑弥呼が戦争したなら記紀に記述ある筈だ。
"記紀に記述ある筈だ。" 何でそう思うのか理由ぐらい書けばよいのに・・・
>>698 時間軸の考古学的な推定値が変わってしまっても基本的な「定義」は変わりませんよ。
遠賀川式土器に代表される高温焼成技術や安定した収穫が維持できる高度な水耕技術の伝播が基本です。
>>690 >>680 ありがとうございます。景初三年=239でした。「107年倭国王師升はクリアー
する必要があるのではないでしょうか。」
私見は、師升は邪馬台国の王では無かった、と見ています。あと、大和の弥生
時代の有力な遺跡は唐古・鍵遺跡ではないかと。
703 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 13:29:51
>>701 人種の交代はどうなんですか?
彫の深い縄文人から浅い弥生人への交代は?
704 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/03(土) 13:36:24
705 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 13:48:59
>>699 >>692 の表を見て下さい。仮に台与が晋に最後の使いを送って、間も無く
邪馬台国が滅んだとしても、卑弥呼の死から20年は経っています。
神武記に卑弥呼が出て来るはず無いでしょう。もう少し書きたいとこ
だけど、
>>685 みたいな変な奴が今ウロチョロしてるから、止ーめた。
706 :
701 :2005/12/03(土) 14:02:37
>>703 新しい文化の伝播には、それを携えた人の移動を伴うことが多いです。
日本列島には、今日に至るまで数多くの文化が、渡来人とともに持ち込まれています。
しかし、新規渡来人が土着の在来人を根絶やしにするような人種の「交代」は実証されていません。
ただ、新旧の混血・交配は常に行われています。
そして、大きな文化変動の時には、画期的な形質変化の痕跡を残すことは多いです。
因みに、現在は、ここ数百年では最大の混血化時代ですね。
小中学校生のお子さんを持つ方なら気がついていると思いますが、
父母懇親会などで出会う親御さんたち(特に母親)、外国人が驚くほど多いですよね。
707 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/03(土) 14:04:19
708 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 15:02:14
>>706 それはどうかな。明治維新は非常に大きな変革期だったが、人種の交代は無し。
安土・桃山時代も然り。律令国家の形成期も同じ。
弥生人渡来の上限は
>>693 の高知県居徳遺跡頃じゃないの?
高知県土佐市の居徳遺跡縄文晩期(2500年前)の遺跡から見つかった人骨は成人男女9人分15点だが、
少なくとも3人分の骨に人為的に殺傷もしくは損壊された傷痕があり、縄文人の特徴をもっていた。
居徳遺跡の殺傷痕人骨の話題性は、縄文晩期に(それまでは2300年前の弥生からと考えられていた)、
女性も含む複数の縄文人が(それまでは単発的、事故的な受傷痕)、金属器で(渡来人が持ち込む
までは存在しない)、遺体の解体や損壊を目的とした刺突痕をつけられ(縄文時代にも遺体が白骨化
した後解体して再埋葬する習慣はあるが、損壊を目的としていない)、ばらばらにされ墓地に埋葬
されていないところにある。
農耕を示唆する木製の鍬や、中国の春秋戦国時代の工芸に共通する木胎漆器が見つかっており、イヌ
を食べていた(=渡来系の文化)。
http://www.rui.jp/message/02/75/81_4880.html http://www1.ocn.ne.jp/~johmon/no43.htm 北九州では縄文人と弥生人は住み分けを行っていたから、共存していた。
でも、畿内では弥生人が縄文人を滅ぼしたって、NHKで言ってなかった?
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-12.html ↑
この図下側の北九州の拡大図を見ると、水田耕作可能地には弥生人が、漁労地域には縄文人が生活
していることが分ります。このような住み分けのある地域については、物資の交換があったと考える
のが普通ですので、両者は巧く共存して生活して行けたかも知れません。
709 :
太国 :2005/12/03(土) 15:14:50
>>700 一行でもいいよ。記紀のどこかにだ、神武と卑弥呼が同年代であるという
両者が戦争したという記事がいったいあるのか? ということをだよ。w
710 :
太国 :2005/12/03(土) 15:17:46
>>705 ところで、その神武と卑弥呼とはどちらが勝ったんだね?ww
711 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 15:37:11
おまい、このスレの住人に在チョンと思われているようだけど、感想は?
712 :
太国 :2005/12/03(土) 15:40:58
713 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 15:48:38
ところで記紀信者ってどうしようもないね!w
714 :
太国 :2005/12/03(土) 15:50:50
貴殿も安本氏信者か?w
715 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 15:52:48
>>713 あれだ、あれはね直感を膨らませて世界を創り上げればいいんだよ
前頭葉を使わなくっても結構逝けるんだな〜これがw
716 :
太国 :2005/12/03(土) 15:56:15
君は俺等さんの 葉木派 か?w
717 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 16:01:14
負けず嫌いなのは分かった、なま温かく葉木として見守ってるよ、ザイニチくんww
718 :
太国 :2005/12/03(土) 16:05:00
>>717 ザイニチだと〜?
俺は太国グループ、古神道皇道派の一人だ。寝ぼけたことを言うなよ。
719 :
700 :2005/12/03(土) 16:37:56
>>709 オマエさん、お馬○だなあ。
理由聞かれてんのに同じこと繰り返して言ってるだけじゃん。
まあ、日本語得意じゃないんだろうが・・・最低限のレベルは習得して来いよ。
ここは、「コミュニケーション」の場なんだからさあ。
720 :
太国 :2005/12/03(土) 16:56:27
神武と卑弥呼だと、○○も休み休み言ってくれ。w 方法数百の時代のズレがある。笑止千万。上段は俺のセリフだ。ww
721 :
太国 :2005/12/03(土) 16:57:43
訂正 誤 方法 正 双方
722 :
700 :2005/12/03(土) 17:34:57
>>720 だからさ、それじゃ、「記紀に記述ある筈だ」ってオマエが思ったことの理由になってねーって言ってんの。
ここは、「記紀に記述がある」ことと「神武・卑弥呼の実年代の判定」がどう関係すんのか説明しなくちゃなw
それに、オマエも一応は漢字文化圏の一員だろう。方法と双方ぐらい書き間違えるな。
それから、最後の行は「数百の時代」じゃなくて「数百年間の」方が日本語的じゃないのかw
723 :
太国 :2005/12/03(土) 18:49:32
急ぎがあって抜けたわけだよ。うぬから誤記が分かればいいだろう。w まあう、ぬは揚げ足しかとれんわけか? 下段はうぬが承認したから問題ないだろう。ww
724 :
太国 :2005/12/03(土) 18:55:48
>>709 に書いてやったろうが?
うぬの承認で数百年間となったんだからな。w
無記述で神武と卑弥呼が同年代か?随分冒険してる理論だな?ww
其のうち 神武=卑弥呼 などと言い出すんじゃぁないのか?www
725 :
700 :2005/12/03(土) 19:07:33
>>724 ホント、日本語の不自由な御人だなw
俺は、神武と卑弥呼なんてどうだって善いんだってば。
そんなことの是非を訊いてるわけじゃないよ。
オマエさんの「記紀に書いてない」って書けば、
それで「説明」になると思っちゃう思考回路が面白いから突っ込んでるだけだよw
726 :
太国 :2005/12/03(土) 19:12:38
どうでもいいなら聴くことなかろう?時間の浪費だ。w 逆にどうでもいいからう、ぬは両者が戦争したとか抜かすのを盲信するんだろう?w そのうち 天照と卑弥呼が戦ったなどと言い出すんじゃないのか? ww それともう、ぬも 天照=卑弥呼 か〜? もうめちゃくちゃだな。 www
727 :
700 :2005/12/03(土) 19:34:33
だからさ、アナタの「思考回路」に興味があるんだってば。 そっちは「どうでもよく」ないの!
あの〜? 『天照 VS 卑弥呼』論争 まだ、続きますか? 私は論争終了まで、しばし岩戸に篭ります
729 :
太国 :2005/12/03(土) 19:44:33
それよりも小手反でも張ったらどうだ?目障りで疲れるぞ。 古文献にないのに信じろというのが無理だろう。、某氏ではないが、新文献を勝手 にこさえて古文献とまるで正反する論を展開しても、俺は誤魔化されんぞ。 う、ぬは本当に神武と卑弥呼が喧嘩したと思っているのか?w 笑われるぞ。 卑弥呼は成務〜應神の世のころの人間だ。神武と顔が合うわけがない。 大鵬と朝青龍と顔があうか?噴出し物だぞ。www 早く目を覚ませ。
730 :
700 :2005/12/03(土) 19:47:35
早く早く、「記紀に書いてない」って書けば、それで「説明」になると思っちゃうところを騙って下さいよ。 楽しみに待ってるんだからさw
731 :
太国 :2005/12/03(土) 19:55:01
>>730 どこまで面倒をみろというのだ。
もし両者が相撲をとってるのなら、これは歴史上の特筆すべき事件だろうが?
それが記紀に載らずに白紙の経文でいるわけがなかろうがよ?w
必ず、記紀に記述されるだろうが?w 大鵬VS朝青龍なら必ず新聞に載る。w
こんなことまでう、ぬは俺に言わせるのか?ww
疲れさせるなよ。オッホン。www
732 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 19:56:43
>>707 証拠固めが出来ないので、未だ書きたくないのですが、凡そ下の系図を考えています。
卑弥呼が死んだ後、出雲系男王が位に就いたが、畿内系から不満が出て纏らなかった。
で、畿内系と出雲系双方の血を引く「壱与」が女王になった。
図の□□□には卑弥呼が入ります。伊須岐余里姫が「壱与」だと都合良いのですが、
ただ、伊と余で「壱与」と言うのも、何かしっくりしないんですよ。
┏□□□
三島溝咋━━┫
(畿内系王族) ┗勢夜陀多良姫 河俣姫
‖━━━━伊須岐依姫 ‖
大物主 ‖━━━━沼河耳
(出雲系王族) 伊波禮彦
(日向系王)
733 :
700 :2005/12/03(土) 20:18:04
>>731 もっともっと開陳しなされw
好いね、そのストレートな発想。
脳みその皺がすーっと消えてくようなとこがさわやかだね。
734 :
太国 :2005/12/03(土) 20:24:51
>>733 う、ぬは神武と卑弥呼がレスリングwをしていたと真に思っていて、
俺にストレートで否定されたんで、ぎらぎらしていたんだろう。w
そのような暴論は早く五十鈴川でミソギハラヒでもして脳みそを正常化しろよ。
735 :
700 :2005/12/03(土) 20:31:11
で、結局のところ、「必ず、記紀に記述されるだろう」って言うあなたの思いしか根拠は無いわけね。
736 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 20:40:20
>>732 三島溝咋を卑弥呼の男弟とした方が、座りが良さそうですね。
とすると、□□□が壱与(台与)になります。
737 :
太国 :2005/12/03(土) 21:19:30
>>735 根拠は他にもあろうが。w
「魏志倭人伝」に神武と卑弥呼がレスリングをしたという記述があるのか?
どうだ。これは反問だ。有るならば脱帽してやる。
それでも、うぬが分からんのならもう重症だな。
738 :
700 :2005/12/03(土) 21:24:31
>>737 >「魏志倭人伝」に神武と卑弥呼がレスリングをしたという記述があるのか」
だから、最初からその論理についてたずねてるんだろーが!
長々と関係ないことばかり書きやがってさ。
何で、書いてないといけないのかなあ。
739 :
700 :2005/12/03(土) 21:28:02
キミの論理は『書いてなけりゃ、全て間違い』って言ってるのと同じなんだよ・・・ まあ、その不合理さは、理解できないなんだろうね。 今、アド街でオネーさんの裸体を鑑賞中だから、これでバイバイなw
740 :
太国 :2005/12/03(土) 21:40:47
そんなことがあれば、当時重要な事件なのだから伝でも落とすわけがない。無根拠の その相撲はう、ぬの脳内の行き当たりばったりの短絡的考えに終始するだけさ。w
741 :
太国 :2005/12/03(土) 21:47:14
古事記、日本書紀にも神武と卑弥呼のレスリング事件は書かれていない。 魏志倭人伝にも書かれていない。偽書だとか云われている古史古伝にもそんな 記述をかいま見たことはな〜い。ところがだ、 「700新記」とやらには書かれてあるらしい。w 彼の脳内のロマンあふれる創作小説だそうな。ww
742 :
日本@名無史さん :2005/12/03(土) 21:48:15
743 :
大和@名無史さん :2005/12/03(土) 21:50:51
>>732-736 俺等さん。
悪乗りして、比売多々良伊須岐依姫(ヒメ・タタラ・イスキヨリヒメ)を、
近江比良山系伊吹山(ヒラタタライブキヨリヒメ)に近く周辺に製鉄遺跡を
有する『滋賀県湖北町古保利古墳群小松古墳』(三世紀中葉の前方後方墳)
の媛にする案。石野博信氏は邪馬台国の候補の一つに挙げていられる。
744 :
太国 :2005/12/03(土) 21:52:37
>>739 >オネーさんの裸体 か〜? それで神武と卑弥呼の相撲を肯定するの〜?ww
745 :
太国 :2005/12/03(土) 22:14:49
あいつはウズメを卑弥呼だなどと言いかねないぞ?www やつめ、とうとう逃亡したか?www
手塚治は九州派ですかね?
747 :
俺等05772 :2005/12/03(土) 22:47:10
>>743 あの辺に三世紀中葉の前方後方墳があるとは知りませんでした。
伊吹山周辺といえば、近江町能登瀬に息長小学校があり、私は車で通った
時には、本当にビックリしました。まるで神話の世界に入った気分でした。
今の人はマニアでなければ、神功皇后など知らないでしょう。
神功皇后が息長帯姫尊だと知っている人はもっと少ないと思います。
でぇ 神功皇后が息長小学校の卒業生なのか じゃなければつまらん話だせめて、初代校長位の話でなきゃ、乗れない話だ!
749 :
700 :2005/12/03(土) 23:32:24
>>745 おーい、アド街終わったから、戻ってきてやったぞw
相変わらず、関係ないこと書いて誤魔化してるね。
まあ、キミの「記紀に書いてないからダメ」式論理の補強になりそうなのは、
”唯一当時重要な事件なのだから伝でも落とすわけがない”くらいだね。
善いかい、よく読めよ。
まず、記紀自体は、卑弥呼の存在を認知してないと言うか無視してるわけだが、
そのような本々卑弥呼のヒの字も出てこない書物に出典がないことをもって、
他説の批判の根拠になると妄言するキミの論理だ。
俺が、説明してくれと言ってるのは、その論理についてだよ。
神武が存在しようが、卑弥呼が存在しまいが、今は関係ないんだよ。
わかったかな?
750 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/04(日) 07:37:19
みなさん、頑張ってましたね〜
751 :
大和@名無史さん :2005/12/04(日) 08:32:43
>>浜子さん。 ん、明石の安曇族の末裔かと思ったら、和泉の海賊の末裔!?。 確か通交手形お持ちのはず、弁慶の勧進帳は不可。
752 :
太国 :2005/12/04(日) 08:32:44
>>749 ここは邪馬台国のスレをやるところだ。それに重要な関係ある卑弥呼を論じるところだ。
卑弥呼が関係ないなら、他の板へ行かれよ。無関係の君に最後に言うが、
古事記にも神武と卑弥呼の関係の記事がない。日本書紀も同様だ。旧事紀、
魏志倭人伝にも記述がない。さらに古史古伝のウエツフミ、神皇紀、九鬼神伝書、
秀真伝、竹内文献や大成経等にも記述もなさそうだ。無い無いづくしだ。
少なくとも、1点位あってもよさそうなものだ。まったく無い=0 だから君の
頭脳論理の創作なんだよ?w 無いのを君が 有る→∞ と論理を展開している
のだよ。どこにもどこにもどこにも書かれていな〜〜〜いんだよ。wwwww
753 :
大和@名無史さん :2005/12/04(日) 09:23:45
>>747 俺等さん、補足。
伊吹山は湖東に含まれるのでしょうか岐阜県境、近江・米原の息長氏の故地。
小松古墳は琵琶湖のてっぺん湖北町に在りますが東山麓に古墳期初頭物部玉
造集落があります。
>>617 や俺等さんのテーマ、玉にも合致。
754 :
大和@名無史さん :2005/12/04(日) 09:58:48
>>743 大訂正
比良山系は湖西比叡山坂本ダー。謹んで訂正お詫び。
755 :
俺等05772 :2005/12/04(日) 10:48:23
>>753 伊吹山頂は滋賀県伊吹町が管理してますから、昔はとも角、湖東でしょう。
以前、安本氏の方法を使って、新羅王の年代推定をしたことがあるのですが、
天ノ日矛の来日時期と、第5代の婆娑尼師今が兄と王位を争い、人々の支援
を受けて即位した時期と一致します。
天ノ日矛の子孫はいずれ新羅王に返り咲くことを狙っていたのでしょう。
近江の坂田郡は天ノ日矛と縁の深い処ですから、神功皇后は自分が正統な
新羅王の後継者と思っていたのかも知れません。
756 :
俺等05772 :2005/12/04(日) 10:50:36
伊勢神宮は何故「伊勢」神宮なのか、誰か教えていただけませんか? 出雲大社の様に 確かに「国名」を冠した神社はあるのですが、それは昔から鎮座していた神様です。 しかし、伊勢神宮の場合、倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をし、最後に辿り 付いた場所であり、神社に国名を冠するのは問題があります。 倭姫命の巡行地 垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をした。 倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、 尾張国、伊勢国の順に移動し、伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に磯宮と言う名 の斎宮で鎮座した。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。 伊勢国が最初に造られた時には、志摩・伊賀も含まれていたそうです。だとすれば、元 は志摩・伊賀2国があり、その2国が併合して伊勢国が出来、後に一部が分離して、3 国になった、と考えた方が良さそうです。だとすると、伊勢の国名は伊勢神宮にちなんで 付けられたのかも知れない。で、何故「伊勢」神宮なのかを知りたいのです。
757 :
太国 :2005/12/04(日) 11:07:23
虚を衝かれたようで難しい、なかなかいい質問だねえ。 言霊というもので過去に研究したが、いまのところ・・・・・? 京都には元伊勢神宮があるねえ。
758 :
700 :2005/12/04(日) 12:40:15
>>752 オマエ、本当に○鹿だなあ。
書いてないのじゃなくて、書きようがないことなんだがな。
これは、オマエさんには理解できないだろうな。
まあ、それは、どちらでも好い。
自分で言ってることの意味が判ってるのか?
日本書紀に「卑弥呼のことが書いてない」なら、
オマエさんは、オマエさんの論理にしたがって「卑弥呼」の存在自体を否定したらどうだ?
「記紀に書いてない」ことは否定の根拠のなるんだろうw
ついでに、訊くが、オマエは、日本書紀注のことになんで触れないのかなw
>>756 伊勢にあるから「伊勢」神宮なんでしょう?
何が疑問なのでしょうか?
志摩国の領域にあったら「お志摩さん」と呼ばれたことでしょう。
正式名称は昔も今も「神宮」ですよ。
確かに出雲の方は、いつの間にか「出雲大社」になっちまいましたね。
760 :
太国 :2005/12/04(日) 14:31:10
>>758 それは俺の言うセリフだよ。w
当たり前だろうが、記紀にだインカ帝国王のことが載るか?
だからうぬは短絡的だというんだよ。卑弥呼は九州の某所の女王だ。
畿内が照鳥居の記紀に卑弥呼の事象が載るわけがないんだよ。記紀に卑弥呼の
件がまるっきりといってよい位記述されてないからこそ、この女王は九州に
所在したと俺は言っているわけだ。それをだ、うぬは否定しろだと・・・?w
笑わせるな。畿内で神武と卑弥呼がレスリングをやればだ、記紀にこれは
重要史実なので必ず載るはずだ。うぬはまだ大鵬と朝青龍のレスリングの取組み
が恋しくありうると思っているのか?www
番付にないといってだおれはその関取までいないの否定なんぞは、うぬの希望は
そうらしいが、するわけがない。うぬはもうそれで直線的に無いと俺が言った
ことにしたいわけだ。w ハハ!うぬはもう重症だな。wwwww
761 :
太国 :2005/12/04(日) 14:38:46
うぬは短絡的で細かいから、少々補填していう。 >760 載るわけがない とはだ、ほとんど記紀に情報が記載されぬということだ。 うぬはそれを「全く記載が無い」と俺が言ったと結論しちゃう経験のとぼしい奴 だからな。早とちり王か?w 日本書紀の注がどうのこうのと言っているからな。ww
762 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/04(日) 15:40:30
出雲大社は昔は「杵築大社」
763 :
日本@名無史さん :2005/12/04(日) 16:45:08
age
764 :
俺等05772 :2005/12/04(日) 16:48:16
>>759 疑い深い方なので調べてみましたが、確かに正式名称は「神宮」でした。有難う御座います。
でも、未だ納得がいきません。「神宮」という名称はかなり新しい感じがするのです。もし
かして、明治以降の名ではないかと。伊勢神宮の格式が高まった以降なら、単なる「神宮」
で通用しても、昔ならそうも行かないでしょう。
今、私が問題にしているのは倭姫命の頃の話、又は伊勢国が出来た孝徳天皇(645-654)の頃の
話なのです。その頃、単に宮といえば、伊勢の宮を指しているなら、話は判ります。でも、
元々、度会の宮を乗っ取って、天照大神の宮にしてしまったと主張する輩もいますので、当時
はそれ程格式の有る神社では無かった可能性もあるのです。その場合、単なる名無し神社では
どこでも通用という訳には行かないでしょう。名前が必要になります。
765 :
日本@名無史さん :2005/12/04(日) 16:51:23
卑弥呼降臨キボン
766 :
太国 :2005/12/04(日) 16:56:21
拆釧五十鈴宮 〜か。
767 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/04(日) 16:57:57
伊勢神宮より邪馬台国の話を。邪馬台国論争の中では、「伊勢神宮」 は枝葉末節である!
しっかりと休みなさいお前ら
むしろ「宇佐神宮」が関わってくるのでは?
770 :
俺等05772 :2005/12/04(日) 17:57:16
>>767 邪馬台国問題に2つ程係っています。1つは
>>611-612 の傍国比定で、もし当時の時代に
志摩・伊勢・伊賀の3カ国が存在していたとすると、
次に鬼(き)國有り。 紀伊国
次に為吾(いが)國有り。 伊賀国
鬼國から為吾國へと、伊勢国を飛び越えて列挙することになるので、>612の比定は間違って
いることになり、比定の再考が必要なのです。
2つ目は三島溝咋と卑弥呼の関係を考える場合、どうしても伊勢神宮のことを詳しく知る
必要があるのです。両者は「五十鈴」という言葉で結ばれています。私は三島溝咋が卑弥
呼の男弟、若しくは父親ではないかと疑っています。
三島溝咋を 卑弥呼=天照大神 の近縁者と考える理由
1. 五十鈴が両者に共通するキーワードになっている。溝咋神社:茨木市五十鈴町にある。
伊勢神宮斎宮:五十鈴の川上に興した。書紀では神武の皇后は五十鈴姫である。
2. 征服者が地元の女性を后とする時には、その土地の王族の娘と結婚するのが普通。
771 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/04(日) 18:00:16
>>770 ご指摘ありがとうございます。私も、より広い視野に立って「邪馬台国
論争」に加わるべきだということを痛感いたしました。
772 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/04(日) 18:03:16
ん?卑弥呼と三島溝クイが「五十鈴」で結ばれていると?
773 :
俺等05772 :2005/12/04(日) 20:12:24
>>772 そうです、溝咋神社は茨木市五十鈴町にあるのです。また、溝咋の娘は書紀では
五十鈴姫なのです。卑弥呼が天照大神とは関係ないと主張するのであれば、
問題にする程のことでは無いんですが、卑弥呼=天照大神なら、大問題です。
伊勢神宮も斎宮も五十鈴川に密接に関係しているのです。
774 :
日本@名無史さん :2005/12/04(日) 21:01:45
>>770 >為吾(いが)
吾(が)?
オイオイ
吾は、解字すると
(口+音を示す五)であり(ご)では?
>>761 そういう寝言は、邪馬台国畿内説を否定してから言えよ。
オマエさんの唯一の主張みたいなのが、「記紀には卑弥呼が出てこない」だろう。
根拠と結論に同じ言葉しか使えないのはとても痛々しいぞw
776 :
的外れ :2005/12/04(日) 22:29:38
倭人伝とも関係あるかもしれませんので、よろしかったら「弥生人の起源が江南だったらーー」もごらんください。
778 :
太国 :2005/12/04(日) 23:03:10
>>775 関係ないことと言っているなら最後にしてやろうと思ったが、関係あること
を言うならお相手してやるよ。
すでに俺は畿内説を否定してるよ。お前知らなかったのか?よく前のスレを読め。
畿内説なら6枚落ちで充分だ。記紀に卑弥呼の話がほぼ無いのなら
ストレートに卑弥呼は畿内の女王じゃぁないということだ。それでまず充分だよ。
どうだ、俺に勝てるか?よく考えるんだな。
お前さんも他人の批判ばかりで自己の論が待った苦wと言ってよいほど0じゃぁ
ないか?何も持っていないんだろう?wくやしかったら自論を出しな。勝てぬか?
pupu!! ハハ う、ぬの頭はジュマンジか・・・・・。www
唯一の駒でお前さんの論は充分だ。8枚落ちでうぬのは充分だ。
それだけ俺は研究して来たのだ。自説を持ってこい。無いのか?www
779 :
太国 :2005/12/04(日) 23:10:55
>>777 さん。あいつは負けてくやしくて、ぎりぎりしてるんですよ。w
それで感情的になっているんです。端っこ突付いて文句を言おうとしてるんですよ。
論で感情的ではもうおしまいだね。揚げ足とりですな。
780 :
岩戸 :2005/12/05(月) 00:01:28
>>779 太国さん
岩戸の中から失礼します。
もうよいではないですか!日本書紀の中から『邪馬台国』や『卑弥呼』を探し出したり、関連付ける事が矛盾しているのです。
中国史書さえ記載していなければ 『邪馬台国や卑弥呼』は絶対にこの世に姿を現す事のない存在です。
781 :
日本@名無史さん :2005/12/05(月) 00:20:37
782 :
日本@名無史さん :2005/12/05(月) 00:23:01
なるほど、チョソのような太国がいるからこのスレは繁盛するんだねw
783 :
日本@名無史さん :2005/12/05(月) 02:11:19
まあ、金印と阿蘇山を 畿内で見つけてからだな。 畿内説の諸君、話はそれからだ。
784 :
俺等05772 :2005/12/05(月) 07:48:40
>>774 上古音では、爲吾 (h)iuar-(g)ag だそうです。「いが」でよさそうです。
ちなみに、読みは私が勝手に読んだのではなく、山尾幸久氏からの引用。
傍国比定を若干改訂しましたので、以下に再掲します。
邪馬台国畿内説より見た各国比定(改訂版)
@東国
次に斯馬(しま)國有り。 志摩国=(志摩+伊勢の海側)
伊勢:7世紀に、志摩、伊賀を含んだ国として成立
次に己百支(じはき)國有り。 尾張国=(尾張+三河)←前後の関係より推定
次に伊邪(いや)國有り。 伊那国
次に都支(たき)國有り。 土岐国(美濃の東半分)
次に彌奴(みな)國有り。 美濃国(美濃+飛騨)
飛騨:風土記に云はく、この国は本美濃の内なり
次に好古都(こかた)國有り。 ???
次に不呼(ほこ)國有り。 葉木国? ←場所は不明だが、山地の国と思われる
次に姐奴(つな)國有り。 敦賀国か?
A四国
次に対蘇(つさ)國あり。 土佐国
次に蘇奴(さな)國有り。 讃岐国
次に呼邑(こお)國有り。 阿波国 ←前後の関係より推定
次に華奴蘇奴(かなさな)國有り。伊予国 ←讃岐の対の国は伊予(金讃岐:銅生産より推定)
785 :
俺等05772 :2005/12/05(月) 07:50:25
B中枢国 次に鬼(き)國有り。 紀伊国 次に為吾(いが)國有り。 伊賀国=(伊賀+伊勢の山側) 伊勢:7世紀に、志摩・伊賀を含んだ国として成立 次に鬼奴(きな)國有り。 近江国 ←前後の関係より推定 次に邪馬(やま)國有り。 山城国 次に躬臣(こじ)國有り。 河内国=(河内+摂津+和泉) 摂津・和泉を含め汎河内国と呼。 摂津:7世紀に津国として設置、和泉:霊亀二年(716)河内より分離。 次に巴利(はり)國有り。 播磨国 次に支惟(きい)國有り。 吉備国=(備前(+美作)+備中+備後) 次に烏奴(あな)國有り。 穴 国=(安芸+周防+穴門(長門)) 次に奴(な)國有り。 筑紫国 此れ(奴國)、女王の境界の尽くる所なり。その南(ここはそのまま南)に C敵国 狗奴国有り。 球磨国=建日向日豊久士比泥別=日向・火・豊の一部・阿蘇山の国 −−−−−−−− D出雲連合(共立国) 空白域1=石見+出雲+伯耆+因幡+但馬+(丹波+丹後)+若狭+越 (ただし、投馬(づま)=出雲 のみ記載あり) E不明国 空白域2=豊国
786 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/05(月) 12:12:29
>>785 俺等さん
狗奴國は、敵国ではありません。
『不屬女王』です。
誤解を生みますよ!
>>784 前後がつながってないとおかしいといったのはあんたでしょう。
中部からいきなり四国いくのは不自然ですよ
788 :
日本@名無史さん :2005/12/05(月) 16:56:44
まうずは、狗奴國の場所を考えれば、邪馬台国は生み出せる。 狗奴國は、軍事力が他の国より最強だ。と言うことは、青銅で作られた剣などの武器が 大量に作られていると言うことだ。 と言うと、出雲か吉備かのどちらかに当たる、吉備は刀の名産地で出雲は荒神谷遺跡などによって 青銅がよく出土られている。 それに伝説で言えば、出雲では「国譲り」やスサノヲノミコトなどの伝説があるし、吉備では吉備津彦命の吉備への 遠征がある。この2の国は倭から見てどちらとも手強いくにである。 しかし、高天原を邪馬台国にするならば出雲の伝説がよくある。それに倭のから見ても出雲の伝説がよくあると言うことは 狗奴國は出雲と言う可能性が高い。
789 :
日本@名無史さん :2005/12/05(月) 17:09:19
>狗奴國は、軍事力が他の国より最強だ。 んな事、何処にも書いとらんよ。
仕事しなさいお前ら。
791 :
俺等05772 :2005/12/05(月) 17:43:24
>>786 プラムさん
「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等
を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。」を、どう解釈しますか?
792 :
俺等05772 :2005/12/05(月) 18:34:50
>>787 北海道・東北・関東・北陸・中部・・・と都道府県名を挙げて行けば、
当然、神奈川県→新潟県へと飛ぶでしょう。
傍国を数えて行ったのは、伊都の役人です。彼からみて、疎遠な
方から挙げて行くなら、まず東国、次に四国、次に邪馬台国周辺、
次に山陽、最後に九州の順でしょう。
793 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/05(月) 19:09:15
>>791 俺等さん
簡単に言うと
『魏軍に合流し、高句麗討伐に参戦出来なかったことの謝罪ならびに言い訳』
難升米が率善中郎将の官位を下賜されたり、正始六年に黄幢を賜った事は即ち魏軍の一部に組入れられた証拠
狗奴国王の卑弥弓呼は、女王と反りが合わないだけであり、決して
女王国と相攻撃している訳では無い
794 :
俺等05772 :2005/12/05(月) 22:07:30
>>793 >女王と反りが合わないだけであり、決して女王国と相攻撃している訳では無い。
この辺のことは、邪馬台国と大和朝廷の関係を、どう考えるかで、違った結論に
なると思います。
私は日向を含む狗奴国が、畿内の邪馬台国を征服して、大和朝廷を創った、と
考えていますので、当然邪馬台国と狗奴国は敵対関係にあった、と考えます。
で、貴方は邪馬台国と大和朝廷の関係を、どう考えているのですか?
795 :
俺等05772 :2005/12/05(月) 23:21:47
>>779 太君、玉のことでギブアップしたと思ってたんだけど、未だ邪馬台国九州説
は捨てないの? 何なら、今度は真珠を題材に議論しようか?
何としても、太君を邪馬台国畿内説に転向させたいんだよ。
796 :
太国 :2005/12/05(月) 23:33:11
それは絶対無いよ・・・。余は『卜事』の正規の運用者だ。 まあ、貴下と言い合いやっていると、どうしても一時的に言葉に気合が入りすぎ いささか外来者の耳に入って、そちらの方に言っているんでなくても 彼らの一握りはその者らの自分のことを言われているように感じるんだろう。 そして、機嫌を損ねてどうのこうのと文句を言って軌道を外れた争いになって しまう。これでは怨恨が残り好ましくはない。 一時的、即興の力ある言い方が当人らにとっては準悪口に聞こえるんだろう。 こちらはそんなつもりではないのだがねぇ・・・。まあ仲良くやりましょうな。 口がきついときはアドバイス願う。またソフトに戻らすように気をつけるから。
797 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/05(月) 23:41:28
>>794 俺等さん
それは想像の世界です。
少なくとも三世紀には、そのような事件は皆無です。
798 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 00:08:38
解らないことロマンだったりするよね(´・ω・`)
799 :
俺等05772 :2005/12/06(火) 07:07:40
>>793 >女王国と相攻撃している訳では無い
文献の1字1句に注意を払うプラムさんらしからぬ言い草ですね。記されていること
は、そのまま素直に読むべきだと思います。
>>797 >少なくとも三世紀には、そのような事件は皆無です。
それも想像の世界でしょう。 今は特に追及しませんが、少なくとも畿内説の場合、
邪馬台国がそのまま大和朝廷になったのか、それとも政権が交代したのか、だけは
言及して欲しいものです。
800 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/06(火) 08:01:03
>>799 俺等さん
大和朝廷と邪馬台国は一線を引く可きと考えます。
それに、
狗奴国VS女王国ではなく
卑弥弓呼VS卑弥呼です。
全く意味が違ってきます。
801 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 08:57:39
邪馬台国>北九州筑紫地方(土俗民) 出雲地方>朝鮮系渡来(国譲り) 出雲系東進>畿内王朝化>南方(邪馬台系含む)、北方は異民族扱い 大和朝廷確立発展 邪馬台国分裂>地方小部族乱立>大和朝廷に吸収 吸収に際しては形式吸収の魏>邪馬台国方式で戦争なし。 とこんな感じでサイコロ大の脳みそで考察…
802 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/06(火) 12:40:47
>>799 俺等さん
畿内説・九州説を語る前にしなければならない事項が山積みです。
結果ありきで物事語ってしまえば、必ず何処かでその方向へ導き出す為に、ウヤムヤにしがちに成ります。
邪馬臺國のベースは『後漢書』です。
つまり、少なくとも後漢時代に存在した邪馬臺國であり その当時から中国と何等しかの繋がりを持っていた国、そして
魏王朝正史には、その名前が消え 似通った『邪馬壹國』がカキコされてます。
そして、晋書にその名前を復活させることなく、両方とも消え去ります。
別に九州説を取っていても、21国は女王に属する国であり、 そこから勾玉が出て、女王刻に貢物になったとしてもおかしくない
804 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/06(火) 13:03:43
>>799 俺等さん
>邪馬臺國=畿内
と、導きだした時
同じ後漢時代に存在した
倭奴國及び帥升の朝貢との関係をお聞かせ下さい。
半島へ抜けるルートは
当時限られたルートだけでしょうから
邪馬臺國が畿内なら倭奴國も畿内ですか?
邪馬台国なんて司馬氏礼賛のための半ば架空の国だから場所を特定させようなんて無駄。 もっともそうだからこそ絶対に結論は出ず、素人がこうやって議論する暇つぶしのおもちゃには最適なんだよね。 アガルタとかエルドラドとかそう言うのと一緒でね。
邪馬国が大和
807 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 15:54:48
九州説も近畿説も自己暗示的要素が強いんだよ 大体こんなとこで議論して出る答えじゃないわ てことで邪馬台国は大和になりますた、これが答えだ。
808 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 15:58:30
↑ んなもん、とっくの昔に不動の定説として答えが出てんだよ。
809 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 16:15:09
>>808 それなら邪馬台国が大和になった、その具体的な詳細をぜひとも披露してね
810 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 16:18:25
自 己 暗 示 そ れ が 考 古 学 ワ ー ル ド
811 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 16:21:59
安本も本心は近畿説だろう。 安本の九州説は、お金儲けの道具にすぎない。 「定説は間違っている」とか「定説を覆す」とか うたった方が間違い無く本は売れるからな。 誰だってお金儲けはしたいのさ。
812 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 17:20:59
>>809 それは此処で議論すべき事じゃないし、
これから研究すべき事だ。
まだ近畿説っていたのか…
814 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 17:54:53
九州説など今となっては傍流の傍流、超毛細傍流だってw
815 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 18:11:34
816 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/06(火) 18:18:03
>>799 俺等さん
政権交代等は無かったのでは!
同一地域に大和朝廷と邪馬臺國が有ったと仮定していないので
政権交代等起こる筈も無し
衰退した九州に、畿内の勢力が覆いかぶさった形
817 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 18:20:33
818 :
815 :2005/12/06(火) 18:23:40
>>817 トンデモではありません! ミステリーです!
>>813 そうだよな、倭人伝に出てくる貧乏臭い倭人が近畿にいるわけないもんな。
820 :
俺等05772 :2005/12/06(火) 19:57:46
>>802 時代的には、後漢書→三国志なんですが、書かれた順は逆で、後漢書は 50年も後の作。
だから、当然、後漢書の記述は魏志倭人伝を参考にして書いています。そして時には
思い違いをする。女王國の東、渡海千余里の国を狗奴国と勘違いしたのは、その一例。
「邪馬臺國」は、その当時あった魏志倭人伝の本から写したものでしょう。
書名 編著者 成立年代
漢書 班固 後漢(82年頃)
後漢書 范曄 宋(432年頃)
魏略逸文 魚豢 晋(270〜280年代)
三国志 陳寿 西晋(280年代)
晋書 房玄齢他 唐(648年)
>>804 建武中元二( 57)年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元(107)年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
桓・靈間(147-189)、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。
57年の倭奴國は「倭の奴國」。107年の倭國王帥升等は「倭國王の帥・升 等」で、建武中元年
には、奴國は未だ邪馬台国の統制を受けていません。安帝永初年には北九州は邪馬台国の支配下
になっており、出先機関である伊都国からは壱岐帥(一支率)が、邪馬台国本国からは弥馬升が、
共同で謁見を願ったということだと思います。
821 :
俺等05772 :2005/12/06(火) 20:04:34
>>820 ×後漢書は 50年も後の作 → ○後漢書は 150年も後の作
822 :
日本@名無史さん :2005/12/06(火) 20:22:55
>>815 東北考古学研究所の御方、まだ捏造を続けてるの? 懲りない奴等。W
ゴットハンドは今頃どうしていますか?
823 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/06(火) 21:42:56
>>820 俺等さん
>そして思い違いをする
A:それは、俺等さんの判断ですか?
俺等さんが范曄を越える歴史家なら賛同します。
《范曄の文章は、筆勢は奔放であり言葉が美しく精練されていて駄文の句法をよく備えていて
「博して経史にかかわり、よい文章で隷書・音律を分かっている」の賛がある》
>書かれた順は逆
だからいいんですよ!
先行史料を参考に、十分吟味出来るので
当時ならまだかなりの史料が残っていたと判断出来るからです。
824 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/06(火) 22:03:00
>>823 の続き
>「邪馬臺國」は、その当時あった魏志倭人伝の本から写したもの
A:そうですかね?
ちゃんと調べましたか?
「范曄は、ハイショウイより年下で早く死んでしまった
范曄の見ることの出来た史料ははハイショウイが確実に目を通していたはず、よって邪馬臺國とカキコした魏志倭人伝の原文など考えられない。
>女王国の東、渡海千餘里の国狗奴国と勘違い
狗と拘の違いはさておき
案外後漢書の内容が「正」かも。
政治的意図の見え隠れする陳壽の倭人伝より、
その背景に後漢王朝並びに、宋王朝への配慮が要らない 范曄の後漢書のほうが
825 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/06(火) 22:56:06
魏志倭人伝の外交誌の最初に出てくる 『景初二年』も、先学の著書を読むと『二年』だ『三年』だと、どれを取る可きか悩みます。 しかし、どちらも正解とする答えの選択も「有り」だと思うが! あと、興味深い所では (紹興本)『自女三國以北其戸數…』 と、カキコしてあるのに 平然と「誤板や磨耗」で片付けられ『自女三國』として検討されていない 残念! 誤板や磨耗が真実かも知れないが、『自女三國』となってる以上とりあえず…でしょう
826 :
俺等05772 :2005/12/07(水) 07:13:41
>>824 >ちゃんと調べましたか?
いいえ、感だけで書いちゃいました。笑 皆さんの知識は半端じゃないので疲れる。
>>825 プロは『景初三年』が多いのでは? この問題に私の出る余地は無い。
>『自女三國』
他の本(紹キ本等)は『自女王國』です。1種類の本に偏らない方がよいのでは?
827 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/07(水) 10:34:26
>>826 俺等さん
まだまだ隙間は沢山有りますよ!
それに、
紹興本で「對馬」・紹煕本で「對海」の件も、
どちらかが誤写や誤認と、とらえるのではなく
「對馬」は倭語表記
「對海」は漢音表記
と、解釈できませんか?
(確信は無いけど)
「三」と「王」ですが
普通間違えますか?
間違っていたら直すでしょう。
それに、書き順も違うので間違い要の無い似通った漢字では?
828 :
本田 :2005/12/07(水) 21:58:00
>>805 > 邪馬台国なんて司馬氏礼賛のための半ば架空の国だから場所を特定させようなんて無駄。
> もっともそうだからこそ絶対に結論は出ず、素人がこうやって議論する暇つぶしのおもちゃには最適なんだよね。
公孫氏に直接または間接的に関係する連合国なんじゃないの?
対馬の対が漢語だったから、対島(ついとう)にせず対馬(ついま)にしただけでは? 対海(ついまい)とか
830 :
俺等05772 :2005/12/07(水) 22:05:51
>>827 「對海」は「對馬」の誤記でしょうが、何でこんな間違いなのと疑問でした。
「三」と「王」ですが、楷書なら書き順は判らないでしょう。若干、立て続け
に書きすぎた気がしますので、冷却期間を置く為、少し投稿を差し控えます。
831 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/12/08(木) 00:16:43
>>830 俺等さん
冷却期間の合間に、景初(二年or三年)問題を、再検討してみてください!
興味深いものがあります。
因みに、私は両方正しいと思います。
832 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/08(木) 13:11:23
で、大和説の人はどこの遺跡に邪馬台国を比定するのですか?
833 :
日本@名無史さん :2005/12/08(木) 13:51:14
伊予だよ、当たり前だろ?
834 :
日本@名無史さん :2005/12/08(木) 13:54:18
↑ 纒向(巻向)遺跡とするのが定説。
835 :
日本@名無史さん :2005/12/08(木) 14:00:16
纒向は関係ない
836 :
日本@名無史さん :
2005/12/08(木) 14:12:50 狗奴国の国王は日向出身だったけど 彼が勢力を伸ばし始めた出発点は近畿地方南部ということだったんじゃないの? それが、まさに神武天皇のこと。 神武東征は、大規模な軍事侵攻というよりは、まるで数人の旅人の旅行記のようだし、 神武の記述で大規模な軍事行動が詳しくなるのは、近畿地方南部に移り住んだ頃になる。 よって、神武が近畿地方南部の国王だった頃は 大和朝廷の前身は小さな地方豪族の政権だった。 それが、全国規模になるのが10代目の崇神天皇の頃であり、 この頃、北九州から中国地方までの瀬戸内海周辺を支配していたのが邪馬台国。 それを討伐したのが、狗奴国の国王・崇神天皇だった? その後、邪馬台国を支援していた中国の魏とは、100年近く断交状態になり、 中国史の記述から日本が消えたのと一致する。