1 :
日本@名無史さん :
2005/10/20(木) 21:31:13 徳川歴代の将軍は、どんな贅沢をしていたんだ・・・
2 :
日本@名無史さん :2005/10/20(木) 21:35:50
女
3 :
日本@名無史さん :2005/10/20(木) 21:35:54
してねえよ。質素なもんだよ。
4 :
日本@名無史さん :2005/10/20(木) 22:05:42
側室とでSEXし放題だったのですか?
5 :
日本@名無史さん :2005/10/20(木) 22:31:19
祈り
6 :
日本@名無史さん :2005/10/20(木) 22:32:09
>>4 自由にはできなかったらしいよ
「徳川四百年の内緒話」っていう田安徳川家第11代当主の宗英氏の本読むと
読んで、旗本とかの方が自由そうでいいと思った
7 :
日本@名無史さん :2005/10/20(木) 23:52:08
日本の殿様は質素倹約が美徳だからな。帝も同じく。 子供のときから、スパルタで質素で質実剛健を叩き込まれるからな。
8 :
日本@名無史さん :2005/10/21(金) 01:26:36
現在の天皇家も質素だよね。海外の王族にしたら考えられないだろうね。 皇室はヘタしたら一般の中流家庭よりずっと質素なんじゃないの? そういえば、家康の時は側室に給金が無く、取次ぎ代とか貯めて老後に備えたとか話があったよ 秀忠も食事で白米食べなかったって聞いたし・・・家光辺りから食事は崩れたのかな?
家斉は贅沢してたんちゃう。 舅の島津重豪はもっと贅沢してたけど
10 :
日本@名無史さん :2005/10/21(金) 06:13:22
11 :
日本@名無史さん :2005/10/21(金) 21:36:22
将軍になると食事も慣例にそって出されるし、なによりも 自由がなかった。 ある程度、贅沢ができて自由があって、側室も数人持つことが できると言うことであれば、藩を持たなくて政務を見なくても良く 地位も高い、御三卿当主が一番良い。
家康公遺言碑 わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、 天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、 艱難(かんなん)することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、 天下は一人の天下に非(あら)ず天下は天下の天下なり、 たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏(しかいあんのん)にして万人 その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし 元和2年(1616) (もはや自分《家康》の命が終わりに近づいたが、将軍《秀忠》が政治を 立派に行っているので、天下のことは心配ない。しかし、 将軍の政道が道をはずれ、多くの人々が苦しむことになれば、 誰でもその座にかわるがよい。 天下というものは、一人のための天下ではない。 天下はすべての人のものであり、そのすべての人のために天から任されたものであった。 たとえ、誰かが天下を治めようとも、四海安穏で平安に万人の幸せに通じるのなら、 これは家康の望むところである)
13 :
日本@名無史さん :2005/10/21(金) 23:56:02
江戸時代の天皇には絶対なりたくないね。 天皇在位中は御所から原則的に出られないのは酷すぎる。
14 :
日本@名無史さん :2005/10/21(金) 23:58:47
別に出してもらえなかったわけじゃない。 出る金がなかっただけだ。
15 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 00:38:06
紀州斉彊侯も相当な贅沢ぶり
16 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 00:39:03
>9 家斉は、豪奢な生活で鳴らした人物だから。質素倹約とは程遠いだろうな。 家斉時代は好色将軍としても有名で、50人以上の子供を作ったし。 彦根藩からは近江牛の味噌漬けが献上されるし、贅沢品の白砂糖も使い放題。
17 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 00:41:24
まあ、男のロマンだな。
砂糖の消費量、発掘された家茂の歯は虫歯だらけであった。
19 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 01:55:01
>18 家茂は大の甘党で、諸大名からの病気見舞いも、まんじゅう・かすてら などお菓子ばかり。 でも、それが原因で脚気になり、脚気衝心をおこして死亡。 >17 でも、作りすぎて息子や娘の養子先や嫁ぎ先を探すのが大変だった けどね。将軍の子だから小大名に出す訳にもいかないしね。かと言っ 江戸時代初期のように、分家をさせて領地を与える余裕もなかったし。
20 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 10:11:07
その割りに家達が家斉の血を引いていないのは変だな
21 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 12:55:26
家達は家斉の血を引いてるだろ
22 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 13:33:49
家達は家斉の弟の孫
昔の貴族とか王族は虫歯地獄が大問題だったわけで、 決して極楽などではなかったぞ。 歯医者もないのに虫歯になる苦しみを想像してみろそれは地獄。 しかも治療法は無理矢理、抑えつけてペンチで歯を抜くだけ。
24 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 21:23:10
料理を少しだけ食べて捨てたり、 毎日新品の足袋を履いたりしてたらしい
25 :
日本@名無史さん :2005/10/22(土) 21:58:34
>>14 いや、幕府が出さなかったのだよ。
どの天皇か忘れたが上皇が病気になったので仙洞御所まで見舞いに
行きたいと京都所司代に申し出たが、所司代は江戸の許可が必要だと
言い張り、結局見舞いに行けなかった。
26 :
日本@名無史さん :2005/10/23(日) 08:35:57
>>24 いや大奥辺りはそうだったかもしれないが将軍の食事はきわめて質素。
で、箸を滑らせて下に落とした米粒なんかも自らが拾って食べたらしい。
27 :
日本@名無史さん :2005/10/23(日) 09:45:13
その将軍の平均身長、頭蓋骨は、農民や町民に比べて桁外れに 優れていた訳だが・・・身分制度が骨の育成まで支配していた 時代なんだよ。 将軍の質素と農民が三度の食事の代わりに水を飲んでいたのと は、質が異なるよ。質が。
そんなもん当たり前だ。 身分制社会において身分が違うということは、生活の様式が全然違うってこと。 それらを比べて「こんなに贅沢してるじゃん」なんていったってあまり意味がない。 イギリスで王侯貴族の食事と中産階級の食事と労働者階級の食事が違うのと同じ。 インドだってヴァイシャの食事とクシャトリアやスードラの食事はまったく違う。 ここで話してるのは、徳川将軍家の食事は特権階級の食事としては質素だっていうだけの話。
29 :
日本@名無史さん :2005/10/23(日) 11:09:57
>24 食事は初期(2代秀忠頃まで)は、戦国の遺風で質素倹約だっと思うが 、3代以降は贅沢になっていったと思われ。 でも、日本に限ってことではないが、王侯貴族といえども、18世紀までは 冷蔵庫がない訳だから、生鮮食料品の保存は難しかった訳で、現代人の方が贅 沢になっているのでは?
一見、食材も豊富だし見た目には贅沢だよね。 でも冷蔵庫はともかく輸入大国だから農薬&毒菜ばっかだけどね・・・orz いちいち信頼の置ける八百屋とか魚屋や商店で御用聞きしなくちゃいけない。 品質がいいものもってきてくれるのに安いとこもあるけど、地域によるしね。 国産と名乗っても無農薬と名乗っても偽装が多いしね。 日本人の心である米も、コンビニのオニギリなんて常温でも腐らないしな。 そろそろ業者と輸入商社を「打ち壊し」をすべきじゃないだろうか・・・。 そこで、みんな白装束に鉢巻して不法侵入して梱包してあるものブチまけるの。 でも窃盗はご法度で・・・しかも金持ちで、良家のニートイパーイいるだろ?なんてね・・・
>>28 イギリスの食い物は仏伊とは比較にならないほど不味いからなぁ
フィッシュアンドチップスくらいか、まともなの
32 :
日本@名無史さん :2005/10/24(月) 23:52:49
大奥育ちの将軍と、そうじゃない将軍だと差がありそうだな。
33 :
日本@名無史さん :2005/10/25(火) 06:11:51
34 :
日本@名無史さん :2005/10/25(火) 07:26:15
大奥では将軍の月命日にはSEXしない。 15代将軍の頃には、月の約半分はできないな!
35 :
日本@名無史さん :2005/10/25(火) 21:12:56
>>34 慶喜は大奥に詰めていない(在京のまま将軍就任、そして大政奉還)。
36 :
日本@名無史さん :2005/10/25(火) 21:23:19
昭和33年から昭和35年にかけて徳川将軍家の菩提寺である増上寺において、二代将軍秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の六将軍と綱重(三代家光の子)ら一族32人の改葬が行われた際、墓の構造、副葬品及び遺体の調査研究が行われた。 それによれば将軍の平均身長は157.3pであり、当時の一般庶民とほぼ同じであったが六代家宣から明らかに一般庶民と異なった点が見受けられた。 @ 頭骨水平周が著しく大きい(頭でっかち) A 顔型はかなりの過狭顔型(細面) B 四肢骨が細い(華奢な体型) C 鼻は高く筋が通っていた(家宣は例外) D 眼は水平か多少下がり気味(推定) E 歯は磨耗がほとんどなく、虫歯が非常に多かった ただし、二代秀忠の骨はたくましく発達しており、まだ、一般庶民とかけ離れたところは見受けられない。 研究報告書では、遺伝と生活形態の変化が原因であるとしているが、やはり戦に明け暮れた戦国大名などと違い、将軍の存在が象徴的なものとなり次第に貴族化していったことは疑う余地はないだろう。 なお、蛇足ながら将軍の正室・側室の体格は一般庶民女性と比較して、さほど差は見られなかったようである。(十四代家茂の正室和宮だけは貴族的体質であった。) ただ、頭蓋骨から推定すると正室・側室は例外なく絶世の美女ばかりであったという。
37 :
日本@名無史さん :2005/10/26(水) 00:35:50
z
38 :
骨は語れ :2005/10/26(水) 00:58:10
十五人の将軍の中でいちばん美男だったのは六代様ということでよろしかったでしょうか?
39 :
日本@名無史さん :2005/10/26(水) 01:01:51
豪華な食事と言っても 同じ食器からは箸で三度までしか食べれなかった。
40 :
日本@名無史さん :2005/10/26(水) 01:09:02
吉宗の倹約は鷹狩復活(数万人規模)という贅沢の誤魔化し。 この頃から改革には裏が有る。
41 :
日本@名無史さん :2005/10/26(水) 01:26:12
家康は本物の倹約家・・・というか、マジでやらないと生き残れない戦国。
家康・秀忠はガチで質素。
43 :
日本@名無史さん :2005/10/26(水) 22:28:47
∧ ∧
( ´・ω・`) oO(
>>295 )
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
<⌒/ヽ-、___ oO(下衆には、わかるまい)
/<_/____/
44 :
日本@名無史さん :2005/10/27(木) 00:08:31
>>40 数万も動員する鷹狩りは実質、軍事訓練なわけだが。
45 :
日本@名無史さん :2005/10/27(木) 00:31:05
快適な狩が出来るように非戦闘員が多く動員されたんだけど。 狩り場周辺では獲物が減るという理由で川魚漁禁止したり。
>>45 演習前に一般人立ち入り禁止にしたのでしょう。
47 :
日本@名無史さん :2005/10/27(木) 19:11:39
しかも、狩場にあらかじめ獲物を放しておいた事もあったんでしょ? それに不満の将軍様もいたようだが
48 :
日本@名無史さん :2005/10/27(木) 21:49:24
人間って、脳以外は退化してないかい?
49 :
日本@名無史さん :2005/10/29(土) 00:38:37
>>46 一般人て何。皆臣民。
故に狩り場周辺の民を大量動員。
さらに快適な猟場維持が課された。
50 :
日本@名無史さん :2005/11/16(水) 23:45:56
毎日 旗本の末っ子の振りをしては 江戸の町を徘徊し 火消しの家に繁くでいりしては お茶を飲んでくだらない話しに 華を咲かせ、訳のわからない忍者を放って小役人の監視をしていたとか。 せこい役人を見つけては、立場も考えず、組織として処分するという方法も採らず 一人で突撃しては大量殺人をして解決。 将軍とは なんと気楽な 身分よ。 これぞ 真の贅沢ではなかろうか。 ただ 「女はいらんと」 硬派な人生を送ったらしいとのこと
51 :
日本@名無史さん :2005/11/17(木) 10:01:54
>快適な狩が出来るように非戦闘員が多く動員されたんだけど 実際の戦争も戦闘員だけではできないよ
52 :
日本@名無史さん :2005/11/17(木) 10:03:11
>しかも、狩場にあらかじめ獲物を放しておいた事もあったんでしょ? 軍事訓練では的を用意するだろ
53 :
日本@名無史さん :2005/11/17(木) 10:04:55
>さらに快適な猟場維持が課された。 訓練施設の整備は基本
54 :
日本@名無史さん :2005/11/18(金) 01:05:16
財政破綻して倹約、農村再編等してるのに鷹狩復活は完全なる無駄使い(北鮮並) しかも、そこに快適さ求めるのは完全に贅沢。 鷹で戦しないし。
55 :
日本@名無史さん :2005/11/28(月) 09:27:29
将軍大名だとかたっくるしいから 4000石ぐらいの領地もち大旗本あたりが 一番楽しく過ごしてそうだ>江戸時代 直参だからえばれるしね。 領地が豊かだったら懐具合もいい感じ 基本的に江戸住まいだから都会人。 そこそこ出世できるし。 ちなみに戦国時代だったら俺は武芸できんが 6万石ぐらいは徒手空拳から切り取る自信がある。 それ以上は無理。維持も無理。つぶされるだろうけど。
56 :
日本@名無史さん :2005/11/28(月) 09:30:38
>>8 でもうちの大学の先公は
「皇族は贅沢ものだ。城などに住み一流の素材の飯を食う。
まことに『象徴』ならば一般家庭と同じように借家マンションなどに住み
食事の質も下げるべきだ。うちなど皇居の何分の一しかないのに
これで象徴とは聞いてあきれる」と口癖のようにいってましたぜ
殴り倒してやろうかと思ったのですが単位もらえなくなるからやめました。
俺はネット極右翼。
57 :
日本@名無史さん :2005/12/16(金) 17:28:16
慶喜の娘の顔は四角い
58 :
日本@名無史さん :2005/12/21(水) 21:27:10
59 :
日本@名無史さん :2005/12/21(水) 21:36:21
>>55 一番、気楽に過ごせるのは御三卿。
大名ではないので藩政で頭を痛める必要はないし、衣食住も
困ることもない。
将軍家一家の扱いなので序列も高い。
気楽って言う意味では七百〜九百石くらいの小普請の旗本が一番楽らしい。 千石を越えるとかなり格式が面倒になるらしい。 それと3千石超えると家中の制度については大名とあまり変わらないらしい、 だからどうせなら九千石程度の方がいいかも。
天保の改革で初物禁止、将軍の唯一の楽しみのひねしょうがの初物も食べられなかった。 将軍の贅沢って聞くと直ぐその話が脳裏に浮かんでしまう。 贅沢って言うか貧乏くさい話だけど。
62 :
日本@名無史さん :2005/12/21(水) 22:08:30
将軍の贅沢とは食事ではさほどと言う感じでしょう。 贅沢なのは、風呂上りに水分をとるのに庶民のように手ぬぐいで 体を拭くのではなく、水分がなくなるまで何枚も真新しい木綿の 羽織りを使うことや、寝所で用足し起き上げるごとに枕を 取り替えるとかでしょ。
63 :
日本@名無史さん :2005/12/21(水) 22:45:03
age
64 :
世界@名無史さん :2005/12/21(水) 23:00:34
綱吉の時代には越後の縮緬問屋の隠居を名乗る白いヒゲの老人一行が 世直しの旅をしていたらしい
65 :
日本@名無史さん :2005/12/27(火) 00:06:27
>64 それは ほんまのことらしい
66 :
日本@名無史さん :2005/12/27(火) 01:16:42
歴代将軍の命日が忌日になるので 幕末になると月の半分近くが精進日で 将軍も美味いものが食えなかったみたいだ
67 :
日本@名無史さん :2005/12/27(火) 05:06:50
>>59 逆にすること無くて人生つまらないんじゃないかなぁ
子供作る以外何のイベントも無いわけだし
そういや大名って参勤交代で江戸に登城して書く詰め間に
詰めてる間はなにやってるの?
ぼけーと数時間江戸城にいてかえるだけ?
「今年は冷えますねぇ」とか同じぐらいの石高の連中と世間話したり・・・
暇そう。暇すぎるってのも人間よくないって事が最近わかってきた。
68 :
日本@名無史さん :2005/12/27(火) 05:44:15
>>27 >農民が三度の食事の代わりに水を飲んでいたのと
いつの時代のどこの農民の話してんだ?
江戸時代なら遅くても中期以降は米あまりが普通だぞ。
米の値段が下がって下がって武士は苦労したんじゃねえか。
おまけに年貢の実質は下がり続け。あまった米どうすんだ?
食うしかねえじゃねえか。
普通の江戸期の農民は普通に米食ってたんだよ。但し飢饉に
なると藩ごとに行政がばらばらであったことが裏目に出て
米調達の上手い藩と下手な藩とで極端に差が出て酷い藩だと
餓死者続出になったが。
なにか江戸後期になると年貢算定上の収穫高が現実の三分の一くらいになっていて、 三公七民でも実質税率1割とか読んだことがある。
70 :
日本@名無史さん :2005/12/27(火) 10:01:13
>>69 そうですね。
日本の農民は江戸時代は当時の世界で最も豊かな部類に属すると
思いますよ。
日本の農民が苦労するのは、維新後地租改正で物納から金納に
変わってからですね。これで基本自作農の形態から小作が増え、
農民の生活が一気に苦しくなった。日本の左翼学者はそうした
苦しい明治後の農民を前提に江戸期の農民を想像していたようだね。
71 :
日本@名無史さん :2005/12/27(火) 21:48:18
農民以外の連中には税金ないんだよなぁ みんなワンルームみたいなもんだけど。 中規模の豪商とかいいかも
72 :
日本@名無史さん :2005/12/28(水) 21:50:54
73 :
日本@名無史さん :2005/12/28(水) 22:37:47
>>60 700石〜900石くらいだと出世したいときは同僚との付き合いや
上司へのワイロに使う金がなくてかなり苦労するらしい。
小普請だと、あまり付き合いがないから楽かもしれない。
借金さえなければだが。
74 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 01:13:26
綱吉の時代に 世直しのために 諸国を回った 白ひげの 老人の 話をもっとしてほしい
75 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 01:14:40
女はいらんと 硬派な人生を送った 火消しの家に出入りする 米将軍の 話しももっと聞かせてたもれ
76 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 01:25:28
>>74 世直し老人なあ。
結構な巨体で、ドラマのような好々爺では全然ない。
ちなみに自分を裏切った側近の家老を呼び出して、
手ずから刺し殺している恐ろしい男でつよw
77 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 02:48:37
家康の女道楽と言うと 家来の後家とか百姓女とか 年増&下女好みとずいぶん地味だそうな 秀吉は逆に ロリ&上流女性が好みだ
78 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 03:45:25
太閤秀吉にも男色相手が居たぞ。 女色にしか関心が無かったというのは、 彼の素性の賤しさを誹謗する為の文書でしか無い。
79 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 04:55:36
将軍家以外で大奥みたいなシステム作った藩って在るのかな?
80 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 19:34:38
>>68 でも時代が下がるにつれて、一揆や村方騒動が増えていないか?
>>45 遅レスだが庶民が入れないために、御狩場では鶴や白鳥などが生息できた
らしいよ。
明治になると庶民に乱獲されてあっというまにいなくなったがな。
82 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 20:15:34
>>78 秀吉の男色相手は誰?あまり聞いたことない。
家康にはいたようだが。
83 :
日本@名無史さん :2005/12/29(木) 21:54:07
>>79 各藩にも大奥にあたる「奥」があるよ。
「大奥」と言う名称は徳川将軍家だけが使用でき、大名は「奥」と
使っていた。本来の目的は大奥も奥も同じ。
84 :
日本@名無史さん :2006/01/02(月) 12:02:30
age
なんか五代将軍綱吉には抱いて気に入った女がいたらしい。 で「お前の家族を大々名に取り立てよう」 なんてそいつに閨で囁いたのが公になり問題化したとか。 それ以来の大奥では女官が将軍の寝床の傍につき どんな会話をしたかチェックされるようになった。 つまり将軍は監視さられながらのセックスしか許されなくなった。
86 :
日本@名無史さん :2006/01/05(木) 00:33:48
人に見られて興奮する達の変態将軍以外はかなりストレスが たまる状況だな。家斉は偉大なり!
87 :
日本@名無史さん :2006/01/05(木) 00:34:06
88 :
日本@名無史さん :2006/01/13(金) 23:47:34
徳川将軍は 日本歴史上最高の 面積の私有地を所有した 人物であろう この点では贅沢だ
89 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 01:07:13
>>88 徳川時代の領地は単に行政権の及ぶ地域でしかないからね。私有地と呼ぶのが相応しいか疑問だな。土地の所有権なら農民や町民がもってるしな。
90 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 02:06:27
>89 でも 天領である限り 将軍が自分の趣味で 「あそこの 場所に こんなものを作れ」 と一度 強権に命令したら、そこにすむ農民がいくら 「わしらの土地ですだ〜」 と主張してもまさか通らんでしょ。 意のままに扱える土地 これは まさに将軍の私有地でしょうな
91 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 06:47:11
>>90 ま、その辺は現代とはやはり違いますなw ただ、そういう場合普通に替え地を提供してたようですな。
92 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 07:14:22
>>77 家康は子供をなす必要がある、と考えていた時期は
出産経験がある後家なんかを相手にしてたけど、
必要が無くなった晩年は14歳の少女とかと寝てた。
年増と寝てたのは必要からで、趣味的にはロリだったのかもと。
93 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 10:30:38
>>66 >歴代将軍の命日が忌日になるので
>幕末になると月の半分近くが精進日で
>将軍も美味いものが食えなかったみたいだ
SEXもな!
>>92 戦国大名はたくさん子を作るのも仕事だからな。
だいたい幼児死亡率が高いし、成人しても戦死
する確率もかなり高かったからね。
好みでもない年増と寝なくちゃならんとは御苦労なことだ。
95 :
日本@名無史さん :2006/01/14(土) 20:25:35
>94 毛利元就なんかも3人の頼もしい息子に恵まれたが、 難点は3人の息子に子供が少なく(隆景なんか子無し!) 後継者不足に危機感抱いた元就が晩年になってから 「自分がガムばらなきゃならんのか」と さらに6人の息子を儲けたりしてるよな。
>>95 で、結局、江戸時代の毛利家は、その元就が年老いてからもうけた
6人の子達の子孫が主流になって継いでいったから元就も頑張った
かいがあったね。面白いことに維新時の当主の元徳が数百年ぶりの
隆元、輝元の系統の殿さんなんだよね。
ちなみに徳川家も結局家康が頑張ってつくった御三家の系統が
主流になって継いでいるもんね。今現在の徳川家の当主達は水戸
の系統が主流だし。
97 :
日本@名無史さん :2006/01/15(日) 01:12:47
築山と中悪かったのがトラウマになって 幼女や自分より身分の低い女しか愛せなくなったってきいた>家康
98 :
日本@名無史さん :2006/01/15(日) 02:37:17
水戸のウンコ馬鹿カス殿様のお陰でどれだけ領民が苦しみ死んでいった事か… 子作りは結構だが不出来な子供は部屋住みにでもしやがれ
99 :
日本@名無史さん :2006/01/15(日) 06:11:33
100 :
日本@名無史さん :2006/01/15(日) 07:54:29
>96 毛利家当主の主流は四男元清系が主流となっていくな。 でも元就は中国地方全域を治めていくのには後継者不足と 考えてがんがったのだが、防長2国に宗家、3支藩、 1準支藩(岩国)、8家の万石級の一門家老は多すぎるような。
101 :
日本@名無史さん :2006/01/15(日) 08:47:32
>100 中国地方全域を統治するには一門の人材難だったので 元就の男系の子孫だけでなく、外孫(元就の娘の子)も 毛利家一門として数を補ったのだが、そこに関ヶ原の敗戦で 領土激減、今さら一門削減のリストラも実施できず。
102 :
日本@名無史さん :2006/01/19(木) 07:06:25
>> 娘の子>>>妾腹の息子(虫けらの子)の扱いだったはずが 乗っ取られたんだよな。吉川家と仲悪かったのが災いして
103 :
日本@名無史さん :2006/01/20(金) 16:01:51
男子>女子、嫡出の子>庶出の子 というのはどこの武家でも共通してるけど 嫡出の女子>庶出の男子 か 庶出の男子>嫡出の女子 かはいろんなケースがあるな。 初期の毛利家はあきらかに 嫡出の女子>庶出の男子 で、 筆頭一門家老は元就の嫡出の娘の子孫の宍戸家とされ(吉川家は別格)、 「虫の子」の子孫より上位に置かれた。 子無しの小早川隆景が吉川家を無視して輝元の養子に穂井田元清(元就四男)の子の秀元を あてたり、関ヶ原の際に吉川広家が宗家を無視して裏工作したりして 元就の嫡出子系グループがゴタゴタしてるあいだに、庶出子系グループが勢力を増強して 江戸時代の毛利家の中心勢力になっていく。しまいには隆元、輝元の子孫から 「虫の子」の子孫が宗家当主の地位を奪取してしまう。
104 :
日本@名無史さん :2006/01/20(金) 22:40:22
>>103 まぁ、最後は輝元の子孫だし・・・徳山分家だったっけ、よく養子を押し付けられなかったよな。
あと、幕末に宍戸も養子?だけど彦島香港化計画を粉砕した国士を輩出したわけで
105 :
日本@名無史さん :2006/01/20(金) 22:54:17
萩の毛利家って中期以後かなり微妙な継承の仕方してるんだな 初代季就(元就の孫輝元の子) 2代綱広(初代の子) 3代吉就(2代の子) 4代吉広(2代の子) 5代吉元(元就の曾孫長府3代綱元の子) 6代宗広(5代の子) 7代重就(綱元の孫長府6代匡広の子) 8代治親(7代の子) 9代斉房(8代の子) 10代斉煕(8代の子) 11代斉元(7代の子親著の子) 12代斉広(10代の子) 13代敬親(11代の子) 14代元徳(輝元の5代孫徳山8代広鎮の子)
106 :
日本@名無史さん :2006/01/21(土) 07:39:05
107 :
日本@名無史さん :2006/01/21(土) 10:08:14
108 :
日本@名無史さん :2006/02/01(水) 01:03:42
将軍は三食昼寝付きで 好きなとき好きな女をすきなだけ抱き放題 一日のスケジュールも好き放題で うるさく説教したり口答えする奴はその場で切り捨て御免 些細なことが気に障ると それだけで一存で諸大名を改易し 近づくものみな 指先ひとつでダウンしてたらしい 勉強も仕事もせず かんに障れば周りを粛清し 性欲と食欲を満たしながら怠惰な生活をむさぼる これが将軍の真の姿であった 紛れもない真実
おまえの願望を書いてるだけじゃないか。
110 :
日本@名無史さん :2006/02/01(水) 15:01:55
>110 その通り
>>108 てなことをやってた108将軍は、まもなく老中たちに精神薄弱
と認定され、退位、座敷牢に入りまもなく餓死しましたとさ
めでたしめでたし
明治に入ってから、江戸時代に側衆を勤めた 竹本隼人正正明という人が、「小姓をしていた とき、同僚と冗談で、「お前は何になりたい」 「公方様以外なら何でもいい」といった事がある」 と言っているぐらいだから、贅沢かどうかはともかく 傍目にうらやましく思うような生活はしていなかった のは事実と思われ。
113 :
日本@名無史さん :2006/02/14(火) 17:37:06
>108 私も 歴史上最大のニート は 将軍だと聞いております
藤原紀香や小池栄子とやり放題。
>>113 自ら生産したりしていた訳じゃないが、儀式、儀礼で結構忙しかったと思うぞ。
と、ニートの俺が言ってみる。
116 :
日本@名無史さん :2006/02/15(水) 20:25:45
>783 ぶっちゃけ A:卒業生の何%程度がプロ野球の1軍でスタメンをはるレベルになっているのか B:卒業生の何%程度が時給800円で道路工事の警備員になっているのか 実態をご存知の方は教えてください
誤爆を挟んでレス メクラ印とはいえ幕府の決定事項はほとんど将軍決済だから、 最も忙しいときには寝る閑もなかったらしい。
118 :
日本@名無史さん :2006/02/19(日) 11:48:36
なんの実権もない、いまの天皇が書類決裁だけは山のようにあるのと同じだな。
>>118 実権のある将軍も結構おるけどな。
綱吉、家宣、吉宗、慶喜あたりは相当な独裁者だ。
家重、家治、家斉あたりはかなり独裁しうる立場
にはいたが自らしなかった感じかな。家治はどうも
わからん。田沼に丸投げなのか、綿密に打ち合わせ
たうえで任せていたのかが。ま、彼が病で人事不省
になった途端に田沼が終了したのだけは事実だけど。
「徳川四百年の内緒話」によると、 家斉は松平定信にいろいろ苦言を呈されてて政治には結構詳しかったらしい。 ただの色ボケとは少し違っていたらしい。
121 :
日本@名無史さん :2006/02/19(日) 19:51:42
>>119 慶喜って独裁だったか?
実権握るまで、家中(幕府)も外部(外様諸藩)、公家にも結構政敵多かったじゃん。
いろいろ根回ししてるし。
征夷大将軍だった慶応2年と3年にはかなりの独裁者だったと思うよ。 一存で大政奉還を決断したりしてるんだから。 対抗したいと思う奴がいなかっただけという話もあるが。
それでも慶喜は打つ手が薩摩に比べ後手後手に回った観は拭えない。 それでも当時の幕閣よりは適切な対応はしていたとは思うが。
あの当時のあの状況であそこまでできる人間は慶喜だけの気がする。 ただ、幕府には政治的力量ある人材が彼しかいなかったから 手練揃いの薩摩長州にやられたけどな。当時の幕府は技術者では 有能なのが揃ってた感じだけど、政治家隠謀家は慶喜だけだった もんな。つうか薩長が揃いすぎかw
ここって、どんな贅沢したかのスレなんだろ? 箱根や熱海の湯を江戸に運ばせて入浴してたって、贅沢だよな。
126 :
日本@名無史さん :2006/03/03(金) 21:39:31
徳川家斉の贅沢には勝るものはおらんだろう。
家斉は生姜が大好物で、板橋あたりに専用の畑があったらしいぞw 随分つつましい贅沢だよなあwww
権現様もお気に入りのスイカ畑を鬼作佐に馬のえさにされて・・・。
129 :
日本@名無史さん :2006/03/24(金) 21:35:59
将軍がつつましい贅沢しかしなかったから、対外戦争もやらずに江戸幕府は260年 も続いた。江戸幕府の間に庶民は順調にレベルアップ、人材が蓄えられ明治頃に短 期間で近代化した。隣の李氏朝鮮は・・・
>>130 江戸時代初期は7公3民で庶民の懐にはほとんど残らなかった
らしいんだが、それも灌漑などのインフラを整え終えた後は
事実上どんどん減税され、新井白石の頃には3公7民と大逆転
してたらしいね。
以後江戸期を通じて基本的に増税がなかったから(増税すると
一揆頻発するw)日本の庶民は当時の世界では物凄く豊かだった
んだよね。その富の蓄積が後の近代化の基盤になったのは
間違いないね。
大奥みたいなもん抱えといて、よくそんな事言えるな
大奥みたいなもん抱えといて・・・中原の文化圏はどこもそう。
134 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 12:24:13
ふうん
江戸時代ユートピア説はどうかと思う
136 :
日本@名無史さん :2006/05/21(日) 15:39:49
将軍の生活に関しても?
137 :
日本@名無史さん :2006/05/29(月) 22:47:19
将軍は三食昼寝付きで 好きなとき好きな女をすきなだけ抱き放題 一日のスケジュールも好き放題で うるさく説教したり口答えする奴はその場で切り捨て御免 些細なことが気に障ると それだけで一存で諸大名を改易し 近づくものみな 指先ひとつでダウンしてたらしい 勉強も仕事もせず かんに障れば周りを粛清し 性欲と食欲を満たしながら怠惰な生活をむさぼる これが将軍の真の姿であった 紛れもない真実
138 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 03:44:25
でも常に誰かに見られているのは嫌
139 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 04:54:36
ウンコまで調べられるからな。
140 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 06:24:56
>>137 当時は2食が当たり前なんだが…
3食になったのは明治も後半。
そんなことも知らずに語ってるんだ。
へーーーーっ。
141 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 07:13:08
>137 指先ひとつでダウンで不覚にも笑った
142 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 18:56:33
将軍は三食
143 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 19:13:45
しかしなぁ。おちおち「不味い」て言えないし…
144 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 19:56:22
143 今日は食がすすまぬ、でちゃぶ台返し
145 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 20:13:59
ああああ〜。このシワ腹を割サバいてお詫びを〜
146 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 21:25:27
>142 将軍以外も中食(昼飯)の 習慣は元禄の頃から庶民まで広まったよな
147 :
日本@名無史さん :2006/05/30(火) 21:48:26
当時の将軍のスケジュールはかなり大変だったみたいだ。
148 :
日本@名無史さん :2006/06/27(火) 23:10:04
なあに、ブラブラしてたらしいよ
149 :
日本@名無史さん :2006/06/27(火) 23:32:33
>>147 そんなことはない。
忙しかったのは諸大名の挨拶を受ける正月前後ぐらい。
朝5〜6時起床、朝食、大奥にある仏壇に礼拝、政務がほぼ
毎日のスケジュールでその政務も正午ぐらいで終了。
午後からはフリー時間。
後は夕飯、風呂、寝るだけ(20〜21時就寝)
150 :
日本@名無史さん :2006/06/27(火) 23:45:51
普段の政務と言っても、評定所や老中があらかじめ政策決定した 事案に裁可を与えるぐらい。 将軍を囲んで老中達が政策決定していたのは家光時代までだろう。 例外に吉宗はいるが常時会議に出るのではなく、重要なことぐら だけだったらしい。
151 :
日本@名無史さん :2006/07/03(月) 21:20:58
やり放題
>>140 >当時は2食が当たり前なんだが…
これ見てどこぞの本に「だから朝食はとらなくても大丈夫」
などと書いてあったのを思い出した。
どんな論理飛躍だよと思ったな。
153 :
日本@名無史さん :2006/07/03(月) 23:46:07
大奥に行くときはあらかじめ言っておかないとお錠口が閉まってて入れてもらえなかったけどな
154 :
日本@名無史さん :2006/07/04(火) 00:52:55
>153 将軍は 大奥でなくても視界に入った女は 誰でもいつでもどこでも セックルしてよかった 白昼堂々と 廊下を通りかかった侍女 と立ちバックなんて当たり前の世界さ
155 :
日本@名無史さん :2006/07/04(火) 01:21:43
>>153 別に言わなくても、大鈴を鳴らせば鍵を開けてくれたのでは?
156 :
日本@名無史さん :2006/07/04(火) 02:09:30
江戸時代だったら、なんかさまざまな習慣や儀式でがんじがらめにされてた将軍家より、大きな商家の方がよっぽど贅沢できただろうに。
157 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 01:08:25
そうなの?
158 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 07:04:08
ひょっとしたら将軍になってたかもしれない松平定信は、女とセクースするのは あくまでも子孫を残すためであって、ああっ感じるーとか気持ちいいとか 思ったことがないと言う意味のことを言ってますね。 スカしていると言うか、本当に面白みが無いというか・・・・・・・
159 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 21:42:54
おれも贅沢三昧というより不自由そうなイメージしかないが。生きることが仕事みたいなとこあるし
160 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 21:59:28
>155 無理。女の園の掟は将軍すら従わないと駄目だった 御台所付き上臈を側室にするのも許可いったし さすがに嫁に拒否られた話は聞かないが
161 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 14:13:39
誰の許可がいるの?
162 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 15:07:51
御台所に。 「おい嫁さん、そっちの上臈を愛人にしたいからこっちにくれ」
163 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 23:07:28
許可など 最後は関係ない 上様がご乱心で サバンナの動物のように やりまくってしまっても 誰も お咎めすらできない。 それが将軍
165 :
日本@名無史さん :2006/08/10(木) 16:49:03
>163 少なくとも徳川将軍でそんな人間は、いないな
167 :
日本@名無史さん :2006/08/11(金) 08:26:25
大奥=よろこび組み と考えて問題はないでしょうか?
168 :
日本@名無史さん :2006/08/12(土) 00:53:55
問題ないかも おい北はまだ日本の藩幕レベルかよ 笑
169 :
日本@名無史さん :2006/09/21(木) 01:58:48
邪魔する奴は 指先ひとつでダウンしてた というのは本当ですか
170 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 00:02:16
171 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 01:05:29
>>168 マジレス。
幕藩体制の方が北朝鮮よりずっとマシだろ。何言ってるんだw
172 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 06:15:27
鎌倉や室町の将軍に比べたら、華やかなイメージはあるけどな
173 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 08:47:49
徳川慶朝氏の朝食などは?
174 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 09:47:21
>>137 そこまで自由にはできんよ。
大奥に行って寝泊りする日も決められていたらしいし、その場で切り捨て御免は
まずあり得ない。戦国時代じゃないわけだし文句言ってくる重臣も改易程度しか
できない。現に綱吉時代の綱吉擁立反対派の代表格だった下馬将軍酒井忠清や吉宗時代の
新井白石など皆改易お役御免という処分であり殺されは全くしていない。
175 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 19:33:10
>>174 どっちも改易されてないよ。
老中への処分で一番厳しい目を見たのは田沼意次じゃないかな?
176 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 19:39:48
>>174 しなかっただけで、しようと思えばできたのでは
徳川セックス禁止令
178 :
日本@名無史さん :2006/10/08(日) 17:53:54
家重たそは政を興味を示さず酒や女色に溺れてたが。 自由奔放。
179 :
日本@名無史さん :2006/11/04(土) 21:45:13
将軍
180 :
寒 :2006/11/04(土) 22:37:31
「豆を火鉢で焙って、家臣らに振舞う」 のが趣味の将軍様がいましてね・・・。 将軍が豆を焙り終わり、次の豆を焙りたいから、 お火箸を「(次ぎよこせ)んっ」と脇に差し出すのです。 その刹那、さっと将軍様のそばに近寄り、恐れ多くもそのお箸先に、 ”次の豆を、焼き易いように、素早くちゃんと挟む”専門の係(大奥なので女官) がいたそうで。 つまりそれ以外の仕事はない・・・。 贅沢といえば贅沢。
181 :
日本@名無史さん :2006/11/18(土) 14:17:18
徳川埋蔵金ってどこにあるん?
あっちこっちにある。
183 :
日本@名無史さん :2006/11/18(土) 21:11:30
>>182 日光東照宮に埋めてあるってインターネットに書いてあったんだけど本当?
184 :
日本@名無史さん :2006/11/18(土) 22:12:58
カロリー数 と その食材・食品を運送するのに掛かったトン・キロ、を1食あたりに換算すると、 現代日本人のsh食卓が世界中の歴代のどの帝王、王侯、貴族、ブルジョアとは比較にならない はるかに贅沢な暮らしをしているそうだ。 大分佐賀関の関サバとスペイン沖のマグロと中国産のニンニクと 豪州産ビーフ、石油をボンボン湯水のように使ってできた長野県の温室野菜、 そういった食材をたった1日で消費し、ときには残してしまうっていうのは、 ローマ皇帝でも徳川将軍でも絶対にできなかった。 アルプスの雪でできたシャーベットを食すローマ皇帝はしょっちゅう暗殺されたし フォアグラに舌鼓をうつフランス貴族は国王以下ギロチンの露と消えた。 後期の徳川将軍になるとやわらかいものを食べなれた貴族顔に変わっていったらしい。 租借しないと食材自体の甘味や酸味、塩味といった食感が堪能できないから 体感的にはあまり楽しくはないのでは?
185 :
日本@名無史さん :2006/11/29(水) 22:21:41
団塊のアホどもは、今まで 散々贅沢してきた我慢知ら の連中だから、この国が今 こうなってしまった以上、 真っ先に処刑するべきだよ こんな奴らが更に歳を取り 国の金を湯水のように使っ てしまえば、若者の未来は ありません。大体、奴らの 為に汗みず流し働く事程、 馬鹿馬鹿しい事無いよねw
186 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 22:09:17
家重てオカマかよ!
前もやってたけどとんでも説ばっか さすがテレ東┐(´〜`)┌
188 :
日本@名無史さん :2006/12/27(水) 07:45:08
あれはエンタメとわりきって見るべし
189 :
日本@名無史さん :2006/12/30(土) 14:14:16
140年くらいになるのかな 幕府を復活させることはできないだろうか・・・
190 :
日本@名無史さん :2006/12/30(土) 14:17:43
早く埋蔵金見つけろよ
191 :
日本@名無史さん :2006/12/30(土) 14:34:54
>>189 その幕府は将軍も武士もサラリーマンみたいな髪型でスーツ着用なのか?
192 :
日本@名無史さん :2006/12/31(日) 23:10:15
>>191 もちろん時代にあったものではないと
電話帳に載ってる「徳川」って苗字のひとは
将軍家の子孫だろうか・・・
193 :
日本@名無史さん :2007/01/01(月) 03:15:26
そんなはずないっしょ。大体が明治維新で苗字が認められた時に新しく名乗りだした農民だ。
徳川は尾張、紀伊、水戸、田安、一橋、清水とあるからね その子孫だとかなりな数になるんじゃないかな もちろん明治新姓で勝手につけた家もあるけど
本家の将軍家忘れてたw しかし松平入れると子孫は結構な数になるなあ
196 :
日本@名無史さん :2007/01/01(月) 12:26:30
水戸徳川家最強
197 :
日本@名無史さん :2007/01/01(月) 17:53:38
ドラマの中で ドンな将軍とされるのは 秀忠 家忠と 改名できてもしなかったあたりに人間性が偲べる
198 :
日本@名無史さん :2007/01/04(木) 00:08:59
将軍は皆、感応寺の坊主の子孫だろ
199 :
日本@名無史さん :2007/01/04(木) 02:38:07
テレビの美杉
200 :
日本@名無史さん :2007/01/04(木) 11:26:52
蝦夷を討伐すべき 最後の将軍は 慶喜で間違いないですね
201 :
日本@名無史さん :2007/01/04(木) 21:08:16
>>192-195 明治新姓に『徳川』は居ない。徳川を名乗る家は、
@徳川家康の子孫
ア・将軍家 イ・御三家 ウ・御三卿 エ・徳川慶喜家
A新田姓世良田氏徳川家(秋田藩佐竹家臣)
一応ホンモノの新田庶流徳川家だから、江戸時代になっても苗字を変えなかった。公儀からの御咎めもなし。
どっかで明治新姓の徳川もいるって見たよ 徳川家とはまったく関係ない広島かどっかの農民だそうだ
203 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 22:28:10
坂崎家は秀忠に騙されて 取り潰されました
204 :
日本@名無史さん :2007/01/10(水) 23:46:15
テレビの美杉
205 :
日本@名無史さん :2007/01/12(金) 09:10:35
徳川慶喜って大政奉還の後は何を考えていたんだろ‥‥‥‥‥ 贅沢出来ていたのかな
206 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 21:05:03
慶喜は、明治政府より隠居させられ静岡へ移り妾を4〜5人かこって遊興三昧だったそうだよ。 その後京に戻って余生を全うしたそうだ。
207 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 21:45:19
新門辰五郎の娘も妾だよな
208 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 21:53:44
贅沢はできたよ。 大御殿に暮らして美味しいものを食べて、写真自転車釣り油絵狩猟を毎日やっていた。 妾いっぱいいて子供も十人以上いた。 でも将軍のままだったら、もっと贅沢できただろうね。 こんな贅沢な暮らしも、孫の代でお屋敷も何もかも全部無くしてしまった。
209 :
日本@名無史さん :2007/01/13(土) 23:02:05
>202 在日チョンだよ。
210 :
日本@名無史さん :2007/01/16(火) 10:30:40
家斉だっけ?一番子供が数が多い将軍様は?いいーよなー。いいーよなー。いいーよなー。
211 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:25:32
家斉の子供はわかってるだけで55人だっけか。 オスとしての生殖本能を極限まで満たしたという点で、生物レベルで羨ましいなw まあ成人した子供は殆どいなかったが。 しかし性的な面で言うと、印象として将軍や大名級のセックスって女が完全な受け身 だったように思われるから、フェラチオとかアナル舐めwとか、女側が攻めるプレイは ほとんどなかったんでは。そう考えると現代のほうがいいかも。
212 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:34:39
>>208 それを聞いた元老中の板倉勝静は「たくさんの家臣が徳川家のために討ち死にしたのに何を考えているんだ」とマジギレした。
213 :
日本@名無史さん :2007/01/18(木) 19:27:00
ヤンゴトナキ御身分の方々なんてそんなもんだよ 下々の者が死んだって虫が死んだくらいの感覚しかない
214 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 15:13:04
将軍は三食昼寝付きで 好きなとき好きな女をすきなだけ抱き放題 一日のスケジュールも好き放題で うるさく説教したり口答えする奴はその場で切り捨て御免 些細なことが気に障ると それだけで一存で諸大名を改易し 近づくものみな 指先ひとつでダウンしてたらしい 勉強も仕事もせず かんに障れば周りを粛清し 性欲と食欲を満たしながら怠惰な生活をむさぼる これが将軍の真の姿であった 紛れもない真実
>>213 徳川はやんごとなきどころか、非常に新しい家系だと思うのですが…
非常に新しいってこともないんじゃね
218 :
日本@名無史さん :2007/03/18(日) 02:10:56
ほー
219 :
日本@名無史さん :2007/03/19(月) 11:23:02
「松平」を名乗る藩主は 皆、一応、徳川の遠い親戚(血縁)とみなしてよいのですか?
三河出身の元からの松平、多少怪しげなの(擬制的親族関係か)も混じってはいるが、 一応遠い親戚。(但し松平→徳川であればの話) 女系の縁で松平姓をもらった大名(家康の女系子孫とか、異父弟)、間違いなく血縁有り。 上記の他に単に厚遇としてもらった家がある。 まあ幕末の頃には何らかの形で将軍と親戚でない大名なんてほとんど居ないだろうけど。
221 :
日本@名無史さん :2007/03/20(火) 00:19:02
じゃあ松平姓は、いにしえ 皆、清和天皇の子孫ということで 恐れ多くも尊くも 天子様の末裔ということで
江戸幕府は有力外様大名に松平姓を与えてたと聞いた事がある。 島津も松平、伊達も松平、山内も松平、松平だらけ。
223 :
日本@名無史さん :2007/04/03(火) 13:13:08
家光の「辻切りの」真偽はどうなん?
224 :
日本@名無史さん :2007/04/03(火) 13:16:50
225 :
日本@名無史さん :2007/04/03(火) 13:28:21
>>174 幕府ができてから失脚組で異常に厳しかったのは、
家康による大久保長安死後の一族処刑と直弼による
安政の獄かな
226 :
日本@名無史さん :2007/04/03(火) 21:55:09
歴史に「もし」「たら「れば」はないとよく怒られた。 しかしここは一つ考えてみる。 贅沢な征夷大将軍と 西国の例えば長州毛利が元禄の頃に 戦えばどうなっていただろうか。
松平性は外様の国持大名が多く、譜代の柳沢家が貰ったのは特別の恩寵。 女系で家康に繋がる鳥取池田家の場合、本家と東館と言われた分家大名はすぐに松平姓を 貰ったが、同じ分家でも西館の方は初代が庶子だったのですぐには松平姓をもらえなかっ たとか言う例もある。 細川忠興は羽柴はもらったけど、松平は固辞したそうだ。 まあ確かに細川から見れば松平なんて田舎の土豪の姓にすぎないけど、 でも羽柴は受けて、松平固辞って滅茶苦茶角が立つと思うんだけど。
228 :
日本@名無史さん :2007/04/03(火) 22:46:12
>>227 細川忠興えらいね。
並の武将なら、ありがたく ははあ〜って頂戴してしまいそうだ。
れっきとした足利支流の細川から見たら、
ただの土百姓のくせに自分と同じ河内源氏義家流を名乗る松平は
到底受け入れ難いものだったんだろう。
羽柴は本姓豊臣だから、まあネタで受けてやっても良かったんだろう。
家康の念友が伊井直政ってのは何か資料あるの?
松平は恐れ多いから固辞したんだろうに ネタで受けるようなものでもないし、松平と羽柴なら松平の方がどう考えても上だろ
231 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 20:13:55
>>227 「羽柴」って本当かいな。
そんな姓を与えるなんて「お前は徳川の敵だ」
といってるようなものじゃないか。
徳川として与えるべき姓じゃないきがするが。
そんな姓を受けるなら旗じるしも「ひょうたん」にして
大阪城への配転を希望すりゃいいのに
232 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 20:49:34
羽柴姓を称したのは秀吉時代であり、この時期の細川氏は伝統ある細川の名字を捨てて、 京都郊外の領地にちなむ長岡姓を称していた。 織田・豊臣の時代、細川を公称できなかったので、江戸幕府の時代になったのを機会に、 室町以来の名家である細川の名字を復活した。松平姓はお呼びではなかった。
233 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 21:00:32
>>230 恐れ多いはずはないだろ。
細川と同格の大名がたくさん、松平姓を受けている。
234 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 21:27:25
上杉とか細川が受けてないのは、やはり室町大名の矜持からか。
235 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 21:36:08
藤堂や山内も松平姓を受けたの?
>>231 227ですけど、まさか家康が羽柴姓が与えるって発想をする人がいるとは思わなかった。
秀吉が与えるってのは常識だと思ったから書かなかっただけなんですけど。
やはり誤解を招かないようにちゃんと書かなければダメなんでしょうかね?
237 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 21:56:10
>>235 藤堂は松平姓も将軍の一字ももらってない。
これは藤堂高虎が外様ながら、譜代同然に扱われたからか。
山内は松平姓のみもらい、一字はもらってない。公称は松平土佐守。
>>236 いやここは仮にも日本史板なんで、
そこまで書かなくても大抵の人はわかるだろう。
239 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 23:52:24
上様ちんちんでござる!!!!
240 :
日本@名無史さん :2007/04/05(木) 13:43:06
家斉になりたい。とにかく物凄く羨ましい。今の俺がおまえたちへ言ってやれるのはこれだけしかない。
241 :
日本@名無史さん :2007/04/06(金) 22:08:36
セックスのし過ぎで偏頭痛と肥満に悩まされた十一代にか?
242 :
日本@名無史さん :2007/04/06(金) 22:15:49
御國司 松平加賀守 松平薩摩守 細川越中守 松平肥前守 松平筑前守 松平大膳大夫 松平安芸守 松平相模守 松平伊予守 松平土佐守 松平阿波守 上杉弾正大弼 佐竹右京大夫 藤堂和泉守
244 :
日本@名無史さん :2007/04/06(金) 23:51:30
>>241 果たして、「セックスをしすぎる」奴はこの世にどれだけいるだろうか?
俺もセックスをしすぎてみたい。
245 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 09:24:06
しすぎるくらいのセックスできた家斉はスゲー
246 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 11:01:50
しかし将軍のセックスなんて管理されまくりで、 ただの種つけ作業みたいでつまらなさそう
>>246 どう管理されてたの?
別に毎夜、誰かにセクースを監視されてたわけではあるまい
248 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 13:19:45
一応、「お清」という監視役の女中が隣に添い寝していたらしい。
249 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 13:24:19
>>248 どうせその女ともやってしまうんだろ。いいじゃないか
250 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 14:10:45
やり放題だろ、オトコもオンナも! 家斉の小姓、林何とかの守も上総で一万石の大名になってるが、これはきっとアナルセックスの御褒美だろ!
251 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 16:34:40
おっ!ハーレム☆
252 :
美濃部筑前守茂育 :2007/04/07(土) 18:08:11
上総貝淵一万石、若年寄林肥後守忠英は家斉の男色相手だったんですか?
仮に側室ABCDの4人居たとして、 将軍がAと寝るときはBCDの誰かとあと確か老女(お清=処女)とでセットで隣に寝て いて、ずっと聞き耳を立てているそうだ。 Bと寝るときはACDの誰か、以下同じ。 つまり側室が実家を取り立ててとか、息子を次期将軍にとかおねだり防止のためだそうだ。 だから御台所(正室)の場合は監視はつかないってことだったような。 うろ覚えなので多少誤りがあるかもしれないけど、とにかく別の側室が監視につくところ までは間違いないはず。
別の側室が監視についたら即3Pだろ。 老女はいやだな
255 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 03:29:10
昔やった女に監視されながら、若くて美人な子とエッチしたら萌えるよ!
256 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 08:58:50
「お清の老女」とかだと 「こいつ毎日他人のセクースばかり見せ付けられて、 内心自分も犯してもらいたくてムズムズしてるんやろうな もっと見せ付けてやれムフフ・・・」とか思うだろw いずれにせよ萌え萌えシチュエーションだ
257 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 10:00:58
鯛の天麩羅ってすごく美味そうなんだが 実際美味いのか?
老女って言っても役職名だから比較的若い人もいる。 有名な江島なんかは事件の時で推定年齢30代半ばくらいだったらしい。 まあ今の30代半ばとは違うだろうけど、庶民と違って奥女中はあまり年をとらないんじ ゃないの?
259 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 21:37:32
大奥の女は鉛が多い化粧をたっぷり使っていたからせっかく若殿や姫が生まれても夭折の可能性が極めて濃厚
260 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 23:07:29
江島は34歳じゃなかったかな それからお預けとなって座敷牢で30年
261 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 00:15:11
将軍命令で 大奥のしきたりなんか廃止して やりたい放題すればよかったのに
>>261 実際のところは、しきたりを守るふりして
結構やりたい放題やっていたと思われ
であれば態々廃止する必要もない。
263 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 10:56:50
《性鬼の将軍 徳川家斉》てアダルトDVD誰か制作してくれ
265 :
日本@名無史さん :2007/04/10(火) 00:55:27
名和宏主演の徳川セックスなんとかいう映画もある
266 :
松平定信(溜詰格) :2007/04/10(火) 01:11:22
五十人も子ができたらしいが、そういうことにならないよう、房事の回数は制限したんだがね
267 :
日本@名無史さん :2007/04/10(火) 12:04:09
家斉強ぇー!徳川最強の勇者!!
268 :
日本@名無史さん :2007/04/10(火) 22:22:51
男はタフじゃなきゃ勝利者になれなぬことがわかたー
269 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 08:20:32
夏に氷を食べたり、鷹狩りにいったりと贅沢な暮らしをしても、なんだかんだ言って【大奥】にまさる贅沢はないだろう。
内裏では紫式部や清少納言といった華やかな女流文学が栄えたが、 大奥は後世に何も残していない。まさに無駄遣い。
271 :
日本@名無史さん :2007/04/16(月) 13:19:12
将軍の継嗣とドラマのネタを残した
272 :
日本@名無史さん :2007/04/16(月) 13:56:14
生産性がない無駄こそが贅沢だ!大奥最強である
273 :
日本@名無史さん :2007/04/16(月) 19:07:45
そうとも!金と時間とモノと労働をただひたすら消費するだけで生産性がなく享楽的で退廃的なところがわが大奥を大奥たらしむる
そう言えばハレムも中国の後宮もあまり文学とは縁がないな。 後宮は麻雀を産んだそうだが。
ドラマ大奥って正直面白くないよな
276 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 12:47:20
277 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 12:55:02
女性からみて大奥って魅力的なのか? 源氏物語なんて現代人の感覚でいえば光源氏は二枚目で金持ちで権力ある設定だからあこがれるかもしれんが 髭の大将に掻っ攫われたところなんてただのレイプじゃねーか あんなのにあこがれるのかねえ
278 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 21:55:03
>>275 テレビドラマなんて大概、みな詰らないだろ?
アホなくらい画一的だし。
大奥に限ったことじゃない
279 :
日本@名無史さん :2007/04/30(月) 04:29:27
庶民よりもよい住居に住み 庶民よりもよい服を着 庶民よりも治安が守られ 庶民よりも医療対策が充実しており 庶民よりも栄養価が高くうまいものを食い 庶民よりも教育が行き届き 庶民よりも教養娯楽が多く与えられ 庶民よりも高い地位で扱われ政治を操り 庶民よりもより人間らしく生きることができる これ以上な贅沢はない。征夷大将軍がうらやましい
280 :
日本@名無史さん :2007/04/30(月) 07:23:04
まったくだよ。嫉妬と足の引っ張り合いと健康に良くない鉛の厚化粧が渦巻く大奥、そして身長の低い将軍やゲテモノ(不細工女)好きの将軍や脳性マヒの将軍や りデブでタラコ唇の将軍やシャクレ顎将軍や火縄銃ぶっ放してガチョウと追っかけっこするのが好きな将軍に、抱かれたいだろうか?
281 :
日本@名無史さん :2007/04/30(月) 08:24:10
お中ろうと呼ばれる将軍お手つきの女中は、 将軍との交尾はある意味、辛いお勤めだったかもしれないね。 しかし、最盛期には千人近くいたという大奥の女中たちは、 手のつかない者も多く(お清と呼ばれる女性しかつけない地位もあった)、 江戸時代、女性唯一の立身出世の場だった。 大奥の女性の地位がどれくらい高かったかというと、 御年寄と呼ばれる大奥筆頭の給料は、将軍側近の老中とまったく同じ。 大奥のことに関しては、老中や側用人といえど、口をださせなかった。 一生、大奥で勤め上げ、預貯金で老後を送る女性もいたというわけ。
忌日は酒・魚は× 江戸中期を越えたころには一年のほとんどを低カロリーな精進料理ですごしてたそうな
283 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 13:47:56
大奥ってとんでもなく非生産的な組織だったんだな・・・
284 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 14:08:28
だから度々改革されている まあ改革っていっても節制だけどさ
285 :
日本@名無史さん :2007/05/06(日) 23:31:24
ちなみに 景気拡大のための 公共投資 の概念 は江戸時代からあったのだろうか
286 :
日本@名無史さん :2007/05/07(月) 09:19:01
ないよ 市場の成長自体が頭打ちになった状態だからね 江戸全般で見れば初期の頃は田を増やす政策に力を入れる 中期には米の生産量に限界が見えて後は庶民に消費を締め付けるような 御触れ出しまくりだし武士も倹約ばかり 財政赤字だから緊縮財政をやりまくるという感じだな 江戸の米価維持などで介入なんかをしてみたが結局失敗していたりして 結構江戸の経済学はおもしろいぞ
287 :
日本@名無史さん :2007/05/07(月) 22:25:09
qin
288 :
日本@名無史さん :2007/05/10(木) 01:11:25
現代に幕府を復活させたい。 今の天皇は征夷大将軍に任命してくれないだろうか・・
律令とっくに廃止されたのに任命なんてされるわけないじゃん。
実力で日本を制圧すればいくらでも任命してくれるでしょう。 天皇家ってそうやって千何百年生き延びてきたんだし。 アメポチさえ止めなければよそからの横やりもないはず。 ちなみに実力は暴力以外の手段も含みます。
291 :
日本@名無史さん :2007/05/10(木) 21:02:22
>>119 家重は
「しなかった」
というより
「できなかった」
んじゃないの?
家重って引きこもりたかったんじゃないかな?
293 :
日本@名無史さん :2007/05/11(金) 07:17:15
212 :日本@名無史さん :2007/01/18(木) 11:34:39
>>208 それを聞いた元老中の板倉勝静は「たくさんの家臣が徳川家のために討ち死に
したのに何を考えているんだ」とマジギレした。
結果として多数の家臣(会津、桑名藩、幕臣抗戦派など)を裏切った行為となっ
てしまったが、江戸無欠開城した功績は大きい。
江戸100万人が路頭に迷わずにすみ、日本が欧米列強に駆逐されずにすんだ。
294 :
日本@名無史さん :2007/05/20(日) 18:10:56
考えれば、口惜しい。 島津や毛利は関が原の後、すぐに改易しておけば 幕末に薩摩や長州に滅ぼされることも無かっただろうに。 山内も掛川に少し領地増やすだけでよかったのに。 結局、何らかの形で情けをかけた者が、後に恩をあだで返す ことになる。 日本史はこの繰り返し。
別に情けをかけたわけじゃないだろ 大藩をポコポコ潰すと牢人大量発生して治安が低下するからじゃないのかな
296 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 13:09:25
>>294 土佐の倒幕派は長宗我部侍だぞ。
山内一豊に相撲大会を徹底するように命じればよかったとは思うが
297 :
; :2007/05/21(月) 15:41:37
>>294 毛利はともかく島津をつぶすには相当骨だっただろう。
島津潰してたら大阪で家康の首が取られてたりして。 その場合江戸幕府の権威は史実より落ちるだろうな。
299 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 16:08:41
>>297 たら、、れば、、の話しだが。
関が原で活躍の乏しい外様や、寝返り組に
赦免や懸賞をかけて毛利・島津討伐を命じれば
皆、我先にと向かったんじゃないかなと。
いくらなんでも、日本中敵に回せば抵抗は無理だろう
300 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 17:03:17
あの時点で急速に中央政権を確立しなきゃいけなかった理由があったんだろ だから討伐などしているよりも安定させる方式を選んだわけで 秀吉辺りからかなり急いで統一作業を進めている さあその背後はなにか?
301 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 17:22:37
>>299 毛利を潰すとなったら、秀元はもちろん吉川は死ぬ気でやるだろう。
時期にもよると思うが九州の島津、中国の毛利の二つだけでなく、
討伐などで乱世になれば長宗我部も頑張っただろう。
あと、中立をさせた黒田息子とかもどうしたか?疑問。
302 :
日本@名無史さん :2007/05/21(月) 19:12:19
>286 単純に物価統制しようとしていただけだからな 吉宗は良識ある将軍と言われるが経済面から見ればかなり愚かしい政治家 金融政策をとった荻原重秀はもっと評価されても良い
303 :
日本@名無史さん :2007/05/24(木) 22:42:09
集英社新書、だったかな。 面白かったですよ、荻原重秀。
304 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 00:07:06
石高の多さが収入の多寡を意味し それが贅沢の具合につながるなら 400万石を抱える徳川将軍は一番の贅沢ができる
305 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 08:33:40
収入だけでは語れないだろ 支出も考えないとさ。。。
昔、学研の学習で将軍の食事を再現した写真があったが、かなり 贅沢だった記憶があるんだが。 膳が4つか5つあって、数種類の肉や魚がメインで、彩りも豊か だった。
307 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 21:41:35
徳川御三家は小幕府的存在といえる。 したがって贅沢だ
朝昼は一汁二菜、 夕食はそれに焼き魚と煮物がつくくらい しかもできてから2時間くらいたったの食べるわけだが
309 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 08:47:43
肉ってなんの肉だ?ウサギ?鶏?
けど将軍の食事って一つの皿の料理は三箸までしか付けたらダメっていう慣習じゃあなかったかな ご飯は3杯までお代わりOKだったらしいが。 好きな料理の一箸はとてつもなく大きくなりそうだな。
311 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 17:08:40
結局 守らなくても誰も何も言わないだろ
312 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 18:39:12
俺は一箸と聞いたが。 んで残り物は料理人達が持って帰ると
313 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 19:32:05
関西テレビ制作の「大奥」でそんなシーンがあったな。 将軍ではないが、将軍継嗣の食事がそんな風だった。 同じ料理を持った女中が継嗣の前に並び継嗣が料理に 一箸だけ付けて、その残りは女中(ある程度の身分の)の 飯に払い下げられていた。(一箸を付けると次の女中が 持つ料理に一箸を付ける) また将軍をはじめ継嗣、御台所などは魚を返して裏側を食べる ことはなかった。
314 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 19:33:35
上の「大奥」は沖雅也が徳川家光を演じていたやつね。
315 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 05:45:01
>>311 自分で豆を炒っても怒られないんだし、何をしようとおこる人はいないだろうな。
316 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 05:56:37
家慶の遺体を調べたらあごが全然発達していなかったんだよね。 どうも313さんのいうように魚でも同じ料理がずらーっと出てきて 一箸ずつ(やわらかいところ)しかつけなかったその結果らしい。 高貴な人って温かいものが食べられなかったから、みんな猫舌だった んだよね。ちょっと気の毒。
317 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 06:17:42
なんか上のほうで家斉がうらやましいという書き込みが多いんだけど。 確かに彼はあっちのほうはかなりだったみたいだけど、55人子供をこしら えたわりには、その生母の数は少ないよね。一人で6〜8人生んだ側室も 何人かいるようだし。意外と一途?
318 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 15:26:57
かなり前の読んだのでうろ覚えなんだが。 将軍の食事のご飯。 普通に炊いたご飯じゃなかったそうだ。 米を蒸したご飯だったとか。 粘り気のないもち米のような感じになるのかなあ。 食事全部、毒見役の手を経てるから冷えてるもんなあ。 熱い炊きたてのご飯のおいしさを知らなかったんだ。
>>318 それってアルファ化米
学校給食で出るよ
天皇家の場合は公式の雑煮とは別に女官が本当に食べる雑煮を作っていたそうだ。 ということは天皇は温かい食事を食べられたと言うことで、 それに比べて将軍は……権力者はつらいね。
321 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 19:53:25
将軍家は、真夏に富士山麓より氷を運ばせ食べていた。 冷蔵庫なんかない時代にこれほどの贅沢はないだろう。
>>321 加賀前田からも氷は届けられた
熱海の温泉のお湯も届けられてた(伊豆代官江川氏から)
323 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 21:26:52
贅沢は敵だ!
>>321 豊後日出藩から城下カレイが早馬で献上されていた記録がある。
食事作ってから口に入るまで相当時間がかかり冷めるので途中で暖めなおしてたそうな 当然電子レンジなんぞ無い時代だから火で焼きなおす事になる その結果料理はボソボソになった しかもその後また毒見役を通すので結局冷めているという…
326 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 05:11:31
氷に酒かけて食ったらうまい
興味本位で大奥を扱った本なんかを読んでると 「大奥の維持費は江戸幕府の国家予算の数分の一に及び、幕府財政を大いに圧迫してた」 なんてあるがこれって事実なのかね いくら奥の女性達が贅沢しようが国家を傾けるほど浪費は出来ないと思うんだが・・・
328 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 07:56:23
329 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 10:02:16
幕府≠国家
330 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 11:58:09
>>327 幕府は、征夷大将軍の私的機関的なものであって国家機関ではないよ。
権力がなくて形式的なものでも朝廷=太政官が日本の国家機関。
それに現在の日本政府と違い、幕府予算は幕府直轄地や天領だけで
執行すれば良かった。各藩は自分ところで独立して予算を組んで
いたから。しかも幕府内の大掛かりな土木工事は各藩に金と人を
負担させていたからね。
331 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 14:39:55
>幕府の年間予算は80万両(約640億円)。そのうち、大奥は20万両とじつに幕府財政の25%も使っていたのである。 江戸城の予算の内、表(政庁)が7.5割、奥が2.5割と考えれば他の大名家でも別に普通かと。 家臣団はそれぞれ知行を持っていて、それぞれに小さな奥と表があってそれぞれに運営しているし。 すなわち、封建制。 また町方は町年寄衆らの負担によってそれぞれ運営されている。 幕府は中央政府というより、封建領主の大なるもの。 幕末、海外との関係において中央政府たろうとしたことで様々の混乱が生じた。
吉宗の代に大奥の規模を随分縮小してこれだから酷いときはもっと使ってたんじゃないかなと思う
333 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 19:14:45
でもまあ冗費には違いないわいな
334 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 19:40:20
伝説「赤城山の埋蔵金」の額といい、幕府は一体どれくらいの準備金(内部留保)を保有していたのだろうか?
335 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 19:49:04
>334 ないだろ。万年赤字かトントン 極たまに黒字
337 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 07:24:35
>>326 昔の酒なら旨かったかも??
今の水みたいな?酒だと、あんまり旨そうではない
338 :
本郷 義昭 :2007/06/02(土) 09:51:21
酒は濁酒でしたから、現代の清酒の方が高級です。
>>338 江戸幕府を開く前の慶長5年には清酒が造られているんだが?
340 :
本郷 義昭 :2007/06/02(土) 14:01:59
開発史ではなく普及史の話。 幕末までは雲の上でも濁酒。 当然、明治になっても貧民は濁酒。 濁り酒濁れる飲みて 島崎藤村 今日でも一々清酒と大書するのは、近年まで 清酒=高級 だったからです。
>>340 清酒(せいしゅ)じゃなくて清酒(すみざけ)は?
江戸中期には庶民が清酒を飲んでいた記録はあるんだけどね
342 :
日本@名無史さん :2007/06/02(土) 17:22:40
なんてったって住居だ。 江戸城!
343 :
日本@名無史さん :2007/06/02(土) 17:45:58
いや、西日本では清酒だな。 東日本は貧しかったので、食うだけで必死だったが、一応濁酒はあった。
344 :
日本@名無史さん :2007/06/02(土) 17:48:04
白米食 → 脚気 → 短命将軍 → 弱体化
345 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 03:39:36
米糠になんか適当な物を混ぜて脚気に効く「秘伝の薬」として売り出したら儲かっただろうな。
346 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 06:04:17
将軍になってハーレムが作りたいです
347 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 06:05:22
ホトトギス(1560―1561) 尾張国に生まれる。 単独で清洲城の塀を飛び越え、潜入に成功するが 出自が鳥であったために織田家に捕われる。 信長に鳴けと命ぜられるが、鳴かず、処刑される。 信長の性格や時勢を読み取る事ができなかった暗愚の鳥と評されるが 近年、鳥としては凡鳥であったのではと再評価の動きも見られる。 墓は清洲城内にあると推定される。享年1歳。
348 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 06:33:50
贅沢とは関係ないのですが、 将軍は6時頃に起床したようですね。そして小姓が寝所に入り、「もう〜」 と大声を出していたらしい。この「もう〜」の言葉は何に由来しているので しょか。意味不明な言葉だとは思いませんか?
350 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 08:53:16
不定時法ですから、6時と断定できません。 卯刻。
>>348 もうお目覚めでござる、
の もう じゃ無かったっけ。
ソースはNHK「お江戸でござる」か何かの脳内記憶。
>>347 それのどこが徳川将軍の贅沢なのか。
だけど面白いからOK
353 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 22:27:05
>>350 348は6時頃に…と説明し、聞きたいのは時間帯ではなく、「もう〜」の言葉
の意味だよ。何か勘違いしていないか。
354 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 22:29:38
モーニング の略だよ しらないの?
355 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 23:04:04
6時頃とすら言えないんだな。 何時間もずれるから。
そうでもない
357 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 23:25:48
牛の鳴きまねだろ。城にあっても民百姓の労苦を忘れないための。
「毛利の奴らは将軍家を恨んでいるぞ。 うかうかして、そのうちやられるでないぞ。心せよ」 の略だと思うよ。
燃やせ燃やせ江戸城燃やせ 走れ走れ白馬で走れ 怒りの炎が天を突き破る 廃墟の中から立ち上がれ将軍 奇跡の長期政権が 制度のゆがみを 生じても 恐れるものは何もない 謀反を叩き潰すまで 「ショーグンソード!」 天を切り裂く 聖なる剣 「ショーグンスラッシュ!」 稲妻 轟く 葵の御紋 将軍 将軍 将軍 怒りの征夷大将軍
「もう〜」っていうのは「もうお目覚めの時間ですよ」の意味じゃ なかったっけ?
351さんの答えが正解だと思う。
362 :
日本@名無史さん :2007/06/04(月) 00:22:38
>「てんぷら」 の語源ですが、キリスト教の宗教用語で四句節のことを >「クアトロ・テンプラシ」と言います。 >この四句節には、キリスト教の信者はキリストの受難をしのび、節食したり >肉を食べない習わしがありました。 >四句節に肉を避け、魚のフライなどを食べるこの習慣が、日本のキリシタンの >間にも広まり、いつしか「クアトロ・テンプラシ」から転じて >魚の揚げ物料理のことを「てんぷら」と呼ぶようになったといわれています。 キリシタン弾圧のたたりかなw >家康
363 :
日本@名無史さん :2007/06/04(月) 09:19:13
そうでもないならどうだとゆうのよ
キリシタン弾圧って家康の時代じゃないだろう
365 :
日本@名無史さん :2007/06/04(月) 09:58:18
そもそもキリスト教弾圧しなければ今頃どうなってたと思ってんだか
366 :
日本@名無史さん :2007/06/04(月) 14:26:38
後宮は贅沢だったと思う
367 :
日本@名無史さん :2007/06/05(火) 14:53:53
行列は贅沢
368 :
日本@名無史さん :2007/06/05(火) 20:38:04
馬も贅沢
369 :
日本@名無史さん :2007/06/05(火) 22:30:52
>>364 家康の大御所時代
「岡本大八」でぐぐれ
日本を危険宗教の魔の手から救ってあげたんだから 祟りも何もないだろ
>>368 しかも白馬。
用も無いのに、砂浜を走り回ったり。
372 :
日本@名無史さん :2007/06/07(木) 01:45:30
用も無いのに、町火消しの家を訪れたり
373 :
日本@名無史さん :2007/06/07(木) 02:51:06
悪代官多すぎwww江戸の治安悪すぎワロタwww
374 :
日本@名無史さん :2007/06/07(木) 04:59:04
爺と忠相以外、誰も信じられない、、、
375 :
日本@名無史さん :2007/06/08(金) 09:01:30
代官は四十人程度 直ぐ品切れになる
376 :
日本@名無史さん :2007/06/09(土) 12:32:37
代官はやたら出て来るが、郡代は絶対登場しないな
後任の代官がまた悪事、つまり人事が変=吉宗に見る目がない。 実は吉宗の趣味のため爺が人選、不良旗本の処分も出来て一石二鳥。 越前「リストラもなかなか出来ませんからなあ」
378 :
日本@名無史さん :2007/06/10(日) 07:52:21
地方代官の人事が直接、将軍の責任とは言えまい。 勘定奉行−小普請支配あたりの権限。
379 :
日本@名無史さん :2007/06/10(日) 08:55:45
悪江戸家老ーお抱え商人ラインも見逃せないぜwww
380 :
日本@名無史さん :2007/06/10(日) 16:46:46
血気にはやる吉宗に、悪人を先に半分くらい斬らせて、十分にリスクを減らしてから参上する男女二名のお庭番の頭脳に脱帽
381 :
日本@名無史さん :2007/06/10(日) 17:34:03
だが、吉宗は峰打ちだけで「成敗」はお庭番なので、自分は決して手を汚さない吉宗の狡猾さにも脱帽
382 :
日本@名無史さん :2007/06/10(日) 17:48:16
吉宗の背後で、刀を上段に構えたまま、吉宗が斬るまで動かない敵の武士の思いやりに脱帽
383 :
日本@名無史さん :2007/06/10(日) 21:26:34
大奥の中で埋もれたい。 あー将軍様ってマジでいいね。
384 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 12:50:30
おまえは家重か。
385 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 18:05:24
吉宗には他人のことより自分の長男をなんとかするべきだった。 悪人退治なんかしてる場合じゃなかったと思います。そんなの上の人間が勝手にやると、給料払って配置してる部下が腐るし政府内組織が乱れますよ。 吉宗さん、反省してください。
386 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 18:39:16
その話しは金日成にでもいうべきかも
387 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 19:38:10
とりあえず家斉はひどい
388 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 19:40:39
スクープ 北の金さんは、奉行じゃなく将軍様だった。 女の裸踊りを見ながら寿司とワインと北京ダック。何てコンクな味を好む良いセンスでしょう。 吉宗の扇子とひと味違います。 おあとがよろしいようでm(_ _)m
389 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 19:43:41
家斉さんは天下泰平の象徴だと思うけどなあ
390 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 19:50:42
いや〜周りの女に手当たり次第手だしちゃあいかんよ
391 :
日本@名無史さん :2007/06/12(火) 12:42:50
手当たり次第じゃねーだろ。もっと勉強しろカスが
392 :
日本@名無史さん :2007/06/12(火) 17:31:42
口の利き方には気を付けなさい。その点は家斉を見習えばいい。温厚な人だったそうだから
393 :
日本@名無史さん :2007/06/12(火) 17:35:34
>385 吉宗の長男は精神障害だったから、しょうがない。 吉宗の努力ではどうにもならん。 おかしな長男だからといって、長男以外に家督を譲るとなると、 それが先例となって幕府は家督相続問題で不安定になるしな。 吉宗が悪人退治? ドラマの暴れん坊将軍での話?
394 :
日本@名無史さん :2007/06/12(火) 20:58:48
>>393 空気読んでくださいね。
そんな指摘はされなくても誰でもわかっていますが、一応お礼致しておきます。
>>393 吉宗については同意するが、
水戸藩の2代光圀はどうよ?
それこそ悪人退治したり、
怪しげな忍者と一緒に全国をうろつき回ってる場合じゃないと思うが。
だいたい天下の副将軍が勝手に悪人退治なんかしてると
偽者が横行して風紀が乱れるんだよな。ご老公には猛省を促したい。
396 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 00:36:12
ぶっちゃけ、いまのご老公は強すぎて助格も忍者もいらんやろ。
>395=格さん >396=風車の弥七 とみたがどうよ?
398 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 01:39:52
も〜
『魏志倭人伝(通称)』に記載は、明帝&司馬懿(→晋)が支持した、
共立された女王・卑弥呼(君臨)の「邪馬壹(連合国)・物部系(夏)」。
『万葉集』に記載は、斉王 芳(魏の少帝)の支持した、
臺与(君臨)の「邪馬臺(連合国)・蘇我系(秋)」。
西暦247年に、狗奴国【熊本県の八代市以北】の「卑弥弓呼」
=【(帯方郡太守)弓遵】に依り、卑弥呼は殺された。
翌西暦248年に、斉王 芳(魏の少帝)の支持した、
臺与が「邪馬臺(連合国)・蘇我系(秋)」を成立させた。
この二つの事件は、「天の岩戸伝説」……、
西暦247年3月の「日の入り時の日食」=【卑弥呼の死】
西暦248年9月の「日の出時の日食」=【臺与(→台与→豊)の出現
で以って、語られている。
『万葉集』の「天の岩戸伝説」より
大君の和魂あへや豊国【臺与(台与)国】の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
参考) 卑弥呼の日蝕
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afjphimiko.htm
400 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 07:11:30
400げと
401 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 10:55:51
>395 またドラマの話か・・・ 水戸光圀は「大日本史」なる史料を編纂させた功績は認めるが、 晩年になっても食欲旺盛、日本人としてはラーメンをはじめて食べたとか、 あんまり庶民のことは考えてないよな。 天下の副将軍なんていっても、将軍にあんまり相手にされてないし。
402 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 20:37:49
レスでレベルわかた!
403 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 14:07:40
超大豪邸に住み、地位と名誉と金があり、美味い料理を食らい、旨い酒を飲み、いい女を抱きたい時に抱きたいだけ抱く。 誰もが絶対に逆らわず頭を下げる。 凄いてか、最適な形容詞がみつからない。
404 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 17:55:20
>>403 そんなバカ殿、いない。
徳川将軍てのは庶民から見てもあまり羨ましい存在ではなかったと、何かに書いてあったよ。
405 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 18:17:08
質素倹約。 麻の着物しか着ない>将軍吉宗
立場上、儒学を最も実践しなきゃいけないしね
407 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 21:17:11
贅沢にしても将軍個人の意思によるものではなく、大奥とかが構造的にやってるわけで、 家斉の側室40人にしても50年間トータルの数字だからな。 現代の一般人でも遊び人なら、50年もかけなくてもそれくらいの数の女食ってるだろ。
409 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 22:33:24
でも一般人は子供55人も生ませないよ。
410 :
よしき :2007/06/15(金) 22:37:05
贅沢とは関係ないけど、徳川将軍はイケメンが多い。 家綱、家宣、家重、家治、家定、家茂、慶喜など
411 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 23:00:02
>>410 徳川将軍に限らず、
大名はイケメン多いよ。幕末の写真みるとわかる。
もちろん、大名はいくらでも女とやれたから、
基本的に美女しか孕ませない。
だから母親はかなりの高確率でかなりの美人だし、
それが何代も続けばイケメンばかりになって当りまえ。これは間違いないと思う。
単にカロリーの低いものしか食ってないからヒョロヒョロなだけじゃね
しかし幕末の古写真に残る武士はブッサイクばかりだぞ 支配層だったのに
414 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 00:47:44
>>411 美人だから殿様の手がつくとは限らないだろう。
大名に美男が多いのは生活環境のせいで見た目が小綺麗だからだと思う
そりゃ跡継ぎのほとんどは政略結婚でできる子供だからな
417 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 09:49:51
>>411 なあ、既知害のよしきに絡むのはやめようよ。
418 :
よしき :2007/06/16(土) 10:00:31
417さんへ 人を既知害と言うなコラ! 荒らしは出て行け!!
419 :
よしき :2007/06/16(土) 10:05:21
何で悪い事していないのに、叩かれるんですか? いい加減にしてください。 この荒らしどもが!
420 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 10:08:08
徳川将軍や大名家は、美しければ、町娘とか、 庶民の娘が平気で愛妾になったからね。 ある程度、選び放題だったかもね。 逆に、婚姻が著しく制限されていた日本の天皇家とは違うだろうね。 こっちは、内裏から一切出れなくて、 女御、中宮も、典侍などの愛妾も、基本的に内裏へあがるだけの身分が有る 公家の娘のみ。
>>415 江戸時代の将軍大名で正室の子は少ないと思うけど。
422 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 11:44:30
良宗はB専。 これはガチ
423 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 11:46:04
吉宗はB専。 これはガチ
424 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 11:46:39
将軍は、庶民と違い、やりたい女をストレートに引っ張ってこれる。 基本的に、ここの部分が凄いよ。
実際には、そうでもなかったみたいだよ。 将軍は大奥に泊まる際、事前に女を指名しておくのだが、 御年寄など高位の女中が気に入らない女だと、呼んでもらえない。 大奥の高位の女中は「お清」でなければならないとされ、 お清の女性は、いくら将軍が気に入ろうとも手をつけられなかった。
426 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 13:38:40
>>425 将軍の指名は絶対的なもの。
将軍付きの女中なら、お清だろうと断ることはできない。
女中同士のしがらみなどにしばられるはずがない。
正室付きの女中は色々と手続きが面倒臭くいから、あまり手を付けなかったようだけどね。
427 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 14:26:29
>将軍の指名は絶対的なもの。 「爺!」 「上様、そればかりはご勘弁を・・・」 「ならぬ!」
それなんて言う綱吉
429 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 14:36:34
ドラマの大奥の見すぎじゃないか? 将軍は、一ヶ月のうち半月も潔斎の日があり、 その間は中奥で寝泊りして、大奥へ渡ることができず、 女断ちを強いられた。 好きなときに好きな女とやれたなど、大きな間違い。
430 :
よしき :2007/06/16(土) 14:38:24
日本史版の皆様へ 人を呼び捨てにしたり、「うざい」、「妄想」という悪口はやめましょう。 荒らし行為はいけません。
そうだな、歴史板なんだから、呼び捨てはよくない。 将軍じゃなくて、将軍様と呼ばなければ。
432 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 16:14:32
将軍と知り合える女性自体が限られてるから、 意外と選択肢は狭い気がする。 それに朝起きてから夜寝るまで、一日のスケジュールが管理されてるし、 自由に女性と付き合ったりできるような環境なんて、 全く無さそう…。
433 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 16:43:27
>>429 テレビドラマの大奥って、二十年くらい昔のやつか?
だったら見てない。
映画も岸田今日子が女主人のやつだな、最後に見たのは。
で、将軍の精進日に奥泊まりしないのは当たり前だろ。
将軍なんだからそういう規範守るのは当然のこと。
俺が言ってるのは、ルールとして、将軍付きの女中を将軍が指名するってことが絶対的なものであったってこと。
それを乱用して家斉のように揶揄されるか、家治のように慎むかは将軍次第だろ。
434 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 16:49:25
>433 お前いくつ? ひょっとしておっさん? 漏れは、3,4年前にやってたのしか知らん、菅野美穂とか、松下由樹とかのやつ。 大奥に仕える女性を指名する権利はあったかもしれんが、 将軍は基本的に大奥以外から女性を調達できんからな。 大奥には老女や少女もいたから、妙齢の女性(17歳〜20代半ばくらいか)といえば限られる、 将軍の側がそれほどえり好みできたかは疑問だがな。
> お前いくつ? > ひょっとしておっさん? ワロタw あほかお前は
436 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 18:18:36
↑そんなところに食いつくおまいもあほか
まあ母娘、尼、破戒坊主の娘、八百屋の娘、不細工と選り取り見取りなので 有る意味では絶対です。
438 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 22:25:06
上様は、恵まれてるよ・・・俺より・・・
439 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 22:56:11
秀忠は なぜ 家忠 に改名しなかったのですか?
>>439 もともと「親」「忠」「康」の字が松平家の通字、それに加えて
家康から「家」の字も通字にしてしまった。だから、「家忠」だと
通字が二つ重なっておかしなことになるからではないかと、オレは
推測するがどうだろう。
441 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 10:46:15
家康が超多忙で、改名はとりあえず先延ばしにしてたら、家康が死んじゃった、だけだったりして
宿敵だった豊臣家の通字の「秀」ってのがまた微妙だよな 普通は避けると思うが
将軍になったときは、一応主筋の秀頼はまだ生きていたから変えるタイミングが 無いんじゃないの。
444 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 18:01:37
「秀」の字は一般的だから、別に豊臣を意識してのことじゃないだろう。 それを言い出したら、一字が重なる戦国大名など、いくらでもいる。 「家」を継ぐようにしたのは、「家光」からだね。 父秀忠に冷遇され、祖父家康に愛された家光は、父の一字などつぎたくなかったかもね。
秀忠は時期的に考えて普通に秀吉からの偏諱だろ 確か烏帽子親も秀吉だったはず 豊臣と徳川は小牧長久手で手打ちして、その後の秀吉死去&関ヶ原で力関係が逆転しても一応良好だった (決定的に悪化したのは大坂の陣の時)わけで、別に宿敵ってわけでもない 名前を変えなかったのはとりあえず秀頼が健在の時は豊臣家に憚って、 大坂の陣以降はただ単に面倒臭かったんじゃないかな
446 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 20:20:18
大河ドラマ「葵 徳川三代」で豊臣滅亡後、秀忠は「家忠」に 変えようとしたが既に家忠は公家でいたのと天海にむやみに名を 変えるのは良くないと言われ、「秀」を変えるのを諦めた話が あったなあ。
447 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 22:34:44
時代劇なんかじゃ家光が有能みたいに描かれてるが、秀忠の方が優秀な行政マンであり政治家だったと思う。
448 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 23:09:19
家光は家臣に恵まれたからね。利勝やら知恵伊豆やら。 日光東照宮造営などは祖父が考えもしなかった愚行だろうな。
449 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 23:35:56
>>447 確かに。武家諸法度はもちろん、参勤交代も秀忠が考えたんじゃ
なかっただろうか?(将軍は家光なので家光がやったように
言われるが)
江戸幕府の基礎確立は家光の業績のように言われるけど事実は
大御所だった秀忠の所によるのが大きいと思う。
450 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 19:44:40
>>449 同意
やはり二代目がボンボンでないと代々繁栄するもんだな
451 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 19:53:02
>449 ん? 参勤交代が武家諸法度に加えられたのは、大御所秀忠の死後だぞ? 参勤交代が定まったのは、寛永12年。 秀忠は寛永9年に死亡。 ちなみに最初に発布された武家諸法度は、将軍は秀忠だったが、 大御所家康在世中で、家康の命により参謀金地院祟伝が起草したもの。
452 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 20:03:49
>>451 確かに参勤交代が諸法度に加えられたのは秀忠死後だが
発案は秀忠らしいよ。
453 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 21:42:54
>>451 利勝が家康から三代に渡りつかえた意味を考えれば見えてくるんじゃないかな
454 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 10:52:59
>453 武家諸法度、ならびに参勤交代の発案者は初代家康、でおk?
455 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 19:36:06
権現様ですよ。 それを秀忠・家光の三代で完成させた。 厳密に言えば、各諸法度も参勤交代もその後も当代将軍家で改正されてる。
456 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 22:23:55
457 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 09:05:31
参勤交代って、誰かが発案とかして始まったんじゃなくて 「自然発生」したのを、法的に整備しただけじゃなかったっけ?
清正とか、豊臣恩顧の諸将が自発的に江戸に屋敷を作って妻子を住まわせたのが そもそもの始まりと聞いたような。参勤交代って大名妻子の江戸居住=人質とセット だったからね
459 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 09:57:54
毒見がいたぐらいだから毎回 食事のたびにひやひやもんだったろうな 贅沢というより地獄じゃね?
毒見もそうだけど、御膳が目の前に運ばれてくるまでにいろいろ 手間がかかって、実際食べる頃には汁も冷め切ってたらしいね。 禁忌物もいろいろあったし、食事に関しては熱々の出来たてや 穫れたての食材をそのまま料理して食べられた庶民のほうがずっと よかったように思う。今の時代からしたら、当時の庶民が食べてた もののほうが今や高級で贅沢なくらいだし。
しかも残したら即、御典医が飛んでくるので どんなに不味くて嫌でも残さず食べなければならなかった
463 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 20:09:54
なんだか動物園の動物達より悲惨だな…
464 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 20:55:40
将軍は天皇と同じようにむやみに外出できないし、食事も形式 ばった物しか食えないだろうけど、大御所の生活はどうだったん だろう? 将軍よりは自由な暮らしができたのだろうか?
>>462 魚の片側を一口しか食べてはいけないので、
必ず多量に残さなくてはならなかった、のではなかったの?
将軍はかわいそうだよ派 →毎日沢山残さなくてはならなかったよ派(魚派) →どんな嫌いなものも残してはならなかったよ派(典医派)
467 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 22:49:33
元禄頃で比較すると 天皇と将軍はどちらが贅沢だったか?
468 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 23:06:10
参勤交代は出仕義務や城下集住の流れの中で自発的に始まったものです。
469 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 23:14:21
>>467 将軍じゃないかな?
食事はほとんど変わらないと思うけど、着る物や住んでいる屋敷など
は、将軍の方が上みたいだし。
それに風呂上がりで体を拭く時は、水分がなくなるまで何回も綿の羽織り
を体に羽織って水分と取ったり(もちろん新品のを何着も使って)、
寝床の枕は将軍が厠に行くごとに新品の枕に取り替えたりとしているから、
将軍の方が贅沢だろう。
贅沢かどうかはわからんが居城の江戸城を御所では比較にならない
大きさだしな。
470 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 23:29:47
天皇は在位中はほぼ御所から出られなかったからなあ。 庭も申し程度で敷地も狭い、あんな御所で135日いると 普通に発狂しそう。俺だったらとりあえず1年我慢してすぐ 譲位するなあ。 将軍は江戸城も広いし、吹上に行ったり紅葉山に行ったりと ある程度のハイキングができるし、鷹狩で外にも年に数回は 出れるから、こっちの方が良い。 それでSEX相手も選べるしね。(身分に関係なく自分の好み で選べる) しかし、天皇は公家の娘しかほとんど選べないからな。
471 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 08:28:07
ん? 大奥の制度がなかった創業者家康の頃は、 鷹狩りに行ったときに陳情してきた未亡人をそのまま城へつれて帰って、 側室にしてチョメチョメ・・・ってことも可能だったけれども、 大奥制度確立後の家光以降は、大奥の中からしか調達できないぞ。 自分で江戸の町へ出て行ったりして、将軍自身が選んでくることなど、不可能。 天皇が在位中御所から出れんのは確かだが、まあ、御所は言うほど狭くない。 現在の京都御所は、戦時中にかなりの建物が壊されたから。 江戸城よりは狭いが。 毎日、公家や女官たちに囲まれて、それなりに平和に暮らしてたんじゃないか? 将軍も、戦がなくなると、毎日やってることは公家とそんなにかわらんし。
472 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 08:57:35
天皇は大奥はないんかな
473 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 09:16:35
大奥・・・とは呼ばなかったけれども、後宮は持っていたね。 江戸時代の天皇の正室(女御、あるいは中宮)は、内裏の北側に廊下続きで設けられた、 女御御殿、あるいは皇后常御殿などと呼ばれる御殿に住んでいた。 それとは別に、 江戸時代、天皇が日常生活を送った「御常御殿」には、 男居という雑用係の男や、稚児をのぞき、基本的に女官ばかりが詰めていた。 平安時代の女官のトップ「尚侍」は江戸時代には置かれなくなり、 実質上のトップ「典侍」は、実務をつんで出世してきた女官の場合と、天皇の側室の場合がある。 天皇に仕える女官の中でも、御末と呼ばれるような下位の女官はともかく、 羽林家や名家出身の女官であれば、気に入れば、手をつけて典侍や権典侍として 寝所に侍らすことができたみたいだね。
474 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 15:23:08
側室ということは、正式に臣下として採用されている女性だから、 将軍にしろ天皇にしろ、何の関係もない人とは側室どころか知り合うことすらないんじゃないか?
475 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 18:08:16
女を自由に抱けるのは天皇というところかな。 将軍はあまり贅沢でないな。
476 :
470 :2007/06/21(木) 19:19:19
>>471 >>自分で江戸の町へ出て行ったりして、
将軍自身が選んでくることなど・・
いや、そういう意味ではなく、大奥の数多くいる女中から
気に入ったのを選べると言う意味だったんだよ。
御所に詰める女官はある程度の身分の出しかいないから
天皇が農民の娘をSEXなんて実質不可能だった。
それに比べ大奥には上は皇族、下は農民の娘がいたから
身分に関係なく選べると言ったまでで。
言葉足らずだったのはスマヌ。
477 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 20:01:50
>>476 農民の娘なんて、
大奥に雇われても将軍には会わせてもらえないだろ。
478 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 20:38:05
>>477 そうとも限らないだろ。
大奥には天英院と月光院の対立みたいに派閥があって、派閥の領袖は
自分の派の女中が将軍の目に留まるようにやっきになっていた。
(当然、その女中が継嗣を生むと自分達の大奥での権勢が大きく
なる)農民の娘でも容姿端麗なら将軍の目に留まるように朝の
挨拶に出すかもしれない。(将軍が「そちの名は?」と問うと
今夜のお相手決定)
家綱、綱吉の生母も町人と農民とそんなに変わらん出だし。
大奥で側室になる条件は身分ではなく、容姿。
479 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 21:02:38
>>478 それは違う。
大奥での出世や玉の輿は1:引き、2:運、3:器量といわれていたので、容姿云々はあまり関係ない。
もちろん、綱吉以前の大奥は制度が整っておらず、
確固とした職階がなかったために前例のないことも多々あったが(家光の側室のように身分が低い者もいた)。
それ以降、農民の娘・商人の娘など身分が低い者が側室になったケースは二人しかいない。
480 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 21:13:26
家光の時代だと、 閨閥を避けるためにわざとパンピーと付き合ってた
481 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 21:29:26
>>479 しかし、綱吉以降も「2人」はいたんだ?
それに比べ、天皇には皆無だろ?
もし、将軍が鷹狩で気に入った農民の娘を見かけて「あれを
側室にしたい」と言ってもできなのか?そうではないだろ。
天皇には外を見る機会させないんだから。
それに元ねたは天皇と将軍どちらが贅沢しているんだろうだから。
自由度や贅沢度は将軍の方が高いな。
482 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 21:37:17
まあ、家光までは比較的、鷹狩の他、上洛したに日光東照宮に参詣 したりとしているからなあ。 次代の家綱が幼少だったので将軍が外に出ないのが慣例化したけど。 吉宗のように将軍が東照宮に参詣すると決定すれば、東照宮に参詣 できたのだから将軍が決めれば東照宮参詣、上洛、天領視察ぐらいは できたんだろう。 それに比べ、天皇は父である上皇の仙洞御所へすら行幸ができない。
483 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 21:39:05
綱吉はちょくちょく、御三家や家臣の屋敷に遊びに行っていた。 訪問先は名誉だけど迷惑していたらしいが。
484 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 23:08:51
一番将軍の器量がなかったのってだれ?
>>481 それはフツーに考えても出来ないだろう。
奥女中以外の女性を召し出したりすれば、大奥という組織が
無用の長物であることを内外にアピールすることになる。
そして、綱吉以降の二人というのも奥女中であり、
もちろんきちんと武家の養女となった上で奉公に上がっている。
実質的に武家の娘として扱われるから、身分が低いとはいえない。
天皇も身分の低い女性に手を付けたという話もある。
>>475 天皇の方が窮屈だよ
在位中は御所から一歩も外に出られないし、幕府の監視の下、後宮は特定の家の娘しかいないし
487 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 00:05:58
そもそも、側室って家臣なんだから、 正式にその家のスタッフとして採用されてないとダメなんじゃないの? その場限りなら、見ず知らずの行きずり相手でもいいかもしれないが
488 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 11:49:06
というか、天皇家と将軍家を比べる時点で間違ってる。 江戸期を通じて、天皇家は貧乏すぎwww
489 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 12:32:33
と言うか、江戸時代には「天皇」の名は、ないからな 幕末を除いて
490 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 12:58:35
俺は、監視プレーも束縛プレーでも限定製造元供給でも構わないぜ。 たくさんやりたい。
491 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 13:00:57
上様、今日はインポでございましたねえ〜とか、 上様、今日は早漏でございましたね〜 とか全部監視役に分かっちゃうんだぞ あんな状況の中でやらされるのは 結構地獄だと思われ
492 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 14:17:04
>>486 天皇の後宮には宮家・摂関家〜名家ぐらいの子女が多かったのは事実だけど、
あくまでも父方。
母方は、武家の娘だったり、町人の娘だったりする場合も多いよ。
大奥も、一応、それなりの人の養女になってお勤めに出ることが多かったし、
大奥の女性はすべてが将軍のお手つき用ではない。
実際には、「お城勤めの経験がある」というのは一種の箔になるため、
町娘や下級武士の娘が、結婚前の行儀見習いにゆき、やめて結婚することもあったようだ。
たとえ、将軍が年に数回鷹狩りや東照宮詣でに行ったところで
将軍が一般庶民と交わることはなかったと思うよ。
家康の場合、将軍になったのは晩年だし、
一城主に過ぎなかった頃なら、領内を見回って農民に声をかけたり、
供も少なくて城下の未亡人が夫が喧嘩で死んだ、あだ討ちさせてくれ、
と家康に声をかけることも可能だったろうが。
将軍が庶民の前に気軽に姿を現したり、まして、庶民が将軍に声をかけるなど、普通はありえない。
(テレビドラマは、なしよ)
493 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 18:43:54
ウッ、テレビドラマはダメか・・・
じゃあ、吉宗は下賎の女が好きで、鷹狩に出た先で百姓の娘を手篭めにしたり してたというのも真っ赤なウソ?
495 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 19:43:48
吉宗の側室というのは、たった四人。 逸話に残っているものは俗説に過ぎない。
>たった四人。 お須磨「お須磨こと深徳院!」 おこん「おこんこと本徳院!」 おひさ「おひさこと深心院!」 おくめ「おくめこと覚樹院!」 四人唱和「我ら吉宗四天王!」
吉宗本人の母親素性が定かじゃないんだから、わざわざ再び下層の血を取り込む必要ない でしょう。
吉宗の場合不美人だったという逸話が残る側室がいるところが怖い。 ジョージ1世みたいに美人嫌いとまでは行かなかったようだけど。
499 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 22:40:49
そりゃ、好みは人それぞれだから
500 :
日本@名無史さん :2007/06/23(土) 00:37:28
500(σ・∀・)σゲッツ!!
501 :
日本@名無史さん :2007/06/23(土) 01:14:56
>>496 まさか四天王が敗れるとは・・・
ついにアタシの出番だね!
マダムおゆりこと、浄円院!
502 :
日本@名無史さん :2007/06/24(日) 01:35:56
徳川の埋蔵金とか 10年以上前テレビで盛んにスペシャル組んでたけど あれは、可能性としてはあるのか? 徳川家が江戸城ではなく、わざわざ外に穴掘って金を保管するとか 大真面目に探してる人も居るみたいだが。
503 :
日本@名無史さん :2007/06/24(日) 01:53:43
「そんな埋蔵金があれば、とっくに遣っている」って徳川一族の誰かがテレビで言ってた。 明治維新直後の旧徳川勢の窮状を見れば分かると思う。
504 :
日本@名無史さん :2007/06/24(日) 14:50:48
505 :
日本@名無史さん :2007/06/24(日) 19:35:50
将軍家の祝の膳のメニュー知ってる人いたら教えて
別のスレで、正月に兎肉の雑煮が出たと読んだ。
507 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 19:15:45
武家は質実剛健だよ 贅沢は敵だ
508 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 23:42:48
皆知らないようだが、以外にも将軍の食事は洋食が多かったらしい。 専用のピザ焼き釜があり、パスタ係りもいたし、 ソーセージ、ベーコンポテトやオレンジジュースなど イタリア料理以外にもフランス料理もドイツ料理もあったらしい。 わざわざオランダ経由でレシピも入手していて 月に何度かはだされていたとか。 鎖国中、庶民が知らないものを食べてたとは贅沢の極み。、
509 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 04:02:15
ソース それから頻度もな
510 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 12:55:49
>>508 まあ将軍だし、色んな物が献上されるから
そりゃ、めずらしい食べ物もあるだろう
511 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 18:22:38
じゃあソース出しな
慶喜あたりは喜んで食べそうな印象があるな。 あと生きてれば晩年の家康とかも。
 ̄| ̄ ̄| ̄ ̄|─‐‐-、  ̄| ̄ ̄| ̄ ̄| |  ̄ ̄| ̄ ̄| ̄|----‐  ̄| ̄ ̄| ̄ ̄|  ̄ヽi  ̄ ̄| ̄ ̄| ̄|д゚) || ジー  ̄| ̄ ̄| ̄ ̄|徳川 ||)  ̄ ̄| ̄ ̄| ̄| ー ス/||  ̄| ̄ ̄| ̄ ̄|----'/  ̄ ̄| ̄ ̄| ̄|"U ̄
514 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 23:49:26
将軍はええなあ
515 :
日本@名無史さん :2007/07/08(日) 08:36:10
なにを言っている 将軍様なんだから当然だろう さあ、そんなとこで無駄口きいてないでさっさと仕事汁!
>>515 は日曜から仕事か?
デパート店員か何かか?
517 :
日本@名無史さん :2007/07/08(日) 12:17:32
しかし中国、朝鮮、過去の天皇家と外戚が権力を奪取していくのが常だったのに、徳川はそういうことが起こらなかったのは大奥制度のお陰か。
518 :
日本@名無史さん :2007/07/08(日) 12:17:47
月月火水木金金
>>517 うむ、布団の上でギシギシアンアンしてる横で30歳の年齢制限越えてもう将軍の相手してはいけない人が
おねだりしてないか朝までチェックしてるからね
やだなぁ(´Д`;)ヾ
大奥で生まれた文化ってなんかあるの?女流文学的なものとか
>>520 ない。
いかなる意味でも生産的でないもの、
それが大奥。
この自演、前にも見た覚えがあるぞ
523 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 00:27:35
>>521 大奥での浪費が江戸の経済を活性化させていたのは有名な事実。
女中たちの家具や衣類が中古品として出回り、高値で取引された。
京や地方の文化を江戸に持ち込んだのも大奥。
華道や香道を庶民まで広めたのも大奥。
一概に非生産的とは言えないし、子作りと将軍の世話以外にも大きな役割を持っていたのに、性的なイメージがつきすぎている。
524 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 00:35:44
ところで皇居の東御苑の本丸跡に行ったことある? ここに大奥が実在したのか・・ という妙な感概に浸ったのは漏れだけではないはずだ
525 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 01:54:43
大奥は文化こそ生まなかったが 250年以上に渡る、将軍家の継嗣を育てた。 それだけで、源氏物語以上に価値がある
526 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 10:00:28
日記とかは残って無いの?
527 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 10:32:47
将軍の継嗣だけがのこったもの
528 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 10:54:41
あの・・・ 将軍の継嗣さえろくに残せなかったわけだが
529 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 12:32:43
経済・文化発展に貢献したが、特定の何か(日記や物語など)を残したわけじゃない。 まあ、天皇家の後宮とはちょっと違うわな。
530 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 12:38:32
徳川将軍で、大奥生活をエンジョイできたのは12代家慶までだろうな。 家慶は死の前年に最後の子供をこしらえてるから、存分に大奥を満喫したようだw 一方、家定は虚弱で不能だったとか言われてるし、側室と伝えられてるのもお志賀の方だけ。 家茂は、皇女を嫁にもらった上、多事多難でそれどころじゃなかった。 慶喜は一橋時代からの愛妾はいるが、ずっと京都暮らしで大奥に入れなかった。 思うに、家慶没後の大奥は、年増の後家ばかりで華やかさに欠ける世界だったろうな。
531 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 12:44:22
考えてみたら、歴代将軍に年頃の姫がいる状態というのも、意外と少ない。 家斉以前の徳川将軍の子女で成長したものは、圧倒的に男子の方が多い。 姫がゴロゴロしてたのは家斉のときくらいで、それもとっとと嫁に出すから、 子女があらかた夭折した家慶以降は江戸城に姫はいなかった。 田安慶頼の婚約者だった姫が十代前半で夭折したのは惜しい。
532 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 18:09:52
継嗣はのこってるやん 鎌倉幕府みたくはなってないわけで 一応 跡取りはあり
533 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 21:22:38
未亡人と年食った元愛人のたまり場、それが幕末の大奥
534 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 23:13:43
女子高みたいなもんだよ
535 :
日本@名無史さん :2007/07/16(月) 23:25:32
徳川将軍のうち、自分の子に後を継がせることができたのは 半分くらいしかいないわけだが。 大奥、効率悪すぎ
536 :
日本@名無史さん :2007/07/17(火) 09:20:23
なんか勘違いしてるのかもしれないが、大奥は将軍家族の住居、奥女中はお手伝いさんたちだぞ。 奥女中の公的な目的は将軍家族のお世話であって、世継を残すことではない。
537 :
日本@名無史さん :2007/07/17(火) 09:32:02
将軍が胤無しでは、 いくら若い女をあてがっても意味がない。
538 :
日本@名無史さん :2007/07/17(火) 19:47:06
家茂時代の大奥って、溥儀が退位した直後の紫禁城に似てるな。 幼君と先代、先々代の夫人たちの居住空間。 家茂=溥儀 天璋院=隆裕皇太后(光緒帝の皇后) 本寿院・実成院=光緒帝や同治帝の側室たち
今の天皇家も相当贅沢だよな。 庶民が不況で苦しんでいるのに、皇太子の新居に3億円だろ。 財政赤字の日本のどこにそんな金が余っているんだよ。
540 :
日本@名無史さん :2007/07/17(火) 23:59:56
華麗さと君主の力を人々に見せつけることも必要。
541 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 00:08:03
天皇一家は給与として国会議員と同じだけ貰ってる。しかも衣食住付で改築費、外国滞在治療費まで出る。
542 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 00:16:41
射精しまくり、女抱きまくり
543 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 00:32:49
実際はそんなに贅沢じゃなかったって説もあるよね。
545 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 00:56:30
>>544 何処が贅沢じゃないって。馬鹿ですかあなたは。これほどの事実があるのに。
546 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 00:58:51
私にも外国滞在治療費三億円出してもらいたい。
547 :
544 :2007/07/18(水) 01:00:54
548 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 01:14:35
>>541 つーか一国の元首が一国会議員と同じ給与かよ?
そんなに質素なのか
確かにそっちのほうが問題だな
550 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 06:52:38
いや、天皇は単なる象徴にすぎないから。
551 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 09:08:34
いちおうわかってはいると思うけど 収拾つかなくなるから憲法論議はご法度な
552 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 12:40:11
皇太子がSP付けて黒塗りの車で風俗店に通ってることを語るスレはここですか?
553 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 13:04:37
皇太子=徳川恒孝氏の子供説を信じてる方なら、ここでいいんじゃないすか。
554 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 13:57:00
雅子涙目w
555 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 15:25:31
556 :
日本@名無史さん :2007/07/18(水) 16:00:02
>>555 荒らしを放置出来ない人も荒らしです。
将軍の食事についての論文があるのな。
読んだことないけど。
557 :
日本@名無史さん :2007/09/17(月) 03:22:51
558 :
日本@名無史さん :2007/09/17(月) 18:57:10
>>553 徳川の子は今の秋篠宮だお。皇太子は大室系の子。
559 :
日本@名無史さん :2007/10/16(火) 09:43:38
アホは死ね!
560 :
日本@名無史さん :2007/10/19(金) 19:03:59
封建制度のしくみ ____ │ 将軍 │  ̄ ̄ ̄ ̄ 奉公↑ ↓ピザ ____ │ デブ │  ̄ ̄ ̄ ̄
561 :
日本@名無史さん :2007/11/01(木) 20:17:00
大徳川展行くと分かるが、結構普通だよ。 いくら徳川でも派手好きは淘汰されてたみたいだし。
562 :
日本@名無史さん :2007/11/02(金) 13:23:31
先代はおろか先々代の御台所やお腹様、 京から来た御台とそのお付など将軍家といえども気を使わなければならん連中がうようよいるし、 口うるさい上ろう、中ろうなども一筋縄ではいかない。 むせ返るような白粉の匂いで、いくらなんでも食傷だろう。 だいたい、性欲は征服欲とも関係あるらしいから、なかなか成就しない恋愛でこそやる気も高まるというもの。 据え膳どころか、種馬のように扱われる将軍家は女嫌いになってもおかしくはない。
563 :
日本@名無史さん :2007/11/02(金) 13:34:29
将軍家定などは大奥に泊まらず 中奥に泊まることも多かったらしいしね ちなみに中奥は将軍の居住空間で男しか詰めてない
564 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 12:53:37
なんか
>>562 みたく勘違いしてるやつが多いが、大奥は公務員みたいなもの。
大御台所や将軍生母、御内証の御方のような御上通だけが将軍ファミリー。
将軍個人の性格にもよるが、天下人が一介の奥女中を疎んじることはそうそうないことだ。
ましてや嫡母・義母にあたる先代妻妾は敬う対象。
565 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 18:08:36
大奥構成員の中で御台所や生母が将軍の家族だということはわかるが、 側室はもともとは大奥構成員の一女中にすぎないよね。 お手つきとなって中ろうに格上げになっても、女中の一人に過ぎず、 大奥全体の序列から見ればたいしたことのない地位で。 将軍生母に力があったのは分かるけれども、 側室程度では真ん中程度の女中、というだけ。 子は将軍の子として扱ってもらえるだろうが、 側室は将軍ファミリーの一員というほどのことではないだろう。
566 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 18:47:39
>>564 なんかなにも、はなはだしい勘違いはおまえだよ。
まず大奥に関するちゃんとした本を10冊程度読んでから書き込め。
杓子定規で話にならんわ、何者だよ、おまえはw
それからもう少し全体を捉えろ、君は周囲から頭が悪いといわれてないかい?
567 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 19:31:12
どっちもどっちだよw
568 :
日本@名無史さん :2007/12/07(金) 19:53:14
>>565 当然ながら子女を生まない御手付、子女を生んだ御部屋様は一介の奥女中に過ぎない。
が、世継などを生み、御内証の御方の称号を得た者は御付女中を付けられた。
奥女中は将軍、あるいは将軍の家族と見なされる者にのみ付けられる。
>>566 原文で分限帳も読めますよ。
>>566 みたいなバカがいる限り、大奥=エロと贅沢みたいに思うやつは減らないんだろうなあ。
570 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 01:57:25
将軍がセックスする=エロイ 下町の民家よりは豊かで贅沢=つまり贅沢 この二点のみに集約して「大奥=エロと贅沢」と考えて何も問題は無い
571 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 13:02:47
好色というのは、江戸時代は悪いことではなかったようだ、
572 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 19:17:02
「好色一代男」ばかりか、 「好色一代女」も馬鹿売れしたりしていたし、 結構性にはルーズ?
573 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 20:22:27
まぁ最大の贅沢は、江戸城の修築だろうな。 失火で焼けすぎ。 最後には修築費すらない有様。。。
574 :
日本@名無史さん :2007/12/09(日) 21:01:00
性につていは、江戸の頃は自分の女房を売春させていたし 客がやり逃げしないように夫が見張っていた。 川には 船饅頭と呼ばれる私娼がいたし、そこいらに夜鷹もいた。 銭湯はむろん混浴であった。 江戸期には男も女も浮気をした際に、金で済ますということが 記録されているので、キリスト教的な概念が入る前は 性に対してはオープンであった。 よばいも当たり前のことだったからね。
575 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 10:17:57
明暦の大火後に再建した万治度の本丸御殿は1840年代まで使用された。 その後、火災が連続して弘化度、安政度の造営と続いた。 安政度の御殿が文久3年の火災で焼失した後は、ついに再建されなかった。
576 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:37:03
保科肥前守は天守閣消失後は富士見櫓を天守閣に代行したらしいね
何度も消失しているのにしつこく木造にこだわるのは馬鹿なのか? 石造りにしろよ。
石造では土台はともかく、地震に耐えられない
580 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 17:17:49
徳川の末裔って誰?
581 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 21:26:18
582 :
1111111111111 :2007/12/29(土) 22:05:56
オマエラの贅沢はセックスしか思いつかないのか? まぁそんなことしかやる事ない将軍も脳味噌は萎んでいそうだなw 逆に室町幕府の将軍の方が弱いけどいつもハラハラドキドキの 戦国真っ最中で面白いといえば面白そうだw
583 :
日本@名無史さん :2008/01/23(水) 18:54:25
皆知らないようだが、以外にも将軍の食事は洋食が多かったらしい。 専用のピザ焼き釜があり、パスタ係りもいたし、 ソーセージ、ベーコンポテトやオレンジジュースなど イタリア料理以外にもフランス料理もドイツ料理もあったらしい。 わざわざオランダ経由でレシピも入手していて 月に何度かはだされていたとか。 鎖国中、庶民が知らないものを食べてたとは贅沢の極み。、
そのわりには、ふんどしも自分で結べないほどデブってた 初代は別格として、二代目以降最後までピザデブ将軍で出ていないのは さすがというか。
585 :
日本@名無史さん :2008/01/26(土) 18:07:38
料理作る→毒見→冷たくなる→暖めなおす(風味吹き飛ぶ)→毒見→冷たくなる→将軍の口へ
586 :
日本@名無史さん :2008/01/26(土) 19:01:27
料理人は10人分の食事を作り、 まったく同じ鍋や釜から器によそう。 10人分のうち2人分は毒見用。 まさか、毒見が箸をつけた食べ残しを 将軍が食べていたわけではない。 将軍の食事は冷たかったというわけでもない。
キムタクも大変だな。
作って膳に移されてから口に入るまで2時間くらいかかるの
毒見で死んだ人っていたの? いなかったら相当美味しい役目だなあ
590 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 21:16:32
>>568 温め直すから冷たくはないが、チーンする訳ではないからぬるいのは確実。
死んだ人は結構いたらしい。 殿様の食事に限らず、側室とか正室の食事で死んだ例も多く、 江戸城大奥に限らず女の戦いはどこの藩でもすさまじいものが あったとか。
592 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 22:58:56
毒殺の検出だけではないからね。 腐っていたり変質していたりも当時はある。 食あたりの死者もいたのでは?
593 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 23:00:17
鯛の天麩羅か、、
594 :
日本@名無史さん :2008/01/30(水) 23:03:09
三回に一回ぐらいの割合で トリカブトやフグの卵巣や肝臓が混ぜられてたらしい 命がけだね
そこそこ金あって、他人から狙われないポジが一番だな
特産物かなんかがあって裕福な小藩の、 格式だけ高くて仕事はあんまりないお飾りみたいな役職 ってのがいいな。
597 :
日本@名無史さん :2008/03/06(木) 21:42:37
富士見櫓に登って花火見物。
598 :
日本@名無史さん :2008/05/12(月) 01:11:10
大奥には、上様、御台様に御目見えできるのが200人、その他、合わせると1000人って、 いずみ滝山wが言ってたから、この200人の中に入らないと、上様の御手付きには なれないんだよ
600 :
日本@名無史さん :2008/05/28(水) 17:52:52
将軍が食べる米は一級品をさらに一粒ずつ女中が選んでたんだと。 でもご飯は炊くのではなく蒸したもの。 中奥で作る→毒味→お錠口へ運ぶ→温めなおす→毒味→盛り付けなおす→将軍のもとへ運ぶ すっかり冷めて美味しくないだろうね。 将軍が食べた量は秤できっちり計って医者に報告するんだって。健康管理の為。 将軍と御台所の食事は広さ二百坪の御膳所で30人の調理人と40人の下働きが作ってた。 当時のメニューを再現した写真とかないかな? 見てみたい。
将軍が正月に食わされる雑煮は糞不味い、これ豆知識な
602 :
日本@名無史さん :2008/05/30(金) 20:15:59
贅沢といっても長生きになる健康的な贅沢とそのときの欲求を満たすだけで 寿命を縮める贅沢の二つがある 質素な精進料理や和食を適量食べるとかいうのが前者 ビーフステーキやフランス料理のようなものを満腹するまで食べ酒もたくさん飲む というのが後者 家康は前者の究極を極めた(だから豊臣家滅亡まで長生きして徳川の世を 200年以上続かせた)といえる 元禄あたりから後者の贅沢になっていったんではないか? 大名も贅沢食やアルコールが原因で短命というのが多くなってくるし
やっぱあれか、砂浜を白馬で走るのも健康にいい贅沢かな。
604 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 18:33:05
健康的な贅沢をしたのは徳川家康と昭和天皇が双璧だと思う
605 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 19:13:31
皇帝やツアリーの贅沢から比べたら、何もいえないよな これは将軍に限らず、道長なんかもそうだが
606 :
日本@名無史さん :2008/05/31(土) 19:33:55
>>605 道長は糖尿病でなかったか?
甲府宰相綱重は酒の飲みすぎで30代で死んで綱吉が将軍になった
綱吉は酒は飲まず生類哀れみの令出すくらいだからわりと健康的だったと思う
皇帝やツアリーも短命が多い
607 :
日本@名無史さん :2008/06/01(日) 00:25:14
贅沢って食欲性欲以外にもあるだろう? 美術品の収集、建築物の構築など そういう観点から眺めると、日本の権力者は地味と言うかかわいいというか 欲がないと言うか 世界の権力者とは比較になりませんな 秀吉くらいかな
608 :
日本@名無史さん :2008/06/01(日) 00:53:39
↑日本語おかしかった。ゴメン ともかく日本の権力者の欲のなさよ。。。
権力というもの自体が欲望の対象だからな、手に入れてしまったら、それを保全することにしか関心がいかないのかも。
610 :
日本@名無史さん :2008/06/01(日) 03:23:08
でも考えてみれば名古屋城だってあの時代の家康だから天下普請で短期間に できたんだろうね 現在本丸御殿再建するのにも四苦八苦しているから 150億円かあああ 御殿もいいけど、櫓や門、多門櫓の方を先に再建してくれんかなあ そう考えると城をポンポン建てたり破却した秀吉はすごいな それでも短期間にやりすぎて、耐久性が今ひとつだけど やはり何十年かけて建造物を造る外国の権力者に比べたらおとなしいか
611 :
日本@名無史さん :2008/08/31(日) 08:37:57
612 :
日本@名無史さん :2008/09/16(火) 23:36:17
将軍は三食昼寝付きで 好きなとき好きな女をすきなだけ抱き放題 一日のスケジュールも好き放題で うるさく説教したり口答えする奴はその場で切り捨て御免 些細なことが気に障ると それだけで一存で諸大名を改易し 近づくものみな 指先ひとつでダウンしてたらしい 勉強も仕事もせず かんに障れば周りを粛清し 性欲と食欲を満たしながら怠惰な生活をむさぼる これが将軍の真の姿であった 紛れもない真実
613 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 18:18:56
>>612 家光までなら、そうかもしれないがそれ以降、将軍もしきたりに支配され
好き勝手ができたわけではない。
歴代将軍の命日には大奥に入れないし、スケジュールも朝起きて→医師の
診察→朝食と喰いながら髷を結い→大奥へ向かい御台所の挨拶・共に
仏壇に拝礼→政務と概ね決まっている。
大名の改易も評定所に諮った上での決定し老中人事も勝手に罷免は
できなかった。
吉宗は宗春をすぐに処罰できかったことや、家斉は松平定信をすぐに
罷免できなかったのがいい例。
614 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 18:27:52
始皇帝も、贅沢が行き過ぎて、水銀を飲んでたし。
615 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 20:21:28
当時の農民の状況ってどうなの? どうあれ将軍家の生活が農民の水準より高そうなのは事実だと思うけど いい家に住んでいるし農作業なんてする必要性もないし 大体、いい服を着ている時点でそこまで悪くはないと思うけど 衣食住が保障されている時点で、少なくとも農民よりかはマシ 飢饉とか徳川将軍家の時代に何度かあったらしいからね
616 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 21:11:29
まあしかし徳川将軍は健全な方だよ 北魏の歴代皇帝なんか皆30歳前後で死んでる 先代が不老長寿の金丹を呑んで死んだから 呑む量が足りないと思ってもっと呑んで死ぬ繰り返し
617 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 01:59:13
>>615 将軍と農民を比較するなよ。全然畑違いだ。
せめて、天皇と将軍を比較しろよ。
そこらへんの農民と比較される将軍って…w
619 :
日本@名無史さん :2008/12/06(土) 00:16:05
620 :
日本@名無史さん :2008/12/07(日) 11:47:35
>>613 逆に家光まではいつ他大名に滅ぼされるか知れず
まさに将軍になるのも命がけだったがな
現実に徳川家康なんてあれほど何度も窮地に立たされて
大往生できたのが奇跡に近いだろう
621 :
日本@名無史さん :2008/12/09(火) 22:47:45
焼きサンマが最大の贅沢だよ
622 :
日本@名無史さん :2008/12/14(日) 13:54:10
徳川将軍家の式正料理(大掛かりな儀式の時に出る料理)って、 どんな料理が出たのですか?。
624 :
日本@名無史さん :2008/12/14(日) 21:26:22
625 :
日本@名無史さん :2008/12/14(日) 21:29:58
お好み焼き
628 :
日本@名無史さん :2008/12/14(日) 23:41:03
北の将軍に比べて贅沢はできていない。
629 :
日本@名無史さん :2008/12/15(月) 01:15:22
食いもの自体は大したこと無い。 ただ、贅沢といえば贅沢。 魚の裏は食わないとか箸を一度付けたら交換されるとか。 毒味分を含めて20食位を1食に作っていた。
630 :
日本@名無史さん :2008/12/15(月) 03:31:11
>>607 「親父が嫌いだから」という感情的理由だけで、
秀忠の作った天守閣潰して、新しく建て直した家光。
632 :
日本@名無史さん :2008/12/16(火) 21:49:13
ところで、徳川歴代将軍の好物(食べ物)って、 どんな物(食べ物)があったんですか?
633 :
日本@名無史さん :2008/12/16(火) 21:56:17
だから 途中からはピザやパスタ オレンジジュースとかもでたそうだよ。
634 :
日本@名無史さん :2008/12/18(木) 19:31:01
将軍の鷹狩って、 大層費用が掛かったそうだが…。 …準備も大変そうだったし…。
635 :
日本@名無史さん :2008/12/18(木) 19:53:35
鷹狩りが無事に終われば取り仕切った旗本は褒美に御加増されるし
636 :
日本@名無史さん :2008/12/18(木) 20:46:56
ちなみに将軍様の鷹に何かあれば重役は全員腹切りだった。 羽が一本でも抜けたら、やはり減俸。 それなのに、狩りの成果が上がらなければ、皆改易。 ひやひやだったらしいよ。
637 :
日本@名無史さん :2008/12/18(木) 21:54:39
江戸時代初期の将軍の遊びは、 城内では能等の興行等、 城外では、鷹狩・鹿狩・猪狩等の狩猟、船遊び等、軍事演習を兼ねた遊びが主流だったが、 経費が掛かる為に、次第に軍事演習を兼ねた遊びが行われなくなり、 江戸時代後期になると、大人しい遊びが主流になったそうだ。
638 :
日本@名無史さん :2008/12/20(土) 09:28:54
一日三色贅沢な料理を食べ放題で、美女や少女を抱き放題で、好きな時に 好きな場所で好きなだけ寝る事ができ、諌言する家臣は手討ちにして、反 抗的な家臣も上意討ちと称して隠密に殺害させ、顔が気に入らぬと言うよ うなささいな理由で大名を改易し、逆らえば一族郎党皆殺しにし、ストレ スがたまれば狩と称して郊外で百姓を射殺でき、辻斬りもでき、好みの村娘 や町娘はその場で御手付きにでき、逆らえば手討ちにし、庶民に重税を貸 し、無理難題をふっかけて困る所を高みの見物で喜び、逆らえば皆殺しに し、性欲、食欲、支配欲のおもむくまま、自分の生きたい様、やりたい様 、だれに遠慮も無く生きていけるのが将軍さま
639 :
日本@名無史さん :2008/12/23(火) 09:07:27
そうそう。北のね。
641 :
日本@名無史さん :2008/12/30(火) 07:36:51
釣られるなよウホ
∧l二|ヘ (・ω・ ) おいらをどこかのスレに送るんよ ./ ̄ ̄ ̄ハ お別れの時にはお土産を持たせるんよ | 福 | | | 袋 | |,,,....  ̄ ̄ ̄ ̄ 現在の所持品: 帽子 ハロゲンヒーター エロ同人誌 オプーナ NikonD3x 航空ファン 豚の貯金箱 墨汁入りイカスミパスタ
643 :
日本@名無史さん :2009/02/08(日) 23:25:17
ん?
644 :
日本@名無史さん :2009/02/09(月) 08:35:43 BE:661884236-2BP(0)
志村けんのバカ殿様のモデルになった家重ですが、囲碁に関してはプロ級の腕前だったらしい。
最初に全く関係ない場所に石を打ち、相手からは心中で馬鹿にされるが、
進むにつれて最初の石が要塞のように意味をなすらしい。
645 :
日本@名無史さん :2009/05/03(日) 21:07:27
へえ
646 :
日本@名無史さん :2009/06/16(火) 22:20:06
将軍は三食昼寝付きで 好きなとき好きな女をすきなだけ抱き放題 一日のスケジュールも好き放題で うるさく説教したり口答えする奴はその場で切り捨て御免 些細なことが気に障ると それだけで一存で諸大名を改易し 近づくものみな 指先ひとつでダウンしてたらしい 勉強も仕事もせず かんに障れば周りを粛清し 性欲と食欲を満たしながら怠惰な生活をむさぼる これが将軍の真の姿であった 紛れもない真実
北の将軍様のことですか?
648 :
日本@名無史さん :2009/06/16(火) 23:46:37
北ですら三代目の正男・正哲・正雲は今のところ常識人らしいからな
649 :
日本@名無史さん :2009/06/17(水) 02:05:34
>>646 朝起きたら弓射百本、柳生流の師範から本気で絞られ、国学者から最新の学問を詰め込まれる。
政務をサボると山積みになるので夜遅くまで残業三昧。
毒味をされすぎて冷めた味気ない食事。
残すと料理人が切腹するので好き嫌いできない。
女を抱くには形式に則り山ほどある手続きを時間までに申請しないと抱けない。
日本の将軍は気苦労が多く、責任の重い役職だった。
650 :
日本@名無史さん :2009/06/17(水) 03:18:45
書画骨董とか刀剣の収集を趣味にした将軍とか居なかったの?
651 :
日本@名無史さん :2009/06/26(金) 19:42:10
>>649 しかも女を抱く時も側に見張りがいる有様w
653 :
日本@名無史さん :2009/08/19(水) 01:05:32
そうかねえ?
654 :
日本@名無史さん :2009/08/19(水) 20:27:23
元禄のころに毛利家と伊達家が組んで、江戸を目指せば 時代は変わっていた。
655 :
日本@名無史さん :2009/11/10(火) 20:24:07
なんで?
>>653 典型化した将軍の日課を追ってみると
六ツ時(午前6時)起床
洗顔の後袴をつけて御仏間で代々の位牌を拝す。
先祖敬崇の後御休息次いで朝食。
ちなみに毒味の後ですっかり冷めてるし、内容も質素で一汁二菜くらい。
食後は医者の健康診断。
その後一時間ほど自由時間で学問か武芸。
十時に老中達が登城してきて、執務時間となる。何事もなければ午後早い時間に終わるが、火急の時は「即下げ」といい、
大奥にいようと酒宴中であろうと夜中だろうと引っ張り出されて処理する。
夕方には入浴。
大奥に入れば夕食はそこでとる。
これ以外に諸大名旗本と対面したりなど儀式は多い。
儀式と慣例に縛られて好き勝手できないのは現代の皇室も江戸の将軍家も同じだ。
それから誤解してる人が多いけど大奥はハーレムじゃない。 御台所の居住空間でそこの女性は皆御台所に仕える従者。 側室も同じで既出のように同衾する時は脇に二名、室外に数名必ず見張りがつく。 もちろん御台所にはつかない。 好きな時に好きな女を抱ける訳でなく、代々の命日等の忌日は無理だし 相手の女性は原則お目見え以上の身分。 将軍も結構辛いものがある。だから体が弱いのは早死にする。
すぐに奈須に遊びに行く皇室よりは大変だろ。
659 :
日本@名無史さん :2009/11/17(火) 01:35:19
いや、事実そんなことはない 将軍は、まるで サバンナの野生動物のように 所構わずやりまくっても 誰も注意できない。
660 :
日本@名無史さん :2009/11/17(火) 08:02:59
将軍は絶対だったからな。それは北にいる将軍様の比ではない。
661 :
日本@名無史さん :2009/11/17(火) 12:11:21
将軍は軟弱で生きる意欲が薄い
最後の将軍は明治帝より長生きしたぞ それと北の将軍様は翻訳が悪い、あれは大元帥と言った方がいい。はハングルに詳しい奴なら将軍なんて言葉使ってないのは知ってるんだな
最後の将軍って、人生の中でほとんど
>>656-657 みたいな生活送ってる期間無いだろ。
つうか、そういう生活が嫌だったんじゃあ…。
最後の将軍は物凄い絶倫だったけどな 4号までいたんだから一般人より遥かに幸せな一生だろ。セックス好きには権力者はたまらんと思うよ
665 :
日本@名無史さん :2009/11/18(水) 01:23:54
>>664 公爵閣下として余生を過ごした人が一般人より遥かに幸せって当り前だろ。
それに、「4号まで」って、将軍にしては少ないような
666 :
日本@名無史さん :2009/11/18(水) 01:44:06
>>663 そもそも慶喜は将軍として江戸城に入ったことがなかったからね
志村けんのバカ殿にモデルがあったとは…
>>659 釣りにしてもお粗末な…
野生動物は所構わず交尾しないし
将軍も表や中奥で女を抱かない。
そもそも将軍の権力は絶大だがそれは地位に由来するもので、そのために儀式や慣例に縛られまくり。
所を弁えて大奥で励んでいても房事がすぎれば注意される。松平定信が徳川家斉にしたみたいに。
もちろん疎かにしても注意される。春日局が家光に、田沼が家治にしたようにね。
家臣を直接罷免することもない。
徳川で家臣を手討ちにしたのは水戸光圀と紀伊重倫だが、彼らもそれなりの制裁を受けている。
ともかく大奥が性の楽園てのはモテない男どもの妄想だよ。
>>663 水戸家に生まれ一橋家当主をつとめていたから、規模は違えど儀式慣例に縛られていたのは同じだよ。
大名家は程度内容は違えど儀式だらけの一生。
つか慶喜の場合器の大きさを見込まれて親父からスパルタ教育を受けている。
将軍より辛かったと思うぞ。
慶喜が将軍を受けたがらなかったのは政治的判断。
670 :
日本@名無史さん :2009/11/19(木) 01:17:51
>>668 > ともかく大奥が性の楽園てのはモテない男どもの妄想だよ。
あなたがどんなモテ男なのか知らんが、
きっとあなただって、50過ぎてからも若くて美しい良家の子女と何人もやりまくったりはできないとおもうよ。
現代の一般人の水準から見れば、江戸時代の将軍や大名が「やりまくり」だった、っていうのは明らかな事実。
>>670 だから違うっての。
現代の一般人の方が制約ない分、その気になれば(または金があれば)江戸時代の武家より余程「やりまく」れる。
つか江戸時代なら武家より商家、百姓の方が余程性的に恵まれてる。
何回も書いているように将軍は制約が多い。時代が下れば忌日も多くなる。
現代ならそんな事ないだろ?
将軍や大名が権力者でなんでもできるなんてお伽話なんだよ。
672 :
日本@名無史さん :2009/11/19(木) 02:07:10
そういやお伽話に「絵姿女房」というのがあったな
673 :
日本@名無史さん :2009/11/19(木) 02:54:36
>>671 だからさ、、、
50歳になったら、いくら金があっても売春婦以外選び放題ではないだろ?
って言ってるんだが。それに即してレスしてくれないと困る。
何か、あんたとは話が通じそうにないな。。。
674 :
日本@名無史さん :2009/11/19(木) 03:03:27
面倒だがいちおう丁寧に書いておくと、俺は > 何回も書いているように将軍は制約が多い。時代が下れば忌日も多くなる。 別にこれには反対しないし、また > 将軍や大名が権力者でなんでもできる なんて一言も言っていない。 俺が言っているのは、将軍や大名であれば、年取っても、自分自身の性欲が衰えるまでは それなりの人数の中から自分の好みの若い女を選んでヤルことができる、って言っているわけで。 その快楽に比べれば多少の不便なんて大したことじゃないだろって言ってるんだが。 まあ、いい女抱くよりも、あなたのいう「制約のない」生活を送る方がいいって言うのなら、それは好みの問題としか言えんが 一般の男性の性欲っていうのはそんな簡単なものじゃないとおもうよ。俺は。
676 :
日本@名無史さん :2009/11/21(土) 03:12:50
なにこの頭の悪い人
>>673-675 いやいやそれは失礼。こちらは
>>659 からの流れでレスしてたもんだからね。
もどかしい思いをさせてしまったようで。
で
>50歳になったら、いくら金があっても売春婦以外選び放題ではないだろ?
なんだけど、それは個人差があるけど50ではまだまだモテるよ
君はもしかして若いのかな?
下手すると金の無い20代、子育てで金に余裕の無い20〜30代よりモテる場合
もあるよ、実際。
で江戸時代の将軍なんだけど、既に述べたとおり基本的に大奥のお目見え以
上の身分でないと相手にできないから、当時の吉原、それから現代のソープ
と比べても選択肢が豊富とは思わないけど。
将軍自ら美女狩りなんてできない。
はじめ女に興味のなかった家光などは周囲が美女をスカウトして相手にさせ
ている。だから八百屋の娘が綱吉の生母になったりもする。
江戸時代の将軍の贅沢なんて同時代の西洋王侯貴族から比べたらたかが知れ
てる。
食事などは現代の庶民の方がよほどリッチだしね。
性欲も今まで述べたとおりで、現代の庶民の方が恵まれている。
まあ男がみな性欲旺盛ではないんで、あまりこの話題引っ張ると、
>>676 氏
のような反応が出てくるから、そろそろしまいにしない?
678 :
日本@名無史さん :2009/11/23(月) 09:35:59
>>675 は高校生かそれくらいだろ
思春期で悶々としてるのさ。
男は殆どが性欲の塊みたいで、50過ぎたらジジイだと思ってる
ようなことを言ってるからな。
権力者の贅沢が女というのは違和感が。 やはり、対外戦争と巨大建築こそ権力者の贅沢というモノだろう。 これに恐怖政治も加われば、甘美というしかない。
680 :
日本@名無史さん :2010/02/12(金) 23:40:44
,-、 nn .r-、 _00 /::::'┴'r' .|::::'´::::r┘ !「`L00、|.l└ク_;厂 / .|::::「|:::| l| |Ln:::r┘|.l _lニユ、 ./ . ̄└r''"´]_ l| | r゙=゙┐ |└ァ::/ / / 、ヽ、 ,ゞ´_::::| l| |「二:::7 .|.l └′/ / / . \\`´ |:::|. l| l 〈::/ 、 ! '/ \ ̄ l ,>ィ''ヾト:r:‐、_ . , / ,.-、/ /::\ `‐'^ヾ;<´ / { ゝイ /.:::::....`丶、.__戈‐ ! _ | ::| |::::::::::::::::::::::::::::::;イ:l / `ヾl、 l:::(\____:::::::/ l::| . { ,ム\\:`‐-‐':/ /:/ ヽ;:-ィ'´,.、 `、、 ̄´ /='ィ⌒i ! {. ヾ;| l \ `ヾ='´;: -‐'^'''゛ ', '、 \\_,,> ノ::/ } ! ヽ,\ ヾ;、.__,/∠_ ノ/ 丶丶、ヽ;:::::::;:ィ´ ゙, / `'‐-<.___ノ
贅沢したい
682 :
日本@名無史さん :2010/03/26(金) 09:34:08
していいよ
683 :
日本@名無史さん :2010/06/05(土) 14:48:00
ありがと
684 :
日本@名無史さん :2010/06/05(土) 15:03:14
>>27 なんで嘘をかくの?遺体の発掘調査の結果、家光以降は吉宗以外、柔辛いものばかり食っていて顎が未発達でいわゆる瓜実顔になっていったんだがな。
ロクにしらないのにしったか口きくなよ ニワカ
685 :
日本@名無史さん :2010/06/05(土) 23:00:18
>>684 柔らかいものを食べる食生活が何代にもわたって続いた結果、
庶民と上流社会の人の顔の形や骨格が違ったことは事実らしいね。
14代将軍徳川家茂の御台所となった和宮は、昔から替え玉伝説が多かった。
そのため、発掘調査で出てきた和宮の遺骨を、鑑定にかけた。
その結果、細面のうりざね顔(庶民は顎が発達しエラが張っていた)
極端な内股(上流公家社会の女性では発達途上の幼児期から極端な内股歩きを強要されるため骨がこうなる)
などから、庶民の娘を挿げ替えた説は否定され、和宮本人と結論付けられたんだね。
686 :
日本@名無史さん :2010/06/06(日) 01:55:07
毎日大奥で乱交に決まってんだろ。 精威代将軍なんだから。
農業生産の向上に対してどうして定免制の税率変えなかったんだろ
688 :
日本@名無史さん :2010/06/07(月) 09:57:51
江戸も後期になれば 農業生産より商工サービス業のGDPが大きいはずなんだが 税はどういう計算で取っていたんだろうか。 たまに豪商に献上させるくらいしか、イメージがない。
689 :
日本@名無史さん :2010/06/07(月) 12:09:38
世の中はゼニで動いているのに 商は詐なり、貴穀賤金の朱子学を公式哲学としているのだから どうにもならんよw 米を増産すればするほど幕府の財政は苦しくなるという悪循環・・・
690 :
日本@名無史さん :2010/06/07(月) 12:13:10
691 :
日本@名無史さん :2010/06/08(火) 22:37:53
>>690 公家の姫なら記録に残る。
まだ幼いころに他家と縁組されるから無理だよ。
それか幼児期に寺に入れられて
頭つるつるの尼さんになってるかだよ。
692 :
日本@名無史さん :2010/06/08(火) 23:47:50
尼さんの髪型が、尼そぎからツルッパゲに変化したのっていつ頃?
>>688 全部米
こめこめこめ
士族は米で給料もらって後で換金する
また、商人も金ではなく米で年貢納める
694 :
日本@名無史さん :2010/06/14(月) 20:23:14
困った時は貨幣改鋳で出目を稼ぐという裏技が・・・
>>693 その分、行政にかかる費用は恐ろしく少ない。
それは都市だけでなく、地方でも。
それゆえ天領、旗本領が任侠の温床に。