☆いざ☆鎌倉時代史総合スレ☆鎌倉☆

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99日本@名無史さん
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272 名前:山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM 投稿日:04/08/04 17:34


『拾遺往生伝』を見ると、地方で捕えた盗賊の首を刎ねるくらいの事は行われていたようですね。
他には手足の切断や投獄が行われました。 また『今昔物語集』などを見るに、郷・荘内での殺人には
地元民の意思による 処刑が行われたらしい。院政期の処刑の方法は、通常は木に縛り付けて射殺するもので、
武士であれば首を刎ねられたようです。 『今昔物語集』には参加を断るようなら首を刎ねるという主の命令に
逆らえず狩猟に参加して母の生まれ変わりであった鹿を射殺してしまった武士も登場しますが、掟は苛烈
であった模様。 『古事談』には、白河院が殺生禁断令を出していた時代に上からの命令で鳥を獲って捕まり、
「公の罰なら死罪にはなりませんが、私どもの間で重科といえば首を刎ねられることです。」と言った武士が
登場しますが、こちらは呆れた白河院の命によって流罪に処せられたそうです。『宇津保物語』には、
主の関白に「息子を見つけられなければ獄に下すぞ」と言 われた下人たちが「首を召されても構いません」と
答える場面がありますが、この辺りのやり取りは貴族と武士や庶民の意識の違いを示していて面白い。
公の死罪が無かったというのは仰る通りで、九条兼実もその日記『玉葉』の中で死罪を復活させた事が
信西の命を縮めたと述べています。もっとも頼長が勝利していてもやはり執行するつもりであったそうですが。