1 :
日本@名無史さん:
地味なとこで・・・地方別歴史も面白そうなんでまったりいきましょう。
佐久の恋
3 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 18:50:38
根井行親、楯親忠、小諸光兼、八島なんとか等、木曽義仲軍の故郷だな。
4 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:19:56
戦国末期が空白ですね。
いいんですよ^ ^
あなた達は貴重な労働力なんですから
6 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:55:36
佐久近辺は武田24将の子孫を称してる家が多い。それと戦国期以前の家はあまり目だたないね。
戦国期だと村上、伴野・海野(もっと前かな?)。
7 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 21:05:14
一応城下町
8 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 22:54:40
新田次郎の「武田信玄」を読んで、武田に全力で抵抗した佐久衆には感動しましたよ、笠原氏とか額岩寺氏とか。
「佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」
9 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:08:26
秩父事件がわりと有名ですが南佐久になるのかな?
10 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 10:11:17
>>8海ノ口城、海尻城のこと?村上氏とかじゃないの?
11 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 12:34:45
村上義清って佐久?武田に二回勝ったんだっけ?
12 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 12:48:59
姥捨くらいかな。信州特有といえば。
13 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 12:59:19
>>11佐久。ちなみにうちの先祖は村上氏→武田氏と主人を変えてるが・・・武田氏(性格には部下からの)からの戦役感状を後生大事に持ってる。
14 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 17:58:32
村上義清の本拠葛尾城は、埴科郡ですな。また震源を破った
上田原は、たしか小県郡ではなかったか。
15 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 19:30:18
16 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:43:53
>>10 笠原氏は北佐久志賀城、額岩寺氏は北佐久布引城を本拠地とした土豪。
一度佐久を制した武田氏に叛旗を翻し滅ぼされた。
ちなみに村上氏は佐久衆に影響を及ぼしてはいたが、主君ではない。
17 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:48:33
ばあちゃんの家の近所に内山城があって、小さいころ親父と一緒に
ひーひー言いながら登った記憶がある。
懐かしいな、内山城。あの城もやっぱり信玄に滅ぼされたのかな?
18 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 23:08:36
佐久の歴史だろ
どうして海ノ口の平賀氏や
岩村田の大井氏、野沢の伴野氏、
武田の家臣となった依田氏の名前が上がらないんだ?
19 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 23:19:30
だってまだスレついたのがこんだけだよ
のんびりいきましょうよ
皆様毎度お騒がせしております山梨県人です。
我々の愚昧卑劣極まる先祖が佐久の皆様の御先祖様に与えた
耐え難い苦痛と子孫の皆様に堪え切れない悲しみを与えた
武田の三光作戦並びに金山への強制連行及び佐久大虐殺に対して
心からの謝罪と恒久の賠償を致す所存であります。
21 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 00:11:47
信玄の善光寺参拝を阻止するニダ!
22 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 01:38:37
佐久って言うと井出氏や神津氏が幅利かせてるイメージだが、戦国期は豪族かなんかなの?
信州6号が佐久に無事帰還を果たした記念すべき日に善光寺参拝とは
支那のに対する挑戦だ!
武田信玄は甲信関係を壊した歴史的責任を負わなければならない!
24 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 03:04:56
>>22 井出も神津も、信玄が甲斐から連れてきた植民。
信玄は佐久の百姓から土地を強制的に取り上げて、
甲斐の百姓を連れて来て植民させ地侍(地主)とし、佐久の百姓を農奴にした。
全国の戦国大名でも、占領地の百姓にこんな苛斂誅求なことをしたのは、
武田と長曽我部だけ。他の戦国大名は、当然ながら百姓には手をつけない。
25 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 05:09:05
依田信蕃ってここの出身だったっけ?
721〜731の間だけ諏訪国が分置された件について。
27 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 13:34:54
>>22政治家を出したからでは?後は黒澤氏とか・・・
>>24微妙でしょ。信玄初陣での勝利と言われてる海の口・海尻城では地元の抵抗した地侍は井出氏。確かに駿河・甲斐に井出氏は存するが。
>>18野沢に伴野君っていたわそういえば・・・依田なんて聞かないな。滅亡したのかな?
29 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 17:25:07
佐久の前野城主が確か伴野といった気がする。いわゆる天正の甲斐信濃動乱で依田信蕃に攻め落とされたと記憶する
>>29 そう言えば佐久は伴野姓多いな、
しかも地主だったり、酒蔵経営してたりするし、
>>30今時地主なんているのか?野沢北高は大地主の提供で云々て話しは聞いたことがあるが・・・
佐久甲州街道を車で走った事あるが門だらけだった。
33 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 02:17:53
室町期は暗黒期?
34 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 07:56:52
ツチヤオート
徳川家の第一次真田征伐の時には
佐久を通ったのかな。
36 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 11:20:56
佐久とアキ
37 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 11:26:08
>>7 >一応城下町
否、陣屋町。1万石しかなかったもんで。
38 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 12:31:16
>>37一万六千石(臼田一万二千石、三河に四千石)
そういやー臼田って旧本陣の家って見ないけど何で?
39 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 02:50:13
中込の中島とか言うでかい家はどういう家?
>>39 個人が特定できそうでまずいんじゃねえか。
41 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 09:03:19
>>40いやいや庄屋とかの有名な名家なのかな?と思ったのだが・・・まずいかな?
42 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 14:34:47
何故名族滋野が出てこないのかと
43 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 14:51:17
>>28 依田一族は家康にくっついて江戸にいって旗本になりました。
漏れはその子孫です。
44 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 15:43:36
佐久の場合は信憑性はともかく庄屋クラスになると戦国前期ぐらいから歴史があり、それなりの格式ではあるはずだがイマイチって感じ
45 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 15:48:46
あの辺も時代の流れに逆らえずに大分、家が消えて行ったそうですよ。聞いた話ですが
昭和30年頃までは信じられないくらい広い家があったそうです。
長の好きです
47 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 15:51:03
48 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 16:06:28
長野市の者だけど
佐久人って何であんな性格悪いの?
迷惑だから長野に来ないでください。
50 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 19:23:20
佐久の人は長野氏には昔からあまり行かないみたいよ。うちなんかは東京行っちゃうみたいだけど・・・
親戚で松代や上田の人は明治維新で食えなくなって長野市に行って商売始めた
嫁探しに来てるよ。
前に出会いパーティー行ったら佐久ばっかだった。
二度と行かない。
>>39 野沢に、昭和初期に石炭で当てた
中島って人がいるんだが、その一族じゃねーの。
中島さんが市に寄付してできたのが、
野沢の中島公園だそうだ。
53 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 09:19:01
>>52もう無くなってたのか・・・月日は流れるな。
54 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 12:26:25
最近直す時期に来てるのか分からんが門や塀が新しくて趣が無いな。あの辺は
55 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 18:34:28
新しく建てただけでしょ
56 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 23:28:44
佐久の歴史のなかで、長野県岩村田の龍雲寺に武田信玄の、納骨堂が建立されていますが
ていますが本当なの?
57 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 08:50:17
58 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 11:50:46
武田の位牌なら何だっけな・・・佐久のどっかの寺にあるらしいよ。思い出したら又書く。
59 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 15:51:24
武田信玄の位牌なんてあっちこっちにあるだろうに
60 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:07:18
依田豊前守、初鹿野河内守、
61 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:57:26
位牌でなく遺骨、遺骨があるんだってよ。本当にあるの?????????
62 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 22:03:44
檀家制度について考えてみよう.なぜ、歴史の中で檀家だから葬式はお寺で
やるの?佐久のお寺は高すぎる.龍雲寺は本当に高いよ、武田信玄の遺骨が
あるからなの?教えてください。
63 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 09:13:10
>>62最近檀家になったんじゃないのか?うちは佐久でも結構な大きさの寺の檀家だが院居士30万だったぞ。
64 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 21:20:18
>>63宗派はどこ?禅宗が最悪みたい。岩村田、小諸、赤岩が最悪みたい、
院居士で葬式するとメニューがでてきて100万以上するって、簡単に
死げんぞ 他の宗派の人達教えて?
65 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 14:02:51
>>64曹洞宗・・・思いっきり禅宗だが。うちは南佐久の方だ。
66 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 20:32:25
>>65曹洞宗の中でも永平寺と総持寺の系列に分かれているみたい。どちら
ですか? 総持寺系が問題ありか?世の中すべて二極化で、きちんとお勤めしている
住職もいれば酒、女、ゴルフに明け暮れ、なかにわ高級ゴルフ会員権をお布施
で堂々と購入 .お布施が馬鹿、馬鹿しいどのように感じますか?葬式仏教の
皆さん感想お願いします。?まじめな住職の意見も聞かせてください?
67 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 22:35:21
>>66永平寺系らしいです。大きな寺と永平寺系って事で分かる人にはわかってしまいますが・・・檀家が多いので安いのかも。
まじめで立派な住職さんですよ。
68 :
幕末好きなお茶 ◆BHOAawe7mA :2005/11/19(土) 22:36:56
待ってください!近藤勇の助命をしようとした立派な薩摩藩士もいるようです!
有馬淘汰・中村半次郎・野津兄弟?
>>68 ファビョり過ぎて他スレにレスしてるDQNな香具師ハケーソ
70 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 04:35:23
>>67
檀家が多いほうが問題あり、檀家が少ないと学校の先生とか役場に勤めていて
人格者多い と思いませんか?立派な方丈様でうらやましい限りです。
71 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 23:38:58
>>70うちの寺は戦前もしくは戦後しばらくの間まで名主の2家で檀家総代を歴任していたらしいです。ですから
歴史的に難しい問題は少なかったのでは?と思っていますが・・・最近はどうか知りませんけど。
72 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 21:36:32
73 :
武田信玄:2005/12/01(木) 15:40:38
もっとサクサク語ろうぜ!
74 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 09:10:42
川中島の合戦時の兵站とかは佐久近辺ですか?それとも上田や長野市近く??どうも佐久ってのが中途半端。
75 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 18:25:27
何故大藩が無いの?
76 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 20:56:14
過疎スレだな。。。一応上げとく
糞スレをから揚げしてんじゃね〜よ(#゚Д゚)ゴルァ!!
これだから長野県民は民度ってものが欠片も見当たらないんだよ・・・。
>>74-75佐久の地侍がかなりがんばったそうですよ。武田侵攻時はすさまじい反抗となかなか帰順しなかったそうですが・・・
結局大藩は出来なくほとんどは百姓に戻されたそうです。この辺は美濃と一緒ですね。
武田侵攻時の逸話は寧ろ信濃への見せしめにされただけなんジャマイカ?
恭順を一説許さず徹底抗戦せざるを得ないほど相手を追い詰める
それを叩き潰す事によって武田に逆らうとこうなりますよ〜って言う感じで
その後の侵攻を容易にする腹積もりが信玄にはあったのだろう
それが後代に佐久は武田に反抗し続けた的思考になったのだと。
80 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 17:04:21
age
>>77佐久と長野市では県民性が違うだろうに。昔は別県だったはず
82 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 20:45:52
age
室町期の名門はいずこへ?
佐久に住んでいたころ、臼田の五稜郭跡地へ行ってみましたが、ものすごい趣があって良かったです。
>>45 >信じられないくらい広い家があったそうです。
うちの曾ばあちゃんはお嫁に来るまで、山の向こうまで他人の敷地を跨がずにいけたらしい。
まぁ、実家も本家も家2,3軒は立てられそうなぐらい広いけど・・・・。
87 :
日本@名無史さん:2005/12/25(日) 20:19:42
>>81 M4 7/14 岩村田藩を廃藩置県して岩村田県に。
同 11/20 東北信を版図とする旧長野県の一部に。(長野県+飯山県+松代県+須坂県+上田県+小諸県+岩村田県)
88 :
初鹿野河内守信興:2005/12/25(日) 20:58:29
違うよ!地元の名士は田口計さんだよ
そーいやー龍岡藩の連中はどうしてるの?
90 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 19:05:02
age
>>89あんまり目立たない。地元土豪のほうが幅利かせてる最近は微妙らしいけれど
92 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:11:14
まだ、生きてるのか・・・・・・・・・
頼むから糞スレ上げるなって・・・。
94 :
!omikuji !dama :2006/01/02(月) 14:23:43
sakusaku
95 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 09:36:59
>>91昭和30年代ぐらいまでは上にあったけど特定の家が幅利かせてたらしいですが消えたらしいです
96 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 04:19:05
小海線上げ
97 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 04:53:58
清里名物上げ
98 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 20:39:25
ハッピー清里あげ
99 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 11:26:13
何も話題が続かない糞○舎と言う事?地方史でまったりは難しいね
100 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 19:38:27
∧∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(,, ) <
>>100ゲットしようと来てみれば
.( つ | こりゃまた とんだクソスレだなぁ オイ
| , | \____________
U U
| まあ せっかくだからやっといてやるよ |
\ ハイハイ 今だ
>>100ゲットズザー っとくらぁ /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧∧
(゚Д゚O =3
⊆⊂´ ̄ ソ ヤレヤレ
ドッコイショ・・・・・・・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
∧∧ (´;;
(゚Д゚ ,)⌒ヽ (´⌒(´
U‐U^(,,⊃'〜... (´⌒(´⌒;;
ハァ、ダルッ・・・帰るか
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
ポ ∧∧ ポ
ン (゚Д゚ ,) . ン
(´;) U,U )〜 (;;).
(´)〜(⌒;;UU (´ )...〜⌒(`)
101 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 15:43:44
清里って佐久だっけ?
102 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 15:52:36
佐久は戦国期の城址がたくさんある・・・江戸期に武士はほとんどいなかったがどういうこと?
103 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 15:57:15
佐久か。。
俺の先祖(村上氏)もかかわってたかな
104 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:27:24
俺の先祖は村上義清の家臣でした・・・すぐ武田信玄に鞍替えしたけど
105 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 19:48:32
愚問ですが、江戸幕府の旗本に村上義〜っていう人物がいるけど、
やっぱり末裔とみていいんですか?
106 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 21:00:57
ナルシスと牛山氏ね
107 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 21:01:46
佐久周辺は牛山って苗字多いの?
108 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 12:53:28
109 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 08:56:43
小海町町長上げ
110 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 10:51:15
鯉はどのくらいのペースで食ってんだ?
111 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 12:03:04
その辺りの荻原姓の由来とか伝わってる事
ありますか?
軽井沢とかにも多いみたいですが。
112 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 18:35:01
こないだ一蓮寺の境内で信州討ち入りの時に佐久あたりで分捕ってきたおんなこどもの市が立ってました。だいたい三十から五十文くらいでした。佐久から身内を買い戻しにきた人もいました。
113 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 01:15:12
あの辺は同じ苗字で固まってる地域が多いから萩原さんが多い村を探して聞いてみたら?
114 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 12:19:42
荻原か萩原かはっきりしろ!
115 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 12:48:59
おぎはら(おぎわら)です。
116 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 10:05:16
カーリングのチーム長野はこのあたりだよな。
117 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 16:36:59
てす
118 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 17:26:02
あのへんは何代官支配なわけ?
119 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 11:32:49
鯉コクスープ
120 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 20:12:39
室町期の名家はほとんど滅びてるね。あの辺の旧家は何者?
121 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:02:17
語源は 開(さ)く または 拓(さ)く って意味だよね?
小県から分立したんだっけ?
122 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:39:38
佐久は民度が低い
123 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 17:13:34
室町、戦国期の佐久の支配者って誰?諏訪氏とか?
人権版の過去スレで某駅近辺がO認定されてましたが。あの辺は戦国時代からの名門旧家の一族が住んでるとこなんだがな・・・
>>123 室町期なら岩村田の大井氏。
依田氏系の豪族を従え、鎌倉公方を保護擁立し、信濃の戦乱(大塔合戦)を仲裁停止させるほどの実力があった。
千騎の大将と云われていたらしい。
しかし同族の伴野氏と争い、さらに北信の村上氏と戦って衰退した。
戦国期だと小領主が小城に拠って割拠状態→武田→織田(滝川氏)→後北条(大導寺氏)→徳川となる。
徳川勢力にあって後北条方と戦い、佐久を制したのは芦田を本拠にした依田氏。
一時は大名になるも(佐久郡、後に上州藤岡)改易され、旗本になったとか。
戦国後期草刈場になったようですが地侍などはどうしたのでしょうか?流されるまま?あまり佐久出身の武士ってのも
聞かない気がするのですがほとんど仕官できなかったのでしょうか?
127 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:10:01
佐久って行っても山梨の県境から下って平地になったあたりには旧家が多いが割りと地味。おそらくその辺から広がっていったと思われる。
128 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:24:22
甲斐の禿にメチャクャにされました
129 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:33:43
>>128おそらく防衛の為に県境に地侍集が集まっていたと思われるが敗退後山を降りて散ったのだろう
かなりの旧家がある。あの辺は・・・ただ地味というか質素。臼田とか行くとみな門や塀を直してきれいにして
かつ豪華にしてるが、あの辺は江戸時代のままかも
130 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 09:09:40
平賀源内の先祖
>>126 地侍の去就。
佐久の一円支配に成功した依田氏の幕下となる。
依田康国は徳川氏の関東移封に従い上州藤岡に移転。 現在でも当地には佐久系の氏族が多い。
残留組は、依田氏に変わった豊臣系の仙石氏に仕え、関ヶ原、大阪の陣に出陣してるね。
大名となった依田氏も改易され、家臣は離散。
江戸期は旗本クラスに数家がランクインするも、まああまりぱっとしないね。
こうした節目に武家として仕官を選ばず、領地に残った土豪も多かった。
豪農としてかつての郎党を農奴として従え、用水開削や新田開発の中核となって名を残してますな。
132 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 21:50:45
>>131>>江戸期は旗本クラスに数家がランクインするも
苗字は分かりますか?
土豪っていうと?これも苗字は分かりますでしょうか?
133 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:05:09
起請文(詳しくは思い出せないが)では地元土豪の名前はほとんど無かったような・・・海野や望月程度だが佐久かな?
>>132 旗本となった佐久の武士。
依田氏(松平氏)の改易後、その家臣であった佐久出身の武士の多くは幕臣に。
芦田衆と称され、その長には大井氏が就いた。
旗本になった氏族は依田氏、大井氏、平原氏など。
「寛政重修諸家譜」などで調べるのがいいかも。(たまには図書館にGo!)
135 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 04:50:58
>>134なるほど。。。図書館でがんばってみます。ありがとうございました。
136 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 07:41:02
望月や茂田井の辺古い土塀などの豪邸が多いけどなんで?
佐久の古い家の門って独特じゃない?長屋門から長屋だけ取っ払ったような感じと言うか、側面に壁がある。
138 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:24:03
信玄がとことん虐殺したらしいね
志賀城に行ってみたいのだが、跡くらいは残ってるかね?
なんか憑いてきそうで怖い気もするが。
140 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 18:20:34
今度佐久いくんですが、ここいっとけって場所ありますか?南佐久で
佐久って碓氷峠に近い?俺の先祖ってば江戸時代に本陣やってたらしい…客の大名の台帳?家にあるよ…
142 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 08:46:49
>>103 苗字が同じだけで子孫wwwwwwwww
碓氷峠に近いとこは北佐久の軽井沢宿だろうな、あの近辺の本陣や問屋は佐○か土○さんだったはず。
>>143 Thanks…まるの中が解らないけど歴史史料館とかあればいいなぁ…一度先祖の地佐久を尋ねてみたい…
神津の家ってまだある?公開とかしてるの?
昔は名門旧家ってのがあったがほぼ消えたな。
出浦(いでうら)って井出となんか関係あるのかな?
148 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 00:13:51
飯田
佐久の井出って人に会うと必ず「うちは名門です」って言うんだけど・・・
井出って野沢あたりにたくさんいたと思う。
特に名門ってことも無いでしょ。
年寄りに聞いてみ。
152 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 20:10:19
お寺にある寄進の金額を見てみればわかりませんか?
市川、木内、なんて苗字が多い気がしますけど。
場所によるのかもな。俺が聞いた話だと井出(臼田や小海)黒澤(穂積)神津(志賀)・・・
寄進は最近のだからな・・・ほとんど没落してるのでは?次点で木内や油井、篠原etcと聞いたが・・・南佐久だね。
野沢行くと伴野や木内が有名かもね。依田とか。どう?
154 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 22:21:43
市議会の議員さんの中で、上に書いてある苗字とか二議席ぐらいとっている苗字を見ると、
市川、木内、小林、井出なんてのがありますね。
ちなみに木内酒造なんていうのもありましたよね?
155 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 14:26:34
こんなスレあったのな。
>>17の内山城って・・ワラ
昔よく登ったよ。頂上(城跡)でキャンプしたり。
内山はおもいっきりオレの地元だ。内山城址は目と鼻の先。
で、「もうひとつの五稜郭」龍岡城。小学生の頃に行ったぞ。小学校になってたよな。
高見沢も有名
>>145 赤壁の家なら外から見る事はできるよ。
黒壁の家はありません。
158 :
日本@名無史さん:2006/08/07(月) 00:24:33
元厚相は知事選にはでなかったね結局。
159 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 23:04:45
佐久あたりだと真田の配下になったりしたんでしょうか?
原虎胤が多いんじゃない?地侍たちは・・・感状はその当たりをみる。
徳川時代は仙石氏かな?詳しい人ギボン
161 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 11:47:37
信濃なかでの佐久のポジションってどんな感じなんでしょう?
都市を表すのに「第○の都市」「文化の中心」「経済の中心」なんて書きますよね。
昔の佐久はどうだったのでしょう。
162 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 20:34:11
あげ
163 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 00:40:03
>>24 神津は志賀城が武田によって陥落した後に甲府から入植した一族との話本当ですか。
神津の歴史を調べています。詳しく教えてください。
先祖は源氏で平清盛に追われ神津島に逃れ、鎌倉時代が終わった頃伊豆→甲府→志賀に土着したとの
話があります。神津島に行き調べましたが、島には神津姓は皆無でした。また歴史的にも神津の足跡は見つかりませんでした。
志賀城陥落後、武田信玄は多くの村民を虐殺し、村民を全て入れ替え、新村民を甲斐の国から連れてきたとの話も有ります。
旧村民は金山工夫、奴隷、売春婦にされたとの話も有り、大変興味深い情報です。
私は志賀の神津に関して現在調べているものです。宜しくお願いします。
164 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 00:40:47
>>24 神津は志賀城が武田によって陥落した後に甲府から入植した一族との話本当ですか。
神津の歴史を調べています。詳しく教えてください。
先祖は源氏で平清盛に追われ神津島に逃れ、鎌倉時代が終わった頃伊豆→甲府→志賀に土着したとの
話があります。神津島に行き調べましたが、島には神津姓は皆無でした。また歴史的にも神津の足跡は見つかりませんでした。
志賀城陥落後、武田信玄は多くの村民を虐殺し、村民を全て入れ替え、新村民を甲斐の国から連れてきたとの話も有ります。
旧村民は金山工夫、奴隷、売春婦にされたとの話も有り、大変興味深い情報です。
私は志賀の神津に関して現在調べているものです。宜しくお願いします。
165 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 17:14:52
あげ
166 :
日本@名無史さん:2006/09/03(日) 09:57:39
かなり この地方の方々は 関東入府のおり こられてます。親近感を感じますが・・・
167 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 01:20:02
>>159 真田氏の勢力は小県郡どまり。佐久には進出しとりませんな。
真田が独立勢力になった時の佐久郡って、碓氷峠から小諸に進出した後北条軍と、甲州から北上してきた徳川軍が合戦を繰り広げ、とても自立したばかりの真田昌幸には手が出なかったみたいです。
郡境に小兵力を出してちょっかい出したみたいだけれど、拠点は作れずじまい。
真田領になってたら、それはまたスリリングだったかも。
168 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 07:18:02
あげ
169 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 17:37:32
内山村の歴史について教えてくだされ。家系図に戦国時代にあのへんから出てきたと書いてあったので。
170 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 22:52:54
内山村は平賀郷の村落。
15世紀中頃に平賀氏が滅ぼされると大井氏領となり、代官(依田氏)支配となった。
大井氏宗家が衰退するとこの依田氏は内山氏を名乗り独立。
武田氏の侵入時は大井貞清が内山城に篭城するも、攻囲十一日で降伏。内山氏は村上氏をたよりこの地を去った。
後の江戸期には幕府旗本になってますな。先祖の地は忘れず双方連絡があったとか。
武田氏は佐久支配の拠点として内山城を整備。家臣小山田備中守が在城していた。
現在の内山集落は城下町(極めて小規模であるが・・)の趣を残してます。
小山田氏は武田滅亡の数ヶ月後に後北条氏に追われ、内山を落去。
簡単ながら、戦国時代の内山村。
171 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:51:12
戦国末期
172 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 23:17:40
信玄初陣の折酒に酔って油断しきって攻められた人たちの子孫のスレですか?
173 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 22:13:51
依田和泉守、初鹿野河内守あげ
174 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 04:09:46
あの辺って欧州見たく身長で階級が分かるよね
175 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:16:05
俺は神奈川で生まれ育って今も神奈川在住だが、本籍地は
小海町になっている。死んだ爺さんが小海の出身だったとか、
墓参に3回ほど行っただけだが、不便そうな場所だね。
陸の孤島だよね。地元の人たちは退屈しないのかな?
176 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:26:49
ちなみに俺の曽祖父は日露戦争で旅順攻めに従軍しているが、
佐久周辺で召集された連中は旅順へ行かされたのか?
沖縄の平和記念公園にある長野県出身戦没者の慰霊碑にも
佐久周辺に多い苗字を多く見つけた。
どこの部隊だったのだろうか?
177 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 03:50:59
>>175なかーま発見!隊長。小海町のどこですか?あの辺は同じ苗字で固まってるので
・・・地名か苗字教えて。ひょっとしたら親戚かもw
178 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:42:43
あの辺って郷士っているの?
179 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:43:10
180 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:45:49
181 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 19:34:57
岩村田の曹洞宗 龍雲寺の人権問題
住職の使い込み問題
会計役員の使い込み問題はどうなったのでしょうか?
確か全国ニュースに出たはずですが!
寺の過去帳に この家はビンボー・チョービンボー・お布施少ない・・・・
武田信玄公もあの世で泣いてます。
182 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 02:25:25
江戸幕府田沼時代の御側取次に横田準松っているが武田二十四将の末裔?
183 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 04:28:30
地元野沢…
一族多くて困る…
184 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 17:47:13
確かに知り合いに大井とか神津とかいるなあ。
小林も多いけど、小林は全国的にある苗字だからなあ。
185 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 19:21:00
徳川期はどこの領地だったの?
186 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:34:51
いろいろだけど小諸藩預かり(?)の天領が多いのでは?
187 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:40:53
あの辺の山奥に自衛隊の地下秘密基地が在るって聞いたけど本当?
188 :
地元民:2007/02/28(水) 18:42:18
小諸藩・岩村田藩・竜岡藩があるけど大藩はないな
189 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 02:07:32
地侍が多かったとこはだいたい小藩おいて住民は農民にってパターン。
岐阜、長野、群馬、新潟、山梨(も?)
室町中期のこの地の領主で信濃守護代、大井持光は登場しないのね・・・
足利永寿王(成氏)を匿って養育したんだよね。
結城氏朝の乱で結城方としたけども、嘉吉の乱で事無きを得たのですかね?
永寿王匿った件は幕府(守護)側にバレてなかったのかな?
将軍・義教が在命なら、義教の威光で守護・小笠原政康により討伐されていたのかな?
小笠原政康は北信国人一揆(村上氏ら)の抵抗を排除し、
結城討伐の際、ほとんどの国人達が政康に従軍しているところ信濃守護として勢威を持っているだけに・・・
191 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 05:09:08
>>190 確かにその頃は珍しく守護が信濃をまとめてますね。
ただ結城合戦は利害の係わらない遠方での争乱だったからなぁ。
国人領主もあまりいちゃもん付けられなかったのでは?
大井氏の反幕は公然としたものではなかったのかも。
子供一人匿う位は出来たのではないかと。
運良く成人した成氏には恩を着せられたし、やるなあ、持光。
192 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 07:03:11
>191あなた、何者??
193 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 06:32:02
>>192 125,167,170,191ですにゃ。
只の信濃の中世フェチって事で。
嘉吉の乱で大井氏が事なきを得たのも事実だけれど、反守護=反幕府って雰囲気でもないみたいですね。
むしろ国人層は守護を飛び越して幕府とくっついてます。
大井氏はむしろ守護寄りの豪族。つまりは小笠原に近い立場。
味方が少ない小笠原が討伐できたかは疑問っすね。
194 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:57:55
あなたのような方がいるとスレが締まる。>>1はどうも南佐久メイン
見たいな口ぶりだが北佐久のほうが人口等多く話題が豊富な気がするがどう?
195 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 07:30:11
北部は・・・・
怖い。
南部はのどかで何の問題もない。
196 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 09:23:34
大河で南牧村や小海町等出たようですが・・・
197 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:15:03
198 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 10:21:45
だろうな
199 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:06:39
境界当たりがやはり中心になるのかな
200 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 20:35:20
二百ゲット
201 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 21:39:05
<<181
曹洞宗は、そうとう腐っている。
202 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 21:40:10
<<181
曹洞宗は、そうとう腐っている。
長野の子供はみんな山登りするの?
204 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 10:26:35
うちのとこは大丈夫だな・・・曹洞宗だけど。
田舎の割りに金が動きすぎるんだろうな檀家多すぎ
205 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 21:57:53
曹洞宗 龍雲寺が今、火だるまになっている。風林火山が泣いて呆れるわ
前住職の人権問題(寺の過去帳に貧乏・お布施少ないなど TV全国版にも報道される)
会計役員の使い込み(壇信徒会館建設のための寄付金を使い込み 前税務署職員)
責任役員の(お寺を監査する役員)殆んどがすでに亡くなっている。(和尚と役員の好き勝手し放題)
普通なら首になるはずのない住職が 曹洞宗の審事院(裁判所のようなもの)にて分限停止2年
※和尚の資格2年間剥奪 ようはクビ!
呆れたことに和尚がクビになっても、ご婦人は寺に居座り
新たに迎いいいれた、これまた有名な和尚とともに、これまたべら棒な戒名料を要求している。
事態にみかねて、立ち上がった壇信徒もおられるようだが、総代長はじめ役員がお粗末
これから先、このお寺に未来はあるのか?
お寺が心の拠り所とするならば、これではお寺離れは必至
どなたか龍雲寺に 愛の説法を・・・・
206 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:11:26
戦前の総代って庄屋階級で金も名誉も良識もあったが最近の総代ってどうなの?
207 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 14:30:13
佐久方面に不細工が多いのは武田信玄のせいなの?
佐久では草木までことごとく武田を怨むと新田次郎の小説にあったけど
未だに佐久では武田信玄は嫌われてるの?
208 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 14:37:26
209 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:36:41
佐久の庄屋階級は身長が高く美男美女が多い。他は・・・
210 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 19:29:58
>>209 >身長が高く美男美女が多い・・・
山国の住民は、低身長でずんぐりと相場がきまっているが、何時代の
話なんだよ?当時の容姿を、どうやって目撃したんだよ?
211 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 20:34:40
佐久と松本が信州の2大ブス産地なのは間違いない
しかし伊那が長野県にしては美人の産地だというのは本当なのかな?
212 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:04:57
戦前の庄屋さんの家の人達は私が知ってる限り当時で170以上あり美男美女
が多かった。当時の町会議員の写真等みても町長だけ高身長でハンサムな事が
多い。郡会議員の集合写真など人品がよく体も大きく立派な方が多い。
それに比べると庶民は・・・
213 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:18:40
花園遊郭に詳しい方いませんか?
214 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 12:26:46
支配階級が被支配階級より身長容姿に恵まれているのは世界的に常識。
215 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 12:36:37
>214
今の日本の皇室のこと?
あれは、現在まで残る世界一古い支配階級の子孫なのだが。
216 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 15:16:06
>>215例外はいくらでもあるが・・・明治帝は大きかったと言われてるが。
217 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 15:33:26
江戸時代の将軍も、特に庶民と比べて大きかったわけではないような印象が。
支配階級が小柄な女性を好めば、小柄な子供が生まれるし、
あんまり身長は関係ないのでは?
支配階級は飽食だから、という栄養の問題だけでもないだろう。
218 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 16:08:30
ヨーロッパほどの相関関係はないと思うが食うや食わずの庶民と安定収入(低賃金でも)の侍
では身長体格差は当然あると思われ。ただ、比較論もどんぐりの背比べだからね・・・
異民族の支配が多い大陸なら議論になるが。
219 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:39:04
220 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 20:49:51
221 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 22:25:11
222 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 07:56:05
>>213 追分宿にあった追分遊郭が、信越線の開通により衰退
商売の神を祭ってある鼻顔神社前、現在の市営花園団地に移行
繁栄を極める
赤線廃止 岩村田商店街の建設により花園遊郭も姿を消す
現在、面影を残すのは、花園町公民館前に、遊郭の入り口であった大門を残すのみ
過去の繁栄は忘れられ、今は静かな町である
223 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 20:21:45
なんでサクンコとマツモチョンはブスが多いの?
>>222 こんな地方でいまだに遊郭が繁栄してた名残があるのは嫌だなw
225 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 00:51:17
男衆が集まるところに遊女あり・・・。
遊女屋の多く集まっている一定の区域。くるわ。遊里。
遊郭とは、公娼集娼街の事である。
古くは宿場町や港津近くに、時代が進んでからは、
外国人居留地・旧の軍隊基地の近くに、多く存在した。
赤紙や学徒出陣などで徴兵されて、女を知らずに命を散らすのは不憫だと、
父親や軍隊の上司に連れてこられる者もいた。
戦地から死なずに戻り、必ず再び「遊郭」にやってこようという
決意する若者もいたようだ。
↑歴史を知れ
226 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 06:36:55
岩村田の祇園祭、台風直撃だな
227 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 04:44:23
武田に相当住民が殺されたそうですが佐久の名家って・・・内通者?
228 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 00:36:20
229 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:54:14
浅間町って在ったんっですか?
230 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 01:12:12
来週佐久に行きます、見所は?
231 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 14:26:26
本当の士族の末裔は明治維新後、藩職を失業し禄(給料)が無く土地を切り売りして生計を立てていました。
商売を始めても士族の商法といわれ、偉そうにとか何が士族だふざけるなと言われ商人に奉公しても平民より少ない給料しか貰えなかったり便所掃除など雑用しか与えられなかったと聞きます。
逆差別の始まりです。上級武士中級武士下級武士に出世した者はまずいません。足軽のなかにわ出世した者が少しいるようです。
金のない武士達は屋台等でトウモロコシなどを売り、娘を売り売春などをして何とか生きてこられました。
悲惨極まりないです。
>>231 260年もの間、武士の家系というだけで禄を食み、
農民町人に威張り腐ってきた、ただの役立たずなんだから仕方ないだろ。
233 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 21:12:14
だね
234 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 02:08:38
龍岡藩の藩士の方の子孫ってあの辺に住んでるの?
235 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 23:59:55
神津の信濃銀行と小坂の信濃銀行って別もん?
236 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 20:15:10
鼻顔神社(はなずら神社)って面白い名前ですね。
237 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 22:48:13
元士族は警官とか役人になった人が多いよね。
だから、をお役所は、いまだにその弊害を引きずってる。
238 :
1111111111111:2007/12/29(土) 00:21:28
名前が伴野です…
ぶっちゃけ昔家族総出で佐久へ先祖探しに行きましたがまさに野沢周辺は
我等が一族の土地のような感じwwww
239 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 01:31:29
>>231 NHKの「武士の家計簿」だったかな
猪山家は役人になったとか
241 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 16:07:08
死族
鯉が好き
>>238 先祖は選択を誤ったな。すがり付いたのが後北条でなければ、ひょっとすれば・・。
244 :
やはり:2008/03/18(火) 21:00:04
佐久の井出、高見沢は武田家臣の津金衆ですか・・
245 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 00:41:51
佐久衆って幕臣になったのいる?ほとんど名主層だからそのまま庄屋か?
246 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 13:22:13
247 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 23:03:52
黒壁の家って何でなくなっちゃたの?子孫の方はもう佐久には住んでないのかな?
あの辺は教育県だったせいで教育を受けた長男等上京したまま帰ってこないことが
多く一族の方が墓を守ったいたりするそうですが
>>247 戦争で跡取りが亡くなってしまったそうです。
249 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 08:30:48
>>248そうでしたか。
でも神津家ってすごいね。黒壁は無くなり赤壁は昭和大恐慌で家のみに
なったけど今でも名声はあるんだね。
あのへんも農地改革で名家がなくなって、ほとんど忘れ去られてるのに
250 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 11:02:30
251 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 14:52:25
本読んでたら佐久の3大大地主ってあってYN池のK池家。
後2つはどこ?
神津と後、臼田のとこ?
江戸初期の仙石氏支配時は在郷で石取り(当時は貫文だが)の士分が見受けられるが
後の記録見てると名主になってるけど、移封後は新領主に認められなかったのか?
いきさつご存知の方いますか?
253 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 23:17:53
254 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 18:52:53
>>225 >男衆が集まるところに遊女あり・・・。
例えるなら男子運動部にいる女子マネージャーですね
>>252 兵農未分離の最後の形態であったのかな。確かに興味ある事例ですね。
街道筋で本陣を務める名主クラスの家は、仙石氏に従って大阪の陣に出陣しています。
陣夫や雑兵ではなく、騎馬武者としてしっかりと武士あつかい。
幕末の動乱時と比べると明らかに異質。
257 :
日本@名無史さん:2008/07/04(金) 13:41:08
>>223 年間通じて紫外線が全国トップクラスに強いから
258 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 14:22:40
田野口って地域はどんな感じ?
259 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 15:41:37
>>251K澤、N木。
>>252帰農してるのが多い。移封時ついてはいけないだろうね。
ただ初期の在郷士分は庄屋系の家だが全部がそうじゃないから、帰農
の踏ん切りが付くのに時間の掛かった家かな?
260 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 05:38:24
>244同じ苗字でも系統が違うものが存在する。
長野姓氏大辞典読むと豪農だからって由緒があるとはかぎら無い。大体は不明
仙石氏に仕官ってのもあるが家伝じゃなくて裏は取れてるのだろうか?
何故か名主に帰農してるし
苗字帯刀は内藤氏ぐらいしか見当たらなかった。
261 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 21:27:26
神津牧場も神津家に関係ありますか?
>>261 今は亡き、黒壁の神津家が日本で最初に開発したのが神津牧場です。
263 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 20:22:39
赤壁の子孫の方は住んでるの?
265 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 19:44:33
甲府藩に仕官した人もいるらしいが遠すぎね?
266 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 17:11:16
津金衆の鷹野・井出と橘姓の鷹野・井出は元は同じなのか?仮冒としての橘か
友野氏は武田よりだから武田と対峙するのは考えにくいような気もするのだが
267 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 10:23:34
>>256どの程度の人数連れて行ったの?うちは名主だけどいったって話しは聞いた事無いな
268 :
日本@名無史さん:2008/11/04(火) 19:13:11
釣るなよ。なぬし。
270 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 04:44:12
そりゃ付いて行きたい奴だけだろ
日本史上初の民事再生手続きは岩村田藩ではないか?
272 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 14:50:34
捕手
>>267 名主といっても変遷がありますね。 江戸初期と幕末ではかなり入れ替わりがあるかと。
大阪の陣出陣の名簿は「信濃史料」あたりにあったかと。または仙石氏の地元だった上田の市教委あたりに「仙石氏史料集」の所在を聞くとか。
274 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:38:12
>>273もう自分で調べました。名主の変遷ですが私の地元ではあまり変わってはいないですね。本家の衰退等ありますが
大体同じ一族で交代名主を勤めてます(一村2、3家で交代)。
冬の陣、夏の陣とも私の直接の先祖はおりませんでしたが高祖母の実家等血統的には2名いました。
冬の陣は202名ぐらいで云っているようですが召し出し自体は少ない人数ですね。
ただ当時の名主の総数ってのが分からない
もうひとつ資料的には武士のくみ分けとありますが・・・
佐久の名主といえば菊池さんと井出さんが有名
あー多い苗字だね。ただ名主となると後者は2村しかしらん。一つは超有名なとこ
伴野や木内がおおくね?
>>264 >256>街道筋で本陣を務める名主クラスの家は
お宅は街道筋ではないのでは?
278 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 17:11:25
279 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 07:33:22
風林火山の再放送やってるが平賀源心は架空説が最近の主流らしいがNHKは何故採用したのかな?
甲陽軍鑑自体も信憑性は薄いというのが最近の説らしいが・・
又、源心の姫役の子かわいいけど名前分かる?
今さら、一昨年の大河の構成内容かよ・・・
282 :
日本@名無史さん:2009/05/24(日) 15:41:52
戦国時代とかって敗軍の美人の姫って・・・犯されまくり?
ウェルサンピア佐久って何度か泊まって印象も良かったのに
廃館になってしまうんだね。残念。
285 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 00:50:56
>>279 平賀源心(玄信)は『甲陽軍鑑』にしか出てこない人物ですね。
『甲陽軍鑑』自体もかなり前から疑問視されていますが、最近はやや再評価が進んできました。
合戦の有無や内容は史料価値が低く、習俗などは価値が高いようです。注意して活用すれば、きちんとした論文にも参照出来る様になって来た様です。
平賀氏については山崎哲人氏の修士論文から実在説が再び浮上してきました。
郷土出版社から刊行されていますので、ご一読をお勧めします。
286 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 23:36:25
>>273うちの先祖が行ってないのが納得できね。親戚は行ってるんだがね。何か軽井沢、追分,芦田から飛んで中込や臼田,海ノ口
端っこの庄屋ばかりだね。
≫285山崎哲人でググったら「絵図が明かす平賀玄信の佐久支配」を書いた人みたいですね。この本は以前読んだことがあるのですが
武田侵入以前と以後では支配層が大幅に変わってるそうで(当然だが)現在の住民としては面白みにかける感じでしたね。
287 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 02:25:15
>>286 佐久郡一円支配とはいえ仙石氏に対して、名主層は軍役を負っていたのでしょうか。
もちろん家臣ではなく、「被官」としてある程度の義務は負っていたとは思いますが。
街道筋の名主層は、小諸の殿様と関係を保つために手弁当で出陣した可能性もあるかと思います。
山崎哲人氏>すでにお読みでしたか。 佐久郡は武田、村上、後北条、徳川と強豪の馬蹄に次々とかかりました。
天文年間に見える氏族と慶長頃の氏族とは大分交代がありますね。
時々思わぬ遠方に移住しているのが見受けられます。 氏族の消長を研究されるのも面白いかもしれません。
289 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 00:57:16
>>288 夏の陣に関して、佐久郡の名主で出陣者名簿を以前拝見したことがあります。
史料にあたる方法は、ネットよりも地域の図書館、歴史資料館にお休みの日にでも足を運ばれてはいかがでしょうか。
「信濃史料」「信濃史料叢書」だけでもかなり参考になる文書がありますね
佐久地方を最終的に統一したのは、徳川の支援を受けた芦田の依田氏でした。
このとき後北条側にたった氏族が佐久を追われ、あるいは滅んでいます。
依田氏の転封に伴い、佐久を去った氏族もいるようです。
依田氏に代わって佐久郡に入った仙石氏は豊臣系の大名で、信濃にはゆかりも無い人物でした。
現在の小諸城を築城し、過酷な支配をおこなったため、人心は離反し、「佐久郡逃散」が起こりました。
一揆寸前のストライキ状態です。
農村部の有力者は、領主である仙石氏に対してかなりな反感があったであろうと推測されます。
知行百貫は武士でもかなりな高禄です。過分な恩賞で出陣を賞するその裏には懐柔の要素があったのでしょう。
290 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 18:39:24
軽井沢の名族といえば佐藤さんと後藤さん。
碓氷峠から軽井沢に入ったといわれる。
佐藤サイドは「先に軽井沢に来たのは佐藤。後藤は後から来たから後藤」
と主張している。
万平も森トラストの傘下になっちまったからなあ。
名族って言っても知れてる。
>>289レスありがとうございます。今度の休みにでも信濃史料、信濃史料叢書見てこようと思いますが他にお勧めの書籍はありますでしょうか?
佐久群誌や町誌系は南佐久にかんしては目を通しましたが北佐久はまだです。
仙石氏移封時についていっていないところを見ると人心の離反や懐柔作等大変な時期だったのでしょうね
≫290あの辺は佐藤と土屋が有名ですね。後藤は初めて聞きました今度調べてみます。
293 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 02:32:27
>>290 氏族調査で役に立つのが電話帳なのですが、軽井沢近辺ではこの方法が使えません。
よそから越してくる方が多すぎます(笑)
中世から名前の見える氏族は土屋、佐藤、柳沢氏あたりでしょうか。
佐藤氏は上州側にも広がり、碓氷峠関連文書に登場します。 土屋、柳沢両氏は武田氏の幕下にて、この付近に土地を宛がわれたと云われています。
それ以前には豪族相木氏が長倉に本拠をおいていたようですが、その居館の比定地は未だわかっていません。
>>292 「佐久市志 歴史編(二)中世」は近年の研究の集大成です。
とても面白く読めました。お勧めします。
>>295さんにひとつ伺いたいことがあるのですが昭和の終わりから平成にかけて旧家の文書等調査したと云われているのですが
永禄年間以前の民家にある武田家書状等は信憑性が薄いということで研究の対象にはなっていないのでしょうか?
結構近年家を引き払う家が多く書状等売りに出ていますが偽物扱いなのか・・・書状等は戦前の調査以降は公式に
載ることが無いのでなんでかな?と
296 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 16:03:48
>>294 武田氏関連の古文書は確かに偽物が多いと聞いています。
最近は印判の朱肉を分析して真贋を確かめる手法があります(1点6〜7万円かかりますが)
文書の形式、文言などに誤りのあるあきらかに後代の偽書以外に、古い文書の写しも存在するため、一概に価値の無い偽とは言い切れません。
史料集として刊行され、活字となっている文書は、一応研究者の判断を経たものなので史料として活用できますが、それ以外の文書は研究者の鑑定が必要になります。
歴史研究を成す上で、出所不詳の文書を参照する行為は学界の認知を得られません。
むろん未発見の文書である可能性もありますので、信用ある研究者のいる団体に鑑定依頼をするのが先決と思います。
昭和の終わりから平成のかけて民家の古文書等調査したといわれているのは専門家ではなく郷土史家等の調査なのかな?
どの程度の調査なのか分かりませんが佐久群誌等出版されたのはここ10年ですから、その調査のせいかなともおもっているのですが。
298 :
日本@名無史さん:2009/07/29(水) 02:01:04
299 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 00:41:22
古事記
>>298 >長屋門の長屋を取った様な様式で
長屋門から長屋を切り取ったら、長屋門じゃないだろ。
切妻門が珍しいって言いたいのか? 質問の意味が分からない。
場所は臼田か?
>>300上記の写真は臼田です。佐久群全体に見られる形式みたいです。
言葉で説明するのが難しいのですが、普通の門(四脚門)の場合は4本の柱があるのですが、上記写真のように
佐久群で見られる門は柱ではなく壁で支えている様式みたいです。ですから長屋門の長屋を取り去った感じと。
他の地方ではあまり見ない気が・・・
302 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 17:36:13
>>260 何故か名主に帰農してるし
領主の移封、転封時に、土地を担いで行かなかった証拠。
小倉、小笠原の土地には、信州ゆかりの名や地名がある。
303 :
日本@名無史さん:2009/08/04(火) 20:27:08
どういう気分なんだろうね。折角武士になったのに百姓に戻る時って
304 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 22:36:19
帰農したとはいえ名字帯刀は黙認状態。
名主や村役人、宿場の三役クラスの人物だと平侍だと相手にしない位威張ってたみたいですね。
昔の郎党の家もまんま付いてるわけだし、戦に行かなくなった分楽になったって程の認識かも。
時代は違うけど龍岡藩の子弟よりも名主の子弟の方が威張ってたって聞いたことがある。昭和30年代ぐらいか某旧制中学で
庄屋の苗字帯刀黙認って全国的にあったのかな?苗字帯刀と伝承する家は多いが記録が残っていないこともあるし尾鰭が付いた可能性も
>>303 武士が明治維新で帰農するなんて珍しくもない。静岡の牧ノ原台地だって
帰農した元幕臣達が開墾して、広大な荒れ地を茶畑にした。
>>305 >昭和30年代ぐらいか某旧制中学で
旧制中学がなくなったのは昭和23年
>>306 庄屋=脇差 は全国どこで常識だが、
苗字は公式に名乗れる藩と、公式には名乗れない非公式(通称)の藩があった。
>>307>>旧制中学がなくなったのは昭和23年
旧制って書いてあるだろうに・・・まったく。
あと、帰農だが維新後は一応「士族」だろ・上記のはタダの百姓。気分的にはかなり違いそうだが。
309 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 00:21:56
>どういう気分なんだろうね。折角武士になったのに百姓に戻る時って
折角武士になった訳じゃ無い、元々が領地を与えられた武人の家柄。
領地替えに伴い、長男は刀 次男は土地を選択、逆でも良い。
江戸時代初めは、武士と百姓に垣根は無かったから良いが、間もなく完全分離
サラリーマンの武士と、一国一城の百姓とどっちが良いかは本人が決めろ。
私の先祖は、百姓で有りながら刀を取った先祖が羨ましかったらしく、神社(村社)の席順も
筆頭でなければ気に入らなかったらしい、席順を村人と争い訴えられた。
お裁きは、謂われは有るが、村内のこと、仲良くやれ。で決着。
ただし 松本藩水野氏の時代だから、少しユニアンスは違うかも、
信州より小倉に付いていった家臣の家は、名主や庄屋が多い。
我が隣り村の名主は、石川氏の下で朝鮮に出兵2名の死亡、問屋もしてた。
310 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 19:48:16
309の続き
我が生まれし村の初代庄屋は、慶長年間に浪人した人物が始まり。
石川氏が改易となり、又被官の出身で有ったが、浪人となり、我が村の柴地を開墾して住み着いた。
名字から見てこの手の庄屋は、何人か見受けられる。武士の身分に早く見切りを付けたから庄屋になれた。
311 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 20:51:41
江戸初期も武士と百姓の垣根はあるし身分差があった
312 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 22:26:39
新潟の「本間様」は、武士?百姓?
313 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 22:54:01
314 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 22:54:41
しかも新潟ってw
315 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 09:22:58
だろ
本間様には成れぬが、せめてなりたや殿様に。
殿様の上をゆくのが本間様、
そのお膝元の百姓が信州に田植えに出稼ぎ、その時の感想が、「北信州の百姓
にだけは成りたくない。」
少し戻ってきたぞ 浅間山が近くなった。まだ浅間山が話題に上っていない。
316 :
日本@名無史さん:2009/08/10(月) 09:20:56
浅間山ですか。 南北朝期争乱の主要人物の一人、宗良親王が和歌に「浅間山の近きに住み侍りし頃」って詠んでいます。
信濃の宮の御所はどこだったのでしょうか。佐久郡内である事は間違いなさそうなのですが。
317 :
日本@名無史さん:2009/08/10(月) 18:54:15
非常に自演臭いスレですなぁ
>>315 それ、あきらかに田沼期の「田沼さまには及びもせぬが、せめてなりたや公方さま」っていう手鞠歌をパクってるけど、時代はいつなの?
・・ていうか、明治くらいの捏造(は言いすぎか?)じゃないのかね。
>>316 宗良親王の信州での拠点は、言うまでもなく伊那の大鹿村。
武蔵や上州には来ているから、上州で浅間を詠ったんだろ。
320 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 23:39:00
>>319 『李花集』には「信濃国浅間の山ちかきわたりに住み侍りし比〜」
『新葉集』には信濃路や〜浅間山雲は煙の〜」
これを上州で読んだってのは無理がありそう。
伊那の大河原は確かに本拠だけれども、諏訪氏、滋野氏系諸族、また伴野氏の一部も南朝方だったわけだから、佐久郡内にいた時期があってもおかしくないと思います。
佐久市、小諸市、軽井沢町などにある「御所」地名などが興味深いですね
なにせ30年間も信濃を拠点に戦っていた人ですから
>>320 諏訪氏も滋野氏系も、現在まで続いている家系なんだから、
宗良親王が佐久に来たら、信州側に何らかの記録が残ってても
いいんじゃないか。何も無いからなあ。
職業歌人は、全く見た事のない光景でも、憶測と伝聞で詠んでしまうからなあ
322 :
日本@名無史さん:2009/09/04(金) 21:58:03
>>321 >宗良親王が佐久に来たら、信州側に何らかの記録が残ってても
>いいんじゃないか。何も無いからなあ。
史料ってものにあたった事の無い方だということが、この一言だけでも判りますね。
中世の、しかも敗亡した側の記録がどれだけ残るかなんて全くご存知ないのでしょうね。
憶測と伝聞で無責任な発言をするレベルの低い…あ、そうか。 ココは2ちゃんだったっけ。
まあ好きに考えてくださいな(笑)
323 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 03:18:59
浅間山イコール信州の、という認識があれば、
群馬にいてもそう書くでしょ。
白山は飛騨にもまたがっているけれど、
普通は「越の白山」と言うように。
>>322話は変わるが徳川の治世になって武田や北条の資料ってやっぱ大分処分したのかな?うちはあの辺の旧家なんだけど
資料の残っている家と残っていない家がちょっと違う気がね。何故かあまり歴史がない家の方が残ってるわけ
捏造か、少ない資料を大切にしているのか、一番古い家にはあんま無いんだよね不思議
>>322 あの辺りは、諏訪大社や生島足島神社など歴史がある寺社が多い所
親王が来て記録がないなんて考えにくい話だね
326 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 15:26:59
長篠ノ戦いにいってひどい目にあったという話は聞かないけど地侍達はその時はどうしていたの?
しらんわ
328 :
日本@名無史さん:2010/01/05(火) 21:05:29
>>324本家筋から遠く離れた家の方が由来や古い書物等残されてる場合が多いと某郷土史家の方が煽っておられた。
329 :
鷹野虎雄:2010/01/14(木) 11:27:47
保元の乱後信濃に移り住んだ鷹野満定、身内の井手以重と富士の西麓に住む旧家鷹野家と井出家との歴史的関係を調べたい
武田信玄佐久支配の戦略に苦しみ、移り住んだとの仮説を立証したい。
なにか足がかりを知りたい?
古代〜上古の話もまったく出てないなあ。そのへん聞きたい。
確か日本最大の縄文石棒が佐久にあったよね?
あと伴野氏って大伴氏絡みなの?それとも直接伴部の関係?
>>329おーー来ましたね。佐久といえば名門井出家。
地方史に保元の乱のおり鷹野満定、弟の井手右京進以重・高見澤刑部諸以・油井兵衛以近が佐久郡に落ちると記されてるが原書は分からない。
井出家については少し調べたことがあるのですが系統に付いてはいくつかあるとされている。家系辞典に記されているのは南牧村の旧家に
伝わる文書だが詳細は不明。また、富士の山麓狩宿の分家と称する一族(臼田)や駿河の井出長門守正重の家、津金衆の別れとする家等存在する。
奇妙な共通点だがほぼ全ての家が橘氏と称してる点だ。駿河系は藤原性と言われているのに///
もうひとつ、高見澤も橘性と津金衆を称する家があり奇妙な一致点が。
>>329後、最近の説だと佐久の豪族は武田家により信濃攻略もしくは政略のため移ってきたではないかと言う人たちがいる。
333 :
鷹野虎雄:2010/01/18(月) 18:42:31
佐久地方には鷹野姓の人が多い、また山梨県中巨摩郡穂玉町地区に54軒ほど集中して鷹野姓の家が見受けられる。
なぜ佐久地方と玉穂町に多いのか知りたい。
「信濃奇勝録」の著者の井出さんは神官だったらしいんだけど、
どこの神官だったのか、誰かごぞんじないですか?
>>333 甲斐のそのへんと佐久との関係といってまず思い浮かぶのは大伴武日命です。
ヤマトタケルの東征に随行したとされる大伴氏の祖先です。
「大伴武日命 神社」でググってみると、いろいろ見えてくると思います。
あと、戦国時代の鷹野氏は諏訪勢力に従ってたみたいですね。
ちょっと、上社なのか下社なのか今わからないんですけど(でもたぶん下社)
武田の動きと、そこに絡む金刺氏、諏訪氏の動きも手がかりになりそうです。
335 :
日本@名無史さん:2010/01/23(土) 03:39:00
>>334臼田下ノ宮諏訪神社。臼田井出家の一族らしいですよ。
>>335 ありがとう!と思ったらググッても当たらないw
なんか別名ありますか?
臼田の諏訪社といえば新海神社を思い出すけど・・・
337 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 18:42:55
339 :
日本@名無史さん:2010/01/29(金) 18:42:45
>>293お久しぶりです。佐久市志ですがいろいろありましたがものすごいボリューム
ですね。町村合併が関係してるのかな?何となく流れは分かりましたが哲人氏が結構
寄稿されてるようで・・・もしかしてあなたは???もしかする?
>>338 ごていねいにありがとう。神社本庁HPで確認してみましたが、
しかし・・・南佐久には異常なまでにたくさんの諏訪社がありますねw
特定できん!
図書館含め、そのうち現地調査をしてみます。
341 :
393:2010/01/30(土) 17:09:02
大坂夏の陣についてですが山崎氏が書いてありましたね。有力農民で応召した
領内きっての有力者との記述があり騎馬は一騎らしいですが一族郎党を徒歩に従え
かなりの人数になったようですから応じる財力人員等なければだめそうですね。
江戸初期に関しては名主の変遷等記録は残っていないそうですが自分の家は
当時は名主はやっていなさそうです。理由としては新田開発のところに名主として
記述があり新田開発したところは開発者から名主を選ぶ等記述がありました。
元禄頃からですかね・・・
ただ、一つ気になることがあるのですが名主になる前、1640年代頃建てられた墓があるのですが
傘付角柱型の立派な墓で当時からある程度の財力はあったのか、後から作り直したのか気になる
ところです。また、江戸後期の婚姻等調べてみますと大坂の陣に参陣している家ばかりですね
(それもかなり直系に近い家もしくは直系)明治期の地租等調べても中規模程度でしたから少し
不思議
342 :
393:2010/01/30(土) 17:16:39
名主の変遷についてもう一つ気になっていた事ですが他の家の(有名な家)
事も調べましたが江戸初期の農村の荒廃はすさまじく記録自体あまり残っては
いないそうですね。安定してから新田開発が活発になり隆盛した家も多いのかな?
もう、ね
話がマイナーすぎて
スレ止まってんじゃんw
344 :
日本@名無史さん:2010/02/21(日) 21:31:29
まだ馬の話題が出てないじゃないか
信濃國は古来馬を産出し其佐久馬と木曾馬とは有名なリ
佐久馬は南北佐久の両群より産ずる馬にして中位にあり
體貌輕美品位あり。躯肢短縮し、頭は中容、額は廣からず
眼相温和、耳緊立し、頸は稍細薄、方向佳良
き甲中位、背腰長くして平直なり。尻は適度に長く傾斜比較的に少なし
胸は稍狭く、肩は長直にして稍前方に位置し、肘間狭く、股は短直のもの多し
脚は細小に比するの欠点あり。蹄質堅牢、性質温和にして悍威あり。乗駄に適す
鹿毛栗毛多く、青毛芦毛亦少なからず。
體尺約四尺五寸乃至四尺七寸あり
そっち方面なら、佐久にいた大伴氏の話をしたいね
346 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 08:37:36
戦国時代鷹野氏は諏訪勢力に従っていたとの情報有難うございました。
この情報を切り下げて詳細を知りたい。名前などわかったら調査の
足がかりになり、有難い
347 :
日本@名無史さん:2010/03/05(金) 08:41:54
戦国時代鷹野氏は諏訪勢力に従っていたとの情報有難うございました。
この情報を切り下げて詳細を知りたい。名前などわかったら調査の
足がかりになり、有難い
佐久の鷹野氏は割りと分散して数も多くない。高見澤、井出、油井(由井)は
同じ姓で固まって住んでるのに
>>330 伴野氏は甲斐源氏で小笠原氏(加賀美)の一族
鎌倉時代初期に佐久郡に入ってきた一族だから古代氏族とはつながりはありません
鷹野氏はこの伴野氏の代官として亨徳四年(1456)〜文明十九年(1487)に「諏訪御符礼之古書」に大勢登場してますね
禅僧季弘大淑の日記『蕉軒日録』文明十六年(1484)には
「大井殿の執事は芦田殿・相木殿、友野(伴野)氏の執事は鷹野伊豆守…」
などとあり、伴野氏の重臣だった事がわかります
手元の資料によると鷹野姓は佐久では北佐久郡浅科村、佐久市、臼田町(現佐久市)
小海町に多いらしい。この辺の郷土誌を見てみれば良いでしょう。
351 :
日本@名無史さん:2010/03/25(木) 02:30:04
大伴と伴野の関係ですが、
伴野城跡にある神社の名前が大伴神社でしたね。
でも
>>349氏が指摘されているように小笠原氏の嫡家というのが実際のところで、
関係ないと思います。
でも、どうして大伴なのかは私の代には伝わっていません。
神社では松原の諏訪神社を代々祀ってきたそうです。
雨が降らなかった年があり当家に伝わっていた家康から拝領した剣を奉じて
祈願したところ雨が降った・・・という話を聞いています。
あと佐久でも伴野さんが多いですが、
明治期にうちの家が姓名がない人に分け与えたので多いらしいです。
鷹野さんに関しては伴野城周辺の高野町という所がありますが、
そこがルーツでは?と推測しています。
もともと鷹が多いところだった・・・と聞いています。
でも今はもう遠い昔の事・・・・。
本当に遠い昔の話・・・
だけど、佐久の地の根本である「牧」に大伴氏が関わっている以上、
この地で「伴」の字を名乗ったことに意味がないとは思えません。
牧と伴部の関係から考えても、古代と無関係と考えるほうが不自然です。
>>352 「伴野」の地名が先にあり、そこに入部した加々美氏が後に小笠原〜伴野氏を名乗る訳で、中世の伴野氏を古代の大伴氏と関連付ける方に無理があります。
中世の武士は土着した地名を氏として名乗る事はごく普通に行われていました。
大伴神社は式内社で、その成立に大伴氏が係わっていた可能性は大きいと思います。
9世紀初頭の資料に小県郡内に大伴氏(大伴連)の存在が窺え、このお宮との関係が考察されますね。
遠い昔の佐久平。 思いをはせるとワクワクします。
式内社の大伴神社が、イコール現在の大伴神社か否かについては論が割れています。
移転の可能性もありますが、単純に古さでいったら、英多神社や新海神社のほうが
ずっと古そうです。にもかかわらず、現在の大伴神社はそこに鎮座している。
いずれにしても、大伴氏の格式というものが、かなり近い時代まで佐久の地で
尊ばれていたということでしょう。
なんとか源氏を名乗った武家は多いですが、実際に無関係な血筋だったとしても、
そこには名乗っただけの意味と理由がある、ってのと同じ話です。
一庶民が「朕」と名乗ることが決してできないように。
>>354 社地の論はひとまず置くとして『延喜式』に記された古社が現在まで祭られている事は大いに評価されるものですね。
仁寿3年(853)の史料に「佐久郡丸子真知成」「主政外少初位上 大坂真長」等の名が見えます。
大坂真長は佐久郡司と推定されますが、大坂臣、丸子部は大伴氏に従属する氏族である事が注目されます。
しかし佐久郡における大伴氏の存在を示す直接の史料は存在しません。
平成十年に集成された「南佐久郡誌 考古編」でも論考がありますが、中央の大伴氏が直接佐久郡に係わっていた事には否定的な結論となっています。
「なんとか源氏」は近世以降のお話で、伴野氏にはあてはまりません。
『尊卑分脈』にはっきりと系譜の記載があり、これは動かしがたい事実です。
古氏族の系譜を引く武家はきちんと本姓を名乗ります。信濃では犬甘氏などが大伴姓を名乗っていますね。
八千穂(現佐久穂)には佐々木氏が多いようですが、どのような系譜なのでしょうか。
>>356角川の歴史人物大辞典に載ってるかもよ。確か川崎の民家集めているところに名主の佐々木氏住宅ってあったよね。
>>356 嘉暦4年(1329)『結番下知状』佐久郡小田切郷に「佐々木豊前前司跡」の名前が見えます。
前司は国司を務めた履歴のある事を示し、この人物は豊前守で会った事が分かります。
鎌倉時代末期ですが、この時期に名乗る官位は私称ではなく任官していたものと考えられ、相当な人物であった事が推察されます。
『群書類従系譜』によると佐々木豊前守宗清の前代隠岐守時清の母は大井朝光の娘とあり、近江佐々木氏(義清系)が佐久郡の大井氏と婚姻関係にあった事が分かります。
おそらくその関係で近江佐々木氏が佐久郡に所領を得ていたのでしょうか。
以後南北朝〜室町、戦国期において佐久郡では佐々木氏の名前を見ることは無く、その地頭職も短期間であった事と思われます。
八千穂の佐々木氏と相関があるかは分かりませんが、ご参考まで
359 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:18:44
い
360 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 18:22:47
い
361 :
日本@名無史さん:2010/05/14(金) 14:47:38
い
佐久の地名についてなのですが、柵、つまり、大和朝廷の東国支配のための城柵を設けましたが、
関東支配の拠点となったのが佐久(柵)なのではないかと考えます。
それがいつの時代かといえば、空白の4世紀ということになります。
363 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 12:43:27
364 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 20:22:31
323年=神功49年=將千熊長彦
>>355 伴野氏以前から伴野って地名があった文献上の事実すら知らないの?ww