【常陸国】水戸徳川家を糾弾せよ!【佐竹】

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1出羽に行かれなかった佐竹旧臣
佐竹旧臣と領民を苦しめた悪の歴史が
語られないのは何故なのだ!?
水戸黄門こと徳川光圀と皇国史観への
配慮なのか?
タブー(?)を破り、
水戸徳川家の邪悪な藩政についてトコトン語ろう!
2日本@名無史さん:2005/10/12(水) 22:49:48
2!!
3日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:01:47
天下の副将軍水戸徳川家

カスの佐竹が何か?
4日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:13:22
>>3
あえて釣られるけど、副将軍なんていません。
5日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:16:28
残留した佐竹旧臣はともかく、領民には
天領の方がはるかにマシだったろうね。
水戸徳川家は見栄で石高を多く偽って、
領民から搾り上げたし。
6日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:19:20
水戸アナル氏ね
7日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:28:31
光圀も一面から見ると藩財政を破綻させた馬鹿殿様だよな。
財政再建のために登用した松波勘十郎を裏切って殺した綱條も相当のワル。
斉昭も頑迷固陋の攘夷主義で一橋派の仲間の足を引っ張ることしかできなかった。
8日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:03:15
>>7
禿同!
9日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:17:21
徳川氏ね!
10日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:24:37
>>4 家光が改造するまでは、水戸と伊達正宗が天下の副将軍だった
光圀の時は改造前にもかかってから「先の」副将軍

>>1 茨城人なので「佐竹旧臣と領民を苦しめた」って部分がわからないので内容を教えてください
>>7の内容にはすっごく頷ける
11日本@名無史さん:2005/10/13(木) 03:18:36
>>10
>>1じゃないけど、私が知る限りでは、入封してきた徳川は、
残留した佐竹遺臣のほとんどを排除。
仕官希望者の大半を無視。
地侍でもなかった佐竹旧臣も士分を剥奪され、せいぜい庄屋・大庄屋。
彼らからも家系図を没収し、18世紀になるまで墓に家柄や
家の由来を記すことまで禁止。 後に郷士制度を設けて大庄屋の一部を郷士にはしたが、
佐竹旧臣ではなかった地侍末裔を
えこひいき←例えば佐竹と対立していた芹沢家。
農民が誤って役人一人を殺めてしまったら、報復として村民皆殺し。
農民をとことん搾った。
1211:2005/10/13(木) 03:20:45
訂正:佐竹遺臣→佐竹旧臣
13日本@名無史さん:2005/10/13(木) 03:32:58
>>1 土佐山内のことはよくいわれるのに、
水戸徳川がいわれないのは確かに不思議。
14日本@名無史さん:2005/10/13(木) 03:41:01
粘着不平分子の>>1は烈公に成敗されろ。
15日本@名無史さん:2005/10/13(木) 09:29:34
TBSが水戸黄門なるシーラカンス電波番組を続けるせいで、
>>14みたいな馬鹿が湧き出る。
(・∀・)ダメダコリャ
16旧前浜村の漁民:2005/10/13(木) 11:02:55
これは面白いスレだね
確かに水戸様の領国経営は苛斂誅求だわな
17日本@名無史さん:2005/10/13(木) 12:21:03
水戸徳川家最強!
佐竹弱小!
18旧前浜村の漁民:2005/10/13(木) 12:26:15
>>17 理由を述べよ(^ー^)ニコチン
19日本@名無史さん:2005/10/13(木) 12:46:47
貧乏なのに御三家の体面保つのは大変なんだよ。
大日本史編纂などという余計な出費も抱えちゃったし、定府だし。
20日本@名無史さん:2005/10/13(木) 12:49:48
大日本史編纂は誇るべき事かもしれないが、ハッキリ言ってお荷物。
精神文化にばかり走るから、未だに水戸はド田舎な訳よ。
2110:2005/10/13(木) 13:23:55
>>11 ありがとうございます。そういう背景があったんですか。
確かに水戸は地元でも強引というイメージがありますがそういうこともしてたんですね。

>>13 明治政府の高官がほぼ水戸学の洗礼を受けているからと思います。
それと薩摩系は斉彬公と斉昭公・慶喜公の厚誼からあまり言えなかったのかと
特に西郷隆盛が連絡御用で取り立てられた頃からで居いますし、憚られたのではと思います。
22日本@名無史さん:2005/10/13(木) 15:41:55
格式が高い水戸徳川家。
格式が無い佐竹家。
23日本@名無史さん:2005/10/13(木) 15:48:24
偽新田が何を言うか
家は清和源氏、血は上杉
24日本@名無史さん:2005/10/13(木) 17:16:59
>>1
佐竹家だけじゃなくて徳川宗家も苦しめたぞ。
最終的に破滅に追い込んだし。
水戸は獅子身中の虫。
25日本@名無史さん:2005/10/13(木) 19:26:44
静まれ静まれ!
26日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:04:32
>>13
戦前は土佐山内氏の悪口もタブーだったらしいよ。
最終的に勤皇討幕側だったし、候爵だし。
27日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:18:25
>>24
禿同!
天領にするか佐竹を残すかにした方が良かった。
水戸徳川家は正に獅子身中の虫。
28日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:24:21
家康の遺言とやらを本当と信じるなら、水戸家は元々将軍監視の役目の家。
だから、宗家とは存在理由として敵対関係でなくちゃいけない。
でも、家光までは意外と宗家の味方だったみたいだし、将軍家がふんぞり返ったのが悪いと思うのだが
それに天皇家から政権を預かってるだけってのが開幕からの理念みたいだし
ま、繰り返すが遺言が本当ならね
29日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:57:56
俺の地元は佐竹義久の旧領だったんだが
光圀の代では年貢8割もとられてた
しかも稗粟なんかの雑穀まで根こそぎ
更に収穫物は一度藩で全て買い上げて、それを領民に売る(当然食べる分は買わざるを得ない)と言う制度があって
安く買い上げて高く売るから実質8割を超えていた
30日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:59:26
幕末に何もできなかったのは内紛のせいだと言われるが実のところ経済的に何もできない状態だったのかもな。
31日本@名無史さん:2005/10/13(木) 23:43:08
佐竹って今の鉾田地区?
32日本@名無史さん:2005/10/13(木) 23:58:51
鉾田はかなり後に領地になった
佐竹の本拠は水戸より北部
今で言うと常陸太田市、日立市、久慈郡、那珂郡、多賀郡と言うあたり
居城は常陸太田市にあって
小田原以後に秀吉から常陸国の支配権を得て
水戸の江戸氏を討って居城を水戸に移した
33日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:00:01
>>30 桜田門外始め藩士や実質藩の力でいろいろやっているよ。
後は慶喜公の後援。官軍がなるべく抵抗無く政権移譲できるように動いてる。
明治初期から有力華族{徳川姓で}、官僚を出身者が勤めてる
34日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:01:51
空気の読めない奴がきた
35日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:09:54
良い面悪い面の揺り返しで盛り上がってきたから別に読めてないようには思えないんだが
つうか、>>33が言ってるの良い面じゃないじゃんw
宗家倒してさっさと自分達は政権に入り込んでる腹黒ってことじゃないの?
文句言う前にそこら辺も読もうね
36日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:22:08
でも天狗諸生の内紛で数千人死んでるからな
当然藩内で有能な人や気概のある人はみんな身を投じた
残ったのはどっちつかずの保身家と無能な人間が大半
慶篤のボンクラが我が身可愛さに天狗諸生の争いを放置して
のらりくらりしてたのが原因
37日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:34:40
腹黒く立ち回われるような能力はなかったよ
越前松平みたいに上手く新政府に入り込んだのならいいが
水戸など相手にされてない
なんせ明治になってからも内紛で混乱の極みだったからね
会津が降伏した後でも水戸じゃ藩内で戦争してる始末
38日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:36:07
>当然藩内で有能な人や気概のある人はみんな身を投じた
天狗・諸生が内紛でどうしようもないから逃げた(脱藩とか)奴も多いんじゃないか?天狗とか美化されすぎだと思う。
新撰組だの陸援隊だのに水戸出身者が多いのは水戸に関わると碌なことにならないからでは?
39日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:51:59
>>36
無能だから天狗党や諸生党の争いを起こしたんだろ?
無能じゃなきゃ、あんな陰惨な報復措置なんてしねーよ。
40日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:54:27
水戸学は当時の免罪符ですから
水戸学を修めた=知識人
だから、各所に行けば優遇されるし、志の為に身を投じたと美化される
官軍共通の認識だし、同門者が各藩に多いから、明治期には美化されるわけですよ
41日本@名無史さん:2005/10/14(金) 02:16:58
思慮の無い軽率な蛮勇とも言えるほどの行動力が
他の藩の有志に一目置かれる要因ともなった。

42日本@名無史さん:2005/10/14(金) 12:04:29
晒しage
43日本@名無史さん:2005/10/14(金) 12:31:48
>>38>>39
だから藩内での話だよ
藩を二分して百姓に至るまで争乱に参加したわけだが
一部これに加わらなかった連中がいる
特に別の思想があったわけでもなく、藩内をまとめようとしたわけでもない
危ない橋は渡りたくないから静観してたわけだ
何もしてないから凡庸と言わざるを得ないだろ
44日本@名無史さん:2005/10/14(金) 12:44:31
>入封してきた徳川は、残留した佐竹遺臣のほとんどを排除。
>仕官希望者の大半を無視。
>地侍でもなかった佐竹旧臣も士分を剥奪され、せいぜい庄屋・大庄屋。
紀伊徳川と似てるな。土佐山内はその点ちょっとマシか、、、
45日本@名無史さん:2005/10/14(金) 12:55:24
尊王攘夷最強!朝廷を重んじる水戸徳川家最強!!!
46徳川頼宣@南龍公:2005/10/14(金) 13:01:12
苛政は虎よりも猛なり( ^∀^)ゲラゲラ
47徳川御三家:2005/10/14(金) 14:25:46
水戸徳川最強! 天下の副将軍水戸徳川家!
48鬼義重:2005/10/14(金) 14:28:23
ハイハイワロス、ワロス
49農民だす:2005/10/14(金) 14:32:09
>>47
ええから掛け声ばがりでねぐ、水戸さんのなんがええんか、教えでぐれや
50日本@名無史さん:2005/10/14(金) 14:46:54
東北訛りで読めねぇよ
51農民だす:2005/10/14(金) 14:47:25
茨城弁どす
52日本@名無史さん:2005/10/14(金) 16:52:50
俺も茨城だけどそんな言い方しねぇぜ〜
53農民だす:2005/10/14(金) 16:54:00
旧山方町だす
54日本@名無史さん:2005/10/14(金) 17:24:39
新幹線がほすいっぺ
55農民だす:2005/10/14(金) 18:02:44
>>47
いいからそう思う理由を述べよ。
水戸様の支配は過酷でした。
56日本@名無史さん:2005/10/14(金) 18:31:00
佐竹氏が転封の際、金山を片っ端から閉めて出て行ったからねえ。
後から来た水戸徳川氏は、金山を再開発しようとしたが、結局失敗。

佐竹54万石の正体は、農業生産にあらず、どっちかというと金採掘に拠るところが大なのでは?
57日本@名無史さん:2005/10/14(金) 18:36:03
徳川家は殿様。佐竹は家畜。
58日本@名無史さん:2005/10/14(金) 18:37:16
佐竹54万石??水戸は35万石で下?
59日本@名無史さん:2005/10/14(金) 18:38:48
佐竹家と真壁氏は関係あるの?
60日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:11:01
鬼真壁は大掾氏の分家で、佐竹氏に従って秋田へ…。

茨城県には、土井家、水野家など譜代や、細川家や山口家といった外様もいたからな。
それを割り引けば、佐竹氏の石高は下回っただろうな。。
61日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:54:14
真壁は鬼? 真壁城で有名だとか…
62日本@名無史さん:2005/10/14(金) 22:09:12
山口家は牛久だな。 先祖の政重は尾張出身の武将で、
織田信長・織田信雄・徳川家康に仕えた。

関ヶ原の数年後、何が原因なのか家康の勘気に触れて不遇だった。
63日本@名無史さん:2005/10/14(金) 22:21:47
山口は里見と同様大久保忠隣のとばっちりを食らったのじゃかったけ?
64日本@名無史さん:2005/10/15(土) 00:48:19
水戸藩は実高20万石程度だが公称35万石
どこの藩も実高より低く称していたが
水増ししてたのは水戸ぐらいじゃ…
65日本@名無史さん:2005/10/15(土) 07:25:09
これ見ると、実高が表高より少ないのはレアケースだね
水戸は弘前10万石にも負けてるのか
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fjitu60.html
66日本@名無史さん:2005/10/15(土) 09:24:34
水戸さんは見栄っ張りの阿呆
67日本@名無史さん:2005/10/15(土) 11:19:50
佐竹の転封直後に徳川頼房の血統が領主になったと思っているのか?
68日本@名無史さん:2005/10/15(土) 11:49:44
武田信吉と頼宣だろ、そんなの常識
69徳川頼宣@南龍公:2005/10/15(土) 12:02:51
そうそうわしも2歳から6年間水戸20万石(途中で25万石)の領主だったな。
当然幼児だから政事は出来ないし、水戸も行ったことないけどね。
ずっと大御所様の膝の上( ̄ー ̄)ニヤリ
70日本@名無史さん:2005/10/15(土) 13:08:13
水戸の大工町から偕楽園方向に左折した左側って紀州堀っていうんだよね。
71日本@名無史さん:2005/10/15(土) 13:11:02
正確には違います、紀州堀は元ユニーの裏です。
雷神様の斜め前は、通称金魚屋さんのお堀、正式には?です。
72日本@名無史さん:2005/10/15(土) 14:08:31
佐竹が常陸国支配したら大変な事に……
73日本@名無史さん:2005/10/15(土) 14:14:24
水戸家の初期の家老って、関東の名門の流れを汲む者を寄せ集めた感じだよね。早期に干された家老も多いようだけど。
74日本@名無史さん:2005/10/15(土) 14:59:25
↓ここは水戸藩家老白石氏のページだけど、初期の家老の表が出ているね。
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/sirai2.htm
75義宣@外様:2005/10/15(土) 17:32:48
佐竹氏、子孫は現秋田市長
76日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:21:23
本家じゃないけどね。
77日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:00:15
>>64-66
表高15万石の植えすぎや20万石の沙汰けにも負けてる
(出羽の大名、表だか少なすぎは安東秋田家いらいの伝統というか家風w)

というか植えすぎとか沙汰けだと家名を言っただけで銘菓と思われるから
高直し(実高に表高を合わせてう上方申告すること)する必要性がないんとちゃう?

他の多くの大名と違うて「徳川」だけが幕府じゃない(鎌倉・室町の両幕府にも仕えてたし)
から「徳川から貰う朱印高」の数字だけ変えても意味ないやんと思ってたのと違うか。

名家で西軍という意味では佐竹・上杉と立場が同じ
毛利は29万石→36万石に
島津も54万石→77万石に高直ししてるけどね。
78日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:13:53
>俺の地元は佐竹義久の旧領だったんだが
>光圀の代では年貢8割もとられてた

上杉家の年貢は年にたったの3万石(実高33万石としても安い!)
鷹山が過大評価だとしても上杉が領民からよくいわれるのも一理あるかも
(米沢だけでなく、上杉過去の人のはずの上越や、明治に入って統治した沖縄でも)
79日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:19:26
秋田でも佐竹候は人気あるようだね。

シェア100%近い将棋駒の功労者なのに
天童では織田家の人気さっぱりだぞ。
観光パンフに「織田家2万石の城下町・天童」などというキャッチフレーズ
見たことないぞ。
80日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:27:47
  水戸徳川家の投手は奇襲に
「日立のスケ」の称号かえせといわなかったのだろか

「尾張守」は「裏切者(松田憲秀)」「謀反人(陶隆房)」の印象あって
終わり徳川もつ買ってないが

 「上野のスケ」は人気あるなあ・・・不吉だと歴代の上野介は思わなかったのかな
本多・堀田・吉良・小栗・・・次々名乗っては不慮の最期をとげていってる
81日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:29:51
また水戸徳川家のせいで地震が起きた。

震源地は常陸じゃなく下総北部だけど。
82日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:44:23
 水戸徳川の官名なんだったっけ?
左衛門督か?やっぱ副将軍だから尾張の右兵衛督より上じゃないといかんの。
佐竹も出羽守なのってないな。右京大夫か。津軽の右京亮とどっちが上かわからん
83日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:36:34
>>82
ボケ?
バカ?
84日本@名無史さん:2005/10/16(日) 22:24:51
>>82水戸光圀の愛称は?中国風に言われてるけどわかるよね?
85日本@名無史さん:2005/10/16(日) 22:50:43
>82
最初の官の事だろうけど、左衛門督と右兵衛督で差があるとも思えないが。

 副将軍といえば、尾張義直逝去後、家光の見舞いがなかったことに絡んで、
水戸頼房自身が義直を「副将軍」と呼んだという話がありますね。
「副将軍の病状を大将軍が慰問して、なんの傷がつこうか」と老中を詰問し
たとか。
86日本@名無史さん:2005/10/17(月) 00:11:43
水戸城再建計画はないのでつか?
87日本@名無史さん:2005/10/17(月) 04:14:59
というか再建するものもあまりない…
天守閣は元々ないし、石垣もない
それに本丸、ニの丸、三の丸と全て学校なんかが立ってるから今更退かせられない
88日本@名無史さん:2005/10/17(月) 15:43:52
>>87
再建しても天然の要害とは言いながら、もともと粗末な城だものね。
定府だから歴代藩主は多くても10数回、しかも大概短期間しか水戸に入ってないし。

天守閣なんて造ったら、まさに時代考証もへったくれもなくなっちゃうし。
89日本@名無史さん:2005/10/17(月) 19:52:09
>>1
邪悪な藩政を語れよ。
違う方向にいってるぜ。
90日本@名無史さん:2005/10/18(火) 01:28:02
有名な所では生瀬事件だろうね
諸説あるが、みせしめに村一つ皆殺しにした事は確かだ
91日本@名無史さん:2005/10/18(火) 09:09:41
偕楽園〜石川後楽園にお越し下さい。
92日本@名無史さん:2005/10/18(火) 09:28:56
石川後楽園とは?
93日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:13:33
小石川後楽園のことだろ。
スレ違いだからやめろよ。
94日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:20:55
こう書けばスレ違いでない、小石川後楽園とか偕楽園とか無駄なもの造ってんじゃねえよ
領民の困窮をテメエらは知らねえのかよ
95日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:36:50
定府なのだから水戸に庭園は要らないよなあ。
しかも幕末の暗君斉昭が造園させたもので、まさに時代錯誤。
一般人に公開して梅の花を楽しませたらしいが些細なことだ。
96日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:44:21
偕楽園は造営した感じはないし、出城の意味もあるようだが、まあ無意味ではあるわな
97日本@名無史さん:2005/10/18(火) 11:28:15
今では数少ない観光地になったからよかったんじゃないか?
98日本@名無史さん:2005/10/18(火) 13:53:37
偕楽園の梅の実は食料と名産品として今でも売られてるよ。
他にも栽培する木とか草が薬になるので役立てたとも聞いてる
地元では娯楽と実用を兼ねたものとして好感を得ているよ
それと農民には視察とかを高官して、民間の意見登用にも使われたと習ったし、博物館にもあった
まあ、地元民なんで習ってることが違うと思うけど
99日本@名無史さん:2005/10/18(火) 14:01:49
慶喜を頭から否定する人は新撰組のファンですか?
それとも偏屈な物知らず?
ともかく、ここの否定派って現状証拠からの推測と思い込み大杉
もうちょい、根拠を掲示して欲しいと思うのは俺だけですか?
100日本@名無史さん:2005/10/18(火) 14:04:16
慶喜?領国経営のお話でしょ
101日本@名無史さん:2005/10/18(火) 14:05:46
>>99
古い話に対するときはちゃんと>>つけるか、遅スレとかって書こうね
102日本@名無史さん:2005/10/18(火) 14:12:29
黙ってこれでも読みましょう

http://www.katogi.com/history/senzo15.htm
103日本@名無史さん:2005/10/18(火) 14:23:54
慶篤より慶喜が当主になった方が水戸藩としてはよかったと思う
慶篤に比べりゃ圧倒的に器量はあるし一国の大名としては申し分ない
勤皇家だから上手く新政府に入り込めたかもしれん
104日本@名無史さん:2005/10/18(火) 16:41:35
幕閣らは倒幕して新政府を作る危惧を薩長より慶喜に抱いていた。
105日本@名無史さん:2005/10/18(火) 20:42:27
権中納言従三位。黄門は中納言の唐名?
106日本@名無史さん:2005/10/19(水) 01:07:59
そういや茨城じゃ水戸家は人気ないと言うか
全く興味持たれてないね
他の有名大名の地元じゃ色々宣伝したり史跡の修復や保存を積極的にやってるけど
ある意味知名度一番じゃないかと思われる水戸黄門の地元は…
やはり悪政だったから明治後語られる事もなく地元民の記憶から消えていったのだろう
107日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:02:27
宇都宮城や吉田郡山城まで復旧再現されてるのにな。
108日本@名無史さん:2005/10/19(水) 21:46:11
水戸城は粗末じゃないよ。三階櫓の規模知ってる?天守は公に江戸周辺では
認められてなかっただけで、五層三階の大型櫓と称してただけ。名古屋等に
は及びはせぬが。松山城等の正式な天守よりはるかに巨大であったのよ。
大手門は佐竹時代からの四脚門。
ちなみに、偕楽園は明治以降、東京方面からの観光収入に多大な恩恵を施し
てます。だからといって、無能な領国経営が認められるものではないが。で
もそれって水戸藩領に限りませんぜ。ま、他よりひどい気はするが。
109日本@名無史さん:2005/10/19(水) 21:53:37
>>106 斉昭公と慶喜公は人気あるよ。他は知らないけど
史跡関係とかちょこちょこ保存されてるし
後は、水戸家といっても茨城のほんの一部だし、範囲狭いからね
110日本@名無史さん:2005/10/20(木) 08:30:31
三階櫓の規模?
昭和20年8月2日未明の空襲で焼けましたが、祖父母の話ではけして立派じゃなかったそうですよ
石垣もないしね
111日本@名無史さん:2005/10/20(木) 08:50:35
>>109
観光客狙いではなくて保存されてるの?
112日本@名無史さん:2005/10/20(木) 12:09:21
水戸城は規模的にはそこそこある
20万石程度の大名には十分過ぎるけど
御三家の城としてはお粗末だと思う
国持ちクラスの親藩であんな城は他にないだろ…
でも、見栄っ張りの水戸家が築城しなかったのは奇跡的だな
領民としては助かった

確か幕府から援助を得て改修しようとしたが
水運事故で中止になりそれっきりになった
113日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:30:01
藤田東湖や武田耕雲斎など藩政に実際に携わった補佐役の記念碑や、
以外にも風車の矢七の記念碑まであったりする。
114日本@名無史さん:2005/10/20(木) 19:48:42
駅前の水戸黄門像や弥七なんかは歴史的なものじゃなくて
ドラマの記念碑みたいなものだろ…
すけさん、かくさん居るし印籠もってるし…
115日本@名無史さん:2005/10/20(木) 23:24:31
意外だが弥七は実在していた。

116日本@名無史さん:2005/10/21(金) 01:44:37
義賊ってヤツだな
だがあえて記念碑建てるほどじゃない
そのうち、うっかり八兵衛の記念碑が建つんじゃないかと…
117日本@名無史さん:2005/10/21(金) 08:35:52
水戸城奪回を企てた車さんを思い出した。
一応彼の石碑か墓かはわからないけど
あるみたいだね。
118日本@名無史さん:2005/10/22(土) 00:06:25
車丹波守の見つかってしまった場所に祠がある。台町に。咳払いで見つかって
しまったとの言い伝えから、後年、甘酒を供えると喉の病に効くといっていた
そうです。
ちなみに、水戸城三階櫓の石垣が無いが五層構造で、下は海鼠壁。規模はでか
いのよ。本当に。ちなみに平城じゃないからね、水戸城は。巨大な石垣不必要。
119日本@名無史さん:2005/10/22(土) 00:45:27
和田平助正勝はなんで切腹したのん? 光圀が嫌いだったから?
120日本@名無史さん:2005/10/22(土) 01:29:06
水戸のせいで徳川は不幸になった
121日本@名無史さん:2005/10/22(土) 01:31:09
徳川のせいで水戸は不幸になったというべきではなかろうか
122日本@名無史さん:2005/10/22(土) 01:32:11
徳川あっての水戸だと思うが
123日本@名無史さん:2005/10/22(土) 02:06:55
確かに水戸城は大規模な城ではある
那珂川に面した高台にあり、掘り深く立地条件も悪くない
でも古いタイプの城だよ
基本的に江戸氏の時代と変わってない
掘りを掘って掻き上げた土で土塁をまわして、一部切り通しにしただけの簡素なもの
御三家なんてイメージの壮麗な城ではない
まあ、関東はどこもそうだけどね
水戸は御三家であっても特別待遇ではなかったんだな
反抗的な部分があったから警戒されていたのだろうか
124日本@名無史さん:2005/10/22(土) 11:43:38
定府なんだから、さらに財政圧迫してまで壮麗な城なんか築けない
だろう。城主はいつも江戸にいる。
125日本@名無史さん:2005/10/22(土) 15:07:01
定府だから他の大名より負担少ないんだろ
江戸藩邸に金かけてるのはどこでも同じだし
参勤交代を免ぜられてその分余裕できる
しかも重税かけて藩領も常陸国という恵まれた土地であって
城もろくに造れないどころか
領内は荒廃する一方
酷い有様だ…
126日本@名無史さん:2005/10/22(土) 18:13:38
>>29
それって何か資料ありますか?
光圀の時代っていうと、儒教(朱子学)がかなり浸透してる頃ですよね。
にもかかわらず武士が商人のように、安く買って高く売る、というような事は
しないんじゃないかと思うのですが・・・
127日本@名無史さん:2005/10/22(土) 19:33:14
>>125
消費都市江戸は物価が高い。
大名同士のお付き合いも多く御三家の体面を保つにはカネがかかる。
隔年で国許に帰る場合は道中のカネはかかるが、それでも安上がり。
128日本@名無史さん:2005/10/22(土) 19:35:27
常盤神社で七面製陶所跡が発見〜
129日本@名無史さん:2005/10/23(日) 01:07:15
>>172
何で参勤交代が行われるようになったか
何で水戸家が参勤交代免ぜられてたか
知らないのか?
130日本@名無史さん:2005/10/23(日) 09:11:43
綱條から斉修までの事績はスルーですか、そうですか。
131日本@名無史さん:2005/10/23(日) 09:45:38
水戸家では佐竹旧臣にかなり気をつかっていたよ
佐竹転封後20年間は無税だったし(士分に限る
佐竹旧臣の水戸家出仕も促していた
ほとんどが帰農する事を選んだが
彼等を郷士にして士分扱いにした

もっとも20年ほど経って体制が固まってから
圧政が始まったわけだが…
132日本@名無史さん:2005/10/23(日) 16:50:08
>左衛門督か?やっぱ副将軍だから

水戸徳川・・・左衛門督
官位は少将から極官が従三位中納言

紀伊徳川も常陸介を独占(前田が筑前守を黒田より優先のように)
だが尾張徳川は必ずしも左兵衛督・右兵衛督の独占ではないし、
他の官名を名乗った当主もいる。
133日本@名無史さん:2005/10/23(日) 16:59:32
水戸では佐竹高校や佐竹道場は馬鹿にされてっぺよ。
アギダのでれすけやろは国さけえれ
134日本@名無史さん:2005/10/23(日) 17:20:51
>132
 養子以外は、大体「右兵衛督」を名乗っているような気がしましたが…。
135日本@名無史さん:2005/10/23(日) 17:38:57
喜連川が「右兵衛督」、吉良が「左兵衛督」使ってるので
尾張家の独占とは言えないのでは?
高家だから大名への遠慮いらないのでしょうか・・・
物知りの諸姉兄の指導乞う
136日本@名無史さん:2005/10/23(日) 17:44:38
 水戸家も「常陸介」紀伊に取られたのなら
親王から「常陸守」下賜もらって名乗れば
水戸徳川家も副将軍以上に尊敬されたのに!

(信長も臣下の身でありながら一時「上総守」受かった前例あるから
織田と兄弟分の徳川にできないはずがない。水戸は勤皇の代表だし)
137日本@名無史さん:2005/10/23(日) 17:48:25
>>129
参勤交代を免ぜられてた理由を教えて!
井沢センセの本を立ち読みしたけど無理がありすぎ。
138日本@名無史さん:2005/10/23(日) 17:49:05
>>135
吉良って何気に武家屈指の名門だよな
139日本@名無史さん:2005/10/23(日) 17:56:35
 吉良は上杉と親戚で徳川ともつながっていた(吉良義周は将軍の甥)
から特別だった 
  喜連川は足利で三河も領してたので徳川(松平)の巣筋だったから別格だった

水戸の「定府」の特別あつかいの件は自分も無知でワカラン
140日本@名無史さん:2005/10/23(日) 21:38:09
>>136
信長の上総介、上総守は自称じゃなかったか?
正式な官位ではないだろう。
141日本@名無史さん:2005/10/23(日) 21:51:16
先に上総守を名乗って後で気付いて上総介を名乗ったはず
142プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/23(日) 22:24:53
>>139
頼房は、剛毅な性格の為
家康に内心警戒されていた。
それ故に幕府から大領を与えられなかった
しかし、側に置き懐刀として使うのには最適な人材、定府で常時側に置いとけば警戒と懐刀の一石二鳥となる
143日本@名無史さん:2005/10/24(月) 08:47:47
>>142
そんなの初代だけの話じゃないか。
家康が死んだとき頼房は13才。そんな若年時の性格で全てを判断
するわけがないし、もし13才で判断するなら無頼者の光圀なんか
改易されてもおかしくない。
144南龍公の亡霊:2005/10/24(月) 15:08:11
頼房よりわしのほうが怖いって。。

水戸が江戸とあまりにも近いことも関係してるのでは。
145プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/24(月) 17:22:58
これはあくまで私の想像ですが
水戸は江戸から見れば北東(鬼門)の位置
どうしても 身内を以って北の守りに必要だった。
しかしその身内、末子とはいえ家康の子供
その気になれば鬼と化し
将軍候補にもなり得る存在、鬼に化けない為
その領地だけ存在させ 鬼の元はお膝元に置いた
146日本@名無史さん:2005/10/29(土) 01:35:10
>>145
鬼門の守りは上野寛永寺として、水戸は岩城平の譜代とともに伊達からの浜
街道の守りだったのでは。
147日本@名無史さん:2005/10/29(土) 23:25:07
幕末に何で水戸藩は軍備近代化をろくにしなかったん?

保守なのに紀州藩は軍備・軍制の近代化が凄かったよ。

さらに明治元年には諸藩に先駆けて徴兵制にしたし。
148日本@名無史さん:2005/10/29(土) 23:26:50
水戸・常陸太田に佐竹を残した方が良かったんだよ>家康
149日本@名無史さん:2005/10/30(日) 02:07:45
下総佐倉から下総古河には徳川頼房を配置し、常陸水戸には榊原式部大輔を置くべきであった
150:2005/10/30(日) 07:57:10
151日本@名無史さん:2005/10/30(日) 08:47:29
>>147
斉昭公が生身の牛を動力とする戦車を開発した。
牛は敵の弾丸が当たっても大丈夫らしい。  アホか。
152日本@名無史さん:2005/10/30(日) 08:50:52
>>149
榊原康政は水戸を任せる旨家康に打診されたが、水戸は江戸から遠いので
いざというときに役に立てないと主張し、多少近い上州館林に封じられた。
153日本@名無史さん:2005/10/30(日) 09:28:39
水戸は全国に先駆けて近代化を進めていただろ
ただ、かなりチグハグだけどね
水戸砲は日露戦争の頃まで結構活躍した
154日本@名無史さん:2005/10/30(日) 09:45:54
>>137
ずっと江戸にいなきゃならないのを、参勤交代が免ぜられたと言えるのか?
155日本@名無史さん:2005/10/31(月) 12:14:33
言えるだろ
参勤を交代してないんだからw
156日本@名無史さん:2005/11/02(水) 00:04:10
参勤交代で困るのは、交通費。
これを使わせるのが目的の大きな一因。だから、ずっと居るだけでも出費が抑えられるから
相当な厚遇条件になってる
157日本@名無史さん:2005/11/02(水) 00:05:50
参勤交代でこまるのは江戸での生活費だよ。
だから幕末になって参勤交代が緩和されると江戸に行く大名はぱったりいなくなった。
158日本@名無史さん:2005/11/02(水) 00:07:29
>>157の訂正
生活費→交通費 上のじゃ意味わかんないよね。ごめんなさいw
159日本@名無史さん:2005/11/02(水) 00:12:25
参勤交代でいちばんこまるのは江戸での生活費です。
水戸藩の財政を圧迫したのも江戸での生活費です。
160日本@名無史さん:2005/11/02(水) 06:08:18
家格とやらに見合った体面維持のための交際費が多いんじゃない
幕閣や大名仲間への季節の贈答品とか
それから幕府に命じられる寺社修復などの手伝い普請(これは外様のみかな)
161日本@名無史さん:2005/11/02(水) 14:13:07
それは水戸に限らず全ての大名家がやっている事
大名が江戸藩邸にいなくても留守居役や嫡男、奥方、一門などが残っているから
当然交際費や生活費はかなりかかる
更に参勤交代の度にかかる路銀が半端ではない
まあ、大名家の財力を圧迫して弱らせる為の制度だから当然だが
162日本@名無史さん:2005/11/02(水) 14:33:02
前提として、実高が表高に大幅に満たない事が影響しているのでは。
格式ばかり気にして、実入りが少ない、江戸に多くの藩士がいたし。
大日本史編纂で更に・・・な訳だけど、端から破綻しているようなもの。
163日本@名無史さん:2005/11/02(水) 17:59:49
>>161
水戸なんか2泊3日の旅程なんだから路銀なんて大した出費じゃない。
江戸と水戸の二元政治の方が出費は大きい。
164日本@名無史さん:2005/11/02(水) 22:22:48
もはや支離滅裂だ('A`)
俺に言わないで自分で調べてみてくださいm(._.)m
165日本@名無史さん:2005/11/04(金) 09:48:16
他のスレに書いたけど、ここは水戸家と佐竹家の話が出ているので・・・

佐竹はハタハタの話、秋田美人の話、金山の話に象徴されるように、国替を惜しまれ、
光圀も常陸太田に瑞竜山の墓所、久昌寺を造り、自ら西山荘に隠居したほど、
旧佐竹領民には気をつかった訳ですが、

「南朝正統論」も北朝方で活躍した、佐竹を意識して出来たとする話があるようです。
ありそうな話ですね。
166日本@名無史さん:2005/11/04(金) 20:54:11
あの辺は南朝方で戦った豪族も多数いた。芹沢鴨の先祖も南朝方だった。
天狗党の首領の田丸稲右衛門も先祖は北畠の出だったりする。
秋田に飛ばされた佐竹も国学を推進し南朝正統論の一翼を担ったりしている。
167日本@名無史さん:2005/11/04(金) 21:21:11
徳川は新田の子孫を名乗ってるから南朝支持なんだろ。それ以外の理由は全部後付けだ
168日本@名無史さん:2005/11/05(土) 08:56:34
佐竹は北朝方だったね。
169日本@名無史さん:2005/11/05(土) 09:03:36
内からだと江戸(千代田)まで徒歩2時間弱
170日本@名無史さん:2005/11/05(土) 09:15:16
芹沢家は佐竹家に迫害されて一時 奥羽に逃れていた。
171日本@名無史さん:2005/11/05(土) 16:45:43
スレタイも>>1も読めないヤツのなんと多いことか。
172日本@名無史さん:2005/11/08(火) 14:13:08
>>171
ならおまいが語れよ、相槌ぐらい打ってやるから
173日本@名無史さん:2005/11/09(水) 13:10:01
語るべきは>>1だろう。スレ立て責任。
スレタイに沿ったネタが無いならスレを立てるな
174日本@名無史さん:2005/11/09(水) 13:21:55
水戸や喜連川は弾左衛門支配から外れていたよね。
むしろ支配から逃れたというべき?
175日本@名無史さん:2005/12/09(金) 01:10:04
松平あげ
1761:2005/12/10(土) 19:18:55
水戸藩による佐竹旧臣や領民への過酷な仕打ちを知りたい人は加藤木でググれ。
177日本@名無史さん:2005/12/16(金) 17:21:47
よく時代劇を見てるとミツクニは物凄く世の為人の為って感じで いい人!って描かれる事が多いけど 実は違うの??
水戸黄門みたいに旅はしてないの分かるけど…いい人じゃなかったなんて知ったら 何かショック…
178日本@名無史さん:2005/12/16(金) 18:09:41
「水戸黄門は悪人だった」でぐぐれ
179日本@名無史さん:2005/12/17(土) 02:41:49
ドラマと正反対なのは笑える
悪代官そのものw
実際領内は10回ぐらい歩いている
特に佐竹の本拠地であった水戸藩北部を重点的に
この地域は7割〜8割以上にも及ぶ過酷な年貢に苦しんでいた
そこを巡回してまわったわけだが
地元の豪農や有力郷士、寺を宿所にして日をかけて歩いた
連日、連歌会や酒席
名所や産物を堪能しながら歩いた事が記されている
さらに有力者達は金銭の献上もしている
そこで光國に気に入られ藩士に取り立てられた者も何人かいる
180日本@名無史さん:2005/12/17(土) 08:34:31
静まれ鎮まれ…この紋所が…
181日本@名無史さん:2005/12/18(日) 05:57:52
第三書館必死だなw
182日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:55:06
age
183日本@名無史さん:2006/01/03(火) 01:15:28
水戸光圀は獅子身中の虫だったね
184日本@名無史さん:2006/01/03(火) 10:55:53
いまどきの教師って時代劇の中の話と事実は違うって教えないのかね?
185日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:24:12
水戸徳川家最強
文句ある?
186日本@名無史さん:2006/01/03(火) 12:25:18
>>185
興味わかんし 
187日本@名無史さん:2006/01/12(木) 10:23:23
>>161
参勤交代の費用については山本博文の「参勤交代」で考察されてて、
松江藩の場合、全出費のうち、参勤交代の路銀が3%に対して江戸屋敷での出費が30%にのぼる。
残りは家臣の奉録45%と国元経費20%くらい。
江戸屋敷での出費は主に贈答品や人件費、衣装代、交際費などで、
格式を保つことが大事な江戸時代ではこの部分はなかなか削れなかったみたい。

だから水戸藩の定府は大して経済的に有利なものでもなかった。
188日本@名無史さん:2006/01/12(木) 14:38:11
水戸光圀は江戸時代屈指の悪大名である。
189日本@名無史さん:2006/01/12(木) 16:22:46
江戸時代に幕府に対する危険思想を
醸成しつづけてたのがすごいというか、
自分の生活がどのような基盤によっているかを
考えずにエンタメ(半幕水戸学)にはしれるところが
いかにも貴族って感じがする
190日本@名無史さん:2006/01/12(木) 16:27:54
×半幕水戸学
○反幕水戸学
191日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:00:41
幕府批判は結構だけど
他人の批判できる立場じゃ…
192日本@名無史さん:2006/02/02(木) 23:01:10
>>189
帝政ロシア貴族がサロンで共産主義の議論していたようなものですね。
193日本@名無史さん:2006/02/02(木) 23:08:32
危険思想に違いは無いが、反幕水戸学ってないでしょ?日本の国家意
識が未だ体系化されていなかったところで、天皇を中心とした国体を
顕かにしたもの。天皇中心っていうと、いかにも右翼って感じかもし
れないけど、国体意識が未成熟な時代に日本という国を体系化して捉
えるには、連綿と続いている天皇家に拠るのがやはり自然であったん
でしょう。
194日本@名無史さん:2006/02/03(金) 17:57:52
佐竹家旧臣は西軍についた主家を恨むがよい!
195日本@名無史さん:2006/02/03(金) 18:03:20
光圀叩きは、単なる『水戸黄門』の反動。
一種の有名税で、叩ける史料が多いだけ。
悪大名はいくらでもいる。
196佐竹旧臣且つ水戸尊攘鎮派末裔:2006/02/03(金) 23:10:51
西軍についてないよ。
197日本@名無史さん:2006/02/04(土) 00:04:55
秀忠軍にわずかな兵を遣ったのは事実。
しかし、上杉景勝と密約をかわしていたのも事実。
「西軍についた」という表現は正確ではないが、
減封のうえ転封した幕府の処断が、
真実どっちについたかを裏づけている。
198日本@名無史さん:2006/02/04(土) 00:08:29
徳川光圀はカルト宗教にはまった狂気の独裁者
199日本@名無史さん:2006/02/04(土) 00:14:58
主君に従って久保田に移った佐竹家臣の徳川氏は
どうなったのでしょう?
200日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:39:50
200
201705:2006/02/04(土) 19:38:13
久保田藩の徳川家は、幕府から改姓を求められることもなく、
(だって源流をたとれば、こっちの方が新田氏末裔)
幕末まで続いたらしいよ。
202日本@名無史さん:2006/02/05(日) 14:39:29
佐竹家臣の徳川を否定したら自分も否定する事になっちゃうもんねw
203日本@名無史さん:2006/02/05(日) 22:22:57
水戸黄門で旅立つキッカケは重要な使命を帯びていることが多いけど、
助さんが夫婦ケンカをして離婚するしないと揉めた時、
「しばらく頭を冷やすための冷却期間を置きましょう」と旅に出た。
204日本@名無史さん:2006/02/05(日) 23:18:52
>147紀州は先鋒(井伊・藤堂)の監視役だし前線に近いからね。
水戸も反射炉を造ったり、洋艦を買ったり、全く何もしてないわけでは…
205日本@名無史さん:2006/02/05(日) 23:26:47
>1家臣でもない大掾一族を謀略で皆殺しにして、常陸南部を手に入れた佐竹が何を言うか!!!
206日本@名無史さん:2006/02/05(日) 23:56:30
上のもんが大掾様だろうと佐竹様だろうとオラたち百姓には関係ねえっぺ。
だけんど徳川様みてえに何もかも持ってったらオラたちはナニさ食えばいいっぺか。
207日本@名無史さん:2006/02/06(月) 03:53:48
何弁だそれ…

ていうか水戸藩は本当に代々領国経営が下手だよな
御三家じゃなかったら即改易だよ
水戸藩に名君無しだ
208日本@名無史さん:2006/02/06(月) 13:50:25
戦国時代の国盗りと領国経営の苛政とをゴッチャにしちゃあイケナイなw
209日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:07:59
松波の藩政改革失敗の時も
江戸に数千の領民が押し寄せて訴え出たから大騒ぎになったが
普通の藩ならあれで取り潰しだな…
しかも卑怯にも「松波が一人でやった事だから知らない」と全ての罪を着せて
一家を牢に入れて殺してしまった
210日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:15:37
松波の藩政改革って、いつの頃の話ですか?
211日本@名無史さん:2006/02/07(火) 02:49:27
江戸時代
大納言:尾張、紀伊>中納言:水戸

昭和初期
公爵:水戸>侯爵:尾張、紀伊
212日本@名無史さん:2006/02/07(火) 03:11:49
>>210
江戸中期ごろだった気がする
検索すれば少しは引っ掛かると思う
松波って他藩でも藩政改革失敗してるんだよな
前科があるヤツ連れて来て改革やらせるなんてアホすぎる…
213日本@名無史さん:2006/02/07(火) 10:41:54
朱子学信者の大名ってホント迷惑な存在だな。俺の実家がある岡山には、
池田光政って殿様がいる。過酷な年貢はもちろんだが更に飲酒、歌舞音曲は
御法度。岡山市、倉敷市は天領以外は伝統芸能は消滅。
水戸は、ましでしょ。
214日本@名無史さん:2006/02/07(火) 11:40:59
熊沢蕃山か・・・
215日本@名無史さん:2006/02/07(火) 12:51:30
江戸の三大名君
池田光政、保科正之、徳川光圀
216日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:25:49
大日本史編纂でも遊興でも領民が苦しいのには変わりない
どこの藩も実高は増えていったけど
減り続けた水戸藩は珍しいと思う
年貢が高いと言っても八公二民は酷すぎる(光國時代
217日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:32:47
天保期の飢饉では水戸藩は餓死者を出さず他藩から流れてきた飢民に救い小屋まで建てる余裕まで見せたが。
218日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:52:45
享保や天明で領民は死に絶え四散して
人口や石高が三分の二にまで落ち込んだからね
さすがに水戸藩でも焦って
江戸中期から後期にかけては年貢率も減らして緩やかに回復して行っている
光國などの江戸前期の藩主がアホばかり
評判はいまいちだが斉昭の方が光國なんかより
統治能力は遥かに優れている
219日本@名無史さん:2006/02/08(水) 08:03:28
「民を尊しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」
孟子は尊重されていなかったのかなあ
220日本@名無史さん:2006/02/08(水) 10:32:19
佐竹旧臣でも、重用された家はあるぜい。
221日本@名無史さん:2006/02/08(水) 10:49:19
そりゃそうだ。そういう家を作っておかないと、揉め事が起こった時に
間に立つ人間がいなくて収拾がつかなくなる。
222佐竹旧臣且つ水戸尊攘鎮派末裔:2006/02/08(水) 20:45:36
ただ、重臣にはいないでしょ。うちも代々の庄屋だが佐竹家臣だった(○○和泉守)
先祖の子は一人が常陸でうち、一人は山形で鳥居に仕官し、その後会津藩要職の家、
もうひとりは上野で酒井雅楽頭に仕官して重臣になってる。嫡はつらいのー。
223日本@名無史さん:2006/02/08(水) 22:04:11
藩政初期の頃の、ある村の皆殺し事件のせいでダーティな印象が強い
水戸藩。だが、佐竹にしても善政という印象は薄いな。常陸国内でも
中小領主を謀殺したりしてるし。戦国期にはよくある事と言えばそれ迄
なんだけど。
水戸藩の圧政のせいかどうかは不明だが、近世の常陸国の北部って
どうも疲弊してる印象が強い。江戸に近い南部とは文化や雰囲気がだいぶ
違う気がする。
224日本@名無史さん:2006/02/09(木) 20:44:56
本圀寺指揮役だった住谷寅之助が佐竹旧臣の家系だったような。
当時の政情からすれば在京水戸藩の責任者という極めて重要な職務に就いていた。


225日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:04:37
水戸はとりあえず関東・奥羽の旧族大名の一族(宇都宮、最上、白石、白川結城など)を
とりあえず取り立てているな。

しかし、水戸光圀は単なるアホ。石高詐称、若い時は遊びほうけ、犬の毛皮を送りつけ、藤井紋太夫
殺害と、アホな逸話をあげればキリがない
226日本@名無史さん:2006/02/10(金) 17:35:57
>>225
続きを書いてくれ。
もっと知りたい。
227日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:17:32
>225茨城発祥の日立製作所ではなく、松下のお蔭で更に有名になったんですねw
コーモン様
228日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:37:39
茨城の人間は水戸家が大嫌い。
229日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:44:34
黄門様は年貢8割前後もとっていた水戸藩北部を10回以上まわって遊興している
よく殺されなかったなと思うw
230日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:48:21
財政が破綻して重税になるのは光圀死後で、光圀在世中は重税ではあったもののまだ荒廃はしていなかった。
231日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:24:38
財政が破綻したから隠居に追い込まれたんだろ
232日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:36:20
貧窮した領民が大挙江戸まで直訴に至って水戸藩主が大恥かかされるほどになるのは光圀の死後。
光圀の時代はそこまでボロは出なかった。後の世代に負債を残すような形とも言えるが。
233佐竹旧臣且つ水戸尊攘鎮派末裔:2006/02/11(土) 21:08:16
ま、無能に違いはないわな。
234日本@名無史さん:2006/02/11(土) 21:18:04
綱條が松浪を起用して改革に失敗したからな
235日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:00:48
綱條が松浪を殺したやり口は実に汚い
236日本@名無史さん:2006/02/12(日) 02:11:41
獄死と言うのがやらしいよな
死人に口無しってヤツだ
幕府の耳に余計な事入る前に殺したわけだが
だいたい藩政改革失敗したから獄に繋ぐっておかしいしw
独断であれほど大規模な工事できるわけない
費用着服してたとかなら罪だが別にそう言うわけじゃないし
237日本@名無史さん:2006/02/18(土) 03:45:05
一応着服の罪で投獄されたんだけどね
まあ、濡れ衣だけど
238日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:56:39
太田の西山荘に袖の下まんじゅうというお土産が…
239日本@名無史さん:2006/03/01(水) 21:12:31
水戸綱条はとうがたっていたことと、全藩を巻き込む宝永一揆を起こしたせいで、早くから候補から脱落
尾張継友は全く主体性がなく、成瀬、竹腰らがへぼいから補佐できませんでした
越智清武は将軍の叔父でありながら高齢過ぎのうえ小禄でダメでした
240日本@名無史さん:2006/03/02(木) 02:33:15
>>239
越智清武は家来の家にやられてた期間が長すぎたんじゃないか?
241日本@名無史さん:2006/03/12(日) 12:12:14
水戸は維新後も悪政が続いた
徳川は関係ないけど
242日本@名無史さん:2006/03/27(月) 12:41:11
恨み
243日本@名無史さん:2006/04/07(金) 18:52:23
ドラマ水戸黄門みたいに、違う領地で悪代官がいたら懲らしめる事なんてできたのかな?
244日本@名無史さん:2006/04/07(金) 19:11:21
>紀伊が常陸介を独占
遅レスですがこういうこととは違うでしょうか。
水戸頼房が水戸を与えられる前、兄貴で紀伊藩祖の頼宣が
水戸をあたえられてたのはご存知でしょうな?
まぁそのころは4歳くらいのガキだけどそんなことで常陸介になり、
水戸から駿府、駿府から紀伊にいってもそのままもっていきやがったから
紀伊が常陸介をうけついでるんでないの?w
245日本@名無史さん:2006/04/08(土) 17:15:20
>>243
大名と幕府代官が喧嘩したらそれだけで公儀への謀反だよ!
246日本@名無史さん:2006/04/08(土) 17:27:42
藩政に幕府が口だしする権利はないよ
ただ、あまり騒ぎ起こすと統治能力がないと言う事で改易になるけど
247日本@名無史さん:2006/04/08(土) 18:23:36
佐竹は大掾氏に本当にひどいことをしたよね(´・ω・`)
248日本@名無史さん:2006/04/08(土) 18:27:02
車丹波 徳川のクソ馬鹿野郎
249日本@名無史さん:2006/04/08(土) 19:56:03
はじめてきました。はじめまして
250日本@名無史さん:2006/04/09(日) 09:13:07
光圀氏ね
251日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:43:04
>>241
悪政ってどんな所を言ってんの?
粛清は政治じゃないよね
初代知事の施政?
252日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:47:47
そういえば、水戸家の定府についてどこかのスレで
書き込みあったな。定府は「参勤交代が免除されている」
のではなく、「常に江戸に詰めていなければならない」
義務を負っているから、水戸家の家格の低さを
意味しているという主張だった。たしかに、定府の譜代
大名は、参勤交代する譜代大名に比べて、家格が低い。
また、参勤交代する旗本(交代寄合)は、通常の旗本
(定府)に比べて家格が低い。
253日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:22:27
山入(本物の佐竹)党や大掾一族を殲滅した戦国大名佐竹(血統は偽者)に、水戸徳川家を糾弾する資格があるのか?
254日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:19:55
>佐竹(血統は偽者)

????
255日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:30:09
佐竹は養子に継がせるたんびに問題が起こるって
誰かが言っていたなァ〜。
256日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:44:49
佐竹(血統は偽者)ってどーゆーこと?
257日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:19:35
本当は高松家の傍系なのに、水戸家四代を継げたのは吉宗並みに幸運。
258日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:11:12
大子村で起きた生瀬一揆を農民皆殺しで解決

佐竹以前から由緒ある寺社の御神体を鍋屋に売った光圀さん

水戸はスケールが違うんですよ
259日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:11:18
光圀はごじゃっぺばっかやってたでれすけだ
260日本@名無史さん:2006/04/15(土) 04:45:51
>254,>256佐竹は源新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の嫡流だが、戦国期に上杉氏から養子に入った本家が、庶流(清和源氏)を皆殺し。
261日本@名無史さん:2006/04/15(土) 08:11:41
山方でも役人2人殺されたのが理由に
虐殺があって
他の藩に逃げ切ったのは2人のみだったって
262日本@名無史さん:2006/04/15(土) 12:38:37
後から旧主を頼って秋田藩に逃亡する人間は居たのだろうか?
263日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:40:20
秋田美人は、茨城美人。
264日本@名無史さん:2006/04/15(土) 16:00:48
幻想でしかない血統主義を捨てることができなければ、
日本はいつまでたっても二流国のまま
洗練されることなく腐っていくだけ
265日本@名無史さん:2006/04/15(土) 21:20:00
>>261

役人殺しは藩の殺し屋にやらせて
それを山方に居座った旧佐竹民に
濡れ衣を着せた。

よくある話だ
266日本@名無史さん:2006/04/15(土) 23:39:12
日本は血より家だからあんま気にしなくていいのです。
そういえば高貴な血に他の血が混ざる事を嫌がって親相姦しまくった国がありましたな。
267日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:13:31
連休に西山壮見学します
他に何かありますか?
268日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:38:41
>>267
常陸太田市限定ですか?
269日本@名無史さん:2006/04/22(土) 21:24:58
>>267
インチキ復元なのでそのつもりで。
270日本@名無史さん:2006/04/22(土) 21:55:45
267
行くきがないとみた
271日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:32:12
常陸国風土記
272在佐々:2006/04/23(日) 08:03:29
水戸に行ったとき駅弁で「よしのぶ弁当」があるときき
「義宣弁当」か!と思って感動したら「慶喜弁当」だった。
大河の時だから当然だったけどさ。
273日本@名無史さん:2006/04/23(日) 08:27:53
>>268
茨城限定で佐竹の史跡も巡りたいですね。
車で行くので場所が広範囲でもいいです。
274日本@名無史さん:2006/04/23(日) 08:30:17
【人生の】徳川家康が嫌いな人【負け組】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1088499646/
275三光作戦:2006/04/23(日) 08:42:44

日中戦争時、抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、強圧的に拡大して
満州と中国との国境とした万里の長城線一帯を無人化する作戦を実施した。
指定地域内の住人を総て強制収容所に移住させ、ゲリラと住人との接触を断ち
ゲリラ出没地域での耕作を一切禁止するというものである。
その過程において、首を切り落とすなどして殺害した農民は8万1千人、
拷問のため施設送りの後処刑した者4万6千人。合計127000人を殺害した。
集落によっては村民が殆ど皆殺しになった所もある。
人囲いと言われる強制収容所は粗末なもので、宿舎は無く、移住させられた住民は露地に藁を敷き、露天で寝るしかなかった。
宿舎としてのバラックや要壁などは住民の手で作らされた。
農期には収容所近くの耕地で農作業を強制された。
収容所の環境は劣悪で、満足な食料、薬もなく、病気や飢えで何万もの人が命を落とした。

表題の三光とは、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすと言う意味である。

幾つか例を挙げると

豊潤県潘家峪では一度に1230人が虐殺された。
密雲西白連峪では、全村落を破壊し、最後に破壊から偶然逃れていた一軒を発見し、そこに居た70歳重体老人を家ごと焼殺、幼児2名を銃殺。
王廠溝、南大門一帯では、580人を逮捕し、380人を虐殺し、残り200人を強制労働の為、東北へ送り、内80%が死亡。
石柱子村では、村民700人中300人を虐殺。
興隆県秋木林、大莫峪では、全130戸から180人の青年壮年男を逮捕し、虐殺。寡婦の村とする。
興隆県ではその一帯に多数の寡婦の村が出来た。
更に寡婦の村を襲撃し、逮捕した者で使えそうな者を日本兵の慰め者にし、残りは処刑した。
興隆県では、人口16万人が戦後、10万人に減少していた。
大帽峪の村人など120人を後手に縛り、虐殺。
引っ立てて来た魯家峪住人を一人ずつ目隠しをして井戸の前に座らせ、
日本刀で首を跳ね飛ばしては井戸の中に放り込んだ。
276日本@名無史さん:2006/04/23(日) 12:11:15
この間水戸に行ったがやはり水戸黄門関係が多かった。
唯一水戸城の城門(佐竹時代)があったが、高校の中に
入っていた。(問題なく入れます)堀はあったので
攻めるのには少し困難っぽい高校でした。
277日本@名無史さん:2006/04/23(日) 16:22:21
俺は騙された。「水戸黄門漫遊記」と、偕楽園の「皆共に楽しむ」と言う
キヤッチフレーズで、水戸藩の歴代の藩主があたかも民主的な気質を持って
いるかの如く錯覚を・・。
278日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:31:52
大挙江戸に赴き詰め腹機って強訴して主張を通すのが水戸士民の十八番で、
幕府に直訴し水戸藩主に恥をかかすこともあれば(綱篠)
幕府の裁断に抗議して水戸藩主を庇う(斉昭)もあった。
279日本@名無史さん:2006/04/25(火) 00:50:54
うちの田舎は秋田で佐竹性なんだが関係あるのかなぁ
280日本@名無史さん:2006/04/26(水) 07:46:09
あるだろうね。お寺で調べることだな。
281日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:16:32
>>279
佐藤竹蔵の子孫だ
282日本@名無史さん:2006/04/29(土) 07:40:28
久保田城にいってきます

あと台東区の佐竹屋敷跡にも行ってきます
283日本@名無史さん:2006/05/09(火) 16:20:28
>>278

水戸ホーリーホックのサポと変わらんな、ノリが
284日本@名無史さん:2006/05/20(土) 22:29:08
光圀の母・久子は頼房の側室になれなかったんでしょ?
お手つきだけで5人も生んだってすごい
285日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:49:32

側室じゃなくて奥女中だったんだっけ?
第一子の頼重も危うく堕ろされかけたんだよね。
そのあと4人も孕ませられてる。(男・女・光圀・頼利)
頼房ももうほっといてやればよかったのにw そんなにいい女だったのか?
きっと妊娠しやすい体質だったことには間違いないね。
286日本@名無史さん:2006/05/23(火) 16:03:33
光圀は水戸で生まれたの?
287日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:36:39
>>285
頼房の次男・亀丸は腹違いだったと思うけど?
288日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:17:58
以前、歴史サーチの住人だったけど、廃止になって路頭に迷っています。
だれか、似たような住居知りませんか?
2ちゃんは良いんだけど、歴史比較が出来ないので飢えて寒空に立っています。
289日本@名無史さん:2006/05/24(水) 14:00:32
>>288
ここで話せば
290日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:46:13
アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ / \/ \ / \/
291日本@名無史さん:2006/06/01(木) 13:14:15
慶喜が水戸を継いでいれば春嶽みたいに新政府に入れたかな?
山県みたいな奴に独裁なんてさせなかったのに。
292日本@名無史さん:2006/06/02(金) 06:03:32
春嶽って新政府に入ったんだっけ?
293日本@名無史さん:2006/06/04(日) 20:09:27
水戸徳川最強
294日本@名無史さん:2006/06/04(日) 22:36:53
慶喜はどちらかと言うと長州寄りだった。会津や桑名の強硬論を抑え説諭論の立場をとった。
295日本@名無史さん:2006/06/05(月) 06:19:09
説諭論って何ですか
296日本@名無史さん:2006/06/05(月) 11:34:43
「徳川光圀」「水戸天狗党」どっちを大河で演ってほしい?
297日本@名無史さん:2006/06/05(月) 11:53:42
断然、 天狗党。

この間、保和苑に行ったが墓列回廊とでもいうべき景には打ちのめされたなぁ

お茶の間に全編欝な幕末水戸藩史を流してみたい
298日本@名無史さん:2006/06/05(月) 12:06:02
佐竹家があれほどの超名門なのに、なんかパっとしないのは、
頼朝とモメちゃったからなのかな。
299日本@名無史さん:2006/06/06(火) 09:16:09
大河は徳川光圀だね

ちんけな「利家とまつ」や「山之内一豊」なんか
企画して脚本に大苦労するより、
なんぼかマシだわ

>>297
幕列回廊って何んすか
お宅のお住まいは?
300日本@名無史さん:2006/06/06(火) 09:22:43
>>299
いや、イメージでなんか造語りました。
全く同じ規格の墓が等間隔に何百と並んでいる光景が異様な歴史を感じさせたということで。

住まいは茨城ですよ
301日本@名無史さん:2006/06/06(火) 10:33:21
光圀のまいた種が実って天狗党という果実が生まれたともいえる。
302日本@名無史さん:2006/06/06(火) 23:39:07
>>296
佐々宗淳、安積澹泊をはじめ
歴代彰考館の学者の列伝をやる

大日本史完成は明治だから
大日本史編纂の過程は歴史の大河じゃないか
303日本@名無史さん:2006/06/07(水) 01:45:07
絶対に水戸光圀でやって欲しい。>大河
出生の秘密も大奥さながらの濃い話なんだから。
子役時代だけで5・6話ええのが作れそうだよ。
304日本@名無史さん:2006/06/07(水) 07:06:17
>>300
回廊というと世界遺産の
カンボジアのアンコールワットや
ラオスのワットプー遺跡を連想しますね。
305日本@名無史さん:2006/06/07(水) 09:37:43
さぁて、天王町の風呂屋におばちゃんハメにいってみっか
306日本@名無史さん:2006/06/07(水) 21:15:35
佐々宗淳って
先祖たどると佐々成政につながる?
307日本@名無史さん:2006/06/09(金) 07:11:44
>>305
アホゥ
308日本@名無史さん:2006/06/10(土) 09:31:16
どアホゥ
309日本@名無史さん:2006/06/12(月) 06:00:19
さっさ
310日本@名無史さん:2006/06/12(月) 12:55:46
水戸角海老は安くていいよね
311日本@名無史さん:2006/06/12(月) 21:19:34
>>310
安けりゃいいていうあなたの神経に共感できません
312日本@名無史さん:2006/06/14(水) 06:00:39
>>310
水戸角海老?
313日本@名無史さん:2006/06/14(水) 06:59:33
角海老って悪所でしょ。
314日本@名無史さん:2006/06/15(木) 06:09:14
悪所って?
315日本@名無史さん:2006/06/15(木) 06:09:45
エビジョンイル
316日本@名無史さん:2006/06/15(木) 17:06:56
レッツエンジョイプレイ
317日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:12:15
角海老ってどう読むの
歴史関係ないけど
318日本@名無史さん:2006/06/17(土) 06:30:29
●●●● 日本3-2クロアチア ●●●●
●●●● 日本3-2クロアチア ●●●●
●●●● 日本3-2クロアチア ●●●●
●●●● 日本3-2クロアチア ●●●●
●●●● 日本3-2クロアチア ●●●●
●●●● 日本3-2クロアチア ●●●●
319日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:16:27
>>318

ばがやろコピペ張ってんじゃねえばがやろ
張った基地外は二度と見ないだろうが一応
320日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:23:01
キチ外って昔は使っていたが、
いつの間にか禁止用語になっていた。
「気違い」が禁止用語の現在は
平和で秩序と倫理に包まれた理想郷の日本になった。
バ万歳!!
321日本@名無史さん:2006/06/23(金) 05:49:17
常陸太田近隣のきれいな娘を片っ端からレイプした
322日本@名無史さん:2006/06/28(水) 14:40:16
慶喜の側近平岡円四郎を殺したのは水戸の連中だろ?
平岡が死んだせいで慶喜は目耳を失って情勢に少し疎くなった、
その後原田も死んで慶喜は手足を失った。
朝廷の勢力を失って王政復古にいたるわけだ。
幕府を潰したのは水戸の連中。
323日本@名無史さん:2006/06/29(木) 05:59:36
爆心に殺されたとされる
原市之進はどういう役目だったの

それにしても随分死んだね
何の意味もない犬死ばかり

他地域に良い所全部謙譲した
間抜けな水戸ッポ

324日本@名無史さん:2006/06/29(木) 06:02:04
慶喜だけ写真とSEX三昧で子沢山の
美味い汁舐めた 
中には死んだ水戸人の生まれ変わりも
居るかもね

うらめしや〜
325日本@名無史さん:2006/06/29(木) 06:36:04
a
326日本@名無史さん:2006/06/30(金) 06:04:39
b
327日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:15:44
c
328日本@名無史さん:2006/07/02(日) 13:27:52
      ,/''     r、    '\,
     ./'  _/_/⊥/:: ヽ⊥、__,  ヽ
    //   /.|/ l/:::::::::ヽ|.,,ヽ|ヽ  ヽ
    / i /|/;l'"~`'li, :::: ,il'"~`''liヽ |ヽ!,
   ./|/ ! ii, ○ ,i! :::: il、.○ .,|i i``i \
  /  !. | `゙=='" __ `''=='" | ,ノ   'i,
  /   `i;:::,   i"   `i   ::!.     'i
 .i   ;;/'ヽ;;  i     i _;;-'`、;;    'i,
 .!;; - ''      `>┴,---,-'''"、   ` 、;;;  i
        /ヽ,,,,_ヽ_/ _,,/ヽ    
329日本@名無史さん:2006/07/03(月) 06:07:10
書き込みがない
どうしたんだっぺ
330日本@名無史さん:2006/07/03(月) 18:29:19
関が原戦後の佐竹処遇で、家康は佐竹の領地はそのままで石高を減らそうと考えていたらしい。
それを、秋田転封を強力に推したのは本多正純。
決定までに日にちがかかり、島津処分が終わった5月になってようやく正式通知。

で、その後本多正純は、家康からの信任を恣にしたため、2代目将軍秀忠や他の幕僚の恨みを買い、家康の死後、宇都宮吊り天井事件で左遷、佐竹氏預かりの身となる。
331日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:16:02
聞かない、譲らない、謝らないだっけ?
俺の先祖は古河だけど、大正頃に栃木県編入運動が起きたぐらい、地元の年寄りは水戸を嫌っている。
水戸藩を扱った大河ドラマか。
朝鮮時代の党争政治を扱った韓国ドラマをソウルで見たことがある。
チャングムとは比べ物にならないほど陰惨な内容だったが、リアルな内容なのだろう。
日本で同じようなドラマを作ろうとすると、奈良時代を別にすればやっぱり舞台は水戸だな。
上級武士の娘が磔になったり、幼児の梟首、市川三左衛門の逆磔、あいつぐ拷問シーン。

332日本@名無史さん:2006/07/06(木) 07:06:15
>>330
そのマエに佐竹義信の腹心が一緒に江戸城に呼び出され
毒殺されているね。江戸城内で急死となっている。
333日本@名無史さん:2006/07/06(木) 07:09:50
>>331
意味が良く和姦ねえよ
古河なんて屑所栃木にくれてやれば
良かったんだがな
334日本@名無史さん:2006/07/06(木) 11:00:25
最初の水戸藩主は後の頼宣でした。
335日本@名無史さん:2006/07/06(木) 13:18:30
最初の水戸藩主は武田信吉でしょーが
336日本@名無史さん:2006/07/08(土) 06:12:35
>>331
歴史の存在しないススキっ原から
呆けたこと逝ってんじゃねえ
掘立小屋と肥溜めしかない曲して
337日本@名無史さん:2006/07/08(土) 11:27:05
日本語でおk
338日本@名無史さん:2006/07/08(土) 21:04:23
>>337
肥溜めの出か?
339日本@名無史さん:2006/07/09(日) 01:57:34
色々な土地を見てきましたが、茨城にはぶすやブサイクしかいないのは何故ですか?
徳川に美人は皆殺しにされたりとかして、美形の血が残らなかったとかですか?
340日本@名無史さん :2006/07/09(日) 02:16:26
でも農民の生活を心から思いやって悪代官を倒すために、
武士や忍者や遊び人や姫君を連れて日本全国を旅した
白いヒゲのナイスガイもいたよ。
341日本@名無史さん:2006/07/09(日) 03:22:35
日本の歴史も知らんバカもんがデカデカとスレ乱立しよってからに・・・
水戸徳川家の偉大さを調べることもできんのか、このバカは・・・
「美人は皆殺しにされたりとかして・・・」こんなことすんのは朝鮮だけだろうに・・・
こんな発想鹿できん時点で朝鮮確定。
水戸徳川家の子孫に何か恨みでもあるのかね?
342日本@名無史さん:2006/07/09(日) 03:30:51
偉大な日本人を抹殺して、功績を横取り。
もしくは、偉大な日本人が作り上げた礎の上にあぐらをかく朝鮮。
昔から卑怯で汚いのう、朝鮮は。
343日本@名無史さん:2006/07/09(日) 04:05:12
大河慶喜で、斉昭は何か憑かれた神道ガイキチみたいに描かれていたけど
そうなの?
344日本@名無史さん:2006/07/10(月) 06:52:56
>>339
禁句だよ
ブサイククンのあんたが語ってはいけないこと
345日本@名無史さん:2006/07/10(月) 06:59:56
お殿様に美女を献上するのは、
インポだからです。
その裸をみたらインポ治っていきりたち
液も沢山でて
子供が沢山生まれ
跡継ぎの心配解消
346日本@名無史さん:2006/07/10(月) 09:28:18
亡き悪代官河合に悪代官のノリで水戸黄門させてみたかった。
347日本@名無史さん:2006/07/10(月) 09:30:00
>>339

佐竹が腹いせに美人を秋田に連れて行ったから秋田は美人が増えて、茨城
はめぼしいのがすくなくなったと聞いたけど
348日本@名無史さん:2006/07/15(土) 07:21:26
佐竹領の天下野出身の女、石原真理子(真理恵)似の女がいた。
白い肌に俺のを突っ込んだ時のよがり声はいまでも
時折思い出す
会沢精子際の子孫だとか
349日本@名無史さん:2006/07/22(土) 08:38:17
石原真理子(真理恵)ってどんな男?
350日本@名無史さん:2006/07/23(日) 21:35:58
>>340
そのナイスガイが真っ先に水戸に来てくれればよかったのに
水戸藩の百姓を苦しめる悪大名を是非とも倒して欲しかった
351日本@名無史さん:2006/08/12(土) 07:52:30
家茂の死によって慶喜が徳川家を継ぐと慶喜は市川派の専制を制限する為に
水戸藩御用掛を置き、諸生派を激高させた。
一方で朝廷の圧力もあり天狗および尊攘派に対する制裁を緩和し、
諸藩預かりで監禁されていた藩士を一部解放した。
王政復古後、迅速に尊攘派復権が出来たのは慶喜のこの施策も大きかった。



352日本@名無史さん:2006/08/19(土) 07:36:08
住谷寅乃輔ってどんな人物
353日本@名無史さん:2006/08/21(月) 06:04:46
za
354日本@名無史さん:2006/08/22(火) 07:12:45
絶対に水戸光圀でやって欲しい。>大河
355ポン:2006/08/22(火) 20:24:59
>>354
その時は所謂「水戸黄門」では無く、「平和を愛する心優しい」
徳川綱吉に色々無理難題を押し付けて、さらに世論を操作して
史上稀に見る悪政をしく公方様を諌める老人と言うイメージを刷り込ませる
とっても意地悪で火病な徳川光圀にしてほしい。
356日本@名無史さん:2006/08/22(火) 23:39:44
>>355
1.大日本史編纂事業に莫大な金をつぎ込み
 藩財政を傾かせる

2.そのしわ寄せは農民への重税へ


学問パラノイアが昂じて生類憐憫令の暴走となった
綱吉とあまりかわらない。・

357日本@名無史さん:2006/08/23(水) 23:22:19
人大杉でソープ板アクセス不可能
エイズ万延むりもない


358日本@名無史さん:2006/08/24(木) 05:21:10
光圀はうまくやりくりしてボロを出さなかったらしいが綱篠の代になってからそのつけが表面化し、
貧窮した農民が江戸に大挙して直訴し、綱篠は大恥を掻かされ、将軍候補から外されたというしっぺ返しを受けている。
359日本@名無史さん:2006/08/24(木) 19:10:54
御三家とはいえ水戸家は尾張・紀伊より格が下で将軍候補になれません
慶喜は御三卿の一つ一橋家に養子に行ったから将軍になれた
360日本@名無史さん:2006/08/24(木) 20:22:34
水戸は過酷な税を領民に課したが、領民も黙って絞られるほど大人しくなかった。
361日本@名無史さん:2006/08/25(金) 07:04:31
水戸黄門生誕の地に行ってきました
驚いた小さな黄門神社がぽつんとあるだけ
おまけに南側に地元としては超高層のマンション建設中
あれでは完全に日陰になる
362日本@名無史さん:2006/09/02(土) 07:08:45
かすの佐竹領にドライブしました
363日本@名無史さん:2006/09/02(土) 07:40:54
このスレ読むと、水戸肛門をはじめとする水戸藩の連中のクズっぷりがよく分かるね。
364日本@名無史さん:2006/09/02(土) 20:22:37
363=滋賀作必死だなw
365日本@名無史さん:2006/09/04(月) 22:15:19
幕末の水戸は内ゲバでホロン部したよ
366日本@名無史さん:2006/09/05(火) 06:15:58
廃藩置県だよ
367【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2006/09/05(火) 21:37:48
水戸徳川家は豚
368日本@名無史さん:2006/09/05(火) 23:43:55
必死だな
369日本@名無史さん:2006/09/09(土) 07:34:47
>>358
仔細求む
ギボンヌ
370日本@名無史さん:2006/09/16(土) 07:30:59
>>
>水戸徳川家を糾弾せよ

そんなに嫌われているの?
371日本@名無史さん:2006/09/16(土) 23:36:09
        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"  ノ(        `ヽ. ビキ
 __,,::r'7" ::.  ⌒     ノ(    ヽ_  ビキ
 ゙l  |  ::;          ⌒ ,     ゙) 7
  | ヽ`l ,/\,,_       _,,/ヽ, /ノ )
 .| ヾミ,l _;;   "''=) i (=''"    ` ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)~.~f';;_-ェェ-ニ,, ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  | ヽ"::::''_;:'" ̄´.::;i,  i `'' ̄`:;_  r';' }   | 久々にキレタ
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l i、     ,l,フ ノ   |  こういう>>367は去勢にするなり終身刑にするなり死刑にする
 . |_i"ヽ;:...::::::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  <  のが本物の民主主義国家なんだよな
   .| ::゙l  :::i  ,==' '==  i  ,il" .|'".    | ふざけんのもたいがいにしとけよ
    .{  ::| 、 :: /┼┼┼ヽ , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;: `======'" ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;: .   ⌒   ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_


372日本@名無史さん:2006/09/16(土) 23:55:00
正統の清和源氏の佐竹
金で買った源氏の徳川の分家w
373日本@名無史さん:2006/09/17(日) 07:36:13
>>372
徳川の源流は生臭坊主だって?
374日本@名無史さん:2006/09/17(日) 08:57:33
徳川は清和源氏嫡流の新田流。
佐竹は分家末流。

身分が違いすぎるw
375日本@名無史さん:2006/09/17(日) 11:03:45
金で買った源氏の徳川の本家の力で
秋田に飛ばされた正統の清和源氏の佐竹w
376日本@名無史さん:2006/09/17(日) 12:44:08
>>371
なんでラングに言わせる?
377日本@名無史さん:2006/09/17(日) 17:36:57
先生は常州水戸の産なり・・・

続き 誰か よろ
378日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:03:04
>>373
徳川は清和源氏嫡流の新田流w
金で買った嫡流なw
歴史ちゃんと学べよw
379日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:23:18
>>378
プゲラ
徳川は清和源氏嫡流、新田流の嫡流w
しかもちゃんと費用を使って検証して判明した嫡流w
轢死をちゃんと学べよっっwっw
380日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:38:39
どこの誰が調べたのかなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
どこの学者かなwwwwwwwwwwwwwwwwww
大名の家系図の8割は捏造だよねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
381日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:40:23
あーキモい
382日本@名無史さん:2006/09/17(日) 22:43:09
つーか新田流とか信じてるヤツいるんだ
どこの歴史小説でも読んだの?
383日本@名無史さん:2006/09/18(月) 07:36:50
いまだに系図捏造したとか言ってる奴がいるんだ。
どこのチラシを読んだの?
384日本@名無史さん:2006/09/18(月) 14:39:13
家康って源を名乗る前 藤原を名乗ってたんだよね
385日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:08:23
>>380がアレな件はスルーですね。
386日本@名無史さん:2006/09/19(火) 11:16:05
自作自演乙w
387日本@名無史さん:2006/09/19(火) 11:23:33
徳川氏(コ川氏、とくがわうじ)は、徳川家康が創始した日本の苗字。信憑性に乏しいが、系図上では新田氏系得川氏の末裔ということにされている。

徳川氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D

関ヶ原の戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城西の丸を豊臣氏に明け渡して、
伏見城に入ってなおも政務を執った。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改竄も行なった。
将軍になれるのは源氏でなければならないという決まりもあった。そこで家康は、神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を
源氏の源義家に通じるように偽造させた

徳川家康
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7


偽造捏造思いのままwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


388:2006/09/19(火) 13:13:46
学問日本史板で、
スレ違いな話題で、
必死にw連発中の、
最底辺の低脳小僧
389日本@名無史さん:2006/09/19(火) 14:41:15
ゴミは反論できねーのかよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
390日本@名無史さん:2006/09/19(火) 14:42:12
徳川のクズどもを擁護するなんて頭おかしいんじゃねーのwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
391日本@名無史さん:2006/09/19(火) 15:30:15
ウィキから引用wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
392日本@名無史さん:2006/09/19(火) 15:39:51
>>387
>将軍になれるのは源氏でなければならないという決まりもあった。

そんな決まりが一体いつできた??

>そこで家康は、神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を
>源氏の源義家に通じるように偽造させた

ソースはなんだろうね?
すでに「徳川」を称した段階で「得川」流を称しているのに等しいのに。

っていうか、ソースが誰でも編集できるウィキペディア、しかもこんな評価をされてるわけだがw

>評価について
>なにか個人の意見を記しているようにしかみえません。
>記述される人は評価説の論者と文献を記入してくれませんか?Izayohi 2006年3月5日 (日) 15:03 (UTC)

>家康の経緯を書く部分も含めてなのですが、もう少し中立的な視点で書く必要があるのではないでしょうか。
>「奸智に長けた」とかそういう比喩は不要であると思います。
393日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:01:41
自己紹介だったんだね。

389 :日本@名無史さん :2006/09/19(火) 14:41:15
ゴミは反論できねーのかよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
394先祖調査中:2006/09/19(火) 21:59:54
すいません。誰か、大金という苗字の由来を知っている方いませんか。
395日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:43:54
必死の反論wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

ゴミ徳川厨wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww




偽者に必死wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
396日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:45:12
偽者家系図になんでそんなに必死なの?????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????


なんでwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
なんでwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
なんでwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
なんでwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
397日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:48:50
徳川家は源氏でーすw
398日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:49:22
徳川家は新田でーすw
399日本@名無史さん:2006/09/22(金) 07:11:55

必死すぎ
400日本@名無史さん:2006/09/22(金) 08:32:38
↓コイツはリアルにバカなんだな。

>ゴミは反論できねーのかよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

>必死の反論wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
401日本@名無史さん:2006/09/22(金) 22:52:34
朝廷が源朝臣と認めてればそれでいいんだよ。
>>395=>>396はバカ丸出しでなんでそんなに必死なんだ?
どういうコンプレックスだ?
402日本@名無史さん:2006/09/23(土) 07:47:16
>>400
こんな人ってどんな人?
403日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:10:19
>>402
バカですか?
404日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:21:15
 同じ御三家の尾張・紀伊が侯爵止まりだったのに、なぜか
水戸家だけが、公爵。
 新政府に媚を売ったとしか思えんが、公爵と言えば、徳川宗家(将軍家)
と同格じゃん。
 徳川幕府が潰れて、一番得したのは水戸家だな。
 薩長に感謝しろよ。
 「徳川潰れて、水戸栄え」
 徳川慶喜(水戸家出身)が徹底抗戦しなかった理由もわかったような気
がする。
405日本@名無史さん:2006/09/23(土) 15:32:30
>水戸栄え

いえ明治も今も全く栄えてないんですが
406日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:01:05
>405
 この場合の水戸は水戸徳川家です。
 徳川幕府が存続していたら、宗家と対等になることはありえんわな。
407日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:29:41
>薩長に感謝しろよ。
薩長の元勲達は伊藤博文を始め、水戸の志士達の追悼に熱心で、
伊藤は自ら筑波挙兵の水戸志士達の慰霊碑の碑文の筆をとったりしている。
408日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:37:16
 佐竹旧臣は万が一、佐竹が反徳川の兵を起こす時、武装蜂起する密約
を秋田藩と行っていたと言うのは本当なの。
 戊辰戦争では秋田藩はいち早く官軍についたけどね。徳川は逆賊として
滅ぼされたし。佐竹旧臣の250年の恨みは少しは晴れたんじゃないの?
 同じ東北の外様大名で何かと仮想敵国扱いされた、仙台藩や米沢藩は賊軍
として徳川方につくお馬鹿ぶりだったけど。
 外様大名は徳川の武威に従っているだけで、落ち目になればさっさと見捨てる
のが外様大名の正しい道だよ。
 基地外のように徳川に忠義を尽くすのは譜代・親藩のお仕事だから。
409日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:41:05
>408
 薩長の元勲達は、水戸藩が徳川慶喜の実家だったと言うこと忘れたの?
 長州は慶喜に寛大に扱うつもりだったけど、薩摩は「慶喜の首よこせ」
の強硬論だった訳で。
 
410日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:57:18
藤田らの筑波挙兵には長州との密約があったと言われる。
薩摩の大久保や西郷も筑波一党が敦賀で無残な最後を遂げたことには甚く同情していた。
411日本@名無史さん:2006/09/23(土) 18:09:11
>411
 水戸藩士が主体の桜田門外の変でも、脱藩薩摩藩士が参加しとるわな。
しかも、井伊大老の首取りの手柄も薩摩藩士に譲ってるし。
 薩長との結びつきを考えれば、水戸藩への優遇も納得。
 幕末に討幕派の公家が家柄以上の爵位をもらったのと同じ理屈ね。
 でも、佐幕派の公家も一応、家柄相当の爵位もらっるけど。
(例)
岩倉具視(本来、子爵)→公爵
三条実美(本来、侯爵)→公爵

412日本@名無史さん:2006/09/23(土) 18:18:23
新政府は水戸藩にも参画を求めたが、大量の死者を出した水戸藩には新政府にだせるような人材はもはやいなかったという。
413日本@名無史さん:2006/09/23(土) 18:22:02
>412
 内部抗争のやりすぎで、人材が払底してしまったんだね。
 薩摩も、西南戦争で有望な人材が西郷方について戦死してしまって
以降は長州閥の力が強くなるよね。
414日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:47:59
>>404
って真面目に書いてるの?
釣られたかな。
415日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:29:13
>>407
それ本当ですか?
初耳です。

元土佐郷士の田中光顕が
水戸を哀れんだことは知っていますが
416日本@名無史さん:2006/09/30(土) 08:13:44
藤田東湖が地震で死ななかったら、
明治政府ではどんな役割りしただろう
総理大臣やった?
417日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:30:03
徳川なんて三河の山奥のきこりの子孫じゃん
でも別にいいじゃん
きこりのせがれが天下取ったなんて素敵じゃん
418日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:52:23
と小作農の末裔が申しております。
419日本@名無史さん:2006/09/30(土) 22:00:33
小作農の末裔ですがなにか?
420日本@名無史さん:2006/10/02(月) 15:33:08

>>404

嘘ばかりだな。

>徳川幕府が潰れて、一番得したのは水戸家だな。


一番得をしたのは長州藩と薩摩藩。

水戸徳川家では他藩と同様に没落する家がたくさんあった。

一部の器量人は、他藩の場合と同様に商売などで生き残ることができた。
421日本@名無史さん:2006/10/02(月) 17:09:56
明治になってから納豆や蒟蒻がメジャーになった。
422日本@名無史さん:2006/10/05(木) 07:44:16
>>420
>一部の器量人は、他藩の場合と同様に商売などで生き残ることができた。

うちがそうだね


8男だけど
423日本@名無史さん:2006/10/07(土) 08:09:51
>>421
こんにゃくは水戸藩時代から有名だったよ

水戸激派の資金源になったのは有名
424日本@名無史さん:2006/10/09(月) 07:41:07
ah
425日本@名無史さん:2006/10/10(火) 06:57:21
a?
426日本@名無史さん:2006/10/10(火) 17:47:44
永宝改革では運河開発に徴発した人足は140万人
領民は月に10日〜12日も動員された
一日150文の賃金が支払われる約束であったが
実際に支払われたのは工事開始の年のみで
翌年はなんと未払いであった
タダで月の半分近く労働させられ田畑の手入れもできない有様だった
427日本@名無史さん:2006/10/10(火) 18:08:16
永宝の改革で失敗した水戸藩財政は更に逼迫し
打開策もなく、ついには安易に増税に踏み切る
その結果、追い詰められた領民は他藩への逃散、間引きが相次ぎ
享保11年の水戸藩人口は約32万人であったが
文化元年には22万人にまで減少する
結果田畑は荒廃し
松岡郡では6000石、太田郡は8000石、南郡は1万1000石、武茂郡は1万5000石
の石高減少を引き起こし財政は益々悪化するという悪循環になった
428日本@名無史さん:2006/10/11(水) 07:53:39
藩主は誰でした?
もっとも、自然災害に抵抗するすべも無かっただろうけど
429日本@名無史さん:2006/10/11(水) 10:33:05
ちょっと質問しますよ

>>426 >徴発した人足は140万人
どこから来たの?

>>427 >太田郡、南郡、武茂郡
ってっどこさ?
430日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:09:58
パシャッ    パシャッ
   パシャッ
      ∧_∧ パシャッ
パシャッ (   )】Σ
.     /  /┘   パシャッ
    ノ ̄ゝ
        ミ∧_∧ パシャッ パシャッ
       ミ (/【◎】
     .  ミ /  /┘
        ノ ̄ゝ
431日本@名無史さん:2006/10/14(土) 23:02:19
まぎれもない徳川一門である水戸家が尊皇家に
なったのはこれぞまさに
鹿島大明神のご神徳でしょう!
432日本@名無史さん:2006/10/20(金) 07:19:01
パシャッ    パシャッ
   パシャッ
      ∧_∧ パシャッ
パシャッ (   )】Σ
.     /  /┘   パシャッ
    ノ ̄ゝ
        ミ∧_∧ パシャッ パシャッ
       ミ (/【◎】
     .  ミ /  /┘
        ノ ̄ゝ

433日本@名無史さん:2006/10/20(金) 09:58:59
>431
尾張藩祖徳川義直って知ってるか?
434日本@名無史さん:2006/10/21(土) 08:34:13
>>433

家康の何番目の馬鹿息子?
435:2006/10/21(土) 10:37:39
質問に答えられないバカw
436日本@名無史さん:2006/10/22(日) 07:23:42

質問に答えられない馬鹿w
437日本@名無史さん:2006/10/22(日) 07:51:05
 某時代劇ドラマのおかげで、水戸光圀は名君扱いだからな。
 
438日本@名無史さん:2006/10/22(日) 16:41:25
>>436
底なしの低脳が必死www
439日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:21:06
>>438
究極の池沼が必死ッw
440日本@名無史さん:2006/10/22(日) 22:09:00
>>439
涙目知恵遅れがパソコンの前で真っ赤になって抗弁にならない抗弁に必死すぎw
441日本@名無史さん:2006/10/23(月) 07:28:47
>>440
究極の池沼が必死ッw
442日本@名無史さん:2006/10/23(月) 08:40:44
>>441
至高の池沼が必死ッw
443日本@名無史さん:2006/10/23(月) 11:33:12
>>441
奥義を極めた池沼が必死ッw
444日本@名無史さん:2006/10/24(火) 07:50:48
>>443
底なしの低脳が必死www


445日本@名無史さん:2006/10/24(火) 22:19:52
>>444
低脳特有の鸚鵡返しか。
哀れな人生だなww
でもバカほど長生きするんだよなあww
446日本@名無史さん:2006/10/25(水) 07:05:35
>>446
涙目知恵遅れがパソコンの前で真っ赤になって抗弁にならない抗弁に必死すぎw

逆に短命
27歳までに逝く
447日本@名無史さん:2006/10/25(水) 08:01:46
自分自身を罵倒しているお前は漢!
448日本@名無史さん:2006/10/25(水) 08:38:31
>>446
おまいはホンモノだな。
449日本@名無史さん:2006/10/25(水) 14:54:45
んでこのスレは何?
450日本@名無史さん:2006/10/25(水) 16:54:08
>>431の寝言に付き合うスレのようですね。
451日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:41:40
446 :日本@名無史さん :2006/10/25(水) 07:05:35
>>446
涙目知恵遅れがパソコンの前で真っ赤になって抗弁にならない抗弁に必死すぎw

逆に短命
27歳までに逝く
452日本@名無史さん:2006/10/27(金) 07:40:49
涙目知恵遅れがパソコンの前で真っ赤になって抗弁にならない抗弁に必死すぎw

逆に短命
27歳までに逝く

453日本@名無史さん:2006/10/27(金) 07:42:12
池沼
454日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:35:03
446 :日本@名無史さん :2006/10/25(水) 07:05:35
>>446
涙目知恵遅れがパソコンの前で真っ赤になって抗弁にならない抗弁に必死すぎw

逆に短命
27歳までに逝く
455日本@名無史さん:2006/10/27(金) 14:51:11
>逆に短命
>27歳までに逝く

すげえw
変な宗教でもやってんのかw
456日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:06:55
天狗党の乱は佐竹の陰謀…と。
457日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:42:27
芹沢が佐竹の鼠退治500匹
458日本@名無史さん:2006/10/30(月) 07:27:45
BBS水戸スレで
市内の処刑跡地が話題になっています。
歴史オタクの皆さん
出かけて教えてあげてください。
459日本@名無史さん:2006/11/04(土) 07:28:55
もう下火ですよ
今はミミズですよ
飽きっぽいミトッポだから・・・・・ピプ
460日本@名無史さん:2006/11/07(火) 06:15:55
上級武士の娘が磔になったり、幼児の梟首、市川三左衛門の逆磔、あいつぐ拷問シーン。


これって水戸領だけでの話しではないと思うが
461日本@名無史さん:2006/11/18(土) 09:07:07
佐竹は幕末に充分水戸藩に復讐しているではないか。

藩内部抗争に持っていったのは、元佐竹農民郷士の策略だった訳で
462日本@名無史さん:2006/11/19(日) 12:58:05
>>461
佐竹ってすげえ粘着だな。
毛利家中並みだ。
60年以上騒いでる中韓を笑えない。
463日本@名無史さん:2006/11/19(日) 19:35:06
>佐竹は幕末に充分水戸藩に復讐しているではないか。
>藩内部抗争に持っていったのは、元佐竹農民郷士の策略だった訳で
幕末に大量の犠牲者を出した激派・天狗党は多くが佐竹系郷士・豪農なんだが。
464日本@名無史さん:2006/11/19(日) 22:24:36
>>463 お前ばかか。国替えの時、えたとひにん意外は大抵一緒に移動地へ連れていくんだよ。
465日本@名無史さん:2006/11/20(月) 02:09:36
>>464
佐竹は主要家臣を93騎しか連れて行けず、あとは常陸に土着させたことになってるよ。
その家臣でも、家族全部を連れて行けたわけではないらしい。上杉が越後から会津に移った時も残った家臣がいた。
領地が半減以下になったわけだから、やむを得なかったんだろうけど。
あと、基本的に一部の譜代商人は別として領民はほとんど連れて行かないだろ。
466日本@名無史さん:2006/11/20(月) 06:57:03
>>462
国替えから200年以上歴史が止まってしまったので
長いとは思わないだろう。
今は60年前の歴史が霞むほど雑音が多い日本。
逆に
北朝鮮や中国ロシアは今まで情報無かったので
60年前と言えど昨日のように鮮明
467日本@名無史さん:2006/11/20(月) 08:32:27
>>464
物凄い恥さらしハケーン!
468日本@名無史さん:2006/11/20(月) 15:15:54
>>464
大河ドラマや歴史小説以下の知識だなw
469日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:02:13
天英公は100石取り以下の連中は連れて行かない気だったようだが結構
勝手に?ついて行った者は多い。諸士系図みると移住時期が遅れ
当初は足軽や茶屋・塗師などにしかなれなかったものもいる。
470日本@名無史さん:2006/11/21(火) 08:44:58
>>464
石高が減ってるのに同じ人数が生活できるか?
471日本@名無史さん:2006/12/01(金) 17:27:01
現在も徳川姓のひとって男系ではほとんど水戸系でしょ。
慶喜家、水戸家、清水家、一橋家、
472日本@名無史さん:2006/12/01(金) 21:10:17
水戸はどの代から子だくさんなんだ
473日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:19:06
初代頼房は20人くらい子供いなかったか?
474日本@名無史さん:2006/12/01(金) 23:20:30
御三家筆頭たる水戸家の面目、このままではたちゆきませぬぞ。斉脩どの
475日本@名無史さん:2006/12/02(土) 11:02:43
水戸徳川は江戸幕府においては末席だった。
御三家筆頭になるのは皮肉にも徳川幕府を倒した明治政府によってであった。
476日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:22:23
  あああああ
  あああああ  ああああ
  あああああ あああ あああ
  あああああ あああ あああ
  ああああああああ  あああ
りえふぉうぇrふぇjcふぇ
えjrfcいおえjふぇjf
|         |
|  H  H   |
|    @    |  徳川昭武語る
|  _____  |  「なんで俺が将軍の代わりにフランスへ逝って
|         |   万博見に逝かなきゃダメなの?」
M         m
 Mっっっっっmkp
477日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:19:24
万博見学だあ?
留学だろ。ノー天気なヤツww
478日本@名無史さん:2006/12/03(日) 23:13:31
秋田美人という言葉がある。
これは古くは小野小町の出身地であるという伝説から来ているのだろう。
だが、もうひとつの言い伝えがあるのだ。
それは佐竹公が秋田へ国替えした時に、美人も一緒に着いて行ったのだと。
そして現代。このように言われているのもまた事実だ。
水戸の女はマジでブサイクしかいない、と。
これはなにか関係があるのではないか。
我々2ch探検隊は誰も足を踏み入れたことのない洞窟に・・・
479日本@名無史さん:2006/12/04(月) 19:37:27
斉脩殿。そこもとが御息女の不始末、幕閣としては最早、見過ごすことはできぬ。
日本橋備前屋なる者から目安箱に斯様なる訴えが。如何なされる御所存じゃ。
御三家筆頭たる面目、このままでは立ち行きませんぞ。斉脩殿。
480日本@名無史さん:2006/12/04(月) 19:44:59
>>475
>御三家筆頭になるのは皮肉にも徳川幕府を倒した明治政府によってであった。
明治以後徳川連枝を御三家っていうかな。。
昭和になってからなら御三家って
西郷輝彦、舟木一夫、橋幸雄

西条秀樹、郷ひろみ、野口五郎
のことだし。

481日本@名無史さん:2006/12/04(月) 20:06:41
>>475 >>水戸徳川は江戸幕府においては末席だった。
うそばっか。既に御三家の一員だろ
482日本@名無史さん:2006/12/04(月) 20:12:13
>>475
幕閣たちに
”あそこ反抗的でうざいから御三家からはずして
 かわりに加賀前田でもいれとけ”
と陰口たたかれていたのは尾張の方だけどな。
483日本@名無史さん:2006/12/04(月) 21:52:36
水戸斉脩の功績は何ですか?
484日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:39:10
嗣子なく早目に死んだこと
485日本@名無史さん:2006/12/05(火) 13:01:14
敬三郎に相続させるよう遺言を残したこと。
でも「哀公」はひどいよな。
486日本@名無史さん:2006/12/13(水) 00:49:21
昭武を会津松平家へ養子に入れるという約束を反故にするため、
慶喜が万博使節という名目でフランスに避難させた。
487日本@名無史さん:2006/12/13(水) 09:12:20
>>486
代わりに会津へ養子入りした余九麿についても説明してみろよ、
知ったか君。
488日本@名無史さん:2006/12/13(水) 13:13:20
>>23でも今の秋田市長は義親の孫だから頼宣系。
>>79秋田よりも人気があるみたいだし。
>>240清武は子供がいなくて武雅を尾張からとってるからな。
>>331古河は取手同様、下総だから千葉の方がいいからな。
489日本@名無史さん:2006/12/14(木) 10:45:56
古河はてっきり常陸かと思っていた
今でも茨城、栃木、埼玉、群馬がほぼ境を接していますね
490日本@名無史さん:2006/12/15(金) 07:11:52
佐竹×徳川

長蘇部×山内
491日本@名無史さん:2006/12/15(金) 09:27:20
>長蘇部
>長蘇部
>長蘇部
492日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:57:15
>>491
WHAT
493日本@名無史さん:2006/12/16(土) 22:36:07
袋田の滝の裏側あたりで、佐竹残留民の大虐殺があったんだって?
494日本@名無史さん:2006/12/17(日) 00:10:30
御三家は、将軍家、尾張家、紀伊家なのに、
いつの間にか水戸が乱入して、御三家面

水戸家は、朝廷の犬になれという家康の密命が、幕末まで守られていた
495日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:44:39
>>494
恥ずかしいな、知ったか野郎ww
徳川と名のつく大名の石高だけでも全部追ってみろよ。
496日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:00:26
尾張、紀伊、水戸、甲府、館林、清水、田安、一橋の徳川
尾張継友
尾張大納言宗春
紀伊大納言重倫
紀伊大納言治貞
水戸中納言斉脩
甲府宰相綱豊
497日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:24:25
駿河が抜けてる
498日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:27:28
>>489旧・古河市も元々は葛飾郡だからね。新・古河市は葛飾,猿島,結城郡の各々一部。3郡とも下総だから、水戸との関係は薄い。
漏れは一応常陸(龍ヶ崎)だけど、水戸に行ったのは数える程しか。
499日本@名無史さん:2006/12/18(月) 07:26:33
龍ヶ崎は常磐線にも6国にも高速にも外れていて
陸の孤島でねの

コロッケでも買いに行ってやるか
それにしてもぺターとした土地で
風景が単調杉
500日本@名無史さん:2006/12/18(月) 15:38:18
龍ヶ崎といえば、オウム真理教
501日本@名無史さん:2006/12/18(月) 16:28:22
龍ヶ崎とか江戸崎とかは名前の通り岬状の土地が埋まった場所だからのう。
502日本@名無史さん:2006/12/19(火) 07:35:36
霞ヶ浦とか牛久沼がでかかったときの名残?
503中山利生元龍ヶ崎市長:2006/12/19(火) 11:57:11
こじま、いい加減にしろ
504日本@名無史さん:2006/12/19(火) 13:01:42
水戸徳川家三十五万石
505日本@名無史さん:2006/12/19(火) 14:49:46
何故利生が市長なんだよ
506日本@名無史さん:2006/12/20(水) 07:15:54
>>1
佐竹って日和見の卑怯な奴ら
その子孫が立てたスレ
でいいですか
507日本@名無史さん:2006/12/23(土) 07:56:39
佐竹も明治まで生きた要領の良い一味
508日本@名無史さん:2006/12/26(火) 19:06:04
>>499
仙台人の分領だったという、恥ずかしい歴史があるじゃまいか。
509日本@名無史さん:2006/12/27(水) 16:41:17
光國は綱吉&桂昌院の政策に反発して、犬の毛皮を送ったりは史実?
510日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:08:34
犬の毛皮の一件で老公乱心ということで隠居させられる破目になった。
511日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:54:15
水野忠邦の天保の改革を頓挫させようとした老中太田備後守資始(遠江掛川藩主)は、水戸烈公をして江戸出府せしめ、忠邦失脚をもくろむ
512日本@名無史さん:2006/12/29(金) 01:25:27
確かに水戸♀は不細工が多い。
でも水戸のデリヘル嬢は美形多いぜ!
513日本@名無史さん:2006/12/29(金) 08:56:21
>確かに水戸♀は不細工が多い。
足腰がしっかりしていて骨盤ががっちりしていることが
野良仕事と出産の為には重要。見てくれなど二の次。
514日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:38:47
それは地元民じゃないからそう思うだけ
他所に住んで戻って来たら、何これはっという感じ
三年もいればなれるが
515日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:28:44
まぁ、名古屋の女よりはマシだべさ。
516日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:18:55
>>515
そんな貴方も仙台女を見てからだと名古屋女が抱きたくて仕方がなくなる罠。
517電気気動車:2007/01/17(水) 20:21:34
水戸人と太田人を一緒にしてはいけない。
仕事上の経験で太田人ほど僻みっぽく、ケチで頑固な連中を見たことがない。
表面は田舎人のふりをして相手を油断させ相手がいなくなると愚痴。
コネで就職することしか考えない、常にK代議士に付くかM県議に付くか考えている。
寺の坊さんも昨日のように水戸徳川家の悪口、仕舞いには城を水戸へ移していないと主張。
寺の鐘を供出させられたことを恨んでいる。永遠に日本を恨む半島の人みたい。
大宮の人は明るいんだけどなー
518日本@名無史さん:2007/01/17(水) 22:27:35
水戸城はなんであんなに貧弱なの?
名古屋城などとは大違い。
519日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:04:27
ちなみに黄門とは中納言の唐名であり、権中納言の水戸家の光圀が水戸黄門とは実際は変だ。
権中納言と中納言は同じではない。
520日本@名無史さん:2007/01/20(土) 10:19:03
中納言=権中納言。
定員の問題だけ。別に権中納言から中納言へ昇進するってもんでのないし。
もっとも武家はもともと定員枠外だけどな。
521日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:05:30
>>520
> もっとも武家はもともと定員枠外だけどな。

秀吉政権ではそうじゃなかったのでは? 定員外と正式に定めたのは家康〜秀忠の時代かと。
522日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:31:14
>>521
「禁中並公家諸法度」でね。
但し、のちの御三卿の場合は、親王家の専任と慣例的に決まっていた中務卿
には就けないし、先に宮家が兵部卿になっていた場合は、それ以外の八省の
いずれかに任じられたはず。
幕府側にも憚りがあったのだろう。
まあ、スレタイ的には関係ない話だがね。
523日本@名無史さん:2007/02/23(金) 08:38:03
ややこしいなあ。
524日本@名無史さん:2007/03/25(日) 13:14:13
>>433さんの言う通り、光国は伯父の尾張義直の影響で尊皇に目覚めたと云われて居る。又、嫁に後水尾天皇(上皇・法皇)の姪をもらったし…。
525日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:35:32
このような裏手法を佐竹市長が使っているのは明白だ。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/police/1153511952/680-684
秋田市民および秋田県民は、自分自身の娘、妻、あるいは女性の場合は自らが
以下のような佐竹市長の組織犯罪犠牲にあってもよいとお考えの方以外は
今後、佐竹市長に票を入れるべきではない。佐竹市長への落選運動の全県展開が必要だ。
こんな悪質なローカルルール裏手法は許されない。
526日本@名無史さん:2007/04/20(金) 17:12:03
>>518
それは水戸家が江戸定府を命ぜられていて水戸に来る機会が少なかったから。
参勤交代免除だけど事実上将軍家による監視状態
527日本@名無史さん:2007/04/21(土) 14:22:49
>>499
>龍ヶ崎は常磐線にも6国にも高速にも外れていて
>陸の孤島でねの

常磐線の佐貫駅は龍ヶ崎市内ですが。
528日本@名無史さん:2007/04/21(土) 14:31:35
>>527
外れてるのは事実でしょ?揚げ足取るなw
529日本@名無史さん:2007/04/21(土) 15:00:34
>>528
市内に常磐線の駅がある以上「外れてる」とは言えないと思うよ。
530日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:51:05
水戸って城下町だったわりに、何も残ってないな。
弘道館と偕楽園だけだろ。
531日本@名無史さん:2007/04/22(日) 02:15:47
古写真で見た大手門もしょぼかった
532日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:55:01
斉昭が生まれながらの藩主で登美宮との結婚が17くらいだったら
子  そのときの斉昭の年齢
慶篤 18〜20
 (中略)
慶喜 23〜26
(中略)
昭武 35〜40
(中略)
頼之 43〜50
あたりでさらに50を過ぎても子供を作り
末子ができるのは60歳あたりで
50〜60人くらいの子女がいてかなりやばいことになってたと思う
533日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:02:23
斉昭の息子による乗っ取りは
家斉の息子のそれとと同じくらいにやばかった
斉昭自身押しつけ養子(斉彊)を排除してやっと藩主になった
ということも関係あるのかも知れない
吉宗の血統による将軍職独占を狙った御三卿に養子を送り(慶喜と昭武)
あげくの果てには慶喜が将軍に上り詰める
また現在の御三卿は田安以外の二家は斉昭の男系子孫
534日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:15:12
一方で望まれた養子もあるけどそういうやつはまともなやつが多い(例 津山斉民)
鳥取慶徳は養子向きといわれたらしいが鳥取池田家がもらった理由は
将軍家の息子をもらって家格を上げたかったから
(そうしなくても準家門だけど)
これは家斉の息子斉衆を養子に迎えることで実現するかに見えたが
斉衆の早世でかなわなかった
そこでまた同じ事をしたかったが
時の将軍家慶は家定以外の子が夭折したため仕方なく水戸家からになった
で 結局阿部正弘の周旋で松平五郎麿は家慶の猶子になってから鳥取池田家の養子になった
また岡山茂政も斉昭の息子を養子に迎えるという岡山池田家の意向で
岡山藩を継ぐが岡山藩に慶喜追討令が出たため隠居して
藩祖光政の血を引く章政に家督を譲って岡山池田家は光政の血筋に戻った
535日本@名無史さん:2007/05/01(火) 21:30:59
>>533
余八麿こと昭武が清水家を継いだのは時の将軍慶喜の意向であり、
すでに斉昭はこの世にいない。
536津山斉民:2007/05/02(水) 01:12:03
でもやっぱり各家を水戸系で塗り潰す思惑は慶喜にもあったと思うけどな。慶喜は因州の鳥取慶徳に預けられて不幸中の幸いでしたね
537日本@名無史さん:2007/05/02(水) 08:39:54
将軍慶喜自身に子供がいないのに、どうやって水戸系で塗りつぶすんだよ?
妄想ってキモチ悪い
538日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:36:03
>>537下らない釣り?だな。
539日本@名無史さん:2007/05/04(金) 08:59:03
>>538
おまえが無知なだけ。
慶喜は正室との間に子供はおらず、将軍職を退いてから2人の
側室に7人ずつ子供を産ませた。
で、どこが釣り?
540日本@名無史さん:2007/05/11(金) 02:07:30
別に自分の子供でなくても弟たちを送り込めば立派に水戸系で塗りつぶせるだろうが。バカかお前は?
541日本@名無史さん:2007/05/13(日) 02:56:36
斉昭没後に水戸藩の影響力って強かったのだろうか


            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
   /     |ll        |   ヽ わしのせい わしのせい
  /       z W`丶ノW     ヽ
 /        \\   / /      |
/    天狗    \`i / /  党   |
542日本@名無史さん:2007/05/16(水) 15:27:53
>>540
慶喜が何才で将軍になり、
その時点で養子縁組の決まってない弟が何人いたんだ?
余八麿こと後の清水昭武ですら、会津松平家入りが内定していた。
恥の上塗りという言葉も知らない低能君だな。
無知は気楽でうらやましいよw
543日本@名無史さん:2007/05/17(木) 23:00:15
>>540
お前は場外ホームラン級のバカだなw
544日本@名無史さん:2007/05/20(日) 01:41:28
>>542
>八麿こと後の清水昭武ですら、会津松平家入りが内定していた。

でもそれをひっくり返して、清水家に養子に入れたんでしょ?
意図はあったということでは。ただ、駒がいなかっただけで。
(もっとも兄弟の子、つまり「甥」という手もあると思うが)
545日本@名無史さん:2007/05/20(日) 02:46:21
>>542 バカかお前は?
546日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:13:24
日本三大ブスの地・水戸から日本三大美人の地・秋田に
異動できた佐竹は勝ち組
547日本@名無史さん:2007/05/20(日) 16:19:06
>>544
代わりに余九麿こと後の喜徳を会津松平家に入れている。
本気で徳川を独占する気なら自分が抜けた一橋家に入れてるはずだ。
548日本@名無史さん:2007/05/20(日) 16:20:33
>>545
無知は一行煽りレスが精一杯か。
日頃も悪態ついて役立たず呼ばわりされてるだろw
果てしなく恥ずかしいヤツだな。
549日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:23:55
>>544
駒がいなければそれまでじゃないか。
誰だって駒が揃えば不自由しない。
当時は甥なんか他人も同然に近い。
550日本@名無史さん:2007/05/21(月) 05:25:53
>>548
バカかお前は?
551日本@名無史さん:2007/05/21(月) 08:25:41
>>550
無知は一行煽りレスが精一杯か。
日頃も悪態ついて役立たず呼ばわりされてるだろw
果てしなく恥ずかしいヤツだな。
552日本@名無史さん:2007/05/21(月) 19:27:33
>>551 アホかお前は?
553日本@名無史さん:2007/05/21(月) 21:51:55
>>552
小さな脳味噌をフル回転させて具体的なことを書いてみろw
どうせまた一行だろ。
恥さらし底なし無知くんw
554日本@名無史さん:2007/05/22(火) 00:40:59
>>553 バカかお前は?
555日本@名無史さん:2007/05/22(火) 08:15:53
>>554
粘着キモチ悪い。
無知なんだから素直に無知を認めろよ。
あまりにも悔しくって粘着か?
お前みたいなクズ妄想の中で楽しく生きてろww
556日本@名無史さん:2007/05/22(火) 22:20:10
>>555 童貞妄想ヒキニートよ、いい加減にしろ
557日本@名無史さん:2007/05/22(火) 23:41:20
>>556
その童貞妄想ヒキニートとやらに日本史の知識の欠如を指摘されても
なんら反論できず、キレて煽って恥をさらすバカがお前。
恥ずかしい人生だなww
558日本@名無史さん:2007/05/23(水) 04:10:26
>>557 お前もしつこい。同罪だよ 荒らしに荷担してる
559日本@名無史さん:2007/05/23(水) 07:11:09
>>558
もしマジレスすることが「荒しに加担」なら、
お前だって荒しに加担してるわけだろ?何言ってるのか
560日本@名無史さん:2007/05/23(水) 09:20:57
>>559 バカだなお前は
561日本@名無史さん:2007/05/23(水) 10:15:34
>>560
無知は一行煽りレスが精一杯か。
日頃も悪態ついて役立たず呼ばわりされてるだろw
果てしなく恥ずかしいヤツだな。

これでいいのか?
562日本@名無史さん:2007/05/23(水) 16:27:55
>>561 アホかお前は?
563日本@名無史さん:2007/05/23(水) 19:22:09
>>562
無知は一行煽りレスが精一杯か。
日頃も悪態ついて役立たず呼ばわりされてるだろw
果てしなく恥ずかしいヤツだな。

おいらもやってみた
564日本@名無史さん:2007/05/23(水) 23:57:32
>>563 ニヤニヤ
565日本@名無史さん:2007/05/24(木) 14:22:34
545 :日本@名無史さん:2007/05/20(日) 02:46:21
>>542 バカかお前は?

550 :日本@名無史さん:2007/05/21(月) 05:25:53
>>548
バカかお前は?

552 :日本@名無史さん:2007/05/21(月) 19:27:33
>>551 アホかお前は?

554 :日本@名無史さん:2007/05/22(火) 00:40:59
>>553 バカかお前は?

556 :日本@名無史さん:2007/05/22(火) 22:20:10
>>555 童貞妄想ヒキニートよ、いい加減にしろ

560 :日本@名無史さん:2007/05/23(水) 09:20:57
>>559 バカだなお前は

562 :日本@名無史さん:2007/05/23(水) 16:27:55
>>561 アホかお前は?

564 :日本@名無史さん:2007/05/23(水) 23:57:32
>>563 ニヤニヤ
566日本@名無史さん:2007/06/01(金) 19:09:17
>>545
>>552
>>554
>>556
>>560
>>562
>>564
を糾弾せよ!
567日本@名無史さん:2007/06/06(水) 02:48:14
水戸徳川家は茨城の山林王と聞いた覚えが有るんだけど…。本当ですか?
568日本@名無史さん:2007/06/06(水) 18:57:49
慶篤の写真って残ってないの?
569日本@名無史さん:2007/06/06(水) 21:49:47
自分(慶喜)のあとは亀之助どのに継がせよ
570日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:28:54
自分(家茂)のあとは亀之助に継がせよ
571日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:40:43
>>570
その時点で亀之助は御三家御三卿の当主じゃないんだけどね。
慶喜の跡継ぎになったのは明治新政府の決定。
思いつきでつまらないことを書いても恥をかくだけだ。
572日本@名無史さん:2007/06/08(金) 13:00:36
慶喜が水戸徳川家の当主だったとことは一秒も無いんだが。
573日本@名無史さん:2007/07/30(月) 22:28:23
過疎age
574日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:44:27
過疎age
575日本@名無史さん:2007/10/15(月) 01:50:09
御三卿を含めて全ての将軍を紀州家が輩出していたので
当然の如く家茂を将軍としようとした井伊直弼さんが一番の被害者でしょ。
慶喜は次男で水戸家出身なのに無理矢理将軍になって徳川幕府を滅亡させた元凶だからな。
しかも天皇になれないコンプレックスで外様並に尊王論を唱えるし、全く困った奴だ。
576訂正:2007/10/15(月) 01:52:22
御三卿を含めて全ての将軍を紀州家が輩出していたので
当然の如く家茂を将軍としようとした井伊直弼さんが一番の被害者でしょ。
慶喜は次男で水戸家出身なのに無理矢理将軍になって徳川幕府を滅亡させた元凶だからな。
しかも将軍や総督になれないコンプレックスで外様並に尊王論を唱えるし、全く困った奴だ。
577日本@名無史さん:2007/10/15(月) 16:04:01
七郎麿はどなたの二男なんじゃろか
578日本@名無史さん:2007/10/25(木) 00:22:56
水戸徳川出身者って暗君を列挙させたら天下一だな。
徳川御三家で唯一家臣にも基地外が多いし、石高も名声も官位も著しく低いし。
579日本@名無史さん:2007/10/25(木) 00:36:33
茨城だからな。昔も今も民度は変わらないだろう。
580日本@名無史さん:2007/10/26(金) 01:32:47
ワロスwww

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茨城の私鉄9 鹿島臨海鉄道・茨城交通・筑波観光鉄道等 [鉄道路線・車両]
581日本@名無史さん:2007/10/26(金) 05:04:16
高松宮喜久子さま(水戸公爵慶喜の外孫娘)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%A6%83%E5%96%9C%E4%B9%85%E5%AD%90
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慶朝さん(水戸公爵慶喜のひ孫、一市民、写真家、徳川本家)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E6%9C%9D
歴史(戦国〜江戸)の終焉★
茨城や日本の新たな時代の進展を願う☆
582日本@名無史さん:2007/11/04(日) 13:36:20
>>577
有栖川宮吉子さんの二男でおます。
583日本@名無史さん:2008/01/07(月) 20:16:48
徳川宗家を継ぐ人って恒孝さんの息子の家広さん?
世襲してくことになるのかな。
今の時代、家広さんが断れば宗家以外でもありだと思うけど。
584日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:53:42
>>582
慶喜は吉子の三男です(次男は二郎麿)。
585日本@名無史さん:2008/01/12(土) 00:05:58
幼くして英明の誉れ高い七郎麿だね
586日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:03:50
>>584
斉昭はかなり長い間吉子だけで我慢してたのねえ。
その後の子作りのペースは家斉を凌ぐ。
587日本@名無史さん:2008/01/26(土) 19:50:34
ちょっと質問。
長男は一郎麿、十一男は余一郎麿ですが二十男の幼名は何ですか?
588日本@名無史さん:2008/01/26(土) 20:59:36
失礼、慶篤は鶴千代でしたねm(__)m
589日本@名無史さん:2008/01/26(土) 21:31:11
「甘」みたいな字を使うのだが変換できねえや。
590日本@名無史さん:2008/01/26(土) 22:20:42
>>589 廿一郎麿ですか、ありがとうございます
591日本@名無史さん:2008/02/14(木) 11:27:43
県立歴史館で『御三卿一橋家』開催中
592日本@名無史さん:2008/03/23(日) 01:59:07
一橋は慶喜以外水戸とはなんら関係ない
593日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:40:54
>>567
水府明徳会(水戸徳川家の財団)のHPに、その林業会社のことも載ってるよ。
594日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:43:11
>>592
明治になってから、水戸家からまた養子が入ったので、現在は完全に水戸血筋。
ちなみに、その人は最後の貴族院副議長徳川宗敬。
595日本@名無史さん:2008/03/23(日) 13:44:30
水戸徳川家の林業会社はこれ
 ↓
http://tokugawa.gr.jp/oono/index.html
596日本@名無史さん:2008/03/23(日) 15:07:08
>>594
そういえば尾張徳川宗家は養子が入って
家康の血は受け継いで、ないみたいだな。
597日本@名無史さん:2008/03/23(日) 19:57:56
>>595
HP見たけど、文字通りの殿様商売だなw
598日本@名無史さん:2008/03/23(日) 22:08:08
藩財政の何割も食いつぶす(大日本史編纂事業)って何なのよ?
599日本@名無史さん:2008/03/24(月) 20:20:24
>>597 >>殿様商売だな

だね〜。商い馬鹿と殿様の血筋が合わさって殿バッタ物アキナイ財団だね。

保科松平の子孫を見習えっていうんだ。堅実な油屋と社団の混合経営を。
600日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:29:18
まあ、それでも水戸家は尾張家とならんで徳川一門の中では資産家なんだがな。
601日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:58:37
なお「形としては」第13代将軍・徳川家定が「台命」(将軍の命令)を発し(以下に記す)全ての処罰を行なった事になっている。
そうでなければ「譜代大名に過ぎない井伊直弼が」自分の目上に当たる朝廷一門・徳川一門などを処罰する事は出来ないので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%8D%84

安政の大獄でなんで井伊ごときが徳川斉昭を処罰できるのかほんと謎だったんだわ。
井伊直政が家康の息子を罰してるようなもんだからなw
俺の長年の疑問が解けたw
602日本@名無史さん:2008/04/19(土) 12:45:06
水戸の博物館のしょぼさったらこの上ないなw

入館料高いくせに、3つしか展示室ないし。
好き好きかもしれんが。
603日本@名無史さん:2008/04/19(土) 12:47:22
場所も悪い。
定府だったから城もショボい。
604日本@名無史さん:2008/04/19(土) 15:22:06
しゃんめ水戸なんだから
605日本@名無史さん:2008/04/27(日) 20:05:31
この間甲府の博物館行ったよ。法具と円の梢師木造だけが印象に残った。
あとは病害虫資料と映像解説が美味。
606日本@名無史さん:2008/04/27(日) 20:07:57
えんの行者 ね
607日本@名無史さん:2008/05/07(水) 13:03:09
久慈川CR行ってきた。ここは・・・いいなあ。日本の正しい里山の風景で。
昨日も石岡近辺の水田地帯、湿気にけぶる中をポタってきたけど
観測史上最低の湿度10%の晴天のなか、
やはり舗装された平坦な土手道を走るのは格別だな。

山田川左岸をのぼって、ときおり気まぐれに沈下橋をわたって右岸に出ると
豊作だか河川安全だかの神詞を竹に挿した辻札が立っている。
これをもそっと水府まで上ると、隠れ里の雰囲気になる
「郡代か?今頃なんだ。縄入れ役人風情が・・・」
まだ戦国の気風残る郷士の顔をした百姓が、猛々しい顔をあげる。
「ここに隠し田はねえ。水戸に帰れ」
「佐竹も徳川もあるか。こっぱ役人は帰れ」

苛斂誅求をきわめた水戸藩北限の山里の雰囲気をたっぷり味わえた午後だった。
田舎はええねえ
608日本@名無史さん:2008/05/07(水) 13:07:09
能天気はええねえ
609日本@名無史さん:2008/05/07(水) 17:34:41
若年寄(小笠原弘)―――斉脩殿、そこもとが御息女の不始末、幕閣としてはもはや、見過ごすことは出来ぬ
若年寄(国田栄弥)――ー日本橋備前屋なるものより、このようにして目安箱に訴えが。如何なさる御所存じゃ?
若年寄(小笠原弘)――ー御三家筆頭の面目、そのままではたちゆきませぬぞ。斉脩殿
610日本@名無史さん:2008/05/07(水) 22:31:08
白鳥と黒鳥も
佐竹の殿様に付いていけばよかったのに(泣)
611日本@名無史さん:2008/05/08(木) 03:40:07
東北出身で名字が佐竹なんだけど
実はすごい人の子孫だった
っていう可能性ある?
612日本@名無史さん:2008/05/09(金) 14:50:17
>>610
真夏でも千波湖に白鳥や黒鳥がいる不思議 水戸ではありゃ羽が折られてんだど という伝説?がある。
613日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:08:21
快楽園レイプランド
614日本@名無史さん:2008/05/10(土) 21:29:07
>>613
ねえよそんなもん
615日本@名無史さん:2008/05/13(火) 13:46:35
懐かしのレイクランドの事だろ。
616日本@名無史さん:2008/05/17(土) 22:02:28
水戸藩は御三家筆頭の面目がつぶれた
617日本@名無史さん:2008/05/26(月) 20:18:04
三家筆頭は尾張ですが
618日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:01:30
まあ司馬さんも三家筆頭を紀州と書いていたからな
尾張って悲劇
619日本@名無史さん:2008/05/27(火) 08:51:53
三家筆頭を紀州なら吉宗が将軍に就くときにもめる要素はないし、
宗春は速攻で粛清されていただろう。
620日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:15:05
まあ筆頭は尾張だとしても
紀州はそれを認めたくなかったらしく、義直頼宣の代からなにかと張り合ってましたよね
もちろん両者とも水戸は眼中になかったわけですが
そんな状態から吉宗が出て、紀州は将軍家の「おさと」となり
さらに尾張の血統が絶え、吉宗系(もっと言えば治済系)に乗っ取られましたんで
司馬さんの認識に繋がったんでしょうね

。。。ここは水戸のスレでしたね
水戸も斉昭さんがせっせと子作りにはげみ、己が血統をあちこちに売り込みましたね
斉昭さんの子供ではないですが、幕末の尾張も水戸系ですし

水戸の目立ちたがりは、三家の中で独り低いそのポジションゆえでしょうね
621日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:41:14
水戸斉脩は、将軍家から姫を迎えたが、姫に子ができず、このままでは御三家筆頭の面目がたちゆかないと悶死したのである
622日本@名無史さん:2008/05/28(水) 00:30:36
斉脩が悶死したのはわかりますよ
将軍の娘を妻に迎えた苦労は、尾張光友、紀伊綱教も経験しましたからね
生来からだが上部で無かった彼には
すごいプレッシャーだったでしょうね
でも「御三家筆頭」というのはあきらかに違うのでは?
極位極官にしても従三位権中納言で、あきらかに尾紀の下でしょう?
水戸が筆頭だという根拠はなんでしょう?
609のようなやりとりはどこに書かれていたのでしょうか?
教えて欲しいのですが
623日本@名無史さん:2008/05/28(水) 01:12:06
マジになんなよ
昔のドラマのいかした台詞を
大人の余裕で楽しもうぜ
624日本@名無史さん:2008/05/28(水) 12:07:59
なるほど。御三家筆頭の面目が立たないゆえ悶死したのですね
625日本@名無史さん:2008/05/28(水) 14:29:35
思い付いたので書きますが!>>609のやりとりは「闇を斬る大江戸犯科帖」のくだりなのである。まあ、フィクションですから。
水戸藩が御三家筆頭になっていたり、30前後で早世された水戸斉脩さんが異様に老けていたとか、若年寄が御三家当主に対して「そこもと」呼ばわりして上から目線で喋るとか
みなドラマの中でフィクションだす
626日本@名無史さん:2008/05/28(水) 14:55:43
とゆわけで水戸家は御三家筆頭なのです
627日本@名無史さん:2008/05/28(水) 15:08:45
水戸の黄門様って、

江戸城内で、勝手に刀を抜いて、
屏風の裏でコソコソ人を刺し殺してたって、
ホント?

若い頃は暴れ者で、
刀の試し斬りと称して、辻斬りの真似をしてたって
ホント?

大日本史編纂に傾倒しすぎて、藩の財政を傾けてしまい、
それが原因で息子を将軍職に据えることが出来なかったって、
ホント?

教えて、エライ人。
628日本@名無史さん:2008/05/28(水) 15:34:11
屏風の影で殺害したのは藤井紋だゆうだろう
629日本@名無史さん:2008/05/28(水) 18:59:01
藤井紋大夫刺殺は江戸城内じゃなくて、藩邸内じゃなかった?
光圀自らの手で殺したんですよね
それも自ら能楽を演じている、その幕間で
だから屏風の裏なんです
この紋大夫刺殺は動機が不明。それまで可愛がってた臣を何故殺したのか
紋大夫奸臣説から光國狂気説まであります

大日本史については、おっしゃる通りで、このスレにも詳しく書いてあります。
ツナエダはそのとばっちりを受け、名君失格の烙印を押されましたが
元々水戸は将軍候補の家柄ではないですから、八代選びには関係ないです

辻斬りも、自ら認めてますね
ただコレは若さゆえの過ちだというノリの述懐です
家光なんかもやってたそうですよ、辻斬り

ともかく光國は思い込みが激しく、はたにいる人は迷惑だったでしょう
文化事業で国庫を傾けたり、半ば強引に引退させられた点で
バイエルンのルードヴィヒ二世に似ています
630水戸藩付家老中山備前:2008/05/28(水) 19:06:41
藩財政の半分以上を大日本史の編纂に傾けていたんでしょ?
あるいは「干臣」藤井はそれを非難したのかもね
631日本@名無史さん:2008/05/29(木) 19:22:17
光圀の藤井紋太夫刺殺事件は小石川の水戸藩邸で、元禄七(1694)年十一月二十三日に起こりました。
それも幕府家老、諸大名を招いた能舞興行で突発事件の如く装い、人払いした
密室での計画的な惨殺でした。
ちなみに光圀はその数年前、元禄三(1690)年に引退しております。

その原因は諸説入り乱れておりますが、
大石慎三郎さんの『徳川吉宗とその時代』(中公文庫)には次のようにあります

「光圀の時代の推移を読む目のなさ、またその原因でもあり結果でもある超財政
音痴的行動、ためにひき起こされた水戸藩上下を完全に巻き込んだ財政破綻を
救うため、その意志に反して隠居させられたのではないだろうか。幕府と水戸
藩との一致した意思によって――。
その場合、藤井紋太夫は光圀子飼いの臣であったにもかかわらず、光圀の側に
立って行動しなかったのではないだろうか。
あるいは一歩進めて紋太夫が光圀のあとを継いだ水戸家第三代藩主綱条の世子
吉孚(よしざね)の養育係をしていたところから、吉孚の代のことを憂えて、
傷が少しでも浅いうちにと光圀隠退を積極的に推進したのかもしれない。
ともかく断定する史料に欠けるが、こう考えると事件前後のもやもやした矛盾
をより明快に解釈できるのは確かである」
632日本@名無史さん:2008/05/30(金) 10:51:53
御三家筆頭としての面目、このままでは立ちゆきませぬぞ、斉脩殿
633日本@名無史さん:2008/05/30(金) 13:00:15
斉脩
諡号 哀公
ネーミングまで、虐めですな

彼が早死にしなければ烈公の出る幕はなく、日本も
も少し静かに新時代を迎えられただろうに
634日本@名無史さん:2008/05/30(金) 15:17:26
藩家老の鈴木石見守らが推挙した、将軍家子息斉彊を養子に迎えていれば、わが近代への道筋も軟着陸で済んだものを
635日本@名無史さん:2008/05/30(金) 21:09:48
水野忠成が家斉の子の斉彊を水戸藩の養子に薦めてきた時点で受けるべきだったんだがね
将軍の子ならば御三家筆頭の家格にふさわしかろう
636日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:17:43
このスレでは水戸が御三家の筆頭です
詳しくは>>609を見てね
637日本@名無史さん:2008/06/02(月) 12:41:05
御三家筆頭・水戸斉脩あげ
638日本@名無史さん:2008/06/07(土) 17:31:35
 
639日本@名無史さん:2008/06/07(土) 21:00:14
水戸が御三家筆頭のケース
1→水戸家の当主の官位が尾張・紀伊の当主が若年のため一時的に高い場合。
2→徳川圀順が公爵に昇り、尾張・紀伊が侯爵にとどまったため。(昭和初期)
640日本@名無史さん:2008/06/07(土) 22:34:46
すると斉脩の場合、文政10年(1827)が、筆頭に肉薄した時期ですな
当時
尾張斉温(11代) 従三位左近衛権中将
紀伊斉順(11代) 従三位権中納言(文政7年より)
水戸斉脩(8代) 従三位権中納言(文政8年より)
おしい。。。あと2年早ければ先任だったのになあ。。。
641日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:25:03
しかしこのスレでの斉脩殿の筆頭は崩れぬのですぞ
642日本@名無史さん:2008/06/08(日) 23:45:57
綱條は吉宗、継友に対して御三家筆頭だった。
というか、城中席次の上での話でしょ。
643日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:22:05
正徳6年(1716年;6月に享保に改元)時点での官位

尾張継友(25歳) 従三位権中納言
紀伊吉宗(33歳) 従三位権中納言
水戸綱條(61歳) 従三位権中納言
横並び

「家格から言えば尾張殿、年齢では水戸殿」とは『徳川実紀』に見える吉宗
の言
というわけで筆頭は尾張というのが当時の認識では??
でも自分が継いじゃったんだけどね
644若年寄(小笠原弘):2008/06/09(月) 00:26:54
御三家筆頭の面目、このままではたちゆきませぬぞ、斉脩殿
645日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:33:27
>>643
昇進・叙任の順で上位が決まります。
したがってこの時期は、水・紀・尾の「席次」です。
家格の移動を意味しません。
646日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:36:46
なるほど、了解しましたん
647日本@名無史さん:2008/06/09(月) 00:41:51
権中納言叙任
水戸綱條 宝永2年(1706)
紀伊吉宗 宝永4年(1707)
尾張継友 正徳5年(1715)

648家宣:2008/06/09(月) 00:44:27
よって綱條卿を御三家筆頭に叙す
649日本@名無史さん:2008/06/09(月) 01:48:26
斉脩殿おしかったでござるな
650斉脩:2008/06/09(月) 03:19:56
「闇を斬る!大江戸犯科帳」に出てくる架空の幕閣たちは私を御三家筆頭と認めてくれているから満足じゃ
651日本@名無史さん:2008/06/11(水) 09:54:40
筆頭あげ
652日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:12:34
寛永年間(1640)に行われた検地はきびしくて一尺の空地も残さず調査をうけ、隠田(かくしだ)等も詮議をうけて
年貢は五公五民から六公四民と収穫高の半分か或はそれ以上を上納せねばならなかったから農民の苦しみは他の藩領に
比して苛酷を極め遂に久慈郡生瀬村のような農民騒動まで引き起す程の圧政的政策であったことが明かである。

ここに山川菊栄著「覚書幕末の水戸藩」の中からこの生瀬騒動の経緯(いきさつ)を書いて見よう。

この事件は初代藩主頼房が水戸に封ぜられた慶長14年(1607)の事だという。
佐竹から徳川へと領主の変った年の秋10月、久慈郡小生瀬の百姓が刈入れを終えた所
へ水戸から年貢とりの小役人が二人来たので、命ぜられるままに年貢を渡した。すると2、3日の後、
また同じような下役人が二人やってきて、またしても年貢を出せという。
村人はてっきりニセ役人がきて年貢の二重取りをすると思いこみ、猛りたって鍬、鎌などを振って追いま
653日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:13:22
わし遂に一人を殺し俵につめ水戸城下まで送りつけた。水戸が何100年の領主佐竹から徳川にひきつがれた
ばかりではあり、藩主は幼年なので治世の初めに甘い顔を見せてはならぬと思ったのであろう直ちに兵を率いて小生瀬を襲い逃げまどう
老若男女を片はしから斬りまくり辛うじて隣接する他領に落ちのびた数名の外は皆殺しにしてしまった。
旧藩時代水戸程役人武士がいばり水戸ほど検米(年貢)のきびしい所はなかったのだが農民騒動が稀であった陰には
藩初のこの流血沙汰が幕末まで人の口にのぼり農民がおびえきっていたせいであろう。年貢とりの役人が二度来たので贋(にせ)もの
騒ぎになったのだが、実は初めに来た方が怪しく二度目の方が本物だったのをその本物の方を鍬、鎌を持って追いまわし、一人を殺害
してしまったのは真実らしくそれから1、2日たって10月10日の刈り上げ祝の当日村中仕事を休んで隣り近所より合って笑いさざめきながら
祝餅を搗いている最中、疾風のように一隊の軍勢が襲って来た。白刃一閃生首はうすの中にとびこみ、
あたり一面血の海となり逃げまどう村人は、追われ追われて子を抱いた母も、老いかがんだ姑も、
それをかばう若嫁も殺害され見るまに屍の山となってしまった。
その時拾い集めた首を埋めたのが首塚、胴を葬ったのが胴塚、多勢一つの所に追いつめられ手を合せて命乞いをした所が、
嘆願沢、最後に一人残らず斬り捨てられた所が地獄沢と今なおその場所にそのまま名を残している。
こうして一村全滅した小生瀬は隣接する下野国(栃木県)から移住した農民に引きつがれ彼等は郷里の地名を持ちこんだので、
今でもこの村には下野と同じ地名があちこちに残っているという。近世の百姓一揆の中でこの生瀬騒動ほど残酷な処分を受けた例は他に見ないし、
当時小生瀬の人口がどれ程あったかは知らないが500人に近い村人が住んでいたと推察される。
それが下役人一人を殺したといって500人が皆殺しにされたわけで戦国時代の余燼の消えない頃とはいえあま
りにも無惨な話であり封建社会というものの暗さと独裁政治の無謀さとを現わす大きい一例といえよう。
654日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:19:13
何の権限もない隠居ジジイが、世直しと称して、将軍家の威光を利用して
やりたい放題。とんでもないことです。
本人は裁判官気取りでおりますが、それならば、どうして弁護人をつけないのでしょうか。
また、裁判官自ら捜査して、取調べをして、裁断するとは、およそ裁判には許されないことです。
予断を排除して、検察官と弁護人の主張と証拠を吟味して、判断を下すのが裁判官の役割なのに、彼は何も理解していません。
しかも、「光圀しかと見届けたぞ」とか「だまらっしゃい」などといって、悪代官には弁明の機会を与えてないも同然です。
これでは、小学校の学級裁判と同じでしょう。
こんな横暴を正義の実現として正当化しようとするドラマは、百害あって一利なしです。
水戸黄門と同じ手法を政治に取り込もうとしているアホな輩もおり、ドラマ水戸黄門が有害な効果をもたらしていることは明らかです。
655日本@名無史さん:2008/06/15(日) 12:31:23
実際の幕府代官は、少ないスタッフで広大な天領を管理しなきゃならなかったから、テレビのように
悪事など行う暇なかったけどな

水戸の方がテレビの悪代官顔負けの非情さだ

『黄門様の知恵袋』なる本には、年貢取り立て厳しい水戸藩代官に、もっと民を労るよう諭したお優しい手紙を載せてるが
高い年貢を取り立てざるを得なくなったのは自分だろうに
テレビのご老公顔負けの偽善者だ
656日本@名無史さん:2008/06/15(日) 22:08:09
田安宗武が家重から蟄居を命じられた理由は?
どなたかご存じあれば、ご教示願う。
657日本@名無史さん:2008/06/15(日) 22:10:51
>>656
ごめん。。。誤爆です。
658日本@名無史さん:2008/06/19(木) 23:25:01
水戸は天下のはみ出し者
659日本@名無史さん:2008/06/20(金) 15:52:29
古河、結城は栃木県にしろ!
660日本@名無史さん:2008/06/20(金) 21:19:08
御三家筆頭首座
661日本@名無史さん:2008/06/21(土) 00:25:30
首座?はぁ?
662日本@名無史さん:2008/06/21(土) 01:26:39
このスレでは水戸が御三家筆頭なのです
そして最も輝いているのが哀公斉脩殿!!
詳しくは>>609>>639->>650を見てね
663日本@名無史さん:2008/06/21(土) 19:52:01
尾張は、木曽の山林伐採や新田開発等で、実高100万石超だったそうですが、水戸も表高と実高はあるのかな?
664日本@名無史さん:2008/06/21(土) 22:41:19
イェバゲはほとんど平地だから表高も裏高もほぼ同じ。干し芋以外は納豆しか売り物がないのは江戸時代から
665日本@名無史さん:2008/06/21(土) 23:55:48
水戸家は新田開発なんかやってなくて、中身が伴ってないのに35万石ですなどとウソの申請を幕府にしている。
御三家筆頭、一族首座の矜持がなせるわざといえよう
666日本@名無史さん:2008/06/22(日) 00:17:19
水戸徳川家は徳川埋蔵金の一部である
分銅金を隠さないで今すぐ公開しなさい!
「萬治弍年己亥正月吉日」
「行軍守城用勿作尋常費」
と表面に刻まれいる分銅金だ。
明治末期に見た人がいる。隠すな!
667日本@名無史さん:2008/06/22(日) 18:12:04
攘夷断行の勅命が尾張でも紀伊でもなく水戸慶篤に下ったことからも水戸が御三家筆頭であることは明々瞭々
668日本@名無史さん:2008/06/23(月) 10:18:39
日本有史上、一番最初にラーメンを食した人物は、光国様だから三家筆頭たる証し
669日本@名無史さん:2008/06/23(月) 17:51:32
ラーメンを食べたのも御三家首座の光圀公!
670日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:16:22
江戸定府の水戸様はいつも何をしてたの?
遊びに行ったり、お忍びで市中徘徊したりしなかったのかな?
671日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:40:02
水戸侯は諸役人を叱り飛ばすか、京都からきた美人の上籠を犯して子供をはらませていました
672日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:29:35
責任と重圧がのしかかる将軍様より、水戸様は天国に一番ちかいとこにいるんだ
673日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:02:54
公方、大奥、井伊、阿部以外の老中、南紀派溜詰格にことごとく嫌われるようでは、御三家筆頭の面目がたちゆかないですぞ、斉昭どの。
674日本@名無史さん:2008/06/29(日) 20:56:18
いま、Wiki で天狗党を読んできたのだけど、栃木を焼き討ちし
良民を殺害し婦女を暴行し金品を強奪したことを書いてないので驚いた。
きっと茨城県民が執筆したのに違いない。
675日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:12:41
徳川斉脩 寛政九年(1797)〜文政十二年(1829)
七代藩主治紀の長男に生まれ、文化十三年(1816)、二十歳で第八代藩主に就
任。治世は十三年。保守門閥派を登用、幕府からの助成金、誤用金徴収、大坂
商人からの借金、献金郷士制の復活などで藩財政の窮迫打開を策した。
正室峯姫は将軍家斉の娘であり、門閥重臣らはこの関係を利用して幕閣に近づ
き、幕府からの拝借金の棄捐に成功、さらに一万両の助成金の永続給付を獲得
した。

やるじゃん、哀公
676国田栄弥:2008/06/29(日) 22:15:40
なんてったって御三家筆頭ですから
677日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:53:10
徳川頼房 慶長9年(1603)〜寛文元年(1661)
慶長10年(1605)、三歳の時に常陸国下妻10万石に封ぜられ、同14年、水戸
25万石の城主に移された。
元和8年(1622)3万石加増されて28万石。
水戸藩主としての治世は53年の永きにわたるが、この間家臣団の統制、水戸
城の整備拡張、城下町と水戸の整備、領内総検地、水利事業、鉱山開発など
藩政の基盤形成に努めた。 
寛永18年(1641)に行った領内総検地は寸余の土地も見逃さない徹底振りで
36万石余の石高を検出した。

ひどいなあ、威公
678日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:55:27
でも子沢山
679日本@名無史さん:2008/06/30(月) 09:27:21
定府でほとんど水戸にいなかったんだから、
功罪ともに家臣のものだね。
680日本@名無史さん:2008/06/30(月) 21:56:50
>>679
それは興味深い指摘です
光圀が年貢の取り立てを厳しくせず、民をいたわれとした手紙が残ってますが、
それなら分不相応な文化事業をやめりゃいいじゃん! と覆わず突っ込んで
しまったのですが、
思えば光圀はホントに何にもわかってなかったんでしょうね
そして現場の下役人が常に苦労する
頭のいいだけに始末に負えない馬鹿殿ですよね
681日本@名無史さん:2008/06/30(月) 22:11:44
>>675
幕府からの借金の棄捐と、助成金の引き出しは峯姫(美子)様の功績であるぞ
682日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:25:47
徳川光圀 寛永5年(1628)〜元禄13年(1700)
・父の死に際し殉死を禁じ、幕府の殉死厳禁の先例をなした
・寺社改革を断行して宗教界の刷新をはかった
・笠原水道を建設して水戸下町の下水道問題を解決
・『救民妙薬』を刊行して民間医療に意を注ぐ
・『大日本史』『釈万葉集』『礼儀類典』『花押藪』などの編纂
・文化財の修理保存
・那須国造碑の保存とその付近の侍塚の発掘調査
・将軍継嗣問題での主張(5代に綱吉、6代に綱豊を推す)
・生類憐れみの令に対する批判的態度

しかし『大日本史』編纂は実に藩財政の3分の1を占め、ために農村は疲弊
し、現在の水戸には納豆と梅干くらいしか名物が無い、と言われるくらい
三家城下町の中で、名古屋はいうにおよばず、和歌山にも遠く及ばず、
黄門様のお膝元は苛斂誅求にあえいでいたのでありました
683日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:26:41
義公とは名ばかりのエエカッコシイであります
684日本@名無史さん:2008/07/01(火) 00:09:44
やんちゃな七郎麿慶喜は小さい頃におとなしい性格の五郎麿(池田慶徳)をいじめていたらしいですが、大人になった二人の仲はどうだったのでしょう?
685日本@名無史さん:2008/07/01(火) 00:57:58
そのやんちゃな七郎麿は、あまりにやんちゃなため、祖母に叱り付けられた
ところ、恐れ入るどころか
「なんだ、この坊主め」
とばかり、祖母の頭を力任せに打ったそうな
祖母にすらこの調子なんですから、愚鈍な兄弟に対して尊大なことは当たり前
スよ
大人になってからの慶喜君は、一橋家当主だし、最初謹慎食らっちゃうし、そ
の後は将軍後見職を2年、禁裏守衛総督を3年ほどやって、宗家の家督ついで
戦に負けて謹慎して、なんやかやあって、静岡でじっとして、、、と
まるで二人の接点はありませんなあ
官軍の処分では、五郎麿クンのところで謹慎のはずが、山岡や勝がねばって
水戸での謹慎となったし
ゴロマロは明治10年に死んじゃうから、まともな交流はなかったんじゃないの?
686日本@名無史さん:2008/07/01(火) 08:57:21
>>684
その2人は5男と7男でありながら生まれが2カ月しか違わないんだっけ?
慶喜は正室腹で有栖川宮の外孫だから、威張ってそう。
687日本@名無史さん:2008/07/01(火) 18:58:48
弘道館には五・七・八郎麿の三人で一緒に通っていたらしいね。
学問好きで、ままごとなどをして遊んでいた五郎麿とは反りが合わなかったんだろう。
八郎麿(松平直侯)はどんな性格だったか知らないけど
688日本@名無史さん:2008/07/01(火) 20:20:11
>>176
加藤木ですが、何か質問ありますか?
689日本@名無史さん:2008/07/01(火) 22:59:36
徳川綱條 明暦2年(1656)〜享保3年(1718)
光圀の兄讃岐高松藩主松平頼重の次男
兄綱方の死により光圀の養子となり、元禄3年(1690)第三代藩主に就任
綱條の直面したのは藩財政の困窮であり、その再建のために宝永の新法と称さ
れる藩政改革を実施した。宝永3年(1706)、牢人松波勘十郎を登用、財政再
建を一任。松波は、経費の節減、年貢の増徴、専売制の強化、城下町商業の統
制緩和などの諸政策を打ち出し、さらに大規模な「新川普請」を断行した。
新川普請とは涸沼と北浦を結ぶ紅葉運河と、大貫海岸と涸沼川を結ぶ大貫運河
の開削をいう。この運河の開削によって、流通経済の活性化を意図したもので
ある。
しかし松波の改革は領内農民の大一揆を惹起し、松波は追放され、改革は中止
となった。綱條は藩財政再建の見通しすら立てられないまま病没


光圀の負の遺産をもろに引っかぶった粛公
しかし松波に責任をおっかぶせるたあ、ひどいんでないかい?
690日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:26:07
池田慶徳「慶喜って何考えてるか分からん奴でしょう?」
松平容保「はい。自分勝手ですし。」
691日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:38:39
徳川吉孚(よしざね)貞享2年(1685)〜宝永6年
水戸徳川家の3代藩主徳川綱條の三男としてうまれ、水戸家の御曹子として育
ったそうです。
いいつたえでは、大変な美男子だったとされ、5代将軍・徳川綱吉公に大変気
に入られたそうです。
綱吉公の養女だった八重姫と婚姻して、一女をもうけますが、水戸家の藩主と
なることなく死去。
父である綱条公はじめ水戸家の嘆きは深かったといいます。
吉孚公の一女である美代姫は、讃岐高松藩主の子であった宗堯公が4代藩主と
なると、その正室となります。
宗堯公と美代姫の子である宗翰公が5代藩主となっています。
吉孚公の死後、正室である八重姫は、「養仙院(のちに随性院)」と号し、「
将軍養女」としてたびたび江戸城へあがったそうです。


諡号は恭伯世子
美人薄命は男にも通ず、か
692日本@名無史さん:2008/07/06(日) 00:43:49
>>691 吉ざねは何年に死んだの?
以前水戸黄門スペシャルに出てきた時には利発な少年て感じだったが
693日本@名無史さん:2008/07/06(日) 01:05:30
宝永六年は1709年
25歳だね、死んだの
694日本@名無史さん:2008/07/06(日) 09:30:11
>>693 サンクス!
695日本@名無史さん:2008/08/22(金) 13:30:28
光圀は隠居してから中納言。
極官とはいえ遅すぎだ。
696日本@名無史さん:2008/08/23(土) 09:39:21
印籠にはじつは菊の紋が入っていたW
697日本@名無史さん:2008/08/24(日) 16:28:40
↑つまんないよ?
698日本@名無史さん:2008/08/29(金) 05:58:12
佐竹>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>水戸徳川
699日本@名無史さん:2008/08/29(金) 09:24:34
具体的にはなにも説明できない不等号バカ発見
700日本@名無史さん:2008/08/29(金) 20:23:30
斉昭の兄の斉のぶって家斉の娘が正室だったから、妾つくれなかったの?
701日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:01:48
8代将軍徳川吉宗の兄貴紀伊藩主徳川綱教も
5代将軍徳川綱吉の成人するまで育った唯一の子である鶴姫を正室とし
妾や側室は一切持っていなかったよな
鶴姫との間に子供はなかった
綱教の妻が将軍の息女ではなく綱教に妾腹の子供が大勢いたら
間違いなく四男坊の吉宗は紀伊藩主になれずましてや将軍になどなれるはずもなかったが
702日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:25:51
尾張光友は子だくさんですが。
703日本@名無史さん:2008/08/30(土) 08:34:29
それは千代姫との間に、嫡子を含め二男二女をもうけたから。
もっともその前に義昌が生まれてるけどね。その義昌も三男扱い。
つまり千代姫及び幕府を憚って、正室の子が産まれ、ある程度成長するまでは隠してた。
まあ千代姫が輿入れしたのが二歳の時だから、彼女が成長するまで女を作
るな、というほうが酷だろうな。
だから綱教も正室に二、三人産ませてたら、他の女に手をつけてたと思うよ。

ちなみに綱誠があれだけ側室を置いたのは、母のアドバイスだそうだ。
704日本@名無史さん:2008/08/30(土) 11:11:48
斉昭は兄を反面教師にして子作りに励んだのか
705日本@名無史さん:2008/08/30(土) 14:30:23
別に水戸に限ったことでもないかと…
薩摩藩も水戸と同じくらい極悪だしね。
奄美や与論島の島民から搾取したり、琉球占領して密貿したりってね。
とすれ違いなことを薩摩出身者が言ってみる。
706日本@名無史さん:2008/08/30(土) 23:24:02
薩摩は水戸よりもずっと厳しい立場だったからねえ。
延々と江戸まで参勤をしなければならないし、宝暦治水など御手伝普請もしなければいけなかった。
莫大な借金を抱えたのも無理ないことかと思う。
だからといって、苛斂誅求を肯定するわけではないが。
水戸は御三家として優遇されているのに
・プライドから35万石なんてむりに表高をあげた
・大日本史編纂という身の丈に合わぬ文化事業をやめなかった
おかげで、薩摩と並ぶほどになってしまった。
同じ三家の尾張紀伊を見れば、いかに無思慮なことをやっていたか。
707日本@名無史さん:2008/08/31(日) 00:53:02
>>703
千代姫はまたなんでそんなアドバイスを…
708日本@名無史さん:2008/08/31(日) 02:05:21
千代姫は将軍家出身ということに相当プライドを持っていた。残された言動から
それが伺える。だから自分の遺伝子を継いだ綱誠は尾張家当主になるのは当然だ
し、不肖の弟である綱吉よりも将軍にふさわしいとまで考えていたほど。
そんな彼女だから、自分のDNAを残すために、綱誠(及び義行)の子供は多ければ
多いほどいい。
だからだろうね。子作りに励めと。
709日本@名無史さん:2008/08/31(日) 06:08:13
710日本@名無史さん:2008/08/31(日) 06:34:52
生瀬騒動をしってるか?

人間の葛水戸藩はゆるされるべきではない

犬畜生が水戸藩

水戸肛門は歴史から抹殺すべき
水戸徳川は部落

711日本@名無史さん:2008/08/31(日) 15:27:19
「生瀬騒動とは、慶長7(1602)年に生瀬(現、茨城県久慈郡大子町)で起き
た大量虐殺事件、いわゆる水戸徳川家による一か村皆殺し事件である」
「生瀬騒動関連」http://homepage3.nifty.com/NAHKI/sakuraoka/namase.htm

あのう、慶長7年は徳川頼房の生まれる前で、水戸の領主は武田信吉(家康五
男)なんですけど?
712日本@名無史さん:2008/08/31(日) 15:41:13
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P160C100.HTM
こちらでは慶長14年(1609)になっている。頼房が水戸に封ぜられた年だ。
しかしこの時頼房はまだ7歳(数え年)なので、彼個人を責めるわけには
いかない。
713日本@名無史さん:2008/08/31(日) 18:49:13
>>711
そのページの註には年代に諸説あることが記されている。

「註──加藤寛斎『常陸国北郡里程間数之記』、飯嶋和一『神無き月十番目の夜』(河出書房新社
、1997年)、大藤家伝承によれば慶長7年(1602年)、高倉逸斎『探旧考証
』によれば慶長14年(160
9年)、『おらが在所』(霞五郎著;保内郷土誌刊行会、1952年)によれば元和元年(1615年)とな
っている。他にも、元和3年(1617年)説、元和7年(1621年)説がある。」

ここまでばらばらだとやや信憑性に欠けるな。
もっとも遅い元和7年で頼房19歳。定府だったことも考えると、>>712の言う通り、彼個人の責ではない。
714日本@名無史さん:2008/09/01(月) 02:25:02
生瀬騒動は>>652が書いている。

>この事件は初代藩主頼房が水戸に封ぜられた慶長14年(1607)の事だという。
>佐竹から徳川へと領主の変った年の秋10月、久慈郡小生瀬の百姓が刈入れを終えた所
>へ水戸から年貢とりの小役人が二人来たので、命ぜられるままに年貢を渡した。すると2、3日の後、
>また同じような下役人が二人やってきて、またしても年貢を出せという。

ここでは慶長14年説をとっているが、「佐竹から徳川へと領主の変った年」というのは>>711にあるよう
に慶長7年だ。恐らく佐竹から直接水戸徳川に変わったという認識ゆえ、年代を変えたんだろうね。
実際は佐竹→松平(武田)信吉→徳川頼将(頼宣)→徳川頼房。
騒動の発端が、佐竹の役人の後にきた徳川(正確には松平だが)を贋の役人と思い、年貢の二重取りに
怒って殺傷した、とあるから、慶長7年が正しいと思う。
ということはこの騒動の責めを水戸徳川家に帰すのはおかしい。
715日本@名無史さん:2008/09/01(月) 02:29:01
つまり
「水戸が何100年の領主佐竹から徳川にひきつがれたばかりではあり」
というのは正確には松平とすべきだし
「藩主は幼年なので治世の初めに甘い顔を見せてはならぬと思ったのであろう」
というのも必ずしも正しくはない。信吉はこの時20歳だったのだから。
かように旧藩時代の書物といえ、時代誤認はよくあることで、例えば尾張家の『塩尻』
でも時折見られる。
716日本@名無史さん:2008/09/01(月) 08:38:50
水戸で信吉といえば付家老中山信吉
717日本@名無史さん:2008/09/12(金) 09:14:36
黄門様て重税ばっかりしてたのに名君?
718水戸藩國老中山備前守:2008/09/12(金) 10:38:36
光圀は暗君
719日本@名無史さん:2008/09/12(金) 12:45:57
>>718
そのバカなコテハン
恥ずかしくないの?
720日本@名無史さん:2008/09/20(土) 20:23:21
慶喜は昭武とは仲よかったみたいだけど、他の兄弟とはどうだったんだろう?
721日本@名無史さん:2008/09/21(日) 02:02:56
>>717
領民からしたら暗君かな。
722南龍公:2008/09/30(火) 00:23:47
>>717
領民から見えるトコでは名君ぶっているよ。
隠居後は自ら耕し、租税を納めているし、領内を回っては代官に民をいたわるよう諭している。
その種を自分でまいたという意識が全然無いだけに始末が悪い。
だから家臣にとっても暗君だね。
723粛公:2008/09/30(火) 19:01:25
光圀が名君とされているのは、綱條が盛んに顕彰したせいでもある。
綱條にしてみれば、光圀が名君であればあるほど、己の地位が安定するからね。
724日本@名無史さん:2008/10/04(土) 19:43:36
>>720 なぜか昭武とは趣味が合うんだよな
写真とかも一緒に映ってるし
もっとも、兄弟はみんな短命だったのであまり交流が持てなかったのかもしれない
725日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:18:42
清水家を継がせた時点で特別扱いだよ
726常陸百姓:2008/10/04(土) 23:37:30
水戸様こと徳川家は三河に帰れ!
727日本@名無史さん:2008/10/05(日) 01:52:31
清水家を継がせたのは信頼する親族に脇を固めてもらいたかったからだろう。
三家の庶子なら三卿を継ぐのは特別ではない。

慶喜の写真好きは従兄弟の慶勝の影響らしいね。そういえば高須四兄弟も戊辰では敵味方分かれたが、
明治の十一年には一緒に写真におさまっている(写真代は割り勘で、その後一緒に食事をしたそうだ)。
なぜか実家を継いだ義勇は一緒に写っていない。
728日本@名無史さん:2008/10/05(日) 13:11:40
>三家の庶子なら三卿を継ぐのは特別ではない。
特別でしょ。実例がいくつもあるかい?
一橋茂栄は尾張藩主を隠居した後だから特殊な例。
昭武は将軍の実弟だから清水家を継げた。
729日本@名無史さん:2008/10/10(金) 23:12:32
>>728
スミマセヌ。あきらかに間違いだね。清水家を継ぐのは、と書くべきだった。
当時の清水家は明き御屋敷が多かったこともあり、将軍にとって信頼できる
親族をいれる器みたいな存在だった。
松平斉民や徳川茂徳(茂栄)も清水家相続を打診されたことがある。
ゆえに昭武の相続もそう突飛じゃないと思うんだ。
ちなみに茂徳は三家の庶子じゃないよね。
730日本@名無史さん:2008/10/11(土) 12:54:15
>>726
断る
731日本@名無史さん:2008/10/12(日) 17:43:05
誰か斉昭の男児鶴千代から廿二麿まで22人の人物評などをまとめてくれ。
732日本@名無史さん:2008/10/13(月) 09:43:21
六郎麿 早世
733日本@名無史さん:2008/10/20(月) 19:57:54
>>731 
鶴千代…徳川慶篤(1832〜68)
優柔不断で水戸家を掌握できず、藩政の混乱を招き「よかろう様」などと揶喩された。
だが優しい性格であり幕末の慶喜を心配していたと言われる。

次郎麿…早世

三郎麿…早世

四郎麿…早世

五郎麿…池田慶徳(1837〜77)
幼少の頃は柔和で品よく養子向きと言われていた。1850年に鳥取藩襲封。
幕末には朝廷に会津藩兵の閲兵を勧たり、天皇の攘夷親征計画に反対する建白書を提出するなど行動的な一面を見せた。

六郎麿…早世

七郎麿…徳川慶喜(1837〜1913)

八郎麿…松平直侯(1839〜62)
幼い頃は兄の五郎麿、七郎麿と弘道館へ通う。性格は七郎麿に似ていたと言われる。1854年川越藩襲封。内海砲台場警備を除いてさしたる功績も無いまま病没。
734日本@名無史さん:2008/10/21(火) 21:58:28
九郎麿…池田茂政(1839〜99)
幼少期は同母兄の五郎麿と似ていておとなしい性格であった。
1863年岡山藩襲封。能楽、和歌などの芸術を好んだ。

十郎麿…松平武聰(1842〜82)
1847年浜田藩襲封。殖産興業を中心に藩政改革に臨み105万両の借金を返済するなど名君と言われた。
第二次長州征伐では破れ浜田城を焼き払い船で脱出し命からがら逃げ延びた。
735日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:32:06
余一麿…喜連川縄氏(1844〜74)
1862年喜連川藩襲封。同藩は五千石で無席でありながら十万石の国主格であり、縄氏も左馬頭に任官した。
戊辰戦争では白河口まで進撃し、敗れた松平容保を千住まで護送する任を負った。

余二麿…早世

余三麿…早世

余四麿…松平昭訓(1849〜64)
1863年兄慶篤に従って上洛し、慶篤が京を離れてからはその名代として都を守衛した。
年少ながら英明の誉れ高く、反幕公卿や攘夷派志士から将来を嘱望されていた。

余五麿…早世

余六麿…松平忠和…(1851〜1917)
1862年島原藩襲封。同藩は九州の隠れ目付としての役割を担っていた。
そのため長州征伐に出兵し、藩論を佐幕に統一しようとしたが成せず結局戊辰戦争では秋田や盛岡に出兵することとなった。
736日本@名無史さん:2008/10/23(木) 04:11:22
佐竹旧臣の家系から幕末の水戸藩で活躍した人っている?


藤田親子、会沢正志斉、武田耕雲斉、関鉄之介、住谷寅之介とか


みんな徳川に従いてきた家なのかな?
737水戸候付家老中山備後守:2008/10/23(木) 13:36:24
御三家筆頭水戸斉脩あげ
738日本@名無史さん:2008/10/23(木) 20:10:26
余七麿…土屋挙直(1852〜92)
1868年土浦藩襲封。明治になり会計事務に精通した藩士らをもって商社を設立したり、第五十国立銀行をつくるなど活躍した。

余八麿…徳川昭武(1853〜1910)

余九麿…松平喜徳(1855〜91)
会津藩主として戊辰戦争時には藩士や同盟軍兵士を鼓舞するため戦場を激励して廻ったという。
会津戦争に参加していた新選組の隊士に対し
「新選組の勇名は義父から聞いている。これまで以上に励まれよ」
と激励したという逸話が残っている。
739日本@名無史さん:2008/10/24(金) 08:43:26
喜徳は会津藩主になってるんだっけ?
斗南藩に行かずに実家に戻ったのはなぜだろう?
740日本@名無史さん:2008/10/24(金) 19:45:04
廿麿…早世

廿一麿…早世

廿二麿…松平頼之(1858〜73)
1869年陸奥守山藩襲封。目立った功績なく夭折。
741日本@名無史さん:2008/10/24(金) 21:19:31
>>739
会津戦争の時の藩主は喜徳。
>>740が挙げた守山藩主家の頼之が没して空席になったから、喜徳が容保との養子縁組を
解消して守山藩主家にはいった。
742日本@名無史さん:2008/11/08(土) 19:56:32
松平忠和って慶喜と仲悪かったのかな?
ほぼ同時代を生きたのに
743日本@名無史さん:2008/11/10(月) 00:45:56
仲が悪いも何も政治的立場が違うし年も離れすぎているし。
明治後の義信の行動はほぼコントロールされてたしね。
744日本@名無史さん:2008/11/30(日) 20:29:41
この前ネットで調べてたら松平武聰の伝記があった
マイナーな人物を選んだな
745日本@名無史さん:2008/12/24(水) 09:44:07
as
746日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:05:16
慶喜の兄弟で写真が残ってるのは池田慶徳、池田茂政、松平忠和、徳川昭武、松平喜徳の五人。
747日本@名無史さん:2009/01/01(木) 01:39:04
あげ
748日本@名無史さん:2009/01/05(月) 03:19:50
今年は水戸徳川家開藩400年記念age
749日本@名無史さん:2009/01/05(月) 10:06:03
水戸徳川家の初代はのちの頼宣なんだが
その前はその兄の武田信吉
750日本@名無史さん:2009/01/09(金) 22:20:38
普通水戸徳川家の祖と言ったら、頼房だけどね。
頼宣は水戸→駿河→紀伊と転封されて紀州徳川家の祖…
751日本@名無史さん:2009/01/13(火) 19:42:27
少し秋田県にいたことがあるんだけど、
県南に益子さんって多かった。
佐竹氏家臣団には益子はいないのに。

茂木家に吸収されて秋田に行ったのかな?
752日本@名無史さん:2009/01/14(水) 10:24:00
御三家筆頭
753日本@名無史さん:2009/01/14(水) 12:00:40
農民の年貢8割取った極悪大名だっけか
754日本@名無史さん:2009/01/14(水) 17:16:12
>>749
じゃあ頼房は水戸徳川家の二代目なのか?
馬鹿馬鹿しい…
755日本@名無史さん:2009/01/18(日) 12:58:33
水戸徳川家の初代が
頼房で初代当主

水戸藩の初代が信吉
頼宣が二代、頼房が三代藩主
756日本@名無史さん:2009/01/18(日) 13:06:34
>>754
水戸は家康の五男信吉に与えられていた所領。
ただし信吉は武田家の養子で武田を名乗っていたために「徳川家」ではない。
しかし信吉が長生きしていれば異母弟に水戸の地は与えられないので
徳川三家のうち水戸は別のところになっていた可能性はある。
757日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:04:07
忠吉や信吉が長生きしていたら11男の頼房に出番はない。
758日本@名無史さん:2009/01/19(月) 16:27:59
信吉が子孫を残していたら二代目からは松平か徳川に復していただろうね。
759徳川:2009/01/20(火) 20:06:01
我が、水戸徳川家が邪悪だと!?佐竹こそが、邪悪の根源ではないのか!!この様な不謹慎な発言は、慎むべきである。その方には、切腹を命じる。
760日本@名無史さん:2009/01/21(水) 00:03:14
>>751
戦国時代からいる
761日本@名無史さん:2009/01/21(水) 14:47:30
それにしても徳川家に生まれた男子は成人しないで良く死ぬな
最先端の医療でいいもん食べてこれかよ
農民町人の方が成人になってじゃないの
間引きさせなきゃ
近親婚と梅毒の影響かね
762日本@名無史さん:2009/01/21(水) 15:01:21
>>761
乳母の白粉に含まれてた鉛による中毒れす。
763日本@名無史さん:2009/01/21(水) 21:35:54
>>761
皇室の死亡率もすさまじいよ
764日本@名無史さん:2009/01/21(水) 22:04:26
>>761
徳川家の子女を産んだのは大部分が側室だし
両親が近親婚で生まれた将軍は一人もいなかったはず
765日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:24:36
近代以前の乳幼児の死亡率は結構高い。
当時の記録を調べてみると、驚くほどですよ。
成人の病死も多いね。麻疹も立派な死病だった。
*現代でも悪くすると死ぬから、軽視できないけどね、麻疹。
また>>761氏の指摘どおり、当時の白粉(乳房ちかくにまで塗っていた)に含まれていた鉛が徳川家子女の
死亡率を更に高めているというのが定説。
>>764氏の指摘どおり、徳川家諸家での近親婚は記録では確認できない。
つか近親婚とは何親等以内なのか、定義によるんだがね。
766日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:33:02
忠吉、信吉が子孫を残した場合のイフ
尾張=忠吉
常陸=信吉
この二家は秀康がそうだったように、自分の代或いは二代目以降は松平か徳川に復した可能性が高い。
駿府→紀伊=義直
甲府=頼宣
ただし義直の石高は20〜30万石くらいになっていたと思う。
頼房は頼宣の支流扱い、かなあ。
まあ、妄想ですけどね。
767日本@名無史さん:2009/01/22(木) 09:26:09
徳川氏で水戸家ほど子供に恵まれて成人した家系はないのに
無知をさらすマゾな>>761
幕末の頼房系徳川 将軍家、水戸家、尾張家、清水家、一橋家
768日本@名無史さん:2009/01/22(木) 19:54:04
日本史編纂のために農民を絞り上げる暴君か
769日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:00:24
幕末の不幸は、御三家筆頭水戸斉脩が、清水卿から養子を迎えるべしとする榊原淡路、中山備後、鈴木石見らのアドバイスを斥け、敬三郎を推す山野辺兵庫、跡部彦九郎、戸田銀次郎らの主張を入れてしまったことが元凶だ!
770佐竹常陸介:2009/01/31(土) 22:14:00
>>759
騙り者源氏長者が片腹痛し、常北をめちゃくちゃにしたのはお前たち三河の怪しげな成り上がり偽源氏長者の不徳川の分流筋だろ、この騙りタヌキめが
おいらが立てたスレにしちゃ珍しく長生きしてんな(苦笑)
でもホント、水戸徳川家は非道だったんだから
俺は土佐守を僭称してるけどw、土佐っ子の他に水戸藩領だった
常陸っ子の血も入ってるからさ、佐竹旧臣末裔の
772日本@名無史さん:2009/02/04(水) 17:27:21
徳川が源氏というのは真っ赤なウソ
773日本@名無史さん:2009/02/04(水) 20:01:22
佐竹明夫
774日本@名無史さん:2009/02/06(金) 20:12:49
思い起こせば魚旅館経営を自慢してた頃の自分が恥ずかしいwショボ
【水戸様】曝しage!
776日本@名無史さん:2009/02/10(火) 09:39:36
御三家筆頭水戸斉脩の後継には老中水野忠成、水戸侯連枝守山侯松平大学頭頼慎、国老榊原淡路守、中山備後守、鈴木石見守が推す家斉の子・清水恒之丞と、
弘道館の武田耕雲斎、戸田銀次郎、安島帯刀、そして中老山野辺兵庫が推す斉脩の弟の敬三郎が激しく対立
777日本@名無史さん:2009/02/19(木) 20:36:31
>>767
訳の分からん理由で嫡子をチェンジリングせざるを得ない状況が一世紀も続いたけどな…
>>769
なんで水戸藩に将軍に一番近い一橋の血を入れなきゃならんのだ
778日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:08:33
ま、公爵の地位も手に入れて、宗家、尾張、清水、一ツ橋の血も水戸徳川で固めて
何だかんだで御三家で一番の勝ち組になってるんだな
779日本@名無史さん:2009/03/07(土) 17:58:19
明治時代には昭武が松戸家を興してるよな
780日本@名無史さん:2009/03/09(月) 15:15:54
所で、映画「桜田門外の変」製作するの知ってる?
781日本@名無史さん:2009/03/11(水) 23:10:16
そいや会津の松平容保も水戸系だったね
782日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:59:25
>>781
ん?尾張の分家出身じゃなかった?
783日本@名無史さん:2009/03/13(金) 14:08:30
その尾張の分家に水戸の血が入ってる
784日本@名無史さん:2009/03/14(土) 18:13:06
家康から水戸系で
現在の徳川宗家当主まで
つながっている
途中に一郎というのが
1人はさまってるのがカッコ悪いが
7851 ◆.5DV4fMpf6 :2009/03/15(日) 01:36:54
>>782
さらに先代の会津松平家当主(容保の養父)は水戸家出身。
容保の実父(尾張藩の支藩々主)も水戸家出身。
容保がとんでもねぇバカ殿だったのも水戸系だったからだ。
関ヶ原後の土佐じゃ盛親なるバカ殿のせいで、幕末の会津じゃ容保のせいで、
俺の先祖たちはそれぞれえれぇ目に遭わされたぜ。
ヤマザキ、盛親と久武を撃て!
ヤマザキ、容保と山川を撃て!
ヤマザキ、水戸徳川家を「討て」!
786日本@名無史さん:2009/03/17(火) 13:09:27
>容保の実父(尾張藩の支藩々主)も水戸家出身。

松平義建は先代高須藩主の実子ですがなにか?
787日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:02:13
松平容保は、水戸の血を受け継いでいるから、

桜田門外の変の直後に、
幕府が問罪の為に、尾張・紀伊両藩等に出兵させて、
水戸藩に差し向けようとしたのを反対したのか?
788【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/03/20(金) 01:19:58
>>786
その親父さん、つまり容保の爺さんは水戸家出身。
容保の生母は側室だけど、容保の親父さんの正室は水戸家出身。
>>787
おまけに義父(先代会津藩主)が水戸家出身だし、
そういった関係も水戸討伐阻止の動きと無関係じゃないらしいね。
水戸討伐阻止の実績?もあって一橋慶喜に信頼されていたそうな。
789【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/03/20(金) 01:22:46
訂正
○>養父
×>義父
790日本@名無史さん:2009/03/26(木) 17:08:27
水戸藩て財政が悪くてやたら一揆が多いってなイメージがあったけど
実は尾張の方が全然多いんだな。水戸は一揆ランキングトップ20にも入って無いし
加賀とか会津のが全然多くて意外
791日本@名無史さん:2009/03/28(土) 10:47:48
水戸徳川家について調べ物をしているのですが、将軍家における徳川実紀みたいなものは水戸藩にもあるのでしょうか?
水戸藩から将軍家に献上した品が出てきてなのですが、徳川実紀に記録が無く、水戸藩側に記録があればと思ったのですが。
宜しくお願いします。
792日本@名無史さん:2009/03/28(土) 23:34:52
>>790
君が言っている「ランキングトップ20」というのは
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakumatsu/bakumatsu_1.htmの中段くらいにある
3.百姓の抵抗活動 (藩別百姓一揆多発藩ベスト20)
のことでしょうか。
実はこれ、データに誤りがあるんです。僕も気になってその表の元である『百姓一揆の年次的研究』
(青木紅二/著) を図書館で読んでみたのだけれど、件の表は「第一章 統計からみた百姓一揆」の
31ページにある。これ自体は上記のサイトに載っていたものと変わらない。
ところが同書28〜30ページに全国主要97藩の藩別年代別百姓一揆件数が載せられていて、そこでは水戸は江戸時代通
じて23件となっている。他の藩の数字を見ると、31ページの表は28
〜30ページのものから抜粋したものであるのは明らかだから、単純に水戸だけ抜け落ちたのでしょう。
だから正確に言うと水戸は延岡、上田より1件多いランキング18位となり、熊本はトップ20か
ら抜けることになります。
なお君の指摘する
>加賀とか会津のが全然多くて意外
はこの表の性質を正しくついていて、この表はまさに発生件数だけを並べていて、規模も内容も関
係なく、1村でも数十村でも同じ1件だし、農民が集まっただけ(それでも当時は無法とされた)でも1件になってます。
だから石高が多い、つまり支配領域、村数が多ければ自然と件数も多くなります。
前に挙げた28〜30ページの藩別件数には頭に「幕府領」「旗本領」もついていて、これがそれ
ぞれ546件と126件。群を抜いて多いんですね。青木氏も「当然のことながら、大藩が大部分を占め
ているが、石高からいって異常に件数が多いのは宇和島・篠山・上田・新庄などの諸藩であろう」
(27ページ)と述べています。
(続けて「これらはいずれも山間地帯を主要な領域としていることに注意されたい」とも)
つまり件の「藩別百姓一揆多発藩ベスト20」から「件数が多いから、ひどい」とは一概に言えな
いわけです。青木氏も「封建社会における農民闘争は、全国を通じて普遍的な現象」といっています。(31ページ)
793792:2009/03/28(土) 23:37:54
ゆえに実高80万石、加えて無高とされる木曾山林を領地に持つ尾張徳川家は尾張のみならず美濃、
信濃、摂津にも領土を持ってましたから、水戸より一揆の件数が多くなるのは自然のことなのです。
むしろ55万石の大藩でありながら17件しかない和歌山藩の方がすごいですね。
また規模から言えば水戸の23件はやはり異常です。加えて百姓一揆の比較的少なかった元禄〜宝永
期に大規模な一揆があった水戸はやはり苛政であったとするべきでしょう。
794792:2009/03/28(土) 23:56:20
>>791
水戸藩の基本史料なら彰考館の『水城金鑑』『水府系纂』くらいしかわかりません。
吉川弘文間の『水戸藩史料』は幕末(斉昭時代から)のものですので、限定的ですが。
礼物であれば『徳川礼典録』(松平慶永・ 尾張徳川黎明会/著)に載っているかも知れません。
ずばりコレというのはわかりません。すいません。
795791:2009/03/29(日) 13:30:59
>>794
ありがとうございます。調べてみます!
796日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:54:19
水戸徳川家がなかったら
日本は滅亡していた。
水戸徳川家こそ日本近代の 父。
797日本@名無史さん:2009/03/29(日) 19:59:14
水戸徳川家に将軍宣下!
798日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:16:30
大日本史、読み下し、現代語訳、解説付きで
出版希望
799日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:18:57
最近は司馬遼太郎の影響で
「大日本史は無駄だった」
とか言うやつばかりだが
大日本史がなかったら
残ってなかった歴史資料や
歴史事実はいっぱいあるぞ。
800日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:30:46
>>87
天守閣も造らなかったとは
なんと質素な。
苛政て本当かな?
801日本@名無史さん:2009/03/29(日) 20:33:50
>>95
庶民に藩庭を公開するなんて
民思いの君主ですよね
802日本@名無史さん:2009/03/30(月) 11:59:50
>>799
君が何を根拠に
>最近は司馬遼太郎の影響で
> 「大日本史は無駄だった」
> とか言うやつばかりだが

と述べているのかわかりませんが、光圀馬鹿殿論者は『大日本史』の価値を云々しているのではな
く、藩財政を顧みず巨大な事業を行った愚かさを指摘しているのです。
またこれは司馬ではなく、直接には大石慎三郎の著作の影響です。
文化的業績と政治、経済のそれとは別次元のものですから、君や「大日本史は無駄」と主張する人
のように同列に論じるのはどうかと思います。
水戸藩では歳出の三分の一を大日本史編纂事業に使ってました。当然財政は破綻し、その皺寄せは
これまた当然領民と藩士に行きました。大規模な一揆も起こっています。
苛政と言われる所以です。
大日本史編纂にはこういう側面があった事を認識して欲しい。
勘違いして欲しくないのは、だからと言って大日本史の価値が減じるものではない、いや、寧ろ多
大な犠牲を払ってできただけにより一層大切なのであり、間違っても「無駄」とは言えないということです。
803802:2009/03/30(月) 12:26:58
光圀は領民思いの優しさを持っていたことは指摘しておきます。
西山に隠棲後、周囲の農民が重税に苦しむのを見かねて、藩の代官を諌める
書状が今に残っています。
ただ、なぜ重税が課されているのかを理解しようとしなかったことが問題ですね。
晩年の光圀には主君を諌める家臣がいなかった。
加えて養子のツナエダが自己の立場を強化する為に、先君を絶対化してしまった。
綱吉の死後、孝にそむくとも遺言を破り、生類憐みを撤廃した家宣とは雲泥の差です。
光圀は後継者にも家臣にも恵まれなかったと思います。
804日本@名無史さん:2009/03/30(月) 21:54:38
その代官も「誰のせいでこんな重税かけなきゃならねえのか空気読めよ、耄碌ジジイ」というのが本音だったろうな
805日本@名無史さん:2009/03/30(月) 22:32:32
なるほど。

しかし、藩財政の三分の一とは。
一大大事業だったわけですな
大日本史編纂は。
806日本@名無史さん:2009/04/01(水) 18:05:39
>>792-793
勉強になりまつ
807日本@名無史さん:2009/04/03(金) 18:51:27
義公を批判するとは。
君達はそれでも日本人ですか?
大和魂を持っておらぬようだな
808日本@名無史さん:2009/04/04(土) 15:59:41
本1冊作るのに何でそんなに金がかかるんだ。経費なんて墨と紙代だけだろ。
809日本@名無史さん:2009/04/05(日) 08:42:44
>>808
本1冊って、バカなの?
知的に釣ってくれ。
810日本@名無史さん:2009/04/05(日) 10:00:13
三百年のプロジェクトなんて
今の政府には無理ですね。
811日本@名無史さん:2009/04/05(日) 11:21:01
いや自分も疑問だが
歴史の編纂に何でそんなにお金かかるの?
家臣使ってるんだから人件費はタダみたいなもんでしょ。
仮に有能な学者を何人か雇ったとしても、
それによる支出の増加なんて知れてるでしょ
812日本@名無史さん:2009/04/05(日) 11:25:51
古来、中国では歴史編纂は
王朝の一大事業。

じつは江戸時代は
水戸徳川王家が日本を動かしていた!?
813日本@名無史さん:2009/04/05(日) 11:37:16
>>810
今の政府っつーか、
江戸時代と違って科学技術の進歩した現代では、
300年先の社会なんて予測もできないから、
そんなプロジェクトを立案すること自体がそもそも無理。
政府の体制ということだけで言えば長期のプロジェクトというのは十分可能で、
実際に日本を含む先進国数ヵ国の共同プロジェクトで
2100年頃の実用化を目指した核融合技術の開発なんてものが実際に行われてる。
814日本@名無史さん:2009/04/05(日) 11:58:24
藩主萌え〜
  ↓
藩主なんて飾りです!

 これが江戸時代の政治的な流れ
815日本@名無史さん:2009/04/05(日) 16:37:08
大勢の学者を高禄で雇い入れて全国に調査員を派遣
高額な本を数多く購入
今で言えば全く学生がいない国立大学を作るような物

その費用は莫大になるに決まってる

816日本@名無史さん:2009/04/05(日) 17:32:31
百姓一揆は飢饉のせいだろ。
大日本史にこじつけるな。
817日本@名無史さん:2009/04/05(日) 19:30:09
>>816
水戸藩の宝永の一揆は二十七か村に及ぶ大規模なもので、その原因は松浪勘十郎の藩政改革、涸沼−北浦間の運河開削と年貢増にあった。
飢饉は関係ない。
松浪は元禄年間以後高岡藩・大多喜藩・郡山藩・三次藩などの財政再建を成功に導いた、当代一流の経済官僚だったけれど、水戸では失敗してます。
定府を義務付けられ、ただでさえお金がかかるところに、藩のメンツにこだわり表高を25万石から28万石(光圀)、35万石(綱條)に増加。
この表高に基づいて軍役や普請負担が決まるから、自ら負担増加を選んだことに。
加えての『大日本史』編纂。
水戸の年貢は八割に達したといいます。
そこへ運河開削の労役。
これで一揆が起こらないほうがおかしい。
大石が光圀を馬鹿殿呼ばわりしたのも無理はありません。
818日本@名無史さん:2009/04/05(日) 19:37:15
関東農政局のHPには次のようにあります。

水戸藩の藩主は参勤交代がなく、江戸に常駐しなければならなかったため、江戸と水戸で二重の支
出があったことや、二代藩主・光圀(みつくに)の時代に『大日本史(だいにほんし)』の編纂の
ため、全国から多数の学者を集めたことによって人件費が増大したことなど、財政難の要因には、
様々な理由があったようです。
(中略)
この二つの運河の工事は、領内の農民を動員して行われましたが、労働は過酷で、負担を強制させ
られた農民の数は、延べ130万人に達したといいます。また、賃金もほとんど支払われなかったこと
から、農民たちは田畑を耕すことができなかった上に、収入もなくなり、さらには、工事に使われ
た材料費や用具代まで自分たちで払わなければならないといった悲惨なありさまでした。
1708年から宝永の一揆と呼ばれる農民たちの大規模な一揆が起こり、ついには、松波勘十郎は、改
革の責任をとり、水戸の赤沼(あかぬま)の牢獄に入れられ、獄死したといいます

地元のお役所も『大日本史』が財政困窮の原因の一つとしているのです

それにしてもかわいそうなのは松浪です。彼はトカゲの尻尾切りに殺されたようなものです。
819日本@名無史さん:2009/04/05(日) 23:37:51
高禄で学者を雇ったって何人くらい雇ったんだろ?
藩政を傾けるって、そんなに何十人も雇ったんだろか
820日本@名無史さん:2009/04/06(月) 00:54:52
>>819
茨城県立歴史館
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/index.htm
にはこう書かれています。
寛文12年(1672)春、光圀は駒込屋敷の史局を小石川上屋敷故世子綱方の旧殿に移し、彰考館と名づけ
ました。館名は、中国晋代・杜預の「春秋左氏伝序」にある「彰往考来」(過去を明らかにして将来行

うべき道を考える)という語句から光圀みずから選んだものです。史局には光圀揮毫の「彰考館」の
扁額が掲げられ、そのかたわらに五ケ条からなる「史館警」が示されて史館員の心得としました。修
史事業には藩の招きにより全国各地から様々な学派の人々が参加、光圀時代だけでもその数は130名
前後に及ぶといわれています。

大日本史編纂の経費はよくわからないところがあります。
やはり光圀の、ひいては水戸学のマイナス面をあまり知られたくないからでしょう。
藩歳出の三分の一が通説ですが、小は「三万石」から大は「十万石」まであります。
もちろん250年間一定ではなく、代々の藩主によって規模は異なります(休止させた藩主もいた)
ので、こういうばらばらな数字が出るんだと思います。
しかしながら上記にあるように藩外から130名も呼び寄せたり、各地に派遣したり、史料を手に入
れるための費用などを考えれば、三万石を下ることはないでしょう。
一番小さい見積もりの三万石でも実高30万石の十分の一、ただし収入(年貢)はこの30万石のう
ちの何割かです。決して安くはない。
大体一石=一両で、時代による変動はあるものの、一両は5万円〜12万円、一番安い5万円で考え
てみると三万石は15億円になる。
財政難で苦しんでいるのに、一番安く見て15億円の経費を年間かけているわけです。
しかも新田開発やインフラ整備みたいな、民に還元されるものではない。
あくまで一番安い見積もりです。
民はひいひいなのに。
現代こんなことやったら大問題。お隣りの将軍様と同列にみなされるでしょうね。
821日本@名無史さん:2009/04/06(月) 02:25:17
確かに130人は雇いすぎだな。一人200石としても2万6000石かよw
それは財政も傾くわ
822日本@名無史さん:2009/04/06(月) 08:18:02
大日本史からは、少しそれるけど
尋常じゃないと
言うと
水戸藩には、『彰考別館』という研究機関がありました
初期に勤務していた安藤年山が、『年山紀聞』で簡単な紹介をしているだけですが、著作量から見てほぼ同規模の組織があったと考えられます
因みに、年山は元伏見宮家雑掌で、兄の素軒は彰考別館の初代総裁です

823日本@名無史さん:2009/04/06(月) 14:53:39

現在のGMやクライスラーの社長と変わらないな。
破綻してる現実を理解してない
824日本@名無史さん:2009/04/06(月) 17:36:19
光圀に限らず尾張宗春や紀伊重倫もそうだけど、三家だから隠居だけで済んだ。
よそだったら、減封或は改易になってもおかしくないんだね。
まあ、甘えだね。
825日本@名無史さん:2009/04/07(火) 00:54:06
徳川光圀て江戸では結構人気あったんじゃね。
将軍に犬の皮送りつけるとか庶民が喜びそうな事したり。
当時では珍しい長身と美形で江戸城に登城する際は光圀見たさに庶民がおしかけて
江戸城の城の壁が一部壊れたり。
ドラマ水戸黄門のもとの「水戸黄門漫遊記」が幕末につくられてたり。
死んだときには江戸で「天が下二つの宝尽き果てぬ佐渡の金山に水戸の黄門」てな狂歌が詠まれたり。と。
水戸で人気があったかは知らないけど。
826日本@名無史さん:2009/04/07(火) 06:29:02
>>819
京都から出仕した学者は、全員150石以上が基準
史局の頃、既に高禄の割に事務能力やマネジメント能力が低い事が問題となっていた
一つは、リクルーターのスキルが低い事があったようです


827日本@名無史さん:2009/04/07(火) 09:07:35
>>824
光圀がなにか不都合なことをやったのか?
828日本@名無史さん:2009/04/07(火) 16:54:57
>>827
幕政に批判的な言動を繰り返し、財政を著しく悪化させ、理由を表明せずに重臣を自ら刺殺した。

不都合しまくりだが。

宗春は幕政批判と財政悪化、
重倫はお手討ちしまくり。
二人合わせて光圀一人分だ。
829日本@名無史さん:2009/04/07(火) 17:05:05
ま、水戸は徳川家の癌ですから。慶喜が将軍になって幕府が終わったのは当然。
830日本@名無史さん:2009/04/07(火) 20:41:36
財政を傾けてまで編纂したのに、学問的価値が全くないというのは悲しいな。
831日本@名無史さん:2009/04/07(火) 21:38:04
>>825
光圀も宗春も江戸ではたいそう人気だったらしいよ。
領内では微妙。
藩主の贅沢は自分達への負担に繋がるからね。
832日本@名無史さん:2009/04/07(火) 21:51:37
将軍が綱吉の時代だからな
学問のために藩政を傾けること自体は、
少なくとも幕府からは罪とは認識されなかっただろう
833日本@名無史さん:2009/04/07(火) 22:25:35
表立ってはね。
光圀の隠居は半ば強制されたもので、刺殺された藤井紋太夫もかんでいたらしい。
渋る光圀を従三位権中納言という餌で宥めた。

こういう前例があるから宗春もたかをくくってたんだろう。
834日本@名無史さん:2009/04/08(水) 10:45:48
>>831
まぁそりゃ現状の絶対支配者に楯突くような存在は、(当事者じゃない)庶民からは喜ばれるでしょ。
実際はどうしょうもない人物だったとしてもさ。
そこら辺は現代とあんまり変わらないんじゃないの。

もっとも、結果的に失敗はしたものの自分なりの経済政策を進めようとしていた宗春を、
光圀と比較しちゃ可哀想な気もするけどね。
835日本@名無史さん:2009/04/08(水) 12:22:52
>>824
宗春は隠居「だけ」ではないですよ。
隠居の上謹慎。安政の大獄で尾張慶恕、水戸慶篤、一橋慶喜がくらったのと同じ。
すなわち戸も窓も開けず、勿論外出も許されず、起きてる間は一室に篭り、誰とも口をきけず。
(晩年には少し緩んでいる)
加えて宗春の場合、尾張歴代から外され、次の藩主宗勝も宗春の養子ではなく
幕府から新たに尾張を与えられた、という扱い。
またよく知られているように死んでも許されずに墓に金網を被せられた。
いかに吉宗の怒りがすごかったかがわかります。

光圀、重倫とは雲泥の差です。
それだけ吉宗の痛い所を突いていたのでしょうね。

また宗春は領民にも人気がありました。前代の継友が黒字を残してくれたおかげで
治世の最終年に運上金を命じた以外、負担をかけなかったから。
受けが悪かったのは幕府と藩重臣だけです。
逆にいえば彼は政治力は殆どなかった訳です。
836日本@名無史さん:2009/04/08(水) 13:48:06
光圀は隠居した後に柳沢吉保に機嫌取ってるような手紙が残ってるんだよな。
内容は
「時々は参府したい。貴公からも上様に申し上げて欲しい」
やはり水戸での田舎暮らしが寂しかったんだな。
837日本@名無史さん:2009/04/08(水) 15:33:09
神仏分離をしたり大日本史を編纂したり立派な人じゃん。
838日本@名無史さん:2009/04/08(水) 16:08:34
光圀個人の問題じゃない。
水戸徳川家は民と佐竹旧臣を苦しめた外道。
芹沢家みたいに佐竹と不仲だった土豪は良いだろうが。
839日本@名無史さん:2009/04/08(水) 16:31:35
>>837
立派でないなんて言ってないよ。そんなありきたりの評価は今更だろ。
立派だとされる業績を別の角度から眺めただけ。
長所短所、表と裏、いろんな評価がある。それを受け入れられないならテレビの水戸黄門で我慢するんだな。
840日本@名無史さん:2009/04/08(水) 16:43:25
神仏分離がどこが立派なんだよ。
中世の神仏習合の方が自然で日本の土俗文化に一番マッチしてたんだよ。
宗教を理屈でしか考えてないインテリの傲慢だね。
841日本@名無史さん:2009/04/08(水) 19:30:10
そろそろ気づけ。
黄門様が旅に出る度に、しかも一週間に一度の高率で全国各地にいる悪党が庶民を苦しめてたんだよ。
そんな悪人天国日本では、光圀様の治世など善政の範疇だったんだよ。
842日本@名無史さん:2009/04/08(水) 20:27:37
>>841
その通り。
そうやってフィクションに逃げ込むしかないよ。
実際には元禄〜宝永期に全国一苛政だったのは水戸で、
時代劇に描かれるどの悪代官よりも残酷だったからね。
>>840
ケチをつける訳ではないが、近代以前の学問は洋の東西を問わず観念的な、実地を欠いた「インテリの傲慢」だよ。
光圀の学問での業績は決して小さくない。
林羅山→尾張義直→水戸光圀と伝わった、神仏分離・神儒合一は、当時の学問の推進力となり、
それを否定する形で古学(国学)が生まれた。
学問発展の重要なステップだと思う。
光圀の『大日本史』は義直の『神祗宝典』に倣ったんだが、民に迷惑をかけずに、財布の許される
範囲で行うという面は倣わなかったようだ。

ちなみに義直の神儒合一は子の光友には受け入れられず、葬儀も神仏融合で行われた。
光圀はこれを批判している。

尾張ではその後国学や本草学など幅広い学問が展開したのに対し、水戸では神儒合一の水戸学に凝り固まってしまった。
それぞれの後継ぎ(光友、綱條)の差だな。
843日本@名無史さん:2009/04/08(水) 20:53:14
水戸の土民の苦しみより、天下万民のために水戸学を残した功績の方がすごい。
有り体に言えば、土民どもは近代日本の礎に慣れたことに感謝すべきだ。
844日本@名無史さん:2009/04/08(水) 22:17:17
>>843
光圀乙
845日本@名無史さん:2009/04/08(水) 22:20:51
842だが、天下万民のためになったとまではさすがに思ってない。
限りなく光圀の自己満足だったと思ってる。
まあ学問てのはえてしてそんなモンだけどさ。
846日本@名無史さん:2009/04/09(木) 00:05:10
> 近代以前の学問は洋の東西を問わず観念的な、実地を欠いた「インテリの傲慢」だよ。

これは異論ある。
アリストテレスの哲学のすごさを知らんだろ
847日本@名無史さん:2009/04/09(木) 00:32:15
>>846
悪いが俺哲学科卒。
「インテリの傲慢」てのは相手の言葉を受けただけで俺の本意じゃあない。
アリストテレスの偉大さは人並み以上に知ってるつもりだが、前言を撤回するつもりはない。
848日本@名無史さん:2009/04/09(木) 08:33:11
徳川義直と保科正之は交流があったのかね。
どちらも神仏分離、神儒一致ということかね。
849日本@名無史さん:2009/04/09(木) 08:42:58
どうしてこんなにスレ違いなレスができるのだろう。
850日本@名無史さん:2009/04/09(木) 09:33:26
インテリだからだろう
851日本@名無史さん:2009/04/09(木) 22:14:42
水戸学継承者の徳川慶喜が
最後の将軍になるとは
何なる歴史の皮肉。
852日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:17:42
どこぞの偽造文書による所の徳川の血を絶やさない役目は見事に果たしているな
853日本@名無史さん:2009/04/13(月) 12:45:39
>>826
京都から仕官した人数や姓名は判りますか?

ご先祖様が京都から来て水戸家に仕え、江戸の史局詰めだったらしいんです

水戸の空襲で系図や古文書等が失われ、詳しい事が判らなくなってしまった…
854日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:49:43
>>853
史局と言う事は、彰考館以前ですね

初期に出仕されたなら、東大資料編纂所に記録が残っている場合が多いようです
時々に、詳細な身上書を提出しているし、人事記録も保存されています
勿論、系図や家譜も伝わっている
義公が面接されているので、手紙類も複写して残っている場合が多い
ただし、彰考別館に勤務され、彰考館と兼任していない場合は、期間中の人事記録自体が残っていないことは考えられますがね
855日本@名無史さん:2009/04/14(火) 21:57:47
徳川光圀と保科正之の親交は有名
856日本@名無史さん:2009/04/16(木) 12:03:23
>>854さん、有難う御座居ます。

口伝では代々江戸の小石川詰めで、幕末期には水戸家から(一橋)慶喜公付きを命じられ上洛との事です

あと曾祖父は彰考館に勤めてました

東大まで出掛けるのは、ちょっと大変です…
地方の図書館経由で資料を借り出す事は可能でしょうか?

「教えてちゃん」で済みません
m(__)m
857日本@名無史さん:2009/04/16(木) 12:29:51
>>856
なるほど
まずは、あなたが、何を知りたいか決める事です
何を調べるにしても、正確な系図が必要です

まずは、彰考館におられた方の名前から、情報を手繰るのが良いでしょう

水戸の常盤神社では、彰考館の功績についての講演会が、定期的にあるので、そこで相談するのも良いかも知れません

でも、調査には根気も要るし、時間と費用も掛かります

有りものでまとまった資料は、期待しないで下さいね

858日本@名無史さん:2009/04/16(木) 14:03:07
>>857
度重なる御教示有難う御座居ます。

私が知りたいのは
1:氏族(姓)
2:本貫地(苗字の由来)3:京都時代、江戸詰め時代の墓地(宗旨の変遷)
4:家紋(名称と由来や替え紋や女紋の有無)
以上です…(多すぎ?)
とにかく系図ですね

3と4について、一度水府明徳会に電話で問い合わせた事がありましたが「資料無し」との回答でした

まずは常磐神社ですね!
859ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/04/16(木) 15:07:41
出身は知らんけど駒込時代最初は4人、移転した時点では20人ほど。特定できないものかな。
860日本@名無史さん:2009/04/16(木) 18:37:04
>>858
もしかして…
余りに、基本的な事で恐縮なのですが
「ウチの先祖の資料ありませんか」、なんて電話で問い合わせてませんか?

そんな、ズボラな聞き方だと
ノーと言うのが、心情です

少なくとも、事前に調査したいポイントをまとめ、アポを取ってお話を聞かせて頂かないと

861日本@名無史さん:2009/04/16(木) 21:40:11
>>860

まず電話を入れて「知りたい内容」を先方の指示通りFAXしましたが…

で、1週間位して「ご期待に沿えず…」とFAXにて回答が有りました

どうすれば良かったのでしょうか?
862日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:46:21
>>861
なるほど
それなら、それ程おかしくはない

もしかしたら、採用時の名前が異なる可能性もあるよ
例えば、初代の彰考別館総裁は安藤為実なんだけど、稲津右平で採用されていて、義公からの手紙の宛先で確認できる
稲津は安藤の旧名、右平は元北面武士で右衛尉の階級だった事に因んでいる
伏見宮の分家だけど、明治になるまで公表されていない
紫衣事件にも関係していて、徹底的にマークされていたらしいよ

863日本@名無史さん:2009/04/17(金) 18:35:17

下記のブログを見ると水戸藩士の情報は江水御規式帳で探れるかもしれない

ttp://daily-tomato.cocolog-nifty.com/daily_tomato/2007/09/post_7ac2.html
864日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:30:40
>>858
ひいおじいさん以前は、判らないんでしょうか

そういえば、旧水戸藩士の息子は、17前後になると、徳川公爵家に出向き、成人の報告をして変わらぬ忠誠を誓ったそうです
藩士のお墓は、常盤墓地にあります
水戸藩士は、幕末に神道に改宗してるから、お寺さんの付き合いは疎遠です

865日本@名無史さん:2009/04/18(土) 09:24:58
個人の先祖の話なんかどうでもいいよ
他人の迷惑を考えろ
866日本@名無史さん:2009/04/18(土) 10:22:20
>>865
きゃはっw
ごめんなさい

867日本@名無史さん:2009/04/18(土) 18:22:42
一藩士の情報も水戸藩の歴史です。
そのやり取りの中から自分の知らない書籍や情報を知ることができて
結果的にはほかの方にもプラスになると思うのですが
868日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:18:04
>>862
名前が変わる事があったのですね!
やっぱり系図入手しないと無理ですね

>>863
ブログのご紹介有難う御座居ます!
大変勉強になります

>>864
墓地はお寺ですが、曾祖父、祖父は神式で葬儀をしたと聞いてます
祖父の葬儀には常磐神社の神官の方が執り行ったそうです
但し女性は仏式で葬儀を行うのが不思議な所です
869日本@名無史さん:2009/04/18(土) 21:00:43
>>868
名前が変わると言うより
幾つもの名前を、使い分けてるんです
身分も色々
安藤為実は、身分は農民、官位は正五位下です

北面武士として、最下位の兵卒から叩き上げ、実際に作戦にも参加しており、対幕府のロビー活動もしていました
だから、学者としての顔と、諜報員としての顔があります
水戸藩へは、伊藤仁斎の塾で、教授していた時に、話があったそうです

当時の記録からは、水戸藩が、どうしようもなく調査能力がないことがよく分かります
870日本@名無史さん:2009/04/21(火) 20:11:35
水戸公と鹿島大神、
水戸で偉いのはどちら?
871日本@名無史さん:2009/04/21(火) 23:30:08
>>870
釣りですな
872日本@名無史さん:2009/04/21(火) 23:42:43
鹿島なんかU字工事に馬鹿にされるチバラキ県民で
アントラーズヲタは地下足袋の珍走団くずれ

ぼくでんがなズビズバ〜とか
ナマズ食って訛ってるカッペ
873佐竹旧臣末裔:2009/04/22(水) 04:16:45
勅令の水戸討伐令に基づき水戸公を討ちます
874日本@名無史さん:2009/04/22(水) 09:34:37
勅命ってのは聞いたことがあるが。
水戸家ももらって大騒ぎになったな。

875日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:58:28
>>874
『勅令』言えば
彰考別館を作った遠因は、宮中行事と祭祀を記録した、『礼儀類典』の編纂事業の勅令にあります

紫衣事件の後でもあり、極秘プロジェクトとして進められました
この研究機関については、年山紀聞に僅かに記述があるだけで、イマイチ業務が見えません
因みに、年山とは安藤為章の事で、彰考館と兼務していました
紫衣事件の首謀者、後水尾上皇に連なる今出川大納言のラインにあり、母親の亀子は、死後、勅撰和歌集を編纂されています
876日本@名無史さん:2009/04/22(水) 23:19:29
密勅事件
877日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:37:04
>>876
何の事件ですか
878日本@名無史さん:2009/04/29(水) 08:02:32
水戸黄門がテレビで見せてる三つ葉葵は水戸家の三つ葉より葉っぱの枚数が足りない
879日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:34:45
新田源氏正統水戸徳川家
880日本@名無史さん:2009/04/29(水) 22:17:44
>>878
綱吉から下賜された印籠って設定なんじゃね?
881日本@名無史さん:2009/05/01(金) 01:00:18
水戸黄門はヒクション

水戸光圀なる人物は存在しません。
副将軍なんて存在しません。
徳川光圀は、江戸〜水戸以外行ったことはありません。

幕末の狂人・徳川斉昭が水戸藩宣伝のためにつくった物語。
882日本@名無史さん:2009/05/01(金) 23:25:20
>>878
ああ、それはねワザと変えてあるそうな。水戸からクレームが来ないようにね。
葉脈以外にも、葉柄が巴状に曲がってないでしょ。
名古屋城叢書に書いてあったよ。
883日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:33:33
江戸時代の武家の言葉使いに詳しい方にお伺いしたいのですが
将軍は御三家をなんと呼んでいたのか?
前に見た大河ドラマの元禄太平記では将軍綱吉が水戸光圀の事を「水府」と呼び捨てにしていたが、他の歴史小説などでは「水戸殿」と呼んでいます。
どちらが正しいのでしょうか?
884日本@名無史さん:2009/05/06(水) 21:54:20
将軍はふつうに
「中納言」
とかのように官位で呼んでいたんじゃない?
紀州家、尾張家当主が同時にいれば「紀州殿」「尾張殿」だと思う。正式な書状では普通は「〜殿」だからね。
ざっくばらんな席では「紀州」「尾州」「水戸」とか言っていたかも知れない。
少なくとも、成人を時代劇みたいに諱を呼ぶことは絶対にあり得ない。極めて失礼なことだから。
885日本@名無史さん:2009/05/06(水) 23:31:31
やはり官位ですかね
ありがとうございます。
886日本@名無史さん:2009/05/09(土) 00:33:47
>>881
鎌倉にも行ってるよ。妄想くん
887日本@名無史さん:2009/05/09(土) 00:35:36
>>878
御三家、宗家とか三つ葉葵が微妙に違うとかデマらしいけど。どーなんでしょ
888日本@名無史さん:2009/05/10(日) 13:50:32
水戸葵っていうのがあると聴いたことがある。
こんなホームページも
ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m112.html
889日本@名無史さん:2009/05/10(日) 22:09:09
水戸様の寺として有名な鎌倉英勝寺の葵の紋など参考に。
オイラは詳しくないので違いがよくわからん



ttp://www2.ocn.ne.jp/%7Eso-sweet/pedigree/eishoji/syoroh_mitsuba-aoi.htm
ttp://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/0306kiri/houmon.htm
ttp://earlgreyimperial.bufsiz.jp/edo_q/edo_q03_aoinomon.htm
890日本@名無史さん:2009/05/10(日) 22:24:23
弘道館にもたくさん葵の紋があったね。
細かい所だと瓦屋根や、畳にも葵の紋が入っていて面白い
891ぴーす ◆TfYI6zaOr. :2009/05/12(火) 17:01:40
武鑑だと葉っぱの複雑さが水戸、尾張、紀伊の順のようにみえる。
892日本@名無史さん:2009/05/13(水) 01:54:26
南朝側だった井伊氏に対して南朝正統論の水戸徳川氏の先祖は何だったのですか?
新田氏とか出さないようにねw
893日本@名無史さん:2009/05/13(水) 01:56:20
佐竹氏も北朝側つまり逆賊
常陸にゃろくなのがいねぇなぁ
894日本@名無史さん:2009/05/13(水) 09:35:47
水戸徳川家には徳川実紀の様な活字化され閲覧可能な記録はありませんでしょうか?
特に、文政13年(天保元年)頃の記述をみたいのですが。
徳川斉昭(烈公)に関係のことを調べたいので、烈公の記録でもありがたいです。
895日本@名無史さん:2009/06/18(木) 04:58:36
>894

記録本ではないかもしれませんが、以下紹介する本の中に、記録本の広告紹介記述があるかもしれないので、記しておきます。

『年山紀聞』(『日本随筆全集』第六巻、国民図書株式会社、1927年)
※他、関連本が9冊ほどありますが、随筆や文集の類いなので割愛しました。
浅知学でしたらお恥ずかしい限りです。
896日本@名無史さん:2009/08/14(金) 23:27:45
     _______                     __
    // ̄~`i ゝ                    `l |
    / /        ,______   ,_____    ________  | |  ____ TM
   | |     ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄))   | | // ̄_>>
   \ヽ、   |l | |    | | | |    | |  ``( (.  .| | | | ~~
      `、二===-'  ` ===' '  ` ===' '  // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
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          ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄
897日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:58:22
梅里
898日本@名無史さん:2009/12/06(日) 15:10:07
>>870
どっちがえらいかは知らんが、常磐神社の宮司を鹿島神宮大宮司家の
人が努めたりと、何かと関係の深い間柄だな。
899日本@名無史さん:2009/12/07(月) 20:50:05
水戸光圀は正義の人。
900日本@名無史さん:2010/01/20(水) 10:42:50
千波の桜田門が完成しつつあるね
901日本@名無史さん:2010/01/20(水) 17:54:03
光圀って、調べてみるとオレ的には、
すっごくやなやつ。
902日本@名無史さん:2010/01/26(火) 09:12:04
光圀の時代が最も重税だったらしい
903日本@名無史さん:2010/01/28(木) 22:07:40
光圀が奸臣%。井紋太夫を屏風の裏で殺害したというが、藤井が、大日本史編纂などという光圀の浪費癖
を諌めていたとするならば、藤井の評価もずいぶん変わって来ると理解します。

904日本@名無史さん:2010/02/05(金) 08:12:50
まあでも神仏分離とか、南朝正統説とかの後の時代の影響力はでかかったね。
905日本@名無史さん:2010/03/11(木) 22:40:38
ほう
906日本@名無史さん:2010/03/12(金) 12:58:49
高橋坦室(又一郎)と高橋多一郎の関係は?
親子?
907日本@名無史さん:2010/03/12(金) 13:20:49
種違いで腹違いの兄弟
908日本@名無史さん:2010/03/12(金) 16:22:57
栗田健男のお爺ちゃんの栗田寛て有名な人?
909日本@名無史さん:2010/03/12(金) 23:53:30
水戸近辺なら少しは知ってる人いるってレベルだと思うけど
910日本@名無史さん:2010/03/16(火) 09:07:46
>>908
東大教授で大日本史の完成者
911日本@名無史さん:2010/03/16(火) 10:36:31
孫のほうが有名だわな
912日本@名無史さん

徳川幕府はユダヤ人を利用し世界征服を企む

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0202/4/128.html

だが、ユダヤ人は、その日本を利用し力をつけ、独立国家を形成するに至った。

ここに、日本がイスラエルを許せない大きな理由がある。