1 :
日本@名無史さん:
徳川家康をはじめ、徳川家の人物について話し合うスレです。
2 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:28:47
徳川家好きな人も嫌いな人もよっといでー。
みんなで徳川家について話しましょう!
3 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:28:51
〜100 家康
〜200 秀忠
〜300 家光
〜400 家綱・綱吉
〜500 家宣・家継
〜600 吉宗
〜700 家重・家治
〜800 家斉
〜900 家慶・家定
〜1000 家茂・慶喜
4 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:31:29
OK、そうしましょう。ではスタート!
5 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 18:34:33
家康の父は松平広忠だよね。
6 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:39:02
260年も太平を築いた徳川家。日光東照宮は権力の象徴。
7 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 18:44:30
ああ、そうだな。完成したのは
家光の時代だよね。
8 :
徳川家達:2005/10/07(金) 18:48:50
私の話題はナシですか…
そうですか。
9 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 18:50:08
家康は幕府を開けなかったかもしれないって知ってるか?
10 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:51:18
信長や秀吉が長生きしてれば、開けなかったよな。
11 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:52:47
8さん、家達の話題もあとでやろうか?
12 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 18:54:55
それもあるが、家康は源氏かどうかよくわかってないらしいぞ。
13 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:55:46
では、
〜1000 家茂・慶喜・家達 ということで。
14 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 18:58:30
>>12 確かに最初の頃は藤原姓だったが、秀吉に臣従した頃は源家康と自称してたし、
吉良から源氏の系図をもらったよな。
15 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:05:54
徳川=得川=上野の地名=新田義貞=源氏、とこじつけ、系図捏造のために近衛侯にも大枚の黄白をたくしこんだらしい。
16 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:10:00
将軍って言う肩書きは元はセイイタイショウグン?
17 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 19:12:39
でも源頼朝がなってからは、「征夷」の意味は消えたがな。
18 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:14:45
征夷=東国支配という解釈に変化したので、家康を臣従させていない段階での
秀吉は将軍になれなかったという説があったよね。
19 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:21:01
将軍家は日本郵船副社長だったな
20 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:23:11
あの人、よく家康に似てるって言われるらしいが、何を根拠にそんなこと言われるんだろ。
そもそも、松平容保の曾孫だから家康にそんなに似てるとは思えないのだが。
21 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:29:26
俺としてはJリーグ・ジェフ市原の監督オシムとイメージが重なる。家康
22 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 19:34:13
賊軍の汚名をきせられた松平容保の曾孫が徳川家の当主らしいけど徳川家は会津松平家をあまり宜しくないと言うか、親戚としてわだかまりとかないのかな?
23 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 19:50:51
会津松平家は秀忠の末裔じゃなかったか?
24 :
20:2005/10/07(金) 19:58:20
それは知ってるが、写真の松平容保って家康の肖像画に全然似てないから、
その人の曾孫が家康に似てるかなって疑問に感じた。
25 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 20:03:42
容保もどっちにしろ家康の子孫
だから、先祖の遺伝子が目立っただけじゃないのかな?
26 :
松平大和守斉典:2005/10/07(金) 20:19:41
…
27 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 20:24:30
まあ、家康といっても肖像画しか残ってないから、
似てるかどうかはようわからんが・・・
28 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 20:27:44
家康の肖像画で一番信用できるのは信玄に負けたときに描かせたという、
あの苦虫かみつぶしたような情けない顔のやつかな。
29 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 20:30:54
15代将軍徳川慶喜は大政を奉還して政治の表舞台から姿を消し44年の隠居生活…凄い人生だと思う。
20代で政治のトップに立ち…今の若者は……
30 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 20:32:29
慶喜の話はまだ早すぎた??
31 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 20:35:29
70代まで生きた将軍は家康と慶喜のみ。子沢山という点でも似ている。
同じ子沢山でも家斉は69歳までしか生きられなかった。
32 :
歴名無し:2005/10/07(金) 20:35:55
初めてです。慶喜ですか〜・・・いいですね〜。
33 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 20:36:37
慶喜の話は900スレまでとっておこう。
34 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 20:36:48
将軍としての在職期間が短期という点でも似ている>家康と慶喜
35 :
歴名無し:2005/10/07(金) 20:37:27
あ
36 :
歴名無し:2005/10/07(金) 20:39:30
900レスまでとっておきましょう。
37 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 21:09:05
じゃあ家康の話にもどすぞ。
家康って小太りのイメージがあるんだが
みんなはどう?
38 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:11:32
若いときは痩せてたらしい。
あの負け戦のあとの肖像画も頬骨が出てゲッソリしてる。
39 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:12:08
徳川家にも天皇家の三種の神器、藤原家の朱の漆器のように
当主の印として当主が受け継ぐ宝物があるのかな?
どっかの本で家綱の臨終の席で家綱は綱吉に養子して、次期徳川家当主と
将軍の印として、なんかの刀を渡したと読んだ記憶がある。
40 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:21:57
デカイ扇子は違うの??
41 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 21:22:40
金扇の馬印は?
厭離穢土欣求浄土の旗は?
43 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 21:52:12
無論・・・・
江戸城だろ。
44 :
歴名無し:2005/10/07(金) 21:59:39
江戸城ってかっこいいですよね〜何か綺麗美しい・・・
45 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 22:03:42
家康が江戸に来た時、
江戸城は「城」とは程遠い
ものだったらしいぞ。
46 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:05:39
>>44江戸城か、見てみたいなー。
47 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 22:10:05
家康は江戸城を立派な城
にするために金をいくら
使ったんだろう\\\
48 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:23:10
家康は、棚からぼた餅の糞野郎。
49 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:23:46
46番の方まだ江戸城見た事ないの?
現在は皇居で東御苑なら旧江戸城の本丸、二の丸が入園できます。天守閣跡の石垣が………
50 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:53:55
半蔵門って服部半蔵からでしょ?
51 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:57:32
>>47 大名にほとんど負担させたのではないか?
江戸城にしろ名古屋城にしろ築城に徳川家や幕府の金とほとんど
使ってないはず。
日光東照宮は徳川家の権威を見せるためにほぼ100%幕府の
金で作ったが。
52 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:17:36
とにかく日光東照宮は豪華絢爛!
家光大猷院は赤と黒を中心に………
何年か前に家光死後350年目で墓所公開されたけど350前の階段……凄いの一言…
53 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 23:18:50
家康が将軍だった間の
家康の功績って・・・
なんだ?
54 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:19:19
日光東照宮は徳川家康の墓所?神社??お寺???
55 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 23:23:41
54さんの言う全部にあてはまるのでは?
日光は、元々は二荒(ふたら)山という山岳信仰の場所。
徳川が乗っ取って、自分を神格化するために利用している。
57 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:38:48
家康で好きなのは、「野風の笛」と「忠輝」とかだな〜
58 :
結城@秀康:2005/10/07(金) 23:42:04
忠輝って、家康の息子の?
59 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:49:53
今でも徳川家当主が東照宮に参拝すると「将軍着座の間」に
通されるのかなあ?
60 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 23:50:49
61 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 00:01:08
信康たん
62 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 00:02:49
忠輝は家康の6男だね
63 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 00:07:58
忠輝は家康
の子供の中で
一番長生き。享年92歳
64 :
歴名無し:2005/10/08(土) 00:18:23
でも、そんなに長生きすると、ちょっと人より苦労することが多かった
ろうね・・・・・
65 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 00:24:57
人よりどころか人生の大半を蟄居ですよ
66 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 00:41:45
忠輝って綱吉の代まで生きてたってのが驚き。
67 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 08:14:36
忠輝は家康に嫌われていたらしいよ。
兄の秀忠とも仲が悪かったみたいだ。
68 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 08:17:05
家康って父親としては最低だな。子供のえこひいきが激しすぎる。
69 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 08:22:40
次男の結城秀康も
嫌われていたらしい。彼の幼名
「於義丸」は「義義」とかいう
変な顔した魚からとったって
聞いたことがある。
70 :
まき:2005/10/08(土) 08:52:21
馬遼太郎の 覇王の家 読んでみたかもしれないけれど・・何をみて勉強してる?
71 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:03:59
茨城に結城市があるんだけど結城と徳川は何か関係あるの??
72 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 09:16:36
家康の次男秀康は豊臣秀吉の養子
になり、その後結城晴朝の養子
になり、結城家をついだ。「結城市」
はその領土あたり。のち結城から
越前に移った。
73 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:32:47
結城市のある寺に埋蔵金が埋まってると伝えられてます。徳川埋蔵金ですかね?
74 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 10:05:24
家康がもっとも気に入っていた
息子は誰だろう?
75 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 10:10:39
孫の家光
戦国マガジンとかいう漫画で家康の健康ヲタをプッシュしたマンガがヨカタ
>>48 棚からぼた餅が落ちてくるまでの寿命の重要性について
77 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 11:37:05
家康っぽいのができた。
−−−
/ I
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I I /−−
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−−−−−− / i
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l l i
−−−−−−−−−−−− i
/ 1−1 i
/ 1−1 i
−− −− 1−1 i
1 T/−− i
1 @ − @ 1 i
/ // @1−−−−−
1 // 1 1
1 ll /l / 1 a
1 −−− l 1/
1 l 1
1 −−へーーl/ /
1 /
1 −−− /
1−−−−−−−−−−/
78 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 11:47:01
スマソ・・・・
失敗・・・・
では本題に戻る。
ぼた餅が落ちてきたとき
には、もう58歳ぐらい
だったような・・・
79 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 11:49:43
徳川家がすごいのは、信長や秀吉のように一人だけ傑出してるんじゃなくて
一族全体が水準以上の印象を受けることだな。家康の徳川家を中心とした周辺
松平家の結束も強いし、家康の息子たちを概観しても武闘派(信康、秀康、忠吉、
頼宣)・文治派(秀忠、義直、頼房)とそれぞれに優れてる。その後の系譜をみても
ホントにこいつはアホだなってのがあまりいない。総合的に、武家としてはすごく完
成度が高い一族って気がする。
>>79 特に俺が傑出してるお
家光なぞ屑じゃ、のっ正雪〜
弟の頼房は文武両道じゃよ、何しろ天下が欲しいといったヤツだからな
82 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:04:13
そのせいで、水戸家は尾張・紀伊家より格下に
なったって本当かい?南龍公さん。
83 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:07:51
生まれた順だから水戸家は最後になったのでは?
84 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:13:21
尾張・紀伊は大納言だが、
水戸は中納言だ。
85 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:15:32
>>79 家定は相当なアホだぞ。一日中ガチョウを追っかけ回してたらしい。
86 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:18:20
おっと、家定の話は800レスの
お楽しみですぞ。
87 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:21:11
>>85 家定は家重とかと同じで、一種の障害者だったと思う。当時の乳母が使ってた
白粉に含まれていた鉛毒を摂取したためではないかって言われている。
88 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:27:36
>>87 へ〜、そうだったのか!
とにかく家定は慶喜のことが恐くてしょうがなくて、慶喜が登城すると
お付の女性の手を握っていなければならなかったらしい。
これで将軍とは・・いやはや・・
お付の女が表にまで出てきたの?
90 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:33:28
800レスからじっくり話してくれ。
3の時決めた順番ですすめていこう。
91 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:34:10
水戸家はオマケ?あっても無くても変わらなかったの?
92 :
水戸黄門:2005/10/08(土) 12:34:48
かっはっはっはっ・・・
93 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:36:42
>>89 家定は豆を炒て、客人にふるまうのが唯一の楽しみだったらしい。
その豆を家定の握っている箸に挟んであげる事のみを仕事としている女性が
いたとの事。そういった女性を常に傍においておかないと、精神的に家定は
だめだったらしい。
94 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:37:07
駿河大納言忠長が自害してなければ、
水戸家はオマケだったろうな。
95 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:38:03
あっ、すまん。3を読んでなかった!一度家定去ります。申し訳ない。
96 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:41:05
家康が死んだとき、秀忠(37歳)、忠輝(24歳)、義直(15歳)、頼宣(14歳)
頼房(13歳)、家光(12歳)。
こう見ると秀忠がいなかったら徳川政権も大分不安定だったろうな。
家光や御三家が成長するまで持ちこたえて徳川政権磐石の基礎を作った
秀忠はもっと評価されてもいいような気がする。
97 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:44:21
家康の遺産は忠輝には
分けてないらしいぞ。
勘当されたから。
98 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:44:28
二代目ってどの世界でも目立たないもんだよ。
99 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:48:40
秀忠って微妙に教科書に載ってるが、
あんま重要には見られてない。
100 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:51:33
いやぁ、ちょっと詳しい人なら秀忠は十分評価されてるでしょう。ホントに家康はおあつらえ向きの
後継者を立てたよな。秀忠自身の正味の能力というより、家康の分身というか、クローンに徹した
ところが秀忠の偉さだね。おかげで官僚体制が整備される家光の代まで家康の残した方針が
混乱せずに続いてうまく橋渡しできた。おまけに保科正之という賢弟・賢臣を家光に残して幕府
初期の盛期をもたらしたんだから、秀忠の存在はでかいよ、やっぱ。
101 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:52:17
徳川秀忠(1579〜1632)江戸幕府の第2代将軍。▽家康の3男で,1605年に将軍職をついだ。家康の方針をよくまもり,幕府組織の整備,有力大名の取りつぶしによる幕府の権威の強化,朝廷や仏教界に対する統制などによって幕府の基礎をかためた。
すばらしいじゃないですかぁ。
わしが言うのもなんだが、将軍家、尾張、紀伊が御三家、その中でも尾張→紀伊の順、水戸はオマケさ
103 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:56:03
100レス超えたので、今度の主役は
秀忠の話だな。
小学校で秀忠について学ばせたほうが
いいよな。
104 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:57:32
貿易統制は家光の手柄と思われがちだが、基礎を作ったのは秀忠。
縁の下の力持ち的存在だな。日本人好みです。
105 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:57:45
清盛、頼朝、信長、秀吉、皆傑物であったがろくな後継者がいなかったため、
その政権は長続きしなかった。秀忠という後継者を作っていた家康は
さすがだね。しかも本家が絶えることも見越して御三家まで作った。
でそれがちゃんと作用したし。
106 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 12:59:23
秀忠を家康・家光と肩をならべて
教科書に載せるには、
どうすれば・・・?
家光はスカンが、兄上はしっかりやったと思うぞ。
忠長への偏愛が玉に瑕じゃが。
やはり土井利勝を重用したのがえらいのかな。
>>106 兄上それは無理でしょ。派手なことはしてまへんから。
順調に軌道に乗せたのがエライんで。
109 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 13:05:53
家康が存命中はその意に従い、没後もよく遺訓に従ってきた秀忠であったが死の床についた時、家光を枕もとに呼び、次のように言った。
徳川家が天下を取って、まだ日も浅い。今まで制定した法令も完全なものとはいえない。近いうちに、これを改正しようと思っていたが、
不幸にしてその志を果たすことができない。私が死んだあとは、少しもはばかることなく、これを改正せよ。これこそが我が志を継いだ
ことになるのだ。」
おそらく徳川家は家康・秀忠・家光も三代で「起承転結」の転まで執り行っていたのだろう。
あとは慶喜まで結を固めるだけ。
武家諸法度を出したのは兄上だけど(実際はじいさんかな)、
家光が改訂して参勤交代なんか入れて充実させてるね
111 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 13:13:26
秀忠が目立たなくてもいいから、今の日本国民の心の
中に、秀忠という名君を残してほしい
というか・・・・
秀康兄者は秀忠兄者を軟弱と思ってるのでは?脱線かな
秀忠兄者の評価は、わしらが上げてくしかないんでは。
足利義詮もあれでなかなかだが、歴史教育の現場では聞かないよね。
113 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 13:22:02
>>110 南龍公、貴公からみた「じいさん」は松平広忠公になりますゆえ…
114 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 13:22:30
紀伊殿の言うとおりだな。われらが秀忠の
評価を上げずに、誰が上げる!!
115 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 13:22:40
秀忠が関ヶ原に遅参したのは家康軍が負けたときの保険で、
わざとであるとかないとか。
>>113 ハハハハハしもた、間違えた〜、物心ついたときからジジイだったんで、父上申し訳ございません
我らは東照権現の子
117 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 13:27:53
>>115 それって、実際どうなんだろうね。家康本隊が敗れたときのための保険なら
わざわざ信州上田まで進軍した意図がよくわからん。江戸に待機していても
よかったんではないかと思うが。
>>115 >>116 信州平定は父上の命令だよね確か。
ワザとはないにしても、兵力の温存は父上なら考えるかもね。
119 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 13:40:05
>>117 それじゃ他の者に示しがつかないと思ったのでは?
自分の子供だけ温存して他者を前面で戦わせるようなやつに
天下取らせたいと思うかね?
120 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 13:47:50
>>118 >>119 よくよく考えれば保険に考えていたというのは結果論的なうがち過ぎかもしれんね。
それまで秀忠に大きな合戦の指揮をとらせたことがなかったことを考えると、
関ヶ原で一定の武功を立てさせて自身の後継者たる地位を確立させたかった
ように思える。当時はまだ戦国風だから、軍事的業績のない後継者は不安視
されただろうし。このときそれが叶わなかったから後年の大坂の陣では前面に
秀忠を立てたんだろね。
121 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 13:50:55
秀忠は関ヶ原の戦いが初陣だったよね。
22歳だったと思うが・・・
秀康兄者は27歳ですか、わしはまだ生まれてません。
関ヶ原自体が謎が多いですからね、結果的には兄上が廃嫡されなくてよかった。
忠輝兄者、福島正則、本多正純らを改易した手腕は凄い。
123 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 14:04:35
私の息子、忠直も改易された。
私が生きていればこんなことには・・・・
秀忠兄者、家光ともに身内に薄情ですからね。
わしも内心(((・∀・)))プルプル 、虚勢を張って( ^∀^)ゲラゲラ
125 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 14:08:01
あの……葵の紋章が入った神社があちこちにあるけど…徳川幕府が立てたの? 祭神は徳川家康?
東照宮は各地にありますね、日光や久能山は別にしても
名古屋、和歌山、水戸等々変わったところでは広島、仙台なんかにも。
祭神は権現様でしょう。
水戸の常磐神社(光圀、斉昭が祭神)なんかもありますね
127 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 14:41:42
秀忠ってどんな体型だったと思う?
知らない〜 弟であるわしが知らぬはずはないのだが〜 でもわかわん
肖像画の感じでは細身かな?
130 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 14:52:06
やっぱ、背低いのかな?
131 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 14:53:34
将軍の平均身長は157.3pで当時の一般庶民とほぼ同じらしい
132 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 14:55:39
秀忠の骨は潰れてたようだね。
134 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 15:32:29
秀忠は愛妻家?
恐妻家?
普通に恐妻家じゃないかな、お江与は淀の妹だから怖そう
136 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 15:37:30
秀忠、その怖さにたえられず、
1度浮気した
浮気〜誰とだっけ?保科正之かな?
138 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 15:46:38
たしか・・・、
お静って人だったと思う
確かそうですね、でも公方様ともあろうものが尻に敷かれて、み・じ・め
140 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:24:43
見方によっては お江のせいで秀忠直系は家継で断絶したわけな
141 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:43:30
どうゆう見方で断絶までつながるのか?
142 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:46:32
秀忠を子作りに励まさせなかった→家光系と正之系のみ→家綱、綱吉後継者なし→綱重系のみ
143 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:48:34
お江が年取って子供がうめなくなり秀忠に他の子供が生まれなかったからじゃない?
側室がいたら子供が生まれていたと思う
144 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 16:49:52
その側室を置かせなかったわけだから
145 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 17:32:49
お江はおとなしい人だと聞いたが
146 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 17:55:31
将軍は夜のお勤めの時にも傍には待女がいる訳で?
147 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 19:25:34
将軍家の血は7代で絶えたけど、
正之系は秀忠の血が残ってただろ?
148 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:29:32
徳川家継のあとに何故に六代家宣の実弟(同父母弟)が
将軍職を襲わなんだのであろうの?
149 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:36:50
150 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:54:12
将軍家&御三家&御三卿の地は水戸家以外、蜂の巣のように交じりあってるの?
151 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:55:11
↑訂正。
地と血を間違え。
152 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 21:12:54
混じり合ってるというより、一橋治済の血統が独占しました。
153 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 21:52:59
家康以前の松平家について簡単に教えてくれない?
154 :
結城@秀康:2005/10/08(土) 23:28:44
初代当主は松平親氏。それ以前は得川氏だった
とか家康はほざいてるが、
実際は不明。
155 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 23:30:49
本当は賀茂氏とかいう説もある。
156 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 00:38:33
源氏の末裔が諸国を放浪していたら地侍の松平家当主と仲良くなって娘婿になって松平姓を継いだのが始まり、だそうな
蠣崎も似たような話だったな
信憑性は全然ないが
生まれ・育ちって重要だ
158 :
結城@秀康:2005/10/09(日) 11:26:12
徳川氏系図。
lー信康
lー秀康ー忠直ー光長ー綱国
l l
l lー忠昌ー光通ー以下次回
l
1家康ー2秀忠ー3家光ー4家綱
lー忠吉 l lー綱重ー6家宣ー7家継
lー信吉 lー忠長lー5綱吉
lー忠輝 lー正之
l
lー義直ー光友ー綱誠ー吉通ー五郎太
l lー継友
l lー宗春ー以下次回
l
lー頼宣ー光貞ー綱教
l l lー頼職
l l l−8吉宗ー以下次回
l lー頼純ー宗直ー以下次回
l
l lー頼重ー綱條ー以下次回
lー頼房ー光圀ー以下次回
159 :
結城@秀康:2005/10/09(日) 11:27:27
スマソ・・・
ちとずれた・・・
160 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 12:58:15
あのぅ…
今の徳川宗家は東京にあるの?デカイ屋敷とかに暮らしてるの?
161 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:08:42
東京在住。数年前、ボヤ騒ぎになった私邸は数百坪だったらしい。
大企業の副社長だったから、一般人よりは大きな家に住んでる。
162 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:31:17
一般には場所とか知られないんでしょ?
徳川宗家の仏壇は凄いのかなと…
163 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:47:20
火事当時の新聞記事とか紳士録みたいな本ならわかるんでは?
>>162 平成新修旧華族家系大成でも見たら?
住所も電話番号も載ってるよ
ただいきなり訪ねてって「仏壇見せてくれ」は非常識すぎだが
165 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 04:39:31
家康はさ天下統一した翌年に亡くなりますよね。
関ヶ原で討ち死にしており、晩年は影武者説が絶えませんが、
それは、ともかく家康の死因は鯛の天ぷらにあたったのが
通説でした。最近読んだ徳川十五代カルテという本には、
胃がんだったと書かれてます。確かに息子秀忠も同じく胃がんで亡くなってます。
面白かったのが、家康は健康おたくで、最新の医学書が日本にはいってきたら、翻訳できる講師を呼んで
まで熱心に勉強したそうです。しかし、それが最後はわが身を滅ぼす原因になるのです。
亡くなる2,3ヶ月前から体調が優れない。それで色々なクスリを自ら調合して飲むがいっこうに
良くならない。しまいには、医者が意見を言うなり、怒り出し、その医者を島流しにしたそうです。
自分の健康知識に絶対の自信をもってたのでしょう。結局どの薬も効かずに胃がんでやられたらしいですね。
腹八分に心がけ、鷹狩を好み(運動)、女遊びはしない(性病、特に梅毒をひどく恐れてたらしいです)
今でも通用する健康法ですね。誰でもできることだけど、それが難しいです。いやはや
島流しや隠居させられた大名は長生きしている人たちが多いですね。
松平忠輝もその一人です。武田信虎(息子信玄より長生き) 宇喜多秀家(関ヶ原で戦った武将のなかで最も長生き)
などなど。ストレスがなかったからでしょうね。
166 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:16:03
だから?
167 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:26:05
秀忠や家光は健康に留意してなかったんだろうな。
168 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:19:00
秀忠って、なんで豊臣家を滅ぼした後
家忠に改名しなかったんだろうか?
169 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:38:49
気に入ってたんじゃないか?
170 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:53:03
秀頼の「秀」ではなく秀吉の「秀」だったから
171 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:16:29
>>168 そのころはまだ徳川家の通字は「家」じゃなかったから
172 :
結城@秀康:2005/10/10(月) 18:21:56
徳川家の通字が「家」と決まったのは、
秀忠が息子・竹千代に家康の
一字を与えて家光と
名乗らせたのが始まり
じゃないか?
173 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 18:47:25
秀忠は2代目将軍という責任の重圧の影響か
早くに亡くなった。ちなみに胃がん。
関ヶ原へは遅参し、大阪の陣では逆に急ぎすぎ。
凡将だけども、次男秀康や六男忠輝は気性が荒い、彼らが将軍になってたら
また戦乱の世になってたはず。秀忠だからこそ、天下泰平の事業を家康から継げたんです。
余談になるが、結城秀康は梅毒で亡くなった。(1607年) 家康はホッとしたそうだ。(秀康は次男なので三男秀忠が後継者なのは
納得いくはずがなく、また秀吉の義理の息子でもあるから、秀頼様の味方でもあった)梅毒が顔まで進行してきて、
最後は鼻がとれたらしい、それで軟膏をぬって鼻を隠し、家康に会いにいったら、
起こられたそうだ。秀康「父よなぜわしを将軍に..」
おしまい
174 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 18:48:21
起こられた→怒られた
175 :
結城@秀康:2005/10/10(月) 20:59:15
秀康が将軍になってたら、
大坂の陣は起こらなかったんじゃないか?
豊臣家に恩があるし。
176 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 21:04:42
>>175 その通りで、だから家康からすれば
秀康が目の上のたんこぶなわけだ。
大坂の陣の時、秀康が生きてたら豊臣方につく可能性がある。
秀康「梅毒憎し」
177 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 22:02:53
>>168 すでに公家で家忠と言う名の人物がいたから。
178 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 22:40:57
秀忠は母親似っぽい
179 :
結城@秀康:2005/10/10(月) 22:44:33
なんで?
180 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:39:59
結城秀康と織田秀信で豊臣秀頼を補佐する連合軍ができてたら
面白かったんだろうけどね。
(織田秀信は関ヶ原当時岐阜城主で、織田家を残してくれた秀吉に
恩義を感じていたらしい)
織田・豊臣・徳川の最強はぐれ者連合。
181 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:42:48
織田秀信こそ、まさに秀頼と同じ立場であって、秀頼ごときに臣従するのは
おかしいのだが。
182 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:44:35
逆に言うと、関ヶ原のあと、豊臣家が一大名に甘んじていれば、秀頼も
秀吉政権下の織田秀信と同じようになってたわけだ。
183 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:49:41
>>182 全ては淀君の政への口出しが豊臣家滅亡の原因だと思う。
もし、淀君が北政所を立てて側室の立場をわきまえていたら
家康は秀頼を一大名としても残していただろう。
(千姫を嫁にやったように、元々豊臣家滅亡なんて家康は
考えてなかったと思う)
184 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 22:37:04
結城秀康っていうのは早死になのであまり評価されてないけど
彼が後継者になっていたら徳川幕府はかなり違ったカラーになっていた
だろうね。
政治的妥協の末とはいえ豊臣秀頼とは義兄弟だから豊臣恩顧の
大名からも支持は得るので取りつぶす理由はない。
185 :
結城@秀康:2005/10/11(火) 23:20:48
秀康が将軍になってたら、
秀忠はどうなってたんだろう?
186 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 23:45:56
>>185 おそらく幕府が戦国色が残り不安定したと思う。
秀忠は武将としてはいまいちだが、政治家としては
かなり有能。
秀康に政治家の才能があったのかは疑問。
家康が長生きをして、豊臣滅亡、安定化期に秀忠が
親政と時代も徳川に味方をしたと思う。
豊臣滅亡前に家康が死んでいたら、時代が変わっていた
可能性大。
187 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 01:10:08
NHKアナウンサー松平定知氏は子孫の一人ってホント?
188 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 01:45:10
松平定信の子孫と聞くから、まあ血統的には直系に近いなあ。
それがどうした、誰だろうが無実のタクシー運転手を殴る権利なんてないぞ、って印象だが。
189 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 03:52:21
彼にとってはタクシー運転手は庶民の駕籠担ぎにしか見えないだろうし。
ま殴るくらいいんじゃないの。
上級武士がタクシーなんか乗るなって感じもするが。
190 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 04:05:08
>>185-186 てゆうか何で秀康は将軍になれなかったんだろ?
やっぱり家康が二代目の器ではないと見抜いていたから?
とゆうか幼少時代から疎まれてたんだっけ?
病気で鼻の形が醜くなってたらしいし。
191 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:18:13
サダトモは定信の直系子孫ではありません。大名家でも華族でもありません。
松山、今治、桑名の各藩主家と同族の久松松平系の旗本の子孫です。
192 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:19:32
ちなみに久松松平家は同族が多く、旗本にたくさんいます。
193 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:39:48
バレーボールの松平康隆氏はどこの松平の子孫ですか?
194 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 07:57:41
康の字が通字なのは松井系松平が多い。
195 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 09:39:58
松井松平は松井に復姓してない?本家だけ?
あと幕末ごろから津山藩とか福井藩(どっちも越前系)が康を通字にし出してるよ
196 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 10:38:52
現在、松平と名の付く人は皆、江戸時代の松平からきてるの?
197 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:02:17
帰化人が松平と名乗ってる場合もあるそうなw
>>190 通説では母親の身分とか家康に嫌われていたとかあるけど、家康ほどの人物が個人的感情で後継者を決めるとは考えにくい。
健康にはムチャクチャうるさい家康が秀康の不摂生による短命と器量の不足を見抜いてたんだな。
秀吉からも天下人としての悪い面ばかりしかまなんでいないようだし。
199 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:37:00
春日局って何様?
200 :
無声:2005/10/12(水) 13:40:51
徳川慶朝氏と徳川恒孝氏とは親戚?
201 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:45:55
慶喜が明治維新で隠居した時、宗家の立場を御三卿のひとつ、田安徳川家に譲った。
田安徳川家が宗家を継承し、慶喜はご隠居として居候していたとか聞いた。
宗家の末裔が現在の商社マンの徳川恒孝で、カメラマンの慶朝氏は隠居した慶喜の
曾孫。
┬治紀─斉昭─慶喜─慶久─慶光─慶朝
└義和─義建─容保─恒雄─一郎─恒孝
203 :
結城@秀康:2005/10/12(水) 13:50:26
じゃ、200レス超えたのでそろそろ
家光の話でもしますか。
204 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:50:55
厳密には、
家茂<紀伊徳川家から養子
慶喜<水戸徳川家をへて一ツ橋家から養子
家達<田安家から養子
家正<家達の息子
恒孝<会津松平家から養子
205 :
元;土佐藩家臣:2005/10/12(水) 13:52:27
>202
詳しくどうも。参考になりました。
206 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:54:28
家光は秋刀魚は目黒がいいとかいってたのはどういうこと?
207 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:56:49
「金かくし」は三代将軍家光公時代に便所の糞壺に作ったらしい。
トイレで金かくしを見るたび思う。
>>206 家光は生まれながらの暗君であり、内陸の目黒でサンマが獲れると思い込んでいた。
209 :
徳川頼宣@南龍公:2005/10/12(水) 14:31:39
家光は嫌いじゃ、何が生まれながらの将軍じゃ
そのうち倒してやるよ。。。
210 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 14:56:20
211 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 15:07:27
名古屋城の鯱のって本当に純金鍍金だったの? 合金じゃなくて?
どこで掘った金使ってたの?
212 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 16:16:34
戦災で焼失した名古屋城の上洛殿って家光の宿舎専用の建物だったんでしょ。
213 :
徳川頼宣@南龍公:2005/10/12(水) 16:40:21
わしは紀州公、尾張の話は義直兄者に聞いてね
とはいえ金鯱は檜の芯木に鉛板を張り、その上から銅板で被い、鱗に金を張り付けてあるものだそうじゃ
最初は鱗に貼り付けるのに、慶長大判を1900枚余り使ったとか
でもその後藩の財政悪化の影響で(鯱の金を使っちまえ)、三度改鋳、多量の銀が混ぜられ、純度が落ちたそうな
どこの金かは知らないです
214 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 19:19:49
家光の代になると大名はサラリーマンばっかりで面白くないな〜
生母も乳母(春日の局)も微妙に信長の世代の血縁者なんで
その辺の因縁は本人も実感してたんだとは思うけどね〜
215 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 19:36:26
頼宣は結果から見ると道化だね。
改易食わなかっただけでも感謝しなくちゃな。
216 :
徳川義直@五郎太君:2005/10/12(水) 20:15:17
家光とか、名君?「生まれながらの将軍」
とか、はっきり言ってちょっと聞いてて腹立つ。
子供のころ跡継ぎの座が危うかったくせに。
217 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 20:19:46
父親のえこひいきにウンザリしていた幼少期ってのも
徳川家らしい生い立ちだね。
代々えこひいき。
218 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:54:45
秀忠は言うようにえこひいきはそんなにしていなかったのでは?
お江与に遠慮して、家光に冷たくしていただけでは?
忠長が家光がいる西の丸方面を飛んでいる鴨を鉄砲で撃ったときも
「将来主君となる兄の住居に向かって鉄砲を撃つと名何事か」とか
家光が将軍になった時も忠長が家光を兄上と呼んだら「兄上ではない。
上様だ」と怒ったらしいし。
219 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:58:44
220 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:05:24
家光が子供のころには豊臣家の力はもはやなく、
後ろ盾のないお江与に秀忠が遠慮して
家光に冷たくしてたとは思えないが。
221 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:12:04
その頃はただ普通に国松がかわいっかたんだろう。
222 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:13:29
>>219忠長優遇だったら家康訪問後も怒らないだろ?
「そうじゃないだろ」と諭すぐらいでしょ。
>>220豊臣とは関係なく、お江与の生い立ちに同情して
遠慮していたらしい。
223 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:16:09
秀忠自身が後に忠長を処分、臨終の際も面会を許さなかった
からなあ。
忠輝の二の舞だな
225 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:04:49
歴代徳川家で最も男色好きだったのは、誰でしょうか?
家光は晩年には女色に耽っているし、綱吉は生涯にわたり
両刀使いだったようですが・・・。
分家の松平諸家も含めて、衆道狂いと呼べるのは誰でしょうか?
226 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:15:51
徳川?自体が胡散臭いんだけど。
徳川?(主)松平(従)としてるのも謎。
つーかトンデモ(村岡・八切)真実でもおかしくねぇ・・・
>>225 ホモ吉はあちこちのスレでホモの話題ばっかり出している腐女子です
228 :
徳川頼宣@南龍公:2005/10/13(木) 09:56:16
わしが道化とな〜( ^∀^)ケラケラ
わしも義直兄者も幕府に決して尻尾つかまれることは無かったしな〜 政宗公みたいなもんじゃな
忠輝兄者や忠長とわれらの違いはなんじゃろな?
凄みというか存在感というか、敵に回すとちょっとオッカナイ存在だわな
義直兄者は儒学を重んじ、水戸光圀にも影響を与えた大人だわな
頼房は大志を抱きながらも、家光公と仲良くした人物でね、でもいざとなればこちらに来るさ〜
でもわしが一番怖ろしいぞ、何を考えてるかわからぬはずじゃ
潰せるものなら潰してみよ〜
何れはわしの子孫が……
229 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 19:43:25
日経新聞の日曜の読書欄に慶喜公の孫が書いた
『将軍家の食卓』の書評で本人が。
松平家はもともと、三河の僻地の野武士の家系で強盗をしていたと。
礼儀やへったくれもないのが徳川の本性だと自虐的だった。
で、本人は金持ちと縁がないと。自由に飯が食えない将軍なんて冗談じゃないってさ。
230 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 19:49:28
落ちぶれた子孫の負け惜しみに聞こえなくもないな。
>>229 >松平家はもともと、三河の僻地の野武士の家系で強盗をしていたと。
礼儀やへったくれもないのが徳川の本性だと自虐的だった。
一族から干されるな、この人
232 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 20:28:25
いやもう干されてるよ。
234 :
定ちゃん:2005/10/13(木) 20:40:59
ちょとーお邪魔すゅデチヨー
定ちゃんが、日本史板にスレ立てたデチォ
遊びに来て。ネ 。
定ちゃんゎ、徳川慶喜ゎアリや!思ゅデッチ!
ヾ(`・π・)ノ゛
( ヨシノブ フォー
235 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 21:46:55
ホントに秀康って鼻取れたの???
今でも残ってるクソつまらん部落差別、これをつくったのが家光だったよな?
やっぱそういう意味で日本を混乱させた意味で。徳川家は最悪だな。明治維新のとき
一家全滅させたいと本気で思ってた士族以下は多かったはず。
237 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 02:39:35
>>235 実際には一部か欠けてたって程度かね?
肖像画には鼻ついてるね。
まぁ肖像画なんて本人の意向でどうにでも描いただろうからあてにはならないけど。
伊達政宗も右目がある肖像画あるしね
238 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 05:20:24
>>236 現代人の感覚で言うと身分制度は悪だけども、
当時は社会が混乱していたから安定させるために必要だったんじゃないかな。
239 :
徳川頼宣@南龍公:2005/10/14(金) 14:45:01
そんなことより家光について語ろうぜ。
わしは嫌いだが。。。
南龍公は脇が甘すぎますぞ
大物だもの( ^∀^)
南海の龍と人は呼ぶ〜
242 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:07:15
紀州公は由比正雪の乱では首の皮一枚だっただろうw
御三家じゃなければ改易当確。
徳川家では宗家も含めて
血筋も家宝も尾張家がトップ
244 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:56:57
水戸徳川家より御三卿のが格式は上?
245 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:58:28
いまの尾張様は堀田クンなんだが・・・
徳川の名前を冠した人なんか2ちゃんの一スレで羅列するぐらいしかいないんじゃないの?
天皇なんか今だに特別扱いされてチヤホヤされてるのに、
徳川は普通の人になっちゃってかわいそうな希ガス
250 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 22:18:11
>>244 御三家は将軍家の親戚であるがあくまでも大名。
御三卿は将軍家の家族扱いで江戸城内に居を構えている。
251 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 22:24:35
10年くらい前に福岡の知事選に立候補した徳川高人という人がいた。
252 :
結城@秀康:2005/10/14(金) 22:54:48
あ、あのさ、
尾張・紀伊・水戸の御三家と、
家光の子の甲府・館林家は
どっちが上?
253 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 00:09:26
>>252 徳川綱豊までの徳川家だね。
御三家の紀伊徳川家よりも早く将軍になってるから将軍家(宗家)の
一門扱いじゃないかな?
血縁もその頃になってると薄まってるし甲府は江戸の緊急避難地
だったから単純に御三家と格を比較するというのは難しいね。
綱重は甲府宰相だよね、単純にはいえないが格は三家が上
只、将軍の弟、甥だから>253の言う通り家族みたいなものかもね
255 :
結城@秀康:2005/10/15(土) 19:37:14
〔三国戦国板から変ないいがかりつけられて追い出された・・・〕
あ、ごめん気にしないでくれ。このスレは平和だと思ってな。
本題に戻るが、結局、家光はホモなのか?
257 :
結城@秀康:2005/10/15(土) 20:14:09
ホモ吉ってだれ?
259 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:39:51
結城@秀康氏はホモなのか?
>>258
260 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 05:53:12
家光は人気がないね
加藤家改易もこの人の時代かぁ
>>232 喜久子妃の葬儀を徳川家で取りきったの
甥の慶朝氏でなく 恒孝氏だったね
262 :
重箱の底つつき家:2005/10/16(日) 08:11:31
>>204 厳密には、
慶喜<水戸徳川家をへて一ツ橋家から養子 ×
慶喜<水戸徳川家から一ツ橋家をへて養子 ◎
263 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 08:28:05
徳川慶朝さんの最新作買ってよんだけど自画自賛ばかりで前回作より
あまり面白くなかった。
田安家のご出身の徳川宗宣氏の本も既出・慨知の話題ばかり。なんか
損したw
264 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 09:36:42
>>263 この2人は出たがりだね。
本読んでも、本人達が戦後育ちだからつまらない。
財団持ってる尾張や宗家と違って何もないから
本出して小遣い稼ぎしたいのかな?
265 :
結城@秀康:2005/10/16(日) 11:13:53
家光が嫌われる原因は何?
266 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 13:51:17
>265
ネタとして面白みがないのかな?
徳川慶朝さんはしがないカメラマンだから
スタジオ構える資金が欲しいと言っていた
267 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 17:52:30
>>263 宗宣さんって田安家とどういうつながり?
268 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:28:57
田安家の方が書いた本のなかで、「京都の料亭で女中に冗談で世が世なら
薩長につくか、それとも私らの方につくか、と聞いた」とかなんとか・・・
激動の時代を駆け抜けた倒幕・佐幕の出来事を酒の席で女中と安易に語れる神経が
すごい。別の意味で関心したですたw
269 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 21:06:49
>>252 甲府の徳川家は独立した「家」ではないよ。
家光人気ないね、ザマアミロ( ^∀^)ゲラゲラ
271 :
結城@秀康:2005/10/17(月) 15:56:09
南龍公、この前戦国板で合ったね。
お主はなぜ家光を嫌うのだい?
中の人は家光→江戸幕府の基礎を完成させたそこそこの名君と思ってますよ。。。
南龍公は家光好きなわけないですよね→わしが父上に一番 かわいがられた 何が生まれながらの将軍だ・・・
それにわしばかりか 義直兄者をも粗略に扱いおって スカンスカン こんな感じかな。。。
おっと秀康兄者とは とあるところでお会いしましたね(^ー^)ニコリィン
274 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 18:06:53
足立区辺りの常磐線沿いにデカイ葵紋の家があるけどあれは何? 寺?
275 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:45:04
家重は言語障害だったって話だけど、別に知能自体は問題なかったの?
276 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 01:27:25
お漏らし。
>>69 信長の息子の名前も変だぞ。茶筅とか、奇妙とか。
徳川といえば竹千代。。。
清康の曽祖父親忠から順に長親、信忠、清康とつづき広忠をとばして家康。。。
信康(秀忠も?)家光、家綱と来てとんで家治、家基でおしまい。。。
280 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 11:14:21
竹千代は他にもいるよね
すぐ氏んじゃうだけで
たとえば家斉の長子も竹千代のはず
>>280 ご指導ありがとう。。
他にもいたら教えてくだされ。。
ちなみに紀州は長福丸、尾張は五郎太、水戸は鶴千代かな
282 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 13:33:43
>>281 調べてみたがそんなにはいなかった
家斉の長子と家慶の長子が竹千代だね
284 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 17:32:54
小笠原権之丞 松平民部について語れ
285 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 17:47:48
永見貞愛について語れ
命令口調で言われても付き合う気にならぬよ
287 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 18:43:15
徳川家最強!!!!!!
288 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 18:44:10
>>275 知能のほうは問題なかったと言われてるな。
通訳がいたってことは有意なことを話していた傍証にはなるなあ。
289 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 18:45:44
今の徳川家は親戚いっぱいいるの?
290 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 18:56:03
人大杉です。
291 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 19:20:44
竹千代と命名される=最有力のお世継ぎみたいな慣習はあったみたいだね。
292 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 19:32:42
竹千代=将軍の長男じゃないの?
尾張は最近まで嫡男が五郎太でいきなり義○と名づけられたのは義崇さんが最初らしい。
最後の長福丸(茂承長男)と鶴千代(慶篤嫡男)は夭折。
293 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 19:51:01
>>288 晩年には大御所になったらしいしね。
少なくともガチョウを追っかけ回してた家定とは比較になるまいw
294 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 20:43:56
竹千代は家光が家康から幼名としてもらって以来、
将軍家継嗣の幼名。
家光以降で幼名で竹千代と名乗ったのは、4代将軍家綱、
10代将軍家治、継嗣家基、12代将軍家慶だったかな。
基本的に生まれた時点で父が将軍在職中であり継嗣をされた子が
竹千代になった。
295 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 20:46:00
訂正、家治は生まれた時はまだ、父家重は将軍継嗣であって
将軍じゃなかったなあ。
296 :
結城@秀康:2005/10/18(火) 21:34:57
家慶の幼名は敏次郎だったと思うけど・・・
気のせいかな?
家康の長男、信康は、実は家康の子ではなく、
今川の氏真の種、といわれているが
だとしたら、築山は氏真と・・・
なんかの劇画でもそんな描写があったような・・・
298 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 19:07:58
>>297 ありえない話ではないが信長と家康の冷血ぶりを後世の人が
納得するために解釈しなおした事実関係という気もするね。
誰の子であれ公的には信康は家康の長男というのは事実。
生まれながら将軍はこのスレでは人気が無かったですね。。
301〜は当初の予定では家綱、綱吉ですね。
義直兄者に「我ら三人は太政大臣の子」と言われて馬鹿にされた家綱。。。
まもなく正雪来るかな( ^∀^)ゲラゲラ
301 :
結城@秀康:2005/10/20(木) 10:46:44
家綱は本物の「生まれながらの将軍」である。
家綱は人柄はよさそうだけど、治政は可もなく不可もなくかな。。
前半は保科正之、酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱なんかが中心、数え11歳で将軍になりましたからね。
後半は酒井忠清の時代、家綱は目立たないですね、まあ余計な事をしないだけよいのかな。
303 :
結城@秀康:2005/10/20(木) 11:00:54
綱吉よかマシ☆
ましでしょう☆
家綱が将軍になる前年に義直兄者死去、頼房は10年、わしは20年生きてるが
三家も二代目の時代に突入だね。
光友、光貞はぱっとしないね。
305 :
結城@秀康:2005/10/20(木) 11:21:00
尾張光友は家光の娘と結婚したそうだ。
そして尾張3代藩主綱誠はその子。
つまり義直と家光の孫なわけだ。
・・・そうすると綱誠は
尾張側から家康までたどると家康のひ孫、
将軍家側からたどると家康のひいひい孫
という不思議な系図になる・・・・
義直兄者の正室は浅野幸長の娘、継室が織田信益の娘、わしは加藤清正の娘(頼房正室ナシ)
これが光友…家光の娘、光貞…伏見宮 貞清親王の娘、光圀…近衛信尋の娘となるわけですね。
その綱誠は若死…
綱吉の娘婿紀伊綱教(わしの孫)が将軍継嗣に浮上してくるわけだ、若死んじゃうけどね。。
307 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 17:49:58
308 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 18:46:40
昔どこかのスレでやっていた気がするけど
徳川家康―徳川頼房―松平頼重―松平頼侯―松平頼豊―徳川宗堯―徳川宗翰―徳川治保―松平義和―松平義建―松平容保―松平恒雄―松平一郎―徳川恒孝―徳川家廣
だけど家康〜家廣まで何通りあるのだろうか。
他の例だと
徳川家康―徳川頼房―松平頼重―徳川綱條―徳川吉孚―徳川美代姫―徳川宗翰―徳川治保―松平義和―松平義建―松平容保―松平恒雄―松平一郎―徳川恒孝―徳川家廣
などがあります。
309 :
結城@秀康:2005/10/21(金) 19:53:11
すまんが俺にはわからん・・・・・
とりあえず水戸家の流れの血筋なのは確かだね。
この2つがまあ一般的な
ものでしょうな。
310 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 20:46:33
当然紀伊系もあるわけで
徳川家康―徳川頼宣―徳川光貞―徳川吉宗―徳川宗尹―徳川治済―徳川斉匡―徳川慶頼―徳川家達―徳川家正―松平一郎妻―徳川恒孝―徳川家広
恒孝氏の母の名前は知らないが
311 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:01:43
徳川家と五摂家は親戚関係?
312 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:09:07
>>311 と言うか歴代将軍の御台所の多くは摂家の娘では?
313 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 04:10:19
歴代徳川家で最も男色好きだったのは、誰でしょうか?
家光は晩年には女色に耽っているし、綱吉は生涯にわたり
両刀使いだったようですが・・・。
分家の松平諸家も含めて、衆道狂いと呼べるのは誰でしょうか?
314 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 05:27:57
>>100 秀忠は家康が死ぬと速攻で朱印船貿易をすすめてきた家康の政策を
反故にしているじゃん。
シャムに三浦安針派遣して国交の約束とりつけさせてきたのに
家康死んでいるからアダムスさん困ったことに。
315 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 10:24:14
秀忠の子孫だと
徳川家康―徳川秀忠―徳川千姫―本多勝子―池田光政―池田綱政―池田継政―池田宗政―相良長寛―相良頼徳―相良頼之―池田章政―池田詮政―細川博子―寺島雅子―徳川幸子―徳川家廣
>>310 恒孝氏の母の名前は豊子。
316 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 16:47:02
家綱の時代には大老が置かれたんですよね。
なぜ置かれたんだろう?国に一大事はなかったですよね。
家綱が病弱で不甲斐なかったから?
317 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 20:23:31
318 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 20:30:49
319 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 23:46:59
初めてレスします。ほんとに、詳しいですね。司馬遼の小説をはじめいろいろ
な本とかみて・・・、ただ、すきなだけで、ただ、この一連の系図はどこから
仕入れてくるのですか??感心します〜。時々、東照宮とか、、。先日は、
義直公の廟所をきんもくせいの香りをかぎながら、いってきました。このスレ
楽しい。もっと、知りたい。
320 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 00:15:01
増上寺の歴代将軍の墓所は一般人は傍まで行けない?
321 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 00:17:18
なんで「徳川」に改姓したの?
松平でいいような気がするけど
322 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 00:28:52
何で「得川」じゃなく「徳川」なん?
323 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 00:38:42
319ですが、、。増上寺、昨年、ディズニーランド入った時、
抜け出していった。確か、東京タワーが近くに見えた。駅から
まぁまぁ歩いた。葬式してた。奥に入ろうとしたが、墓所には
いけず、なんか、浮浪者がいたり、猫がいたりで、。でも
印象にのこってるのは、門かな、。写真でみてたから、アァ
ここだって感じ、。すいません、つまらないことを。
いいと思われるスポットおしえて。ちなみに先日は、また
京都・方向寺いきました。いついってもさびれてる。京都、東山
はいついってもいいよ。
325 :
316:2005/10/23(日) 11:46:17
>>317-318 さんくす!家定を主役にしたドラマ、是非見てみたいw
ある意味、魅力的。
326 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 16:48:36
尾張系だと
徳川家康―徳川義直―徳川光友―徳川綱誠―徳川宗春―徳川勝子―近衛経熙―近衛基前―近衛忠熙―近衛忠房―徳川泰子―徳川家正―松平豊子―徳川恒孝―徳川家廣
327 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 21:38:09
なんで、全部、最後は家広なの?宗家っていうのは理解できるが・・・。今
、徳川家、日本にどれくらいあるんだろう、、。何年か前に、関が原で
400周年の時は、家康役を今、車の整備士をやってる30歳くらいり人が
やってたけど、、、、。松平は多くいる。でも、徳川氏は、、、。
>>327 現当主の嫡子が家廣氏だからでしょう。
上にある系図で女系が絡む場合、側室腹ではなくて家康の血統が繋がって
いるのですか? 詳しいですね。
嫡孫もいるけどね
家綱に入って30過ぎたから、そろそろ死ぬか。。。
正雪のアホ、ドジ踏みおって。
わしも死んだし、いよいよ忠清の天下やな。
331 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 16:59:17
水戸藩最後の藩主昭武だけは、御三家当主でありながら将軍からへんき
を受けなかったのはなぜですか?清水家相続時に兄慶喜のへんきを受け
ていいはずですよね。
へんきを変換できなくてすみません。
慶喜から与えられた奴っておるん?
>>331 くわしくは存ぜぬが、
慶応2年(1866)7月20日家茂将軍没
同年 12月3日 昭武清水家を継ぐ
同年 12月5日 慶喜将軍に任ぜられる
慶応3年(1867)10月13日 大政奉還決定
慶応4年(1868) 昭武水戸藩主に。。。
清水家を継いだ時は将軍がいなかった。。。ちなみにこの時十五歳
影の将軍天海
336 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 18:40:31
慶喜からもらったのは喜徳だけだね
だいたい偏諱はすぐできるもんじゃない。
頼方が吉宗に改名したのも紀州を継いだ翌年だしね。
ごたごたしてるうちに大政奉還しちゃいましたよ、ってとこじゃない?
あと2、3年慶喜が粘ってたら昭武も改名したと思う
337 :
結城@秀康:2005/10/24(月) 18:47:38
昭武はオヤジから
名前の一字をもらった。
338 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 20:11:27
>>337 それは次男以下が元服するときに普通にもらうもの
父の斉昭だって治紀から一字もらって紀教と名乗ってたし
慶喜だって斉昭から一字もらって昭致と名乗ってた
問題はそういう下っぱが家督を継いだときに将軍から一字もらいなおすはずなのに、昭武はしていないということ
339 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:35:13
徳川頼宣@南龍公
↑
ぶっちゃけこいつウザくない?
>>338 なんかいかんの?
単にタイミングが合わんかっただけだろう?
341 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:18:37
>>339 俺、賛成派、ここって、否定しないところがよかったのに
やめてほしい。この人、すごく、詳しいよ・・・。
勉強になります。
342 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:31:12
>>341 おいおい、難解な日本語だなw
お前の言いたいことがちっとも伝わらんよ。
>>342 日本語も理解できんとは哀れなチンカス男だな。
俺、(南龍公に)賛成派、ここって、(他者を)否定しないところがよかったのに
(そういうことは)やめてほしい。この人(南龍公)、すごく、詳しいよ・・・。
勉強になります。
344 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 08:37:36
>>343 初めからそう書け!
お前の脳内まで想像しながら読まなきゃいかんのか?
>>333 家茂死亡後、将軍宣下を受ける数ヶ月前に慶喜は徳川宗家を相続している。
宗家当主慶喜の意向で昭武は清水家に入り、パリの万博へ旅立つ。プリン
ス・トクガワとも呼ばれたのだから、対外的にも喜の字があった方が好都
合。宗家当主が実弟に一字与えるにあたってなにか問題があったとも思え
ない。ではなぜでしょうね?
単にそれどころじゃなかっただけじゃね?
347 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 13:06:14
学校祭の休日で本屋に行ったら文春フェアで徳川元子・宗英・慶朝の本があった。
3つとも面白かったのだがいまいち決定打に欠けていて3つとも買わなかった。
348 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 13:31:54
>>344 ×
>初めからそう書け!
>お前の脳内まで想像しながら読まなきゃいかんのか?
○
わたしの足りないオツムでは常識的な日本語は理解できません。
まことに申し訳ないのですが、馬鹿な私にもわかるように
懇切丁寧に書いていただけないでしょうか?
349 :
結城@秀康:2005/10/25(火) 13:36:50
339殿、これ以後、荒れるような
発言はやめてもらいたい。
349殿、これ以後、荒れるような
なりきりはやめてもらいたい。
351 :
結城@秀康:2005/10/25(火) 15:32:58
352 :
結城@秀康:2005/10/25(火) 15:37:06
あ、ごめんまちがえた。
ではこのスレの流れを正そう。
353 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 15:59:54
結城@秀康
↑
ぶっちゃけこいつもキモくない?
354 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 16:08:02
>>353 俺、賛成派、ここって、否定しないところがよかったのに
やめてほしい。この人、すごく、詳しいよ・・・。
勉強になります。
呼ばれたので来たが私は何をすれば良いのだ?
得川にはさほど詳しくないのだが?
356 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 18:05:05
357 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 18:09:44
八戸殿がお好きな戦国時代とこの江戸時代の
良いところ、悪いところ、なんか
比べて思ったこととかを書き込んだら?
あと、荒らしたりせぬように。
荒らさなければ
このスレの人達はやさしくしてくれます。
みなさんも荒らしは無視してください。
358 :
結城@秀康:2005/10/25(火) 20:24:03
家綱は種無し野郎?
359 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 20:28:34
妊娠した側室がいたらしい。
360 :
結城@秀康:2005/10/25(火) 21:00:08
家綱ってのは
政治に感心がなかったのか?
それとも家来に「あんた政治せんでええ。」
みたいなこと言われて政治できなかったんか?
結城@秀康
↑
ぶっちゃけこいつもキモくない?
362 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 21:55:12
>>361 俺、賛成派、ここって、否定しないところがよかったのに
やめてほしい。この人、すごく、詳しいよ・・・。
勉強になります。
363 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 22:35:11
>>360 積極的に表向きに関わろうとしなければ自然と出番が無くなる状況だった。
幼少時には保科正之、酒井忠勝、知恵伊豆が完全に政務を掌握してた。
ほんとは重臣達が死んだ直後なら、自分で政務を執ることもできたと思うけど
実際には下馬将軍が権力を継承したね。
基本的にはあまり政治に興味を持たず遊興が好きな人だったようだ。
綱吉の「生類憐みの令」
についてはどうよ?
家茂が死亡→一橋慶喜が宗家を相続→前尾張藩主茂栄が一橋家を相続
なのだけど、茂栄はいつのまに家茂から偏諱を受けたのか?
尾張藩主時代に茂徳と名乗りすでに偏諱を受けたことはわかるが、宗家当
主が慶喜なのに先代の一字を使って名乗り直すことは慶喜に対する挑戦か?
深い意味はないと思う。
368 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 23:07:24
>>341 俺、びっくりしました。341かきこしてから、しばらく
みなかったら、すごい争いになってて、萌え〜・・ました。おもしろかった。
変な意味で書いてないけどさ。何年か前に大河で葵?代ってやってたけど
続・3代で、、家定中心でやってほしいよ・・。O奥とかドロドロ
したのなしで・・・。視聴率アップできるよ、、Y経より、、。
脚本は、南龍公さんにお・ま・か・せします。
369 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 00:10:19
>>366 っていうか、松平元信→松平元康のように、下の字を改める事はあったが、
先代から与えられた一字を、当代から一字拝領することによって捨てる、などということはあるのかね?
久々来ました。一言…よそでは知らぬがここでは秀康兄者はスレの立役者です☆
>>345 慶喜の宗家相続は八月二十日ですね、当初は本人が将軍職を継がない条件を出したとか。
それと家茂将軍の院号は昭徳院で(昭徳院殿光蓮社澤譽道雅大居士)
昭武はこれをはばかり昭徳から改名したようですね。
調べて出てきたののはこれぐらいで、偏諱の話は…申し訳ありません憶測以外では言えません。
http://www.0105.jp/~mizuki/takabaseido1.html >■最高権力者の象徴
>鷹狩の歴史を眺めていくと、鷹狩が最高権力者の象徴として機能していたことが理解できる。
>鷹狩を好む桓武天皇や嵯峨天皇の平安初期になると鷹狩は天皇の大権と結び付き、狩場は禁野(しめの)と呼ばれ庶民は立ち入ることができず、
>鷹狩を行える者は六衛府次官以上だったというから官位では従四位下以上となり、江戸期に置き換えると家門や有力大名以上となる。
>家康は征夷大将軍になった翌年の慶長9年(1604)、有力大名へ鷹狩禁止令を、慶長17年(1612)に公家へ鷹狩禁止令を発布し、鷹利用の権利を統制する。
>鷹狩は権力の象徴であり、それを統制できる者が最高権力者の証しであり、その権利を一部支配下の者へ分け与えたり、鷹狩による獲物を分け与えたりすることは、
>最高権力者の施しとみることができる。よくいえば、儀礼的な意味もあったわけである。
373 :
結城@秀康:2005/10/27(木) 18:08:09
柳沢吉里は柳沢吉保の子供?
綱吉のご落胤と聞いたことが
あるのだけど?
374 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 18:18:13
徳川義恭(尾張家の人?)について誰か知る人いる?
>>365 よくもまあ実行に移せたなあ・・・という一点のみに興味がある。
綱吉の頃は御三家も譜代も将軍の権力を掣肘できなかったんだろうな。
>>373 んなもん分かるわけねえべw
可能性は限りなく低いと思うけどな。
実際に綱吉の子供なら、綱吉がなんとしても将軍後継にしただろうし
柳沢がそれを拒むとも思えんし。
376 :
結城@秀康:2005/10/27(木) 20:42:10
綱吉の生類憐みの令は結局
キイテタのは江戸ぐらいじゃない?
地方ではきっと無視してたでしょう。
そんなとこまで綱吉は見てないと思うし。
377 :
徳川家康:2005/10/27(木) 21:20:57
秀康、、。頭が高い・・・。将軍家になんの不満があるのじゃ・・。
控えろ。だから、、お前を毒殺したのじゃ。服部半蔵はよくうごいてくれた。
秀忠の母は服部の血統だからな・・・。俺は何人の子を・・・・。
国家のためじゃ・・・・南無阿巳陀佛・・・。
378 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 21:24:17
結城@秀康
↑
ぶっちゃけこいつもキモくない?
379 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 21:31:40
>>378 俺、賛成派、ここって、否定しないところがよかったのに
やめてほしい。この人、すごく、詳しいよ・・・。
勉強になります。
380 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 21:38:53
漏れ、反対派、ここって勉強しないところがよかったのに
やらせてほしてい。奥よ・・・。否定したい。のそんなに
>>374 >徳川義恭(よしやす)
三島由紀夫や東文彦と共に同人誌『赤絵』を創刊した人かな?
故徳川義寛侍従長の弟にあたる人ですな、昭和24年没。
それ以上詳しいことは解りませんが。
徳川慶勝─義恕(分家、男爵)─義恭
です。
383 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 16:30:39
339・361・364・378・382
お前荒し?いいかげんにしてくれないかな。
南龍公や結城がうざいとかいってるけど、
あんたが一番うざい。まじめに話しさせろ。
384 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 17:35:36
徳川家の面々で最も衆道好きだったのは誰ですか?
385 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 20:25:35
>>365 人の一人や二人殺しても当然だった時代が長かったことを
考えるとすごい法令。
暗君の代表のように思われているがたいへんな理想主義の君主ともいえる。
386 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 20:43:44
うん なるほど・・・
387 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 20:56:33
>>385 綱吉はえらいインテリだったらしいな。
こいつは将軍より学者になったほうが大成したかも。
性格的には執念深いタイプなのは確実。
1年前に決裁が済んだ越後騒動を(私怨のため?)再審理して松平光長を潰したり。
伝統にとらわれず、新しいもの好きだな。
388 :
結城@秀康:2005/10/28(金) 20:58:26
「人間愛護」より「動物愛護」を重視した男。
それが徳川綱吉。
389 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 21:14:12
動物愛護と言うより坊主に自分に子が出来ない理由は
親父(家光)が動物を殺ししすぎたのが原因だから、動物を大切に
しないさいとアドバイスを受け、子ができるようにと自分の都合で
決めただけでしょ?
>>385 どう考えても暗愚でしょ?
たまたま目に付いて、気に入った者をいきなり役職者に任命する
が、その者が身分に相対しないと辞退すると、反対に腹を立てて
勢いで処分してしまう所とか。
390 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 21:17:36
>>388 捨て子を禁止したりもしているから、一概にそう言いきるのはどうか。
391 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 21:21:42
もし、長生きしていたら家宣が一番の名君となった可能性が高い。
前将軍の遺命を破ってまでも生類哀れみの令を廃止したり(将軍の
遺命は将軍そのものの命令と同格)、自分の後継者には子で幼く
病弱の鍋松(後の家継)ではなく尾張を推したりと、私情を
挟まなかったしな。
392 :
大石さん:2005/10/28(金) 21:36:11
狙うは怨敵・吉良上野介、ただ一人である!
393 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 21:38:31
>>391 全く同意だが、生類哀れみの令をいきなり廃止したのは
為政者として当然の行動、であるとともに綱吉への意趣返しじゃないかな?
ここだけ気になった。
処世の上手さとして柳沢吉保の身の引き方は見事だな。
綱吉がいつまでも自分の実子や娘婿にこだわったから、家宣は世子に
なるのが遅く、将軍在位も4年未満。どんなに有能でも大したことは
できないよね。
395 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 21:48:03
家光が阿呆だと思うのはオレだけ?
日光東照宮の造営など大散財、徳川の世を安泰に保つに当たり一番大切な
子作りもせず、家綱が幼少のうちに自分は他界。酒井や知恵伊豆などの幕
閣に恵まれただけで、一体なにをしたのだろう?
396 :
結城@秀康:2005/10/28(金) 21:57:58
家宣がいなかったら、
あの後どうなっていたんだろう・・・・
397 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 22:39:40
清武が継いだから、あまり変わらないと思う。
398 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 22:47:19
>>393 当時では、前将軍の遺命を翻すことなど考えられないことだった。
それを綱吉の棺の目の前で宣言するとは、かなり前から考えて
いただろうし、非難を一心に受けるつもりだっただろう。
399 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:07:32
家宣は在職期間こそ短かったが決断力のある人物だった。
「政策が現実に合わないものであれば前例を破ってもよい」という
前例を作り、幕府の体制内での柔軟な変革も可能であるという
社会を作ったからだ。
だが一方で学問好きは綱吉とも通じるものがあり、
長期政権になっていれば新井白石の進言で諸大名から
さらに嫌われるような政策を打ち出していたかもしれない。
400 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:13:14
>397
清武悲惨だね。血のつながりから言えば、清武は前将軍の実弟で
当代将軍の叔父。
吉宗なんて他人じゃん。
誰も清武を8代将軍に推戴しなかったのかな?
401 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 09:26:18
>>400 他家に養子に行ってしまったから復帰は難しい。
いい年して子供がいなかったことも一因らしい。
越智松平家は養子を迎えている。
402 :
結城@秀康:2005/10/29(土) 09:59:31
400を超えたので、
家宣・家継を語る時間ですね。
家宣は甲府藩主時代から名君だったのかな?
403 :
否定しないのが:2005/10/29(土) 10:43:59
否定しないのがよかったのに・・・、の俺だけど、、
404 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 11:13:31
家宣は実弟の越智清武に大封を与え、将軍候補のスペアにすべきであった。そうすれば紀州に奪われずにすんだかもしれない
甲府藩主時代の事跡ですか…
城下町や城の整備は柳沢時代のようですね
藩翰譜を新井白石に命じて編纂させた事は、大変な業績ではありますね
ちなみに白石が綱豊に藩翰譜を献上したのが、元禄十五年(1702)三月十九日です
>>404 わしの遺伝子と言うか、怨念の勝利( ^∀^)ゲラゲラ
おっと冗談です。。。
家綱後継…綱吉と綱豊→年齢と家光との近さで綱吉by堀田正俊(有栖川宮幸仁親王を除く)
綱吉後継…綱吉の娘の夫、紀伊綱教がリード、でも急死、綱豊に
家宣後継…家宣は尾張吉通を…白石が強行に反対、家継に
吉宗以前にも、どう転ぶかわからない状況、家宣と尾張殿カワイソス(´・ω・`)
407 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:06:11
水戸はいざという時のバックアップ
だったかもしれないけど
尾張から将軍を出さないのは
政治的要因だろうか?
吉宗以前から確執があったのだろうか?
408 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:24:50
>>407 将軍継嗣問題が生じたときにことごとく藩主が幼少だったから
>>408 綱吉…宝永四年(1704)12月5日、綱豊綱吉の養嗣子となる、尾張吉通16歳
家宣…正徳二年(1712)10月14日、家宣没、尾張吉通24歳、しかし翌年7月26日吉通没
家継…正徳六年(1716)4月30日、家継没、尾張継友25歳
410 :
結城@秀康:2005/10/29(土) 14:17:28
家継は将軍在位中、何をやってたんだろう?
病弱だったようだけど、元気な時は遊んでたのかな?
411 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:00:44
>>402 家宣は徳川綱豊としての甲府大名時代のほうが忠臣蔵なんかには
よく出てくる。
たいていは大石内蔵助の真意に期待する男気にあふれる人物。
412 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 18:09:33
一度紀州将軍を許したばかりに尾張の目はなくなった。
反動で官軍に付いたしな。
413 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:30:21
>>409 家宣は尾張吉通を自分の後継か家継の後見人を考え、もし家継が将軍となり
もしものことがあれば、吉通の子の五朗太を次期将軍に考えていたが
新井の反対にあい断念。
家継の時は天英院と月光院の勢力争いが主な原因だが、表向きの理由は
継友が吉宗より、家康から一代遠かったから。
414 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:36:07
徳川慶喜の曾孫の旦那(平沼赳夫)は自民党離党ではなかったそうだな。
415 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:37:36
子孫の旦那なんて徳川に関係ないだろ。
11代将軍も先代との血縁の近さだけなら清水重好のはずなのに、
高齢で子供がいないからお呼びでなかった。清水家は一代で断絶。
下手に可能性があると政局に巻き込まれ、田安家出身の松平定信の
ように追放される。
417 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 21:51:48
綱吉の生類憐みの令って、実際は「〜禁止の令」みたいに細かい法令を何度か出して、
それらを総称して「生類憐みの令」って呼んでるんじゃなかった?
あと綱吉自身は単に生き物を大事にせよという意味で命令を出したのであって
あれだけ厳しい取締りになったのは家臣が勝手に暴走しただけなんて説も聞いた事ある。
でもカラスが綱吉に向かって糞をかけたのを捕獲したものの、令を出してる本人が殺すわけにもいかず
かごに入れて佐渡島に連れてって放したなんてアホな逸話も残ってるくらいだからそんな事はないか・・・?
あと綱吉の棺が「お前なんか生き返るな、死んでせいせいした!」なんて思いを込めて
異常に深く埋められたって話はホント?
>>417 生類憐れみの令に関してはその見解ておおむね正しいんじゃないかな。
根底は儒教精神に基づいた、非常に道徳的なものだったらしい。
人間から小動物に至るまで、命あるものを大切にせよ、という。
確かに過剰になってしまった面はあるが、あの時代にあの法令が出ていなかったら、
江戸時代はもっと血なまぐさい時代だったかもしれない。
419 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 22:47:45
横山光輝【時の行者】の元禄編のセリフ
「生き物をかわいがる事は悪い事だとは言いません、でも【生類憐れみの令】は人間も生き物である事を忘れています。」
420 :
山野野衾:2005/10/29(土) 23:02:48
女は愛撫したけどな>綱吉
421 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 02:13:03
松平清武を綱豊のあとの甲府藩主にし、徳川の姓を与え、偏名を与えて徳川宣清と名乗らせ、大封を与えて御三家の上座に座らせるべきであった。
422 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 02:20:39
徳川はあまり長生きする人いないね。
423 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 02:20:59
>>421 それをやるならまず先に会津を(ry
まあ正之は松平姓すら断ってるけどな
会津が松平姓のままなのに清武が徳川姓ってのはちょっとまずいのでは?
>>421 もしそうしていれば、何がどうなったと言うのか?
妄想はいらない。
426 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 11:15:04
徳川幕府は260年も太平の時代を築いた。
427 :
否定しないのが:2005/10/30(日) 12:57:35
>>424 やめろ・・・。先生方、、気にしず、どんどん
やってください・・・。お願いいたします。
428 :
結城@秀康:2005/10/30(日) 22:23:58
なぜ越前松平家は御三家より
格下なんだろう?
御三家はおろか将軍家の兄の家柄なのに。
バカ息子の忠直が乱心したからか?
429 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 22:30:59
>>428 何度も話しに出ているが、いったんは豊臣家に養子に行った
からだろう。
それと家康の子に対する溺愛度もあるのだろう。
430 :
否定しない結城紬:2005/10/30(日) 23:43:54
大樹公にかぎって溺愛とかでないであろう。だから
制外の家なんだろう。
431 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 23:48:40
慶喜のひ孫の三流カメラマンが食い詰めてコーヒー売ろうとしている件
432 :
結城紬:2005/10/31(月) 00:02:01
慶喜は子供家慶並に子供おおかったらしいね。
だから、、今となっては貧乏な人、おおいんじゃないの
433 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 00:25:56
中途半端なたとえだな>家慶並
家慶って30人以上子供いなかったか?
育ったのが家定だけ。
>>435 家慶の子は十一男十六女といわれるが、嫡男竹千代を含め殆どが数え二歳までに没してますね。
家定以外で比較的生きたのは、
一橋六代当主慶昌、十四歳で没
田安徳川家五代当主 徳川慶頼室の暉姫、十五歳で没だけですね。
ちなみに慶喜は十男十一女、詳しくはふれませんが、成人した男女もたくさんいますね。
437 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 14:59:01
そんなことより家宣・家継について語ろうぜ
438 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 15:24:30
家継の烏帽子親は霊元天皇
>>438 そうなの?
霊元天皇は家継と婚約した八十宮吉子内親王の父だけど、烏帽子親とは初耳
詳しく
会ったこともないんじゃね?
天皇が江戸に下ったんか?
441 :
438:2005/10/31(月) 15:49:39
詳しくは漏れも知らない…すまんそ
以下、漏れが聞いた話。
名付け親というのは自分より地位の高い人がなるので、将軍自身を名付けるのは前将軍しかあり得ない。
だから家綱や家継が次期将軍の名を決めずに死んでしまったとき、綱吉や吉宗は家○ではなく藩主としての名前のまま将軍就任した。
ところが家宣が死去したとき家継は4歳、いまだ「鍋松」だったわけで、さすがに鍋松なんて名前で将軍になるのはまずいってことで、無理矢理霊元天皇を烏帽子親ってことにして将軍就任した、とのこと。
実際に霊元天皇が「家継がよい」と言ったかどうかは怪しいけど。
ここにありましたね
41 :日本@名無史さん :2005/10/06(木) 22:22:17
綱吉、吉宗、慶喜が将軍になっても改名しなかったのは「家」の字を授けてくれる適当な名付け親がいなかったから。
3人とも宗家を継いだ時点ですでに先代が死去していて名付け親になるべき人がいなかった。こればっかりは目下の者には頼めないからね。
同じ養子でも家宣と家斉は養父の将軍が存命だったので名付け親になってもらって改名できた。
4歳で父親を亡くした家継のケースも元服のとき名付け親がいなくて困ったが、強引に霊元法皇を名付け親にして元服した。
井伊直該
正徳3年3月26日家継元服に折には加冠の役をつとめた。とあるけど、これは関係ないのかな?
444 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 17:57:11
家継の婚約者だった皇女はどうなったの?
445 :
結城@秀康:2005/10/31(月) 18:08:53
家継が幼くして死んだあとも
家継の妻(婚約者)として扱われ、
だれとも結婚できずに
独身のまま一生を終えた。
446 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 18:24:53
ただ、この時代の皇女は出家するケースも多いので、
どっちにせよ独身だな。
447 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 18:53:34
慶喜の娘は国子が一番美しい
烏帽子親説はマチガイということでOK?
449 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 13:11:46
家定または家茂の後、田安慶頼は将軍候補にならなかったのですか?
家光、取り潰し過ぎ
>>449 家定没時の慶頼の評価は高くなかったようですが、
慶頼は、 治済ー斉匡ー慶頼
家茂は、 治済ー家斉ー斉順ー慶福
家定は、 治済ー家斉ー家慶ー家定と家茂の方が将軍と近かったですね。
それに慶頼の異母兄が一橋派の松平春嶽というのが気になるところ。
家茂後は、勅使大原重徳の働きにより、文久二年(1862)七月六日に慶喜は将軍後見職任じられていますね。
それ以前(家茂が将軍になって〜文久二年五月まで)慶頼は後見職でしたが、
家茂が十七歳になったため免じられています。
これは家茂はもう大人だから、後見職は(慶喜も含め)必要ないと示す意味だったそうで。
慶喜の後見職就任は、幕閣の本意ではなかったようです。
亀之助君の登場を待たねばなりませんね。
452 :
結城@秀康:2005/11/01(火) 18:39:54
家宣はけっこう
イケメンだったらしい。
453 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 21:38:28
結城@秀康
↑
ぶっちゃけこいつもキモくない?
454 :
結城@秀康:2005/11/01(火) 21:57:52
>>453・・・・俺を挑発しているのか!?
いいかげんその文は見飽きた。
悪いがやめてもらいたい。
455 :
ヲチ対象となりました!:2005/11/02(水) 00:54:44
456 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 01:00:14
久能山嶮しい
457 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 03:14:03
家宣の弟越智清武は実に不遇な人物だ。
3代将軍の孫、5代将軍の甥なのに、長い間、甲府家の家臣の地位にとどめられ、
大名に取り立てられたあとも小大名のままで終わった。
家臣の養子になったのが理由かもしれないが、同じような境遇の保科正之が大封を得、
吉宗にいたっては本家を相続した上で将軍にまでなっている。
つくづく運のない人だと思う。
458 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 03:22:17
清武の不遇な点は実名の変遷にもうかがえる。
最初、元服したときは「吉忠」と名乗っていたが、綱吉が5代将軍になると、
将軍の一字をはばかって「清宣」と改名。さらに兄の綱豊が将軍世子となって
家宣と名乗ると、これに遠慮して「清武」に改名している。
本来、一字拝領を受けてもおかしくない血筋なのに、将軍が代わるするたびに、
その一字を遠慮して改名しなければならないとは・・・
459 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 03:23:37
訂正
× 将軍が代わるするたびに
○ 将軍が代替わりするたびに
460 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 04:12:16
越智家は親藩と譜代の間を行ったり来たりしている。
初代清武は晩年になって、ようやく親藩らしい扱いを受けるようになったが、
3代目武元は譜代大名として老中に就任している。
家斉時代の武厚は寺社奉行を勤めていたが、将軍の子を養子に迎え親藩に復帰、
将軍の一字を拝領して斉厚と改名の上、石見浜田に転封になっている。
清武も家宣が長生きしてればまた違ったんだろうけどねぇ
家継の後見人にでもしとけば良かったのに
>>461 家宣は尾張殿と言ってたわけですが、確かに状況は変わっていたでしょうね。
家継が判断出来ず、天英院と月光院の…という事になったわけですから。
皆さんが詳述されているので、付け加える事はないですが、
理屈は後から付く(天英院は彼女なり、井伊直弼は彼なりの理屈)、
要は権力争い…
463 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 11:45:56
>>458 綱吉にはばかって、ってことは吉忠は綱吉から拝領したんじゃないってことだよね?
吉忠って名前はどこからきたんだろ?
さらに清宣という名の弟がいるのに、なんでわざわざ家宣なんて名乗るんだろ?
疑問ばかりでスマソ
「宣」の字の使用は紀伊家への嫌がらせだとばかり思ってたよw
>>464 南龍公のこと?(((・∀・)))プルプル
466 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 19:01:52
吉忠の由来はわからないが、清宣、清武の「清」は養父の越智嘉清の一字。
清武は長いこと、甲府家家臣として扱われていたから、元服での将軍からの
一字拝領はありえない。
467 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 19:14:09
家宣って君子のような人物とか名君とか言われているわりに、実弟には冷淡だね。
家光の保科正之に対する処遇と比べて、あまりにも差がありすぎる。
弟というだけでみだりに厚遇するのが名君とは思わんが?
469 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 19:29:44
南條範夫の「三百年のベール」には、家康が被差別層の出身だと書いてあったけど、
本当なの?
南條範夫だから、まんざら嘘とも思えないし。
470 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 19:31:21
明治時代にもそんなことを書いた本が出ていたらしい。
多分、元ネタはそれだと思う。
471 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 19:35:56
和宮の命日には宮内庁から使者来るの?
473 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 20:10:37
474 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 20:11:49
>>467 家光の忠長に対する待遇よりはいいんじゃないか?
つか単に、清武にあげる所領の空きがなかっただけなんじゃないの?
家光は乳母の息子を厚遇してるんだから、むしろ異常だ。
榊原康政、徳川綱吉ゆかりの館林に配しただけでも厚遇。
477 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 21:43:13
松平清武よりも松平定信の方が可哀想じゃないか。
無理矢理養子に出されなければ田安家当主、さらに将軍になれたかも
しれない。一橋家の息子たちは越前の松平家へ養子に行ったのに、定
信は白河の久松松平。兄定国も伊予松山の久松松平。
館林に配したのって綱吉じゃないか?
479 :
結城@秀康:2005/11/02(水) 22:03:34
清武は1712年に
館林城主になったようだ。
つまり綱吉の死んだあと。
wikiとかじゃ1707年になってるけど?
481 :
結城@秀康:2005/11/02(水) 22:59:44
うっそ〜〜〜!?
俺の本にはそう書いてあった
んだが?
482 :
未定:2005/11/02(水) 23:07:16
本によって違うんじゃないか?
歴史は常に変化するって言うし・・・・・・
483 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:23:57
>>471 和宮って増上寺の発掘で遺体を掘り起こされ、頭蓋骨の写真まで取られてるね、
ネットでもちょっと調べれば見れる(ガクガクブルブル・・・)
いくら民間人になったとはいえ、皇族の人間の白骨遺体が公開されてるのは
和宮ぐらいだよね・・・女性だし、白骨化した体を見られるなんてある意味レイプだな・・・
484 :
結城@秀康:2005/11/02(水) 23:24:36
>>482
だな。
しかし綱吉が死んだ後、
家宣は弟清武の領地を好きにできたはず。
(増やせるほどないのかもしれんが・・・)
だが実弟だからといってひいきしないという
名君・家宣らしい考えかも。
485 :
吉宗:2005/11/02(水) 23:39:23
余の出番はまだか?
486 :
結城@秀康:2005/11/02(水) 23:59:22
吉宗さんの出番は
もうすぐです。
488 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 10:36:28
家宣から一字をもらった大名って、あんまりいないねえ。
489 :
結城@秀康:2005/11/03(木) 10:51:37
>>488
松平宣富とか。
490 :
結城@秀康:2005/11/03(木) 10:53:57
491 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:08:16
>>490 家宣、家継も少ないけど、幕末の家定にいたっては一人しかいない。
だけど、この一覧は世子のまま没した人物や後に改名した人物は含んでないから、
幕末あたりではもう少し増えそうだな。
492 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:31:06
>>490 これ、徳川綱重と徳川綱豊が忘れられてるね
個人的には松平喜徳や徳川達成、徳川達孝も入れてほすぃ
>>491 あとで改名したのって、幕末では毛利慶親と島津茂久しか知らないんだけど、他にもいる?
493 :
結城@秀康:2005/11/03(木) 11:35:17
うん。確かに綱重・綱豊親子が忘れられてる。
俺的には家康・秀忠の欄も
作ってほしかったなぁ・・・・・
494 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:44:51
毛利定広→元徳
浅野茂長→長訓
浅野茂勳→長勳
黒田斉溥→長溥
黒田慶賛→長知
鍋島斉正→直正
鍋島茂実→直大
細川慶順→音召邦
細川喜延→護久
495 :
結城@秀康:2005/11/03(木) 11:47:21
>>494
なぜ改名するの?
496 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:51:31
鳥羽伏見で慶喜が朝敵になったので、松平姓と将軍の一字を捨てた。
維新後も将軍の一字を残したのは徳川・松平一門と前田、蜂須賀、伊達、上杉。
前田と蜂須賀は11代将軍の実の孫、伊達と上杉は佐幕派だったから。
497 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:57:51
島津忠義も「島津茂久」って名前が別にあるけど、ほとんど使われてなかったんじゃないかなあ・・・。
498 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 12:10:09
薩摩藩への討幕の密勅は「源茂久」に対して出されている。
499 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 12:56:10
家継から一字拝領した大名が、みんな家継より年上ってのは・・・
家宣が長生きで子供全滅してたら、尾張が養子になったんだろうなぁ
501 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 13:05:02
>>499 そりゃ家継の年じゃ普通は元服しないんだから当然だ罠
502 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 13:18:41
天英院が亡夫の遺志に反して吉宗を推した理由は?
503 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 13:30:28
天英院に一言、「清武様をぜひ」と言ってほしかった。
尾張-間部-月光院ラインに対抗する為じゃないか?
505 :
結城@秀康:2005/11/03(木) 17:29:21
吉宗について語ろうか。
徳川吉宗=紀州の四男房。
南龍公のお孫さんです。
506 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 17:41:57
早世した兄貴って2男?3男?
507 :
結城@秀康:2005/11/03(木) 17:44:06
次男。
名前は確か次郎吉
だったかな。
南龍公に聞いてみて。
綱教の死はまだしも、頼職の死はとても怪しい・・・
509 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:10:30
おそらく、毒殺・・・だろうね。>頼職
犯人は言わずもがな・・・
ところで、一橋家10代「茂栄」て、慶喜公のあとだけに陰薄いねえ・・・。
510 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:15:49
徳川茂栄卿は何も実績ないの?
511 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:24:01
尾張藩主徳川茂徳公としての実績がある・・・はず?
512 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:37:35
玄同か。
513 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:50:26
安政の大獄で兄慶勝が隠居させられ、分家の高須家から尾張藩を相続したものの、
数年で兄貴が名誉回復したので、その息子に藩主の座を譲って隠居。
藩政の実権は兄貴に握られ、なんとなく居心地の悪い隠居の立場だったが、
一橋慶喜の宗家相続のおかげで空きのできた一橋家の当主へ。
身の置き所のなかった茂徳=玄同の処遇としては絶妙ですな。
前に紀伊家は女の子だけだとか見た気がするんですが、
他の家は確かほとんど血統上は水戸系ですよね。
今徳川姓の男系で残っているのは血統的には水戸系だけですか?
515 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 21:25:23
>>514 田安家は紀伊系だよ
家達の弟の系統が残ってる
そうか田安家がありましたか。
早速回答ありがとうございます。
宗家御三家御三卿慶喜家、全て家康とお万の子孫。
お万も何気に凄い。
尾張だけ違うか。
518 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 22:00:11
確か、養子先で義直の血統が残ってるはず・・・。
八代宗勝あたりの息子。
519 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 22:26:09
徳川宗勝―竹腰勝起―井上正紀―井上正滝―井上正和―井上正順―井上正言
とつながってる。
でも次の井上正鑑は南部家から連れてきた婿養子。
井上家からまたどっかに養子に出してればそっちでつながってるかも知れないが。
520 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 23:40:19
494>>
黒田慶賛
細川喜延
名前はなんて読むの?
521 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 01:02:15
黒田よしさん
細川のぶえん
522 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 13:08:36
家達から一字をもらった人
一橋徳川達道
田安徳川達孝、同達成
>>492 伊達光宗と茂村も欲しい所だな。
光宗が長命だったら伊達騒動は起こらなかったし、茂村があと5、6年生きてたら初代知藩事になって
いた。
同母弟じゃが、頼房の子孫の方が現代では優勢なのがちょっと悔しいわし。。
宗家の恒孝は、水戸治保ー義和ー義建ー容保ー恒雄ー一郎ー徳川恒孝。
慶喜別家、水戸家は別として、
一橋の宗信は、水戸慶篤ー篤敬ー宗敬ー宗信
清水の豪英は、水戸慶篤ー篤守ー好敏ー豪英ですな。
田安は一橋治済の孫慶頼ー達孝の血筋だが、紀伊家は昭和三十三年頼韶の死で断絶。
尾張は堀田に替わってるし。。何でだか知ってる人手をあげてくだされ。。
>>507 秀康兄者、その通りでございます。
昨日は休日だったので
>>463が引っかかって頭の体操を少ししたのだが、
(そもそも偏諱は別として、命名の由来ってなんだろうって)
例えば家康の家が八幡太郎義家、康は清康か・・・
秀忠の秀吉の秀に、親忠、信忠、広忠の忠…
ここからは・・・ですが家光は…源頼光、義光、家綱は…義綱がいるな…
家重は…新田義重がいるな…
北条執権家に手を伸ばすといるは、いるは。
さて命名と関係あるのかどうか…戯言ですが。。
家光の光は光秀の光。
527 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 20:39:01
頼宣の頼は秀頼の頼
綱吉の吉は秀吉の吉
528 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 20:45:27
やっぱり偏諱スレが必要だなあ
漏れは携帯からでどうも立てられないので誰か立ててくれないかな?
529 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 20:47:55
いい加減、吉宗について語ろうぜ。
貧乏旗本の三男坊、徳田新之助の話題でもいいけど。
>>527 ああ、こいつやっぱこっちにも来るんだ・・・
吉宗といえば公事方御定書
法制史的には結構重要だよね
>>530 >>527は息子たちスレ名物だったあのウルトラバカでしょ?
0.1%の可能性でもあれば取り上げろ、とか低脳丸出しだったなあ。
532 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 21:19:12
お前達はこのスレでまでそんな話題を続ける気か。自作自演はやめれ。
いいから、新さんについて語れや。
533 :
徳川家基:2005/11/04(金) 21:22:25
呼びましたか?
わざわざ別スレに来て他人をウルトラバカとか低脳とか書いてるいう人間が、
一番バカに見える。
間違えた。
>>531の低脳ぶりが感染したw
○ 書いている
× 書いてるいう
536 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 21:27:12
吉宗ってさ次々に邪魔者が死んで部屋住みからあっというまに
将軍になったけどやっぱり兄たちや御三家の有力者を消したのか?
537 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 21:28:01
>>526 乳母の春日の局が光秀の重臣の娘だったから?
>>536 頼職と吉通と五郎太に関しては非常に怪しいと思う
>>536 この板で話すのは気が引けるが
津本陽の小説では・・・と言う設定になっていた。
>>537 家光公の話題は
>>300まで
吉宗公に関係ないネタのようなので他の類似スレに速やかに移動願います。
大河の吉宗では
頼職は紀伊家の重臣が殺したって感じになってたな
541 :
結城@秀康:2005/11/04(金) 22:38:03
しかし吉宗は運が良すぎる。
次々と将軍候補が吉宗のまわりから
消えていく。あれでは疑われてもしょうがないか・・・
それともまわりが運悪かったのか!?
542 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 22:44:34
>>519 尾張徳川家の男系も絶えてないよ。
徳川宗勝―竹腰勝起―井上正紀―井上正滝―永井直哉―永井直厚―永井通景
543 :
田沼意次:2005/11/04(金) 22:51:20
わしもそろそろ話題に上っていいころかの?
足軽の子から出世するとねたみもひどいんでなあ…
そおいや紀伊家は宮家から度々正室を迎えてるけど
尾張家は宮家からは一度もないのな
たまたまなんかな?
545 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 23:08:16
>>540 大河では、確か頼職は江戸から和歌山に戻る途中に鮎のわさび漬けに
当たり、食中毒で死んだことになっていたのでは?
野口五郎はゲロを吐く熱演ぶりだった。
尾張の五郎太は加納久通が殺したことになっていたな。
五郎太の死について
吉宗「何もそこまですることは、なかろう」
久通「殿は長福丸さまを将軍にしたくないのですか?」
吉宗「・・・・・・」
546 :
545:2005/11/04(金) 23:15:36
訂正 加納久通じゃなく、有馬氏倫が殺したことになっていたね。
なんか頼職が死ぬ前に、頼純と三浦か安藤か水野が
御家が大事か主君が大事かと意味深な会話してたような
あと、五郎太は有馬氏倫の仕業じゃなかったっけ?
548 :
547:2005/11/04(金) 23:19:05
おっとリロードするべきだった、スマソ
549 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 23:23:49
長福丸って「ちょうふくまる」?「ながとみまる」?
大河じゃ「ながとみまる」って呼んでたよ
吉宗でも葵でも
551 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 01:02:16
尾張家は有栖川宮から迎えようとしたけど結局実現しなかった。
552 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 08:28:38
それはいつの話?
ドラマを鵜呑みにするなよ。
ジェームス三木だぞ。
554 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 09:44:10
555 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 12:15:18
昔から疑問に思ってたのですが、
何で突然、紀州から吉宗を将軍に迎えたのでしょうか?
秀忠直系の保科とかから跡取を、
そんな話はなかったのでしょうか?
そうじゃなくても尾張の方が御三家でも格上ではなかったのでしょうか?
556 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 12:28:52
保科はいったん家臣になったから、越智清武同様、資格がなかった。
正之は徳川だけでなく松平を名乗ることすら遠慮した。
将軍家への忠孝に励めと家訓を残した。
その子孫が将軍になるなどありえない。
血筋は違うが今の宗家は会津松平出身になっちゃったけどな
559 :
結城@秀康:2005/11/05(土) 23:27:00
なぜ越前松平家から
将軍がでない!?
家継没後候補になってもよかったのでは!??
560 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 23:29:57
越前家一門は忠直、光長と何度も改易されてますから。
561 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 23:32:29
>>560
&綱昌とかね。
562 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:21:24
>>555>>559 将軍家を継承する資格があるのは「徳川」家だけだから。
越前松平も会津松平(保科)家も一門ではあるが徳川ではないから。
それと紀州の吉宗が将軍家を継承したのは、表向きの理由は
尾張は紀州より家康から一代と遠かったのと(紀州は家康から
数えて3代目、尾張は4代目)家宣の遺命だから。
(実際は大奥勢力争い。天英院VS月光院)
563 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:23:34
松平定信も白河松平家に養子に出されたので、例え
御三卿出身者でも将軍継承資格が消滅した。
565 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:47:24
徳川家達からの血縁は今閉ざえたの?
566 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 01:31:39
567 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 09:45:02
16.家達→17.家正→18.恒孝(現当主)
恒孝の息子は、家俊だっけか?
家正の息子で夭折した家英というのもいたな・・・
568 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:11:58
現当主は会津松平家から?家達とは血の繋がりはない訳?
569 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:21:24
現当主の母が先代の次女だから、ちゃんと繋がってる。
570 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:27:49
女系を持ち出さなければ、断絶しているといえる。
秀忠系(→綱吉→甲府系)
吉宗系(→一橋系→田安系)
恒孝系
571 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:33:59
昭和初期、東北帝大の学生だった家英が夭折したあと、
同じ田安系から松平春嶽の孫忠永(あの靖国神社宮司の弟)を養子にした。
しかし、海軍軍人でパイロットだった忠永は「いつ死ぬかわからない」という
理由で自ら離縁を希望、実家にもどった。
そこで、戦後になってから会津系の松平恒雄の孫恒孝を養子にした。
572 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:56:33
一橋治済→田安斉匡→田安慶頼→徳川家達→徳川家正→徳川家英(絶)
一橋治済→田安斉匡→松平慶永→松平慶民→徳川忠永(離)
573 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:15:06
一門と言うだけで、女系すら入ってないかつての養子相続よりましだと思う。
574 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:20:20
現代はやむをえないが、女系には紛い物感がある。
575 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 11:29:23
戊辰で朝敵になった会津松平家と宗家ってワダカマリみたいな所ってあるのかな?
576 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 12:03:06
あったら縁組などしないと思うが・・・
家正と恒雄は外交官仲間だし、そういうのも縁組に関係ありそう。
家正 駐カナダ公使→駐トルコ大使→最後の貴族院議長
恒雄 駐英大使→宮内大臣→初代参議院議長
577 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 12:27:51
徳川家からは高松宮妃が誕生。
会津松平家からは秩父宮妃が誕生。
お子がいなくて廃絶………
578 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 12:34:58
そんなことより吉宗について語れ。
吉宗の子孫には松平定信の系統に老中の真田幸貫、板倉勝静とかがいる。
あと、板倉勝静の兄弟には土岐とか豊後府内の松平とかに養子に行って、
若年寄とか寺社奉行になった人もいる。
579 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 15:48:24
尾張徳川家は新政府軍側につき、東海道を攻め上る時の先陣まで受け持ったというのは本当ですか?
当時は徳川家でもそれぞれ対応が違っていたんですね。
580 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:03:29
江戸開城後、しばらく江戸城の管理を担当したのも尾張藩。
尾張は宗春が隠居させられたり、家斉の子供や甥を養子に押しつけられたり、
安政の大獄で慶勝が処罰されたりと、幕府にさんざん虐められたからね。
581 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:05:23
>>575 徳川慶喜家と宗家は別。
徳川慶喜は明治になって宗家から分家した。
>>578 お前の語りはそれでオシマイか?
子孫について語っているだけで吉宗本人にはついては語ってないな。
583 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:12:22
結局、定信の系統(真・田安家)は残ってるのか?
584 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:15:05
名古屋城が昭和20年の米軍による空襲で炎上するまで残っていたのは新政府軍側についたおかげだったわけですね。
585 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:22:46
というより、昭和初期まで名古屋離宮として皇室の所有だったから。
587 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:37:20
名古屋城は皇室の所有物だった!初めて知りました。とても感謝。
588 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:42:25
真田は幕末に伊達宗城の息子が養子に入ったので、定信の血は消えた。
589 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 17:07:05
吉宗は自分が相続したときの教訓から、自分の子孫で将軍職を独占するため、
田安・一橋の両家を創設した。
その後、家重の代に清水家を加えて御三卿になったわけだが、結局、現在では
田安家のみが吉宗の子孫で、あとはほとんど水戸系になってしまった。
みなもと太郎曰くの「日本一橋化プロジェクト」の結果って、
幕末時点でどの程度残っていたんだろう。
もともと兄弟の家だった岡山・鳥取の両池田が、幕末の頃に
水戸家出身の兄弟だったのがちょっとおかしい。
591 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 19:30:36
>「日本一橋化プロジェクト」の結果
家斉の息子は虚弱で種なしが多かったから、幕末(ペリー来航以後)では
紀州(慶福、孫)、津山(斉民、子)、徳島(斉裕、子)の3藩だけ。
弟斉匡の系統まで含めたら、田安(慶頼、甥)と越前(慶永、甥)が加わる。
592 :
細谷十太夫:2005/11/06(日) 21:08:09
結局、現代まで残ってる家斉自身の血統(男系のみ)は蜂須賀だけか・・・。
あれだけ子供作っても、意味ねぇ〜じゃん!
吉宗の隠し子は他にも居る可能性はあるから、吉宗の血筋は密かに伝えられてるかもね
一説によれば、家臣に下げ渡した大奥の女には身ごもっていたのもいたとかいなかったとか・・・
594 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:13:49
女系も前田に嫁いだ溶姫の子孫しか残ってないようだ。
595 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:49:15
横レス失礼です。
慶喜は子沢山と聞きましたが、直系の跡取の方など今もいるのでしょうか?
596 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:50:07
いるよ。
597 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:52:47
>>591 590です、ご教示ありがとうございます。
>家斉の息子は虚弱で種なしが多かったから
まさに粗製濫造ですね。
つかあれだ、名家の子孫とかはネットでもある程度調べられるんだから
まず自分で調べてみようよ
吉宗のことほとんど話さず次の世代か・・・
600 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:54:18
男系が残ってるのは津山の松平確堂(斉民)のとこだよ。
601 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 21:55:26
次は家重・家治だね。
家重の話題は盛り上がりそうだね。
602 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 21:56:47
家基の話もおk?
603 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 21:58:56
家治に関係してるから
おkだろ
家基の死は自然死なのだろうか?
暗殺だとしたら、疑わしいのは一橋ぐらいか?
田安はそれどころじゃなさそうだし
605 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:00:35
結局、吉宗はあまりにも有名すぎて、今さらって感じなんだよな。
このスレは「徳川家」について語ることの方にウェイトがかかってるから、
享保の改革の政策ネタには食いつきが悪いだろうし・・・
ま、吉宗自身の生い立ちや相続ネタをもっとやってもよかったがな。
606 :
細谷十太夫:2005/11/06(日) 22:01:15
>597,600
情報サンクス!
そっか・・・津山か・・・とっくに絶えてる物とばかり・・・
607 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 22:01:48
家重と家定はどっちがマシ!?
608 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:02:47
家重は言語障害があるだけで頭は正常だったと読んだが。
家重じゃね?
言語不明瞭なだけで、暗君というわけじゃないと聞いたが?
610 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 22:05:36
家重はイケメンだったと聞くが、
俺の見た絵ではしゃくれた顔してたなぁ・・・・
家重を語る上では大岡忠光も外せないよな
けど、すげーマイナーな人でもあるのはどうしたことか
612 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:08:03
肖像画で判断するなら、家定の方が男前。
613 :
日本@名無史:2005/11/06(日) 22:08:04
>592,600
情報サンクス!
津山だけだったか・・・。
調べたら、最後の藩主のお孫さんはNHKに在籍してたとは・・・
614 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 22:10:39
梅雀さんのイメージしかできなく
なってしまった・・・・
615 :
日本@名無史:2005/11/06(日) 22:10:55
家重は相当トイレが近かったそうだから、あんまり有能といえないんじゃない?
あだ名が何だっけかな・・・雪隠公方・・・だっけか?
>>614 (・∀・)人(・∀・)ナカーマ
アレは好演だったよなぁ・・・
>>615 別に身体的に障害があるからといって政治家としてどうかはあんま関係ないと思うぞ
脳障害って訳でもなかったようだし
少なくとも吉宗からみて将軍を勤められないと判断される程の障害では無かったと思う
618 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 22:15:22
「八代将軍吉宗」を全部もう一度見たいんだけど
総集編しか売ってない・・・・・orz
619 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:23:53
将棋が得意で著書もあるとか。
だが、本によっては家治の話になってるな。
620 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:26:25
信子が綱吉を刺し殺したっていう噂はすごいね。たぶんドラマの大奥もそのへんの伝承をもとに描くんだろうけど・・・。
まったくのデマだよね?
>>619 親子二代で将棋好きだったらしいね
両方が本出してるみたい
>>610 遺骨から判断すると、けっこう整った顔立ちだったらしいね
623 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:32:39
あの肖像画は障害のため、口のひん曲がったしかめっ面になっていると聞いた。
624 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 22:36:23
ひきこもりの家重を
よくひっぱりだして肖像画描いたねw
625 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:37:14
>結城@秀康
再三指摘されてるが、お前本当にうざい。容姿やドラマの話なんかするな。
しかもお前は養子に出されたから徳川家の人間じゃないだろ。
あの時代の肖像画って目の前にずっとモデルがいなくても描けそうだけどな
よく知らんけど、あの手法は忠実に似せようという気はない気がするんだが
627 :
結城@秀康:2005/11/06(日) 22:42:05
すみませんでした。
ドラマの話をしたのは誤ります。
でも容姿の話はなぜいかんのですか?
628 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:47:33
そもそも、家重の君主としての実績に語るべきものがあるのか?
629 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:50:48
630 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:52:49
このスレ自体、別に学問してるわけじゃねーだろ。
>>628 家重時代に予算制度と会計検査院制度が出来た
財政制度的には超重要
ついでに側用人制度復活
632 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:56:42
それは家重自身の発案によるものではないだろ。
別に結城殿は家重に関係ある
ドラマについて話しているわけで、
べつにそこまで言うことはないのでは??
「ウォーターボーイズ」とか話し出したらそりゃぁ怒るけどw
>>632 それを言ったら将軍の業績とは何かということになってしまわないか?
>>630 学問・文系>日本史>このスレ
この分類も理解できてないのか?
636 :
日本@名無史:2005/11/06(日) 23:34:04
>>617 思い出した!付いたあだ名が小便公方・・・
こういうあだ名が付いた将軍を頂いてしまった幕閣のモチベーションは大いに下がると思うが・・・。
こんな陰口たたかれる家重って、哀れ・・・
637 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 23:45:52
>>635 そんなことは百も承知している。
しかし、日本史板のスレの多くは趣味や遊び目的で立てられており、
このスレだって学問を堅苦しく語るものというより、徳川家をネタに
楽しく雑談するスレではないか。建前にこだわるな。
本当に学問的スレなら、スレの流れももっと違ったものになってるだろ。
638 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 00:08:12
雪隠が近いのは障害でもあるまい
>>637 難癖厨の言うことなんか気にしなくていいよ。
640 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 10:51:33
たぬき親父、恐妻家、男色、そうせい公、犬将軍、
?、子供、米将軍、小便公方、?
子沢山、子沢山2号、精神障害者?、若年、家康の再来
641 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 11:10:10
犬公方だろ。
642 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 11:25:16
>>638 .
障害ではないが、現代だといろいろ考えられるな。
膀胱炎、心因性による胃腸炎、頻尿などいろいろ考えられる。
643 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 12:35:52
んじゃ次は長七郎について、ですね。
家重の功績・・・・
「清水家を作った」?
みんな家重のこと舐めすぎ
646 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 13:26:45
「舐めすぎ」とは!?
家重の次男の
清水重好ってどんな人物だったの!?
重好は母親の身分が低くて、幕臣からも軽く見られていたらしい。
清水家なんていらなかったんだよねえ。実の親子による相続がない。
当主不在が長すぎ。
重好は種無し野郎!?
清水家は7代篤守まですべて
養子相続。
とくに2代敦之助から5代斉彊までは
兄弟だった。
652 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 14:43:15
清水は通字がないんよね。
8代の「好敏」ってのは重好を意識したネーミングだと思うけど、次の現当主は「豪英」だし、次期当主は漢字一文字だし。
次期当主の名前って?
655 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 18:12:31
御三卿は将軍の家族で常に一字拝領をされる身分だから、本来は通字がない。
田安と一橋も明治時代の当主までは宗家から「達」の字をもらっていた。
清水家の場合は幕末、明治に水戸家から養子が入ったので、「昭」とか篤」とか
水戸家当主の一字がついている。
明治後期、田安、一橋が「宗」、清水が「好」と初代の一字を使うようになったのは、
宗家から独立した家を意識するようになったからだろう。
656 :
日本@名無史:2005/11/07(月) 21:11:35
657 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 21:12:56
重好が軽視され、11代将軍の候補にならなかったのは生母の身分が低かったため。
浪人三浦氏の娘ということになっているが、実際は吉原の遊女屋のオヤジの娘だった。
いくら女系の血を問わないとはいえ、さすがに水商売はまずかったようだ。
658 :
日本@名無史さん:2005/11/07(月) 21:48:48
豪英氏の母親の両親はともに斉昭の男系の孫らしい
豪英夫人の出自は知らないけどやはり水戸家の親戚なの?
>>657 それ以上にいい歳して子供がいなかったってのも問題だったんだろうな
彼に子供がいて野心があれば担ぎ上げようとするものはいくらでもいたろうし
661 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 18:34:29
新政府に気を遣って久松松平や松井、大給、滝脇、桜井などの十八松平の大名が
本姓に復したり、出身地の地名を名乗ったりした例はあるが、家康子孫の大名が
改姓したというのは他に例がないな。
維新当時ならともかく、明治4年というのも中途半端な時期だな。
662 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 19:47:45
663 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 19:51:22
だが、清水家って当主昭武が維新後すぐに水戸藩を相続したせいもあって、
田安や一橋みたいに立藩してないんだよね。
664 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 20:58:19
田安や一橋って立藩してんの?何藩?
665 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:15:37
母親が皇族で藩主くらいまでなれた人っている?
666 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:19:22
皇族とか公家の姫は子供が産まれないように少量の毒を盛られたんじゃないの?
>>665 15代将軍慶喜の母親は皇族
同母兄の慶篤も水戸家の当主になってる
668 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 07:59:28
歴代徳川家のメンバーで一番
衆道好きだったのは誰でしょうか?
669 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 08:48:10
明治四年・・・「徳川だとなんか後ろめたいんだよなぁ・・・」
明治十年・・・「清水は地味すぎた・・・やっぱ徳川のほうが通りがいいんだよなぁ」
質問厨ウザ
671 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 09:17:25
田沼の話題が全然でないね
家基が長生きしたら彼の運命も変わったのだろうか・・・
674 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 17:26:05
675 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 17:50:27
676 :
結城@秀康:2005/11/09(水) 17:56:20
・・・俺は戻ってもいいのでしょうか?
677 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 17:58:49
明日、日光東照宮に!見所はドコ?
徳川宗将の息子の松平忠功もかな
伊勢桑名藩主
この子は正室腹なのに嫡男扱いされなかったんだな
679 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 18:12:54
保科正之は愛人の…?
680 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 18:16:29
松平忠功の生母は確かに正室徳子だけど徳子の実父は今出川公詮で父親が早死にしたから公詮正室(たぶん徳子の生母)の兄伏見宮の養女になった
681 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 19:27:09
682 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 20:12:18
将軍継承で吉宗とか直系以外の養子の取り方には法則はあったのですか?
松平義行は父が尾張光友で、正室である母は将軍家光の娘なのに、
高須藩祖にしかなれなかったのはなぜですか?
同母兄である綱誠はしっかり子孫を残してるっていうのに
どこに入り込める余地があると?
685 :
結城@秀康:2005/11/09(水) 20:56:12
>>683 次男以下の宿命なのだ・・・・
領地があるだけでもいいほうだ。
686 :
683:2005/11/09(水) 21:26:23
水戸頼房の長男頼重ですら讃岐高松藩で12万石もらってます。
高須藩はたった3万石。将軍の孫なのに少ないなあと思った次第です。
687 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 21:56:43
頼重は藩主の兄。義行は藩主の弟。大違い。
688 :
結城@秀康:2005/11/09(水) 21:56:48
それはきっと長男なのに
あとつぎになれなかったという
分も含まれていたから。
だと思う・・・
689 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 21:57:42
>>686 高松は特別だよ。
頼房に男児が生まれたとき、まだ兄頼宣には(義直も、かな?)には男児がいなかった。
兄に遠慮した頼房は、兄に男児ができたあとに生まれた男児を嫡男にした。それが光圀。
自分が嫡男になった経緯を知った光圀は、兄に特別に高禄を与えるようはからい、自分の子を高松藩主とし、兄頼重の子を自分の養子にした。
他の支藩は2、3万石なんだから、高須藩だけが差別されてるわけじゃない。
690 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 22:32:43
家基は毒殺されたのか!?
家治は幼いころから頭脳明晰で
吉宗から将来を期待されていたが
結局田沼にすべてを丸投げしたね。
だから名君とは言えない。
高須藩は石高こそ小さいものの尾張家のスペアだからいいこともあるわな。
幕末には尾張、会津、桑名の藩主を出してる。
血統が水戸系に変わってからなのが惜しいけどね。
高須藩以外の尾張藩連枝は絶家してしまったけど、義直の血統を絶やさぬ
ようになんとか存続できなかったものか。時代は違うけど、家老の竹腰家
に養子など出してる場合ではない。
なかなか来れないで。。。
>>689 所謂「水にせよ」ですね。。
頼重出生の段階では光友、光貞は生まれてませんので、
兄二人に遠慮したのは、正しいようです。
尾張光友 寛永二年(1625)七月二十九日生
紀伊光貞 寛永三年(1626)十二月十一日生
松平頼重 元和八年(1622)七月一日生
ところで実は光圀も「水にせよ」と言われて、秘密裏に育てられているのです。。。
愛妾於勝の方の嫉妬を怖れた頼房が、光圀の時も堕胎せよと命じているのです。
四歳まで家臣の家で育った光圀は、兄より父との対面が早いばかりに世子になるわけです。
十八歳で史記を読み反省し、兄の子頼常を後継とすることを心に決めます。
言われるとおり、特殊事情でしょう。
696 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 13:19:59
>>695 頼常は自分の子じゃないの?
兄の子は綱条では?
>>696 左様、間違いでございます。。お詫びして訂正します。。。
お詫びついでに高須松平について。。
頼重が常陸下館五万石に封ぜられるのは、寛永十六年(1639)、高松十二万石加増転封は同十九年(1642)。
対して、義行が信濃の伊奈・高井・水内三郡に三万石の新知を得たのは、天和元年(1681)。
大分時代が違いますね。。
これというのも尾張藩祖義直が分封を良しとしなかったからだとか。。
ところが光友は子が多く、将来の事も考え、
四谷(後の高須)、大久保(後の柳川)、川田久保の三家を作りました。。。
それぞれ江戸屋敷の所在地の名だそうです。。
699 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 16:36:54
綱條、綱条、
同じ人だよね!?
701〜は家斉ですか、子沢山、子沢山
702 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 16:46:23
家基を殺した張本人の息子
703 :
結城@秀康:2005/11/10(木) 17:03:53
家斉はいくらなんでも
ヤリすぎだろ・・・・・
704 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 17:07:07
アレだけの子がちゃんと成長してちゃんと子孫を繁栄させていれば
また違ったんだろうけど
707 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 18:36:20
>>706 そんなに結城が嫌いですか?
私はあなたが嫌いです。
708 :
日本@名無史:2005/11/10(木) 19:20:41
徳川綱誠も子供がやたら多いていう話の割には、藩主になった吉通、継友、宗春以外は
どうなったのかね?
やはり早世?
あと、川久保藩祖の友奢の母は千代姫だったのかね?
709 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 19:33:26
友奢の母は側室だけど友奢は千代姫の養子になった。
22男18女、で吉通が10男、継友13男、宗春20男、次男が高須家の2代目相続。
やはり残りは早世したのでしょうか?
711 :
結城@秀康:2005/11/10(木) 19:58:28
YES。
なんか通温っていうのも
いた気がするが・・・?
確かに系図に名前が出るから元服まではしているのでしょう。
元服後若いうちに死んだのでしょうか?
それとこの5人に成人した男子が居ないようなのがなんとも。
713 :
結城@秀康:2005/11/10(木) 20:15:11
吉通には息子五郎太がいたが早世
継友にも五郎太という子がいた。
宗春には国丸という子がいた。
だが、みんな早世してしまった。
尾張家の乳母たちの化粧品に有害物質が含まれていて、それを摂取した
子供が幼くして次々に死んだのではなかったかな。
715 :
日本@名無史:2005/11/10(木) 21:25:07
通温は継友の初名じゃなかったけ?
確か、宗春が通春・・・。
716 :
結城@秀康:2005/11/10(木) 21:35:17
継友は通顕だったとおもうが!?
717 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 22:22:12
尾張初代義直の血は少なくとも徳川を名乗る男系子孫には残ってないの?
そうなると家康の子供でみると徳川には
頼宣・頼房の系列しか残らなかったって事?
718 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 22:27:38
>>714 それもあるが、当時は一般庶民を含めて、乳児の死亡率が
高かったからなあ。5人に1人しか5歳を迎えることができなかった
らしい。七五三は「よくぞ、ここまで無事に育ってくれた」と
親が神に感謝したのが始まりとか聞いたことがある。
それに男児は女児より生物学的に弱く、すぐ死んだ。
だから女児より男児の方が出産数が多い。(魚が外的に
卵を襲われて種族全滅を防ぐ為にたくさんの卵を産む理屈と
同じ)
719 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 22:33:18
720 :
>>1:2005/11/10(木) 23:30:11
これの次スレっているかな!?
もしよろしければ今度立てときます。
まだ早かろう
>>718 一般庶民と御三家の子息では栄養状態や医療体制が違うでしょう。
家康の息子だってお仙とお松以外は早死にしても成人している。
乳母達の白粉に鉛や水銀が含まれていたので・・・という話はよく聞きますね。。
>>711 流石兄者、通温は宗春より五ヶ月のみ年長の人物ですね。
この人は兄継友が吉宗に将軍継嗣で破れたときに、一番憤慨したんだそうです。
あまりに憤慨して体を壊し、その後没したそうです。
継友の後継は、体を壊さなければ、通温であったようです。。。
次スレはまだ早いとは思いますが、続けるかどうかは兄者含め皆様の判断で。。。
個人的には語り尽くしていない部分もあるでしょうから、あっていいと思いますよ。。。
725 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 11:50:55
>>720 1に
・コテハン禁止
・結城@秀康 立ち入り禁止
って書いとけ。
>書いとけ
と命令しても誰も聞きませんよ
727 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 16:43:19
>>725 つーか、南龍公や結城叩いてたのって
全部一人芝居だろ?すっごくイタイよ。
何?世の中に不満があるの!?
結城はちょっと変わっているけど、
お前みたいにほかの住人を叩いたりしてないじゃないか。
叩き厨房は豚箱逝け。(・∀・)
728 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 16:47:16
>>727 俺も思った。マジで叩き厨房キモイ。
出てってほしい。
729 :
>>1:2005/11/11(金) 17:00:28
じゃあ次スレの件はまた後で。
あと、最初に決めてなかったルール今言うわ・・・
壱・荒らしは無視。叩きには構わない。
弐・荒らさなければ参加は自由。
参・いつも楽しいスレにする。
四・徳川に関係あるドラマの話はおkとする。
これ、基本ルールね。他に追加してほしいルールはありますか!?
730 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/11(金) 18:33:11
徳川将軍家(平均寿命51.47歳)
家康75歳、秀忠54歳、家光48歳、家綱40歳、綱吉64歳、家宣51歳、家継8歳、
吉宗68歳、家重51歳、家治50歳、家斉69歳、家慶61歳、家定35歳、家茂21歳、
慶喜77歳
尾張徳川家(平均寿命43.50歳)
義直51歳、光友76歳、綱誠48歳、吉通25歳、五郎太3歳、継友39歳、宗春69歳、
宗勝57歳、宗睦67歳、斉朝58歳、斉温21歳、斉荘36歳、慶臧14歳、慶勝60歳、
茂徳54歳、義宜18歳
紀伊徳川家(平均寿命66.33歳)
頼宣70歳、光貞80歳、綱教41歳、頼職26歳、吉宗68歳、宗直76歳、宗将46歳、
重倫84歳、治貞62歳、治宝83歳、斉順46歳、斉彊30歳、慶福21歳、茂承63歳
水戸徳川家(平均寿命49.82歳)
頼房59歳、光圀73歳、綱條63歳、宗堯26歳、宗翰39歳、治保55歳、治紀44歳、
斉脩33歳、斉昭61歳、慶篤37歳、昭武58歳
>家斉69歳
なにか子孫の分の生命力を吸い尽くしたような絶倫親父。
家慶の影が薄いのも親父が濃すぎるせいか?
732 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 18:58:14
733 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 19:01:23
家斉の政治ってどうよ!?
50年間将軍やってた間。
また、大御所政治の時。
やったのは政事じゃなくて性事だったって言うのがみなもと太郎の弁。
だらだらと腐敗して行ったイメージ
736 :
結城@秀康:2005/11/11(金) 20:48:17
50年間将軍職に粘着、
大御所としてその後も実権を握っていた。
そのわりには子作りに没頭し、ろくな政治をしていない。
一般的に大御所と呼ばれた家康・秀忠・吉宗に比べると、
良い大御所政治とは言えんだろうナ。
水戸家は平均寿命は短いけど歴代藩主は11人しかいない。
比較的直系が多いからかな。
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/11(金) 21:13:32
>>737 水戸家は隠居した大名が少なかったからねえ。逆に尾張家は
11代将軍家斉の子供を多数押し付けられている。
しかし、江戸時代にはあれだけ勢威を振るった紀伊家が現在
本家筋が断絶状態、所領だった和歌山県は現在日本有数の
不景気地域っていうのも歴史の皮肉かなあって思う。
739 :
結城@秀康:2005/11/11(金) 22:00:27
水戸家で隠居したのは
光圀・斉昭だけだっけ?
正しくは隠居させられた光圀・斉昭
741 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:24:48
徳川家斉がスケベ親父のように言われるのは違和感がある。
正常な男子が、一週間に1〜2回のペースで50歳代まで
SEXをしたらそれぐらいの数の子ができて普通でしょ?
当然、避妊なんかせず中だしオンリーだろうし。
家斉の精子がたまたま丈夫だったのでしょう。
平安時代の天皇なんか子が10人以上いて普通だしな。
742 :
結城@秀康:2005/11/11(金) 23:32:43
しかし家斉はわざわざ吉原の茶屋を似せた家を建て、
奥女中たちを遊女に仕立てて配置してたりしたそうだ。
743 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:32:43
他の将軍も一週間に一回は大奥に入っていだろうから、
精子が元気ならば家斉並にとは言わないが、子沢山だっただろう。
家綱とか綱吉などは精子が弱かったんだろうな。
逆にしごく健康だったろう吉宗の実子がアレだけってのも気になるな
745 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:44:27
父家康と同じように体が丈夫だった秀忠も子沢山になった可能性が高い。
お江与との間だけで5人(男2人、女3人だっけ?早産もいたような)
もいるし、側室に2人(うち1人はすぐ死亡)の子がいたしな。
恐妻家でなく、家康同様に側室を積極的に娶っていたら親父並みに
10人以上の子ができた可能性大。
746 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:52:24
>>744 吉宗は若い頃はスケベだったらしいが、藩主や将軍になって以降、
藩政や幕政に没頭して奥や大奥にあまり入らなかったらしいよ。
747 :
結城@秀康:2005/11/11(金) 23:55:58
>>745 秀忠とお江与の娘は5人。(千姫・珠姫・勝姫・初姫・中宮和子。)
早世した男子、長丸がいるが母親はお江与ではないようだ。
748 :
日本@名無史:2005/11/12(土) 00:12:46
家慶も親父並にスケベだった(11男16女)が、親父ほど精子(というより、遺伝子か?)が強くなかった・・・。
749 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 00:21:40
徳川家斉は、側室40人は居たそうだが、スケベどころじゃないだろ。(ワラ
只の理性を取り払った動物だ。どーしよーもねーな。
750 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 01:35:40
大奥関係の本を読んでいますと、第七代徳川将軍家宣の御台所の故事として
「指輪拾いの役目」という史譚が時折り目につきます。
それは御台所の近衛熙子が宝永元年の某日、化粧中に
「夜光の玉の入った指輪」を畳の合わせ目に取り落としてしまい、
それを誰が拾うべきか有職故実に詳しい錦小路の局が調べさせた
といったアネクドートなのですが、何故この時代に指輪を嵌める
習慣があったのかとか、大奥の御台所の御座所の畳に指輪が落ち込む程
広い隙間があったのだろうか等と不審な点が幾つか指摘出来ます。
この史話の典拠を御存知の方々が居らしたら、是非とも御教示のほど
願い上げます。
何卒宜しく御願い致します。
なお今、手許にある此の話を掲載した書目は『江戸城大奥100話』
(安西篤子・監修、立風書房。156頁)と『江戸女人物事典』(68〜頁)
の二冊だけで、いづれにも出典が明記されて居りません。
>>749 ただのお手付きでも子供うんだら側室待遇に格上げだからな
あんだけ生まれちゃったら側室もそりゃ増えるよ
>>749 家済の最初の子は15才のとき、
最後の子は54才のとき。
40人以上確認できる側室といっても、年次は違うものだし
子を産んでいるのはみな多産型の側室。
また、いっときに何十人・・・というわけでも無さそうなので、
大目に見てやれ。
753 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 12:58:45
慶喜も地味に子供多いね。ただしこの場合凄いのは新村信と中根幸だけど。
754 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:44:17
斉裕と斉民は何人子供がいたの?あと溶姫以外にい流産含めて1人でも子供の産んだことのある家斉娘は?
755 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 16:35:56
徳川頼房も子沢山。
光圀を含め大名が5家、残りは旗本だったかな?
756 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 16:41:17
徳川ってみんなエロだね。
757 :
結城@秀康:2005/11/12(土) 17:25:07
758 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 17:44:25
>>756 徳川家に限らず、近世以前の権力者はみんな好色。
中国の歴代王朝とか調べてみたらおもしろいぞ。
759 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 17:50:16
将軍継承のイフは代表的なものだけでどんな場合があるのですか?
760 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 17:53:54
4代家綱死亡時に、5代目は鎌倉幕府のように宮家摂関家から迎えよう、
という運動が、酒井忠清を中心になされた。
とか
7代家継死亡時に、紀伊吉宗だけでなく、尾張継信、館林清武らも候補に上がった。
くらいかな?
761 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:08:27
歴代将軍は性欲どのようにして満たしてたの?
762 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:19:42
将軍に限らず、当時は一夫多妻制だったから、財力さえあれば
いくらでも側室を持てたはず。
763 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:27:05
綱吉後も揉めてなかった?
764 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:28:43
将軍って合体忙しかったのかな?
>>763 綱吉の娘が長生きしてればその婿の綱教が6代になった可能性はあるよ
家光に息子が生まれなかったら、
娘婿で三家筆頭の尾張光友がすんなり養子になったんだろうなぁ
綱重が長生きしてたら
家継が長生きしてたら
家基が長生きしてたら
家茂が長生きしてたら
忠長が家光に従順だったら
賢丸が白河松平に養子に行かなかったら
イフなんてくだらねえ
768 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:00:45
>>767 くだらない?
そういう事考えるのが
おもしろいのが歴史だろう。
769 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 23:06:16
イフは歴史のタブーでちゅよ
ifじゃなくても後継候補に挙がった奴はいるんだぜ
前田家のなんとかってやつも候補に上がってたよな
関が原で家康が負けてたら、徳川は一代で滅んだ大名ということになるのか?
先祖は松平だし、秀忠は家督を継げない。
よく一度臣下になったから、養子に行ったから跡を継げないって言うけど、
別家はかまわないんだね、松平姓の分家から紀伊家を継いだ吉宗が将軍になれるんだし。
明らかに臣列の松平定信はともかく、越前家の松平春嶽なんか本来は将軍候補でもよさそうな。
どうもこの時代の考え方は良くわからない。
774 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 12:23:03
先日、図書館で「徳川将軍家15代のカルテ」を読みました。
結構面白かった。綱吉の身長が124cmぐらいしかなかった、
と本にはあったが、本当なら私的イメージでいえば、昔プロレ
スで前座に出てた小人プロレスラーが羽織袴着た感じなんです
けど。
昔綱吉がすごいチビで丸顔で自分のことを「綱じゃあ」とか言っていて、
犬を猫かわいがりする漫画を読んだことがあるような気がする。
776 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 13:16:22
>>774 それホントなの?
おれも何かのマンガで読んだけど
>>774 大奥関連のスレでとっくに概出で話題にもなったよ。
大樹寺の位牌のお話ですか。。。綱吉の話は否定もしませんが証拠もない(特に文献での)と思います。
@増上寺の遺骨のお話とA位牌。。。
家宣@160cmA156cm
家重@156cmA151cm
家慶@154cmA154cm
家茂@156cmA157cm まあ近いと言えば近いですね。。。
779 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:03:24
>家宣@160cmA156cm
>家重@156cmA151cm
これだけ違ったら、あんまり当てになりませんね。
4〜5cm違ったら、見た目にもかなり違うでしょう。
780 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:15:25
>>773 御三家連枝の高松、高須、西条の各松平家は本家を相続すれば徳川姓になるので、
将軍職につくことが可能になる。
実際、8代吉宗(もと松平頼方)はそうやって紀伊藩主になり、将軍になった。
幕末の尾張茂徳や紀伊茂承も御連枝の高須藩や西条藩から御三家を継いだ人なので、
徳川宗家から血縁の遠い人物が将軍職の有資格者になっている。
一方、松平慶永は血縁的には宗家の近親者だが、将軍継承資格のない越前家の養子に
なった時点で、茂徳や茂承と決定的な差がついてしまった。
781 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:44:13
御連枝は御三家の血のスペアなので、頻繁に本家と養子のやりとりをして、
できるかぎり御三家との血の近さを保っている。
つまり御連枝は御三家の血を補完する家なので、間接的に将軍家を相続できる。
一方、越前家などの御家門は、当初から将軍を出せない家なので、極端な話、
どこからでも養子を取ることができる。
実際には、できるかぎり同じ家康の男系子孫の中から養子を取っていたようだが、
家康の男系子孫が枯渇した幕末になると、川越藩主の松平大和守家は外様大名の
久留米藩有馬家から養子を迎えている。
この人物が慶永のあと、政事総裁職になった松平直克である。
782 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:52:13
久松松平にいたっては、親藩とはいえ譜代と家門の中間みたいな家だから、
松山藩主家は島津家やら藤堂家から養子を迎えている。
783 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 19:45:23
松平忠敬(忍藩?)は上杉家出身。
784 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 19:55:10
忍松平家の初代忠明は家康の外孫から養子になった人物で、もともと奥平姓。
そういう家だからというわけではないが、江戸後期には譜代大名の井伊家から
養子を取っている。
>>780 >>781 きちん要点がと整理されていて、わかりやすいご説明ですね、素晴らしい。。。
>>783 米沢十二代藩主上杉斉憲の六男、吉良上野介の子孫ですね。。。
786 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 11:45:49
>>767 綱重が長生きしてたら → 5代将軍になり、家宣が6代
家継が長生きしてたら → 紀州からまだ将軍はでなかった
家基が長生きしてたら → 田沼失脚がはやまる?
家茂が長生きしてたら → たいしてかわらない
忠長が家光に従順だったら → 御三家が駿河・尾張・紀伊になってた?
賢丸が白河松平に養子に行かなかったら → それでも将軍にはなれてないっぽい
賢丸が白河松平に養子に行かなかったら+一橋治済が夭折したら、で将軍かな
治済が一番のワル
直情径行じゃあ寝業師には勝てないだろうな。
やっぱり将軍は無理か。
789 :
結城@秀康:2005/11/15(火) 18:38:04
790 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 18:40:18
徳川美術館の最大の秘蔵品は
王朝文化の栄華を描いた源氏物語絵巻なわけだが
791 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 21:38:05
家斉の子
12代家慶
清水敦之助
清水・紀伊斉順→紀伊慶福(14代家茂)
清水斉明
田安・尾張斉荘
池田斉衆(鳥取)
松平斉民(津山)→松平康倫・康民
尾張斉温
松平斉良(越智)
清水・紀伊斉彊
松平斉善(越前)
蜂須賀斉裕(徳島)→蜂須賀茂音召
松平斉省(川越)
松平斉宣(明石)
溶姫(前田斉泰室)→前田慶寧
792 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 21:47:46
清水敦之助は正室腹だっけ?
長生きしてれば将軍?
793 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 21:50:27
上記のうち、明治元年まで生存していたのは斉民、斉裕、溶姫のみ。
あと子供のいなかった姫が数名。
ただし斉裕と溶姫は明治元年に没しているので、斉民一人が長命した。
794 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 21:55:58
すいません、、。初心者でつ。あのー御三卿は、いまでも例えば
清水家とかで実在するのでつか?一橋さんなんて、きいたことないから・・・。
795 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 21:59:28
阿呆か。将軍家なんて得田家と
途中で入れ代わっとるわい。
796 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 22:10:35
御三卿はいずれも現存しているが、血筋はすべて入れ替わっている。
田安家
2代治察の没後一時断絶、一橋治済の子斉匡が再興し現在に至る。
一橋家
幕末の慶喜、茂栄以降、水戸家の血筋になり現在に至る。
清水家
初代重好の没後一時断絶、その後家斉の子供たちが相次いで相続するが、
斉彊の紀伊家相続で再び断絶。幕末に昭武が相続して水戸血筋となる。
なお、田安とか一橋というのは通称で、正式の名字は「徳川」のまま。
797 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 22:13:08
清水家だけは明治初期に「清水」に改姓したが、すぐ「徳川」に戻した。
改姓、復姓の理由はわからん。
798 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 22:28:02
貧乏御家人の得田家のガキと入れ代わってるのを
知らないのか?
799 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 22:44:05
>>796>>797 ありがとでつ・・・。
いろんな地域の電話帳をみました・・。
が、、徳川姓はいない、、。まぁ、のせないのかも
しれないでつが、、、。くだらん事してあそんでました。
名前を入れてもいいんじゃないですか、、、、。次スレ
でも活躍お願いします。
800 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 23:29:05
家斉も子沢山の性豪将軍だったが、息子の家慶も地味に子沢山だよな。
801 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 23:32:46
家慶のすごいところは60歳で死ぬ前年まで子づくりに励んでたこと。
最後の息子長吉郎はペリー来航の前年に生まれ、家慶の没後まもなく夭折。
802 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 03:17:17
綱吉次期将軍レースから吉宗八代将軍就任までの時期に起こった
尾張家不可解な死
綱吉の後継者レースのときは綱誠が何故か死に
家宣の後継者レースのときはわずか1年後に吉通と五郎太が相次いで死ぬ。
まことに紀州側にとって都合のいい時期に死んでいる。
まるで紀州が仕組んだかのようだ。
でもその紀州でも不可解な死が相次いでいる。
鶴姫死去のあと、綱教、光貞、頼職が相次いで死んでいる。
まるで吉宗が紀州藩主になるために仕組まれたかのようだ。
803 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 03:29:07
>802
少なくとも、光貞(吉宗の父)は自然死だと思われ。
光貞は享年80歳。現代なら100歳に相当する長寿だよ。
それと、光貞は、頼宣(光貞の父、吉宗の祖父)に良く似た、
吉宗を可愛がっており、将軍綱吉に謁見させるために老中に裏
工作も行っているからね。
この裏工作で、吉宗は越前に3万石を与えられて、分家できた
訳で。(分家できなければ、養子の口を捜さないといけない。)
養子先は運が良ければ、大藩の当主となる可能性もあるが、運
が悪いと家老の家に養子へ行く可能性もあるし。)
気に入ってるというか、
光貞にしてみれば頼方は手元に残しておきたかっただけなんじゃないか?
綱教が将軍になれば、紀伊家は頼職が継ぐ事になるだろうけど
頼方を手放してい場合、頼職が不慮の事故で死んじゃえば
自分の血筋を紀伊家に残せなくなってしまうし
よしんば頼職が死ななくても、
「紀伊家の四男坊」よりは「将軍の弟」の方が良い養子口にありつけそうだしね
805 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 21:30:55
しかし、新之助は運のいい男だな。
そのまま加納家で育ったたら、一紀州藩士として生涯を終えてたかもしれんし、
実家に引き取られても、家老の安藤とか三浦の養子に出されたかもしれんのに。
806 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 21:32:52
吉宗の将軍就任で紀州本藩を継いだ宗直も運のいい男といえるな。
807 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 21:35:51
そして慶福の将軍就任で本藩を継いだ茂承も(ry
808 :
日本@名無史:2005/11/16(水) 22:23:56
紀州はラッキーマン揃いだv
それに引き替え、尾張は・・・
809 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 22:47:21
茂承は兄が伊予西条に残ったんだよなあ。
ラッキーじゃないぞ。
810 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 22:57:29
西条藩の部屋住みが兄を飛び越えて御三家の紀州藩主になったんだから、
十分ラッキーじゃないか。
811 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 22:34:24
ラッキーの裏にはアンラッキーがいるだろう。
例えば吉宗の兄2人。
早死になど当時はよくあること。
それなりの年齢まで生きられただけでラッキー。
吉宗将軍になっちゃった。大ラッキー。
アンラッキーは松平定信
814 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 23:35:55
松平定信は老中になって幕政の中枢で活躍し、後世に名を残した。
田安家に残って飼い殺し状態になるより、ずっとラッキーだったと思うぞ。
田安家当主になっても将軍になれたとは限らない。
御三卿では領国経営もできず、身分的に幕政参加もできない。
815 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 23:37:42
徳川吉宗は家継後見人(実質上の次期将軍)を堅く固辞していたけが
天英院の「文昭院の遺命には逆らうことは許されませんぞ」と言われ
後見人を受諾したことになっているが、本当に吉宗は将軍になる気は
さらさらなく、将軍になることを望んでいなかったのだろうか?
816 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 23:44:21
家継って早死にすることが前提の将軍だったんだな。
カワイソス。
>>815 んなわなねえじゃんw
アレは大奥(天英、月光)の争いと譜代と側用人上がりの争いが絡まった結果。
一方の旗頭だった吉宗が抗争に勝利したわけで、天英院の発言は単なる儀式だから。
吉宗が側用人の重用をしなかったのも譜代の顔を立てたわけで。
818 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 18:52:09
3 :日本@名無史さん :2005/10/07(金) 18:28:51
〜100 家康
〜200 秀忠
〜300 家光
〜400 家綱・綱吉
〜500 家宣・家継
〜600 吉宗
〜700 家重・家治
〜800 家斉
〜900 家慶・家定
〜1000 家茂・慶喜
4 :日本@名無史さん :2005/10/07(金) 18:31:29
OK、そうしましょう。ではスタート!
819 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 19:37:02
徳川宗英の本によると徳川厚長女は喜久子という名前らしいがこれじゃ高松宮妃と同姓同名じゃない?
820 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 19:56:04
吉宗の話しはもう終わったや、
今のお題は家慶・家定ですよ。
家重と比べても家定は無能だったんでしょうか?
822 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 20:08:31
明治期に旧幕臣から幕末の回想を聞き取った「旧事諮問録」という本で、
家定の小姓だった人物が証言しているが、普通の青年だったらしい。
823 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 20:12:27
ま、あの時期でなければ、料理が趣味で政治には無関心な平凡な人物ですんだのに、
時期が時期だけにことさら無能者呼ばわりされて家定カワイソスw
824 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 23:04:57
親切な方,お願いです。教えてください!!
お万の方って実在した人物なんですか??
825 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 23:20:43
おまんだらけー
お万って女性はいっぱいいそうだな
家康の側室にも二人居るし
>>824 お万の方は、家康の代には二人、家光・家斉の代にもおります。
どの代かも書いていないので、残念ながらお答えかねます。
時代劇板の大奥スレにお帰りください。
828 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 01:10:15
御三家スレって、もうなくなっちゃったんだ
829 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 20:36:13
家慶は子沢山のわりに子供がほとんど夭折したので、夫人の実家である有栖川家から
養女をもらって大名に嫁がせている。
御三家の水戸慶篤の室と筑後久留米の有馬慶頼の室だが、前者は御三家だからわかるが、
後者はわざわざ養女をもらってまで縁組する必要ってあったのか?
830 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 20:52:53
家慶の偏諱、黒田慶樹
831 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:41:47
筑後久留米の場合賛成反対の両派が
尊攘運動と連動してお家騒動になったんじゃ?
832 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:46:37
慶喜の一橋家相続は、いくら利発とはいえ水戸家からは遠すぎると思ってたが、
家慶夫人と慶喜の母は姉妹同士で、慶喜は家慶の義理の甥なんだよな。
833 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 00:52:27
しかし、慶喜を一橋家に入れるくらいなら、弟の斉民とか斉裕を呼び戻して、
一橋家を継がせた方がよかったんではないかな。
834 :
日本@名無史:2005/11/20(日) 00:59:18
御三家以外の家とはかなり疎遠になるんじゃないの・・・。
蜂須賀なんて、外様だから尚のこと・・・。
835 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 01:00:35
有馬に嫁いだ韶子女王は九十前後まで生きたんじゃなかった?
子どもはいたのかな。
幟子女王はものすごく美人で大奥が騒然としたらしい。
一説によるとその美貌ゆえ斉昭に迫られて自殺したとか・・・
836 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 01:10:53
家斉の息子があっちこっちに養子に行ったせいで、将軍との親疎による
大名の序列はかなり変化した。
松平斉民や蜂須賀斉裕は大奥にも出入りできたとか、家茂の相談相手に
なったとかいう話がある。
葉巻を失敬して明治天皇に「蜂須賀、血は争えないな」と言われた時の当主は斉裕の血筋なの?
そうだとすると明治天皇の真意は天下を盗んだ徳川の血に対する皮肉?
838 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 13:59:07
その人は斉裕の息子の蜂須賀茂あき(「あき」は音+召)です。
家斉公の実の孫でから、仮に小六が野盗の親分だったとしてもアカの他人です。
839 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 14:02:52
蜂須賀茂あきは明治になってから、東京府知事、文部大臣、貴族院議長を歴任。
もし、父の斉裕が養子に行かず、この人が将軍になってたら名君になってたかも。
840 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 15:22:15
家慶の末子でペリー来航の直後に亡くなった長吉郎が生存していたら、
家定の継嗣は文句なしにこの子だったろうな。
841 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 15:29:20
徳川家慶
生没年:1793-1853
1837-1853 征夷大将軍
1853 ペリー来航
側室:本寿院 お美津の方(父:跡部正賢)
1824-1858 家定
側室:お広の方
1852-1853 長吉郎
1825-1913 (養子)精姫、韶子(父:有栖川宮 韶仁親王、有馬頼咸室)
1835-1856 (養子)順貞夫人 線姫(父:有栖川宮 幟仁親王、徳川慶篤室)
842 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:09:54
養子とかあっても吉宗以降は吉宗の子孫が将軍なんだよな。唯一水戸の慶喜に
した時に大政奉還されちゃって後悔した幕臣とか大勢いただろうな。
843 :
日本@名無史:2005/11/20(日) 20:27:15
茂あきの末裔は行方不明だっけか?
844 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:05:51
茂あきの子の正あきが行方不明。
でもその娘の正子は別に行方不明ではない。
845 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:18:34
茂韶 最後の徳島藩主、侯爵、貴族院議長
正韶 侯爵、貴族院副議長
正氏 最後の侯爵、鳥類学者、大浪費家
以上で男系断絶。別に誰も行方不明ではない。
大浪費家の正氏の没後、未亡人と正氏の出戻りの姉妹の間で財産争い。
事実上、蜂須賀侯爵家は崩壊した。
正氏の娘が渡米して帰国しなかったので、一時行方不明とか言われたが、
現在は帰国して消息も判明している。
846 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:20:55
文化人肌のバカ殿が散財した点や娘しか残ってない点で紀州家に似ている。
蜂須賀のスレじゃないんだが。
848 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:45:52
家斉って、あれだけバカスカ子供をつくったのに、徳川宗家じゃなくて、
外様の蜂須賀の方に男系子孫が残ったっていうのも皮肉だな。
849 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 19:43:39
家斉と家慶は子種の無駄遣いをしたな。
850 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 21:19:39
茂韶だろ!?
851 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 21:20:46
茂韶と家茂は同い年の従兄弟
852 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 21:31:04
遅くなってしまったが吉宗公評。
吉宗は将軍家、いや紀州藩の後継者ですらなかったという
出自で基礎的な教養に関してはそれ以前の将軍にはやや劣っていたかもしれない。
だが体力にすぐれており「将軍はまず武士としての手本とならなければならない」
という考えを持っていたようである。
学問も、ともすれば机上の空論に終わりがちな儒学や芸術よりも
農学・天文学・気象学・経済学といった実学方面への関心が強かったようだ。
元禄時代の贅沢に慣れた階層からは反発もあったようであるが、
何よりも吉宗は考えるときに論理をこね回すのではなく
現実の肉体や感情、あるいは社会の実態をベースに発想することができるという
強みがあった。
吉宗という人物を語るには、まず彼の武士としての鍛錬を積まれた
肉体が基礎としてあったことを念頭に置かなければならないだろう。
853 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 04:49:14
>>852 唐突な比較かも知れないが、実学志向で行動主義という点は
同時代のロシアのピョートル大帝にやや似てるね。
854 :
↑:2005/11/23(水) 09:59:21
バカですか?
855 :
↑:2005/11/23(水) 10:01:41
バカですか?
856 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 12:03:19
もちろん大バカでしょうぞ!
857 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 01:52:09
858 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 01:53:35
>>857 これって世間一般の人が想像する典型的なアキ…(ry
でもほっとするのは何故なんだろう。
860 :
結城@秀康:2005/11/24(木) 16:39:11
みなさんお久しゅうござる。
ところでペリー来航の時家慶は開国するしか
なかったのでしょうか!?
861 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:47:35
>>859 江戸後期ともなると、大藩の藩主はいまでいうオタクが多かった。
藩政は家臣にまかせ、ヒマだけはタップリあるから趣味の世界に没頭するわけ。
書画、博物学、蘭学などにハマったオタクな殿様は多かった。
862 :
名門!國學院OB:2005/11/24(木) 18:41:42
尾張徳川家当主の義宣氏が亡くなりました。
葬儀は東京護国寺で行われるそうです。
863 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 18:45:52
>>860 それ以外にも手はあったんじゃないか?俺は知んないが
>>860 外交的には拒否することは十分可能だったと思う。
ただし拒否した場合、列強から一国家としての権利を承認されていたかは微妙。
ロシアは日本が非武装状態であることを認識していたし、陸戦力の投入も可能な状況。
清が敗北した情報は幕府首脳部に伝わっており、現実的な対応としては
開国しか選択できなかったでしょう。
頑迷に鎖国を続けた半島国家の末路を考えると、幕閣の有能さには感謝したいですね。
865 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 18:56:40
家慶公は危篤状態でそれどころじゃなかったのでは?
866 :
862:2005/11/24(木) 19:04:44
なんだおまえら?
一言もなしかよ?
エセ徳川ヲタだな。貴様らのようなやつらに徳川を語る資格なし!
867 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:05:56
だって検索しても訃報が出てないから、コメントのしようがない。
かまってちゃん乙
869 :
名門!國學院OB:2005/11/24(木) 19:10:18
>>867 たりめえだろ。速報だからな。
俺が言ってるんだから間違いねえ。
わかったら天子様にたいする失礼な発言も控えろや。
870 :
??:2005/11/24(木) 19:23:05
日本史大好きっ子な皆さんに聞きたい事があ〜る。
江戸幕府が諸大名を統制する上で用いた施策ではないものはなにか。
ア.普請役 イ.改易 ウ.地方知行制 エ.軍役 オ.参勤交代
どれなんでしょうか!?
872 :
??:2005/11/24(木) 19:33:27
ありがとうございましたm(__)m
自分も入試でウと回答しました。
正解と信じて自己採点します。
では(^-^)ノ
873 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:38:00
スレ違いなことするな!
それとも天下の國學院OBに聞きたかったのか?
初期幕府にはアもエもよくやらされたはずだがな。
874 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:40:44
875 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:43:02
しかし、エセ徳川ヲタはあれだな、
自分だけの空想の世界の徳川家を崇めているだけだな
876 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:45:46
もっともエセ徳川ヲタは
現実の徳川家の人々には近づくことすら
できないがな、藁
877 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:47:08
878 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:51:05
財団法人徳川黎明会会長・徳川美術館館長・八雲産業株式会社会長の徳川義宣
(尾張徳川家第21代当主)が、平成17年11月23日(水)午前5時5分、肺炎のため
順天堂大学付属順天堂医院において、71歳で永眠いたしました。
ここに謹んでお知らせ申し上げるとともに、生前の故人に対する皆様方のご高誼
に対し、深く感謝申し上げる次第です。
879 :
國學院OB:2005/11/24(木) 19:51:18
>>877 おせえよ小僧。
やっと信用したか?
名古屋城に向かって土下座しろ!
俺はネット以外のところから情報を得たからそこより速かったがな。
880 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:57:04
土下座したか?
881 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 20:02:20
>長 男
>徳川 義崇
>財団法人徳川黎明会専務理事・八雲産業株式会社社長
やはり、この人が次の黎明会会長や美術館長になるの?
882 :
結城@秀康:2005/11/24(木) 20:02:22
ニセ徳川ヲタってちょっ・・・・
あのねぇ・・・・
誰も反応しないからって逆ギレするな。
あんた短気だろ!?待つってもんを知れ。
現代のお家事情には興味がない。
884 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 21:43:35
率爾ながら御伺い致し度き儀、これあり。
『甲子夜話』に芝高輪の貧乏医者に「化け物振る舞い」をして
からかったとかいう「松平南海候」というのは、どなたのことを指している
ので御座りましょうや?
只今、手許には柴田宵曲『妖異博物館』(ちくま文庫版)しか御座居ませぬ。
その開巻第1話「化物振舞」の項(16頁〜)に、
この松平南海候の史譚が載って居ります。
国史に通ぜぬ門外漢のこと故、分かり易く御教示たまわり度う御座居ます。
何卒よしなに御頼み申し入れまする。
松江藩六代藩主松平宗衍
886 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 22:03:39
美術館長とかは三千子夫人が継承しそう
義崇が継ぐのは母親の三千子が死んでからじゃない?
すみません、日本史でわからないところがあるのですが、どこのスレできいたらよいでしょうか?
888 :
結城@秀康:2005/11/24(木) 22:30:41
>>887 そのわからないところとは
なんですか!?
889 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 23:00:10
890 :
日本@名無史:2005/11/24(木) 23:19:10
柳沢吉里が綱吉の隠し子というのは本当だろうか?
だとしたら、唯一の家光系子孫が現存するんだけど・・・
891 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 00:57:24
>>878 あれ?23日に徳川美術館に行ったけど何も言ってなかった。
10年ぶりに源氏物語絵巻を展示して満足して永眠されたのだろうか。
892 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 01:08:54
>>890 よく分らんが、吉宗がそんな感じの事を語ったとか記録があるとか
894 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 08:51:48
>>890 柳沢吉保が保身のために流した噂だと思うが、
本来、家宣時代や吉宗時代に改易され、
吉里ともども配流されてもおかしくないんだが
もしかして・・・で、幕末までお家安泰。
895 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 09:33:32
阪神大震災は笑えた!
死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?
(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)
でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然、騒ぐほどじゃないし。
阪神大震災は笑えた。まじで
ニュースで知って、手を叩いてわらったなぁ。
おまえらが震災にあってる間、家でワイン飲んでた
アホだなーこいつらって思いながら
わざわざ神戸まで行って記念撮影しようかと思ったよ。
でも阪神大震災のおかげで何かしらの利益を得た人だっている訳だし
結果的には良かったんじゃないかな。
たしか知事や市長が自衛隊の救援要請を渋っていたけどさ、
あそこらへんって部落が多いからそのまま全滅させたかったんだよね。
今でも仮設住宅に住んでるやつがいるらしいけど、
せこいんだよ!俺らの税金なんだよね。むかつく。
ところで震災直後はあいつらってトイレどうしてたの?
もしかして野グソ?汚ねぇなぁー。
どちらにしろヘリからの映像はまさに温泉町のようで壮観だった!
気持ちの良い夕刻でした
896 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 11:52:28
ワインは何を飲んでたの?
897 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 13:34:17
貴っ様〜!、それでも日本人かぁ〜!
日本酒を飲め!、日本酒を!
898 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 13:35:31
>>895 う〜ん、板違いだよ−。違う所でやってね。
899 :
897:2005/11/25(金) 13:38:06
スマソン^^、それに釣られた、私もバカですタ^^
歴代将軍でワインの飲んだことがあるのは誰々?
家康、秀忠、家光・・・
初代から飲んでまふ
一応家茂と慶喜について語るコーナーなんだな
ヨシノブつながりで義宣氏追悼age
903 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 14:24:38
あなたは、もう飲んでいますね**
もう一度、酔いを醒まして正しい日本語を書き込むように
お題、家茂将軍は英明だったか、否か
あれだけ歯に穴があいてりゃ、夜も寝られないくらいの激痛だったろうな。
>>家茂頭蓋骨
906 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 15:25:10
っていうか徳川家は、あのドラマに抗議→謝罪&中断要求してもいいと思う。
>>885 茶人大名の親父だよな、確か。
女中に刺青させて鑑賞するという趣味があった希ガス。
908 :
>>1:2005/11/25(金) 16:49:09
うんうん・・・・
このスレももうすぐ尾張かぁ・・・
レスが950逝ったら次スレたてとくよ。
>>908 よくここまで伸びたねえ、しかも比較的穏やかに
テーマが広すぎず、狭すぎずが良かったのかな?
>>901 ってことは家継はさすがにお屠蘇以外飲んでないとして、
彼以外は全員飲んだことが有るでOKですか?
3 :日本@名無史さん :2005/10/07(金) 18:28:51
〜100 家康
〜200 秀忠
〜300 家光
〜400 家綱・綱吉
〜500 家宣・家継
〜600 吉宗
〜700 家重・家治
〜800 家斉
〜900 家慶・家定
〜1000 家茂・慶喜
8 :徳川家達:2005/10/07(金) 18:48:50
私の話題はナシですか…
そうですか。
11 :日本@名無史さん :2005/10/07(金) 18:52:47
8さん、家達の話題もあとでやろうか?
13 :日本@名無史さん :2005/10/07(金) 18:55:46
では、
〜1000 家茂・慶喜・家達 ということで。
912 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 18:36:48
家達の子供は5人。
913 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 21:49:22
>>894 天一坊みたいに?あいつは処刑だったっけ。吉宗の子だった可能性は大きいけどなあ
914 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:01:25
水戸殿のご子孫は(財)水府明徳会、尾張殿のご子孫は(財)徳川黎明会になってるけど、
紀州殿のご子孫はどうなさってるの???
和歌山には水戸の彰考館・徳川博物館とか尾張の蓬左文庫・徳川美術館みたいな個人の文庫や博物館がなさそう。
紀州徳川家のコレクションは和歌山県立博物館、和歌山市立博物館、国立歴史民俗博物館とかいろんな公立の博物館にあるんだけど、ご子孫は管理してないんだろうか???
915 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:15:16
紀州殿は先代の侯爵が蜂須賀侯とならぶ稀代の浪費家で全財産を蕩尽され、
戦後、奥方様がレストラン経営に乗り出したものの失敗して完全に零落。
後継ぎに迎えた日系人の剛氏とも離縁して、もはや名家の跡形もなし。
916 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:25:02
さんくす。もったいないなあ…公立の博物館にあっても客が集まらんよ…。
そういや蜂須賀家伝来の名品である源氏物語絵巻の一部も五島美術館にあるのが不思議だったけど、
そうか!蜂須賀侯が売ってしまったのか!!!
918 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:38:28
蜂須賀侯もほぼ同様の状況での零落です。
最後の侯爵がムチャクチャ金遣いの荒い人で(鳥類学者としては名のある人らしい)
戦後、未亡人と侯爵の出戻りの姉との間で財産争いが発生。
その筋のヒトも絡んでドロドロ状態になり、侯爵家は崩壊しました。
ホームページいってみたけど商売丸出しだね>水府明徳会
920 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:44:41
921 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:46:06
>>919 彰考館文庫の出し惜しみがひどい。資料の翻刻すらめったにさせてくれないっぽい
922 :
日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:48:42
>最後の侯爵がムチャクチャ金遣いの荒い人
あの家斉公の孫の孫だけのことはあるw
家斉→斉裕→茂韶→正韶→正氏(この人)
蜂須賀侯爵家って終戦の直前に爵位を返上してた気がするんだけど
なにゆえ?
じゃあ、家茂〜家達について語れ。
926 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 00:10:44
徳川慶福。
慶の字の人たちって、お目出度い名前だよな。
一橋徳川慶寿、一橋徳川慶喜、紀伊徳川慶福
928 :
日本@名無史:2005/11/26(土) 01:09:29
慶篤、慶邦。
しかし、なにげにイミナが綱吉と被るよな・・・。
家斉は知ってたはずだが・・・。
尾張家の当主、亡くなったんだって?
930 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 02:55:09
>>928 でも、吉より慶のほうが高級っぽいのでOKってことでは?
931 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 05:23:01
885番殿
まことに以てかたじけ無う御座る。
篤く御礼申し上げまする。
福田千鶴著「江戸時代の武家社会」校倉書房って本を図書館で読んでいたら、
綱重・綱吉(館林時代)は、松平と称した証拠はあるが徳川と称した証拠はないらしい。
つまり本家と御三家以外は将軍連枝であっても松平だった。
忠長についてはどちらの証拠もないが、この点から松平だったと推定。
なんてことが書いてあったけど、最近葉そう言う認識なのですか?
933 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 11:46:40
>>918 その出戻りの姉(年子)は最期はアパート住まいだったらしい。
元夫との間に4人か5人子供がいたはずだけど誰も助けなかったのだろうか。
934 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 11:59:57
日系人らしい。
いまや宗家、一橋家、清水家は水戸系になってしまったな。
937 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 12:21:46
すぐに離縁された。その後は不明。
939 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 12:26:13
>933
大名華族、それも大大名なら、旧家臣が援助してくれるものだが。
元華族のプライドで「家臣の世話にはならん。」と拒否するなら別だけど。
当主じゃないし、婚家を飛び出した出戻りだし、旧家臣が面倒見る義理はない。
蜂須賀家は未亡人が死んだ後、娘が渡米して行方不明になっていた時期もあるが、
いまは帰国しており、最近、徳島市に家重代の史料を寄贈した。
財産をあらかたなくしたと言われるわりに、史料関係はけっこう守ってたようだ。
だが、独身らしいので公的機関に史料を一括寄贈したんだろう。
943 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 14:11:45
娘は一度結婚したけど離婚した。子供がいるかは不明。
紀州さんとこも孫娘が一人いて建築士になってるらしいが、剛の娘?
現代ネタうぜえ。
946 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 18:23:44
>>924 「家斉の血脈、恐るべし」
というスレに準拠した内容になっております。
947 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 18:25:16
948 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 20:59:12
>>946 徳川家じゃないだろ。
居直ってんじゃねえよ。
バカかお前は。
↑と大バカが吼える年末
950 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 22:09:17
次スレどうする?
951 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 22:17:47
いつも、見てるだけの漏れだけど、次も立ててくれっ。
よろしくw〜
952 :
>>1:2005/11/26(土) 23:12:00
じゃあ立てるゾ。
立てたら連絡する!
(^∀^)ノシ
953 :
>>1:2005/11/26(土) 23:19:06
立てたぜ!!!
>結城@秀康、徳川頼宣@南龍公など
しねよボケ
955 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 23:46:32
誰が!?
新スレの
>>1にすげーひいた
自分で自分を売り込む厚顔無恥さにドン引き・・・
俺さぁ、
今までの
>>1と
>>952からの>>1が
別人に思えるんだけど・・・・・
家達の娘、綏子と綾子は双子なの?
960 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 01:47:52
次スレってどこですか?
結城@秀康
↑
こいつは本当にどうしよもないな。
一門は出入りするな。
スレタイを普通に読めば徳川姓を持つもののみが対象だ。
>>962 ↑
お前のような否定厨房もな。
お前のせいでスレが荒れるじゃないか。
否定厨房こそ出入りするな。
964 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 18:52:44
なんで達孝、達成、達道の3人だけが家達から拝領してんだろ?
田安家の達孝は家達の実弟だから。
一橋家の達道は、生まれたのが明治前期なので、昔の名残だろう。
達成は達孝の息子だから、家達にもらったのか、実父の一字なのか微妙。
966 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 19:27:54
>>965 達道は昔の名残とあるが、それなら他にももっと達○という名の人がいていいと思うのだが…
967 :
日本@名無史:2005/11/27(日) 22:20:50
>>966 今更過去の物となった幕府から拝領すること自体無意味と感じたんでは?
新政府の手前もあるし・・・。
実際イミナを返上してる人もいることだし・・・。
968 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:43:19
何で先代は御三家御三卿から養子をとらなかったの?
会津松平家の恒孝って正統性あるのか?
>>968 母が家正の娘の正子
つまり恒孝氏は家正の外孫
970 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:56:01
恒孝の母は豊子。
正子は豊子の母で家正の正室。
971 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 23:07:19
家正と正子が結婚したんか?
972 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 23:08:19
>>959 綾子の生年は知らないけど(綏子は明治30年生)小さいの頃の写真を見る限りでは綾子の方が数歳分身長が高く見えた。
973 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 23:17:34
明治42年11月徳川家正(25)と島津正子(24)は結婚した。
974 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 23:22:34
>>968 一度越前系から養子を取ってる。
松平慶永の子忠永がそれ。
しかし忠永の方から離縁を申し出たので、改めて孫である恒孝氏を養子にした。
975 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 23:44:01
忠永は慶永の孫では?
976 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 02:17:41
571 :日本@名無史さん :2005/11/06(日) 10:33:59
昭和初期、東北帝大の学生だった家英が夭折したあと、
同じ田安系から松平春嶽の孫忠永(あの靖国神社宮司の弟)を養子にした。
しかし、海軍軍人でパイロットだった忠永は「いつ死ぬかわからない」という
理由で自ら離縁を希望、実家にもどった。
そこで、戦後になってから会津系の松平恒雄の孫恒孝を養子にした。
572 :日本@名無史さん :2005/11/06(日) 10:56:33
一橋治済→田安斉匡→田安慶頼→徳川家達→徳川家正→徳川家英(絶)
一橋治済→田安斉匡→松平慶永→松平慶民→徳川忠永(離)
977 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 02:31:42
ちなみに同じ越前家でも、家達の娘綾子が嫁いだのは本家の康昌侯爵。
忠永の実父は慶永の功績により分家した慶民子爵。
松平慶永→(養子)松平茂昭→松平康荘→松平康昌(綾子の夫)
松平慶永→(実子)松平慶民、徳川義親、松平康荘夫人
978 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 17:49:46
昭和22年の華族制度廃止の時点で、宗家、慶喜家、御三家、御三卿の8家のうち、
4家(慶喜、水戸、一橋、清水)までが水戸頼房の子孫だった。
当時、宗家、尾張家、紀伊家、田安家は8代将軍吉宗の子孫だったが、紀伊家断絶、
宗家や尾張家の養子相続の結果、いまや吉宗の子孫は田安家のみ。
現在では宗家、慶喜家、水戸家、一橋家、清水家の5家が水戸血筋になっている。
頼重って自身は水戸家を継げなかったけど、子孫の繁栄振りたるや最強の血統だな。
980 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 20:01:29
>>979 でも水戸家も最初は危なっかしいよな。
今続いているのは頼重の嫡子綱条の血統ではなくその弟の頼侯の血統だし。
頼侯は大名にすらなってない。
最強はお万。
頼宣と頼房の実母だから、尾張家以外は全て家康とお万の血統。
983 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 22:39:37
>>980 水戸家にはあんまり危機感は無かったんじゃ無いかな?
頼房は多くの子を残したし、頼重も父同様多産系だったから。
984 :
日本@名無史:2005/11/28(月) 22:49:24
>>983 斉昭もかなりの子沢山だぞ!
しかも、それらがあちこちに養子に行ってちゃんと根付いてる!
同じ多産ながら、50人中2人しか現代に子孫を残せなかった家斉よりよっぽど偉い!
985 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 22:50:32
水戸はわりと正室腹の藩主が多い(といっても四名しかいないけど)。
紀伊家の正室腹の当主は頼貞が最初。
986 :
日本@名無史さん:
一橋家の宗敬父と幹子両親は斉昭の血を引き宗敬母は斉昭兄の血を引いていて、
清水家は好敏父と千枝子両親が斉昭の血を引いている。
水戸家、慶喜家、昭武家も水戸の血を濃く受け継いでいる。
他土屋家、鳥取池田家、朽木家等が斉昭の血が濃い。