392 :
日本@名無史さん:
鉄砲隊が標準より多い編成だったかどうかは聞いたこと無いけど、当時の主従関係に
よって編成される軍勢では一万石以下の小身の旗本が殆どだったら機動戦というか部隊を
縦横無尽に動かしての戦は難しいだろう。まぁ単一方向への防御戦ならこういうような
部隊でも可能かも。そう言う意味では主力は福島・黒田・細川・浅野の豊臣恩顧大名の
軍勢と松平忠吉・井伊の両部隊だろう。こう考えると宇喜多・小西勢がも少し頑張れば
ね。宇喜多も血気盛んな中納言秀家と老練な明石掃部頭が率いていた割には6000程度の
福島にてこずり過ぎ。山の斜面に縦深布陣でもしてたのかな。15000もいるんだから無理に
福島勢を全滅させるべく仕掛けないで福島の攻勢を支えつつ両脇の小西・大谷勢に手助けの
2〜3000程度を遊軍としてもよさそうなもんだがな。
394 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:13:48
>>392 秀家ではなく明石が宇喜多軍の采配を取ってたんだけどね。
というかどこの大名もそんなもんだけどね。
とはいえ家康や福島みたいに自ら采配をふるえる技量のある大名もいたんだけどね。
あと秀家って血気盛んかな?
それより贅沢エピソードの方が有名でお坊ちゃんという感じだけど。
俺は秀吉が五大老に宝剣を献上させた時に
ずば抜けて贅沢に飾りたてられた宝剣を一目見て
秀吉は一発でこれは秀家の宝剣だとわかって嘆いたという逸話を聞いて、
なんか小林よしのり「おぼっちゃまくん」みたいだなと笑ってしまった。
395 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:17:57
明石以外にまともな武将は宇喜多隊にいなかったのか?
秀家は国元を省みる事なく毎日、大坂や京都で遊興三昧。
血気盛んとは、とてもイメージが違うと思う。
正確に言うと家臣統制や検地に失敗して何もかもうまくいかないヤケクソから、
贅沢や遊興にさらにのめり込むようになったらしいが。
397 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:27:16
武将ではないな
西軍でまともなのは大谷ぐらいかorz
398 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:36:35
>>396 そういう話しを聞くと秀家善人説も怪しくなってくるな。
ただ単に自分の贅沢な生活を守りたかったから西軍に荷担してたんじゃないの?
司馬史観では秀家はただ無欲に何の打算もなく西軍として奮闘したという事になってるけど、
実際は誰よりも自分の欲望と利益に貪欲に行動してたという事になってしまう。
秀家の立場で東軍にはつきがたいしね。
399 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:53:06
秀吉がもっとも信用し期待された武将の一人が秀家
27歳で五大老に抜擢され信義に熱くかった人物
400 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:53:41
秀家って朝鮮で血気にはやって突撃し、義軍に蹴散らされて危うく討死しかかったんじゃなかったっけ?
401 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 02:07:15
徳川政権下で秀家が重用されることはないと断言できる
>>399 そりゃ養子だしさ。
それに養女を嫁がせてあるし。
家康厨なのだろうが、デマ情報流をさも真実のように語る輩が多いな
秀家は幼少期に父直家を失ってる
直家の重臣はまだ弱小国人だった頃から宇喜多を支えたという気概がある
上に秀家を子供の頃から後見している
必然的に重臣の発言力が増し元服後もそれを変えるのは容易じゃない
重臣同士で権力闘争もあり新参者を見下す風潮もある
まさに「老兵、権を争うは亡国の兆し」状態だったのだろう
秀家はそこへテコ入れをしたという訳だ
関ヶ原は難しい状態のままの参戦となってしまったが、時間さえあれば
結果的に良い方向に向かう可能性は高かった
よって
>>394>>396>>398は荒らし
万が一そうだったとして、女好きとか遊び好きとかは大名の評価に何か関係あるのか?
政治家のスキャンダルとか気にするタイプなんだろうな
漏れには大名でも政治家でも、私生活をその人物の評価にする奴の気が知れないが
宇喜多は豊臣に関わる戦には全て駆り出されたが
秀家は武功を沢山あげてるしな。秀家自身の軍略も
かなりのもんだし、宇喜多家は戦慣れしてるしな。
ただ、秀家は戦は上手いが家政を見るのが下手、もしくは嫌いだと
言うのは本当だろうね。
でなければ、宇喜多には100万石あげても良いくらいに
秀吉も考えたかもしれん。そして宇喜多に100万石あれば
関ヶ原ももっと変わった展開が望めたかもなぁ。
408 :
金吾秀秋:2005/10/09(日) 04:41:04
漏れ様に100万石あれば、もっと変わった展開が望めたに違いない(´・ω・`)
410 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 06:23:20
>>405 秀家自身に軍略などない。
朝鮮の役の時は宇喜多譜代。
関ヶ原の時は明石が
戦の実質的指揮を取ってました。
>>409 負傷したというのと勇猛果敢だったというのは違う。
411 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 06:26:52
秀家は鷹狩りに夢中になって百羽以上の鷹を飼ってたという逸話もある。
道楽にはのめりこむタイプらしいね。
旧記雑録後編三のどこに誰の書状で何と書かれてるのだろうか?
>>390 鉄砲が役に立たない、三成が島津の陣を訪れたなどは有名で聞いたことあるが。
413 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 10:55:39
414 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 10:57:23
秀家から譜代が離れて、宇喜多が弱体化したのは事実
説明・正当化できるなら、してもらいたい
おそらく宇喜多は政治体制が強化された替わりに軍事体制が崩壊した
のだな。
416 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 14:14:51
独裁になって、有望な人間がいなくなったってことか
なるほど
良かったね、お殿さん
ちなみに譜代の抜けた穴は浪人を召し抱える事によって穴埋めを図ったそうだ
>>417 しかし問題は将兵の「将」の方だった。
「兵」はそこそこ充足したが。
>>413 秀家は秀吉の養子という立場から、
さまざまな者たちが功績が秀家の方に行き
秀家に少しでもハクがつくように配慮したそうだ。
例えて言えばルーマニアアカデミーの全成果を
自分の名前の本で出版し、
自分の功績にしたチャウチェスク夫人みたいなもんだ。
彼女自体は科学式もわからないくらい無学だった。
ちなみに豊臣秀次も随分、武功が彼の元に行くように周囲がお膳立てした。
例えば奥州征伐とかね。
ただ彼の場合、小牧長久手の醜態が印象に残りすぎた。
421 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 18:06:22
>>414 明石以外の歴戦の将たちがいなくなり、
関ヶ原では精彩を欠いたと言わざるやおえない。
例えて言えば大会社で社長と腕利き部長一人と大多数の平社員しかいないような構造だ。
いや多分、主任や係長クラスくらいならいただろうけど、中間管理職がごっそりと抜けた。
423 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 19:08:23
>>421 一応部長でいいかと
ボンボン社長と部長の組み合わせだね
宿老、番頭クラスはやめてライバル会社に転籍
424 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 19:19:49
直家が生きていればなあ。。。
>>424 意味のない仮定。
直家が生きてれば素直に秀吉に従うかも疑問。
>>422 花房職之・花房正成・戸川達安・宇喜多信顕・岡利秀などなど。
428 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:02:38
4家老と秀吉の付家老1がいなくなっているからね。
正直宇喜多家はまともに戦争が出来る状況じゃあない。
そんな中明石はよく頑張った。
宇喜多はお家騒動があって体制建て直しの余裕が無いまま
関が原に突入したし
上杉も会津に映って体制建て直しの余裕が無いまま
関が原に突入したし
毛利と彼に引きずられた西国の連中も朝鮮出兵して
体制建て直しの余裕が無いまま
関が原に突入したし
その間徳川は日本で力を温存してたからな。
時間的余裕か朝鮮出兵というか大明遠征に
何らかの恩恵があったら状況を変えられたんだろうけど・・。
431 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:54:56
猿の朝鮮侵略に加担した侵略者の糞どもは西軍、東軍ともに腐るほどいますが何か?
432 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 20:58:02
徳川軍は温存されていましたが何か?
徳川も関東移封後三河兵がごっそり抜けて弱体化。
>>432 朝鮮にいった武将たちはピンピンしてましたが。
戦後でかい城とか作っちゃったりもしてますが。
そもそも日本は100年にわたって戦争に明け暮れてましたが。
朝鮮に行かなかったことは別にアドバンテージになどならん。
>>434 関東移封の際、三河以来の譜代家臣は全て家康に従って
関東入りしました。
437 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:07:20
>>435 倭人は貧乏生活に慣れてるからね。
むしろ疲弊大好きだろう。
いや、元から疲弊してるのかw
むしろ10年ものブランクがある徳川の方が不利では。
>>437 チョンは日本が進軍するまで土人並みの生活してたの忘れたの?
たかだか60年ちょっと前までだよw
440 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:13:06
長船もだっけ?
文禄の役で飢饉が発生し、朝鮮人同士殺し合って人肉喰ってたらしいな。
倭城の築城に協力し、明軍と倭城を攻めて敗走。
>>436 家臣じゃなくて兵だよ。
例えば松平本家とか。
444 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 22:19:18
445 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 22:20:24
446 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 22:23:50
>>444 ガンガン繁殖し、がンガンむしりとった。
ゴマの油と百姓は搾れば絞るほど・・・
447 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 06:35:44
つーか、三成とか大谷とか秀家とか
大阪の陣もそうだけど、やたら西軍の将を美化して東軍の将の悪口を言う奴ってウゼー。
別に西軍の将は言われているような美談から西軍についたわけでもないよ。
単に立場や自分の利益のために戦っただけ。
だからといって彼らを卑下する気もないが。そういうのが当たり前だし。
>>444 朝鮮から拿捕してきた奴隷の南蛮貿易で潤ったのでは?
宇喜多隊がいくら当日現場で奮戦したとしても
相手が豊臣恩顧の福島隊じゃあどうしようもないね
西軍の大義名分が仮にそっくりそのまま正しいとしても
福島は豊臣の敵じゃなくて三成の敵にすぎないからね
いわば三成がつくったマイナスをなるべく0に戻すための徒労な戦いだから
仮に福島隊を壊滅させたり正則の首をとったとしても
家康にとってはある意味邪魔者が一人減ってかえって好都合
福島隊と宇喜多隊が互いに潰しあう状況をつくられてるのに
三成が関ヶ原で西軍有利の布陣をつくったとかとんでもない話
>>449 秀吉の血縁の人物を攻撃しているんだよな。
>>450 その血縁が実子(真偽は別として)豊臣の世を奪おうとしている
家康についてるんだから、家臣として反家康につくのは当然の行為だろう。
それとも、関ヶ原を起こさなければ福島や加藤が家康を討ったとでも?w
>>451 あの段階での家康は、秀吉から政権を任されている。
権力強化を行ってはいても、奪おうとはしていないだろう。
家康の権力強化=豊臣の権力強化だったのだから。
それが分離するのは秀忠将軍就任の時。
453 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 07:49:27
結局、三成を暗殺してりゃあ豊臣も安泰だったんじゃねーの?
七将たちは、危険の芽を摘み取ったつもりだったんだろうな。
455 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 09:47:02
宇喜多秀家が、やや奢侈に過ぎたという点は確かだろうが信長・秀吉の茶器収集よりは
ましだろ。
元亀・天正の頃ならともかく、秀家の頃には宇喜多ならずも大名自らが采配を振るうとは
限らないだろう。また55万石の大領主ともなればなおさらだ。結局のところ大名家の強弱
とは良き侍大将の多寡だろう。そういう侍大将達が良き大将と見とめ仕えるのであれば
その大名家は戦に強いといえるのではないか。清正にしても飯田覚兵衛・森本儀太夫がおり
石田には島左近・蒲生備中・舞兵庫、増田にしても渡辺勘兵衛を召抱え武を張ったものだ。
456 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 09:58:57
>>455 でもさ信長、秀吉の場合は金ならいくらでもあったから問題ないけど(ついでに信長の場合は茶器収集の手段に暴力も使った)、
秀家の場合は55万石の一大名でしかないからさ。
それと侍大将については
それこそ彼らはお家騒動で大量に出てったわけだし。
可児才蔵など優秀な武将を大量に抱え、本人自身の能力も抜きんでている、
福島正則と、正面からまともにぶつかるのはさすがに分が悪い。
458 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 10:03:16
話しによると宇喜多勢のうち八千の兵を率いた明石が
福島に対して一進一退(むしろ押し気味)に戦を進めたというのは良いとしても、
ならあとの宇喜多の兵力の七千は何をしてたんだ?
ただボサッとしてたんなら、
宇喜多も毛利や長宗我部を責められないぞ。
半分の兵しか戦ってないんだから。
>>458 まともな指揮官がいないのでは烏合の衆だし、戦線に参加すると、
却って味方の足を引っ張って危険だ。
460 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 10:11:49
>>457 可児は武将というより武芸者だが。
まあ小人数の指揮に関してはピカイチだったろう。
ちなみに可児に関してはこんな逸話がある。
可児がある豪傑と決闘のさいに、彼は5、6人の弟子を連れてぞろぞろとやってきて、
豪傑にこう言った「我が槍は戦場で戦うための槍ぞ」と叫び弟子たちと共に一斉に豪傑に飛びかかったので、
豪傑は仰天して逃げ出したという話し。
可児の戦闘に関する考え方が良くわかる逸話だ。
可児は別に関ヶ原で一人で戦って20近い首級を挙げたわけではなく、
多数(十数人〜数十人くらい)の家人や門弟を引き連れて取ったものだ。
確かに近代戦で言えば優秀な小隊長くらいで鬼軍曹といったとこだが、
戦局を左右する程ではなかろう。
461 :
460:2005/10/10(月) 10:13:30
悪い文章が少々、狂った
462 :
460:2005/10/10(月) 10:14:46
悪い。
少々、文章が狂った。
463 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 10:16:19
宇喜多は喧嘩両成敗で家老の何割が去ったの?
464 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 10:44:32
>>456 鷹と茶器じゃ値段が違うじゃないの(推測)。ま100羽ってのは大杉だがw
どこの大名でも鷹狩はやるし、今でも城下町には鷹匠町って地名は結構残って
るしね。
それと、いくら戦慣れした老臣達でも主の言う事聞かないんじゃ使えんだろ。
もし戦場で不服従されたら良くて大恥、悪けりゃ敗北。
譜代の老臣が出奔したのは痛いがその分は浪人を召抱えてるしね。使い勝手が
悪いよりゃマシでしょ。
企業でも新社長に代わった時に先代の専務やら常務がああだこうだと横槍・
サボタージュいれてきた日にゃ、やっぱり人事刷新するしな。
可児が関ヶ原であげた首級って、弟子と協力してあげたのも可児のものとしてカウントしてるのかね?
それを従わせるのが大切。少々荒っぽいこと(斬殺)などをしてでも。
当時の宇喜多家が質素に生活するなんて現実的に不可能だろうね。
嫁は秀吉の養女で利家の実娘の豪姫だから粗雑には扱えないし
それに五大老の一人だし豊臣の一族として見られてるから
外見は常に豪華な部分を見せておかないといけないしね。
まあ単に派手好き・贅沢好きの秀吉の元で育った影響が強いんだろうけどね、
とはいえ同じ五大老の上杉・徳川は家風から質素だったんだけどな。
あと私は金沢人だが、利家も結構、派手好きでぜいたくを好むなあ。
藩財政が危機になっても八丈島に流された宇喜多家に維新まで律儀に援助物資を送り続けるしな。
>>465 そうだよ。てっ言うか当時はそれが普通。
従者の取った首や従者と協力した首は大概は主人格の武士のものになる。
>>468 なんか現代の助手とか研究生がした発明や研究を
担当教授の研究成果にされてしまうのと似てるね。
昔も今も変わらないという事か。
そういや漫画とか小説の世界でもそうだなあ。
ドラえもんとか作者が死んで弟子が書いてるのに、未だに藤子F氏の漫画になってるし。
>>470 少し違う。実際に戦うのは主人で、従者はその補助に過ぎない。
従者が単独で戦うのでは無いから。
>>471 可児の集団戦技はそういうものを越えたものらしいけどね。
>>472 可児は正則から千五百石で召し抱えられた。その際、半分の七百五十石
を一人の家臣にやった。この家臣は侍であり、独自の戦闘を行う。
従者ではない。一人一人の単独の侍と、若党などの侍に付属する従者
とが、ごっちゃになっていないか。
まあ良いんじゃないの。
可児の槍術は戦場での集団戦闘に特化したものらしいし。
475 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 12:44:14
予想外は三成隊の大健闘。そこで毛利や島津が動けば小早川の裏切りもなく、
東軍敗北はまず間違いなかった。だが、歴史は家康を選んだ。確かに家康でな
ければ、再び天下は動乱時代に入り、統一国家はできなかっただろう。
関ヶ原の西軍の総大将は毛利輝元だが、文禄の役の日本総大将は宇喜多秀家だったかね。
慶長の役は一応金吾か。
477 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:01:49
>>476 金吾に限らずそんなにのって名ばかりだろ。
>>475 予想外でもない。
天下に名を馳せた島左近も居れば
三成が金づくで集めた豪傑たちもいる。
478 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:08:56
>>475 普通に豊臣家が続いてる
官僚機構が整備されれば2代目以降が愚鈍でもかまわないのは
秀忠が証明済み
479 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:19:03
>>478 鎌倉幕府の前例もあるから、豊臣家が長く続く保証も無いw
480 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:26:11
秀忠は優秀だよ
481 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:38:23
>>476 秀家や輝元が優秀だった証拠にしたいのかもしれんが。
それを言ったら、東北征伐の総大将は豊臣秀次なのだが・・・・
482 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:59:45
輝元は使えねー・
秀元は使える。
>>478 まず、豊臣政権は官僚機構が整備されていなかった。
次に秀忠は愚鈍でもなんでもなく、内政家としては優秀だった。
どちらの意味でも豊臣政権のお先は真っ暗です。
484 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 15:34:22
結局、豊臣政権とは秀吉あってのものって事なんですね・・・
485 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 16:17:22
いうなれば豊臣政権とは秀吉個人の考えを実行するだけの機能だけが突出していた。
秀吉個人が意気も覇気もある時は良かったが耄碌すれば政府としての機能は慢性的に
機能不全の状態にあった。「統治」という点では織豊ニ政権より徳川が具体的な
方法論を確立しており完成を見ないで崩壊した織田政権はともかく豊臣政権と比して
著しく異なる点だ。
>>464 召抱えた浪人って具体的に誰よ?
大挙していなくなった宿老クラスを補えるようなのが誰かいた?
487 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 18:35:05
信長、秀吉はワンマンなイメージだけど
家康は以心崇伝や三浦按針とかいろんな方面の人の意見を取り入れて幕府の基礎を固めたんだっけかね。
488 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 18:38:46
>>454 どうでも七将にうち池田輝政、細川忠興、黒田長政は
秀頼の事を思ってとかではなく単なる私怨だろう。
それと池田輝政は秀次事件の時に三成の口添えで
助けてもらった恩義があり、
それに過去にも特に三成に怨みをいだくような逸話もなく、
多分、怨みもなく別の動機で参加したものと思われる。
489 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 18:47:17
どうぜその秀次事件も三成が讒訴したんだろうな
利休も三成が殺したようなものだ
>>489 それは違うぞ。
豊臣政権の怪事件がことごとく三成が関わってたというのは
江戸時代の彼を悪役にする史観からだ。
491 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 18:50:44
今時は七将の襲撃はなかった説が主流じゃないの?
吉川とかの軍が普通に東軍に襲いかかれば勝てたい戦いなのに
いらなく東軍の立場をとって領地減らされてるんだもんなぁ…
>>491 七将じゃなくて十将だったのでは?という話なら聞いたことがある
福島、加藤×2、池田、細川、浅野、黒田、藤堂、脇坂、蜂須賀?
495 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 19:37:11
毛利輝元がよど殿などの意見を聞かずに、
関ヶ原へはよ到着して、毛利秀元と吉川広家が家康との
密約を破り後ろから攻める。それを見た長宗我部盛親や長束正家も
続いていく。そうすれば、120万石から30万石に減石されすに、天下さえとっていたろう。
広家は約束を反古にされ、自らの領国を毛利家にあげるはめになる。
素直な心で後ろから攻めればよかったのに。
496 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 19:42:43
弟さえ恐れた、謀略家宇喜多直家が関ヶ原で戦ってと考えると面白い。
1万7000人の大軍をどう率いてたか、楽しみだなぁ。
あと、秀家は明石全登の逃げっぷりを見習え。海外へ逃げるもよし。
>>495-496 家康は健康オタクで当時としてはマレな長寿を全うした。
>>494 池田は恩義はあっても怨みもない三成を襲撃した。
義父の家康のためかもしれない。
>>496 宇喜多直家は味方を謀殺するのが得意だ。
499 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:00:31
池口小太郎先生の本を読んでから、三成のイメージが変わりました。
官僚の匂いがしないとか..西軍はよく戦いましたよね。
実際に戦ってのは、石田、宇喜多、小西、大谷、ぐらいですから、
それでも中盤は西軍有利に傾いてたそうですね。秀秋が裏切るまでは..
501 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:04:03
>>498 多分、直家は西軍、東軍どちらにつくにしろ、
関ヶ原の陣にはいかなっかたでしょうね。
自国にのこって領土拡大を狙ってたでしょうね。
黒田官兵衛みたく。
>>496 秀家もうまい事、薩摩まで逃げ通した。
八丈島でもそんなには酷い暮らしでもなかったらしい。
彼に不自由させまいと20人の従者がついていったし、
妻をもめとり長生きして子孫も残したのだし。
前田家その他からの仕送りも結構あったからね。
503 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:09:50
>>500 それでも西軍最大の1万7000を連れて行ったのは立派でないかなぁと。
島津義弘は1500ですから、たったの(薩摩武士は強いから、7500人に匹敵)
おまけに敗走し助けを求めてきた西軍に向かって発砲までしたそうですから。
最後は敵中突破でしょう。覚醒剤打ってたのかなw (薩摩武士の意地を見せるのに執念を燃やしただけ)
504 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:12:49
幸村ならば勝っていた
505 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:12:51
>>496 宇喜多直家は謀略ばかりで生涯に合戦らしい合戦は
二度しかしなかったという。
彼の采配能力はそんなに高いとも思えない。
それで彼は最初に毛利従属大名という立場で秀吉率いる
織田勢と戦ったが、その時にあまりの強さに驚き講和を申し出た。
そして毛利との関係も維持し秀吉と毛利とが戦い優勢になった方に
頃合を見て襲いかかる謀略を立てたが
結局は毛利に見破られ、攻められたために
大慌てで秀吉に救援を仰いだという。
その後は秀吉の言いなり、自分が死ぬ時も家臣に
「とにかく羽柴殿についていけ」と遺言して死んだという。
秀家を秀吉に託したのも彼の遺言だった筈。
彼の策が破れる事もあるし、息子の行く末を心配もするし、
結局、彼も人の子。
あんたが思っているような怪物ではなかったよ。
506 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:15:45
>>502 83歳で没したから
いい暮らしなのは想像がついてたけど。
福島家の運搬船が漂着したとき、お酒もらったそうだしね。
4代将軍家綱の御世まで生き抜いた最後の侍(関ヶ原で戦った武将の中では)だよ、。
当時に生きてたら関ヶ原の話を聞きにいきたいなぁ、自分だったら。
>>503 その件は過去に何度も議論され荒れがちだけど、
島津は敵中突破したというか、敵の居ないとこを走って前進退却しただけと思われるよ。
退却する西軍に攻め込む東軍と後方予備軍の徳川軍の間に間隙があいてたし。
>>507 おまけに旗を巻いて逃げたらしいからな。
戦う気なんて無い。
>>506 「お酒くれ」と言い出すのは生活の基盤があった証拠。
本当の極貧状態だったなら、酒がどうこうではなく、
まず「食料恵んでくれ」と言うだろうよ。
>>505 突っ込むが「優勢になった方に」は
「劣勢になった方に」の間違いだろう。
511 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:24:21
>>505 ほうほう、では貴方が考える怪物大名は誰かね。(戦だけ)
>>507 まあそうでもしない限り1500の兵で敵中突破なんてできんよ。
島津豊久は討ち死にだしなぁ。ただ、赤鬼の井伊直政は島津隊の鉄砲による
傷が悪化し2年後に亡くなるのだが..
>>510 おれは505ではないが、直家が羽柴と交渉を持つようになったのは、
別所が裏切って織田方が劣勢になり、山中鹿之助が殺されてからの
事だったと思う。更に本格的に裏切り行為を開始するのは、荒木が
裏切っての事だから、強い方の勢力伸長を押さえ、劣勢だった方に
恩を売る考えかもしれない。
>>511 そう言えば島津義弘も健康オタクでとしては
希な80まで生きた筈。
他に百まで生きた北条幻庵も健康オタクだった筈。
毛利元就も酒は飲まない主義だったし。
今は知らないが昔の長生きした有名人は大体、健康オタクだ。
井伊直政については追撃する必要もない島津を追撃するから、
彼らの死に物狂いの鉄砲に被弾する羽目になった。
何でも井伊は自分たちの目の前を逃げ去られては
徳川の名折れと考えたらしい。
>>511 毛利元就。
四千の兵で二万の陶を倒すのは並大抵ではない。
>>512 劣勢ねえ・・・
いくら当時でも毛利が織田に最終的に勝つと思ってた人はいないんじゃないかな?
京都に詩歌を習いに来た島津家久が織田信長を見て「おお、あれが高名な織田信長か」と感激気味に
日記に書いてたという逸話もあるしね。
まあ一時は都合の悪い事が重なっても、最終的には織田が勝つに決まってるわけで、
直家は秀吉が一時的に苦心した時期に恩を売って自分を高く売り付けようという考えでは?
516 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:40:05
>>513 井伊は福島隊が先鋒なのに、
ぬけがけしたからね。性格がわかるね。
きちんと健康管理し、養生している大名は長生きしてるねぇ。
例えば、真田家はたいていが長生きしてる。(信之93歳)
上杉は女性に溺れることはしないのだが、お酒飲みすぎで脳卒中。
信玄は結核。秀吉も晩年は女遊びで健康を害すからね、
朝鮮出兵したときもう痴呆だったとか。北条家も幻庵を筆頭に長生きしてる(父早雲88歳)
頭、体、心どれ一つ欠けても天下はとれない。武将のなかで、一番家康がバランスとれたのでしょうね。
>>513 福島正則は「死に狂いの兵に手は出さぬもの」と言って家臣達に攻撃
中止命令を出した程なのに。
井伊は福島に比べてまだまだ青いな。
>>517 井伊が抜け駆けしたのも、
島津を追撃したのも
徳川の名誉のため。
徳川家の命運を握る一戦が豊臣恩顧武将によって始められるのは耐えられなかったし、
島津の前進退却を見過ごすのも徳川の名折れと考えた。
彼自身は死に繋がる負傷をしたが必ずしも間違ってはいないだろう。
>>518 面子のために無謀な行動をして、却って恥をかいたらアホだろ。
520 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 20:47:41
さすが、徳川四天王。
合戦後、いちゃもんつけられて、
福島正則は領国を大幅に削られてる。
政治的能力はなかっのかな武断派だし。
福島正則vs井伊直政 (平野での戦) どちらが強いか。
>>506 お酒貰ったのがきっかけで、施しを得られるようになったんでしょw
当時幕府は、宇喜田への扶助を禁止していた。
お咎め覚悟の家臣の英断で酒を供与したところ、「よくやった」と福島が
褒めたって事になってる。
幕府への言い逃れとして「断ると主・福島がケチと思われるので」と、言
ったとか言わなかったとかで、これをきっかけに扶助の許可が幕府から
下りている。
これ以降、前田家を筆頭に縁のある大名が競うように物を送ったそうで、
秀家の人柄(慕われていた事)をあらわすエピソードってことになってる。
島津・前田のとりなしで「徳川に臣従すれば数万石で存続」って話があっ
たのに蹴った人だから、プライドは高かさは半端じゃないw
福島の方がよっぽど晩年、恥をかいてると思うが。
それに比べれば井伊は名誉の死を遂げたとも言えよう。
>>520 なんか違うぞ。徳川家康はその後、福島正則にとても気を遣ったようだぞ。
関ヶ原後の領土分配も、まず新領土を福島正則に打診して承諾を得られ
てから与えたそうだし、他の大名への褒美は、一方的に沙汰をしただけ
だった。当時は検地の数字が正確ではなく、家康も一体どの程度になる
かは、予想できなかったのではないか?
>>523 確かにその時点では気を使ったが、伊奈事件で怨恨を抱くようになり、
晩年は大阪の陣で押し込めを食わせたり、
遺命を残して福島を改易させたりした。
福島は幕府の使者の検死を待つ前に火葬されてて、
切腹したのでは?
という見方が根強い。
>>524 伊奈事件のことは、それ程影響は無かったのではないか。
福島が井伊へ彦根に屋敷地くれ、と要求し松原村(鳥人間コンテスト
の会場付近)に屋敷地を内定していた(直政死去で無し)ということ
もあり、福島と井伊は親交があったようだ。
526 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 21:01:32
>>521 宇喜多秀家は天下人豊臣秀吉の養子として幼少の頃から秀吉のもとで育ったからね。
それなのに徳川家に臣従するのは抵抗があったのだろうね。
それと比べて、西軍を小早川秀秋は裏切っちゃって、
豊臣一門の恥さらしと怒鳴りちらしたことでしょう宇喜多秀家は。
しかし島流しとはとても思えない贅沢な暮らしだなw
数万石ならあっさり臣従するぞ、自分ならw
527 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 21:30:06
島左近<黒田長政 (島の策を見破る長政)
真田幸村<武田信玄(少数の兵で信玄の大軍と戦う、追い詰めるが多勢に無勢)
(影武者戦法を使い、どこからともなく「われこそは幸村なり」との声が鳴り響く
弟武田信繁討ち取れる「信繁お供いたーす」 「人は城人は石垣また一人..」ぶつぶつとボヤく信玄
初めのうちは真田が優勢であったが、一人、また一人と幸村の影武者が討ち取られていく。
「信玄まいったぞー」3500の兵とともに幸村は信玄の本陣に到着、信玄は震え上がったが、
そこまでだった。勘助、信春の部隊が救援に駆けつけ、幸村の軍勢はちりじりに退散した。
高坂昌信は幸村のことを評しこう言った「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」。
529 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 21:52:35
小西行長<織田信長
いざ合戦場に到着すると、行長は驚いた。
信長陣営の柵が3段構えになっており鉄砲隊がこちらを身構えている。
身動きができずに頭を抱え考え込む。撤退するか、それとも...!
「いけー織田信長軍をこなごなにするのだ」
大筒を撃ちまくる小西軍。火器が充実していた小西軍は鉄砲を八千丁もそろえていたのだ。
大筒の攻撃に織田軍はなすすべもなく、家臣が倒れていく。
いつのまにか包囲され逃げれなくなった織田軍
信長は謡い舞った「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」
森蘭丸に介錯を頼み、自害する。49歳
その後、小西行長は混乱の隙に旧織田領を征服し、天下への道を歩むのである。
530 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 21:54:17
あまりに既存の知識が少なすぎて、
わけわからん文章になってしまいました。
暇でした読んでくださいね。
…。
三戦板に行きな。
532 :
健康おたくは長生きしないのか..:2005/10/10(月) 23:26:48
真田幸村<武田信玄
数名の影部者たちを仕立て、機略縦横の働きをみせる。影武者戦法。
どこからともなく「われこそは、幸村なり」との声が鳴り響く
弟武田信繁討ち取れる「信繁お供いたーす」 「人は城人は石垣また一人..」ぶつぶつとボヤく信玄
初めのうちは真田が優勢であったが、一人、また一人と幸村の影武者が討ち取られていく。
「信玄まいったぞー」3500の兵とともに幸村は信玄の本陣に到着、信玄は震え上がった、
けっして崩れたことのない信玄の馬印と旗が、地に倒れた。信玄は何度も自決を覚悟する。
が、幸村の戦いは、ここで終わる。決死の勘助、信春の部隊に遮られ、撤退を余儀なくさせられたのだ。
幸村の軍勢はちりじりに退散した。信玄の首を取るという幸村の野望は潰えたが、
その華々しき武勇は、後世にまで伝えられた。
高坂昌信は幸村のことを評しこう言った「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」。
534 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 23:44:51
>>529>>532 このヒトはどういう意図があってカキコしてるのかな?
ノブヤボでこういうシチュエーションがあったってことなのか?
535 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 00:43:25
風林火山
>>534 信玄や勘助vs幸村とか信長vs小西があり得ないないのを突っ込んで欲しいんじゃね?
537 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 01:05:21
よし
アリエネー
538 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 01:38:08
金吾秀秋<真田幸村
数名の影部者たちを仕立て、機略縦横の働きをみせる。影武者戦法。
どこからともなく「われこそは、幸村なり」との声が鳴り響く
「ふーん(´・ω・`) 」「まったく、幸村の縦横無尽ぶりには、あきれた
もんだぜ(´・ω・`)」
ぶつぶつとボヤく金吾。
初めのうちは真田が優勢であったが、一人、また一人と幸村の影武者が討ち取られていく。
「金吾まいったぞー」3500の兵とともに幸村は金吾の本陣に到着。
金吾はぶつぶつとボヤく。「まったく、まいったやつだぜ(´・ω・`)」。
けっして崩れたことのない金吾の馬印と旗が、地に倒れた。
金吾は何度もボヤき続ける。「幸村ちゃんもカルピス飲む(´・ω・`)?」
が、幸村の戦いは、ここで終わる。決死の稲葉、平岡の部隊に遮られ、撤退
を余儀なくさせられたのだ。
幸村の軍勢はちりじりに退散した。金吾の首を取るという幸村の野望は潰えたが、
その華々しき武勇は、後世にまで伝えられた。
金吾秀秋は幸村のことを評しこう言った。
「まったく、幸村の野望の潰えぶりには、あきれたもんだぜ(´・ω・`)」。
539 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 02:47:22
↑こういうふうにパロディ化して楽しめってことだろうな
540 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 07:22:57
>>521 数万石の大名?
悪いが信じられないね。
それと八丈島の流刑(死一等を減じる)
とギャップありすぎ。
>>525 どう考えても伊奈事件はメチャ影響あったよ。
徳川の大切な家臣を無理矢理切腹させた。
家康の屈辱感はたいへんなもんだろ。
井伊と親交があったとかは関係ない。
長宗我部盛親も井伊と親交あったし。
金吾かわいいな。
俺にもカルピス飲ませろよ。
金吾のカルピス…ウホッ!
542 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 07:54:55
前田って戦犯預かり所みたいになってるな。。。
長宗我部盛親は
本多の養女を妻とする家康お気に入りだった実兄を
土佐をとられるのが嫌で殺したね。
その件で家康は怒り盛親を殺そうと図ったが、
井伊直政のとりなしで命は助けられてる。
思えば殺しておいた方が
大阪の陣で刃向かわれなくて良かったんだが。
井伊は徳川に結果的に良くない事もしてるね。
545 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 10:34:02
ねね「尾張閥・武断派」加藤清正、福島正則、小早川秀秋
淀君「近江閥・文治派」石田三成など吏僚。
ねねは、子供秀頼を淀殿が産んだことで、大阪城をはじめとする豊臣の財産を奪われた女であり、
武断派からは同情されていた。
ねねは、天下は家康が受け継ぎ、豊臣家は一大名として存続すれば良いと思っていた。
この考えが関が原の結果となった。
これから見る限り、小早川秀秋が石田三成につく可能性は、
殆どなかったと思われる、、、
毛利が山を降り始め、徳川の背後をつくというような動きがない限りは、、、
つまり、、、
吉川VS安国寺
547 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 11:26:08
宇喜多内紛の仲介をして家康に叱られたのって誰だっけ?
549 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 12:11:49
550 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 12:23:37
>>547 確か榊原康政。
大谷刑部と懇意だった縁で調停に加わった。
>>458 前近代の戦では、一度前線に投入した兵力を後退させることはできない。
(そんなことしたら総崩れになる)
全兵力を前線に投入すると、敵の横やりや不測の事態に対応できないから、
指揮官は常に予備兵力をおいて、決定的な場面まで取っておく。
まあ半分を予備兵力にしていた、というのは普通なんじゃないの?
552 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:22:00
本当に予備戦力として温存してたなら金吾の返り忠に7000もの遊兵がなんら為すことなく
潰走したとすれば、無念これに勝るものなし、だな。
>>551 そうか?石田隊には黒田とか細川とか、よってたかって攻めていたが、
交代交代で攻めんととてもじゃないがスペースが足らんだろ。
554 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:13:02
>>551 まぁ「繰り引き」っていって、一手を攻勢に用いたら暫くして新手を攻勢に投じ、
先の一手はすぐ引いて休憩・再編成して折り見て再投入する手もある訳で、
ある程度マメに最前線の兵力はとっかえひっかえしないとスタミナきれちゃうん
じゃないの?柔道とか剣道の試合だって5分やりゃ息持たないのにさ、甲冑着て
命の取り合いだよ・・・。
555 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:16:16
野戦と言っても石田は陣地で戦っていたからな。
556 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:57:59
石田だって三成自信が最初からたたかていたわけではない
宇喜多は徐々に崩れた
>>540 宇喜田の助命には高台院も一役買ってる。(高台院と親しい事はとても重要)
数万石の話はあって当然。(あからさまに実収の低いところの拝領だろうが)
血縁ではないが豊臣一門の筆頭格的存在なので、徳川に臣従させる事に政
治的意味は大きい。(政治的かつ屈辱的意味合いが強いからこそ、秀家は
蹴ってる)
表面上良い話を断ってるから、怒りを買うのも当然w
改めて死罪か遠島かって事になるわな。
結局、人望があり高台院と縁の濃い秀家を殺すと徳川への反感が募るから遠
島で済ませた。
当時は大阪が存続してるから、前田・加藤・福島が反徳川に回る恐れがあった
し、高台院次第では、浅野・黒田・蜂須賀も加わりかねない。この6家が
大阪に付くだけで、他の武将も触手を動かされるw(この程度だと徳川有利
は万全だが、戦上手な連中だけに戦うと戦死の可能性があるので徳川方で
死にたく無い発想が生じる)
成り行き的に島津・毛利・上杉も反徳川に回るだろう。
結城(松平)秀康は家康に疎んじられながらも実直に家康に従ってるが、
可愛がってくれた高台院の意向を受けての行動であるとすると、これも徳
川に刃向かう可能性すらある。
上杉と結城で組むような事になれば、野心家伊達もそれに乗ったほうが
大領を得易いw
徳川は高台院の縁の深いものにはとても気を使っている。(ある意味危険な秀康
が大領を得ているのもそのためだろう)
宇喜田には存続させる価値があったし、殺すわけにはいかない立場もあった。
大阪の陣で大阪側に回る大名が出なかったことから、高台院の取り込みに成功
しているわけで、宇喜田助命効果が出ているとも言える。
あえて宇喜多に49年も支援させ続けることによってある意味兵糧攻めなのよ
559 :
551:2005/10/11(火) 16:28:35
>>553 石田は兵力不足だからさほど突出してこない。
例外的に、攻める側は比較的楽に撤収できたのだろう。
>>554 可能だとしても、必要に迫られねばやりなくない戦術だろう。
戦意・忠誠心の高い兵士と、熟達した指揮官が必要だ。
また、背後指揮官の命令でやるのは危険すぎる。
最前線指揮官の裁量でタイミングを見て実施しないとまずかろう。
しかし、組頭単位というのか、10-100人単位では、適宜入れ替えはやってたんじゃないかな。
戦列をくんでれば、実際に格闘している人間はさほど多くないだろうし。
後ろで行ったり来たりしているだけの人間も多かったんじゃないの?
妄想乙
561 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 18:24:35
>>545 だいたい小早川秀秋が西軍にいたのは毛利家が西軍だから。元両川の小早川家も、
隆景引退・秀秋の家督相続後、毛利家との関係が希薄になった。ここが問題であった。
そうでなければ主家である毛利家に従っただろう。
562 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 19:17:59
>>561 >だいたい小早川秀秋が西軍にいたのは毛利家が西軍だから
この辺からして根拠不明なんですけど。
そんな事書いてある史料あるの?
563 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 19:20:25
>>563 全然、常識じゃないよ。
ようするに君の推論という事ね。
小早川秀秋なんて、秀吉から養子押し付けられて家を乗っ取られた程度にしか周囲では見られてなかっただろ。
別に誰も毛利家の一族なんて考えてすらいなかった。
小早川の所領の伊予にしろ元々、秀吉に与えられたもので別に取られても、それほど痛くもなかったし。
だいたい、小早川家自体が毛利元就が隆景を強引に養子にして乗っ取っただけの家で
伝統的に毛利家の一族というわけでも何でもなかったんだけど。
小早川家が毛利家の支族だったのはたかだか数十年の話し。
毛利家が一度獲得した家を他の勢力に渡しただけ。
小早川秀秋が当主の小早川宗家は宇喜多家同様、羽柴(豊臣)家の一派と考えるべき。
567 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 19:49:49
>>566 確かに・・・
なら秀秋が西軍に居たのは宇喜多秀家同様、
豊臣家の支族だからという事で良いんだな。
>>568 西軍のところを、東軍に置き換えるべき。
西軍諸将
「内府は豊家を蔑ろにしている。この度内府を凹ませる為に挙兵するが当然金吾は我々と行動を共にするんだよな?な?な?」
金吾秀秋
「…う…うん
(´・ω・`)」
て感じ?
572 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 23:06:45
>>571 黒い服を着た強面のお兄さんたち(短刀等を所持)「味方になるよな?」
秀秋「う、うん」
怖いおじさん「裏切るなよ」
秀秋「わ、わかってるよ」
573 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 23:20:14
その頃、秀秋の頼りにしていたお爺さんは遙か遠くで引き籠もっていた
続く
三戦板との使い分け出来ない厨がいる限りまともな議論は出来ん罠
しかし西軍は島津、長曽我部、宇喜多、毛利など、大陸系人種が多いな。
576 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 00:10:47
577 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 00:16:30
内府
「よお金吾。お前この前治部達に絡まれてたなぁ。泣きベソかいてたけど何か言われたんか?」
金吾秀秋
「な…何でもないよ!」
内府
「ふうん、そうか…。何なら相談に乗ってやろうと思ったんだが…天麩羅でも食いに行くか?」
金吾秀秋
「…!行く!行くよ
(´・ω・`)」
チャットではないのだから1日1レス程度の進行でもいいのだよ
厨はレスする事だけが生き甲斐のようだ
579 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 00:20:47
家康と天麩羅を食す秀秋
秀秋「実はね、おじいちゃん」
家康「んーどうした」
秀秋「僕、仲間になれって脅されているんだ」
家康「ほー、それは穏やかではないのう」
三国志にたとえると、
皇帝=秀頼
曹操=家康
劉備=三成
諸葛亮=不在
孫権=輝元
荀攸=正則
こんな感じかな。
賤ヶ岳の戦いにたとえると、
秀吉=家康
勝家=三成
利家=秀秋
長秀=正則
信雄=秀頼
>>566 天下の豊臣家からすれば毛利家など
配下の一大名しかないから、
秀秋が養子にされた時点で小早川の本家は
毛利から離れたも当然だね。
583 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:38:41
小早川家を豊臣系、秀秋が継いだというところで、毛利には何かあったかも。
しかし、総大将を毛利輝元が受けた以上は、
もう少し何か闘志が欲しかった。
584 :
::2005/10/12(水) 11:58:31
>>583 そのころの毛利家は.吉川元春.小早川隆景がいたころの毛利で
はありません。
輝元チーム
あんたは初めからわしらが担いどる御輿じゃないの。
組がここまでなるのに、誰が血流しとるんや。
御輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみいや!!!
587 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 12:53:32
>>559 亀レスでスマソ。
たしかに「繰り引き」は一定以上の指揮能力と部隊の士気が高い事が前提だが、
それこそ戦国末期のこの頃はどこの家中でもそれなりの侍大将と経験豊富な足軽衆が
結構いただろうしね。石田の如く柵に寄って戦う場合はともかく細川・黒田・福島などでは
単一の戦闘単位が徹頭徹尾先頭で闘い続けるのは無理で、一定の時間で「繰り引き」に
近い操兵はされたんじゃないか。
話しを宇喜多の遊兵7000に戻すと対福島だけ考えれば15000の大兵を二段に分かつのは
良いが、長時間戦闘した割には後備7000は全く動くことなく潰走している。そもそも
西軍最大の戦力である宇喜多勢が6000そこそこの福島と相対峙しとけば良いという発想は
問題だろう。少なくとも石田陣全面は数倍の敵に対峙しており小西摂津の手ぬるさを
みれば7000とは言わず、3000でも有効に使えなかったかと思う。田中兵部・筒井等を
小西と共同で退ければ福島勢側面に空白が生じ、それこそ後備が付け入る機会があった
のではなかろうか。
588 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:23:44
>>587 そこで問題となってくるのが、経験豊富な実戦部隊長
しかし彼らは敵陣営にあり
相当な指揮統制上の問題があったであろう
明石が8000を率いたのはむしろよくやった(やりすぎた)方ではないか
大身の福島でさえ、6000
589 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:27:46
石田の善戦の理由は色々あるが
島、蒲生といった侍大将クラスが優秀だったことも大きい
何気に人望あるからな。
591 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 16:52:04
>>588 なるほど。しかし秀家麾下には長船吉兵衛や延原土佐・本多政重・浮田太郎左衛門も
いたろうにと思ったが、調べるともともと家老の長船と武略・外交に優れた本多政重は
ともかく延原・浮田はいわゆる内務官僚あがりだね。家老衆出奔の後を継ぐ形で家老衆の
組下・与力を任されたっぽい。相対的にみて戦力ダウンだろうな。
592 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:04:24
一応
はじめに宇喜多秀家と豊臣秀吉&高台院が義理の親子なのは
当然としても、他に
宇喜多秀家と吉川広家が義理の兄弟になり
宇喜多秀家と前田利家が義理の親子で
前田利長・利政が義理の兄弟
宇喜多秀家と小早川秀秋&結城秀康&八条宮が養子仲間(ま義理の兄弟にいれとこう)
毛利輝元の娘(養女)と宇喜多秀家の息子が縁組
という系図になるのだが
他にあったっけ?
小西行長は宇喜多秀家の御用商人
594 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:15:37
>>592 宇喜多秀家と細川忠隆(廃嫡)二人とも利家の娘婿。
595 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:23:18
>>559 >>587 そもそも、その宇野喜隊が兵を半分ずつ使ってたという理屈だと、
福島はどうなるんだ?
福島の方は6000の兵、休ませずに使いっぱなしか?
それとも3000ずつ分けて休ませながら使ったのか?
そんな福島と互角だった宇喜多はやはりアホ。
赤松某てのが、宇喜多の身内だった。
597 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:25:31
>>595 福島は養子の福島正之と叔父の福島治重の率いる前衛と、本隊に分か
れていた。宇喜多に崩された部隊がその前衛で、その後代わりに本隊
が前線へ出て、福島や大野が自ら槍を振るって突入して持ち直した。
599 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:32:32
>>595 逆にそれが、宇喜多と福島の決定的な違いだろうな。福島の場合は予備
戦力の投入時期がとても絶妙で戦局の逆転に寄与し、宇喜多勢を南天満
山へ押し上げた。しかし宇喜多は後方にいた予備部隊の投入時期を的確
に判断出来て、指揮する武将がいなかったのだろう。大坂夏の陣での
真田幸村は三段に分け、この三隊を入れ替えながら三度の突撃を成功
させた。ワーテルローではナポレオンが総予備の近衛兵を投入するのが
遅れて敗退した。
602 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 22:07:03
>>601 その通りだろうね。人材不足って訳だね。西軍最大の戦力だし、大将はヤル気マンマン
なのに残念だな。
603 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 22:24:06
ぐふ
ざく
605 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:25:55
>>595 まあ福島は何度も敗走してる
しかし総崩れまでには到っていない
その当たりは差だろうね
福島も当然ながら全兵力を同時に投入はしていないだろ
何割かは予備で備えていたはず
606 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:35:58
槍一つで大名になったものと生まれたときから大大名
この差は大きいな
叩き上げ社長VSボンボンの2代目社長以上の差
しかもボンボンの方では主力が敵に
607 :
金吾秀秋:2005/10/13(木) 02:55:27
まったく、実力で中納言にまでのぼりつめた、この漏れ様からすると、
ボンボンは情けないよな(´・ω・`)
指揮官の差は大きいよな。
鉄砲隊だと、煙で視界を妨げられたり火薬の燃えかすが銃身に溜まって
掃除しなくてはならず、暫く撃てなくなる。だから射撃が早すぎると、
ろくに有効弾を与えられないまま撃てなくなり、敵の接近を許してし
まう。しかし引きつけすぎると防ぎきらず、隊列に突入されてしまう。
最前列で格闘する兵は疲れてくるので、次の列と入れ替えないといけ
ないが、頻繁に入れ替えると隊列が乱れるし、敵を崩すチャンスに、
立ち直りの機会を与えてしまう。しかし長時間戦わせすぎると、当然
討たれやすくなる。指揮官次第で軍の精強差は随分かわるだろう。
明石の兵八千は、一人の指揮官が率いる兵力の限界をほぼ越える兵力
だと思うが、よく明石は頑張ったと思う。あと二人くらいそこそこの
能力を持った武将がいれば、宇喜多も大軍の威力を発揮できたに違いない。
609 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 08:56:38
>>609 本多は明石の補佐が精一杯でしょう。
真田丸の時は全軍の統率が取れず、前衛が単独で進みすぎて惨敗する
のだから。
611 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 09:34:21
宇喜多家の内紛前後の家老の入れ代わりの説明をお願いします
612 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:36:28
>>589 しかし、石田軍の背後にすぐ逃げ道となる北国街道があるのは不味いだろう。
全軍に、形勢悪くなったらすぐ逃げるつもりだろうという、印象を与えて、
士気の低下を招く。
島左近も、それを言うべきだ。言わなかったのなら、問題。
家康は、本陣を後半には桃配山からさらに前線に移動させた。
こういう督戦で兵の士気は奮い立つ。
>>612 三万の徳川勢と5千の石田勢を一緒に考えるのは無理があるだろ。
しかも徳川は結局戦ってないぞ?
614 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:55:07
>>611 もともと宇喜多家には有力な国人系の家老が数家あった。
岡・戸川(富川)・花房・長船・浮田などである。どうもこうした有力国人の
中で最も相応しいものが家老筆頭みたいな差配を行ったみたい。
朝鮮の役の頃、岡越前守・戸川達安・花房助兵衛らは出兵していたがその間に
国政長船紀伊守が国政を牛耳った。これが発端だと思われるが更に前田家の
嫁豪姫についてきた中村刑部が大阪表で主に政略面で実績を上げ台頭する内に
長船紀伊が死去したがこれが浮田左京ら家老衆の陰謀説が流されると、家老衆は
これに憤慨し、年来の不満もあって中村刑部排斥などを目的として大坂備前島
屋敷に立てこもり、秀家の説得にも応じなかった。大谷刑部少輔・榊原式部らの
仲介もあったが最終的には家康の調停で上述の岡越前・戸川達安・花房志摩・
花房助兵衛・浮田左京(後の坂崎出羽守)らは宇喜多家を致仕し、他家預かりと
なる。
明石掃部はこの時点までは客将扱いの可能性もあるが1599年から筆頭家老。
同年、本多政重も2万石で召抱えられる。小説なんかでちょくちょく名前の出る
延原土佐と浮田太郎左衛門はもともと内政を担当していたらしい。家老職の大量
出奔で格上げか。ちなみに中村・明石・延原・浮田太郎左はみなキリシタン。
出奔家老は皆、日蓮宗で騒ぎが大きくなったのはこれも原因とする向きもある。
615 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 13:11:31
街道街道って関ヶ原の事を何か勘違いしてないか。
徳川だって普通に大群の兵を進めて置いておけるくらい、開けた土地なんだけど。
617 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 13:28:14
解説ありがとね
道が無いところに兵を送るなんて不可能だからなw
とりあえず田圃を荒らしたから、家康は竹中に米千石あげたね。
620 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 13:45:26
街道が集まるところ、そこが関ヶ原
福島なんか、丁度その街道の交点付近に布陣している。
ようは近くに街道あったからどうこうって言うのはおかしい
実際に関ヶ原に行ったことも無い香具師が訳知り顔でレスするなと
妄想語るなら三戦板行けよド厨房が
624 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 19:09:19
西に移動し始めた東軍の前方を塞ぐ意味で街道を封鎖したから関ヶ原なんだけど。
関ヶ原は不破の関
ここいいる奴はみんな関ヶ原行ったことあるだろう
土も持ちかえってるよな当然。
>>624 塞ぐ?すでに西軍は陣取ってたし、ああいう開けた土地で戦うのはもう暗黙の了解。
街道を塞ぐとか戦略的な意味で関ヶ原とはいえない。
しまった
土は持って帰ってなかった…
俺滋賀県民なのだが、来週愛知へ行く。
新幹線での移動なのだが、何とか新幹線を止めて土を採取する方法無いかな?
腹を切る
631 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 20:43:58
ここにいる椰子らはみんな関ヶ原に住んでいるよ
土は持っていない
632 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 20:49:35
ふと思ったこと。
宇喜多の騒ぎが勃発した時、家康は宇喜多家をお家騒動を理由に取り潰す事を
なぜ考えなかったのだろうか?
取り潰せば、備前・美作・備中半国および播磨・佐用,赤穂二郡に及ぶ57万石
もの巨封が手に入るのみならず、反家康の大物,同席の大老が一人消え、後顧の憂い
もなくなると思う。
宇喜多が不服を唱え備前に帰れば、謀反人の名目で備前征伐の兵を挙げれば済む
事だし。
634 :
定ちゃん:2005/10/13(木) 21:02:25
〉632
それ!定ちゃんも、思たコトあゅデチ!
|π・´)ノシシ
つ
635 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 21:08:23
636 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:16:44
>>632 うむ確かに時期的に言っても前田征伐の陰謀の頃とそんなに変わらんタイミングだしな。
思うに前田利長は威せば必ず恭順の意を示すという読みもあったろうし、反家康勢力の
巨魁であった前田家を屈服させることは前田家と近い細川家・加藤清正などを引き込む
狙いもあったか。
宇喜多は確かにこの時期のお家騒動は格好の材料だが故太閤猶子でもあり宇喜多の
若大将は死に物狂いで合戦しそうで思わぬ怪我を被るのは避けたいところ。
もっとも地理的にみて大阪に近いばかりか毛利の勢力範囲だし、近江辺りで石田治部が
挙兵すれば本当に挟撃されるリスクもある。
まぁ所謂西軍勢力のホームグラウンドだから選択しなかったのかもね。
そもそも陰謀じゃなくて、本当に上杉を悪いヤツだと思ったから討伐
しただけかもよ。宇喜多は悪いヤツではなかったとか。
638 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 23:29:03
御家騒動を理由に取り潰すだけの権限がなかったんじゃないか
御家騒動を理由に処分した例ある?
成敗するには、謀反が理由
秀家は、ほぼ豊臣と言って良く、豊臣が豊臣に謀反というのは
いかな家康でもまだ言えなかったのではないか
639 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 23:50:13
上洛しろと命令したら、たぶん秀家は出てきたんじゃないか
殺せるはずがないとね
西軍首謀者だったけど、助命されているしね
641 :
大和天狗:2005/10/14(金) 00:58:18
松尾山
明けてビックリ
不破の関
どっちも嫌だ
早く終われよ
金吾言う
コッチへ来るな
そこにいろ
雨にも濡れて
月は満つ也
今更に
悔いても遅し
不破の関
関白捨てて
いのち果て南無
宇喜多秀家は
全ての文書に「羽柴秀家」もしくは「豊臣秀家」と署名してるくらいだからね。
心の底から自分を豊臣家の人間だと思い込んでたし。
>>632 その理屈だと宇喜多、前田、上杉だけでなく島津も取り潰せるね。
でも家康にはそんな権限がないから、
調停・介入するか討伐令を出すかのどちらかしか
できなかったんだろ。
結局、大名を取り潰すには
信長、秀吉、江戸幕府くらいの力がないと駄目。
豊臣家の大老の家康じゃ無理だろう。
しかも相手は豊臣家の支族のような存在だし。
もしも宇喜多秀家が宇喜多の嫡男でない状況で、秀吉の猶子になっていた
として、取り立てられたら畿内かその周辺あたりで十万石から十五、六万石
くらいの大名には取り立てられたのだろうか。
645 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:14:57
>>644 ほとんど放置されたただろうね。
秀吉って一部の養子以外には
意外と冷たいから。
646 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:34:23
>>613 兵力石田三成4,000。
島左近1,000、
蒲生1,000
豊臣配下1,000
と七千人ですか。
よくこれで家康配下の70000?に楯突いたと感心。
石田は大砲をもっと使えば良かったのにな。
648 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 11:33:24
>586仁義!
649 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 10:56:11
知ってる?
家康が大垣城の三成を無視して西進したのは、
かって武田信玄が、浜松城の家康を無視して西進し、
三方が原に誘い出して撃破したことの真似だそうだ。
三成の相手は武田信玄でもあった、、とか、、
>>649 それにしても、西軍主力に関ヶ原へ先回りされたのはちと間抜けな気が。
東軍は西軍の強固な陣地に突撃を繰り返して攻めあぐねた。
ここまでは良かった。
動けんようにクンロクいれてありますけえ。
653 :
;:2005/10/15(土) 13:56:09
>>646 西軍は実質.石田の7000.宇喜多の20000.大谷の3000 計30000位
もし.立花宗成が間に合えば.15000増えて.島津も動き.小早川も裏切らず
脇坂.小川.朽木 などの小諸侯軍も東軍めがけて雪崩れ込んだだろう。
>>649 三方ヶ原での武田軍は追ってくる徳川勢を反転して一気に撃破したが、
関ヶ原での東軍は西軍に先回りされて有利な地形を先取され、
逆に待ち受けられている。
三方ヶ原の真似をしたというなら、あまりにもお粗末だと思うがね。
立花宗成スゲー15000も兵持ってるのかよw
656 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 16:05:55
657 :
大和天狗:2005/10/15(土) 16:36:39
ソースは俺様だ
俺様は似ているところがある、と言ったのだ
658 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 16:41:49
豊臣秀頼が出陣していれば
東軍の秀吉恩顧の大名たちは皆
西軍に寝返っていただろう
659 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 17:35:21
幸村なら、勝っていた!!!
660 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 17:58:24
関が原の戦いの直後、何で秀頼は65万石に所領を減らされたの?
秀頼は関が原の戦いには参戦してないから賞罰の対象にはならず
しかも戦いの直後、家康はまだ秀頼の家臣であるはずなのに
豊臣家の所領を家康が勝手に減らすことなどできないはずだが
661 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:04:58
>>660
それ、ずっと疑問だった!!
662 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:05:04
>>660 東軍諸将への恩賞として出されたようだ
形式上は、家康が起案して、豊臣が承認したということであろう
事実上、乗っ取られていたということだな
オレモ納得行かないのだが・・・・
>>660 この疑問、何度も出てるよな。過去ログくらい読め。
家康は豊臣家の大老として、戦功のあった者に対して
豊臣家の所領を割いて恩賞を与えた。
(東軍にとっての)関が原の合戦は豊臣家のために反乱者を討った戦いなのだから、
豊臣家の所領から恩賞を出すのはあたりまえのこと。
ちなみに論功行賞は秀頼の名でもって行われているよ。
ということは、豊臣家の所領を減らしたのは(形式的には)秀頼自身というわけだ。
家康も上手いことやったもんだ。
664 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:19:36
>家康は豊臣家の大老として、戦功のあった者に対して
>豊臣家の所領を割いて恩賞を与えた。
教科書とか普通の歴史の本でも、そうはっきり書いてくれればいいのに。
665 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:25:20
そうだね
日本の教科書は偏見が入っているから
666 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:25:45
>>662 豊臣家の領土は関が原以前200万石弱と言われていて、摂津・河内・和泉
65万石の他、直轄領が播磨,近江,大和,山城など主として畿内に散在し
ていたが、例えば加古川の糟屋など西軍に付いた豊臣家の被官が改易に
なった事も関係していると思う。
667 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:26:51
歴史学者(?)でも、豊臣対反乱軍との認識がないのもいるんじゃないか
668 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 18:37:54
ウロ覚えだが、教科書には
東軍と西軍が戦って、東軍が勝ったとしか書いてなかった希ガス
これじゃあ、何が何だか不明だよな
まあ詳細は自分で調べれということのなのか
この頃って小早川家は毛利家から独立してたの?
670 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 19:13:16
東軍に秀吉恩顧の武将がいなかったら
関が原の戦いに勝利した後
家康はすぐに大坂を攻め
豊臣を滅ぼすことができたと思う
671 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 19:59:48
>>669 ほぼ独立でしょ。秀秋が当主になったことで豊臣親藩になるはずだったw
家老の平岡・稲葉も小早川家の生抜きではなく秀吉により送り込まれた
補佐役兼小早川老臣衆への押さえだわな。所領も隆景時代から毛利からは
離されてるしね。
>>670 >>東軍に秀吉恩顧の武将がいなかったら
その段階で東軍は豊臣の敵と認識される可能性はあるぞ。
まして東軍主力の徳川は秀吉の家康シフトで東海道とか秀吉恩顧の武将に
抑えられてるので上記のような仮定の東軍=関東周辺での戦になるので
関が原に出る余力はないだろう。
上記のような想定で関が原を強引に考えると
秀吉恩顧の武将=西軍VS非豊臣系の武将=東軍とか言う構図にでもしない
と東軍に勝ち目どころか関が原まで出てこられないw
ましてそんなんで勝っても、東軍に毛利、島津、上杉、伊達とかの有力大名
を抱え込み戦後もその大領土を維持するので、徳川政権はそうとう不安定に
なってしまう。
>>670 大阪城に豊臣恩顧武将がつめかけるだろう。
そして徳川は反逆者として滅ぼされる。
そもそも豊臣恩顧武将の力を借りずして
どうやって西軍に勝利するのか。
674 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:22:27
>>670は気でも狂っているのか?
もし豊臣恩顧武将がいなかったら、
徳川は関ヶ原で楽々負けて江戸城まで西軍に
進まれて謀反人として滅ぼされているだろう。
>>669 小早川の宗家はそうだよ。
とうに豊臣に養子送られて乗っ取られてる。
小早川家自体が元々、毛利の持ち物でも何でもなく
毛利元就が強引に養子を入れて強引に乗っ取っただけだから因果応報だろう。
676 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:29:47
豊臣は平氏を名乗っていたから征夷大将軍になれなかった
徳川家は源氏を名乗っていたから征夷大将軍になれた
豊臣は平家のごとく滅び
徳川は源氏のごとく豊臣平家を滅ぼし幕府を開く
歴史の因縁を感じる
もしも秀吉が源氏を名乗っていたら大坂に幕府を開き
歴史は大きく変わっていただろう
と言って見るテスト
677 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:36:37
豊臣になった時点で、源平藤橘のいずれでもない豊臣朝臣なんだが。
678 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:37:53
679 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 21:40:52
>>676 関白>>>>(決して超えられない大宇宙)>>>>征夷大将軍
ですが何か?
当時はセイイ大将軍だの幕府だのは
室町幕府の弱体なイメージからダサダサのブランドだった。
さらに言うと鎌倉幕府も三代で源頼朝直系が耐え、
執権の北条氏が実験を握り京都から名ばかりの将軍を招いた。
江戸幕府というのは実は幕府や一代限りではないセイイ大将軍の、
最初の成功例と言えるものなのだが。
それゆえに秀吉は管位の極位である関白を取り
新しい形の政権を模索した。
そしてそれは少なくとも秀吉が生きている間は成功した。
>>676 ちなみに鎌倉幕府というのは基本的に平家政権。
三隊で源氏は滅び。
あとは平家の一派である北条家が政権を握った。
というか平家を名乗ったのは豊富ではなく織田の筈だが。
682 :
681:2005/10/15(土) 21:49:00
三隊→三代
豊富→豊臣
>>681 とぅわしか藤原とは一時名乗っていたような気がする。
一時平家を名乗ったかどうかは不明
684 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 23:50:01
関ヶ原裏事情
--------------------------------------------------------------------------------
三成「西軍に味方して下さるなら拙者の愚息を馳走しよう」
秀秋「ぎゃあああっ!しっ尻が裂けるうっ!?」
三成「ふんっ!ふんふんっ!!」
秀秋「痛いっ!痛いーっ!!うっ動かないで・・・っ!!」
三成「まだまだこれからじゃ!ふんふんっ!!」
秀秋「ぎゃあああああっ!!」
よかれと思って催した宴でのこの馳走が、のちに禍根となって三成に襲い掛かることになろうとは…この時の彼は知る由もなかった。
685 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 00:02:37
秀吉は最初、主君の信長にならって平氏を称した。
その後、関白になるとき、近衛家の猶子となり藤原氏を称した。
明の国書などで秀吉のことを平秀吉と書いてあるのは、そのため。
>>686 >ちなみに鎌倉幕府というのは基本的に平家政権。
平家政権ではない。平氏政権だ。
平氏……桓武天皇の子供高望王を共通の祖先とする一族のこと。
伊勢平氏、東国では北条・千葉・三浦など。
平家……平清盛とその親族によって構成される一門のこと。
わかりやすく言うと、「平清盛一家」とか「平清盛ファミリー」とか。
徳川(松平)も元々源氏じゃなかったような気もするが
>>684 金吾はタチだろうね。伊達家の人間を追い回したぐらいだから。
>>687 名乗った者勝ちって聞いたけど、多分違うんだろうな。
689 :
関白太政大臣正一位豊臣秀吉:2005/10/16(日) 00:32:28
なんか俺に文句あるやついる?
690 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 00:59:45
>>686 違いがあるとは知らなかった
勉強になるなあ
692 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 03:00:37
平家とは、「平(たいら)」の姓を持つ一族のこと。
特に、平安時代末期に隆盛を誇った平清盛の一族(桓武平氏のうちの伊勢平氏)を指す。
蒲生氏郷が生きていれば全く違った展開があったろうに残念だ
氏郷自体が天下を狙っていた可能性も否定は出来ないが…
三成の讒言による毒殺というのが本当なら、共通の伊達や徳川嫌い仲間を
潰したことになる
>>693 毒殺な訳ないじゃん。それが可能なら
真っ先に家康とか伊達を殺ってるだろ。
家康は藤原→源と替えてます
696 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 11:59:47
>>686 >>平氏……桓武天皇の子供高望王を共通の祖先とする一族のこと。
高望王は桓武天皇のひ孫ですよ
>>695 確か家康は源→藤原→源だったろ。
もともと源氏を自称してたのを官位のために藤原に変えて
その後吉良の系図をもって再び源氏の系図に戻したはず。
まちがってたらスマソ。
698 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 12:31:34
大河ドラマの秀吉だと、秀吉が征夷大将軍になりたくて
足利義昭に養子縁組してくれと強要していたな
当時の秀吉は将軍になって大坂に幕府を開きたかったのでは
朝鮮征伐の頃には明の王になりたいとか言ってるから
将軍になる気など失せたとは思うが
そもそも最初の征夷大将軍は源氏じゃないだろw
なんとなく出来上がった慣例なので、破るのは簡単。
氏素性に変にこだわりすぎてるのが面白いw
信長あたりは、官位を断るようになっていたから、既存のものでない
新しい物を望んでいたと思われ。
氏に関係ない、天皇に次ぐ権限を持つより強固で安定した(世襲に際して)
織田家専用の官位を遠まわしに要求していたように見える。
愚かな足利将軍を見て、征夷大将軍職なんか欲しいと思わなかっただ
ろうw
合理主義の信長にしてみれば、二度政権が壊れている征夷大将軍の
権限では安定は得られないと思っていたのではないだろうか。
合理主義者だから、「平氏姓でも征夷大将軍になっても問題ない」とは
思っていただろうが、「征夷大将軍では地位が低すぎ」とも見ていたような
気がする。
信長が長生きしたら、秀吉に与えていそうな役職だw
700 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 13:11:23
征夷大将軍は親王、摂関家、源氏
誠意大将軍は羽賀氏
なんちってw
>>699 漏れは信長は世襲なんてこだわってなかったんじゃないかと思う。
おまいの感想などどうでもいいわけだが
703 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 18:54:48
>>699 >>701 俺は信長は天皇に、
もしくはそれ以上の位に就こうとしてたんじゃないかと思う。
そういや信長は確か暦の変更も願い出てなかったっけ?
一体全体何を根拠に?
毛ほどの利益もないスレ
>>703 なんか織田信長は中華皇帝になろうとしていたとかいう説をちらほら聞くけど
それのこと?
確かに天皇とは日本という国土に不可分に結びついてるわけで
信長も大明征伐とか考えてたそうだし、実際大陸計略や海外進出して
大帝国にできれば、帝国の皇帝として全体の権威になるのは織田家だが
天皇は日本の権威に留まるので間接的に天皇を超える権威になる
とかいう説だよね。
707 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:28:58
前にも言った通り「征亥大将軍−幕府」なんて機構は
過去に二度行われたがポシャッただけのものでしかなく、江戸幕府−徳川将軍家が最初の成功例である。
現代人が秀吉や信長が「征亥大将軍−幕府」を模索していたなんて決めつけるのは
江戸幕府の成功を見た後知恵からくるものでしかない。
708 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:30:51
秀吉は国際的には明の皇帝の臣下と自覚してたでしょ。
>>708 根拠ないぞ。
だいたい、その理屈なら何で明と戦う。
711 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 20:02:27
>>712 元号を変えるのは、時代を支配する、王の特権。
日本がいまだに元号を使っていることには、独自文明を主張する意味もあるわけで。
システム屋にとってはウザったいことこの上ないが。
元号の変更を強要したんでしょ?>信長
信長が変えた訳じゃなし、んな事は、今までの権力者はやってる
前例ないのが、三島暦?の導入を主張した事では?
715 :
大和天狗:2005/10/17(月) 01:15:57
今、不破の関の様子はどんなものだろう。
思い出すよ、20年程前に寝袋もって野宿したんだ。
独りで寒かったけど、楽しくもあり切なくもあった。
716 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 10:28:01
それは違うのでは?
豊臣の所領は彼方此方に小さいが価値あるのがあった。
家康は知らん顔して、
「褒美だ」と豊臣家の小さな所領が入っている領土をそのまま武将たちに与えた。
豊臣は怖くて文句が言えず、気がつくと六十五?万国にされていたのでは、、、
717 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 10:35:17
>>654 いや、その信玄の戦勝記録を知っていたから、
三成は、あとを追えばわなに掛かるとして
関が原に急いで先回りしたのでは。
もちろん、そのために兵は疲労し、さらに逆茂木などで陣地をつくるのに
また披露し、逆効果になったようだが。
ソースはNHKだが、、、
NHKは松平というアナウンサーがいるから、家康万マンセーの内容しか
しないよ。
>>717 逆効果ではないね。
現に東軍は西軍の陣地を攻めあぐねているのだから。
>>718 こないだ三成に好意的なことやってたよ
まぁ家康を悪くは言ってなかったけど。
721 :
大和天狗:2005/10/17(月) 11:48:17
ムウ総理
今日という日に参拝か
722 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:15:28
>>717 秀吉存命中にすでに関ヶ原は
東から攻め上ってくる軍勢を阻止するための要衝の一つとして
位置付けられていたようだよ。
西軍が布陣するよりもずっと前から、要塞化が進められていたらしい。
”ようだ”とか”らしい”とかいわれてもな
724 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:44:55
小早川が布陣してた松尾には要塞化の跡があったやん
>>724 伊藤が石田に追放されてから、シコシコ造ってた。
藤古川上流、岩倉山にかけても陣跡が確認されている。
東軍の追尾が遅れたり、西軍の後詰が到着すれば、東軍は関ヶ原から
先には進めなくなっていたと思われる。
東軍は絶妙のタイミングで関ヶ原へ移動する西軍を追尾し、決戦に持ち
込んだといえるのでは?
戦いを嫌がっていた家康の尻を叩いて、無理に戦いに持ち込んだのは
福島正則だが、西軍の探査を行っていて西軍転進をいち早く福島正則に
報告した祖父江法斎という武士は、関ヶ原後、家康が正則に頼み込んで
青山家長と名を変えて家康の旗本になった。敵情偵察による情報が、戦局
を左右したのだろう。
松尾山には昔から城があった。
別に関ヶ原での戦いに備えて築城されたわけではない。
つか、松尾山に限らず、交通の要衝に城があることなど珍しくない。
松尾山城は廃城だったと書かれてるじゃん。
それを伊藤が三成に大垣城を譲ったので、替わりに松尾山城改修命じたんであって
秀吉が云々というのは違うだろうに。
>>728 新城の遺構調査の結果、旧城とは時代特徴も規模も違うので
関ヶ原の際に大きな工事がされたと思料されているのだが。
731 :
日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:23:02
>>711 関が原当時の徳川は家康五十九歳、
関八州、二百五十五万石、
だいたい゛無理のない兵力動員は一万石でニ百五十人です。
しかし、全て国外に出せるものではなく、防衛の兵も必要です。
石田三成は三十九歳、近江佐和山十九万石、
七千という兵力は、殆ど全ての動員力でしょう。
しかも家康と比べて、実戦の経験があまりない、、、
太閤への義がなければ、まずやらなかったでしょうと、、、
義というか、もうどっぷり豊臣派なんだよな。
政権支えた一人が単身、徳川に組み入れてもらおうなんて頭がまわらない。
そんな三成が邪魔なのは明らかだし、義が無くなったとしても戦わざるを得ない。
秀頼があの時点で25くらいだったら流れは全然別のものになっただろう
>>731 二千八百人残しているのだから、全力というわけではない。
それに何故か四国の赤松という大名も佐和山に応援に入っていて、籠城戦
にも参加している。
三成は豊富直轄領の代官もやってるから、19万石+7万石で
実際は25万石相当の動員能力があった。
三成の領土+父兄の領土=22,4万石
三人役で6720人
>>731 それは単なる指標でしかない
1万石当たりの動員兵力なんて実際には各家各土地で千差万別
土佐の長曾我部家のように動員数を増やすために一両具足制度なんてものを
作ったところもある
通常は全知行の内、賦役免除を除く分に対して
>>735のように三人役とか指定がある
合戦によっては戦地までの距離などにより賦役人数を増減していた
737 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 08:42:58
かなり無理をすれば一万石で四百人ほど動員できたらしい。
それと三成は金を貯めていたからいっぱい傭兵を雇える。
何万石で何百人というのはあくまでも目安。
基準としては250人とか300人とか数字が出てくるけど、
400人や500人の動員も可能。
ただし大量に動員すればするほど、長期遠征や遠隔地への遠征となると
当然財政を圧迫することになる。
>>738 北條が豊臣との戦いで、領内の招集できる十五才から七十才の男子
全てをかき集めて、十七万人だった。
740 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 10:55:16
しかし、その大量動員の場合、兵の質は?
ちょっと聞いたんだが、兵、軍隊というのは前後に動かすだけでも、
かなりの訓練期間がいるとか。
大量に動員しても役に立たないのでは、、、、
ちなみに関が原のとき、家康の軍隊の質というのはどの程度でしたか?
>>740 北條は籠城戦だから、軍隊としての機動は殆ど必要なかった。
>>741 に追加。
あの当時の老人は殆ど実戦経験はあっただろう。(動けるかどうかは別にして)
この北條の数字を単純に割り切ってみると(単純に割り切れないものだが強引に)
数字としてはほぼ7人役相当で、無理に振り絞ってもこれがだいたいこの程度が限界と思われる
744 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 11:12:03
質の低下はあるだろうね
ただ数が多いというのは、一つの利点
絶対ではないが
745 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 14:57:37
>>739 老人や実戦経験に乏しい人間を必ずしもバリバリ戦う兵士にしなくてもいい。
雑役などの支援任務につかせればいい。
仕事はいくらでもあっただろうし、人間はいればいる程よかった。
家康は三成の謀反を予想済みで上杉討伐に向かったなんて考え方したら
家康方は殲滅戦向きの精鋭になる
予想はしていたでしょ。。
予想外なのは、西軍の顔ぶれが名目上は大軍になった事。
家康をして「これって、俺が嫌われてるって事?」って感じだろw
宇喜田・毛利・島津なんかは、まさにそのノリ。
「豊臣恩顧」は表面上で、実際は「家康嫌い」なだけ。
ただ宇喜田以外は、東軍の顔ぶれを予想外と見てやる気をなくした。
宇喜田は、親しい高台院の徳川寄りの好意的中立な姿勢から、西軍
不利を承知しながら、反徳川の意地を通した。
家康は、三成の人望のなさから「毛利・島津は挙兵せず傍観」程度に
しか見ていなかっただろう。(両家外れるだけで、それを見て西軍に回
らない家も多かろう)
毛利・島津は、高台院周辺で徳川方に回るものを予想していなかった。
三成挙兵は予定通りだが、両軍の陣容は双方とも思惑と異なるもの
になった。
そんな程度でしょ。
>>688 > 金吾はタチだろうね。伊達家の人間を追い回したぐらいだから。
追い回した相手を考えると、タチと言うより獣姦趣味があったのでは?
750 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 20:17:45
751 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 20:45:00
>>747 妄想君じゃないのなら以下の一〜七のソースきぼんぬ。
一、>「豊臣恩顧」は表面上で、実際は「家康嫌い」なだけ。
二、>ただ宇喜田以外は、東軍の顔ぶれを予想外と見てやる気をなくした。
三、>宇喜田は、親しい高台院の
四、>徳川寄りの好意的中立な姿勢から、
五、>西軍不利を承知しながら、反徳川の意地を通した。
六、>家康は、三成の人望のなさから
七、>「毛利・島津は挙兵せず傍観」程度にしか見ていなかっただろう
752 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 21:42:59
>>747 宇喜多がどうこうのくだりがさっぱり意味がわからない。
>宇喜多は親しい高台院の徳川寄りの好意的中立な姿勢から、西郡不利を承知しながらも反徳川の維持を貫き通した。
なに?
ようするに秀家が親しかった高台院が徳川寄りだったので、
それに嫉妬して西軍として戦う決意をしたという意味?
知り合いのオバチャンが徳川と親しかったのに嫉妬して、西軍として戦うって、
凄い幼児性を持った男だったんだね。秀家って・・・・
そもそも、そんなつまらない動機で西軍につかれては命を掛けて戦った宇喜多い将兵も浮かばれない、
関ヶ原の軍議で諸大名が小早川秀秋かぜ裏切るのでは?
と騒いでいた時、
秀家は「そんな事は絶対ない、わしは秀吉様の養子で豊臣を裏切る気はまったくないし、
あいつもわしと同じ秀吉様の養子なので絶対に裏切らない」と一笑にふしたという。
諸大名は「秀家殿はおめでたいお方だ」と陰口を他帯という。
おそらく秀家は西軍不利さえ自覚していなかったろう。馬鹿な男だしな。
家康さん、内応した相手が秀家じゃなくて良かったな。
もし秀家だったら発砲した瞬間に東軍に突撃だよ。
秀秋でよかったな。
755 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 23:31:47
三成、秀家、行永らは軍事的には期待できない
大谷は行けるが、情勢判断は他人の目で行うしかなく、総大将としては機能できない
西軍はまともな指揮官がいない状態で戦闘に突入
756 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 00:09:37
>>755 そうでもないだろ。
三成はよくやったと思うよ。家康をあと一歩のところまで追い詰めた。
吉川が悪かったね。やつが西軍の作戦ことごとく妨害した。
毛利秀元、長曾我部盛親が家康の背後から襲いかかれば、
西軍勝利の可能性は高かった。
757 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 00:15:59
黒田如水は、息子の長政がほとほと阿呆だと思ったことだろうね。
黒田家が天下を取れる絶好のチャンスだったのに。
758 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 00:20:32
759 :
日史さん:2005/10/20(木) 00:38:52
あれは徳川にだまされてた吉川広家が安国寺軍の上に位置してたから
安国寺は動けなかったんじゃないの?同じ毛利家でも吉川と安国寺は
かなり仲が悪かったらしいからな
毛利が動けば間違いなく西軍が勝ったろうね
毛利だけでも大軍だし、なにより毛利が動けば小早川や長曾我部など
日和見決め込んでる大小名が西軍に加担するだろうから
四方を敵に囲まれた東軍は滅びざるを得なかっただろう
でも毛利としては動かなくて正解だったけどね
領地は減ったけど、西軍が勝っていたらどうなったか分からん
島左近は結局、戦死したのかどこかに落ち延びたのかどっちなんだろうな
>>756 家康は自分トコの軍勢はほとんど戦わせずに(島津追撃戦だけ)勝ったのに
あと一歩のとこまで追い詰めたとか
西軍に都合のいいIFを描いて東軍は史実通り動けば、そりゃどう足掻いても西軍が勝つ罠。
764 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 06:53:33
しかし、
>>747は痛いなあ・・・・
自分の妄想をこれだけ確信的に書ける奴はそうはいない。
「予想はしてたでしょ」だの「そんなもんでしょ」だの
相当、良く言えば独創的、悪く言えば奇異な発言をしているのに、
最後は軽く「そんなもんでしょ」で締めくくる精神構造がわからない。
765 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 08:04:51
>>755 石田は数倍の敵勢によってたかって攻め立てられながら長時間よく継戦したと思う。
崩れ立ったのも自陣の問題というより宇喜多・小西戦線の崩壊と島津の不戦が要因。
小西も目立った戦績こそないが後詰の無い中で4000程度では最低限の働きはした。
宇喜多は散々書かれているが、本来はいま少し攻撃的展開を期待したいところだが
侍大将クラスがあれだけ欠如してるなかで良くやった方かも。
西軍に勢威・声望ある大将がいなかったのは同意するが。
766 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 09:55:34
広家のあの起承文はさすがに彼らの胸を打ったのであろう。十月十五日になってはじめて、毛利に長門・周防二ヶ国を安堵すること、
輝元父子の身命の安全は保証することを認めた書状が徳川からもたらされた。
中国一円に勢力を張る毛利氏はいずれにしろ厄介な存在である。毛利一族の解体は家康が当初から目論んでいたことなのであろう
>>764 それほどかな。
>>747は、まあ根拠は薄いとしても妥当なとこじゃ無いかと思うけど。
後知恵では勝った側が全て見通してた様に見えるし、当事者もそのように正当化するけど、
実際にその時その場では、五里霧中で限られた情報を元に決断していくしかないもんだよ。
だからこそ、相手を意のままに動かす先制権・主導権や、不測の事態への柔軟性が重要になってくるわけで。
ところで、家康が小山で諸将にアジった時には、毛利の参戦は明らかになってたんだっけ?
768 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 11:01:19
>>766 これ以後、長州の侍は必ず江戸幕府の方角に足を向けて寝たそうです。
>>761 そういえば、島左近って、後に東軍の将がどんな服装していたか、誰も記憶していなかったんだと。
攻めてきたとき、あまりの恐怖に。
769 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 11:17:18
>>768 黒田家を去り虚無僧になった元家臣が記した「古郷物語」だな?
770 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 12:23:28
>>764 推測はいいけど、飛躍しているような気がするな
もうちょっと補足してくれればいいんだが
771 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 12:24:49
>>765 島津の不戦は、三成の責任
従って、島津を咎めることは出来ない
773 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 13:19:25
>>764 つーか
そのレスのレス付けた相手に合わせただけだろ
空気嫁ねー奴w
775 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 14:59:46
>>767 >>774 >>770 自作自演ご苦労さん。
何で宇喜多が「高台院が東軍寄りの中立だった」という理由で
「半家康の意地を貫く決意をした」とかいう事になるんだよ。
宇喜多はそんなくだらない理由で西軍として奮戦してたのか?
>>775 >>747をそう読むの?
秀家は、親しい高台院が東軍より中立で有ることを知り、
豊臣子飼い武将の多くが東軍に付く可能性を察知していたが、
そういった不利な状況にもかかわらず、反徳川の意地を通して西軍に参加した。
と読むのが普通だと思って、
>>752の解釈はスルーしたけど。
778 :
765:2005/10/20(木) 16:19:37
>>771 別に島津の不戦を咎めてるわけじゃないが…。
>>773 要は合渡川で島津が西軍の士気の低さと兵力不足から、夜襲を提案したが
石田から堂々の野戦で雌雄を決すべし、と青臭い意見をゴリ押しされて
武将としての威信を傷つけられた事と、同じく合渡川にて撤退する際に
最も最前線に布陣していた島津勢をほっといてさっさと自軍だけ撤退しよう
としたりした事が重なったってくだりじゃないの?
779 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 16:25:24
国語力が足らない奴がいると苦労するw
当事者も天下分け目の戦いは少なからず自認してただろうしなあ。
(歴史家的な評論での「天下分け目」でなくてね)
「家」への拘りって、血縁だけでなく家臣領民も含めてる場合、企業
経営者のような立場で考える必要があるから、どう動くかの思惑が
武将ごとに違っていて当然。
東西に分かれた中で更に細分化できるから、もろもろの思惑が絡み
合って結果的に一日で終わってしまった。
宇喜田秀家あたりはプライドで動いた気配はありそうだけどなw
内紛を抱えていてその清算も兼ねていたかもしれない。
小早川の裏切りは当初予定通りっぽいが、それ以外はその場の思い
つきでの追随っぽい。
ただ、「家」を抱えての判断だから、いい悪いは安易に判断できない。
「家」への拘りだけで見ると、秀家は執着していないように見えるな。
「徳川に下るなら、なくなったほうが良い」的な価値観で動いたように見
える。
西軍の各将が、真田親子のような野心で動いていたら精強だったろう
なあw
同じ「家」への拘りでも、真田親子は実に明確で、なおかつ野心に満ち
ている。
「どちらかに組するかを決したら、あとは二心なく生き残る事に執着する」
心意気には感嘆させられる。
結局両方生き残った。w(短期的にだけどね)
781 :
780:2005/10/20(木) 16:52:27
「生き残る事」に関しては、「真っ向から戦いに望んで武名を上げる」
前提での事ね。
「戦わない」とか消極的な意味合いでの「生き残る」意味ではないよん。
782 :
780:2005/10/20(木) 17:08:50
ごめん、もう一個付け加えさせて。
真田親子って、「どっちかが必ず生き残る為」に東西に分かれている
わけじゃないよね。
短期決戦を誰も予期できなかっただろうから、長期にわたって乱戦が
何度か繰り返される可能性もあったわけで、その場合乱戦のなかで両
家共に討ち死にの可能性も当然あった。
共倒れの可能性を理解しながら分かれた上で、全力で戦いに望んでい
るわけで、乱戦の中を生き残って武名を上げ領国の拡大を図ろうとして
いたように思える。
この取り組み方で望んだ武将は少ないでしょw
つ九鬼
>>779 漏れは国語なんて使わないから無問題。日本語なら使うけど。
未だに三成に対して人望がないとか言ってる奴は洗脳されてんの?
あれだけの規模の戦への参加を決定する条件項目に人望なんてあると思ってるのか?
たとえ人望が無いとしたところで、方法はどうあれ8万の軍勢を作ったのは事実だし。
三成が家康にせり負けたのは人望じゃなくて利害関係。
786 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 17:51:04
>>778 島津の不戦説自体が怪しい。
「二番備え説」もあれば、そこそこ戦っていたという意見もある。
あと夜襲を反対されたとかいう話しは証拠がない。
>>776 宇喜多が反徳川を貫き通したという理由で不利を使用値で西軍として戦ったねえ・・・
違うと思うよ。
小早川秀秋が裏切るとは思ってなかったような、お馬鹿で楽天的な宇喜多だから普通に西軍が勝てると思って参陣したんだろ。
787 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 17:52:22
>>775 一部自演でないと断定できるが?
(オレが書いたから)
788 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 17:54:47
>>781 生き残るだけなら、宇喜多・毛利・島津・長宗我部・・・・
789 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:01:28
なんか「西軍として戦った○○は西軍が負ける事を承知のうえで戦った」とか言う奴が多いが、
そんな個人の頭の中の問題を良くそんなに断定的に語れるもんだな。
西軍の連中のほとんどは反徳川とか太閣恩顧とか言うよりは
単に状況が飲み込めず右往左往してただけのように思えるが。
西軍についた奴は全力で勝つこと以外考えてなかっただろう。
むしろ、あそこで反抗してなきゃいずれは家康に牙を向けられるだろうから。
まぁ関ヶ原で家康の天下が早まったとも考えられるけど、仕方が無い。
>>790 むしろ状況を飲み込んだ奴が西軍なんじゃないか
東軍についた奴の方が大局見えてなくて、家康に巧く潰されてる。
利家が亡くなった時点で家康の脅威を感じた人間は西軍に付く。
793 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:18:01
>>789 それを言っちゃうと何も断定できなくなる
>>787 そうであったとしても。
第三者にも納得できる証拠が提出できない。
795 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:19:09
>>791 いや日和見の椰子が多かった
一方東軍は最初から戦意が高かった
796 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:19:57
>>794 確かにそうだ
しかし逆の証拠を提出できない
>>793 別に断定しなくても「私なりの仮説です」もしくは「私なりの考えです」で十分じゃん。
それなのに断定的にものを言いきって。
「そうかなあ?」と反論されると「あんたは間違っている」と馬鹿にしてくる奴にはムカつかされる。
なんか西軍はそれぞれの武将が個人の意志で勝手に行動してたという感が強い。
全力で戦う武将あり、傍観する武将あり、寝返る武将ありと、
一枚岩ではなく寄せ集めっぽいんだよな。
結局、それが三成の限界。
東軍もある程度はそうなんだが、
やはり家康が総大将として毅然とした権限があったと思われ。
799 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:39:02
>>797 断定はしてもいい
しなくてもいいが
問題は切れることでは
800 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:40:06
>>798 少なくとも、家康の率いた軍はまとまっていた
>>798 俺もそう思うよ。
妙なくらいに統制が取れている。
決戦の日に秀忠軍未着の失態にも動揺が少ない。
天下をとった部分は用意周到、美味しいとこ盗りした感もあるが、
それなりに奮闘して得たものだろう。
戦国を生き抜いてのし上がったのだから善人ではないよな。
醜い争いを生き残るのだから、好かれるタイプは残らないw
802 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:51:25
いわゆる、「いい人」では、今も昔も厳しいようで
三成は、一面、いい人だったと思う
大一大万大吉
>高台院が東軍寄り
まだこういう化石みたいな頭した奴が存在するんだな
805 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 21:19:47
小早川西軍説も根強いが?
806 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 21:55:20
807 :
大和天狗:2005/10/20(木) 22:27:51
フッフッフッ
808 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 03:06:36
家康に権限が合ったら秀忠が到着するまで合戦待つだろ。
徳川直属の部隊はほとんど秀忠が率いている。
秀忠に戦功あげさせる予定だったけど到着が遅れて
他の武将達に押し切られて合戦が始まったってのが実際の所。
そもそも家康は三成と戦うかどうか江戸で迷っていて
むしろ加藤や福島がはりきって主戦論だった。
そもそも三成の挙兵自体が家康にとっては想定外で
家康が三成の挙兵を誘う為に上杉討伐に動いたなんてありがちな説はありえない話。
809 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 03:49:45
今の時代でいえば
家康は地方実力社長で三成は都会大企業総務部長だと
だから戦にも差がでたってよ。
こんなことを以前TVでどこぞの作家が評していたぞ。
家康が勝つ→家康の天下
三成が勝つ→もう一度、戦乱に戻る
こういう違いはあるんじゃないか、西軍と東軍の統制や思惑の違いは。
東軍側は所領安堵、石高の増加が目の前にある。でも、西軍側は
勝ったとしても残るは加藤、福島、藤堂らの居なくなる、依然として足もとの
危うい豊臣政権と力を強める宇喜多、毛利、上杉。
西軍は三成をじめ戦う前から既に後が無いとかせっぱつまってる奴だしな。
いや、ただ福島パワーが強かっただけかもしれないけど
811 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 11:12:08
三成が勝つ→三成が暗殺される→戦乱に戻る
三成が勝った場合、7将を殺さないと安心できない
そうなると7将は死ぬまで戦うしかないな
812 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 11:15:28
陣形とか研究している人によると関が原の西軍の陣形は横に広がり、厚みがなく、そのうち破れるような陣形。
家康の東軍はなかなか厚みがあって、かなりの兵力がないと家康の本陣は崩れないそうな。
三成が、こういう厚みのない陣にしたのは、やはり毛利、吉川などが背後をついてくれるという信頼があったと見るべきとか。
とすると、石田三成哀れ、、、戦の最初から企画間違い。
813 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 11:39:44
>>812 最初から兵力的に劣性だから仕方ない
あの条件としては、頑張った方
まあ楽天のスタメンみたいなものか・・・・
巨人の投手陣とかw
814 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 12:28:44
>>812 西軍のあの布陣を見てどこかの国の偉い軍人が
『西軍が勝ったのは間違いない』
て言ったんじゃなかったっけ?
あくまでも布陣だけ見てだけどね。
つか、関ヶ原の時点で西軍に勝ちはないと思うがね。
これは戦意の問題な。
それ以前の清洲や岐阜での戦いにも目を向けたいものである。
816 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 13:10:15
>>814 帝国陸軍参謀本部に教官か何かで来日してたプロイセンのメッケル少佐かな。
>>812 ちなみに三成は意図してああいう布陣になったんじゃないだろ。
金吾はもともと布陣してたヤツ追い出して松尾山に布陣。
毛利・吉川にしても野戦で敵勢側面に展開してんのに進退に不自由な南宮山に布陣…。
東軍は西軍が先に関ヶ原に布陣完了した後で関ヶ原入りしたから自然にああいう布陣
ってところではないか。
池沼気味の金吾が徳川方から鉄砲を撃ちかけられたのに驚き
大谷勢攻撃を開始した事になってるようだが、池沼気味だと「家
康に見限られた。西軍と心中だぁ〜!!!!」と東軍めがけて突
撃した可能性もあるなw
用意周到な家康にしては危ない方法だねえ。
「西軍の戦力を幾分か減らせていれば、豊臣恩顧の福島・藤堂は
押されて壊滅しても構わない」などと家康が考えていた場合、鉄砲
を撃ちかけたのは合図の為の予定の行動って勘ぐりも出来るな。
家康がイラついていたのは演技で、「福島・藤堂見殺し」の意図を周
囲に悟られないためだったりしてw
秀忠の軍勢がいないから、必要な戦力なので壊滅前に裏切りを指
図したのかと思ってしまう。
関が原の頃は藤堂の信用も万全じゃなかったから、「福島や藤堂の
有力な家臣が何人か討ち死にしてくれたほうが徳川家には安心」な
わけで、金吾が優柔不断だったわけでもない気もする。
後年加藤清正の急死の件もあるし、金吾の場合発狂死ではなく暗殺
の可能性も高いね。
「合図するまで動くな」って命令だったとすると、金吾ルートで「福島・
藤堂見殺し」の意図が露見してしまうので、口封じする必要性もある。
何人か不審な死を遂げると警戒が強まるから、延々暗殺が続く事も
ないだろうし、暗殺があったとすれば清正・金吾あたりが暗殺なんじゃ
ないかと思ってしまう。
>>817 関ヶ原に戦場を設定したのは西軍でしょ。
家康から待てのサインが出たとすれば当日しかない。
家康は西軍を甘く見て、自軍だけで踏みつぶせると考え、
小早川が動かなければ毛利同様取りつぶしの対象にできるから、あえて無視してたんじゃないの?
伏見城など、小早川には西軍として行動した罪責もあるし。
当日、西軍が意外に善戦し、小早川が勝敗の鍵を握っていることに気がついた。
しかし下手に依頼すると、却って東軍の不利を曝すようで、西軍に流れる可能性もある。
そこで、あえて強気に出て、
このまま日和見にとどまるなら三成と同じく踏みつぶす、という脅しをかけたのだろう。
819 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 19:24:34
最初から東軍になってしまうよりは西軍として行動しタイミング良く裏切ってくれた方が戦術的には有利だからね。
家康は日和見組が西軍として行動してた件には黙認してたと思うよ。
820 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:30:42
>>818 最後以外同感
軍使を送ったりして依頼するよりは脅した方がてっとり早いと考えたのでは
>>812 つうか陸戦は大昔から包囲した方が勝ちなんだが。
あんな離れた位置で、合戦の最中に鉄砲の音など聞こえるのだろうか?
撃ってる姿も気付かれるのだろうか?
甚だ疑問ではある
823 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 03:30:55
鉄砲の話しは俗説だよ。
824 :
金吾秀秋:2005/10/22(土) 04:55:31
実は、寝返りも俗説なんだぜ(´・ω・`)
825 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 05:39:30
包囲はしていない
それにやる気はない
827 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 09:51:26
>>826 禁止用語は使うな!!
>目の不自由な人か?
と言え。
IQ 三成>>>>>>>>>>>>>>>>>>>家康
世渡り 家康>>>>>>>>越えられない壁>>>>三成
IQだけでは政治は出来ないってことだな
渡る世間は鬼ばかり
三成が関ヶ原を戦場に設定したのは、大谷隊との合流だけではなく、
そもそも兵力的に日和見組が加わらないと勝てないし、
日和見組の近くに戦場を設定して、東軍に彼らを攻撃させれば、
彼らを強制的に西軍に参戦させることになる・・・という読みだったのかも。
一方、家康は調略の効果を安心しきっているから、関ヶ原で戦うのに不満はない。
両者合意の上での選択だったと言えるのではないか。
830 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 13:45:10
831 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 13:46:21
関ヶ原を選んだのは三成
そこで決戦しようとしたのは家康
832 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 14:20:19
西軍、東軍にはっきり分かれていたのではなくて
参戦し陣だけ構えて優勢な方につこうという魂胆だったのでは
プロレスのバトルロイヤルみたいなもんだろ
833 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 18:47:40
小早川は鉄砲でなくて参戦したのなら
なんで参戦をしたのだろう?
自らの決断?
大谷陣内からの発砲
835 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 19:12:09
じゃあ大谷が戦犯?
>>833 そりゃあ、ずっと前から内応しているし、
伏見攻めの直後に家康に対して謝罪の書状を送っているくらいだから、
大本は自分の意思だろう。
837 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 14:11:19
>>836 だとすれば、俗説通り、MVPは小早川か
前々から思っていることなんだが、
金吾の代わりに立花連れてこなかったのが悔やまれる
連れて来たのではなく、小早川は勝手に来ただけです。
840 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 18:10:09
伏見以後は、小早川は言うことを聞きませんでしたが何か?
841 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 19:59:29
勝手に松尾山の西軍の守将を強引に追い出して居座って
この時点ですでに裏切り確定してると思う。
西軍が兵力豊富ならとっくに攻めたてられてた筈。
こんなのを見方として計算しなくてはいけないんだから、
我々が思ってるよりずっと西軍は静寂で
東軍の圧勝だったように見える。
>>839 いや、あいつに大津城攻めさせてその代わりに立花を関ヶ原に、ということ
843 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 23:14:53
金吾中納言の振る舞いはほんとに不愉快だな。東軍の目付役に飯喰わしてんだから。所詮かざりものだからな。
844 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 23:40:55
>>842 いやだから、どうやって大津を攻めさせるのかと
845 :
大和天狗:2005/10/24(月) 00:04:54
イタコに聞くしかない
弟子よ
お前行ってこいや
これだけは聞いて来てくれ
光秀に理由は何だ、と
>>844 普通に大津攻めを仰せ付けるの。
金吾も関ヶ原以前に決定的に反西軍的な動きはできないだろう
>>843 内政面では結構優秀な方だったんだけどねぇ。
848 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 00:54:56
>>846 仰せつけても言うことを聞かないのだが?
849 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 01:17:02
>>846 小早川は伊勢攻めを仰せつけられていたのだが?
850 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 02:10:04
若武将、小早川もね大変な陣取りしてたね。
双方向かい合わせの間に陣取りするとはね。
851 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 06:50:48
毛利は誰が先鋒だったら参戦していたのかね?
852 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 08:59:09
>>847 内政は小早川秀秋自身というか
秀吉につけられた家臣が優れていたのだが。
金吾は朝鮮での武功を咎められて根に持ってたのか?
蒲生が信長に叱責された逸話のパクリであることくらいは
近臣に教えられたんだろうけど、参考にならなかったかw
「俺は豊臣恩顧じゃない!!」
854 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 10:30:25
小西行長だったか島左近だったか、
「夜討ち」を三成に進言したけど採用されなかったとか。
その夜討ちですが、勝つ見込みはあったのかな?
家康到着の時点では、かなりの大軍、夜討ちというのは利くのだろうか?
>>854 その逸話自体が史実かどうかわからない。
856 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 11:05:53
決戦日が延びて秀忠軍到着
こう着して長期戦に?
857 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 12:37:01
858 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 12:38:54
島津の夜討ちか?
島津は秀吉の九州征伐のときに夜討ちを企んだが秀長に蹴散らされた。
夜討ちをやるのにも技量が必要。
ただ勇ましく夜討ちを主張しても、技量が無ければ成功は覚束ないね。
相手も案山子じゃないんだし。
>>856 秀忠が着く前に京極攻めてる立花なんかが来るのが早いだろうな。
秀忠が到着しても時間がたてば丹後攻めてる連中も来るだろうし、
まあそのころには前田も越前にまで来てるだろうが
861 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 18:27:03
岐阜、犬山が西軍になった時点で三成は犬山まで軍を進めなかったのだろう?
兵站は伸びるが伊勢方面の軍とも合流しやすく、東軍が着たら織田や美濃
の小大名を合わせて対抗できるし、来ない間に美濃伊勢方面の東軍方を
誘えるとおものだが・・・
862 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 18:51:12
>>858 利かない利かない。
ましてや当時の夜なんて真っ暗だから
同士討ちの可能性が高い。
単独勢力の軍なら方言とかで仲間を見分けやすいが
西軍みたいな寄せ集めでは同士討ちするだけ。
>>861 どう見ても伊勢方面とは合流しにくくなるし、
そもそも兵力にそんな余裕はありません。
864 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 19:32:04
結論、秀信がもっと頑張ればよかった。
つか、補強しろよ三成。
>>864 いや、したし。
あの時点での情勢であれ以上の増強は無理。
逆に大垣がもろくなりすぎてしまう。
岐阜城落城の時点ではまだ宇喜多も来ていないし、
西軍は美濃方面における西軍は単純に兵力不足だったのよ。
866 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 21:37:31
つーか、三成ってなんであんな愚図なんだろう?
清洲城は放置するし、岐阜城は見殺しにするし。
もうアホ杉。
867 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:05:04
>>862 利く利く
東軍が同士討ちでウマー
西軍も寄せ集めだが、東軍もだが?
868 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:05:57
>>865 つか、ちゃんと守ってれば大丈夫ってことだろ
逆にもっといても撃滅されては同じ
869 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:06:57
870 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:12:13
つかつかってウゼー。
しかも内容希薄。なんか意見かいたらどうよ。
871 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:17:14
872 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 22:59:24
美濃方面軍だけでも清洲を攻めたら福島だけがすっ飛んで帰ってくる
から、そこで叩いて壊滅させれば他の東軍方の大名はかなり動揺
すると思われ・・・
873 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:00:37
欧州の軍人も関が原の合戦当時の東軍と西軍の配置を見て、石田光成方が勝利していたはずだと断言した。
つまり石田の戦法は戦略理論的には実に正しいものだったわけだ。
しかし戦略理論通りに動くわけがないのが実際の戦争でね。
結局のところ、武将よりも官僚として才幹をふるってきた石田光成は、与えられた命令を成し遂げるのは実に上手かったし。
秀吉の懐刀として辣腕を振るう分は頭がいいぶんだけ実に優秀だった。
理論どおり忠実に戦略を練って作戦を遂行した、そこまでは非常に優れていたが、実際に人心掌握は出来る器ではなく
治家としては対抗馬の徳川家康の足元にも及ばなかったわけだ。
875 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:06:20
>結局のところ、武将よりも官僚として才幹をふるってきた石田光成は、与えられた命令を成し遂げるのは実に上手かったし。
>秀吉の懐刀として辣腕を振るう分は頭がいいぶんだけ実に優秀だった。
>理論どおり忠実に戦略を練って作戦を遂行した、そこまでは非常に優れていたが、
忍城での大敗
876 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:40:43
>>867 いや何でそんな都合の良い事ばかり言うのか?
結局、効くかもしれないし、効かないかもしれない。
実際、島津でさえ秀長軍相手に失敗する程、難度の高い夜襲だしさ。
博打性の高いそんな戦法は取らないのが賢明。
西軍が負けたのを知ってる現代人だからそんな事言えるだけ。
もしも夜襲が失敗して西軍、総崩れになってたら、
あんた夜襲なんかじゃなくて正面攻撃なら勝ててた。
と言ってただろう。
>>869 別動隊の池田のボケかとちっただけ。
「豊臣がけちらされた」と言うのは無理あり。
>>873 別に意図的にああいう陣形になったわけではないし、
石田が指揮・計画・立案したわけでもない。
だいたい石田は毛利に対して「あんなとこに陣取ってどうするんだ?」と抗議している程。
さらに松尾山に小早川が西軍の将を追い出してはいるなど、むしろ失敗。
877 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:50:53
878 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:52:26
879 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:53:22
それを言うなら、一部が負けただけとかなってしまうが?
いや石田が指揮立案していただろ
誰が指揮していたのか?
881 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 00:06:17
>>876 島津でさえって、失敗例だけあげて、失敗すると主張するのは均衡を欠くだろ
博打性が高い?
当時の合戦がどうだったのか知って言ってるいるのか
もし夜襲が成功していたら、夜襲すべきだったって言うんじゃないの?
882 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 00:18:25
大坂で秀頼は負けて無くて浪人が負けただけかw
883 :
大和天狗:2005/10/25(火) 00:41:58
で、何時イタコに聞きに行くのだ?
津軽は寒いぞ、疾くせよ!
オッ★
弟子よ、
鞍馬が嫌なら潮来天狗にするか?
884 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 00:48:45
戦場で敵味方の区別ってどうやってつけるの?
情報量が極端に少ない時代に末端の兵士が
どれが東軍でどれが西軍なのか区別がつけられるのかね
大軍が入り混じって戦ったら
あやまって味方を攻撃することだってありうるよな
885 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 00:55:04
合い言葉とか、色々
ちなみにWW2だって現代だって同士討ちはあるよ
まあ昔の方が可能性が高いけど
旗背負ってる
887 :
大和天狗:2005/10/25(火) 00:59:41
イヤー過去スレ読むと、
我が弟子は師匠の俺様に完膚なきまでに叩きのめされているなー。
まるで西軍の様にだ。あそこまで言われれば、涙も出たことだろう。
いい修行になったとは思うが、チト可哀相過ぎたかも試練。
そういう意味では我が弟子は強い。何せ懲りないからな。
しかし、懲りる懲りないは別にしてだ、
最近は少し変わってきた様にも思うがどうであろうか?
888 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:35:26
戦略の常識として、攻める側は守る側の三倍以上の戦力が必要とされている
しかし歴史上、実際に三倍以上の戦力で侵攻を開始した例は少なく
それでいて三倍の戦力があったからと言っても、必ず勝てたわけではない
むしろ歴史上の戦争を見れば、三倍の戦力が侵攻軍にあっても逆に負けた例だって少なくないのだよな
結局のところ、戦いを決定するのは戦力差だけではないってこと。
組織力や戦力それに補給などいろいろな要素が絡んできて、そしてその要素の中で一つでも綻びがあれば負ける。
関が原の合戦の勝敗もそういう面で見る必要がある
889 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:49:41
>>881 名将家康が指揮してるし。
西軍には裏切り者もいるから、動きは筒抜けだろう。
ちなみに関ヶ原の布陣直前に
宇喜多軍後尾の小荷だ隊と福島軍が行軍中に重なって、
気づいた福島軍が蹴散らす局面があった。
宇喜多の動きなど目の前の福島にバレバレ。
890 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:50:15
三成は馬鹿ではないが戦場の機微は理解していなかった
硬直化した考えしか持てなかったのだろう
人間万能でないのだからやむをえない
しかし島津が三成のために戦う気を失ったのも当然かと
891 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:51:40
>>889 その論理だと、野戦しても負けることになるが?
892 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:52:25
名将とか言ってる時点で三戦厨臭さ満点
ガキは巣に帰れ
894 :
大和天狗:2005/10/25(火) 11:15:02
名将?俺様が?
当たり前だ
895 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 11:33:31
家康が大垣城の西軍を無視して西進したよね。あれは大阪城を狙ったのかな。
しかし大阪城は天下の名城で、そう簡単には落ちないよね。
つうことは三成は、あとから軍をまとめて家康の後方を断ち、補給と秀忠との連絡を断って、あとからぞろぞろついていき、
大阪城か、どこかの城を攻めることになるだろう家康の背後をつくとか、の挟み撃ち戦術。
そんな戦法はとれなかったのかな?
896 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 11:55:19
大垣籠城がいいだろ
そこから相手の出方を見る
897 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 13:16:00
>>895 無理。途中に佐和山城がある。
三成のような小人が自分の居城を危険に晒すわけが無い。
だからこそ東軍は「大坂に向かう」という流言を飛ばして三成を誘き出そうと企てた。
そして三成はまんまと引っかかった。
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城
家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八
のパクリ。
どちらも同じ趣向に間違いないと思うが、表面上の意味と
は異なる意味合いがあると思っている。
二つのうち一つは、さほど良いものと評価してあげている
わけではなく、もう一方を褒めるために引き合いに出してる
ものだと思う。
「佐和山城は名城というほどのものではないが、三成の居城
にはもったいなく思えるものだ。その程度の男に何で島左近
のような結実した人物が仕えているのだろうか。」
と言った感じと思う。
家康の場合は、本多平八郎忠勝を筆頭核に上げているだけ
で、意味合い的には家康の家臣団を指し、「唐の頭と言っても
誰もが欲しがるほどの名品ではないが、家康のものとしては
もったいない。二流品がもったいなく思えるような男になんで
有能で豪傑な家臣団が盲目的で実直に付き従ってるのが不
思議でならない。」
そんな感じ。
三河武士団の異常なまでの忠義心と強さが、家康が勝ち残
った最大要素だろうな。
三成の場合、島左近一人では「勿体無い」だけで終わってし
まった(w
899 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 15:48:36
しかし、こんなに堂々且つトウトウと俺様主観を並べられるとある意味壮観だね。
石田三成が東軍に寝返れば西軍勝利。(w
901 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 16:32:00
佐和山は本当に堅城なの?
実績が無いが検証は?
>>901 磯野が半年粘った、その時も城は落ちたのではなく援軍が来ないため磯野が開城した
元亀の話だがw
磯野ってあの波平のご先祖の?
904 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 20:55:32
家康が寝返れば勝っていた!!!
905 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 20:59:59
>>901 名城じゃないか
意外と早く落ちているが、騙し討ちの気も
906 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 21:08:53
>>900 家康が三成をアンチ三成に引き渡しておしまい
907 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 21:54:30
そもそも三成って騒乱をおこして佐和山に蟄居させられた犯罪者の身なのに,
何で大老の宇喜多を差し置いて大将ヅラしてたの?
ひょってして西軍って、石田と、毛利、宇喜多を筆頭とした石田に臣従する大名達の
目障りなナイフを排除し、石田に権力を握らせ、豊臣家を傀儡化するための謀反軍だったんじゃないの?
908 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 21:56:32
>>898 自分の空想で適当な事言うなよ。
佐和山城は外見、堅固さそれぞれなかなかのもの。
確かは佐和山は三成の兄や父が守ってたのを
小早川、脇坂、田中ら降将や三成に近い将に攻略命令が出されたが難航し、
最後は石田の父と兄が切腹するが城の兵や女たちは助けるという条件で講和したが、
その時、突然、田中吉政が襲いかかり、そのため助かる筈だった城の者たちもたくさん死んだという。
ちなみに田中にとって三成は何度も取り立ててもらったりピンチを助けてもらった恩人だった。
その話しを聞いた佐竹義宣はあまりの不義理に激怒したという。
909 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 21:59:15
>>907 文章の意味がよくわからないんだが。。。
「石田に臣従する大名達の」とか・・・
910 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 22:35:24
>899
同意
すっかり妄想スレになりましたな
宇喜多は大老なのになんで無職の石田ごときの下知に従っていたの?
>>912 従ってなかったのかもね。
なんか西軍って集団指導体制って感じがする。
つーか、そもそも東軍ですら家康の意志通りには動かず、
福島の工作で無理矢理、関ヶ原に引きずり出されたっぽい。
914 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 01:51:16
↑
そーすをだせ
915 :
金吾秀秋:2005/10/26(水) 01:57:26
寒くなってきたね(´・ω・`)
916 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 02:39:52
小早川の動きを気にする家康、三成。哀れむ
917 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 11:39:41
夜討ちとか、挟み撃ちとかも西軍に勝ち目がない?
具体的に、どのあたりから三成は勝ち目がなくなったのかな?
それとも大垣城あたりで、大軍を擁し、あくまで篭城していれば勝ち目はあったのだろうか?
918 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 13:36:45
>>917 たぶんダメだけど、関ヶ原よりは勝ち目があった
919 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 13:56:17
清洲撤退のあたりですでに勝ち目はなかったと思われ
>>917 夜襲とかは勝ち目がないというか、博打要素が高い。
でも夜襲でも毛利は不戦、小早川は寝返りは変わらないだろうし大差あるとは思えん。
鋏打ちは関ヶ原で現にしたのだが寝返り、日和見で失敗。
結局、とうの昔に毛利、小早川、脇坂らが調略されてるんだから、どうしようもない。
921 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 15:35:53
関ヶ原で三成に責任負わせるよりも、
家康を処分できなかった秀吉を責めるべきだね。
秀吉にさえ出来なかったんだから三成にはとても無理、
だから三成を責めるのは酷というものだよ。
922 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 19:59:24
923 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 20:08:25
924 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 20:18:14
>>920 俗説通り、小早川が勝敗を決したのなら、小早川がいない分
相当有利だが?
また島津は言った手前必死に戦うしかない
この分も有利になる
もともと夜襲は少数の部隊で行うもんだから、小早川脇坂などは調略のいかんに関わらず
参戦する必要無いだろ
926 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 21:36:41
>>924 まさか、お前数万の大軍で夜襲をかけるべきだったと主張してるのか?
夜襲などで小さな勝利を重ねて西軍の政治力を上げる東軍の動揺を誘うより
夜襲に失敗したら団結力が無い分西軍のほうがそれだけで瓦解しそう
928 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 22:08:44
929 :
日本@名無史さん:
>>927 まあ守って敗北したわけだが?
小早川に殺してもらうのがベストだったと?