1 :
日本@名無史さん:
高貴な方から庶民まで大いに語ろう。
2
3 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 08:20:23
日本の神
クシナダヒメ
コノハナサクヤヒメ
繊細な名前だ。
4 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 11:12:04
莵道貝蛸皇女
↑
初めて見たとき笑ったなぁ
5 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 18:33:07
子がつく名前は皇族や公家の女性だけ?
6 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 18:40:44
7 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 01:27:11
>>5 武家の女性も諱は○子じゃない?
三姫ー富子
篤姫ー敬子みたいに名前が二つある
8 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 01:40:05
日本の女帝
推古天皇=額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
皇極・斉明天皇=宝皇女(たからのひめみこ)
持統天皇=鸕野讃良皇女(うののささらのひめみこ)
元明天皇=阿閉皇女(あへのひめみこ)
元正天皇=氷高皇女(ひだかのひめみこ)
孝謙・称徳天皇=阿部皇女(あべのひめみこ)
明正天皇=興子(おきこ)
後桜町天皇=智子(としこ)
出雲の阿国とか。
卑弥呼は偶然にも「こ」がついてますな。
子ってのはまあ接尾辞がとりこまれたような感じだべ
11 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 09:48:47
>>9 「ヒミコ」と呼んだかは謎のまま。
「イミカ」説あり。
12 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 09:53:11
愛子さま。
何で「あいこ」なんだよ!「なるこ」だろ普通。
皇族に音読みの名なんて前代未聞じゃないのか?
音読みってのは、皇太子殿下の姫宮の名を外国語で付けるってことなんですが。
いい加減に汁!と思ったのは漏れだけではないはずだ
13 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 10:04:24
愛子ネタはイラネ。スレが汚れる。
汚れるほどの祖スレはありや
15 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:38:56
16 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:46:39
つーか、今の時代に「姫宮」って・・・お前の頭は平安時代かw
マスコミや政府はおろか宮内庁でもそんな大時代的な言葉使わないぞ。
>>11 知りませんでした。dクスv
イミカという響き、個人的に気に入った。
近い時期に、倭の雌が全てキム某などと名乗る日が訪れるであろう
その傍らにcoreanの伴侶を伴って...
19 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 19:26:05
戦国時代の名前がいいね。
茶々、麻阿、瀬名、阿古、寧々、帰蝶、満天、古奈、小松、五郎八、ァ千代
20 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 00:30:30
>>12 「まこ」は訓でしょ。
「かこ」は音だが、「也寸志」みたいな名と同じで
変体仮名の一種と見ることもできる。
「愛子」はどう見ても完全に"外国語"の名前。イクナイ
21 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 00:38:43
いまどき、何言ってるんだ?
「さつき」とか「ゆかり」とかでいいじゃねえか。
あきらけいこ
23 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 03:31:17
皇室に何故「よしこ」がいないの?犬にポチとかコロってつけるのと同じくらい
古典的な名前なのにさ。ちなみに私は「よしこ」。
徴子
25 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 00:57:17
醍醐家出身の賀陽宮好子妃が今のところ最後の「よしこ」
内親王は後桃園天皇の欣子内親王以来いないみたいね。
平安時代はぞろぞろいたのに。
26 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:56:37
花魁の名前がいいな。美雪とか小梅とか茜とか。
27 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 21:03:56
クマ
28 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 23:38:02
29 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 23:44:25
ウメ、たけ、さね。
30 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 23:45:08
波平、源太郎、總二郎
31 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 09:37:54
子のつく名前で俺が見たことある中で一番変わっていた名前は虫q
32 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 23:27:36
三姫ー富子
>>5 親王宣下・結婚・官出仕・着裳を機会に童名を改めていましたね。
中世の武士なら、童名の代りに通称で呼ばれたり、結婚などを機会に
○○氏女や姉子や中子や三子と名乗っている例が多い。
時政女も、『曾我物語』真名本では万寿、仮名本では朝日となっていま
すが、いずれにせよ、政子と最初から名乗ってはいなかった筈です。
しかし、大河ドラマでは政子で通している。
その割に、豊臣秀吉の正室を吉子とは呼びませんね。
テレビ番組を作っている人たちは歴史的な正当性や学問的な正確さではなく、
試聴率の事しか考えてないですからねえ。
俺らも、「一般の人が見るんだから仕方ない」とか思っちゃイカンと思いますよ。
別にテレビ局に抗議するとかじゃないけど、
エセ文化に対するそういう違和感だけは、内心で失ってはならないと思う。
飯沼読め
36 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 22:50:02
華族の女は普通の漢字を使うのだが漢和辞典にも載っていない読み方をする
37 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:27:15
当て字最強姉妹
水谷妃里(ゆり)&光里(るり)
どっちとも鳴かず飛ばずだけどな
38 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 20:48:45
皇族も一般人から
江戸時代の東北地方では「るん」とか「りん」とかいう名前があったらしいな。
ソースがあればよかったんだが、忘れた。
「江戸時代の女性史」だったか「東北の女性」とか何とか言う本だった気がする。
確か著者も女性。
40 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 14:58:16
奈良時代の女名がオモシロイ
小屎(おぐそ)、若女(わかめ)、乎婆婆(おばば)、額(ひたい?)、美久努麻売(みくぬまめ)・・・
41 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 15:25:31
公家の系図を見て気づいたのだが、女子の実名は父親の実名の下の一字に
「子」をつけるのがデフォ?
42 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 13:02:59
名前は記録されるということと関係が深く、女子の場合、女官・后妃が記録に通用するような名前をつけた。
例えば普通に嫁にいくとそういう機会がないが、夫が大臣になったり子が皇后や関白になって自分にも位階が与えられると、そのときあらためてそういう名を撰定した。
親の一字をもらうのは女官クラス。つまり中級貴族。后妃になる上級クラスは学者などに撰定させた。
(☣ฺ台☣ฺ)
(☣ฺω☣ฺ)
(☣ฺ_,☣ฺ)
(☣ฺД☣ฺ)
(☣ฺ_☣ฺ)
(☣ฺ∀☣ฺ)
m9っ☣ฺ_,☣ฺ)
(☣ฺ_,☣ฺ)b
d(☣ฺ_,☣ฺ)
48 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 22:51:26
江戸時代になると○宮□子や○君□子とか○姫□子という名前になるよね
読み方もものすごく変わってきて漢字も普通の辞典に載っていないような字になっている
49 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 19:58:09
香織。
50 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 03:48:44
○子(なんとかし)
最強
高貴な御方の姫君は「子」はこじゃなくてしに限る
51 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:48:46
読み方がわからないから便宜的に音読みしてるだけだろ。
52 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 13:11:15
>>40 藤原小屎は桓武帝の後宮にいた女性だね。小屎なら可愛いんだが、
平安期の受領の妻に下毛野屎子(くそこ)という女性がいたと思う。
屎=糞だから、意味もウンコちゃん という事になるはず。
53 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 05:11:04
>>41 北条時政の娘なんか、長女が政子で次女が時子。
54 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 05:16:20
>>41 秀吉の正室の吉子は夫の一字かな?
あと、秀忠正室の徳子は徳川の「徳」からつけたのだろうか?
>>42 摂関家クラスでも親の一字って例はあるよ。
近衛前久の娘(後陽成の女御、後水尾の生母)の前子とか。
56 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:05:53
竹御所の本名は鞠子?
57 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 15:08:19
>52別に実名があったのでは?
船名や子供の幼名の『◯◯丸』(丸=ウンコ)と同じで魔除けだろ。
平安以前は、女性の諱は記録されないからな。
58 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 15:23:17
59 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 15:27:39
60 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 13:55:32
まん子
これ最強
61 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 09:55:53
55
武田信玄の子で真理姫って
いた気がするんだけど…
62 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:46:51
>>56ですが、九条頼経室の竹御所鞠子の名前の読みは「まりこ」でよいのでしょうか?
明治37年生まれの死んだおばあちゃんの姉妹はみんなカタカナの簡単な名前だった
>63
むかしは動物の名前つけた
65 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 13:24:10
ヨ子
67 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:32:39
68 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 04:28:52
ひらがなの名前ってどうなんだろう?
69 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 04:34:53
明治とかだと、変体仮名の名前をつけられて、
まだ生きてるおばあちゃんとかいるんじゃないかな?
住民基本台帳ネットはどうなってるんだろう?
変体仮名をカバーしてるんかな?
70 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 23:01:12
1901年生まれのひいばーちゃんは変体仮名だったけど1901年生まれだったらまだいるね
71 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:55:00
学校教育から変体仮名を廃止したのは明治35年だっけ?
>>69 『大日本史料』とかは最近のものでも変体仮名のところは変体仮名で書いてるし、
今でも変体仮名の活字ってあるところにはあるんじゃない?
72 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 20:44:17
千里愛風
73 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 00:50:58
江戸時代に、父が娘に名前を継がせる事ってあるのかな?
そうでなくても、女性に男性の名前をつける事って
武家の家系でありえるのかどうか知りたい。
せめてぐぐるヒントだけでもわかれば助かるのでつが…。
ご先祖の位牌見たらそういう方が居たので。
ちなみに幕末くらいに亡くなった武家の娘さん。
75 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 18:53:11
万子っている?
76 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:41:33
77 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 02:03:29
78 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 02:24:20
縄文
79 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 23:11:12
ほめこ
80 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 20:51:43
81 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 21:41:52
萬子は清子内親王の孫になる
82 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 22:15:58
>>81 清子内親王は後陽成の娘だっけ?
なんでブス宮も同じ名前にしたんだろ?
名前をかぶらないようにしてると愛子特番で言ってたけど。
83 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 00:20:45
時代が離れているからじゃないか?
84 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 07:06:53
斧の芋子じゃなくて小野妹子は男です。
85 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 07:24:25
日本の女は場所の名で読まれた。出世魚と同じ。大政所も、北の方も、みな場所・建物の名。
いかに立派な建物に住まわされたかがセレブのステイタスだった。
>>85 それは男もそうだろ。
六波羅殿とか小松殿とか鎌倉殿とか。
そっちは建物じゃなくて地名だろ
617 名前:日本@名無しさん[sage] 投稿日:2006/09/29(金) 00:05:34
>>612 「子」を女性の名の一定形と考えるよりも、××号や○○丸のような漢文体の書に
用いる女性名の接尾語のように考えるべきです。
元々は、検索されているページにある大名兒(おおなこ)のように、「△△コ」という
呼び方があって、それが△△子に変わっていったのでしょう。平安時代の唐風文化
の普及と共に頻用されたことに注目してください。
でも、そんな彼女たちでも和文体の手紙ではしばしば「△△」と書きますし、
口語では目上からは「△△」、他人からは「お△△さん」と呼ばれる。
宮城(きゅうじょう)では「△△子」と呼ばれることもありえはしますが、
まず以って称号や通称で呼ばれる人たち。
元々は、あくまで中国式の書の中での名前だったということです。
ですから、「子」をつける区分けの本質的なところは、身分によるわけではない。
(漢文体であった)公文書に名が記される人たち、(漢文体の)書をしたためる人たち、
そういった人たちが書の中で「△△子」と残しているというだけです。極端に言えば。
ですから、農民や平民でも漢文なんて書かない女性は「子」がつかない。
使わないからです。
庶民にも広まるのは、宮廷文化が市井に広まる江戸時代以降。
維新後、姓名が一人一形式に定められ、さらに皇民意識が高められていく
明治後半、后妃にあやかった一種の流行として「△△子」は爆発的に普及
していくことになるのです。
90 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 20:49:03
そう?
○子っての昭和は多いね
昭和後期〜平成にはあんまりいなくなるけど
92 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 18:12:52
あげ
93 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:00:56
94 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:20:16
>>56 竹の御所の名前に「女美(よし)子」説もある。
>91
90年代に「子のつく名前の女の子は頭がいい」という、
統計学を駆使した論文著書が出ている。
論文の趣旨は、「○○子」という子の親は昔気質で教育熱心だから躾も行き届いて頭がいいが、
「○○美」とか「○○香」とかいう子の親はアッパラパーで好き放題に育てるからDQNな子が多い、という内容。
内容はともかく、社会学への徹底した統計学の導入という研究手法はそれなりに評価受けているという奇書。
ちなみに原題は「大和撫子はなぜ消滅したか」だったそうな。
名前に子をつけなくなったから、ってちょっ、おまっ、、、
96 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:10:08
>>95美しくないのに「○○美」とか、上品な顔立ちではないのに「○○香」とか名付ける親は、確かにドキュソかもしれないな。
>>96 その両方がついた美しくも上品な顔立ちでもない子は悲劇としか言えんな
98 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 01:05:49
美人なのに平凡な名前の娘は多い希ガス
あと、在○の名前はだいたい美がつくな
99 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:06:12
>97
美香子って名前なのにボーイズラブに首っ丈のデブスで高卒
これ最強
101 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 09:06:44
叶美香
102 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:14:35
貴族のお姫様って幼名はあったんですか??
幼名というか何度も変えたようだよ
出世魚みたくね
104 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 02:25:38
>>82 名前が被るというのなら、清子より愛子のほうが・・・。
>>85 女院号なんて、どれも邸宅の名前か内裏の門の名前だね。
105 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:29:45
藤原超子(とおこ)って変わってて良い名前じゃない?
響きも平安貴族にしては可愛い★★
106 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:17:19
確認される最古の「子」がつく女性は42代文武天皇の夫人となった
藤原宮子かな?飛鳥時代晩期の生まれで妹には臣下出ながら45代
聖武天皇の皇后となったアスカベ媛がいます。
107 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 09:26:53
継体天皇の妃に「尾張連目子媛」という女性がいる
いつから女の人にも名字が付くようになったの?
いつから女の人にも名字が付くようになったの?
>>4 皇女が出る某漫画のスレでは「蛸ちゃん」「蛸姫」って呼ばれてた。
112 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 12:23:04
三条夫人の本名は華子?
113 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 16:33:56
それは糞小説の中の話
ああ、そんな糞自慰小説あったっけな。
115 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 05:16:32
しかも皇女三条華子ってあったけど、三条って皇女だったのか?
三条皇女説小説なんて、自費出版みたいなもので妄想炸裂。
でも、マジに受け取る読者がいるんだよな。
118 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 03:46:17
え?
「子」をつけていいのは一定の身分以上の女子だけだったって、聞いたぞ。
元々は子女だったけど、途中で、姫って意味合いで「子」を使うようになった
って。
小野妹子
120 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:50:50
>>118の「えっ」が
誰に対してなのかが、わからなす
121 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:38:28
>4
莵道貝蛸皇女
平安時代前期までの皇族の名前は生母や乳母の出身豪族とかきくけど
この皇女の名前の由来はなんだろう?
莵道は京都の宇治っぽいけど貝蛸は?
皇女の貝が蛸みたいだったんだよ
123 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:50:18
124 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 09:04:25
>119
あの時代は男にも子の付く名前は普通にいたからね。
蘇我馬子だの、麻呂子皇子という皇族もいたな。
「子」の文字が使われてなくてもたとえば、
ちなみに聖徳太子の妃の蘇我刀自古娘だってあて字で、
読み名はおそらく「とじこ」、
後世ならば「こ」に「子」の文字をあててもよかったはず。
125 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 09:08:31
天武天皇の側室に尼子という人がいましたね。女性としては最古?
126 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 09:36:37
>125
「子」の付く女性名としては、天武天皇の側室、胸形尼子娘より古く、
継体天皇の元妻(日本書紀・最初の妻の意味か)に、
尾張目子媛という人がいるね。
継体天皇の側室にはほかにも、三尾稚子媛という人がいる。
127 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:51:56
128 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 22:05:43
雄略朝に引田部赤猪子がいるじゃないか
129 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 08:53:05
>128
ここは、「日本女性の名前について」のスレです。
男性名は扱っておりませんので、あしからず。
130 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:32:36
赤猪子、女だろ?
131 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 23:07:02
133 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 11:23:42
紫式部や清少納言は、ほんとはどういう名前だったんですか。
そもそもなんで紫式部に清少納言なんですか。
134 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 11:59:17
「紫式部」「清少納言」ともに候名
本名はわかっていない。
紫式部は藤原香子ではないかと日本の女性の名にくわしい角田文衛氏は言っているけれども
反論は出ている。
紫式部・・・最初の候名は藤式部だった。藤原氏の藤と、父親の官職式部大丞から。
源氏物語は有名になりその中の登場人物紫の上から紫をとって紫式部といわれるようになった
清少納言・・・清原氏の清。少納言のほうは親戚に少納言がいたのでそこからとったらしいが詳しくは不明
135 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 19:42:42
「ほんとうの名前」っていう感覚がないよ
それは近代民法の感覚
そうだな
出世魚みたいに名前変えまくるし
まあ現代でも筆名や芸名ならわりとぽんぽん変えるし
「本名」の概念がなければそんな感覚かもね
138 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 21:43:23
ウィキの近藤勇の奥さん(つねさん)のページで
実家の松井姓か旦那の家の近藤姓かではっきりしないみたいなんだけど
この時代の庶民の女性はどう名乗っていたんだろうか?
上流階級なら実家姓で書かれてるけど。
つねさんレベルの人は実家姓なのか婚家姓なのか、
それとも屋号とか、〜村の○○みたいなだけだったんだろうか?
139 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 13:37:43
日本で初めて戸籍法が定められたのは明治4年。
それまでは、基本的に男も女も生家の姓を一生名乗っていた。
士農工商の時代は庶民に苗字はなかったしね。
屋号は別。商家などの通称のようなものだから、
〜屋のおかみさん、みたいな呼び名はあったと思うけど。
戸籍法以降、結婚すると、夫か妻いずれかの姓に統一された。
なんで細川ガラシャは細川姓を名乗ろうと思ったんすか?
143 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 11:36:12
ガラシャって自分で「細川」って名乗ってるの?
144 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 21:32:03
ガラシャは、正しくは「明智玉」だろう。
明治以降の人が、勝手に細川と呼んでいるだけ。
洗礼を受けたとき、名前を変えたから、「明智ガラシャ」か。
正しい名前とかないんだよw
ガラシャは名前を変えたんじゃなく、洗礼名。
「明智玉」は変わらないよ。
信者同士で呼ぶなら、「ガラシャ姉妹」などの呼び方になる。
また、教会関係で書かれる場合は、「明智ガラシャ玉」になる。
147 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:16:07
明智珠子だろ。
148 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:22:48
女性は本来実家の姓を名乗ったものだが
時代が進むと婚家の姓を名乗るようになる
例えば野村望東尼の野村は婚家の姓だ
明治以後は必ず婚家の姓を名乗るようになるが
家紋は女紋として母から娘へ受け継がれた
実家の姓の場合は父系だが
女紋は母系継承だから更に古い根っこがある
>明智ガラシャ玉
出典ある?
まじめに質問
いや、自分は知らないよ。
ただ、当時の洗礼名を持った日本人の名前を書いたものが
いくつかあって、それが大体そういう書き方になっている。
ちなみに、現代も、洗礼名を姓名の間に挟んで書く教会が多い。
151 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 23:42:03
イエズス会の作法では
「おほども・よししげ・フランシスコ」
みたいにするんじゃないのか?
いや現代だと洗礼名を頭に持ってくるところが多いから
聞いたんだけど
パウロ山田太郎みたいな
それともういっこ
苗字と女性名って通常セットで言うもの?
明智玉みたいな
あらためて外向きで使わなきゃいけない事情があって初めて
明智玉子みたいな名乗りを作るんじゃないの?
154 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 06:38:34
朝廷的には本姓+いみな
もし女の子ができれば
古くからある名前+呼びやすい、かわいらしいってことで
禰々もしくは寧々にしたいと思ってるんだが
ねねって世間的にはDQNネームなのか?
「ねね」で変換できるし
大塚寧々もいるし
いいんじゃないの?
157 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 01:08:30
ののにしとけ
でき婚してくれるからwww
158 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 03:18:32
>>155 「かわいらしい」を基準にして名付けるのは、子供の将来のことを考えると必ずしもよいとはいえないよ。
若い頃はかわいらしい名前でさほど違和感なくても、いつかは年を重ねるごとに名前のイメージと本人の実像とに乖離が生じていく。
だから「かわいらしい」的な価値判断が入らず、また奇抜でもない、落ち着いた名前のほうが名付けられる子供の側から見ればベスト。
なにはともあれ、親にとっていい名前ではなく
子供にとっていい名前であるように考えてつけるべきだな。
160 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:14:48
まあ最近は親の自己満足としか思えない(しかも端から見ると滑稽な)名前を
平気で子供につけるバカ親も多いよな。
子供の名前って、名付けられる子供にとっては一生背負うことになるものなのに
ペットに名前を付けるのと同じような感覚で名付けてしまうのはマズい。
その名前を付けたことで将来子供から感謝されるかどうか、逆に恨まれは
しないか、ということをよく考える必要がある。
161 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:26:28
本人に改名の自由を認めるべきだ。
国民総背番号なら、名前なんて何度変わっても事務処理上、問題ないだろう。
162 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:31:32
アニメっぽい名前やDQN系の名前は、私的なニックネームにとどめて、
学校とか公文書に使う戸籍名は常識的なおとなしい名前にすればいいのに。
親のエゴや自己満足で、赤ん坊に変な名前つけるのはやめてもらいたい。
俺はイミナ系の普通の名前で本当によかった。
163 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 22:47:40
だが、皇室の名前は保守的すぎると思う。
○仁、○子に限定しなくてもいい。
女子の名前は「ひとみ内親王」とか「あけみ女王」とかあってもいいんじゃね。
いやあ子は大前提だな
まあ外から非子系名が嫁いでくればまた変わるけど
あけみやひとみはやっぱ皇女としては安っぽいな
子の伝統があるんだから子でいいと思う
166 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 00:35:06
「ひとみ」「あけみ」なんて百年前なら水商売の源氏名だろう。
あと「〜美」という名前は朝鮮人に多いから、昔は嫌う人も多かった。
百年前の水商売というと芸者とか女郎?
ハイカラな名前だね
168 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 08:17:43
でもまあドキュソな命名をする親から生まれた子供は結局ドキュソに育つ
わけだし、そういう意味ではドキュソを見分ける指標として名前がドキュソが
どうかは役に立つ。
169 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 08:46:25
皇族女子に子の名前をつけることが一般化するのは平安時代ぐらいからだよ
嵯峨天皇の皇女でも善姫たら潔姫たら、子のつかない名前が多い。
現在の妃殿下たちは名前に子がつく人ばかりだが、
今の若い人たちはつかない人のほうがはるかに多いのだから、
子がつかない人が皇室に入ることも当然ありえるだろうし。
170 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 08:57:57
今でも良家の娘には子が多いから、それはどうかな?
171 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 08:59:55
すごいセンスだw
173 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 14:35:52
>>171 そう言えば、美智子皇后の母君は本名が富美さんだったけど
いつの間にか富美子さんに改名してたな。
174 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 14:46:07
>>173 だからもう、改名でいいよ。
明治天皇の皇后も、幼名は富貴君だったのに、
入内するときに一条勝子、立后するときに一条美子と改名した。
嫁ぐときに正式に名前を改めるのが、天皇家のしきたりなんだから。
明治天皇の皇后は他にも改名してたような
つか天皇公家に限らず昔の人は男も女も改名しまくりだよ
立場が変われば名も変わる
昔はそれが普通だった
「本名」とか「本当の読み方」とかそういうものの感覚自体が今と違う
177 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 19:36:32
>>175 富美君→寿栄君→勝子→美子だったような
富美君を寿栄君にしたのは尊いお方と名前がかぶったかららしい(富貴宮のこと?)
字も当て字だから違う字を当ててたりするしね
179 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 20:22:51
>>177 そそ、寿栄君もあった
あと春子って時も一瞬あったような覚えが
美子と同じだから字を当ててるだけだろうけど
180 :
日本@名無史さん:2007/09/18(火) 20:54:14
明治時代でも結構女の改名あるな(○○を○○子にするのを除く)
皇族だったら晴子女王→絢子女王とか。
181 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 18:47:44
森鴎外じゃないけど、娘にマリーとかアンヌみたいな名前をつけるのも
国際化社会に対応してると思う。
マリー内親王、アンヌ内親王なんて、なかなかいいと思う。
うわあ
中二病は勘弁してくれ
愛子内親王殿下みたいに「愛」なんてつけちゃうのは
十分キリスト教チックだと思うけどね
少なくとも仏教的神道的意味で「愛子」とは名づけていない
孟子の一説だね
仁者愛人、有礼者敬人。愛人者、人恒愛之、敬人者、人恒敬之
けど
ダサい
185 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 20:37:03
柳原愛子
ただし「なるこ」と読んだ
186 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 20:38:18
>>185 親父が柳原光愛(みつなる)だから、
女官が親父の名前を一字もらうのは普通だな。
メロ
メロ子
子っていうのは敬称で愛称で尊称みたいなもんか
190 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:07:39
191 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 09:12:33
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ノ)ノ,(ノi
( (ノし
┐) ∧,∧ ノ
..|( ( ....:::::::) (
 ̄⊂/ ̄ ̄7 )
(/ 保守 /ノ
 ̄TT ̄
192 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 19:00:23
曽根とは=河川氾濫した荒地のこと。
苗字に曽根の付く名前の♀はヤバイ。
穢多非人の苗字だから。
苗字じゃなく名前の流行がころころ変わるってのは日本のダサイところ。
名前で差別化を図ろうってんだがそのセコサがかっこわるい。
ようするにカッペ。
向こうだとジョンだのトムだのスーザンだの4、500年、へたしたら
1000年も昔の名前が現代にも使われている。
俺は別に欧米マンセイじゃないがこの点に関しては欧米の勝ち。
194 :
日本@名無史さん:2007/10/06(土) 17:06:38
>192
中曽根康弘も???
195 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:44:58
196 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:25:48
平戸にある銅像に【中山愛子様】像と‘様’がついとのにびっくりした
今もそうなんだろうね
197 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:51:41
昔は ヨシオとかがあって、男と間違ったのかとおもた
198 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 22:08:31
とりあえず歴史上の女性の名前(訓読み)を知りたければ、日本語の
口語発音の時代的な変化については、当然知っておく必要がある。
橋本進吉博士の「古代国語の音韻に就いて」は必読。
何かで読んでけれど、最近の英米人夫婦が子供につける名前の傾向は
変わってきてるらしい。
日本の中学生の英語教科書に出てくる、James, John, GeorgeとかMary, Elizabethとかそういうのは
近年は廃れてきて、おにゃの子だとEmilyちゃん、男だと何だったけ・・・?
ちょっとググってみてくれ。と思ったが自分でぐぐった
ttp://www.excite.co.jp/News/bit/00091128323631.html ♂ Jacob, Michael, Joshua, Mathew, Ethan
♀ Emily, Emma, Madison, Olivia, Hanna
199だけど
>>193へのレスね。
日本史板なのでスレ違いなので手短にすませるけど、あっちは聖書の中に出てくる聖人の名とかからとるから
昔っから変わらないんでないの。日本で例えるなら死者に仏典にでてくる文字から戒名付けるみたいなもんか。
>>200 理由はなんであれ伝統的な名前が現代でも通用しているってのは
いいことだろ。
そうか?
>>201 それはおまいさんの好みだ。勝ち負けなんぞない。欧米は良くも悪くも変わらないんだよ。
建物なんて80年代から変わらないし、髪形なんていまでも古臭い。
日本は、日本人は変わっていく。
時代に合わせて変わって、そうして歴史を続けるんだ(´・ω・`)
>>203 好みの問題じゃねえよ。
品性の問題。
伝統的な名前を尊重しないってことは文化を尊重しないってこと。
つまり自分の国を尊重しない。
>>199 傾向が変わってきてるようには全く見えないんだが…特に男
結局聖書由来の名前だし、むしろ敬虔なキリスト教徒が増えたのかね
男はデイビッドが最近多いな。
映画とかでも
207 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:42:49
>>196 中山忠能室となった松浦愛子は、孝明天皇の祖母、明治天皇の曽祖母ということで
もてはやされているのかな?
でも最近の研究では、孝明天皇生母中山慶子は松浦愛子の実子ではなく妾腹で、
父の正室である愛子の実子扱いになっていただけとするものもあるようだね。
聡明だった愛子の父平戸藩主松浦清の血は、皇室に入ってない可能性もある。
>>207それは初耳
中山慶子は八瀬で育ったともいわれるし実は忠能の娘ではなく養女だ、という説は読んだことある
大室寅之助の話にしろ明治天皇は存在が大きかったからいろいろな説(都市伝説含む)があるんだろう
そういえば中山慶子は次女というが長女のことはきかない・・・貞明皇后の姉も3人のうち長女のことはきいたことない
若いうちに亡くなったのか?
スレチスマソ
>>204 日本の伝統的な名前って、ごんべえとか五平とか田吾作とかだろ。
おまえさんは名乗れるか?子供に付けたいと思うか?
少なくとも俺はいやだぞ。
>>210 だから日本は時代によってころころ変わるから。
っていうか5年くらいで変わるからな。
いい国だよ。
212 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 21:27:10
>>208 昔のことだから夭折が多かったんじゃない?
ちなみに貞明皇后は5女の妹も聞いたことない。
それより英照皇太后は5女だか7女だか忘れたけど一人の姉も聞いたことがない。弟は複数いるのに妹も聞かない。
権兵衛とかより鎌足とか黒麻呂とかの方が古い。
214 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 19:44:15
>>210 私の本名は日本書紀に出てくる某内親王と同じ。(ただし平仮名)
古いといえば古いけど、あまり突飛な名前よりはいいなと自分では満足。
215 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 21:32:06
216 :
214:2007/10/18(木) 21:46:54
217 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 22:31:07
218 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 22:49:51
>>217 そこまで有名ではないです、残念ながら。
(でもあの由来には驚いた)
妹子ちゃんってなんかツンデレっぽくて可愛らしそうだよな。
実は男だという説もあるそうだが、出来れば夢を壊さんで欲しい。
220 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:46:32
>>214 たき(多紀)?
いずみ(泉)ってことはないよなw
222 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:48:50
天智天武あたりなら「あすか」もOKでは。(漢字の方がいいけど)
223 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 19:24:09
224 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 08:00:55
214さん、大人気
古代は○○子という女性名はなかったよね。
子がつくようになるのは平安初期だけど、皇族は少し遅かったのかな?
>>214 よければ○○天皇の娘・○○皇子の姉妹とかもう少し情報が欲しいかも。
今まで候補に挙がったのは
井上・たき・いずみ・たから・あすか
228 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 04:37:32
>>226 「〜こ」と読める女性名ならそれ以前から普通にあるだろ。
聖徳太子の妃の刀自古(とじこ)とか。
ただ古代の人名の漢字は、基本的に当て字だから、漢字表記が一定しないだけ。
女性名の「〜こ」という発音の漢字表記が「〜子」に一本化され始めるのが、
平安初期くらい。
229 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 08:54:15
>>226 文武天皇夫人藤原宮子
聖武天皇皇后藤原光明子
充分奈良時代だが・・・・
最古では、たしか、雄略天皇の愛妾に「子」がつく女性がいたはず。
飛鳥時代にも「子」がつく女性がいたが、「古」と表記されるもあり、
統一されていなかった。
奈良時代の宮子や光明子の時代には概ね「子」に統一。
貴族女性の名前がほぼ「〜子」に統一されるのは仁明天皇の頃?
それ以前は「こ」がつかない女性名も多かった。
230 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 15:36:35
昔は小野妹子とか中臣鎌子とかもいたしねえ。
231 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 15:47:41
なんでまだ「子」を名前の一部だと思い込むかなあ。すでに回答が出てるのに。
617 名前:日本@名無しさん[sage] 投稿日:2006/09/29(金) 00:05:34
>>612 「子」を女性の名の一定形と考えるよりも、××号や○○丸のような漢文体の書に
用いる女性名の接尾語のように考えるべきです。
元々は、検索されているページにある大名兒(おおなこ)のように、「△△コ」という
呼び方があって、それが△△子に変わっていったのでしょう。平安時代の唐風文化
の普及と共に頻用されたことに注目してください。
でも、そんな彼女たちでも和文体の手紙ではしばしば「△△」と書きますし、
口語では目上からは「△△」、他人からは「お△△さん」と呼ばれる。
宮城(きゅうじょう)では「△△子」と呼ばれることもありえはしますが、
まず以って称号や通称で呼ばれる人たち。
元々は、あくまで中国式の書の中での名前だったということです。
ですから、「子」をつける区分けの本質的なところは、身分によるわけではない。
(漢文体であった)公文書に名が記される人たち、(漢文体の)書をしたためる人たち、
そういった人たちが書の中で「△△子」と残しているというだけです。極端に言えば。
ですから、農民や平民でも漢文なんて書かない女性は「子」がつかない。
使わないからです。
庶民にも広まるのは、宮廷文化が市井に広まる江戸時代以降。
維新後、姓名が一人一形式に定められ、さらに皇民意識が高められていく
明治後半、后妃にあやかった一種の流行として「△△子」は爆発的に普及
していくことになるのです。
232 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 15:56:23
つまり歴史上の「・・子」という名前は、たまたま和語で「コ」という
発音になる名前の当て字か、「孔子」や「老子」と同じ敬称。
「お言葉ですが」で高嶋俊男も子は敬称であるという話を書いている。
233 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 21:15:25
平城天皇以前の娘の内親王は子がつかないけど嵯峨天皇以降の娘の内親王は子がつくよ
どこだかの国守の妻で糞子さんだった糞さんだったか、
殺害されたばっかりに現代まで名が残ってしまった。
235 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 00:21:47
>>233 公式な文書において「女性の名前」に敬称として「子」を付けるように
ある時期からなったというだけのこと。
236 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 00:33:44
237 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 12:21:04
>>235 子が敬称なのはともかく、命名の傾向そのものもはっきり違わないか?
詳しくは知らないけど、古代は皇子女の養育に関係した氏族名がそのまま
皇子女の名前になったと聞いたような。
でも嵯峨天皇以降は、むしろ今に近い命名感覚のように見える。
ところで時代下るけど時姫とか祐姫とか正妃とかって、あれは「ひめ」
まで含めて名前と思っていいの?
238 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:22:35
嵯峨天皇が皇子皇女の命名に際して、中国風の諱を初めて導入した。
但しそのまま音読みをしても趣がないので、人名訓と呼ばれる訓読みを編み出した。
239 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:58:45
天皇の后妃たちには嵯峨天皇以前から〜子というものが
何人もいたのだから、嵯峨天皇が考案したというものでもないだろう
あるいは皇子女の養育者である部の制度が廃れ、
宮中に仕える女官が乳母に任命されるようになるに伴い、
臣下の者たちのような諱を名乗ることに変更したのかも
240 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 15:44:15
嵯峨天皇の命名法は、
皇族身分に残す皇子・・・漢字2文字(うち1字は兄弟間の通字)
皇族身分に残す皇女・・・漢字1文字+子
臣籍降下させる皇子・・・漢字1文字
臣籍降下させる皇女・・・漢字1文字+姫
そして使用する漢字は、これまでの慣習ではなく、漢字の意味を考えて
良い字をつけるという方針にした。
また特に兄弟間で2文字のうち1字を通字にするという命名法は、中国において
同じ一族の同じ世代の男子に共通の1字をつけるという命名法と発想が同じで
あり、以後院政期頃まで皇室や多くの公家の家に見られる命名法。
241 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 15:53:49
>240
>嵯峨天皇の命名法
>皇族身分に残す皇女・・・漢字1文字+子
初代賀茂斎院となった嵯峨天皇の皇女は、有智子内親王でこれに当たらない
242 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 21:00:48
投下しとく
『華族家の女性たち』小田部雄次著p249より
明治18年1月1日 「華族の婦人名には必ず子をつけよ」との命令が出される。
命令って
誰からどういう形で出たの?
244 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 00:29:10
皇族身分に残す皇女・・・漢字1文字+子
臣籍降下させる皇女・・・漢字1文字+姫
これが事実なら、明らかに「子」は敬称だな。
「姫」を名前の一部だと思っている奴なんているのか?
245 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 05:43:33
敬称で陛下と殿下を区別するようなものだな。
>「子」は敬称だな。
だったら有智子内親王ではなく、有智内親王て言うはずだろ。
何言ってんだよ。
247 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 07:42:13
>>246 頭悪いな。
「ヒメ」は女子の美称(広辞苑)で、対語は「ヒコ」だ。
だから「ヒメ」は名前の不可分な一部ではない。
よって
皇族身分に残す皇女・・・漢字1文字+子
臣籍降下させる皇女・・・漢字1文字+姫
が正しいなら、当然「子」は名前の不可分な一部ではない。
248 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 09:08:13
もともと日本には「〜こ」という女性名があったんだよ。
これに、「古」や「子」があてられたけれども、
次第に「子」に統一されただけ。
藤原彰子の本名は藤原彰だとか、
藤原定子の本名が藤原定だとかいうはずがない。
明治〜戦前には高貴な名前(=〜子)が義務付けられたかもしれないが、
それ以前は義務でもなんでもない。
249 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 09:20:43
現在「正彦」とか「智子」の「彦」とか「子」が名前の不可分の一部に
なっていることを否定しているわけではない。
しかし実際に明治時代の教養人は「子」を名前の一部とは認識していなかった。
「尊称」や「愛称」(ちゃん)の意味で「子」を現に使っていたわけだ。
現在の我々の意識でも「姫」にはまだかつての意識が残っている。
ゆき(ゆきこ)という女性がいれば、「ゆき姫」と呼ぶことがあるだろう。
「子」も明治以前は同じように使われたわけだ。
250 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 09:25:19
>>248 おいおい、彰子(しょうし)定子(ていし)が普通だろ。
実際に彼女らが「あきこ」とか「さだこ」と近親から呼ばれたと
思ってるのか?
「北条政子」などはWIKIによれば
「政子」の名は建保6年(1218年)に朝廷から従三位に叙された際に、
父・時政の名から一字取って命名されたものであり、それ以前は何と
いう名であったかは不明。
というくらいだ。
251 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 10:03:46
>>250 飛鳥時代や奈良時代から、「〜こ」という名前はあって、
平安時代になっても、名前の読み方は日本古来の伝統を踏襲していましたよ。
それから、名前は訓読みですよ。
現代ではなんと呼ばれていたか分からないから音読みしているだけ。
実際に呼ばれていたのは「中宮」とか「女御」でしょうね。
しかし、勿論、正式な名前を決めるときには正式な読み方があったわけで。
近衛・二条天皇の后藤原多子の読みが「まさるこ」であったとか、
記録に残っているものもあります。
252 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 10:43:46
>>251 だから「身分の高い女性の文献上の名前(とその呼び方)」と、
「実際の呼び名」は全然別。
古事記で「コ」がつく名前で最初に思い浮かぶのは「ヒルコ」(水蛭子)だな。
で、どうして「コ」がつく名前は貴人以外には廃れたと思うの?
> おいおい、彰子(しょうし)定子(ていし)が普通だろ。
> 実際に彼女らが「あきこ」とか「さだこ」と近親から呼ばれたと
> 思ってるのか?
なんて言い方をするのはミスリーディングだろ。
「しょうし」「ていし」と近親から呼ばれたなんてことは
「あきこ」「さだこ」以上にありえないわけだから。
254 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 11:39:37
>>252 庶民でもあったでしょ。
庶民の名前が「まつ」とか「ねね」とか二文字になったのは
随分あとの時代です。
公家のほうが、昔の名前を踏襲していたのでしょうね。
「ねね」が官位を貰うとき「豊臣寧子」と名乗ったのは
公家のまねっこでしょうが。
>>250 貴族社会では男も女も名では呼ばれない。
実際になんと呼ばれたかにこだわれば、名前など必要なくなる。
女性ならば、
少女時代「大君(長女の意味)」→結婚後「北の方(奥様ぐらいの意味)」
少女時代「中の君(次女の意味)」→入内後「女御」
男ならば、
少年時代「太郎(長男の意味)→元服後「左中将(以後は官職で呼ばれる)」
平安時代に書かれた源氏物語に、光源氏や夕霧の名前も、
葵上や紫上の名前も、藤壺や明石中宮の名前も現れないのを見れば一目瞭然。
姓は分かるが、下の名前などで呼ばれることはまずない。
256 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 16:32:36
>>255 その通り。現在の「名前」の概念での思い込みがあるから誤解する。
「彰子」とか「定子」は極論すれば追号のようなもので、貴人を文献上
記録するための記号のようなものだ。だから文献上他の人と区別できれば
よく、一字+「子」とか一字+「姫」で構わない。
257 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 16:47:44
>>256 「いみな」は生前決められるから、追号は言いすぎw
貴人は男も女も「いみな」で呼ばれることはなかったが、
官職を受けたり入内したりするときには「いみな」が文献に記され、
当然、本人も生前から自分の名として知っていたもの。
「記号」は言いすぎだろう、両親は入内前の娘のために
易者までよんで縁起のいい文字を選ばせたのだから。
天皇の「いみな」も学者などが選んでいた。
258 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 17:18:09
となるとむしろ、晴れの儀式でもなければ出番のない正装みたいなものか。
ところで成人後はともかく、幼名の時はどうだったんだろう?
259 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:49:38
>>258 ググると平凡社の百科事典にはこんなふうに出ているらしい。
上流社会の女性名は、公式には「○子」型の諱(実名・名乗)でしたが、叙位・任官の場合を
除く日常生活では通称が用いられ、鎌倉期には「薬師女、千手女、如来女、伊王女、夜沙女、
袈裟女」等の仏教的な名も多く見られましたが、室町期に至って「千代女、若鶴女、松女」等
の旧型も残るものの「阿茶、阿茶々、ちやち、あかか、あこ、とら、かめ、わか、いち」等の新し
い名が見られ、貴族・庶民の別なく通称には「女」字の脱落と仮名書き化が相当進んだようです。
安土桃山時代には「女」字の脱落と仮名書き化が益々進行しましたが、豊臣秀吉の正妻
「木下ねね」は、その名では叙位対象にならないとされる事から、公式の名を「平朝臣【たいら
のあそん】寧子」と定めて従一位に叙されたのでした。続いて江戸時代の庶民の女性名は
「はつ、せん、せい、かめ、とら」等大部分が2文字で、これらはしばしば接頭語に「御【お】」
を付けて呼ばれたようです。
260 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 00:42:13
だから「ねね」の本当の名前は「寧子」であり、日本女性の名には昔から子が付いている!
といった主張はまったく見当外れなわけ。
261 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 01:28:48
叙勲の時のねねの名は豊臣吉子じゃない?
「本当の名前」っていう概念がそもそもないよ
263 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 07:30:12
「あちゃ」とか「ちゃち」とか「あかか」が日本人女性の伝統的な名前なんだな。
264 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 08:25:15
>>259 「上流社会」という割には、武家の例ばっかりだな。
公家社会の女性の私生活での名前はどうなの?
飛鳥時代にみられていた「とじこ」や「よしこ」という名は
無視なの?
公家のほうが古い名づけの形態を維持していたんだよ。
官職をもらうときは、武家もそれを踏襲しただけ。
>260
ねねの例を出してきて「昔から」というのが間違っている。
「〜こ」という命名法は、「ねね」という命名法よりもずっと古い。
265 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 08:29:55
>>264 奈良時代以前の「〜こ」は男も女も使っただろ。
266 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 09:55:07
>>261 寧子は寧々の実家(兄の子孫)の家の文書に載ってた名前だったはず。
朝廷に従一位を貰ったのときに使用したのが吉子で
北政所になって公家や寺社との付き合いも増えてから
元々の寧々から寧子を使用するようになったのかも。
267 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 19:08:54
なるほどね。まとめると、
身分の高い女性に中国風の諱を付ける習慣があり、実際の呼び名(名前)とは
別にごく限定された場合に使用した。これが「〇子」「〇姫」という名前。
江戸時代には「はつ、せん、せい」といった日本人女性らしい美しい名前が多かった
のに、明治から大正の教養のない人が中国風の諱に過ぎない「〇子」という名前を
かっこいいと思い込んで実際の呼び名=実名として使うようになってしまった。
ってことだな。
268 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 19:24:14
実資が娘を「千古」と呼んだり、
道長が御堂関白記の中で娘(六女嬉子)を「千子」
と記しているのを見ると、これは実際に呼ばれた名前では?
ちなみに、「千古」や「千子」はいずれも未婚時、
嬉子については出仕前に使われており、幼名だと思われる。
269 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 19:54:59
伊達政宗の姉か妹に「千子姫」がいるから、この場合の「千子」は「〇子」型の子では
なく単に「コ」という発音の当て字じゃないかな?
270 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:13:01
実資の娘は、愛称だか通称だかでかぐや姫とも呼ばれてたよね。
272 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:47:25
>>268 文脈がわからないから関係ないかもしれないけど、実資や道長は「マイベビー(稚児)」
という意味で「千古」「千子」と呼んだのでは?千古も千古乃岩とか、いまで
も稚児の意味で使っている。
273 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:59:52
江戸時代までは日本人は女性にかなで名付けるという素晴らしい
習慣があったのに、
「庶民に皇室女性の諱っぽい名前を付けるのが流行した」
という実に馬鹿馬鹿しい理由で実際には皇室でも呼び名としては使って
いなかったであろう「〇子」という諱形式で漢字で名前を付けるようになった
わけだな。
274 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 21:52:24
彰子や定子は位記に書かれる。
位記に敬称を書くわけが無かろう。
子が敬称なわけがない。
275 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 21:54:14
だな。
鎌子や御食子、馬子、連子なんかの子とは違う。
276 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 22:20:30
>>274 じゃ「姫」も名前の不可分の一部と主張するわけだね?
277 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 22:56:47
というか、嵯峨天皇が人為的に中国の諱を真似て、中国の敬称である「子」
を「姫」と対置させて女性の地位を示す文字としてつけさせたんだろ?
278 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:19:00
中国の習慣を取り入れたのだから「子」は敬称だな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1 日本では個人の名前は「石川麻呂(いしかわまろ)」や「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」
といったふうに長い訓に漢字を当ててきたが、嵯峨天皇のころ遣唐使であった菅原清公の
進言によって、男子の名前は漢字で二文字か一字、女子の名前は「○子」とするといった、
漢風の名前の使用が進められ、定着した。
このように、中国の伝統を取り入れた名前の習慣が定着すると、中国と同様に目上の者を
実名で呼ぶのを避ける習慣にのっとり、実名のことを漢文表記するときは諱と呼んだ。
>>273 かな名前が素晴らしいかどうかは個人の好みにもよると思うけど、「○子」型の
名前が減った今もカナ名前は少数派のままだな。
子のあるなしも漢字かカナかも自分はこだわらないが、ただなるべく読みやすい
名前をつけてやってほしいなと(お節介ながら)思う今日この頃…
ちなみに死んだうちのばーちゃん(大正生まれ)は、まだ子なしカナ名前だった。
280 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:59:24
>>279 台所に火の神がいるという信心があった時代には、女の子にはナベ・カマ
といった炊事関係のモノの名前を付けるという習慣もあったね。
いま結構多いひらがなの名前は「さくら」。
281 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 15:59:23
藤原定家の姉妹の祇王、健寿、龍寿、愛寿御前って本名?愛称?
282 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 16:40:36
徳川家斉の娘をみてると、「○姫」という呼び名と「○子」という名前が存在する。
前者は男子でいう通称で、後者がイミナにあたるのか?
283 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 17:22:23
津田梅子だって、本当の名前は「うめorむめ」らしいね
284 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 17:27:21
明治以降は別でしょ・・・
このスレの先のほうに貴人の女性には「子」をつけるべしという
法律があったんでしょ
285 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 17:53:25
>>284 それはあくまで忌み名であって、まったく違う呼び名があったはず。
恐らく家族しか知らない。名前を他人に知られてはいけないという
言霊信仰があったそうだから。
また中国の敬称を真似て女性に「子」をつけるとしたのだから、
基本的には「し」と読むのが正しいのだろう。「彰子」は「しょうし」でいい。
おそらく彰子には「あきこ」でも「しょうし」でもない全然別の呼び名があった
のだろう。
286 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 18:38:04
>>282 将軍の娘に限らず結婚している大名の娘は○姫と△子という名前があった
公家の娘の場合は○君△子だったが
287 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 01:20:59
整理するとこんな感じか。
・嵯峨天皇以前
自然発生的に成立した和語の名前が男女ともつけられた。
・嵯峨天皇以降
遣唐使の菅原清公の進言で貴人は先進国である中国風の名前(男子の名前は漢字で
二文字か一字、女子の名前は「○子」)を付けることになった。
これは今の感覚で言えば、「鈴木トーマス」「福田ビクトリア」といった名前を付けろと
上から強制されたようなものだ。
少なくとも女性の場合は、この中国風の名前(いみな)は生涯何度かしか使わない
公式記録上の名前となり、実際の呼び名はまったく別のものを使用した(1つとは限らないが)。
庶民の女性はあいかわらず和語として自然な名前を付け、江戸から明治時代にかけては
かなの2文字の名前が主流となった。
・明治以降
日清・日露戦争勝利以降の皇室崇拝熱とともに、「〇子」型のいみなが「カッコイイ」という
意識が強まり、庶民が娘に「〇子」型のいみなを(それが中国風の名前であり、実際の呼び名
として使われたわけでもないことを理解せずに)付けるようになった。
288 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 02:48:02
こうして見ると「〇子」型の実名こそ、日本史上最大のDQNネームだな。
20世紀の約100年間だけしか流行しなかったことは歴史的必然だ。
290 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 03:01:03
291 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 03:04:22
嵯峨天皇以前に日本にあった「〇〇コ」型の名前は、男女ともに
使用された。しかし菅原清公の進言で女子のみにつけた「〇子」は
中国(唐)の命名規則を踏襲しているのだから、日本固有の「〇〇コ」
型の名前とは直接関係はない。
292 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 03:18:59
>>290 「○子」を「し」と発音していたとする理由なんて
>>89のどこにも書いてありませんけど何か?
293 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:10:47
>>292 「し」と読まなかった証拠もありませんが何か?
そもそも、諱は「忌み名」なのだから普通は声に出して読む必要はないんだよ。
294 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:13:54
>>240 >臣籍降下させる皇女・・・漢字1文字+姫
藤原良房室の源潔姫(嵯峨天皇皇女)なんかこのパターンだな。
>>241 有智子内親王は、嵯峨天皇の皇子皇女の中でも最年長のほうだから、嵯峨天皇が
「漢字1文字+子」の名前に拘り始めるより前に命名されたんじゃないかな?
この名前は、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子と同じタイプだね。
どちらも「1音節で音読みの漢字2文字+子」だし。
まあ実際の名前の読みは、子を含めて仮名3文字になるから、名前の読みという
点では、その後の「訓読みの漢字1文字+子」の名前と似ているし、その
前段階といえるかも知れない。
>>287 嵯峨天皇以降でも、女子の正式な諱で「○子」ではないタイプも存在する。
前述の源潔姫を始め、親戚降下した嵯峨天皇の皇女は基本的に「源○姫」という
名前になっている。
またそれ以降でも、例えば藤原兼家室(道長母)の藤原時姫など、
「○姫」というタイプの名前はあるにはある。
ただ男子の名前の漢字1文字タイプと同様に、「○姫」タイプの名前は後世に
あまり流行らなかったということだろう。
>>247>>249 どうでもいいことだが、後花園天皇の諱は「彦仁」だな。
295 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:41:28
296 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:48:42
男の幼名にしても、仏教系は別として
「うしわか」や「たけちよ」「いぬちよ」などやまとことばのものも結構あるよね。
297 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:49:55
「し」と読まなかった証拠がなければ
「し」が正式な読み方だと言い張っていいのか。
まあ日本史板にはよくいるよねこういう論法の好きな厨。
298 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:57:19
あと今の皇室で言うと「清子」が諱で「紀宮」が幼名だよね。
国民の間でも「紀宮」のほうが通りがいい。
299 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 04:58:39
>>297 実際学者が発音する時は「定子」は「ていし」だろ。
「さだこ」って読む奴がどれだけいるのか?
>>299 それは過去ログで何度も何度も言われているけど
実際の読みがわからないがゆえのただの便宜的な規約。
文学者は当時の読みを自力で判断でないから「ていし」で通しているが
史学者の編纂した辞典なら「さだこ」で立項しているものもある
(もちろんそれじゃ使いにくいと文句も出るが)。
今じゃ文学者の間でも便宜だと知らない人なんてよほど不勉強な
人に限られるだろう。
301 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 05:48:23
紀宮妃
302 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 06:14:23
>>300 自分で「子」を「こ」と読まないという証明をしてくれたわけね。
「あきらけいこ」と読むことが判明しているのに
便宜の慣性で「めいし」と読み続けてる例もあるし。
『当時の貴族が間違ってるんだ!「し」が正しいんだ!』
って言い張りたいならそれでもいいけど。
304 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 07:14:43
「子」「児」「古」は上代の名前では多くは男性につく字。
305 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 09:52:39
>>303 諱の読み方にこだわっているわけではない。なぜなら諱は諱でしかなく、
それを慣習として訓+「コ」と読もうと、音+「シ」と読もうと、
実際の呼び名には直接関係ないから。
清子が「さーや」だったり「紀宮」であることを考えれば、
定子は「てーや」だったかもしれないし、全然別の名で呼ばれたかもしれない。
306 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 10:53:46
以前にも出ていたけど・・・
○近衛・二条天皇妃 藤原多子
養父藤原頼長の日記「台記」に、「多子」の読みは訓読みの
「まさるこ」であると記されてある。
○鳥羽上皇妃 藤原泰子
入内時には勲子と名乗っていたのを、立后時に泰子と改めているが、
父藤原忠実の日記「殿暦」によれば、
村上天皇妃藤原安子にあやかって、同じ読みの名前にしたと書かれてある。
この場合、「安子」と「泰子」の読みに共通するのは
音読みのアンシ、タイシ、ではなく、訓読みの「やすこ」が妥当。
音読みだといっている人は、史料を出そう。
307 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 11:12:01
>>306 何か誤解しているようだが、諱は諱でしかなく、それをどう読んでもその名で
示される女性の呼び名とは直接関係がない(だってその名では呼ばないのだから)。
>>306はちょっと上のほうで 諱 の「子」=「し」を
強調している奴を相手にしたレスだろ
呼び名の話は関係ない
309 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 11:33:07
>>308 だから文献にある諱を「コ」と発音する慣習があろうが「シ」と発音
する慣習があろうが実際の名前(呼び名)とは関係がない。
我々の保険証番号を日本語で読み上げようが英語で読み上げようが
我々の名前(呼び名)とは関係がないのと同じこと。
「愛子」はとうとう「音読み」+「訓読み」になったな。
> 実際の名前(呼び名)とは関係がない。
まさにその通り
諱の読み方の話をしてるのだから
呼び名の話は関係ない
名前に「正しい読み方がある」というのも近代以降の思い込みです
そのこと自体はある意味で正しいとしても
「多子」を「まさるこ」と読むことが正い
という厳然たる事実は変わらないので
今そんな話をしても何の意味もないよ
313 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 17:05:54
314 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 20:25:23
龍馬の妻のりょう(龍)さんなんていまから考えるとツンデレっぽくて
いい名前だよね。
315 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 06:54:00
菅原清公が唐人に習った命名規則、つまり
・男性は二文字か一文字の漢字
・女性は一字+「子」または「姫」
とした理由を考察する必要があるね。誰か研究してる?
俺はいままで日本人の名前が中国人と同じく2文字の漢字が多い
のが菅原清公のせいだとは知らなかった。現在の日本人としては
あまり触れたくない事実なのだろう。
で、女性の名の漢字「子」は「孔子・老子」の「子」と日本で古くから
男女に使われた「〇〇コ」型の名前に関係がありそうだ。
「姫」は無論「〇〇ヒメ」型の女性を示す名前だ。
「子」にしても「ヒメ」にしても、名前の一部と言い切るには違和感がある。
ポイントは、
・なぜ菅原清公は女性も唐人と同じ命名規則にしなかったのか?
女性には「子」と「姫」を使いわけて臣籍降下した女性をはっきり
区別しなければならなかったのか?
ということだろう。
316 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 10:37:23
「ヒメ」・「ヒコ」時代の名残だとするならば、
女性に「姫」男には「子」をつければよかったわけだ
しかし、「姫」も「子」も平安時代以降は女性の名前で、
男の「子」が用いられなくなったのはなぜだろう?
孔子などの中国の例に倣えば、男こそ子つきの名前を輸入してしかるべきだった。
「子」や「姫」が名前の一部だとはいえないという意見だが、
史料には、「藤原道長」や「藤原道隆」という男性名と平行して
「藤原彰子」や「藤原時姫」という名前が出てくる。
男性の「敦成親王」に対して女性の「修子内親王」という場合も同様。
「子」や「姫」が名前の一部でないのならば、
女性だけに子や姫などの尊称がつけられ、同一文章中に出てくる
男には尊称がつけられていないというへんてこなことになる。
317 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 12:06:39
>>316 あまりにも「〇子」型の実名が普通になってしまったので「彰子」で名前に
見えてしまうけれど、命名規則から言えば、漢字一字+子または姫で、
意味は違うけれど「子」は「陛下」に、「姫」は「殿下」に対応するような
使い分けになるわけだ。藤原彰・陛下 藤原時・殿下 というような。
すべての女性の貴人に子(ないし姫)がもれなく付いているのであれば、
当時の人は「子」も名前だと思っていたのだろうか?
もちろん当初から「〇〇子」型の名前との混同があったか、意図的に混同する
ように(受け入れやすいように)「子」や「姫」を採用したのかもしれない。
318 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 12:23:45
現在「〇姫」型の実名はそれほどないので、我々は「〇姫」は「〇」が実名で
「姫」は敬称ないし愛称に見えてしまう。
319 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 12:40:15
>>317 なぜ男性には尊称をつけない?
「道長」の「長」は尊称ではないが、
「彰子」の「子」は尊称で「殿」の意味ならば、
男は呼び捨て、女は必ず尊称付きということになる。
嵯峨天皇の代から、
男性が「〜親王」であるのに対し女性は「〜内親王」である、
親王や内親王が位を表す尊称なのに、
その前に女性だけ尊称を並べる意味がない。
もともとの「姫」の意味がどうであれ、
平安初期から名前の一部だとされていたことの証し。
村上天皇妃には藤原正妃という人もいる。
320 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 12:50:30
>>319 菅原清公に聞いてくれ。
あくまで基本は「唐風の名前にする」ということだから、男性が
漢字2文字ないし1字で敬称をつけないのは当然。
そうではなく女性に必ず「子」ないし「姫」を付けた意図が何か、
ということがポイントだ。
約一名(317)以外は、氏が敬称だなんて思ってるヴァカいないから
今後はスルーでいいよ。319・274見れば明らか。
322 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:23:51
>>321 >>89は俺が書いたわけでもコピペしたわけでもない。非常に見識の高い人が
書いていると思われる。
>「子」を女性の名の一定形と考えるよりも、××号や○○丸のような漢文体の書に
>用いる女性名の接尾語のように考えるべきです。
323 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:25:23
>>321 にたずねるが、どうして明治時代に「うめ」=「梅子」
「文」=「文子」と考えられていたんだい?
324 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:27:54
>>321 もう一つ。「姫」は名前の一部なのか、女性名の接尾語なのか。どっちだ?
325 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 00:47:01
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2813249.html?ans_count_asc=2 どうして○子という名前が主流になった?
鳩山一郎の奥さんの名前を検索すると「薫」と「薫子」の両方がいっぱい出てきます。
昔は新聞でも雑誌でも「薫子」が主流でした。「薫」という記事が出てくるのは最近です。
恐らく「薫」が本名でしょう。そして奥さんが活躍していらっしゃった頃は、敬称的な意味
合いでみんな「子」を付けて呼んでいたのだと思います。
戦後になってもしばらくの間は、「子」の付いていない昔風の名前の年輩の女性に手紙を
出すときは、たとへば「まつ」さんや「たけ」さんに出すときは、宛名を「○○まつ子様」や
「○○たけ子」様とするのが心得のようなものになっていました。
私の知っている限りでは、本名に「子」が付いている人は、そのまま「子」をつけて手紙が
来ていましたが、「子」のついていない人が自分から「子」をつけて来る例はあまり存じません。
326 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 01:35:51
327 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 02:03:32
328 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 07:01:21
329 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 07:22:45
>325−326
だからあ、「高貴な女性には子をつけろ」という
法律があった明治〜戦前は分けて考えるべき。
下級・中級武家出身の新興貴族が多かったこの時代、
高貴な公家の名前をまねることに意義があったのだから。
「藤原彰子」を「藤原彰」と書いた文献がある、とかなら別だけど。
「子」は名前の一部。
明治〜戦前は、親によって二文字の名前をつけられていた子女が、
親が出世したことにより急に上層階級をまねただけ。
330 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 07:24:33
>>328 それも、9世紀初頭、清和天皇の頃にはやった名前だね。
「多賀機子」などに見られる命名法。
ただ、その前、その後もそのように呼ばれていた可能性は低い。
331 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 07:48:08
>>330 筆者の榎村寛之氏は女性皇族に関してはトップクラスの研究者だろう。
そんなに簡単に否定していいのか?
332 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 09:17:28
あきらけいこ
とか
しづけいこ
とか
って読みは、T田氏あたりが適当に考えたって話もある。
しかしそれを真に受けた「宮○登美子」は、大河「義経」の中で実名不詳の
某人物の名を勝手に「あきらけいこ」と設定。
NHK大河のガイド本に中で、宮尾本人が
「こういう名前は当時は普通にあった名前です」とコメントしていたのには
笑ったw
333 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 11:16:11
これか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BE%B3%E5%AD%90 女性の名前についての研究をまとめた「日本の女性名」(角田文衛著、教育社、1980年)
では「のりこ」の読みを採用している。この説に従って宮尾登美子の『宮尾本平家物語』
(朝日新聞社、2002年)では「のりこ」とルビが打たれたが、これをテレビドラマ化した大
河ドラマ「義経」では「とくこ」になっている。しかしながら、必ずしも角田説の「のりこ」の読
みは一般的ではなく、小説のみならず中世史研究者の書籍でも依然「とくこ」(例:上杉和
彦明治大学教授『戦争の日本史 6 源平の争乱』(吉川弘文館 2007年)、関幸彦鶴見
大学教授『図説 合戦地図で読む源平争乱』(青春出版社、2004年)など)または「とくし」
(奥富敬之早稲田大学講師「歴史群像シリーズ 平清盛」)と読みのルビが打たれている。
334 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 11:18:24
そうすると、本当に「あきらけいこ」とカナを振った
文書があるかというところも疑問だな。
何と言う文書にあるの?
335 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 16:50:52
藤原彰子をたとえば「ふじわらのあきらのこ」と発音していたとしても
あいかわらず「子」は絶対に名前の一部だと言い張るのかな?
336 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 17:34:48
>>333 建礼門院の場合、訓読みは未詳だから必ずしも「のりこ」が正しいとも
確定できない。
結局女性人名は、便宜的に漢音による音読み「〜し」の言い方にしておくほうが
揚げ足を取られなくてよいという、研究者の自己防衛が働いていると思う。
337 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 18:52:42
大河「太平記」では、足利尊氏の正室「登子」の名前を「とうこ」と読んでいたね。
338 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:05:58
>>333 「藤原彰」と書いた資料を挙げれば早いでしょ?
「子」が名前の一部でないのならば、
当然、「藤原彰」と書かれた文献があるはず。
誰かが挙げていた明治期の新興貴族の娘は、
両方で書かれた文献が残っているのだから。
どの文献も「藤原彰子」となっているのは、それが名前だから。
>>334 古今和歌集に「斎院に侍りけるあきらけいこのみこ(=慧子内親王)」とある。
で「慧」も「明」も「あきら」と訓むから、明子も「あきらけいこ」だろうと
これも「日本の女性名」に書いていた。
340 :
338:2007/10/29(月) 19:22:49
341 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 20:14:34
>>338 「藤原朝臣彰子」となっているものもある。
342 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 20:55:40
>>338 おまえ
>>89を100回読んでから出直して来い。
>>339 もしこれが「明子」=「あきらけいこ」の理由なら、かなり根拠が薄弱
だね。榎村寛之氏が書かれているように、わざと判じ物のように、
常識的な読みでなくしている可能性がある。
343 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:10:21
てゆうかさ、「多賀機子」が「たかきこ」と読むのなら、この手の名前は
形容詞の連体形+子なわけでしょ?
だったら「あきらけいこ」「しづけいこ」じゃなくて
「あきらけきこ」「しづけきこ」じゃないの?
どうしてわざわざ「き」を音便化させるの?
344 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:32:16
読めないけどところどころ言われてみれば納得できるのはあるな
>>343 わざわざではなく、いつの間にか音便化してしまったんじゃないかな。
音韻論わかんないけど。
347 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:09:52
「あきらけいこ」「しづけいこ」にしたところで、「明るい子」「静かな子」
といった意味なのだろうから今の名前の概念とは余程違うな。
で、藤原明とか藤原彰とか藤原道とか書いた史料は見つかったかいw
>>346 いやいや、その通りだよ。音便とはそういうもの。
343が無知
350 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 02:41:13
351 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 02:46:32
>>349 なら「多賀機子」とさほど時代の変わらない「あきらけいこ」「しづけいこ」に
関して、既に当時「あきらけいこ」「しづけいこ」は音便化して発音することが
一般的だったという証拠でもあるのかよ?
「多賀機子」に関しては、「たかきこ」とか読めても「たかいこ」とは読めない
わけだから、この名前はこの表記を信用する限り音便化せずに発音していた
ことになるわけだが。
あと、これに限らず、そもそも人名訓を音便化して発音する事例があるのかよ?
352 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 07:36:28
ここまで来ると菅原清公・嵯峨天皇が具体的にどのように
指示を出したかも疑わしくなってくるな。
>>342 だよね。直接「明子=アキラケイコ」という史料があるわけじゃないんだし。
ちなみに「慧子=アキラケイコ」は、尊卑文脈にもしっかりルビで書かれてる。
>>344 「徳子=なりこ」なら、皇太子の名前の応用で判らないでもないね。
そういえば大正天皇生母の柳原愛子も「なるこ」で、知らないとまず読めないな。
訂正 尊卑文脈→尊卑分脈
355 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 09:20:52
>>342・350
お前が史料100回読み直せw
>でも、そんな彼女たちでも和文体の手紙ではしばしば「△△」と書きますし、
>口語では目上からは「△△」、他人からは「お△△さん」と呼ばれる。
まずは、平安時代の貴族の娘や后妃で「○子」とかかれる女性が、
子を省いて呼ばれていたという証拠の史料を挙げろ。
明治期以降は関係なし。
356 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 13:38:58
>>355 日本女性の名前の最後につける「姫」は名前の一部ですか?
はやく答えてください。
357 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 17:53:01
「子」は名前の一部。
反対者は史料を一切提示できない。
358 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 19:11:44
>>357 日本女性の名前の最後につける「姫」は名前の一部ですか?
はやく答えてください。
359 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:39:46
>356.358
話を混同させるなよ。
そもそも、嵯峨朝の例だけを引っ張ってきて、
「子」=「姫」だと解釈するオタクが間違い。
「子」は名前の一部です。
違うというのならば、史料を出しなさい。
「子」が名前の一部ならば、
「姫」も名前の一部だと証明しなければならないことにはならない。
360 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:42:19
191 名前:日本@名無史さん [2007/04/16(月) 22:25:20 ]
名前が漢字二文字というのは何故なんですか?
東アジアの伝統?
192 名前:日本@名無しさん mailto:sage [2007/04/16(月) 22:52:24 ]
>>191 一応、そう。
正確に言うと、五胡十六国/六朝時代後半からの中国の伝統。
それ以前は諸葛亮孔明みたいな、諱一文字、字ニ文字の形式。
それが諱ニ文字になって時代が下り、日本に導入されたという次第。
193 名前:日本@名無史さん [2007/04/17(火) 01:15:14 ]
>>192 字の意味で考えて良字2文字という名前の付け方が普及するのは平安初期から。
最初は漢文漢籍ヲタだった嵯峨天皇が、自分の子供たちを名付ける際に、
皇族籍に残す者は漢字2文字、臣下に落とす者は漢字1文字とした。
ただその際に、音読みでは味気ないので漢字の字ごとに人名訓が考案された。
その後、貴族社会では漢字2文字の名前のほうが一般的となったため、結局
漢字1文字は嵯峨源氏だけになった。
>>351 たかいこ、やすいこ、あきらけいこ、きよいこ、ひろいこ、などなど。
要するに形容詞の連体形(〜き)+子の場合。
>>356 例えば、『続日本後紀』承和八年(八四一)十一月丁巳(廿一日)条に
是の日、正三位百濟王慶命に從二位、无位阿子女王に從五位下、從四位下橘朝臣井手子に正四位下、
无位源朝臣潔姫に正四位下、從四位下當麻眞人浦虫に從四位上、從五位下飯高朝臣姉綱・
无位藤原朝臣潔子に並に正五位下、无位田口朝臣眞仲・菅生朝臣呰に並に從五位下を授く。
とあります。
慶命・阿子・井手子・潔姫・浦虫・姉綱・潔子・眞仲・呰が名前であり、
当然、子や姫がその一部であることは、命・虫・綱・仲などと同じく明らかです。
362 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:57:05
どういう場合に音便が起こるかってことですが。
もちろん動詞とか他の場合もあるのかも知れませんが、
浅学にして、他はよくわかりません。
364 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 04:05:12
>>361 新明解古語辞典によると接尾語の「-子」は
(1)人の意
(2)親しい人の意
(3)婦人の名の下に添える
となっているよ。
ひめ【姫・媛】
(1)女子に対する美称。⇔「ひこ」
(2)(後に)もっぱら貴人の女性の称。
365 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 04:08:28
つまり、嵯峨天皇が女性の名前に「姫」をつけなさいと命令した
ということは、必ず女性の名前に女子に対する美称をつけなさい
と命令したということだね。
「姫」と「子」は交換可能だから、当然「子」も美称となるね。
366 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 04:56:42
弟橘媛(おとたちばなひめ)は弟橘(古事記)と書くから、
「ひめ」は名前の一部じゃないよ。
367 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 06:22:05
結局「子(コ)」や「姫(ヒメ)」はもともと和語では名前に付ける敬称(例:馬子・妹子)や
美称(例:弟橘姫)だった。ところが嵯峨天皇が女性の諱には敬称・美称を含めるように強制した。
(もしかするとそれは解釈の間違いで、単に公式文書である漢文書面上では
必ず「子」か「姫」の敬称を付けて書くことにしただけかもしれないが)
人名訓なるものまで強引に作ってしまった。
368 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 09:01:04
>>367 その説だと、「蘇我馬子」の本名は「蘇我馬」、
「小野妹子」の本名は「蘇我妹」ということになる。
馬子や妹子の名前が、入鹿や稲目といった子のつかない名前
と同様にでてくるのはおかしいだろ?
それこそ、誰かが言っていたように、
「蘇我馬」「小野妹」と書いた文献を出して来いという話になる。
369 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:21:52
370 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:33:53
wikiはソースにならんだろw
お前が書いたのかもしれんしw
371 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 11:53:12
372 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 14:16:01
>369、371
そこに引用された話では、
「子」は男性につけた場合それは尊称だが、
女性につけた場合接尾語となっている。
上の連中は男でも女でも尊称だといいはるが、
根拠は?
373 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 17:05:37
>>372 上代は男性の敬称として子(ヒコの名残?)を付けたが女性にも子付きの
名前が出て来る。
ただしすでに出ているように「父親の一字」+「子」のパターンもあるので、
この場合は「〇〇の子ども」という意味が重なるのだろうね。
374 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 19:39:43
子とか姫とか彦とか武とか美とか、そりゃ名前の多くには美称や敬称が含まれる。
問題はそれが名前の一部なのかどうかってこと。
もうすでにいくつもの例が挙げられているように、平安時代に一部であることは明らか。
氏とか、さんとか、様とか、殿とか、閣下とか、陛下とかとは違うってこと。
あと時代を無視した超歴史的、超時代的な議論もやめましょう。
明治や江戸時代の話を持ってきて、平安時代の話をしても意味がない。
375 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:12:27
弟橘媛の媛って今でいえば明らかに「様」とか「殿」とかの類いじゃない?
376 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:32:22
女子の名前としての「〜美」は、本来的には朝鮮語に多く見られた名前。
前近代の日本ではあまり見られない。
377 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 07:55:17
天皇号の「仁」も尊称だと
言い出す奴がでてくるんだろうな
378 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 11:15:03
「もののけ姫」「あんみつ姫」はあっても「もののけ仁」「あんみつ仁」
はない。
379 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 11:28:26
誰も通字や偏諱と、「ヒメ」や「コ」のように歴史的に一貫して敬称・愛称として使われている
文字との混同なんてしてないって。
380 :
374:2007/11/01(木) 11:37:03
>375
だ、か、ら、
鎌子や御食子や国子、連子が、賀麻・彌気・国・牟羅志と書かれるように、
上代にはそういう例もある。それで平安時代の議論をしても無意味。
ついでながら弟橘媛は、景行紀五一年八月壬子(四日)条に、
兩道入姫皇女、布忍入姫命、吉備穴戸武媛、弟橘媛、と並んで見えるが、
これらのうち皇女・命は尊称だが、姫は名前の一部。
古事記には弟橘比売命とあるように、この場合、命が尊称で比売は名前の一部。
男性も同様。例えばワカタラシ彦が名で、命・尊・天皇などが尊称。彦は名の一部。
381 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 12:07:36
>>380 弟橘媛は橘皇后(たちばなのおおきさき)とも書かれているだろ?
>>381 だからと言って橘が名前とはならないだろ?
弟・若・稚、そして彦・姫など、尊称や通称に由来する字句が名前には含まれうる。
だからと言ってそれらを取ってしまったら名前ではなくなってしまう。
大彦命は命が敬称で大彦が名前。大ではない。
(以後、拙レスでは名前に含まれる部分は尊称、そうでない部分は敬称と区別する)
『風土記』には橘皇后の他にも、ミマキ天皇という言い方も出てくるが、
崇神の名はミマキ入彦であって、入彦まで名に含めるべきである。
彦や姫は、ツミやミミ、トベ、タケル、タマ、ヌシ、モリ、ネコなどと同様、
地名などに附けてその地の豪族を表す尊称に由来する。(太田亮の研究による)
由来するところはそうなのだが、だから名前には含まれないのかと言えば、そうではない。
これらを取り去ってしまうと到底名前とは言い難いものがいくつもある(というか殆ど)。
サホヒコ命(王)はサホヒコが名前だし、サホヒメも同様。もちろんどちらも
親しみを込めてサホちゃん呼ばわりされることはあっただろうし、ミマキ姫やミマキ彦、
橘姫も同様。しかし、それと正式名称とは話が違う。
383 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 15:14:54
>>382 そもそも「弟」というのは「妹」とか「末っ子」って意味だろ?
仮名の「太郎」とか「次郎」にあたるわけだ。
九郎義経は九郎が仮名で義経が諱。「九郎義経」という一つの名前があるわけではない。
また「ヒメ」は女性の尊称だから、「橘」だけが切り離されて「橘皇后」になるわけだろ。
384 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 15:33:49
385 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 16:08:43
平安時代の話をしているはずなのに、別の時代の話をもってこられてもなw
平安時代には「隆姫女王」など、正式な文献に「姫」が省略されてない、
姫は名前の一部。
日本書紀の時代は、書記と古事記の間にすら名前の異動が多い。
名前の一部が別の文字に入れ替わっていたり、名前の一部が省かれていたり。
例に出すのは適当ではないが。
386 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 16:54:55
>>385 「平安時代」なんてミスリーディングなことを言うなよ。
嵯峨天皇という個人が唐を真似て勝手な命名規則を作ったっていうのが
諸悪の根源だろ?
現代まで嵯峨天皇の命名方法の影響が続いているのはすごいな。
388 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 17:17:59
桓武天皇妃
藤原旅子
藤原吉子
坂上春子
藤原河子
平城天皇妃
藤原帯子
藤原薬子
蕃良藤子
伊勢継子
「○(漢字一文字)+子」の女性名など、
嵯峨天皇以前からある命名法。
389 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 17:39:08
>>388 既出の通り、もともと「コ」は男子の敬称だったがその後女性にも使われるように
なった。赤猪子のように「〇〇子」型の女性の名前もあった。それらは女性の名前の
一つのパターンに過ぎなかった。
桓武天皇の母親は高野新笠(たかののにいがさ)なんてとんでもない名前だよな。
それなのに嵯峨天皇は「〇」+「子」に限定してしまった。
さらに(俺はソース未確認だが)人名訓まで作ったという。
嵯峨天皇以前の女性の名前も、我々はしばしば人名訓で読んでしまっているのでは?
390 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 18:00:41
それまでは天皇の皇子女は養育者の名前がつけられていたから、
一般貴族の娘たちのように○子という名前に変わっても別によかったんじゃないの?
そっちのほうがよさそうだし。
嵯峨天皇の暴挙とか、名前をつけられた本人はそんなこと思ってなかったでしょ。
391 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 18:08:31
もし嵯峨天皇が桓武天皇の母親にあやかって名前の最後に「笠」をつけると
決めたら、いまごろ「信笠」ちゃんや「智笠」ちゃんであふれかえって
いたわけだ。
392 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 18:12:13
>嵯峨天皇の暴挙とか、名前をつけられた本人はそんなこと思ってなかったでしょ。
そりゃそうだ。女性の諱なんて一生に何度も使わなかっただろうから。
393 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 18:46:08
>>392 官位を貰う際に使いました。
それをいうなら、男性の諱も一生に何度も使われなかった。
女性同様、官位を貰うときだけ。
天皇も親王の諱も同様。
394 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 19:49:38
その一生に何度も使わなかった諱を真似て呼び名にした明治の庶民って馬鹿過ぎ。
395 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 19:55:20
庶民は名前で呼んでたでしょ
官位がないんだから
貴族でも下級貴族は名前で呼ばれていた例がある
光源氏の侍者の惟光とか
396 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:20:35
>>395 江戸時代までの庶民の女性はだいたい2文字のかなの名前だった。
別に「〇子」とういう名前が畏れ多いから付けなかったのではなく、
そんなもの人間の名前だとは思っていなかったのだろう。
397 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:22:10
釣りですか?
398 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:23:36
江戸時代までじゃなくて、江戸時代から明治の中期くらいまでね。
大正か昭和の初期くらいまでかうろ覚えだが
女学校の生徒同士が手紙をやりとりするときに
相手の名前に子をつけるのはマナーだったらしいよ。
夏目漱石の奥さんも鏡子夫人などと言われているけど
本名はキヨだってね。
400 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:40:03
401 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:43:00
>>397 釣りじゃないって。
今もそうだが、名前は周囲と違うと異国人・異分子のように
扱われやすい。まわりのほとんどの女性の名前が二文字のかななのに、
自分だけ「〇子」なんて名前にしようと思う馬鹿なんていない。
で、源朝臣潔とか、藤原朝臣彰とか、藤原朝臣定とかって史料は見つかったかいw
403 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:33:18
>>402 核戦争後の地球で焼け残った数少ない20世紀の公文書には
名前に必ず「殿」がついているから20世紀の人間は必ず名前に
「殿」をつけていたと言い張るようなものだな。
まだ言ってるよw
なるほど、姫や子は殿と一緒なんだね。
一つお勉強になったよ。
平安時代って女性にのみ敬称をつける、素敵な時代だったんだね。
で、見つかったかい?
405 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 23:46:09
>>404 いい加減レベルの低い話は止めなよ。
普通の人間の感覚なら姫と殿は一緒だろ。
「姫!」「殿!」どちらも通用する。
レベルが低い話をしてるのはどっちだよw
じゃあ誰でもいい、教授でも准教授でも助教でも、名誉教授でも、院生でも
ODでも、どこの誰でもいいから平安時代専攻の研究者に言ってみろよ。
「源潔姫や藤原彰子の姫や子は敬称であって、名前の一部ではないですよね」って。
丁寧に諭され細かく説明されるか、無言のまま苦笑されるか、ま、そんなとこだな。
407 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 03:44:47
408 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 04:48:54
考えてみると、ほとんどの日本史研究者は日本人の名前の研究なんか
してないよな。そもそも
>>399のような事実を知っている研究者さえ
いまでは少なくなっているのでは?
あえて言えば国文学か日本文化史に詳しい人がいるのかな。
角田文衞だって本来の専門は考古学だ。
409 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 05:53:45
「ヒメ」は名前の一部である場合もない場合もあるという説。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa898926.html 3)媛・姫(ひめ):これは、婦人に対する「美称」で、後には、高貴な女性の尊称ともなりましたが、
古代では、美称であって、「名前の一部」にもなったと考えられます。例えば、推古天皇は、和名の
諡名(贈り名)では、「豊御食炊屋姫天皇(よとみけかしきやひめのすめらみこと)」と言います。
皇極天皇(斉明天皇)は、正式な贈り名は長いですが、簡単には、「宝姫天皇(たからひめのすめら
みこと)」とも呼びます。「宝」が名で、皇女のときは、宝皇女(たからのひめみこ)ですが、天皇とし
ては、「宝皇女天皇(たからのひめみこのすめらみこと)」とは言いません。また、皇極天皇の母は、
吉備姫女王(きびのひめのおほきみ)と言いますから、「姫+女王」で二重称号ではなく、美称とし
て「姫」が加わって、「吉備姫(きびのひめ)」で名となっていると考えられます。
蘇我稲目の娘で、舒明天皇の妃となった二人の娘は、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねきみ)
と呼ばれますが、この二人から生まれた皇子や皇女は、色々と複雑な関係になり、小姉君系の子孫
は結果的に滅ぼされていますが、この場合の「媛」は美称で、「君」は尊称で、そのまま、名前の一部
になったものと考えられます。「小姉」というのは名前というより、家族のなかの位置を示しているよう
にも思えますが。古代の人名での使用例から言えば、「姫」の方が「媛」よりも身分が高いように思えます。
410 :
406:2007/11/02(金) 06:13:16
まあ、一生懸命奈良以前や明治以後の話を何度でもして下さいな。
源潔姫や藤原彰子の姫や子は敬称であって、名前の一部ではない、
なんてトンデモ説はどうしたって証明できっこないですから。
ほな、がんばって下さい。
>>407 89氏が平安時代についてはどう考えているのか、89のレスでは確かな
ところは分からないが、もし彰子や潔姫についても同様に考えているのなら、
もしどっかの(大学の)先生だとしたら、お恥ずかしいことですなあ。
たぶん違うと思うけどね。
411 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 06:21:12
>>410 救いようのない馬鹿だな。平安時代だけ特殊な時代なのか?
まずは平安時代だけが特殊な時代だと証明してくれ。
でました証明責任の転嫁
>>411 女性が名前二文字だったのなんて、戦国〜明治ぐらいの
庶民の娘だけだろう?
二文字の庶民の娘に子をつけて上流ぶった明治時代が特殊なんだよ。
戦国〜戦前だって、公家の娘は名前の一部として子がついていたし、
子が殿や様の意味で省略された例などない。
それをいうなら、君のいう江戸時代の例で、
「鷹司孝子」や「近衛煕子」が
「鷹司孝」「近衛煕」と書かれた例を挙げてみてよ。
414 :
410:2007/11/02(金) 10:11:38
>>411 平安時代だけが特別だなんて誰が言った。あらゆる時代は特別だよ。
どの時代も他の時代とは違う歴史的存在だ。だから歴史学という学問が存在しうる。
特殊なのはお前の頭だよ。なぜ六国史で源○姫は敬称付きで、信や定は呼び捨てなんだ。
なぜ、藤原○子は敬称付きで、男性は呼び捨てなんだ。説明出来るもんならしてみろ。
レフェリー論文10本以上の俺を救いようのない馬鹿呼ばわりするんだから、
余程優秀な方なんだろうとお見受けした。素敵な説明待ってるぜ。
もう二日以上待ってるんだからな。こっちはそっちの質問にはいちいち
史料を挙げて答えてきたのに、そっちは何度この同じ質問をしても一度も答えない。
全く413さんの言う通り。藤原詮とか藤原道とか、そんな例があるなら挙げてみろ。
>ほとんどの日本史研究者は日本人の名前の研究なんかしてないよな。
おまえが知らないだけ。
一時期の中世史なんて、名前の研究ばかりだった時期もある。
>高野新笠(たかののにいがさ)なんてとんでもない名前だよな。
何がどうとんでもないのか、さっぱしわからん。
屎子や尿麻呂よりいいだろ。これらとて古代人にとっては別におかしくもない。
逆に彼等からすれば現代人の名前はヘンテコだろ。
現代の感覚で、とんでもないだの、なくないだの言ったって無意味。
人名辞典は全て書き直さなくちゃいけないな。
藤原氏の項目は大変だ。女性名から子を全部取らなくちゃ。
そうそう、小野妹子も同様らしい。それから姫も取らなくちゃいけないらしい。
国史大辞典も書き直さなくちゃ。わ〜い、大変だ、大変だあ。
419 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 19:43:36
自分の家族に「〇子」がいるからこれだけ逆上してるんだろうなあ。
かわいそうに。
姫なんて名前の一部なわけないじゃん。
全くヴァカばっかしだね。
↑最近、また○子多くなってきてるよ。
421 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 23:40:50
広辞苑
こ[接尾]
1.古くは男女ともに、今は女の名の下に添える語。大和「右馬允藤原千兼といふ人の妻(め)には、
とし―といふ人なむありける」。「小野妹―」「花―」
ほれ見ろ。子も姫も名前の一部なわけねえだろ。
アフォか。
423 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 05:40:42
>>417 歴史学者が「孔子」(孔先生)とか「老子」(老先生)とか
歴史上の人物をわざわざ敬称を付けて呼ぶわけがないから、
「孔子」とか「老子」と書いてある歴史書も全部書きなおさなくちゃね!
424 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 05:54:55
「〇子」「〇姫」型の女性の名前というのは、当時の日本の女性
人口の0.001パーセントくらいの人が、生涯に何度かしか
使わない諱として付けられたものに過ぎない。
いわばオウム真理教のホーリーネームのようなものだ。
こんな例え話をしてみよう。
オウム真理教が日本支配に成功し、世の中では「様」や「殿」はあきらかに
敬称として使っているのに、ホーリーネームには必ず「様」や「殿」を入れろ
と教祖が命令した。
これによって「アーチャリー様」という「名前」が付けられ、公式の場では
絶対にアーチャリーを「様」を抜きで呼んではいけないことになった。
(実際はまわりからはアーちゃんとか全然別の名前で呼ばれている)
世間の人はこれを裏であざ笑い、決して自分たちの娘には「様」や「殿」付きの
名前など付けなかった。
しかしオウム真理教の御用学者は「アーチャリー様」は公式文書にも必ず
「アーチャリー様」と載っているから、「様」は不可分の名前の一部だと主張した。
425 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 06:27:29
そしてオウム真理教の影響力は一時下火となったが、1000年経って
再び歴史の表舞台に立ち、オウム真理教は日本人の熱狂的な支持を
集めるようになった。
教養のある人は「様」は敬称だと知っているので本名とすることははばかった
が、教養のない人はホーリーネームを真似て自分の娘に「美咲様」「遥様」
などと付けるようになり、一時はそれが多数派にまでなった。
オウム真理教崇拝熱が収まるとともに、名前に「様」を付けるのは日本語として
不自然であることに皆気付きはじめ、再び「様」が付かない名前が多数派となった。
426 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 07:31:19
ただ、嵯峨天皇が公文書に「子」「姫」付きで名前書かせたのは、
あくまで当時の漢文公文書の都合の可能性があり、現在の名前の概念
とは相当違うと思われる。嵯峨天皇の指示のソースってないの?
既出の通り、「高貴な女性」の意味での「子」と解釈できる場合でも、
「あきらけいこ」(明るい子)、「しずけいこ(静かな子)、「たかきこ」(高潔な?子)
だったり、北条時政の子(時子、政子)の意味だったりするわけで、「〇+子」型
の名前の「〇」と「子」はやはり意識上分離して使われている。
なるほど。
そのうち、○様とか、○殿、○氏とか言う名前が多くなるかもね。
>>426 分離ってゆうのがようわからんなあ。
一文字目が二文字目修飾してるんだから、分離してないんじゃないの?
むしろ例えば、尊仁とか、○+通字(あるいはその逆)とかのほうが、
一文字目と二文字目につながり無いんじゃないの。
都合ったって、過去レスにもあったけど、女性だけってのが説得力ないなあ。
>>423 姓に付いてるのは直す必要ない。
直すのは、まあ源平藤橘その他合わせても、女性の数は男性よりは
少ないだろうから、そんなに大変な仕事ではない。
430 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 09:46:16
氏は昔からあるだろう。
>>428 同感。男は皇族でも敬称なしなのに、女だけ敬称つきというのは不可解。
ところで話は逸れるが、頼通夫人は隆姫女王が本名でいいのだろうか。
資料によっては隆子女王だし、妹の名前も嫥子女王だし、かと思えば
Wikiでは源隆姫になってるし、お勧め史料があれば紹介求む。
432 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 10:00:16
>>431 「子」と「姫」が交換可能ならなおさら名前の一部じゃない
のでは?
433 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 10:20:24
434 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 15:16:51
隆姫っていつ臣籍降下したんだろう。このころの二世って男子は臣籍降下するけど、
女子は女王のままだと思ったが。
>>434 資定王は2歳で父親と死に別れて姉である隆子女王(源隆姫)に育てられる。
後に女王が摂政藤原頼通の正室となると、子供のなかった頼通は資定王と
養子縁組をするために、姉弟を臣籍降下させたのである。
頼通の父・藤原道長も師房を寵愛して娘を嫁がせた上に頼通に男子が生まれなければ、
師房を藤原氏に改姓させて摂関家を相続させても構わないと言ったとされている。
摂関家との強い結びつきは「源氏と雖も、土御門右丞相の子孫は御堂の末葉に入る」
(『台記』)といわれた。すなわち、村上源氏にして、藤原道長の子孫ということである。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%BA%90%E6%B0%8F -----
つまり隆姫の同母弟・資定王が成人して源姓を賜ったとき、同時にかと。
436 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 17:17:53
>>399 明治・大正期の女学校の名簿なんかだと、実際の戸籍上の名前とは関係なく、
全員の名前に「子」をつけるか、全員の名前から「子」を外すか、校長の判断で
そのどちらかに勝手に統一していることが多いな。
>>415 でも年配の研究者でも、名前の研究なんて一度もしたことなさそうな人は
いくらもいるが。
>>434 自分も隆姫が臣籍降下したとは聞いたことない。(単なる勉強不足かもしれんが)
大抵の本では「隆姫女王」ってあるから、ずっと皇族のままだったとばかり思って
たのだが、叙位とかの史料で「源隆姫」って記載がどこかにあるのか?
ついでながら、嵯峨天皇の皇女たち以外で臣籍降下したから姫になったという
パターンもやっぱり覚えがないのだが。(と言ってあったらごめん)
438 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:51:34
「私、隆子。でも明日から隆姫よ」って芸能人じゃないんだからさ。
臣籍降下すると「隆子」が「隆姫」と「書かれる」のであって、「子」や「姫」は現在の
ような意味での名前の一部ではないことは明らかだ。思い込みというのは恐いね。
>>436 「子」はそもそも敬称なのだから、全部付けるか外すかしかないですね。
439 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 22:17:41
だから、まず隆姫が臣籍降下したソースは?ウィキじゃだめだよ。
あと、なぜ臣籍降下すると「子」が「姫」に変わるのか?嵯峨天皇の皇女以外でだれかいる?
440 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 22:57:58
できれば一次史料希望。
隆姫といえば、その姪で養女の中宮嫄子も「嫄子女王」って書かれることが
多いけど、正式には藤原嫄子だよね。
白河中宮の藤原賢子は元々源姓だったけど、嫄子の場合は養女(藤原姓)に
なることがイコール臣籍降下でもあったと理解していいのかな?
子や姫が名前でないことは確定。
あとは、なぜ女性だけかってこと。
敬称じゃなくて、卑称じゃないのかw
図書館で「読みにくい名前はなぜ増えたか」という本をたまたま読んでみたら、
奈良・平安の女性名の「子」は「小」同様指小辞だ、とあった。つまり「売(め)」
「姫」「刀自」と同じような、接尾語の一種ということらしい。
なお「子」についてはさらに「可愛らしいものに対する親愛の情を表すのが
本義であろうから、幼名に発するものであろう」ともあった。
ついでに「売」「姫」等は、幼名や通称としても用いられたようだ、とのこと。
445 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 07:46:15
446 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 07:56:49
で、教授でも准教授でも助教でも、名誉教授でも、院生でも ODでも、
どこの誰でもいいから同一人物を「隆子」「隆姫」と書いた事実をどう
説明してくれるのかな?
406 :日本@名無史さん:2007/11/02(金) 00:44:25
レベルが低い話をしてるのはどっちだよw
じゃあ誰でもいい、教授でも准教授でも助教でも、名誉教授でも、院生でも
ODでも、どこの誰でもいいから平安時代専攻の研究者に言ってみろよ。
「源潔姫や藤原彰子の姫や子は敬称であって、名前の一部ではないですよね」って。
丁寧に諭され細かく説明されるか、無言のまま苦笑されるか、ま、そんなとこだな。
>>440 「降嫁」したとは書いてあるけど「降下」したとは書いてない。
臣下に嫁いだ女王は多いけど「女王」のままの女性は多い。
その一文だけじゃ「源隆姫」になったことにはならないよ。
448 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 14:12:55
>>447 以下の論文が存在する。
歴史の専門家が「隆子」と「隆姫」の両方を使っているのは明白だな。
これ以上なにが必要なのか?
論題 隆姫の嫉妬
著者 坂本 賞三
雑誌名 日本歴史
出版者・編者 吉川弘文館 / 日本歴史学会 編
巻号・年月日 (通号 493) [1989.06]
ページ p40〜45
専門家が一人「隆子も使っている」と主張すれば、それが絶対なの?
あと440であげられているサイトには「隆子」なんて書かれていないよ。
唯一「隆子」と書かれている場所
>>これを憂えた道長は、源師房を頼道の養子にします。頼道の弟教通の長男である信家も養子にされました。
道長がその決断を下したのは治安3年(1023)、源明子の女児、隆子を師房に嫁がせた時と考えられます。
道長は師房を頼道の後継者にするつもりでした。その後藤原道長が師房を重視したのは、師房は4年間昇進がなったのに、
隆子との結婚の半年後に従四位下から従三位に3日間で昇進していることからもわかります。
は、尊子の書き間違いでしょう。
あと、日本歴史の論文は未読だが坂本氏は「隆子女王が臣籍 降 下 」して「源隆姫」になったって書いてるの?
一次資料も教えてほしい。
>>440 は孫引き(原典に当たっていないこと)。
当時の一次史料を引っ張ってこないと全く意味がない。
日本史板とは思えないレベルの低さw
>>449 道長女の尊子の名は始め隆子だったらしいので、ある意味間違いではない。
尊子と隆姫女王はお互い相手の兄弟と結婚していて、二重に義理の姉妹に
なったわけだから、同字を避けて尊子の方が改名したのだろうと推測されて
いるんだとか。(訓はそのまま「たかこ」で)
ちなみに「日本古典文学全集・栄花物語三」月報収録の角田氏の小論「隆姫
女王」ではほぼ一貫して「隆姫女王」または「隆姫」で、降下云々には特に
触れられていなかった。
ついでに本の中の表記は、隆姫は女王なしの「隆姫」だけど、中宮嫄子は
崩御までずっと「嫄子女王」…どうなんだろう結局。
452 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 17:37:43
なんかみんな凄いね。
よく知ってるよ。
453 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 18:24:35
>>449 何が言いたいかよくわからない。
最初から「隆姫」はあくまで「隆姫」であり「隆子」であったことなど
なく「隆子」と書かれるのは間違いだと主張してるの?
454 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:12:33
yes
455 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:24:14
456 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 20:19:12
「源隆子」の子が姫の書き違いなのかどうかはよく分からないが、
・隆子は姉妹に「子」が付いているのだから当初は「隆子」と書かれたはず
・源姓なのだから臣籍降下したのだろう。
・隆子の生存とほぼ同時代に書かれたという「栄花物語」では「隆姫」のようだか
ら、「隆子」=「隆姫」で当時の人は何の疑問もなかったのだろう。
と思われる。
今の感覚で言うと「隆殿下」という呼称が降嫁によって「隆さま」に変更になった
という感じじゃないかな。
451に補足。
紛らわしい書き方したけど、「栄花」本文では高貴な女性は実名で登場する
ことはない。「隆姫」や「嫄子女王」等の表記は現代語訳や注釈での話で、
隆姫の場合、本文では「殿の上」とかになっている。
ついでに「大鏡」も、男性は実名が出るけど女性は女君とか○○女とかで、
実名表記は殆どなし。(ただし歴代天皇の生母は実名あり)
ところで御堂関白記とか小右記とかには、隆姫でも隆子でも実名で出てた
ことってあったっけ?
458 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 23:14:53
>>457 なるほど、そうですか。角田氏の「隆姫」表記は何に由来するのかな。
『小右記』万寿1年9月19日「一枚従三位隆姫女王」
『御堂関白記』寛弘8年8月11日「隆姫子女王〈従四位上〉」
ほれ見ろ。姫や子なんて名前じゃないんだよ。ヴァ〜カ
460 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:21:02
>>459 いまいちよく分からないのでもう少し説明してくれないか。
頼通に隆子=隆姫が嫁いだのは1009年だから、それ以降は「隆姫」となるはず。
万寿元年=1024年だからここで「隆姫女王」となるのは予想通り。
寛弘8年=1011年だからここでも隆姫となるはずだが、「隆姫子」と
「姫子」という二重敬称のようなのが付いている。
「姫子」などとも書かれているから「姫や子なんて名前じゃない」ということ?
461 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:22:46
御堂関白記は誤字脱字当て字が多いことで有名。姫子が合っているかどうかはわからない
462 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:45:09
いまでも「天皇陛下様」と二重敬称で書いてしまう人は多いよな。
463 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 08:00:59
御堂関白期
道長は、あれ?
隆姫女王だっけ?隆子女王だっけ?
と迷って両方書いちゃったのかも
464 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 08:25:36
藤原行成の「権記」に、
左府(道長)の奥方の名前を知らなかったのでたずねると、
「倫子」であると道長が答えた、という文章があるね。
他人に自分の奥さんを紹介するときに敬称など使わないよね?
道長が妻の名前を「倫」と言わずに「倫子」と答えたことは、
それが名前である証拠だね。
465 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 09:22:04
466 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 09:28:08
今調査途中だが、とりあえず「大日本史料」三の一から。
「本朝世紀」
寛治元年十一月二十二日 従一位隆姫子女王薨逝
「扶桑略記」
寛治二年正月十日 故高倉従一位源氏之七々法事也、前中書王具平親王女、宇治入道大相府家室也
「尊卑分脈」
具平親王女子 従一位隆姫女王
「寺門高僧記」
願主従一位源隆姫子、宇治入道前太政大臣之室、後中書王具平親王之女
「寺門伝記補録」
長久元年十月二十日、常行堂再興供養、願主宇治関白北政所従一位源隆姫子
自分も最初「隆姫子」って道長の誤字かと思ったが、ますます判らなくなった…
467 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 12:20:11
>>466 これは面白いですね。
まさかかつて子がついていたから姫のあとに子をつけてみたというわけでは
なかろう。
本居宣長、内藤湖南、坂本太郎など卑弥呼=「姫児(ひめこ)」「姫子(ひめこ)」
と言っているらしい。
http://scrapbook.ameba.jp/nankananka70_book/entry-10024041702.html >諸橋「大漢和辞典」には、「卑彌呼」の読みを、「ヒメコ」「ヒビコ」としている。意味は、
>「姫子。我が国古代の女王を中国で呼んだ語」としている。
卑弥呼の語源はともかく、日本語として「ヒメコ」を分解すると
「ヒ」美称、「メ」女性、「コ」指小辞の可能性が高いから、「姫子」というまとまりで
女性の敬称・愛称と考えるのが自然なのでは。
そうだとすれば隆姫に限らず「姫子」という記述は多くあるはずだけど、
隆姫に限られるのかな?
468 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 12:22:58
追加情報。
『小右記』万寿1年9月19日も、念のため確認したら「一枚従三位隆姫子女王」となっていた。
(ちなみにこの日は例の高陽院駒競行幸)
直筆ではないけど、実資が書き間違えるとはあまり思えないので、やはり「隆姫子女王」で
正しいということだろうか。
道長にしても、息子が高貴な嫁を迎えて喜んだのが本当なら、嫁の名前はともかく彼女が
源氏か女王かについて間違いをするほど抜けてはいないだろう。(それはそれで面白いが)
で結局、「隆姫子」が実名か、それとも実名「隆姫」で「子」が敬称か、または実名
「隆」で「姫子」が敬称もしくは「姫」「子」の二重敬称か、ってことになるのか?
469 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 13:53:07
歴史的文献に以下のすべてが存在しているのか。凄いな。
「源隆子」
「隆姫子女王」
「隆姫女王」
「源隆姫子」
原則的には「女王」は臣籍降下していない場合のみ使うはずだが、親王の娘には
違いないので臣籍降下していても尊敬の意味であえて「女王」と書いた可能性はあ
るのではないかな?
また「隆子」の表記が少ないのは満14歳くらいで頼通に嫁いでいるせいではないか。
他の「〇姫」に「姫子」と付けるケースは同時代の文書にないですか?
470 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 14:09:14
二条の后→高子(たかい子)は分かる。
明子と書いて何で「あきらけいこ」、
と読むのか教えてプリーズ。
源高明が「たかあきら」だったので、
明→あきらと云うのが当時のデフォだったのかしら?
471 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 14:20:14
考えられる可能性としては、漢文で「姫子」という敬称があった(全然知らんけど)とか、
隆子が「子」と「姫」の両タイトルを経験しているので特別に「姫・子」の両敬称を
付けたとかいうくらいか(この場合は他の姫には姫子とは付けていない?)。
まさか「隆姫子」が名前ってことはないだろう。
これまでの情報では、俺は以下のように考える。
・源姓は持っている(女王は尊敬の意味で書かれたのだろう)
源姓を持っていないのに源などと書いたら遠島されるくらいの大問題だろう。
・「隆子」と書かれるべき時期はあった。ただ若くして「姫」付きで書かれるべき身分に
なってしまったので実際に「隆子」と書かれた文書は少ない。
・「隆」があえていえば名前の実体で、「子」「姫」「姫子」は身分の識別符号や敬称に相当する。
無論、実際の呼び名は「たかこ」でも「たかひめ」でもなく全然別だっただろう。
472 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 14:22:55
>>470 今でも「明らか」だよな。「あきらけきこ」が音便で「あきらけいこ」。
ただ既出の通り漢字と読みは必ずしも対応していないので、
字からは全く想像できない読みの場合も多いそうだ。
473 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 15:04:52
>>464 これだよね?
『権記』長徳四年十月二十九日
欲給爵賞於大臣室家之由可奏、又給三位階如何、
其由同加用意可洩申者、依不知御名、詣彼殿□案内、
丞相命云、名倫子、元従五位上
だそうです。
せっかくだから行成も、隆姫の名前どこかで書いててくれればよかったのにな。
474 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 15:25:21
道長の母ちゃん藤原時姫は、藤原時姫子と書かれた文献があるの?
平安時代は母系相続で、
道長は娘が生んだ子供たちのことはせっせと記録しているけれども
同居することのない息子の嫁や息子の子供たちのことはあまり書いてない
頼通の嫁とも同居していないので
道長関係の文献には隆姫はあまり出てこない
475 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 15:39:50
>>473 念のためコメントしておくけれど、
もし具平親王が娘が10歳の時に「娘さんのお名前は?」と聞かれたら
「隆子」と答え、結婚直後に同じ質問をされたら「隆姫」と答えただろうね。
>>474 隆姫子しか用例がなかったら、実は隆姫の「本当の名前」は「隆姫子」だ!という
主張が出て来るのかな。
476 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 17:46:06
>>474 『日本紀略』
永観二年二月十六日 贈故藤原時姫正一位
『公卿補任』
永観二年 非参議従三位同道隆(中略)母従四位上摂津守藤中正女 贈正一位時姫
とりあえず、「時姫子」と書いた史料は見当たらなかった。
>>475 でも10歳なら、裳着前でまだ実名なしの「大姫」とかだったかも。
(皇女や斎王なら、内親王宣下や卜定の時に名前つけられるだろうけど)
477 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 22:06:44
>>476 もしも隆姫に「隆子時代」が一切なく、最初から隆姫なのに「藤原隆子」が「藤原尊子」に改名
したとすれば、「隆」の1字が重なること自体が(同じ名前と認識されるので)まずかったという
ことなのかな。しかし仮にも親王の娘が14歳頃まで諱が与えられないといことがある
ものなのか。藤原尊子は常識的に考えれば隆姫が結婚する1009年、つまり6歳頃まで
に「隆子」という名前がいったん与えられていると思えるのだが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B0%8A%E5%AD%90 藤原 尊子(ふじわら の たかこ、長保5年(1003年)? - 応徳4年7月7日(1087年8月7日)?)は、
藤原道長の五女。母は源明子。太政大臣源師房正室。子に源俊房・顕房・麗子(藤原師実正室)・
藤原通房正室らがいる。初名は隆子。なお、初名については父・道長の『御堂関白記』や藤原実資
の『小右記』に記されており、婚姻時に夫の姉で尊子の異母兄藤原頼通の正室でもあった源隆姫
(具平親王皇女)の臣籍降下以前の名前と重なるために改名したと考えられている。
478 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 00:04:43
「姫」と「子」は実際に交換されたのではないかという説。
斎王の名前について考える 榎村寛之
http://www.pref.mie.jp/saiku/hp/hyakuwa/0014/0014.htm もともと女性の名前に「子」をつける事例は奈良時代には極めて少なく、藤原不比等
の娘の藤原宮子(聖武天皇の母)と藤原光明子(聖武天皇の妻)がよく知られている
位です。しかも光明子は、安宿媛というのがもともとの名ですから、まだ「子」のつく女
子名は一般的ではなかったといえます。ところが、平安時代初期、『日本後紀』『続日
本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』などになると、「子」のつく名前が増え
てくる。それも、9世紀前半には、「○子」と「○○子」というのが混在していたのに対し、
九世紀中ごろから、「○子」が優勢になっていく、という経過が見られるのです。(略)
この他にも、例えば「坂上御井子」「藤原乙名子」などというのも同様です。どうもこ
うした名前は、奈良時代の、「○○女(・・・め)」とか「○○刀自(・・・とじ))」とか「○○娘」
「○○郎女」「○○嬢(いずれも・・・のいらつめ)」「○○媛(ひめ)という代わりに「子」にし
ていただけかもしれないように思います。つまり、奈良時代なら「伊勢媛」とか「乙名女」
だったのが、「伊勢子」「乙名子」になったというわけ。
479 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 00:11:02
女性の名に「子」をつけるのは奈良朝末期から段々広まったが、
決定的にしたのは平安朝の嵯峨天皇で、内親王に「子」をつけることを
決めたのが始まり。
480 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 07:56:47
菅原清公が名前を唐風に改める建議をしたのが818年だそうだから、
「子」付きが増えるのは明らかにそのせいだろうね。
当時どうだったかは知らないが現代中国語では名前の頭に「小」を付けると
日本語の「〇〇ちゃん」という意味になる。日本語の「おしん」などの「お」も
中国語の「小」を真似たものという人もいる。
こういう中国の習慣を真似て「子」を付けるという発想になったのかも。
481 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 09:38:42
>>477 だから、皇子や皇女なら親王宣下で幼いうちに実名も決まるけれど、皇太子でもない
一親王の子、まして成人前の女子では、公的立場や叙位でもなければ諱は特に必要
なかったんじゃ?
もちろん、幼名とか内々での呼び名は何かしらあっただろうけれど。
ちなみに隆姫の弟の師房は、幼名「万寿宮」、元服前の名は「資定」と判っているが、
それがいつつけられたかは不明。(元服時に源師房に改名)
で、尊子の改名についてだが。
『御堂関白記』
長和二年(1013)九月十六日 従四位下、嬉子・隆子
『小右記』
長和四年九月二十日 従三位藤原嬉子・号小姫君、同隆子・号高松腹姫君
ちなみに頼通・隆姫の結婚は、『平安時代史事典』によれば寛弘六年(1009)。
頼通は兄とはいえ母親違いで家も別々だし、尊子(隆子)の名は多分長和二年の
叙位の時に決められたのだろうから、その時点ではさほど行き来もない異母兄の
嫁との名前の重複までは周りも考えが至らなかったんじゃなかろうか。
それが隆姫の同母弟師房と結婚することになって、初めて改名が必要だ、という
ことになったのかも。
(ただ残念ながら、師房との結婚に関する記事には尊子の名前は載ってないので
あくまで推測)
482 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 09:52:03
>>481 諱が「その程度のもの」だということは同意。結婚するまで「名無し」って
ことも実際あったかもしれない。
ただ皇族よりは身分が低い道長の女子でさえ1013年(隆子満10歳)の時には
「隆子」という諱が付けられていたのだから、当時の習慣として女子の諱を
付ける平均的な時期がいつか気になる。
483 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 10:01:39
>>482 尊子が10歳以前に隆子という諱をつけられていたというのは本当?
隆子は尊子が成人し裳儀をしたときの名前で、
頼通養子と結婚するときに義母に当たる頼通正室と名がかぶるのでかえただけでは?
10歳のときにその名前がついていたとはにわかに考えられないので。
名前がかぶる例では、道長の三女藤原寛子と頼通の次女藤原寛子の例があり、
叔母と姪ですら名前がかぶるのに、兄嫁と妹の例ではそれほど珍しくなかったと思われる。
裳儀をしたときに隆子と名前をつけたが、師房との結婚が決まったときに改名したのでは?
頼通は当初、実資の娘を師房の正室にしようとしたり、
はじめから異母妹に狙いを定めていたわけでもなかったようだし。
中右記 永久2214 隆姫子女王
寺門高僧記2、10 源隆姫子
出雲国返却帳 藤原楚姫子
名前のわけねえだろ。ざまあみろ。なんつて
485 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 11:05:13
486 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 12:12:47
>>483 ん?
『御堂関白記』
長和二年(1013)九月十六日 従四位下、嬉子・隆子
『小右記』
長和四年九月二十日 従三位藤原嬉子・号小姫君、同隆子・号高松腹姫君
から、1003年生まれの藤原尊子(隆子)は10歳までに諱があったんじゃないの?
487 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 12:23:49
>>482、
>>483 とりあえず、倫子腹の四人のデータを拾ってきてみた。(年齢は数えで記載)
彰子 長保元年(999)二月九日 着裳、従三位(11歳)
同年十一月 入内
妍子 寛弘元年(1004)十一月二十七日 正四位下、尚侍(11歳)
寛弘七年(1010)二月 入内(17歳)
威子 寛弘七年(1010)十一月二十八日 正四位下(11歳)
長和元年(1012)八月二十一日 尚侍(13歳)
同年十月二十日 着裳
寛仁二年(1018)三月 入内(19歳)
嬉子 長和二年(1013)九月十六日 従四位下(7歳)
長和四年(1015)九月二十日 従三位(9歳)
寛仁二年(1018)十一月十五日 尚侍(12歳)
寛仁三年(1019)二月二十八日 着裳(13歳)
寛仁五年(1021)二月 入内(15歳)
実名記載のないものも多かったので断言はできないが、少なくとも嬉子は
着裳よりはるかに早く初叙位・実名決定があったことになる。
尊子の着裳は判らないが、威子と嬉子の年齢から判断するに、やはり13歳
前後だったのではないだろうか。
しかし何しろ当時の最高権力者道長の娘たちの話であるし、他の貴族の例も
もう少し当たってみた方がいいだろうな。
488 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 12:25:22
>>485 中右記の記事が書かれた永久2年(だよね?)は1114年だが、中右記は隆姫没年の1087年
から書かれているそうで、著者の藤原宗忠(1062年生まれ)とは25年生存期間が重なっている。
結局これだけメジャーな「隆姫子」という表記をどう解釈すべきなんだろうな。
489 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 12:27:40
官位を貰うときに名前をつけたんだろう
それは男子も同じ
道長が権力者になるにつれ爵位の時期が早くなり
よって嬉子や隆子の場合十歳以下の少女時代に
爵位のために名前がつけられた
おそらくそれまでは小右記にあるように
小姫、姫君、などと呼ばれていたのだろう
490 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 13:37:15
>>484>>488 姫や子が名前の一部だって証明してどうすんのw
それだけいろんな史料に名前として登場するのならば、
もうどう考えたって名前の一部。
姫や子が名前の一部ではないといいたいのならば、
「隆女王」あるいは「源朝臣隆」と書かれた文献を
挙げなければならないこと、分かってる?
頑張って、探してねw
待ってるからねw
491 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 13:59:04
>>490 はあ?君のように「いろんな史料に名前として登場するのならば」という理
由なら、「隆姫子」が正しい名前だろ?
君はこれから「隆姫子」が正式名だと主張するんだよな?
492 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 14:09:57
記録はともかく、
>>466に挙げられているような
願文に隆姫子とあるところをみると、
おそらく本人がそのように願文に書かせた可能性が高く、
「隆姫子」が正しい名前だったのだろうね。
願い文に尊称をつけることなどありえないからね。
それで?
「隆女王」は見つかった?
見つからないなら、「隆」が本名なんて嘘だねw
493 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:37:24
>「隆姫子」が正しい名前だったのだろうね。
それなら話は簡単だ。「隆姫子」が名前だが、「隆姫」と「子」を省略
して書かれた文書も少なからずある。貴人の名前の不可分な一部を省略して書く
はずがないから、「子」は名前の不可分な一部ではない。
証明終了。
494 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:41:38
>>493 正式な文献に「子」を省略した例などないよw
頼通室は正式文献ではすべて「隆姫子」。
「隆女王」や「源隆」という文献がない以上、
おたくの説は通らないw
495 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:55:09
>>494 じゃ、これ引用ミス?
「尊卑分脈」具平親王女子 従一位隆姫女王
(1)「隆姫」+「子」
「子」は漢文としての敬称?
(2)「隆」+「姫子」
「姫子」は和語として「ひめさま」の意味だから、「隆ひめさま」の意味で「姫子」を付けた?
(3)「隆」+「姫」+「子」
隆子と隆姫の時期があったので「姫」と「子」の両方を付けた?
または二重敬称?
(4)「隆姫子」
「隆姫子」で一つの名前。
どれもいまひとつ決め手とはならないなあ。
496 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:59:46
尊卑分脈の原本には「隆姫」とは書いてないのかな。
それにしても「隆姫子」とこれだけ多くの文献に見えるのに、
歴史学者が「隆姫」と書いているということは、「子」は
名前の一部ではないと考えた合理的な理由があるのだろう。
497 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 16:20:39
「子」が名前の一部ではないというのならば、
もっと広く文献を出してほしいものだね。
隆姫一人じゃあ、不充分。
藤原彰子、藤原定子、藤原明子、源倫子、
「子」が省かれた文献をどんどん出してw
498 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 16:46:31
>>497 リアル厨房を相手にするほどヒマじゃないよ。
499 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 16:51:52
ここで子は尊称であって
名前の一部ではないといっているのは一人だけです
日本史の権威は誰一人そんなことは言っていません
相手にしないほうがいいよ
500 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 23:39:25
ここまでは異論ないよな。
・日本にもともと「〇子」型の女性の名前はごく少なかった。
・唐の制度、文化を嵯峨天皇が取り入れた。「源」という姓は魏書の源賀伝から取られた。
男性の諱は中国風に漢字2字または1字とし、女性の諱は漢字1字+子とした。
(臣籍降下した女王は漢字1字+姫)
>>500 そこでも疑問が残る。
唐風だと「○姫」はあっても女に「○子」はない。
日本ではどちらも使われたというのに、なぜ「○子」のほうが普及したんだろう?
502 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 00:06:48
>>501 武家にはやたら「〇姫」がいるじゃない。
明治以降の話なら、日清・日露戦争の勝利で民衆の皇室崇拝熱が
高まって民衆が「〇子」を真似した。わざわざ臣籍降下した女子
の名前(姫)を真似る必要はないから。
>>501つづき
経緯は
>>478-480にあるけれども、唐風だからそうなったといわれても
却って判らない。○○姫、○○嬢が排除されたのなら、逆に唐風から
遠退いたともいえるのだから。○○子は指小辞といえるのだが、指小
の形が好まれたからなのかなぁ。そういえば平安時代女性に元服は
なかったよね。指小辞つきの名がそのまま諱になったのだということ
なのかしら。
504 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 07:08:47
>>503 諱以外の名前は資料が少ないのだろうけれど、
>>478 の考え方では、もともと指小辞としての「子」を使う名前自体ごく少なく、
女性の名前には「め」「ひめ」「いらつめ」「とじ」とかが付いていたのに、
嵯峨天皇の頃からその部分が「子」に置き換えられる傾向があったということだよね。
505 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 08:09:37
現代の名前でも、
「康夫」「隆夫」だの、
「康男」「隆男」だの、
男性の名前の末尾に「夫」や「男」が使われることが多いとか、
「雅美」「恵美」だの、
「千花」「由花」だの、
女性の名前の末尾に「美」や「花」が使われることが多いとか、
その程度。名前の流行でしょう。
だからって、男や夫、美や花が尊称であって、
名前の一部でないなんてことはない。
506 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 09:16:17
>>505 「隆姫」についてwikiなどで書かれているように、社会的地位が変わると
「隆子」が「隆姫」に自動的に変わったとしても「子」や「姫」
は名前の一部か?
「康夫」だの「隆夫」だのは会社で昇進したり降格したりすると
自動的に「夫」が「男」に変わるのか?
507 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 10:04:18
>>506 wikiはガセw
逆に「彰子」や「倫子」が位が昇進しても変わらないのは
それが名前の一部である証拠。
508 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 12:12:21
>>507 wikiがガセとまで言い切るほど歴史に詳しいなら、
なぜ「隆姫子」と史料に書かれているのに多くの歴史学者が「隆姫」
と書いているか教えて!
509 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 14:12:27
「隆姫」の名が一般的だからでしょ。
本名じゃなくても「濃姫」と呼ばれたり、
それは様々。
本名と名字(叙位に際してつけられる)が別であること、
(例えば藤原泰子は本名勲子)
当時も音訓両様の読みがされたこと
(しかも本来は音読み。訓読みは同音を区別するための便宜)
など、すでに宮川葉子氏の研究があります。
ちなみに子が名前かどうかなんてことが議論されたことはありません。
そんなん名前の一部に決まってますからw
約一名の無知者のために無益な議論続けるのそろそろやめませんか。
>>508 写本には「○姫子」とあるのに、史料複刻者が先入観から「子」を
衍字と判断して、「○姫(子、衍)」のようにしてしまうからです。
過去レスに上がってる『小右記』や『御堂関白記』の刊本を見れば分かります。
>>510 音読みは正式な訓読みがわからなくなった江戸時代に
便宜的に学者が始めたものだと聞きましたが
嘘だったんですね。
512 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 16:23:57
>>510 平安時代補任及び女人綜覧人物索引 (本多伊平著)では、
「隆姫(子)」と書かれている。
平安時代の女性名の研究者が「隆姫」と「隆姫子」の両表記が存在することを
認識しているわけだ。これでも単なる間違いだと決め付けるのか?
なお国史大辞典(吉川弘文館)では「源隆姫」と書かれている。
臣籍降下しているという立場だな。
>>510 > など、すでに宮川葉子氏の研究があります。
書誌情報激しく所望
514 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 16:32:12
・藤原頼道の妻という歴史上の重要人物の名前が間違えられていたという大発見をした。
・当時の考え方では「隆姫」と書いても「隆姫子」と書いても良い(または書き分ける必要がある)
合理的な理由が存在した。
さてどっちでしょうね?
515 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 16:35:47
>本来は音読み。訓読みは同音を区別するための便宜
なら、なおさら漢字1字+「子」は(本来は男子の姓に付けるものだが)
唐の習慣を真似た可能性が高いな。「孔子」「老子」「荘子」の
ように。
516 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 16:37:05
爵位をするときに、朝廷からは正式に
だれそれを何位に序す、という達しが出る。
勿論、そこに記載される名前が本名。
隆姫の場合、両方の名前で申請したことがあるせいかも。
514のどちらの理由でもなくね。
>これでも単なる間違いだと決め付けるのか?
昭和時代に書かれた本の記述と、史料の記述のどちらを採るべきか、
言うまでもないでしょうw
518 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 20:24:35
>>517 君はどれだけの原本を見て「隆姫」(隆姫子ではなく)の記述が存在しないことを
確認したのかい?
519 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 21:29:38
本当に嵯峨天皇以降の女性の諱が音読みなら、いままでの議論は何だったの?
諱は「日本人の名前」とは何の関係もないということだよな。まさにホーリーネーム。
「源」という一字姓も中国古典から取って「中国人と同じ」一字姓。
男性の名前も「中国人と同じ」二字または一字の漢字。
女性の名前は一字の漢字+「子(シ)」。
中国人の名前で「子」が付くなら「孔子」「老子」の「子」と考えるのが当然。
読みだって「子(シ)」だ。
520 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 22:57:14
竹取物語に中臣ふさ子ってのが出てくるけど
521 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 23:36:13
「満子」「珍子」も実在するけれど「マンシ」「チンシ」なのね。
522 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 23:47:58
本来「定子」(テイシ)「彰子」(ショウシ)なのに、
江戸後期くらいから訓読み(さだこ、あきこ)するようになり、
それが本来の読みだと思い込んだ明治の庶民が「さだこ」とか
「あきこ」という名前を付けるようになったということでOK?
二代の后・藤原多子は、「タシ」ではなく「まさるこ」だと
当時の日記、それも養父とは言え親の日記に書いてあるが?
ちなみに多子=まさるこ=万佐留子だそうな。
524 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 00:45:51
>>504 うーん、姫や嬢や刀自は指小辞とはいえないと思うけれど
指小辞として使われたのであろう「子」が多用されたのは
奈良時代にあったとかいう、父親の一字+子という名づけ
にもよっているのかなぁと思ったが…どうなのかなぁ
後朱雀皇女の良子内親王の読みは「長」で「ながこ」だってよ。
既出榎村氏が紹介してた。(元論文&史料は不明だが)
あと、親の偏諱をとる命名については、『日本の女性名』では平安中期から
増えていったとしている。
例:源 明子(父・高明)
藤原周子(父・伊周)
527 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 07:22:07
>>526 それだと結局系譜に「女」と書くのと実質的に変わらないね。
「高明の子」「伊周の子」と書いているわけだから。
528 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:06:22
>>518 君の主張が事実なら、すべての教科書、百科事典、人名事典
を書き直さないといけないねえ〜
清少納言が仕えたのは「藤原定」、
紫式部が仕えたのは「藤原彰」、
尼将軍といわれたのは「北条政」なわけだ。
君の主張はまさに世紀の大発見だねw
529 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:18:18
530 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:25:10
>>529 その頃は男性官僚の名前は勿論、音読みだったのだろうね。
それで、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子はなんと呼んだのかね?
嵯峨天皇の頃のスタイルがその後も使われたわけじゃあるまいし。
「藤原道長(どうちょう)」
「源頼朝(らいちょう)」
とでも読んだというのだな。
まさに世紀の大発見続きだw
531 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:27:08
http://www.hamajima.co.jp/rekishi/rekishi-qa/a5.shtml 1240年ころに成立したといわれる「平家物語」には,「ヘイジ」「ゲンジ」とカタカナで読み
仮名がついています(新日本古典文学大系「平家物語」)。
「この一門にあらざらむ人は,皆人非人なるべし」といったことで有名な平時忠の読み方
は「ヘイ トキタダ」という読み仮名がついています。人物の名前も「ヘイ」と発音することが
あったようです。
藤原氏については,「平家物語」では「トウ」と「フジワラノ」の両方が出てきます。
「宇津保物語」では「トウジ」と読んでいます。
つまり,「トウジ」「ヘイジ」「ゲンジ」という,音読みが多かったということです。
「フジワラシ」という読み方は,もっと時代がくだったころからの,新しい読み方のようです。
532 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:28:26
>>530 君が考えるほど歴史というものは単純じゃないんだよ。
533 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 08:29:39
>>531 君は、姓ではなく名前の話をしていたんじゃないの?
名前が音読みだと主張するには、
「トキタダ」ではなく「ジチュウ」とでも呼んだ史料を探してこないと。
「時忠」を「ときただ」と呼んでいたのならば、
名前が訓読みだったことは確実じゃんw
534 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:03:47
>>533 読解力あるの?
510 :日本@名無史さん:2007/11/07(水) 15:38:25
当時も音訓両様の読みがされたこと
(しかも本来は音読み。訓読みは同音を区別するための便宜)
など、すでに宮川葉子氏の研究があります。
という話が紹介されたからみんな驚いているんじゃないか。
>>510 の人はもう少し宮川説のソースや概要の説明お願いします。
535 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:05:23
経歴から考えても本当にこの人が音読みだったとしているなら、
合理的な根拠があるのだろう。
淑徳大学専任教授 宮川 葉子(みやかわ ようこ)
平安文学専攻。研究テーマは「源氏物語」の各時代、特に中世・近世の受容の諸相。
青山学院大学、明治学院大学等の兼任講師、淑徳大学助教授を経て現職。文学博士。
主著に『三条西実隆と古典学』(第3回関根賞受賞)、『同[改訂新版]』『源氏物語の文化史的研究』。
536 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:15:41
よって宮川説が正しければ、
源隆姫子は「ゲンリュウキシ」のように読んだということになる。
537 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:33:41
毎日、同じ人の連投?
暇だねえ、ニート?
538 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:39:48
>>527 でも娘の場合、偏諱は長女と次女しか使えないよ。
まあ、伊周の娘は二人だったようだが。
539 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 09:47:53
道隆の娘や道長の娘も偏諱は受けていないね。
長女や次女であっても受けていない。
>>532 修辞が判っていないヤシなど相手にしなくてもいいよ
>>533 有職読みとどう違うのかなぁと思うのだが…
隆姫子が隆姫って書かれてる史料ってあるの?
史料だよ。同時代とは言わないが、せめて鎌倉期以前ね。
昭和は論外w
542 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 10:51:47
うん、隆姫子があるってのは分かったから。
隆姫ってのはないんだね。
544 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 11:33:54
>>495が挙げている「尊卑分脈」(隆姫女王とある)は
信憑性が足りないということ?
545 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 12:09:32
>>544 尊卑分脈の成立は室町時代。同時代のものに比べれば、信頼度はやや落ちる。
546 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 14:59:57
(1)藤原頼通の妻の諱は「隆姫子」か
史料を比較すると「源隆姫子」が最も信憑性が高いと思われる。つまり、
・臣籍降下している
・隆姫子が没時の諱
であろう。
以下のいずれかであろうか。
・いったん「隆子」の諱を与えられたが臣籍降下する際に臣籍を表す「姫」の字を
諱に挿入した。
・臣籍降下するまで諱は与えられなかったので、源姓とともに「隆姫子」という諱
が与えられた。
(2)当時は諱は音読みしたか?
宮川葉子説では基本は音読みだったという。
確かに従来の和語の名前を置き換えるには無理のある命名規則
なので、当初音読みであったとしても無理もないと思われる。
そうだとすると「人名訓」なるものを作って和語らしく読む習慣が出来たの
がいつ頃かということになる。
547 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 17:20:06
考えてみると「たかき子」とか「あきらけき子」というのは、
古事記時代の名前と比べるといかにも無理のある名前だな。
いったん嵯峨天皇「新ルール」で音読みで諱をつけたが、それでは寂しいので
無理して諱を和語で読みくだす(人名訓)ようにしたって思えるんだけど。
>>546 ここで頻出する潔姫と明子(あきらけいこ)はで嵯峨源氏の第一・ニ世代。
つまり○子が定着する初めの代のはずなのだが、これは訓読みなんだな。
古代から諱は真名書きしているのだし、男子は訓読、女子は音読という分け方の
根拠も想像し辛い。奏上などで音読「も」普及してきたと見たほうがいいのかも。
ともあれ、宮川説は嵯峨天皇よりもう少し後の話になるんじゃないかという気がする。
549 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 17:48:38
しかし、平安末期の近衛天皇の世には
「多子(まさるこ)」と訓読みであることが分かる。
平安時代に、女性名が明らかに「音読み」であると
資料で確認できる例はあるの?
「訓読み」であることが分かる資料ならばいくつかあがっているのに。
550 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 17:54:00
>>548 宮川説の概要を知りたいんだけど、男の名前も当初は音読みしたという話では?
和語の伝統的な男名(なんたらヒコなど)と、2字または1字の漢字名は
違いすぎる。
551 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 18:11:22
552 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 18:59:11
>>551 嵯峨天皇の皇子でなくとも、
小野篁などという人がいますよね?
この人は桓武天皇の世の生まれなので、
嵯峨天皇よりも早いです。
553 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 19:10:56
>>551 >漢字1文字は嵯峨源氏だけになった
仁明源氏にも漢字一文字の皇子がいたはず。
同様のことは仁明貞氏にもある。
臣下では嵯峨源氏より前に漢字一文字の
男性名があった。
また、嵯峨源氏にも漢字二文字の皇子がいた。
音読みのソースは『台記』じゃなかったかな。
それから本名の他に名字と言うのは院政期が初見。
摂関期以前には確認出来ないと思う。
音読みしてたというのも、いかにも読みにくい難字をつけるようになった
院政期以降じゃないのかな。
555 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 21:52:29
一つの仮説だが・・
嵯峨天皇による唐風名の採用前後でこんなことが起きたのではないか?
和名による名前
↓
唐風の諱を付ける。この時点では諱は音読み。しばらく(100年くらい?)の間は諱と
まったく違う和名(幼名ではない)も併用(いくら天皇の命令でも既存の和名をいきなり
捨てるとは考えられない)
↓
諱を人名訓のような方法で和風に読み下すようになる。これによって従来の和名は廃れる。
556 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 00:42:04
もし今偉い人に「君の名前は今日からフレッド」と言われても、現に今
使っている名前を捨てるわけにはいかないよね。
嵯峨天皇の時代の男性で、和名と唐風の諱の両方が判明している人って
いないの?
大学寮に入学した人間は、みんな唐名持ってるよ。
あ、話が違うかw
558 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 13:11:23
結局日本人の名前に「子」を付けるのが不自然だから、叩くとこれだけ
おかしなことが出て来るんだな。
559 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:05:33
女性の名前については歴史学者もいい加減過ぎる。
歴史書で最初に「北条政子」と書かれたのはいつか?
答えは1960年頃だそうだ。(中世の家と性 高橋秀樹著 山川出版社より)
平安時代は「名前」を知られると呪詛されると本気で信じられたのだから、
現代と名前が同じ感覚であるわけがない。
560 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:10:02
書評
http://yagimiya.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/index.html 「中世の家と性」高橋秀樹
書き出しが、北条政子と呼ばれる人物について、北条時政も夫の源頼朝もその
名前は知らない、というところから始まる。政子が北条政子として称されるのは
戦後の日本史学界から始まる。政子が朝廷から従三位の地位を授与するに際
して、便宜的に、高貴な女性の名を父時政の政を拝借して作ったに過ぎない。
それまでは、尼御台所、以後は二位を与えられてからは二位の尼と呼称されてい
たようなのだ。かくして、女性には普遍に通ずる氏名は存在しなかったのだった。
たしかに、それはなるほどというべきであった。
561 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:52:08
そら、男子も官位を受けるまで貴人は名前がなかった
後醍醐天皇など、なかなか親王宣下を受けられなくて
名前がついたのは15歳のときだぞ
源氏物語など源氏の名前も頭中将の名前も出てこない
成人してからも名前などでは呼ばれなかった
562 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 19:00:16
しかし後醍醐天皇を「後醍醐天皇」と書いたのは戦後からという
ことはなかろう。ところが「北条政子」にはまだ数十年の歴史しか
ないというわけだ。
563 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 19:10:48
>562
「吾妻鏡」に「政子」とかかれてありますよ?
あなた、史料を全く見たことがない人?
564 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 19:45:23
細川ガラシャとかは近代になってからだろうな。
>>560の言わんとするところは、「北条政子」という苗字・名前型の、
今で言うフルネームの呼び方が当時はなかったってことだよね。
何も政子が一生「政子」という名を持たなかったとは言っていないが、
「北条政子」という呼び方がごく新しいのもその意味では事実だ。
話がオーバー。そりゃ北条政子はないだろうが、平朝臣政子は
同時代からあろう。それ言い出したら徳川家康なんて言い出したのも
近代史学以降で、源朝臣家康が正しい。
これは女性名云々とは次元の違う話。
それにしても戦後ってことはないだろう。戦前の学者だって北条政子って
言ってただろう。
567 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:35:36
>>566 ところが戦前は北条政子と書いたものはないそうだ。
あなたのような「戦前ならある」という思い込みが問題だと言ってるのだが。
>>554 『台記別記』久安四年八月七日に
「多の字、万佐留と云ふ訓候か」と出ているらしい。
(孫引きなんで原典確認したわけじゃないけど)
しかしこの頃でも、こんな万葉仮名みたいな使い方してたんだね。
569 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:41:13
戦前はなんて呼ばれてたの?
570 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:45:01
571 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:52:46
>>570 どうもありがとう。
今までなんとも思わなかったけど、旦那の頼朝は姓+名前で
妻の政子は苗字+名前で呼ばれてるんだな。
戦前は両方とも姓+名前だったんだ。
572 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 21:33:19
平時忠の読み方が当時「ヘイ トキタダ」だったかもしれないのだから、
人名訓が普及するまでは「ヘイ ジチュウ」と読まれるべきだったのかもしれない。
名前は訓読みだという思い込みは捨てないといけない。
読みなんてなかったんだよ
574 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 22:12:08
>>572 念のため補足するが、「忠」を「タダ」と読むのは典型的な人名訓であって、
日本語で人名以外で「忠」を「タダ」と読む言葉などまず存在しない。
「人名訓」がない限り「時忠」は「ジチュウ」としか読めない。
こういう感覚は歴史学者は乏しく、国文学者は鋭いだろう。
とすると「人名訓」はいつ成立したかが問題だな。
576 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 07:40:38
いまのところ諱の読みについて考えられるのは以下のパターンだな。
さて、どれが史実に近いのだろう。
人名訓の成立に関する研究があれば大体はっきりするのだろうが・・
1.諱には「読み」などなかった。
唐風の諱が付けられはじめた頃の数十年はまだ正式な和名もあった
はずであり、叙位など人生のうち数回しか使わない文書上の記号が
「諱」だった。よって読み方なども決まっておらず、適当に読まれていた。
2.初期は音読みで、ずっと遅れて訓読みするようになった。
1.と同様な理由で、初期は男女とも原則的に音読みだったが、ずっと
遅れて「人名訓」を作って訓読みするようになった。
3.最初から少しずつ人名訓を付けていった。
唐風の諱を付け始めた時から、少しずつ人名訓を創造していった。
577 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 09:28:17
578 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 09:39:19
日本では嵯峨天皇以前に女子に「子」を付けるのはごく少数だったの
だから、嵯峨天皇が唐風の諱を採用する際に中国の「男子の美称、尊称」
の「子」を無理矢理女性用に持ってきたと以外考えようがない。
>>578 それはあくまで皇族女子の話。嵯峨天皇本人の妃はもちろん、兄平城天皇や
父桓武天皇の妃にも既に○子型名前の女性は大勢いる。
奈良時代はまだ少数派に留まっていたものの、平安初期の貴族階級では既に
○子型名前は定着しつつあり、嵯峨天皇が皇女の名に使ったのはその後だ。
桓武後宮〜藤原旅子、藤原吉子、橘常子、藤原仲子、藤原正子、橘御井子、
橘田村子、坂上又子、坂上春子、紀若子、藤原河子、藤原東子、
藤原上子、藤原平子、中臣豊子
580 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 11:13:01
>>579 そこで読みがどうだったかが問題になるのだよ。
・たまたま「コ」の発音に「古」や「子」を当てたのか?
・音読みで「子」を「シ」と読んでいたのなら日本名と関係ない。
・以下のように「音読み」+「子(コ)」と読んでいたのなら、やはり
「〇」と「子」は分離している。
http://www.kg.at-home.ne.jp/~micin/conv/oldbbs/oldbbs03_06.htm 平安時代の上流階級の女性は「彰子」とか「定子」とか名前がついてますが、これ、最近
の研究では、「○子」の○の字は基本的に音読み、子の字は「し」ではなく「こ」と読んでい
たのだろうという説が有力とか。
つまり「彰子」は「しょうこ」、「定子」は「ていこ」もしくは「じょうこ」と呼んでいたというのですな。
581 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 11:43:54
>>580 少なくとも既出の「慧子=あきらけいこ」と「多子=まさるこ」は確かだろ?
いささか変則的ではあるが、音読みでないのは確実だ。(その間の時期だけ
サンドイッチのように音読みに変わったとでもいうなら話は別だが)
そして結局いまだに出てこない、音読み説のソースと確かな根拠をまず示して
くれないことには議論にならん。
論文の掲載雑誌なり書籍のタイトルなりをきっちり出すか、問題の説に関する
部分をここで紹介するかしてくれ。
582 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 11:53:11
>>581 俺も宮川説はぜひ知りたい。国会図書館データベースで検索すると
多数宮川論文はヒットするが、名前を扱った論文が特定できない。
宮川説を紹介した人、ソースお願いします。
いずれにしろ平安初期になって急に「〇子」型の名前が増えるのだから、
嵯峨天皇が最初でないとしても「〇子」型が唐風文化の影響である可能性は強い。
583 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 13:56:26
ちょっと発見。
例の『日本の女性名』をぱらぱら見ていたら、村上天皇の宮人の中に典侍
「藤原楚姫子」がいた。(ちなみにルビは「たかひめこ」)
出典は不明だが、これが実名なら隆姫の「隆姫子」もやっぱりあり?
ついでながら、平安中期の○姫型名前の例は以下の通り。
徳姫女王(宇多更衣)、藤原淑姫(醍醐更衣)、藤原祐姫(村上更衣)、藤原義姫(一条掌侍)
なおこの他、村上更衣の藤原正妃も読みは「まさひめ」となっている。
586 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 17:43:51
>>584 俺もチェックしたが、「姫子」が含まれる名前は
藤原姫子
藤原楚姫子
以外は確認できなかった。
隆姫子だけが「隆姫(子)」と書かれてどっちつかずの扱いになっている。
587 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 23:58:58
結局なんで「〇子」型が増えてきたかよく分からないってことだね。
決定付けたのは嵯峨天皇なのだろうが。
ただ、嵯峨天皇が命じたから儀式や名前が唐風になった、というのは
嵯峨天皇が超絶的な独裁者でもない限り実際は無理であって、遣唐使
をたびたび送って朝廷が唐風文化をすでにかなり受け入れているという
背景があったのだろう。
>>587 もちろん、そうさね。
「○子と名乗らぬ女に入内は許さぬ」とかいう綸旨であれば流れも作れようが、
はっきり言ってアホ。上が外国カブレでも下が冷ややかならついては行かない。
実現できても一代限り。ましてや慣例という過去の風習に拘る宮廷では尚更。
589 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 07:43:52
すると、明治時代の庶民が皇族が「〇子」と聞いてよく考えずに真似したように、
中国の偉い人の名前が「〇子」と書いてあるの見てよく考えずに真似してしまった
のかも。国民性というのはなかなか変わらないから。
それは半分冗談(半分本気?)にしても、
・平安時代より前は漢字1字+「子」はほとんど男性の名前だった。
(女性はあっても2字以上+「子」が大半)
しかも「蘇我馬子」だの「蘇我韓子」だの「小野妹子」だの
大陸に関係の深い仕事をした人に「子」が付いている。
・唐風文化の浸透に比例するかのようになぜかそれまで少数だった
女性の「子」付きの名前が増えた。そして唐好きの嵯峨天皇がこの流れ
を決定づけた。
ということで、やはり女子の「子」付きの名前に唐の影響は無視できないのではないか。
590 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 10:46:17
>>589 中国で子つきの名前がはやったのは相当古い時代
ここで連投している人は嵯峨天皇は唐をまねて
子つきの名前を輸入したと得意げに話しているが
実は唐代には子つきの名前なんて全く付けられていないんだよね
皇帝の名前=玄宗、太宗、中宗など
高貴な男性の名前=国忠、禄山など
高貴な女性の名前=玉環(楊貴妃)、照(則天武后)など
何を思って唐のまねだといってるの?
それに唐のまねをするのならば中国ですらとっくの昔に廃れている
古い時代の命名法をわざわざ踏襲する意味がない。
孔子、孟子は唐の時代の人ですか?
孔子など紀元前500年ぐらいの人で、日本でいえば弥生時代前期、
馬子や妹子よりも相当昔の人なんです。
というか「孔子」「孟子」は名前じゃないし
「子」のそういう用法であれば廃れてなくて
朱子(宋)まで残ってる
>>590 アンタも連投組の一員だろう?(笑)
だが、
>>501 >>503で述べたように、私もその点を疑問に思う。
結局、唐風が如何とかいう話は、ただ単に「名において万葉仮名を
使わなくしました」というだけのことではないかと思わなくもない。
>>89がいいたい「△△コという呼び方が△△子と書かれるようになり
それが広まったのだろう」が適切なのかとね。
嵯峨天皇は唐から帰国した菅原清公の意見により
朝廷における儀式や風俗が唐風に改められたそうだよ。
名前もそのひとつ。
594 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 11:28:36
>>591 現実問題として、中国で○子なんていう「名前」の用例は
なかったんだよね?
ちなみに、孔子の「子」は、姓。
名前じゃない。
輸入も何もないってことだね。
はじめから中国にそんな名前はなかった。
595 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 11:29:58
>>592 連投なんてしてませんが?
どのレスのことを言ってるの?
あなたは全く同じ内容の文章を繰り返しているから
コピペじゃなければ連投だとしかいいようがないからだけど。
596 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 12:50:11
>>594 当時の日本というのは残念ながら文化後進国で、遣唐使の最優秀のほんの数人は
「孔子」や「荘子」が名でないことくらい理解していただろう。しかし遣唐使が
もたらした漢文の文献を見た半可通の人々が、「おお、中国では偉い人の名前に
子がついとる。うちのムスコやムスメにもつけよう」と思ったかもしれないじゃ
ない。バカバカしいように思えるかもしれないが、実際明治期の庶民の「〇子」
で同様のことが起きているわけで。
それって「菅原清公主唱」説と真っ向対立しない?
だから、なんで遣唐使は○子という名前を持ち帰ったの?
唐の国では○子なんていう用例はなかったのに。
599 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 14:37:36
>>594 だいたい、「論語」は5世紀応神天皇の時代に百済王が遣わした王仁によって
すでに日本にもたらされているのだが?
最も、実際にはこれより早くに入ってきたと見られている。
遣唐使によって孔子の文献がもたらされたって、本気で言っんの?
大丈夫?
600 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:30:56
>>599 もちろん知ってるよ。だからこそ「孔子」や「荘子」という名前にあやかりたい
という心理が生まれたのではと言ってるのだが。
この心理と、それを追認し決定づけた嵯峨天皇の決定は全然矛盾しないだろう。
ところで、700年代に男性貴族のうち何割が漢文を完全に読み書きできたの?
俺は男性貴族といえども完全に漢文を読み書きできた人は限られていると
思うがな。
601 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 15:37:03
>>600 ものすごい素人さんですね・・・
貴族が氏族のために建てた学校があるのを知っていますか?
また奈良時代の邸宅跡からは大量の木簡が見つかっていますが、
誰が書いたのでしょうね?
とんでもさんの相手も疲れますw
602 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 16:06:37
>>601 一流の貴族の残した日記にどれだけ誤字・脱字があるか
知ってますか。現在日本に義務教育での英語教育と素晴らしい
英語学校が多数あるのに、どれだけの人が英語を完全に使えますか?
さらに欧米の名前に似せた名前を子どもに付ける親は多いですよね?
603 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 16:23:12
唐の名前と似ても似つかない名前を
嵯峨天皇が輸入した理由は?
論語は5世紀以前から日本に輸入されていたので
関係ありませんよw
遣隋使、遣唐使を送って中国の皇帝に挨拶していた
日本人が、漢文を読めなかったなんて嘘っぱちw
大量の渡来人を受け入れていたのですから、
大陸文化など周知していたわけです。
604 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 16:35:12
知的に誠実な人なら、以下の情報から「漢字1字」+「子」型の女性の名前が
唐の影響がないと言い切るのは不可能だと悟りそうなものだが。
(1)漢字1字+「子」型の名前はもともと音読みだった
・宮川葉子説
(2)漢字1字(人名訓読み2文字)+「子」型の名前は全然日本の伝統的な女性の名前ではない。
・平安初期に急増
・この時代の文化は唐以外の影響は考えられない
>>603 日本に英語なんて安土桃山時代から入ってますよ。
しかし(洗礼名を除いて)子どもに英語名を付ける日本人が増えた
のはいつですか?
605 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 16:41:01
>604
「○子」はむしろ、
大和時代から日本に見られる「よしこ」や「とじこ」と言った日本名に
漢字を当てはめたものであると解釈できる。
それらは、旧くは「古」た「児」の文字が宛てられてきたが、
次第に「子」の文字が使われるようになった。
宮川葉子さんという教授がどれほど立派な人かはしりませんが、
唐では「○子」という名前がなかったことは事実。
逆に、日本では「○○こ」という名前が古代からあり、
「こ」の音に「子」の漢字を当てることが普及したと見るべき。
現実に、嵯峨天皇の皇女たちより早く、
桓武天皇や平城天皇の后妻たちに同様の使用例があり、
嵯峨天皇が日本の流行の名前を取り入れたのでしょう。
>>605 それが1番しっくり来るね。
「安見児」「刀自古」「長娥子」等、「〜こ」は昔からそこそこあったし。
お願いですから宮川葉子説の書誌情報をくださいませと
何度お願いすればおわかりいただけるのですか
608 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 17:38:25
そもそも孔子も老子も荘子も皆男性なのだから、あやかり名前でつけるなら普通
娘じゃなく息子にだろうと思うのだが。(だから妹子とか馬子とかがそうだと
いうなら納得はできる)
それに何度も上で出ているが、「○子」で訓読みが明らかな名前は史料に存在
するし、605さんの言うとおり「○○こ」という女子の名前も既に飛鳥時代には
存在しその後も使われていたのだから、604さんの根拠はどっちも間違い。
ただ古代の万葉仮名のように音を優先した命名から、字本来の意味を考えて
名前をつけるようになったという点では、漢字の使い方とか観念とかは随分
変わっただろうけれどね。
609 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 18:10:35
>>605 >>606 >>608 第一線の女性皇族研究者の話も傾聴しようぜ。
斎王の名前について考える 榎村寛之
http://www.pref.mie.jp/saiku/hp/hyakuwa/0014/0014.htm もともと女性の名前に「子」をつける事例は奈良時代には極めて少なく、藤原不比等
の娘の藤原宮子(聖武天皇の母)と藤原光明子(聖武天皇の妻)がよく知られている
位です。しかも光明子は、安宿媛というのがもともとの名ですから、まだ「子」のつく女
子名は一般的ではなかったといえます。ところが、平安時代初期、『日本後紀』『続日
本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』などになると、「子」のつく名前が増え
てくる。それも、9世紀前半には、「○子」と「○○子」というのが混在していたのに対し、
九世紀中ごろから、「○子」が優勢になっていく、という経過が見られるのです。(略)
この他にも、例えば「坂上御井子」「藤原乙名子」などというのも同様です。どうもこ
うした名前は、奈良時代の、「○○女(・・・め)」とか「○○刀自(・・・とじ))」とか「○○娘」
「○○郎女」「○○嬢(いずれも・・・のいらつめ)」「○○媛(ひめ)という代わりに「子」にし
ていただけかもしれないように思います。つまり、奈良時代なら「伊勢媛」とか「乙名女」
だったのが、「伊勢子」「乙名子」になったというわけ。
610 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 18:28:33
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2402243.html?ans_count_asc=2 皇族の女性名には、なぜ皆「子」がつくの?
平安時代からは「子」が流行して、「子」が付く女性が増えてきますが、本当のところ「子」
を付けたかどうか不明な面もあります。例えばお馴染みの藤原明子ですけど「あきらけいこ」、
藤原高子は「たかきこ」と読むかと思えば、文徳天皇の母親など、藤原多賀幾子(たかいこ)
と読みます。ここまで来ると、暴走族の「夜露死苦」のように、読みが先行して、それに漢字
を当てたということも考えられ、一部では定子が「ていし」なのか「さだこ」なのか不明という
ことです。
611 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 18:31:31
http://funabenkei.daa.jp/yononaka/zakkan/nyokan.html ところで、『万葉集』には奈良時代の女性と思われる名前として、大伴坂上郎女や、
その娘である坂上大嬢、狭野弟上娘子といった名前が記されています。この「郎女」や
「嬢」は「いらつめ」と訓み、「娘子」は「おとめ」と訓みますが、「いらつめ」や「おとめ」と
いう言葉は、名前というよりは「女の人」という意味の普通名詞のように、私は思います。
実際、『万葉集』には石川郎女という女性が、どうやら数人載っているようです。これも
「石川郎女」が「石川氏の女性」という意味の普通名詞だからではでしょう。
612 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:13:11
613 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:35:46
赤猪子はどうなんだ?
614 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 20:59:11
藤原光明子(こうみょうし)=安宿媛(あすかべひめ)の姉妹が長娥子、宮子だが、
光明子は「シ」なのにその姉妹が「こ」と読むのは変だ。
こうしてみると平安より前には「〇子」型の女性の名前がほとんどないことがよく分かる。
赤猪子(あかいこ)なんて全然「〇子」型の名前じゃないし。あなたは子どもに「あかい子」って
名前付けられる?
だから安見児も説があるのは判ったから、その説を言った人と書いてある
論文もしくは学術的根拠をきちんと出してくれないと納得できない。
特に宮川論文の件は、これだけ無視されるとその論文によほど都合の悪い
ことでも書いてあるのかと勘繰りたくなってくる。
ところで刀自古郎女については、612紹介の同じページに「固有の名前と
考えられる」という意見も書いていたよ。
ついでに少し話はずれるが、姉妹の河上娘は崇峻天皇妃で当然先に結婚
しただろうに、刀自古郎女が姉なら崇峻より若いはずの厩戸皇子の妃に
なるっていうのはちょっと不自然な気もする。
さっさと暗殺するような天皇の嫁にやる気がなかったと言えばそれまで
だが、だったら尚のこと、馬子の長女で聖徳太子の妃でもあった女性に
限って本名が判らないというのもやっぱり変だと思うがなあ。
616 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 21:30:38
おなじみ『日本の女性名』から、古代の子つき女性名。
大河内稚子媛(宣化紀)
尾張連目子媛(継体紀)
兄遠子(景行紀)
山辺小嶋子(雄略紀)
青海勾子、吾田子、大葉子、春日日抓臣糠子(欽明紀)
大伴連小手子(崇峻紀)
春日臣老女子(敏達紀)
葛城直廣子(用明紀)
だそうです。
617 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 00:25:24
>>616 俺にはアイヌっぽい名前か一般名詞にしか見えないが。
大河内稚子媛(宣化紀) →ワクゴ
尾張連目子媛(継体紀) →メコ
兄遠子(景行紀) →エトホコ
山辺小嶋子(雄略紀) →コシマコ
青海勾子→マガリコ
吾田子→アタコ
大葉子→オオバコ
春日日抓臣糠子(欽明紀) →ヌカゴ(アラコ)
大伴連小手子(崇峻紀) →オテコ(コテコ)
春日臣老女子(敏達紀) →オミナゴ
618 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 00:30:45
平安初期に急に広まった漢字1字(人名訓読み2音節)+「子」型の女性
の名前(忌み名)は、それ以前の日本の女性の和名とは断絶していると考
えざるをえない。
619 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 01:11:57
>>615 「ヤスミコ」が仮に女性の名前であったとしても、現代では
「ヤスミコ」を女性の名前にするのは無理があるよね。
三音節+「コ」型の女性の名前は、「カオルコ」などほんのいくつ
かを除いて現代では存在しない。
結局近代になって「〇子」型の名前があまりに普及したことによる先入観から、
平安時代より前にも現代につながる「〇子」型の名前があったと思い込んで
しまうのだろうな。
620 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 07:50:25
日本人の名前に中国の影響があったことが心理的に認められないんだろうね。
621 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 08:50:37
中国の影響があったと見るのは無理があるから。
唐の後宮の女性がみな○子と言う名前だったのならば
直輸入でもうなづけるが、
中国女性に○子と言う名前はない。
唐の国では男性すら○子という名前は存在しなかった。
だから、無理があるんだよw
622 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 09:02:52
623 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 09:06:09
>>619 平安時代より前の「○子」型の女性名の例
尾張目子(継体天皇の元妻)
三尾稚子(継体天皇の愛妾)
春日糠子(欽明天皇の愛妾)
葛城広子(用明天皇の愛妾)
伊賀宅子(天智天皇の愛妾)
宗形尼子(天武天皇の愛妾)
蘇我娼子(藤原不比等の妻)
藤原宮子(文武天皇の夫人)
藤原東子(藤原仲麻呂の娘)
平安時代のずっと以前から日本で流行っていた「○子」型の名前は、
全部無視ですか?連投さんw
624 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 11:54:35
625 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 11:57:15
また藤原宮子の姉妹が藤原光明子(コウミョウシ)だが、決して光明子は
〇〇コと読まれることはない。それなのに姉妹を「ミヤコ」と読むのは不自然。
「キュウシ」と読むのが自然だろう。
626 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:05:58
「光明」は仏教用語だからね。
はい、国分寺の正式名称を言ってみましょうw
それをもって日本女性の名前はみな
音読みだったと言っているほうがおかしい。
ここで連投している人の頭が一番おかしいけどねw
627 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:06:59
>>624 日本古来の女性の名前ですね。
はい、終了
628 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:13:02
>>626 だったらほかの高貴な女性の名も漢籍や仏典から取られたと考えるのが普通だろ。
実例がすでに前出している。
>>627 ここで古代にも「〇子」がいる!と主張している人は、外国にも
「フランチェス子」がいる!と言っているようなものだと早く気付いてほしい。
平安時代からの「〇子」型の名前は古代の名前との連続性がほとんどない。
629 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:13:39
「まさるこ」の「多」の字は漢籍から取られている。
http://www.asahi-net.or.jp/~ed6t-hmc/jinmeih2.htm 久安四年(1148)従三位。同六年一月入内。入内の際に命名された「多子=
まさるこ」の名乗りについては、養父頼長の日記『台記』別記に詳しく記されており、
それには中国の辞書『説文(せつもん)』を引用し、「夫婦の儀、愛を以て先と為す。
文は既に夕を重ね、情は同じく夜に専らとす。しかのみならず子孫衆多、后妃
の至徳なり」との理由から、多子と命名された。表記は「多子」で訓みは「万佐留
(まさる)子」である。
630 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:17:47
>>628 漢籍からとっても、訓読みしていたんですね。
あんたは何を根拠に音読みだと言ってるの?
「光明子」が音読みなら、
「宮子」も「多子」も音読みだと、得意げにいってるけどさ
631 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:34:33
とりあえず、古代にも子のつく名前があったことは認められたと。
では続き、奈良時代。(一部重複はご容赦)
前期:
伊賀宅子(天智紀)
胸形君尼子娘(天武紀)
中臣東子
蘇我娼子(不比等妻)
中期:
藤原宮子娘、藤原長娥子、藤原朝臣弟兄子、藤原朝臣家子、
岡連若子、槻本連若子、太田部若子
後期:
藤原朝臣祖子、藤原朝臣曹子、藤原朝臣産子、藤原朝臣今子、
藤原朝臣巨曽子、藤原恵美朝臣東子、藤原朝臣薬子、藤原浄子、
藤原朝臣恵子、藤原朝臣鷹子、藤原朝臣旅子、藤原朝臣勤子、
県犬養宿禰老子、紀朝臣宮子、大原真人室子、長谷部公眞子
ついでながら千年以上昔のそれも日常的に呼ばれていたわけでもない名前について、
現代のネーミングセンスで考えるのもどうかと思うよ。
632 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 14:40:40
>>630 君も頭悪いね。宮川葉子説もあるし、当初音読みで、その後「人名訓」を
作って訓読みするようになった可能性について書いているが。
宮子を「みやこ」と読んだという証拠があるの?
申し訳ありませんが
宮川葉子説の書誌情報をお願いします
煽りとかではないんですただ読みたいだけなんです
634 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 14:58:58
>>632 君も、「多子」を音読みした史料でも出してきたら?
平安時代以前の女性名を音読みしていたと本気で思ってんの?
頭悪すぎるのは君だよ、誰一人君の意見に賛同してないもの。
635 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 15:02:55
>>631 そっちがデータを出すなら当時の読みがはっきりしているものを明確にしてくれ。
「弟兄子」(オトエコ)なんて含めて恥かしくないのか?もう「フランチェス子」は飽き飽きだ。
伊賀宅子娘→「ヤカゴ」の可能性あり。
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/t-yosimi_Folder/nisiyosimi3.html 「策覃」は埼玉郡で「宅子」は「ヤカゴ」と読み、埼玉県行田市谷郷に比定しているようです。
胸形君尼子娘→「アマゴ」
上記2名はいずれも「娘(いらつめ)」が付いているのだから、「宅子」および「尼子」の娘と
解釈すべきだろう。
中臣東子→現在行われている読みがわからないが、藤原東子は現在の読みが「あずまのこ」だそうだ。
トウコなんて音+訓じゃないからね。
>蘇我娼子(そがのしょうし、そがのまさこ、生没年未詳)は飛鳥時代後期の蘇我氏の女性。
>「娼子」という名前は『尊卑分脈』に依る物で、『公卿補任』では蘇我媼子(そがのおんし、
>そがのおうなこ)と書かれている。
ということで名前さえはっきりしない。
636 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 15:03:29
637 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 15:15:30
>岡連若子、槻本連若子、太田部若子
若子の読みは「ワクゴ」→大若子命(おおわくごのみこと)
もっとも奈良中期以降は最初から音読みの諱として付けられたものがある
可能性がある。
638 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 15:19:46
>>635 下に「娘」がついている場合、「地名」+娘で名前ではない、
とするほうがはるかに無理があるがな。
まずは、「娘」とつく女性たちの地名でも証明してもらおうか。
蘇我河上娘(河上は地名?)
和邇糠君娘(大糠は地名?)
蘇我遠智娘(遠智は地名?)
蘇我姪娘(姪は地名?)
安倍橘娘(橘は地名?)
栗隈黒媛娘(黒媛は地名?)
忍海色夫古娘(色夫古は地名?)
藤原五百重娘(五百重は地名?)
特に「宅子娘」や「尼子娘」と時同じ天智・天武天皇の妃たちには
「娘」のつく名前が多いからな。
証明を頼むよ。
尊卑文脈は室町時代、公卿補任は平安時代からの記録で、
証拠としては足りないな。
639 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 15:43:40
>>638 頼むからちゃんと過去ログを読んでくれよ。君よりずっと権威のある人が言ってる
んだから。
斎王の名前について考える 榎村寛之
http://www.pref.mie.jp/saiku/hp/hyakuwa/0014/0014.htm もともと女性の名前に「子」をつける事例は奈良時代には極めて少なく、藤原不比等
の娘の藤原宮子(聖武天皇の母)と藤原光明子(聖武天皇の妻)がよく知られている
位です。しかも光明子は、安宿媛というのがもともとの名ですから、まだ「子」のつく女
子名は一般的ではなかったといえます。ところが、平安時代初期、『日本後紀』『続日
本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』などになると、「子」のつく名前が増え
てくる。それも、9世紀前半には、「○子」と「○○子」というのが混在していたのに対し、
九世紀中ごろから、「○子」が優勢になっていく、という経過が見られるのです。(略)
この他にも、例えば「坂上御井子」「藤原乙名子」などというのも同様です。どうもこ
うした名前は、奈良時代の、「○○女(・・・め)」とか「○○刀自(・・・とじ))」とか「○○娘」
「○○郎女」「○○嬢(いずれも・・・のいらつめ)」「○○媛(ひめ)という代わりに「子」にし
ていただけかもしれないように思います。つまり、奈良時代なら「伊勢媛」とか「乙名女」
だったのが、「伊勢子」「乙名子」になったというわけ。
640 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 16:11:07
>639
名前の流行の問題だね。
それで?
君の「地名」+娘の話の証明は?
嘘だったと言って撤回するなら早いうちにw
641 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 16:14:22
>>638 その文章のどこにも
「尼子娘」「宅子娘」は地名であり名前ではなかった
とは書いてないのだがね?
反論になってないね、関係ないこと言って逃げる気?
642 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 16:15:05
643 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 16:44:38
誰も地名の話なんてしてないのに。
644 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 17:06:36
じゃあ、これを証明したら?
>「宅子」および「尼子」の娘と解釈すべき
蘇我河上娘(実際には蘇我馬子の娘)
蘇我遠智娘(実際には蘇我石川麻呂の娘)
蘇我姪娘(実際には蘇我石川麻呂の娘)
安倍橘娘(実際には安倍倉梯麻呂の娘)
栗隈黒媛娘(実際には栗隈徳万の娘)
忍海色夫古娘(実際には忍海小竜の娘)
藤原五百重娘(実際には藤原鎌足の娘)
645 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 17:45:53
奈良時代前期には、男性名で子がつく名前は殆ど消えてるよ。
宮川葉子氏の論文、判っているタイトルをざっと見てみたのだが、主に
源氏物語かずっと飛んで室町・江戸あたりに関するものなんだよね。
ほんとにこの人の学説(かどうかも判らないが)、信用して大丈夫なの?
特に源氏物語なんて、人名殆ど出てこないんだから大して参考になるとは
思えないんだけど。
647 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 18:42:29
榎村寛之説では例えば以下のようになったということだろ。
何が問題なのか。
蘇我河上娘→河上子
蘇我遠智娘→遠智子
蘇我姪娘→姪子
安倍橘娘→橘子
栗隈黒媛娘→黒媛子
忍海色夫古娘→色夫古子
藤原五百重娘→五百重子
648 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 21:26:22
榎村説はさらにこうも書いている。
「ところが、三文字名には、美称的な名も見られるのです。
例えば「藤原佐禰子」「藤原度茂子」「藤原多美子」「藤原佳珠子」などの
名前です。これらは「実子」「智子」「民子」「和子」にも変換可能です。
つまり、これを逆にいうと、「実子」「智子」「民子」「和子」などの表記
は、少なくとも訓読されていた可能性があった、しかもそれは、小難しい
読み方ではなく、現代に通じる発音が多かった、ということになりましょう。
とすれば、他の「美称系」の二文字名前(「良子」とか「芳子」とか「美子」
とか)もまた、同様に考えることができるわけです。(中略)
というわけで、確証はないものの、「○子」は訓読みだったという方が可能性
としては高いように思われるのです」
つまりこういうこと。
佐禰子→実子
度茂子→智子
多美子→民子
佳珠子→和子
榎村氏は音読みか訓読みかについても「訓読み」の可能性を認めているし、
以下のページの結論でも「(平安時代の)貴族女性の名前は、訓読みされて
いたことは確かですが、その正しい読み方はわからない、というのが正解
なのです」と言っている。
何しろ博物館の方針からして、斎王の名前は全部訓読みだしね。
http://www.pref.mie.jp/saiku/hp/hyakuwa/0048/hyakuwa-48-20031215.htm ところで今さらだが、そもそも光明子が音読みであるとの根拠をぜひ知りたい。
当時の史料等に記載があるのなら、他の音読み説と合わせて情報求む。
649 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 22:14:42
>>648 「光明子」を訓読みしている例は一度も見たことが無い。
もしも訓読みしている例があるなら知りたい。
650 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 22:22:46
榎村氏はこうも書いている。
「確証はないものの、「○子」は訓読みだったという方が可能性
としては高いように思われるのです。」
訓読みされた名前がいくつかあることは確実だが、一般論として断言は
できないというスタンス。
あきらけいこ
後の明子・詮子・彰子たちは、この藤氏最初の后の
先蹤に倣ったものである。
宮川氏が言ってるのは、本名とは別に初叙の際に位記に記される名字がある。
例えば泰子(名字)は本名勲子。で、名字のほうは音訓両様の読みがなされた。
具体例として多子の例を挙げている。但し、そう言えるのは院政期になってから。
摂関期以前は本名とは別に名字があったことは確認出来ない。
本名が訓読みされていたことは言うまでもない。
653 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:30:13
>>652 それは基本的に納得できる。
もともと何らかの和名があったことは間違いない。
ただその和名が「〇子」と表記されていたとしても、その大半は「コ」や「ゴ」
という発音に対する当て字や、一般名詞が大半だと思われる。
問題は諱であって、現在でも皇室関係の名の文字は仏典・漢籍から取られている
ことは言うまでもない。時代が下って人名訓を作り出して訓読したことは事実
としても、それがいつから一般的になったかが問題。訓読みが数例あったからと
いって、人生において何回も使わないような女性の諱のためにわざわざ人名訓を
決めたりしたのかどうかということ。
子が名前の一部じゃない、の次は、
名前は訓読みされてない、か。
全く○○の××は救いようがないなあ‥‥
655 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 00:44:09
>>654 >>510くらいからすでに名前が訓読みされていないという話で盛り上がっているのだが。
文字を読めない奴は救いようがないなあ・・
え、マジ?
てっきり、そんなこと言ってるのは、例の約一名だけかと思ってた。
しばらく来ない間に、何かトンデモない議論になってたんだなあ。
510は飽くまで名字(本名とは別の)の話だろ。しかも訓読みもされていたという。
もう俺には手の施しようがないわ。さいなら〜
657 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 01:01:42
あまりにレベルが低いのがいるようだから、簡単にまとめておく。
名前はひとりにひとつしかないという先入観は捨てること。
・奈良時代頃まで
和語による呼び名と、貴人には別に和語による公式名があったと考えられる。
この時代までの「〇子」型の名前は、唐風の習慣を取り入れた「〇子」型の名前
とは非常に異なっている。
嵯峨天皇期以降の「〇子」は、仏典・漢籍の佳字から1文字+「子」という規則で作られる。
・奈良時代後期
唐風文化の影響で、藤原氏など一部貴族では呼び名は和語、公式名は漢語
という例が出てきた可能性がある。
・嵯峨天皇期
唐風の儀式・公式名に唐の習慣を用いることをルール化した。
「〇子(姫)」は、仏典・漢籍の佳字から1文字+「子」という規則で作られる。
ただししばらくの間は和語による呼び名も和語による公式名も並存したと考えられる。
ここで唐の習慣を用いた公式名=諱を最初から訓読みしたのか、音読みしていたのか
が問題。
・嵯峨天皇後
人名訓読ルール(人名訓)がある時期までに成立し、忌み名も訓読する習慣ができる。
その代わり和語による公式名は廃れる。
658 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 01:24:46
「漢字1文字+子」型の名前と、それ以前の表記上「子」を含む和名が断絶してい
るのは明らかなのに、どうしてしつこく同じだと主張する奴がいるんだろう?
ああ、奈良時代の話か。びっくりした。平安時代の女性名が音読みされてるってのかと思った。
>嵯峨天皇期以降の「〇子」は、仏典・漢籍の佳字から1文字+「子」という規則で作られる。
え〜。だって3文字(2文字+子)も多いし(たかきこ、たみこ等を除外しても)。
明子や高子なんてあきらかに和語だし、わざわざ典籍から取ってきたとは思えんし。
>唐風文化の影響で、藤原氏など一部貴族では呼び名は和語、公式名は漢語
>という例が出てきた可能性がある。
初めてきいた。信じられない。そりゃ文章道の連中が、大学内で呼び合うのに
唐名を作ったってのはあるが、(田達音(島田忠臣)など)それ以外に具体例が
あるのなら、是非教えて欲しい。
>唐風の儀式・公式名に唐の習慣を用いることをルール化した。
これも初耳。そんなルールがあったとは。六国史にも類聚三代格にも、そんな
法令は見たことがないし、反する実例も枚挙に遑がない。是非根拠を知りたい。
今一つよくわからないんだが、要するに嵯峨以降に生まれた、例えば藤原基経も
「きけい」と呼ばれていたということなのだろうか。
660 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 01:49:16
>>659 以下のような記述は角田氏の本を含めて多数見られるから、もし誤りならぜひ指摘してほしい。
菅原清公
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E6%B8%85%E5%85%AC 弘仁9年(818年)には、清公の建議により朝廷における儀式や風俗が唐風に改められた。
具体的かつ後世に残って物としては名前の唐風の変化がある。男子の場合「坂上田村麻呂」
の「田村麻呂」のような形式から「菅原道真」の「道真」や「藤原基経」の「基経」といった二文字
訓読みか「源融(みなもとの・とおる)」の「融」や「源信(みなもとの・まこと)」の「信」など一文字
訓読みという形式にし、女性の名前の「○子」という形式にすることは彼の建言によって導入
されたものである。
661 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 01:58:26
うん。唐風化したってのはよく分かる。但し法制化されたわけじゃないけどね。
まあ、中央貴族に広く行き渡ったてのはよく分かる。でも読みは和訓なわけでしょ。
二文字訓読みか一文字訓読みの。てことで、やっぱり訓読みなんじゃん。
誰だよ、音読みなんて言ってる奴は。
>蘇我氏(そがし)には「子」を用いる習慣はありませんでした。
そりゃそうだ。だって連子や馬子、当時は蘇我氏に限らず
男に使ってたもん。鎌子、妹子、国子、御食子‥‥
664 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 07:25:40
蘇我刀自古(古は子と読みが同じ)
蘇我娼子
使ってるジャンw
665 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 07:27:19
>>657
連投君、君の意見は全く世の中の主流じゃないよ〜
自分と意見のあわない人間=レベルの低いに人間とはよく言うよな。
レベルがあまりに低いのはお前だってw
666 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 07:29:18
>>647 つまり、平安時代なら、尼子娘→尼子子と置き換えられる
平安時代なら、宅子娘→宅子子と置き換えられるって?(笑
例を出してこようね、子が二つ並んだ名前をw
667 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 07:47:40
>>661 >「○子」 という名前は、貴族である藤原氏の姫君の名前だったのです。
藤原氏の姫君に○子(漢字一文字+子)の名前が使われ始める前から、
他の氏族の娘に○子の名前は使われていました。
尾張目子(継体天皇の元妻)
三尾稚子(継体天皇の愛妾)
春日糠子(欽明天皇の愛妾)
葛城広子(用明天皇の愛妾)
伊賀宅子(天智天皇の愛妾)
宗形尼子(天武天皇の愛妾)
蘇我娼子(藤原不比等の妻)
藤原氏の姫君に○子が使われたのは文武妃藤原宮子が最初で相当遅く、
宮子の後にも藤原多比能(橘諸兄妻)藤原乙牟漏(桓武皇后)など子のつかない名前、
あるいは漢字一文字+子ではない形、藤原長娥子(長屋王愛妾)の名前がつけられました。
○子型の名前ではない例も多く散見されました。
668 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 07:56:09
669 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:15:42
>>664 竹田氏の認識では、奈良以前の「〇〇子」型の名前と、藤原氏が始めた女性の
「〇(漢字一字)子」型の名前は全く違うということだ。だから蘇我氏には
「〇子」型の名前はなかったと言い切っている。
670 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:20:06
>>669 藤原氏が「○子」の名前をはじめたのは一体いつなのでしょう?
同時期に、ほかの貴族たちも「○子」型の名前を使っていますね?
藤原氏だけが「○子」の名前を使ったという証拠を出しましょう。
証明できないといつも逃げるんですね、連投さん。
671 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:22:27
>>662 だからね、今でこそ名前の訓読に慣れているけれど、人名訓って
いうのは膨大なもので容易に作れるようなものじゃない。
例えば源融って人がいるけれど、融を「とおる」なんて読むケース
はこの人の名前以外ではほとんど思い当たらない。
一生に何度も使わない女性の諱に最初から訓を当てたとは考えにくい。
だいたい「あきらけきこ」にしても「たかきこ」にしても奈良以前の
和名と比較すると抽象的過ぎて、いかにも唐風な名前に思えるが。
>>669 なるほど
竹田君の半可通ぶりがまた一つ明らかになったというわけだね
673 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:28:28
>>666 >つまり、平安時代なら、尼子娘→尼子子と置き換えられる
>平安時代なら、宅子娘→宅子子と置き換えられるって?(笑
「子」を「〇子」型の「子」という先入観でこんな馬鹿なことを書くのだなあ。
すでに「宅子」は「タカゴ」、「尼子」は「アマゴ」だと書いているのに。
「子」は当て字の場合もあるから、「コ」や「ゴ」の音であり、また
「娘子」と書いて「オトメ」と読むこともあった。
674 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:34:04
>>667 君もしつこいな。
>目子、稚子、糠子、宅子、尼子
メゴ、ワクゴ、ヌカゴ、タカゴ、アマゴと読むのだからこれらは奈良以前の和語系
の名前で、たまたま表記に漢字2字で末字に「子」を当てたと考えるべきだ。
別に目古、稚古、糠古、宅古、尼古とかでも良かったはず。
娼子は漢字自体異伝があってはっきりしないし。
>673
その説は誰が言ってるの?まさか自論?
早く偉い先生の名前を出してよw
>>674 誰が言った説がはっきりさせましょうね。
毎日連投のニート君。
677 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:38:29
>>667 だいたい、目、稚、糠、娼、尼なんて全然佳字でなく、嵯峨天皇
以降の女性の諱に使われたとは(確認したわけではないが)ほとんど
考えられない。
なんでここまで言語センスがないの?
678 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:41:42
>>677 嵯峨天皇以降の女性の名前でも、佳字でない女性名などありますよw
679 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:46:22
680 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 08:47:30
>>677 継体天皇や欽明天皇の頃にはまだ名前を漢字で書くという風習が定着しておらず、
あとから名前の読みに漢字を当てはめただけだから、佳字でないのは当然だろw
その証拠に、全く同じ女性の同じ読みの名前を、日本書紀と古事記で別々の
漢字表記で書いている。音だけがあって漢字を後から当てはめたものであることは一目瞭然。
少なくとも、白鳳時代ぐらいには、名前を漢字で書くことが定着したのだろう。
天皇に美称の贈名をつけた奈良時代には、明らかに漢字表記が意識された。
「藤原史(ふひと)」を縁起の良い「藤原不比等」にしたり、
「藤原馬飼(うまかい)」を「藤原宇合」としたり、
明らかに前時代と異なり縁起のよい漢字を当てはめるようになる。
それはこの時代から漢字表記が一般化したためで、嵯峨天皇の時代より悠に古い。
>>675 偉い先生の名前自体はどうでもよくて
大事なのは論文です
だから宮川葉子先生の論文の書誌情報をお願いします
682 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:11:31
>>679 リアル厨房は君だろw
今度は素人さんのホームページのようですね。
どちら方のホームページを拝借してきたのか知りませんが(ホームページ作成者の方お気の毒)、
「尼子娘」の「尼(あま)」が、「海人(あま)」の意味の当て字なのではないかと
書かれてあるだけで、ここで話題になっている「子」と「娘」の意味が全く書かれていない。
「尼」が「海人」の当て字だったら、何?
そんなことを話題にしているんじゃないでしょ。
おたくが話題にしている「子」のことは何一つかかれてないw
683 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:13:17
>>680 >継体天皇や欽明天皇の頃にはまだ名前を漢字で書くという風習が定着しておらず、
>あとから名前の読みに漢字を当てはめただけだから、佳字でないのは当然だろw
そう、当然だ。だから佳字が先の命名とは全く違うわけだ。
女性の「漢字一字+子」型の名前は、先に佳字ありきで、
佳字1字をある時点で無理矢理訓読したわけだ。
684 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:26:22
>>683 嵯峨天皇説は諦めたんだねw
「光明子」だって、充分佳字だしねw
685 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:27:12
>>683 藤原氏が最初に始めたというのは撤回したんだねw
撤回するなら素直に謝りなよw
686 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:28:54
連投君は自分の間違いは絶対に謝らないからなあw
自分に都合のいいレスにしか返事を出さない。
史学科とか行っていたら、はじきだされものw
687 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:38:26
688 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:41:29
>>684 ここまで反応が厨房だと優しく教えてあげたくなるな。
「光明子」は音読みしかないということを認めるの?どうなの?
>>685 藤原氏が最初というのは竹田説であって、俺がそう考えているわけじゃない。
このスレのどこにそう書いてある?
689 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:44:36
>>688 @佳字は嵯峨天皇以前より存在した。
A「○子」は日本古来よりある「○○こ」の文字に漢字表記を当てはめたもので
訓読み。
連投君は、日本語の訓読みがいつ出来上がったのか、勉強したほうがよさそうだね。
漢字が輸入されたとき、それを音読みにしかできなかったの?
古事記や日本書紀でも完読したら?
690 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 10:00:54
>>688 嵯峨天皇の皇女で名前が音読であることが分かる史料は何もなかったはず。
「平時忠」が平家物語に「ヘイトキタダ」とあることを証拠に上げて、
平をヘイと読んだのだから、この時代の女性名は音読みだ!と意味不明なことを
言っていた厨坊君だから、仕方がない。
名前が音読みだと言うのならば、「時忠」と「トキタダ」と読むわけないでしょ。
相変わらず、都合の悪いことはスルー。
691 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 12:39:43
>>689 >@佳字は嵯峨天皇以前より存在した。
奈良後期からね。それ以前はたまたま悪くない字を当てただけだろう。
>A「○子」は日本古来よりある「○○こ」の文字に漢字表記を当てはめたもので
>訓読み。
すこし日本語勉強したら?漢和辞典を見ると人名でしか使わない人名訓が
山のように載っている。これらは和語で名前を付けた時代にはまったく必要
がなかったものだ。
692 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 12:42:56
>>691 女性名が訓読みだったことを認めましたね。
今まで君が長々とやってた連投はなんだったの?
無知な人(笑
現在の皇族が使うような特殊な名前の読み方は、もっと時代が下るはず。
江戸時代には「人名でしか使わない人名訓」が行われていたことが
確認できるけどね。女性名に限らず、男性名でも特殊な読み方をした。
693 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 12:43:00
>>690 少しは読解力を身につけよう。
ある時期から日本人は人名訓を発明して読み下したと何度書いてる?
問題は人名訓がいつ、どのように出来たかとういうことなんだよ。
「平」を「ヘイ」と読んでいたくらいだから、最初は「時忠」(忠を
タダと読むのは人名訓で、名前以外でそう読むことはない)をジチュウ
と読んでいたのは当然だろ?
694 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 12:46:00
>>693 「平家物語」を研究したら?
あれは語り物ですよ?
実際に呼んでいない名前を、琵琶法師は読み上げるのですか?
「平家物語」のどこに「時忠」を「ジチュウ」と読んだ例がありますか?
当然、同時代の清盛、頼朝も音読みだったと言うのですね。
さすがにどこの学者もそんな論文だしてはいないけれども、
この人が書いた!というのがあれば出しましょう。
名前を借りてくるだけじゃなくて、せめて論文のタイトルと
所蔵雑誌ぐらい出すべきですよね。捏造君。
695 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 14:51:41
>>694 平家物語なんて鎌倉時代頃の成立だろ。どういう時代感覚をしているんだか。
無論その頃までには人名訓はかなり普及していたのだろう。
嵯峨天皇期(かその少し前)に始められた「佳字1字+子」型の諱は
それ以前の日本の女性名と基本的に無関係。
理由:
・佳字1字+子の命名規則は唐の影響であることがはっきりしており、
原則的に漢籍・仏典からの佳字1字を取っているはずである。
→実際に漢籍から取っていることが判明している例がある
佳字一字はある時期から大半が「2音節」で訓読するようになり、「子」とあわせ
て3音節で読まれる。嵯峨天皇以前の女性の和名で3音節のものはヒメやイラツメ
を除いたとしてもそれほど多いわけではない。
・嵯峨天皇以前の「〇〇子」「〇子」型と書かれる女性の名前は実際は少数だが、
現代人の関心からそのような型の名前ばかり収集されている。
それらの読みを検討すると、「コ」ではなく「ゴ」と推定されるものが多く含まれて
いる。また〇〇の大半は佳字ではない。
その中にはたまたま「佳字1字+子」型のものもいくつかはあるが、読みとあわせて
検討すれば偶然の一致と考えるべきである。
696 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 15:29:59
697 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 15:33:18
>>695 あらあら?
「音読みをしていた」という証拠が出せないんですね?
そりゃそうだわ、そんな史料ないのだから。
君の言っていることは脳内妄想。
史料にないことを脳内で空想しているんです。
日本史板なのだから史料を出して、真面目に議論しましょうよ。
698 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 15:35:59
>>696 現代の例を出して平安時代もこうだったと言いたいの?
時代錯誤もはなはだしい。
それを言うなら「明子」「高子」が典籍から取られたと言う
証拠を出すのだ筋でしょ。
脳内君、連投いい加減やめたら?
699 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 15:38:45
>>697 そもそも「唐に習え!」といって取り入れた名前が音読みでないとした
らそのほうがおかしいだろ。
日本人がキリスト教で洗礼を受ける時はパウロとかペテロを
パウ郎とかペテ男に直すんですか?
700 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 15:41:07
>>698 おいおい、皇室は新しいこともするがこういうことは平安時代から
の伝統を受け継いでいると考えるのが当然。歴史センスなさすぎ。
701 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:19:22
すっかり脳内連投君にこのスレは占領されましたw
あまりに低レベルなレス
史料はなーんにもありません。
学者の論文もありません。
702 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:37:23
思考停止馬鹿は置いておいて・・
当時の文化差を考えれば、遣唐使の行き来が活発な嵯峨天皇期に
唐の文物はなんでも凄い、という流れがあったのは間違いない。
この時代は音読みのほうが「かっこいい」と思われたのではなか。
そして菅原道真の進言によるとされる遣唐使の廃止、つまり10世紀頃
から唐風文化から国風文化に比重が移るわけで、諱の訓読み例は850年
頃からあったかもしれないが、それが一般化するのは10世紀以降と考え
るのが妥当ではないか。
703 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:39:49
>702
だから、あなたのいう宮川葉子説は否定されましたよ。
704 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:40:56
>>703 嵯峨天皇の皇女の名前が音読みだったと言う史料を出せと言っても
史料は何にもありませんと言う馬鹿だから、仕方がない。
705 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:41:51
>>703 君の書込みには根拠がないんだよ。
何一つね。
それに、一次史料が読めない人のようだね。
史料を挙げたことが一度もない。
706 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:43:20
訓読みの史料ならあるが、女性名を音読みしたと言う資料は
どこにもない。
それなのに、嵯峨天皇の時代女性名は音読みだったと
連投し続ける暇人ニートは馬鹿である。
707 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 17:13:40
>>706 訓読みの史料ったって、「あきらけきこ」とか「たかきこ」なんて全然
奈良以前の女性名と違うじゃないか。
今の感覚でいば「自由な子」とか「民主な子」みたいな名前だろ。
すでに何度も言及されている通り、当時の女性の諱が音読みであったか
訓読みであったかはいかなる学者も証明していない。
そもそも宮川葉子説は俺の説に反対する人が提示してきたものだ。
俺もぜひ読みたい。
708 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 17:42:44
上代からの○子型名前の例については、繰り返すが角田文衛氏による。
ただその一方で、『日本の女性名』の中には「奈良時代中期に始まった
子型の女子名は〜」というくだりもあるので、明記はしていないが飛鳥
以前と奈良以後の子型女子名について、何らかの区切りがあると見ている
のかもしれない。しかし少なくとも、子型名前=女子名である、という
ルールが奈良時代で決定したことは、奈良初期には子型名前の男がほぼ
消えたことから見ても間違いないだろう。
とすれば、○子型名前の○の部分の命名傾向が平安前期で大きく変わったに
せよ、奈良末期に定着した○子=女子名というルールを嵯峨天皇が素直に
受け継いだだけと見るのにそんなに無理があるのだろうか。
ましてや○姫型名前に至っては、奈良末期には殆ど廃れていたのに敢えて
復活させたのだから(ただし長続きしなかったところを見ると、今さら
古臭いとでも思われたのかもしれないが)、好字を使うという新ルールを
新鮮に感じたということもあろうが、従来の女子名に馴染んだルールも
踏まえていたからこそ受け入れられて広まったというのが自然な解釈だと
思うのだが。
現に奈良時代一部で流行した唐風の女子名(藤原玄信、藤原延福など)は
その後すぐに消えてしまったし、これもなじまなかったんだろうな。
709 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 17:43:54
>>707 それで?
音読みだったと言う証拠を出してというのに
君は全然出してくれないんだけど?
史料はないの?
710 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 18:14:17
>>708 それはもっともな考え方だね。
俺の推定では、奈良後期から嵯峨天皇期にかけていったん女子の諱は主に
音読し、その後訓読していく際に和語としてすわりのいい(場合によって
は懐古的な)読みにしたのではないかと思う。
光明子を訓読するなら「ひかるあきらけきこ」とでもなるのだろうが、
あまりに苦しい。
711 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 19:36:27
まあ、音読してたとしても、全人口の1パーセント未満だな。
ま、俺は、てゆうか約一名以外は、0パーセントだと思ってるが。
712 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 19:37:29
何で女性だけなんだろね。
そこが説明できない限り、約一名はデムパ。
>>708 すごく納得できてわかりやすかったよ。
ありがとう。
714 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 20:27:29
>>712 無論音読は女性だけではない。前述の通り「源」は漢籍から取られている。
例えば嵯峨天皇の息子で臣籍降下した人々には源信、源常、源弘、源定、源融などがいるが、
これらは当初はゲンシン、ゲンジョウ、ゲンコウ、ゲンジョウ、ゲンユウなどと読んだのだろう。
715 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 23:27:04
なぜ名前の音読みに抵抗があるのか不思議でならない。
当時の知識階級である僧の名前は空海、最澄のように音読みだし、
有職読みのように音読みする習慣もある。
唐風の習慣を取り入れた時点で名前を音読みしない理由がない。
718 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 00:47:51
http://www1.gifu-u.ac.jp/~satopy/ronnanori.htm 名乗り字 佐藤貴裕
名乗り・名乗り字が諸特徴を備える過程では、まず平安初期の命名法の変化が注目される。
平城天皇(51代。774-824)の皇子たちは高岳(高丘)・巨勢・阿保のごとく乳母の姓にちな
むようだが(『文徳実録』巻一)、弟の嵯峨天皇(52代。786-842)の皇子は秀良・正良
(仁明天皇)・業良・基良・忠良と好字二字になるのである(『神皇正統記』)。兄弟名で一字を
共通させるのは中国的通字で、実名の二字化も中国・六朝(229-589)ごろに始まり固定し
たというから、書・詩文など大陸文化に親しんだ嵯峨天皇が中国風を導入したものかと思わ
れる。同じ時期の貴族も同様で、たとえば藤原冬嗣(775-826)の子は長良・良房・良相・
良門・良仁・良世と命名されている。これ以降、中国的通字は比較的短命だったが、実名を
好字二字とすることは定着していくのである。
平安時代末期の『色葉字類抄』(1144-81ごろ成立)には「名字」として名乗り字が類聚さ
れるので、この頃までには他の漢字とは異質なものと意識されていたのであろう。これ以降、
鎌倉時代の『拾芥抄』『二中歴』、室町時代以降の『節用集』各書付録などの類聚があり、江
戸時代には各種専書も刊行され、黒川春村『名乗指南』のような充実したものも現れた。
719 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 01:16:15
>>717 これは決定的だね。
調べれば調べるほど嵯峨天皇は子どもに中国風の名前を付け、
名乗り(人名訓)がまとめられるのは『色葉字類抄』(1144-81ごろ成立)
まで待つ必要があるというわけだ。
720 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 03:20:45
音読みは男文字で訓読みは女読みと漠然と思っていたが
いかに。
721 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 07:33:38
>>720 それは面白い視点ですね。どうなんだろう。
722 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 07:44:47
717の意見では、男も女も音読み。
723 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 07:48:16
源融(ユウ)
源信(シン)
源勤(キン)
源寛(カン)
源定(テイ)
と呼ばれていた。
しかし、当時の史書は何も書いてないのは相当変だがな。
724 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 07:58:00
>>718 の筆者の佐藤貴裕氏は岐阜大学准教授(国語学)。
やはりこういうことは国語学者のほうがよく研究しているのだな。
こっちにもあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%A9%E8%A1%8C%E5%90%8D 輩行名
これら太郎、次郎といった名乗りのはじまりは、遠く嵯峨天皇の時代に遡る。嵯峨天皇
が第一皇子以下に対して太郎、次郎、三郎といった幼名を授けたことから、時代を追う
につれ一般に広まるようになる。
幼名を音読みで名付けて、中国人のように兄弟名の通字を付けた嵯峨天皇が、
漢文上でしか使わない諱をどうしてわざわざ訓読みさせる必要があるのか?
それとも「太郎」は本当は「ふとのいらつこ」と読んだとでも主張するか?
やはり唐風文化の影響で中国風の諱を導入し、唐風文化の衰退と国風文化の興隆に
従って諱の訓読みが一般化したと理解すべきだろう。
725 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 08:07:16
日本ではもともと漢字に音読みと訓読みがあった。
唐に「太郎、次郎」という名前があったならともかく、
なぜそれで唐の影響になるんだい?
しかも、ウィキの記事にある
「八万太郎義家」これを全部音読みしていたとでも?
726 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 10:13:24
727 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 10:14:00
嵯峨天皇の息子の通字は「良」(在位809-823)
業良、正良、秀良、基良、忠良
仁明天皇の息子の通字は「康」(在位833-850)
道康、宗康、 時康、人康、本康、国康、 常康、 成康
醍醐天皇の息子の通字は「明」(在位897-930)
克明、保明、代明、重明、常明、式明、有明、時明、長明、源高明、
兼明、源自明、源允明、寛明、章明、 成明、 盛明
>726
ウィキをソースにするなら、醍醐の父宇多天皇だって定省(さだみ)だ。
嵯峨天皇の皇子仁明天皇だって、正良(まさら)になってる。
輩行名が中国の風習だなんてのは
漢詩や漢文をかじっていれば常識だが。
730 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 11:24:35
>>728 無論それは後にそう読んだのであって、当時そう読んだという証拠はない
だろう。
文字が唐風になったことと、読みが唐風になることを
同一視してるヴァカが約一名いるね。
732 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 14:34:18
>>731 ヴァカはおまえだよ。
どうやったら漢字1字(読み2音節)+子という厳しい制約のある文字で
それ以前の豊かで複雑な日本人女性の和名を反映させられるっていうんだよ。
733 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 14:37:53
>>730 当時音読みだったと言う史料が
未だに一度も出てこないのはなぜ?
それこそガセw
734 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 14:40:34
>>732 古代だって、後からつけた長ったらしいもろもろを省けば
名前は簡単だよ。
「よしこ(与志古)」とか「とじこ(刀自古)」とか。
漢字を訓読みする風習は昔からあったのだから、
名前を訓読みすれば、日本伝来の名前になったわけだ。
735 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 15:28:31
族の女子を中心とした上流貴族の諱の変遷はこんな感じだな。
・750年頃まで
和語で名付ける
・750年-800年頃まで
遣唐使の交流を背景とした唐風文化の流行により、ごく一部で漢籍、仏典から取った
佳字+「子」という規則で名前を付ける試みが行われるようになる。まだ佳字は1字と
決まっていないため「光明子」「有智子」のような名前も付けられたと思われる。
これらはいずれも仏典・漢籍色の濃い文字だ。
・818年頃
漢籍、仏典から取った佳字1字+「子」(姫)と嵯峨天皇が決める。
(後に父親の諱から一字を取る慣習も行われた)
嵯峨天皇は以下も行った。
-息子に音読みの幼名(太郎、次郎・・)を与える。
-息子に中国流の通字を与える。
-「源氏」の「源」(ゲン)を漢籍から取って臣籍降下した子に与える。
736 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 15:38:15
>>734 それはちと感覚がおかしいぞ。
「とじこ」でgoogleで検索しても683ヒットで、その多くは古代の女性名
についてのページかあだ名だ。現代ではほとんど使われていない名前だ。
たまたま「〇〇コ」型の名前があると、つい反応してしまうのだな。
737 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 17:23:29
>736
「よしこ」は無視?
こっちは大量に用例があるものね。
738 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 17:36:36
>>737 外国に「マルコ」という名前があったな。
奈良以前に「真留古」という名前があったら、
「昔からマルコという名前があるじゃないか!」と主張するのか?
739 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 19:10:30
>>738 馬鹿?
時間も風土も継続している同じ日本の中で、
急に伝統が断絶するわけがないでしょw
当然、平安時代の名前も、前時代を踏襲していたわけ。
740 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 23:33:37
>>739 学問における良心よりも国粋的な思い込みが優越することがよく分かるコメントだな。
741 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 01:21:46
代表的日本人である天皇の諡号・追号だってほとんどが音読みじゃん。
742 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 02:47:11
そりゃ号は音読みだよ、アフォか。
イミナの話をしてんの。イワレヒコみたいな。
神武じゃなくて。あ、そうそう、諡号にだって和風もある。
田忠音は号、本名は島田忠臣。彼もトーデンチューシンて読まれてたのかねw
743 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 07:50:50
諱って号に類するものじゃないの?
呼び名は和語でいいけど。
744 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 07:57:08
>741
明治(メイジ)天皇が音読みなら、
睦仁(むつひと)親王ではなく、ボクジン親王だ!という論理だな。
745 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 08:47:31
現在使われている天皇の漢風諡号が最初に作られたのは
760年頃。これは女性の名前が「〇子」型になる時期とちょうど
一致する。従来和語だった天皇の名前さえ漢字音読みにしたわけだ。
746 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 08:57:38
>>745 天皇号が作られたのは、聖武朝、淡海三船によって。
神武〜元正天皇までの天皇号が決められた。
(よってこれ以前に成立の日本書紀、古事記には天皇号がかかれない)。
仏教かぶれの聖武天皇と光明皇后がはじめたこと。
でも、人名はこれまでどおり訓読みだった。
首皇子、これをなんて読んだというのでしょうね。
747 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 09:29:33
>仏教かぶれの聖武天皇と光明皇后がはじめたこと。
>でも、人名はこれまでどおり訓読みだった。
ふむ、それなら光明皇后つまり藤原光明子はなんと読むのですか?
淡海三船が漢籍から佳字を取ってそれまでの天皇に漢字音読みの諡を
まとめて付けた。同じことを諱について行うのは当然のことだ。
748 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 10:15:45
>>747 あれあれ?
それでは佳字をはじめたのは淡海三船でFAですね?
光明子は仏教を遂行すると言う意味の造語でしょう。
この時代にも仏教用語をそのまま名前にとったのはこの人一人。
まあ、甥の仲麻呂と一緒に唐の役職そのまま輸入して
太政官を大改革して唐風の役職をつけちゃった人ですから。
だけど、仲麻呂の死とともに太政官も従来のものに代えられてしまいましたね。
特殊な人です。
光明子の姉妹、宮子、長娥子、多比能、なんて読むの?
749 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 10:18:43
>>747 百済から輸入された仏教界では、
当初より出家した者は戒師から仏教に由来した名前を貰っていました。
法名というやつです。
生前のいみなとは全く違う、仏教独自の名前を別に貰っていました。
光明子もこれのまねですよね。
漢詩が入ってきて流行したからといって
やまとうたが急に詠われなくなったこともなかったし
音読みの号や名前が流行ったからといって
訓読み(やまとことば風の名前)が急に廃れたわけでもないと思うな。
両方あったんじゃないかな。
751 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 10:22:44
>>747 日本で最初に出家した司馬達等の娘「嶋」は、
出家した際「善信」尼という法名を名乗っています。
まさか、これをもって、佳字が輸入されたのは
欽明朝だ!とわめきだしたりして・・・
752 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 10:32:13
>>747 質問に答えてないですね?
「光明子」は仏教用語です。
つまり、法名と同じ。
欽明朝に「善信」という女性がいました。
これをもって、欽明朝の女性は音読みだったと言うのですか?
753 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 11:20:26
754 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 11:47:27
>>753 勘違いしてないでしょう。
「光明子」は仏教用語から執った諱ですよ。
入内したときは安宿媛という和名でしたしね。
それでは、光明子と同時代に、
明らかに音読みだったと分かる女性名を挙げましょう。
光明子の姉妹の名前の読みはまだですか?
755 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 12:14:42
>>754 俺は700年代中期頃から仏典・漢籍から女性の諱を付けるようになっただろうと
主張しているのだから、見解が一致したわけだな。
ここでなんで首皇子が出てくるのか?
聖武天皇が首皇子(おびとのみこ)と呼ばれたのは即位前だから、724年より前の話だ。
宮子にしても、姉妹の光明子が安宿媛という和風の名も持っていることから、
宮子という名が付けられたのは後半生になってからの可能性があるのではないか。
いずれにしても宮子の年齢からして700年以前に付けられたものではない。
角田文衛
>『日本の女性名』の中には「奈良時代中期に始まった子型の女子名は〜」と
>いうくだりもある
榎村寛之
>もともと女性の名前に「子」をつける事例は奈良時代には極めて少なく、藤原不比等
>の娘の藤原宮子(聖武天皇の母)と藤原光明子(聖武天皇の妻)がよく知られている
>位です。
756 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 12:28:52
どうも歴史をやってるのに想像力のない人がいるようだな。
現在で例えていえば、天皇皇后両陛下がキリスト教の洗礼を受けて、
名前をフィリップとエリザベスに変えたようなものだ。
そして明治天皇をエドワード、大正天皇をジョージと呼ばせるようにした。
バカバカしく思えるかもしれないが、当時はそれくらい唐風文化は圧倒的
なものだった。さすがに遣唐使が廃止されるころになるとやり過ぎに気付い
て国風文化にもどるわけだが、その頃には、恵理(エリー)とか真理(マリー)とか
安奈(アンナ)とか奈々(ナナ)とか尚美(ナオミ)とかいう名前が普及してしまい、
元の和名にはもどれなくなったわけだ。
757 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 15:39:37
当時音読みというのは「原語の発音」でとてもカッコいいわけだから、
せっかく「エリザベス」や「フィリップ」というカッコいい発音があるのに、わざわざ
「エリザベス(はなこと読む)」「フィリップ(たろうと読む)」などということを
するとは考えにくいわけだ。
せっかく「コウミョウシ」と言えるのにどうしてわざわざ「ひかるあきらけきこ」
なんてダサい言い方するの?ってこと。
758 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 16:40:46
前田鞍子と鞭子
>>756 > どうも歴史をやってるのに想像力のない人がいるようだな。
想像力だけで語れることじゃないと思いますが‥‥
> 現在で例えていえば、天皇皇后両陛下がキリスト教の洗礼を受けて、
> 名前をフィリップとエリザベスに変えたようなものだ。
皇室が洗礼なんて受けるはずないし、そんなありえないことで
たとえられても困るんですが‥‥
非常におおざっぱで乱暴な想像力ですね。
>>757 ダサいとかださくないとかいうのも
あなたの感覚に過ぎないでしょう。
現代の感覚で昔を解釈したり手前勝手な想像で
何もかもわかったような気になるのはどうかと思いますよ。
761 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 16:53:01
>>757 >よっぽどストレスたまってんだな。哀れだなぁ。
>友達いないなら、自分のチンコと話でもしてたらどうかな?
>良亀って書いて「よしき」って名付けてさ。
>お似合いじゃん( ´艸`)
他の板にあったのあんまり面白いから引用。
762 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 16:54:45
>>756 だからあ〜
嵯峨天皇の皇女で名前が音読みだったと記されている史料を
早く出してきて!
いつまで空想で話してんの。
日本史板とは思えないレベルの低さ。
原典も出さずに妄想してるだけじゃん。
763 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 17:09:29
現在の日本の音読み=唐の発音でもないんだよな。
漢字、と言う言葉が示すように、日本語の音読みは現代の中国語より
はるかに漢の時代の発音を正確に踏襲しているらしい(多少の訛りはあっても)。
つまり、卑弥呼なんかが使者を送っていた弥生時代に日本に漢字が入ってきて、
日本語の音読み(=漢の発音)は弥生時代からあったわけだ。
民族の多い中国では、王朝が変わるたびに漢字の発音が変わる。
唐代の発音は、例えば「淵」(ヒエンヌ)」のように、現代の日本語の音読みとは
かけ離れたものだった。
764 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 17:30:52
>>762 まず嵯峨天皇の皇女で名前が音読みだったと記されている当時の史料を
出してくれ。簡単だろ?
>>763 でも漢字というのは常に1字1音節が原則だよ。
765 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 17:35:11
>>764 嵯峨天皇の皇女が音読みだった史料を出してくれってw
そんな史料はどこにもないと自分で証明してどうすんのw
間抜けな慈円君だね。
それにしても、ずーっと張り付いてるね。
お母さん、泣くよ。
766 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 18:04:49
いいなあ、約一名君はみんなに遊んでもらえて。
ぼくもたまにトンデモ説を言って、みんなの注目引こうかな。
あ、やめとこ。やっぱり人にヴァカに思われたくないもん。
767 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 18:18:14
>>765 確認だが、音読みの史料はないんだよな?
それでは訓読みだとする史料は?
はいどうぞ!
>>763 アボカドがアボガドになりジャカルタがジャガタラになるわが国が
外国語の発音を正確に踏襲するとは思えないな
769 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 21:38:28
当時は遣唐使が唐の発音を学んで来てそのまま話していたのだから、
音読みというよりは中国語のネーティブ発音そのものだったのでは。
770 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 23:12:01
結局
>>765の回答はないな。そりゃそのはずだ。
すでに
>>294 で言及されているが、
嵯峨天皇の皇后の(橘)嘉智子や、娘の有智子はどちらも現在でも
(子を除いて)音読みされている。音+訓は変なので、当時は
「子」も音読みだったのだろう。
771 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:08:01
すでに明らかなように、700年代から嵯峨天皇期にかけて、女性の諱は
漢風の諱の段階的採用によりそれまでの和風の名前の伝統からいったん断絶した。
漢風の諱では、仏典・漢籍からの佳字+「子」という命名ルールになり、
当初は音読みだった(→光明子)。
平安時代より前では、日本では「〇〇子」(〇〇コ)型の女性の名前は少数だった
ので、女性の漢風の諱に「子」が使われた理由としては、子が漢籍で名に付く敬称
として使われたことくらいしか考えられない。しかも当初は「シ」と読まれたと考え
られる。
「光明子」の名は嵯峨天皇に影響力が強かったと思われるので、「光明子」の「子」
がどこから来ているか(仏典か、漢籍か)が分かれば、それにちなんで嵯峨天皇
が「子」をつけさせたということかもしれない。
772 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:17:20
>>770 音読みは弥生時代からあったんだよ。
古事記や万葉集を全く読んだことがない人?
表音文字として、漢字の音読みをそのまま当てはめて、
日本語の複雑な音節を言い当てていた。
古事記や日本書紀に現れる複雑な日本古来の名前も、
ほとんどが音読みでしょう?
既出だが、「刀自古(とじこ)」も「与志古(よしこ)」も
日本古来からある名前だが、当て字の読み方は音読みなわけ。
それで?
嘉智子(かちし)有智子(うちし)とでも読んでいたわけ?
両方とも、日本古来の命名方法と変わらないのに?
それに、あんたの主張する唐の言葉は、
現在の日本語の音読みとは全く違うから、勘違いしないように。
773 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:19:44
>>771 なんで嵯峨天皇の皇子女の話をしているのに
前時代の光明子の話を出すわけ?
奈良時代に女性の名前を音読みなんてしてましたっけ?
早く、嵯峨天皇の皇子女が
秀良(しゅうら)親王、源潔姫(けっき)と読まれていた史料をだして〜
774 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:24:10
いやいや、嵯峨天皇の皇子女は唐の読み方で読まれていたのだろう。
現在の日本の音読みとは全く違うから、今手元に史料がないのだが、
連投がいうのだから、唐の読み方をした史料があるのだろう。
早く出してねw
775 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:24:46
このレベルの馬鹿がコメントしていたのか。さすがにあきれるな。
あなた、本当に中学生?
>古事記や日本書紀に現れる複雑な日本古来の名前も、
>ほとんどが音読みでしょう?
>既出だが、「刀自古(とじこ)」も「与志古(よしこ)」も
>日本古来からある名前だが、当て字の読み方は音読みなわけ。
776 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:26:00
実は唐の言葉など何にも知らない連投であった・・・
777 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:27:17
>>775 ぷっ。レベルの低いあんたの言葉とも思えないね。
史料は見つかった?
778 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:43:53
>>777 嵯峨天皇の娘の有智子がすべて訓読みであるという当時の証拠は見つかった?
諡号も諱も同類のものであり、750年頃に漢風諡号が付けられた
のだから、同時期に漢風の諱が付けられるようになるのは自然なことだ。
漢風であることがはっきりしているのに、「実は日本の伝統とつながっている」
という主張は荒唐無稽以外の何物でもない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%A1 「忌み名」も私諡の一種であり、そこから諡一般のことを諱(いみな)と
言う場合もある
779 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 10:00:18
>>772 あまりに面白いから一応コメントしてみよう。
>嘉智子(かちし)有智子(うちし)とでも読んでいたわけ?
>両方とも、日本古来の命名方法と変わらないのに?
>それに、あんたの主張する唐の言葉は、
>現在の日本語の音読みとは全く違うから、勘違いしないように。
「嘉智」にしろ「有智」にしろ実に漢籍(儒教)っぽい文字で、
こんなものが和名の伝統にあるとは考えがたい。つまり当て字ではない。
今googleで嘉智を検索すると最初にヒットするのは香港の「嘉智中学」だ。
また当時は唐の言葉だけでなく和語でさえ現在とは大きく違った発音だ。
便宜的に現在の「音」の表記で例を書いているがそんなことは全く本質
ではない。
「実に漢籍(儒教)っぽい」とか言われたw
781 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 12:27:01
>>780 それが理解できないのは君くらいなものだよ。
「有智」は現在でも中国人の名前でそのまま使われている。
> 「有智」は現在でも中国人の名前でそのまま使われている。
だから何
783 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 16:48:13
連投くーん、素直に、
「嵯峨天皇の皇子女が音読みだったと言う資料はありません。
正直、なんて読んでいたのか分からないんです。
僕はニートで、脳内話を2チャンネルに書くのが生きがいなんです」
と言いましょう。
早く、早く、史料はまだかな〜?
(マジ、小学生?)
784 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:18:13
785 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:37:51
>「嘉智」にしろ「有智」にしろ実に漢籍(儒教)っぽい文字
相変わらずレベルが低いね。
空想で話するのやめてくれる?
日本の原典も、漢や唐の原典も読めないくせにさ。
786 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:41:10
>784
ウィキの丸写しはいいからさ。
そんなもん小学生でも読めるでしょ。
787 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:59:48
>>785 で、「嘉智子」や「有智子」がすべて訓で読まれていたという証拠
は見つかったの?厨房君。
788 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:07:46
>>787 君のような脳内君は相手するに値しない。
だって、一次史料を読んだことがないのだもの。
相手にしたってしょうがない。
君の無知さ加減を大笑いさせてもらっているよ。
789 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:12:46
史料は一切出せません。
脳内ソースで「女性名はすべて音読み」。
でも史料は出せません。
というか史料は読んだことありません。
残念な連投ニート君。
790 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:22:11
連投君に一次史料を探させるのはあまりに酷なので、
小学生にも分かる素材でひとつ。
以下は、斎宮歴史博物館のサイトによる内容。
(要約)
実は平安時代の女性の名前は、一部を除いてよくわかっていない。
そのために明治以来、国文学界を中心に、便宜的に音読みするというルールができた。
平安時代の女性名で読みが分かるのは一部の人だけである。
その読み方で「音読みであるものは一人もいない」。
現在、平安時代の女性名を一次史料で確認することが出来るものは
すべて訓読みである。
http://www.pref.mie.jp/SAIKU/HP/hyakuwa/0014/0014.htm
791 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 18:42:15
>>790 「光明子」「嘉智子」「有智子」が訓読みですか?
斎宮歴史博物館の榎村氏はこう書いているのだが?
「確証はないものの、「○子」は訓読みだったという方が可能性
としては高いように思われるのです。」
さらにこうも書いている。
>もともと女性の名前に「子」をつける事例は奈良時代には極めて少なく、藤原不比等
>の娘の藤原宮子(聖武天皇の母)と藤原光明子(聖武天皇の妻)がよく知られている
>位です。
792 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 19:40:38
嘉智子・有智子は音読みといっても、定子や彰子をていし、しょうしと
読むのとは訳が違う。伊波礼毘古みたいなもの。語音としては和風。
それとも約一名は「うちし」「かちし」と読まれたって言いたいのかい?
793 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:32:20
794 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 20:49:01
嵯峨天皇は息子に日本史上初めて「太郎」「次郎」・・と音読みで幼名を振っているが、
これは当時大変なことだっただろう。
いわば現代日本人が自分の子どもに「ファースト」「セカンド」・・という名前を
付けたようなものだ。
嵯峨天皇の娘には以下のような娘がいるが、これは仮に訓で読んでも奈良時代
以前の女性の和名にほとんど似ていない。
有智子、正子、秀子、俊子、繁子、芳子、仁子、基子、宗子、純子、斉子
実際にはおそらく「ユーチシ・セイシ・シューシ・・」のように読んだのだろう。
>>794 だから想像だけで語るなって。
しかも大した想像力でも無いくせに。
796 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 22:53:21
>>795 反論するなら具体的に反論しろよ。
これでも佳字+「子」型の女性の名前が漢風諱でないと主張するのか?
・莫大な費用を費やした遣唐使の派遣が盛んで唐風文化の絶頂期
・天皇の諡号まで漢字音読みにしてしまう時代
・女性の諱に明らかに仏典から取った字が使われ音読みで読まれる時代
・嵯峨天皇は漢文が得意で空海とも親しい
・嵯峨天皇は自分の息子の幼名に漢字音読みの名前を付ける
・嵯峨天皇の皇后や娘に明らかに音読みの名前がある
・嵯峨天皇が従来の女性の名(諱)とは明らかに違う漢風諱(佳字+子)を採用する
・嵯峨天皇が漢籍からとって源氏(ゲンジ)を創設する
797 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 23:02:38
ドイツに留学した森鴎外の子どもの名前が洋風なのは有名だよな。
以下のような名前を付けたそうだ。
森 於菟 オットー
森 不律 フリッツ
森 茉莉 マリー
小堀 杏奴 アンヌ
森 類 ルイ
山田 爵 ジャック
森 眞章 マックス
森 富 トム
森 禮於 レオ
森 攀須 ハンス
森 常治 ジョージ
森鴎外こと森林太郎も諱は諱でなんとかってのを持ってたそうだけど
そういう息子連中にも諱は諱で与えていたのかな
799 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 01:53:37
森鴎外の諱は源高湛だそうだね。さすがに子女には諱はないのでは。
「嘉智子」「有智子」なんて俺の目には
「かちこ」「うちこ」という和風名に
好字を当てただけにしか見えんのだが
いろんなことを考える奴がいるもんだ
実に漢籍(儒教)っぽい好字で当て字をすれば
当て字ではありえなくなる
みたいな奇妙な理屈は笑えたが
>796
訓みは訓読みでしょう
繁子→しげこのように
男性貴族も訓読みだからね
姓の源も「みなもと」が正式の訓み
802 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 09:06:35
森鴎外は軍医・作家に過ぎないから影響力は限定的だったが、
似たようなことを天皇が行ったのだから日本史を書き換えてしまったわけだ。
>>800 それなら奈良以前に「ウチコ」とか「カチコ」って名前が
どれだけあるか教えてくれ。
我々は明治以降の「〇子」ブームで、悪い意味を除いてあらゆるかな2字+
「子」という名が名前として有りうるというふざけた思い込みをさせられているだけだ。
>>801 「みなもと」が正式の読みというソースは?そんなものはないだろう。
803 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 09:41:34
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F 源氏は源の姓を持つ氏族であるが、その起源は中国の王朝、北魏の禿髪破羌が太武帝
から与えられた姓による。禿髪破羌は源賀と称した。北魏の皇室と禿髪破羌の家系は祖
を同じくしており、北魏の皇室が「元」に姓を改める前の「拓跋」と「禿髪」は同じ音に別の
漢字を与えたものであった。そのことの由来して、太武帝は「元」に音も意味も似ている「源」
の字を選び与えた。そのことを中国の歴史に詳しかった嵯峨天皇が生まれた子らにその姓を
与え、皇室と祖を同じくするという名誉の意味をこめて与えた。そのため、嵯峨天皇の子で
源姓を与えられた子らは、名も中国風の一字にしている。
804 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 10:50:28
嵯峨天皇が氏も名もわざわざ中国風にしたのに訓読みで読ませる
としたら、森鴎外がせっかく子孫に常治(ジョージ)と名付けた
のにわざわざ「つねはる」と読ませるようなものだ。
嵯峨天皇に上司がいるならそのような小細工が必要だったかもし
れないが、天皇に上司がいるわけもないし。
名前だけでなく制度まで唐風にしたのだから嵯峨天皇は徹底的に
やったのだろう。
日本人はそんなにかたくなで不器用な民族かなあ。
音読み一辺倒、もしくは訓読み一辺倒なんてことあるかな。
名付けに関しても、添え字に当たる「子」や「姫」は昔ながらに訓読み
メインの字は「嘉智」のような音読みもあれば
「浄(きよ)」のような訓読みもあったんじゃない?
「浄子」を「清子」と書くこともあるのは「じょう」ではなく「きよ」と読んだからだろうし
逆に「庄子女王」を「荘子」とも書くのは「しょう」と読んだからと思う。
自分は皆様のように専門的には学んでないただの趣味人なんで反論OK。
むしろお願いします。
ただ、公式な書面での字面は中国風を好んだと思うけど
読みにもその傾向を当てはめるのはちょっと強引かなと思う。
806 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 11:57:42
>>805 誤解はないと思うけれど、漢文上でしか基本的に使用しない、女性の場合人生で
数回しか使用しない「諱=忌み名=口に出して言ってはいけない名前」が750年-
900年頃にかけてどうしても読む必要がある場合には音読みだった時期があるだろう
という話をしているのであって、女性の日常的な呼び名は主に和語だっただろうし、
時代が下って訓読みされたことを否定しているわけでもない。
ただ、女性の諱が訓読みを確定できないから音読みの習慣が出来たという考え方
は早計で、音読みの伝統も一部では長く残っていたのかもしれない。
ちなみに片仮名や平仮名は平安時代以降に作られたもので、それ以前は基本的に
万葉仮名しかなかった。
807 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 12:54:07
定子が「さだこ」、彰子が「あきこ」とされるのはあくまで後世の推定であって、
定子は「あきこ」、彰子は「さだこ」と読んだのかもしれないし、音読みでテイシ・ショウシと
読んだのかもしれない。
訓で読むようになっても、他人に文字を知られても読み方が分からないようにわざと読みに
くくした可能性もある。
>誠子=みちこ、徳子=なりこ、雅子=なをこ、兄子=さきこ、亀子=ふみこ、敏子=たつこ
>どこをどう読んだらこうなるんだ、という名前ばかりです。
808 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 16:47:30
明治初期以前の「〇子」型の名前というのは、貴人の、しかも漢文記録上にほぼ限定され
た存在であって、明治初期までは日本人女性の9割はナベ・カマ・ウシ・トメなどのかな
2字名だったことは言うまでもない。
明治以前の貴人の女性だって、日常「〇子」型の名前で呼ばれたり使ったりすることなど
ほとんどなかった。
>808
姓の源を「みなもと」とよぶのは常識に属すと思うけど
史板で聞くとは驚き
源頼朝は何て呼ぶわけ
>807
正式には音読みはないでしょう
そりゃ便宜的にはあるかもしれないけど
忠平、師輔、兼家、道長が音読みでないのと同じこと
それに定子にテイシ何てルビがつくのは明治以降じゃないかな
811 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:50:52
>>809 このスレッドくらい目を通しましょう。常識が裏切られることも多いですよ。
「ヘイジ」でなく「ヘイシ」と読むようになったのもそれほど古いことではありません。
http://www.hamajima.co.jp/rekishi/rekishi-qa/a5.shtml 1240年ころに成立したといわれる「平家物語」には,「ヘイジ」「ゲンジ」とカタカナで読み
仮名がついています(新日本古典文学大系「平家物語」)。
「この一門にあらざらむ人は,皆人非人なるべし」といったことで有名な平時忠の読み方
は「ヘイ トキタダ」という読み仮名がついています。人物の名前も「ヘイ」と発音することが
あったようです。
藤原氏については,「平家物語」では「トウ」と「フジワラノ」の両方が出てきます。
「宇津保物語」では「トウジ」と読んでいます。
つまり,「トウジ」「ヘイジ」「ゲンジ」という,音読みが多かったということです。
「フジワラシ」という読み方は,もっと時代がくだったころからの,新しい読み方のようです。
812 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 18:55:52
>>810 漢文を正式に読みあげるとすれば音読みに決まってるじゃないですか。
訓読は便宜に過ぎないわけで。
>811
藤原氏を漢文的に書けば藤氏だけど
光明皇后も「藤三娘」と自署してる
かといって藤原をトウジとは読まないだろう
平家物語より成立の古い将門記や大鏡、栄華物語は源、平、藤原はそれぞれみなもと、たいら、ふじわらと読んでいると思うけど大丈夫ですか
814 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 21:32:29
>>813 氏を音で読んだ事例があるというだけで十分。
繰り返すが平安中期以降氏名を訓読したケースが見られることを
俺は全く否定していない。嵯峨天皇の頃にどう読まれたかという
ことを問題にしているのだが。
815 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 22:11:29
桓武天皇は漢字(漢音)音読を非常に重視した。
漢音
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E9%9F%B3 桓武天皇は延暦11年(792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には
漢音の学習が義務づけられ、また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典
読誦の一句半偈を精査することが行われ、また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が
許されなかった。漢音学習者が呉音を日本なまりの発音として「和音」と呼び、由来も
はっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑んだように、漢音は正統の中国語音で発
音することが求められたものであった。
>814
後世云々はどうしたよw
藤原は嵯峨天皇の時代でもふじわらだろう
ソースは新撰姓史録
そりゃ漢文の教養がある人だったら中国風の表現をする場合もある程度ならいえるけど
日記も漢文だし
良峰→良とか
多治比→丹とか
菅原→菅とか
817 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 23:21:16
>>816 桓武天皇が勅令まで出して漢字音読(ネーティブスピーキングだな)を
要求したというのに、文書(無論漢文)に日本人の名前が出て来るとそこ
だけ訓読みするの?まったくのお笑いだね。
>816
上にもあるけど儒学や仏教の経典を学生が呉音で読む癖があるのを漢音で読ませるようにするのが趣旨
(今でも宗派によっては呉音がつよい所もあるみたいだが)
日本人の名前がでてくることはほとんどないんでは
立后とかの宣明はやまとことば(今の祝詞のようなもの)でかかれていて音読はしないだろう
>>815の引用は漢音と呉音の対比がはっきり書いてあるだろ
どう読んだら音読みと訓読みの対比に読めるんだ?
受験生僧侶が経典を訓読みで読誦して落第する様子を
想像したらちょっと笑えるが、そういうギャグなのか?
>819
桓武天皇の詔は経史仏典などの今まで呉音で読んでいたところを漢音を正式にするということで
日本人の名前を漢音で読むことの根拠にはならないというデス
訂正
>819
桓武天皇の詔は経史仏典などの今まで呉音で読んでいたところを漢音を正式にするということで
日本人の名前を漢音で読むことの根拠にはならないということデス
822 :
819:2007/11/19(月) 05:39:06
>>821 ええと、それはわかってるというか全く同意
君は
>>818かな?
俺のレスは主に
>>817が相手だったのだ
俺がレス番を書かなかったのが悪いよな
823 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 07:49:57
漢字で書かれた和語と、純粋な漢文は分けて考える必要がある。
和臭の強い漢文は和語に文字がなかったためにやむなく漢字を使って書かれたもの。
しかし、三筆、つまり空海・橘逸勢・嵯峨天皇の時代は日本で最も純粋な漢文、
いわばネーティブな中国語の絶頂の時期だ。
嵯峨天皇は自分の子孫の名前が漢文の中に自然に溶け込むことを強く望んだに
違いない。そしてそのような名前が中国人にも受け入れられることを期待した。そうでな
ければ実際に中国にある「源」氏や中国と同じ一字名を採用する意味がない。
桓武天皇にとって呉音は「カタカナ読みの英語」であり、こんな田舎っぽいものは
止めてネーティブと同じように発音しろと要求したわけだ。
そういう感性をしている人々が純粋な漢文に和語の訓の名前が混じることを容認
できたとは思えない。
824 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 07:56:58
こういう考え方もある。
もちろん桓武天皇の命令は漢音を使えということで直接的には訓読するなということではないが、
「漢音の普及」を強く要求しているのだから、漢文からの和臭排除の強い意志が窺える。
http://homepage2.nifty.com/kanbun/izanai/02-03ondoku1.htm (3)中国語音読の主張1(桓武天皇)
漢文の読み方に関して、「中国語で音読するのが正当な読み方」だ、という強硬な主張があります。
これは「訓読法は廃止せよ」という主張につながってきます。面白いことに、こういう主張は古代から
繰り返されてきました。
平安時代には、桓武天皇(かんむ・てんのう、737-806)が、当時遣唐使がもたらした最新の中国音
である「漢音」を用いて漢籍を読むことを奨励されています。延暦11年(792年)閏11月の勅に、次の
ようにあります。
勅。明経之徒、不可習吳音。発声誦読、既致訛謬。熟習漢音。
(訓読)勅(ちよく)す。明経(めいけい)の徒(と)は、吳音(ごおん)を習(なろ)う可(べか)らず。発声
(はつせい)・誦読(しようどく)、既(すで)に訛謬(かびゆう)を致(いた)せり。漢音(かんおん)を熟
習(じゆくしゆう)せよ。
これは、それまでの古い「呉音」を排斥して、あたらしい「漢音」を普及させることが目的でした。ただ、
このころは「訓読」は未発達だったので、これは訓読廃止の命令ではなく、あくまで漢音奨励が目的
だったと考えられます。
しかし「呉音」は当時すでに生活に溶け込んでおり、加えて仏教経典の読誦(どくじゅ)に用いられて
いたため、結局廃止することはできませんでした。呉音による仏典の読誦は、現在まで命脈を保っております。
825 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 08:40:27
貴族たちが漢籍を家庭教師から習ったり、宮中で講読する際、
中国の言葉で読み下していたということはあると思うよ。
国際化の波に乗って、ちょうど日本の学校で、
第一外国語、第二外国語を習うみたいなもんだわな。
しかしだ、桓武天皇も何も、日本語を廃止して中国語を
国の言葉とせよと命令しているわけではない。
貴族たちは、職場や家では日本語で話し、日本語で議論をし、
日本語の名前で呼び合っていたわけ。
中国の漢籍を勉強するときには向こうの言葉で読みましょうったって、
日本語や日本の名前を放棄したわけではないわな。
頭弱い?
826 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 12:04:13
>>825 今は「諱=忌み名=口に出して言ってはいけない名前」の話をしているんだよ。
空海は後世「日本に仏教などという外国の宗教を入れた極悪人」と避難された
張本人だ。例えていえば嵯峨天皇は外国熱・仏教熱のため、子供に「外国風の
洗礼名も付けよ」(洗礼名は儀式では使うが普段は使わない)と命令したわけだ。
その後もずっと和語の幼名は男女とも使われ続けただろうし、実際の呼び名は
職名など諱以外であったことは間違いない。
その時洗礼名に過ぎなかったはずの女性の名前は1100年も後になって日本女性の
実名(〇子)として普及していくわけだ。
六国史には、山ほど宣命が載ってます。もちろん桓武朝にも。
例えば延暦廿三年(八〇四)十月辛亥(十日)
詔曰「天皇詔旨《良萬止》勅命《乎》(中略)又行宮勤仕奉《爾》依《弖》、
三嶋名繼眞人《乎》、上賜《比》治賜《布》。(後略)」
こんな場合も三嶋名繼眞人は「さんとうめいけいしんじん」とでも読んだんですかね。
源朝臣潔姫は「げんちょうしんけいき」とでも読んだんですかね。
約一名、妄想ばっかし語ってんじゃねえよ。
ここは歴史板なんだから、具体的史料を挙げろ。
音読みしてたっていう具体的史料を。低脳
828 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 21:42:41
>>827 宣命体って実質和語だろ。アホか。
■宣命体
宣命体は、宣命を書き記した文体。抽象的な語句を連ね、対句を多用し、荘重な感じをもつ。
また、仏語・漢語も用いるが、全体に国文的な要素が強い。
829 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 21:58:17
おっと六国史なら国史体か。
830 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 22:05:47
831 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 01:44:26
832 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 07:59:25
榎村寛之のように六国史を読み込んでいるであろう人でも名前が音で読まれた
か訓で読まれたか断言できないのだから、六国史で嵯峨天皇自身が源〇や
〇子をどう読んでいたかなど分かるはずがない。
833 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 08:36:05
>>826 漢籍は口に出して読むものですよ。
貴族が好んで勉強した「白氏文集」など、漢詩は読み上げるものなんです。
日本人でも、藤原公任の「和漢朗詠集」で分かるように、
読み上げるものなんですよね。
それに、諱が君のいうとおり「口に出して言ってはいけない」のならば、
そもそも読み上げることすらなかったんじゃないですかね?
漢文の中に出てきても、読み上げなかったと言うことです。
実際には、平安時代のいくつかの文書に、女性名の読みと思われる文字が残っています。
それが「まさるこ」であったり、説話集に登場するひらがなで書かれた女性名であったりするのですが、
音読みであると確認できるものは何もないですよね。
834 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 08:41:03
「諱=忌み名=口に出して言ってはいけない名前」
まあ、それもおかしな話ですがね。
紫式部は著作の紫式部日記の中で、
新皇子(のちの後一条天皇)の諱「敦良」を、
中宮彰子が「あつなが」と読む、と女房たちに言っています。
口に出して言ってはいけないのならば、
仮にも皇族の諱を軽々しく口にしてはいけないはずですよね。
それにもかかわらず、国母彰子はいとも簡単に
皇子の諱の読みを女房たちに公表している。
口に出すことを忌む風習があったのならば、
けしてありえない話ですよね。
835 :
834:2007/11/20(火) 08:44:48
すまん、すまん。
後一条天皇の諱は「敦成」。
中宮彰子は、女房たちに「あつひら」と読む、
と言っている。
836 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 14:36:57
>>834 >貴族が好んで勉強した「白氏文集」など、漢詩は読み上げるものなんです。
その通りです。だから嵯峨天皇は自分の子孫の名前を漢文で読んでも自然な
名前にしたのだろう。
>口に出すことを忌む風習があったのならば、
>けしてありえない話ですよね。
これは凄い。諱を音読みしたかどうかなどを遥かに超えた国文・国史の常識を
塗り替える新説だ。ぜひこの方向で論陣を展開して欲しい。
従来説では、
・目上の人に対する配慮として諱を使うことは禁忌だった
・平安初期に密教や陰陽道が盛んであったことからも分かるように
名前に呪術的な力があると広く信じられており、実名=諱を他人に知られると
様々な呪術のターゲットになると信じられ、家族以外に諱を知られることを避けた。
などとしており、事務的な理由で諱を聞くことはあっても儀式や公文書など以外
で使うことはほとんどなかったとされているはずだが?
837 :
827:2007/11/20(火) 15:08:07
>宣命体って実質和語だろ。アホか。
だから訊いてんじゃねえか。こんななかでも名前は音読みされたのかって。
実質も何も「和語」だよ。アフォか。
>基本的に漢文だが、
>香ばしい漢文だな。
宣命体が漢文?
アフォか。話にならん。
子が名前の一部じゃないだの、名前が音読みされてただの、そんなに自分の
デムパ説に自信があるなら、一度研究者のところに行って自説を開陳してこい。
まあ、頭をナデナデされるのが関の山だろうな。
そうそう、実際に行かなくても、いくらでも研究者が開いてるBBSはあるから
そこに書き込めばいい。 是非ともここで結果を知らせてくれ。
838 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 16:17:54
>>837 日本後紀は
・記述は漢文
・内容は宣命体(実質和文)→香ばしい漢文
・構成は編年体(国史体)
だろ?
839 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 17:49:16
840 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 08:20:02
>>839 音読みしたケースを一度も出してないのはお前ジャンw
「光明子」の読みを記した史料を出しましょうね。
なんて読んでいたか、わからないんじゃないのw
841 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 08:23:29
>>836 嵯峨天皇は日本語廃止令など出していませんからね。
当然、所生の皇子女を日本語で呼んでいたんです。
皇子女の名前は文章中にしか出てこないもの?
いえいえ、ちゃんと、読みをつけていたんです。
後一条天皇が親王宣下を受けたときに、
中宮彰子が女房たちに読みを披露していたのと同じですね。
読みが訓読みであったという史料はいくつか残っていますが、
音読みであったという史料が何一つ出て来ないんです。
842 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 13:03:34
>>840 歴史上「光明子」を訓読みした史料が1つでもありますか?
嵯峨天皇が息子の幼名を漢字音読みにした件はスルー?
これは明白な史実ですよ。ねえ厨房くん。
>>842 音読みにしても訓読みにしても、「光明子」の読み方はわからないんでしょう?
「光明子」にこだわっても意味ないのでは?
844 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 16:34:12
>>842 「光明子」の読みを記した史料を出しましょう。
まともな人なら
「そんな史料はありません。音読みか訓読みかは断定できない」
でしょうね。
頭がまともではないニート君だけが、
音読みだと脳内主張してスレに張り付いています。
「光明子」を音読みした史料がひとつでもありますか?
嵯峨天皇の皇子女を音読みした史料がひとつでもありますか?
早く探そうね。
厨坊は君でしょ。
845 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 17:45:23
>>844 断定できないのに音読みのはずがないと断定している馬鹿は
誰でしょうね?
結論:音読みしたかどうかはわからない
848 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 19:41:45
>847
>名前が音読みされてただの、そんなに自分の
>デムパ説に自信があるなら、一度研究者のところに行って自説を開陳してこい。
>まあ、頭をナデナデされるのが関の山だろうな。
なるほど日本語読めんのだな
850 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 20:09:32
>>849 なるほど、音読みするという事実に気付いたことについて専門家が
絶賛してくれるという意味なのだな。ふむふむ。
それなら完全に見解が一致したな。
851 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 20:45:52
852 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 21:03:07
意見が一致したところでもう一度まとめよう。
・9世紀頃成立した女性の「漢字1字(読み2音節)+子」の「漢風諱」はそれまでの和語の女性名
とは全然違う。
・女性の「漢風諱(〇子)」は生涯に何度かしか使わない文献記録上の記号に過ぎず、実際は
幼名や職名などで呼ばれたので「漢風諱」の採用は実際の生活にはほとんど影響がなかった。
・明治中期以降、記録上の名前である「漢風諱(〇子)」が貴人女性の本来の名前であると庶民
に認識されたため、実名としての「〇子」が広く使われるようになった。
・「漢風諱」の読み方については平安中期以降に訓で読んだ例があるが、奈良後期・平安初期
についてははっきりしない。嵯峨天皇が息子の幼名を漢字音読みとしたこと、「源」氏が実際に中国
にある氏から取られていること、名も中国と同じく漢字1字ないし2字としていることなどから
音で読んだ可能性が高い。
これでいいかな?
853 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 22:42:58
>>852 >嵯峨天皇が息子の幼名を漢字音読みとしたこと、「源」氏が実際に中国にある氏から
>取られていること、名も中国と同じく漢字1字ないし2字としていることなどから
>音で読んだ可能性が高い。
この部分だけど、「源」は「ゲン」「ミナモト」と読まれてたんでしょう?
そこからすれば、音でも訓でも読んだ可能性が高いとした方がよいのでは?
中国人は、名前の漢字にはこだわるけど発音にはあまりこだわらない人が多いし。
854 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:41:03
855 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:50:07
なるほど。
じゃあさしずめ、弟の頼親は「らいしん」で、頼信は「らいしん」か。
856 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 23:56:47
ちなみに能で出て来る名前がすべて音読みということではない。
頼光(らいこう)は「有職読み」の一種とされることが多いのだろう。
日本史上では音読みで読む名前は少なからずあり、現在その多くは
「有職読み」として説明されている。文学や書に秀でていたり、文芸作品
の登場人物である有名人は音読みされやすいという説明だ。
また読みにくいというだけで音読みされるとか、「正しい名」である訓読み
を憚って音読みするだとかいう説明もある。
音読みする名前の例:
藤原俊成、藤原定家、式子内親王、源(多田)満仲、源義経、源頼光
小野道風、藤原佐理など
しかし「有職読み」は特に秀でた人の名前を音読みするのだから、
「音読みこそが正統」という意識があってこそ成立するはずだ。
857 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 01:06:44
これを見ると名前は音読みと訓読みが混在している。どこで訓と音を使い分けるのか
よく分からない。
とにかく源雅俊は「ゲンガシュン」と発音され、源寛雅は「ゲンカンガ」と読まれた
ことははっきりした。
平家物語 高野本 巻一
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』
(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
http://www.j-texts.com/heike/takano/ht01.html 京極(きやうごく)の源(げん)大納言(だいなごん)雅俊(がしゆん)(ガシユン)の卿(きやう)の
孫(まご)(マゴ)、木寺(きでら)(キデラ)の法印(ほふいん)(ホウイン)寛雅(くわんが)(クハンガ)
には子(こ)なりけり。
858 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 08:03:55
源雅頼は「ゲンガライ」と読む。平家物語では「源」を「ゲン」、「平」を「ヘイ」と読むもの多数。
間違いというレベルの数ではない。
現在、諱は訓読みが正で音読みが例外のように言われることが多いが、
実際は音読みが正で訓読みが例外だったものが、訓読みが普及して訓読み
が主流になったと考えたほうが理解しやすい。
平家物語(龍谷大学本)巻第五
http://www.j-texts.com/heike/ryukoku/hry05.html 源(げん)中納言(ぢゆうなごん)(ぢうなごん)雅頼卿(がらいのきやう)の
もとに候(さうらひ)ける青侍(せいし)がみ【見】たりける夢も、おそ
ろしかり【恐ろしかり】けり。
859 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 08:42:59
平(へい)といっても「平家」のへいではないよ。
平(へい)大納言、平(へい)判官(はんぐわん)、平(へい)大相国(たいしやうこく)、
平(へい)宰相と、平氏を主題とした平家物語が散々「へい」と読ませている。
平家物語では平はほとんど「へい」と読ませている。「たいら」はごく少ない。
源は「げん」以外に「みなもと」とよませるものも結構ある。
篠山紀信の「きしん」や黒川紀章の「きしょう」
みたいなもんだろ。
861 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 14:50:18
>>860 それについてもなぜ音読みにしても失礼にならないどころか尊崇する意味になる
のかよく考えて欲しいな。
>>856 >しかし「有職読み」は特に秀でた人の名前を音読みするのだから、
「音読みこそが正統」という意識があってこそ成立するはずだ。
>>858 >実際は音読みが正で訓読みが例外だったものが、訓読みが普及して訓読みが主流になったと考えたほうが理解しやすい。
>>861 >なぜ音読みにしても失礼にならないどころか尊崇する意味になる
のかよく考えて欲しいな。
この論理の飛躍ぶりには呆れるほかないね。
あなたが例に出しているのは文学なんだから、
正統とか尊崇どうのじゃなくて
まずは文章の調子とか
音律的な問題で音読みしてるってことを考えるのが
まずは順序じゃないの?
863 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 18:01:23
>>862 おいおい、
>京極(きやうごく)の源(げん)大納言(だいなごん)雅俊(がしゆん)(ガシユン)の卿(きやう)の
>孫(まご)(マゴ)、木寺(きでら)(キデラ)の法印(ほふいん)(ホウイン)寛雅(くわんが)(クハンガ)
>には子(こ)なりけり。
のどこに名前を音読みしなくてはならない文学的必然性があるんだ?
音律などもってくるほうがよほど飛躍だ。
中国が正統って考え方は常識かと思っていたけど
ちがうの?
>>863 平家物語の冒頭に源義親を「ぎしん」、藤原信頼を「しんらい」とかって言ってるけど、
まさかそれが正統な呼び名だとでも思ってるわけ?
866 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 20:16:24
>>865 正統かどうかなんて誰が決めるの?
平家物語でほとんど平氏の平を「へい」と読んでいるが、それでも「たいらの」が
正統だと主張するのか?
867 :
日本@名無史さん:2007/11/22(木) 23:57:44
どんなに悔しくても、我が国の名前は「日本国」であり、ほとんどの
人が「ニホン・ニッポン」と読む。いや「日本国」と書いて「やまと」と
読む、それが正統なんだと主張するのは勝手だけどさ。
868 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 09:21:17
訓読みは同じまたは似た意味のすでにある和語で漢字を読んだものなのだから、
訓読みする◯姫とか◯子みたいな名は、もともと和風の人名としてあった◯◯ヒメ・◯◯コと比べて
人名として違和感がないから、流行ったんじゃない?
869 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 10:28:01
>>868 「〇子」が呼び名として流行ったのは嵯峨天皇から1100年も後だから・・
それまでは
・皇族の女性の諱は「〇子」だがこの名前で呼ばれることは非常に特殊な場合
を除いてなかった。人口でいえば0.001%くらい?
・安土桃山時代から明治中期くらいまでの、8割以上の女性の名前は
かな2文字(ねね・くま・なべ・とめの類い)
870 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 10:43:53
>>869 868は皇族の女性の諱として平安時代から流行ってたという意味です。
871 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 12:51:21
>>870 確かに漢風諡号や兄弟間の通字が10世紀以降途絶えたのに対して、
「漢風諱」自体は生き残り(そもそも諱を付けること自体が中国の風習)
名乗り字として無理矢理訓読み(人名訓)まで作って名前にしてしまった
という経緯は興味深い。
872 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 15:57:36
873 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:17:38
厨房にはこれで十分だろ。平凡社大百科事典より。無知って罪だな。
・鎌倉・室町時代
室町期に至って「千代女、若鶴女、松女」等の旧型も残るものの「阿茶、阿茶々、ちやち、
あかか、あこ、とら、かめ、わか、いち」等の新しい名が見られ、貴族・庶民の別なく通称には「女」
字の脱落と仮名書き化が相当進んだようです。
・安土桃山時代
安土桃山時代には「女」字の脱落と仮名書き化が益々進行しましたが、豊臣秀吉の正妻「木下ねね」
は、その名では叙位対象にならないとされる事から、公式の名を「平朝臣(たいらのあそん)寧子」と定
めて従一位に叙されたのでした。
・江戸時代
江戸時代の庶民の女性名は「はつ、せん、せい、かめ、とら」等大部分が2文字で、これらはしばしば
接頭語に「御」を付けて呼ばれたようです。
・明治・大正時代
明治・大正時代の女性名の多くは、江戸時代風の仮名2文字でしたが、公家・華族の「○子」型の名が
明治30年代から非常な勢いで普及し、それとともに公家・華族の女性の名の漢字を用いた名が流行しました。
874 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:27:09
庶民の名前と公家の名前をごっちゃにしている馬鹿w
連投、いつまで家で脳内妄想ばかりしてニートやってんの?
お母さんが泣いてるよ
875 :
32歳童貞:2007/11/23(金) 18:54:07
もっとアンジェリカとかルナとかつけろよな まったく
876 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 19:00:54
>>874 皇族女子の名には必ず子が付くのに子が付く名前が流行ることなんてできるの?
877 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 19:33:42
少しでも判断力のある人なら、嵯峨天皇が採用した下記の「漢風諱」の命名規則が
当時の既存の和名と何ら関係ないことは明らかだ。
例えば有名な蘇我氏の男子の名は「マチ」「カラコ」「コマ」「イナメ」「ウマコ」「エミシ」「イルカ」
と続くわけだが、これらの名と嵯峨天皇が付けた「業良、正良、秀良、基良、忠良」は全然似
ていない。
臣籍降下しない男子→「漢字2字(うち一字は兄弟間の通字)」
臣籍降下しない女子→「漢字1字」+「子」
臣籍降下する男子→「源」氏+「漢字1字」
臣籍降下する女子→「源」氏+「漢字1字」+「姫」
それにもかかわらず和名と「漢風諱」に一貫性があるとしつこく主張する馬鹿がいることが興味深い。
この現象の分析をしてみよう。
・「漢風諱」の命名規則がその後日本人に浸透してしまったから漢風諱と同様の名が大昔から日本に
あったと思い込んでいる。
・中国の習慣を日本が採用したことに心理的抵抗がある。
878 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 20:30:36
えっ、和名と諱には読みで似た点があっただろうと、思い込んでるよ!〜コとか。
だって、似てないなら訓読みする必要がないし。
諱は、漢字の名前を和風に読むために訓読みしたんでしょ?違うの?
879 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 21:30:43
>>878 何人もの学者が書いている通り、奈良以前には女性の「〇コ」って名前は
ごく少なかった。漫画の読みすぎかテレビの見すぎでない限りそんな誤解
はしないはずなのだが。
もちろん海外にも「マルコ」とか「フランチェスコ」がいるように、
日本にも「〇コ」はいたけどね。
880 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:16:41
>>879 上に例が挙がってるように、少数でも人名としてあったでしょ。
それも天皇に近い人に。
とじことかミヤコは教科書にも載ってるくらいだから、昔から有名人でしょう。
881 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:27:27
>>880 藤原宮子は光明子の姉妹だから、漢風諱の最初期の例かもしれない。
882 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 01:17:45
>>880 いちおう突っ込んでおくけれど、「刀自古郎女」の「刀自」とは「主婦」の意味で、
「刀自古」を年配の婦人の意味と解釈する人もいる。
角田氏は「最初に刀自という一般名詞が固有名詞と使われた例」と苦しい説明を
しているらしい。
聖徳太子の妃には菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)さんもいたことを
お忘れなく。
> 角田氏は「最初に刀自という一般名詞が固有名詞と使われた例」と苦しい説明を
> しているらしい。
そんなに苦しいか?
884 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:06:48
> 「主婦古」って尋常な名前じゃないからねえ。
だから何
豆知識を介して、話が枝葉へ枝葉へ反れてまとまらないね。
そんな調子で300レスくらい進んでるっぽい。
887 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 12:32:33
じゃあ本筋に話を戻そう。
ある漢字の訓はしばしば複数あるのだから、諱をある特定の訓で読ませたいなら、
万葉仮名でもなんでも使って記録するだろう。そうでなければ後世読めないのは当然だ。
しかし実際そうでないということは、以下のいずれかしか考えられない。
・諱は音で読むものとされていた。
・諱の読み方はプライベートなものであり、基本的に他人に知られてはいけないと考えられて
いた。だから漢字と関係づけられないような訓が多く付けられた。よって他人が読む場合は
音で読めば問題なく、後世の人間が訓を詮索するのは不可能。
888 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 12:50:52
角田文衛氏は「江戸末から明治の学者が諱の訓読みを確定できないから音読み
にするという悪弊を作った」と非難しているわけだが、これは実に杜撰な非難だ。
「漢風諱」の歴史を考えれば初期に音読みした可能性は非常に高いし、後に訓読み
したとしても本人たちが必死に読みを隠そうとしたのなら、音読みで悪いわけがない。
むしろ後世に勝手な訓で読んでしまうほうがよほど性質が悪い。
>>887 >>834>>835についてはどう解釈してる?
もし諱は音で読むものとされていたにも関わらず訓読みされてたのであれば、
昔の人は和語の語感を大切にしてたということかな。
890 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 17:53:40
>>889 ・国風文化の興隆で漢風諱を訓で読み下すようになったのだろう。
戦時中反英米の風潮のなかで英語の野球用語を強引に日本語化したようなものだ。
・紫式部日記は全くプライベートな著作。清少納言への批判などがあるように
全く公開を意識したものではない。諱の読みの件も女官たちの内輪の話を書きとめ
たものに過ぎない。
> ・紫式部日記は全くプライベートな著作。清少納言への批判などがあるように
> 全く公開を意識したものではない。諱の読みの件も女官たちの内輪の話を書きとめ
> たものに過ぎない。
だから何
892 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:18:18
893 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 19:36:22
とうとう勝利宣言ですかw
少なくとも国風文化以降現代までずっと、皇族女性の名は◯子の訓読みまたは重箱読みで
やってきたんだろうね。
>>890 > 戦時中反英米の風潮のなかで英語の野球用語を強引に日本語化したようなものだ。
いい加減、その手の貧相なたとえ話は何とかしてくれ。
思い込みはもうたくさんだ。
> 紫式部日記は全くプライベートな著作。清少納言への批判などがあるように
> 全く公開を意識したものではない。諱の読みの件も女官たちの内輪の話を書きとめ
> たものに過ぎない。
公開を意図してなかろうが女官の内輪話だろうが、
現代人であるおまえの勝手な妄想より遥かにマシだろ
896 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 21:28:33
>>893 「〇コ」だから「ウジノカイタコ」も「〇子」型の名前だと信じているのは
このスレでは君だけだよ。
897 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 21:30:47
>>895 君みたいな人にも分かるような例え話をしてあげているのさ。
空海が外国の宗教を日本に入れた極悪人として後世批判されたこと
くらい知ってるよな?
898 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 21:32:15
ハァ?
899 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:38:08
どこまで親切に説明してあげる必要があるのかね。
明治維新で欧米の文化が流れ込んで来た時と似た状況が嵯峨天皇の時代の前後にあり、
アメリカとの戦争によりアンチ欧米文化となった時と似た状況が遣唐使廃止頃にあった。
嵯峨天皇は外国の宗教、書や文学に熱中し、和漢の高い教養を持つ森鴎外さえ子孫たちに
西洋風の名前を付けた。
何回「だから何?」と書いたら済むんだよ
おまえ史学のレポートでそんなたとえ話を基に結論書いたら学部でもCつくよ
901 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 00:09:13
>>900 「だから何?」とレポートに書いたら赤点付くよw
そりゃそうですが、何か?
903 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 00:24:15
馬鹿は置いておいて、やはり女性の漢風諱の最初期と思われるのは藤原不比等
の娘あたりからのようだ。
宮子(または宮子娘)、長蛾子(笠子娘、笠子媛)、光明子(藤三娘)
不比等の妻は蘇我娼子(または媼子=おうなこ)で一見「子」が付いているが、その父の名は
蘇我連子(むらじこ)であり、「娼」の字も佳字とは思えないので漢風ではないのだろう。
904 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 01:02:59
ちなみに長蛾=長娥は現在でも中国人の名前として使われている。
905 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 10:33:11
補足すると、諱を付ける習慣は中国を参考に650年頃に始められたらしい。
ただし、当初は和名による諱で、「光明子」が使われ始めたのは740年頃という
説がある。
906 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:39:42
連投は嵯峨天皇説を完全にひっくり返して、
藤原不比等が新しい命名方法を日本に持ち込んだと躍起だ。
その頃から漢字による名前の表記が一般に普及しただけの話なのにね。
藤原不比等と中国なんて関係ないし。
長蛾子が中国人の名前だなんて、嘘もいいとこ。
唐に長蛾子という人名があったことを証明しろ。
907 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:18:11
>>906 長娥というのは中国ではうさぎと並んで月にいる優雅ものなんだよ。
あんまり恥かしいことを書くなよ。
908 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:25:57
909 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 18:44:20
「日本逸史」弘仁5年5月8日条
嵯峨天皇の8人の皇子女が源姓を受けて臣籍降下。
その記事に、読み仮名が振ってある。
源信(マコト)
源弘(ヒロシ)
源常(ツネ)
源明(アキラ)
源貞姫(サダヒメ)
源潔姫(キヨヒメ)
源全姫(ウツヒメ)
源善姫(ヨシヒメ)
動かしようのない事実だな。
恥ずかしすぎる連投。
910 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:36:54
>>909 そりゃ君が恥かしいぞ。
日本逸史の元になった史料は平安中期以降のものばかりだからな。
911 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:38:10
誰かさんが根拠にしていた「平家物語」も
鎌倉時代末期の成立だったけれどもねw
912 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:39:25
>>910 国史は当時の文献を元にかかれていますが?
原文を一度も出してこないトンデモさんとは違いますからね。
913 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 22:28:25
>>912 当時って、名前の訓読みを誰もが認めている平安中期以降当時の文献
を持ち出して何か意味があるの?
914 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 07:31:15
915 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 08:00:58
916 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 14:55:42
>>914−915
基地外は、史料を読めないばかりか、
素人の作ったサイトを引っ張ってきて反論しようとしている。
まず、その素人の作ったサイトの信憑性から証明したら?
その人は、どこからその読みを引用しているの?(笑
史料も読めないのにもう、書き込まないで。
レベルがあまりに低すぎる。
918 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 16:03:18
角田文衛説すら苦しいと切り捨てるのに
素人の個人サイトや大辞泉はおkなのか
920 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 16:55:41
>角田文衛説すら苦しいと切り捨てるのに
江戸末から明治の学者すべてを切り捨てた角田文衛
>>918 自分にとって都合のいいところだけつまみ食いしてくるDQNw
それはない
>>914 > 源常(ツネ)ってのが痛く面白い。
> こりゃ凄く苦しい読みだ。ちょっと坊主っぽくなるけれど「ゲンジョウ」と読んだほうが
> 余程自然。
おいおい、これ真面目に言ってるの?
あんたにとって苦しかろうが不自然だろうが
個人(それも現代の)の感想感性なんてどうでもいいんだよ。
教科書で初めて小野妹子の名前見た小学生が
「うわ変な名前〜」とか言ってるレベルとあんた同じだぞw
> 実際wikiを見ると「常」を「ときわ」と読ませている。この時代に名前の訓読みがなかった 証拠かもしれないね。
証拠って‥‥‥w
上の方にちゃんと史料出てるじゃん。
それ以上に有力な史料出すならまだしも‥‥
925 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 20:57:57
>>924 じゃあ現在ほとんどの人が源常を「ときわ」と読んでいることをどう説明するのさ。
926 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 07:40:10
嵯峨天皇の皇子女の名前って、やっぱり訓読みだったんですね。
音読みだと主張する連投、逃亡w
927 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 07:40:50
>>925 現代の話なんかしてないでしょ。
意味不明。
928 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 08:05:54
929 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 08:12:21
>>926 >>927 自分で矛盾したことを言ってるな。
俺はずっと嵯峨天皇の頃には諱の訓読みはなく、後の時代の人が
嵯峨天皇の時代の人々の諱を訓読みしたのだろうと言ってるわけだ。
だから「源常」を「つね」だかとか「ときわ」だかとか読まれること
になる。江戸のある時期には「つね」と多く読まれたかもしれないし、
昭和・平成のある時期には「ときわ」と多く読まれたかもしれない。
こんなに簡単なことがなぜ理解できない?
930 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 08:17:53
>>929 ふーん、
「日本書紀」は奈良時代に出来たから、
それ以前の言葉の読みはしるされてないんだ?
「古事記」も奈良時代に出来たから、
当然、それ以前の人の名前は奈良時代の読み方で書いているわけね。
奈良時代の人にはちょっとないような難解な人名も、
伝承や文献によらずに、奈良時代の人が当時の現代語で書いてたわけ?
平安時代中期には、嵯峨天皇の皇子や孫はまだ生きているんですよ?
当然、読みなどは知っていましたよね?
それより、「嵯峨天皇の頃には諱の訓読みはない」という
ソースはまだ?
931 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 08:20:33
>>929 それをいいたいのならば、「日本逸史」よりも
信憑性のある史料を出せばよいのに。
平安時代の文献を集めた「日本逸史」は、
少なくとも現代人よりは当時の読みに忠実な
ルビを振っているでしょうね。
932 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 08:39:55
>>930 面白いな。つまり「源常」=ときわという読みは明らかな間違いという主張なわけだね。
じゃあぜひSTANFORD UNIVERSITY PRESSや京都市や小学館に訂正要求してくれ。
みんな「ときわ」と書いているぞ。
933 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 09:11:00
>>930 「北条政子」などと書かれなかった戦前に教育を受けた歴史学者が
多数存命の時期に堂々と「北条政子」などと書かれるようになったという
話が出たばかりなのに、学習能力のない人だねえ。
スレタイ、「日本女性の名前」じゃなくて
「平安初期の名前の読みについて」に変えたら?
935 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 12:54:13
936 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 14:46:50
唐風文化を興隆した張本人が、中国人そっくりの名前を子供に付けた上で、
必死に和風の読み方を考えている様を想像すると面白い。
937 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:33:27
名前を音読みした史料は何一つないという
過酷な事実を受け入れられない連投君。
ちなみに、史料は一切読めず、
ソースはすべて素人が作ったネットの切り貼り。
ソースにしている素人君すら、
嵯峨天皇の皇子女の名前は音読みだったと言っているものは
<ひとつもない!!!>
938 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:36:21
>935
源常を現代人が「ときわ」と読もうが、
何の根拠になるんだろうねえw
いい加減、平安時代の史料を出しなよ。
藤原多子だって、当時の史料では「まさるこ」が正しいが、
現代人は「たし」って読んでるジャンw
現代読みが正しいの?
939 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:44:22
>>932 面白い主張だね。
君の言うとおり、源常のよみは、「ときわ」が正しいとしよう。
嵯峨天皇の皇子女の読みが訓読みであったことは、全く正しいわけだ。
君が音読みが正しいと言うのならば、それこそ
小学館や京都市に対する反逆行為だね。
訓読みが正しい。
940 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:45:37
嵯峨天皇の皇子女の読みが訓読みであったことは
証明されたね
941 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:51:06
>>638 どこまで頭が悪いのかね。
角田氏が自ら認めている通り、女性の諱を音読みすることは
江戸期にさえ広く行われていた。
悔しいなら嵯峨天皇の時代に諱を訓読みしていたという確実な
史料を出してみろ。嵯峨天皇の時代に訓読みしていた証拠は
<ひとつもない!!!>
嵯峨天皇が訓読みさせたのなら、その記録が
ないほうがおかしい。漢字に対する訓は複数あるのが普通だからな。
942 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:53:00
>>639 神武天皇が神武と名付けられたのはずっと時代が下ってからだという
ことが明らかになっているが、誰も神武天皇を神武天皇と呼ぶことが
間違いだなどと主張する人はいないが?
君は神武天皇と当時呼ばれていなかったから神武天皇と呼ぶのは間違い
だと主張するわけだね。
943 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:56:27
「土佐日記」で有名な紀貫之は、
嵯峨天皇皇子源融が亡くなったときに、歌を詠んだ。
その歌が、「古今和歌集」に残っている。
君まさで煙たえにし塩竃の
うらさびしくも見え渡るかな
紀貫之は、まさに嵯峨天皇の皇子女たちと同時代を生きた人物だった。
ところで、紀貫之は著書「土佐日記」を、
女を装って、ひらがなで記述している。
「土佐日記」の中には、貫之時代の官僚の名前が出てくるのだが、
名前は、ひらがな、訓読みで書かれてある。
史料を読まない連投君はレスしないでね
944 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 18:59:08
>>941 どこまで頭が悪いのかね。
史料ならたくさん出ている。
もう一度、最初から読み直したら?
角田氏は平安時代のいみなは音読みであった、と言っていますか?
言っていませんよね?
なんてよんでいたか分からないから、音読みしてるだけでしょ。
学者の説をねじまげるな、基地外。
945 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:00:51
>941
悔しいなら嵯峨天皇の時代に諱を音読みしていたという確実な
史料を出してみろ。嵯峨天皇の時代に訓読みしていた証拠は
<ひとつもない!!!>
訓読みしていた資料ならあるのにねえ。
捏造君。
946 :
945:2007/11/29(木) 19:01:37
悔しいなら嵯峨天皇の時代に諱を音読みしていたという確実な
史料を出してみろ。嵯峨天皇の時代に音読みしていた証拠は
<ひとつもない!!!>
947 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:36:33
>>943 嵯峨天皇は786年生まれ。紀貫之より1世紀も前の人間だ。
土佐日記の成立は935年頃。
紀貫之の生年は872年説があるから、そうだとすると遣唐使が廃止された
894年にはまだ22歳だな。
948 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:41:04
>>947 嵯峨天皇と同時代である必要はない。
嵯峨天皇のいみな「神野(賀美野)」は桓武天皇時代の人がつけたのだから。
嵯峨天皇の皇子女たちは、貫之が生きた時代にも生きていた。
当時の官僚たちの名前が皆訓読みなのに、
嵯峨天皇の皇子女だけが奇妙な音読みをしていたのならば、
当然、それを書き記すだろうね。
そんな史料などどこにもない。
949 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:48:35
このスレッドのギャラリーは宮川説を見るまでもなく、
嵯峨天皇が史上初めて自分の息子に漢字音読みの幼名を与えたこと
などから諱を音読みした状況証拠は真っ黒だと理解している。
角田文衛氏が実際に江戸期の学者が女性の諱を音読みしているのに
勝手な理屈で間違いと非難しているのを根拠にして嵯峨天皇は子供の諱を
訓読みしたに違いないと主張する人間がいるのだから片腹痛い。
950 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:51:21
紀貫之が生まれたとき生きていたことが確実な嵯峨天皇の皇子女たち
秀良親王
忠良親王
仁子内親王
源寛
源融
源勤
源全姫
(没年不詳の者多数のため、没年確定者のみ)
嵯峨天皇の孫は、大量に生きていた時代。
951 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:52:05
>>948 まったく異常なセンスだね。
源全姫 マタヒメ(
>>909:ウツヒメ)
源常 トキワ(
>>909:ツネ)
源弘 ヒロム(
>>909:ヒロシ)
のように訓はいくらでも読み方がある。音は読み方が1つしかない。
訓で読ませるなら必ず読み方の記録を残さなければならないが、嵯峨
天皇の時代にそんなものはない。
音で読むと考えられた何よりの証拠だ。
952 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:52:50
>>949 捏造君、早く、史料に当たりなよ〜
角田文衛氏も泣いているよ〜
953 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:54:00
>>951 音読みで記したものがないのはなんででしょう?
当時の史料にも、官僚の名前を音読みしたものはなにひとつないですね
早く、音読みした史料を出してねw
954 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:54:53
>>951 国語力の全くない気違いだな。
音読みだって複数あるだろ。
早く、漢和辞典を開け。
955 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:55:36
>>950 ぷっ、紀貫之が生まれたとき生きていたことが確実って・・
日野原重明が生まれた時、まだ徳川将軍(慶喜)は生きていたぞw
956 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 20:01:56
957 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 20:05:29
スレも残りわずかとなりましたw
史料をまったく読めない妄想ニート君は、
いつになったら住人を納得させることの出来る
史料を出してくるのでしょう?
糞スレ立てんなよ。
一日中張り付いてる変なおっさんにのっとられるから。
958 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 20:58:38
永久保存だな。このレベルの人間と議論していると思うとホント疲れる。
桓武天皇が呉音の使用を禁止し漢音に統一する勅令を出した意味が
全然分かってなかったのだな。
954 名前:日本@名無史さん :2007/11/29(木) 19:54:53
>>951 国語力の全くない気違いだな。
音読みだって複数あるだろ。
早く、漢和辞典を開け。
959 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 21:11:30
>>953へのコメントを兼ねて、本当に中学生だということが分かったので
解説してあげる。
「音読み」というのは、「当時の現代中国標準語」の発音に他ならない。漢字は
1字1音節だから読み方は絶対に1つしかない。
現代日本で音読みが複数あるのは、呉音・漢音と時代が違う時期の発音が入って
しまったから。しかし桓武天皇が漢音に統一せよと命令しているのだから、
嵯峨天皇の時代は音読みは漢音で読むべきであり、漢字で書き表されていれば発音は
完全に確定できるので、読み方の説明など一切必要ない。
これで当時音読みの読み方がない理由が理解できたかな?
960 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 08:08:05
>>958>>959 どちらのいっていることが正しいのだろうね?
958は、平安時代初期は漢音だといい、
959は、唐音だといっている(平安初期は唐の時代)。
矛盾してるね。
どちらにしても、どんな高学な先生も、
平安時代の日本人の名前が中国音などとは言っていない。
永久保存かあ、そうしたら?
仕事のないニート君が生きた証は2ちゃんねるしかない。
961 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 08:11:12
>>959 中国の文献を読むときには中国音だったろうね。
だけど、日本の文献を読むときはどうかな?
桓武天皇は自分の子供に相変わらず伝統的な日本名をつけているね。
伊勢物語も、竹取物語も、登場人物は、和名だ。
平仮名は表音文字なのに、
どうして中国読みの人物が登場しないの?
おかしいね。
音読みだった証拠が出せないから、荒れ放題だね。
962 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 08:12:41
>>959 君、実は登校拒否の小学生だろw
文献とは何かを知らないらしい。
いいから、登校拒否が直るように、カウンセリングを受けよう。
2ちゃんねるから卒業したまえ。
963 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 11:06:40
>>960 >958は、平安時代初期は漢音だといい、
>959は、唐音だといっている(平安初期は唐の時代)。
>矛盾してるね。
これも永久保存だな。漢っていつの時代か知ってる?
漢音の「漢」は中国一般の意味での「漢」なんだよ。
964 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 11:25:16
>>963 土日は勿論、平日のどんな時間にも出てくるんだな。
登校拒否児童って本当だったんだな。
>>960 >
>>958>>959 > どちらのいっていることが正しいのだろうね?
そんなもんおまえ‥‥
現時点で最有力の史料無視して、
思い込みとネットからの受け売りだけで「音読み」断定している奴が
正しいわけなかろw
966 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:43:03
音読みの意味も知らない人の主張が正しいと言われてもね。
権威ある学者さえ馬鹿げた説を吐くという話は、
最近も「娘の身売り」スレッドでも出たばかりだな。
いまだに多くの人が信じている「吉原の遊女は21歳前後で
多くが死んだ」という説は出鱈目なデータによるものだった。
実際の遊女はずっと長生きだった。
アホすぎる
>>966 お前、そんなスレにも出入りして珍説ふりまいてたんだな
969 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 16:31:25
>>968 珍説もなにも、すでに間違いを訂正した本まで出ている。
スレッド読んで来い。
970 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 16:40:00
>>969 ネット切り貼りの馬鹿はパソコン開いてる場合じゃねえだろ
平日も土日も暇で2ちゃんねる
いいから、ハロワ池
971 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:07:48
これな。西山松之助が江戸の江戸文化研究の権威だから、みんな
西山の本に書いてある娼婦の平均寿命が二十三歳という数字が
本当だと信じ込んでいた。ところがそのデータはまったくの出鱈目だった。
特殊な分野(くるわとか女性の名前とか)は研究者が少ないから、
その権威を信じると痛い目に会う例だ。
380 :日本@名無史さん:2007/10/07(日) 00:57:22
小谷野敦『日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)
なお『江戸幻想批判』で私は、近世娼婦の平均寿命は二十三歳と書いたが、
これは西山松之助『くるわ』(至文堂、一九六三)に出てくる数字で、年季の
あいだに死亡した吉原の女郎が葬られている浄閑寺の過去帳が、寛保三年
(一七三四)までのものにところどころ年齢が記されており、その六四名の年
齢を平均したものである。年季を終えた女郎は入っていないわけだから、とう
てい正確な数字とは言えないので訂正する。(p123)
972 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:16:53
アホ読者の側で数字がひとり歩きしたことを
データの性質をちゃんと明記してる西山氏自身の責任にするのは
いくらなんでも無理があるだろ
974 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:16:52
977 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:39:20
>976
てめえが死ね。
自分の書いた文章読んで、スレタイと照らし合わせろ。
一日中張り付くな。職なし。
> 一日中張り付くな
は?
誰と勘違いしてるのか知らんが
ちゃんと病院通えよ基地外
979 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 00:04:19
嵯峨天皇の時代になぜ諱を音で読んだ史料がないのかと言われても、
音で読むのが当然なら読み方は漢字のみで明らかなのだから
誰も「ふりがな」(当時は万葉仮名だろうが)を振ったりするわけがない。
訓での読みが必要なら正史に残っているべきで、残っていないという
事実こそ、少なくとも公式には訓で読まなかった証拠だろう。
980