唐古・鍵遺跡を、長年発掘してきた、藤田三郎氏の興味深い論考がある。
大和第Y−3頃に、大量の土器投棄を伴って、環濠が埋没するのである。
この状況は、唐古・鍵遺跡のみならず、大和盆地の他の拠点集落にも似た状況が見られる。
大和盆地には、この頃、なにか大きな社会変動が起きている。
(ここで言う大和第Y−3は、弥生後期をXとYに細分化した場合のYで後期後半のこと。)
問題はこの後期後半が何時なのかである。
多くは弥生後期の年代として、一世紀前半から二世紀代をあてる。
その後に続く庄内式の年代は、三世紀前半である。したがってY−3は二世紀後半とする。
しかし2003年、国立歴史博物館研究部が発表した、炭素14年代測定による弥生時代の実年代は、これまでの説と、大きく異なることで論議を呼んでいる。
今私が問題にしている、後期から古墳前期について、発表者は炭素14年代測定も、まだ有効ではなく、絞り込めていないとする。
だが発表されたいくつかの測定値を見る限り、後期の終りと、庄内式の年代は古くなる可能性を示唆する。
これらの発表を受けて、森岡秀人氏は『弥生時代の実年代・学生社・2004年・研究史と展望』の中で、年輪年代仮想モデルと、AMS炭素14年代による編年案を示す。
この編年によれば、先のY−3はおおよそ一世紀末から二世紀初めである。
私は『後漢書』倭伝が記す、108年倭国王の朝貢を神武とする。
なぜなら『魏志倭人伝』によると、倭国は倭国乱の前に、男子の王の時代が70、80年続いたとする。
倭国乱は170年前後の出来事であろうから、倭国すなわち大和王権(政権)は、西暦100年前後に出現したと考える。その最初の王は神武に他ならない。
唐古・鍵の環濠が、大量の土器投棄をもって埋没するのは、まさに西暦100年前後である。
神武の奈良盆地侵攻によって、唐古・鍵遺集落は滅んだと考えている。
詳しくはこちら
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/10-1haxtukutu.htm 貴方は唐古・鍵の環濠が消滅し、その後纏向に前方後円墳が出現する状況を、どのように考えますか?