1 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:
国家安康が家康を引き裂いて呪詛したものなら
君臣豊楽は豊臣を引っくり返した呪詛ですが、何か?
/,|
___ __ __, ‖| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
))。I/:: :: \ |I。( ‖| < ちょっと早いけど
\ \::_::_:: / / ‖| \ 1000取り合戦いくクマー!!
,/::\_((⌒) /ヽ ‖| \____________
/,\=ニニ二二ニ=/,ヽ++-
\ / ● ● ヽ/つ⌒)
/// ( _●_) ミI /|x|
/三//__ |∪| __ ` ,/ `゙
/ニ// ,|。|_ ヽノ _|。|_ノ\
( ̄ ̄)  ̄ ̄ ̄ 〕\//
 ̄Tニ===∞===ニ!,〆`"
{I|三三|⌒I|三三〕
|。。/ (| 。 。)
∪ ( ̄\ \ クマーーーーーーーーーーッ! /
. \_) \ /
_∩ ∩ ∩ ∩ ∩ ∩ /⌒)
_|  ̄ ̄ ̄ ヽ/⌒) |  ̄ ̄ ̄ ヽ |  ̄ ̄ ̄ ヽ /∩ ∩
/ | / / | ∩ ∩ ,/ |  ̄ ̄ ̄ ヽ
| ノ / | ノ |  ̄ ̄ ̄ ヽ,/⌒) / |
彡、∩ ∩ ∩、 ∩ ヽ/ | / | |
|  ̄ ̄ ̄ ヽ |  ̄ ̄ ̄ ヽ | ノ/ 彡、 ノ
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
なんにせよ大阪の陣で豊臣は滅亡してない。
二つの木下家と豊臣の姓は存続したのだから問題なし。
むしろ大野と淀君の不義の子を豊臣嫡流と称するインチキな家系を葬っただけ。
大阪の陣で豊臣の勝てる見込みは低すぎる。
名のある者達とはいえ、殆どが浪人の烏合の衆じゃなぁ。
>国家安康が家康を引き裂いて呪詛したものなら
>君臣豊楽は豊臣を引っくり返した呪詛ですが、何か?
もっとマシな口実作れと家康に言いたいな。
難癖を通り越して暗い・・・暗すぎる・・・家康の性格をよく表してると思う。
そんな謀略に引っ掛ってしまう豊臣の立場はどうなる
9 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:03:36
引っかかるも何も『呪詛してるじゃないか!』と決めつけてたのは徳川。
引っかかったのは徳川方として豊臣を滅ぼした諸大名
そうか? では、
そんな謀略で潰された豊臣の立場はどうなる
>>8 アホか?一方的に呪ってるって決めつけられたのを
どうまともに返すんだよw 申し開きするのもばからしいだろw
>>10 チーンΩ\ζ゜)
12 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:35:40
13 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:42:47
関ヶ原で勝利し天下を手中にした家康。
14年後に家康は、威風堂々とした立派な体躯の青年に成長した豊臣秀頼を目の当たりにして恐れを抱いた。
天下を手中にしたのは間違いないが、その徳川の天下を覆す可能性があるとすれば秀吉の血を引く(一説には大野治長だが)秀頼。家康亡き後、豊家恩顧の大名たちが秀頼を担いで決起したならば…
というわけで
『大阪の陣』
てことでいいですか?
14 :
名無し募集中。。。:2005/09/11(日) 12:45:59
威風堂々とした立派な体躯か・・・
秀吉の子ではないのは確かだが真の父親は誰だろう
15 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:55:51
とにかく秀吉の子とは思えないほどの体格だったらしいよね。その大野治長はデカかったのかな…
>>13 禍根を残すと徳川の体制に危険だと思ったんだろう。
>>14 実は肥満したデブだったらしいよ?
ちくわが大好物だったらしいw
18 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 13:16:49
>>17 そうだ!
練り物が好きだったって話は聞いたことがあるぞ
秀頼はなかなかの人物だったらしいが、一度も戦場に出ないのはどうか
武将として根性なしじゃないのか
少しは秀信を見習えと言いたい
常々思ってたことだが、母親の淀君がそもそも当時の女性としては相当の巨躯だったから、
秀頼の身長をもって秀吉の子であると決め付けるのは変な話だ
ごめん、秀吉の子じゃないと決め付けるのは、ね
どちらにせよ秀頼の種がだれであったかは今となっては知りようもないし、
それを知ることが歴史的に何らかの意味を持つとは思えない
全員DNA鑑定してないから、父は不明
>>20 >母親の淀君がそもそも当時の女性としては相当の巨躯だったから
そうなのか?初耳だ。
ところで、淀ってそんな美人だったのかね?
母親は凄い美人だったようだが。
証明できないが美人では
好色で女まみれの男が手を出したんだから、それなりでは
26 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:20:59
>>19 …って、秀頼は大阪両陣しか経験してないんじゃないの?
>>26 そうだな
で、自分の戦いなのだから、顔見せにでも出陣していいはずだが
家康も秀忠も松平某も出てきているし、幸村らから出陣要請が来てるだろ
忠吉なんかは初陣で天下分け目の決戦だよな
28 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:36:26
ただでさえ旗色の悪い戦の戦場に、
大将と呼ばれる人物を
顔見せにおいそれと行かせられただろうか…
>>28 同意、ぶっちゃけた話しだが豊臣からすれば秀頼さえ生きていれば
浪人衆が何人しのうと戦い続けられる。結果から見れば秀頼出馬した方が
良かったと思えるけど、当時として一粒種の大将が不利な状況での出馬は
危険すぎる賭けだね。
顔見せの意味がわかるか
厳重に護衛された大名はそうは死なないよ
安全なところから見てれば良い
それに武将であるならリスクがあるからといって出ないと言うことはない
家康や秀忠が城に籠もっていたと思うかね
31 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 17:53:02
動員兵力から見たら関ヶ原以上?
>>30 おいおい、安全な所って、関東軍は公称35万だぞ?
対する豊臣は10万。 何処に安全な場所があるんだよw
>>32 じゃあ一瞬で滅んだとでも思うのかね
城にいれば安泰なのか?
35万はいないだろ
34 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:19:29
>>32 だね。
大将が先陣きって駆け回っていた時代とは鉄砲の数&精度も違うだろうし。
>>34 そうすると東軍の大名は無謀な奴ばかりだったんだな
城に入っていれば良かったのに
誰か止めてやれよ
>>35 東軍て…
戦力差とかを見て多少はいきがる徳川方の武将もいたんじゃねえの?関ヶ原でいいところを見せられなかった(外様とか)武将もいただろうしね。
そういや渋江内膳も流れ弾に当たったんじゃなかったっけね?
伊達とか藤堂とかも流れ玉に当たったのかね
それともマトリクスみたいに避けたのかな
豊臣方の敗因は大野治長如き小者が大将面していた点
40 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 16:57:03
国家安康と言い外掘りと言い、家康の悪どいやり方はチンピラ並!
41 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 20:29:10
まだ戦国時代
騙し討ちだろうが一騎討ちだろうが勝った椰子が偉い
騙した方が悪いと思うが、騙されたくないのであれば徹底抗戦すべきだったな
そうすればひょっとしてひょっとしたかもね
日本の戦国時代は秀吉の惣無事令、それに従わない連中を屈服させた小田原征伐・奥州仕置で終わってます
開戦の切欠となった意味不明な言いがかり、和議を破っての堀埋め立て、主君殺し、その遺児を晒し首、
それらは戦国時代ではありふれた光景だったかもしれないけど大坂の陣の頃にはそうでなかった
だから現在でも家康は狸と言われて非難される
家康は勝ち組だけど空気が読めない椰子
空気読めなかったから秀頼は・・・うわおまえなにをすやめろくぁwせdrftgyふじこlp.
確かに秀頼や淀も空気を読めてなかったなw
ということで大坂の陣は空気が読めない芸人二人による笑えない漫才
諸大名や庶民にとってはいい迷惑だったろう
本家上方の芸人の方が負けたのかw
>>44 ワロス
大坂城で近習にちやほやされていれば、そういう勘違いもするって
秀頼は女官に囲まれて育った世間知らずの坊っちゃんだったらしいね
秀頼程度のお山の大将をなんで家康はムキになって殺したんだろ?
家康の晩節を汚しただけな希ガス
秀頼は根性なしだが、それでも脅威に思ったんだろう
確か三成の子供は殺してなかったと思ったがどうか
家康は武田を恐れていたが根絶やしにはしていないよね
家康の詐欺師ぶりは今に始まったことではない
詐欺師が必ず儲かる話を持ってきたからと言って信じてはいけない
やるからには腰据えて全滅するまで戦うべきだったな
だいたい国家安康のような話で難癖つけてくる椰子らなんだから狂っているのは証明済み
一発二発の大砲玉如きにビビって徳川と講和しようとしたヘタレは誰だ?!
秀頼か?淀か?治長か?
天下の名城大坂城に歴戦の名将真田・長宗我部・後藤が兵を並べて勝てる戦ではなかったか?!
なんで徹底抗戦しなかったんだ?大坂の首脳陣は無能揃いか?
53 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 04:19:41
とにかく濠を埋められたのは痛かったね。
54 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 05:59:06
とにかく家康のやり方はきたない
>>48 普通に考えれば、将来豊臣をかついで徳川に楯突く輩が出るのを未然に防ぐため
途中で講和して濠を埋める大坂城の落とし方は秀吉が教えたというのは本当か?
>>52 真田だ。既に弾薬が底をつき、真田丸を守りきるのが不可能に近く
なっていた。
>>56 そうゆう噂もあるね。
また、その話は如実に秀吉と家康の性格を物語ってるね。
>>57 ソースある?
普通に考えて徳川と豊臣が和睦しちゃったら浪人たちは喰いっぱぐれて困るはずなんだが
60 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 12:35:38
真田達は大坂の陣に参加した時点で豊家の禄を貰えるのか?
それとも手柄をあげて初めて禄を貰えるのか?
それにしても講和を言い出したのが真田とはねえ。寧ろ強行派じゃないのか?初耳だね。
>>51 こういう解釈をした奴が科挙を受験したら万年落第だろうな。
「曲学阿世の徒」「御用学者」ってまさしく羅山のためにあるような言葉だな
聖堂学問所を建てたり藤原惺窩に誉められたりと色々学問的な功績もあるみたいだけど、個人的にはこの一件だけで学者失格
あと天海、崇伝とこれに乗っかった家康もね。
南光坊天海は実は明智光秀だった…なんて話もありましたね。
秀吉嫌いの光秀が家康を利用して豊臣家を滅ぼしたって訳か
>>61 真田の場合は、真田丸で手柄を立てているので、冬の陣で完全に講和
が成った場合、徳川からでも禄を貰えるから。
>>66 >徳川からでも禄を貰らえる
詳しくおながいします
68 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 23:20:48
しかし、あんなアホな理由で正当化できるとでも考えたのだろうか
あれだったらまだ巨城に籠もって謀反の疑いありとでも言った方が
事実そうなんだし、正当化できた
日本は詭弁国家になってしまった
韓中も同じだけどね
>>67 講和交渉中、徳川から十万石で引き抜きの話があった。断ると
信濃一国の話があった。恩賞を吊り上げて引き抜こうとしたことに
対して、激怒した。
しかし本当に信濃1国もくれたのかね
何万石よ
信濃には当時兄貴の信之の領土もあったと思うが
ケチで有名な家康が実際にそんな大領を与えるわけがないし、そのことを信繁も知ってただろう
そんな甘い話に釣られて和議を主張するほど馬鹿じゃない
>>69 あーその話なら聞いた事ある!
使者は兄貴の信之だっけ?
でも徳川に二回も噛みついた信繁を引き抜くって…
三河武士の体面丸潰れジャマイカ?
本当に一国を与える気なんかあったのかね…
つか信繁はこの話を蹴ってるんだから講和なんて言い出してないんジャマイカ?
出典はなんだっけ??
>>72 講和が成れば微禄でも仕えると啖呵を切っている
幸村は、秀頼に召し出されて一つの郭を預かる身にまでしてもらった
恩義があるので、引き抜きに応じることは出来ない。と回答した。
しかし、講和成立後であれば、千石で奉公すると答えている。
ソース厨用
慶長見聞録
織田有楽の息子の名を出して敵と表現し、敵と一緒には戦えない、
としている。後藤も弾薬の欠乏で、和議を推進している。
ソースは烈祖成績
>>73 信繁曰く
豊臣に因り武士の面目を立てて頂いた身、この御恩は土地や金には変えられない。
78 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 15:21:09
>>72 実際に調略の為に会談したのは信之かどうかは忘れちゃったけど、
調略に動いて『信濃一国』を提示のは冬の陣の時に真田丸正面に布陣した本多政重(本多正信の二男、本多正純の15歳下の弟)
だった気がするです。
「国家安康」も「君臣豊楽」もヒドいけど一番どーしようもないのは「右僕射源朝臣」。
これを「源朝臣を射る」と読んだ林羅山はやはり中国朝鮮の忠実な弟子だ。こういうのを妄言という。
当時「妄言だ」と言った人いなかったのかな?
80 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 16:59:25
冬の陣で徳川方の死者が三万人出たらしいですが、、事実はどうなんですか?
>>80 三万か…徳川方はだいたい三十万くらいだったって聞いたけど、冬の陣はそんなに激戦だったのかな?
後藤基次や真田幸村、木村重成は前線で活躍したらしいけど長宗我部盛親は大した戦功はなかったみたいだし…
82 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:21:49
三十万とかって明らかな誇張でしょ?
豊臣方が十万になってるけど、十万が篭城を続けられる城ってどんな城?
83 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:27:06
>>82 豊臣の軍勢の多くは大坂のベッドタウンの千里や奈良から通ってたんだよ
84 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:31:23
>>83 でも冬の陣の時は篭城(まあ外堀の中だけが城じゃないけど)してたわけで
戦争中に通うことは不可能でしょう。
>>84 マジレスすると
一握りの武将を除くその他大勢の下級武士や浪人者は野営ではないかと
当時の大坂城は現在の大坂城より広かったらしいし、十万の軍勢を収容する事は容易と思われ
問題は当時の豊家に十万の軍勢で籠城するだけの資金力があったのか?だね
86 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 19:46:22
兵糧だって馬鹿にならんわな。十万の軍勢を養うとなりゃ。
>>86 兵糧と言えば、福島正則が大阪方に兵糧を流したって話しがあるな。
88 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 20:11:50
落城後に大坂の陣をもう一回やれるだけの金銀が見つかったという
ので可能じゃないか?
出てきた金をめぐって伊達と藤堂で切りあいをした
89 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 22:28:26
大河ドラマの影響は大きいと言うが
大河の徳川家康で「家康は秀頼母子を助けようとした」路線をやったのに
全然それが浸透していない件について。
薩長の陰謀
家康の陰険な性格は大河程度じゃ払拭出来ない程国民に知れている
山岡荘八の小説が国民的ベストセラーになって、
何度も大河ドラマで好意的に描かれててこれなんだから、
家康の評判はもうどうしようもないよ
まじでもう一回徳川幕府が成立するくらい出ないとな
93 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 03:08:00
悪質な手口で主筋を殺したのだから、非難されるのも致し方ないのでは。
冬の陣で豊臣に味方する大名が皆無である事が解ったのだから、汚名を被ってまで主筋殺しをする必要は無い筈。
豊家を存続させておけば、家康に対する後世の評価は、全く違ったものになったであろう。
94 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 03:11:51
秀頼を脅威と見たんだろ
秀頼も命が惜しければ大坂城を捨てるべきだったね
95 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 04:09:28
でももし豊臣を
96 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 04:22:02
↑ごめん誤爆
でももし豊臣をそのままにしたらどうなっただろう…徳川幕府はキリスト教信仰を禁止してたけど、豊臣家は自領での信仰を許可してたよね。
豊臣家を存続させてもその辺で対立が起きちゃうんじゃないかな。
それとも豊臣家がキリスト教信仰を許可したのは、徳川方との決戦に備えてキリスト教信仰を禁止した幕府に不満をもつキリシタンの牢人を集める為だったのだろうか…
98 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 07:15:45
>まじでもう一回徳川幕府が成立するくらい出ないとな
ワロタ
>>80 徳川方から脱走者が大量に出たというのは何かで読んだけど、死者3万としたら餓死、凍死じゃないの?
>>96 多分そうじゃない?実際天主教徒が8000人くらい集まったらしいし、、、
102 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 11:25:42
>>96 存続を希望するなら、幕府の指令に従うしかない
当たり前
餓死者が出るような戦いかよw
冬とはいえ大坂で凍死かよw
>>103 ツッコむのも馬鹿らしかったからスルーしてたが禿同
籠城してる訳じゃないんだから餓死者なんて出ない。
凍死は更にあり得ない。北国で遭難してるんじゃないんだからw
確かに餓死凍死は考えにくい。
でも第4回川中島合戦で死者およそ8000、関ヶ原で6000くらい?
徳川方だけで30000て凄くないかい?
何かの間違いかでっち上げ?
>>105 何かの間違いだろう?東軍3万って、そんな死なないだろう。
しかも勝ってる方だしな。多くて一万じゃね?
107 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 17:25:57
餓死者出たんじゃないか
凍死もいたかも
凍死というか、凍え死というか
現在の東京でも、野ざらしの公園で体力が弱っていれば死ぬ
老人は家の中でも死ぬ
>>107 そんな体力のない老人が戦場に出たりしませんw
>>108 戦場で戦えば激しく消耗する
その中で満足に食べることもできない
負傷しても十分な治療は受けれない
そんな中で凍死してもおかしくないが
110 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 17:42:19
てゆうか豊臣領以外の畿内は大体徳川領だったんじゃないの?
だったら食糧の供給とか問題無く出来たんじゃないの?
それとも徳川軍集まりすぎて畿内は食糧不足に陥ったのかな…
>>109 一日や二日食わなくても人間死なないだろ・・・
てゆーか、その一日や二日すら兵糧無いって話しは聞いた事がない。
ことに東軍は寄せ手だよ?物資は充分あっただろう。
しかも大阪の冬だぞ?上でも書かれてるが北国じゃないんだからw
112 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 17:47:13
>>111 本来的には東軍の圧倒的優性のはずなんだが
現代の東京でも寒さで死ぬよ
113 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 18:02:06
帝国陸軍の惨状を見るに、日本には兵站を正しく理解できるものは少なかった
それから雑兵は使い捨てと考えていた
帝国陸軍は人命無視、最終的には国民も無視
死者3万の出所はなんだよ
115 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 18:33:31
>>49 徳川はむしろ武田の生き残りを保護した。
>>呪祖事件。
これは直接の口実ではなく、言いがかりをつけただけ。
直接の攻撃は大阪方が片桐克元を内通している疑い彼の城を攻めようとしたから。
>>東軍死者3万
関ヶ原スレといい。香ばしい奴がいるようだな。
当時の合戦はそんなには人死なない。
死傷率が多いという戦でもせいぜいが10%程度。
何か光栄TUITK歴史ゲームのやりすぎなんじゃ?
116 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 18:35:06
死者3萬については間違いなくデッチ上げだろ。
ソースなんかあるわきゃない。
真田丸の戦いで、一日の戦死者が一万余りという説があるが、
他の戦闘での戦死者はあまり無いので、三万は有り得ないと思う。
てか誰が言い出したんだよ3万ってw
>>117 真田丸の戦闘でもそんなには死んでないだろうね。
不用意に追撃した前田家の記録にもそんな大惨事であったとは書かれていない。
>>118 関ヶ原スレもこっちスレもどうせ三戦厨が書いたんだろw
ゲームじゃあるまいし一撃必殺でバタバタ殺せる訳ねーだろっつのw
123 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 00:31:15
死をもいとわぬ「突撃」これ一つつきるね。
真田家ってのがあるだろ。あれは普通なら「裏切り者の典型の悪人キャラ」
として後世に残っても全くおかしくない家だった。ところが現実は「非常に優秀な一家」
で通っている。
それはひとえに本来はただの自殺の場でしかなかった大坂の陣での幸村の突撃につきる。
第2次上田征伐でもそこまで活躍していない幸村が大坂で自殺or売名行為オンリーの突撃を
したことによって「真田日本一の兵」などと呼ばれ、
さらにそれのみにとどまらず真田家全体の評価も「ものすごい優秀で強い一家」
という評価に変えてしまったほでである。
それだけ、「突撃」には効果がある。
だから、後世の実朝あたりがそれこそどっかで「死をもいとわぬ突撃」を
敢行していたならば、よりとも一家も優秀強いとなったはずだ。、、、、、かも。
でも、ただの突撃ではだめだ。相手がうんこをもらすぐらい強烈な突撃でないとな。
>>111 冬の陣て1〜2日で終わったんだっけ?
20万も兵が集まれば食料その他の物資が不足してもおかしくないと思うけどな。
福島正則、家康におちょくられてて(´・ω・) カワイソス
127 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 14:30:22
>>124 それもそうなんだがそんな事より…
10万も籠城したら大坂城の汚水処理能力の限界を越えるんじゃないか心配だ
128 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:00:45
>>127 川が流れているからある程度処理はできるはずだが
しかし10万の籠城、食料がいくらあってもたりない
129 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:25:59
一人一日二合として、十万人の一月分の米ってどんだけ必要なんだ?w
130 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:46:28
>>124 大阪の陣で大量の餓死者・凍死者が出たなんては説はありません。
厨房が言うに事欠いてそんな話しをしているだけです。
大阪の陣で餓死者が出るくらいなら、関ヶ原や小田原の陣で出ても不思議ではないです。
朝鮮の役なら朝鮮に何年もいるうちに兵糧が欠乏して出ましたけどね。
当時は食料なんてのは個人で数ヶ月分、径行していったんだし
いくら当時でも一ヶ月にも満たない冬の陣で餓死者が出るなんてアホとしか言い様のない意見です。
何年もかかった戦とか遠征とかいくらでもあるのに。
あと大阪城には20万石くらい米が備蓄されてたから、
10年でも2年持つ計算ですが。
131 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:49:50
>>87 福島は羅期が原以後に
いつも大阪に5万石の米をおいて、
豊臣に「非常のさいはこの米を使うように」と言い含めていたが、
その約束が実現したというわけだな。
132 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:52:57
「東軍死者3万」という
アホ話を実現させるために
さらにアホ話の上塗りを続けているんだな・・・・
>>129 十万石あれば、一年持つ。
大坂の陣の時、大阪城内には十八万石相当の米があったと言われている。
ちなみに関ヶ原合戦の時に福島正則が供出した米が三十万石。
>>132 たぶん夏の陣の最後の決戦で大坂方だけで15,000戦死したといわれているのを冬の陣と勘違いしてるだけじゃないのかね。
>>134 >たぶん夏の陣の最後の決戦で大坂方だけで15,000戦死したといわれている
誰から何によって「15,000戦死したといわれている」のかね?
136 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 18:54:12
一石は一人あたり一年分の米と説明されてるよね。
137 :
131:2005/09/16(金) 19:05:47
福島は「関ヶ原」以降ね。
もっとも大阪の陣の時に福島が借用の名目で請われるままに渡した米は
豊臣に対する手切れ金みたいなものだったんだろうけど。
138 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:22:09
日本の昔の合戦というのは思ったほどには人が死なないものだったというのは常識だよ。
激戦でもせいぜい5〜10%程度。
例外的に長島の一向一揆皆殺とかいうのはあるが、
そういう例外を除いては戦闘である程度損害が出ると部隊が潰走してしまう。
なんか関ヶ原スレで3万死んだとか言ってる奴といい、
光栄歴史ゲームのやりすぎみたいな厨房がまぎれこんでるな。
139 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:24:49
関ヶ原スレには3万死んだなんてどこにもないわけだがw
>>139 ああ、島津が敵を撃破しながら前進退却して1500のうち80人しか生き残らなかったとか、
石田隊がほとんど全員死んだみたいな事が書いてあったな。
141 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:36:05
石田隊が奮戦したってのも嘘だしな
142 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:47:43
当時は食料なんてのは個人で数ヶ月分、径行していったんだし
個人で数ヶ月分携行かよ!
あんたスゲーぜ
143 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 19:55:52
当時の椰子はドラえもんポケット常備だったんだな
国家安泰なら大坂の陣はなかった。
145 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:05:03
君臣徳楽ならなかった
君神豊苦
147 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:11:28
>>130 関ヶ原は東軍には備蓄米がたくさんあったので余裕だった
西軍は兵站にくるしんだようだが?
死ぬまでまとうホトトギス、なら大坂の陣はなかった。
149 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:16:50
>>142 「あんたスゲーゼ」って自分の無知ね棚にあげて人を馬鹿にするなよ。
食料は原則として自分で持っていく。
食料が軍隊から供出されるのは明治以降。
ただし、持ち切れない分は小荷だ隊に預ける事もある。
どうおやってもっていくかというと、
短期決戦の場合はおにぎりを布に巻いて数珠のように数十個まいて持っていく、
長期出陣の場合は「干し飯」「煎り米」「味噌袋」「芋がら縄」といった携帯保存食品にして持っていくのが主流。
数ヶ月程度の食料を個人で持っていくのは可能だよ。
近代でも探検家はそれくらいの事はする。
雑兵物語では個人の食料は一週間分程度しか用意しないらしいが。
151 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:29:24
>>149 数ヶ月の戦なら食料用の小荷駄は不要ということか?
近代の探検家は数ヶ月分の食料を自分で携行したのか
正確に言うと当時は寄親・寄子制といって、
いわば軍隊とは小中の事業者の集まりであった。
一人の専業武士に5〜50人くらいの小身の武士やその他の雑役係がつく形であり、
彼ら全体で兵糧を管理・輸送したというのが正しい。
ちなみに武田信玄は兵糧の無くなった寄親に兵糧を3割の利子付きで貸したという逸話あり。
153 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:32:20
>>152 当時は食料なんてのは個人で数ヶ月分、径行していったんだし
と言っているが?
>>150 それは短期決戦の話しだろう。
長期決戦の場合もある。
>>151 でも、食料が何かの事故で失われる事もあるし、兵の足を軽くしたいなどの理由もあるだろう。
極地とかジャングルを探索する冒険家や探検家は数ヶ月分の食料を持って探索するなんて事はあるだろう。
て言うか、大阪の陣で東軍の兵士が餓死したなんていう、
ありもしない、ソースもない話しを強弁したいがために、
何、話しを膨らませてんだ?
155 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:40:10
>>154 数ヶ月分携行したというソースはあるのか?
もしあるのなら1ヶ月で餓死というのはありえないが
探検家なら自分で3ヶ月分の食料を運んだのか?
156 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:40:48
基本的には食料は個人負担だよ。
例え輸送を他者に頼む事はあっても。
あと大阪の陣で東郡の兵に餓死者はでないだろう。
餓死するくらいなら大阪の民家から略奪して食料を奪うだろうが、そんな話しもないし。
157 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:42:24
158 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:45:51
>>155 つーか君が大阪の陣で東軍の兵が餓死したというソースを出せよ。
言い出しっぺからソース出すのが当たり前だろう。
自分がソースもない聞いたこともないような怪しい話を持ち出して、他人には明確なソースを求めんな。
あと探検家が数ヶ月の食料を自分で運んだという話しならその通りだよ。
小さい頃に読んだ南米やアフリカを探検した探検家の自伝に書いてあった。
159 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:47:18
>>155 >>157 香ばしい奴だな。
だから大阪の陣で東軍の兵が餓死したというソースを出せ。
きちんとした史料で。
160 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:48:41
>>158 いやソースを言い出したのは君じゃないか
ソースを出せと言うのなら、自分からまず出して見せて手本となるべき
数ヶ月携行したというのは十分怪しい
161 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:49:37
162 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:51:00
数ヶ月というのは5,6ヶ月分ということか?
163 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:53:30
数ヶ月携行は無理
食料自腹も嘘
だがもちろん餓死者発生も嘘
全国から大坂に集まってんのに兵站が絶たれるわけない
夏の陣のとき、家康は3日分の腰兵糧で良いと言ったとか。
165 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 20:58:12
>>160 >>161 アホかあんたは。
あんたから「大阪の陣で東軍に大量の餓死者が出た」というだから、そのソースが先だろう。
それともどんな怪しい話でもソースをどうこう言わなければ逆に正明されてしまうのか?
人の揚げ足ばかりとって、自分はまともなソースも出そうとせんのだな。
ソースというか論理で、
食料を三ヶ月分くらい、持っていくのは論理的に可能だろ。
例えば一日にカキ餅10枚食うとしよう。
ならばカキ餅なんて軽いから、10枚X100日分として、カキ餅千枚くらい持っていくのは可能だろう。
166 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 21:02:34
>>165 馬鹿かおまえ
オレは餓死者の件に直接何も言っていないが?
数ヶ月携行していたのかどうかと聞いているのだが?
かき餅って10gくらいか?
168 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 21:04:09
カロリーメイトでいいや
10gなら千枚で10kg、20gなら20kg。
持っては行けるだろうが栄養偏りそう。
>>168 王さんのCMでやってたが、
栄養的に「水とカロリーメイト」だけで十分なんだな。
しかも、あれはうまい。
でも、腹はふくれないのでつらそうだ。
171 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 21:13:45
王さんならナボナを数珠のように数十個まいて持っていくのか
172 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 21:41:36
というか一番簡単なのは金を持って行って
店で食料を買ったり飲食する事だと思うが。
大阪なんて開けた所で起きた合戦だし可能なのでは?
みんな避難しているよ。
特に大坂の町は城内だし。
>>173 大阪城が小田原城みたいに町も含んだ構造になってると思ってるのか?
175 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 22:28:47
城攻めは長期戦が前提なので、個々の武士が自前で
調達する事は考え無くてもよいのではないだろうか。
では、兵糧の輸送と炊き出しは誰がやるのか?答えは
人夫を雇うのである
前に誰か書いてたけど、籠城側では屎尿の処理が大問題だったらしいね。
屎尿の臭いで戦意が著しく落ちて開城した城がある、なんていう話をどっかで読んだな。
まあ、大坂城の場合は川に流せば済む話だけど。
あと見落としがちなものでとても大事なのが燃料。
冬に薪が足りなくなると凍死者が出るし、
そんなことよりも、御飯が炊けなくなる。
倉庫にいくら米があったって、薪がなければ意味がない。
177 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 23:08:06
178 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 23:37:17
>>176 凍死者いないと言ってる椰子もいるが、どうよ?
>>174 国府のあった渡辺は、完全に城内へ取り込まれている。
秀吉は九州征伐の時、一人あたり一日一升を支給したのに。
家康ってケチなやろうだ。
>>178 一人や二人、事故のように死んだ奴はいるだろうが、
このスレみたいに「3万」とかいう事はないだろうって事だ。
>>180 元々、武士には禄が支給されてるからね。
というか秀吉のみが先進的すぎただけ。
>>178 曲解するな。関東方の戦死が3万って話しから始まって
そんなに合戦で死なないって話しをしたら、凍死・餓死じゃないか?って
言われてるから、凍死・餓死でそんなに死ぬか!(前もって用意するのが戦)
って流れだろう。凍死がいるかいないか?そりゃ解らん。一人二人死んだのもいるかも
しれんが、戦局に影響を与える程の死者が出たとは思えないし、そんな話しは
聞いた事もない。
てか東軍西軍って言い方止めようぜ。関ヶ原スレの粘着ソースが混じってるだろw
だな
幕府軍と反乱軍と呼ぶか
>>180 その話しは知らないけど、秀吉ってほんと気前いいよな。
家康がケチって言うか、いやケチだけど当時の常識では個人出費が
基本だったみたいだしね。
>>184 関ヶ原で物見に行った黒田の家来にあげた褒美が
饅頭だからな。ガキの使いかよw
>>185 秀吉なんてちょっとした褒美をやる時は、碁石金の箱に両手を突っ込んで、
>>182 凍死はないと言っていた椰子がいた
大坂では凍死しないと
一人、2人でも
そんなに多くないには同意
>>187 それただの揚げ足とり
いちいち”3万人も”凍死しないなんて付け加えてられるかアホ
189 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 12:39:02
190 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 17:47:01
さて、そろそろ話題をかえますか。
この大坂両陣に参戦した、特に大坂方にの武将について何か面白いお話お持ちの方いらっしゃいませんか?
それも出来れば真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、明石守重、毛利勝永、木村重成など著名な人達以外の武将のお話が伺いたいです
191 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 18:54:51
死をもいとわぬ「突撃」これ一つつきるね。
真田家ってのがあるだろ。あれは普通なら「裏切り者の典型の悪人キャラ」
として後世に残っても全くおかしくない家だった。ところが現実は「非常に優秀な一家」
で通っている。
それはひとえに本来はただの自殺の場でしかなかった大坂の陣での幸村の突撃につきる。
第2次上田征伐でもそこまで活躍していない幸村が大坂で自殺or売名行為オンリーの突撃を
したことによって「真田日本一の兵」などと呼ばれ、
さらにそれのみにとどまらず真田家全体の評価も「ものすごい優秀で強い一家」
という評価に変えてしまったほでである。
それだけ、「突撃」には効果がある。
だから、後世の実朝あたりがそれこそどっかで「死をもいとわぬ突撃」を
敢行していたならば、よりとも一家も優秀強いとなったはずだ。、、、、、かも。
でも、ただの突撃ではだめだ。相手がうんこをもらすぐらい強烈な突撃でないとな。
192 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 21:59:58
織田信長の小姓・伊藤蘭丸祐道が後藤又兵衛隊にいたといわれている。
193 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 04:17:51
そういや織田有楽斎の倅も大坂方にいたんだっけね。何て名前だっけ…頼長だったっけ?
>>135 中公新書「大坂の陣」や学研「激闘大坂の陣」に書いてあったよ。
処刑されたのが1万5千だったかもしれん。
>>192 伊藤蘭丸祐道って誰?そんなに有名なの?
196 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 04:43:04
>>193 織田頼長は大坂冬の陣で自軍の兵の喧嘩騒ぎに乗じて藤堂軍に攻められた時、腹痛を理由に引きこもってたとか情けないイメージがあるけど、
一方で大坂城内を見回った際に、居眠りをしていた番兵を一刀のもとに斬り捨てたとか勇ましい話も聞くし…
よくわからない人物ですね
確か大丸の創業者の先祖も大坂に入城していたような、、、
198 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 11:31:35
家康の子息との説もある小笠原権之丞も入城してるのね。
「天主教を信奉する故、慶長末年放逐。明石守重と親しく、大坂入城。夏の陣のとき天満橋で戦死」
199 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 12:41:40
>>196 狐にばかされたはなしみつけた。「浪速全書」より。
織田左門長頼がまもる玉造の持ち場に、ある夜たいまつが二、三百接近中
との報告あり。
敵の夜襲だと思いさっそく長頼自身が兵を率いて出馬、おいかけるも
あっちにふわふわ、こっちにふわふわ、まったく近づけない。
結局朝まで追いかけたらしいが、去年の秋に栗岡で殺した狐のたたりだった、
ということにおちついたらしい。
大丸は違うだろ
201 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 13:15:20
こ・こいつすげーー。
「掃聚雑談」より。
藤堂高虎の家中に渡辺作左衛門(シラネー)というものがおりましたとさ。
大坂の役の最中に手首をきりおとされ、ドクターに診察をしれもらったら、
「斬られた場所がわるいネ、このきられかただったら肘から斬られたほうが
ましじゃん、メンドクセーナーモー」見たいな事を言われた。
彼はなんとじぶんで肘からしとを斬りおとし、
「ほれ、さっさと治療しろ、このヴォケマザコンが」
といったらしい。
この話のあと彼の剛勇にたいし二百石加増がありましたとさ、めでたしめでたし。
(一部セリフの中に不適切な表現が含まれていたことをおわびします)
203 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 17:29:32
>>96 確か大和辺りに移封という案が出てたような希ガス。
大和一国50万石か…、現代の我々からすれば好条件のような気もするが、太閤遺児と
いう意識が選択させなかったってことか。
織田秀信の岐阜城の先例があったとは言え、権威主義の女性の恐ろしさだねぇ。
改易されるのがオチ。
両雄は、並び立たんよ。
大和の国力では、諸大名の中に埋没して家康死去後も再起は難しいし。
>>200 下村惣左衛門という人が大坂方だったらしい。大丸創業者の先祖。
大坂の陣以後幕府に服従した豊臣恩顧の大名たちを続々改易してるので、どうせ秀頼も改易されただろ
淀殿は暗愚じゃなくて意外と徳川の本性をわかってて決死の覚悟で反抗したのかもしれん
207 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 08:00:21
>206
同意
家康が将軍職を秀忠に譲った時点で、豊臣は徳川との懐柔路線に見切りを付けたのでは
208 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 11:50:34
>>206 >>207 何かの本で家康は
秀頼成長後は政治的権力
(豊臣は源氏じゃないから将軍職じゃないと思うけど)
を豊臣に返すと約束してたって読んだ気がする
それって家康が征夷大将軍に承認するときの釈明でしょ?
上にも書かれてるように、家康が秀忠にさっさと将軍職を譲った時点で家康の真意は見えてる
210 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 12:08:50
211 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 12:27:20
>>208 徳川の源氏姓も元々は吉良からゴニョゴニョ
212 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 12:28:50
213 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 12:31:18
そう考えたら家康は出自から死ぬまで謀略だらけだな
214 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 12:59:59
それを考えると、秀吉が百姓の出だから将軍になれず関白に云々って話も…
秀頼も家康同様に源氏なり藤原氏なりの姓を名乗って将軍になる事も出来たんでは?
つまり、豊臣は源平藤橘じゃないから将軍は譲れないって徳川の言い分もおかしいと…
初代天下人秀吉&豊臣家と、其れへの対抗としての家康では立場が違う。
217 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 13:21:31
そういえば織田信長が武田を滅ぼしたあと、朝廷に平氏でも将軍職につけるようにしてって頼んだって聞いたことがある
信長が幕府作る気でいたの?そんな事無さそうな気がするが・・・
俺の脳内では信長って、そのうち天皇廃止にして自分が取って変わろうと
思ってた。くらいに考えてるんだけど。
219 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 13:39:58
>>206 自分から大和あたりに移ってれば大丈夫だったろう。
改易されても福島みたいに数千意志は与えられると思うよ。
天皇家や公家みたいに最大限に力を削られて存続するんじやないかな。
220 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 13:40:55
いや、信長が息子信忠の為に朝廷に働きかけたとしたら…
つうか信長は天皇どころかそれより先のことを企んでたって話も最近聞くしね
221 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 14:30:06
源氏が云々って話はたまたまそうなってたのと、豊臣家はしょせん正当じゃないみたいな徳川時代の後付けがあるような希ガス
秀吉が足利義昭の猶子となって征夷大将軍になろうとしたけど、出自が卑しいから断られ、
仕方が無いので関白になったと言う話は新井白石の作り話だと聞いたことがある
太政大臣にまでなった人間が征夷大将軍になれないなんてのがそもそもおかしな話だよな
源氏でなければ征夷大将軍にはなれないなんて、全くの与太話、根拠がない俗説。
鎌倉時代には摂関家出身の将軍もいたし、
信長を将軍にという話も朝廷から出ていた、
そもそも、征夷大将軍という官位自体、源氏という家が出来るよりも古くからある。
源氏でなければなれないなんてことは全くない。
224 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 15:30:30
頼朝以降、『基本的には』将軍職には源氏が就くってことになってんだよね…
源氏が3代で滅んだあと他に源氏はいなかったんだろうか?それとも他の源氏が将軍職に就くことに政子あたりがいい顔しなかったのだろうか?
225 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 15:40:34
『秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、家康に小牧長久手で敗れたから』って本当?
本当なら、なぜそれが将軍になれない理由になるの?
226 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 15:51:41
>225
夷の地、すなわち東方の地を武力制圧できなかったからか。
>>225-226 そんな馬鹿な話しは無い、秀吉はなれなかったんじゃなくて
ならなかったが正解
228 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 16:56:11
じゃあ何でならなかったの?
229 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 16:57:07
秀吉が征夷大将軍にならなかったのは大した意味があるわけではなく、
単に「征夷大将軍」なんて前時代の官職って感じだったんだろ。
大久保利通が征夷大将軍になろうとしなかったのと同じ感覚だろな。
大久保利通が征夷大将軍にならなかったのは誰も疑問に思わないのに
秀吉だとなぜか疑問に思われる。
230 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 17:08:39
…何かアレだな…
正一位 関白、太政大臣、征夷大将軍
この三つで関白を選んだってだけの事じゃん。
232 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 17:16:47
毛利は秀元を徳川方として参戦さしておきながら、
毛利家の重臣内藤元盛を大坂城に入城させてるのな。
訳わからん。
>>232 保険だろ。多分他にもそういう事例はあるんじゃないかな。
234 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 18:12:36
関ヶ原といい…日和見はお家柄か
>>228 普通に考えれば、関白の方が上位の位だからじゃあないか?
237 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 19:15:40
源氏でない者が征夷大将軍になるより
藤原氏それも五摂家でない者が関白になる方が
難易度ははるかに高そうだもんな。
制度的には関白が上だね。
>>232 戦後毛利領内に残していた息子二人も、
事の露見を恐れた輝元に切腹させられたそうですな。
全くもって哀れな話だ。
Wikipediaの「征夷大将軍」の項目を見たら、
>そこで昨今取りざたされている説では「何らかの形で東国を抑えている者」が
>「征夷大将軍」になるための条件であったと言う説である。
>豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、徳川家康に小牧・長久手の戦いで敗れたためであると言う説である。
という記述があった
「歴史上存在した俗説」という扱いだけど、結構最近の説なのな
自分には徳川史家の電波にしか見えないけどそれなりに根拠のある説なのか
なんらかの形で東国を押さえている:伊達や最上、更には南部まで支配下に置いたから
充分過ぎる。
徳川に小牧・長久手で敗れた:秀吉が敗れた訳じゃない、中入りを主張した池田勝入斎
が負けただけで、それを敗北とするにしても何故徳川に負けたのが理由になるか?
誰かに負けた事があるって言うなら、徳川だって武田に負けてる。
よって、この説は戦勝した徳川の豊臣叩きの捏造だと思われる。
242 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 00:33:51
芦名だって臣従してたしな
小牧長久手に関しては、局地的でも勝ちは勝ち
戦略的に不利な家康側はどのみち面目立てたところで和睦するしかない
ただ秀吉側もとことんまでやると北条まで出てきて大事になるし、
四国、九州の情勢もあるから一本とられたわい、ってとこで手を打ったんだろ
征夷大将軍が家康の前までボロボロで魅力が無かったからでは?
子供にもあまり恵まれなかったしね。
>>241 時期が違うでしょう。
あの時点での任官において、東へ攻めていって負けて帰ってきたことは、
征夷大将軍になるに当たって大きなマイナスにはなった。
無論、それでも無理強いすればどうにかなったとは思うから、
実際のところはもっと上の関白になれそうだったから、
そっちに乗り換えたって要素の方が大きいと思うけど。
朝廷なんて権力者に媚びて生きるしか術がない
ダニだよ?絶大な権力を持った秀吉が望めば天皇以外ならどんな官位でも
出すさ。征夷大将軍にはなれなかったんじゃなくて、ならなかっただけ。
246 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 13:57:43
245は朝廷になんか嫌な思い出でもあるのかな?
でもまあその意見には賛成だが
247 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 14:50:35
>>245 そういうことを言ってた奴らはどんどん滅んで行って、結局天皇家は
現在も存続しているというわけ。
248 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 17:50:15
結局征夷大将軍て役職も、頼朝が京都以外で政権を立てるのに
『何か都合いい官職ないかなぁ…あ、そういえば征夷大将軍てあったなぁ』
てな感じでもらったんだもんね。
右近衛大将のままだと在京じゃなきゃならないし
249 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 03:06:37
死をもいとわぬ「突撃」これ一つつきるね。
真田家ってのがあるだろ。あれは普通なら「裏切り者の典型の悪人キャラ」
として後世に残っても全くおかしくない家だった。ところが現実は「非常に優秀な一家」
で通っている。
それはひとえに本来はただの自殺の場でしかなかった大坂の陣での幸村の突撃につきる。
第2次上田征伐でもそこまで活躍していない幸村が大坂で自殺or売名行為オンリーの突撃を
したことによって「真田日本一の兵」などと呼ばれ、
さらにそれのみにとどまらず真田家全体の評価も「ものすごい優秀で強い一家」
という評価に変えてしまったほでである。
それだけ、「突撃」には効果がある。
でも、ただの突撃ではだめだ。相手がうんこをもらすぐらい強烈な突撃でないとな。
250 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:24:26
>>231 関白は極位だよ。
セイイ大将軍なんて
結構低い位だったと思うが。
征夷大将軍は官位ではないのだよな。
>>234 お家柄というより日本人の性癖そのものじゃないかな。
>本来はただの自殺の場でしかなかった大坂の陣
これ実際のところどうなんだろう。
現在の人間は結果がわかっているからこういうことを言えるけど、自殺するために13〜14万(夏の陣開始直前)も集まるかね。
逆に大阪方は夏の陣直前までリストラしまくってたそうだ。
>>253 どう考えても勝ち目は薄いだろう。
強いて言えば、勝ち目っつーか大阪城の堅城さだけが
望みと言えるけど、所詮食い詰め浪人が集まっただけだな。
冬の陣では勝ちに行く事も出来たかもしれんが、濠を埋められた夏の陣は集団自殺だな
>>234 毛利家は元就の遺言で御家存続を第一に考えていたって聞いたことがある。
それでも豊家についたのは輝元の意向だったんだろうな。それでもやはり
>>232のような手は打っているようだが。
>どう考えても勝ち目は薄いだろう。
確かに歴戦の戦国大名ならそう思うかも知れないが、一般人にそんなことがわかったものなのかな。
それに現在のようにマスコミが発達してるわけでもないから情報も少ないだろうし、、、
じゃなきゃ夏の陣の前後に紀伊、大和、丹波、摂津能勢で武装蜂起が起きるわけがないのではないか?
あと未遂に終わったけど、山城、大和(別の蜂起)、伊勢だったか伊賀でも蜂起計画があった。
俺はどっちかっつーと反徳川だけど、それでも勝ち目があったとは思えない。
徳川は既に550万石の領地と幕府を作っていて、関ヶ原で反徳川を一掃したと
言っていい状況だ。
それに対して豊臣は60万石程度の所領と大名ですらない浪人を集めて
反抗しただけ。とてもじゃないが幕軍を潰せる戦略を立てられたとは思えん。
小田原北条が豊臣と戦った時より状況は悪い。
259 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 16:55:38
いや、幕府をたたきつぶす必要はないんじゃない?
小牧のときの家康のように、一戦して勝つのがまず目標だったと思われ
>>259 籠城戦っていうのは、援軍があるのが前提でないと意味ないの。
まず大坂方には援軍が無い。この時点で致命的なんだよ。
大阪城は堅城だから2年や3年でも落ちないだろうが、10万の兵が篭もってたら
兵糧が尽きる。
囲んでる側の関東方は兵糧も輸送が可能だから、籠城してても相手が引き上げる
目処が無ければ戦は勝てないのさ。北条が降参したのもこれが理由。
261 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:22:36
『大坂の陣』
徳川方にしたら…
豊臣家と関ヶ原によって巷に溢れた大量の敗北者=牢人を大清算する目論見の罠
大坂方にしたら…
捲土重来を期し、時節の到来を待ちわびた者達にとっての一大好機。中にはこれが罠と知っていた者もいただろうが…
俺にしてみれば長宗我部とか、どの面下げて今更戦えるんだ?
って頭くる。関ヶ原の時にお前ら6千500の兵力が死にものぐるいで
戦ってれば勝てたかもしれんのに、日和見決め込んでおいて・・・
>徳川方にしたら…
>豊臣家と関ヶ原によって巷に溢れた大量の敗北者=牢人を大清算する目論見の罠
そこまで考えてたのかな。もしそうなら、大坂の陣後に浪人大量虐殺が発生してもおかしくない筈だけど、大虐殺といえるほどに殺されてはいない。
それとも大虐殺するつもりだったけど、結局実行に至らなかっただけなのか。
264 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:42:35
方広寺の鐘の件は明らかにいいがかり。
それで豊臣家に因縁をつければ反徳川の危険分子がこぞって何かしらの動きを見せるのは容易に推測できるな。
一人一人残党狩りをするより手っ取り早いんじゃないか?
265 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:50:20
>>260 だから真田昌幸は打って出ろって言ったわけでしょ。実話かどうか知らないけど
籠城選んだのは豊臣家首脳の判断であって情勢そのものは必敗とはわからない
それこそ前田にまで援軍頼んだぐらいだから甘い見通しとはいえ、一戦して勝てば幕府がゆらぐかもという期待はあったのかも知れない
我々は徳川300年を知ってるから盤石に見えるけど当時の実感は違うと思う
266 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:55:51
幕府が出来て将軍もまだ二代目。転覆は無理でも幕府にダメージを与えることは出来たかもしれんね
特に秀忠が戦死ということにでもなれば、家康の余命も僅かだったから、また分裂していたかもしれんね。
>>264 だとしたら大坂の残党狩りはもっとすさまじいものにならなかったか?
結構逃げ延びてるよ。
269 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 18:34:24
豊臣首脳の秀頼、淀殿、治長に明確な勝算や目論見があったとは思えない
・秀頼の傅役で徳川との交渉窓口だった且元追放
・京を制圧し東西を分断する策を却下し謎の籠城
・籠城したにも関わらず短期にて講和
・外濠を埋められてしまう失態
・死に戦としか思えない夏の陣に挑みながら出陣しない大将
やってる事が全くチグハグで理解不可能
首脳陣がこんな有り様では豊臣恩顧の武将達にも見限られて当然
長宗我部や明石といった大将クラスへの追求は掛け値なしに凄まじいものだったようだけど
ていうか10万以上いたとされる大坂方の浪人を全て捕まえるのは難しかっただけじゃあ?
>>269 だな。徳川嫌いの俺でもこんなんじゃ味方できんw
豊臣が籠城でもいいから、徹底抗戦策を取ってればまだ何とかなったかもしれんが・・・
大野治長に籠城するように命じたのは福島正則だが、もしかしたら、
豊臣方の籠城が長引けば、西国にいる豊臣恩顧の大名の離反があり
えたのかもしれない。
>>272 そう思ってたんだろうけど、実際もう豊臣の出る時代じゃなくなってたな。
とりあえず十万人も籠城すると、毎日の脱糞を捨てるのが大変だな。
脱糞については家康に聞くのがいいぞ
277 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 19:14:03
>>271 >>269ですが、俺も徳川が嫌いで仕方ないんだw
やる気が有るのか無いのかワケワカラン首脳陣を見てたら戦意も喪失する訳ですよ
そんな中で城外に討って出て家康の首級を取りに行った信繁の潔さに惹かれたりするのですよ
>>272 その肝心の正則が軟禁されていたのだから豊臣恩顧の武将達が徳川から離反する等夢物語りとしか…
豊臣首脳陣は現実逃避していたんじゃないかと思えますよw
まあ大砲玉に怯えて出陣もしないような大将じゃ誰も忠誠なんぞ尽してはくれないだろうよw
>>278 そうゆーのは歴史シュミレーション系の架空小説で沢山あるよ。
280 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 19:55:32
>>266 これを言ったら悪いがダメージ与えてどうなるわけ?
それが日本の日本人の幸せに繋がったとはとても思えない。
徳川家による江戸時代三百年の平和は貴重なものだったよ。
豊臣家みたいな脆弱で安定しない政権が天下取っててもロクな事にならないと思うが。
第二の足利将軍家になるだけだと思う。
さらに言うと歴史の歯車が狂った場合、今の私や君が生まれなかったかもしれない、
大阪の陣がさらに大きな戦乱に繋がった場合、私や君の先祖が死んだかもしれないだろうに。
281 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 19:57:53
>>277 君もそうだ。
君も「徳川嫌い」とか言ってるが
自分自身が生まれてこなかった可能性考えると「歴史上のIF」とか言ってられないと思うんだが・・・
282 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:09:58
そこをあえて語ろうというのが面白いとこなんでしょうに
思考停止してたらこんな板なりたたんでしょ
>>280-281 そんな事言い出したら、
ありとあらゆる実現しなかった可能性について全く語れなくなってしまうのだが。
つまり、それはいかなるIFネタであろうと、
全てこのスレから排除したいという主旨の書き込みかい?
≫徳川家による江戸時代三百年の平和は貴重なものだったよ。
同意。よく言った。
≫豊臣家みたいな脆弱で安定しない政権が天下取っててもロクな事にならないと思うが。
非同意。それをバッサリ結論つけるのはチト乱暴だよ。
≫さらに言うと歴史の歯車が狂った場合、今の私や君が生まれなかったかもしれない、
同意。よく言った。
事前に戦いの優劣をつけるとすれば、
確かに石高は参考になるが、
必ずそうなる訳ではない事を歴史が証明している。
つまり予想通りの結果に終わる場合と、
そうではない結果の両方がある事を留意すべきだ。
北条氏康、毛利元就、
織田信長(この方の桶狭間の場合、再考の余地もあるが)、
石曼子(島津)etc。
大坂の陣と関係ないな。
サラバじゃ。
≫自分自身が生まれてこなかった可能性考えると「歴史上のIF」とか言ってられないと思うんだが・・・
同意。
IFの前提は自己の存在否定という覚悟が必要。
>徳川家による江戸時代三百年の平和は貴重なものだったよ。
おいおい・・・本気で平和だったと言ってるのか?反抗する力を付けさせないために
領民に肉を食うことを禁じたり、島原の乱では切支丹を虐殺して、その後も執拗に
切支丹弾圧を続けた。更に( ̄з ̄)生類哀れみの例を始め、徳川の悪政はキリがないぞ?
鎖国を続けたせいで日本の文明発展は著しく遅れたしな。
286 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:29:58
>>285 そうだね。その300年も血塗られた歴史のもと成り立ってるんだ。
ただ、生類憐れみの令は一概に悪政とは言えないと思うが。
287 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:31:09
>>280-281 また徳川狂信者厨か…やれやれ
江戸時代は万民にとって平和で良い時代だったのか?
農民は農民でしかないんだぞ?自由に結婚すら出来ないんだぞ?
飯もろくに食えないで娘を売り飛ばしたり口減らしに殺さなきゃ生きれなかったんだぞ?
外様大名は参勤交代を強要され公共事業を請負わされ内政は火の車だったんだぞ?
君は徳川史観に染まりすぎでしょ?少しは現実を見なさいよ
288 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:35:09
>>280 『徳川の世があったから現代の発展があった』
わけだが、
『豊臣の世があったら現代の発展はない』
とは言い切れない。
実際のところ大坂の陣での勝ちを狙うなら、
幕府方の大名の離反を招かなければならない。
あるいは少なくともその危険があると幕府に思わせて、
少しは有利な条件で和睦に持ち込むあたりが現実的な勝算というところ。
その方法としては、乾坤一擲打って出てともかく一勝を挙げるか、
或いは籠城にひたすら耐え続けて、いつまでたっても城一つ落せない、
案外幕府も頼りないものだ、と思わせるような状況を作り出すこと。
前者は成功すればそれなりの効果が見込めるが、極めてハイリスク、
後者は前者よりリスクは低いがその成功、
つまり諸大名が幕府を見限りかねない状況にまでもっていくのはかなり難しいと思える。
前者を捨てて後者の策を取ったのはまだしも理解できる。
しかし、その後砲撃一発で和睦に(それも明らかにこちらが不利な)応じるようでは、
全く意味なし。
そもそも戦いに望む覚悟が足りなかったとしか言いようがない。
とりあえず、スレ違いの話題はやめましょう。
思うんだが、淀君も砲撃が怖いなら、天守閣から他に移ればと良かったんじゃあないかね。
そりゃああんな目立つところにいれば格好の標的にもなろうというものだが、
他に移ってしまえばピンポイントで狙われることもまずあるまい。
292 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:51:22
>>285 キリシタンは豊臣も弾圧してたけどな。
ただ徳川ほど外様に介入出来なかっただけ。
>>287 近年、農民が悲惨だったという説はかなり否定されてる。
往来の説は農民は米を食うことができず、粟や稗を食っていたとかいうイメージがあったが
ありえない話し、金なら個人で普通の収入の人の何倍でも何百倍でも浪費できるが、
米は個人で常人で何十倍も消費するのは不可能。
当時の日本人の90%を締めてた農民のほとんどはちゃんと米を食っていた。
そうでないと数千万石も年に生産される米をどうやって消費できる?
節約のためにお粥にしたりする事や、よほど貧民が食えなかった事ならあったろうがね。
あと「口減らし」もイメージとは大きく違い、ようするに現代人の避妊とか堕胎の替わりのわうなものでしかない。
農民が快楽のためにセックスしまくって産まれたら捨てるだけという感覚だよ。
それと「姥捨て」に至っては実在さえ疑われてる。
293 :
287:2005/09/26(月) 21:04:38
>>292 幕府が外様大名に公共事業を強要した件
農民が貧困にあえぎ苦しんだ件
俺のソースは盛岡郷土資料館なんだが君の言近年の説とはソースがあるのか?
>>292 お前は関ヶ原スレで上田城攻防戦が無かったと言ってた捏造野郎だろ?
>>293 外様に公共工事を強要した件も知ってるし、
農民が貧困にあえいだ事も知ってるよ。
ただ後者はあくまで飢饉の時の話し。
私のソースは宝島出版の「日本史の本」。
あと、非常に論理的でもあるだろ。米の件も間引きの件も。
徳川時代が暗黒だったかそうでないかはどうでもいい
よそでやってくれ
285それは理解しているヨ
豊臣家とその配下大名の農民収奪は江戸幕府以上。
配下大名への賦役押し付けも江戸幕府より豊臣の方が激しいと思うが。
朝鮮の役とか様々な遠征とかさ。
その不満が政権交代の大きな原因ともなったのだが。
300 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 21:54:30
>>289 淀君は落城寸前の大阪城でゾバ焼きを作って遊んでいたという説話があるから、
覚悟も何もなかったと思う。
「千姫さえ返せば秀頼と自分の命を奪う事まで家康はしまい」と達観してたんじゃないかな?
別に遊んでたわけじゃないと思うがw
たしかに奥にいたら戦況なんかぜんぜんわかんなかったんだろうね
>>289 やはり第二の楠木正成を狙ったのだろうな。
大坂に関東の大軍を引きつけて撃破し続ければ、全国の倒幕勢力が
蜂起して、関東へ攻め込むと。
しかし護良親王に相当する人物が居なかったのが、失敗の原因だな。
>>300 小谷城で、父長政を討ったのは叔父信長。
その後、茶々の兄弟を殺したのも叔父信長。
北の庄城で、母お市と養父勝家を討ったのは秀吉。
その後、茶々は母を殺した秀吉の妾になり秀吉の子を産む。
大坂城で、豊臣を討たんとするのは妹お江の旦那であり秀頼の妻千姫の父である秀忠。
淀殿がデムパだったとしても彼女を責めるのは酷と言うもの。
こんな人生、正気じゃ生きていられないのも無理は無い。
>>303 京極高次の夫人は正気だったようだが?
関ヶ原合戦では大砲を天守に撃ち込まれているのに。
個人差もあるだろうさ
淀殿が正気じゃなかったとする史料は?
あんま時勢が読めるタイプじゃなかったのは間違いないと思うが、
それだけで電波だったと決め付けるのはどうかと
淀殿は過去二度の落城の恐怖があり、
砲撃に耐えられなかったと言うようなことも聞くが、
だったらなおさら覚悟を決めとけってものだ。
戦も全く知らない深窓の姫君だったと言うならともかく、
仮にも本物の戦場を経験しているんだから、
戦になったらどうなるかくらいわからなかったはずがない。
どうしても怖ければそもそも開戦なんかしないように動くべきだった。
京極高次は浅井家に与し、その後は明智光秀に与し、その後は秀吉に与している。
高次はお江の父殺しにも母殺しにも加担していない。
それに引き替え茶々を妾にした秀吉は、兄弟殺しの実行犯とも言われ、尚且母殺しである。
自分の親兄弟を殺した男に犯され続けた女が、正気を失うのも無理は無い。と言う意味。
>>303 現代の尺度で物を考えすぎ。当時の政略関係の血縁なんて今と比べれば情の薄いものだったことは自明だろ。
蛇足として、やはり物事を一辺倒に「駄目」「良い」と決め付ける意見は説得力ないな。
生類〜然り、鎖国だって、その300年があったおかげで日本独自の文化が随分育ったとも言える。
>>293 盛岡郷土資料館か……。
南部って、江戸時代もっとも悲惨だった藩のひとつなんだよな。
山がちで平野が少なく、気候は寒冷で稲作には向かない。
そういう藩の記録をベースに日本全体のことを語るのは無理があるよ。
南部や津軽なんかが悲惨だったのは、特異なケースと言えなくもないんだ。
お隣の秋田は米やら木材やら銀山やらで裕福だったんだからね。
ちなみに外様大名に公共事業を強要するのは別に悪いことではないな。
インフラ整備は必要だし、公共事業によって多額の金が動くことによる経済効果も大きい。
田中角栄はそれで成功した人でしょ。
南部藩の場合は公共事業を強要されて飢饉対策に回す金もなくて大変だったろうけどね。
無理はないけど実際おかしかったら実権なんかないでしょ
淀殿が気違いだったとは書いてないよ?
少々現実逃避気味だったり躁鬱の気が伺える所があっても
(大坂の陣前後の政策が首尾一貫していない、との指摘に関してね)
それは淀殿の生まれ育った環境に起因していて、致し方無い事なのでは?
と言う意味ですよ。
淀が精神的におかしかった(基地外って意味じゃなくて)ってのは
御殿医のまなせどうさんだっけ?あいつが書いてるよ。
情緒不安定でしょっちゅうヒステリー発作みたいなの起こしてたって。
それにしたって淀殿くらいの年齢になると
普通に見られる更年期障害の一種の気がする
「幼少時の落城の記憶が淀殿に影響を云々」ってのはちょっと文学的すぎる解釈だと思う
315 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 03:43:11
>>310 俺の住む石川県の加賀藩は収奪率のもっとも高い藩だが、百姓は平時は米食ってたよ。
なんせ飢饉の時に農民が金沢城を見下ろす山に集まって、「米食わせてくれ」と皆で一斉に呼びかけた記録もあるし。
年貢提出の時は「質の良い米ばかり取られる」とボヤいた農民の記録もある。
盛岡藩は欲で自滅したのじゃなかったか。
米の生産を減らして収穫量は少ないが、金になる大豆の生産を優先し、
醤油の原料として、江戸に大量に輸出していた。そのため飢饉になった
とき、極端な食料不足に陥った。
江戸時代がどんな時代だったかなんてスレ違いもいいとこだから、
続きは暗黒時代スレででもやってくれよ
徳川厨は必死だから困る
>>314 伯父に父を殺され、母を殺した男に犯され、精神的に傷を負うのが文学的かねw
お前はとんでもなく精神力の強い奴なんだなwww
いくら戦国時代とは言え親を殺した男の想い者にされたらショック受けるだろ
まあお前みたいな鬼畜には理解出来ないんだろうがなwwwww
>>309 一辺倒に良し悪しを決めつけてんのはお前の方じゃんよwww
淀の方は実の父と実の母を身内に殺されたって話なのになんで政略結婚の話してんだ?
自分に都合良いよーに話を曲解するなよ低能徳川厨君wwwww
それでも淀殿が統合失調症などの明らかな精神疾患の兆候を示してるならともかく、
よくある中年女性のヒステリーレベルだからなあ
多少のトラウマがあっても正気をなくすほどではないだろうってことでしょ
いやw
だから誰も淀の方が基地害とは言ってないじゃんよwww
基地害は戦国時代なんだから親を殺され犯された位でショック受けるなって言ってる徳川厨だろwww
つーかその虎馬が人格形成に影響与えてその後の思考パターンにも類を及ぼすって話じゃないの?
>>270 司令官クラスに対する追及の厳しさは大坂の陣に限らないのでは?
参戦もしていない増田長盛や筒井定次が切腹させられる一方では真田幸村の次男や長宗我部盛親の弟や一門家老は生き残っている。
また司令官の次位クラスだと山川賢信、北川信勝、織田昌澄等結構どこかの藩士になれてる。
徹底的に虐殺するならこの辺りは名簿の上位に入るだろう。
そう言えば…
秀吉死後の豊家内で、秀頼側近は傅役の片桐且元、淀殿側近は浅井家以来の大野治長。
且元は秀吉子飼い(元々は浅井家だが)で七本槍に数えられ、行政官としての才覚も高く
秀吉の信任も篤く、秀頼の傅役に指名された訳だが。
対する治長は武功もなく(関ヶ原が初陣?)行政官としての才覚も特筆すべき功績は見当たらない。
普通に考えたら、豊家内での実力第一人者は且元だと思うのだが、実際には謀反人扱いさ
れている訳で。
どうもこの辺りに豊家崩壊の原因がありそうに思うのだが。どうでしょう?
まあifを語るのもなんだが、大坂の陣の軍議に戦歴豊富な且元が居れば、もしかすると…
などとも思ったりもする訳です。
だって且元は既に徳川よりだし。
327 :
325:2005/09/27(火) 18:28:26
>>326 且元が家康に内通し豊家転覆を内から企てたとでも?
且元は実力第一人者の家康と懐柔するのが豊家存続の道と考えていたのでは?
家康に寝返るのであれば方向寺事件の前に、幾等でも寝返る機会はあったはずですが。
片桐に限らず豊臣系の大名は大抵そう思ってたと思われ
ただ片桐がいたからって戦況にたいした差はないだろうな
大群率いて戦ったことのあるわけじゃなし
織田信雄のほうがまだ戦歴ゆたかだぞw
関ヶ原で裏切った加藤や福島は全然責められず、豊家存続を願い奔走した片桐は奸臣扱い。
まあ肝心な所で寝返ったのは事実だが、命懸けで豊家を守ろうとしてんのに「お前余計なこ
としてんじゃねぇよ」なんて、事もあろうに守るべき対象から言われたんじゃなあ。
どっかでも見たが、家康の下についてでも豊家を存続させようとした片桐に対し、それを容
認できなかった豊家のプライドが滅亡を招いたんだろう。
首脳陣が大勢を読みきれなかったことが直因ではあろうものの。
330 :
325:2005/09/27(火) 18:51:33
>>328 まあifはおまけですが。
且元が居れば少なくとも籠城するような愚策はなかった可能性が高いのではないかと。
織田信雄は…w
確かに戦歴は豊かですね。
>>329 そうですよねえ…
それにしても且元追放は秀頼の意思なんでしょうかね?
そうだとしたら、今まで必死で傅役を勤めてきたのに、浮かばれない話ですよね。
家康の方でもハメてるしね
特に且元がきたあとに女官にだけ違う返事をして返してるとことか
また使いを二通りもだしちゃう豊臣側もアレだが
女官が使者って時点で終わってるよ・・・
まったく秀頼の奴は世渡り術を知らない厨だな(´・ω・`)
>>333 世渡りを教える奴がいなかったんだからしょうがないだろw
育った環境が悪すぎw
秀秋ワロス
>>327 いや、且元は家康よりで、家康の指示通り淀君が人質になるか、
大坂城を明け渡した方がよいと考えたが、
豊臣家の首脳部はそれをよしとしなかったので且元を追放した。
つまり、且元が大坂城内にいる状況では大坂の陣自体が起きないので、
大坂の陣のときに且元がいたらという仮定は存在し得ないのよ。
また仮に、且元の考えを却下した上で、彼を大坂城内のとどめたとしても、
自身の考えを潰されたのだから、真面目に大坂方のために戦うとは限らない。
実際大坂の陣では積極的に幕府方として戦っていますしね。
>>336 「家康より」とは何?
表現が曖昧で君の言う意味がわからない
>>336 片桐且元が家康寄りってのはあまり見ない見解だな。
>>337 且元が家康よりの立場を取ったってことですよ。
且元は関ヶ原の頃から、豊臣家が反家康にならないように動いているし、
その褒美として家康からも禄を貰っている。
大坂陣営において家康近しい立場を取っていたということは違いないと思いますよ。
>339
なんだ、『思います』なの?
それも見方一つで豊家存続の為に動いた(反徳川だと負ける→滅びる)とも言えるんじゃない?
あくまで折衝役であっただけで、決して親徳川派というわけではなかっただろ。本当にそうなら・・
っていうかまあ
>>327と同意だな。
>>339 時代は既に徳川の天下であり、徳川は武家の棟梁として将軍職に就き幕府を開いている。
このような状況であれば、徳川以外の各大名が将軍家の指示に従うのは当然の事だろう。
主人が将軍家に背くならば、お家大事と進言するのは家臣として当然の勤め。
また主人が将軍家に対し断固抵抗すると言うなら、命を捨て戦うのも家臣の勤め。
片桐且元を不忠の者の様に扱うのは筋違いではあるまいか?
豊臣家に於て真の奸臣は、開戦を主張したとされる大野治長ではあるまいか?
仮にも倒幕を企て戦に挑むのであれば、徳川に遺恨を持つ長州毛利や薩摩島津を抱き込み
、旧来豊臣恩顧の武将である安芸福島や肥後加藤の尻を叩き、西国を反徳川陣営で固める
位の根回しは最低限必須であったはず。
しかし、大野如き小者は根回しも出来ずに開戦に挑み、挙句軍議の席では東西分断を狙う
京出戦案を蹴り籠城を主張。
自ら豊臣家を死滅の道に追いやった張本人である。
>>342に付記
片桐且元追放を主張したのも大野治長と考えられる節もある。
且元が清韓を連れ駿府へ申し開きに行った際に、且元が家康に内通していると疑った治長
は、且元を監視する為に駿府へ同行している。
本来であれば、万が一に備え
>>342に記したように戦に備えた根回し等、やるべき事は山
積みであったはずであるにも関わらず、東西の緊張が高まる重要な時期に、治長は大坂を
留守にする失策をおかしている。
挙句には、且元に先立ち大坂に戻ると、且元と徳川方が親密な関係であると虚言を並べ(
且元は長らく徳川との交渉役であり、誼を深める為に血縁迄結んでいるので、徳川家中の
者と親密なのも当然と言えば当然なのだが)且元追放の気運を大坂城内に促す。
大野治長の言動を見るに、あまりに短絡的で、功名心に走った嫌いがあるように思う。
大野治長を擁護するわけじゃないけど、瀬田の大橋を落として
京都で幕府軍を迎え撃つって戦略はどのくらい現実味があったのかね?
たしか関ヶ原の時にも立花宗茂が似たような主張をしてたと思うが
>>344 浪人衆たちは、派手に戦いたいのだから、無謀な出撃を主張する。
決して豊臣を守るためというのが発想ではない。しかし大野達は
豊臣を守るのが優先だから、籠城が現実的だと思う。
ただでさえ劣る兵力で勢多に進出すれば、西国から来る、岡山姫路
の池田兄弟達からも挟み撃ちにあう。
>>340 関ヶ原の時に家康に人質送ったりもしている。
これは明らかに家康に擦り寄ったのであって、
当時の情勢でそうしなければならない要素は全くなかった。
>>344-345 京〜摂津河内和泉〜大和を制圧し、東海道等各街道を進軍する部隊を個別に撃破
東海道中山道に対しては瀬田川を防衛ラインとし、水口や八幡方面へ進撃する
戦の利無ければ川を挟んで対峙する、冬の川を渡っての戦いは進軍する側には不利である
相手は老齢な家康、居所の定まらぬ野戦が長引けば体に堪える、病すれば憶する
確かこんな粗筋だったと思います
大坂に引きこもり、家康を二条城に入らせゆるりと大坂へ招くよりは良いでしょう
元より劣勢の大坂方にとっては先勝する事が何より大切でしょう
謀反人片桐且元を討ち京の板倉伊賀守を血奉りにすれば気勢も上がると言うもの
指をくわえて敵が隊列を整えるのを見ている籠城にはあまり感心しませんね(w
>>347 背後から迫ってくる、池田、蜂須賀の家康の外孫たちをどうやって
阻止する?
冬の陣あたりの籠城は悪い作戦じゃなかったと思うぞ。
大阪城は天下の堅城だし、10万の兵が篭もってれば落とされる心配はない。
城の防御力に任せて籠城して、まず1戦して敵に勝つ、その上で敵が囲みを解いたら
外征して領地を増やす。そして元豊臣恩顧の大名に調略する等。幾らでも策はあったはずだ。
講話しようとしたのが最大の敗因だな。
追加
それの勢多で迎え撃っても、湖西を南下してくる、越前松平、彦根井伊
の両軍に、側面を衝かれる。伊賀から大和へ進攻する藤堂、紀伊から和泉
河内へ迫る浅野へも、充分な備えが必要になる。
京都を守る場合は、 勢多と宇治と山崎を押さえれば守りきれるが、
大坂への進攻を防ごうとすると、巨椋池の南を迂回されて、大坂に
入られてしまうので、宇治防衛が、かなり厳しい。
>>347 確かにそうかもしれませんな。
偽情報を流しまくったり、海から逆に駿河や江戸を襲撃して徳川方を混乱に陥れるなどというのは不可能だったのかな。
長崎代官の村山等安なんぞは船で傭兵数十人と武器弾薬を大阪城に送ってるし、本阿弥光悦も「豊臣氏から預かっていた刀剣類を返上する」と称して預かっていたよりはるかに多くの武器を大阪城に入れている。
包囲されてしまってからではこういうことは無理だろうから、包囲前だったんだろう。
だとすれば、包囲前や夏の陣に数十人程度で駿河や江戸を急襲するというのも無理な話ではないと思うのだが、、、
>>351 出撃して、敗退してから籠城すると、関ヶ原合戦の岐阜城の二の舞。
>>348>>350 大坂方の兵力を全て瀬田川方面に配備すると言う案ではないと思いますよ
後藤や真田などが各々隊を率いて瀬田川や大和方面等に進軍する形だったような
彦根井伊を破り東海道中山道〜北国街道辺りを封鎖すれば東西の連携を断つ事が出来る
井伊も松平も池田も家康の指示なしに独断で動けるのでしょうか
家康着陣前に東西分断で出鼻をくじく事が狙いの一つではないでしょうか
>>353 彦根に攻めかかった時は、越前の援軍が間に合ってしまうだろう。
その為の彦根、膳所の築城を行ったのだろうし。膳所の戸田も戦
名人だから、勢多の封鎖もそう楽に出来るものでは無い。
瀬田川東岸沿いに南へ回り込まれて、宇治、山崎を脅かされれば、
大坂方の防御ラインは長大なものになってしまい、兵力が足りない
だろう。
355 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 14:57:29
杭瀬川だって参加してたのは少数だしね
たたいておいて引っ込むべきときに籠城。
あとは適時打って出たり入ったり
豊臣には援軍も無い。四方を敵に囲まれ逃げ道も無い。
幕末の五稜郭と同じ状況ですな。
常勝軍神と言われた土方歳三も出戦を主張していましたな。
やはり出撃して敵方の大将の首を切り裂く以外に勝ち目は無いのではないかな?。
>>356 あれは独立した島だから。地続きの大坂の場合とは異なるだろう。
358 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 15:41:30
>>356 一戦して勝って相手の士気を下げておいて、その上で籠城して、機を見て出撃、家康を討つしかないだろうな
いつまでも城外にいるのも危険だし、
最初から籠っても相手はやる気まんまんだし
359 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 19:28:21
幕府方では大阪の陣でたとえ豊臣家を滅ぼしてもわずか70万石弱しかないため
加増の見込みも薄いことから戦意は低かったという説もある。
前にだいぶ議論されてましたが勢威は幕府方にあるとは言え、数十万の将兵の
輜重・兵站を維持するのは容易ではない。幕府が総軍の兵站を組織してたわけ
じゃないって事は各大名家、各個人の負担も少なからぬはず。
海上からの小規模攻勢による兵站妨害は初期段階では功を奏する可能性もある。
また緒戦でどんな形でも良いから勝利をもぎ取る必要は野戦・籠城に関わらず
ありますから、幕府方先手と大阪城に押込められる前に一戦せねばなりません。
>>358氏が言うのは大よそ理にかなった策だと思いますが、どこで一戦し
いつから籠城に移行するかですね。
近江辺りまで出張るなら大軍は無理がありますね。西方には姫路の池田氏が
控えていますから出征した軍勢の引き時もありますから軽兵による電光石火
の奇襲程度が精一杯かと。大和方面・紀州方面であれば大阪城そのものが
東海道・山陽道から攻め寄せる幕府方への防壁になりますから比較的大規模
の野戦部隊を展開できるのではないでしょうか。
大和方面じゃない?
浅野と泥沼になってもあとあと困るでしょ
岸和田や尼崎にも押さえの兵を残しておかないと
362 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 02:25:01
>>361 でもあんまり小出しにすると各個撃破されない?それとも池田勢が尼崎に
拘泥する間に大阪から大挙後巻の軍勢出して一撃を加えておくのも一興。
だがそれには東海道にも押さえが要る・・・。うーん小出しになるなぁ。
364 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 02:40:01
365 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 03:48:14
東海中山道に三万
中国山陽道に二万
大和路に二万
大阪城に三万
東海軍の大将は家康の天敵
真田
中国軍の大将は黒田叩きに燃える後藤
盛り場の無い大和軍の大将は橙武者
これで鉄壁w
>>365 前田、越前松平、高田松平、井伊。
この北陸方面だけで、軽く五万を超えている。
寄せ集めの真田の三万は、袋叩きにあって瞬時に壊滅。
出撃するのはリスクが大きすぎる
368 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 08:30:42
江戸末期の旗本は腐っていたけど、豊臣の旗本って活躍したの?
七手衆とか木村重成とかの名前は聞くけど、不利な情勢で逃亡や裏切りを抑えて
計算通り直轄領から動員できたんですかね?
369 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 09:01:43
>>365 そんな彼方此方に兵はだせんだろw
東海道・山陽道には大阪城そのものを防壁としつつ、泉南には
5,000程度の兵力で紀州浅野・岸和田小出(夏の陣は城方?)の押さえ
とし30,000以上の大軍を以って大和・伊賀方面を目指す。大将は野戦の雄、
後藤又兵衛を筆頭に長曾我部宮内少輔・大野治房らが指揮。
大和郡山を落としたら形勢を伺いつつ順次退き陣する。
同時に親豊臣の風土がある畿内一円に一揆を扇動し、幕府方の
兵站を困難ならしめる。
大和方面に留まるか、伊賀・伊勢から近江を伺うのか取って
返して紀州攻略にでるのか、はたまた大阪に帰陣か。この辺りは幕府方
の動き次第ということに。
>>368 七手衆や木村重成で旗本は出尽くしてる感があるが、後者は有名だからいいとして、前者も最後の決戦ではそこそこ活躍したみたいだよ。
>>369 >同時に親豊臣の風土がある畿内一円に一揆を扇動し、幕府方の兵站を困難ならしめる。
実際ある程度発生していたね。
あと少人数での江戸や駿河への襲撃については安房のあたりでちょっとした騒動があったみたい。
里見の残存勢力なら水軍はお手のものだから、豊臣氏と連絡があったかどうかはともかく、そのような動きはあったかもしれない。
奇襲部隊で江戸を襲撃し、福島正則を救助する。
372 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 12:17:47
>>370 豊臣本家の直参旗本の動員力はどんなもんだったんでしょうね?
むしろ浪人軍の方が働きが良さそうな気がするのですが・・・
>豊臣本家の直参旗本の動員力はどんなもんだったんでしょうね?
3万程度といわれている。
豊臣に3万も指揮できる熟練指揮官はおらんだろう?
>>374 だから浪人雇うのに必死だったんだろ
実際、野戦の指揮官としてはオールスターって言っても過言じゃないくらいの
浪人軍団が集まったじゃん。奴らに実力の半分も出させない命令を出して
負けたけどな。
えっ、浪人って直参を指揮させるために雇ったの?
>>375 それだけ浪人ばかりの雑多な大軍では統率に問題が生じるのも責められることではないと思うが
378 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 18:37:12
旗本3万は七手組で分けて運用するから速水・野々村クラスでも
良いんだろ。浪人大将はそれ以外の浪人衆の指揮じゃないの?
379 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 22:04:06
浪人とは言え名高い武士であった後藤や真田を正当に評価しなかった大野等に問題有り
彼等の戦歴に適う者は豊家内部には皆無でしょう
彼等の軍議を尊重し精鋭部隊を預けるべきだったのではないか
>>379 もし勝った時に浪人連中にでかい顔をされるのも嫌だったんじゃないだろうか。そもそもプライドの高さが
原因で戦争にもつれ込んじゃった家だから、面子的にもそんなことはできなかったんだろう。
まあ普通に考えてだ……
例えば現代において、潰れそうな会社に突然わけわかんない奴らが入ってきて
「会社再生してやるから、部長のポストよこせ。課長のポストよこせ」
なんて言われてすぐに「はい、わかりました」なんていう奴ぁいねえわな。
382 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 23:02:38
滅びる瀬戸際で大野レベルの人間しかいないということは、
所詮滅びる運命だったのよ。
>>381 そういうケースだとむしろ一気に重役待遇になってもおかしくないと思いますがな。
わけのわからない奴でもないし突然でもなく、実績のあるものをこちらから招いたのだし。
現状ではにっちもさっちも行かないから、わざわざ外から招いた人材なのだから、
活躍する場を与えないのは本末転倒。
まあ、現代ですらそういう過ちを犯す企業とかも結構あるけど、
普通そういうのは愚の骨頂、失敗の見本とされますな。
数千人の部隊長に取り立ててもらってるじゃないか
>>384 確かにそれはそうだ、
少なくとも課長、あるいは部長クラスの位置と見てもいいでしょうな。
だからまあ、役にも就けないというほど愚かではなかったとはいえると思う。
一応意見も聞いているようだし。
それ以上の待遇は難しかっただろうしね。
無名の真田、毛利、戦わずして家を潰した長宗我部、橙武者・・・
ある程度武名のあったのは後藤と明石くらいのものか?
後藤も中大名の一侍大将に過ぎなかったが。
387 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 08:26:19
>>365 >>家康の天敵、真田
って家康が直接、真田に負けたことはないし、
徳川家の部隊が負けたといっても、第一次、二次とも時間的に厳しい制約のある状況で
第一次は豊臣、上杉の後詰めも期待できる状態なわけで。
しかもあくまで真田昌幸の話しだ。
大阪の陣で信繁が最後の大突撃をして家康に一泡吹かせたのは認めるが、
それも所詮は無傷で逃げられたのだから過剰評価。
>>378 七手組は17,000くらい。残りの13,000は木村重成の指揮下や秀頼直轄だったんじゃないかな。
>>386 家康は後藤と御宿を評価していた。
御宿ということは今の世田谷区あたりの支配者だったんだろうな。
>>389 俺は、徳川が本当に警戒してたのは真田だと思う。
後藤又兵衛は確かに一流の指揮官だけど、野戦を得意としている。
対して真田は籠城が得意、大阪城に籠城されたら困るから
敵側(大坂)に聞こえるのを予想して、後藤・御宿が手強いって話しを
したんだと思う。
391 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 18:16:33
392 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 07:55:13
>>390 それは課題評価る
家康は大阪城に真田が入ったという報告を聞いた時ガクガク震えだし「入ったのは親か子か」と聞いて
「父の昌幸はすでに死に入ったのは子の信繁です」と聞いて「安心した」と言って気を取り直したという。
信繁なんて昌幸の子というだけでなんの実績もないんだから、そんなのを家康が恐れるわけないだろう。
世の中には父に似ない馬鹿息子くらいいくでもいるんだから。
家康はそういうのたくさん見てきたよ。
今川氏真とか織田信雄とか「父に似ない大うつけ」と罵って土佐を取り上げた長宗我部盛親とか。
393 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 07:56:40
そもそも秀頼だって羽柴秀吉の息子なのだが・・・
394 :
392:2005/10/01(土) 08:07:45
課題評価は過大評価ね。
あと昌幸自身が信繁に「わしなら出来るがお前では無理だ」と言ってた筈・・・
>>393 秀頼には堅牢無比な大坂城という名城と、
「豊臣家」という権威があるからね。
真田幸村はただの浪人。
天下を掌握しつつある家康がたかだか武将の一人や二人をそこまで恐れるとは思えない。
ましてやがたがた震えるだなんて普通に考えておかしいと思うんだよな。痩せても枯れても徳川家康だろ?
あったとしても「ちっ、厄介な奴が入ったか」程度だと思う。
一体誰がそんな逸話思いついたんだか。
後世の脚色で『真田は家康の天敵』なイメージが強いみたいだけど、どうも納得いかないな。
>>392の話しが大げさ。
実際は「はっ!」と驚いた程度でなかったかな。
真田昌幸が死んだことを忘れていたというのもヘンな話だからな。
左様。そんなにびびってる相手なら要チェックしてるはず。
当然昌幸が死んだという連絡もいってるはず。
そんなにびびってる相手の死ならば忘れるはずがない。
400 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 14:36:28
祝! 400get
☆ ∵∴∴☆※☆∴∵∴ ./
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401 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 19:01:26
>>370 機内の親豊臣の風土?
そんなものはないが。
402 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 21:05:15
>>402 あったよ。特に京・堺は民衆レベルで。京都は更に公家衆。
堺も加えるのか?
まだ大和の方が適切な気がするが
404 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 21:31:56
>>403 大和は何で新豊臣の気風があったのですか?
勝手ながら教えて頂ければ幸甚です。
公家に人気があったなんて聞いたこともないが。
406 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 22:48:16
大野治房はあまり評判よくないみたいだが、やはり現将軍秀忠への最後の
突撃は凄まじく意地を見せたというところかもしれない。
明石全登と同じく生没年不明ということだが、どこへ消えたのか。
407 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 22:50:11
>404
豊臣領だったから。
他には箸尾高春(ちなみに豊臣秀長配下で4万石)などの大和の武士・豪族が入城している
もちろん他の浪人と同じで親豊臣だったというわけでもないと思うが
豊臣・徳川の間でふらふらし、怒った秀頼が焼き討ちを強く命じたという
マイナスポイントがある堺よりは大和の方がマシかと思っただけ
409 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 01:33:45
410 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 01:52:36
堺は大野治長の弟、道犬が焼き打ちにしたから、
彼は戦後、堺に引き渡されて火あぶりにされた。
もっとも大阪の陣が始まってからの話しだが。
あと畿内に親豊臣の気風があったといっても、
「ひいき」程度であって、豊臣勢と共に命を懸けて闘ってくれるレベルではない。
蜂起なんて無理無理。
道頓堀
少なくとも朝廷では徳川よりは人気があったらしい>豊臣
時代が時代だったので、あまり表向きにはできなかったようだけど
関東で独自の武家政権を形成してた徳川幕府よりも、
畿内に勢力を張って、関白と言う公家社会の階級が権威の拠り所である豊臣家の方が
朝廷には扱いやすかっただろうし、理解もできただろうね
413 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 20:40:21
それと天皇家・摂関家・諸家には何かと献金めいたものふんだんにあっただろう。
>>412の言うように太閤・関白と朝廷・公家社会がその権威の拠所だったからね。
朝廷勢力としては徳川幕府は鎌倉時代を彷彿とさせて面白くはなかったろう。
普通に考えれば、豊臣家は摂関家の地位を脅かす存在のはずなのに、
献金もらって喜んでたのかな。アホだな、藤原氏は。
415 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:37:11
摂関家脅かすって言っても殆どの高位高官は藤原系だろう。豊臣氏は人数少ないから
平氏みたく軒並みって事にはならなかっただろうからね。
室町末期には御所ですらボロボロだったんだから、結局のところ少しばかりの官位で
安定的に贅沢できるなら庇護勢力が朝廷寄りなのはむしろ喜ぶべきことじゃないかな。
すでに朝廷の官位は権威はあっても何の実効性もない訳だしね。
平氏の頃みたく武蔵守とかがホントに武蔵守の国司だっていうなら大問題だがね。
いや、摂関家っていうのは摂政・関白に就任するための家なんだから、
自分たちの他に摂関候補が出てくるのはあまり好ましい状況とは思えないんだが。
左右の大臣や納言の地位ならまだしも、関白となると最高位だからねえ。
少しばかりの官位なんて話じゃないでしょ。
417 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:54:49
416の言いたい事はよく分かるよ。でもさ所詮何の実権もない摂関でしょ。
むやみやたらと時の権力者に有名無実の高位一つ二つにこだわるより実利
取った方がいいという発想もアリではないですか。
あげく「太閤」なんて呼び名に殿下つけて呼ぶんだから朝廷は痛くも痒くも
なかろうと思うんですが。
それから右大臣・内大臣はじめ大納言・中納言等の朝廷要職は殆ど武家が
貰ってる訳だしね。そういう意味で今更と関白一つでどうこうという状態じゃ
ないかなと勘案した訳です。
>>417 むしろその状況で関白まで取られたら何もなくなってしまうではないか。
>>410 いや実際に起きてるよ。
紀伊、大和から多数大坂に入城してるし、現地で蜂起もしてる(含未遂)。
あと、伊勢、伊賀、丹波、摂津能勢、播磨。未遂は淡路、土佐、山城。
もちろん親豊臣というより、機に乗じて蜂起しただけだろうが、、、
>>406 姫路に一時匿われてたらしい。
>>419 近江からも多数入っているだろ。京極、浅井(淀の従兄弟?)
小倉(蒲生氏郷の従兄弟)
二木謙一の「大坂の陣」によると、信濃の石川康長の家臣も多数入城していた。
422 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 19:32:35
>>418 重複するけど公家は鎌倉時代以来、その経済的基盤であった荘園を武家勢力に奪われ
政治的だけでなく経済的にも相当な落剥した状態が長く続いたわけで、豊臣の時代に
なって人がましいというか貴族らしい生活が安定的に過ごせるようになったはず。
先ず食うことでしょう。スレ違いになってきたのでここまでに。
423 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 19:59:34
少し話しを戻そう。
畿内において小規模な攪乱などを断続的に起こすことで幕府方の兵站に何がしかの
サボタージュを行うことは不可能では無さそう。ま、これは余技として本命は大和国
へまとまった兵力を投入することにより局地的勝利を得る。大阪城守備及び東海道・
山陽道への押さえ、そして泉南・紀州への押さえを除いてこれに使える兵力は30,000
前後かと。北大和を奪取されると京・摂津方面を扼される事になり大阪城攻略の上で
厄介な配置となる幕府方前衛に会戦を強いる。家康の目も有り出陣諸将は功をあせり
十分な兵力集中を待たず開戦に至る可能性は低くは無い。こうした幕府方の大軍が展開
する以前に幾つかの勝利を得るべく腐心すれば、史実と異なる展開もあり得るのでは
ないだろうか。最終的には城方敗北であってもね。
426 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 21:48:52
>>425 別枠なら余計に斟酌いらないじゃん。バンバン官位上げてガッポリ稼げばよし、と。
官位て売り物だろ。
朝廷の生活費用の。
428 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 21:56:51
大和より紀伊浅野の方が良いんじゃないか?実際に一揆の蜂起もあった事だしさ。
大野治房なんぞではなく後藤・長曾我部・木村長門守に兵2万ほど与えて軽く
一戦しとけば浅野も徳川に名目立つしさ。
429 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 21:57:56
>>429 豊臣時代からですが?
歴名土代でも豊臣時代から武家公卿成の任官は記されてません。
戦国時代でさえ、官位が売り物なのは正四位までだね。
それ以上は例がないし、単に金で売る訳でもない。
豊臣政権以降は、武家への叙任は勝手に出来ない。
従二位、従三位の例は無いのかね?
そんなことはないと思うが。
432 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 10:25:13
>>431 家康、秀忠、家光、秀頼
ゴロゴロいるが。
大内親子、伊東某
官位なんて何の実益もないんだから、日本政府も危機的状況の財政を救うためにも官位販売すりゃいいのに。
>>433 何した人?
>>434 寄付金
勲一等百万円
勲二等六十万円
勲三等三十万円
勲四等十万円
勲五等六万円
勲六等三万円
とかか?
大内も伊東も、金で官位買えたとでも?
438 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 19:00:59
官位スレになってる…
>>435 まあそんなところだね。
しかし勲章は功績のあった人物に与えるように残し、位階や官職を販売するほうがいいだろう。
といっても勲章ももっとバラ撒くべきだと思うけどね。
すいません、詳しい方々教えてください。
道明寺の戦いの前の軍議で、真田は何で四天王寺の平野で敵を迎え撃つ策をおすすめしたんですか?
何かで「砦の代わりになるようなものがあるから」みたいな事を見たことがあるのですがよく分かりません。
後藤の出した策のほうが普通に良さそうな気がするのに、あえて平野決戦をおすすめしたのは何でか、
よろしくお願いします。あと変な事書いてたらすみません。
小牧長久手の勝利者は秀吉で、関ヶ原の戦いの豊臣軍の総大将は家康
>>441 茶臼山。
冬の陣の時の家康の本陣。当然野戦築城されていたので、堀などもあった。
>>443 追加
四天王寺は平野ではない。上町台地という細長い台地の上。
周りから登るのにも、結構きつい坂を登らなければならない。
さらに狭い台地であるために、攻撃経路が制限される。
>>443,444
お答えありがとうございます。
小説か何かで四天王寺が「平野」と見たのを(見間違いかもしれません)丸々鵜呑みにしてた様です。
茶臼山が“砦の代わりになるもの”ということで良いのでしょうか。
あと真田の出した案は、大阪方が四天王寺の台地の上に布陣して迎え撃つ…という事に
なるのでしょうか。四天王寺辺りの地形が想像しにくいので地図とか探してみます。
>>447 そちらのサイトも既に拝見したのですが、道明寺の戦いの項目の「平野で迎え撃つ」という言葉を
そのまま受け取ってたので勘違いしていました。最終決戦の項目をよく読むと何となく理解できました。
真田は確かに茶臼山に陣を置いていますね。
教えて厨に丁寧にお答えいただきありがとうございました。
>>448 岡山口の平野村(ひらのむら)の事では?
>>446 もうすこし分かり易いイメージでいうと、谷町筋と上町筋に挟まれた
地域が上町台地の頂部の稜線。そこから東西へ向かって下りになっている。
>>441、446です。
平野村…平野区…素で「へいや」と勘違いしてました。お恥ずかしい。
>>450でリンクして頂いた地図と説明を見て理解できました。
大阪城は台地の上の方に建ってたのですね。
戦術的にはどちらの案でも良くて、真田丸の件で後藤の案に合わせただけなんですね。
スレのレベルを下げるような書き込み大変失礼しました。ほんとにすみません。
教えてくださった方ありがとうございます。
>>452 あのサイトの表現も少しおかしかったからね。
”大坂城南の四天王寺辺りで終結した徳川軍を平野で迎え撃つことを主張したが”
とある。四天王寺で合流させてしまうと冬の陣とほぼ同じ場所での戦闘
ということになるので、埋め立てられて存在しない外堀で戦うことに
なってしまう。
それと平野は当時とは地形が大きく変わっている。江戸時代に大和川
を上町台地を通して堺の方へ流す付け替え工事が行われている。
当時は平野から北へ向かって流れていて、大坂城のすぐ近くで淀川
と合流していた。さらにそれに沿って湖があり、これも干拓されて
鴻池新田となって消滅した。だから今は広々とした土地だと思えるが、
あの頃は河内方面から大坂に向かう際の重要ルートだった。
ちなみに、八尾藤井寺方面の戦闘前夜、真田幸村達が宿営したのも
平野村であり、戦闘終了後に徳川家康達が宿営して軍議を開いたのも
平野村です。
しかしあのサイトの人物一覧はすごいな。
本にして出版できるぜ。
だって元々他の本読んでつくったサイトだから
大抵の本は他の本読まなきゃ書けないんじゃないか?
普通は史料読んで独自の解釈で書くもんだ
確かに、学研の丸写しに近い感じもする。
しかし俺等にできる最大限の努力って本を読み集めることくらいしかできないんじゃないか
460 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 03:59:08
そうだよね。ましてや何らかの理由でこの世から抹殺されてしまった資料とかもあるし。
『家康は大坂の陣で後藤又兵衛に殺されていた。その証拠に堺に家康の墓なるものが…』云々って本は発売寸前で発禁になったって聞いたことあるし。
462 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 14:20:49
影武者徳川家康は関ヶ原で甲斐六郎に殺された話でしょ。
通説や教科書では、征韓論を主張したのは西郷だとされているが、その証拠となるべきものは何一つ発見されていない
歴史は常に勝者によって改竄されている事を念頭におくべきである。
とゆー事は朝鮮征伐も秀吉ではなかった可能性もあるってことか
>>458 人物一覧は学研だけでは網羅できんだろ。
小笠原と家康じゃ年齢が違いすぎる
相当無理がある話だ
鎧兜に面頬つければほとんど見分けつかないんじゃないかなあと思うんだけど。背格好と声さえ似てれば
戦中くらいは誰でもごまかせそうな気がするなあ
469 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 04:47:51
大阪城攻防戦を書いた小説で
決定版は何?
470 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 06:43:37
つ司馬遼『城塞』
作者が大坂厨なのが問題だがな
472 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 20:43:17
家康の隠し子で小笠原なんとかって奴が居たな。
473 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 01:28:56
>>472 小笠原権之丞。
家康と三条某氏の娘との間に生まれた。近藤秀用の娘を娶る。
天主教を信奉していた為に慶長末年放逐。
明石守重(全登)と親しく、大坂入城。
夏の陣のとき天満橋で戦死。
天満あたりで戦死といえば、鈴木孫市の一門らしきのも戦死している。
鈴木孫一な
476 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 04:29:38
孫市で合ってんじゃないの?
477 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 07:17:13
家康3人説を私は信じてます。
大坂の夏の陣で地雷が使用されたらしいけど、火焔放射器みたいのはなかったのかな?
燃料がなかったから。でも迫撃砲は使用された。
細川忠興の次男の興秋が豊臣方として参戦しているんだよな
彼と大谷義継の子も真田隊に加わり活躍していたな
あと長宗我部家の旧臣も結構参加していた
徳川方の細川家にはたまらんな。でも戦後、家康は許したけど忠興は許さず興秋は切腹。
火焔放射器は無理でも火焔瓶くらいはあっても不思議じゃない気もするが、、、
長宗我部の旧臣は「結構」というより「大量」じゃない?
関ヶ原スレに粘着してるイタイ狸ヲタがこのスレに来ない件について
484 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 16:30:17
どんなスレのヤツだろうが粘着君が来ないことは良いことだよ
>火焔瓶
中国では宋のときから使われていたらしいから、明あたりから油輸入してたんじゃないか?
>>485 細川といえば室町幕府管領細川昭元の子頼範もいたな。
487 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 20:58:12
どなたか豊臣七手組に詳しい方、兵力、エピソードなどを教えて下さい。
>>487 ていうか2chで聞くより検索した方が早いだろ。
宮本武蔵も大坂方だったといわれてるけど、以前のNHKの歴史番組で否定してた。
どっちにしろその他大勢だったってことなんだろうな。
冬の陣直前に潰された里見の残党は何してたんだ?
里見美作だけというのはさびしすぎやしないかね。
「城塞」。これに勝るものはあるまいて。
先日、後藤又兵衛の墓に参ってきた。以外に立派だった。
どこにあるのですか?
鳥取ですよ。景福寺ってとこだった。あと、大分の下毛郡てとこにも小さい墓があります。
スレ違いだったかもすまそm(__)m 気にせず続けてくださいね。 てっしゅー
名を上げた部将、名を下げた部将は誰ですか?
名を上げた人
真田幸村ら大坂方の牢人
名を下げた人
徳川家康
501 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 11:16:15
福島正則なんかは名を下げていないの?
伊達は名前は売れたが、あのヘボさはなんなんだ。
503 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 11:45:42
たしか日向の小大名で伊東家だったと思うが
豊臣方として挙兵してたな
結局篭城して降伏したけど、関が原当時は東軍だったため、家康は不問にしてそのまま領地を維持させた
大阪方は皆名を上げたな
徳川方は名を上げさせる為に戦ったようなものだ
本多忠朝って評価どうなの?
506 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 21:23:30
徳川方では上杉はさすがの強さを発揮し、部下の武将が20回くらいも
感状を貰ってる。
15年前には果敢に家康に挑んだ上杉家も、
この頃は幕府の走狗に成り果てていたと。
無論致し方ないことだが、
時代の流れってのは容赦のないものですね。
木村重成
509 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 01:24:43
北政所はめちゃくちゃ東軍よりでしたがね
>>507 幕末には旧幕府軍の一員として戦かっている
東北の大名だから仕方ないか
その後降伏して会津を攻める
なんか江戸時代の上杉は踏んだり蹴ったりな印象を受ける
>>502 そりゃ、ドンゴリアンの先祖だからヘボくないわけがあるまい。
信憑性が疑わしいとはいえ、関ヶ原当時直江状で家康の不義を激しく糾弾した上杉家が、
大坂の陣で家康に従って旧主豊臣家を攻めてるのが悲しい
しかも外様大名ではNo.1の活躍じゃなかったか
何もそこまで頑張らなくてもいいのにな
>>512 家康の信頼を得る為に必死だったんだろうな
大坂方の浪人と違って家の安泰がかかってるしなぁ。
上杉は頑張ったと思うよ…
そういや毛利は大坂の陣では活躍したの?
そういえば聞かないね、
家臣を名を変えさせて大阪方に派遣して戦わせたけど、
戦後そのことが幕府にばれそうになると、
家臣が勝手にやったことだとして、
その遺児を自害させたりとか、
なんとも歯切れの悪いことはしていたみたいだけど。
話は変るが、当時は大坂城天守閣が一番高い建物だったろうから
生駒山麓を南進、八尾方面からじりじり進んでくる大軍を見て
秀頼はどんな気持ちがしたろうか?
それを考えると、俺んちは城の近くの8階でベランダが東向きなんだが
生駒の方を見てると変な気分になる。
孫子の兵法書よんでビックリした家康の戦い方そのものだった。
戦いとは損害を生むから無闇に戦わない
出来る限り相手の情報をあつめろ
戦う前から根回しをしろ
戦う時は敵地に乗り込め
ただし城攻めをするな
主力を誘き出し混乱させて一気に勝敗を決めろ
家康は孫子の兵法書を読んでたのかな?
それに対して石田三成が諸葛孔明でも読んでいたら、三分の計の作戦で
大阪城に篭城して引き分けにして西日本を治めながら
家康の死を待つ作戦で逆転もあったかも・・・
522 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 17:58:25
片桐且元についてはどう思う?
家康にいいように利用され大阪城内で孤立。
出奔して開戦の口実にされ戦後、自虐の念から自害。
走狗の末路だな。
>>522 豊臣と守ろうとしたけど裏切り者の烙印を押される
吉川広家と似た印象だな
大阪の陣関係の小説読んでると、大抵大阪方の淀とか大野の無能を家康が利用し
浪人衆がそれにひっぱり廻されそれでも奮闘…の構図になってるようだが史実ではどうだったの?
且元の所領って豊家から貰ってたのか?
それとも独立した徳川大名として豊家の家老も兼ねてたって事?
両方から貰っていた。
史実なんぞわかろうはずがないじゃまいか。
ただ治長については評価が低すぎるような気がする。
個人的には治長って豊臣家の方向を左右するほどの権限は
なかったんじゃないかと思うんだ。ただの家宰程度の人物じゃないかと。
>521
家康は結構勉強家で「貞観政要」や「吾妻鏡」を愛読していたらしいから、当然読んでるでしょ。
>>518 俺が持ってる本には「毛利氏四代実録考証」とある
「七日の晩秀頼御腹召され一着の由、公私大慶に候」とある
ちなみに秀頼と呼び捨てだ
孫子って戦国時代は甲斐源氏の門外不出の書物だったと聞いたことがあるけど、
これが本当なら家康は書物からではなく実戦から孫子の極意を会得したんじゃないか?
武田家滅亡後は普通に家康も読んだかもしれないけど
532 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 20:12:30
age
徳川家康は「孫子」をはじめとする七書(武経七書?)を印刷刊行させているそうな
「続日本記」という書物で、唐に留学した吉備真備(693〜775)が「孫子」をもたらした事を記しているんだそうな
534 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:05:32
age
535 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 22:28:43
>>487 豊臣七手組頭の行動について
(関東のスパイ)
青木一重 夏の陣の前、使者として関東に赴き、そのまま幕府に仕える。
伊東長次 夏の陣後、高野山に逃れ、家康から旧領を安堵される。
真野頼包 大坂落城の際脱走、のち藤堂高虎に仕える。
(その他)
堀田正高 大坂落城の際自害
野々村吉安 大坂落城の際自害
中島氏種 大坂落城の際自害
速水守久 大坂落城の際自害
豊家存続のために頑張ったのは、速水ぐらいだったという。ああ、悲しや!
536 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 22:44:08
537 :
日本@名無史さん:2006/01/02(月) 22:44:50
538 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 02:11:52
age
江戸時代って庶民が天地会や白蓮教みたいな秘密結社を作ることは許されてたの?
540 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 15:53:42
講とかは秘密じゃないからなあ。
>>539 江戸時代とか白蓮教とかいう以前の問題として、
原則的に作ることが許されていなかったから「秘密」結社というのではないかい?
542 :
日本@名無しさん:2006/01/06(金) 21:14:20
戦の采配を、真田・後藤に初めから任せるべきだったんだよ。
淀殿や大野治長・織田有楽では無理。(しかも、有楽は徳川のスパイだった)
大野にせめて石田三成くらいの器量があれば・・・
大坂の陣の時点で大坂方に誰がいても結果は大して変わらなかったと思われ
例え大野に諸葛亮や楠正成なみの軍略があったとしてもどうか
>>541 秘密結社=禁止だっけ?確かに禁止される結社もあったろうけど、、、
例えば現代日本では秘密結社を結成しても、それ自体は違法ではない。
546 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 15:34:17
大坂の陣・・・・
力のあるおっさんが 金持ち後家おばはんをちびらせて、ひねりつぶした図。
>>533 武経七書はご存知なのに、何故六国史の方は、
>「続日本記」という書物
呼ばわりなのですか。天平7年4月辛亥条に、吉備真備が帰国後献上したも
のが出て来ますが、『孫子』の名は無い様です。
もっとも、天平宝字4年11月10日条によれば、「諸葛亮が八陳、孫子が
九地及び結営向背」を教授する事が出来たらしい。
なお、家康は兵法書以外にも『孝経』なども刊行させていますね。
無類の読書好きであり、地道かつ堅実な勉強家でした。>529の通り。
>>545 おいおい、合法ならなんで秘密にするのよ、
そりゃあ名前だけ「秘密結社」というだけの普通の組織を作るのは自由だが、
普通は秘密結社といえば明るみに出てはまずいからその存在を秘密にしているのであって、
社会通念上その存在や行動を大っぴらに認められてはならないからこその「秘密」結社。
だから、
>>541の
>原則的に作ることが許されていなかったから「秘密」結社というのではないかい?
という指摘はまったく妥当だし、
>>539は多分質問の仕方自体を間違えている。
単純に結社の自由はどの程度あったのか?
といっておけばよかったのだと思う。
551 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 14:04:16
大坂の陣@
--------------------------------------------------------------------------------
伏見会見の夜、秀頼を犯そうとして激しく拒否された家康は、彼を力ずくで手に入れようと豊臣家攻撃の口実を探す。
一方、家康が自分の尻を狙っている事に恐怖した秀頼は、関ヶ原の合戦後、取り潰され散りじりとなっていた西軍残党の浪人達を次々と召抱え大坂城の守りを固め始める。
そして1614年。ついに運命の方広寺の鐘銘事件が勃発するのである。
豊臣氏が滅び、徳川も一国民になっちゃった。諸行無常よのう。
553 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 17:02:23
>>552 滅ぼされずに一国民になれた分マシ
仏蘭西革命とかだったら殺されてただろうな
>>551 わろす
554 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 18:28:20
ネタももうないし551に期待だな。
555 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 19:14:10
一国民ごときになるよりは武家の棟梁として滅びた方がよかったかもしれん。
556 :
日本@名無しさん:2006/01/10(火) 20:09:31
福島正則や加藤忠広は、やっぱり大坂城に入るべきだったな。
結局、二人とも改易にされてしまった・・・
二人は心中で「こんなことになるなら、大坂城に入り
豊家のために忠義を尽くすべきだった・・・・」と思ったはずだよ。
557 :
553:2006/01/10(火) 20:32:02
>>555 一国民っていうより華族にもなったから良かったんじゃね?
大正時代に徳川家達は内閣総理大臣になる話がでたよ
上手く行けば徳川内閣成立だったのに
>>556 本当に福島や加藤は豊臣家に忠誠心を抱いてるのかな?
「豊臣なんて時代遅れ。今は徳川の時代」みたいに思っていたんじゃね?
黒田は、そこまで忠誠心を抱いていないって言われているよね。
558 :
日本@名無しさん:2006/01/10(火) 20:49:26
黒田如水は、豊臣にも徳川にも忠誠心は無い。
むしろ、自分自身が天下人の座を目指していたんだろう。
福島正則は、豊臣への忠誠心を持っていたと思う。
秀頼が天然痘にかかった時(1608年)、
他の大名が二の足を踏むなかで、
真っ先に大坂城に見舞いに登城している。
大坂の陣でも、米8万石という膨大な米を大坂城に提供している。
>一国民っていうより華族にもなったから良かったんじゃね?
そういう意味じゃ明治新政府って、最近徳川ファンからの批判が強くなってるけど、徳川にも温情を施してやってるよな。
むしろ徳川のほうが豊臣氏を抹殺して豊国社を破壊し、更に秀吉の墓まで暴いてる。中国史によく出てくる話だ。
それに徳川は織田家直系も滅ぼしてるよな。それを棚に上げて豊臣氏が織田を乗っ取ったとはよく言うぜ。
多少大坂の陣から話がずれるかもしれないけど、
三代将軍家光が豊国神社が朽ちるのに飽き足らず、
秀吉の墓まで暴いた理由について知ってる人います?
既に大坂の陣から幾数年、豊臣家の脅威が完全に過去のものになった以上見せしめにしてもやりすぎ
やっぱり家光の精神疾患に依るものだと考えるべきでしょうか?
特に徳川信者じゃないし幕末とかも全然わからんが明治維新で徳川はあくまで新政府に徹底抗戦したのか?江戸城明け渡したんじゃなかったっけ?
明治政府は日光東照宮に秀吉も加えて祀らせたのだが、これは家康に対する抑えだと言われている
それに豊臣家は何もしてないのに戦争を仕掛けられたみたいに言われがちだが、方広寺事件の前に前田家に大坂入城を要請している(当代記)から未だ天下への未練を持っていたように思われる
ちなみに織田家直系とは秀信のことかね
家光は豊臣家残党にも捜索の手を出しているよね(大野治房)。たしかにやりすぎ感は否めない
562 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 18:14:01
明に攻め込もうともしたしな。
563 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:46:56
>秀吉の墓まで暴いた
どの史料に出ているのか、教えて頂けませんか?
豊国神社の社層であった梵舜の書いた『梵舜日記』には、秀吉の棺は
豊国廟から掘り出され、早朝から夕方にかけて、方広寺大仏殿の
うしろへ、棺を縄で引っ張って改装したとある。
その後、明治に豊国廟一帯が発掘された際、遺体が裸のミイラの形で
発見されたという(『日光東照宮 隠された真実』祥伝社黄金文庫)。
これは明治三十年四月十三日、豊国会によって豊国神社修築工事が
始まったときに発見されたもので、瓶に詰められていたという。そこから遺骸
を出すとき、ばらばらに壊れてしまったので、遺体を拾い集め、厳重に保存
したという。従って、秀吉の遺骸は、そのとき立てられた豊国廟に埋葬さ
れていると思う。
コピペ文だが出典は『梵舜日記』なんだそうだ
560じゃないが答えてみた。秀吉はミイラ化して発見されたそうだ。。。
これが事実なら人間のやる事じゃないな
「棺を縄で引っ張って」ってまるで罪人にやるような仕打ちだな
かつての旧主家に対してやる仕打ちじゃない(もっとも家光自身は豊臣家を主君と仰いだこと無いけど)
別に豊臣家って朝廷から朝敵指定されたわけでもないよね?
>『梵舜日記』
読んでみたところ、大坂夏の陣直後に崇伝から「豊国大明神之御事、大仏殿
之内ニ被移、社頭ヲハ一円ニ被壊之由」が伝えられていますね。7月9日。
8月中には、鐘は智積院に、護摩道具と神道之道具は吉田に移されている。
10月末には豊国で『蒙求』の講釈を行っていますが、神官は離散済み。
神宮寺などの破却が本格的に行われたのは、元和5年(1619)。
寛永6年(1629)には、なんとか33回忌が行われています。
遺骸云々は、この後の事でしょうか。
『忠利宿禰記』寛文2年(1662)5月14日条には、災害が多いので諸人
が豊国社へ参詣していた、とあります。
『鳩巣小説』、『翁草』には、家光が「当家興隆の事も、彼恩義に仍てなり」という
ので、豊国社再興を考えたが、酒井忠世の意見で取り止めたとある。
真上の二つは、後世のもので、信頼性は落ちますが。
『梵舜日記』該当条が知りたい。なお、百年忌は高台寺で行われていますが、
一応霊廟も現存していた様です。荒廃しきっていたそうですが。
>>566 江戸時代は豊臣氏は「徳川に対する反逆者」だったから「犯罪者」として扱われていたろうな。
もちろん徳川のように朝敵ではなかったけどね。
国家あげ安康
570 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:57:49
豊臣秀頼を上総に移封する案なんてあったのですか?
572 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 04:25:03
家光が秀吉の遺骸を辱めたとすれば、
それは明智家重臣・斉藤利三の娘、春日局の意向ではないだろうか。
家光はマザコンなので彼女の言いなり。
ちなみに知恵伊豆も家光と共に春日局が育てたも同然なので言いなり。
573 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 05:16:18
>>571 房総ってことは安房上総下総(下総はわからんが)を豊臣家に与えようとしたってことですか?
確か安房一国か+上総だったと思う。とはいえ徳川が思いつきでポロッと言っただけのような印象だけどね。
いくらなんでも江戸に近すぎだな
家康が本気で言ってるとは豊臣家も思わなかっただろう
信長の野望を里見でプレイすれば、豊臣の悲哀を感じられる。
里見自体(ry
578 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:17:46
俺んち上総国だから、豊臣来てくれてたらよかったのになぁ…と思う
大坂の陣で秀頼が頼みにした大名
蜂須賀家政、福島正則、細川忠興、佐竹義宣、前田利常、島津家久、浅野長晟、
池田利隆、蒲生忠郷、島津家久、黒田長政、加藤嘉明
絶対全員味方にはなってくれなさそうな面子だな(´・ω・`)
島津に至っては秀頼自ら書状して脇差まで送ったそうだが
だって島津は譜代じゃないもん
584 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 21:35:37
>>583 既に死んでる
ちなみに息子の忠直は徳川方
生きていたとしても豊臣にはつかんだろうな
>>581 そりゃほとんどの家が世代交代しちゃってるもん。
淀殿を支えてくれたであろう近江衆は関ヶ原で壊滅。
大阪の陣現在では、領地の保障してくれてるのは徳川幕府で、所詮は「昔は昔、今は今」ですもん。
福島正則に関しては、秀忠相手ならどうかわからないけれど、旭日のごとき勢いの秀吉でも戦場で打ち負かす事あたわぬ、
伝説的なまでの戦上手である家康には逆らえないでしょうね。
細川なんて豊臣恩顧扱いなんだろうけど関ヶ原前から既に親徳川寄り
だったしな
587 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 07:39:17
ふと思ったんだけど、浅井一族や旧臣は何してたの?
井頼(長房)が大坂方についたのは知ってるけど
伝説的なまでの戦上手である家康
浅井政高(浅井長政の従兄弟)、今木正祥(浅井旧臣)などがいる。
探せば他にもいただろう。
細川家も家督相続の件に不満を持って次男が大坂城入りして真田幸村の
もとで戦っているな
大坂の陣に参戦した真田隊って結局全滅したの?
生き残った兵士とかいたんだろうか
>>591 「真田隊」と言うだけでは、豊臣型か徳川方かわからないと思うのだが……。
594 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 19:07:33
関ヶ原の東軍組は
元主君である織田秀信を襲っている
豊臣恩顧の連中も、織田の又家来にあたる
こんな方々が豊臣に味方するはずがない
ちなみに
関ヶ原では信長が死んでから18年後
大坂の陣は秀吉が死んでから17年後
後藤又兵衛凄いな
黒田家出奔してから細川忠興、池田輝政、結城秀康、福島正則、
前田利長、藤堂高虎など名だたる大名からオファーが殺するとは
いずれも長政の手で立ち消えになったけど
結城とか福島あたりは相性が良さそうだな
又兵衛と長政は性格の不一致が原因というが、何で如水は良くて
長政とは駄目なんだろうね
親子でも別の人間でそ
父親とは上手くいっても息子とは上手くいかないというのは普通にありえる話
第一話 「国家安康」
第二話 「暗雲大阪城」
第三話 「開戦前夜」
第四話 「真田丸」
第五話 「放たれた大砲」
第六話 「偽りの和睦」
第七話 「堀のない城」
第八話 「暗雲再び」
第九話 「霧の道明寺口」
第十話 「真田日本一のつはもの」
第十一話 「千姫脱出」
第十二話(最終話) 「夢のまた夢」
第一話 「家康死す」
602 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 19:28:00
伊達の神保への一斉射撃age
603 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:36:25
黒田と後藤の件は、後藤の母親孝行だった説もアリ。
604 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 04:32:34
黒田長政と後藤又兵衛の不仲については何も長政ばっかりが悪い訳じゃないんでしょう?又兵衛自身も性格がアレだったらしいし。
でも向かう先々に奉公構をする長政の執拗さもすごいけど。
605 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 13:41:40
家康が暗殺ばかりするから大阪の陣の頃は豊臣恩顧の大名はいないからな。せめて清正、吉晴、幸長、利長がいればな。
606 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 13:48:50
真田幸村の子孫はいますか?
子孫を名乗る人のHP無かったっけ
あそこが詳しかったと思う
608 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 17:34:37
>607
それどこにありますか?
610 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 13:49:32
>609
ありがとうございます
611 :
清閑寺子爵夫人:2006/03/09(木) 15:06:12
おほほほほほほの法則
浅野ゆう子の意地
612 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 14:45:33
結城秀康が生きてたら福島正則もセットで戦った鴨。
「家康は、秀頼を滅ぼすつもりだったのだろうか」スレが良く伸びてるのに
何で大坂の陣スレが伸びないんだろう・・・
とりあえず保守age
614 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 19:19:13
妄想厨房の馬鹿意見さらし上げ
そもそも立花宗茂が、関ヶ原の後、大阪で浪人生活している頃にスカウトしておくべきだったのだ。
そうなれば、淀殿ごとき馬鹿女の命令なぞ、鬼嫁との長きにわたる冷戦を生き抜いてきた宗茂に
とって屁でもないから、秀頼の委託を受けて大阪方の軍配を預かれば、真田、後藤、長曽我部
御宿、薄田などの浪人大将の統率も上手くいき、島津や加藤などが寝返る可能性も考えられた
のでは無かろうか?
結局、明石全登ってどうなったの?
戦死したのかどこかに落ち延びたのかどっちなんだろう
今となっては知るすべもない>明石の行く末
案外乱戦で名を知られることもなく逝ったのかもしれない
明石には全国切支丹がついてるから割りと逃げやすくない?
外国人宣教師も大勢支援してるから海外に高飛びするのも容易だと思う
618 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:21:20
明石はやっぱり海外に行ったのかな
八丈島に逃れたとかは無いかな
八丈島なんかに逃げてどうするよw
大坂の陣の直後琉球を訪れた宣教師が、
「さる貴人が琉球に潜伏してる」と書き残したらしいが、
意外とこれなんか明石かもしれないな
秀頼生存説の根拠の一つになってる話だが、
生涯引き篭もりだった秀頼が南国まで逃げたというよりも、
元々切支丹である明石が東南アジアに逃げる最中に
琉球に立ち寄ったと考えたほうがまだ納得できる
慶長14年、関ヶ原の勝者家康は天下統一の仕上げとして豊臣に戦を仕掛ける
太閤秀吉がその力を全て込めた居城大坂城
そこにはかっての栄光を取り戻すため、豊臣のため多くの浪人、武将が集まっていた
かっては土佐22万石の主 長曾我部盛親
秀忠3万を足止めした昌幸の子 真田信繁
宇喜多家57万石の筆頭家老であった 明石全登
黒田家では1万6千石を拝領した男 後藤基次
豊臣へ為、1千石をなげうち馳せんじた 毛利勝永
豊臣家臣筆頭大野治長の弟 大野治房
秀頼の乳兄弟、弱冠22の美男子 木村重成
かれら七将の他、薄田兼相、塙直之等の歴戦の強者達
しかし、大坂城の最高権力者は秀頼の母淀とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に豊臣の為に戦うは毛利、木村、大野くらいか…
その時、浪人で溢れかえる大坂城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた
「真田殿、後藤殿の策を取れば勝てようものを……」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
初めはそれを、秀吉の遺児、秀頼に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成
しかし、彼の後ろの淀殿や治長、いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「殿……」
明石全登がようやくといった感じで放った言葉に、重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
秀吉に実の子、いやそれ以上の愛情を受け育ち、豊臣政権の五大老であった男が再び豊臣の為に戦うため帰った来た…
秋田
>>621 >「治長、よいぞよ、よいぞよ」
>淀殿の熟れた乳房がパンと張り出す
まで読んだ
懐かしいコピペだw
保守age
家康晒しage
攻めあぐねたのは、徳川本軍が弱いからですよね?
627 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 01:25:43
大阪の陣での豊臣方の死者どのぐらいだったのだろう・
死者三万説
卑劣なる豊臣家は、大阪の陣で化学兵器をしよう
徳川陣営で、エボラ出欠熱発生
629 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 04:42:57
初陣で家康はきついよな
夏の陣では真田隊や毛利隊3000が玉砕してるし、
戦後も凄惨な浪人狩りが有ったことを考えれば豊臣方は殆ど殺されたんじゃないか
長沢聞書によれば豊臣方の死者一万八千三百五十人らしい
なんか意外と少ないね
それって冬の陣と夏の陣両方合わせた数字なのかな
死傷者の数で言えば戦国時代最大かな
国家康健
優秀公正
これは豊臣秀正公を呪詛し家康を祝福するものである。
真言僧侶 創海
毛利勝永って、大坂の陣くらいしか活躍していないのに、その活躍もほとんど幸村に持っていかれてるんだな
635 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 08:16:36
それが判官びいきさ
636 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 19:27:28
家康晒しage
637 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 01:04:19
んばん
ゲームの話になるけど毛利勝永も最近かなり評価されてきてる
保守しとくか
641 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 12:24:02
明石は、猛将水野勝成の部隊を叩きのめしているんだよな。
水野勝成ってこの時くらいしか活躍したことが無い印象
真田丸 って響きがかわいい
644 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 13:30:45
秀頼は母・淀殿や大野治長とともに自害した。
これはあくまでも推測だけど、
最後、死ぬ前に治長と淀は秀頼に真相を告白したのではないかと思う。
秀頼は秀吉の子でないと判った上で潔く死を決意したのだろう
645 :
↑:2006/09/23(土) 23:08:54
推測ではなく妄想
646 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 17:26:26
一体何を根拠に真実だと言い張るのかわからない
648 :
日本@名無史さん :2006/09/25(月) 21:54:06
茶々は、いい子だよ。あくまで推測だけど。
649 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 07:45:09
>>646 真相を告白したんじゃないかな
本人はショックだろうけど死ぬ間際になったら
人間本性を現すでしょ
650 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 07:46:14
その場でみんな自決したんだから根拠を示せと言われても何もないけど
>>644 大河ドラマの最終回でそんな展開なったら、皆こうなるな(´;ω;`)
652 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 17:48:06
>>644 くだらないヨタ話は小説のなかだけにしてくれ
653 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 09:29:51
天草四郎の馬印が、ひょうたんの意味は?豊富?
天草四郎が豊臣家の落胤だとする説はかなり前からあったよね
大方四郎を担いだ連中が考えた出任せだろうけど
655 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 00:05:41
卑弥呼がキリストの子孫であるのと同じだな
656 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:47:33
>>621 本多富正、大阪城に一番乗り!!
石川康勝、大阪城で 爆 散!!
二人とも秀康の遊び相手だったのに、何の差だろな。
>>649 心理学的には死を目前にしても人は嘘をつく。
例えば、死ぬ前にこれだけは始末しておきたい、隠したいものとかないかい?
それは死後であってもそんな事実は隠したい、真実を晒されたくないって心理なんだよ。
加えて、大野の子どもだって根拠もない。
まあ、妄想扱いされても仕方がないね、というかわたしにも妄想にしか思えない。
養子とかが普通に家督を継ぐ時代に秀吉の本当の子かどうかなんて問題ない
秀吉が認めた跡取りかどうかが肝心で秀頼
秀頼が秀吉の実子でないという妄説で幾分でも豊臣家討滅の罪悪感が軽くなるんだろう
山岡荘八の徳川家康でもそういう解釈を取ってたはず
660 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:00:44
下等嘉明って下等人間
7本槍でありながら主君の遺児の城攻めて
殺そうとするんだぜ。
侍の忠誠ほど胡散臭い物はない
661 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 12:39:43
子供の頃と違って二十歳近くにもなれば親の顔に似ている部分も出てきたかも。
二条城で秀頼と会ったとき、家康は「ん?秀頼じゃなくて何で大野の子が来てるんだ?
え!?秀頼なの?だってだって・・・うそぉ」と驚いた。
と妄想
662 :
日本@名無史さん:
age