473 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 20:01:50
維将流の嫡流は熊谷氏。北条と違い系図ははっきりしている
尚、熊谷氏の総領家は近江熊谷氏
474 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:28:04
>>471 >大掾氏は貞盛の甥
だがその後維幹が「貞盛の養子になって、常陸大掾を世襲した」というのがポイントになっている。
国香→貞盛→維幹と大掾職が受け継がれている。これが話をややこしくしている。
475 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 07:41:52
つまり貞盛は養子の維幹を嫡男にしたのかな?
あと貞盛って自分の甥や弟を沢山養子にしてるよね。余五将軍と呼ばれ城氏の祖となった繁盛とか
476 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 14:06:58
昔あった「源氏と平氏の子孫はどうなった」
のスレは面白かったな〜
嫡流はどこになるのか議論出来てて非常に楽しかったです
477 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 20:52:12
馬鹿が狂ったように連投してるねw
479 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 22:42:30
≫457
子孫、学者が都合よく隠したり、作り変えたり、捏造したり誤魔化しが多い。
某HPのように・・・
≫462
笹川繁蔵→笹川一家→現○○会○○六代目笹川一家
→○○氏・現○○会会長代行・○○六代目・笹川六代目
≫477
≫478
事実だからな・・・
480 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 23:03:18
≫479
天保水滸伝、笹川繁蔵といったら現在上映中の次郎長三国志・清水次郎長と引けをとらない知名度。
博徒も元々は下級武士、名主層自警団が始まりらしいですね。
江戸期の実戦の無い上、中級武士よりも藩から重宝されたらしい。
現在も儀式など名残りが見られるのもうなづけます。
481 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 23:16:02
479
正式
⇒○○会○○一家内○○六代目総長
笹川六代目元代表(現在七代目は○○氏)
482 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 23:27:35
たしかにあのサイトはあまりにも都合のいいように解釈、
記載が多過ぎるような・・・
〜か? とかいって定説にしようと・・・
見た者が勝手に思い込むよあれじゃ
クオリティかなり高いのはわかるんだけど・・・
483 :
日本@名無史さん:2008/10/01(水) 23:34:25
だけんども名門だっ屁よ!
だから
屁で滅んだんだっ屁よ!by関八州古戦録
しかし名門なのは事実
484 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:08:38
で、貞盛の嫡男って誰よ
485 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:52:11
話そらすなよ〜
で千葉氏は?
486 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 01:00:27
487 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 01:16:22
488 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 01:51:14
Suck your fxxin dick!
489 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:07:58
というよりも
原家、円城寺家、海保家、木内家、その他家臣あっての千葉氏でない?
ていうか千葉家というより実質「原家」・・・
490 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:20:42
同感。
原氏、海保氏が北条家と首を繋げなかったらもっと早く滅んでいたかも
491 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:32:41
>>482 〉たしかにあのサイトはあまりにも都合のいいように解釈、
記載が多過ぎるような・・・
たしかにそう思う・・・・・
492 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 02:55:17
海保氏て誰?
493 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 03:14:35
>>492 主軸ズレルけど里見氏の出で千葉家の執権。
原氏と共に北条氏とのパイプを築いた。
海保丹波守、海保丹波守胤祐、海保甲斐守三吉、海保賢胤などがいる。
小田原後、海保三吉は徳川家に仕える。
他流は帰農の後、名主層となった。
494 :
日本@名無史さん:2008/10/02(木) 03:16:16
海保丹波守⇒海保丹後守
失礼
495 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 06:33:42
>>479 意味がわからないんだけど。
笹川の子孫がヤクザとして今でも続いてるってこと?
496 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 14:23:36
あのサイトってどこのサイトだろうw
497 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 14:01:56
ドンドンドン!
邦夫「誰だ?」
由紀夫「あんちゃんだよ。お前のあんちゃんだよ」
邦夫「ほんとに俺のあんちゃんか?」
由紀夫「ほんとにあんちゃんだよ」
邦夫「それじゃあ、俺の質問に答えてみろ。
世界的な混乱の中、市場を安定させるにはどうすればいい?」
由紀夫「政権交代」
邦夫「やっぱり、アンちゃんだ!」
462 :日本@名無史さん:2008/10/19(日) 20:28:37
庄屋といってもピンキリだが、関東の平野部には、べつに大庄屋でなくても
かなり裕福で広大な屋敷を構える名主(庄屋)はよく見られる。
例えば武蔵国足立郡嶋根村(現:東京都足立区島根)
の名主・牛込家の幕末期の屋敷は、3000石の旗本屋敷の格式をもつもので、
同家はその村の8割の土地を所有する富豪だった。詳しい系譜は俺は知らないが
小田原北條時代の武家領主・牛込家と何か関係あるのかもしれない。
その島根にほど近い足立郡竹塚村(現:東京都足立区竹の塚)の名主・河内家
は、平安期以来の下総国最大の豪族・千葉氏の系譜を引き、戦国期には
河内知親が当主であった。その長男・胤盛は徳川幕府に出仕し、子孫は
代々、旗本として存続した。二男・知棟の子孫は竹塚村の世襲名主として
存続した。その名主屋敷は、水堀と土塁を巡らした中世の在地土豪の居館
の特徴を示すもの。この種の名主屋敷は関東には非常に多い。
500 :
小田氏:2008/11/22(土) 01:39:08
238さんへ(日本@名無史さん)
時間がずいぶんたっているので、どうでも良いと思うけど、
小田城下町(土浦)生まれの小田家ですけど、
なんとかしぶとく生き残っていますよ。
因みに九州小田家(小田直光)の子孫だったりするけど。
関東に舞い戻っております。じゃ。
501 :
日本@名無史さん:2008/12/09(火) 07:27:23
東氏が摂関家の娘を正室にしてることを最近知った。
いかに鎌倉幕府創業功労者の子孫とはいえ、一介の国人領主がまだ武家の地位が低い鎌倉時代にね。
すごい驚きだ。
502 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 13:58:39
じつは二条は二条でも二条違いだったりして。
>>502 でも御子左流の二条だったらむしろ良くね?
504 :
日本@名無史さん:2009/03/29(日) 16:21:25
なるほど ものは捕らえようだな。
505 :
日本@名無史さん:2009/03/30(月) 07:06:14
越後の椎名氏の末裔はいるの?
506 :
日本@名無史さん:2009/05/06(水) 19:09:21
さあ?
507 :
日本@名無史さん:2009/07/07(火) 23:36:57
三戦板って何でもありなのね
509 :
日本@名無史さん:2009/10/17(土) 17:18:32
椎名氏って常胤公の弟が始祖だっけ?
510 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 01:59:54
>>406 このラーメン評論家年収3千万〜4千万だって、すげー話だね(それを当てた小倉優子も凄い)
馬場大掾の惣領・庶子家が大掾以外の官職を名乗った際には
大掾右馬助・大掾三河守のようになるのか、馬場右馬助・馬場三河守になるのか
系図や軍記等ではなく、書状や同時代の古記録に見える実例を教えて下さい
>>510 惣領は大掾もしくは平
庶子家もそれぞれの地名か平を使用している
馬場を名乗っていた者もいるにはいるけど極一部でしかなく
少なくても惣領や他の苗字を持つ庶子家が名乗っていた形跡はない
>>511 ありがとうございます
>庶子家もそれぞれの地名か平を使用している
庶子家は大掾の苗字を名乗っていないということでいいんでしょうか
もう一つ、惣領が大掾以外の官職を名乗った例はありますか?
その場合、大掾(官職)+官職と平(氏)+官職どっちなんでしょうか
513 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 12:46:59
さあ
514 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 14:40:12
おい
515 :
日本@名無史さん:2010/06/19(土) 00:38:08
常陸平氏の場合、鹿島大使に任じられた先例のある家はお互い対等だとか・・
516 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 06:09:50
空揚されないように保守保守
大使は大掾に任ぜられるってやつが関係しますかね>対等
このことは『本土寺過去帳』の「常陸大掾殿妙充同子息」
馬場大掾の系図には見えないこの人物たちに関係したり?
「妙充同子息」
系図だと秀幹、頼幹、持幹、清幹あたりに比定されるべきなんだろうけど
な〜んかよくわかんね
小栗が滅んだ後、大使役の輪番はどうなったんだろ
利根川東遷以前の地理が頭に入ってないと、いまいち分からん…
霞ヶ浦や周辺湖沼が、内海として皆繋がっていた時代の地図が欲しい。
霞ヶ浦内海時代の地図に、常総平氏の勢力図を重ねたものが載ってる本って、ありませんか?
518 :
日本@名無史さん:2010/08/19(木) 23:01:58
>>517 「常総内海の中世―地域権力と水運の展開」
っていう本があった。しかし内容は忘れたので責任は持てない。
自分で内容を見てほしい
>>518 おお!ありがとうございます!!
さっそく購入します。
大掾職って中世末期まで国衙を中心に機能してたんだね
守護大名佐竹氏の影響下から独立していて独自の権力を保持していたようだ
521 :
日本@名無史さん:2010/08/20(金) 12:02:30
>>520 >大掾職って中世末期まで国衙を中心に機能してたんだね
常陸では中世末期(=室町時代末期)まで国府が存続してたのですか?
よろしかったら、そのことについて言及されているソース(書籍でもサイトでも構いません)を教えて下さい。
522 :
日本@名無史さん:
例大祭の大使役を常陸の国衙在庁、大掾の権能といえるなら
史料から大使役が確認できる元亀3(1572)年まで国衙が機能していたといえなくもない・・・んでは
差定/鹿島[ ]七月例祭大使職事/鹿島郡〈実名不知〉/右任先例、可致勤仕状、如件
元亀三年六月五日 税所
大掾平
税所文書には、税所平・大掾平発給の留守所下で始まる書状(嘉吉2年)や
勘解由次官が発給した書状(享徳4年)もみられる