スレタイの通りです。
001〜100・・・北条家
101〜200・・・長尾家(上杉家)
201〜300・・・武田家
301〜400・・・今川家
401〜500・・・斎藤家
501〜600・・・朝倉家、浅井家
601〜700・・・六角家、北畠家、畠山家
701〜800・・・三好家
801〜950・・・織田家
950以降は自由ということで。
北条家からよろしくお願いします。
2 :
ニコニコ仮面:2005/08/18(木) 19:23:56
2
3 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:29:33
闘犬や田楽にうつつを抜かしすぎだろw
4 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:36:18
後醍醐を隠岐へ流したのは失策だったなw
5 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 23:43:34
足利の扱い誤ったのは、高時の大失策といえるな。
6 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 01:27:28
>>1がこんな糞スレを立てると予想していなかったこと
7 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 01:50:55
太閤秀吉「北条家ってオマエ、見ての通りよ。いっつも同じ事の
繰り返しや。征伐するよ・・・。ただそれだけの事やんか。」
狭山藩の功績って何かあるの?
9 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 02:48:44
大体、北条家だけで100もつのか?
10 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 03:00:09
だから鎌倉や近世の話題になるんじゃねいの?
小田原評定
12 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 04:18:02
戦国大名の話なのに、ネタとして鎌倉時代の話をする馬鹿がいる件について。
ネタにしてもツマンネ。
13 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 08:34:31
あのなんかほらポンカン送ったらそれが珍しいってわからなくて
よく似てるけどこちらは全く珍しくもない橙送り返してきたッツー逸話は創作ですか?
あと氏政が飯に二回汁かけて氏康が「北条もコレで終わりか」と泣いたッツー話。
コレぐらいしかしらん。
地元だが北条ってなんか愛着わかないんだ
>>1=12
自分のホームグランドへ帰れば?
それか三戦板へ逝けキモ主
15 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 13:52:06
>14
くだらないネタばかり出しておいて一人わらってんじゃねーよ、このあほ
16 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 15:03:42
これは、もう・・・戦国大名の失策というより
>1のスレ立ての失策かと・・・。斉藤道三に
ついて語りたいが、そこ迄辿り着くや否や(笑)
・・・
ネタの一つもふれないスレ主の立てたスレなんか
ネタにされるだけだよ
試みに問うが1の手元には北条関連のどんな本があるの?
書名をあげてくれ
18 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 03:35:23
北条信雄が安土城に放火して焼き潰した一件
>>13 後者は毛利輝元verがあるくらい、全国にある話なので創作の疑いが濃い。
前者も創作だと思うが、何とも言えない。
>>11 小田原評定は月二回開かれてます。
それと野戦か籠城かでは、紛糾したものの氏照・憲秀ラインの主張が通って籠城に決まってます。
結論が出ないことを永遠と議論していた、というのは嘘っぱち。
松平、伊達、島津、長曾我部はー?
22 :
徳川斉順:2005/08/23(火) 02:23:50
小田原評定は月2回開催。原則公開。先着50名様。駐車場有
遠方の方実況中継有。TVKテレビ。
23 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 00:44:02
北条で知ってるのは、河越野戦だけだな。
24 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 15:57:21
>>18 なんかね、家康君が秀だかだれだかに「珍物よ?」といわれて
当時日本にはいってきたばかりだったポンカンを貰ったらしいのよ。
それで律儀(ぶってた)な家康君は「そうだ、親戚の北条君にも
おすそ分けしようでござる」と思って送ったらしいんだわ。
ところが北条の家中は外に対する情報を全く仕入れてなかったし
物しらずが多かったので「ほほう駿府では橙が貴重とな。
ならばたくさん送って北条の威容を見せてやろう」と
ポンカンと橙間違えて送り返しちゃった。
家康君は呆れたというお話。
下は日に3度飯食うのに分量もわからず追加するなんて
バカジャネーノ北条も終わりだよヽ(`Д´)ノ ウワァァンということらしい。
単にこぼさないように2階に分けたんじゃないかと思うのだが。
内政官としては結構憂愁だったらしいし>氏政
似たような奴に今川の蹴鞠がいるな。
>>23 家来が主人の居場所
闇でわからなくてあとで探したら
枯れ井戸かなんかに落ちて死んでた武将がいたんだっけ?
25 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 15:59:52
北条の勢力圏って実は南関東の一部だけだよね?
徳川関東入りのときの勢力もそんなものか?
26 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 16:16:38
>>24 ポンカンの話、聞いた事あるような・・・
北条家が全く時勢にうとい事への揶揄話しなのかな?
27 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 18:06:27
そうらしい
@北条はキング・オレンジと蜜柑の区別もつかない
A蜜柑ならば三河や駿河でも別に珍しくは無い
B北条と重臣どもはその程度しか
これを強調するエピソードである
28 :
さる:2005/08/24(水) 18:15:46
武田タソは長篠の戦いで偵察を敵陣にやらなかったのが、敗因だと思う。
やってたら、策が練れたのにまともに鉄砲撃たれに行っちゃって、バカ
と思った。
おひさしぶりです^^
みなさんのご意見を拝見させて頂きました。
北条家の失策は無いみたいですね。
では名将と呼ばれている北条氏康について質問です。
山内上杉家を滅ぼしてから上杉謙信の関東遠征までの間に大規模な軍事行動を起こしていません。
内政重視や大規模飢饉があったりで行動を起こすことが出来なかったみたいですがここは失策にはならないのでしょうか?
今川家・武田家との同盟や古河公方足利家の取り込みなどで満足して良いのでしょうか?
関東平定を目論むのでしたら少し甘いような気がしますが如何でしょう?
ではまた^^
【極東】三馬鹿の反日について語るoffその2
姫 ◆WRGPIHMdNs 氏 >無名人 *-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*; 746 名前:nana4 ◆JapanZzJzo :04/05/21 23:29 ID:qnLV0Lxk:
ちょっとフォローです
>>744 > 品川 09:17発⇒京急本線特急⇒横須賀中央 10:07 ...
popup.tok2.com/home/zuizui/1071670405.html - 625k - キャッシュ - 関連ページ
31 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:36:58
どうして女ってバカが多いのかな?
大規模軍事行動なら今川と武田の連合軍と駿河で戦っているしな
少しはお勉強しろよw
32 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 22:57:51
ぶっちゃげて言えば北条家の最大の失策はさっさと秀吉のところに
臣下の礼をとりにいかなかったことだろ。
最初から天下を取る気は無くて「関東の王」で満足なら
足利だろうが織田だろうが豊臣だろうが中央政権が確立されれば
その中央政権に関東支配を認めてもらえば満足だったのだろうから。
実際武田の滅亡を隣で見ていつまでも中央政権に抵抗できないことは
嫌でも自覚していただろうに。
33 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 23:09:32
そういや上杉とか毛利とかいつのまに秀吉に尻尾振ってんだ?
戦闘の結果屈服した長曽香部とか島津とか、白装束着て秀吉にアタマ下げた
伊達とか劇的なのは分かりやすいのだが。
34 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 23:38:32
毛利家の場合は休戦協定以降、安国寺恵瓊の時代への嗅覚と
外交手腕に依るところではないか?
35 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 23:54:14
毛利家にとって備中高松での講和は事実上中央政権への降伏。
36 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 00:00:21
直接に織田勢力と境界を接していた大名はさっさと
降参したかったけど信長は簡単に降伏なんぞ認めなかったんだろ。
それが思いがけなく秀吉に政権交代して、秀吉なら恭順を誓えば
領土を安堵してくれたから上杉も毛利もさっさと帰順したんだろ。
37 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 00:13:36
さっさと帰順した上杉、毛利は大大名として豊臣政権下に。
戦闘を経た長宗香部や島津もそれなりに領土を保全したのに
秀吉は北条には厳しいね。
38 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 00:24:40
>>37 んー、やっぱり北条はポンカン大名だから?
関係ないだろ
40 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 11:25:42
でも北条領でかいし恭順してもいずれ潰されそう・・・
氏直若年につき相模のみ安堵とかそんな感じで。
実際丹羽とか織田(三法師)とかそんな感じだしね
上杉、徳川、毛利あたりはやっぱりでかすぎだから
何かの機会があると潰されてたんだろうな。前田、伊達は微妙だが。
機会がなかっただけで。
長宗我部は土佐でいいなら別に無害だし。
島津は徹底抗戦しそうでつぶせないかもそれないけど。
41 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 11:28:26
>>37 最後は辛いんだよね
最初に恭順しとけばある程度保全はされる。
最後はもう保全させる意味がないから徹底的に潰す。
北条小田原攻めは秀吉の天下とりの実質的な最終段階(奥州仕置きも兼ねてるし)だから
やっぱりポンカン同様時勢のタイミングを見る目がなかったのかなぁ
42 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 17:37:49
徳川(戦闘に勝利したうえで臣従)>毛利・上杉(さっさと臣従)>長宗我部・島津(敗戦したとはいえ戦闘で根性見せた)>>>北条(城に篭ってただけのヘタレ)
おい、駄スレに巣くうクズども。マジレスしていいか?
スレタイが「戦国大名の失禁を語るスレ」に見えたぜ。
はっはっはー
自己の趣味性(性的嗜好)を語るスレはここですか?
45 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 00:45:16
>>1
おまえ石田君だろ?いい加減学校こいよ
家康への代替え地として初めから潰すつもりで行ったんだろ
島津や伊達みたいな僻地やるわけにはいかんし
毛利や上杉は恭順の態度示してるのに潰しても意味ない
京から近くも遠くもなく広大な北条家の領地は左遷の地としてうってつけ
47 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 20:18:55
加えて、佐々成政の一件でも明らかなように新領主に対する一揆を期待し、それ
を口実に徳川255万石を没収するという底意もあった。
>>47 だったら、木村と蒲生の中間に旧領主の伊達を置いたみたいに相模と伊豆へ北条を残しておいた方が
よかったんでない?
「武蔵・下総・上野を奪った」と家康へ逆恨みして一揆を扇動してくれたかもしれんよ。
49 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 06:20:59
>>29 北条家は当時関東の諸勢力ほぼ全て敵に回していたので、
うかつな軍事行動は即命取りとなる状況でした。
また周囲の有力大名と比較して、金山・特産物などの収入が少なく、
商業都市もそれほど発展していなかったので、軍資金は上杉家に大きく水をあけられていました。
そのため大規模な軍事行動は困難であったため、失策とは言えないと思います。
50 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 00:12:41
>>49 この頃、北条家に敵対していた勢力は古河足利家と里見家、長野家、小田家ぐらいでは?
佐竹家や結城家、宇都宮家は敵対してないような気がする。
あと、長尾家(上杉家)は家臣団の掌握にてこずっているし、
金山・特産物の収入といってもそれほど大げさなものじゃないでしょう。
北条は戦国大名としては稀有な位、治世は良かった。
年貢も4公6民と民の方が多い。6公4民で名君と言われた時代にね。
52 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 05:47:47
>>50 古川足利家は当時、関東の国人衆に絶大な支持を得ていて、
北条家にとってはかなりの脅威でしたよ。
氏康の父親の氏綱も、最初は古川足利家を補佐するという形で近づいて対立を避けていましたし。
まあ佐竹家や結城家は真っ向から敵対はしてませんでしたが、どっちつかずの状況でしたね。
あと上杉家が武田家や北条家と比べて、
遠征や合戦が多くできた理由は、軍資金が豊富だからと言われてます。
中国地方の話ですけど、石見銀山の利権をめぐる合戦が何回も、
行われているように当時は金山や銀山から得られる収入は大きかったようですよ。
>>52 古河足利家は絶大な支持を得てはいたけど助けようとした有力者のは簗田家だけだよ。
まあ、その公方の権威を利用しようとして北条家は古河足利家を滅ぼさずに取り込んだわけだが。(織田信長と同じ様なw)
それと結城家の方は北条家と同盟していたような気がする。
どっちつかずではないだろう。
上杉家の場合は家臣の統制にてこずっているからそれほど脅威ではないよ。
実際に山内上杉憲政が越後に逃げ込んでから10年近く経って大軍を率いて小田原城を攻めているし。
川中島の方は春日山城から近いから気軽に行けるし防衛上でも重要だけど、小田原城の方は気軽には行けないだろうなw
まあ、話を北条家に戻すが、
古河足利家を取り込んだ時点で大規模な軍事行動を起こしても良かったかもしれないが内政固めも悪くはないと思う。
どのみち北条家は天下を狙うことはできそうもないからなw
54 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 18:08:39
上杉謙信は合戦や遠征が多い割りには、あまり領土が増えてない。
実よりも名を取っていたことは分かるけど、家臣にしてみればたまらないだろう。
謙信が家臣の掌握にてこずっていた理由としては、
実入りのない戦ばかりしていたことが原因だと思う。
謙信が領土拡大のための戦をあまりしなかったことこそが
家臣の離反や内応を誘発させた失政ではないだろうか。
55 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 03:11:15
北条氏政の外交判断ミス。
朝廷を取り込んだ秀吉に対立するってことは、
逆賊を意味するってことを理解せずに
豊臣に滅ぼされたから。
56 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 17:07:38
正直北条は秀吉なめてかかってたんだよ
まぁ島津も長宗我部もそれでやられたわけだが
最後だっただけに容赦する必要がなかった。
後方の危険がなかったから懐柔する必要なし。
運が悪かったんだね。
57 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 18:43:34
北条は、野戦に弱い。綱成くらいだろ、氏康配下の。
河越夜戦も、乱破(らっぱ)の奇襲が奏功しただけ。
里見は、水軍で遠征中の北条の本国を奇襲できたから、潰せなかった。
佐竹は、鬼義重や鬼真柄など、戦闘力が高い。
北関東・長野佐久は、真田、長野、佐野など篭城戦に強い。
北条は、内政力を強化した結果、氏政・氏直の軟弱派の小田原評定で滅んだ。
初期の早雲や氏康は、風間一族の奇襲攻撃が目立つな。
関東平野は、日本最大の平野なんで、平地決戦は兵力差で決まるので、
ほとんど篭城戦。
関東甲信越は、城を包囲して落とす名人がいなかったんで、
豊臣秀吉の一夜城や位攻めで圧倒されて、壊滅した。
上杉や武田は、兵站不足ですぐ本国に引き返したんで、小田原も守れた。
信玄は、徳川の浜松城も落とせてないし。
58 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 18:46:52
関東だと、茨城の佐竹が、東北の伊達とほぼ野戦で互角なんで、強いだろ。
ただ、全国レベルでは、甲信越、三河、九州は、強いな。
59 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 19:19:28
織田家、豊臣家、徳川家、それぞれの大失策
織田家・・・仏教弾圧
豊臣家・・・朝鮮遠征
徳川家・・・鎖国政策
>>55 >朝廷を取り込んだ秀吉に対立するってことは、
>逆賊を意味するってことを理解せずに
>豊臣に滅ぼされたから。
これは必ずしもそうとはいえないよ。
豊臣秀吉は自分の権威を高める為に朝廷を利用しましたが、
戦国大名への外交手段としての利用は控えています。
織田信長でさえ元亀元年に苦労した時、
最後の手段として和議の斡旋を朝廷に渋々依頼しています。
豊臣秀吉としては東国において、
徳川家康に対して軍事的勝利ができなかったため、
北条氏政に対しては完璧な軍事的勝利を欲していました。
そんな秀吉がわざわざ調停工作をする訳がないし、
氏政も軍事衝突が避けられないものと見越していたから、
朝敵とかは考えていませんよ。
でも、秀吉が小田原征伐に失敗したら和議の斡旋を朝廷に依頼するでしょうねw
61 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 19:32:29
>1を無視して質問するけど、
福島正則が酔っぱらった勢いで
家臣を切腹させておいて、
いざシラフに戻ったときに
まるで覚えてないっていう、
キングカワイソスな話は本当?
>>57 佐竹家の場合は利根川の防衛力が大きいよね。
北条家の大軍は利根川を渡河するのに一苦労だったろうし。
あと、宇都宮家の存在も大きいよね。
北条家の矛先はほとんど下野だったしねw
小山家・佐野家・皆川家・壬生家は北条家の軍門に下っちゃったしなw
>>58 伊達自体が強いかどうかはかなり疑問ですが、
佐竹家は宇都宮家・結城家・蘆名家と組んでいますから、
それらを合わせると強いと思いますよ。
北条への降伏案があったはず
武蔵・相模・伊豆を安堵って話
>>63 伊達自体は弱小なのに、宇都宮・結城・蘆名と組まないと対等にならないんじゃ佐竹もあてにはならんな。
鬼亀レスでスマソ
>>33 毛利家
天正十二年十二月…羽柴家と毛利家が縁組し同盟。
上杉家
天正十四年 六月…上杉景勝、豊臣秀吉に謁見。
まあ、これ以前に外交レベルの折衝はあるでしょうがw
>>65 宇都宮家と結城家は対北条同盟。
蘆名家と他(相馬・石川・白河)のは対伊達同盟。
この両方の盟主が佐竹家という感じでw
でも、伊達自体が弱いのは何ら変わりがないがw
68 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 22:58:28
>>64 氏邦や氏照といったような武断派に
強硬に反対されておじゃんになったんだっけ。
まあ最前線で領土拡張に貢献してきたって自負があったんだろうけど、
もう少し氏直や氏規に発言力があったらって気はするけどね。
69 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 00:21:13
確かに、伊達は弱い。政宗は有名だが、東北を制圧できてないしなあ。
東北は遅れていた。東北だと、最上がいちばん強いかな。
佐竹と互角じゃあ、力量も知れてる。動員力も2万位だよな。
70 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 02:04:10
南部と葦名は強かった。ただ戦国の気風が東北に及ぶ頃には
南部も葦名も最盛期は過ぎていたのです・・・
後北条って一族ほとんどにちゃんと「氏」がついててなんか統一感あっていいよね
71 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 03:46:35
>>64 秀吉が22万なんて大軍を動員したもんだから、
全国の兵糧や物資が小田原攻めのため投入されて
インフレを起こしたらしいからですね。
72 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 05:29:26
>>57 鬼真柄・・・
まるで見てきたようなコメント・・・
帰れ厨房!
73 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 06:00:35
>>72 まあまあそう怒らずに。
おそらくゲームと現実の区別がつかない素人の方でしょう。
ん?何がおかしいのかね?
北条家の系図を張ってみる
伊勢新九郎┬氏綱┬氏康┬氏政─氏直
(北条早雲)├氏時├為昌├氏照
├氏広| ├氏邦
| | ├氏規
| | └景虎
| ├氏堯┬氏忠 ?
| | └氏光 ?
| └綱成┬氏繁┬氏舜
| └氏秀└氏勝
└宗哲┬三郎
└氏信─氏隆
※北条綱成
北条氏綱の娘を娶って一門衆。
次いで北条為昌の養子。
76 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 12:24:59
鬼真壁の間違いでした、佐竹の家臣は。
77 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 12:25:33
>>69 > 東北は遅れていた。東北だと、最上がいちばん強いかな。
義守時代は伊達に介入されまくりで一番強い?
上杉景勝(謙信以下)に庄内から叩き出される最上が強い?
どう好意的に解釈しても伊達や佐竹と同程度に弱いと思われ。
79 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 17:13:07
武田信玄が川中島の合戦で弟の信繁を死なせてしまったことが
武田家滅亡の一因。よって信玄の失政。
もし信玄が病没した後に信繁が生きていれば、
毛利家の「両川体制」のように、弟の信廉と一緒に
勝頼を補佐していれば武田家は滅亡しなかったと思う。
80 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 18:36:24
別に死なせたくて死なせたわけではないだろう・・・
81 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 18:37:58
配置や戦を起こしたことが失策の原因かもね
82 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 19:52:47
語るに値しない結果論
83 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 20:13:02
>>62 利根川が現在の流路に付け替えられたのは江戸時代だろが。
戦国時代は現在の隅田川を流れてたので常陸国境の防衛線とは
何の関係も無い。
84 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:27:14
北条の失策といえば、猪俣邦憲。
家臣の不手際は何故起きたのでしょう?主君からの指示はあったの?
85 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:53:26
>>82 失政か善政かは結果からしか判断できません。
86 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 00:12:17
>>79 信繁は戦死だから仕方ないとしても、義信の蟄居と死は信玄の完全な失策。
ついでに言えば、義信が死んでしまった時点で家督相続問題をきちんと
処理しておかなかったことや、織田家との婚姻関係をあやふやにしたまま
だったのも、滅亡の一因になったのかもしれない。
87 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 00:29:12
>>79 信廉ってなにか功績とか残してるの?
信玄の影武者やったり、絵を描いたりはしてたようだけど
兄貴達に比べて影が薄いよな。
肥のゲームでも存在感がなくて、
せいぜい内政やらせる程度の能力値しか与えられてないし。
仮に毛利家のような体制になってたら・・・「両信体制」
語呂悪すぎ。
88 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 04:26:11
信玄って昔リアル消防の頃はすげーって思ってたけど
今は実はたいしたことないんじゃないかと思う
甲州人にいうと殺されかけますが。
逆に評価があがったのが三好とか今川とか・・・・
89 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 09:04:32
>>85 >結果からしか判断できません
>結果からしか判断できません
>結果からしか判断できません
>結果からしか判断できません
だから語るに値しないと言ってるんだ。
90 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 09:16:13
>>88 >甲州人にいうと殺されかけますが
こいつアホか・・・
いい加減、甲州全体=信玄マンセーって考えは捨てろ
>>52 >当時は金山や銀山から得られる収入は大きかったようですよ
謙信は金山掘ってません。高根銀山は上田長尾氏の所有です。
>>53 >実際に山内上杉憲政が越後に逃げ込んでから10年近く経って大軍を率いて小田原城を攻めているし
それって四回目の川中島と、ごっちゃになってません?
1552年に大規模ではありませんが、北条方と上野の沼田城近辺で戦をしています。
間違い、上田銀山を上田長尾氏が所有。高根は金山。スマソ
94 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 04:41:26
>>90 でも甲州て信玄と富士山とワインぐらいしか自慢できるものないじゃん
しかも富士は甲州には日陰になるように立ってるので
駿河人のように陽気に自慢できんし。金山もう無いし。
そろそろ北条家の失策を語るのもあと少しです。
レス101からは長尾家(上杉家)の失策を語って下さいね。
なお、武田家の失策を語るのはまだ先です。
武田家を語りたくてしょうがない人はお行儀よく待っててね。
あと、私の疑問に答えてくれた方々、ありがとうございます。
>>32、
>>48、
>>50、
>>52、
>>53、
>>55、
>>60、
>>62、
>>92が個人的に面白かったです。
ところで
>>83の人が言っていることがよくわからないのですが・・・。
>>95 あの時代はまだ、常陸の方に利根川が無かったので、利根川と常陸は
無関係という事だろ。隅田川は無関係で、別の川だが。
>>95 昔、利根川は東京湾に流れ込んでいた。あんまデカイ川があるとうざいんで、
江戸時代に工事して銚子方面に川筋をかえた。
旧利根川の名残が江戸川。
だったような気がする。キチガイだったらスマソ。
98 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 06:57:13
>>68 氏規は確か氏康の五男か六男だったので、
次男・三男の氏照・氏邦よりも発言力が低かったのは仕方ない。
101 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 11:02:07
上杉謙信は合戦や遠征が多い割りには、あまり領土が増えてない。
実よりも名を取っていたことは分かるけど、家臣にしてみればたまらないだろう。
謙信が家臣の掌握にてこずっていた理由としては、
実入りのない戦ばかりしていたことが原因だと思う。
謙信が領土拡大のための戦をあまりしなかったことこそが
家臣の離反や内応を誘発させた失政ではないだろうか。
102 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:23:54
>>88 禿同。当時12歳の諏訪の姫を側室にして、
14歳で勝頼を産ませたりしてんだから。
単なるロリコン親父って印象が強いですね。
103 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 15:44:03
秀吉への臣従の結果70万石ばかりの越後+佐渡+αから120万石の会津に移された
のは領土が増えてハッピーに思ってたの?それとも先祖伝来の土地を離れて渋々行ったの?
家康主従が三河→関東に行ったときの複雑な心境や織田信雄が故郷の尾張返上を嫌がって
改易されたのはよく聞く話だけど、上杉景勝やその家臣たちはどう思ってたのかな?
104 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 16:19:11
>謙信が家臣の掌握にてこずっていた理由
>家臣の離反や内応を誘発させた失政
気になるな。
しかし、領土的野心のなさが原因というのもどうなんだろう。
たとえば越中は平定後、事実上の領土化と考え得るものではないのか?
あと、繰り返される離反だった1つ、例えば北条(きたじょう)氏なんか、
あれは領土拡大の有無が理由だったのか?と考えるとちと疑問なのだが・・・
どう考えりゃいいのか
誰か詳しい人おらんですか
106 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:20:10
おかげで千葉県が完全に島になってしまった・・・・
陸続きじゃないんだよなぁ
107 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 18:20:51
謙信は実は女の子(マジ学説。根拠は結構ある。死因とか。手紙とか)だったので
上杉が強かったのは美少女だった謙信に萌え萌えで
がんばらにゃならんっておもってたから。
たまに反乱起きるのは「俺をもっとみてくれよ謙信タン」という複雑な気持ち。
でもどうしようもなくなると謙信タンは天照大神のように篭っちゃう。
あと、上杉は出陣前に山海の珍味を配下に配りまくってた(勝どき飯)
コレは謙信の時代に始まったらしいのだが謙信が手料理を配ったのが起源という。
簡単に説明すれば反乱になるけど、実際は盟主が鞍替えをしたが正解。
大熊は上杉の家臣であって、長尾家の家臣ではなく、直江との権力争いに敗れ
自身の地位の確保のために乱を起こした。北条はも裏切った時点では有力協力者
のひとつであり、大熊、長尾政景と盟約を結んでいた。それに呼応しただけ。
間違えやすいが謙信は越後を統一してはおらず、本庄なんかは対等な立場での
盟主であり、その事は川中島の資料を見ると明確に書かれています。
また、隙を見せればすぐにでも攻める気配も出しまくりで、これを防ぐために
芦名の家臣や大宝寺家、伊達家との外交交渉を頻繁に行っています。
その本庄は信玄と共謀して乱を起こしたものの見破られ、仲間であったハズの
阿賀北衆は色部を始め、謙信に心服していたため孤立。
どうにもならなくなり、降伏。
その後は、自分より下だったNO2の色部が重く用いられ、没落し、その事に
かなり懲りたらしく、景勝の代において他家からの誘いがきても絶対に乗る事は
なかったと言います。
あと、領土的野心はあったのですが、国内がボロボロの状態で後を継いだので、
そこまで手が回らなかったのが現実です。
あまり知られてませんが、越後一向宗にかなり手を焼いてたそうです。
もっとも、これは二度の上洛時の本願寺との交渉で和睦して解決できましたけども。
それより一番大変だったのが越中一向宗だったそうです。
大規模な金融経済を敷いていたので和解は絶対に不可能だったそうです。
110 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 22:37:33
>>109 >>あと、領土的野心はあったのですが、
その割には、金山を抱える佐渡には出兵してませんよね?
佐渡が平定されたのは、景勝の代になってからですよ。
111 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 22:43:27
>110
それも秀吉の傘下に入って後にその権威を利用した上で。
謙信時代に佐渡の金山って知られていたの?
113 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 03:21:27
>>105 >>たとえば越中は平定後、事実上の領土化と考え得るものではないのか?
越中を平定したのは晩年だったと思うけど。
それ以前の関東出兵や川中島の合戦は、お世辞にも
実入りがあったとはいえないからねえ。
114 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 03:28:23
>>102 当時は12歳から15歳ぐらいで結婚・出産は珍しくないよ。
なんでも非難するのはダメ!!
115 :
109:2005/09/12(月) 08:39:02
>>110 ちゃんと読めば分かると思うのですが・・・
>国内がボロボロの状態で後を継いだので。
簡単に言えばこれです。
詳しく説明をすれば、これを立て直すために赤字だった貿易の整備、
貿易をするための外交交渉(越前、加賀、近畿周辺)
他国の港から町への安全な輸送路の確保とそのための交渉。(越前から京への輸送等)
街道の整備、輸出品の青礎、上布の管理統制の整備、輸送のための大規模な街道の整備、
人口管理の戸籍の作成、やる事は山のようにあったのですから。
貿易によって財が貯まってきたら金融経済にシフト変換をし、やっと領土拡張が狙える
ようになったわけです。
まあ、金融経済にシフト変換したせいで、利害の対立から一向宗と激戦を繰り広げる事となり、
その後は織田と戦う事を迫られました。
それと、佐渡を治めていた本間氏は上杉に従属の形は取っています(形だけね)
それを攻めたら、豪族達が反旗を翻すのは誰だって分かるものでしょう。
景勝の代では上杉家の家臣も多くなっていたので、本間氏の内輪争いに参加し、
上手くこれを削ぎ取ったのです。
>>112 >謙信時代に佐渡の金山って知られていたの?
弘治・永禄にかけて、つまり1558年近年において、佐渡の金山掘りに使用された
草鞋が庶民の間で高値で取引されてたそうです。これは金掘りに使用した草鞋に
いつの間にか砂金が付着していたため、このように高値で売れていたのだそうです。
中国地方の内情さえ把握して外交交渉をしていた謙信が、国内の事を知らない筈がないでしょう。
>>115 佐渡金山(西三川)は公式には1601年に金脈が発見されたというが?
トリプルボギー
佐渡金山自身のHPにかいてある。
120 :
109:2005/09/12(月) 22:29:58
>>119 佐渡金山には江戸期に採掘された説と、それ以前に採掘された説とがあります。
正直言います。謙信死後はそれ程詳しくありません。ですが、前に書いた記述は
北越軍記に記載されている事項なので、嘘やハッタリといったわけではありません。
私としては、佐渡を天領と定めた徳川の支配をし易くするために、先住民や利権のあった
組織を追い出し、徳川の時代から採掘されたと書き換えられたのではないでしょうか。
新潟の伝承や記録では景勝の代から掘られたと言った記録のが多いですから。
謙信が掘ったとか書かれてる本もありますが、これは完全な間違いでしょう。
あくまで私が調べた上です。
ちょっと確証は持てないです。すみません
>>109>>115 詳細ありがとうございます。
政権の初期と後期では内情にかなりの変化があって、
一見、領土拡張の野心が無い潔癖な御仁のように見える若かりし?頃というのは、
結局、国内ボロボロでそれどころじゃない、つうのが実情ということですね。
外征を支え得る国内の基盤整備の遅れそのものが離反の温床で、
支配権の確立も領土の拡大も、いずれも経済のそれなりの充実をみてからのことだったと。
そういや最後の反乱(本庄)が永禄末年ごろでしたね。
あと大熊あたり、つい謙信の家臣と一括りにしがちだけど、
読んでて定実の譜代だったことを思い出した。
家督相続以前からの問題やしがらみが多過ぎて、にっちもさっちもいかんて感じ。
まぁどの家も似たようなもんではあるのでしょうが。
ただ、知行制の遅れはよく指摘されるところではありますよね。
122 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 22:41:50
>>120 謙信は金山の開発には熱心だったのですか?
91さんは上杉家は金山を所有していなかったと書いてますが、
御館の乱では、景勝が春日山城にあった金1万両によって
勝頼を買収し当主の座を得たと言われてますけど。
どちらが正しいのでしょう。
>>120 え?『北越軍記』にしか書かれていないの?
『北越軍記』を全否定するつもりは無いけど・・・随分大胆だね。
少なくとも上杉による佐渡金山採掘は景勝からでは。
秀吉の委任によるもので。
秀吉は当時、上杉だけでなく全国の金・銀山の公領化、
各大名家へは預けおき、という方針を取っていたらしいし。
謙信の頃だとむしろ上田銀山のイメージのが相当強い。
実際、政景死後は直轄地化したんだったよな?
125 :
109:2005/09/13(火) 00:10:29
>>122 91も漏れですw
金山開発は熱心だったかは微妙です。なにせ佐渡金山と同じく、高根金山の開発も
諸説があって難しいとこなんです。
ただ、最盛期がどちらも景勝の代なので景勝よりは熱心じゃなかったかも???
それとよく間違われますが
上杉軍の収入の中心=金山
じゃありませんので。それは紛れもなく景勝の代になってからです。
御建ての乱、謙信死亡直後の貯蔵金は二万八千両もの大金が貯蔵されていましたが、
これは金山からの収益ではなく、貿易や金融によってもたらされた財貨です。
なので、金融はかなり儲かる事業のために本願寺と対立してたわけです。
後、名前は忘れましたがインド式株も導入してたと地元研究家の論文だったかな?
に書いてあったのを見た記憶があります。
これはちょっと資料がないので本当かどうかは分からないです。まあ伝説って事で。
株式の名前について今度調べとこうと思います。
>>123 北越軍記の件は私も承知してますよw
他の本となると、伝承や出所がハッキリしないので書かなかったんです。
でも、なにも証拠なしで否定を言うのって騙してるみたいで嫌だったので、
有名処の北越軍記で。
これを否定すると、ややこしくなるから嫌なんですよね。肯定もしてないですけど。
上杉の北越軍記、武田の甲陽軍艦否定話しはややこしくなるので禁句ですw
一応、資料がなくて書かなかったのですが、佐渡に伝わる話しを。
1532〜1544年に外山茂右衛門により灰吹法という精錬技術が伝わり、金山の生産量が
十倍近く増大したそうです。
つまり江戸より前に既に開発はされていたって事です。また私鉱山だったとも言われています。
本間氏の所有だった説もあり、どれが正しいのか私は分からないです。
秀吉死後に佐渡に家康が代官派遣して個人的に接収
127 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 03:46:23
上杉は関が原後の恩賞に越後を望んでいたという話を名も無き本で見た気がする。
公式の記録には残らないような話だから、確認できないだろうけど。
景勝にとって、佐渡は美味しそうですね。
128 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 05:16:15
>>127 関ヶ原の合戦は、徳川家康が会津の上杉を征伐するために
出兵したことが原因による合戦です。
130 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 11:13:27
>>127 上杉は関ヶ原の合戦には参加してませんが、
徳川家の東軍ではなく、石田光成が率いる西軍についてる大名なので、
恩賞はもらえません。っていうか合戦後に減封されています。
131 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 11:17:26
>>128 >>130 『もし西軍が勝ったら褒美に越後をくれと三成に言っていた』という意味だと思うんですけど…
132 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 11:39:12
>>127 会津移封後も佐渡は上杉が所有していたの?
確か会津120万石は佐渡分を補填して加増されたと読んだことがあるが。
133 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 12:53:08
佐渡と庄内地方が飛び地になってる歴史地図を見た。
>>132 旧蒲生領九十二万石
庄内 十三万七千石
佐渡 十三万二千石
135 :
寺尾:2005/09/13(火) 20:49:52
134さんへ さどが13万石もある訳が無い。開発が進んだ越後でも4・50万石。謙信の時にハサラニ半分。
136 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 21:47:53
佐渡はせいぜい3万石がいいところでしょう。
金山込み?
138 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 12:05:27
抜きです。
金山込みにすると海産物などの
特産品の話にこじれると思い、入れませんでした。
停滞してきたみたいなんで伺いますが、
謙信の関東出兵とかも失策?
絵に描いたようないたちごっこっぷりなんだけども…
あれは失策でしょう。憲政が小豪族の謙信を頼ってきた時点で終わった。
関東管領、越後守護を殺した戦国でも指折りの極悪人の為景の息子に生まれ、
それだけで汚名を着せられてる状態で跡を継がせられたら断れないよ。負い目があるんだから。
で、律儀に攻めざるを得ない。関東を攻めると敵対していた越中一向宗や武田が立ち上がる。
これじゃどうにもならない。かといって、関東に攻めないと上杉の跡を継いだ意味がなくなり
家臣が離反する。
律儀になり過ぎた。もっと汚く生きれば天下を狙えた。謙信だから仕方ないよ。
そこが魅力でもあるんだが。
141 :
sage:2005/09/15(木) 21:54:05
謙信は律儀、義理堅いというが、どの辺りがそうなの?
兄に謀反はするし、殺す時は殺しているし。
そこらじゅうで合戦ばっかりやってるし。
イメージが先行してやしませんか?
142 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 22:19:32
>>141 >>謙信は律儀、義理堅いというが、どの辺りがそうなの?
関東出兵や川中島の合戦が、謙信に実入りがなかったんで
律儀、義理堅いってイメージがつくんだろ。
まあ越中や能登なんて大した勢力がいない国に、
出兵しなかったってこともあるんだろうが。
>>141 意図的に歪曲した感じの悪い書き込みだね。
>兄に謀反はするし、殺す時は殺しているし
元々は兄の家臣として戦うつもりだった。
しかし兄は病弱で器量も冴えなかった。
そのため、従属を示していた阿賀北衆は反旗を翻し、黒田秀忠は謙信の兄の廉景を
暗殺し兵を挙げ謀反を起こすなど、国内が大きく乱れた。
その後、上杉重臣黒田秀忠を討ち取った事もあり、何度も戦に勝利を収めてきた謙信を
有力豪族や家臣達が従属を示し、盟主の長として担ぎ出し始めた。
それに対して兄の晴景は、謙信に対抗しようと長尾政景や反謙信の豪族達と組み戦おうとした。
しかし上杉定実の仲介で結局は話し合いで終わり、謙信が晴景の養子となり跡を継いだ。
これを謀反とはね(苦笑
それと殺す時は殺してるとは誰の事?
144 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 01:14:58
はいはいキモイキモイ
145 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 03:55:19
一番の失政は後継者をちゃんと決めなかったことだろ。
景勝か影虎のどちらかを、後継者に指名していれば
「御館の乱」も起きずに、能登や越中を失うこともなかったんだから。
>>141 信玄は勝頼に
「私の死後は謙信を頼り、絶対に争うな。信長や氏康は信頼できないが唯一人謙信は信頼できる」
と常々話していたらしいね。
また北条氏康も息子達に
「謙信は一度請け負ったら骨になるまで義理を通す」
と語っていたらしい。
川中島や関東出兵も、謙信に利するところがなかったとはいわないけど大概援軍を求められての出兵でしょ
147 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 15:30:03
>>145 後継問題か…
突然脳溢血(諸説アリ)で倒れて人事不省となったから仕方ないて言えば仕方ないのかもしれないが、謙信が死んだのは49歳だっけ?
この当時人生50年としたら40過ぎたらやっぱり後継者を指名しておくべきだったかね。
148 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 16:11:24
>>145 >>「御館の乱」も起きずに、能登や越中を失うこともなかったんだから。
当時の織田家の勢力から考えて、
能登や越中を守りきれたとは思えないけどな。
149 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 17:48:23
後継者を指名していたとしても、かなり早い段階でしっかりと
処理(もう片方の勢力を大幅に削る等)しとかなければ結局は
謙信の死後、非主流派勢力が非後継者を御輿に担いで反乱起こ
したでしょうね。後継者側は亡き謙信の決定を錦の御旗にする
でしょうが、非後継者側はそれに対抗して中央政権である信長
を後ろ盾にするでしょう。というか、信長が非主流派をそその
かして反乱をおこさせたかもしれませんね。
150 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 18:51:13
仮に景勝か影虎どちらかを後継者として指名しても、
この二人は、人質として謙信の養子になってるようなものだから、
争いは避けられなかったと思われ。
やっぱ謙信の最大の失政は、子供を作らなかったことだろう。
151 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 19:09:33
何故子供を作らなかったかが謎だよな。
姪を大変かわいがっていて、城下町を連れて回って一緒に遊んだり、
景勝には陣中から何回も手紙を出し合い、いろは覚えの覚書をしてあげたり、
後年、景勝が謙信にとても可愛がられていたと家臣に言っていたとの記録もある。
影虎も養子になってから大変かわいがっていた記録も残っている。
子供嫌いだったわけではないんだよな。むしろ子供好きのように思える。
関東への出兵で左腿に矢傷を受け、以後左足が不自由になり先陣に立つ事が
なくなったんだが、一説にはその傷が原因で不能になった説もある。
俺的には女性恐怖症だったような気がするんだが、実際どうだったんだろうな?
一番面白くて好きなのは
>>108の説ですがw
152 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 19:36:11
松山城?が北条・武田連合軍に包囲された時だっけ?
援軍に間に合わず城が開城された事を聞いた時に激怒して
城将上杉憲勝から人質に取っていた、憲勝の子供の髻を掴み上げ
一刀のもとに斬り殺したって話とか、有名な八幡宮の成田侮辱事件とか
どうも気の短さで損をするようなタイプだな。
153 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 21:09:18
最も現実的なのは、やはり先天的に(または若い時点で後天的に)不能
だったんでしょうな。種なしカボチャ。
154 :
上条政繁:2005/09/17(土) 22:25:01
僕も養子・・・
では、
天下を取るため、あるい最大領土を得るためには
どういう戦略を採れば良かったんだろう。
やはり、西に向かうのか。
1と同じくらい馬鹿っぽいレスしている香具師って、同一人物?
謙信女の子説はどうなのよ?どうなのよ!!
158 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 06:37:02
>>155 関東に出兵せずに西に向かうことと、
越相同盟が解消されたときに影虎を斬るか、
北条に送り返すかするべきだったと思う。
159 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 17:10:41
>>154 貴殿に能登・加賀をまかせりゃ良かったのにね。(越中は河田長親か?)
でも政繁公は実家も再興したし、諸大名から尊敬されたし、
99歳まで長生きできたし、子孫は高家2家(上杉・畠山)になれて
少なくとも織田4家より家格が上だから織田家に勝ったとも言える。
160 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 15:07:49
上杉では天下を取るのはどうやっても不可能でしょ。
織田ですら、清洲ー岐阜ー安土と居城を少しづつ京都に近づけているのに、
越後の上杉にどないせいと・・・。
それに関して失策と言われても困るんじゃないか?
勢力拡大に明らかな足かせとなったのは
・無駄に多い戦(家臣の掌握不足や潰し不足を含む) ・後継者問題
能力はともかく、性格的にリーダーとして足りないところがあるとしか思えない。
161 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 15:54:48
>>性格的にリーダーとして足りないところがあるとしか思えない。
リーダーとしての素質はあったよ。
上杉家ってのは、謙信を中心にしてまとまっていたから。
ただ謙信は信長や氏康とは違い、国人衆を家臣として取り込めてなかった。
結局、上杉家は中世的な国人衆や豪族の寄り合い所帯を
解消できなかったことが、御館の乱の一因ってことだな。
>>越後の上杉にどないせいと・・・。
船による上洛をしているので問題ないかと。朝倉と同盟もしていましたしね。
海路がダメになると陸路確保のため、越中に侵攻したりしています。
問題は関東に手をだしながら越中攻めだった事ではないでしょうか。
163 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 09:07:28
謙信も船に乗っちゃただの人
164 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 15:46:51
>>162 1575年を最後に謙信は関東から手を引いている。
軍神も船に乗っちゃただの人
>>164 もう一度関東出兵しようとして死にましたけどね。
166 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 07:06:35
>>161 じゃあ、信長がもし上杉家臣団の当主だったら、あんな甘っちょろいお裁きばかりしただろうか?
まとめ上げるか、自分が死ぬかの掌握術を施したと思うが。
>>166 出が違うからな。信長はいいとこの坊ちゃん。
謙信は薄汚いドブネズミの子。立場が違えば人も変わる
168 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 20:25:17
今までのレスを読んで、
御館の乱自体、上杉家にとって悪いことだったのか?
反乱分子の粛清、一大名化(豊臣家への従属)という意味で良かった気がするのですが?
169 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 20:32:57
>>168 それは結果論にすぎないと思いますが。
実際、「御館の乱」の最中にせっかく謙信が
晩年に手に入れた能登・越中と簡単に失ってますから。
あと本能寺の変があと数ヶ月遅かったら
上杉家は確実に滅んでいたといわれてます。
>結局、上杉家は中世的な国人衆や豪族の寄り合い所帯を解消できなかった
やっぱ謙信はこれなのかな
解消すべく頑張ってたとは思うが道半ばでアボン→→御館
本能寺はまったく絶妙のタイミングだ
結果、一部しぶとい戦国領主を残しつつも着実に家臣団統制、権力強化
171 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 07:17:01
>>170 ライバルの信玄も解消できなかったからな。
それで1582年に織田家が、武田領内に進攻した際
裏切りや離反が相次ぎ、殆んど合戦らしい合戦も行われず
あっさり滅んだからな。
解消できなかった原因はなんでしょう。
田舎で守旧派が多かったとか
謙信自体がその必要性を強く認識していなかったとかでしょうか。
173 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 21:18:47
>>172 解消するためにはやらなきゃならないことが
腐るほどあるからですよ。
1.金山・商業都市を押さえ、他の国人よりも経済的に優位に立つ。
2.朝廷・幕府に献金し、官位等を得なくてはならない(珀をつけるため)
3.支配地全ての検地を行い、人口・石高を調査する。
4.領民に自分達の支配者は、上杉家だと認識させる。
5.国人や地侍を城下町に住まわせなくてはならない(国人と領民の繋がりを弱めるため)
最低でもこの5つをやらないとならないですからね。
国人の反発は必至だし、莫大な金が必要になりますからね。
174 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 22:26:04
じゃあ尾張は国人衆は少なかったの?
答えはイイエだよね。
そう考えると、信長のマクロな政治手腕は信玄とは比較できないほど凄かったと言う事か。
それと、国人衆の中でも上位だった平手が死んで勢力が強くならなかったのは良かったんだね(結果論だけど)。
175 :
日本@名無史さん:2005/09/23(金) 22:33:25
なにより尾張織田家は、港のおかげで大金持ちだったからな。
土地に依存する割合が低かったのがラッキー。
176 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 01:23:31
>>173 謙信は1と2は出来たけど、
3以降は出来なかったということですね。
氏康は3と4は出来たけど、
それ以外は出来なかったってことか。
ってことは謙信もやろうと思えば出来たんじゃないかな?
もちろん粛清なども行わなければならず、
国内が混乱するリスクはあるけど。
1は重商業地帯を形成したのでOK。金山は掘らなかったが。
2は逆臣長尾家には絶対必要だった。かなり切実に乗り越えた難題
3の検地は石高はしていないが、難民を受け入れるための人口調査と戸籍作成をしていたので半分OK
4は直轄地にはしていた。家臣の支配下や阿賀北には手を出さなかったが、心服させてクリアー。
ただ、神と崇められた謙信が死ぬと意味なかったのが最大の欠点。失策とも言える
5人質を城下町に住まわせていたので問題ない。
やっぱ解消できなかったのは領土拡大化しなかったからでは?
過去レス見る限り無理だったみたいだが。
178 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 14:34:13
>>3の検地は石高はしていないが、難民を受け入れるための人口調査と戸籍作成をしていたので半分OK
信長も氏康も石高や財力をもとにして、
家臣の軍役や賦役を決めていたことを考えると
国人衆の石高を正確に知ることが出来なかったから落第点じゃなかな。
>>5人質を城下町に住まわせていたので問題ない。
人質を城下町に住ませていたといっても、
せいぜい国人や有力領主の妻子だけだからな。
やるなら信長のように、国人衆や有力領主はもちろん
地侍にいたるまでやらないと効果は薄い。
それに国人・有力領主の妻子を人質にとるのは、信長や氏康はもちろん
越前の朝倉氏などもやってる。
179 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 17:58:40
越後の国人衆(特に揚北)は独立性が強かったんだってね。
180 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:15:39
謙信は初めから上洛なんて考えずにまず関東だけに狙いを定めていたら、もうちょっと変わってたかなぁ?
181 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 20:25:47
>>180 上洛して足利義輝に謁見しなければ、
関東出兵の大義名分は得られないでしょ。
182 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:10:04
>>181 いやいやその後ね。関東管領就任後、越中とかに手出さずに関東に本腰入れてたらどうだったかなってこと
>>182 そうなると、三国峠だの山々が障害になるな。
越後から関東を治めるとなるとキツイよ。
本拠地でも移動しないと・・・
184 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 21:22:29
>>183 もちろん本腰入れるとすれば三国峠の先に本拠地も移したでしょう。沼田城でも厩橋城でも。
そうすると問題は武田信玄か…
武田と婚姻でも結べばよかったのにな。信玄なら謙信を信用するだろうから
できない事はないだろうから。
まあ、まず無理だろうけどさ
186 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:11:33
まとめてみると謙信の場合、邪淫戒や形骸化した関東管領としての職務など、変なことに拘ってたってことが失策なのかな。
そしてそれらは謙信にとって犯してはならないもの。それが失策に繋がったとしても彼にしたら失策ではなかったんじゃないかな
187 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:49:14
謙信には領土拡張意識が本質的になかったんだろうな。
当時の越後は恵まれた地域だったせいかな。
関東にしても信濃にしても、みんな頼られた案件だし。
188 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 20:41:20
>>187 しかし、晩年には越中、能登と足を伸ばしている。
最後には今日を目指し、領土を拡大しようとしたのは明らかじゃないの?
189 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 21:50:14
謙信が関東の城取っても、冬の間北条に取り返されるよね。
同じ北陸か東北に攻めればいいのにね。
強敵に囲まれて身動き取れない武田に比べれば
効率よく勢力広げられたかもしれんね。
191 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 04:54:09
>>188 越中能登に進出して上洛を目指したのは、
信長に蔑ろにされていた足利義昭を奉戴するために呼び掛けられての行動でしょう。
結局彼は関東管領や将軍とか、その当時すでに何の力も持たない古い権威や、
自分の人格の核となった厳格な仏教思想によって
自らを縛り付けてしまったんだね。
そして仏の教えを頑なに守ろうとしつつも、
自分は血で血を洗う戦国の世の武将であるという矛盾に苦しみながらも
『上杉謙信』
という特異な存在になっていったんだね。
もしかしたら本当は思い描いているのとは違う人物像なのかもしれない。
でもあの狂った時代に
ただ一人誠実でいよう、真っ直ぐでいようと
もがいてもがいて
便所で倒れた彼のことが僕は大好きだ
長文ゴメン
ファンとしては便所で倒れたのは失策だ。鎧を着て戦陣で死んで欲しかった
193 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 10:17:26
さすがに便所で倒れたのは本人もこっ恥ずかしかっただろうなぁ…
便所で脳溢血て、ようするに力んだら血管切れちゃったみたいなことでしょ?
確か倒れてもオシッコはピューッて出っぱなしなんだよね…彼にとって人生最大の失策かもしれんな
寒い地方だと年寄りが一番死ぬ場所が寒い便所らしいな。
力むから温度差とその拍子に死ぬとか。しかしまだ50超えてないのにな
195 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:41:19
>>194 風呂じゃないの?内と外の温度差で心筋梗塞でポックリいくんじゃないの。
196 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 17:49:29
>>194 謙信は酒豪で有名だからね。馬上で呑むための杯も現存してる。
しかも大好きな肴が『梅干し』。高血圧は必至だな…
>>196 酒の肴は塩だけで満足したらしい。本物の酒好きだよな
謙信の挙動不審つーか、カンシャクはアル中も入ってたんじゃ?
198 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:05:45
>>197 本物の酒好きは味噌を肴にするっていうけど。
199 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:38:51
じゃあまとめ。
『上杉家の失策は高血圧』てことで。
それでは以降、武田家の失策について宜しくおながいします↓
200 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:52:08
200ゲット
201 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:58:02
義信あぼん
202 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 21:05:29
越後狙い杉
越後は狙ってなかったと思うが・・・
204 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 21:47:43
甲相駿同盟を結んだ結果、武田は信濃にしか領土を広められなかった…のかな。
その先に越後が見えていたのかどうかはわからないけど
205 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 22:46:26
重税かけ杉
206 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 23:18:58
軍役や賦役もきつ杉だったらしいしな。
やっぱり一番の失敗は、上杉と争った事だろ
北信濃を放棄すれば、あんな泥沼の戦争する必要もなくなることだし
重臣殺し杉
209 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 01:38:54
頼朝に膝を屈した時点で源氏の負け組。
210 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 04:19:43
武田っていえば嫡男・義信を切腹に追いやったってのがあるけど、義信てどんな人物だったんかな…。
甲陽軍鑑には『利口すぎる大将(ずる賢いって意味もあるらしいが)』の例えに武田義信が挙げられてるらしいが。
ちなみに『強すぎる大将』には武田勝頼、『臆病な大将』に上杉憲政だったかな
211 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 23:48:02
武田も西に領土を増やし続けたら甲斐から出たかな?
多分出ないだろうね。
重税、圧制で領民に恨まれていたので無理だと思われ。
意外と一揆は多い。民の流失もかなり多い。甲斐はかなり大事に扱われていたがな
213 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 10:33:49
なぁんだ、武田家(信玄?)は圧政で領民を苦しめてたのか。
『人は石垣、人は城、情けは…』の文句からして結構領民思いなのかと勝手に想像してた…
214 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 12:22:43
武田の場合も親戚を優遇しすぎたのは失策か?
木曾氏や甲斐の国人衆を家臣団にまで編成できていれば、
勝頼の代ももう少しもって、本能寺⇒ウマーになったかね?
215 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 12:43:20
義信は謀反が発覚して切腹したんだね。
父・信玄と意見の違いで衝突してしまうことも増えてきて、
飯富虎昌ら近臣と信玄を討つ計画を立てたが露見。
東光寺で切腹と…
これには家臣同士の対立も絡んでるとの説もあり、
陽の当たらない者達が義信を取り巻いて表舞台に出ようとしたとも。
信玄はそんな家臣達から遠ざけ、
頭を冷やす意味で東光寺に幽閉したが、
義信は自らの死をもって決着をつけてしまった。
216 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 12:55:34
>>215 家康も嫡男の信康を切腹させたのは
信康が岡崎衆などと不穏な動きをしてたかららしい。
217 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 13:05:29
>>216 もしよろしければソースをお願いしたい。
だめ。っていうか、別に必要ないでしょ。
219 :
218:2005/09/29(木) 20:21:15
だって脳内妄想だから。ごめんね
220 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 20:34:59
>>217 もっとも武田家は「人」そのものがグダグダだったわけだが。
222 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 00:32:09
武田信虎は息子に駿河に追いやられた訳ですが、
具体的に甲斐でどんな酷いことしたの?
妊婦の腹を裂いて胎児を見たってのは聞いたけど…
あれ?豊臣秀次とごっちゃになってっかな…?
悪政を敷いていたとあるよな。領内が安定していないのに信濃侵攻までしたりとか。
まあ、信玄も悪政したりでこの親にしてこの子ありだな。
224 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 09:24:00
やっぱり合戦しまくって領民を圧迫したってことか…
しかし、このスレ武田家で300までもつかね?
他の武田家もありか?真里谷とか。
>>224 十分持つでしょ。信玄だけでもかなりあるし、勝頼も含めたら100なんてあっとゆう間。
信玄の失策と言えば、信濃攻略時における略奪と強制労働と人身売買だの、
弱小小笠原を後回しにして村上義清を同時攻略して連合組まれて大敗した所が大きいよな。
二度も大敗をして、高梨、甘利、板垣、名だたる重臣を死なせ甚大な被害を出したしな。
大敗によって寝返る勢力も出てきて平定に二年もロスしたからな。
無理な力攻めをし過ぎ。慎重な信玄にしてはあきらかにおかしい。
それと対長野は失策かな?六度も負けて一度くらい勝てよって感じだな。
真田幸隆みたいに、どうしても村上義清に勝てないなら智謀で城を落とすとかさ。やりようはあっただろと。
でも、なんだかんだ言って一番の失策は信濃に悪政を敷いた事だろ。
そのため滅ぶ時は領民まで裏切って一気にだったもんな。
226 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 11:27:21
なるほどねぇ…
対長野って長野業正?
あれは村上義清とは別格だったんじゃない?
やっぱり甲斐武田家滅亡は信虎、晴信と続いた圧政で溜まりに溜まったものが
勝頼の代の信長の大討ち込みで一気に噴出したってことか
227 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 09:52:18
武田は250までにしね?
何で死なねばならんの?
酷すぎない?
229 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 15:10:39
じゃあ三河進攻について。
大失敗
230 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 22:23:52
駿河侵攻も大失敗。
氏康が急死しなければ、確実に信玄の代で滅んだ。
>>229 元々が病弱&瀕死の状態なのに三河侵攻したのは確実に失策なんだが、
最後に華を持てたので成功。実力以上の評価を得られる事になったから。
武田滅亡は勝頼云々じゃなく信玄が原因だろ
家康は凡庸な秀忠を上手く将軍に仕立て上げたが
信玄なんかたかが甲斐、信濃、駿河程度治める基礎も作れず
中途半端に上洛しようとして災いの種まいたにすぎない
武田の国力と跡継ぎに期待もできないなら織田に従属すりゃよかったんだよ
あとは頃合いみて徳川に鞍替えすりゃ九州か東北あたりに大封得て生き残れただろう
武田の実力じゃそれが一番妥当だ
だったら勝頼がそれすりゃいいじゃん。
馬鹿?
233 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 01:52:31
>>232 信玄は家康や元就のように
自分の後継者を調教・教育できなかったことを
言ってるんだろう。
>>232 勝頼にそれが出来るぐらいだったら武田は滅んでないよ
跡継ぎが駄目なら自分が生きてるうちに跡譲って後見人になり
道を示して家臣達を上手く新しい当主の下で纏めていくのが道理であろう
たった一代先すら見通せないようでは所詮三流だと言う事だ
じゃあ自分の将来も見通せなかった信長は糞だね。
秀吉も・・・
あ、家康って天才?
>>234 仮に勝頼が信勝に家督を譲って後見人になったとしても、
家臣たちを纏めていく程の権威があったかどうかさえ怪しい。
下手すれば勝頼は失脚させれるかもしれないし。
長野業政と互角に戦った義信は優秀だったと思う。
義信さえ殺さなければ、武田が滅ぶ事はあり得なかったように思える。
悪名を背負って、息子のために犠牲になれば、虐殺されたり奴隷にされた
志賀城の民や信濃の民もなついただろうにさ・・・
戦のうまい下手と、経営力は別だからなぁ…
239 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 06:51:41
>>235 信長も信忠に家督を譲ってなかったっけ?
240 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:13:21
241 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 00:19:49
鉄砲に対する認識が遅れてたみたいのは俗説として否定され始めたけど、
火薬や鉄砲が近畿に比べて入手が困難だったのは事実だろう。その癖金山
や銀山は持ってるし、漆や絹のような工芸品もある。近畿に大きな勢力が
出来たら、織田氏じゃなくても武田は滅ぼされた気がする。
242 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 00:22:25
仮に滅亡を免れたとしても
独立した勢力として存在するのは無理だろう。
謙信は七尾攻めの時に鉄砲の威力に驚いたらしいからな。
中部地方にはあまり鉄砲はなかったのかな。
鉄砲を知らなかったってより、大量に使われてのに驚いたんだろう。最終
的に勝ってるし、それより地侍・土豪集団だと戦力を一点に集中できない点
の方が辛かったんじゃない。信長なんて明らかに京を占領し、維持すると言う
戦略が一貫している。信玄も謙信も周囲と争ってばかりで戦略が無い。
245 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:34:17
信長は、信玄、謙信にそうとう遠慮して神経すり減らしているよね。
勝頼が頭下げても、信長が受け入れるはずはない。
秋山と信長の叔母は、降参した後殺したし、そんなに甘くない。
246 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 00:01:07
家をつぶしたことが失策なら上杉は失策などしていない。
>>245 いや、無駄な争いをしなくて済むなら、無駄に兵力も財力も減らす事もなく、
許した可能性は高いと思う。武田を倒すのは簡単にはいかないだろうし。
ただ勢力は削り、人質を取り、監視下に置き、こき使うんじゃないかと。
248 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 21:55:51
>>247 長篠の合戦直後なら割と好条件で
信長に臣従を認めてもらえると思う。
もちろん西上野・遠江・駿河は没収されるけどな。
249 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 22:22:29
でも結局武田家の最大の失敗は勝頼が上杉景勝に肩入れしたことでしょ?
景虎と組んでおけば北条、上杉、武田の連合が出来上がって織田も容易には手出しできなかった筈。
上杉が自分のものになると欲が出たか、昔武田家に養子にきていた景虎とウマがあわなかったのか。
景虎は操り人形、もしくは家臣同士の権力争いの御輿程度の存在だと踏んだんしょ。
信玄ならその隙を突いたんだろうがなー。惜しい事だ
北条、上杉、武田の連合って言ったてそんな強固なもんになるとは思えない。
家康が25年信長と同盟してただけで律儀者と評価されるんだから、戦国乱世
では裏切りなんて当たり前だよ。まあ史実道理武田・上杉・北条と各個交渉・
撃破になるのが落ちだろう。
252 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 15:24:07
>>247-248 毛利の小早川は柔軟な外交が出来るけど、武田にうまく立ち回る人物はいない。
実際長篠の合戦の後も、無理に徳川に攻めていたよね。
>>252 あれは仕方ない面もある。
負けたまま動かなかったら家臣の離脱必至。
健在をアピールする必要があった、外交的にも。
254 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 21:54:45
>>253 そのせいで軍役がきつくなり、
織田や徳川に次々と内応者が出た。
正直、勝頼後を語っても仕方がない気が。
もっと「信玄があそこでアレをやっていれば…」的なのはないの?
謙信との血みどろの抗争とお家騒動に集約するんで面白くない。でも良く
考えたら家康討ち取ってたら歴史は大きく変わってたわな。
家康を討ち取るとなれば三方ケ原後の浜松篭城戦になるわけだが、
浜松城というのがどうだったか不勉強のため知らないが、
この城は地理的に武田を仮想敵とした守備が念頭にあったこと。
初めは篭城予定だったことから相当堅固にしていた思われること。
以上から、落城は簡単ではなかったと思う。
しかも信玄は小田原ですぐ息があがった前歴があるし、
今回は病気もあったから家康討ち取りはやはり無理じゃないかな。
258 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 17:35:01
『家康が浜松城の門を開けていたため、武田は追撃しなかった』
というのは中国の故事に倣った嘘なんですね?
259 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 18:22:20
『空城の計』てやつですか
あれは家康英雄伝説だろ?脱糞して失禁してた奴が城門全開にして『空城の計』
を部下に示して自分は湯漬けを喰った後、堂々とグーグー寝るなんて出来る訳がな
い。家康の本領は狸親父って言われる程の図太い外交とケチと言われる程の
経済感覚、江戸が将来発展すると見抜く先見性、そしてそれらを確実に一つ一つ
行う粘り強さだろう。
261 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 01:39:35
/:: ヽ, l ,、 _ / /__| || |
/:: 、,ー、从|l/彡--- 、_ /. / ̄ ̄
|//::: ゙'>|W|彡;;;;、-ー'''、;;;)ヽ,  ̄/ / ̄/ / __ __ _
/'" ,,r'"'"゙'ー-ー'' ´ ノ'";;;゙'、 /_/ / / / // // /
/:: ,;/ " u ,''彡:: ;;;', / / `´ `´/ /
/ /〉 、,,_ ,、-ー' ' 彡彡,,;;;;l  ̄ / /
/ { `'' 、二r'´,,、、 ノ 彡彡r-、;} /``` ''''' ー 、  ̄
: / j(`'i, l" ,,ノ_,、 ,、- ハ''/rヽリ '´,,,二'' /|~' 、
/ _,,. /,'=ミj {ミ{ィ'。'ヽ, ',、- /::}リb//}~'' 、 ノVヽ /. | _
/,,,、-''" 〈 ::::/ }'''〉}⌒´'´ /:::::リ-'/ j| |〉 z' `´ `´ |
,、-彡∠,、、-ー― 、,彡'-::l_,,、-'ィ{、,, ,、 '´::::: j''´/ | |. |
,,、 '´ '''' 、::'''彡 `゙'イ゙;/:ャ--ィtz、::::::'彡,、'"ノ/::::::::::::ノ |. |
r´ :::うヽ:: 彡" 彡ヽ;マ i⌒´}::::::/ /::::::::;、 '´ _|ヽ| あ .|
{ン二,,/ ´ ,,彡彡''" ..::: :::::/'"V'、'、,r/::::/ /::::;、 '"_,, 、-| い |
{ ゙ ,、-'' ,、 ' :::::;;;///'゙i::゙ニ、::'",r,'":::/:::: _,,, 、-| と .|
t`'''ー '''''´ ,、 '''´::::::::/ ゙''-=- ''´/:/:::::,、 ''´ `ヽ、|. わ |
>>260
信玄は長野に一度空城の計でこてんぱんにやられてるからな。
その情報が伝わっていたのなら、やった可能性もありそうだな
263 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 21:44:21
>>262 何処?
そう考えると信玄って負けが多いよね。
決して戦上手とも外交上手ともいえない気が・・・。
でも軍神のようにあがめられている。不思議だ。
>>263 雉郷城
空城の計とは違い被害の多い結末だが・・・
信玄は長野の部下にさえ負けてんだよなー。でもいいじゃん軍神で。
そのほうが面白いしさ
やっぱりそれだけ徳川の煽りが大きいんだろ
でもこの時代にかなり負けてもしぶとく残っているんだから
ある意味凄いっちゃ凄いかもな
266 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 22:53:51
>>265 徳川の旗本に旧武田系の武将が多かったから江戸時代に信玄神格化が進んだのかもね。
「信玄の遺徳を継ぐ甲州武士を多く抱える徳川家は最強」みたいなイメージもできるから
幕府にとっても悪くない。
山梨とか長野行くと信玄の隠し湯みたいのあるけど、軍事的にどれ位効果
あったんだろうか?まあ衛生的な軍隊の方が強いのは分かるけど。また隠し
金山なんかも有名だけどどの程度収入があったんだろう。甲州金貨ってどの
位信用度あったんだろう。
268 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 02:13:07
隠し金山って江戸時代の都市伝説でしょ?
上での長篠後の情勢でてるけど
その前後の高天神城落とすまでは勝ててたから勝頼もいけいけだったんだ
勝頼の年齢を考えたときに戦略、治世をみれば
凡将ではない
偉大な信玄の影が多すぎて家臣が瓦解したというべきか
長篠の大敗した勝頼と家康が信玄に初といっていいほどの負け戦したのが同じ30歳のとき
長篠後も素早く上杉と同盟するなど手をうっているんだが
ただ情勢的にも内部的にも厳しかったなー
上杉北条は侵攻してこないだけで反目だし独力で都めざした信玄にやはり因があるか?
勝頼には独眼竜くらいの器量はあったとおもう
武田滅亡した1582年と信長が死んだのが同年というのが感傷の救いか
信長が勝頼に降伏文を送ってるのだが
その時の情勢が浅井朝倉滅亡、本願寺降伏、四国も三好つかって目途もたち
上杉の侵攻軍も加賀で停滞、中国も攻略開始
約定には信濃、甲斐の領国安堵
信玄という武将と対織田の急先鋒という意識、北条上杉という大国
がなければ家康と同格待遇で降伏もできたんだろうけどね
今川義元亡き後、8年かかって信玄は嫡男を排除し甲駿相同盟を破棄し
駿府を獲得してるが、これは失策?
失策とすれば、どのような外交戦略がベストなんだろう。
272 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 19:18:26
>>271 8年はかかりすぎたねぇ。
太原雪斎が死んだ頃から何とかしておけばよかったんじゃないかね
義元討ち死に直後に雪崩れ込んで
駿河から三河、尾張と一気に征すれば天下は目前だったろうけど
背後の長尾と北条を抑える手立てが思い付かなかったからどうしようもない
北条は利害で多少釣れそうだが、越後のアレは…
越後のあの方は騙されやすいからそこを利用できるかも
感情的な部分や将軍を上手く使うというのが鍵になるね
信玄は天下を取るなんて事は考えたことなかったんじゃないかな。
>>275 ぶっちゃけそうかもね。
甲斐国の周りにいた奴らはすごいのばっかりだし
277 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 04:08:09
信虎の失策はないの?
278 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 04:19:38
>>276 オレやキミが山梨県丸ごと貰ったとして
「よーし、天下取るぞ」
と考える時点でちょっと殿様御乱心、だと思う。
だからこそ、信長は異常・異能の人なんだけどwww
279 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 06:12:06
信長は港持ってたからなー。港の経済効果は凄まじいからなー
280 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 13:35:06
港も持っていない大名を武田以外に挙げてみよ。
葦名とか鬱飲み屋は持ってなさそう
282 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 21:13:04
六角、筒井、信濃の大名全部
283 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 22:00:26
284 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 07:45:57
港の有無と金山の有無を考えたら、そんなものに差は無い。
それよりも、山間部独特の食糧難が領国安定や豪族の質に影響を与えたと思われるから、
甲斐自体も限界だったんだろうなぁと思う。
勝頼は多分家康を生涯格下に見てたと思うけど、後世からみると
信玄没後すぐに徳川と和睦するのが案外いい戦略なんじゃないかな。
286 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 22:04:31
父親にぺんぺんに負けた、ウンコ漏らした奴と同盟するような負け犬は
当主とは認められません。
やっぱ最大の難関はプライドか…
信玄のもうろく爺が織田徳川を中途半端につっ突いたのが悪かった
289 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 06:32:18
つうか信虎が悪政敷いて侵攻しまくって暴君とかボロクソいわれているが何故、謙信は
暴君といわれないのだろうか・・・?
あんま変らんような
しいていえば義があったことぐらいだが・・・
290 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 07:54:33
>289
謙信はアーティスティックだったから暴君とは言われない。
291 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 10:44:53
信玄の失策は嫡男を殺したこと。
292 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 19:17:38
>>289 信玄を正当化するための口実。信玄が義信に追い出されてたら信玄も暴君
実際暴君だったが
戦いに負けたら「悪」になるのは歴史が証明しています
だから滅んだら終わりなんです。「善」であるためには勝つか
寄らば大樹の陰で強いやつに付く事なんです
その点で言えば真田幸村はたいしたもんだな
296 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 22:34:06
源氏の血が、内ケバと際限無いプライドを呼び覚ますのさ。
297 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 04:40:27
そろそろまとめますか?
俺としては、義信を殺したのが失策
299 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 12:49:30
源氏の血統
甲斐という土地柄
信虎、信玄、勝頼、全て優秀さが『中途半端』
武田家終了。
301 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 16:18:10
以降、今川家でおながいします。
…そもそも義元て『東海一の弓取り』とか言われるほど優秀だったんですかね。
やはり戦国時代の今川家は太原雪斎が全てだったような気がするお
(;^ω^)
302 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 16:40:27
後半は朝比奈が頑張ってたよな
駿河は甲斐や越後なんかよりは豊かな土地だよな。
文化レベルも高かったみたいだし。
北と東には山があり、西は領国化した遠江だし、南は海だし。
確か楽市楽座を採用して商業的にも発展してたんだよな。
いい環境なんだけどね。尾張伊勢美濃を取れれば確実に天下取れただろ。
本当に桶狭間は痛恨の極み。結局麻呂遺伝子には勝てなかったわけだ。
304 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 00:24:57
桶狭間に負けなければ?
所詮、駿河の穴熊、京都行って、戻って。
大内義興と同レベルで終了。
そういえば将軍家にはどの程度の忠誠だったのかな?
義元が討ち取られたのに、氏真や家臣団はなぜ織田に再侵攻しなかったんだろ
306 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 01:46:11
>>304 仮に桶狭間で負けずに
尾張を今川が支配すれば、
100万石以上の大大名になってたはず。
しかも三国同盟で後ろの安全は確保していたから、
大内義興のようにはならんジャマイカ?
307 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 03:44:53
武将、加藤清政最高!
308 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 03:50:00
北条の独立と台頭を許しちまったのが痛いね。
北条家にとって氏綱の時代位まで、御館様と言うのは今川家当主の事だった。
東の守りが油断ならない大国化したのはいかにも痛い。
関東の上杉さんとガチンコ勝負しなくてもいいってメリットもあったかもしれんけどね。
山内さんならまだしも長尾さんの代になるとしゃれにならんし。
310 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 06:11:13
>>304 >そういえば将軍家にはどの程度の忠誠だったのかな?
義輝、義昭がいっちゃえば自分が将軍になれた家だけに
311 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 12:17:20
桶狭間に勝っても、三河同様の傀儡政権下するだけだと思うんだよね。
城代+織田某の組み合わせじゃ、その先の美濃まで行けないだろうし。
後継者も戦嫌いだから大内と一緒で、どうせ内部崩壊して終わりだったと思うよ。
今川家は頑張った方じゃない
312 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 23:55:01
>>309 志村〜逆〜逆〜
北条の台頭まで扇谷・山内の両上杉は争ってる訳だし、両上杉共に箱根を越える余裕は無い。
1548年で上杉が壊滅した事によって、北条VS長尾の時代が来た。
古河公方も居るし、北条さえ居なければ混沌としてただろう。
北条がいなけりゃ武田にとられてたに決まってら。
北条独立はコストパフォーマンスから考えて良策。
今川的には武田を潰すべきだったんじゃないか
長尾、北条と組んで三方から同時進攻すれば潰せただろう
北条は関東支配が当面の目標だからそのまま切り取りを任せて
長尾は上杉が逃げ込む前に先手を打って将軍家から
奥州とか北陸あたりの役職を任じさせれば北条との衝突も抑えられた
その間今川は尾張から岐阜、近江へと進攻して天下を望む地盤を固めて…
夢物語だな('A`)
>>314 あんな日陰の貧しい国は要らないだろ。野蛮人てんこもりだし。
やっぱり今川様は雅でなきゃな。京へ…京へ…。
316 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 04:49:03
義元は信長に負けただけで、何の実績があるの?
ブタで、大軍なのに討ち死にして、駄目息子で家が滅んだのは竜造寺と似てる。
317 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 06:03:12
>>316 意外と義元の評価は高いよ。
内政面でも国法や家法を定めたり、
遠江や三河とかも傘下に治めたりしてるし。
318 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 12:15:58
義元は参謀が居なくなって駄目になったという事は、
太原も義元もやはりその程度ということでしょう。
しかし、その後の家康の統治を見ても、
駿河や遠江は優良な土地ではあったから、義元も氏真も無能ではない。
今更だが
義元はあのまま上洛しようとしてたの?
上洛する為の布石として尾張進攻したんじゃなくて?
今川の遠江は武田の信濃ほど苛烈な支配をされたという印象はないな。
衛星写真とか見てると武田って結構無理して領土拡大してるのが分かる。
今川は何となく無難に領土拡大してる。確かに東西に長いけど
地形的にそんなに無理はない。
ちなみに長尾上杉の関東遠征は正気の沙汰とは思えない。
北条は広い関東平野をメインに攻略してる。
織田は本国と機内が危うい。でもその中心の安土に城を建てたのは見事。
321 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 13:25:45
今川義元の衆道相手で最も有名なのは誰ですか?
322 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 14:01:13
323 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 00:38:00
詳しくないんだけど、氏真と義元の親子関係は明白なの?
ゲームの今川は「織田は成長しやすいように」といういらん配慮のおかげで
大抵雑魚にされてる・・・
烈風伝なんかOPで今川義元イベント死(今川選べば回避かのう)
殺された相手が後世の英雄だと辛いな、後世に信長に殺された奴として
永遠に残ってしまう。
西の陶、東の今川
カマセ犬の2大巨頭ってかんじだ。
迂闊に歴史に名を残すと恐ろしいにゃー
まぁカマセにもなれなかった奴もいるわけで
それなりに勢力があった点は評価していいのではないか?
公家とかもトンズラしてきてたらしいし。
つーことは安全だったんだろう。駿府は。
327 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 12:23:10
今川が天下取れる要素が見つかりません
328 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 21:26:52
それはゲームしかやっていないからだよ
今川は甲斐に侵攻すべきだった。
俺はいつもそうしてる。
330 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 01:32:52
でも甲斐に侵攻すべきなのはゲームの中だけだろ?
優秀な人材がそろってるから。
実際は、貧しい山国をとっても仕方ないと思うが・・・
やっぱり桶狭間の合戦で義元が討ち取られたのが痛かったかな?
それもあるけど豪族連合ってのがそもそも組織として脆弱。氏真が無能な
のも大きいが、義元が討たれた途端、家康に三河奪還されてるようじゃ組織
に問題あったと言われても仕方ない。
332 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 04:52:18
今川家の事
悉皆坊主(太原雪斎)なくてはならぬ家
by山本勘助
333 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 10:45:47
>>331 過渡期、かつ、守護大名がそのまんま、なんだからしょうがない。
武田は潰すべきだ
古くから対立してるし、頭上に不安を残しておいては上洛などできない
同盟なんて結んでても相手が信玄じゃいつ襲ってくるかわからん
実際義元が死に今川が衰退した隙に付け込んで国を奪われたわけだし
北条、長尾あたりを上手く利用して武田を屠ってから上方へ進攻するべきだった
武田を滅ぼしても北条・長尾あたりが・・・(略)。まあ戦国なんてそんな
もんでしょう。だから京を確保して権威を、畿内を確保して経済力を信長は
欲したんでしょう。問題は義元がそこいら辺を理解していたかだな。
336 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 22:35:19
謙坊は馬鹿だから上手く騙せば問題ない。北条も関東与えておけば噛み付かない便利な犬。
武田は腹黒いから殺すのがベスト
337 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 02:29:23
今川って戦で大勝利した事ってあるんか?なんとなく勢力がおおきいから
まわりの豪族がわらわら集まったわた飴みたいな感じがする。いつも戦にな
ると負けてる感じがするんだよね。そのくせ伝統ある今川侍と称してプライド
だけ高そう。
338 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 05:56:40
>337
今川了俊なんか強そう。九州で南朝制圧に目覚ましい功績をあげた。
駿河今川氏ではなく遠江今川氏だけど。
>>337 日本の大名なんて、みんなそんなもん。徳川がいい例だ
340 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 23:11:40
まあ、割かし外れの無い主君(氏真を含めて)が続いているから、
今川は桶狭間を除けば良いところまでいったと思う。
ていうか今川の国力で京へ攻めのぼるのはあまりに無理だろ…
なにか天才的な策謀があるならともかく
至って普通の義元が天下取るには20ヵ国ぐらいは切り従えて
その威でもって屈服させるしかあるまい
342 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 01:44:06
尾張ぐらいなら何とかなったんじゃないかな?
守護の斯波義統も守護代の織田信友もたいしたことないし、
織田信友の家臣(名分は)の織田信長は尾張の最大勢力とはいえ弟が内紛を起こすし、
他の織田一族も独立勢力だろ。
いつでも切り取れたと思うんだよねぇ、普通なら。
>>342 当時の感覚でもそうだろうね。義元もテロにでも遭った気分で殺されたんだ
と思う。まさか尾張のうつけに自分がーー。って感じで。
344 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 11:57:48
氏真ってなんで尾張に攻め込まなかったの?
俺は家康が実は怪しいと思ってるんだけど。
345 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 13:45:55
346 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 22:46:22
家康は、義元の敵討ちしようと持ちかけても、氏真は動かない。
347 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 06:39:56
下手に尾張に侵入すれば美濃の斎藤氏を刺激する。
仇討ち戦争だけで済まなくなる。
義元が尾張に侵入したときは斎藤氏と何らかの根回しができていたか、
斎藤氏と対決する覚悟があったのだろうが。
(予想外に尾張国内で「テロ」に遭ってしまったわけだが)
義元は何にも考えてなかったんだろ
あの兵数で押してけば京までいけるだろうと安易に考えていただけだな
どっちにしろ織田に討たれなくても別な所で討たれたろう
349 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 19:25:01
斎藤氏を破っても六角氏がいるし、そもそも足利将軍が義元の上洛を
望んでたのかどうか。(三次や松永なら傀儡にされるだけで済むが
今川が京都で権力握ると将軍位そのものを簒奪される恐れもある)
350 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:00:25
>>346 それは本当に嘘くせ。
家康の裏切りを正当化するための後付っぽい情報だね。
お世話になった今川家に弓引いた事実を正当化するために情報操作がされていると考えるのが普通だな。
大体突然の当主交代で、自分の領地の安定も測れていない状況で
自分の偉大な父親を打ち破った奴に喧嘩を売る奴は勝負しすぎでしょ。
もし義元が当主交代がスムーズに行くように根回ししてあったなら
すぐに態度を示さない氏真に非もあるだろうけど、
義元死亡後にすぐに岡崎城に籠もる様に入った元康なんぞどう信じろと?
351 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 22:08:24
桶狭間の直後、義元の死を知りながら、松平元康は織田側の砦を攻撃してる。
攻め落としてこそいないが。
こうしておかないと、以後に信長に相手されなかった可能性が高い。
えーと、只今の議論は
義元上洛・当主在位説が前提ですか?
桶狭間=鳴海城後詰め決戦説とか義元大御所説は
無し?
流れを見てれば分かるだろ?
三戦厨の書き込みが続いているじゃねいかw
今川なんぞネタがねぇよ
義元的に見て織田、六角は雑魚のイメージがあったんじゃないかなァ。
特に六角なんて名門というだけで一日で観音寺おとされたりしてるし
名門だから自分につく。と思ってたかもしれない。
むしろ浅井を警戒してたほうがよさそう。でも浅井が斉藤とやりあってるしで
実質通り道にいたのは織田のみ。背後は武田、北条が固めてるし
日本アルプスだってあるから挟撃の心配もない。
でも尾張とったら一度引き返したかもね。
信長だったら最前線に拠点を築くだろうが
義元が駿府捨てて名古屋あたりに拠点を築くとも思えない。
さりとて京までは補給のびきってるきがすぎるし。
ソレこそ本当に六角あたりが臣従してくりゃ話は別だが。
(尾張とって勢力拡大してその辺の豪族連中仲間につけてじりじりってやろうとしたのかもしれないけどさ)
松平は駿府に帰らずにそのまま岡崎に戻って
今川侍追い出してその日のうちに独立したの?
このへんすっ飛ばされるからよくわからん。
357 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 02:01:15
>>352 好きに350まで以上のことを語ってください。
今川焼きと今川家は関係ありません
漏れの地方では大判焼きと呼ばれている
そういや俺んところも大判焼きだわ…@関東
埼玉は今川焼きだったぜ?
回転焼きって呼ぶ地方もあるよね
363 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 22:46:19
つまらん。
ロンドン焼きとはまた別のものか?
北条がいなかったり武田を倒したりしたら長尾が仮想敵になるって意見が多いみたいだが
これは、そうはならないんでないのか?
長尾は貴種と室町幕府イデオロギーで釣れる相手だぞ。
今川にとっては味方につけやすい相手なんでないのか。
それ言ったら武田だって足利、今川なんかと同族なわけだが
367 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 19:20:41
武田は新羅三郎義光の末。嫡流の八幡太郎義家の末である足利や今川とは格が違う。
ましていわんや、長尾なんて...と考えた。義元にすれば、家格からすれば、
足利将軍に代われるのは自分しかいないと思った。
368 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 19:39:19
ある歴史小説家が書いてたけど、当時織田家は港からの上がりなどでかなり
金持ちだった。だから、圧倒的兵力差なんていうのは、後の徳川や豊臣が
自分達の手柄を誇張するために作った嘘。5分5分とはいかないまでも4分
6分ぐらいの勝負だった。義元は補給路を伸ばして上洛が目標ではなく、
織田領の富を奪うことが目的だった。
が
369 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 20:33:42
浜松からセントレイア見物にやってきたら
中卒に囲まれて河川敷に連れ回されて惨殺された
地元大学生今川義元さん(21)
370 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 21:00:35
今川は足利将軍の家族扱いで家来がする管領にもならなかった。
近江源氏(宇多源氏?)の六角とは家格が違う。
371 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 21:27:32
義元は家康を人質にしている時に去勢した。だから、秀忠を含め全部、影武者
の子供。その事を知っていた築山御前は息子もろとも殺された。なんて歴史
小説があった。
372 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:25:34
>>371 まじでそうなら、同母の久松兄弟の子を後継ぎにしたのかな?
今川って義政の代にも上洛したよね?
何しに行ったのか知らんが
物見遊山でしょう
375 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 03:09:11
足利とはれるのは尾張の斯波ぐらいか
376 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 09:16:29
>>375 斯波も所詮、家臣扱い。足利の血が絶えれば、吉良(今川は吉良
の分家)から、吉良が絶えれば、今川からという取り決めがあった
らしい。
377 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 09:18:12
>>376 管領になるとき家臣になるのはヤダとごねたのは有名。
378 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 10:25:08
>>373 細川勝元に味方するために上洛したんでしょう。
379 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 13:44:57
380 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:33:17
>>379 ソースというより醤油のように薄い本だけど...
岳真也:日本史「敗者」たちの言い分.第2章の1今川義元.
113頁.PHP文庫(第1版1刷)
新刊だから、少し大きな本屋ならあるかも。
そ・・・それがそーす??
php
383 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 16:31:37
なんで目次に毛利家が無いんだ!
>>378 確かその後領国に帰って
一揆鎮圧に向かったら土民に殺されたんだよな
義元だけじゃなくて今川の当主は以前から迂闊だな…
385 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:33:30
他の当主は
範国は青野原戦いの後詰めで活躍。
範氏は薩垂山合戦で「一人当千」
泰範は応永の乱鎮圧。
範政は禅秀の乱鎮圧。
範忠は永享の乱鎮圧。
氏親は今川氏を強大化。
386 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:39:55
義忠は土民相手に討死する。
範満は簒奪者に討ち取られる。
氏輝は北条に謀殺される。
吉本は足軽に斬首される。
氏真は蹴鞠の師匠を務める。
387 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:19:15
吉本・・・?
388 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:20:10
OK!義元ね〜!今川義元あるね〜!
389 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:21:37
今川義元は織田信秀にぼこられて、織田信長にはKO負けしたね。
390 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:22:34
星が沢山見えるやよね〜!
391 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:23:46
義元と武田信虎はできてたらしいね。
392 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:24:42
義元は天下取れる器量があると思うかいな?
393 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 20:49:10
無理っぽいね。信玄と同じ理由で。
394 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 00:30:18
義元、信玄に無くて信長にあるものって・・?
395 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 01:09:02
今川イェイ!足利イェイ!
今川足利友好条約!
396 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 01:39:43
女性器が唇に見える。口紅をした唇が腫れ上がった女性器に見える。
どっちだっていいんだ。それを舐め上げて、喜ぶ君の顔が見られるならば
397 :
誤爆。:2005/11/13(日) 01:41:09
なんで日本史板にいるんだ俺は。今川イェイ。セッサイふぉーっ。
398 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 16:48:58
足利の話題は本当に得るもの無く終わった感があるな。
399 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:30:04
緑が沢山あるかいね〜!
400 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:31:39
今川板はこれにて終了します。これからは斉藤でお願いします。
401 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:32:47
斉藤動産でホォー
402 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:33:23
斉藤義龍ピカ〜
403 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:34:37
そんなに虐めないでよ
404 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 17:45:48
斉藤義龍が早死にしなきゃどうなってたかわからんと思うけどね。
405 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 18:05:57
死んだ義クンが悪いんよ
竹中16人に落とされた稲葉山城がかわいそう。
まあ安藤の兵士入れたら結構多くなるわけだが。
実際は16人じゃないけどね
408 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 06:05:57
斉藤道三の父親って結局ある程度同定されているの?
義龍が生きてれば信長の天下はなかったな
例え倒せても美濃進攻で一生終わり
410 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 18:11:15
明智光秀と竹中半兵衛が
いたんだよなあ
411 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:23:31
何で目次に毛利家が無いんだ!
412 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 22:28:16
なぜ義龍が盛り立てられて
道三が長良川でしななければならなかったか
血筋も当然土岐?と目されたのもあるが
あれほど土岐を牛耳った道三がことごとく離反されたのは
若いにもかかわらず義龍に道三以上の資質があったのだろう
というわけで死ななかったら
信長が美濃侵攻に半生つかっただろうに賛成一票
413 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 23:30:33
土岐の遺臣が義龍についたって話を聞いたけど・・・
ところで、義龍は本当に病死なのか?信長は目の上の瘤は都合よくみな消えていくな
414 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 01:06:46
暗殺の可能性も無きにしもあらずだけど、当時の寿命は現代人より短いし、
医療技術も発達してないから自然死なんじゃない。だが義龍が生きてれば
美濃が生き残れたかと言えば難しいと思う、美濃は所詮豪族連合なのに対
して信長は親戚やら斯波氏やら殺しまくって中央集権を確立している。城
まで移動させて妹を朝井に嫁がせ家康と同盟結んで後方の憂いを絶った
信長に勝てる要素は無いと思う。
415 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 01:20:59
いやケツを掘れば。
義龍の時はさしもの信長も謀略でも戦でも全く上手くいかなかった
遊興に耽り家臣の信頼を失っていた龍興の代ですらあれほど年月がかかったし
支配後も国人衆の反乱の収拾がつかずに悩まされていた
義龍の下で有能な家臣団が結束していたら20年や30年かけても歯が立たなかった可能性が高いと思う
417 :
日本@名無史さん:2005/11/15(火) 11:29:14
20年30年かかっていれば、武田とかが相当勢力をのばしていってたんじゃないかい?
んで、鉄砲も十分に揃わなかったろうし三河→尾張と侵略してきて。
そこからさき斉藤家が生き残れたかどうかはしらんけどね。
確かに信長が伸びなければ家康も伸びられないし
武田が今川領に進出しても止める手立てがないな
前にも進めず後ろから追い立てられて織田も滅んでいたかもしれない
419 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 00:27:54
龍興も反信長で通したから、雑魚の中でも格好いい方
龍興も最後は討ち死にしたしな
今川氏真なんかよりはマシだ
義龍自身には大きな失策らしき物は見当たらないような?
早逝は失策ではないしなぁ。
失策はなくても成功もしてない。斎藤氏自体の領土も増えてない。どっち
かと言えば道三みたいなカリスマがいなくなって豪族の独立性が増している。
だから龍興の代になって半兵衛に攻められたり、安藤や稲葉に裏切られて
串が抜けるように勢力が減っていく。良くも悪くも斎藤は戦国大名の興亡と
下克上を表してる。
信長の侵寇をはね返し続けた事と、独立精神旺盛な美濃の豪族をそれなりにまとめていた事を考えると、
名将まではいかなくても良将ではあると思うけど…
龍興はともかく義龍の代ではよくまとまってただろ
でも斉藤って逆に尾張に進攻しようとしなかったのは何故だろう
攻めて来た織田に快勝した事は幾度もあるわけだが
弱った所を尾張に進出すればよかったのでは
>>424 当時は豪族連合だから戦闘で勝利うんぬんより先に外交や交渉で相手の勢力を
削ったり有力武将を引き抜いてそれを先頭に進むのが常識。逆に相手の勢力
を籠絡できないと自国の武将達が財産の持ち出しになる他国進出に嫌がって上手く
いかない。木曽川下れば攻略なんて容易に思える尾張を攻略できなかったのが逆に
斎藤氏の財政面・動員兵力面の弱さを示してると思う。
>龍興の代になって半兵衛に攻められたり
ここって日本史板だよな?
城を乗っ取られた事を言ってるんでは?
外征しなかったのは美濃の豪族の保守的な気質もあるかも。
保守的って言うより昨日まで油売ってた奴に仕えたくないってのが本音
でしょう。でも力はあるから面従腹背する。そういう微妙な関係が龍興あた
りをやさぐれさせたのかも。
425がいうことが実情ぽいな
>>426 乗っ取ったのは安藤守就・・・・
半年間ほど乗っ取って争って、和解してますですよ
竹中重治は安藤守就の娘婿なので従ったんでは?と言う程度
安藤守就は西美濃で一番の国人で、斎藤氏はその西美濃の国人衆に支えられて
政権を維持してた模様
431 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 23:51:45
美濃の国人って安藤・稲葉・氏家あと他に誰かいる?蜂須賀って国人に
数えていいのかな。
西濃だと不破とか揖斐とか、中濃の明智、遠藤、東濃の妻木、遠山一派・・・
ちっこいの入れれば腐るほどいるよ。
美濃の石高って何万石位?尾張は?
434 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 01:09:01
美濃は土岐氏の長期政権下にあったから、それを切り崩すのは容易ではなかった。
それが切り崩された頃に、成り上がりを一度尾張で実践している信長がやってきて
うまく取り込む。
歴史って誰かを中心に回っているとしか思えない程の手際の良さですね。
美濃の石高は資料によってマチマチなんだよな。
見た事ある数字だと40〜70万石だけど、実際はどれくらいかな?
>>425 でも他の大名だってみんなそうではないか?
それに防衛一方じゃそれこそ出費のみだし
国外を侵略すれば領地は増えるし略奪で財産も増える
むしろ斉藤の動きは戦国期にしては特異なものに感じる
国力が圧倒的に不利で防戦一方なら仕方がないが
決してそう言う訳ではなかったのに…
>>436 土岐家内部でも斎藤家内部でも、内訌重ねて火種残ってたし、
西側(南北近江)の浅井家・六角家あたりの動向も絡んで来るから、
易々と東進はしづらかったんでないの?
438 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 15:34:57
土岐の残党を一掃出来ていなければ外に行く余裕は無いだろうね
>>436 圧倒的不利でもないが圧倒的有利でもない。だから一時的な占領や略奪は
出来ても領地が維持できない。また領地の拡大は大名当人にはプラスだが
部下の国人にはプラスとは限らない、あまり君主が強力になると自分達の
意見を聞いてもらえず粛清の対象になる。信長の部下達の末路を考えれば理解でき
ると思う。また大名当人にしてもあまり国人の地位を脅かすと謀叛された
り自分が追放されたり暗殺されたりする。こういう君主と部下の微妙な関
係を維持しながら他国と戦争してるのが戦国時代。
>>436 信秀の代から攻めたり攻められたりしてるから一方的に守ってる訳でもない。
また濃姫を信長に嫁がせてるから外交してない訳でもない。信長も美濃攻略
に10年近くかけてるから斎藤と国人レベルの切り崩しが大変だった事実を
示してる。その代わり美濃・尾張攻略後は3万の兵力で六角滅ぼして上洛して
る。信長にとって美濃攻略は天下統一への大きな踏み台だったといえる。
六角と朝倉で戦い、浅井が斎藤と手を組んで対抗したり、
浅井が六角に従い、朝倉との関係修復した後で斎藤と揉めたり
斎藤と六角の婚姻話あったりで結構絡んでますですよ
442 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 01:54:50
毛利と長宗我部が抜けてるな。斉藤であと60も持つのだろうか。
伊達とか島津も抜けてるよ。
444 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 02:30:15
伊達政宗。
臣民の子孫があまりにドンゴリ過ぎる。
給食費払わねーし。
445 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 04:43:07
つまり斉藤は義龍や龍興の代でも出兵命令がだせないほど
主君としての立場が弱かったってことか
似たような境遇でも北条と斉藤の差は一体…
2代目、3代目の実力と寿命の差かな?北条一族もまとまってたし。
だが斎藤が特別かと言えばそうでもない、どこの大名も国人の扱いに
は苦労してる。
どちらかと言えば先祖代々の土地を兵農分離で取り上げて、部下があんだけ
反乱しまくってもへいきのへいさでやり方替えない信長の方が異常なんだよね。
まあ領地が拡大してるし、楽市楽座で財政も豊かで徹底的な合理主義と能力主義
だからできたんだろうけど。アメリカの会社みたいだな。
長尾や武田も古い体制でもあれだけ遠征繰り返してた
斉藤が国外に進出できなかったのはやはり国主の力量不足ってことか?
だが信長との戦いを見ると義龍なんかは暗愚な武将には見えない
その辺りが疑問なわけで
戦争は得意だけど外交や内政は下手って事でしょう。親父だましてクーデター
やった位だから勇気も知恵もあったんだろうけど、人間だから苦手な分野も
あったんだと思います。例えば信長が浅井と婚姻同盟したのは知ってるんだ
から自分達も六角と同盟して後顧の憂いを断つとか、木曽川・天竜川などは木材
・鉱物・漆等の重要な輸送路で大きな利益があがるのだからそこを管理する
蜂須賀氏等を重用するとかやりかたはあったと思われます。時間が無かったと
言えばそれまでですけど。
三戦レベルの厨は放置しとくとして
>>441 斎藤義龍の娘が六角に嫁に入ろうとして破談になって、一時期、六角と斎藤が揉めたらしいが
その辺教えてくれない?
452 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 03:41:08
浅井朝倉待ち
453 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 04:14:14
地元だからわかるが
浅井はちかすぎるな西濃からみれば稲葉も浅井もおなじくらいの距離でいける
浅井スレではないが小谷は琵琶湖の近くっていうよりも
関が原の隣だ
西濃地方は稲葉挟むけど、川下れば名古屋−につくし
蜂須賀や一夜城がはいってくると揖斐、長良と稲葉まで分断されて
孤立する
安藤や竹中の不安は相当なものだったろう
大人が一日で歩ける範囲に敵の居城があるなんてすげえな。
どこもそうだよ
実際に史跡を訪れるとビックリする
特に小豪族なんて走れば10分ぐらいでつくような距離に他勢力の城があったりして
どうやって戦ってたのか不思議でしょうがない
457 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 08:32:18
あんまりネタも無いんで一夜城ってどうやってできたんだ?戦略的要衝
なのになんで斎藤は手出しできなかったのか?等々を俺に教えるエロイ人
降臨期待age。
手出しできないように素早く造ったから一夜城なんだろ
459 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 15:23:08
>>458 いやまあそうなんだけど、秀吉サクセスストーリーで脚色されてるとはいえ
さすがに城を一夜で作るは無理だし、仮に城が出来ても大阪城みたい立派な
ものでなし攻め取る事も可能だし、そもそも自分が城を作る事だって不可能
ではないはず、そこいら辺の事をエロイ人に教えて欲しいんですよ。
461 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 19:19:09
墨俣城は否定されたんじゃ
462 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 00:26:09
>>453 記憶違いでなければ、確か春日文書がそんな感じだったと思うが。
内容は義龍の娘が六角義弼に嫁いだ時、六角承禎が重臣に対して
こんな縁組は反対だバーローみたいな感じのことを書いて宛てた書簡で
斎藤父子の文句もタラタラ書いてあったような・・・
違っていたらスマソ
463 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 15:38:04
墨俣は石垣まで積んである本格的な城だったんじゃなかったっけ?
無論戦国末期みたいな石垣じゃないよ
465 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 08:04:23
ttp://bogusnews.seesaa.net/ ■ 偽造建築、岐阜県でも 城を解体へ
00:30掲載 [ 社会面 ]
耐震性を偽ったマンション建築の問題が拡大するなか、火の粉は首都圏からついに岐阜県まで…。
同県に築城された城が非常に耐久性の低い違法建築であることが、21日までに明らかになった。
岐阜県では「放置すれば民衆を危険にさらす」として解体を検討中だ。
問題の城は、岐阜県墨俣に建てられた「グランドキャッスル一夜城」。県土木課の調べによると、
施工主の木下藤吉郎氏は「美濃進出の足がかりとなる立派な城」として建築を申請。たった一晩で完成させ、
敵・斉藤龍興の軍勢を驚きのあまり敗走させた。
しかし、よく見てみると城とは真っ赤な嘘。ただのベニヤに描いた書き割りだったという。
木下氏の武功をねたんだ柴田勝家氏が県に通報したため発覚した。
岐阜県では
天下獲りのためとはいえ、やり口は非常に悪質。発注主の織田信長氏も手抜き工事を知っていたふしがある。
組織ぐるみの犯行とすれば許せないと怒りをあらわにしている。
築城に詳しい上杉謙信氏にコメントを求めたところ、「わしも一夜城建てたって知ってる?」と寂しげに語っていた。
466 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:10:24
468 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 17:10:03
>465
良レス!!
最後一行がオチと心情ともに非常に素晴しい。
斉藤と関係ないが謙信って築城得意なの?
謙信つーより長尾家の人間が得意。親父も爺さんも築城の名手。
浅井朝倉とか六角とかネタねーよ…
472 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 13:45:59
斉藤氏は龍興で完全滅亡でOKなの?
>>472 新五の系統だけど池田家に召抱えられて、末裔が斎藤姓のまま
現在まで存続しているよ
400石(1000石ぐらいの時もあったらしい)というから
それなりの待遇は受けていた模様
474 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 17:01:55
へえ〜
大石内蔵助が道三の血を引いてるらしいって話なら聞いたことあったけどw
母親が齋藤家と関係ある人らしい?信じがたい話だけどね
475 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:32:40
龍興さん、たいしたものだよ、あんたは。
信長に包囲された稲葉山城からこっそりと落ちのび、
長島願証寺に入り、摂津の三好三人衆を頼る。
本国寺(現在は本圀寺。場所移転。元々あった場所は六条、今は西本願寺の駐車場)
に泊まっていた義昭を襲う。
その後、義景を頼って一乗谷に行く。そこで与えられた館。
以前義昭が義景に作ってもらった屋敷の隣である。ちょっと恥ずかしいかも。
それでも好待遇だ。一乗谷内にある館で水堀があるのは義景館と景鏡館の他には、
この龍興館だけである。義昭館でさえ無かったのだ。
ちなみに、義昭館と龍興館は一乗谷の外にある(上城戸のすぐ横)。
この待遇に応えて龍興さん義景と一緒に出陣。刀禰坂の戦いで討死。
お見事なり!
道三(に該当する人間)が2人いた(2代かかった)とすると
道三初代はそれこそ歴史小説の「国(ry」の道三みたいに英邁な人物
だったかもしれんけど2代目は親父の築いたものにのっかって
その上、敗北した間抜けということになってしまうのだが・・・
>>475 最後まで戦ったのは立派かね
出陣したときは何人か部下もいたの?
ただの客将?
自分は好事家なので
なんかこういう負けちゃった連中好き
斉藤家は緑色のイメージがある。
斎藤家代々の部下より朝倉から与力されたのや一向衆あたりが主力なんだ
と思う。あっちこっち転戦しては負けてるから。でも日根野は一緒だったの
かな?
479 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 19:35:48
ところで緑ってなんだ?
480 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 02:09:30
空想が飛び交うスレですね。
481 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 15:02:29
>>475 >>477 その後(近年ですが)、墓石盗まれてなかったっけwwwwwwww
刀根坂にあったやつ。
482 :
日本@名無史さん:2005/11/29(火) 23:23:24
保守
やっぱり斎藤じゃのびねーよなw
さて、斎藤家の失策は何だろうね。
どうやっても織田に滅ぼされてたような気もしないでもない。
485 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 04:25:22
やっぱり美濃っていう場所が悪かった。どうやっても信長に呑み込まれていただろうね。
もっとも早くから信長に臣従して斎藤家を存続させていれば後々どうにかなったかもしれないけど
486 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 19:14:24
なんだかんだ理由つけて潰されるんじゃないか?安藤も潰されてるし、美濃
豪族出身で大名になれた奴いないだろう。あえて挙げれば秀吉との関係で大名
になれた蜂須賀、春日局のお蔭でで復活できた稲葉くらいだろう。
487 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 21:30:08
>>486 竹中 幕末のドサクサで大名に
土岐 なぜか譜代大名
安藤は挙兵した前科があったから
氏家は潰されてないぞ
490 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 02:55:47
斉藤は全盛期が、信長以前に終わってるから・・・
斉藤妙椿、とか・・・ほら無名だろしょーがねーよ無名なんだから・・・
>>490 そんな応仁の乱のころの土岐家の同僚どもぬっ殺して、実質美濃を支配し、
尾張近江伊勢飛騨越前と周辺諸国に出兵したような香具師のことなど知らん
493 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 16:29:56
ありがとうありがとう。
>>491 >>492 名前もかっこいいし、もっと知られてもいい人だと思う。
あの頃の大内や斉藤や朝倉は強かった。
朝倉や斉藤はその後も強いんだけど。
スレ違いですかねすんません
義龍が生きてれば信長は美濃を取れなかったと聞くこともあるが、信長と義龍ほとんど戦っていないんだよな
1560年に桶狭間で1561年に義龍死亡、実質1年しかないのに信長は勝てなかったなどと、
その上このころの織田はまだ三河が安定してない時だし
>>493 朝倉はともかく斉藤は一時弱くなって、最終的に道三が斉藤を名乗ることに
斉藤妙椿が1480年に死んで家督争いとかいろいろあったからな
最終的に美濃は簡単に言うと美濃守護土岐家から実験奪った守護代斎藤家の実質的支配者の家老長井氏の腹心長井規秀が支配することに
妙椿には子供がいなかったからなー
妙椿死後甥の兄弟が家督を争いその結果
朝倉京極土岐斯波織田対六角細川北畠の戦いが美濃で
そんな名武将がいたとは知らなんだ。勉強になった
>>491 小笠原の撃退とかもあったな
乱を左右するとまでいわれたな
家督継いでから死亡まで20年しかないわりにいろいろやってる
義龍vs道三で義龍側に兵隊が集まったって事は
道三ってやっぱ人気無かったのね
息子よりも信長に国を譲るって言うのは言うまでも無く後の作り話だろうし
ただ義龍自体も尾張に攻めて行ってないんだよな
自国を固めるので精一杯か
500 :
日本@名無史さん:2005/12/06(火) 23:04:59
500!
さぁ次からはいよいよ朝倉浅井でつよ
とりあえず人類で初めてじゃないの?
黄金で塗られちゃったの。
朝倉も、応仁頃はかなり威勢よかったんですよ。
つーか信長時代も、信長とガチで渡り合ってるし。
信長の生涯の仇敵リストを作るなら、上位3人(勢力)には必ず入れるべきだと思う。
>>502 まあ信玄なんて信長とはまともに戦ってないしな
朝倉・斉藤・今川・本願寺か上位は?
でもその中だと朝倉が抜けそうだな
まあ浅井の最大の失策は織田と手切れしたことだな
他は美濃近江国境の城を調略で落とされたこととか
70年71年の段階で佐和山との連絡を取り戻せなかったことぐらいか
浅井の力で何とか成りそうな失策は
505 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 01:59:01
手切れ自体も結果論からいえばマズー
でも最大の失態は、その後、金ヶ崎から信長を逃がしてしまったことかな
多分、AA連合が信長家康のくびを跳ねれた唯一にて最大の機会とは思ったがね
頭蓋骨で酒を飲むって、イマイチ形が分からん
頭蓋骨の頂点を切り取って、逆さにして杯の形にしたのかなぁ
というか、この話は本当の話なの?
金ヶ崎から京まで追撃することはできなかったのか?
美濃方面を浅井が固めて朝倉や本願寺とか織田敵対勢力で徹底的に殲滅しちまえば良かったのではないかな
ルートが問題だが
普通に金ヶ崎から岐阜までかえろうとすると
浅井が手加減したとしか思えないほどだ
おれは岐阜かえったと覚えていたが
京で信長は立て直したの?
京ならまだ浅井領ぎりで通り抜けれるから琵琶湖まわりでも
船でもいけそうではある
兵力は残っていたから毛利の月山富田城撤退戦並に戦いながらきりぬけたのか?
そのとき長政がどこに出張っていたかが問題。城にいたんなら問題あり
もう最後の美濃入り直前に城かまえていたんですから。
>>507 京方面の奴らがさぼったのが主因。
朝倉は仕事してる。
比叡山に籠城したりもしてるし。
焼かれたけどwww
>>506 頭蓋骨のてっぺんを切り取り逆さにひっくり返すと度杯みたいな形になるそうだ。
そこに酒を注いで飲んだものらしいが、浅井・朝倉の髑髏話は創作とも言われている。
他に髑髏杯というと水戸黄門が有名で、実物が現存しているとかいないとか…
もう失策ばかりだな…
姉川でも金ヶ崎でも織田に壊滅的な被害を与えるチャンスだったのに
そこが浅井朝倉の限界なのか
512 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 14:16:06
金ヶ崎での失態は浅井もあったけど追撃するの遅すぎた朝倉も一枚かんでるね
裏切る時期も早すぎ朝倉と織田が交戦して身動きがとれなくなってから
補給部隊でも襲えば楽に勝てた。第一信長の撤退の際、浅井・朝倉共に
織田方の有力武将を1人も討ち取ってない。せめて後衛に残った秀吉・光秀
あるいは家康の誰かは討ち取って置くべき。
>>507 >>508 金ヶ崎の時点じゃ、本願寺とは敵対してないし、阿波三好も四国にいる
摂津河内大和の連中も足利=織田の味方、松永三好含めて
京や志賀郡で戦うのであれば朝倉浅井のほうが不利
また織田の撤退ルートである湖西の志賀郡高島郡はこの時点では浅井朝倉領といいきれるほどでもない
また朽木越えの山の中を通っているから、この時点で浅井が水運握っていてもあまり意味無い
織田が京に帰った後は浅井は美濃近江国境固めたため織田は日野経由の千草峠越えで伊勢から岐阜へ
また信長は浅井の攻撃から南近江を守るため柴田佐久間などを配置してる
また浅井は長比城を築いて美濃近江間の連絡を遮断している
>>514 確かに敦賀郡から府中に入ったところで襲えば織田勢は身動き取れなくなっただろうな
朝倉家が一気に崩壊してたかもしれないが
信長は西、家康は東を担当するための同盟したけど、
浅井の場合は、斉藤攻略のための婚姻であってその後の戦略というのがない。
信長は領地を増やしているのに、浅井は見てるだけで我慢出来なかったんだろうよ。
信長としては一向宗や近畿・中国の大小の戦国大名や豪族と戦うのは目に
見えてるのだから、朝倉滅ぼした後の北越防衛や対武田戦の際の美濃防衛に
予備兵力として浅井の兵力はあてにしてたと思わる。現に上洛の際は六角滅
ぼした後、後方を気にせず近畿攻略にあたってるし、朝倉攻略の際は兵力提
供を要求せず食料提供で済ませている。信長としては妹あげて家康以上に
厚遇してるのになんで裏切るんだ?って感じでしょう。
520 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 22:25:36
>>519 同盟中とは言ったって明日にはどうなるか分からん戦国の世ですよ。信長と
しては東海道から武田が来るか、中仙道から武田が来るかは常に考慮して頭
から離れなかった事だと思われる。東海道は徳川、中仙道は浅井と意識があ
ったから浅井の裏切りは予想外だったと思う。実際浅井・朝倉滅亡後秀吉に
今浜に所領を与えたり、安土城を信長自身が築いたのは京に睨みが効いて、
琵琶湖の海上ルート・東海道・中仙道・北越道に抑えの効く戦略的要路だか
らだと思う。
六角残党
畿内諸勢力
特に将軍と本願寺と比叡山
がまじめにやらなかったからアウト。
>>518 >朝倉滅ぼした後の北越防衛
はまだ分かるが、現に秀吉が75年までは守っていたし
対武田戦の際の美濃防衛は距離あり過ぎじゃないか
だったらまだ浅井を一門格として畿内で運用させるほうが現実的だと思うが
523 :
日本@名無史さん:2005/12/07(水) 23:40:17
もし浅井が裏切らずそのまま織田家との関係をもったままだとすれば
本能寺変後は間違いなくキーマンの一人だったと思う
織田一門+家臣ではなく同盟国という二つの側面から
秀吉や柴田、家康も一目置かねばならない存在としていつづけたんではないかな
下手すると浅井幕府もあったかもしれんな
524 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 00:08:50
>>522 小谷城から岐阜城まで100キロ無いから3日で着ける距離、武田の
戦略目標は京への上洛だから岐阜城攻略は欠かせない。織田側とすれば
尾張・美濃の兵力で篭城し、浅井が武田の後方を叩けば上洛は不可能に
なる。仮に浜松城みたいに岐阜を一部の兵力で包囲して京を目指しても
京には信長本隊・後方には浅井軍で上洛は不可能だったと思われる。
>>523 もし長政が有能で小谷城にいたら秀吉の大返し以前に光秀討ってたら浅井
幕府あったかもな、信長の義弟だし。
>>524 >尾張・美濃の兵力で篭城し
この時点で武田の相手なんて十分だろ、徳川もいることだし敢えて浅井を予備とする必要はないんじゃ
武田から尾張美濃をただ守るのではなく武田を倒そうとするのなら浅井だけでなく近江伊勢の兵力も使うだろうけど
まあ浅井が裏切らなければ史実の北畠や神戸みたいな一門衆として各地を転戦か北陸方面を任されるかといったところだろうけど
526 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 01:00:46
家康は家を保つために嫡男と正妻を殺してる。
同盟維持のため長政にそこまでできる覚悟があるかな。
それに織田と朝倉を天秤にかけて朝倉をとった男が有能とは思えない。
527 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 01:51:30
>>525 近畿で信長が転げ回ってた頃だと動員兵力にそれほど余裕があった訳
では無いと思う。また家康の浜松からより小谷の方が近い。本願寺や
比叡山の備えやら変な動きする足利将軍やら何時でも裏切る気満々の
松永やら海千山千の近畿武将群相手に四苦八苦している当時の信長に
とって本拠である尾張・美濃と京を繋ぐ近江の安定は必須だったと思わ
れる。そりゃ怒りに任して頭蓋骨を茶碗にするわな。
>>526 あの時点では、朝倉にも充分勝ち目はあったよ。
信長の人生はよくよく考えるとラッキーだらけ。
もちろん、自分で運を切り開いたってのもあるけどさ。
>>527 >近畿で信長が転げ回ってた頃だと動員兵力にそれほど余裕があった訳
>では無いと思う。
いやその状況ならますます浅井を武田の押さえにする必要は無いだろ
というか何で美濃の兵を畿内に向けて、浅井を武田に向けるんだよ、
普通に近いほうに兵を向ければいいじゃん
浅井に手柄をたてさせたくないというならそれでも良いかもしれんが
それに家康は美濃へ援軍をだすんじゃなく駿河か信濃を攻撃するということだろ
まあ岐阜までならともかく岩村あたりだと小谷からより浜松のほうが近いだろうけど
ここは浅井朝倉の失策をあげるスレだぞ
531 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 02:44:41
なんかでてくるのは浅井の失態ばっかだな
朝倉は出てこないのか。失態だらけだと思うぞ
朝倉の失態というと織田に従わなかったこと?
他武田と一向宗の両方を敵にしたこと?
533 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 06:56:48
信長としては武田よりも1566年に朝倉と同盟を組み、上洛する気マンマンだった謙信のが
脅威だったんじゃね?
534 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 08:27:21
>>529 そこいら辺は政治になるけど婚姻で親戚関係とはいえ立場上は対等の
大名家同士の難しさがあったと思われ、指揮系統や兵農分離が未成熟の
浅井と織田では作戦期間も違ってくるし論功考証も難しい。浅井に手柄
立てられると領土割かなければいけないと言う側面もあっただろうけど。
どちらかと言えば織田の戦に全面協力し、同盟を20年以上守った家康
の方が戦国期には異常な存在だったと言える。信長としては常備的に
少人数の兵を織田方に出してもらうより、武田が攻めてきた際等に
一時動員で2万位の兵を集めてもらって、それを使って一気に決着着けた
方が合理的だと考えたと思う。
>>533 謙信の前には一向宗いたし、北越は道が険しいからどうだっただろう。
それに謙信は戦は滅法強いけど半年もすれば帰っちゃう人だし。
535 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 08:32:40
景鏡復帰させたこと。
全ての戦、決定事項において、その動きに機敏さがないこと。
越前国の枠を出ようとしなかった事。
宗滴がもう少し長生きできるように、医療を発達させなかった事
>>534 筒井細川荒木畠山三好池田松永みたいにもし浅井が同盟を守るなら
基本は畿内転戦または北陸にむけられると思うな、他の諸勢力同様
もっともその中でまともに最後まで残ったものは細川ぐらいか?
筒井も乗っ取られかけてるし
謙信は60年代朝倉と組んで一向宗を挟み撃ちにしようとしてる、朝倉は当初
それなりに戦線を伸ばしたが謙信は北条武田の妨害にあってまともに加賀に
攻め入ることができなかった。
朝倉単独では勝てず戦線も後退し堀江の寝返りで危機的状況に陥るがなん
とか一向宗と和睦
また若狭も長年支援してきた武田義統が死んで元明は保護(拉致)したものの
若狭の国衆は反朝倉、何度か朝倉も攻めているが勝つことはできなかった
後にこの若狭の国衆は織田と組んで朝倉に抵抗するようだが
>>535 >越前国の枠を出ようとしなかった事。
これに尽きるね。
若狭を実質支配してるとはいえ、
・越前一国の大名として、京都政界を(裏から)支配
この構図の枠を突破できなかった。
保守的というか旧体質。
つか、長慶や信長が異常なんですけどwww
>>537 一向宗と争ってるからある意味仕方がない
若狭を保護国化してるといっても粟屋逸見は従ってないけど
一向宗に勝てないのは仕方が無いとしても若狭の豪族連中に勝てないというのは
少々情けない
540 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 19:29:09
越前守ればそれで良しの安定経営だからね。雪の影響とかもあっただろうけど。
織田と組んで美濃行く余裕があるならその分若狭とか近江を取れば良いのに
若狭なんて小豪族しかいないのにな
万の動員数があって何故支配できないのか…
しかし天下取る気がないと越前も厳しい位置かもしれん
北陸支配すれば長尾とぶつかるし畿内に乗り出すと天下の覇権を賭けた争いに巻き込まれる
543 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 00:17:01
福井県の地理を見れば分かるが、
あんなに平野の少なく、小さな山城(&小豪族)ばかりの土地は正直要らない。
いると思っている人はゲームやり過ぎ。
京都に抜ける時に通れれば良い、国というよりも道という程度。
それに武田の方が足利の近習として、中央における勢力は段違いにあったから
余計手は出しづらい。
>>543 時期によっていろいろ違うが基本的に朝倉は武田家に協力して武田家に反抗する若狭の小豪族と戦っているんだが
それで相手を滅ぼすことが出来ず延々と反抗され織田家によって先に朝倉が滅んだのだが
それと敦賀は日本海-琵琶湖-京を結ぶ日本でも最大級の交易路、重要地点だが
545 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 01:13:27
若狭を取らず、近江にも進出せずだと越中富山・加賀100万石への道しか
ないな、でも相手は殺しても殺しても後からどんどん出て来る一向宗だしな。
なまじ領国経営が上手くいくと保守的になっちまうな朝倉。
546 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 01:50:29
漏れも思った
教科書とかでよく分国法とかで名前出てくるトコって
殆ど滅亡してるじゃんね。なまじっか領国経営が上手くいくと
他勢力との戦いに弱くなるのかなー
>>545 一度は加賀の半分ぐらいまで攻め入ったらしいが
>>542 >万の動員数があって何故支配できないのか…
若狭は「斯波の国」じゃないから。
所詮というか、朝倉ってそういう保守(思考)を抜け出せない勢力だったんだよ。
抜け出せないのが間違いだったかどうかはわからないけど。
少なくとも信長相手には無理。
>>546 だからそれが「プレ信長」というか、信長直前なんだよね。
それらのノウハウを集大成した上に
「俺、まわり全部潰して天下取ったる」
とか・・・はっきり言って・・・”異常”なこと考えたのが信長。
>>543 昔から「大国」。収入もかなりある<越前
ただ問題はやっぱり、柴田くんも耕雲斎くんも負けた「雪」
雪というか木の芽峠、あれが辛い。
木の芽峠で遮蔽された「越前」に居れば、あーここだけあればいいかぁという
気分にもなるでしょ。
確かに越前って保守的になりやすい土地だな
山と海に囲まれて守りやすいし
かと言って中央と離れた位置でもない
一乗谷に篭ってたら周りなんてどうでもよくなるかも
>>550 それいったら甲斐や越後も守りやすい土地だぞ
日本の場合開けてるのは関東濃尾畿内ぐらいだろ
>>551 木の芽峠+雪には、代々の越前統治者が敗北
553 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 12:41:20
冬が終ったらすぐ農繁期の田植え、真夏に戦争して秋には稲刈りの為撤退。
結局戦争として動員できるのは5ヶ月あるかないか。こう考えると兵農分離
は卑怯だよな。相手が動けない間にガンガン戦える。そして兵農分離もでき
てないのにあっちこっち攻め込んで勝つ上杉謙信は神。
72年に8月から12月まで出兵してるが
555 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 13:16:14
>>544 敦賀は越前だが、
敦賀を抑えておけば、若狭や近江から来るやつなんぞ防げる(つもりだった)のだが
応仁の乱、景豊や景高の乱と朝倉の内紛は全部(は言い過ぎでもほとんど)武田絡みなのだが。
武田を明確に援助したのは、血縁、力関係がはっきりして、当主を拉致可能後なのだが
>>552 紫式部や岡田啓介を含めても、新田義貞は含めるなよ。
だが
だが
だが
:
>>555 敦賀行ってみ?
国分けでたまたま越前なだけで、あそこに住んでたら
越前のことは忘れる。
そのぐらい、木芽峠が絶望的に大きい。
義統時代の援助は無視ですか
558 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 13:46:36
敦賀から若狭に行ってみ、普通に国として繋がってるとは感じません。
深坂峠を見てみ、こんな所越えてまで敦賀に来るやつ(その上、木の芽!?)の気が知れないから。
信長に金ヶ崎攻められた時も朝倉は敦賀に後詰出さずに見殺ししてるしな
織田の進軍が速すぎただけかもしれないが
>織田の進軍が速すぎた
それに尽きるわな。
朝倉が常人勢力としてそこそこだとしても、概念上回る馬・・・いやいや、
革新的な勢力にはそれじゃ敵わない。
561 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 19:57:11
>>558 敦賀と若狭はちゃりでも通えるぞ。喪前が言ってるのは近江との国境じゃまいか?
562 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 23:05:40
敦賀は経済的にも、政治的にも重要な拠点だから朝倉は保持した。
しかし若狭は領地としての魅力を感じない上に、武田の親族が散らばっている若狭を維持することなんて
労だけ多くて、幸は本当に少ない
後瀬山城がある小浜と敦賀の距離は知っているが、だから?
自転車?戦国時代に山切り開いて舗装された道路と車輪があるのか?
海沿い、もしくは峠を越えなきゃいけないに決まってる(間に国吉城まであるし)。
若狭を得るぐらいなら、加賀か、良くて美濃・近江だろ。
まあ、木の芽峠越えてまで直接的に領有する意味を感じないけどね。
>>562 越前からは
京都(応仁以来、絶えず狙いたい土地)〜近江(浅井がいて、養子疑惑の六角もいる)〜越前
という方向しか向いていません。
当時はド田舎で、実入りも少なく、甲斐・富樫残党や一向一揆が小競り合いしてるだけの加賀は、
京都を向いている朝倉としてはただの「ど田舎」。
朝倉の失策で天下取りの話してどうするよ?
場所が近いだけで、はっきり言ってレベルが足り無過ぎ。
両方とも家臣団に爆弾抱えてたんだから、
その辺りの方が『生き残る』程度を目標として、大きな問題でしょう
どうでもいいが
>>1が流れを書いててそれに沿った流れにしているスレは始めて見た
566 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 01:47:43
いや前に
日本の植民地について語るスレというのがあったよ。
>>1のような感じで
南洋諸島や樺太について100レスも語るところなんかないだろとかブーたれながら
しっかり消化されていたが
>>564 >両方とも家臣団に爆弾抱えてたんだから
確かにそれはある
568 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 02:41:53
爆弾??
誰??
朝倉内の爆弾
一族単位 堀江一族
対朝倉・爆弾四天王 冨田長繁 朝倉景鏡(対朝倉景紀・景恒) 魚住景固 前波吉継
浅井内の爆弾
クソ親父
宮部継潤 阿閉貞征 磯野員昌 堀 秀村 小川祐忠
究極の主君さげちん 高虎と勘兵衛
>>569 堀 秀村はまだしも宮部継潤 阿閉貞征 磯野員昌らは爆弾じゃないだろ
どれもどうしようも無くなって織田に寝返ったような連中だろ
特に磯野は完全孤立状態で半年以上粘ったけど援軍が来ないため降伏したんだから
やるきが無いなら姉川後にさっさと織田に寝返ってるよ
571 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 12:21:05
朝倉景鏡だって直前までがんばっていたじゃないかね
最後、「義影やる気無さ杉っ」て見限っただけでむしろよく頑張った方だと思う
爆弾とはいうに及ばない。あんな状態まで追い詰められれば誰でも裏切る
>>571 爆弾というのはそういうことだけじゃない
景鏡は義景の父方の従兄弟で大野郡の領主
景紀は義景の父孝景の実の弟で宗滴の養子であり敦賀郡の領主
景光・景恒は景紀の子
血が近すぎる上に強力な軍事力、義景から見れば安心できる相手じゃない
宗滴に至っては義景よりも権限あるようなものだし
現に景鏡の父、景高には謀反騒動があった
また景紀の隠居後景光は切腹させられてる、そして景恒は宗滴以来の郡奉行職を継いでいない
市販の本などによると義景は景鏡・景恒と景健の3者を牽制させることで家中の安定を計ろうとしたが
どちかといえば尼子みたいに親族衆をうまく使いこなせなかった例に入るだろうな
景高が最高に見えた(ノ∀`)
>>572 付け足すなら、その3者のごたごたのせいで義景の嫡男が暗殺されたと言う話しも
他景恒だが70年の織田の越前侵攻で降伏開城したため、責任を問われ失脚病死
越前最大の貿易港を持つ敦賀は義景の直轄領に
ただ姉川で敦賀衆も参加したが領主の交代直接の指揮官の不在により戦いに参加することなく退却
宗滴景紀の指揮の下、越前でも最強でもっとも実戦経験豊富なはずの敦賀衆だが
その後も活躍することなく朝倉滅亡を迎える
>>573 ダムが決壊して下流の大名が滅んだりして
579 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 15:51:08
そうすりゃ柏がJ2に落ちる事も無かったのにな
>「もう、あらそいはするな。女神おまえの方が低い。」
>と如来様に言われ、富士山の負けときまりました。
>しかし、女でも気の強い富士山の女神は、負けたくやしさに八ヶ岳の頭を太い棒でたたいたのです。
>すると、八ヶ岳は、八つにわれて、今のように八つのみねができ、八ヶ岳は富士山よりも、低くなってしまいました。
ツンデレ富士タソのことだから言いくるめればダムくらい作ってくれるかもしれない
582 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 13:20:06
朝倉の滅亡までの流れにはある意味、無駄がない。
言い換えると、滅亡まで一貫して進んでいて、まあ順当という感じ(まあ、姉川とかの作られた話もあるからかもしれないけど)。
義景の代で突然新興勢力と仲良しにはならないだろうね。斎藤という同盟国もやられたし。
それに対して、浅井は西の徳川的な扱いを受けれる将来があったであろうに(お市の方との仲も良いし)
義や武に早って滅びたという感じ。
浅井長政には、当主としての問題があるんだろうね。
若さ、我慢不足、家中を掌握し切れていない、
自分の武に自信があり過ぎなどなど。
やはり急激に勢力を伸ばす織田に対して不安が大きかったのだろう
このまま行けばいずれ滅ぼされるか、よくて取り込まれるしかない
それに金ヶ崎の時点で寝返れば信長を討ち取れると普通は思うだろうし
相手が尋常の人じゃなかったのが不運だったな
584 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 19:32:24
長政がもうちょっと痩せていれば
金ヶ崎で信長を殺せたのに
あの肥満型じゃ、追撃どころか馬に乗れなかったんだろうな
585 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 12:23:46
>金ヶ崎の時点で寝返れば信長を討ち取れると普通は思うだろうし
大将首を取るのはむずかしいと考えるのが普通じゃないかな。
結果から見ると、朝倉との連係も十分だったとはいえないし。
それに取り逃がせば、尾美二国の織田と国境を接して対立。
リスク大きすぎ。
このあたり武田の勝ちゃんよりセンスないんじゃない。
福井県史によると織田と戦うようになって義景は大名へ権限を集中させようとし、それまでの奉行を中心から
側近を重用するようになったとある
だから滅亡前滅亡時軍役拒否やあっさり離反されたのでは
まあ失策ではないけどね、あえていうなら改革が遅すぎたというのが失策か
>>586 「外圧(脅威)を感じての改革が性急過ぎた」
というのはあるけど、遅すぎたわけじゃないでしょ。
小領主寄り合いのまま江戸へ突入してる家もあるんだし。
奉行→側近制への移行だというのなら、
古くからの奉行系の勢力(分家筋、大領地家臣等)がそれに反発した、
というのが主な理由じゃないの?
奉行系と側近系、どんな人がいたんですか?
渦中呼んできたほうがいいのか・・・?
>>587 遅すぎというのは織田と敵対してからということだろう
似たような例で武田勝頼もいる
>古くからの奉行系の勢力(分家筋、大領地家臣等)がそれに反発した、
>というのが主な理由じゃないの?
>>586はその事言ってるんだろ
奉行系ようするに
>>572>>575だろ
側近系 鳥居景近・高橋景業
裏切るなら織田に加勢するとでも称して信長本陣から数キロ位まで近づいて
から裏切れば良かったのに、そうすれば光秀宜しく楽勝だった。とチラシの裏。
さすがは朝倉延びが他の大名とは違うな
朝倉より浅井の方が失策大きくないか
朝倉が織田の上洛から滅亡まではある意味当然の流れ、義景の個人的な能力でどうにかなったとは思えない
浅井のほうは織田を裏切らbなければならない理由なんて無いのに
592 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 21:57:01
>>591 歴史を語るに当然の流れなんて言っては駄目でしょう。それ言ったら光秀だって
信長殺す必要があったかは疑問が出て来るがな。お市の方が女ばかり3人も産んで
男子を産まなかったのが長政の恐怖を生んだって説があったな。要するに3人の誰か
に信長の子供の誰かと従兄弟結婚させて長政を排除して浅井家を乗っ取られると邪推し
たと言う意見。毛利も自分の子供を小早川や吉川に入れて乗っ取るのに成功してるか
ら可能性としては無くはないage。
>>591 浅井が裏切った時点でもまだ、信長の地位は確立されてない。
つかかなり危険な状態。
綱渡りみたいなラッキーと才覚とで、本当に奇跡のように
天空を飛んでいるような状態。
対する朝倉は、最近大人しいとは言え「古豪」
若狭を半ば従え、畿内方面や比叡山、六角残党、斉藤残党などと
密接に連携している。
>>593 比叡山はあってるけど残りは嘘だろ
畿内方面の主な勢力は織田に付いてる、三好六角とは一応敵対中、斉藤残党と連携?そんな事実無いだろ
本願寺とは一応前年に和睦が成立したが
>>592 あくまでの失策の大きさの程度の問題だろ
朝倉に比べ浅井の方が70年の段階では生き残る可能性高いのはほぼ事実だろう
浅井は織田に従っていれば、現状維持かそれ以上の成長が見込めそうだ
朝倉は降伏許されるか?降伏できても分裂させられそう。
597 :
596:2005/12/13(火) 23:31:59
>>595 >勉強し直してきたほうがいいよ。
自分も知りたいので詳しく、できれば急いで
なんせもうすぐ終わりだからw
斉藤は
>>500-600内で。
六角は浅井・朝倉のスレに書いてあったと思うけど。
毛利と朝倉、武田間の伝書鳩が六角一族の某。
599 :
日本@名無史さん:2005/12/13(火) 23:57:47
>>592 じゃあ、万福丸は側室の子かい?
それなら家康との対比(嫡男の危機)で面白いけど、
そんな年齢でも無いだろうから、それはネタに過ぎるな。
↓締めをどうぞ
600 :
596:2005/12/14(水) 00:00:10
>>598 書いてないぞ、どこだよ一番参考になりそうな
>>515も
>>594と同じような意見だし
>毛利と朝倉、武田間の伝書鳩が六角一族の某。
それ金ヶ崎後の話しじゃないか、龍興もこの時期は三好だか本願寺のもといるし
美濃の一部のものが越前に移ったと言う話しは他スレで聞いたことあるけど。
また若狭も金ヶ崎前後じゃ、朝倉よりも織田に従っているし
畿内も、三好義継松永含めみな織田に味方してるし金ヶ崎にも従軍したりしてる
本願寺はこの時期まだ織田とは敵対してない
601 :
596:2005/12/14(水) 00:03:10
>>599 すまんリロードすべきだった
601〜700・・・六角家、北畠家、畠山家
畠山は能登河内両方か?北畠も伊勢と陸奥両方OKか?
まあ陸奥の北畠は話題少なそうだけど
全部OKで良いんじゃね?
しかし陸奥ってなると南部の話題の方が出て来そうで
603 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 01:02:47
六角家、北畠家、畠山家、室町時代の名残だな。昔は強かったのに・・・。
最近のアメリカの自動車業界を思い出した。
六角は観音寺騒動で決まりだな
ところで六角って何であんなに将軍に討伐食らっているんだ
605 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 04:26:43
あんなに?
応仁の乱の延長戦(義尚)以外にあるっけ?
朝倉義景、六角からの養子説あり。
まだまだ朝倉ネタは終わらないよwwwwwwww
607 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 11:11:34
この3つを一つにするのは何故?
by 京極
六角は京に関わって細川三好と争うより京極浅井との戦いに専念すべきだったのでは
やってましたが、なにか?
いや別に
やってたら一時勢いが出て、
息子に名前付けるぐらいご機嫌取ってましたが何か?
家臣の娘を正室として引き受けるぐらいまで追い詰めましたが何か?
そのあと突然送り返されてきて、成り上がりの妹と結婚して逆らってきましたが何か?
むかついたので、ちょっと痛めつけようと昔の足利気取りで攻め込みましたが何か?
思ったより手強かったので、程々にして引き上げてあげましたが何か?
その後、共同して攻め込まれましたが何か?
なかなかに行軍が速いので、ゲリラ戦術に切り替えましたが何か?
私が何かミスをしたとでも言うのでしょうか?
とりあえずあれよ
うざい。
すまないが、三家が滅んだ経緯を軽く教えてもらえないかな
六角・・・信長
畠山・・・信長
北畠・・・信長
以上。
畠山?
小学生のころ日本史の漫画で六角家の当主の顔が六角形に描かれてて大笑いした覚えがある
おかげで苗字だけ激しく記憶に残った。こういう大名もいたんだなぁと。
ナにやった人か知らないけど。
剣豪大名北畠具教
618 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 10:36:10
619 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 13:03:05
ヒント
信長、政宗、etc
620 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 05:41:26
age
俺この600番台が一番話題無くてやばいと思う
逆に誰も知らんから知ってることはちょっとした事でも
トリビアみたいになるし誰か情報希望
畠山氏は元来平氏であったが
・・・ってこの板来る様人らには常識か
こんにちは
話題もなくなんとなくだらだらとdat落ちした、伝説の
「第三の管領・畠山氏」
スレッドの残党です。語ることもありません。
ちなみに以前はコニタンスレッドも同じ目に・・・
624 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 10:38:03
政治力はないが、戦はめっぽう強い・・・
畠山義就萌えです。
601〜700は、予定を変更して毛利家について語ることになりました。
ご了承ください。
626 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:17:59
そうなっても誰も文句言わなかったら悲しいなw
627 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:31:53
>>626 ちゅうか、"六角"テラスのライバルといえば寺町"京極"だろうし
畠山といえば細川、斯波だろう。北畠と対抗馬は土佐一条、宇和島西園寺
飛騨姉小路。そんなことも考えずカテゴラズした1が馬鹿。
>>625の通りでも良いんだけど
個人的には伊達家の失策も語りたかったな
少なくとも当初の予定の大名よりは語る事がいっぱい有るだろうが
伊達っつったら戦国大名一の超過大評価とも言われるところだし
いっそ陸奥北畠から強引に伊達・南部の話でも持っていこうかな
629 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 02:45:52
>>628 二本松畠山の父親殺しがある意味、政宗のブレーキを取っ払ったからね。
浅井久政レベルで語られる輝宗は可哀想だが・・。
>>627 かてごらいず
630 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 12:56:43
高家となって残った河内畠山家は勝ち組。
北畠も高家でしょ。
華族になって、剥奪だっけ?
>>633 そこ、入門とか概要にはものすごくいいけど、
義賢あたりの六角家の内部構造がさらっとし過ぎだと思う。
635 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 04:00:00
下手に書くと厨がうるさいからだろ
河内畠山は戦国時代はどう変遷したの?
探すのが面倒だから教えて。
637 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 15:45:22
age
638 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 01:11:05
伸びが悪いのは目的がはっきりしないからだ。
なぜ北畠家は織田から養子を、それも信雄なんか貰わなきゃいけなかったのか?
そこまで情勢は緊迫していたような感じは受けないが・・・。
もし、内部の権力争いに付け込まれたなら、やっぱりその程度だったということ。
なぜ神戸家は織田から養子を、それも信孝なんか貰わなきゃいけなかったのか?
そこまで情勢は緊迫していたような感じは受けないが・・・。
もし、内部の権力争いに付け込まれたなら、やっぱりその程度だったということ。
なぜ田丸家は関が原で西軍に、それも宇都宮から戻ってまで西軍でなきゃいけなかったのか?
お前が動こうが動くまいがどうにかなるような感じは受けないが・・・。
当然、東軍の全勢力に完全無視されたのだが、やっぱりその程度だったということ。
640 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 02:56:20
そりゃあ秀頼様への忠義でしょうw
いっそ家康の本営に切り込めばよかったのにな
運よく討ち取れば田丸家は大大名に…
・西軍の拠点が岐阜城なら
・戦場が岐阜〜名古屋なら
・秀忠が真田粉砕or無視して木曽路に入ってきたなら
かなり重要な役どころになっていたかもしれませんね、田丸。
実際は
→家康に従い宇都宮(蒲生氏郷与力だったので、会津に土地勘あり?)
→江戸
→品川(ここで軍を留める)
→単身江戸城に行き、家康に堂々と西軍宣言(かっこいい)
→品川から軍を率いて東海道を行軍(かっこいい)
→城に立て籠もる
→東軍、眼中なしwwwwwww
→直昌、大坂へ向かう
→留守中を失地回復を図る東濃豪族(妻木氏ら)らに攻略される
→戦後、越後配流、子孫は蒲生家臣。蒲生潰された後は前田家や幕臣に。
だそうです。
そのまま残れれば、北畠復興もありえたかもしれないのに・・・
田丸って司馬遼の創作かと思ったら本当に
ああいいうkとしてたんだ
カッコヨス
643 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 23:42:25
北畠一族根絶やしにしようとした奴が、復興させようとするかね・・
>>639 家康は西軍いきたい奴はイってもいいよ(どうせでねーだろプゲラ)」みたいな
こといってるから田丸の態度は何一つ間違ってない。裏切りでもなんでもないし
小大名だから大名自身の性格が反映されたんだと思う。
事実西軍につきたかった大名って実は多いんじゃないかと思うし
田丸はその点で幸せでありかつ、多勢の中で西軍行きに決定した
心境(きっと凄く悩みに悩んだんだろうなぁ)を考えると
無名だがある意味立派であるとも取れる。
氏家行広も。
幕末の林さんに似てるきがせんでもない
あの中で西軍につくと宣言するのはかなりの度胸だよな
惜しむべくは小山会議で宣言しなかった事だ
諸大名は大きく動揺したと思う
もしかすると西軍につく大名が多数でたかもしれない
下手すると福島あたりに殺されたかもしれんがw
どっちにしろ歴史に大きく名を刻めたな
>どっちにしろ歴史に大きく名を刻めたな
実は、誰も覚えちゃいませんがwww
カワイソス
新庄みたいに、復帰させてはもらえなかったのね。
新庄剛?
小山会議で宣言すれば名を刻めただろう、と言う意味でしょ
それはそうと田丸が西に加勢したのは単に西の方が勝ちそうだからと言う理由だったり
信雄に誑かされたんだろう
651 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 07:52:44
信雄系織田家の誰か一人くらい「北畠」を江戸時代に名乗ってても
面白かったのに。
信雄の正妻が北畠の出だったが、この妻との子の系統が江戸時代に
続かず伊勢北畠の嫡系血筋が完全に絶えたのが痛かったか。
652 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 07:56:48
織田有楽斎
653 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 13:21:47
age
654 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 14:34:48
北畠昌教?
六角義賢は何処で死んだんだっけ?
甲斐の和尚もさぞかし迷惑だったろうに
お久しぶりです。
そしてメリークリスマス^^
アク禁でなかなかここに来れませんが、これからもここを盛り上げて下さい。
六角家、北畠家、畠山家・・・一番難しいテーマですが、みなさんのお力に期待しています。
あと、毛利家は興味が無かったので無視してしまいました。ごめんなさい。
657 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:43:45
age
658 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 06:35:38
和尚は引きわたしを拒否し攻められてしんだはず
659 :
寒:2006/01/02(月) 15:55:42
田丸の件ですが、少し前は”蒲生氏郷の与力”ですよね?
蒲生が領地削減されたときに、独立大名になったんですよね。
川中島4万石で。
蒲生と言えば、ほれ、
蒲生旧臣→石田家中にごろごろ・・・
このラインで、石田方に乗ったのかもしれませんね。
660 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 22:51:09
がんばって700目指そう
661 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 01:41:52
田丸で思い出したが何気に直昌は剣豪
一つの太刀を伝承してると言う話も・・
それと幕末、水戸天狗党挙兵の際の首領田丸稲之衛門はその子孫
662 :
;:2006/01/08(日) 11:56:17
六角上帝は信長に靡いて上洛してたらよかったのにね−。
663 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 12:45:37
>六角上帝
六角大王とどっちがえらいんですか?
西遊記に出てきそうだな、六角上帝 ・六角大王。
665 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 13:36:35
これらの一族の名前挙げるだけでも700は行くな・・・。
畠山高政
六角大王・・・そんな名前のソフトあったね〜。
姉三六角みこみこナース
過疎安芸
671 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:17:04
age
姉三六角ってどういう意味なんですか?
さだまさしも歌ってるね、姉三六角蛸錦
修学旅行がどうとかいう曲
675 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 04:37:05
三次は伸びるのかな・・
伊勢の一番の大物は北畠、その次が長野。
その下に神戸、木造、分部、関、亀山、細野、藤方、がワラワラいるって感じだよね。
長野は北畠に降伏して養子を受け入れる。んで、信長が攻めてくると
北畠が信長の次男信雄に、神戸が三男信孝に、長野が弟信包に乗っ取られる、と。
乗っ取った織田家は尾張の勢力だけど、伊勢国内から
下克上的な存在は現れなかったのだろうか。
伊勢神宮とかあるから保守的な国柄だったのかな。
それとも、ある程度旧勢力の権威がしっかりしてたのだろうか。
伊勢をゲットしたんなら、北畠に息子1人を投入するだけでよくね?
神戸だの長野だのに身内を無駄遣いする必要なくね?
>>677 神戸信孝は本能寺直前には三好家への養子行きが決まっていた
神戸が相対的に必要無くなったらあっさり別の家と結ばせれば良いだけなんじゃ
あ、そーゆーの簡単にできるんだ。
ありがと。
木造
豊臣秀次も最初は三好の養子だったり
秀康も豊臣→結城→徳川
逆に考えると、信長は伊勢のかなりの部分を織田家の直轄地としたかったかもしれないね。
いままで、北畠、長野、神戸が所有してた所をそのままゲットすることになるわけだし。
683 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:28:38
なぜ田丸の名を出さない。
腐っても「田丸御所」だぞ。
あと伊勢には、楠木氏が細々と残っていた。
684 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:47:29
<<683
司馬遼太郎の「関ヶ原」下巻にその田丸直昌が出てきた。
あんな個性の強い人がいたとは驚きだった。
685 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:03:19
戦国期に国司北畠家の直接支配下にあったのは南伊勢のみ。
中伊勢は長野家、神戸家、関家など、北伊勢は北勢四十八家と呼ばれる小豪族に長島一向宗など乱立状態。
志摩も鳥羽家、小浜家、九鬼家など海賊衆が各々独立していた。
北伊勢は伊勢守護の土岐氏が・・・、まだいたっけ?
687 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:50:40
あげ
688 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:51:34
あげ
689 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:57:10
690 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 04:12:11
滅びの美学ねぇ・・・。
691 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 08:32:38
滅びの美学の究極は、織田信長www
>>685 詳しくは知らないけど、津は新保、原田、五十嵐が台頭してたらしい。
元々は原田が治めてたらしいが戦国期に乱立したんだとか。信長と戦った記録もあるそうな。
693 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 08:28:26
早く終われよ
700から誰だっけ?
携帯からは見方わかんね。
三
好
入
699 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:56:17
朝陽丸
700 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:23:18
コンサートで障害者の子に対して暴言をはいた事件です。
障害者の子の近くで見ていた人がその時の様子を簡単に書いています。【実際あったやり取り/マジネタです。】
浜崎「一番前で座ってるよ。みんなどう思う?感じ悪いよね〜。」
客「お前らだよカス!あゆに迷惑かけんな! さっさと立てよ!」
母親「すみません、この子足が不自由で立てないので・・・」
客「うざ〜〜、あゆに迷惑かけんならくんなよ!」
客「そうだそうだ!帰れよー!」
母親「本当に申し訳・・(泣)・・・」
客「お前ら帰れ、邪魔邪魔」
娘「お母さん・・もう帰ろう・・本当にごめんなさい」
母親「・・・(泣)」
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
証拠VTR→
http://www5d.biglobe.ne.jp/~EMPEROR/hamaayu.mpeg で、こういう事?事件?が報道されないかって、
あゆの事務所がマスコミとかに金払って口止めしてるらしいよ
だからみんな回してくださいお願いします
やっぱ三好長慶の弟と息子が急死して
当主である長慶がボケ老人に成り果てたのが
三好衰退の原因かと
702 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:31:38
足利義輝と講和したのがよくない。
講和する必要がどこにある?
703 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:52:22
>>702 ほっと一息つける
正直、長慶には
「将軍なんか廃止して、名実ともにオレがトップに立つ。場合によっちゃあオレ将軍」
という発想はできなかったんだと思われます。
細川晴元が足利を巻き込んだだけだから
信長の場合とは違うしね
705 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 02:14:24
織田と三好の将軍への対立の違いをどう捕らえるか
706 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 14:00:55
何気に将軍と管領を同時に敵に回したわけだからな
707 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 18:47:51
708 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:15:14
失策もなにも、当時の良識・常識だったわけで・・・
信長が異常なのよ。
いま、金と権力を手に入れたとして
「総理大臣つぶそう。オレ、征夷大将軍」
とは思わないでしょ・・・
709 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:23:51
てか、三好の出自ってどんなん?
源氏なの?
710 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 19:27:00
源氏で小笠原
信州の小笠原が武田に追われたとき、
その縁で三好に養ってもらっている。
711 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 20:40:53
三好長慶が弟冬康を殺したこと
712 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 21:46:20
>>708 金と権力を手に入れたとしたら総理大臣をつぶして国を治めたいと思うぞw
それはさておき・・・
三好長慶は足利義輝と和睦した後、何をしたかったのかが解らない。
傀儡だろ
714 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 23:07:40
その割には具体的な行動が見えない。
だから殺したんだろ。
716 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:14:40
松永と三好三人衆がな。
717 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:00:27
718 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:04:18
信長って三好一族にたいして穏当な気がする
719 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:12:03
三好義継の最後は哀れだがw
下克上の代表例と言われる割にあんまり野心でギラギラしてるような感じじゃないんだよねえ
長慶没後は逆にやられちゃうし
なんだかんだで生き延びて大阪夏の陣で大阪方についた三好三人集の
最後の一人は凄い
制海入道な、あいつの尺杖は最高にCOOLだったな
信長さえ同時代にいなければ
松永に傀儡化される予定とはいえ
しばらくは、細川管領的な立場にいれただろうに…
良くも悪くも常識の範囲の英傑
文化人としての側面は
エピソードを聞くとカッコイイと思える点が多いね
724 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:18:37
六角・畠山連合軍との合戦では精彩を欠いたような気がする。
十河一存が死んで岸和田が手薄になった時、何ら善後策を講じていないし。
三好長慶は幕府への介入に力を入れすぎていた。
播磨か近江に侵攻して勢力拡大を図るべきだった。
長慶は義輝を京に戻してからは、
それまでの将軍・管領の権威を否定した三好政権維持を放棄して、
足利将軍の下で管領的ポジションに納まりたかったのかね。
726 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:18:17
罪を償っているのかなw
>>724 難しいんじゃないか
幕府管領の権力を利用して国人の掌握をしているような段階では
そもそも長慶が敵視してたのは
父を自害に追い込んだ
細川晴元と叔父の政長なだけで
将軍に対しては何の恨みもないんだけどね・・・
細川と敵対してたらなんか足利とも敵対してて
なんかだりーなとかおもってたんじゃね?w
十河一存 1561年没
三好実休 1562年没
安宅冬康 1564年没
三好長慶 1564年没
とりあえず屋台骨が一気に崩れすぎ。
嫡男も死んでるしね
731 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:57:58
兄の松永久秀より軍功があった松永長頼の敗死も地味に痛い
長頼の死により丹波が従属してた波多野や赤井など豪族の支配する国へとなってしまった
兄とは違い忠臣だったらしいし一存と並んで三好家を代表する猛将だったからね
市内に長慶の居城だった所があるが今や全く見る影もない
夏草や兵どもが夢の後
三好家滅亡後も大阪は色々あったからな
大坂の陣で三好神廟のあった堺の南宗寺なんかも燃えているし、
確かに当時のままの史蹟は少ないな。
735 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:59:02
神廟?
三好って神道?
>>735 三好神廟には祖父長輝の霊を祀り、
廟内には霊代として武装乗馬して弓箭を持った高さ八寸の黄金像を安置し、
社頭には十二間の宝蔵を建て、長輝の武器を蔵した。
また南宗君祠は父元長の霊を祀ったものであろうといわれる。
『堺市史』
737 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:04:56
>>731 >松永長頼の敗死も地味に痛い
伊勢貞孝の死も地味に痛いと思う。
貞孝も長慶につくか幕府に拘るか
もう少しはっきりしたほうがよかったな。
だから六角の眼に止まって呼応
義興、久秀と戦って戦死という結果に。
739 :
?E^?a?L:2006/01/23(月) 15:02:08
功名が辻の竹中半兵衛さん
西美濃にある菩提寺の屋根が
今度の大雪で壊れました
740 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:42:06
話題が三好家になりますとレスが進みますね。
ところで三好家の備前介入は失策になるのかな?
個人的には篠原長房が好きなんですが。
741 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 17:29:00
篠原長房って死ぬ前に長宗我部の阿波侵攻を予言したんだっけ?
>>741 自分が死んでも、5年の間は長治は阿波を維持できるだろう。
5年を過ぎれば阿波は人の国になるだろう。
という感じの遺言を残したという話だな。
長房を討った事も失策だよな。
>>740 瀬戸内の海運は細川-三好にとっても重要
大内-毛利とその権益巡って争いになるのは致し方ないのでは
744 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 10:04:09
>>743 ありがdd
やっぱり東西瀬戸内海の制海権をめぐる三好と毛利の本来の戦いと、
織田・毛利の中国地方の連携の打破は必要ですね。
浦上が不甲斐ないだけかなw
745 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 12:44:33
三好実休の馬鹿息子は最後どうなったの??てかなんか義興の息子が生き残ってたよね
746 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 13:19:32
>>745 長宗我部元親に通じた異父兄の細川真之らに攻められて、
命からがら船で淡路に逃げようとしたけど出来ずに別宮浦にて自刃。
>>744 瀬戸内海の制海権争いのため毛利は織田と組んで三好と戦うことに
でもこの時期の織田は信玄とも対立して毛利を支援することはあまり
できなかった
748 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 18:32:54
毛利家は織田家の支援なんか必要としてなかったのでは?
自力で瀬戸内海・中国地方を平定して覇を唱えたかったと思う。
>毛利家は織田家の支援なんか必要としてなかったのでは?
支援なくてもいずれは浦上を滅ぼせるだろうけど(事実滅ぼしたが)
支援が無いよりはあったほうがいいに決まっている、
毛利も馬鹿じゃないから利用できるものはなんでも利用するだろう
750 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 19:43:05
それで中国地方に織田の勢力圏が広がるのは賢くはない。
なんでも利用することを拒んだ毛利はこの時は賢かったなw
史実じゃ支援を頼んでいると思ったが・・・
752 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:20:06
頼んではいるけど本気で織田家の支援を当てにした行動はしていないような気がする。
まあ、結果論だけどねw
小早川の書状だな確か
織田は三好はある程度拘束できてただろうがそれがせいいっぱいで
頼まれてた中国への出兵はできなかったな
とはいえそれでも浦上から見れば毛利が織田とも結んでるという事実だけでも
嫌なものだっただろうな
754 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 00:36:49
信長の野望で三好家が弱すぎる事について
>>754 最近はマシなほうだと思うよ。
俺が一番印象に残ってるのは烈風伝だな。
だって天下をとった長慶の戦闘が三好一族の恥とも言える長治より低(ry
>>754 それは三好家ではなくKOEIの失策じゃないのかw
三好家はすべてが時期尚早だったような感じがする。
革新じゃ普通に強いぞ。
松永秀久が開始直後に引き抜かれ安いから
血縁関係にしとかなきゃいけないけど…
758 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 12:49:58
風雲録の長慶は酷かったな
政治と戦闘の合計値が足利義輝より低いという異常事態
759 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:36:02
信長の野望での三好家はシナリオ開始の段階で
丹波が領国になってないよな?
そうそう以前から疑問だったのだが石成(岩成?)友通が
何で三好三人衆の一人なんだ?
いくらネットで調べてもさっぱりわからん
奴は何者なの?三好家の人間なの?誰の子?
761 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:07:37
三好三人衆とは言っても三好家の有力者のことらしいので血のつながりは関係ない。
後の2人も微妙に遠いしな
763 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:55:12
蒼天録の三好家は周りにリンチされてすぐ滅びるぞ 四国方面は何とか生き残るが…
天下創世では三好家意外に強いよな
764 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:06:39
そろそろ信野暮ネタは勘弁してほしい。
スレ違いに気がついてくれ。
765 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:07:53
っていうか板違いかw
近隣の大名と手を組まなかったのは失策になるのかな?
>>761-762 さんくすです
失策と言えば
戦ばっかりして政を怠り
畿内を焦土とかして
みすみす外部勢力(信長)の侵攻を
許してしまった事かな
三好家って豊臣政権下でいつのまにか
いなくなってるけどどうしたのかな
768 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 10:54:14
畿内が始終混乱していたのは、何も三好のみの影響ではないと思うが。
細川管領家が主権を握っていた時だってそうだろう。
これは信長以前の畿内の特色じゃないか?
>三好家って豊臣政権下でいつのまにか
>いなくなってるけどどうしたのかな
秀次が康長の養子に入ったのと、十河存保が九州で戦死した以外って
そういえばあまり見ないな…。
信長が入ってからも相変わらず混乱してるじゃん>畿内
摂津三守護なんて任命から2年以内に一人が戦死、二人が追放。
残りゼロ。
河内だって似たようなものだ
771 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 11:21:07
和泉はどうなん?
織田勢力の浸透が遅いように見えるが。
三好が頑張って異端界?
越前に流れて来た三好の一族が秀吉の朝倉攻略に手を貸し、
功があったとのことで秀吉から山を直接もらったという伝承がうちの一帯にはある。
その末裔を名乗る一族がいて、かなり大きな土地を保有はしている(一時ほどではないようだが)。
まあ、実のところ朝倉の方が先に滅んでるんだけどね・・。
773 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 23:41:50
淡路の安宅家はどうなったんだろう?
秀吉に滅ぼされたのかな。
安宅氏の中には、紀州にある苗字地の安宅村に戻って行っていた人々が居るらしい。
秀吉の紀州征伐の際に帰順して、秀長に仕え、後に石田三成に仕えたとか。
冬康の血の入らない安宅の人かもわからんけど。
775 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 00:20:18
>>773 72年に織田に付いてその後荒木や別所と同じ頃織田を離反
その後秀吉に滅ぼされる
失策といえば、足利義昭をみすみす逃してしまった事は?
義昭を片付けていたら、その後がずいぶん楽になっていただろうに。
義昭でも義栄でも、信長のように潰さないんだったら一緒じゃない?
>>775 越前市(古くは丹生郡)
779 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 10:07:17
信長のように潰さない政策をとるのが三好家だからな。
畿内のすぐ近くに尾張・美濃・伊勢北部を領有する大国である織田家が存在したことが不運。
780 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 10:50:36
>>778 越前市のどこだよ・・・
そんな話あったっけ?
>>780 知らなくて当たり前。
俺はその末裔から話を直接聞いて、山(小さい山(多分古墳)で砦程度にはなる立地条件)
を案内されたんだから。
村(というかその家と一族だけに)に細々と伝わる伝説みたなものだからね。
別に織田家の政策が敵を殲滅なわけじゃないぞ?
織田信長は手痛い目に一度あった相手は徹底的につぶしてるだけ
畿内制圧にあたって帰順した武将は
普通に配下に入れてるし、切り取り自由とかでわりと自主的に戦わせてる。
三好康長(笑岩)は織田→豊臣と仕えてるし。
783 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 15:38:34
>>782 >別に織田家の政策が敵を殲滅なわけじゃないぞ?
松永久秀と三好康長は敵将として織田家の軍門に下っているが、
後は殲滅しているんじゃないのかな?
784 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 16:22:53
>>777 奈良東大寺を取り囲んだまではよかったんだけどねえ。
まさか幕臣・細川藤考が自ら乗り込んできて救出するとは思わんかっただろうね。
「覚慶さま(義昭の僧名)が病気になられた、今医者を連れてきたので通して欲しい」
潜入→脱出→朝倉→信長
手際よすぎ。
>>783 美濃三人衆や北畠一門のことも忘れずに・・・。
殲滅とか根絶やしの印象が
比叡山とか伊勢長島とか伊賀とかで強いだけで
ここらへんは一度痛い目にあってるから
根こそぎいってる。
>>783 十河も許されてる
安宅は後にもう一度背いたから滅亡したけど
787 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 18:17:20
>>785 ×美濃三人衆→○西美濃三人衆
北畠一族は騙し討ちにあっているからな。
安藤も追放されているし。
磯野も謎の逐電。
最初は信長も非力だから敵国の家臣団の切り崩しを上等としていたけど、
安土城築城の頃から織田政権が磐石になってきたからなw
つーか、三好も織田もこの辺は同じだろう。
789 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 20:31:28
美濃三人衆は最近よく使われているよな。
スレ違いスマソw
790 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 20:32:13
本来は西美濃三人衆だろ?
まあ、東美濃は山ばっかだからな
西美濃=美濃ってことで
792 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:47:47
>>791 歴史を語るなら正確に。
若江三人衆を河内三人衆とは言わないと同じ。
そんなことより同じ三人衆でも三好三人衆の方!
元亀(元年)の争乱の時、織田信長が志賀対陣で苦境に陥っているのに何故上洛しなかったんだろう?
これは失策と思うがいかに?
793 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 02:10:44
三人衆ついでに、結局大仏殿焼失は
久秀と三人衆どっち側の失態なんだ?
>>787 北畠一族も討たれたのはすべてじゃない
>>792 京の入り口を和田に押さえられて突破できなかったからだろ
795 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 02:59:06
>>794 >北畠一族も討たれたのはすべてじゃない
北畠具房と田丸直息とかだろ?
全て殺されていないと気がすまないのかw
三好長慶
悪くはないんですけどねー、晩節を汚した感はあるね。
木造は?
798 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 09:16:26
織田信長が上洛した時点で三好家の要人が逝きすぎ。
残った三好三人衆や松永久秀は仲違いの最中。
篠原長房や三好康長がうまく取り持ってくれれば。
無理かw
799 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 09:45:22
三好長慶にしろ今川義元にしろこの頃の戦国大名って、
当主が死ぬと瓦解しやすいよな。
まあ三好家の場合は義興の死も痛かったけど。
800 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 09:46:17
さて三好家の失策はこれで終わりだな。
801 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 09:47:00
織田家の失策を語りましょう。
三好長慶以前に三好内部は
長慶の父と叔父で骨肉の争いしてるから
応仁の乱依頼のゴタゴタの延長なんだよね・・・。
まぁ、あのタイミングで織田信長という英傑がいなきゃ
三好党で50年ぐらいは統治されてたとおもうけど
織田家の失策は、信長が偉大すぎた事…
803 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 10:32:48
織田家の失策というか、信長細大の失策は本能寺の変の時に信忠まで
京に呼んじゃった事。
信忠が岐阜城か、安土城に居れば光秀に謀反の勇気は出なかったと思う。
804 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 10:50:50
だいたい「俺は三好の」「うちは北畠の」というような、滅びた名族子孫を名乗るが
歴史整合性が低い場合
チョソ
805 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 11:22:42
織田信長のやり方じゃ、どちらにしろ彼の代では天下は取れないだろ。
敵だらけ、裏切られまくり、殺しまくりだもんね。
本能寺の原因はわかんないけど、親子そろって殺されたのが最大の失策か。
信長最大の失策は林・佐久間の追放だ!と言ってみる。
新参者のキンカ頭に殺され、成り上がり者のサルに
全て盗られてちゃ世話ない。
>>807 失策じゃなく、マイナス要素だったのは織田家の仲の悪さ。
信雄と信孝がしっかりしていれば何も問題はなかっった。
信長の弟や庶子たちが三法師を宗家に立ててしっかりと補佐すればよかったのに。
こういう所を見ると、毛利氏はは仲が良かったんだなぁ…。
まあ、代替わりの時に騒乱が起こるのは人間の性だけど。
あと、織田家には長老っぽい人間がいないよね。信長のワンマンというか。
もし、これが北条なら幻庵が一喝してたと思うよ。それでどうなるでもないかもしれないけど。
強いて言うならやっぱり柴田かな?柴田さんは負けたけど筋は通したと思うよ。
同じような理由で豊臣が滅んだのは何か因縁を感じるよね。
織田有楽が一喝なんかしなかったよね。当たり前だよね。
810 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 12:49:38
いつまでも腰が軽かったことが失策。
偉くなったら、偉くなったなりの身の置き場がある。
それをいつまでもわきまえなかったから、隙(というか日常)を突かれた
811 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 13:08:19
光秀だけに出陣命令だして信長は行く必要なかったのでは
812 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 15:23:25
まあ本能寺の変は誰が見ても失策だから今更どうでもいい。
それより越前侵攻の時、織田信長は浅井長政に煮え湯を飲まされるわけですが、
信長は万が一にも長政が蜂起すると考えもしなかったのでしょうか?
姻戚関係なので安心とか信長が考えるとも思えませんが。
そういう大ポカをやっちゃうのが信長なんじゃないかなぁと
普通に信頼してたんじゃね?
婚姻関係結んでたし。
あの時期に朝倉を討つ必要があったのかが謎なんだけど。
814 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 15:59:16
>>809 >毛利氏はは仲が良かったんだなぁ…。
秀元vs吉家 は?
>>813 一応あの時期は
北畠は従ってる、本願寺延暦寺とも敵対してない、六角は放浪中
三好松永他畿内諸勢力も協力している、丹波丹後も一応従っている
阿波讃岐の三好勢力は敵対しているが当時の織田にはまだ攻撃できない
といった状況で、
義昭-信長政権に表立って敵対しているのが朝倉
>>809 >織田家には長老っぽい人間
こういう人間がいると大抵お家騒動となるが・・・
信長の弟や庶子たちを全部合わせても与力を除いた柴田明智羽柴滝川あたりと
変わらない程度の軍事力しかない
信長の弟や庶子なかでも最大の信雄でさえ伊勢半国程度しかないし
信忠と争わないようにしたかったのだろうけど
結局は親子が同時に死んだのが最大の失策となる
817 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:11:23
>>813 >そういう大ポカをやっちゃうのが信長なんじゃないかなぁと
了解。本能寺の変の時と同じですね。
>あの時期に朝倉を討つ必要があったのかが謎なんだけど。
南伊勢侵攻や越前侵攻は必要だと思います。
朝倉家はあの周辺では強国と思います。
上洛したとはいえ、畿内全域が織田家の管轄というわけでもないので、
反対勢力になりそうな北畠家や朝倉家は早めに従属させたかったのかも。
六角家についても信長は交渉によって従属させたがっていたみたいだし。
朝倉家に対しても養子縁組(乗っ取り)ができれば良しとか考えていたのかも。
>>817 単にあの時期敵対していたのが朝倉家だけなんじゃ
従属している勢力を攻めることはできないと思う
819 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:22:58
>>818 >単にあの時期敵対していたのが朝倉家だけなんじゃ
織田家は一方的に敵視していたけど朝倉家の方は別に敵視していないよ。
820 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:24:23
越前侵攻も最初から朝倉家を攻めることを公言していない。
表立って敵対はしてないが従ってもいない
また国境を固めるなど、敵対ととられかねない行動もしてはいるがな
素直に上洛していてもいずれは潰されそうだけど
織田の朝倉攻めから、包囲網をしかれるようになった印象が強いんだよねぇ
わざとなのかもしれないけどそれ以後
多面戦略になり、どっちにしろ本隊導入してない戦場では
ダレダレになってる気がするし。
三好は織田から攻めようにも水軍無ければ四国に渡れないから
織田から攻撃は難しいが三好からは都合のいい時期に攻めることが可能
三好と朝倉は同時に相手することに結局なるだろう
数年時間かければ別かもしれないけど
それに本願寺との敵対が加わったのが余計だったのだろうな
824 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:37:44
>>822 三好三人衆と敵対したまま朝倉家と戦をしてしまったからね。
普通に南北挟撃戦となるよね。
>>823 まあ近江や畿内諸勢力の被官化直轄化推し進め、信雄信孝の元服乗っ取りを待てば
もっと安全に勢力を広げられた事は確実だが、それだと史実よりもかなり時間かかる
ことになる
三好三人衆や阿波三好を先に討つにしても水軍を強化するなり安宅を降伏させるなり
しないといけないがそれもまた時間かかることに
826 :
822:2006/01/29(日) 16:44:37
んで、この時期以降の信長ってすごい急いてる感じがするんだよ。
美濃進行でかなりの時間を割いてしまったので焦ってるような。
普通の武将なら、京に上った時点で畿内を安定させる為に
将軍をかついで、体制を作ると思うのだが
そうじゃないのが信長の信長たる所以なのかねぇ。
827 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:46:18
>>825 荒木村重が摂津に登場したことは織田政権にとって幸運だった。
>>825 >>826 ハイリスクハイリターンとローリスクローリターンか
信玄とかなら後者をとるだろうが信長は前者をとると
だからこそあれだけ急速に勢力をひろげることになり
その行動パターンが本能寺へと繋がって(ry
829 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:51:03
>>826 近江を失いかけたからね。
信長もさぞかし慌てたろうな。
この時期の信長は近江防衛戦が最大の課題だから。
結果から言えば信長の採った行動は最短の方法だった可能性が高いのか?
滋賀の陣とか武田との敵対などかなり綱渡りのような戦略だが・・・
鉄砲で撃ち殺されそうになったこともあったよな
他にも陣頭突撃が朝倉滅亡時に天王寺と
むしろよく本能寺まで生きていられたな信長は
常に危険が一杯
832 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 16:55:44
>>830 志賀の陣はかなりの綱渡りでしょうね。
和平交渉が成立しなければ失脚していたでしょう。
信玄の方は信長に踊らされていて時機を逸していたから、
それほどでもなかったような気がします。
尾張統一時のほうはどうだろう
まともな行動取っていたら離反する家臣も少なかったのだろうか
>>830 本願寺との敵対が他の戦略でも避けられないなら最短かもしれない
でも最初から本願寺と仲良くして三好朝倉と敵対時に本願寺が中立だったら
もっと早かったと思う
今までのレス見ると70年の時点では三好朝倉との同時敵対は避けられない
みたいだけど本願寺は別だと思う
>>832 信玄のほうはあと1年早ければ違ったと思うけどね
>>833 むしろ尾張時代のほうが神がかってると思うよ。
836 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 17:19:24
837 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 17:41:16
>>834 信玄は信長の口車に乗せられて同盟を結ばされ、
さらに美濃を領有できなかった時点で終わり。
信長が美濃を領有したのに駿河にこだわりすぎたよ。
スレ違いになるので信長の話に戻すが信長は本願寺を甘く考えていたかな。
元亀年間は本願寺に翻弄されっぱなし。
天正年間になっていくらかマシになっていくが。
なんとなく信長の兄・信広が長島で戦死したのが
じんわり効いたような気がする
考えすぎ?
信忠が京に残って信長の上洛を待ったのが
最大の失策だよな、やっぱ
当初の予定通り堺で徳川家康と宴会三昧していれば
少なくとも秀吉に乗っ取られる事だけは防げたはず
次は本能寺の変で信忠が二条御所に篭城した事だな
さっさと逃げればいいものを・・・
これはあくまで私見だけど光秀は信忠が京にいる事を
知らなかったんじゃないかな?
信忠の京滞在は突然の方針転換だし、光秀が坂本から
亀山に移動する際、京を通過したはずで
その段階ではまだ信忠は六月二日は堺にいる予定になっていた
はずだったんだから・・・
長文スマソ
>>838 堺にいたとしても家康穴山同様討ち取るつもりだったのでは家康は逃げたが
伊賀とは怨恨のない家康でさえなんとか三河に戻れた程度だから
信忠だったら伊賀越えは更に危険
信忠が堺に居たとしたら丹羽長秀や信孝の軍勢と合流して
すぐさま畿内の勢力を率いて光秀を討伐したんじゃない?
家康は信忠の客将として先陣でも勤めるんじゃない?
その軍勢と合流ってのができないと思う。
戦う準備をしている部隊と
そうでない部隊、あの時代なら数日のラグがあるだろうし
実際、長浜・安土も2−3日で落ちてなかったっけ?
843 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:09:19
>>838 信忠側からすれば
「うは!反乱かよ!
親父相手に反乱ってよくやるよ・・・すげー、光秀か。あいつソツないもんな。
じゃ普通に京都包囲されてるよなぁ・・・
当然、京都〜安土方面も塞がれてるよなぁ・・・
・・・逃げるの、無理だよなぁ。はぁ。」
と、常識判断してみました。
実は、ほとんどがら空きだったんですけどwwwwwwwww
信忠の失敗は、
せっかく二条御所に立て篭もったのに”親王御一行を脱出させちゃった”
ことだと思う。
親王を盾に、光秀に朝敵の泥を被せるもよし、
親王経由で天皇動かして、光秀の包囲を解かせろなどと交渉するもよし、
その辺の交渉過程で援軍来るまで時間稼ぎするもよし。
とにかく、
あの段階で信忠が持つ「最高の政治&戦力カード」だったはずなのに。
844 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:15:57
>>842 安土は留守部隊が蒲生賢秀が放棄。信雄が勝手に焼却(伝)。
信長&家臣家族は蒲生賢秀が、自領・日野へ匿った。
佐和山と長浜も留守城なので、ほぼ放棄状態。
「戦う用意のある奴」が残ってなかった。
だから その戦う用意してる奴がいない 絶好のタイミングで
本能寺をおこしたわけだから、信忠が逃げようとしたところで(ry
846 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:58:52
「信忠が生きているかどうか」が大事。
安土がダメなら、岐阜か清洲まで一旦逃げればいい
信忠の弟の長益は見事に生還したんだから
信忠も逃げる事は可能だった
面目がつぶれて領国経営に支障をきたした可能性もあるけど
>>843 >あの段階で信忠が持つ「最高の政治&戦力カード」だったはずなのに。
あの段階じゃ精々時間稼ぎにしかならないだろ
光秀には時間も後も無いから、交渉の余地はほとんど無い
脱出させなきゃ光秀は親王も殺しても構わないと攻めて来るだろ
849 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 17:06:26
いかに戦国とはいえ、親王殺したら大変なことになるぞ。
無理。
親王を盾にしている限り、いつまでも立て篭もれたはず。
落とし所がどこになるかはわからんけど。
そんなに上手くいくんだったらそうしたんじゃないかなと言ってみる
851 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 17:56:07
親王の利用法としてはかなり醜悪
それを嫌ったか、それとも馬鹿だからかとにかく「親王逃がしてやった」
これを信忠の失策と言わずして
信忠が生きていたところで
信長の後を継いでカリスマ性を発揮できるかどうか…
853 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 18:23:36
>>849だったら光秀も信忠に拉致られた親王を助けることを大義としてやっぱり攻められるんじゃ?信長は逆臣だから。
そんなに親王が大事なら盾に使うことなんて不可能なんじゃないか
>>852 その意見、史学科専攻の奴に多いけど
あれだけ支配すればもはやカリスマ性は
いらないよ
血のつながりで充分
856 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 21:36:43
信忠は失策とはいえないな。
ただ、逃げていたら・・というIFがあるから失策のように言われているだけ。
857 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 21:43:42
信忠は善戦したもんね
858 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 21:46:55
甲斐の武田攻めを見る限りは後継者として申し分ないし。
859 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 21:48:23
てかどんな状況においても主君をおいて逃げれないでしょ。主君ピンチなら戦うしかないでしょそのための忠でしょ!
860 :
このやり取り最高:2006/01/30(月) 21:50:22
42 :日本@名無史さん :2006/01/28(土) 23:59:28
キリスト教に没頭後の大友宗麟
存在と行動自体が不利益極まりない。
祟りとか呪いが恐れられたあの時代、
無理矢理これから敵地に赴く兵に神社仏閣を焼かせるとかありえない。
士気を削いだだけの愚行。
その上日本のキリスト化(植民地化)を目論む宣教師に九州譲渡を画策していた。
耄碌ジジイの究極系。
43 :日本@名無史さん :2006/01/29(日) 00:30:09
>>42 池田大作みたいなやつだな
44 :日本@名無史さん :2006/01/29(日) 01:04:41
こいつを叩き潰した島津は、神。
45 :日本@名無史さん :2006/01/29(日) 12:44:23
現代の島津は現れないのか!?
861 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 22:25:00
信長の死体は出てこなかったけど、
信忠の死体は出てきたの?
首は晒されているのかな?
862 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 02:55:09
信長の副将軍辞退は?
863 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 04:28:49
っていうか、信忠は逃げられたのに、織田有楽に勧められて切腹
したんでしょ。で、有楽は自分は逃げてやんの。
で、京童に「織田長益は人ではないよ♪お腹召せ召せ召させておいて」
とバカにされたわけで。
864 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 09:58:59
信忠も出てこなかった。
866 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 14:01:31
>>863 信忠が「逃げられたはず」は結果論
京洛や退路は完全に包囲されてるはず、と考えるのが普通。
実はがら空きで、有楽は逃げ切れてるんだけどwww
それも結果論
867 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:07:42
前田玄以も秀信連れて普通に脱出してるしな
もしや有楽が次期当主を狙って…
俺思うんだけど
信忠の首も信長の首も
晒されたんじゃねぇーかな
それを後世の奴らが
捏造したと・・・いうのはどう?
869 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:17:04
焼け焦げてよくわからない肉片になって発見されたとか
>>868 信長の首が晒されたなんて大事件を
日記職人の公家連中が書かない訳がないでしょ。
商人なんか、上から改竄の通達があれば逆に何としてでも
記録に残そうと思うようなへそ曲がりだし。
それにしても織田有楽こえーな。
何がしたかったのかがイマイチ見えないけど。
871 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 18:55:49
有楽の怖さは恥も外聞もなく無様に生き延びるところ。
まあ、好き勝手に生きたわけですから本人は満足でしょうね。
872 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:51:31
873 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:57:26
というか、信忠ってそんなに有能だったか?
本能寺で死ななくても、結局秀吉にいいように使われて捨てられたんじゃないのかな?
もっとも秀吉の台頭には信雄と信孝の対立が背景にあったわけで、
状況はもう少し複雑化するだろうけど、権力の継承がスムーズに信忠に移ったとは思えない。
874 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 22:59:15
まあ、信長も遺体はあったのかもしれないが
当時は歯型や遺伝子検査するわけじゃないから
丸焼けになったら誰が誰だか分からなかったと思う
だから火を放って自害した人は首晒された話しをあまり聞かない
>>873 乗っ取りの難しさが格段に増す
例えば清洲会議の後、姫路に帰らず
京の近辺に軍を駐留させるような真似はできないし
信忠の命令無しに勝手に伊勢に攻め込んだりしたら
それだけで謀反が確定してしまう
876 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 08:25:15
>>873 あの頃織田家は、信忠にほぼ政権移譲済。
そりゃあ信長の存在はでかかったが、信長単独が急死しても
なんとかやっていけるぐらいのシステムはできていた。
信忠さえ生きていれば、
”カリスマ会長の突然死。社長以下困惑”ぐらいの難局で済んでたはず。
まとめると、獅子身中の虫織田有楽を早めに斬首しなかったことが最大の失策ってことだな?
マジで気持ち悪い有楽町野郎だな
878 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 10:21:27
>>873 >というか、信忠ってそんなに有能だったか?
信忠は武田討伐の功績がありますので有能とも言えます。
織田家の家督もずいぶん前に譲られていますし問題は無いと思います。
それに秀吉は清洲会議で三法師を推しても後見人にはなれないでしょうし、
そもそも清洲会議を開く必要性があるかどうかw
879 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 10:27:25
>>877 >まとめると、獅子身中の虫織田有楽を早めに斬首しなかったことが最大の失策ってことだな?
本末転倒。
本能寺の変が発生しなかったら長益の華麗なる痴態もお預けw
>>879 なるほど、興味深い説ですね。
つまり、本能寺の変の主役は織田有楽ということも言えるわけですね。
かつてキリシタンは50万人の日本女性を奴隷として輸出した。鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249〜257から、部分的に引用したいと思います。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに
女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に
売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいた
ボスの中のボスであつた。キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、
キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。
肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる
遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、
キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇を
どうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
↑のコピペ先ブログにはこんな記述も↓
NHKの大河ドラマの歴史歪曲は今に始まった事ではありません。
「時宗」の元寇の場面の高麗船の船縁には手首に綱を掛けた捕虜がずらっとぶら下げられていなかったのは
歴史的事実の隠蔽です。
高校で左翼史観を教えられた私でさえ蒙古襲来絵巻の中のあの残虐な絵は心に強く焼き付いています。
あれは敵を畏怖させたり攻撃を鈍らせる為の防御策かとずっと思っていましたが、真実は食料としてとらえた捕虜を、
船室が汚れないように船縁に吊るしておいたのだと知り大陸半島の民族のおぞましさを改めて再認識いたしました。
883 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 22:39:18
>>881 スレ違い。
勘違い君は別スレを立ててね。
884 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 07:45:27
マジレス格好悪い
でもまぁ本能寺は失策かもそれないけど信長らしい最期だと思うし
(身分落としても病死より戦死を選んだチューザレみたいに)
かっこよく見える側面もあるんだよな。
信長はなんでかしらんが絶対ダレも自分を裏切らないと思ってる節がある。
だから何してもOKみたいな。浅井も荒木も明智にも内心「はぁ?なんで?」って気持ちだったと思う
松永は?
松永はデフォルトで裏切るからw
荒木あたりが裏切ったときの
なんでー?って感じの信長公記の記載は
信長がよっぽどの天才か狂ってるかどっちかなんだなぁと思える
888 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 01:35:03
浅井長政も荒木村重も明智光秀も裏切る前は信長のためによくやっていたので、
織田信長としても彼らが裏切るとは考えもしなかったでしょうね。
その点、松永久秀は敵対と降参を繰り返していますから、
この老人は必ず裏切ると簡単に予測できますね。
意外な一面として人を信用しすぎるのかもね。
恩賞も他の群雄に比べてあげ過ぎに感じる部分もあるし、
仕事の任せ方にも信頼を感じる。
そして、できなければ切るのも早い(信頼を裏切ったとして)。
だからこそ部下も頑張るだろうし、怖くなる部分もあるのかもね。
890 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 02:58:09
>>889 >意外な一面として人を信用しすぎるのかもね。
信長の思考は合理主義的なところがあるから、
信長の完璧な政策を裏切るという行為は理解できないところがあるかもね。
特に信頼して仕事を任せるほどの有能と信じている部下になればなるほど。
長所であり短所でもありかな?
891 :
織田有楽のテーマ:2006/02/03(金) 04:04:39
織田の源五は人ではないよ♪
お腹召せ召せ召させておいて♪
我は安土へ逃げるは源五♪
892 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 11:30:02
信長といえば茶器だな。恩賞に茶器を渡しておけば馬鹿に国を与えずにすむ。
893 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 11:57:00
漫画の読み過ぎ。
茶器で済ますのは家康だろう。
895 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 16:37:42
ケツの穴あああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああああああ
896 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 07:58:42
福井出身(一向門徒大量虐殺の場です)ですが、
日本史の先生(左向き)が
「織田信長はジンギスカンやヒトラーに匹敵するほどの殺人者だ」
と生徒に御高説を垂れていました。
あれほど人を殺す必要があったのでしょうか?
一向宗に関していえば
殺さないと転ぶわけでもないし・・・
荒木反乱のときの虐殺は趣味というか見せしめとしか
最初に戦い始めてきたのは一向宗。
対等な戦い。 虐殺ではない。
精々ゲリラ部隊を壊滅させた程度だろ
その程度なら世界史上いくらでもいそうだけどな
所詮日本史の先生だから無知なのはしかたあるまい
無知ではなく恣意的な歪曲だと思う
そんな俺は汚れちまったオトナ
902 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 20:05:41
信長、虐殺というキーワードでは、前田利家が関わっている。
一向宗へも、荒木村重一族郎党虐殺も、前田利家がわざわざ北陸から
呼ばれて処刑奉行になった。
>>900 信長公記か何かは忘れたが、越前だけで7万人以上の規模の殺害だったはず。
904 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 23:39:56
一向一揆=百姓の群れ
いまだにこんな、昭和の認識してるバカいるんだな
それも教師か・・・
何でも階級闘争にしたがるんだろうな
906 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 07:57:26
>>904 世が世なら国立大学のエリート様の私がきましたよ。
下間氏っていっても、強固派だった家は成り上がりの家だからね。
一揆の末期には貴族(日野家)出身の門主や名門武士(頼政子孫嫡流)出身の
下間本家の言うことを百姓出身の香具師らが無視していたらしい。
昭和初期でいったら満州国の青年将校状態。
907 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 13:28:33
908 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 15:30:57
>>906 そもそも一向一揆の戦力は百姓ではない。
910 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:28:34
百姓もそうでしょ
百姓という文字から受ける印象の百姓ではないわな
れっきとした武装集団
戦闘要員に百姓借り出すのは普通の事だし
百姓にどこまで権限があったかが問題だろ
権限はないよ?
一向宗という思想に基づいて集まってる人たちだし。
下間の勘違いした奴らとの確執なんかもきっちり資料に残ってる。
914 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 14:56:28
>>913 今度、結婚する新門がはじめて庶民と結婚する門主だったと思う。
そんな香具師だから大名以上に百姓とは別の階級。
915 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 17:08:30
>一向宗という思想に基づいて集まってる人たちだし。
まさかwwwwwww
そういう奴らも中にはいた、というだけの武闘集団だよ?
916 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 17:17:17
>>913 真宗(一向宗)の思想に基づいて集まってるんだったら
門主のいうことを最後まで聞いたはずなのだが、
実際には途中から下間の分家と現地の国人層が暴走。
917 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 17:39:20
っていうか本願寺内部でも寺ごとに対立いっぱいいあったし
加賀の主戦力なんて、富樫とか甲斐とかでできてるし
長島だって石山だって
思想?なにそれ?
918 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 23:22:25
織田家の失策の話題から外れてしまったので話題を戻してみる。
天正十年の状況です。
毛利家と上杉家とは抗争中。
長曾我部家とも抗争を始める。
北条家とは友好関係を持っていたが次第に悪化し始める。(?)
まあ、信長としては勢力が大きい戦国大名や敵対している戦国大名を潰した方がいいと思いますが、
(徳川家の他に)ひとつぐらい手を結んで天下統一を早急に進めるとか考えなかったのでしょうか?
やっぱり徹底的に滅ぼさないと気が済まなかったのかなw
919 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 23:34:55
遠くと仲良く、近くを攻める
これセオリー
事実、大友や佐竹や伊達とは文通していた。
920 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 23:39:25
>>919 >遠くと仲良く、近くを攻める
>これセオリー
別にセオリーではないよ。
織田家は徳川家や浅井家と結んでいたし、
北条家・今川家・武田家は三国同盟を結んでいたし。
セオリーというのは戦略史的に見てだとおもうのだが・・・
戦国時代の日本という狭い地域でかんがえると微妙ですがね。
922 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 00:53:23
>>921 >戦国時代の日本という狭い地域でかんがえると微妙ですがね。
面白い人だな。
このスレは戦国時代の話をしているんですがw
923 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 00:59:53
本能寺が無かったら信長が天下統一を成し遂げたと信じている人のほうが多いのかな?
結構意外。
924 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 01:15:13
本能寺の変が無かったら天下統一を成し遂げたとしても不思議ではないと思う。
まあ寿命が尽きたら無理ですが。
上杉、ちょうそかべ、島津、北条、東北
それに多分、家臣団(徳川、もしかすると羽柴も)の反乱ぐらいはあったろうから、厳しいんじゃないかな。
926 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 14:39:42
家臣の反乱はあったろうが
松永と上杉謙信
荒木と毛利輝元
とかのような組み合わせだろうな
明智のような単独っぽいのもあるが
毛利や上杉はもう時間の問題だろう
長會我部は四国を統一していない
北条は関東を統一していない
統一してないところの周辺の諸勢力は織田につくだろう
最短で5年もあれば統一できるんじゃないか?
927 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 14:41:32
>>920 セオリー=「みんなが100%そうする」という意味じゃねーだろ
928 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 14:42:44
九州と奥州を忘れていたよw
でも別に考えなくてもいいか
929 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 14:44:26
>>927 いつまでくだらないこと
そんなことにこだわってるんじゃないよ
930 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 14:56:03
だって自作自演だし
931 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 15:01:25
はいはいよかったね
932 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 15:39:23
泣くなよ
933 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 16:43:10
あきれているだけ
勘違いみっともないぞ
934 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:44:17
だから泣くなよ
935 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 01:46:10
泣いてないって
936 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 01:54:38
泣いてないんだよえぐえぐっ
937 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 04:51:17
泣くなよ。友達になってやるから
938 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 16:28:05
やっぱ浅井だろう。
長政がどうだったかはともかく,信長と敵対したのは間違いだった。
ま,あの時信長やれてたらわからなかったが。それにしてもお粗末。
浅井もただ働き同然の扱いを受け続けた不満がたまってたんだろうな
940 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:54:49
>あの時信長やれてたらわからなかったが。
この一点に尽きる。
信長は「朝倉には攻め込みません」と言っておいて、その約束を反故にしてるんだから、
家の威信・男のプライドっつーもんもあるでしょ。
あそこで見てみぬふりしてたら後世の俺たちに「裏切り者」「利己的だねwww」と
失笑されてるに違いない。
かつ、勝機はあった。確実に
あのチャンスを逃してしまったのだから、
やはりここはお市に対し、家を滅ぼした毒婦・大悪党!と言うべき。
941 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:24:16
オレ、信長は嫌い。
さすがに残酷すぎる。(時代なのかもしれんけど・・・)
好きなのは、平将門・北条時宗・楠正成かな。
学者では、林子平なんてどうよ。
942 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:47:11
浅井も六角攻めの際に先鋒を命じられてさんざんこき使われていたから
鬱憤がたまっていたんだろうかな
やっぱ本能寺が致命的すぎるな
あれって自作自演だよ
945 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 21:18:41
信長の失策になるかどうかは判断し難いが、
南北の対本願寺戦線に塙直政と簗田広正を起用し、
塙は戦死、簗田は失脚となり二人の起用は失敗に終わる。
これは二人の力量に問題があるというよりは、
信長が二人を捨て駒のように扱ったためのように思える。
信長は最初から佐久間や柴田のような兵力の大きい家臣を起用すべきだと思う。
946 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:46:48
清洲会議で、普通は信雄で決まるだろうに(母は生駒の方)
宿老が誰も彼を担ごうとしなかった彼の無能(伊賀の乱、安土城の炎上)は大きいのでは?
948 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 23:49:37
949 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 00:35:02
>>945 >南北の対本願寺戦線に塙直政と簗田広正を起用し、
塙は直前まで、山城半分と大和の行政軍事権、
河内の行政軍事権をも持っていた
たまたま死んだだけで、やっぱ運の問題かと。
もしくはやはり「行政の才能はあっても、軍事の才能はなかった」と言うべき。
>>947 信長が
嫡子・織田総領の信忠>>>>>>>(越えられない壁)>>>信雄>信孝=諸将並
と確実に定義してしまっていたからしょうがない。
「一旦肩を並べた勝頼を、主と仰げなかった武田のお歴々」
みたいなもんで。
おまけに、三法師が生きちゃってるから・・・
盤石な次勢代の織田時代の布石としては上等だったけど。
現代でも大企業とかで「取締役以上は、なるべく一箇所に集合しないこと」と
決めてる会社もあると聞く。
なんかあった時に、指揮取れる奴がいなくなるからね。
大事な後継者と当主の当人を至近距離に集めた。
そこが信長の甘さでもあり、つまり失策。
950 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 01:13:27
>>949 >塙は直前まで、山城半分と大和の行政軍事権、
>河内の行政軍事権をも持っていた
野間・池田・多羅尾も塙の指揮下なの?
950以降は自由ということで。
姉小路家か?
圧倒的に経済力がありながらイマイチな大内家でも語ってみるか
954 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 07:35:02
姉小路頼綱が勝家と手を結んだのは大失策だな。
姉小路ってなんか萌えるよな
除外された中で一番惜しかったのは足利だろ。
もう少しで16代が
喝舌が悪いと
「アナゴおじちゃんと しようよっ!」
に聞こえる
960 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:25:08
帰雲城の埋蔵金伝説は燃えるな
961 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 00:12:00
二階堂盛義と隈部親永の時代がやっときたか
962 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 08:15:07
二階堂元副総裁と隈部元鹿児島郡会議員団長の時代がやってきた
963 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 16:25:59
ここは次スレ突入覚悟で豊臣家を。
964 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 16:45:53
どこを次スレでやるか決めたら?
965 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 16:56:06
毛利・伊達・彫塑壁に一票。
つ徳川
>「取締役以上は、なるべく一箇所に集合しないこと」
ああ、飛行機でも機長と副機長と3にんめの人はそれぞれ別の機内食食うのと同じだね
969 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 02:19:13
このままうやむやのうちに消えるんだろうな。
もっと畠山を語りたかった
970 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 03:27:53
大友とか足利とかは?
てか織田家とかは他にスレあるから別に語らなくてもいいだろ
ソースは?とか連発してるやつは何なの?
ここであえて伊予河野氏の話を・・・出来る人いないわな
973 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 19:17:36
阿波三好なら・・・ムリポ
974 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 19:19:48
因島村上氏は?
>>940 >信長は「朝倉には攻め込みません」と言っておいて、その約束を反故にしてるんだから
これ、根拠のないつくり話ですよ。
001〜100・・・伊達家
101〜200・・・大内家
201〜300・・・毛利家
301〜400・・・宇喜多家
401〜500・・・長宗我部家
501〜600・・・大友家
601〜700・・・島津家
701〜800・・・豊臣家
801〜950・・・徳川家
とりあえず次スレてんぷれ案
適当にいじって立ててくれ
>>973 三好は既に現スレの701〜800で語られてるよ
結構進行が早かったし気づいてないのか?
とりあえずスレが落ちないうちにみておけば?
001〜100・・・葦名家
101〜200・・・佐竹家
201〜300・・・里見家
301〜400・・・真田家
401〜500・・・武田家(若狭)
501〜600・・・筒井家
601〜700・・・萩野家
701〜800・・・河野家
801〜900・・・阿蘇家
901〜999・・・菊池家
>>976 それだったら、いっそ西国編ということで伊達、豊臣、徳川を抜いて
尼子、竜造寺、本願寺というのはどうだろう?
980 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 05:29:40
いっそのこと信長武将篇(秀吉覗く)で
981 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 07:46:13
>>978 マイナー大名家だけでスレ50ずつでいいんじゃない?
1〜400 土佐一条氏
401〜405 若狭武田氏
406〜410 丹後一式氏
411〜415 安芸武田氏
416〜1000 土佐一条氏
>>976,979を併せて
〜 20・・・テンプレ&雑談
021〜120・・・尼子家
121〜220・・・大内家
221〜320・・・毛利家
321〜420・・・宇喜多家
421〜520・・・長宗我部家
521〜620・・・大友家
621〜720・・・島津家
721〜820・・・竜造寺家
821〜920・・・本願寺
921〜 ・・・次スレ決める
で、どないでっしゃろ?
「でっしゃろ」てw
985 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 14:19:42
本願寺って大名じゃないよね?
986 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 14:31:29
毛利、島津、武田、上杉、伊達は入れない方がいいよ
他スレ見ればわかるがゲームヲタが群がってきて荒れるから
>>986 このスレでは平気だったが・・・
というかよくここまでスレ通りにこれたものだ
988 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 19:43:42
>>985 本願寺ネタは、(世が世なら最高学府な)龍大ちゃんねるでいいと思われ。
>981
まぁこのスレは三戦板の出張所みたいなところだからね
マイナー系?つーか978レベルなら小説や通説の区別も
つかない厨は何も書き込まないかなと思ったので・・・
ま、次スレも漏れは見学させてもらうわ。
素人の主観を眺めているのはそれなりに楽しい(苦笑
別所・波多野なんてど〜お?
お久しぶりです。
もうすぐこのスレも終了ですね。
ここまで来れたのもみなさんのおかげです。
ありがとうございます。
次スレを立てたいと思います。
001〜100・・・毛利家
101〜200・・・長曾我部家
201〜300・・・島津家
301〜400・・・伊達家
401〜500・・・宇喜多家
501〜600・・・佐竹家
601〜700・・・真田家
701〜800・・・五奉行(浅野、増田、長束、前田、石田)
801〜950・・・豊臣家、羽柴家、木下家
豊臣家に関わった家を選んでみました。
真田家と五奉行は戦国大名とは言い難いので反対なら入れ替えてもいいです。
これでよろしければ明日にでもスレを立てます。
急ぎであれば何方かスレ立てお願いします。
>>991 別にそれでいいよ。
951以降のレスは次スレの戦国大名を選出でいいんじゃないか?
個人的には五奉行の失策に燃えるが701以降か・・・。
豊臣に関わった家なら、前田とかは?