貞明皇后は聡明な方だった

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1日本@名無史さん
大正天皇の皇后、旧姓:九条節子。五摂家のひとつ、公爵・九条道孝の
令嬢。頭がよく歴代皇室では天皇と一夫一婦制を確立して四人の男児を
もうけた奇才・貞明皇后について語るスレです。
2日本@名無史さん:2005/08/16(火) 00:22:07
夫と違い頭がよく元気であったらしい。昭和天皇という稀有の人が
生まれるのもわかる期がする。
3あれ?:2005/08/16(火) 00:22:21
貞明皇后のスレこないだ立ち上げたのなかった??
4日本@名無史さん:2005/08/16(火) 00:25:22
よく考えたら歴代皇室の親王・内親王ってのはすべて藤原摂関家や
旧藩主とかの妾。奥方ただ一人で四人も生むのはすごい。
5日本@名無史さん:2005/08/16(火) 00:27:57
>3さま
そのスレにあきたら、ここのスレに遊びにきてチョ〜ダイ!
6日本@名無史さん:2005/08/16(火) 00:29:49
おなじのが二つあっても、商号権争いじゃないから別にいいですた。
7日本@名無史さん:2005/08/16(火) 00:31:24
7げっと!
8日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:37:02
8
9日本@名無史さん:2005/08/16(火) 16:39:42
日光田母沢御用邸記念公園にお越し下さい。大正天皇の避暑地で当時の御座所、寝室等の数々の部屋が見学できます。貞明皇后の御座所もありますからお越し下さい。
10日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:55:02
10
11日本@名無史さん:2005/08/18(木) 22:57:24
節子より最初の婚約者のさちこの」ほうがよい!
12日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:23:54
秩父宮が大のお気に入りだったらしいね
13日本@名無史さん:2005/08/19(金) 20:36:06
秩父宮が顔も頭脳も一番母親に似ていると思う
14日本@名無史さん:2005/08/20(土) 21:32:52
九条の黒姫といわれ色黒だった
15日本@名無史さん:2005/08/20(土) 21:45:28
今の九条家は何やってるの? 家は東京?
16日本@名無史さん:2005/08/21(日) 02:41:19
現・当主の九条道久氏は
文化放送勤務をへて、平安神宮宮司。
17日本@名無史さん:2005/08/21(日) 02:43:15
↑新人物往来社刊「天皇家と華族」より引用。
18日本@名無史さん:2005/08/21(日) 10:29:32
近衛家は荻外荘が有名だが
他の五摂家が今住んでる邸宅はどんなもん?
19日本@名無史さん:2005/08/21(日) 21:54:33
うちの従姉妹に低迷皇后ににているのがいるよ
20日本@名無史さん:2005/08/23(火) 16:02:54
かなりスレ違いだけど範子妃と紝子さんと道実夫人の写真が見たい
21日本@名無史さん:2005/08/24(水) 20:39:31
>>20だれそれ
22日本@名無史さん:2005/08/25(木) 18:08:40
美子皇后は、節子妃があまりおてんばで驚いたらしい
23日本@名無史さん:2005/08/25(木) 19:12:09
大正天皇スレッドと比べて見てると面白い。
24日本@名無史さん:2005/08/25(木) 21:52:19
ドイツ語、英語の本をよく読んでいて語学に堪能だったらしい
25日本@名無史さん:2005/08/26(金) 06:32:53
九條さんて凄い親切でいい方だって言ってた。
SPとかいらっしゃるらしい。
26日本@名無史さん:2005/08/26(金) 20:48:05
>>25 だれのことか?
27日本@名無史さん:2005/08/26(金) 20:54:31
大正天皇は貞明皇后でもってると言われてたらしい。
28日本@名無史さん:2005/08/26(金) 23:45:42
昭和天皇以外の3人は節子似だね
29日本@名無史さん:2005/08/27(土) 04:04:19
>27
山内一豊夫妻か?
30日本@名無史さん:2005/08/27(土) 11:03:36
30げっと!
3125:2005/08/27(土) 13:19:59
現、九條家御当主様の事です。
32日本@名無史さん:2005/08/27(土) 13:48:14
九条家は今でも家柄&格式が高いの?
33日本@名無史さん:2005/08/27(土) 21:05:55
ただの平民だよ
34日本@名無史さん:2005/08/27(土) 21:11:28
九条さんは今もでっかい家に住んでるの?
35日本@名無史さん:2005/08/28(日) 19:17:16
平民の生活してるよ
36日本@名無史さん:2005/08/28(日) 19:22:25
ttp://www.soshisha.com/book_wadai/06torii/03.html

それから貞明皇太后ですね。時局収拾について重臣上奏をやることになったのは、
貞明皇太后が「いつまでこの戦争を続けているんだ」と言ったことから始まったんです。
まあ、昭和二十年史でこういうことを書く人はいないでしょう。
貞明皇太后が戦争終結になかなか大きな力を発揮したということを書いた人はいない。
だから貞明皇太后も喜んでくださるんじゃないかなと。
37日本@名無史さん:2005/08/29(月) 13:20:49
お気持ちは今でも摂家です。
38日本@名無史さん:2005/08/29(月) 23:59:29
>>36
貞明皇后が政治に口出しするので、西太后のようになることを恐れて、
皇太后をシャットアウトするために重臣上層がはじまったという説もありますネ。
39日本@名無史さん:2005/08/30(火) 00:08:26
>>36
貞明皇太后は変だな…。
節子皇太后か、貞明皇后で。
40日本@名無史さん:2005/08/30(火) 13:31:17
節子皇太后の姪でカヤのみやに輿入れした人不細工だね
41日本@名無史さん:2005/09/05(月) 22:52:27
九条の顔って共通点あるよね
42日本@名無史さん:2005/09/05(月) 22:58:43
>>41
面長か?
43日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:22:42
香淳皇后
貞明皇后
照憲皇太后 柳原愛子
英照皇太后 中山慶子
44日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:26:26
お公家さんはだいたい面長だね。
今の皇族は丸くなったけどね。
45名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 00:05:44
福田和也氏によろと、貞明皇后は九条家の黒姫といわれ生後しばらくして、
東豊島郡高円寺村(現在の東京都杉並区高円寺)の農家へ預けられ日が暮れるまで
元気に遊んでいたそうな。周囲からは「九条家の黒姫さま」といわれるほどで、
頭の回転もいいので皇太子妃時代、明治天皇・昭憲皇太后たちや宮中を明るくしてくれた
らしいようだ。
46名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 03:25:49
側室所生だったらしいね。そして同じく生母は伯爵令嬢とはいえ、
后腹でない大正天皇と結婚し、悩みを共有したことで
側室制度を廃止するに至った、っていう説もあるらしい。

皇太子妃時代に皇太子お気に入りの鍋島伊都子に嫉妬したという、
人間らしいエピソードがあり、また国母としても立派だったらしいのに、
そんな影を持ってたと聞いて悲しくなったよ。
47日本@名無史さん:2005/09/12(月) 00:40:38
さだこよりさちこのほうが良い
48日本@名無史さん:2005/09/13(火) 18:37:03
禎子は石女だからだめ
49日本@名無史さん:2005/09/13(火) 18:39:51
貞明皇后の生母は正式な側室ではないらしい
他の同年代の妃の生母と比べてみても格段に劣る
50日本@名無史さん:2005/09/13(火) 19:41:27
野間幾子とかいう女中だったらしいぞ
51日本@名無史さん:2005/09/13(火) 21:38:30
>皇太子妃時代に皇太子お気に入りの鍋島伊都子に嫉妬したという

へぇ、そんなことあったんだ、知らんかったよ
伊都子の若頃の写真見ると、ちょっとツンとした感じの美人だもんなー
貞明皇后の庶民的な明るい感じとはかなり違うタイプだね
52日本@名無史さん:2005/09/13(火) 22:31:25
伊都子妃は、皇族妃随一の美女として有名だったらしいからね。
伊都子妃の著書によると、皇太子時代、大正帝は鍋島家の別荘に入り浸りで、そのため
避暑地に夫を置きざりにして皇太子妃が帰京してしまったとか書いてあるけど、父親の
九条公の病気見舞いが真相みたい。
お妃候補の中で、一番容貌に恵まれなかったが、健康と体格、頭の回転の早さで選ばれ
た。正解だったね。
53日本@名無史さん:2005/09/13(火) 23:29:22
>>51,52
お年を召してからも上品なおばあちゃんって感じでいいですよね。
ウワサによると美智子叩きの急先鋒だったらしいけど…。
54日本@名無史さん:2005/09/13(火) 23:38:09
>伊都子妃の著書によると、皇太子時代、大正帝は鍋島家の別荘に入り浸りで、そのため
>避暑地に夫を置きざりにして皇太子妃が帰京してしまったとか書いてある

なんだ、そうだったのですか。
皇后が嫉妬した、っていうカキコ読んで、へぇあの貞明皇后がね、、、と思ったのですが、
その話の元ネタとは、上記の伊都子妃の著書にある帰京のくだり?
で、その帰京の真相が病気見舞いならば、
嫉妬しただなんて、伊都子妃の肥大化した妄想に過ぎないのかも知れませんね。

確かに容貌は・・・・・ですが、
しかしお産みになったお子様がたの幼い頃の写真は、見れば見るほど可愛い。
55日本@名無史さん:2005/09/14(水) 18:16:22
範子妃の生母は誰?
56日本@名無史さん:2005/09/17(土) 12:12:49
節子は並みの容姿だと思うが生母が女中なのが痛い
その点伊都子妃の生母は伯爵家出身の正妻。
57日本@名無史さん:2005/09/17(土) 17:00:22
伊都子妃の娘は李朝最後の皇太子妃とききましたが・・・
58日本@名無史さん:2005/09/17(土) 22:53:40
>>56
並の容姿ねえ・・・
大正帝のお妃候補と噂された伏見宮女王、梨本宮女王と比べると容姿は劣るように見えますが。
特に伏見宮女王は、写真を見ると、たよやかな気品のある美女。
貞明皇后は色黒でギョロ眼、顎が引っ込んでいる。並とは言いがたい。
ただし、お頭の良さや、識見、風格の点では皇后の器だったと思う。
59日本@名無史さん:2005/09/17(土) 23:50:55
>>53
何処でそんな噂をwww
60日本@名無史さん:2005/09/18(日) 12:29:08
梨本宮女王は昭和帝の嫁候補だろ
いくらなんでも年齢が違いすぎる
61日本@名無史さん:2005/09/18(日) 16:35:11
禎子女王の夫婦で写っている写真を見たけど夫より大きい。
62日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:39:35
李方子さんですか。
63日本@名無史さん:2005/09/18(日) 20:43:15
特に皇室のしきたりに厳しかった。
64日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:50:20
他の五摂家には貞明皇后と同年代の姫はいなかったの?
65日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:51:50
禎子女王は綺麗だな
66日本@名無史さん:2005/09/19(月) 12:17:49
>>64

皇太子妃候補はたくさんいたよ。北白川宮女王やら、一条家、徳川慶喜家の娘二人も
候補になっていた。

ただ、下田歌子や香川敬三が大プッシュしたんでしょ
67日本@名無史さん:2005/09/19(月) 14:55:44
一条家の娘って朝子妃の異母姉?
68日本@名無史さん:2005/09/21(水) 21:41:30
直子??
69日本@名無史さん:2005/09/23(金) 22:57:07
直子さん、美人
70日本@名無史さん:2005/09/23(金) 23:19:30
良子より朝子がよかった
71日本@名無史さん:2005/09/23(金) 23:55:09
貞明は気の強いオンナだったな。
色黒で縹緻は余り良い方ではなかったが。

72日本@名無史さん:2005/09/24(土) 11:36:06
電波系の思想家に入れ込んだ時期があるというのは本当なのだろうか?
73日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:40:38
オカルトマニアだったというのは聞いたことがあるよ
74日本@名無史さん:2005/09/25(日) 16:20:31
北白川宮女王・・・満子女王
一条家・・・経子
徳川慶喜娘2人・・・国子&経子

あってる?
75日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:17:43
伏見の女王が皇后ならよかった
76日本@名無史さん:2005/09/25(日) 19:47:19
毎日大正天皇の遺影に手を合わせていたという話と、終戦の話を聞かれた
時に「御一新の前に戻るのですね。」とおっしゃった話を聞いたことがあ
ります。皇后陛下がピアノを弾いていたら大正天皇及びお子様達が歌いだ
したというお話もありますし、平和な家庭を気づかれていたようですね。
もっとも良子皇后には宮家出身でないという負い目もありつらく当たられ
たこともあるようですが・・・
7766:2005/09/25(日) 20:54:30
>>74

そうです。あとほかにも何人かいたような
10年位前にゼミでならったので忘れてしまいました。すみません
78日本@名無史さん:2005/09/26(月) 23:19:36
>>39
貞明皇太后って書いてある本結構多いけど本当はまずいんだ…。
79日本@名無史さん:2005/10/07(金) 10:23:42
>>78
マズイかどうかは知らないけれど、間違いです。
贈り名に「皇太后」と付けるのは昭憲皇太后までですから。
80日本@名無史さん:2005/10/08(土) 11:53:38
昭憲皇太后は間違って贈り名に「皇太后」とつけられたらしい。
間違いに気づいたときにはすでに手遅れだったとか。
81日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:03:53
今から訂正するわけにいかないのか?
82日本@名無史さん:2005/10/08(土) 12:25:13
英照皇太后は?
83日本@名無史さん:2005/10/08(土) 15:04:18
>>66
下田歌子や香川敬三はなぜ節子をプッシュしたの?
84日本@名無史さん:2005/10/08(土) 20:57:51
>>82
あの人は皇后にはなっていないけど皇太后にはなった。
生前の最高身位は皇太后 だから英照皇太后

昭憲さんの最高身位は皇后(皇太后と皇后では皇后のほうが上)
だから本来は昭憲皇后

ただ一度出た裁可が出たものは訂正ができないので「昭憲皇太后」のまま

http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/31.htm
明治神宮のサイト
85日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:35:37
英照皇太后と貞明皇后は同じ九条家出身者。貞明皇后の父、道孝の兄弟では?
86日本@名無史さん:2005/10/11(火) 18:51:17
はじめは皆、伏見宮さちこを推薦していたらしいよ
87日本@名無史さん:2005/10/14(金) 02:42:29
>>84
しらなかった…。てっきり戦後になって制度が変わったのかと思ってたよ。
英照皇太后がまさに、側室制度によって、皇后(天皇の正妃)でなくても
皇太后(天皇の母)になれた時代があったからこそだし。

それが宮内大臣と大正天皇の勘違いの故だったなんて。
88日本@名無史さん:2005/10/14(金) 16:22:44
英照皇太后は孝明天皇の正妃だよ。
女御になって准后になっているから。
もし明治維新がおきなくて江戸時代のままだったら
天皇崩御後皇太后になって、程よいところで女院になっていた。
89日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:16:40
山内禎子は結局子供に恵まれなかったからこれでよかったかもしれない。
ここで載っている他のお妃候補では大河内国子(徳川慶喜娘)以外は皆男子に恵まれているけど男子出産確率で言えば貞明皇后が一番だね
90日本@名無史さん:2005/10/14(金) 21:41:54
子供ができないのはさちこ のせいとはかぎらないではないか
91日本@名無史さん:2005/10/17(月) 21:31:30
確かに。
でもその可能性も否定しきれないからなー。
92日本@名無史さん:2005/10/19(水) 18:26:34
「椿の局の記」っつー本があるけれど
あの本はどうなんだろうか?

あの話をしている「坂東登女子(梨木止女子)」は
権典侍だったが大正天皇から秋波を送られたから命婦に自分から格下げになったとか
弟が昭和の侍従をしていた菊修氏だとか

そういう名の侍従を聞いたことがないし、梨木家の娘が権典侍になれるとはおもえないのだが。
93日本@名無史さん:2005/10/20(木) 18:03:47
大正天皇の他の后候補は貞子女王(満子女王の妹)、九条籌子(貞明皇后の姉)、岩倉米子(具定三女)などがいた。
94日本@名無史さん:2005/10/21(金) 17:37:54
訪ねてみては?
貞明皇后ゆかりスポット@

●化学療法研究所附属化研病院恩賜館(千葉県市川市)
 秩父宮の結核治療研究をした病院で、大宮御所(1930年竣工、
 戦災で焼失)の御殿の一部を下賜。未補修なのが痛ましい。
●旧日光田母澤御用邸(栃木県日光市)
 前述されている通り、現存御用邸建築の中では規模、保存状態
 ともにbest。たまに「皇后宮御座所」「同御寝所」を特別公開。
●旧沼津御用邸西附属邸(静岡県沼津市)
 本邸が戦災で焼失後、軽井沢疎開を経た貞明皇后がしばし滞在。
 但し、皇太子妃時代から長く馴染んでいたのは焼けた本邸の方。
●鉄道博物館(埼玉県さいたま市、2007年秋オープン予定)
 大正天皇&貞明皇后の旧7号御料車を展示。戦前の御料車の中で
 も特に優美で豪奢とか。旧8号御料車(女官車)の一部分も展示。
●泉源亭(長野県軽井沢町)
 元末松謙澄別邸。近藤友右衛門所有を経て、戦時中に国が皇太后
 御避難所として接収、終戦直後に貞明皇后が疎開。現某銀行寮。
●唱行寺(千葉県市川市)
 日蓮正宗に深く帰依していた貞明皇后御手製の袋物や大正天皇幼
 少時代使用玩具などの品が寺宝として伝わる。下賜理由は不明。
95日本@名無史さん:2005/10/21(金) 17:38:53
訪ねてみては?
貞明皇后ゆかりスポットA

●東京国立博物館九條館(東京都台東区)
 もと京都御苑内の九條邸書院。維新後、東京赤坂福吉町の本邸に
 移築され公爵居室として使用、1934年に宮内省へ献上され再移築。
●旧秩父宮御別邸(静岡県御殿場市)
 秩父宮記念公園として保存。貞明皇后もここで結核療養する第二
 王子を慰問のため、沼津御用邸滞在の折に行啓。
●武蔵陵墓地御休所(東京都八王子市)
 大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、香淳皇后陵墓の参道入口に残る
 木造の皇族休所。今も両陛下以下皇族の参拝時に使用される。
●旧武庫離宮中門(兵庫県神戸市)
 現須磨離宮公園。もと西本願寺門主大谷伯爵家別邸で、1922年に
 貞明皇后も滞在。離宮は戦災で焼失し、中門と白壁だけが残る。
●文化学園服装博物館(東京都渋谷区)
 貞明皇后晩年に常用のローブ・モンタントを保存。昭憲皇太后、
 皇太子妃時代の香淳皇后、朝香宮妃、梨本宮妃ら着用ドレスも。

単なる「行啓記念碑」「歌碑」みたいなのは割愛。
ほかのスポットをご存知の方、教えて!
96日本@名無史さん:2005/10/21(金) 17:47:27

あ、あと、「ゆかり」ってほどではないけど……

●旧朝香宮邸(東京都港区)
 現東京都庭園美術館。1933年、重篤の朝香宮允子内親王妃を見舞う
 ため、昭和天皇と相次ぎ行啓。明治天皇4皇女と貞明皇后は、明治
 時代から深い親交が。

この程度の「お立ち寄り」スポットなら、ほかにもありそうですね。
女学校の貴賓室とか老舗旅館などをご存知の方、いませんか?
三重県二見町の「二見館別館 賓日館」もそれっぽいですな。

97日本@名無史さん:2005/10/31(月) 02:29:53
香淳皇后が重用して、入江侍従長から<皇后を新興宗教に引きずり込んだ魔女>
呼ばわりされて宮中から追い出された今城女官は、元々貞明皇后の大宮御所で
長く勤めていたとか。(実際は新興宗教云々は濡れ衣で、昭和天皇の顔面神経痛を心配していた
皇后を言葉巧みに宗教にはまらせたのは皇后の姪の久邇正子。新興宗教の婦人部の会長をしていた)

ただし、
・訪欧に今城を連れて行きたいと言ったり
 毎年入江侍従長が担当する歌会始の清書を今城にやらせてみたい
 と言ったり、香淳皇后が異常なまでに今城に肩入れするので
 入江や他の女官の妬みを買った
・超保守的で迷信や占いまで信じるほど宗教的な儀式にこだわり、
 昭和天皇が辟易するほど御所言葉を使わせて
 女官を本名で呼ばず昔ながらの源氏名までつけていた
 貞明皇后の大宮御所から来た古臭い人だったので
 周囲から煙たがられていた

ので吊るし上げにあい辞職に追い込まれたそうだ。>今城女官
98日本@名無史さん:2005/10/31(月) 07:40:32
秩父神社は縁の人として昭和天皇の弟宮の秩父宮殿下が祀られています。
詳しくは秩父神社のH・Pを参照して下さい。
99日本@名無史さん:2005/10/31(月) 07:49:12
私ジンヒと言います。私韓国の女です。日本の男と遊びたいです。
person: Host Master
address: 11F, KTF B/D, 1321-11, Seocho2-Dong, Seocho-Gu,
address: Seoul, Korea, 137-857
country: KR
phone: +82-2-2186-4500
fax-no: +82-2-2186-4496
e-mail: [email protected]
nic-hdl: HM127-AP
mnt-by: MNT-KRNIC-AP
changed: [email protected] 20020507
source: APNIC
100日本@名無史さん:2005/10/31(月) 08:26:38
馬鹿者!万世一系の日本の皇室スレに外人は不要。
101日本@名無史さん:2005/10/31(月) 22:16:08
>>997
任務に忠実な人柄だったみたいね、今城女官。
認知症が進んでいた皇后が欧州旅行随伴に固執したのも、献身的に仕えてくれる彼女を
頼りにしていたため。女官長を筆頭に、女官たちは皇后の惚け振りを笑い者にしていた
そうだから。
美智子皇后の皇太子妃当時の女官長と言い、一番身近な人たちの主いじめは、非人間的
な感じがする。
華族特有の排他的、特権意識のなせるわざか。
102日本@名無史さん:2005/10/31(月) 23:46:21
貞明皇后の伝記(主婦の友社、秩父、高松、三笠の三妃も監修)は
もちろんマンセー本だけど、それにしても意志の強い人だったことが伝わってくる。
軟禁まがいの生活に追い込まれて亡くなった夫を、誰かがバカにしようとも
最後の最後まで尊敬していた様子など、時代も境遇も超えた夫婦のあり方として
共鳴出来る。
103日本@名無史さん:2005/11/02(水) 01:35:02
>>54
伊都子妃の日記の編者や、原武史が
「嫉妬による帰京」と表現したんだと思う。父重病にて帰京という
割にその後その父は9年も生きている。

 美人で正妻の子である伊都子だったが、やっぱり摂家の
節子の方が格は上でしょう。母は側室どころか百姓娘だったらしいけど
その分節子は強健だった。節子を妃に決めた照憲皇太后は、なんとしても
正室に子供を産ませたかったんだろうね。男児四人の満塁ホームランは立派。
伊都子妃は娘二人しか産んでいないが、もしこちらが皇后になっていたら…
まあ側室を認めただろうね
104日本@名無史さん:2005/11/02(水) 17:49:19
伊都子の母(栄子)は若い頃はすらりとした超美人だったが直縄を産んだ頃からルックスが怪しくなって20世紀になった頃にはただのデブになってしまった。
伊都子はデブにならなかったが同母妹の信子や尚子は・・・
105日本@名無史さん:2005/11/03(木) 02:08:56
 九条家は明治になり東京に移っても、京都時代同様の生活をしていた。
 屋敷には洋室を作らず、出入りの呉服屋は京都時代から使っている高島屋
のみ。
 先帝陛下は明治生まれの日本人には珍しく、洋服を好み、朝食は洋食と言う
ハイカラだったが、母の実家である九条家で育っていたら、和服党で朝食も和
食になっていたらだろうな。
 明治以前は、平安以来の伝統で、皇太子は母親の実家で養育されるのが普通
だった。明治天皇も母の実家である中山家で養育されている。
 ところで、貞明皇后の父、九条道孝公爵は外祖父として、宮中に影響力を及ぼ
さなかったのかな?
 戦後、華族制度が廃止された時、貞明皇后はご存命だったが、先帝陛下に「あ
なたのお祖父様が平民になってもいいの。あなたの体の半分は九条の血が入って
いるのよ。九条家だけは公爵とし残しなさい。」と嘆願しなかったのかな?
 先帝陛下も「堂上(公家)華族だけは残せないものか」と幣原首相(当時)に
言ったそうだが。
 先帝陛下は貞明皇后17歳の時の子だから、親子と言っても年近いよ。先帝陛下
が20歳の時は、まだ37歳だし。
 
 
106日本@名無史さん:2005/11/03(木) 05:23:00
先帝が洋服を好んだのは、貞明皇后の影響が強いとどこかで読んだが
九条家はそういう家ではないんだね
勉強になった
107日本@名無史さん:2005/11/03(木) 21:35:08
>>105
細かくて恐縮ですが、節子父・九條道孝公爵は1906(明治39)年に
67歳で、節子兄・道實公爵は1933(昭和8)年に64歳で逝去してるので
「あなたのお祖父様が平民になってもいいの?」
的な発言は無かったかも〜。

っていうか、節子皇太后が敗戦後の11宮家臣籍降下に対して
述べたという
「これで御維新前に戻ったということだね」発言や
昭和天皇がマッカーサー会見初回に述べたという
「私の命はどうなっても構わないから国民を救ってくれ」発言って実は
根拠曖昧なのだそう。濱口雄幸「男子の本懐」も新聞記者創作だし。
108日本@名無史さん:2005/11/03(木) 22:58:34
皇太后は長谷川清大将がお気に入りで、手編みのマフラーを下賜されたという話があるけど本当かしら?
109日本@名無史さん:2005/11/05(土) 01:05:51
伊都子妃のすぐ下の妹は皇后の兄弟と結婚したけど一年で離婚したんだね
110日本@名無史さん:2005/11/06(日) 00:07:01
>107
貞明皇后の父、道孝公爵は、戦前に亡くなっていたのね。
 もし、昭和20年まで存命していたら、106歳か。
 ちょっと、そこまでは生きれんよな。
 貞明皇后はお父さん子だったから、親父が存命していたら「大好きな
お父様を平民になど、絶対許しません。」と昭和天皇に嘆願(命令)し
ていたと思われ。
 九条公爵家も、昭和20年には、甥が当主だから結びつきが弱くなって
しまった訳だね。
>106
 昭和天皇が洋風好みになったのは、皇太子時代の欧米訪問から。
 そのころにゴルフも覚え、20代のころには皇居にミニコースを作らせた
程のゴルフ三昧ぶり。
 九条家で育っていたら、「公家の球技」である、蹴鞠が趣味になっていた
かも。
 
111日本@名無史さん:2005/11/13(日) 23:55:49
不謹慎な話で恐縮ですが
15数年後に今上が87歳で崩御されるとしますよね(2020年:平成32年)?
 新天皇コ仁:60歳
 新皇后雅子:57歳
 皇太后美智子:86歳
 新皇太子愛子内親王:19歳
ただちに皇太后宮大夫が設置され、浜本松子皇后宮女官長が皇太后宮付に。
同時に新大宮御所の建造が検討されるはず。
質素を旨とする美智子皇太后の意向と国民感情を考慮すると、大宮御所新造
は好ましくなく
 ・吹上大宮御所の大改修
 ・赤坂御用地の赤坂東邸を改装
 ・高輪御用地(旧高松宮邸)を改修
翌2021年11月に即位礼を、12月の愛子内親王20歳誕生日に立太子礼を行い
平成天皇2年祭を終えた後あたりを目処に、内定皇族の移居が。
天皇コ仁、皇后雅子は吹上御苑の御所に移り、東宮御所は皇太子愛子が独居、
皇太后美智子は新大宮御所へ。
112日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:16:35
日光田母沢御用邸では大正天皇が近くに住む女の子の家に遊びに行きまくりでサダコ様は嫉妬して東京に帰ってしまった。
113日本@名無史さん:2005/11/14(月) 00:31:10
>>112
鍋島侯爵家の別邸に予告なくふらりと立ち寄ることたびたび、と
元宮妃梨本伊都子も自著に記しているよね。
鍋島直映侯爵令嬢の中では、伊都子だけが美人ですな。
でもそれは成婚前の話だけど。
114日本@名無史さん:2005/11/14(月) 19:15:20
伊都子は直映の異母妹だよ(直映は先妻の子)
伊都子ほどでないが伊都子のすぐ下の同母妹の茂子も結構美人。
あと鍋島氏ではないが直映同母姉朗子の娘前田I子は美人として有名。
115日本@名無史さん:2005/11/14(月) 19:24:58
>>111
たとえ妄想でも、アイコが皇太子なんてふざけたこと書くな、バカヤロー
116日本@名無史さん:2005/11/15(火) 00:10:26
>>114
そうでしたね、伊都子papaは直大侯爵でした。失礼。
鍋島姉妹というと、伊都子美と信子醜の対比ばかりが気になって……。
鍋島茂子はどこに嫁いだんですか?
117日本@名無史さん:2005/11/15(火) 03:52:32
108だけど
だれも答えてくれんから質問板に書く
118日本@名無史さん:2005/11/15(火) 06:42:46
鍋島茂子は最初貞明皇后の兄弟に嫁いだがすぐ離婚して牧野忠篤に嫁ぎ大正時代に亡くなったはず。
信子より妾腹の俊子の方が部巣かも
朝起きてすぐなので記憶があいまいでごめんなさい
119日本@名無史さん:2005/11/19(土) 01:55:39
裕仁の所の孫たちはやはり別格だつたので貞明皇后は
三笠の長女ヤス子さんをことのほか可愛がったというエピがある。
現近衛ヤス子さんの昔の写真が今回いろいろテレビに出てきたけど
貞明皇后によく似ているね。さぞかし可愛がったろうね
120日本@名無史さん:2005/11/19(土) 23:23:37
>>119
近衛ィ子が6〜7歳の時に皇太后は崩御したから
ィ子にもギリギリ、祖母に愛された記憶があるかもしれないね。

節子は男児ばかり4人を儲けたので、女児に対する愛着(執着?)が
人一倍深かったみたい。
秩父宮妃や高松宮妃の回想によると
たびたび和服で大宮御所に参殿するよう、指示があったのだそう。
戦前の皇室では和服は”裏の服”だったため、非公式な時に
極力、嫁たちの華やかな着物姿を所望したのだとか。
婚約勅許後に大宮御所へ伺候した嵯峨浩(愛新覚羅溥潔夫人)や
コ川喜佐子(榊原政春夫人)も同じような証言をしているね。
121日本@名無史さん:2005/11/21(月) 03:18:23
お題 捨て子 
ひろいあげてはぐくむひとのなさけこそ すてしおやをもひろうなりけり

あれこれ小細工をしないのにいい歌だ
ひ孫の嫁の「知恵遅き子ら」との違いが際立つ
122日本@名無史さん:2005/11/21(月) 05:21:19
ハイハイ、憎まれ口叩かないの。
123日本@名無史さん:2005/11/21(月) 16:50:08
>>121
1996年の歌会始で東宮妃が詠進した歌のこと?

 もろ手もちてひたすら花の苗植うる知恵おそき子らまなこかがやく

「知恵遅れ」という表現はメディアでは自粛されているけど、
「知恵おそき子」は和歌の世界では常時、使われており、差別の意はない。
単なる「子」や「児童」では、この歌の持つ深みが出ないし。
「公務に不熱心な妃の詠んだ差別的な歌」というイメージは消えないのかな。

っていうか、貞明皇后も、実は一度もハンセン病療養所や灯台守の小屋を
視察したことなんかなく(患者や関係者に会ったことすらない。せいぜい
旧厚生省、内務省の次官レベル以上から進講を受けただけ)
彼女が「慈愛の皇后」だったというのも、作られたイメージだよ。
124日本@名無史さん:2005/11/21(月) 18:59:49
節子は女中の娘
125日本@名無史さん:2005/11/21(月) 19:07:35
やっぱり大正天皇のイメージから連想するからかな。

今の皇后はそれだけ公務しててもお高くとまってるイメージ。
あの話し方のせいかな。
126日本@名無史さん:2005/11/21(月) 21:43:35
>>124
それを言ったら昭憲皇太后の母親もそうだし・・・
歴代の皇后のほとんどがそうでしょ
127日本@名無史さん:2005/11/23(水) 01:17:31
美子と夙子の母は出自のはっきりした正式な側室
農民の娘とは大違い
128日本@名無史さん:2005/11/23(水) 01:26:45
生母なんて日陰の身かと思ってたら、
昭和3年の『アサヒグラフ 御大典記念画報』に
「京都の隠居所にて万歳をする皇太后陛下御生母・野間幾子
刀自」ってキャプションつきの写真がでっかく出てて驚いた。
野間ばあさんが両手を挙げて、近所っぽいひとびとと
「ご即位バンザ〜イ」してる、のどかな図柄。
野間幾子は昭和に入っても健在だったんだねぇ。

あと同じグラフには「続々西京入りの各宮殿下方」という
コーナーで、着物姿+テンの襟巻きをした柳原二位局が
次女に手をひかれつつ、注意深く京都停車場ホームの階
段を降りる、実にフツウっぽい写真も。
129日本@名無史さん:2005/11/23(水) 02:20:24
>>128
刀自ってのがいいね〜
130日本@名無史さん:2005/11/23(水) 02:28:04
神道用語だ、刀自・大人
131日本@名無史さん:2005/11/23(水) 10:03:49
>>127
美子の母親は典医の娘で夙子の母は賀茂神社の氏子の娘だっけ?
自称武士なのに藩士録に載ってない雅子の母親や
按摩の娘の紀子母より側室の方が家柄いいな。
132日本@名無史さん:2005/11/23(水) 15:02:30
>>131
そりゃそうだ
>>128
野間いくこってどんなお顔でしたか?
133日本@名無史さん:2005/11/24(木) 15:35:49
>>133
不鮮明なモノクログラフなんではっきりしないんですけど
浦島太郎とかに出てきそうな、白髪の田舎チックなおばあさん。
目鼻の配置は穏やかで、ヒステリックに釣り上がったゲジマユ
などではありません(笑)。さだこさんは九條パパ顔!?
杖なしで両手万歳できるほどお達者倶楽部でした(1928年当時)。

”皇后御生母”はいくこ刀自のあと、久邇宮妃俔子(島津公爵令嬢、
皇族)、正田富美子(名門企業社長夫人)、小和田優美子(外務官僚夫
人)と名流婦人が続くので、昔ながらの”御生母”の最後の人だね。
134日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:26:32
オワダ夫人は品格がない。
135日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:58:30
>>123
知恵遅き子という表現自体は問題ではない。
だがこの歌の流れを読むに、見下す冷たさしか伝わっていないよ
136日本@名無史さん:2005/11/24(木) 18:18:18
貞明皇后と同年代の妃の生母は
周子妃→沢為量7女久子(正室)
俔子妃→山崎拾女寿満子(側室)
経子妃→松井勘十郎女のち新村猛雄養女信(側室)
伊都子妃→広橋胤保5女栄子(正室)
静子妃→東園基敬長女(正室)

いずれも実父不明(?)の野間幾子より家柄がいい。さらにそれ以降に生まれた妃は明治天皇皇女をのぞいて皆正室腹
137日本@名無史さん:2005/11/28(月) 15:20:05
>>131
雅子の曽祖母は越後の産婆。
雅子母優美子の曽祖父は小学校の小使だよ。
138日本@名無史さん:2005/11/28(月) 16:02:30
>>136
そうはいってもほかの妃に比べて九条家は突出した家柄なので
太刀打ちはできない。
139日本@名無史さん:2005/11/28(月) 16:29:16
香淳皇后の曽祖父だって大工か船宿の娘だともハッキリしない出自だよ。
140日本@名無史さん:2005/11/28(月) 18:46:12
範子妃は本妻の娘なの?
141日本@名無史さん:2005/11/30(水) 14:12:31
142日本@名無史さん:2005/12/04(日) 12:33:34
高松宮まで、二十歳までにぽんぽん産んだのに、
その後三十歳まで産まず急に三笠宮を産んだのはなぜ?
途中の流産か夭折ってないよね?
避妊する必要もなさそうだし 打ち止めにしたのにうっかりできた?
143日本@名無史さん:2005/12/04(日) 15:59:30
年度はわからないが一度流産している
144日本@名無史さん:2005/12/04(日) 16:15:25
くだらねえ
145日本@名無史さん:2005/12/05(月) 02:11:19
>>143
サンクス 
しかし4人もの男児という満塁ホームランをかっ飛ばしたのに
息子のうち二人は小梨
孫の男児は五人(今上、常陸、ヒゲ、桂、高円)でその中で男児作ったのは
今上だけ。
内ひ孫に男児はいない…
146日本@名無史さん:2005/12/05(月) 02:12:00
内ひ孫に男児はいない…

内玄孫でしたね
147日本@名無史さん:2005/12/05(月) 02:52:35
昭和11年初頭に流産した
秩父宮妃勢津子……その第一子が無事に成長していたら
微妙に皇室史が変わっていたかもですね。
高松宮は同性愛ゆえ王子女は望めなかったケド
148日本@名無史さん:2005/12/05(月) 21:04:17
>>147
お、それは初耳 種なしでなかったの?
中公の秩父宮伝には書いてなかった。
149日本@名無史さん:2005/12/05(月) 22:01:33
>>108
最近出た丸谷才一の対談本で>>36の人がその話してた。
150日本@名無史さん:2005/12/05(月) 23:53:20
>>148
勢津子妃の懐妊はマジです。
陸軍大学校を卒業した秩父宮は昭和10年、
陸軍歩兵第31連隊連隊長として弘前に赴任しますが
この弘前生活はとても幸福なものだったらしく
(宮も妃もそれぞれ述懐)、勢津子妃は昭和10年末に懐妊
するんですよね。で、年明けて早々、二.二六事件……。
宮に遅れて妃も慌しく帰京するのですが
厳寒&この長旅が身体に障ったらしいです。
もともと妃のほうも繊細な体質で
欧州歴訪中は、宮と交互で病臥にあったたみたいですし。

妃の体調が回復し、宮が結核街道を突き進む直前の
昭和13年あたりが、最後の懐妊チャンスだったんですけどね。
この頃は秩父宮の軍務が多忙を極めていたらしいです。

妃の懐妊については、秩父宮御用取扱・山座賤香(山座圓次郎
未亡人)もどこかでさりげなく触れていたはずです。
151日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:05:21
ふ〜ん
152日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:12:57
欲しかったろうね男の子。三直宮妃でも勢津子と喜久子が仲良しで百合子がちょっと仲間はずれっぽい理由は、年齢差だけじゃないってのがわかった。
153日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:11:03
梨本伊都子さんが今上天皇の結婚に不満だったのは仕方ない。
自分の娘(李方子さん)は御国のために朝鮮王家に嫁いで散々苦労したのに
皇太子が恋愛結婚して幸せになるのが許せなかったんだろう。
せめて戦争が起こらず朝鮮が独立せずに日本領のままだったならば、
方子さんも苦労せずそれなりに幸せな人生を送れただろうから、
伊都子さんも素直に祝福する気になれたかもしれないが。
それ以前に、そういう歴史であれば皇太子と美智子さんの結婚は無しか・・・。
154日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:31:48
近代史板へ逝け
155日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:42:41
>>153
李方子さんのことを抜きにしてもあの時代の人には平民出の皇太子妃なんて
歓迎しなかったと思うよ。あの吉田茂さえも眉をひそめた結婚。
美智子妃の家柄では戦前なら側室にさえなれない。
皇室に入るなんて一般人が部落や在日と結婚するぐらい身分差があった。
当時美智子妃の皇室入りを祝福した庶民だって息子に身分違いの嫁がきたら
反対したと思う。庶民には美智子妃の実家が立派に見えるから
伊都子妃たちが一方的に悪者扱いされたんだろうね。
そういう意味じゃ気の毒だったと思うよ。
156日本@名無史さん:2005/12/10(土) 21:21:44
部落や在日って例示はともかく…………
伊都子らの反対理由が「身分違い」コレ1点なのは確かですね。
イタい皇室評論家連中が歪めたせいで、いま
「明仁親王と正田美智子は恋愛」みたいになっちゃってますが
小泉信三と東宮職による周到なお膳立てでふたりが出会ったという
事実は、実は昭和33年当時のマスコミのほうが冷静に報じてます。
だから「恋愛」に嫉妬、はないと思います。
157日本@名無史さん:2005/12/11(日) 01:33:08
経子妃の母は、「松平」勘十郎の娘だよ。「松井」は新人物往来社の誤記。そこから引用した人はみんな間違っている。
158日本@名無史さん:2005/12/11(日) 02:37:48
↑これは伏見宮博恭王妃經子のことでしょうか?
妃は徳川慶喜九女ですよね。
妃は1882年、貞明皇后は1884年の生まれなので世代も近く
それなりに交流があったのでしょうか。
徳川慶久公爵未亡人實枝子はたびたび、筝などのお相手として
大宮御所からお召しがあったそうですし
(……と、強引に話を貞明皇后へ戻す俺)
159日本@名無史さん:2005/12/27(火) 17:44:27
伏見宮の女王が皇后になったほうがよかった・・
160日本@名無史さん:2006/01/05(木) 15:21:01
age
161日本@名無史さん:2006/01/05(木) 17:07:01
「貞明皇后は聡明な方だった」なんて笑わせちゃいけねえゼ。
あんな迷信深い愚かな女は珍しいだろうナ。
いや、今でもオンナは大概、迷信深いバカ揃いか。

162日本@名無史さん:2006/01/05(木) 17:39:37
昭和三十四年に貞明皇后生きてたら美智子妃のケツコンなかったろう。
163日本@名無史さん:2006/01/07(土) 00:36:10
もっと良子をイジメてほしかった。
164日本@名無史さん:2006/01/07(土) 00:47:55
165日本@名無史さん:2006/01/07(土) 13:51:11
>>164
キミ、面白いね。
166日本@名無史さん:2006/01/09(月) 02:43:49
>>161

平民と同レベルだな、藻前はw
167日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:42:23
もっと良子を鍛えてほしかったよ。
168日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:36:16
孫の寛仁の馬鹿ぶりを見たらさぞ嘆くだろうな
169日本@名無史さん:2006/02/18(土) 16:29:09
渋谷篷子(しぶや・とまこ)
170日本@名無史さん:2006/03/03(金) 21:30:25
顎無し女
171日本@名無史さん:2006/03/04(土) 09:57:57
良子様を自分で皇太子妃に選んでおいて、後に出自が引け目となり
辛く当たってしまう辺りに人間としての哀しさがある。
あれこれ考えると良子様が一番貧乏くじを引いていらっしゃる。
姑には八つ当たりされ、嫁側の人間には「いじめをした」といちゃもん
つけられて、すっかり悪者よばわり。おかわいそう。
172日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:53:12
自分で選んだわけではないだろ
173日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:50:35
自分で選びはったんだよ。
学習院に行って(見学兼親王妃さがし)、たくさんのお嬢さんの中で良子
女王の荒れた手を見かけ、校長に「あの生徒の手はなぜ荒れているのか?」
校長「あの生徒は誰もやりたがらない厠の掃除を率先してしております」
その、「あの生徒」が良子女王。
そこから目を付け、身元を調べ、宮家の人間だと知り宮中に呼ぶ。
というエピソードがあります。
174日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:23:07
それはちょっと(w
当時皇太子妃が立つのは宮家もしくは五摂家からと決まっていた。
限られた10数家の中の、更に年齢のつりあう姫のいる家しか対象にならない。
学習院の女学生達の中からたまたま目をつけたら宮家の姫でしたってのはちょっと。
更に言えば良子女王は久邇宮の長女で、うまれた時点で皇太子妃候補の第一群に
入っていた訳だから、皇后がその顔を知らなかったってのも少し無理がある。
でもま、候補の数名の姫を実際に見に行って良子女王を非常に気に入った
という話は本当っぽいよね。
175日本@名無史さん:2006/03/06(月) 22:24:13
というか年齢的に宮家か五摂家で昭和天皇と釣り合うのが他に一条朝子、九条敏子、梨本宮方子、山階宮安子、賀陽宮佐紀子ぐらいしかいないし
そのうち安子と敏子は昭和天皇の従姉妹
清華や将軍家に拡げても三条家や徳川家ぐらいしかいなかったはず
176大奥総取締・滝山:2006/03/07(火) 00:26:44
御台さまは大奥に、徳川に輿入れされたのです。
御所への未練はおすてくださりませ。
177日本@名無史さん:2006/03/30(木) 13:53:35
うほ
178日本@名無史さん:2006/04/14(金) 01:23:11
貞明皇后って興味深い人物だな
一時期天皇家の家長的な人だったみたいだし
戦争時にも女性皇族の中じゃ唯一政治に口出してそう
179日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:27:59
>政治に口だしてそう
20年春の重臣上奏の実現には皇太后が大きな影響を与えたとする説もあるね
180日本@名無史さん:2006/04/28(金) 07:01:37
age
181日本@名無史さん:2006/05/15(月) 08:02:21
>>155
明治天皇は、吉野の百姓の息子辺りを連れてきたという
替え玉説もあるのだから、皇室の血筋は結構いろいろな
物が入っているとは思うが。
182日本@名無史さん:2006/05/21(日) 18:00:42
     
183日本@名無史さん:2006/05/30(火) 13:39:33
皇太子妃は良子さんじゃなくて一条朝子さんを
選んで欲しかったな。九条夙子→一条美子→
九条節子→一条朝子っていう前例を作っておけば
明仁親王妃もそう時間がかからずに決まっていた
だろうに。もっとも、朝子さんだと明仁さんを
出産、とは考えにくいが。
184日本@名無史さん:2006/06/08(木) 20:37:45
何で朝子は結婚して十年も子どもを産まなかったの?
185日本@名無史さん:2006/06/11(日) 00:03:46
低迷皇后と同母兄弟は何人いるの?道孝の側室は他にいたの?
186日本@名無史さん:2006/06/15(木) 11:12:40
籌子は同母
良致以下の子供と良政は浄貞院という妾が生母
あとはしらない
187日本@名無史さん:2006/06/15(木) 12:48:31


近代史でやれよ



188日本@名無史さん:2006/06/15(木) 19:44:39
範子は正妻の娘。道実もたぶん宗?
189日本@名無史さん:2006/06/29(木) 08:09:49
最後は耄碌したっけ?
190日本@名無史さん:2006/06/29(木) 17:43:20
道孝の正妻って誰なの?
やっぱイイトコの出?
191日本@名無史さん:2006/06/29(木) 19:24:18
道孝正室和子は宗義和の娘
しかし道実室と道秀室は知らない
192日本@名無史さん:2006/07/08(土) 21:20:51
『北朝鮮の核武装は日本向けだから心配ない』
1 :転載 :03/03/07 15:13 ID:4W/eNskb
盧武鉉大統領『北朝鮮の核武装は日本向けだから心配ない』

2003/03/07 (産経新聞朝刊)
韓国政権内の核武装容認論に懸念( 3/ 7)

 保守新党の熊谷弘代表は6日、民放のCS放送番組に出演し、韓国の
盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が大統領選当選後に米国に派遣した特使に
ついて、「『北朝鮮の核武装は日本向けだから心配ない』と(米政府関係
者に)明確に言っている。ツケだけを支払う側にされてはたまらない」と
指摘、韓国政権内に北朝鮮の核武装容認論があるとして懸念を表明した。

http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/asia/1047017584/
193日本@名無史さん:2006/07/09(日) 05:18:24
かしこいよ
194日本@名無史さん:2006/07/13(木) 14:40:10
頭は良かったらしいからね
でも色黒な外見にコンプレックスを持っていたようで、当時華族女学校の車夫(運転手)たちから
「九條の黒姫さま」と呼ばれているのを知った時は傷ついたという
195日本@名無史さん:2006/07/13(木) 19:42:28
朱貞明
196190:2006/07/17(月) 18:05:22
>>191
へぇ〜
対馬の宗家って伯爵のようだけど
なんでそんな格下の娘と結婚したんだろうね?
野間幾子といい、九条家はもう落ち目だったのかな
197日本@名無史さん:2006/07/17(月) 20:41:45
>>196
道孝公の先々代の奥方も宗家出身なんで縁があったのでは?
198190:2006/07/17(月) 22:36:35
>>197
ちなみに現代の九条家当主は野間幾子の血筋なの?
それとも正室の?
199日本@名無史さん:2006/07/30(日) 00:58:53
>>191さん 道実夫人は大谷光宝(正しくは宝の上に火火)の2女恵子、道秀夫人は島津忠麿2女文子です。 >>198さん 道実の生母は私も知りません。知りたいですね。どなたかご存じないですか?
200日本@名無史さん:2006/07/30(日) 01:23:25
平安神宮(九条道弘宮司)の嫁さんもイイトコの出?
201日本@名無史さん:2006/07/30(日) 01:32:50
道弘夫人は千鶴子さんというみたいですが私の見た本には旧姓も出身も書いてありませんでした。お役にたてず、すみません。
202日本@名無史さん:2006/08/04(金) 13:51:20
島津家って(佐土原だけど)九条家とも縁戚関係にあったんだ
九条家は東本願寺とも縁戚関係だったとは・・・
203日本@名無史さん:2006/08/06(日) 03:00:26
九条千鶴子


いい名前だ
204日本@名無史さん:2006/08/18(金) 00:02:22
平安神宮って岡崎にあるじゃん?
あのへんって京都で最高の高級住宅街だろ
やっぱ旧摂家がいくら普通の一般人と同じだからってさ
イイトコ住んでんだな
昔からの財産があるのかな
205日本@名無史さん:2006/08/25(金) 20:51:22
神社の宮司とかも旧華族階級の世襲の利権になってるからなあ。
一般人と同じなんかじゃないだろ。
206日本@名無史さん:2006/08/26(土) 02:10:23
>>204
ちがいます。
平安神宮宮司職在任中はもちろん岡崎の神宮社務所
に部屋が与えられますが、自宅は東京です。
九條家、一條家は杉並区和泉あたりで、近衞家は
杉並区荻窪(旧荻外莊)、鷹司家は渋谷区千駄ヶ谷、
いちばん零落した二條家はチョット不明……。

ちなみに昭和戦前までは
 近衞公爵本邸…麹町区永田町(現衆議院第一議員会館)
 九條公爵本邸…赤坂区福吉町(現赤坂ツインタワー本館)
 一條公爵本邸…赤坂区福吉町(現赤坂溜池タワー)
 二條公爵本邸…牛込区若松町(現警視庁第八機動隊)
 鷹司公爵本邸…渋谷区千駄ヶ谷町(現津田英語会)
207日本@名無史さん:2006/08/30(水) 22:54:41
>>206
京都在住なんで東京のことは知らないんだけど
杉並区ってイイトコなの?
家はデカイ?
208日本@名無史さん:2006/09/11(月) 01:56:37
戦前の杉並は山手の外の田舎です
世田谷なんかも同じ
近衛さんの荻外荘はもともと別荘というか
郊外のお屋敷という位置付けのはず
209日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:36:08
皇后たる者はどんどん男子を産まないとね
210日本@名無史さん:2006/10/22(日) 20:26:43










>>1
貴方は女性セブンの記者でつか?









211日本@名無史さん:2006/10/23(月) 20:58:29
悠仁親王の妃になられる方も貞明皇后のようにたくさん男子を産んでくれたらいいな
そういや 貞明皇后が日中戦争が泥沼化してたころ「この戦争いつまでつづけるつもりか?」って重臣たちに言ったってほんと?
212日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:25:18
はっきりしたソースはないけど、その可能性はあると思います。私が聞いたのは日中戦争か第二次世界大戦の時、節子皇太后が「この戦争で日本はめちゃめちゃになるかもしれない」と洩らしたために昭和天皇との対面を邪魔された、というエピソードです。
 この前『明治過去帳』を見ていたら、大谷かず子(漢字が出ず失礼)のところに『道実、範子、節子と同母』とありました。ただ一条順子のところに美子皇太后の《生母》←正しくは養母 とあったので真偽のほどは不明ですが…。
長レス失礼。
213日本@名無史さん:2006/11/17(金) 00:44:26
範子は本妻の娘だったはずだが・・・
籌子と道実の母はわからん
一条美子と実良(名前あってる?)は母親が違うらしい(順子女王は美子が生まれてから嫁にきた)
あと実良夫人総子(近衛家出身)と道実夫人恵子(東本願寺家出身)の生母はわかる?
214212:2006/11/17(金) 02:21:16
>>213さん
早速のレスありがとうございます。
>>186さんも書いてあるように籌子の生母は野間幾子で間違いないと思います。
美子皇太后の生母は確か姫3人を産んだ、と読んだことがあるので(書名は失念。分かったらレスします)実良とは異母だと思います。また忠香が早く亡くなったため美子は『兄実良の養女』として入内してるので順子の子ではないようですね。(母 家女房となっていますし…)
残念ながら総子の生母は知りません。近衛家から徳川家達に嫁いだ泰子の生母もわからずずっと調べている現状です。
 道実の生母は不祥ですが夫人の恵子の生母は正室の恒子です。大谷照養大伯母とありますが多分『木下俊とお(原の下に心)の息女』だと思います。
 なかなかわからない部分が多いですよね…。だけどその分分かった時が嬉しいわけで…。
これからもご協力お願いしますm(__)m
215日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:27:30
貞明皇后が長生きしてたら
美智子皇后は誕生しなかった?
216日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:03:43
たぶん誕生しなかった。
217日本@名無史さん:2006/11/17(金) 22:26:54
そして歴史も変わらなかった
218213:2006/11/18(土) 06:17:33
>>214
詳しい情報ありがとうございます。
近衛家は篤麿が忠房長男としてるのと忠煕九男としてるのがあるくらいだからね・・・
あと美子皇后は三女で妹はいないはずだから輝子(慶喜と婚約破棄した人)と明子(柳沢保申の妻)と同母ということになるね
美子の生母は新畑(源)民子という一条家御典医(?)の娘らしいです
あと鷹司輔煕娘の明子(伏見宮妃)と治子(三条実美妻でたぶん智恵子妃の生母)の生母は一条崇子なんでしょうか(崇子は輔政と菊亭脩季の生母)
219日本@名無史さん:2006/11/18(土) 06:23:11
あが
220214:2006/11/24(金) 17:47:30
>>218さん

 新畑民子の子供のことですがその可能性が高いとおもいますがその本(探しているけどまだ見つかりません…)では美子は5女とありましたので確定はまだちょっと…。

 明子、治子の生母は調べましたが書いてない本ばかりで判りませんm(__)m
 「事典にのらない有名人の子供」によると三条実美の子供12人(長女と9男が夭折)全て戸籍上では治子の子供になっているそうです…ま、あの時代なのでどこまで本当かわからない、と編者も書いてありましたが お役にたてずに失礼m(__)m
221220:2006/11/28(火) 21:11:05
220を書いた時あまりに疲れていて恥ずかしいです。あまり必要性はないかもしれませんがお詫びも兼ねて貞明皇后の両親の生没日を書いておきます。
野間幾子(浄操院白室妙寿大姉)
嘉永二年十一月十四日誕
昭和廿一年四月五日卒
行年九十八歳

九條道孝
天保十年五月一日生
明治卅九年一月四日薨
222220 221:2006/12/13(水) 02:01:01
>>218さん
新畑民子の産んだ娘3人が特定できました。
1人は言うまでもなく昭憲皇太后美子 あとの2人は千代姫(徳川慶喜の婚約者)、多百姫(明子?)だそうです。

あと九条道孝の側室として知られているのは貞明皇后の生母野間いく(幾子は後の名前みたいです)と田村やす(浄貞院)の2人みたいですね。(もちろん他にいた可能性もありますが私は知りません)

それとよく「野間幾子」は農民の娘と書いてあるのをみますが、彼女は二条家家臣出身の侍女という説もあります。

ソース 『四代の天皇と女性たち』
223日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:58:22
野間幾子は、一条家つきの医者の娘です。お気に入りの側室だったそうです。
224日本@名無史さん:2006/12/28(木) 20:44:26
違った、新畑民子だった
225日本@名無史さん:2007/01/05(金) 22:42:22
>>212
「貞明皇后」主婦の友社(昭和46年)にも野間幾子の子として『道実、範子、籌子、節子』とあるよ。
 これには道孝の夫人は宗伯爵家から迎えた久子(和子じゃない?)は、結婚生活2年後の明治2年になくなっているとも書いてある。
226日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:34:32
九条(宗)和子の没年は大正9年5月ではないかい?
227225:2007/01/06(土) 20:47:56
>>226
よくわかんないけど、九条道孝ははじめ宗久子と結婚して、彼女が亡くなったあとに妹か姪の宗和子と再婚したのかな? 「貞明皇后」の本は入江相政氏も編集委員をしているからそんなにいいかげんなことは書いてないと思うのだが。甘いか…?
228日本@名無史さん:2007/01/07(日) 23:44:20
宗和子は子供は産んだのか?
あと大谷恵子は90代までいきたんだね
229日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:32:07
さちこ女王が皇后になっていたら・・
230日本@名無史さん:2007/01/08(月) 10:44:31
九条恵子(「やすこ」と読む)は昭和47年3月に95歳で亡くなっている。
 道孝夫人に関しては資料がほとんどないみたい。私が知ってるのは宗義和の娘が和子夫人ということぐらい。彼女が大正時代に亡くなっていたことも初耳。
 側室の野間幾子は昭和21年、浄貞院は大正8年5月に56歳で亡くなっているのは知っていたけど。
当然、和子夫人に子供がいたかどうかも知らない。
神、降臨を期待する☆彡
231日本@名無史さん:2007/01/08(月) 21:30:25
現代の当主九条弘道氏の奥さんも旧華族出身?
232日本@名無史さん:2007/01/09(火) 10:28:24
貞明皇后の生母の野間幾子って生没年など詳細がぜんぜんないんだけど
どなたかわかりませんか?
233日本@名無史さん:2007/01/09(火) 12:16:18
234日本@名無史さん:2007/01/09(火) 12:30:03
野間98で没?大往生だな
235日本@名無史さん:2007/01/09(火) 16:05:15
昭和21年に亡くなったって事は東久邇家の信彦王はすでに生まれてたんだよね。

野間幾子━貞明皇后━昭和天皇━照宮成子内親王━信彦王

玄孫まで生きたのか。
236日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:06:40
佳子さまや三笠宮みたいに色黒だったんだね「黒姫」は
237日本@名無史さん:2007/01/18(木) 22:43:57
節子って性格悪そう!
238日本@名無史さん:2007/01/21(日) 00:16:11
九条尚忠(道孝の実父)の夫人は宗義功の娘千鶴子、後妻は唐橋在熈の娘経子らしい。
道孝夫人は宗和子(よりこ)だけしか書いてなかったが明治4年6月に死去とあった。
諸説いりまじってお手上げ状態(;-_-+
道弘夫人のコトも書いてあったけど一般の人だしここにかくのはやめておく。ただ旧華族出身ではないみたい。
239日本@名無史さん:2007/01/21(日) 10:42:34
九条って道孝系の顔立ち多いね。
240日本@名無史さん:2007/01/25(木) 07:55:44
道孝の写真みた時、歌舞伎俳優の尾上松禄に似てるとオモタ
241日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:58:10
道孝の生母は姫路酒井家の出身のはずだが?
242日本@名無史さん:2007/01/27(土) 02:31:20
節子って子供のとき性格きつそう。
243日本@名無史さん:2007/01/27(土) 08:50:36
>>241
道孝の先代が鷹司政通の子幸経(尚忠養子)。幸経の正室が酒井家の姫君。道孝は幸経の養子。道孝の生母は書いてあるのがほとんどないが10年以上前英照皇太后と同母 となんかで読んだ記憶が…。
皇室ジャーナリストの人の本にも稀にミスがある(秩父宮妃の祖母が田代氏佐久と書いてあるのもあったが、正しくは川村氏名賀など)
一応道孝の生母は私は知らない と言っておくよ、あやふやだから
244日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:54:50
色黒が佳子内親王に遺伝
245日本@名無史さん:2007/01/27(土) 11:50:35
伏見宮さちこ女王が皇后になっていたらよかった!
246日本@名無史さん:2007/01/27(土) 23:58:13
なんか芸能人を語るかのように旧華族を語るお前らが気持ち悪いんですが

よっぽど育ちにコンプレックスを持ってるんですか?
247日本@名無史さん:2007/01/28(日) 02:06:17
確かに芸能人のファン・アンチのノリだな
ちょっとキモイのは同感
248名無し:2007/01/28(日) 22:19:52
『貞明皇后』について書かれている本って何かありますか。
249日本@名無史さん:2007/01/29(月) 17:55:22
高円宮妃久子さまが貞明皇后の従姉妹の曾孫。
250日本@名無史さん:2007/01/29(月) 20:13:05
>>248 いくつもあるよ。歴史読本とか、皇室についていっぱい著書のある
   オヤジの本とかに。流産経験があることとか書いていた。
251日本@名無史さん:2007/01/29(月) 22:51:53
>>249
へ〜え、名門の出なんだ

>>250
皇后の流産した御子は豊島岡墓地に埋葬されているが、権典侍の場合は実家の墓地のほうに埋葬されているらしい。
252日本@名無史さん:2007/02/02(金) 01:16:45
そういや野間幾子の父母の名前って書いてあるのみたことないなぁ。昭憲皇太后の外祖父は新畑種成、英照皇太后は南大路長尹と書いてあるのに…誰か知ってる?
253日本@名無史さん:2007/02/06(火) 19:24:12
とりあえず父方の苗字は「野間」なのは確実なんだろ?
そのへんから誰か住民台帳とかで調べろよ
「野間」って苗字はどのへん出身なんだろ
254日本@名無史さん:2007/02/07(水) 05:03:53
ぐぐってたらこんなのが出て来た。

系図(野間氏)

<概説>
野間氏は「本藩人物志」野間喜庵忠政によると、畿内の住人であった野間一族が故あって薩摩川内高江(現鹿児島県薩摩川内市高江)に移住してきたものという。
時期は明記されていないが、文章の時系列から考えて応仁頃のことと思われる。
川内高江には現在も猫嶽と言われる小山があるが、これを当時は「野間嶽」と改めていたというから、その地では移住してからすぐにかなりの勢力を持つようになったのだろう。
ところが、移住して数代経ったときに出水(現鹿児島県出水市)から来た悪徒(薩州家島津氏の一派という説が「諸家大概」野間氏の項にあり)が野間氏一族を殺すという事件があった。
一人の娘だけが生き残ったが、この娘はこの賊によって人売りに転売されてしまった。
その後の経緯が書かれてないが、その後転売を重ねたのであろう、彼女が13歳になったときには伊作(現鹿児島県吹上町)にいたという。
ここで島津運久に仕えるようになり、やがて運久の目に留まって「菴室(あせき)」と名乗り、一子・犬太郎を儲けた。
しかし、犬太郎の存在は「島津氏正統系図」など公式の資料には一切書かれることがなかった。
運久は既に正室・新納是久女の連れ子である島津忠良を嫡子とするという契約を結んでいたため、運久の実子である犬太郎の存在は家中の乱れになる元と考えられて、史料からは抹殺された物と考えられる。
犬太郎は成長後、島津家同朋衆の1人となり「為阿弥」と名乗っていた。その後母親の姓を継ぎ「野間喜庵」と改名した。「本藩人物志」では「武功抜群の人ナリ」とあり、戦で活躍したのであろうと思われる。
喜庵の孫は千宗易に入門し、曾孫は書道で島津義久に仕えるなど、文芸で身を立てた人物が多い。
http://www.realintegrity.net/~shimadzu/keizu/noma.htm

255日本@名無史さん:2007/02/07(水) 05:07:18
足助重範の次男重俊が、足利義満に仕え、その子重宗が義満より尾張国野間荘を与えられ、
爾来足助改め、野間氏と名乗るようになったと言う。
http://www.mmjp.or.jp/askanet/samurais&castles-yanojo.htm

古くからある苗字なんだね。
256日本@名無史さん:2007/02/07(水) 06:51:50
鳥取氏は秦氏族だから渡来系
257日本@名無史さん:2007/02/08(木) 21:49:13
野間佐和子
258日本@名無史さん:2007/02/14(水) 15:41:10
野間さんは講談社だっけ。あそこの野間さんと貞明皇后の母方は親戚?
スレチだが津田梅子と徳川家達は母親同士が姉妹の従兄ときいたことある(マジかはしらないが) 明治時代海外留学ということ考えるとマジっぽいね。
259日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:34:20
親戚なわけなかろう

もし親戚なら講談社が鬼の首取ったかのように宣伝するだろう
260日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:35:33
野間幾子の両親の素性が分からないってことは
下賎の身ってことだよ
察してやれ
某女ってこった
お手つきってこった
261日本@名無史さん:2007/02/18(日) 05:34:13
九条家は東京に移ってからも、京都からの関係者としか付き合わなかったり、
使用人も限られた人しか当主に会えなかったらしい。
なんで野間幾子みたいなド庶民と付き合ってたんだろ?
262日本@名無史さん:2007/02/18(日) 07:14:19
節子は色黒すぎで顔キツイ。さちこ女王が選ばれていれば・・。
263日本@名無史さん:2007/02/18(日) 11:27:31
そうだYO!!
264日本@名無史さん:2007/02/18(日) 13:39:59
禎子女王がもし大正天皇妃になってそれで子供に恵まれなかったら側室を置いたのかなぁ
265日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:40:36
皇室も九条家も何百年千年も続いてるんだからさ
色黒の側室一人の血が入ったったところ影響なんてねーだろ
チョンじゃあるまいし渡来人の嫁一人入っただけで鬼の首取ったかのように書き立てるなんてみっともない
266日本@名無史さん:2007/02/20(火) 01:36:57
《貞明皇后の生母は野間いくという二条家家臣出身の侍女であった》(貞明皇后)
 節子皇后の祖父九条尚忠は二条治孝の末子だからそういう縁で九条家に仕えたのかもしれない。
 ちなみに1864年16歳で道孝に仕えると記録にある。
267日本@名無史さん:2007/02/20(火) 06:39:04
佳子内親王の色黒は、節子のせい。
268日本@名無史さん:2007/02/24(土) 21:10:23
ということは野間幾子は36歳で節子を産んだのか。あと禎子女王は一人も子どもがいないの?
269日本@名無史さん:2007/02/24(土) 23:22:45
>>268
いない。流産とかがあったかもしれないが私はしらない。
秩父宮誕生の時、節子を皇太子妃に押した侍医の岡玄卿が明治天皇に「山内家に嫁した禎子女王には子供ができてません」と暗に節子妃で正しかったと奏上したら「禎子のせいとはかぎらない」と不機嫌そうに言った とある。
 豊景の後は甥の豊秋が継いだ。
270日本@名無史さん:2007/02/27(火) 07:18:33
385 :名無しさん@七周年:2007/02/26(月) 01:29:45 ID:DGxa6/Hz0
>>358
田中清玄は元日本共産党委員長で、戦前はコミンテルン(=ソ連・スターリン)の手先のテロリストだよ。
獄中で転向して、戦後は右翼になったがね。
あと、反靖国論者というのもお忘れなく。
児玉もヤクザと繋がっていたが、田中もちゃんとヤクザと繋がっていたし。
違いは、児玉が関東系ヤクザ(住吉会など)で、田中が関西系ヤクザ(山口組)ってだけ。



388 :名無しさん@七周年:2007/02/26(月) 01:30:54 ID:m8ZQqSKA0
>>358
>田中清玄みたいなまともなのもいたのにねえ。

貞明皇后の側坊主に出入りしていた男?
田中清玄が書いた現代中国についての本を読んだことがあるのかね、君は?
?????
●どういうこと?誰か教えて
271コピペ:2007/02/27(火) 08:30:46
「経済往来」(昭和64年1月号・対談ー浅野晃/田中清玄)で田中清玄氏の龍澤寺での修行がどのようなものであったのかの一部をここに引用させて頂く。

『昭和十九年の秋深まりゆく頃であったが、当時、天皇陛下の御生母でいらっしゃる貞明皇后様が、沼津の御用邸に御滞在なさって、度々玄峰老師に御相見なされ、日本の命運に就いて御話しなされた。

玄峰老師は、貞明皇后様も天皇陛下同様、大東亜戦争とその終結に就いて如何に御苦労なさっておられるかを、私に、「今上様も貞明様も、戦争を続けて、これ以上国民に迷惑をかけるに忍びない」と、えらい事御憂慮なされておられると、一切ならず洩らされた。
272日本@名無史さん:2007/02/27(火) 09:41:56
さちこ女王が皇后になっていたほうがよかった。
美形が生まれたかもしれない。
273日本@名無史さん:2007/02/27(火) 17:12:32
>>271
ありがとうです。
274日本@名無史さん:2007/02/27(火) 18:19:43
皇太后ともなると難しい政治の話も理解しないとならなかったんだね・・・
時代が違うとはいえ庶民に生まれてよかった。
275日本@名無史さん:2007/04/01(日) 00:04:55
ほほー
276日本@名無史さん:2007/04/02(月) 02:02:15
昭和天皇が眼鏡をかけることになった時、貞明皇后が昭和天皇(当時皇太子)に詫びた ときいたことがある。実は貞明皇后も少し目が悪かったらしい。
 尊い血筋に対して失礼ということなんだろう。
 そのこと知ってから『宮中某重大事件』を考えると、貞明皇后がかなり慎重になったのも理解できる。
277日本@名無史さん:2007/04/02(月) 02:28:46
宮中某重大事件が遠因となって暗殺されたりもその後有るし、当時は皇室の人間だって
安全とは言い切れなかった。高松宮を担いだ(担ごうとした?)クーデターだって実行されたわけだし。
そりゃ何事にも慎重でしょう。
278日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:25:18
1英照皇太后
九条尚忠の娘、母は後梅園院経子。

2英照皇太后 (母 權大納言唐橋在煕女壽葉 實南大路壽尹女)

九条道孝の母も【後梅園院経子】と書いてあったのをかなり前、書店にあった人名辞典でみたことがある。
後梅園院が法名かはわからないけど二人が同母の可能性は高いと思う

1と2から、唐橋在熙の娘、経子と後梅園院経子が同一人物と漏れは思う
279日本@名無史さん:2007/05/10(木) 11:03:21
後梅園院経子 後梅園院って何だろ?
280日本@名無史さん:2007/05/10(木) 14:58:08
『唐橋家譜』だと
 
  九条尚忠公
   実松梅院禅泰女
女子  梅園

となっている。
この場合の梅園は候名っぽいけど
281日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:40:04
南大路壽葉は【菅山】という源氏名(侯名)みたいだけど、菅山の前が〈梅園〉だったのかな?
ところで『唐橋家譜』ってどこにいけばみれるの?
282日本@名無史さん:2007/05/12(土) 08:55:09
唐橋家譜は東大の史料編纂所のサイトにいって「データベース選択」の検索して「所蔵史料目録DB」で検索できる。
ほかの華族になった公家や大名が提出した家譜が見れるよ。
いろいろ検索してみると面白いものが出てくる。

あと、南大路氏菅山と唐橋氏養女梅園は別人だと思う。
生母が菅山で養母が梅園

本来は菅山も梅園も家女房で身分的には変わらない(賀茂社の社家の娘と北野社の社務の娘だから)けれど
梅園は跡継ぎになった幸経の生母だから、公家の唐橋氏の養女になったんだとおもう(こういうことは宮家でも
よくある)。で、英照皇太后が女御になったから名義上の母親として梅園がなったのではないかい?
283281:2007/05/12(土) 09:07:02
>>282 お〜おThx.!! 実は別スレで尋ねたことがあるけど、返答なしのまま…。
本当にありがとうm(__)m
あと梅園についても教えてくれてありがとう☆彡
 マジ、すっごく嬉しい!!
284278:2007/05/13(日) 07:19:40
>281さんのレスをみて、〈九条道孝の母も【後梅園院経子】と書いてあった〉というのは生母じゃなく、嫡母と感じた(幸経は鷹司政通の子)

別に道孝の生母がわかったところで人生がかわるわけでもないが、昭和天皇の曾祖母になる人と思うと気になる…。
285284:2007/05/13(日) 07:23:26
×>281さん
〇>282さん スマン
286日本@名無史さん:2007/05/16(水) 18:27:19
流れに反する書き込みになってしまってすみません。
貞明皇后は、大戦の折、爆弾、焼夷弾で、皇居が燃えた、と聞いて皇居にかけつけた
故・高松妃喜久子さまに、
「これで国民といっしょになれた」と言って微笑まれたそうですね。
まさに、聡明で、頭の柔らかい方だったんだな、と思いました。
287日本@名無史さん:2007/05/17(木) 00:34:45
お話を切って申し訳ございません。
占星術理論実践板の皇室関係のスレッドから参りました。(皇族を占う 第2控え室)

貞明皇后様の 出生時間 をご存知の方がいらっしゃいましたら
是非教えてください。
朝とか夜、午前、午後だけでも大変助かります。
(ソースも一緒に教えていただけるとありがたいです。)

自分で皇統譜を申請するのが一番なのですが
そこで占いを書いている一人として、身元が特定されるのが怖いんです・・・

ご存知の方がいらっしゃいましたら是非よろしくお願いいたします。


288日本@名無史さん:2007/05/18(金) 08:37:02
貞明皇后の誕生のことをかいてあるものはみたことないなぁ
事実のみ明治17年6月25日うまれ、みたいな

同じ6月25日に誕生した秩父宮を偏愛した、とはよく聞くが
いわれてみれば気になるなぁ  誰か知ってる?
289日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:08:22
九條流
290日本@名無史さん:2007/05/20(日) 21:59:51
『華族家の女性たち』に興味深い記述があった
野間幾子に光彦という弟がいたらしい
九条道孝公爵の妾として「神田区錦町1丁目9番地光彦姉野間いく」というのがあった
赤坂福吉町に移る前の九条道孝邸は神田区錦町1丁目12番地(貞明皇后生誕地)だから近くか敷地内に住んでいたんだとおもわれ

野間幾子の家族が1人でもわかったのは初めて(自分は)だから嬉しかった
291日本@名無史さん:2007/05/21(月) 14:21:11
その記述の元になっている『萬朝報』の黒岩涙香の連載「弊風一斑 畜妾の実例」はおもしろいよ。
上は九条公爵から下は帽子屋まで、東京に住んでる妾もちが510人のっている。
主人の住所職業、妾の身分や住所年齢がのっていて、その子供の名前ものってたりする。
妾になったきっかけも載っていて、「芸者上がり」とか「雇女を孕ました」、
あと、男妾も数例のっていた。
明治時代にはプライバシーのかけらもないね。

社会思想社の現代教養文庫ででている。ただ、平成3年発行だから売ってないかも。
私は図書館で借りた
292日本@名無史さん:2007/05/21(月) 23:44:31
貞明様の同母姉弟たちは生母の野間幾子と親交あったのでしょうか?貞明様は幾子の死の知らせを受けても淡々としてらしたのですよね?
293日本@名無史さん:2007/05/22(火) 01:23:30
>>292 野間幾子所生の子供が誰なのかはっきりしないけど「貞明皇后」の本を信じるなら道実、範子、籌子、節子の4人
このうち貞明皇后以外は野間幾子より先に亡くなっている
294日本@名無史さん:2007/05/22(火) 23:21:47
>>258 講談社の野間家が野間幾子と血縁かどうかはしらんが、野間佐和子氏は皇室の血をひいている

賀陽宮邦憲王━由紀子女王(町尻量基夫人)━町尻登喜子(野間省一夫人)━野間佐和子

スレチスマン
295日本@名無史さん:2007/05/31(木) 19:57:58
貞明皇后が大正天皇のお妃に決定したのは、伯母の英照皇太后に可愛がられていたのが決め手になったらしいね
296日本@名無史さん:2007/05/31(木) 20:00:02
297290:2007/06/07(木) 23:11:20
>>291レスと情報サンクス。すぐに図書館に行ってみたが、なかったので取り寄せを頼んだ けど未だに連絡がない・・・お役所仕事だからなぁ
本当は読んだあとお礼と感想をカキコするつもりだったけどあまりにも時間が経ったからまず教えてもらったお礼だけ先に m(__)m
298名無し:2007/06/15(金) 21:04:37
『母宮貞明皇后とその時代』という本が7月に出版されるそうです。
三笠宮さまと百合子さまによる回想録だそうです。
299日本@名無史さん:2007/06/16(土) 02:25:44
>>298 情報ありがとう!楽しみだな。秩父宮さまが貞明皇后についてかいたものはみたことあるけど三笠宮さまはないなぁ。
秩父宮妃、高松宮妃によると貞明皇后に一番可愛がられていたのは三笠宮妃らしい。7月が楽しみ!!
300名無し:2007/06/16(土) 19:57:14
秩父宮様の回想によりますと、貞明皇后は当初、犬が苦手でしたが、後にそれを克服されたとか。
新婚の時、大正天皇が犬を連れて鍋島伊都子の許に行き、貞明皇后が嫉妬する(?)事件が起きます。
それは、犬嫌いな貞明皇后と大正天皇の意思疎通がうまくいってなかったから起きたと思うんですが。
あと、貞明皇后は実父の病により帰京しますが、九條道孝の病気のことは、当時の新聞に載っていました。
なので、実父の病により帰京というのは本当だと思います。
301日本@名無史さん:2007/06/17(日) 11:24:51
>>300すごく詳しいんですね。初耳ばかりでした。
伊都子妃の日記は「大正天皇は自分に気があった」みたいなニュアンスだけど『写真』の件も他の女性(女官)にも尋ねていて、単に女性の写真を集めていたのでは・・と暴露?されてますよね。
まぁ、皇太子に好く思われるのは特に光栄な時代なので気持ちはわかりますが^^;
302名無し:2007/06/22(金) 18:59:26
>>301
>>92にある『椿の局の記』に出てくる元女官・梨木止女子も大正天皇に気に入られて、貞明皇后に厳しい視線を向けられたみたいです。
近代になってからは皇室でも一夫一婦制が望ましくなっているだけに、貞明皇后も後宮についてかなり苦労したでしょうね。
303日本@名無史さん:2007/06/25(月) 19:41:51
大正天皇ってキチガイだったってイメージだったんだけど
それなりに青年時代を謳歌してたんだなw
304日本@名無史さん:2007/06/26(火) 18:14:10
ここを読んでいる人は、工藤美代子(ノンフィクション作家)によって貞明皇后の伝記が書かれているのを知っているんでしょうか?
305日本@名無史さん:2007/06/27(水) 11:13:40
>>304 漏れは初耳!!『香淳皇后』は読んだが。
近くの図書館にはおいてないから取り寄せてもらうか。
もし何か知られざるエピがあったら教えて。
306日本@名無史さん:2007/06/27(水) 11:34:42
>300
新婚のとき、大正天皇が犬を連れて鍋島伊都子のところへ遊びに言ったという話は、
秩父宮の回想ではなく(当時、秩父宮は生まれてない)、伊都子妃の手記にある話ですよね?
大正天皇は、女官にちょこちょこ手を出したりもしていたし、
貞明皇后は、賢くはあったけれども「大変な美人というわけではなかった」
御方だったようですから、当時、美人の噂の高かった伊都子妃にちょっかいを出したのもわからんではないですね。
(手記によれば、大正天皇は、御用邸にあるとき、唐突に鍋島家を訪問、
 伊都子に、「我輩の犬を預けるから、面倒を見てくれ」といって、犬を置いて帰ったのだという)
まあ、別に、犬の相手をしてほしくて伊都子のもとを訪問したわけではなかったでしょうね。
307日本@名無史さん:2007/06/27(水) 14:08:55
>>305
清流出版から発行されている雑誌「清流」に連載されてますよ。
308日本@名無史さん:2007/06/27(水) 17:17:56
>>307さん。今連載中なんですね。ググッたら既に20回くらいいってるとか…単行本になるのが楽しみです。もちろん「清流」をみつけたらすぐにみますが。
情報ありがとうございますm(__)m
>>304>>307ならば>>304さんも情報ありがとうございましたm(__)m
309日本@名無史さん:2007/07/07(土) 21:38:56
「母宮貞明皇后とその時代」がネット書店では、取り扱われ始めていますよ。
310日本@名無史さん:2007/07/08(日) 20:12:34
うちに届いたよ。
ざっと斜め読みしたけどおもしろい。
百合子妃がィ子さんを懐妊したとき、まわりから「男子を!」(戦時中だから)とプレッシャーをかけられていたとき
「一姫二太郎というから」と慰めてもらったとか、
生まれてからィ子さんと貞明さんに拝謁したら非常にかわいがってもらって、ちょくちょく逢うことになった。
寛仁親王も気に入ってもらえたらしく二人を連れていったり、二人だけ(もちろんお付きつきだけど)で
いったりしたらしい。

めずらしい百合子妃とィ子さんのインタビューもあった。
そういえば例の三笠宮殿下の双子説はばっさり切られてたよ。
311日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:34:33
携帯で見るとやす子さんの「やす」が文字化けして 子さんにしか見えなくてワロタ
312日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:01:09
PC位買いなさいよ
313日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:59:44
百合子さまは貞明皇后の生母・野間幾子にお会いしたそうですね。
貞明皇后と野間幾子はあまり似てなかったそうです。
「皇族・華族古写真帖」で貞明皇后の父・九條道孝の写真を見たけど、目元が貞明皇后に似ていました。
314日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:25:32
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 ̄⊂/ ̄ ̄7 )
 (/ 保守 /ノ
   ̄TT ̄

315日本@名無史さん:2007/07/28(土) 20:20:19
「母宮貞明皇后とその時代」読んだ
〈大正過去帳〉では篷子さんは 浄貞院の所生になってたから 百合子妃が「(貞明皇后と)篷子さんは同腹らしい」と発言されていたのに少し驚いた
野間幾子は【浄操院】さま、と呼ばれていたんだね 勉強になった
316日本@名無史さん:2007/07/28(土) 23:00:15
明治時代に発行された「皇室及皇族」によると、篷子さんの生母は田村澄子という女性だそうです。(ソース/http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?tpl_wid=WBPA130&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=3&tpl_hit_num=9&tpl_toc_word=
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田村澄子が浄貞院なんですかね?
>>291にある、「弊風一斑 畜妾の実例」では、名前が田村やすとなってましたが・・・。
317日本@名無史さん:2007/07/28(土) 23:05:32
316です。
アドレスを載せましたが、うまく飛べないので、国会国立図書館の近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)で「皇室及皇族」と検索してみてください。
目次に皇太子妃殿下という項目があり、クリックすると、貞明皇后の系図が出るので、わかると思います。
318日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:30:46
>>92超亀だけど禿同!!
>梨木家の娘が権典侍になれるとはおもえないのだが。
明治天皇の側室、園祥子は公家の出身だけど、はじめ子供を産んだ時『権掌侍』だった。(明治天皇紀でみたから間違いない)

あの身分の厳しかった時代に社家の娘が権典侍とは考えにくい。
319日本@名無史さん:2007/08/09(木) 10:19:40
こういう近代以降の家系スレってキモチワルイ
320日本@名無史さん:2007/08/09(木) 10:47:21
このスレからは独特の鬼女板のにおいがするな・・
321日本@名無史さん:2007/08/09(木) 11:25:03
322日本@名無史さん:2007/08/10(金) 23:07:41
>>318
何年か前の朝日新聞に大正天皇の遠眼鏡事件に関する記事が載っていた。
その記事の中には梨木止女子のことも書いてあり、宮内庁によれば、彼女は大正4年から命婦として仕えていたらしい。
それが本当なら、「椿の局の記」の中身と大分食い違ってくる。
323日本@名無史さん:2007/08/16(木) 20:57:10
「椿の局の記」は未読(近くの図書館にない)だが年をとってから書いたのかな?
間違いにしては大きい
自分の半生を美化したかったかもしれないが、後世の人を混乱させることは勘弁して欲しい
324日本@名無史さん:2007/08/30(木) 19:25:00
>>318
明治に入ったばかりの当時は、古くから続く女官制度により、
天皇の奏上をつかさどる女官たちによって政治が牛耳られていると
薩長の藩士たちを嘆かせるほど女官制度は複雑であったが、
昭憲皇太后による度重なる女官改革により、
皇后の思し召しが深ければ、家柄にそれほどとらわれずに出世できるようになったんだよ。
昭憲皇太后の思し召しが深かった下田歌子など、公家の娘ですらなく、
長野の一藩士の娘にすぎなかったのに、一番下の十五等出仕から権命婦にまで出世した。
下田歌子は、若い20代のうちに結婚で宮仕えを辞したのに、そこまでの出世をしたから、
長く勤めていれば相当の出世をしたと思う。
(下田歌子は学習院女子部長と、宮中とは別のところで出世したのだが)
325日本@名無史さん:2007/08/30(木) 19:35:37
test
326日本@名無史さん:2007/08/30(木) 21:54:52
明治・大正時代の女官の一覧ってあるの?
「日本の後宮」という分厚い本はみた。山川三千子の女官も読んだ。
ほかにはある?
327日本@名無史さん:2007/08/31(金) 02:47:21
本のタイトルは忘れたけどコピーしてたのがある

明治8年9月当時の女官一覧
典侍 四辻清子、万里小路幸子、高倉寿子
権典侍 西洞院成子、柳原愛子、植松務子
掌侍 平松好子、石山輝子
権掌侍 唐橋貞子、錦織隆子、千草任子、唐橋娩子、壬生広子、西定子、税所敦子、樹下範子
命婦 三上文子、堀川武子、鴨脚頼子、鳥居小路信子、松室※子(※王尹)、藤島朝子
権命婦 鳥居小路応子、西西子、吉田艶子、生源寺政子、岡本保子、中東明子、平尾歌子=下田歌子

女嬬以下は省略するが梨木家の娘はいない 松室家が社家だったな?
税所敦子は特別な抜擢だろーな
328日本@名無史さん:2007/08/31(金) 09:41:22
ざっと見る限り、社家の娘は大体命婦以下。
権掌侍の西定子と樹下範子も社家の娘だけど、明治天皇の親王時代からの女官だから
例外措置かな
329日本@名無史さん:2007/08/31(金) 10:36:29
327のソースは明治8年。
明治時代は何度も宮中改革をやっているから。
話題になっている梨木止女子は、
大正天皇に仕えた女官なので、
もっと時代が下ったソースがほしい。
330日本@名無史さん:2007/08/31(金) 11:23:22
宮内省の職員名簿みたいなのがあれば載っているのかもしれんね。
残っているの?
331日本@名無史さん:2007/08/31(金) 23:05:39
>>330
宮内庁ホームページの書陵部のデータベースで検索したら、「女官進退録」というのが出てきた。
たぶん、これが職員名簿だと思われる。
宮内庁まで行かなくては見れないけれど。
332日本@名無史さん:2007/09/02(日) 00:41:56
国立国会図書館には置いてないのかな?
あと明治時代の職員録はあって省ごとに分けられてはない
宮内省の項目もあるが、後宮はウラの世界なので女官が載っているかは不明
333日本@名無史さん:2007/09/02(日) 12:12:00
>>32
日蓮正宗に深く帰依していた
この辺をもっと知りたい。
334日本@名無史さん:2007/09/03(月) 21:58:51
>>333
貞明皇后の実姉は、西本願寺22代門主大谷光瑞に嫁ぎ、
貞明皇后の弟の嫁は、西本願寺21代門主大谷光尊の娘武子で、
当時、九条家と浄土真宗西本願寺は血縁が近かったんだけど、
今は日蓮正宗なの?
335日本@名無史さん:2007/09/04(火) 01:52:15
九条家の宗派は禅宗、菩提寺の東福寺が臨済宗
武子と良致の縁談で、それが話題になったとか
うちの母方が禅宗なのでよく覚えてる
それと日蓮正宗は昭憲さんが皇太后になってからしばしば使いを送っていたとは聞いた 貞明さんもなの?
336日本@名無史さん:2007/09/04(火) 20:11:06
そういえば、現在の京都御所内の九条家屋敷跡には、
旧九条家の庭にあった池とともに、厳島神社が誘致されている。
神社は当然、江戸時代の九条家にあったものなのだけれども、
九条家が厳島神社をか招致したのはなぜ?
337日本@名無史さん:2007/09/10(月) 21:50:44
【雅子妃とミカドの世界】小田部雄次著を久々にみたら大正時代の女官は典侍2名、権典侍「9」名、掌侍2名、権掌侍9名、命婦2名、権命婦10名だったって
権典侍9名もいたんだ、ビックリ!梨木家からも登用されたかも・・・と思ったよ
338日本@名無史さん:2007/09/10(月) 22:05:48
★金明仁 【カルト宗教現人神の会会長】 ★
★「なんとしても日本人を差別して死にたい」★

在日無国籍皇賊の参政権を考える連続講座 第3回
演題:在日天王・皇賊と国籍 講師:金明仁さん(カルト宗教現人神の会長)
日時:今上癌年12月14日18時30分〜 場所:高天原侵略派遣センター

 ただ、皇賊が日本国籍をとるということになると、民主制の問題をどう
するのかという人がいますが、危険分子がたくさん日本国籍を取ったほうが、
早く民主制は潰れると思います。というのは、この先もどんどんカルト系
危険分子が増えます。ある統計では、一〇〇年後には五人の内三人がカルト系
になるといいます。そうなれば、日本で大和民族がマイノリティーになるのです。
だから、私はあと一〇〇年生きて、なんとしても日本人を差別して死にたいです。
これが夢です(笑)。そういう社会が来たら、その時に国民主権なんていうのは
小数民族の願望みたいなものになります。
こうした素晴らしい戦術があるのに、それを、今の左派のように、皇賊は日本国籍を
取ったらダメだということをやっていたら、いつまでたっても民主制は温存された
ままではないですか。
339日本@名無史さん:2007/09/10(月) 22:33:59
梨木止女子が『椿の局の記』のなかで「父は子爵でしたが」と言っているが、梨木家は子爵ではない。
なので、普通に考えて公家華族の娘ではないから、権典侍になる可能性は低い。
大正天皇や貞明皇后に仕人として仕えた小川金男著の「宮廷」には、梨木止女子が命婦だとはっきり書いてある。
340日本@名無史さん:2007/09/11(火) 09:16:12
自伝は割り引いて読めともいうな(都合のいいことしか書かないから)
しかしこれをソースに本を書いている人もいるし、嘘ならチト。。。
341日本@名無史さん:2007/09/13(木) 20:30:07
高松宮から三笠宮まで11歳離れているけど最も出産に適した20代に子を産んでいないのは謎である。
342日本@名無史さん:2007/09/14(金) 17:35:10
>341

高松宮を生んだのは、満21歳のとき。
すでに男子が3人もいるので、子作りは控えていたのでは?
三笠宮は偶然できたのかも。
結果的に、秩父宮、高松宮には子供ができなかったので、
三笠宮家は昭和天皇の直系に継ぐ皇位継承順位を持っているわけだが。
343日本@名無史さん:2007/09/14(金) 17:50:34
一度流産した、ということらしいけど、それは高松宮と三笠宮出産の間だったのだろうか?
344日本@名無史さん:2007/09/14(金) 19:21:45
>>343
貞明皇后が流産したのは、秩父宮(明治35年生)と高松宮(明治38年生)の間。
明治天皇紀によると、明治36年、貞明皇后が懐妊したので静養を取りやめにしたのだが、結局、流産してしまったことが載っている。
豊島岡墓地には流産した子のお墓があって、三笠宮妃も時々、お参りしていたらしい。
345日本@名無史さん:2007/09/14(金) 21:55:44
>>342
この時代に皇太子妃が避妊する必要があったのか?
だとしたら三笠宮は避妊失敗で出来た子ということになる。
この時代の女性って俺の中では結婚から閉経間近まで絶え間なく子供を産んでいるイメージだけど皇族や華族の女性はそのような方はほとんどいないね。
346日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:05:58
>>345
そういう意味ではなく、大正天皇は生来病弱なところがあったから、
皇后腹に男子3人が生まれたことだし、
大正天皇が性行為を控えられていたのではないか?ということ。
三笠宮は、久々に性交渉を再開されて偶然できたのではないかということ。
避妊という概念はこの当時ないので、性交渉を行えば妊娠する可能性はいつでもあるが、
性交渉を控えておられれば、子ができることはない。
11年間の空白は、性交渉を控えておられたからではないか、といいたかったわけ。
347日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:17:40
>名前:名無しさん@3周年 :2007/09/12(水) 22:51:19 ID:YyJZn69R
>大音量で軍歌を流してゆっくり走る車が我が町には存在する。
>みんな迷惑している。
>追い抜くと追いかけて来るんだよ、むっちゃ恐いよ〜
>あの人たち純粋な日本人じゃないのに日の丸や天皇を大事にしている。
>日本人は祝祭日だろうが日の丸を掲揚したりしない。
>日本人は戦争を嫌いな人がほとんどだけど、あの方々は戦闘的。
>逆らえない、恐いから。だから2ちゃんねるで愚痴るしかない弱い俺。

在日の9割が天皇制を積極的に支持しているそうです。
日本人は天皇万歳なんて言わない。天皇万歳は在日の証明。
天皇を暴力で押し付ける、やたらと愛国心を協調する。←それは日本人ではない者が日本人になるときのジレンマ
348日本@名無史さん:2007/09/19(水) 15:51:45
「貞明皇后とその時代」で貞明皇后が昭和天皇のお子様たちには遠慮して、近衛ィ子さんが初孫みたいだと思っていたと書かれていた。
確かに昭和天皇・香淳皇后と貞明皇后には対立関係があったにせよ、貞明皇后は昭和天皇のお子様たちも可愛かったと思う。
東久邇成子さんや今上天皇、常陸宮さまと一緒に写真を撮っているし、今上天皇の姉宮方のご結婚は貞明皇后の手によって決められたらしい。
一緒に食事や静養をしたりもしている。今上天皇は、貞明皇后から宮中言葉を教わったそう。
349日本@名無史さん:2007/09/23(日) 16:32:32
>>339
この本読んだけど、この女官の話したことを言語学者が口述筆記した、という本なんだね。
しかもこの学者も大正天皇の宮中に関して、くわしくないらしい。

内容的には戦後没落した旧女官の昔はよかった話しと、わたしは大正天皇の寵愛を受けたのに
皇后にやきもち焼かれちゃった。テヘッ。ということだね。

暇見ていろいろ調べてみたんだけど、香淳皇后とまたいとこ、両親が邦彦王、賀陽宮といとこと言っている。
この二人の両親は朝彦親王と泉亭萬喜子だから萬喜子の兄弟姉妹が梨木家に養子に行ったか、嫁に行ったと
考えるのが普通。

梨木家のほうだと、伯母が明治女官で房枝だと書いてあるが、確かに明治18年の官員録の権命婦の欄に
「正八位 梨木房榮」とかいてあるのでこの人のことだと思う。ただ、父親の名前などは書いていない。
あと、大伯母が孝明、明治に使えた持子だとある。
「幕末公家集成」には親王女中の欄に慶応元年 御乳人梨木持子がある。弟に「鴨社司梨木故土佐守祐宗」
「同梨木故安芸守祐時」「同梨木淡路守祐寄」がいるのでこの三人の誰かが祖父と推定できる。


兄弟姉妹が6人いて、姉が一人明治女官で 紀三井寺の住職をしていた。弟は養子に出て昭和35年まで
侍従をしていた菊修氏、父親は子爵で明治天皇の祐筆だった。とあるけれどこの辺りはわからなかった。
入江相政日記の35年のところを読んだが、侍従の退職の話は出ていなかった。

以上、長々と経過報告でした。
350349:2007/09/23(日) 16:42:50
追加

339さんも書いているが子爵の中に梨木家という家はないし、紀三井寺って尼寺だっけ?
梨木家も泉亭家も下鴨の家だから通婚があってもおかしくは無い。
「古代豪族系図集覧」に梨木家は載っていないし、泉亭も幕末まで。
伯母さんが命婦なら、大正時代とはいえもいきなり権典侍にはしないでしょう。
命婦をやっていて特別に掌侍くらいに昇格すると言う話しを勘違いしているのかも
351日本@名無史さん:2007/09/30(日) 11:21:35
(´∀`∩)↑age↑
352日本@名無史さん:2007/10/01(月) 19:33:15
>>349-350さん、素晴らしい よくわかりましたねぇ。社家の娘ってけっこう宮家の当主の生母になってるような…。その割に社家について詳しい本は見当たらない(私だけ?)

スレチになるが有栖川宮威仁親王の生母、森則子ははじめ女官となり権掌侍。のちに有栖川宮家に入る と「日本女性人名辞典」にある。森家は確か賀茂社司だよね やはりその辺りが適切かと。
353日本@名無史さん:2007/10/01(月) 21:16:18
さらにスレチだが青田典子の最初の芸名は森典子(もりのりこ)だったらしい。
その後本名の森田典子に改名してさらに青田典子に改名してブレイク。
354日本@名無史さん:2007/10/01(月) 22:45:20
>>349-350
泉亭萬喜子が邦憲王の生母だって初めて知りました。
邦彦王と邦憲王は同母兄弟だったんですね。
これで香淳皇后とどうして梨木止女子がはとこだったか分かりました。
ありがとうございました。

梨木止女子は、権典侍だったのが大正天皇に気に入られて、貞明皇后の意向により命婦に格下げになったとか、
父は子爵だったとか、いろいろ信憑性が低いことを言っているので個人的にこの本は信用できないと思ってます。
355日本@名無史さん:2007/10/01(月) 22:51:20
維新後華族制度ができたけど、社家関係は華族にはなれなかったみたいだね それでもやはり宮中との関わりはかわらなかったと考えていいのかな?
さすがに現在はあまりきかないけど
泉亭家は香淳皇后とも縁があるし、南大路家は英照皇太后の生母の出 2家とも華族になれなかったのは気の毒といえば気の毒。

>>353詳しいね 青田典子が森典子と名乗っていた時ブレイクしていたら【もりのりこ】は玉の輿に乗る名前と信じたかもw
356日本@名無史さん:2007/10/01(月) 23:05:42
泉亭萬喜子と泉亭静枝は姉妹か叔母、姪なのかな?
静枝は俊益の2女と書いてあるが萬喜子の情報は邦彦王が2歳の時に亡くなった、としかしらない。
邦憲王は静枝所生となっているのもあるね
静枝は19歳で朝彦親王の側室となり、大正3年68歳で亡くなったらしい
357日本@名無史さん:2007/10/02(火) 10:10:19
静枝は夭折長女、夭折長男、邦憲、安喜子、絢子、多嘉、夭折六男、篶子を産んで
万喜子は栄子、飛呂子、邦彦、素子、懐子を産んでいる。
夭折七男は生母は忘れたが静枝か万喜子のどちらかである。
あと万喜子は「泉萬喜子」と泉姓になっているのもみたことある。
358日本@名無史さん:2007/10/03(水) 07:38:27
貞明さんの生母の野間幾子といい邦彦王の生母の泉亭萬喜子といい本当情報が少ない
昔「もっと生母に敬意を払うべき」というカキコをみたが禿同
上流階級で側室の血をひいていない人なんて皆無だろうに
359日本@名無史さん:2007/10/11(木) 12:52:50
日蓮正宗って明治時代や大正時代にあったの?皇室は明治以降は国家神道で
日蓮正宗って昭和30年代以降の創価学会の躍進で広まったものと思っていたけど。
360日本@名無史さん:2007/10/11(木) 17:55:44
>>358
俺としては泉亭萬喜子VS泉亭静枝VS原田光枝VS角田須賀子VS寺尾宇多子の関係が知りたい
361日本@名無史さん:2007/10/12(金) 06:45:07
>>360
寺尾宇多子は後のひがしにの宮を産んだ。ひがしくにの宮は明治天皇の皇女と
結婚した。その間に産まれた長男は昭和天皇の長女 照宮成子内親王と結婚した。
照宮成子内親王が死亡後、父の反対を押し切って長男は京都の女性と
再婚した。その京都の女性との間に生まれた長男が今、寺尾姓を名乗っている。
漢字がうまく変換できなくてすまない。
362日本@名無史さん:2007/10/12(金) 08:55:37
5人の女性は寵愛をうけていた時期が同じとは限らないからな・・・・
泉亭萬喜子は邦彦王2歳の時に亡くなってるらしいから明治8年頃死去
泉亭静枝は長寿だし上にふれてあるから省略する
原田光枝は明治7年守正王出産、角田須賀子が鳩彦王出産したのは明治20年10月、寺尾宇多子が稔彦王出産したのは同じ明治20年(12月)この2人は同じ時期に寵愛されたみたい

泉亭萬喜子は朝彦親王生母の鳥居小路信子と同じ光雲寺に墓所がある
他の4人は久邇宮家墓地内に墓はあるらしい(歴史読本2003年4月号)

盛厚王の後妻の寺尾さんは寺尾宇多子の一族ときいたことがあるけどマジ?
363日本@名無史さん:2007/10/12(金) 12:00:03
>>362
推定だけど多分そう思う。誰か詳しい人が出てきてくれ。
364日本@名無史さん:2007/10/12(金) 14:21:36
盛厚王の後妻の寺尾佳子は、盛厚王とまたいとこだったと思う。
河原敏明の著書に書かれてあったと思うけど。
盛厚王は成子内親王といい、寺尾佳子といい近親婚だね。
365日本@名無史さん:2007/10/12(金) 17:35:33
サンクス! またいとこなんだ たしか準ミス京都だったんだよね
内親王の後に迎えるにはただ「好きになった」だけじゃ納得されなかったと思うが姻戚なら少しは同意を得られたかも
そういう意味で近親婚になったか?
詳しくしらないので妄想だよ^^;
366日本@名無史さん:2007/10/12(金) 18:37:23
このスレ、マンコ臭いな。
367日本@名無史さん:2007/10/12(金) 23:50:39
>>359
鎌倉時代から存在している。
368日本@名無史さん:2007/10/13(土) 01:23:53
>>367
すまない。無知だった。
369日本@名無史さん:2007/10/13(土) 13:50:52
>>365
盛厚王は父親の反対を押し切って再婚した。父親は側室にしておけと
言ったが、盛厚王は正式に結婚した。
370日本@名無史さん:2007/10/13(土) 17:43:24
側室って・・・いつの時代だよw
ナル彦は妾との間に三人子供がいたらしいが
371日本@名無史さん:2007/10/13(土) 21:11:28
>>369そうなんだ。反対を押し切ったのか・・・すごいなぁ
>>370臣籍降下の後に認知したとか聞いたような
男だったら旧宮家が万一復籍した時どういう扱いになるか気にならないでもなあな…。
372日本@名無史さん:2007/10/13(土) 23:58:54
>>371
昭和の初期に芸者を身請けした。戦後になってから認知した。でも性別は
知らない。
373日本@名無史さん:2007/10/16(火) 06:54:45
香淳皇后の兄も素行が良くなかったらしいが【皇后の兄】というので誰も何も言えなかったんでしょ?
知子妃は苦労したらしいね 気の毒
374日本@名無史さん:2007/10/16(火) 08:18:02
>>373
香淳皇后の兄、朝融王は最初、酒井菊子姫と婚約していたそうだが、一方的に
廃棄した。これには父宮も絡んでいる。その後菊子姫は加賀百万石の入り婿の
後妻となった。伏見宮知子女王はあきらめの気持ちで嫁いでいった可哀相な方。
375日本@名無史さん:2007/10/17(水) 01:45:20
節子は良子との婚儀を阻止しなかったのか?
376日本@名無史さん:2007/10/17(水) 08:14:01
菊子は婚約破棄されものすごく辛い思いをしただろうが長い目でみるとよかったかもね

貞明さんは香淳さんとの婚約を認めたあとのこの騒動にかなりご立腹
戦後臣籍降下のラジオを聴いて側近の筧氏が恐縮するのに「今まで宮様方は政策的によすぎました」みたいなこと仰ったがこのことも念頭にあったんだろう
377日本@名無史さん:2007/10/17(水) 16:17:04
菊子は幼時に母親が死亡、その後父親も亡くなりあの頃家族は年子の姉と婿養子の義兄しかいなかったから姫路酒井家の立場は弱かったと思う
378日本@名無史さん:2007/10/18(木) 01:41:12
節子は良子イビったんだろうね。
379日本@名無史さん:2007/10/18(木) 07:05:11
>>378
いじめてはいない。貞明皇后は宮中の決まりを教えたが、香淳皇后がついていけなかっただけ。
380日本@名無史さん:2007/10/18(木) 08:23:58
良子皇后は生母の俔子妃から敬語で話され育ったお嬢様だからね
里親に預けられ苦労もした貞明皇后からすると苛立つこともあっただろう
良子皇后は実家でもうけたことがない対応にとまどったはず

要するに価値観がずれていたのをいじめととるかとらないか

美智子様のケースは完全に〈いじめ〉といえるけどこの2人は普通の嫁・姑の範囲内と思う
381日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:21:01
一条朝子を皇太子妃にして欲しかった。
382日本@名無史さん:2007/10/19(金) 00:52:28
貞明は生母が卑しい出自だから健康だけが取り柄のような女でしかなかったゼッ!
383日本@名無史さん:2007/10/19(金) 01:10:17
節子は聡明だった。
しかし、姉はなんで本願寺の裏方に?
384日本@名無史さん:2007/10/19(金) 08:16:24
>>382
最有力候補は伏見宮禎子女王だった。しかし、健康が問題点だった。
のち山内侯爵夫人となる。子供はいない。
385日本@名無史さん:2007/10/19(金) 09:08:15
>>378
大正天皇が危篤となったときに、皇太子時代の昭和天皇と良子女王夫妻が見舞いに来た。
貞明皇后が手ずから大正天皇の看病をしているのに
嫁の良子女王が何もせずに突っ立っているだけなので、
貞明皇后が大正天皇の額にのせる為のタオルを冷水で絞るように指示すると、
良子女王は洋装の白手袋をつけたままタオルを冷水につけ、
貞明皇后に「不器用なことだね」と言われたらしい。
いびるとまでは言えないんじゃないかな。
昭和天皇の嫁選びは貞明皇后自身が行ったけれども、良家の出の皇太子妃には
いらだつ事が多かったらしく、昭和天皇の弟の妃たちにいつも愚痴をいっていたらしい。
386日本@名無史さん:2007/10/19(金) 11:46:05
貞明皇后は保守的で昭和天皇の宮中改革にも反対して対立してたし
新時代の東宮家とは合わなかったのだろう。
>昭和天皇の弟の妃たちにいつも愚痴をいっていたらしい
これ聞くと、意外と小物だな。貞明皇后。
男勝りの聡明な皇后のイメージがあったが、この辺は庶民の姑と変わらない。
昭憲皇太后も宮妃に貞明皇后の至らなさを愚痴ったりしたのだろうか?
そんなことなさそうだが。
387日本@名無史さん:2007/10/19(金) 12:04:18
>>386
昭憲皇太后の場合、大正天皇の実母ではなかったために、
大正天皇との接点自体あまりなかったようだが・・・
貞明皇后は、昭憲皇太后の勧めた蚕事業などを継承するために、
懸命に努力したようだけれどもね。
貞明皇后は、息子の妃たちにものを与えたりすることに寛容で、
よく邸に呼んだりしていたようだが、
雲居の上のような生活をしていた昭憲皇太后にはそんなイメージはない。
昭憲皇太后もまた、母親は妾で、あまり恵まれた幼少時代は
送られていなかったのだけれども。
388日本@名無史さん:2007/10/19(金) 13:13:26
>>385 不器用じゃなくて実際は「不細工だね」って言った節子様であった。
389日本@名無史さん:2007/10/22(月) 04:25:22
山口智子に似てる。
390名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 18:59:09
>>389
誰が似ているんですか?
391日本@名無史さん:2007/10/22(月) 21:12:59
>>383
姉は元から本願寺に嫁ぐことになっていたけど貞明皇后が予想外に大正天皇に嫁ぐことになっただけ?
392日本@名無史さん:2007/10/23(火) 02:20:06
姉も候補だろ。
393日本@名無史さん:2007/10/23(火) 02:50:43
つーか伏見宮禎子女王が一旦は内定して父の貞愛親王にもそのことは告げられていた
内定とはいえ破棄はかなりショックと思う
だから久邇宮の騒動の時本家でもある伏見宮貞愛親王が説得にあたったんだよ

貞明皇后については昭憲皇太后は「なんておてんばな方」といったとか
女官の高倉寿子と万里小路幸子は「本当に禎子女王のことは惜しいことをした」と残念がったらしい
それでも万里小路幸子は貞明皇后に厳しく作法などを教えた
後にそのことがありがたかったと貞明皇后は感謝し万里小路家から侍従や女官を多く登用している

一説によると禎子女王がだめになったあと下田歌子が貞明皇后を推したとか
そのため貞明皇后は下田を重用し、後に問題になったとか
394日本@名無史さん:2007/10/23(火) 11:23:06
明治天皇もサチコ女王がよかったみたいだね。
395日本@名無史さん:2007/10/23(火) 19:32:40
>>394
今までも書かれてある通り、当初、皇太子妃には才色兼備だった伏見宮禎子女王が内定していた。
明治天皇と昭憲皇太后はもちろん、皇太子妃選定に当たった佐々木高行、女官までが婚約履行を望んだが、
禎子女王が腺病質だったため、縁談は破談した。
代わりの皇太子妃候補として九條節子、一條経子(昭憲皇太后の姪の娘)、徳川国子(徳川慶喜の娘)、久
邇宮純子女王(香淳皇后の叔母)などが候補に挙がり、最終的に節子と国子に絞られ、健康体ということで
節子が選ばれた。
だが、性格は禎子女王の方がよかったらしく、>>393にもあるように節子はお転婆に見られていたらしい。
396395:2007/10/23(火) 19:46:02
節子が皇后になって、皇太子裕仁親王が良子女王と結婚した頃の話。
節子皇后から良子女王の教育係を依頼されていた東伏見宮妃周子は度々、東宮御所を訪れていた。
東伏見宮妃が来訪されるのは困るであろうとある人物から母・久邇宮妃に手紙を書いて母宮妃から
周子妃に来訪を止めるよう言ってもらいなさいと助言され、良子女王が母への手紙を書いているの
を知った東宮女官長は慌てて止めたらしい。
助言した人物は、竹田宮恒久王妃昌子内親王。
昌子内親王は、節子皇后を「臣下から上がった方」と内心思っていたみたい。
林真理子の「ミカドの淑女」では節子皇后と昌子内親王は仲良く勉強したことみたいになっている
が、お妃に内定していた禎子女王の方が一緒に勉強していた期間が長い分、昌子内親王の中にもあ
る種のわだかまりがあったのだろうか。
397日本@名無史さん:2007/10/23(火) 20:48:13
皇族の勢力争いだね
>昌子内親王は、節子皇后を「臣下から上がった方」と内心思っていたみたい。
昔は昌子内親王>(身分が上)九条節子、が皇太子妃になった時から節子妃>昌子内親王、になってしまった
「臣下から上がった方」とは言っていたらしいね 内親王のプライドの高さを感じた
昌子内親王が戦前に亡くなったのは彼女には幸いだろう
398日本@名無史さん:2007/10/24(水) 00:47:56
徳川国子より経子のほうが候補になるだろ(その後を考えても)
明治天皇・皇后は候補になった女王に会いに伏見宮邸に御幸してるくらい。
天皇は女王のほうがルックス的にもよかったんだろうねー。
399日本@名無史さん:2007/10/24(水) 03:07:12
サチ子女王を宮家に嫁がせるのを小松宮が反対した。
400日本@名無史さん:2007/10/24(水) 07:05:25
子供の数やその子供の容姿を考えると徳川経子のほうが良かったかも
しかし経子の子供は早死が多い
401日本@名無史さん:2007/10/24(水) 13:32:38
徳川経子は14歳で華頂宮博恭王と結婚している。(この時、九條節子12歳)
その時点で皇太子妃候補から外れている。
徳川国子は最終候補にまで残ったが、子爵大河内輝耕夫人となった。
ただ大河内子爵と国子の夫婦仲はしっくりいってなかったらしく、
国子は別の男性と付き合い、大河内夫婦は子供には恵まれなかった
402日本@名無史さん:2007/10/24(水) 13:36:24
一条経子や久邇宮純子は?
403日本@名無史さん:2007/10/24(水) 14:22:39
>>402
一條経子は、昭憲皇太后の兄・実良の娘である良子と入り婿の夫・実輝の娘。
経子は二女だったが、姉が早世したため、事実上の一人娘で跡取り。
九條節子に万が一のことがあった場合の予備候補だった。
節子の弟・良致と結婚予定だったが、経子が良致を嫌がったため、縁談は取り消しに。
久邇宮純子女王も予備候補だったが、経子よりも下位にみられていた様子。
明治天皇は皇太子妃を第一に皇族、第二に旧摂家、第三にその他の公侯爵家に求めたそうな。
しかし、純子女王の場合は必ずしも適用されなかったらしい。
父・朝彦親王のことを考えてのことかも。
でも、昭和天皇の時の皇太子妃選びは、そういうことを抜きにして、純子女王の姪・良子女王
が選ばれたわけだが。

404日本@名無史さん:2007/10/24(水) 15:07:55
貞明皇后の弟良致の妻は本願寺大谷家から嫁いだ九条武子だね
武子の兄大谷光瑞は貞明皇后の姉と結婚
貞明皇后の姉は大谷家へ嫁ぎ、弟嫁は大谷家の出身という濃い縁組
当時の大谷家は、京都市と同じ予算がつくぐらいの大富豪だったらしい
そのため九条家は目をつけたのか(逆?)
武子は大谷家の娘としては初めて僧侶以外に嫁いだ
大正三大美人のひとりといわれた武子は京都女子大創設者で子はなかった
貞明皇后の実家の話
405日本@名無史さん:2007/10/24(水) 15:21:21
九条節子の東宮妃内定には、
節子の叔母である英照皇太后の意見は入ってないの?
英照皇太后は大正天皇の結婚の3年前になくなっているけれども、
この頃からお妃選定は進んでいただろうし。
406日本@名無史さん:2007/10/24(水) 16:31:18
貞明皇后の弟の評判がよくなかったと聞いたがどうなんだろう。
上に出ている良致と武子の結婚は兄嫁の籌子(皇后の姉)の主導で決まったが
武子は乗り気ではなかったらしい。
もう一人の弟は梨本宮妃の妹と結婚するも離婚している。
407日本@名無史さん:2007/10/24(水) 17:46:30
貞明皇后の弟と鍋島茂子には子供はいたのか?
408日本@名無史さん:2007/10/24(水) 17:52:31
東本願寺は、昔から宮家の女王の嫁ぎ先になっている。
良子皇后の妹智子女王も裏方になって華頂短大作ったよね。

で、九条節子の弟だけど、評判よくないね。節子が入内したから
仕方なく男爵にさせた(わき腹の子だけど)ってなんかに書いてあった。

徳川経子より国子が皇太子妃候補は聞いたことない。経子の方が美人で才能あるじゃん。
409日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:43:31
しかも貞明皇后と弟は生母が違う
410日本@名無史さん:2007/10/24(水) 21:09:11
>九条節子の弟だけど、評判よくないね。
kwsk
411日本@名無史さん:2007/10/24(水) 22:14:00
鍋島の娘とは1年くらいで離婚している。なんかあったのか?
412日本@名無史さん:2007/10/25(木) 09:14:40
貞明皇后の弟九条良致ははじめ一条実輝の養子だった
実輝の娘一条経子と結婚して婿養子となり一条家を継ぐ予定であったが
故あって一条家から九条家へ帰されている
一条家ではこの後大炊御門家から実孝を養子にとり一条経子と結婚させている

413日本@名無史さん:2007/10/25(木) 12:34:28
聡子内親王はかわいそうな人生だったな・・。
414日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:00:56
相手が悪かった。他にいなかったのか?
415日本@名無史さん:2007/10/25(木) 20:29:57
>>414
五摂家なら近衛文麿や鷹司信輔が年齢つりあうが
416日本@名無史さん:2007/10/25(木) 21:19:32
皇族ではいないのかよ。
417日本@名無史さん:2007/10/25(木) 22:57:16
>>416 そう。内親王は皇族と結婚するのが明治時代の不文律だった
五摂家でもOKなら聡子内親王ももっといいお相手がいたかもしれない
418日本@名無史さん:2007/10/25(木) 23:21:17
伏見宮邦芳王や有栖川宮栽仁王が健康だったら、明治天皇の皇女の嫁ぎ先も変わっていたかも。
419日本@名無史さん:2007/10/26(金) 07:56:34
栽仁は允子内親王と婚約していた
420日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:05:05
亡くなったとき号泣した内親王であった。
421日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:06:50
一条経子の娘は美智子皇后の大叔父と結婚している
422日本@名無史さん:2007/10/26(金) 17:30:47
逆に昌子〜聡子が親王で秩父宮〜三笠宮が内親王だったらどのような人と結婚してたか気になる
423日本@名無史さん:2007/10/26(金) 23:33:07
>徳川経子より国子が皇太子妃候補
上野秀治が書いてるよ。皇后宮大夫だった香川敬三の研究をしてる人。
424日本@名無史さん:2007/10/27(土) 00:51:34
>>423
徳川慶喜の晩年について書いた本には、徳川国子が皇太子妃候補だったと
書かれているのが何冊かある。
上野秀治氏の論文も引用されている。
でも、禎子女王の後の第一候補は貞明皇后だったみたいだけどね。
425日本@名無史さん:2007/10/27(土) 00:53:17
>>423
上野秀治って上野正雄(能久庶子)の息子正泰の養子で経子国子の妹英子の孫?
426日本@名無史さん:2007/10/27(土) 01:26:44
国子ってその割には子爵に嫁ぐってうまくいかないわな。
427日本@名無史さん:2007/10/27(土) 16:57:42
純子女王よりはましじゃね?
428日本@名無史さん:2007/10/28(日) 21:27:04
純子ってどうなったのか?
429日本@名無史さん:2007/10/28(日) 22:07:34
>>428
結婚後四人子供を産んだが夫は早死。あとを継いだ長男も早死でついには自身も27歳で死亡。
430日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:19:59
誰と結婚したのですか?
431日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:33:08
>純子女王の夫
大和柳本藩主織田信及の子、子爵織田秀実(享年33歳)。
純子女王との間に4男1女。
長男信一は満6歳で死去。
432日本@名無史さん:2007/10/29(月) 19:45:51
>>431
4男1女ではなく3男1女のはずだが?
そもそもたった5年半の結婚生活で4人も子供を産んだのは驚異的
433日本@名無史さん:2007/10/29(月) 20:54:55
織田家は次男(名は知らない)が継いだの?
434日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:17:08
>>433
次男が継ぎさらに三男が継いだ
435日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:19:30
>>434
ありがとう。
なぜそんなに早く亡くなったの?流行り病か何か?
436日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:33:44
純子女王の姉安喜子女王も長男の池田禎政と女中部屋で変死していたともきく 恐いなぁ・・・・・
437日本@名無史さん:2007/10/29(月) 23:17:16
安喜子女王と禎政は流行性感冒(つまりインフルエンザ?)で死んだことになっているけどこれは偽装?
438日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:42:45
どれが本当かわからないけど1日違いで亡くなった、と届けられてるらしいのでそういう噂もあったらしい 後を継いだのが3男の宣政だけど養子にでていた2男ともめたとか
2男の夫人が「遠いうた」作者の徳川元子さんの実姉だったはず
439日本@名無史さん:2007/10/30(火) 07:00:47
池田政(金辰)と戸田愛子はともに再婚で政(金辰)の先妻は篶子女王の娘だったはず
440日本@名無史さん:2007/10/30(火) 07:18:54
みんな朝彦親王の娘がからんでる!! すごすぎ! 香淳皇后は孫だし
441日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:15:49
毒殺は宮中の伝統だから。
戦後にもやられたって言われてる人居るよ。
朝彦親王の孫の九條日浄門跡。
442日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:26:39
>>441
素子女王の長女だね
素子女王の三女の三女は池坊保子
443追記:2007/10/30(火) 08:30:59
門跡の母は素子女王(仙台政敬夫人)。
池田家の人とかはこの辺り、全部知ってるんだろうな。
444日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:34:06
って、これも朝彦親王か。
久邇宮の女系は殺して良い事になってるのか?
445443訂正:2007/10/30(火) 08:46:39
仙台→仙石
446日本@名無史さん:2007/10/30(火) 09:25:04
仙台ワロタ
447日本@名無史さん:2007/10/30(火) 10:16:03
良子女王の父久邇宮邦彦王は、
皇太子夫妻のもとへ頻繁に出入りして金の無心をし、
貞明皇后に怒られたそうだけれども、
良子女王の実家は相当金に困っていたの?
宮家のプライドだけは高いけれども、
父親が浪費家だったとか?
448日本@名無史さん:2007/10/30(火) 10:32:30
奔放なのは久邇宮の家風。
当時は莫大な株式も保有してるはずだし、ただ単にせびったんだろう。
稔彦さんが目立つけど、一番天皇家に近くて、一番やりたい放題なのが
久邇宮。暗殺話が多いのはそういうのを牽制されてたからだろ。
旗から見りゃでたらめなだけの家だけど、堅苦しいではすまない
皇族のプレッシャーの中で、当人達は闘ってたのかもしれない。
449日本@名無史さん:2007/10/30(火) 11:45:41
>>447
良子女王の本によれば、久邇宮家は宮家の中でも
有数な貧乏宮家だったようだ。
良子女王が生まれる前後まではちか子妃が子供と同室で寝ており
洋服もちか子が手作りしていたようだ。
あの、聖心女子大に残ってる豪邸も良子女王の結婚が決まってから
財閥からの援助で建てられたと言われている。
皇族は何かと物入りが多いし、ましてや娘が皇太子妃になったら
付き合いやなんやでお金に困っても不思議ではない。
妹の智子女王の婚約が決まったときに、大富豪の大谷家と金のために
縁組したと噂されたそうだが、あながち嘘ではないかもしれん。
450日本@名無史さん:2007/10/30(火) 14:41:15
>>441

九条日浄門跡のこと詳しく教えて
451日本@名無史さん:2007/10/30(火) 14:47:41
ただ、島津だって結構な金持ちだから御輿入れのときに結構な持参金は持ってきてるんじゃない?
だから、あながち貧乏とはいえないと思う
452日本@名無史さん:2007/10/30(火) 16:42:09
>>450
戦時中に一般人とランデブー、京都市内で蟄居幽閉に近い状態で約20年後に心臓麻痺で遷化(一説には毒殺)。
堀川に有った瑞龍寺(村雲御所)は遷化の同年、現在の八幡山に移転。
スキャンダル前には村雲日浄の名で著書有り。
453日本@名無史さん:2007/10/30(火) 17:38:16
>>449
俔子妃が子供と同室で寝ていたのはむしろ普通のことだと思うが・・・
幼いならなおさら
454日本@名無史さん:2007/10/30(火) 17:56:43
良子女王にも乳母がいたよ たしか‘もん’とかいう名の
あと島津家では姉妹でも別々の部屋でお付きのものと生活していたとか 半端でない金持ちだった
十五銀行がつぶれた時解雇した使用人が200人とかいわれている
俔子妃の姉常子のお姫さまぶりは嫁の元子が書いているが戦後は大変だったそうだ
455日本@名無史さん:2007/10/30(火) 20:08:26
>>454
徳川元子の姑は、四女・島津知子(徳川達孝夫人、元子の夫・徳川達成の母)では?
三女・常子は、貞明皇后の姉・範子の夫である山階宮菊麿王の後妻になったはず。
456454:2007/10/30(火) 20:39:06
>>455スマソ その通り。
457日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:47:51
息子の嫁には占いで選んでたらしいね。
458日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:57:40
>>457まじ?和子内親王と鷹司平通氏は占わせたと何かで読んだ(それなのに不幸な結果になった)
息子は政治的な配慮で妃を選んだと思っていた
三笠宮さまは政治的な感じはしないけど
459日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:44:18
>>459
>三笠宮さまは政治的な感じはしないけど
藤樫準二著「千代田城」によれば、貞明皇后の崩御後、貞明皇后のお文庫の中を
整理していたら、若い娘さんの写真が何枚か出てきて、写真の裏には書き込みがあったそうで。
写真の女性たちは氏名と年齢からいえば、三笠宮のお妃候補だったらしい。
そういうことから考えると多分、政治的な配慮では選んでないと思う。
高木百合子は側近の入江為守の孫娘だし。
高松宮妃は有栖川宮家の断絶により、宣仁親王に高松宮を興させて有栖川宮家の祭祀と財産を継承させることによって、
自然と宣仁親王妃には有栖川宮家の血を引く娘をということで、それに該当する徳川喜久子が内定していただけ。
だから、ここにも政治的な配慮はあまりないと思われる。
それに貞明皇后は威仁親王妃慰子には恩義があり、徳川実枝子とも仲が良かった。
秩父宮妃はかつての朝敵の会津松平家出身で平民の松平勢津子がなった。
ここには政治的な配慮の感じはするものの、勢津子の母の松平信子は貞明皇后の腹心の御用掛であり、お気に入りだった
ことも影響しているのでは。
貞明皇后は昭和天皇のお妃選びで香淳皇后を気に入ったものの、父の邦彦王の宮中某重大事件での態度にご立腹。
それ以来、香淳皇后や久邇宮家には手厳しくなったようだ。
邦彦王に懲りて秩父宮妃、高松宮妃、三笠宮妃は自分の身内?(側近)の中から選んでいる。
政治的な配慮云々と言い出したのは、高松宮妃じゃないのかな?
たまたま4兄弟の妃たちが朝敵とみなされた人々の子孫だっただけで。
貞明皇后は賢かったから、政治的な配慮というか、歴史の清算をしたという人もいるけれど、
個人的にはこういう見方も出来るんじゃないかと思います。

460日本@名無史さん:2007/10/31(水) 00:59:32
なるほど そういう見方もあるんだ
結果論になるが自分は秩父宮妃を逆賊とされた会津松平家から迎えたのは貞明皇后の素晴らしい判断と思う 勢津子妃の時かは知らないが反対された時は「私は皇子の生母です」とおしきったと聞いた
461459:2007/10/31(水) 01:42:01
>>460
確かに貞明皇后が朝敵・会津松平家から民間(当時は平民)から勢津子妃を選んだのは素晴らしいですね。
会津の人々は嬉しかったでしょうし、天皇陛下のすぐ下の弟の直宮筆頭のお妃になったことで会津藩の汚名が返上された
わけですから。
でも、昭和天皇と香淳皇后と対立を深め、その代わりに秩父宮、高松宮、三笠宮に対しては愛情を深めていったのが、個人的には悲しい。
秩父・高松・三笠の三宮妃が貞明皇后を尊敬しているのに対し、香淳皇后にはちょっと距離感がありますね。
戦後は大分齟齬もなくなり、仲良くなられたようですが。
462459:2007/10/31(水) 01:46:35
>朝敵・会津松平家から民間(当時は平民)から勢津子妃
朝敵・会津松平家から民間(当時は平民)の勢津子妃に訂正。
すみません。
463日本@名無史さん:2007/10/31(水) 06:50:02
秩父宮妃勢津子妃殿下は松平節。入内してから勢津子と名前を改めた。
464日本@名無史さん:2007/10/31(水) 07:27:28
九条家が幕府よりの公家だったからでしょ。
465日本@名無史さん:2007/10/31(水) 12:36:10
節子って父親に似てるね。
466日本@名無史さん:2007/10/31(水) 14:28:00
>>463
>秩父宮妃勢津子妃殿下は松平節。入内してから勢津子と名前を改めた。
そうでした。便宜上、「勢津子」と書いた方が分かりやすいかなと思ったもので。

小山いと子が昭和34年5月号「婦人公論」の中で、貞明皇后は香淳皇后の母・久邇宮俔子妃に対する態度と
秩父宮勢津子妃の母・松平信子に対する態度が違い過ぎると書いてるんですね。
松平信子にはすごく親しみがあり、俔子妃に対してはよそよそしいというか。
香淳皇后の成婚時、久邇宮邦彦王と俔子妃が度々、東宮御所に行くのが皇室の外戚としてはみっともない
ということで貞明皇后は気に食わなかったみたいです。それで久邇宮家が外戚として振る舞うことを恐れた
貞明皇后は久邇宮家を牽制したそうで。そういうところは、皇后としては立派だと思います。
でも、勢津子妃の父の松平恒雄は宮内大臣となり、母の信子は常盤会会長などをして宮中での影響力を高めたのは、
いかがなものかと思いますが。
467日本@名無史さん:2007/10/31(水) 15:55:19
「節子」ではなく「節」だったの?
妹は正子だから普通に節子だと思っていた
468日本@名無史さん:2007/10/31(水) 18:56:11
正子はどこに嫁にいったの?
469日本@名無史さん:2007/10/31(水) 18:57:41
久邇宮邦彦王は、ろくでなしだよね。
470日本@名無史さん:2007/10/31(水) 19:43:26
>>468
勢津子妃の妹さんである松平正子は、尾張徳川侯爵家の徳川義親嗣子・義知に嫁いだ。
勢津子妃の兄の松平一郎は、徳川宗家公爵家の徳川家正の娘の豊子を夫人とし、次男・恒孝が、
徳川宗家の当主となった。
秩父宮と勢津子妃の結婚のおかげで、その兄妹たちは華族と結婚したようだね。
471日本@名無史さん:2007/10/31(水) 20:18:53
正子ってキキキリンに似てる。
472日本@名無史さん:2007/10/31(水) 20:20:12
正子は1男2女を産んだが長男が夭折したわけではないのに長女が婿養子を迎えた。何故!?
473日本@名無史さん:2007/10/31(水) 20:21:51
>>470 兄、弟がいたのか?それって信子の子?
474日本@名無史さん:2007/10/31(水) 22:08:37
>>473
勢津子妃は兄の一郎、妹の正子、弟の次郎の4人兄弟。
みんな母親は松平恒雄夫人信子。
末っ子の弟さんは、貞明皇后の初孫の成子内親王の同級生である酒井美意子の写真集に載ってた。
両親や兄姉よりも早く戦前に亡くなられたのは、残念だったと思う。
475日本@名無史さん:2007/10/31(水) 22:59:18
歴史読本2006年11月号「天皇家と宮家」の秩父宮家には勢津子妃の元の名前は“節子”であったが貞明皇后の“節子(さだこ)”と同じ文字では畏れ多いため、松平家は宮内当局に諒解をえて、勢津子に改めた(川田敬一)とある
476日本@名無史さん:2007/11/01(木) 01:18:40
久邇宮家は朝融王の婚約破棄で大正天皇の顔をつぶしたからな 良子女王は皇太子妃にごりおしして・・・
松平恒雄は子爵の兄弟だが本人は爵位がない 信子夫人も侯爵家の出だが当時は民間扱い
久邇宮家の横暴を押さえるためにも松平家を贔屓?したと思う
喜久子妃の父は入内前に亡くなっているし母も若くして他界してるしね

貞明皇后が崩御した後勢津子妃、喜久子妃、百合子妃は遺徳を偲んで貞明皇后の和歌の本を出そうとしたらしいが良子皇后が「まだ早い」と反対したのもなぁ
477日本@名無史さん:2007/11/01(木) 04:23:41
何気に松平信子高齢出産
でも何で松平次郎は酒井美意子の写真集に載っているんだ?
美意子や美意子の夫と学年が違うのに
478日本@名無史さん:2007/11/01(木) 07:16:45
479日本@名無史さん:2007/11/01(木) 08:32:43
高松宮喜久子妃の姪真佐子は衆議院議員平沼赳夫の妻
ホームページにでかでかと妻が徳川慶光の娘であることを載せてる
平沼、馬鹿w
お前の政治活動と関係ないじゃんw
そんなんだから自民党を追い出される
480日本@名無史さん:2007/11/01(木) 08:35:02
正子が撫すだから?
481日本@名無史さん:2007/11/01(木) 19:45:17
>>476
久邇宮家の振る舞いは確かにすごくひどい。
宮中某重大事件の時、いくら病身でも敬うべき夫の大正天皇を無視して、貞明皇后に対話を申し込んだ邦彦王は、
朝融王の婚約破棄事件ではすでに内輪だが勅許が出ていたのにも関わらず、無理やり破棄した。
挙句の果てには、>>447さんも書いてある通り、金の無心まで。(←ウィキペディアの邦彦王の項にあった)
こうしてみると、貞明皇后が信頼の置ける人々の中から直宮のお妃を選んだのも頷けます。
482日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:26:30
私だったら直宮の相手に一条朝子か直子は入れた。
483日本@名無史さん:2007/11/01(木) 20:33:11
>>481 あの内容からいくと、まだ大正天皇のお妃を選ぶときに
伏見宮女王が外された理由のほうが、良子の問題になった理由よりマシだろ。
伏見宮の方がクニ宮より常識的だったってことだろ。
484日本@名無史さん:2007/11/01(木) 21:17:24
良子女王は妃の子供だけど禎子は側室の子供だからあまり熱心じゃなかったと思う
しかし皇族妃は長女が多いな
長女じゃなくても姉が早死で実質長女の祥子妃や喜久子妃等、姉が婿養子と結婚して嫁いだ娘では一番年上の百合子妃や朝子妃、
かと思ったら大勢姉がいて末娘の華子妃や千賀子妃(千賀子妃は弟がいるが)、
皇族以外の他家に嫁いだ姉も妹もいるのは意外と少ない
485日本@名無史さん:2007/11/01(木) 21:43:50
貞明皇后の姉の籌子も皇太子妃候補だったけど、西本願寺の大谷光瑞伯爵に早々と嫁いでしまった。
禎子女王を候補から外した後、貞明皇后が第一候補になった時、侍医のベルツは妾の娘を皇太子妃にするのはいかがなものかと言い出し、
側室の野間幾子を正妻にしたらどうだという議論になったらしい。
でも、禎子女王の時は側室生まれというのは議論にならなかったのだろうか。
486日本@名無史さん:2007/11/01(木) 21:59:23
>>485そんなことがあったの
禎子女王どころか当時の皇后美子も明治天皇も側室の子なのに もち大正天皇も
まれに野間幾子が〈九条幾子〉となっているのをみる 俔子妃生母山崎寿満子を訃報記事では島津寿満子と表記しているような感じかな
487日本@名無史さん:2007/11/01(木) 22:24:27
伏見宮は、宮家の筆頭で天皇家の次とされていた。
歴史の浅い、クニ宮の正室よりも伏見のサチコ女王が上です。
488日本@名無史さん:2007/11/01(木) 22:45:56
サチコ>>ナガコ です。
489日本@名無史さん:2007/11/02(金) 07:45:59
昭和天皇妃有力候補だったのは良子女王、梨本宮方子女王、一条朝子の3人
うち方子女王が李垠に嫁ぐことになったのはなぜか方子女王には“子供ができない”と判断されていたから だから長男晋が誕生した時「その関係者は処分されたそうだ」と方子女王の自伝に書いてあった

昭和天皇妃に選ばれなかったのもそういう理由ぽい
一条朝子の理由は知らないが両親は「せめて直宮妃に」と願ったらしいが伏見宮妃に
母の悦子が松平信子に嫌味を言ったそうな
490日本@名無史さん:2007/11/02(金) 08:12:33
悦子は双子の娘を産んでいる
そのせいかそれ以降は子供を産んでいない
491日本@名無史さん:2007/11/02(金) 08:15:34
あと伊都子は二人の娘しか産んでいなくて息子を産んでいない
それもあったのでは?
492日本@名無史さん:2007/11/02(金) 08:43:20
良子女王は、貞明皇后自ら学習院へ乗り込み、
妃候補たちが登下校する姿を見て自ら決めたと読んだけど。
良子女王は常に白いリボンをつけ、
お雛さまのような古風な顔立ちだった。
数々あがった妃候補のうち、最期は容姿で決めたらしい。
493日本@名無史さん:2007/11/02(金) 10:44:55
>>481
>いくら病身でも敬うべき夫の大正天皇を無視して、貞明皇后に対話を申し込んだ
誰が脳炎でウワウワ言ってる人を考えに入れるんだよ。
その時期、大正天皇に面談を申し入れた人間なんているのか?
494日本@名無史さん:2007/11/02(金) 11:16:15
まあ、邦彦王は、色盲遺伝子が原因で婚約破棄などされたら
良子女王も妹も一生独身を通さざるを得ないとばかりに
婚約破棄なら良子を刺して自分も死ぬとわめいたらしいからね。
その割りに、自分の長男の結婚は婚約者が不貞を働いた噂があるとしてあっさり破棄。
邦彦王と俔子夫妻は、新婚の良子女王と皇太子(昭和天皇)が療養している
御用邸にまでやってきて、俔子は良子女王に「妊娠はまだか」と催促したらしい
好き勝手やりたい放題の夫婦という感じはするが
495日本@名無史さん:2007/11/02(金) 13:00:38
妊娠はまだかって俔子妃自身は4年連続で出産したぐらいだからね・・・
496日本@名無史さん:2007/11/02(金) 13:22:38
しかし俔子はキツネなのに曾孫はタヌキだ
497日本@名無史さん:2007/11/02(金) 13:42:01
香淳皇后の兄の孫娘久邇晃子は
現在の皇太子妃の最有力候補だった
498日本@名無史さん:2007/11/02(金) 14:22:16
俔子は「笑わない妃殿下」と有名 さすがに今上御誕生の時は満面笑みで現われた写真が残っている
邦彦王の子供は17名と書いてある本も 俔子の子は6名だからあとは(ry
お金の無心も子供の多さも関係あるかも
499日本@名無史さん:2007/11/02(金) 15:12:28
>>498
17人というのは邦彦の本人を除いた兄弟の数じゃ・・・?
500日本@名無史さん:2007/11/02(金) 18:53:40
>>486
貞明皇后の生母の野間幾子は、敗戦直後まで健在で玄孫の誕生を見届けているが、
俔子妃の生母の山崎寿満子はいつまで元気だったんだろうか。
501日本@名無史さん:2007/11/02(金) 20:35:05
寿満子は昭和2年2月17日に77歳で亡くなった。
さすがに玄孫はいなかったらようだ。
502日本@名無史さん:2007/11/02(金) 20:37:54
>>500島津寿満子、昭和2年2月17日、東京市芝白金三光町の自邸で死去75歳 とあったが実は77歳だったらしい
薩摩島津家スレに詳しい
503日本@名無史さん:2007/11/02(金) 22:31:47
>>501-502
ご回答ありがとうございます。
当時としては野間幾子も山崎寿満子も長生きですね。
ご生母関連で大正天皇の生母の柳原愛子、皇女方の生母の園祥子も長生き。
野間幾子、柳原愛子は孫の昭和天皇の即位、山崎寿満子は孫娘の皇后冊立を見届けて苦労が多いながらも幸せだったでしょうね。
貞明皇后も野間幾子と同じくらい長生きするとは思われていながら、68歳で狭心症で崩御したのは残念。
昭和26年に行われるはずだった今上陛下の立太子礼、成年式を見届けたかったことでしょう。
504日本@名無史さん:2007/11/03(土) 02:51:00
クニ宮は、皇室離脱後悲惨。
505日本@名無史さん:2007/11/03(土) 14:39:48
>>438-439
お姉さんの初婚の相手は誰なんだろう?
506日本@名無史さん:2007/11/03(土) 15:34:51
貞明皇后って、昭和16年に日蓮正宗に帰依したって言うよね。
この年は太平洋戦争が始まる年だけど、神道の総元締めである天皇の奥さんが、仏教とはいえ、特定の宗派に帰依した事情を知りたいな。
事情を知ってるはずの誰に聞いても言葉を濁すし。なんかタブー扱いで誰も教えてくれないんだよね。
507日本@名無史さん:2007/11/03(土) 19:38:32
占い師の影響
508日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:47:07
さだあきてるきみ
509日本@名無史さん:2007/11/04(日) 08:02:45
>>506 知らなかった 昔法皇とかいたから仏教と皇室がつながってもおかしくないかもしれないが
関係者がことばを濁すというほうが気になる
510日本@名無史さん:2007/11/04(日) 11:20:57
>>506 あれだけ元気だったのに、GHQの占領下に突然死。
しかも、マッカーサーからリッジウェイに変わってほぼ1か月後。
偶然かもしれないけど、ちょっと引っかかるよな。
511日本@名無史さん:2007/11/04(日) 12:53:32
貞明皇后が崩御して御舟入り(納棺)のとき半紙を短冊状にして宮様方や女官たちが
空いている時間に墨で「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」と書いて納めたんだって。
高松宮のときもそうしたらしいよ
512日本@名無史さん:2007/11/04(日) 13:59:32
>>511
大正天皇の崩御の際も貞明皇后に頼まれて、侍医の入沢達吉が短冊の半紙に「南無妙法蓮華経」と書いたらしい。
513日本@名無史さん:2007/11/04(日) 17:39:52
>>511 神道、仏教だったらなんでも良し、ということなんですかね。
日蓮やらなかったら、もっともっと長生きした、ということはないですか?
なんか皇祖神の怒りを買ったように思えますが。思いこみが過ぎますか。
514日本@名無史さん:2007/11/04(日) 18:15:03
これで皇祖神が怒るならば歴代の法皇は天罰が下って崩御したことになる。
天皇家が神道onlyになったのは近代になってからだよ。
515日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:21:53
皇祖神はともかく、まわりにウザがられたということは
ないかな。近代だからこそ、実はあってはならないこと
ではなかったのでしょうか。
516日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:35:52
秩父宮を一番かわいがったみたいね。
517日本@名無史さん:2007/11/04(日) 21:55:36
>>516孫はやすこさん 同じ誕生日、同じ干支というのが
518日本@名無史さん:2007/11/04(日) 22:15:58
>>516
秩父宮も皇太后の薦めで日蓮正宗に入ったという未確認情報があります。
もしかして、国家神道を見限って、終戦後、正宗の力によって弟宮に譲位させようと考えていたかも。
皇統を残すために皇太后によるクーデター未遂というのがあったのかも知れません。
519日本@名無史さん:2007/11/04(日) 22:38:05
>>517
文庫版「昭和天皇の妹君」を読んでいたら、巻末にこんなことが書かれてあった。
高松宮日記第3巻の昭和15年11月19日の項に
「15:30円照寺着。お墓に参ってお寺で『やすこ』、山本静山と名をかへてゐた。25になって大人になった。16:30ホテルにかへる。」
という記述があるらしい。
高松宮日記は同性愛を感じさせる記述が多いため、編者たちは削除しようとしたが、喜久子妃がありのままを出版させたため、
かなり赤裸々な筆致のままの本となっている。
双子説の信憑性とかはともかく(三笠宮ご夫妻は否定されている)、近衞ィ子さんが可愛がられたのは、同じ干支に生まれた三
笠宮さまの娘だから、山本静山門跡の面影を重ねていたのかも。ィ子さんの名前も『やすこ』だし。


520日本@名無史さん:2007/11/05(月) 04:51:07
貞明皇后があと10年ぐらい生きていたら今の皇后陛下は誰になっていたん
だろうと想像してしまった。美智子さまはすばらしいお嬢さまだったけど
認められなかっただろう。昭和天皇、今上ともに彼女の猛反対まで押し切れ
なかっただろうと思う。
521日本@名無史さん:2007/11/05(月) 06:03:57
肇子女王じゃね?
ところで肇子女王は何人子供がいる?
522日本@名無史さん:2007/11/05(月) 07:55:55
>>521確か1男1女
523日本@名無史さん:2007/11/05(月) 13:39:10
クニ宮のみち子女王だろ近親婚だけど。
でも、みち子女王は貧乏でもイケメンな夫と再婚し幸せそうだった。
524日本@名無史さん:2007/11/05(月) 16:39:45
なんで読んだかは忘れたが朝融王(当時は久邇朝融)が『皇后さま(香淳)にお会いしたとき陛下(昭和天皇)が「血筋の近いのは避けよう」と仰っていたからうちはないよ』と皇太子妃について言っていたらしい。
生物学者らしい昭和天皇のお考えと思った。

>>523氏の後半部分、禿同
525日本@名無史さん:2007/11/06(火) 07:56:48
通子女王は結構美人
526日本@名無史さん:2007/11/06(火) 09:52:43
現在の天皇陛下の妃候補の一人にあのオノ・ヨーコがいたそうですね
オノ・ヨーコ(本名;小野洋子)、母方の曽祖父は安田財閥の安田善次郎、
父方の祖父は日本興業銀行総裁小野英次郎、父は東京銀行常務で
本人も学習院大学中退と何気にお嬢様w
527日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:55:45
ヨーコ・オノは候補じゃない。
5人いた候補の一人がアメリカで息子と共謀して夫を殺害する事件を起こしてる。
528日本@名無史さん:2007/11/06(火) 20:23:46
>>527ヒェ〜そんな女性が皇太子妃候補だったなんて…。恐いよ いい家柄の出なんでしょうが。
529日本@名無史さん:2007/11/06(火) 22:03:00
その夫を殺害した方は一体どの家の出身でしょうか?
また残りの四人も誰なのかお願いします。
530日本@名無史さん:2007/11/06(火) 23:41:23
どこの出身かわからないが、ダンナの仕事で米国に住んでいた。
一人息子が父を殺害したのを隠蔽したか、一緒に殺したか。
ダンナには非がなく、母子の自分勝手な殺害だった。
息子が18才ごろだったはず、30年位前の事件かも。
5人の候補者の一人って言われてた。
531日本@名無史さん:2007/11/07(水) 01:54:31
>>529当時の名を出すのは憚られるのでだいたいわかる程度に書くと今上のお妃候補だったのは既に名が出ている旧北白川宮出身の肇子、旧久邇宮出身の通子
あとはやはり旧F宮家出身の女性、島津家令嬢、尾張徳川家令嬢、田安徳川家令嬢、松平家令嬢(どこかはわからない)、もう一人は新華族?イニシャルF.Hさんの8人が載っていた
この中に>527に該当する人がいるかは不明
532日本@名無史さん:2007/11/07(水) 07:15:20
一条朝子─伏見章子─その娘は三代連続皇太子妃候補だった
533日本@名無史さん:2007/11/07(水) 11:13:38
徳川元子はあわや皇后の母になるところだったのか
534日本@名無史さん:2007/11/07(水) 16:23:47
オノヨーコは学習院大学時代の義宮さま、現在の常陸宮さまが好きだった人。
話を蒸し返して悪いが三笠宮さまはやはり双子だったと思う。
三笠宮百合子妃殿下が山村御流の華道がよいから長女のやすこさまに結婚前
習わさせたと言うのが、とってつけたような気がする。まして他の宮妃や
当時皇太子妃だった皇后様まで奈良の小さな華道を習っていたと言うのもその理由。
535日本@名無史さん:2007/11/07(水) 16:33:10
>>534
貞明皇后とはちょっと話がずれるのですが、
皇室で双子がタブーになったのって、いつの時代からなんでしょう?
古い時代ですと、平安時代の嵯峨天皇と壇林皇后の子、
仁明天皇と正子内親王(淳和天皇皇后)が双子だったというのがあります。
江戸時代の後水尾天皇の皇女でも、帥局(水無瀬氏)の皇女が
同年生まれで双子だったといわれています。
記録に残らないところでいつしかタブーが生まれ、
こっそりどこかへ預けられたということなのでしょうか?
536日本@名無史さん:2007/11/07(水) 17:00:46
>>535
明治時代に五摂家だったか、皇族だったか忘れたが女の子の双子が生まれたはず。
ただ男女の双子は畜生腹と卑しめられた風習があったはず。後は詳しい人頼む。
537日本@名無史さん:2007/11/07(水) 17:12:19
詳しくないけど
男女の双子は心中の生まれ変わりってことで忌まれたのは
心中物浄瑠璃とかが流行った江戸中期以降じゃないかな。

多胎児は畜生腹だというのは聞くけどいつからか知らん。
538日本@名無史さん:2007/11/07(水) 17:27:53
伏見宮博泰王の娘敦子女王と知子女王、一条実輝公爵の娘、圭子と生子が双子
自分も三笠宮双子説は正しいと思っているよ
皇室でも宮家と天皇家では考え方や世間体などのとらえ方も違うしね
539日本@名無史さん:2007/11/07(水) 20:05:22
圭子と生子の母一条(旧姓細川)悦子はそれ以降子供を産んでいない。
540日本@名無史さん:2007/11/08(木) 06:27:59
>539 悦子は双子を産んだのが恥ずかしかった?
541日本@名無史さん:2007/11/08(木) 20:26:59
徳川関連は双子多いよね。家康や、家康次男も双生児説あるね。
542日本@名無史さん:2007/11/08(木) 22:15:33
双子を産んだ経子妃も徳川家出身
543日本@名無史さん:2007/11/09(金) 07:36:37
変な迷信にとらわれた昔の人は気の毒(今でも残っているかもしれないが)
そーいや皇太子が生まれた年は閏年でもし29日に誕生したら将来の天皇誕生日はどうする?とか宮内庁関係者は気をもんだってね
大正天皇は2ヵ月ずらした(暑いから天皇の体調考慮して)けど新憲法のもと、勝手にできない
23日誕生でホッとしただろう
544日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:39:41
>>505気になったから調べてきた
戸田愛子の初婚の相手は 大久保(小田原)忠言子爵
545日本@名無史さん:2007/11/09(金) 21:56:30
>>544
ヴヱリーdくす。徳川元子の本だと元子が先に婚約が決まって焦ったのか愛子は急いで婚約を決めて愛子も氏秀(元子父)も乗り気だったけど
極子は何かを予感してたのかこの婚約に乗り気ではなく結婚してすぐ愛子は離婚したいと言い出して元子の結婚後離婚したとしか書いていなかった。
極子は次女で元子たちの母米子が死んでいたので元子と愛子の婿選びに神経を使っていたらしい
それと大久保忠言は九条敏子妃の妹敝子の夫と同一人物?
546日本@名無史さん:2007/11/10(土) 04:36:35
>>545戸田家で調べたからよくわからないが「日本の名家・名門人物系譜総覧」の九条家をみると九条敝子(大久保忠言夫人)となっているのでそうだと思う
子爵という身分なら九条家の姫でも考えられる
547日本@名無史さん:2007/11/10(土) 17:01:22
公爵の娘は子爵以下に嫁ぐ事も多いけど、子爵以下の娘は公爵夫人になることはかなり少ないな
そして良いところに嫁ぐのは大抵長女や次女で三女以下が良いところに嫁ぐことは少ないな
548日本@名無史さん:2007/11/10(土) 18:58:47
どうして鍋島茂子は離婚したの?
549日本@名無史さん:2007/11/10(土) 18:58:52
近代以降の子孫ネタで娘の話とかしてるヤツってキモイ。
どうせ鬼女板の皇室スレに巣食ってるようなオバサンどもだろうな。
550日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:11:21
節子はいつ流産したん?
551日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:29:54
秩父宮と高松宮の間としかわからない
満州国皇帝溥儀と親しかったのはそのお子さまと年が近かったからでは、といわれてる
皇帝溥儀は1906年2月生まれ 無事に誕生してるならその頃だったのかな
552日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:37:22
女の子だったらよかったのに
553日本@名無史さん:2007/11/11(日) 16:16:39
>>548
鍋島茂子が貞明皇后の兄の九條良政男爵と離婚する直前、長女の千代子(麻布照海夫人)が誕生している。
ただ、茂子の離婚は千代子誕生の1ヶ月後であり、仮に千代子が茂子の娘だったとして乳飲み子を置いて離婚するなんて有り得るんだろうか。
以上のような経緯から個人的には千代子は茂子の子ではなく、側室の子と思う。
554553訂正:2007/11/11(日) 16:29:18
良政と茂子の離婚は、千代子誕生の一ヶ月後かどうか確信が持てないので訂正します。
ただ、二人の離婚が千代子誕生の前後に起きたのは確かです。
千代子は複雑な環境で育ちましたが、叔母の貞明皇后にはさつまいもを献上したりするなど交流があり、可愛がられていたようです。
555日本@名無史さん:2007/11/11(日) 20:58:20
逆に出産を待って離婚ということも考えられる。
556日本@名無史さん:2007/11/13(火) 02:41:27
側室の子供だろ。
557日本@名無史さん:2007/11/13(火) 07:16:00
茂子は牧野さんとの間に子供はいるの?
558日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:14:52
良政には4人の娘がいる
前妻の茂子が千代子の生母かは知らないが側室が子供を産んだから離婚という時代でもない 何らかの問題があり子供を残して離縁というのも考えられる
後妻の庭田重文の娘、ヨシ子が3人の娘の生母かも不詳

>>557茂子の子供について(いなかった場合も含め)ヒントになるかわからないが彼女は大正9年1月、36歳で亡くなっている
559日本@名無史さん:2007/11/13(火) 20:38:56
>>558
回答大変ありがとうございます。しかしながら茂子が30代で死んだのは既に知っていて・・・
560日本@名無史さん:2007/11/14(水) 18:36:29
良政の家は次女の息子がついでいるから
次女以下→後妻の子
長女→先妻(茂子)の子という解釈が出来る
しかし四女以外は皆微妙な嫁ぎ先だなw
四女夫(毛利公爵家出身小早川家養子)は血筋は素晴らしいが家格的には微妙w
561日本@名無史さん:2007/11/14(水) 19:23:47
もはや大名でも領主でもなくなった、私人の家族構成や家庭環境を詮索しているキモヲタの集まるスレ
562日本@名無史さん:2007/11/14(水) 20:28:19
節子の兄弟ってどうなの?弟はDQNだよね。
563日本@名無史さん:2007/11/14(水) 21:09:57
兄は道実だけじゃ?良政も兄なの?
「大正過去帳」では良政、良致、良叙、篷子、*子(*糸+壬)の5人は浄貞院の所生になっていたから弟と思っていた
あまり道実の話は聞かないな
564日本@名無史さん:2007/11/14(水) 22:31:51
道実の嫁恵子は東本願寺の出身
ところで恵子は正室腹だけど他は誰が正室腹なの?
565日本@名無史さん:2007/11/14(水) 23:06:44
弟の良敍は、何が原因だったかは忘れたけれど、九条家追放の憂き目に遭って、
芸者上がりの妻と生活していた時期があり、兄の道実の葬式で一人ぽつねんと
座っていたら、爪弾き者扱いされているのに貞明皇后は親しく声を掛けたとい
うエピソードがある。
あと、良敍は貞明皇后が皇太子妃に内定したら、兄弟とはいえ、同じ屋根の下
にいても、容易に会うことは出来なくなったとも語っている。
566日本@名無史さん:2007/11/15(木) 01:31:46
>>564 大谷光※(※火火の下に宝)は伏見宮和子女王の実子なので九条家との縁もそこからきていると思う

正室恒子の子は2男光演、3男※誠、5男※亮、9男※韶、11男※潤、2女恵子、6女嶺子、7女綾子(正親町公和夫人)
光※には少なくとも3人は側室がいたみたいだ

和子女王のもう一人の子供は岩倉家に嫁いだオサ子
567日本@名無史さん:2007/11/15(木) 01:33:10
鬼女臭がプンプンするな
568日本@名無史さん:2007/11/15(木) 01:38:51
良叙ってほとんど記録に残ってないね 何があったんだろう? 芸者と住んでたの?
それで九条家からシカトされたのか?
569日本@名無史さん:2007/11/15(木) 20:11:30
クニ宮家の貧乏度はどんくらいだったの?
570日本@名無史さん:2007/11/16(金) 09:33:42
>569宮家は対面保つのが大変でそのためにお金がかかったんじゃ
前田家から有栖川宮家に嫁いだ慰子は実家にお金の援助を頼んであまりの額に兄利嗣が「二度と宮家には嫁がせまい」と決めたらしい
571日本@名無史さん:2007/11/16(金) 19:08:18
>>570
有栖川宮家も前田家から経済的に援助されていたんですね。
梨本宮家も守正王妃伊都子の実家の鍋島家から経済的援助を受けていたから、
久邇宮家も邦彦王妃俔子の実家である資産家の大名華族の島津家から経済的援助を受けていた可能性は高い。
572日本@名無史さん:2007/11/16(金) 19:48:29
南部家は郁子妃が華頂宮に嫁いだためかなりの出費があったらしい
小松宮頼子妃の有馬家も結構な出費をしているはず
573日本@名無史さん:2007/11/16(金) 20:41:34
ある宮妃の実家が公家で貧乏なので、宮妃の母の実家が援助したのは誰のこと?
574日本@名無しさん:2007/11/17(土) 04:14:40
宮家の姫の嫁ぎ先っていうのは妻の実家(宮家)に援助したりしたのかな。
例えば久邇宮智子女王が嫁いだ本願寺の大谷家とか。姉が皇太子妃になった
ことでずいぶん実家はお金がかかったはずだけど。
575日本@名無史さん:2007/11/17(土) 05:37:45
>>573
朝子妃直子妃(母細川家出身)か敏子妃(母東本願寺出身)じゃね?
576日本@名無史さん:2007/11/17(土) 05:56:48
>>573 百合子様です。
577日本@名無しさん:2007/11/17(土) 15:40:50
百合子さまって実家は高槻藩じゃなかったっけ?まあ元々あまり裕福では
なさそうだけど。戦後財政難からお父様が非業の最期を遂げられたん
だよね。
578日本@名無史さん:2007/11/17(土) 15:55:47
百合子さまの実家は大名華族の高木子爵家。
百合子さまのお母様の実家は公家の入江子爵家。
>>573さんの言ってることと多少の矛盾が生じるが、三笠宮家は直宮とはいえ、経済的にはあまり豊かじゃなかったんですよね。
兄君の高松宮殿下は有栖川宮家の莫大な遺産を相続して宮家一経済的には恵まれてらしゃったのとは、同じ直宮でもすごい違いですね。
579日本@名無史さん:2007/11/17(土) 17:13:03
>>577
百合子妃の実家は丹南藩。
580日本@名無史さん:2007/11/18(日) 08:37:05
故高円宮殿下が言ってたらしいが宮家はあまり経済的に恵まれていないらしい
財団での殿下の給料も宮内庁から「○万円で」と指定されてそのとおりにしたら殿下はあまりの安さに驚いた それで宮内庁からの話を伝えると「宮内庁はわかっていないんだ」みたいな事を言って苦笑した
※確か8万円じゃなかったかな? 記憶あやふやスマソ

それで徐々にあげていき最終的に普通の職員と同じ扱いになったって

三笠宮ご夫妻にきていただいた時の話として泊まるのは体面もあるのでそこそこのお部屋になるがそれは三笠宮家負担
お礼?があっても赤字になる 公務するほど赤字になるのはおかしいと元同僚の人が書いていた

一宮家は東宮家と雲泥の差なんだね 宮家で恵まれているのは東宮家だけみたい
581日本@名無史さん:2007/11/18(日) 09:56:15
百合子様が嫁の役割を一番やってるね。性格もやさしいし。
582日本@名無史さん:2007/11/18(日) 09:58:56
秩父宮家は勢津子の母親、松平信子(鍋島侯爵家出、母は継室栄子)の
援助を受けていたらしい。
583日本@名無史さん:2007/11/18(日) 10:26:32
>>580
髭の殿下と高円宮の妃の実家は資産家だから、援助が期待できるが
妃の実家が貧乏な秋篠宮家は大変だろうね。子供も多いし。
内親王の婚家も出費に大変らしいな。
584日本@名無史さん:2007/11/18(日) 10:30:01
鍋島は金持ち、秩父宮は結核になったし。
585日本@名無史さん:2007/11/18(日) 10:44:51
>>583
そういえば久子妃の母の実家の友田家は曽我子爵家(貞明皇后のいとこの嫁ぎ先)から嫁を迎えるくらいだか一体何をやっているんだ?
586日本@名無史さん:2007/11/18(日) 11:58:36
曽我なんて、維新の功労者かなんかの柳川藩士あがりの新華族にすぎない。
587日本@名無史さん:2007/11/18(日) 20:24:25
小和田家は雅子妃に援助してるの?
588日本@名無史さん:2007/11/19(月) 03:17:24
>>583
池田と島津は大名で裏千家は家元だからお金には困らないだろうけど東久邇は大変だったらしい・・・
近衛と鷹司は家自体は貧乏だが後ろに細川と徳川宗家がいるから昔は援助受けていたかも
589日本@名無史さん:2007/11/19(月) 07:46:16
>>587
妹とか雅子様にくっついて贅沢してるじゃない
590日本@名無史さん:2007/11/19(月) 11:35:22
池田はあまりかねなかった。
林原グループに貴重品、土地を売ってる。
591日本@名無史さん:2007/11/19(月) 14:06:47
週刊文春 1993年1月28日号

一方、小和田家は、母方の祖父がチッソの元会長であるといっても、銀行から出向した“雇われ社長”。また父の恒氏も外務事務次官という高級官僚であるとはいえ、
やはり公務員である。
  (  中     略  )
 つまりは、
「小和田家が正田家とすべて同じようにしようというのは到底無理なことなのです」(宮内庁関係者)
  (  中     略  )
 実際、周辺からは、こうした経済的負担をどうするのか、心配する声が聞こえるのである。
「雅子さんがお妃に内定したと聞いたときから、記者の間ではお金はどうするのだろうということが話題になっていました。これまで小和田さんの名が出る度に、チッソの問題と並んで小和田家の資産が否定要因として上がりましたからね」(宮内庁担当記者)
「次官は『お金がないのはご存知でしょう』とサバサバした感じですが、心配になってしまうのは確かですね。下の娘さん二人のご結婚もこれからですし、やはりお金については皇室からのバックアップが必要と思います」(外務省関係者)
592日本@名無史さん:2007/11/19(月) 14:07:27
週刊文春 1993年1月28日号
雅子さん支度金「三億円」は誰が出すのか

 つまるところ、雅子さんのお嫁入り費用「三億円」の多くは天皇家側が負担するしかないのだが、これはこれで大変なことは後述する。
 一方、実際に小和田家が用意しなくてはならない金額は、というと、
「ご婚約内定までに天皇家あるいは宮内庁側から、小和田家に大きな経済的負担をかけないと、雅子さんを安心させるような話がでているでしょう。雅子さんがお妃とな
ることを受けた最終的な決め手はそこにあると思います。とすれば、多くても総額の一割程度でしょう」(宮内庁担当記者)
 一割といっても三千万円、小和田家にとって大きな負担となるには違いない。
では、天皇家側の事情はどうか。天皇家側が用意する雅子さんの支度金は、天皇家の生計費である内廷費、公的な諸費用に充てられる宮廷費から支出されることになる。
593日本@名無史さん:2007/11/19(月) 21:50:05
クニ宮DQNすぎる。
594日本@名無史さん:2007/11/20(火) 10:38:44
素晴らしいスレですね。
595日本@名無史さん:2007/11/20(火) 11:09:29
総連、同盟を守る男 平松市長

**大阪市立大学大学院創造都市研究科**安泰おめでとー。
596日本@名無史さん:2007/11/20(火) 14:24:38
「枢密院議長の日記」という本に貞明皇后のことがいくつか出ている。
貞明皇后が昭和天皇に祭祀を熱心にしなさいと注意したとか、
宮中某重大事件以前、香淳皇后が貞明皇后に拝謁した際、貞明皇后が昭憲皇太后から
賜った腕輪を香淳皇后に与え、貞明皇后が傍にいた澄宮に香淳皇后のことを「あなた
のお姉さんになる人よ」と紹介したとか、興味深いエピソードがいっぱい載っている。
597日本@名無史さん:2007/11/20(火) 14:55:14
>>595
何で平松氏の話題がこのスレに?
598日本@名無史さん:2007/11/20(火) 17:01:48
クニ宮DQNを許すべきじゃなかった。
599日本@名無史さん:2007/11/20(火) 20:08:41
age
600日本@名無史さん:2007/11/21(水) 02:53:06
良子をもっとシメろよ!
601日本@名無史さん:2007/11/21(水) 13:36:25
皇太子妃時代の良子をシメまくればよかったんじゃ!
602日本@名無史さん:2007/11/21(水) 18:07:28
age
603日本@名無史さん:2007/11/21(水) 19:30:26
香淳皇后は、貞明皇后との関係に相当悩んだはず。
女王時代の香淳皇后は細身だったにもかかわらず、周囲の人間から色盲以外にも細すぎて体質が母の俔子妃ともども悪いと噂され、
傷ついたのでは。
昭和天皇と婚約中に香淳皇后が貞明皇后に拝謁した時、体重について尋ねられて、ちょっとしたバトル(?)があったらしい。
だから、香淳皇后が歳を重ねるごとにふくよかになったのは、出産だけではないのだなあと思った。
すぐに男子が産まれなかったのはしょうがないけれども、香淳皇后が7人も産んだのはすごいと思う。
そう考えると、ぼんぼん皇位継承者を4人も産んだ貞明皇后の方がはるかにすごいのだが。
604日本@名無史さん:2007/11/21(水) 20:19:30
sage
605日本@名無史さん:2007/11/21(水) 20:38:25
貞明皇后はただラッキーなだけだったと思う
もしこれが全員女だったら・・・
606日本@名無史さん:2007/11/21(水) 21:59:23
良子は晩年見る影なくデブなんだが。
607日本@名無史さん:2007/11/22(木) 10:17:18
>>606
若い頃は太れない体質だったから、がんがって食べてた。
その食生活が癖になり、基礎代謝が落ちた中年以降は太ってしまった、とか。
あくまで推測。
608日本@名無史さん:2007/11/22(木) 10:17:59
age
609日本@名無史さん:2007/11/22(木) 14:06:10
甘いもの好きでデブって骨折、認知症悪化が真実。
朝子にしとけよ!
610日本@名無史さん:2007/11/22(木) 16:42:32
sage
611日本@名無史さん:2007/11/22(木) 23:26:51
朝子がよかった・・・
612日本@名無史さん:2007/11/22(木) 23:45:55
聡明じゃないだろ

書を見ればわかるだろ
613日本@名無史さん:2007/11/23(金) 01:29:22
頭のいい女性だったよ。

しかし、朝子・・おしい・
614日本@名無史さん:2007/11/23(金) 05:08:41
香淳皇后は第一皇女の照宮成子内親王を産んだ段階でもうふくよかな体型と
なっている。香淳皇后は昭和天皇の良妻だった。しかし、賢母でもなく良母でも
ない。照宮成子内親王が危ないとき、怪しげな民間療法を取り入れている。
第三皇女の鷹司和子さんの夫、平通氏が前田美智子さんのマンションで死亡したときも
放置。結局引き取ったのは今の皇后。第四皇女の池田厚子さんが病気のとき
岡山まで行っている。子供たちに対してえこひいきがすごい。
ちなみに妹の智子裏方も四人の男子を産んだが四男を偏愛し、東本願寺騒動を起こしている。
それからもう一つ、昭和天皇が顔面のチックに悩まされているとき姪の正子に
勧められて大真協会という新興宗教に影響されている。
615日本@名無史さん:2007/11/23(金) 09:05:12
正子って見るからに気が強そう。
離婚するわな。
616日本@名無史さん:2007/11/23(金) 10:14:58
>>614
>怪しげな民間療法
可愛い娘が危篤のときに藁にもすがる思いで手を出したのであろう。
>引き取ったのは今の皇后
ソースは?虐められてたわりに随分と自分勝手にできたんですね?皇后さま。
昭和天皇も皇后も皇太子も放置したのに当時皇太子妃だった皇后が引き取れるなんて
美智子さまは権力があったのですね?意外です。
>厚子さん
成子のときにもお見舞いに行ってますよ。遠くに住む娘が病気になったら
心配するのは当然。えこひいきでもなんでもない。
617日本@名無史さん:2007/11/23(金) 10:49:29
朝子がよかった
618日本@名無史さん:2007/11/23(金) 14:38:52
>>616
昭和41年に鷹司和子さんが未亡人になったとき、御所からお見舞いの使者を出しただけ。
和子さんは昭和天皇になついていた。
現皇后が和子さんを引き取ったとき、すでに香淳皇后は痴呆が進んでいた。
619日本@名無史さん:2007/11/23(金) 15:02:00
和子さんが赤坂御用地に移られたのは、強盗に入られた後の昭和40年代半ば。
香淳皇后の痴呆が進んでいたかどうかは知らないが、
皇太子妃という身分でありながら、天皇、皇太子を押しのけて美智子妃が引き取るとは
美智子妃は世間で言われているような、耐え忍ぶイメージとは随分違いますね。
虐められて可愛そうな美智子妃のマスコミ操作に騙されていたのかしら?
620日本@名無史さん:2007/11/23(金) 15:06:44
>>619
赤坂御用地に引き取られたのが昭和45年ごろとは知らなかった。間違い。
謝罪する。
621日本@名無史さん:2007/11/23(金) 15:38:43
>>614
同じ言い方を貞明皇后に当てはめると更に酷い人だっていう事になると思うんだけど。
622日本@名無史さん:2007/11/23(金) 16:08:34
>>614
香淳皇后は入内前からふくよか。
現在の天皇、小さいときに両親のそばにいれなくて寂しかったと言っているが
昭和天皇、香淳皇后夫妻とその子供たちが一緒に写る家族写真は多数残り、
大正天皇と貞明皇后が確立した一夫一妻制の効果を見ることが出来る
大正天皇もまた、貞明皇后との間の自分の子供たちとよく一緒に写真を撮った。
大勢の側室たちに産ませた子供たちと生まれたときから別々に暮らし、
子供の顔すら覚えていなかった明治天皇の時代より余程ましだった。
(明治天皇は結婚のためのお暇請いをしにきた娘の昌子内親王を見て
 お付の女官にあの婦人は誰か、と質問)
623日本@名無史さん:2007/11/23(金) 16:50:05
S45には、良子はすでに痴呆が始まっていたよ。
池田さんは、もらってもらったっていう気持ちと
**な子ほどかわいい!つーのがあるんじゃない?
池田は愛人の子供が後をとってるし、デパートでみる
天皇姉は、いきなりみんなの前でファンデーション塗り始めたり
(20年位前に何度か天満屋でみた)ちょっと・・・・・・
イジメとかする人では絶対ありませんよ>厚子さま
624日本@名無史さん:2007/11/23(金) 16:51:51
鷹司氏の心中あいて「美智子さん」ですよね。
625日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:13:32
>>614
貞明皇后も次男の秩父宮を偏愛したといわれていますね。
佐佐木高行の日記「かざしの桜」に、第2子出産直前の皇太子妃節子は、夜に突然泣き出して落ち込むことがあったらしく、
睦仁天皇と美子皇后が心配する事態となり、下田歌子が節子妃を慰めにいったという出来事があったと書かれてます。
侍医のベルツも日記に精神的に落ち込んでいたというようなことを書いてます。
不安定な精神の中で、自分の誕生日に次男を出産した節子妃が、次男に特別な縁を感じるのも無理はないのかもしれない。
長男は2か月余りで手元を離れ、次男は4か月は一緒に暮らした違いもあって、情が次男に移っていったことも考えられる。
皇孫御殿が新築された時、節子妃は次男と三男とは手を繋いだけれど、長男は繋ぐことができず、泣き出してしまったという
エピソードもある。
でも、昭和天皇には天皇として立派になってほしいから厳しく接して、天皇にはならない秩父宮には母らしく接していたのが、
周囲には秩父宮をえこ贔屓していると見られていたのかもしれないです。
626日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:52:22
ただでさえ、同性の年子のきょうだいは、ま逆のタイプに
育つというのに、節子が自分に似ている秩父を偏愛したのは
事実でしょ。
627日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:42:14
>池田は愛人の子供が後をとってるし
ソースは?
628日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:53:52
>>627 岡山じゃ有名。最初から天皇姉は子供作れないと考えられてたみたいだし、
ソースあるわけないじゃん。愛人(側室)も天皇家公認。

数年前、天皇・皇后が岡山来た時、空港に迎えに来た天皇姉の頭には、100円ショップで
売ってるような、よくある黒ピンが不自然に1本刺さっていた・・・・
629日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:55:12
昭和天皇が、学業成績の悪い厚子さんを叱ったらしいが
怠慢とかの問題じゃないよ。かわいそうに>厚子内親王
630日本@名無史さん:2007/11/23(金) 20:40:07
>>628つーことは側室つきで厚子さんもらったの?それとも池田さんが選んで事後承諾?
どちらにしろそれなりの家柄の女性?
631日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:08:20
厚子さんは「ぽわ‘〜‘‘‘ん」とした人。
実質的妻は現当主の母でしょう。
天皇姉は美智子様を苛めた人はいなかっただろう。
ぶっとんでるオスタちゃんあどうだか?
632日本@名無史さん:2007/11/24(土) 07:52:07
>>630 地元の人を選んだんでしょ。
633日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:01:47
節子は朝子に変更すべきだった
634日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:27:51
こうして昭和天皇の皇女を見ていくと不幸な女性が多いな。
第一皇女 照宮成子内親王は母の従兄と結婚し5人の子供を残し癌で他界。
第二皇女 久宮祐子内親王は乳児のうちに他界。
第三皇女 鷹司和子さんは夫は事故死か心中。
(宮内省は隠そうとしたが読売新聞がスクープしたので世間にわかってしまった)
第四皇女 厚子さんは 上のスレが正しいとして女性として不幸。
第五皇女 貴子さんは香淳皇后の親戚と結婚し、男子をひとり(禎久)産んだがそのこは
数年前白人と結婚したはず。(ソース 週刊誌)
635日本@名無史さん:2007/11/24(土) 09:44:03
厚子さんは和子さんみたく妊娠もしたことが無いのか?
636日本@名無史さん:2007/11/24(土) 10:19:46
訂正
照宮成子内親王の結婚相手は香淳皇后の叔父の息子。貴子内親王の結婚相手は
香淳皇后のいとこの子だったと思う。
637日本@名無史さん:2007/11/24(土) 10:22:29
厚子さんは、石女みたい。でも、ファンタジー脳内だから幸せじゃない?
貴子さん長男はカメラマンでしょ。
天皇の姉妹は最初と最後が才能あるね。
638日本@名無史さん:2007/11/24(土) 10:57:33
母から聞いた話では
厚子さんはアレレの噂があり、結婚相手がみつからなかったらしい。
それで、池田さんに愛人を持っていいという条件で降嫁させたらしい。
皇后の妹の大谷智子さんも和子さん、貴子さんと長男の縁組を天皇家に
お願いしたけど、厚子さんとの話はなかったらしい。
裏方がつとまるような能力がないと判断されたのかも。
639日本@名無史さん:2007/11/24(土) 11:35:38
和子さんもおとなしすぎて無理とされた。
貴子さんくらいなら裏方できるね。
640日本@名無史さん:2007/11/24(土) 13:30:23
>>636
島津貴子さんの夫久永氏は貴子さんの祖母俔子妃の異母弟の息子
つまり香淳皇后の従弟(たぶん島津忠義の孫の中では最も若い)
641日本@名無史さん:2007/11/24(土) 15:21:33
> こうして昭和天皇の皇女を見ていくと不幸な女性が多いな。

俺の爺さん婆さんの世代だが、ちょうど戦争から終戦後の激動の時代の姫君だから、
まあこんなもんだろ。特に不幸とも思えん。
俺の婆さんは鷹司和子さんと同じ歳だけど、8人兄妹で生きてるのが2人だけ。
単純に日本人の平均寿命で考えると5〜6人は生きてなきゃいけないんだが、
夭折2人、戦死2人、病死・事故死が1人ずつ。
642日本@名無史さん:2007/11/24(土) 17:02:39
>>638
智子女王の長男はかなり晩婚で39歳のとき連枝の寺から
父親:光暢の又従兄弟(母親が光暢の親の従妹)、母親:九条武子の次兄と醍醐好子妃の兄(甥に殺害された人)の娘との間の娘
という人と結婚した。
さらにその間の息子はアメリカ系韓国人と結婚した。
643日本@名無史さん:2007/11/24(土) 17:13:34
>>641
俺の祖父も和子さんと同じ歳だが
長男→戦死
長女→出産で母子ともに脂肪
次男→夭折
次女→戦争未亡人→再婚→生存
三男→夭折
三女→生存
四男→生存(しかし会ったことが無い)
五男→他家の養子に→生存
六男(祖父)→生存
七男→癌で脂肪
八男→生存

まあこんなもんだろう

しかし今更ながら曽祖母(故人)が八人も息子を産んでいたとは驚き
一度お会いしたかった
644日本@名無史さん:2007/11/24(土) 21:13:15
明治天皇の内親王はどうだっただろう。
645日本@名無しさん:2007/11/25(日) 05:37:11
北白川宮に嫁いだ房子内親王はパリで夫とともに自動車事故に遭い、
夫は死亡(37歳)本人は重傷だって。一人息子も31歳で亡くなってる。
646645:2007/11/25(日) 05:52:34
ちょっと調べてみたら昌子内親王(竹田宮家)の夫も38歳で亡くなっている。
けれど下の二人充子内親王(朝香宮家)の夫は94歳、聡子内親王(東久邇宮
家)は109歳とすごい長寿だ。でも聡子内親王は次男を関東大震災で亡くして
いる。関東大震災って他の宮家でも犠牲が出たよね。どこだったっけ?
647645:2007/11/25(日) 05:55:17
連投ごめんなさい。109歳は聡子内親王の夫でした。
648日本@名無史さん:2007/11/25(日) 06:21:34
>>646
山階宮佐紀子女王、賀陽宮邦憲王の王女。山階宮武彦王はそのあと精神に疾患を生じ
療養していた。ところが昭和10年代にお世話をしていた
看護婦に手を出し、妊娠させたが当時の宮内省の意向で中絶させられた。
その時代、日本には堕胎罪があり、同時期堕胎をした女性は入獄させられた。
しかし、その看護婦は罪に問われていない。

649日本@名無史さん:2007/11/25(日) 07:46:39
東久邇宮稔彦王に3人の隠し子がいたんだから(それも妃は内親王)山階宮も皇族扱いしない方針でちゃんと出産させてあげればよかったのに
臣籍降下して昭和62年8月に89歳で亡くなるまで1人だったみたいだから子供がいたら後半生もぜんぜんちがったものになったろう

東久邇成子さんも生前、宮内省は自分達の地位をまもることしか考えてなかったみたいな批判をしてたとか
650日本@名無史さん:2007/11/25(日) 08:12:46
>>647
稔彦は享年102歳だよ
>>646
あと閑院宮の第4王女(名前失念・17歳)も関東大震災で死んでいる
651日本@名無史さん:2007/11/25(日) 08:15:20
東久邇宮稔彦王は、節子の子供は父が全部違うとかいったり
パリに愛人作って帰らなかったり、仲のよくない夫婦なのに
4人も子供ができるなんて。
聡子内親王はかなり苦労したらしい。
652日本@名無史さん:2007/11/25(日) 08:35:29
俊彦王どうして外国いった?
653日本@名無史さん:2007/11/25(日) 10:02:47
>>651
普通の夫婦関係だったら聡子妃15人ぐらい子供を産んだりして
654日本@名無史さん:2007/11/25(日) 10:47:29
大体、次男が震災で亡くなっても戻ってこず、兄(天皇)危篤でも
電報いれても無視。よく、昭和4年に俊彦王ができたもんだ。
655日本@名無史さん:2007/11/25(日) 11:46:23
>>650 102歳でしたか。ありがとう。

稔彦王ってもともとかなり問題児だったみたいだね。皇族の地位に
不満を持ったり、明治天皇の陪食を体調不良を理由に断ったことも
あるらしい。皇女との結婚も押し付けられたって感じだったんだろう
ね。ここの息子も成子内親王との結婚をそれほど喜んでなかったみた
いだね、子供だけは5人も作ったけど。
656日本@名無史さん:2007/11/25(日) 12:01:13
成子内親王苦労しただろうな・・
657日本@名無史さん:2007/11/25(日) 13:18:30
そもそも昭和天皇は長女の婿にどうして問題児の息子をえらんだんだろうか。
明治天皇の皇女のときとは違って、皇族も多いんだし候補はよりどりみどりな気がするんだが
658日本@名無史さん:2007/11/25(日) 16:28:18
明治天皇の4皇女は年上の皇族と結婚したし、当時の皇族妃も夫よりも年下が多かったから、年上の皇族との結婚を想定していたと思う。
成子内親王より年上の皇族は、

東久邇宮盛厚王(稔彦王長男)
東久邇宮彰常王(稔彦王三男)
久邇宮家彦王(多嘉王次男)
久邇宮徳彦王(多嘉王三男)
賀陽宮邦壽王(恒憲王長男)

の5人。

先例の明治天皇の皇女の結婚から考えれば、宮家の次期当主となる嗣子(長男)が望ましい。
別の男子と結婚して新しい宮家を興す手もあるが、この時にはたくさんの皇族男子が臣籍降下していて、
釣り合う皇族男子もいるのだから、この方法は用いられなかった。
そこから考えると、盛厚王と邦壽王の2人に絞られるわけだが、成子内親王の妹・和子内親王の降嫁先も
確保しなきゃいけないから、年齢の近い邦壽王はパス。
結局、成子内親王は9歳年上の盛厚王と早々と婚約し、結婚してしまった。
昭和天皇は近新婚だと言って難色を示したけれど、宮内省の方針で渋々了承。貞明皇后もこの結婚は承知していたらしい。
余談だが、戦後、賀陽邦壽氏に和子内親王との婚姻を打診したが、断られたのは有名な話。
659658訂正:2007/11/25(日) 16:33:16
近新婚→近親婚
ごめんなさい。
660日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:07:52

賀陽宮は、舞妓と熱愛で第3皇女の降嫁を断ってるよ。
661日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:05:49
彰常→平民と結婚
家彦→鷹司家の三女(平通氏の妹)と結婚
徳彦→久邇宮の長女と結婚→離婚
662日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:08:43
貞明皇后の妹は濃厚な顔立ち
663日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:01:13

賀陽宮妃殿下(九条出)は、節子に似てるかも。
でも、子沢山だが子供不細工ばっか・・
664日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:34:58
>>662
その方は渋谷篷子さん?それとも大谷紝子さん?
山階宮範子妃と大谷籌子さんの写真は見たことあるけれど、2人とも貞明皇后より美人。
665日本@名無史さん:2007/11/26(月) 00:50:39
節子は、入内前から金平会長並に目の下にクマがあったからな。
666日本@名無史さん:2007/11/26(月) 01:03:27
貞明皇后は美人ではないが、ブスでもない。
現代的な感覚からいえば、普通の平均的な顔だと思う。
667日本@名無史さん:2007/11/26(月) 02:47:15
性格きつい顔だね。
いいときは、唐沢利明妻に似てるが。
668日本@名無史さん:2007/11/26(月) 05:09:17
範子妃殿下のお顔みたいです。
何の本に載ってますか?
669日本@名無史さん:2007/11/26(月) 06:08:30
>>655
稔彦王の三男、粟田彰常は陸軍大尉から東京農大に進み、卒業後は上野動物園に
就職し、定年のときは多摩動物園の飼育係長。
四男、俊彦は昭和26年慶応大学を卒業と同時にブラジルに旅立った。まだ、占領下だったので
移民も海外旅行も許されない時代だったが、ブラジルの農園主多羅間家と
養子縁組の形で出国した。妻、勝子は沖縄県から移住した日系二世。 
670日本@名無史さん:2007/11/26(月) 06:39:58
>>664
(糸壬)子のほう。皇族・華族・古写真帖にのってた。
ある勲功華族令嬢の友人として出ていたからわかりずらかった。

あと、範子の写真ってどこで見たの?
671日本@名無史さん:2007/11/26(月) 06:54:21
>>663
敏子妃はスタイルは良い
672日本@名無史さん:2007/11/26(月) 08:54:30
敏子=顔は・・・

スタイル
直子>>>敏子
673日本@名無史さん:2007/11/26(月) 12:46:54
>>668
>>670
「女子学習院五十年史」に範子妃の写真があった。
あと、朝彦親王の娘たち、有栖川宮実枝子女王や伏見宮禎子女王の幼少時の写真も載ってる。
674日本@名無史さん:2007/11/26(月) 13:20:53
「女子学習院五十年史」&「女官」みたい!
どこで見れる?
675日本@名無史さん:2007/11/26(月) 15:50:56
>>673 ありがとうございます!
すっごい見たい
図書館ならあるかなぁ…
676日本@名無史さん:2007/11/26(月) 18:57:40
範子妃の写真があることを次男の芳麿王が私の履歴書で書いてた。
本家(山階宮家)は断絶したので、山階芳麿家で保管していると思う。
常子妃の写真は沢山出ているが、範子妃の写真は皆無に等しいので、いくつか出してほしい。
九條家は京風の洋間は一つもない和室ばっかりの完全なるお公家さんの家風だと聞いたことがあるけれど、
範子妃はバイオリン、貞明皇后はピアノ、2人ともダンスを嗜むなど結構ハイカラで、西洋文化に親しんでいる。
677日本@名無史さん:2007/11/26(月) 19:30:00
どんなにググっても範子妃の情報って少なすぎ
貞明さまに似てらっしゃいますか?
678日本@名無史さん:2007/11/26(月) 19:38:24
範子妃は安子女王の出産で死んだが現在範子妃の子孫は安子女王の子孫しかいない
679日本@名無史さん:2007/11/26(月) 20:32:29
安子女王って浅野にお嫁に行ったよね。
良子皇后が第3皇女を浅野へと思ったけど
姑が怖いので断念したって聞いた。
680日本@名無史さん:2007/11/26(月) 22:18:22
俊彦王、DQN父から離れたかったんだな。
681日本@名無史さん:2007/11/27(火) 05:03:44
貞明皇后を鍛えた女官、万里小路幸子、この人は孝明天皇の時代にはもう女官で
明治8年の段階で典侍となっている。
徳川斉昭の側室の万里小路睦子(までのこうじ ちかこ 後の秋庭)と
親族だったのだろうか。貞明皇后は相当この女官に悩んだが、あとから感謝している。
682日本@名無史さん:2007/11/27(火) 06:00:49
>>616
成子内親王が癌で苦しみ、香淳皇后が民間療法に頼った。成子はよけい苦しんだ。
そのとき香淳皇后は男言葉で侍医を怒鳴りつけた。
香淳皇后が鷹司和子さんを引き取ったソースは?
鷹司和子さんが子供を産めなかった時、香淳皇后はどうしたの?
以上答えよ。そうでなかったらすべて妄想。
683日本@名無史さん:2007/11/27(火) 18:34:45
>>670
紝子の写真を見ました。ついでに道実の子女(賀陽宮妃敏子がいた)と道孝の写真も。
貞明皇后、英照皇太后、九条道孝など九條家の方々は目鼻立ちのはっきりした濃い顔立ちが多い。
684日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:05:22
一条家はお公家さんらしい美しい顔、宮家なら北白川、山階だね。
武家なら、島津の良子母以外の姉妹がいい。
685日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:14:28
ブサイクな連中をおだてるヤツラって何が狙いなんだろう?
美智子を見てキレイと思う人は少ない。
皇族を見てお世辞を言うのは卑しい根性の顕れだと思う。
686日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:20:53
金親子を誉める連中
尊師とその一家を誉める連中
天皇皇族を誉める連中
イスラム原理主義に傾倒する連中
共産主義思想に陥る連中
主体思想(天皇・将軍等特定個人を国そのものと見做す危ない連中)

独裁者や悪徳教祖を支えるのはこんなヤツラにベンチャラ言う連中
天皇や皇族を讃える異常者は北朝鮮に生まれていれば立派な愛国者になったろう
687日本@名無史さん:2007/11/28(水) 09:02:57
聡子内親王も苦労の連続だな、ほかにいい嫁ぎ先あっただろ!
688日本@名無史さん:2007/11/28(水) 09:06:04
>>687
なかったろう。聡子内親王のために創立された宮家だから。
689日本@名無史さん:2007/11/28(水) 13:14:44
栽仁王が死ななかったら、繰上げで朝香宮妃だったのに。
690日本@名無史さん:2007/11/28(水) 13:33:28
そっちのほうが両方の姉妹にとってよかったな。
せめて北白川の隠し子を宮家にするとかしろよ。
チネンは素行悪すぎ。
691日本@名無史さん:2007/11/28(水) 13:36:40
栽仁王が亡くなったときに第8カバイ皇女は、ショックで
号泣したらしい。フォトとかもらって「イケメン!」とか
議事恋愛してただろうに・・・・・・
692日本@名無史さん:2007/11/28(水) 15:20:55
>>691
有栖川宮家は美形が多い。栽仁王の姉妹の実枝子女王も美人。
実枝子女王の産んだ徳川喜久子も美人。(喜久子は次女、長女は夭逝)
栽仁王ってきっとハンサムだったんだろう。
693日本@名無史さん:2007/11/28(水) 15:33:04
栽仁王は、イケメンだったよ。
694日本@名無史さん:2007/11/29(木) 01:33:48
ハトヒコもなかなか!チネンよりはいい!
695日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:30:54
>>681
「明治天皇の皇后と側室」というスレの519〜530に万里小路睦子のことがのってる。
それによると、幸子と睦子は姉妹(?)らしい。
霞会館が発行している旧華族の家系図とか、公家の家系図とか調べてみたけど、睦子に当たる人は載ってなかった。
貞明皇后は万里小路さんに鍛えられて、宮中の伝統や祭祀を大切にし、女官制度を維持したんだね。
女官制度改革を断行し、祭祀に不熱心な昭和天皇と貞明皇后は対立というか、確執が出来たようだが。
貞明皇后崩御で女官制度は完全に終わってしまったけれど、ずっと続いてきた伝統が絶えてしまうのは切ない。
696日本@名無史さん:2007/11/29(木) 19:51:25
なんで節子が皇太子妃にえらばれた?
健康ならほかにもいた。
国子が伏見女王後のライバルとは思えない。
経子のが美しいし。
697日本@名無史さん:2007/11/29(木) 20:15:46
>>696
経子は既に伏見宮に嫁いでいた
ちなみに経子が伏見宮妃に選ばれたのは国子と経子のどちらか伏見宮妃になるのが決まったが伏見宮が長身のため国子より「少し」身長の高い経子が選ばれたらしい
経子の結婚当時、国子と経子はともに満14歳。11ヶ月後経子は長男出産。さらに11ヶ月後に長女出産。その後双子などの出産を経て30歳で末子(第7子)を出産。
698日本@名無史さん:2007/11/30(金) 05:15:12
>>695
教えてくれてありがとう。江戸時代、公卿の娘たちは大名家の正室はともかくとして
側室になったひとも多かった。幸子と睦子、どっちが幸福だったんだろう。
現代人には理解できない。
699日本@名無史さん:2007/11/30(金) 06:19:03
国子がその後、子爵に嫁ぐって一気に落ちてるな。
700日本@名無史さん:2007/11/30(金) 06:56:57
経子の生母が新村信ということが関係していないか。国子の生母は中根幸だし。
701日本@名無史さん:2007/11/30(金) 07:40:18
信の子供のほうが出世、位の高い結婚してるし、信は美人じゃん。
702日本@名無史さん:2007/11/30(金) 08:28:02
新村信と新村信ってどっちが家柄よかったんだ?
703日本@名無史さん:2007/11/30(金) 13:01:40
信のほうがいい。
704日本@名無史さん:2007/11/30(金) 14:21:15
新村信
旗本 松平勘十郎政隆の庶子→旗本 荒井省吾の養女→新村猛雄の養女
新村猛雄は維新後駿府で徳川慶喜家の家扶
中根幸
旗本 中根芳三郎の娘→成田信十郎の養女 
705日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:24:21
信は、美人ね。
706日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:42:50
美人だと言っても支持されない。
正直にブスだと言えば盛り上がる。

ネットは本音を言えるから天皇・皇后・皇族をブサイクだと笑うスレのほうが圧倒的に盛り上がっている現実がある。

>>704のような事、世の中のほとんどの人が知らないし興味ない。
世間で誰も興味のない事を必死で行なうのはプロパガンダ。
707日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:52:08
徳川慶喜は顔いいのにね
708日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:55:32
幸は、ブスだけどスマートな性格(江戸っ子)だったらしい。
709日本@名無史さん:2007/11/30(金) 18:10:11
一条家の千代姫は疱瘡を患って顔があばただらけになったので
一条家ではこれをはばかり、養女を慶喜に送り込んだ。
慶喜正室一条美賀子は、写真を見る限り見れる顔立ちだが、
慶喜は必ずしも美人を求めていなかったのかもしれない。
710日本@名無史さん:2007/11/30(金) 19:00:49
美香は、かわいい系、母有栖川女王吉子もかわいい感じ。
義祖母伏見宮女王は、若いころマジ美人だったらしい。
711日本@名無史さん:2007/11/30(金) 20:16:14
美人だから姉(山階宮と近親相姦した人)より先に嫁に行けたのか?
712日本@名無史さん:2007/11/30(金) 20:37:52
姉25歳のとき妹直子11歳で一橋家に。
なんで?
713日本@名無史さん:2007/12/01(土) 04:14:46
夫 一橋慶寿17歳。徳信院直子の父、伏見宮貞敬親王には20男24女の子がおり、
直子は40番目の子。
714日本@名無史さん:2007/12/01(土) 04:42:33
兄クニイエ同様父もすごいが、なんで晃と駆け落ちした姉はクニイエの養女になってた?
715日本@名無史さん:2007/12/01(土) 06:05:44
>>714
違う。晃が貞敬の養子になった。邦家の初期の子供は貞敬の養子になっている。
716日本@名無史さん:2007/12/01(土) 08:26:31
晃の若いころの絵とかないのかよ!
717日本@名無史さん:2007/12/01(土) 09:34:52
じーさんすぎる
718日本@名無史さん:2007/12/01(土) 11:07:09
今城誼子、今城定政の娘。定政は中山慶子の甥。浜菊の内侍。貞明皇后、香淳皇后の
2代に仕える。養女美佐恵に「大宮御所は厳しいとこではあったが、なんともいえぬ暖かみの
あるところであった。貞明皇后は真心の塊のような方でした」と語っている。
その後香淳皇后に仕える。香淳皇后は今城女官を信頼していたが、入江氏たちに
よって昭和天皇に讒言を言い、それを信じた昭和天皇によって罷免される。
香淳皇后が今城女官に書いた手紙が現存している。今城母子の新居が完成して
転居する日の朝三笠宮百合子妃殿下が自ら握ったおにぎりが届く。
719日本@名無史さん:2007/12/01(土) 11:08:53
美佐恵の父親は誰?
720日本@名無史さん:2007/12/01(土) 12:45:43
百合子さまは、やさしいよね。
良子は、42年くらいから痴呆あったらしい。
721日本@名無史さん:2007/12/01(土) 13:35:44
>>719 北関東の旧家としかわからない。
>>720 香淳皇后は40年代初めから痴呆となっていた。
722日本@名無史さん:2007/12/01(土) 13:46:50
良子もかわいそうな女だな。
723日本@名無史さん:2007/12/01(土) 14:06:16
良子皇后って、最晩年はともかく、
昭和天皇が生きていた頃にはよく一緒に外へ出かけて
テレビにも顔や声が流れていたよね?
痴呆って・・・
724719:2007/12/01(土) 14:43:13
>>721
てっきり兄弟か誰か近親の娘だと思ったが違うんだ。
725日本@名無史さん:2007/12/01(土) 15:01:49
>>724
宮中で自分に仕えていた娘らしいね
職場で気に入って養女にした
726日本@名無史さん:2007/12/01(土) 15:53:53
美智子様無視事件もボケてただけ?
727日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:25:03
身恥子は性格があんなんだから...
気が付かなかっただけでもカチンとくる。
そして人を使って悪い噂を流す。
みんなが嫌うのは理由がある。
728日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:57:15
>>718
今城女官に感化されて香淳皇后は、敬神の念が強くなったらしい。
貞明皇后の大宮御所では明治・大正と変わらぬ女官制度が存続していて、
今城女官は、皇太后や竹屋女官長に強い影響を受けたのかも。
729日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:15:12
香淳皇后は戦後全国を回った昭和天皇に同行しなかった
戦前、戦中は天皇皇后の姿を下々のものが見ることなど許されなかったのに
(汽車が通るだけで、一等敬礼)
戦後、昭和天皇は自ら国民の中へ入っていって声をかけた
香淳皇后はやっぱり、「あんなことを私がやるなんて!」
って思ってたの?
730日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:30:31
昭和天皇が全国を回ってる間皇后は都内の養護施設とか慰問してた。
同行しなかった理由は知らん。
健康上か安全上の理由か?それとも天皇だけで充分と思われたのかもしれん。
>「あんなことを私がやるなんて!」
戦前の妃殿下たちは病院を慰問したり、負傷兵の看護もしてたから
国民に声かけるのが嫌というのはないだろう。
だいたい、皇族の前に出るのは地域で選抜された人だし。
731日本@名無史さん:2007/12/01(土) 22:47:53
ボケてただけ
732日本@名無史さん:2007/12/02(日) 11:09:37
節子以外の女官に手を出そうとしたら
その女官が、天皇に接することのできない
低い地位に落とされたよー。
733日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:00:14
ゴンスケから命部にされたんだってー。
734日本@名無史さん:2007/12/03(月) 06:01:49
朝子にすべきだった!!
735日本@名無史さん:2007/12/03(月) 06:24:53
何故
736日本@名無史さん:2007/12/03(月) 11:18:13
朝子が美人!!
737日本@名無史さん:2007/12/03(月) 12:19:23
朝子って昭和天皇の妃候補だった一条朝子のこと?
738日本@名無史さん:2007/12/03(月) 16:02:27
朝子の息子は胡散臭いからダメ
739日本@名無史さん:2007/12/03(月) 18:54:53
朝子の子供かわいい!
740日本@名無史さん:2007/12/04(火) 01:44:52
朝子長女かわいい、クールなかわいさ。
741日本@名無史さん:2007/12/04(火) 08:45:53
朝子の子供気品がある。
742日本@名無史さん:2007/12/04(火) 14:01:04
>>740
残念ながら故人です。
743日本@名無史さん:2007/12/04(火) 22:53:51
朝子の長女美少女。
744日本@名無史さん:2007/12/05(水) 00:41:56
>>743
今は骨壺の中にいます。
745日本@名無史さん:2007/12/05(水) 00:42:45
>>743
今は骨壺の中にいます。
746日本@名無史さん:2007/12/05(水) 00:45:12
連投スマソ
747日本@名無史さん:2007/12/05(水) 17:07:56
貞明皇后は身長どのぐらいなんだ?
748日本@名無史さん:2007/12/05(水) 20:20:10
ドイツ語バリバリだった節子皇后
749日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:07:05
ピアノも得意

身長は低かった150くらい?
750日本@名無史さん:2007/12/09(日) 11:45:48
側室にしたいニョッカンはいたらしいね。
751日本@名無史さん:2007/12/09(日) 12:44:47
ゴンスケからゴン妙部に降格されたかわいそう。
752日本@名無史さん:2007/12/17(月) 22:01:34
>>218
超絶亀だが崇子は治子の生母だが明子の生母ではないよ
崇子が産んだ娘は治子だけだけど息子は輔政と脩季の他に何人か夭折した息子がいる
崇子の詳しい生年はわからないが輔熙よりだいぶ年下
753日本@名無史さん:2007/12/18(火) 10:22:17
なんで、姉より節子が選ばれたんだ??
754日本@名無史さん:2007/12/18(火) 17:54:58
>>753
姉は西本願寺に嫁に行ったから
755日本@名無史さん:2007/12/18(火) 18:32:51
しかし、子供のころお妃候補に姉妹で挙がっていた。
756日本@名無史さん:2007/12/18(火) 18:59:45
世上の噂では、範子が皇太子妃候補に推されていたそうだが(九条家でも運動をしていたらしい)、山階宮菊麿王と結婚。
籌子は大正帝と歳の差が吉凶で悪いとされたので、候補から外されたとされるが、明治帝や孝明帝も妃との歳の差が同じく吉凶が悪かったため、
昭憲さんや英照さんが生年月日を変更しているので、籌子の性格が節子と比較してあまり宜しくなかったから選ばれなかったとかいう噂。
同母兄弟とされるお姉さん方と比べて、貞明皇后は丈夫で健康体。
範子妃も大谷籌子も明治時代に亡くなっている。
757日本@名無史さん:2007/12/18(火) 19:53:35
健康、健康とは言っても、節子が男子4人を生んで
比較的長命だった結果論であって。
結婚する前から、この女は男を4人生むだろうとか、
長生きするだろうとか、
そんなことが分かったら苦労は無い。
多産系の皇后に10人ぐらい男子を産んでもらえれば、
側室も要らないしね。
758日本@名無史さん:2007/12/19(水) 01:11:05
範子妃は大正天皇より年上。
759日本@名無史さん:2007/12/20(木) 11:01:17
明治天皇の内親王と子供のころ、宮家、公爵家の姫が遊んだのは
大正天皇のお妃選びのため、そこには九条の2人の姫がいたよ。
北白川の姫はどうだったのかな?美人そう。
760日本@名無史さん:2007/12/22(土) 10:45:01
小松宮彰仁親王は、篶子女王を養女にして皇太子妃にさせようとしていたらしい。
皇太子妃に禎子女王を推薦した佐佐木高行は、可もなく不可もなしで健康が取り柄だった九条節子が皇太子妃に選ばれた時、
健康という点だけが評価されて、性格の善し悪しで選ばれなかったという点を嘆いていた。
江戸時代以前は皇族が五摂家よりも席次が下位だったが、明治になって皇族の地位が向上したのだから、臣下の旧五摂家より
も皇族から皇太子妃を選ぶべきとも言ってる。
その候補として北白川宮貞子女王がいいとしている。でも、貞子女王は有馬頼寧との結婚が決まっていたんだと思うから、だ
めだろう。姉の満子女王は禎子女王と同い年だが、九条節子の有力なライバルとはならなかったようだね。
761日本@名無史さん:2007/12/25(火) 13:11:11
籌子は1893年には既に婚約していた
762日本@名無史さん:2007/12/25(火) 21:57:14
今さらながら元紀宮ことサーヤを語る 

http://human7.2ch.net/test/read.cgi/ms/1194068860/
763日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:24:36
>>762
数年前に工藤美代子氏が、中央公論に寄稿したエッセイで貞明皇后と紀宮様は似ていらっしゃると書いていた。
お二人とも失礼ながら際立って容姿が美しいわけではないが、皇族としての理想的な気品や教養をお持ちで素晴らしい女性。
>>761
籌子さんは11歳で大谷光瑞氏と婚約したんですか。詳しい情報ありがとうございます。
その時期だと禎子女王が皇太子妃に内定していたと思う。
764763訂正:2007/12/25(火) 22:35:37
工藤氏のエッセイが載っている雑誌は、「正論」平成17年1月号です。
765日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:58:09
>>760
大正天皇より年上の篶子女王が小松宮によって候補になろうとしていたのは驚き
それなのに28歳の超晩婚なのは・・・
766日本@名無史さん:2007/12/26(水) 19:01:25
小松宮は弟の貞愛親王が大嫌いだったしね。
767日本@名無史さん:2007/12/26(水) 19:42:58
>>766
小松宮は、禎子女王の皇太子妃&北白川宮恒久王妃への道は断固阻止。
貞子女王には頼子妃の実家である有馬家を紹介し、小松宮の容体が思わしくないため、貞子女王は慌てて有馬頼寧と結婚。
同じ姪でもこの扱いはひどい。伏見宮家を継いだ貞愛親王への妬みがすごかったのか。

768日本@名無史さん:2007/12/26(水) 20:57:16
ただその貞子女王が幸せだったかといえば、そうでもないからね。
変わり者の夫に子供たちは「ハッテンカ」ぞろいだったというし。

禎子女王はどうだったんだろう
769日本@名無史さん:2007/12/27(木) 00:55:02
なぎなた得意だったらしいね。
明治の巧妙が辻っていわれてるよ。
770日本@名無史さん:2007/12/27(木) 11:25:54
サツコがよかった。。。
771日本@名無史さん:2007/12/28(金) 07:28:29

禎子女王にしとけば。。。
772日本@名無史さん:2007/12/28(金) 17:48:57
>>769
薙刀を会得して健康になったって伊都子妃が自著に書いてた。
先祖である功名が辻で有名の山内一豊・千代夫妻にそっくりだね、山内豊景・禎子夫妻は。
禎子女王は貞明皇后より年下なのに同学年なのはなぜだろう?
とっても秀才だったのだろうか?
773日本@名無史さん:2007/12/31(月) 10:31:51
>>772
たしか禎子女王は飛び級をしたと何かの本に書いていた
774日本@名無史さん:2007/12/31(月) 13:43:52
>>773
禎子女王の成績は優秀だったという噂を聞いたことがあるが、飛び級するほどだったとは。
美貌の才媛と謳われた禎子女王だが、晩年はただのおばあさんになってたよ。
775日本@名無史さん:2008/01/01(火) 08:26:06
禎子女王の結婚前みたい!!
776日本@名無史さん:2008/01/01(火) 18:52:55
みたい!!
777日本@名無史さん:2008/01/01(火) 22:27:27
禎子女王は九条節子よりは美人だが、大正時代に皇太子裕仁親王と一緒に写真に写っている節子皇后は綺麗だと思う。
禎子女王が嘉仁親王妃に選ばれていたら皇室の歴史も変わっていたかもしれないけれど、
大正時代に夫の嘉仁天皇の体調が悪化していく中、天皇と皇太子を支え、皇子たちを教育し、皇室を守っていった節子皇后は立派。
禎子女王も夫と一緒に甥の養子を教育して家庭を守って幸せだったんだから、これで良かったのかもしれない。
778日本@名無史さん:2008/01/02(水) 09:21:23
サチ子が子供生んだとしたら美人ができてただろ。
779日本@名無史さん:2008/01/02(水) 19:11:17
女学生時代の偵子女王みたーーーい。
780日本@名無史さん:2008/01/03(木) 11:21:12
みたい!!
781日本@名無史さん:2008/01/03(木) 13:16:00
みたーーーーーい。
782日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:43:01
なんか親戚関係は寺が多いな
783日本@名無史さん:2008/01/04(金) 05:33:05
竹田宮妃殿下にしたかったが、貞愛親王と不仲の小松が反対した。

さちこ女王美しい。
784日本@名無史さん:2008/01/04(金) 08:43:11
小松妃殿下ブス
785日本@名無史さん:2008/01/06(日) 10:39:14
偵子女王が皇后なら・・・・・・・・・・
786日本@名無史さん:2008/01/06(日) 13:52:44
女学生時代の写真みたい。 サチコ女王
787日本@名無史さん:2008/01/06(日) 23:15:22
貞明皇后は4人産んで4人とも男子だが半分は小梨
姉の範子妃は二人男子を産んだが二人とも小梨で死ぬ間際に産んだ娘のみが子孫を残している
他の姉妹は男子を二人以上産んだ人はいないが小梨の籌子以外は男系子孫がいる
ちなみに姪の賀陽宮敏子妃は7人産んで6人が男子だが母親の恵子(道実妻)は7人産んで6人女子である
何をもって勝ち組とするかわからないね
788日本@名無史さん:2008/01/09(水) 00:39:11
大正天皇と貞明皇后の曾孫世代の皇位継承権のある男系男子は、皇太子さま、秋篠宮さまだけ。
玄孫世代では、現在のところ悠仁親王のみ。
4人ももうけて盤石だと思ったのが甘かったのかも。
今上天皇(当時は皇太子)誕生後、秩父宮勢津子妃は懐妊されたけど、流産したという説があるけれど、
誕生していたら男子でも女子でも皇室史は変わっていただろう。そして、子孫ももうちょっと増えていたかもしれない。
789日本@名無史さん:2008/01/09(水) 14:08:37
高松は うほっ だろ。
790日本@名無史さん:2008/01/09(水) 21:59:15
節子皇太后は、家庭教師のヴァイニング夫人と会見後、
夫人が主催のパーティーに招待された義宮と昼食をともにした時、
義宮に夫人への贈り物を託した。
贈り物は、花束と正月祝いの魚介類だった。
魚介類の入った竹かごは手編みで作られたものでアメリカ人である夫人の姉には、
とても見事なもののに見えたそうだ。
貞明皇后は、贈り物の準備をするのが楽しみだったそうで、
大宮御所で飼っていた鶏の卵を箱詰めする時、
自らもみがらを入れ、卵の日付が見えるように気を配って包装していたらしい。
また、主催した茶会での福引の景品も自ら手作りしていたという。
なので、ヴァイニング夫人の贈り物もかなりを気を遣ったと思われる。
791日本@名無史さん:2008/01/10(木) 07:05:46
それってラッピング好きなんだろ。
792日本@名無史さん:2008/01/11(金) 23:18:25
サチコがいかった。
793日本@名無史さん:2008/01/12(土) 09:01:28
サチコ美人
794日本@名無史さん:2008/01/13(日) 11:35:43
国子が候補だったってマジ???

795日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:41:30
徳川国子も皇太子妃候補の一人として、常宮・周宮両内親王のお相手として御殿に上がったことがある。
後に貞明皇后となった九条節子、一度皇太子妃に内定する伏見宮禎子女王もお相手だった。(「明治聖上と臣高行」より)
禎子女王が第一候補として外れた後、九条節子とともに有力候補となった。
なぜかは分からないが、国子の父・徳川慶喜の正妻である美賀子が、昭憲皇太后の父・一条忠香の養女であったことから、
慶喜と昭憲皇太后は義理の兄妹となるわけで、そういう縁で国子をはじめとする数人の慶喜の娘が皇太子妃候補となったのかも。
796日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:09:46
昭和天皇と香淳皇后が優しいせいで、甘やかされて育てられていると高松宮に言われていた照宮成子内親王は、
そんな両親に代わって箸の上げ下げなど厳しくしつけた祖母の貞明皇后を「恐いおばば様」だと思っていたらしい。
成子内親王が東久邇宮盛厚王に嫁ぐ際には、「旦那さんの繕いものをちゃんとしなさいね」とおばば様から言われ、
その言葉が成子さんの心にはずっと残っていたそうだ。
797日本@名無史さん:2008/01/21(月) 21:27:19
大正天皇と妹の内親王達(昌子内親王を除く)って、子供の構成がほとんど同じ。
第1子と第2子が年子、第3子はその2〜3年後、第4子はそれからだいぶ経って誕生。
狙ったわけではないにしても、これほど同じというのは面白い。
798日本@名無史さん:2008/01/24(木) 04:23:42
礼宮から悠仁まで40年もの間男児が生まれなかったけど、
礼宮が生まれた昭和40年頃には、東宮家に息子二人の他、三笠の宮家には20代〜10代
の若くて健康な親王が三人もいて、常陸宮家にもこれから子供が生まれるだろうと
期待できた。むしろ宮家が増えすぎる心配してたかも知れないね。
貞明皇后の逆転満塁ホームランの恩恵は昭和で尽きてしまったというか。
799日本@名無史さん:2008/01/24(木) 07:47:31
>>797
本当だ!
800日本@名無史さん:2008/01/24(木) 10:55:45
聡子内親王って夫婦仲悪いのに子供いっぱい作ったね。。。。
801日本@名無史さん:2008/01/24(木) 14:19:47
>>798
今でこそ少子化だと騒いでいるけれども、
昭和47年〜49年の第2次ベビーブームの頃は、一般庶民だって、
このままでは日本の人口が2倍3倍になってしまう!
若い夫婦は後先考えずに子作りするな!
と大騒ぎになっていたのだ。
802日本@名無史さん:2008/01/27(日) 01:12:08
ブログ検索をしていてあるブログの記事を読んだのですが、どうもしっくりしません。
アドレスを貼るのは、ブログの管理者の方を考慮してやめますが、気になる箇所を引用します。
昨日(1月26日)は、昭和天皇と香淳皇后のご成婚記念日だったそうで、ブログではそのことを話題にされていたのですが、
宮中某重大事件にも触れていて、そこのところでおかしいところがありました。

>「宮中某重大事件」とは、大正十年(1921)に元老・山縣有朋が、 皇太子・裕仁親王殿下の妃殿下として内定してゐた 久邇宮良子女王殿下の御家系が色盲の遺傳を持つ家系であるとして、 良子女王殿下及び 久邇宮家に對して、御婚約御辭退を迫つた事件とされる。
 良子女王の兄君でいらした、久邇宮朝融王殿下が色弱でいらした事が、學習院の身體検査で發見された事を發端として、當時の軍部と政界に隱然たる勢力を保持してゐた山縣に據る、畏れ多くも 御皇室に對し奉る干渉は、宮中・政府を揺るがす大騒動となつた。

 當初は 久邇宮家にも、御辭退も已む無しとの動きを見せてゐたが、當時、御病氣御療養中であらせられた 大正天皇陛下の御意向を受けた 貞明皇后陛下や、 良子女王の御父宮・ 久邇宮邦彦王、或ひは、元老の松方正義や西園寺公望等が御婚約破棄に反對を表明した。
 又、頭山滿、杉浦重剛等の志士も強く此れに同調し、或ひは「北一輝等が奸賊・山縣を暗殺すべく刺客團を編成した」等の流言も流布されたと云ふ。

 最終的には、「良子でなければならぬのだ」との、當時者であらせられた 裕仁親王殿下御本人の御意向を以て御婚約破棄は撤回され、大正十年(1921)二月十日、政府は「婚約は破棄されることはなく、いずれ御成婚」との發表を爲した。
 當該事件で山縣有朋の權威は大きく失墜し、一度は元老及び爵位返上の意向も傳へられ、結局慰留はされたものの、翌年山縣は失意の裡に死去した。


803802追記:2008/01/27(日) 01:15:21
研究者によって、松方正義、西園寺公望は婚約破棄賛成派だったと証明されているし、貞明皇后は宮中某重大事件の久邇宮家(特に邦彦王)の言動、行動、態度に立腹して、
久邇宮家や香淳皇后に厳しく接するようになり、宮中某重大事件が沈静化した後で婚約に対して消極的になり、オーバーに言えば、婚約内定を取り消したいと考えていたとされています。
昭和天皇のお妃選びで大正天皇の御内意が少しはあったとは思うけど、貞明皇后が主導権を握って進めたのは間違いないと思います。
804日本@名無史さん:2008/02/03(日) 12:51:40
貞明さんの誕生時間について全くわからないよ
皇統譜にはあるのか?


805日本@名無史さん:2008/02/04(月) 06:16:26
久邇宮邦彦王が良子女王の婚約辞退を決して受け入れず、伏見宮家の説得も
受け入れませんでした。しかし長男の朝融王が酒井菊子姫と婚約を破棄したことにより
昭和天皇もお怒りになり、酒井菊子姫が前田利為侯爵に嫁ぐときお言葉を
賜ったと聞いております。久邇宮家に対して不信感を持ったのは貞明皇后だけでは
なく、昭和天皇も同じだったのではないでしょうか。岳父であっても厳しく
接したようですし。そしてかわいそうなのは朝融王と結婚した伏見宮知子女王、
7人子供を産み最後の出産で40そこそこで亡くなっています。どこかで読みましたが
犠牲だったと書かれてありました。菊子姫との破談の後急いで知子女王と
結婚してつじつまをあわせたと。
806日本@名無史さん:2008/02/04(月) 10:48:25
>>805
細かいけど、知子女王が産んだのは8人。
40歳の時に9人目を死産してその直後に死去。
貞明皇后は、朝融王と知子女王の縁談自体は
「結構なこと」と言ったらしいけど。
807日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:08:39
>>806
貞明皇后はそんなことを言ったんですか。
知子女王が朝融王との間に8人の子を産む一方で、
夫は侍女を孕ませ、そういうことなども覚悟して嫁いで我慢しなくてはならなかったのは、
とっても大変だったと思います。
知子女王が笑顔で邦昭王を抱いている写真を見たことがありますが、
浅見雅男氏の「闘う皇族」で知子女王の苦労を知った後だけに複雑な気持ちになりました。
808日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:24:07
ちょっと前まで上流階級じゃ妾なんて普通のことだったからね。
知子女王と朝融王の夫婦が特別に不幸な夫婦だったとは思えませんけど。
809日本@名無史さん:2008/02/04(月) 12:25:35
朝融王が侍女を孕ませたのはいつごろなんですか。
そして子供はどうなったのでしょう。
知子女王は9人も妊娠したのですか。おまけに40歳で死亡なんて気の毒ですね。
810日本@名無史さん:2008/02/04(月) 15:03:29
ミイコいわく、その後菊子さまにストーカーしたんだろ、ミイコいわく。
811日本@名無史さん:2008/02/04(月) 16:51:54
>>807
そんな写真あるんだ。どこに載ってたの?

>>809
侍女の妊娠が発覚したのは昭和3年6月ごろで、子どもがどうなったかは不明。
(ちなみに、この直後に知子女王も懐妊し、翌年邦昭王を出産している。)
確かに気の毒だけど、閑院宮の春仁王と直子妃のような夫婦もあることを考えれば、
これだけたくさん子どもができたのは逆に幸せな方かも。

812日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:55:20
>>811
まあ夫がゲイなのは常識の範囲外(?)だからね・・・
813日本@名無史さん:2008/02/04(月) 22:20:22
それって高松宮か姦淫宮?
814日本@名無史さん:2008/02/07(木) 08:11:48
有栖川宮実枝子女王
大宮様はお偉い方だよ。人の長所をご覧になり大切にあそばし「努力のお方様」
高松宮喜久子妃
大宮様は実の親のようによくしてくださる。
815日本@名無史さん:2008/02/09(土) 17:24:32
実枝子女王は、貞明皇后の雅楽のお相手として大宮御所に招かれていたそうで。
その時、実枝子女王が袿と袴を召して参内するので、喜佐子さんが美しいおたた様と本に書いていたのが印象的。
徳川慶久氏に嫁ぐ前の実枝子女王の袿袴姿は素敵だった。
貞明皇后の袿袴姿はやはり公家の最高家格・五摂家出身かつ皇后だから、とっても威厳があり、似合っている。
袿や袴、十二単などは他国の皇室・王室にはない日本特有の文化で美しいと思う。
816日本@名無史さん:2008/02/09(土) 19:38:37
>>815 若いころのみたいよー!
817日本@名無史さん:2008/02/10(日) 09:30:15
みたいー。
818日本@名無史さん:2008/02/10(日) 09:38:52
金剛石頂戴!
819売国マルハン:2008/02/10(日) 11:30:04
パチンコスレで遠隔、ホルコン、サクラ、マネーロンダリングなどについて書き込むと渋谷マルハン社員やマルハンに依頼された
ネット工作会社がスレ荒らしをしてスレが機能停止します。
↓↓工作員の荒らしのやり方↓↓
2008/01/10(木)ID:iA54n BU50
■■■■マルハン総合スレッド 9■■■■http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/118702←右左くっけて→1165/783-784
【宮崎県都城市】パチ事情そのAhttp://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/11871←右左くっけて→89246/658-659
【山と川】宮崎県児湯付近PART1【自然イパーイ】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/118←右左くっけて→8235164/471-472
【基地外が大暴れ4】エスパス日拓総合スレ【18発目】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/11888←右左くっけて→85488/401-410
2008/01/13(日)ID:1HLcWz UK0
【基地外が大暴れ4】エスパス日拓総合スレ【18発目】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/118←右左くっけて→8885488/461-462
■■■■マルハン総合スレッド 9■■■■http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1187←右左くっけて→021165/809-810
【香川】パーラーグランドのスレ2【徳島】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1188←右左くっけて→315438/324
【延岡】宮崎県北情報PART3【日向】http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1196←右左くっけて→865970/186

パチンコ産業は荒らすことでレスとレスの間を空けて読む気をなくさせたり
マネーロンダリング、さくら、ホルコン、遠隔、などの風評被害を最小限に抑えようとしてる。

新スレ→○○○マルハンパチンコタワー渋谷パート10○○○
★★★★★このスレの解説★★★★★を読んでみるとよく判る。
http://money6.2ch.net/test/read.cgi/pachij/1201←右左くっけて→304777/52-54
ネット工作員については→【電通TBS】ピットクルー(株)【プロ工作員】
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1189187503/65
820日本@名無史さん:2008/02/10(日) 19:00:20
さちこがよかった。。。
821日本@名無史さん:2008/02/10(日) 20:37:24
聡明で健康、お優しくて努力家の節子様でよかった。
822日本@名無史さん:2008/02/11(月) 08:42:03
美人な后がいい
823日本@名無史さん:2008/02/11(月) 10:22:50
>>822
じゃあ天狗の一条美子は失格だね
824日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:20:12
美子美人じゃん。良子あブスだけど。朝子がよかった。
825日本@名無史さん:2008/02/11(月) 13:40:49
美子のどの部分が美人?良子はデブだけど
826日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:33:42
サチコ美人や・・。
827日本@名無史さん:2008/02/11(月) 17:54:48
「皇室アルバム」で皇后陛下が、貞明皇后の恩師・石井筆子と関係の深い滝乃川学園の展覧会に行かれたという
のを見た。(皇后陛下が行かれたのは去年の話だが)
それで、筆子の夫・亮一が亡くなった時、キリスト教信者だった夫妻のために貞明皇后が十字架を下賜したのだ
が、ちらっと貞明皇后が日本髪に結って着物姿の写真が映ったのでびっくりした。他の写真だと稚児髷の袴姿と
か洋装で髪をあげているとか、大垂髪で十二単と袿袴姿だったんで、貞明皇后の貴重な写真だと思う。
滝乃川学園というか石井筆子に特別に下賜されてのかな?
ちなみにその展覧会がもう去年で既に終わったので残念だったが、行かれた方はいますか?
828日本@名無史さん:2008/02/12(火) 13:58:00
サチ子が子供生んだとしたら美人ができてただろ。
829日本@名無史さん:2008/02/19(火) 06:31:10
禎子は夫より身長が高い
830日本@名無史さん:2008/02/19(火) 09:17:48
皇太子夫妻も妃のほうが身長高いからねえ・・・
831名無しさん@お腹いっぱい:2008/02/19(火) 10:31:48
貞明皇后はピアノも弾けて昭和天皇の皇女方に聴かせていたそうです。
832日本@名無史さん:2008/02/19(火) 16:09:29
幸田露伴の妹・延子が、お妃教育〜皇太子妃時代の貞明皇后にピアノを教えていた。
大正天皇が皇太子だった頃、幼い迪宮、淳宮、光宮たちと一緒に貞明皇后のピアノ伴奏で、
軍歌や唱歌を歌ったという微笑ましいエピソードも残っている。
それを昭和天皇と秩父宮は楽しい思い出の一つとして語っている。
833日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:12:48
九条家はかなり洋風だったらしい
834日本@名無史さん:2008/02/19(火) 17:15:38
皇族や華族の方々はテニスをなさるくらいだから
洋風のものには敏感だったのだよ

皇室の正装を洋装のローブデコルテに定めたのは
一条家出身の美子皇后だし。
835日本@名無史さん:2008/02/20(水) 18:49:46
大正天皇の御学友で昭和天皇の側近を務めた甘露寺受長氏によると、貞明皇后は写真(カメラ)に興味があり、好きだったそうだ。
古来からのしきたりや伝統を重んじていたと言われる貞明皇后だが、新しいものを取り入れるのにも勇気のある方だった。
少年時代の昭和天皇にカメラを贈られたのも貞明皇后で、余談だが自転車も贈られている。
貞明皇后は自分専用のカメラで何枚も写真を撮り、外部に撮った写真を出すことはなかったが、お側で仕える女官には見せていた。
おまけ話で某女官さんが、貞明皇后が撮った大正天皇の四皇子の集合写真をおねだりしてもらったそう。
836日本@名無史さん:2008/03/04(火) 13:12:52
秩父宮が陸軍幼年学校に入学する折の書簡の一節

能く精神を鍛錬し細密なる思慮と寛厚なる温情と養ひ給ひ 仰きては御父
天皇陛下及ひ御兄皇太子殿下の御心にそひ 伏しては弟宮達の為に好範を
示し給ひ・・・

このようなゆき届いた心配りは四人の皇子たちに強い印象を残している。
いずれも母后に対する思慕の念を終生語っている。
837日本@名無史さん:2008/03/04(火) 21:58:06
中央陸軍幼年学校は14歳からの入学である。従って貞明皇后が31歳ごろの
書簡と思われる。
836の書簡を読むと大正天皇については当然だが皇太子に殿下をつけているのが
興味深い。
838日本@名無史さん:2008/03/06(木) 07:42:08
牧野伸顕の残した資料によると、東久邇稔彦王がフランスに滞在していたとき
年間20万円が外遊費用として送られていた。現在の金額に換算すると六億から八億。
大宮様が敗戦後「維新前に戻るということですね」と肯定的に見ていたのも
うなずける。
839日本@名無史さん:2008/04/13(日) 17:08:20
ふと思ったのですが、大正天皇の補導だった有栖川宮威仁親王の長女・績子女王が
夭折しなかったら、大正天皇の有力なお妃候補になっていたかも。
績子女王は貞明皇后より1年下の明治18年生まれ。
840日本@名無史さん:2008/04/13(日) 22:57:27
貞明皇后は身長低いほうだったのに姪の敏子妃はかなり身長が高いよね
他の皇族・妃、それと九条家の人々はどうだったのだろう
841日本@名無史さん:2008/04/22(火) 03:23:31
サチコ女王昔すぎるのかか知らんけど写真が見つからない・・
842日本@名無史さん:2008/05/02(金) 21:11:39
>>841
考えるんじゃない!感じるんだ!
843日本@名無史さん:2008/05/05(月) 10:08:34
>>841
まだ見てるかな?
禎子女王の写真なら、毎日新聞社から出ている『日本の肖像』第6巻の
山内家のところにたくさん載っている。図書館とか探せばあるはず。

禎子女王は美人だけど、若い頃の顔が貞明皇后と似ている気がする。
だから、禎子女王が皇太子妃になって子どもを産んでも
意外に昭和天皇兄弟と似たような顔になったんじゃないかと思う。
844日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:50:48
昭和天皇は父天皇に似てる(母よりは)
845日本@名無史さん:2008/05/21(水) 18:55:01
秩父宮は貞明様にそっくりだね
846日本@名無史さん:2008/05/21(水) 21:55:48
どこかのスレで秩父宮はのび太に似ていると書いてあって実際似ていると思うwww
847日本@名無史さん:2008/05/27(火) 16:59:35
貞明皇后の長兄・道実の末娘・敝子は、華頂宮博忠王の婚約者だったらしい。
でも、博忠王は亡くなって、結婚は取り消されて、その後の縁談が大久保忠言の後妻。
皇后の姪で五摂家の公爵家の姫なんだから、もうちょっと格上の家でもいいのに。
関東大震災で佐紀子妃を亡くした従兄の山階宮武彦王と敝子がいっしょに配偶者(婚約者)を亡くしたって当時の新聞の記事に載ってて、
可哀想だった。
敝子さんの写真見たら、貞明皇后の面影はなかったけど、賀陽宮敏子妃にちょっと似ていた。
848日本@名無史さん:2008/05/27(火) 22:17:25
>>847
本当にかわいそうだと思う。
挙式予定が大正13年4月、その1か月前になって王が急死とは…。
嫁入り箪笥なども用意済み、あとは成婚の日を待つばかりだったとか。
後妻になったのも相手がなかなか見つからなかった末のことだし、
子供を産んだのも30代後半で、当時としては高齢出産。
宮妃になれず後妻、って酒井菊子も同じパターン(しかも同年に破談)だけど
すぐに侯爵家に拾ってもらい、子供もぽんぽん生まれた向こうと比べると
あまりにも違いすぎる…。
849日本@名無史さん:2008/05/28(水) 21:53:58
大久保敞子(旧姓九条)、血筋正しい公爵令嬢で
姉もそうそうたるところ(佐竹、中山、賀陽宮)に嫁いでいるのに
一人だけしょぼい(?)家の後妻で
子供も三十代後半で産んだ跡取りのみで
謎に思っていたがまさかこんな過去があったとは・・・
しかしもっと謎なのが敞子の姉の
道実4女で大岡家の養女になった充子がもっと謎である・・・
850日本@名無史さん:2008/06/11(水) 09:58:20
ところで高松宮妃の腹違いの妹達の生母って? 慶喜家の子供部屋に出てくる女中かな?
851日本@名無史さん:2008/06/11(水) 09:58:46
ところで高松宮妃の腹違いの妹達の生母って? 慶喜家の子供部屋に出てくる女中かな?
852日本@名無史さん:2008/06/11(水) 10:00:14
連チャンスマソ
853日本@名無史さん:2008/06/12(木) 22:19:50
>>850
「徳川慶喜残照」という本に高松宮妃の妹さん方の生母に関する記述があります。
854日本@名無史さん:2008/06/17(火) 12:10:45
853>何ページ?
855日本@名無史さん:2008/06/18(水) 10:45:43
>>853 すまん 『女聞き書き』じゃない徳川残照だ うちにあるのは… さっそく取り寄せ中
856日本@名無史さん:2008/06/18(水) 23:38:09
「徳川慶喜残照」って確かいくつかの種類の本があるんですよね。
うる覚えで申し訳ないのですが、松平さんという女性(どこの松平家か分かりませんが)
の話に、実枝子女王が病気になって、慶久公爵のお相手ができないということで侍女を
差し出されて、その侍女が慶久公爵の寵愛を受けて妹さん達を生んだんだそうです。
その後、側室の侍女は別の男性に嫁いだそうです。

話は変わりますが、高松宮妃の学友・岩崎藤子さんが妃殿下との思い出を語った本も面白いです。
タイトルはうる覚えですが、「九十六年なんてあっという間でございます」だった気がします。
喜久子さま、藤子さんと北白川宮美年子女王が仲が良かったのは初耳でした。
新婚当時の高松宮と妃殿下にも触れられていて、欧州旅行中の妃殿下へ出した藤子さんからの
手紙を妃殿下が読もうとしていたら、高松宮さまが覗こうとしてじゃれあった場面、
帰国した高松宮と妃を訪ねた藤子さんが、新婚当時の昭和帝&香淳皇后の如く手を繋いだ両殿下を
目撃した場面など微笑ましかった場面が多かったです。
高松宮様に同性愛の傾向があったり、お子様に恵まれなかった高松宮妃ですが、夫婦仲は良かった
のかもしれません。
857日本@名無史さん:2008/06/19(木) 00:36:57
明治から昭和に掛けての人の話は近代史板でやるもんだろ?
858日本@名無史さん:2008/06/19(木) 22:07:31
息子の結婚相手を選んだ基準は何なんだろ?
859日本@名無史さん:2008/06/20(金) 10:19:17
明治から昭和に掛けての人の話は近代史板でやるもんだろ?
860日本@名無史さん:2008/06/20(金) 12:45:04
占いで決めた。
861日本@名無史さん:2008/06/21(土) 08:47:08
スレチだが岩崎藤子さんの実家は何をしていたの?
862日本@名無史さん:2008/06/21(土) 14:08:52
スレチどころか板違いだよ
863日本@名無史さん:2008/06/21(土) 14:11:09
父親が伊集院彦吉(第二次山本権兵衛内閣外相)男爵で母方祖父が大久保利通
864日本@名無史さん:2008/06/23(月) 22:37:46
勢津子 喜久子>朝敵 百合子>幕臣
865日本@名無史さん:2008/06/27(金) 10:19:17
貞明さまはやすこ内親王をこのほかお気に入りだったらしい ご自分の生まれ変わりだと
866日本@名無史さん:2008/06/27(金) 12:52:16
奈良のお寺の娘の代わりと思ってたんでしょ。
867日本@名無史さん:2008/06/27(金) 23:20:46
尼さんと三笠宮は似てない 陛下、秩父さん、高松さんとも似てないよ。がせじゃね?
868日本@名無史さん:2008/06/27(金) 23:43:20
双子説なら三笠宮自らはっきりと否定してたよ、著書で。
河原のトンデモ説を本気で信じる人って・・・
869日本@名無史さん:2008/06/28(土) 02:16:31
尼さんは、若いころ高松宮に似ていたらしいよ。
870日本@名無史さん:2008/06/28(土) 02:31:45
日本史板で昭和の話をするなんて、皇室ヲタは本当に行儀が悪いな。
871日本@名無史さん:2008/06/28(土) 05:00:37
うざす こなきゃいいじゃん
872日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:07:59
ホント、何で近代の皇室が好きで堪らない奴が日本史板にわざわざ来るんだろうな。
近代史板がちゃんと有るのに。
873日本@名無史さん:2008/06/28(土) 14:06:24
昭和天皇と秩父宮は仲悪かったのかな?
874日本@名無史さん:2008/06/28(土) 17:18:39
近代の話だから資料がいっぱい有るよ。>>873
本人達の意思とは別に、軍内の派閥が誰を担いでたかと密接な関係が有る。
詳しく知りたかったら専門家のいっぱい居る近代史板で。
875日本@名無史さん:2008/06/28(土) 21:41:03
同性の年子って性格がまったく違うんだよ(心理学的に)
昭和天皇わおっとり、秩父は、やんちゃで利発(皇后に似ていた)
876日本@名無史さん:2008/06/28(土) 22:03:33
幼少時はずっと一緒に育てられて、二人(と高松宮)仲良かったのに・・・。
昭和天皇の幼少時代の記録をまとめた本を読んだことがあるけど
兄弟の微笑ましいエピソードが多くて面白かった。
性格が違うとはいえ、周りのせいもあって仲がこじれたんなら可哀相。
877日本@名無史さん:2008/06/29(日) 03:30:21
まあ、お前らみたいな場所をわきまえない無礼者が皇室の話なんてやめとけ。
それだけで不敬だ。
878日本@名無史さん:2008/06/29(日) 14:14:45
母親にも問題あり。
879日本@名無史さん:2008/06/29(日) 14:19:46
何で日本史板で昭和の皇室の話してるの?昭和って近代史だろ?
880日本@名無史さん:2008/06/29(日) 14:26:33
土佐藩では足軽は中間と同じ扱いだったのでは?
881日本@名無史さん:2008/06/29(日) 16:53:27
板違い平気な奴等って終わってるよな
882日本@名無史さん:2008/06/30(月) 00:39:29
【日本史板】自治新党その6【新秩序】 
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1176193348/
より

ローカルルールを改正して、日本近代史板のことについて
言及したほうが良いね。

変えなくていい

あちらはあちら、こちらはこちら
883日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:29:44
九条の黒ひめ
884日本@名無史さん:2008/07/01(火) 19:58:36
なんで勢津子を嫁にしたんだ。
885日本@名無史さん:2008/07/02(水) 10:43:05
皇子達の結婚で協和をお考えだったのでは?
886日本@名無史さん:2008/07/02(水) 20:18:37
平民でブスなのに。
887日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:12:21
良子→久邇宮だが女系で島津 勢津子→平民だが会津藩 喜久子→慶喜家 女系で有栖川宮 百合子→幕臣 昭和天皇の内親王 成子 和子までは貞明さんがお決めになったらしい。長生きだったら美智子様のご成婚は幻だったかもね。
888日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:30:32
>>837
美智子皇后は皇太子殿下を出し抜くことばかり弟宮に教えたから皇后として失格と言うことですね?
分かります
889日本@名無史さん:2008/07/09(水) 18:38:30
貞明様は「九條の黒姫さん」って言われて気にしていたそうな。
対して昭憲様の姪の娘・一條経子は「一條の白姫さん」。


890日本@名無史さん:2008/07/09(水) 22:14:46
大正天皇をお見舞いに行った香淳皇后に対し『あいかわらず不細工な事だね』と言ったらしい。タオルを絞るのに手袋をしたままの香淳皇后もかなり…あれだな。
891日本@名無史さん:2008/07/10(木) 23:03:30
「清流」で連載されてた工藤美代子さんの「貞明皇后ー大正天皇とともにー」が、
単行本化されて「国母の気品ー貞明皇后の生涯ー」になって発売されましたが・・・。
加筆訂正されているかと思いきや、連載時のそのままの文章を掲載されててちょっと期待外れ。
工藤さんの後書き&本の帯に某氏に対する批判が感じられて、貞明皇后のエピソードを純粋に
楽しみたかったのに批判を無理やり絡めてきたので、なんか嫌な気分になりました。
某氏の批判なんてどうでもいいので、ただ貞明皇后のエピを書いて頂きたかったです。
勝手な要望ですが、文庫本化された時は、もっと新しい情報を入れて書かれていてほしいです。
892日本@名無史さん:2008/07/12(土) 18:26:03
一条の白姫はその後どうなったの?
893日本@名無史さん:2008/07/12(土) 22:36:36
婿養子をもらって家を継ぎ、70歳まで生きた。
写真を見ると、確かに白いがあまり美人ではないような・・・。
彼女は皇太子妃に推されなかったんだろうか。
894日本@名無史さん:2008/07/13(日) 11:52:27
一条が続くのはいけないでしょ。
895日本@名無史さん:2008/07/13(日) 16:09:55
一条経子は皇太子妃候補だったが、他の候補者に何らかの問題があった場合の
万が一のための予備候補だった。
結局、禎子女王のあと、貞明皇后が皇太子妃決定の間の最有力候補。
貞明皇后は当時、下田歌子に可もなく不可もなしと言われてた。
貞明皇后は、お妃教育を下田歌子から受けたけれど、香淳皇后が受けたのは、
後閑菊野だったが、貞明皇后の采配だろうか?
896日本@名無史さん:2008/07/13(日) 17:42:40
節子の姉(大谷さん)でもよかっただろうに。
897日本@名無史さん:2008/07/14(月) 08:12:34
貞明さんも現在の皇室は想定外だろうな 秩父高松両宮家は断絶致し方ないとしても三笠宮まで三男を儲けて断絶とはね
898日本@名無史さん:2008/07/14(月) 20:29:52
一条の姫はちがうだろ。
慶喜の娘国子が候補ってのは聞いたけど。
899日本@名無史さん:2008/07/15(火) 00:33:53
慶喜女 国子経子が候補。女系で有栖川もありだけどやっぱ無理がある。
900日本@名無史さん:2008/07/15(火) 17:48:11
北白川の女王、毛利の姫も候補だったよ。
901日本@名無史さん:2008/07/16(水) 01:55:58
毛利の姫って誰じゃ?
902日本@名無史さん:2008/07/16(水) 05:35:17
毛利元徳六女万子。武者小路子爵に嫁ぎ一男を産むも若死。
しかし他の娘は夭折していて実質唯一の姫だったのに随分ショボい嫁ぎ先だな
男兄弟の嫁は皆超名門の出身で且つバライティに富んでいるのに
903日本@名無史さん:2008/07/16(水) 18:37:43
貞明皇后の生母である中川局=浄操院の名前は「野間」幾子でいいんですよね?
時々、「野村」幾子になっている時があるんですが。
道孝には中川局の他に、田村氏、野村氏という側室がいたようですが。
904日本@名無史さん:2008/07/16(水) 20:43:38
晩年、野間幾子は九条道孝とその夫人に同行して出かけ、
夫人よりも先に馬車に乗り込もうとして九条公に叱責され
馬車から降りたそうだ
皇后の御生母とはいっても九条家の小間使いで終わった
生涯だった
905日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:23:06
九条公の正室は誰?
906日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:32:53
>905
九条道孝公の正室和子夫人は、
対馬府中藩主宗義和の令嬢。
宗家は明治17年、伯爵家になっている。
907日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:50:58
九条公夫妻と野間幾子が貞明皇后に拝謁したのは、彼女が皇后時代。
九条公夫妻が道孝夫妻だとすると、道孝は明治時代に死去、夫人も明治時代に亡くなった説もあるから、
よって、九条公夫妻は、兄の道実とその夫人大谷惠子だと思われる。
908日本@名無史さん:2008/07/18(金) 22:10:21
恵子タソとその娘は多産
909日本@名無史さん:2008/07/20(日) 17:50:35
貞明さんは男腹
910日本@名無史さん:2008/07/21(月) 19:13:14
大正天皇のY染色体が強かったんだよー。
911日本@名無史さん:2008/07/23(水) 06:38:56
お手つきは公的にはいない事になっているがホントはどぅなんだろね
912日本@名無史さん:2008/07/23(水) 16:07:59
お手つきになりそうになった女官を降格させてるからねー。
913日本@名無史さん:2008/07/24(木) 14:18:12
同母姉のお東さんにいった人は候補だたんでしょ。
914日本@名無史さん:2008/07/26(土) 16:50:23
大正時代の新聞によれば、貞明皇后の姪で道実の娘・允子(←充子の間違い?)は、
鳥取か岡山旧藩主の侯爵・池田成政と婚約していたが、侯爵の死により破談となり、
末妹・敞子と華頂宮の破談の時、既に24歳となっていたが嫁いでいなかった。
たぶん大岡家の養女となって生涯独身だった充子だと思うのですが、鳥取か岡山の
池田家で充子と年齢の合う男性はいたのでしょうか。
915日本@名無史さん:2008/07/26(土) 21:38:36
>>911
大正天皇に追いかけまわされたことを証言している女官や、
鍋島伊都子のように大正天皇に気に入られよく天皇自ら鍋島家に遊びに来ていた
と証言している人物はいるが、お手が付いたという証言はない模様。
内親王が父天皇に結婚の挨拶に訪れた時に「あの婦人は誰か」と質問した明治天皇に比べ
(自分の実の娘の顔すらよく知らなかった)
大正天皇は息子と一緒に撮った写真が複数残るなど家庭的であったことは確か。
916日本@名無史さん:2008/07/27(日) 10:21:20
>>914
いた。岡山の池田詮政長男の池田禎政(1895-1920)のことだと思う。母親は久邇宮安喜子女王。
池田詮政は1909年に死んだので禎政も侯爵になっている。
でもなんで充子は大岡家の養女になったんだ?
917日本@名無史さん:2008/07/30(水) 20:05:44
>>916
ありがとうございます。
充子が養女になった件は分かりません。
918日本@名無史さん:2008/07/31(木) 10:20:20
伏見宮女王が皇后になっていたら・・・。
919日本@名無史さん:2008/08/01(金) 05:18:57
女王はおっとりしているから
側室とか持ってた可能性有るよね。
920日本@名無史さん:2008/08/02(土) 22:19:27
新婚早々激怒して実家に帰る節子もすごいが。
921日本@名無史さん:2008/08/02(土) 22:30:56
妾の子なのに浮気に激怒するのが不思議。
922日本@名無史さん:2008/08/03(日) 14:40:40
別に腹は借り物の時代だし。
923日本@名無史さん:2008/08/06(水) 02:19:30
父親に似てる。
924日本@名無史さん:2008/08/08(金) 01:15:34
頭もまわるし個性もあるね
925日本@名無史さん:2008/08/08(金) 03:17:21
皇太子(大正天皇)は、いい加減性的欲求不満だった。
候補者の中で最年長の徳川国子が候補に挙がってもおかしくないね。
926日本@名無史さん:2008/08/13(水) 17:23:19
せっかく節子が秩父宮に会津の勢津子を入内させたのに、会津と萩って仲直りしないんだから!
927日本@名無史さん:2008/08/14(木) 00:57:20
最初の避暑で一時期帰京したのは7月末からいつまでだっけ

裕仁親王が生まれたのは4/29で、受胎(受精)は、
まったく正常な妊娠期間だったと場合だと前年の8/5〜7あたり。
機嫌直して戻ってきてさっそくという感じだね
928日本@名無史さん:2008/08/14(木) 02:21:49
>>927
明治天皇紀によると、
嘉仁親王と節子妃が日光に滞在したのは、
明治33年7月25日〜同年9月12日。
節子妃が父の病により帰京したのは、
8月25日〜9月3日。
たぶん帰京前の滞在中に受胎していた可能性大。
秩父宮はどうだろう?
明治天皇紀には皇太子夫妻の動向は詳細に書かれているが、
完全とは言えない。
大正天皇実録の皇太子時代のものが公開されてみないと、
正確なことは分からない。
今年やっと天皇時代のものが公開されたので、
皇太子時代の公開は何年後だろう。
929日本@名無史さん:2008/08/14(木) 04:37:32
大正天皇が親孝行できたのは、皇子が立て続けに元気に生まれたことだよな。
930927:2008/08/14(木) 20:32:36
8/25から帰京ですか。8/5〜7あたりが受胎とすると、8/20あたりが妊娠しなかった場合の月経予定日。
とすると8/25あたりは「月のもの来ない!」となって約1週間。もしかして
妊娠検査のために帰京したのかも…と想像してみる。でも往復が心配だから気づいていなかったのかな。
月のものは女官がチェックしているはずだから分かっていたと思うけど。
9/3に日光に戻った頃にはつわりもはじまっていたかも。
931日本@名無史さん:2008/08/14(木) 21:34:21
激怒していたし、大正天皇とこれからやっていく覚悟を決めないといけないから
それどころじゃなかっただろ。
932日本@名無史さん:2008/08/16(土) 20:25:33
道孝の病気は、明治天皇紀にも当時の読売新聞にも載っているから、信憑性は高い。
ただ貞明皇后は父の病気で帰京しただけだと思う。
日光での出来事を梨本伊都子以外の日記とか資料とかで検証すると違う一面が分かるかも。
そのようなものがあればの話ですが。
933927:2008/08/17(日) 02:50:48
いろいろレスありがとうございます。明治33年頃って、生理が来ない以外に妊娠を確認する手だてはあったのかどうか
不勉強で知らないが、8/25の時点で本人も女官も妊娠かもと思っていただろう。
その状況で父の病気という心労と、遠距離の往復。初期流産しても不思議ではない。しかし何事もなく翌年無事出産された。
若くて健康なればこそ。子供を産めなかった自分のようにならぬようにと、健康な后を選んだ照憲皇太后は立派だと思う。
現代の誰かさんとは大違いだ
934日本@名無史さん:2008/08/17(日) 02:56:12
失礼 昭憲皇太后ですね。貞明皇后は皇太后の期待をかなえて有り余る満塁ホームランをとばしたわけですね
935日本@名無史さん:2008/08/17(日) 03:41:23
ベルツが伏見宮の女王にいちゃもんつけんかったらあっちだったわけで。
936日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:02:18
>>933
昭憲皇太后は貞明皇后のあまりのお転婆ぶりに驚いたらしいけど、
農家で育てられた健康体と頭の良さを鑑みて、また自分自身が蒲柳の
体質だったから、自分と同じ思いをさせたくなかったんだろうね。
昭憲皇太后は本当に立派な方だと思うよ。側室の子も実子のように
可愛がったというし。大正天皇が生母を知ってとてもショックを受けた
気持ちが何となく分かる。貞明皇后は4人の子供すべてが男子で、
しかも四男は三男の出産から10年以上も経ってから産んでいる。
どれだけ健康の持ち主だったんだろう?どこかの誰かさんも見習って
欲しいもんだ。

最後は狭心症か心臓発作で崩御したんだよね?もう少し長生きできる
人だと思ったんだが、まだ60代で亡くなったんだね。香淳皇后並に
長生きしていたら、今上の妃は旧宮家か華族から選んでいただろうね。

香淳皇后のこと書いていて思いだした。たしか自分の目で裕仁親王妃
を探しに行って良子女王を見出すんだけど、実際に嫁姑の関係になって
から何でウマが合わないことに気づくんだろう?本人は家柄を気にして
いたらしいが、九条〜一条ラインを引いておけば(生物学的には問題が
あるかもしれないが、個人的には一条朝子姫を妃にして欲しかった)、
今上や皇太子のお妃候補もスンナリ決まって「静かな皇室」が存在した
かもしれないのに。生きていたら平民出身の美智子さんを皇太子妃に、
なんて絶対に許さなかっただろうね。仰天していただろうと思う。
937日本@名無史さん:2008/08/18(月) 14:57:09
ルックス的には、一条朝子の血がほしかった。
もし、朝子が皇太子妃になっていたら
結構すっとした美人な内親王とか出来ていたかも。
良子の血が強くて、現皇太子の内親王も・・・。
あと、梨本の女王でも良かった。
母、伊都子は晩年意地悪バーさんだが若い頃は美しい
万子女王は、性格いいみたいだし。
938日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:08:17
私も一条朝子を選んで欲しかったよ。写真を見たら美人だったし。
ただし性格はよく分からん。方子女王は素晴らしい方だったらしい
けど。でも、お妃候補のうち方子女王は不妊と診断されていたし
(後に男児を二人も産んで、診断した医師たちが処分を受けている)
良子女王は家系に色盲の疑いがあった。山県有朋が熱心に朝子姫の
入内を企んだが、かえって世論の反発を招いている(宮中某重大
事件だっけ?)。ただ、朝子姫は伏見宮家に嫁いで男子は産んでいる
ものの、昭和40年代に亡くなっている。もし朝子皇后が実現して
いたら、長命だった昭和天皇は寂しい思いをしていたかもしれないね。
939日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:18:36
つーか、祥子さんが女官長になったときには
良子皇后は既に徐々にボケ症状が出ていた。
魔女と言われた女官がいれば庇ってくれたが、追い出された後
宮中では、職員にバカにされていたらしい>皇后
940日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:21:39
朝子の生んだ伏見宮の子供の写真も
天皇家の子供たちより遥かにかわいい
特に長女の女王は、神。
天皇家も照宮さんは、愛嬌あるが及ばないな。
941日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:33:39
>>939
何でココで祥子さんがいきなり出てくるの?別にいいけど。
良子皇后の症状は思ったより早く出ていたんだな。海外訪問の
時は大丈夫だったの?職員にバカにされていたなんて初耳。
ちょっとかわいそうな気がしてきた。 <良子皇后


>>940
朝子妃の子供の写真、見たことないんだけどそんなに
かわいいの?夫は博義王だっけ?ハンサムな人だった
のかなあ?天皇家は上の方は昭和天皇に似て、下がるに
つれて島津の血が濃く出ている気がする。おスタちゃん
の内親王時代なんて、結婚前の良子女王そのものだよ。
長女の照宮さんと姉妹とは思えないほど似ていないよ。
942日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:52:25
昭和40年代前半か半ばにはボケが出ていた>良子
トイレットペーパーを服にはさんで出てきたりとか
DQNな話が外に出るほど軽視されていたみたい。

伏見宮は、マスオさんみたいな顔立ち。子供は朝子に似てる。
天皇家は、照宮さん=昭和天皇に僅かに皇后、島津さん=皇后の母のキツネ顔が〜。
943日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:55:35
若い頃の朝子さんは、黒目がちのまん丸した目。
嵯峨浩さんとかと同じ系統の顔立ち、北白川女官長も同系統かも。
944日本@名無史さん:2008/08/18(月) 15:57:28
>>942
そんなに早くボケてたの!?海外訪問の頃とぶつかる
じゃん。初の公式記者会見も確かその頃だよね。
ようつべで見たけど、皇后は一言も発してない。
口止めされてたのかなあ?

伏見宮さんがマスオ顔…微妙だな。
945日本@名無史さん:2008/08/18(月) 16:10:04
天皇家の弥生人系の顔立ちからかなり外れてるのが、今上の姉池田さんの四角顔なんだけど。
岡山に住んでるとき、マラソンで有名な天満屋デパートで女性を連れてよく買い物していた。
でも、突然コンパクト出して化粧したりしてたよ、TVでも空港に来た天皇皇后に会いに行く際
頭に普通の黒ピン1本さしたヘアーでお迎えにいってるし、噂では天然じゃなくちょっと。。らしい
池田家も皇族公認の愛人の子供が継いでると聞くし。
戦後、昭和天皇が子供達に女性外国人の先生を家庭教師として向かえたけど
厚子さんが、全然成績悪くて温厚な天皇も怒ったという話が残っているが
厚子さんには限界があったと思うので、かわいそう。
ちなみに、十数年前デパートでみた厚子さんは、ホワーンとした感じの天然系の
オバちゃんだった。(鳥居みゆきがおとなしくなっておばあさんになったらああか?)
妹のゴージャス島津さんとは、姉妹とは思えない。
946日本@名無史さん:2008/08/18(月) 16:18:06
>>943
朝子さんも浩さんも北白川さんも、十分に美人だよ。
若い頃の写真を見た限りでは…。
華族がいた時代と今とでは「標準的な美人」ってさほど
変わらないんだな。感覚がほぼ同じでちょっと安心した。

でも昭憲皇太后の和装姿(明治初期の写真)も美人というか、
綺麗だと思う。明治神宮のナントカ館に展示されてあった
肖像画にはビックリしたが(アゴがえらいことになっていた。
あれはあまりにひどすぎる)。

貞明皇后はとにかく家柄と「健康」だけで選ばれた感じがする。
庶子であることを気にして正妻腹の良子女王に当たったりして
いるけど、今上が生まれるまでの間すごく気を揉んだだろうな。
当時天皇は現人神とされていたから、自分の息子とはいえ堂々と
可愛がることに気が引けたんだろう。だから、その分愛情が弟の
秩父宮たちに注いでしまったんだと思う。勢津子妃なんて異常に
可愛がられたらしいし。皇后といえどもやっぱり人間なんだな。
947日本@名無史さん:2008/08/18(月) 16:31:48
>>945
厚子さんって影薄いよね。

成子さん→最初の子供で、女子ながら注目を浴びる。
祐子さん→生後半年で夭折。
和子さん→祐子さん夭折で世間の同情を集める。
貴子さん→私の選んだ(ry

厚子さんって「田舎の牧場に嫁がされた」っていう
印象しかない。お相手が池田家当主ということで
辛うじて元皇族という面目を立てているけど。

皇室公認の愛人の子供ねえ…初耳だわ。
948日本@名無史さん:2008/08/18(月) 21:20:06
>>945
成績悪くて

成績悪くてと言えば現在の天皇は高卒。
成績が悪くて学習院大学に入れなかった。
(聴講生という形でいるにはいたらしいけど)
現在ではある意味考えられない。
秋篠宮も成績が悪くてこの年の学習院の内部進学の条件は
ゆるゆるだったというし、一般受験生でも推薦入学が浸透した現在では
成績が悪いから皇族が進学できないというのはありえないけどね。
949日本@名無史さん:2008/08/18(月) 21:34:00
厚子さんの場合は、成績とか言う以前の問題だから。
今上の姉だけにこれ以上は控えたいが。
950日本@名無史さん:2008/08/18(月) 21:45:04
天皇が高卒でもいいじゃないか。天皇にとって重要なのは、
公務や宮中祭祀を行うこととその伝統を次代に引き継ぐこと。
皇太子を見てみろよ。学習院大学大学院まで進みながら、
肝心の公務が疎かになってる。足を引っ張っているのは(ry
「やりがいのある公務」しかしない天皇なんて尊崇できないよ。

天皇の地位に学歴なんて全く関係ない(国際親善の面から
考えると、世界各国に関する最低限の知識は必要だろうが)。
学習院大学に入ったからって、そこで帝王学を学ぶのか?
歴史的に見れば皇室も関係してくるけど、今の学習院はただ
警備の都合で皇族が通っているに過ぎない普通の私大だよ。

天皇にとって一番必要な事が、皇太子に伝わっていない現状の
方が心配。貞明皇后はどんな気持ちで天から見ているんだろう…。
951日本@名無史さん:2008/08/18(月) 22:12:35
マジレスすると天皇は単位不足だった
952日本@名無史さん:2008/08/18(月) 22:44:46
エリザベス女王の戴冠式に行ってて出席日数が足りなかったらしいな。
953日本@名無史さん:2008/08/18(月) 22:55:37
>>952
昭和天皇の名代としてイギリスまで行ったんだよね。
それだけでもたいしたもんだと思うよ。
出席日数とか単位不足といった問題は別次元のもの
なんじゃないの?今の皇太子見てるとつくづく思うわ。
954日本@名無史さん:2008/08/18(月) 23:28:14
ていうか、宮内庁や東宮職はなんで事前に休学手続きをとらなかったのかと。
955日本@名無史さん:2008/08/18(月) 23:49:59
>>954
それだ!漏れも学生時代、病気で休学したことを
思い出した(結局中退したが…)。
正規の手続きをとっていれば、復学は可能だった
はず。当時の学習院にそんな規定がなかったのか?
結局今上は「聴講生」の身分で学生生活を終える
ことになったんだが、今となってはもうどうしよう
もない。公務が忙しくて放送大学に行く時間すら
ないんだから、誰かのしわ寄せで(怒)。
956日本@名無史さん:2008/08/19(火) 00:00:05
>>954 当時の大学サイドの教授にかなりの漢がいたんだろ、キコ父みたいな。
957日本@名無史さん:2008/08/19(火) 04:21:10
厚子さんがちょっとアレだから学習院に女子短大が設立された。
958日本@名無史さん:2008/08/19(火) 07:43:43
>>957

そうなの?女子短大は昔からあるもんだと思ってた。
一皇女のために作るなんて信じがたいが…。でも、
華子さまもたしか短大卒だったはず。アレはあまり
関係ないんじゃないの?華子さま、本の翻訳いっぱい
してるしね。お嬢様学校であったことは間違いないけど。
959日本@名無史さん:2008/08/19(火) 08:36:37

今上は「大学に入れなかった」んじゃなく
イギリス渡航のせいで単位が足りずに「卒業できなかった」んじゃないの?
960日本@名無史さん:2008/08/19(火) 08:37:46
厚子さんってアレレだってたまに聞くけど、何がどうアレレなの?
トモさん家の次女のように勉強が苦手っていう類?
それとも言動がアレレなわけ?
961日本@名無史さん:2008/08/19(火) 08:51:33
ごめんなさい
前レスきちんと読まずに質問してしまいました
962日本@名無史さん:2008/08/19(火) 09:58:57
>>960
厚子さんのことはよく分からんが(情報が曖昧なので。
意図的なのか?)、トモさんの次女は成年にあたっての
会見でかなり自分の事について語っていたね。勉強は
苦手だとか、もうこういう会見はしたくないとか。でも
日赤に勤める傍ら、療養中の母や留学中の姉の分まで
公務に励んでいるんだからえらいじゃん。トモ夫妻の
子育ては成功だったと言えるんじゃないか?
963日本@名無史さん:2008/08/19(火) 10:15:35
 
964日本@名無史さん:2008/08/19(火) 10:17:22
 
965日本@名無史さん:2008/08/19(火) 10:19:50
965
966日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:15:03
そういえば頭悪そうなのばっかしだよなあ、といって美男美女には
程遠いし。
何かに祟られてんじゃないの。
民間から才色兼備入れ始めてから1,2代だから
しょうがないか。
967日本@名無史さん:2008/08/19(火) 12:34:57
不敬ながらもいうと、今上姉厚子さんは、知的に中・軽度の・・がある感じ。
岡山市とかに住んでる人なら、厚子さんの奇行は昔からデパートとかでみてるし。
百均とかで売ってるただの黒ピンを不自然に1本頭にさして天皇をお出迎えとか
普通人でもありえん。でも、悪い人ではないよ。
美智子さんは、おとなしいタイプ、わが道を行くタイプ、・・・タイプの小姑には苛められ
なかったのが救いでは。
968日本@名無史さん:2008/08/19(火) 14:31:06
>>967
ふーん。岡山市民には浸透しちゃってるのか>厚子さん
本人の責任じゃないし、かといって両親のせいでもない。
運命だったとしか言いようがないね。

もうすぐ1000だけど、次スレは近代史板に立てないか?
スレの立て方知らんのだが(スマソ)。
貞明皇后というか先代の昭憲皇太后自身、近代の人だよ。
よろしくおながいします。
969933:2008/08/19(火) 21:56:34
>>936
貞明皇后は自分が美子皇后に選ばれたように「世継ぎ」を第一に考えていたと思う。学習院に出向いて、
良子后を選んだのも、姫達の中で一番手がごつごつしていたからだという。でも色盲事件が起きて、
他の人にしようと思ったんだろうが、久邇宮のごり押しで結婚が強行された。なかなか男児を産まなかったし、
気に入らなかったのはしょうがない。でも昭和天皇は「良子がよい」と譲らない。全力で守っているw
このへんの関係はなんか平成の皇太子と似ているね。とはいえ良子妃と誰かさんの人格は比ぶべくもないが。
970日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:10:43
厚子さんほどではないが、三女の和子さんもけっこうあれだと思う。
以前鬼女板で出ていたのだが
17 名前:可愛い奥様 :2005/07/17(日) 00:30:41 ID:rVE3YfLl
著 小澤春雄「随筆集 鷹司平通氏の面影」より
和子夫人は、鷹司氏と共に何回となくベル・クラブの催しに出席されたが、恐らく和子夫人が口をきかれた場面は一度もなかったのではなかろうか。それほどに、ただ鷹司氏の影の
ように寄り添っている夫人であった。 (中略)このあと、同じ年の十二月四日、白金の迎賓館でベル・クラブの忘年会が催された。室内には昔懐かしい赤ゲットの縁台がおかれ、まわりの模擬店は、
コモカブリの居酒屋、寿し屋、そばや、甘酒屋、あんみつ屋、しんこ細工屋といった明治調一色である。[中略]鷹司氏はコモカブリからマスにじかにうけてのむ居酒屋へしばしば立ち寄られる。
一方和子夫人は、室の中ほどの赤ゲットに座られてじっとされている。徳川夢声老が、近づいて何かの遊戯に「お入りになりませんか」としきりに洒脱な調子でおすすめしていたが、
かるく会釈されるだけで、ついにどの遊戯にも加わろうとなさらなかった。ふと気がつくと、和子夫人は寿し屋の屋台の前に遠慮がちに立っておられた。ほかに、二、三人の人が屋台の前におり、
イカ、マグロ、アナゴなど、好きな物を注文して食べていた。和子夫人に気がついた握りの職人が「何かにぎりますか」と元気よくたずねた。しかし、和子夫人はお答えにならず、そのまま立っておられる。
そのとき、鷹司氏が何気ないふうに屋台へ寄って来られた。そして、「トロ」と注文された。「ヘイ」と職人が素早く鷹司氏の前へ握りを置くと、鷹司氏はそれを和子夫人の前へ押してやられた。
始めて和子夫人の手がうごいて、それを取り上げて口にお入れになったのである。こう順を追って書くとややこしいが、それはごく自然になされ、注意していなければ気づかぬほどである。
鷹司氏のさりげない和子夫人へのいたわり、それに素直に従われる和子夫人-なにか、やさしい兄が幼い妹に接するときのような印象であった。


 
971日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:13:02
この筆者、なんかさりげなく「○○な皇女を嫁にした男」と晒しているようで嫌なんだけど、
実際こんな感じだったのだろう。夫が愛人と自殺したのち、今上一家と静岡に旅行に行くビデオも見たことがあるが
今の愛子さんの30年後を見るような感じでねただ人の後をついていく様子だった。脱線気味で済みませんが、
貞明皇后がもっと長生きしていたらいろいろなことが変わっていたと思う。
徳仁のことも厳しく躾てくれたかも。
972日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:18:59
>>969
久邇宮がごねて「この結婚が成立しなかったら、良子を
自害させて自分も死ぬ」とか言い出したんだよね。
良子女王の兄も何かと世間を騒がせた人物だったらしいし、
貞明皇后が機嫌を悪くするのも当然。でもやっぱり世継ぎを
考えると、良子女王が適していると判断したんだろう。

昭和天皇も、結婚前(というか婚約後)から良子女王を気に
入っていたらしいし…全力で守り通したのは偉いと思う。
男子がなかなか生まれなかったのは、当時の医療技術では
無理な話だよ。子供を授かるかどうか(元気に生まれるか
どうか)さえ分からなかった時代だし。書いてると何だか
今の東宮家をそのまま表しているような気がするわw 
根性がないよ、今の人。良子さんの気概だけでも見習え。
973日本@名無史さん:2008/08/19(火) 22:39:07
>>970
和子さんも、厚子さんみたいに寡黙というか何と言うか…
特に流産して以降、ふさぎこみがちだった性格がますます
悪化して、次第に旦那の心が離れていったと本で読んだ
覚えがある。和子さんの結婚式の写真には、貞明皇后も
写っているね。別スレだったか、結婚相手は和子さんまで
貞明皇后が決めたそうな。相手は五摂家という家格に
ふさわしい結婚だったけど、それは表面だけで実際は
いろいろと難しかったんだな…。

>>971
貞明皇后が今上の結婚まで生きていたら、美智子妃の
登場はなかったと思う。よって徳仁の存在もこの世に
なかったかと思われ。
974日本@名無史さん:2008/08/20(水) 00:19:16
>>973 平民との結婚はあり得なかったろうね。いや、本当の意味で皇室の繁栄を望む方だったから、意外と大英断を下したかもw

古川版「大正天皇」では貞明皇后のことは結婚や出産の年度程度しか書かれていなかったけど、
天皇だけでは失墜しまくりだったであろう皇室の威厳を保ったのは皇后だった。立派な親王を次々産んだこともどれほど
皇室の権威を高めるのに役立ったことか。入内した時は、現代で言えばまだ高校一年。
おてんばだった女の子が、宮中に入り、厳しいしきたりに慣れる間もなく、すぐ妊娠。さぞ心細かったろう。
実際、夫婦としてまともに会話が出来、夫が頼りになっていた時間は何年位だったのかな…
975日本@名無史さん:2008/08/20(水) 00:33:08
大正天皇は(まだ皇太子時代だったかな?)節子妃の姿が
見えないと、大きな声で名前を呼んで探していたそうな。
家庭を持って、精神的にようやく落ち着くことが出来た
んだろう。二人とも庶子だから、互いに補完し合い、
信頼し合って一夫一婦制の礎を築いていったんだと思う。
結婚生活は決して長くはなかったけど、幸せだったと
思いたい。貞明皇后は大正天皇崩御後、毎日欠かさず
大正天皇の遺影に向かって話しかけていたらしいしね。
976日本@名無史さん:2008/08/20(水) 01:51:21
「4皇子を産んだ」ことで貞明皇后は賞賛されてるけど、
「産ませた」大正天皇がほとんど評価されてないのは何で?
まるで貞明皇后一人の手柄みたいな言い方されてるよね。
いくら貞明皇后が健康でも、大正天皇の力がなきゃあり得なかったのに。
もっとその功績を称えられてもいいと思うけどな。
977日本@名無史さん:2008/08/20(水) 02:06:53
>>975 節子皇后の立派なところは、あくまでも夫をたてていたことだと思う。もしかするとまわりで
天皇を敬っていたのは彼女だけだったかも知れない。昭和天皇も周囲から明治天皇のようにんることを期待される余り、
父のことを軽んじていた雰囲気があるんだよね。

>>976 そうだね。しかしなぜ彼はあの病弱な体で次々と男児を産ませることが出来たのだろう。
古川版で「悲運」と評価されてしまっているとけれど、子供に恵まれたたのだから
決して不幸ではなかったと思う。その本は節子妃と昭憲さんを混同しているくらいだからあれだけど。
978日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:44:54
厚子さんについて質問した者です
皆さんありがとうございます!
すごく詳しいね
ところで和子さんも・・・なの?レス読んでるとなんか和子さんの場合は精神的に追いつめられたのかなと感じる。なんとなくだけど。
和子さんが晩年の頃、強盗が押し寄せて和子さんが強盗に立ち向かったとどこかで読んだ記憶があるのですが。
夫君と愛人のこともあるし気の毒だ。
979日本@名無史さん:2008/08/20(水) 08:59:11
>>962 トモさん家の女王お二人は素敵な女性になられたと思います。
彬子さまはご優秀で学業に励まれてるし、ようこさまは働きながら公務もしっかり務めてらっしゃる。ようこさまの発言は正直で好感が持てます。
それに引き換え雅子夫人や久子さんやつぐちゃんときたら…
両陛下や秋篠宮家、常陸宮家など真撃に務められる方には自然と頭が下がるのになぁ。
貞明さま嘆いているんではなかろうか。
980日本@名無史さん:2008/08/20(水) 10:50:56
>>978
強盗は留守宅らしいよ。留守宅なのに強盗というのは、お手伝いさんがいたからかな。
知的にどの程度だったかはわからないが、ものすごく内向的であったことは確かだろうね。
良子皇后の子供7人の内、まったくまともといえるのは長女、長男、五女の3人か。
その長女も若死にだし。それでも肝心の長男が正常なのは強運と言うべきか。
981日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:07:02
>>978 ごめん 資料によって留守とか、本人が立ち向かったとか、お手伝いさんが立ち向かったとか
違うようだ。それで皇居内に特別に住んだんだよね。鷹司さんも池田さんも本当は結婚生活など無理で
御所にいた方が幸せだということはわかっていたんだろうけど、それでも適齢期になるとさっさと嫁に出された。
おそらく家格と実力兼ね備える名家の男は皆逃げてた結果、凋落気味の旧華族に頼み込んだのだろう。
昭和天皇夫妻もそうはしたくなかったろうが、私情に流されずに筋を通したのだと思う。
982日本@名無史さん:2008/08/20(水) 11:39:54
>>980 え?え?
火星ちゃんも・・なんですか?
学者として世界に名を馳せる凄いお方じゃないの?
厚子さんや和子さんのような姫様は、和宮の異母姉で桂宮を継いだ方のように皇室に残る手段はなかったのでしょうかね?
度々質問ばかりで本当申し訳ないんですが、こちら詳しい方々多いようなので。
983日本@名無史さん:2008/08/20(水) 12:24:19
火星ちゃんは知的に問題なくても、普通に他人と会話できるタイプではないんじゃないのかな。
天皇の弟なのになにか自分の言葉で喋っている映像を見たことがないし、マスコミへの露出が少ないよね。
アスペなのか?そういうば大正天皇の「御脳」についても、本を読んでもよく分からない。
御脳の問題と言っても、知的障害、精神障害、脳神経の病気といろいろあるけど、後年は脳神経の病気
だったのかな。パーキンソンみたいな症状だよね。
984日本@名無史さん:2008/08/20(水) 13:33:28
火星ちゃんは、父に似て学究肌の人物だと聞いたが。
ただ小児麻痺の影響か子供が出来ない体で、華子さまは
それを承知の上で結婚されたと聞いたけど…。常陸宮家も
一代で途絶えてしまうのかあ。ゆうちゃんが成人した頃
には、ほとんどの宮家は絶家してるんじゃないの?
皇室典範を改正しないかぎりは…。
985日本@名無史さん:2008/08/20(水) 15:56:55
>>982

やっぱり皇室典範そのものが、天皇家の現状にフィットしていない
のが問題だと思う。法律ではなく「典範」だから、簡単に改正でき
ないのが最大の難点。明治以前の皇室だったら、和子さんや厚子さん
のような皇女に対して、尼になるなり、桂宮淑子内親王(和宮の異母姉)
みたいにどこかの宮家を相続させたりして、彼女達が不幸な思いを
したりメディアにさらけ出されるような事態にはならなかったはず。

ゆうちゃんが生まれて皇位継承問題は何とか回避できたけど、女帝
問題についても何らかの対策がとられていただろう(ただし「女系
天皇」となると別問題になるが)。良い意味での柔軟性がないんだな、
典範には。条文を解釈しようにも法律じゃないから、条文そのものを
適用せざるを得ない。法学部出身じゃないのであくまでも私観だけど、
内親王や女王がいる限り、第二の和子さん・厚子さんが生まれる可能性
は少なくない。晩婚でもいいし皇族のまま一生を過ごしてもいいから、
彼女達が不幸な人生を送らずに済むような皇室制度であって欲しいよ。
986日本@名無史さん:2008/08/20(水) 17:15:28
>>983
宮内庁のHPに、火星ちゃん70歳オメデトウの会見内容が
載ってるよ。ハナちゃんとのツーショット写真もある。

文章を読む限りでは、ご本人もおっしゃっているが、幼少の
頃は病気がちだったけど、ハナちゃんと夫婦喧嘩するくらい
だから、天皇皇后の陰に隠れてるだけで、ごく普通の人では
ないのかな?地味というかおとなしい性格なんだと思うけど…。
987日本@名無史さん:2008/08/20(水) 18:30:31
でもさその会見ていつも代表質問で、音声なしじゃん。秋篠宮と紀子さんの会見は
動画も放送されるけど。今はともかく、昭和時代は常陸宮が秋篠宮と同じ立場だったのに。
ヒゲや高円だって普通に喋っている映像見たけどさ。まあ台本通りにスピーチ読んだりする映像は
出ているし、もちろん知的には問題ないんだろうけどね。

>ハナちゃんと夫婦喧嘩するくらいだから、

逆だと思う。問3の妃殿下の答えを読むと、鷹司夫妻のようなイメージが沸く。
988日本@名無史さん:2008/08/20(水) 22:31:00
漏れは昭和50年代前半の生まれなんで、常陸宮夫妻が
どの位クローズアップされていたのか知らないんだが、
秋篠宮夫妻のような記者会見は当時なかったのか?
秋篠宮夫妻は毎年旦那の誕生日に合わせてニュースで
取り上げられているけど、火星ちゃんの誕生日には
メディアは動いてなかったのか?昭和天皇と美智子
妃の存在が大きくて隠れたポジションにいたのかな?

>ハナちゃんと夫婦喧嘩するくらいだから、

何が原因だったのかな?常陸宮夫妻は「地味な旦那」
「派手ではないけど注目されがちな嫁」という印象が
漏れの中にあるんだが。カカア天下なのかな?
989日本@名無史さん:2008/08/21(木) 02:22:33
>>988
>常陸宮夫妻は「地味な旦那」 「派手ではないけど注目されがちな嫁」という印象が
>漏れの中にあるんだが。カカア天下なのかな?

しっかり者の妻に、おっとりボンボンの夫が頼りながらも、仲良く手をつないでいる
感じだね。
昭和天皇の第2親王だけれど、子供がいなかったから、マスコミもそんなに動かなかった
のではないかと。
990日本@名無史さん:2008/08/21(木) 05:21:35
美人の華子妃殿下も最近笑わないおばさんになったね。
991日本@名無史さん:2008/08/21(木) 12:14:18
一般世間では、あの一族と付き合うと呪われるからよしなさいって
言われるぐらいのレベルだね、天皇家って。
近親婚が続いたせいだろね。民間から配偶者もらわないと大変な
ことになるわ。
992日本@名無史さん:2008/08/21(木) 12:43:44
>>989
表現がイイ!!そうそう、そんな感じ。
子供に恵まれなかったのがとても残念だよ。
貴重な宮家なのに…火星ちゃんの病気(の後遺症)
ってそんなに重かったのか。華子さまも結婚の話が
持ち上がった際、素直に「ハイ」とは言えなかった
だろうね。津軽家内で随分話し込んだことだろう。

でも、おしどり夫婦ぶりはマコオタでの写真にも
多く見られるし(火星ちゃんに萌え)、華子さまも
いつもおしとやかで、かつ夫の三歩後ろを歩いて
いる感じでとても好印象の夫婦だ。もっとマスコミに
取り上げて欲しいなあ。
993日本@名無史さん:2008/08/21(木) 15:56:24
ところで和子さんや厚子さんの姑の鷹司綏子さんや津軽冨貴子さんは嫁のことをどう思っていたんだろう?
994日本@名無史さん:2008/08/21(木) 16:28:55
>>992
あら、あの方は
「宮さまのお世話は華がいたします」
とおっしゃって、嫁がれたのでしょう?
素直に「ハイ」とは確かに違いますが・・・
やはり皇族の藩屏たる華族の方は
お覚悟が違う、と思いましたよ。
995992:2008/08/21(木) 16:39:30
書いていた思い出したんだが、火星ちゃんの研究室で
お見合いをして、半年くらい経ってからゴールインした
だったけな>華子さま

旧華族、学習院出身ということで、常磐会からの反対の
声もなく、スムーズに事が運んだことを思い出した。
美智子さんが平民出身だったから、火星ちゃんのお妃は
ぜひ旧華族から!というムードがムンムンだったんだよね。
一度のお見合いで決まった結婚だったけど、他にお妃候補
っていなかったの?
996993:2008/08/21(木) 16:57:17
津軽冨貴子→池田冨貴子

津軽は旧姓。
997日本@名無史さん:2008/08/21(木) 17:57:24
貴様ら節子スレを・・・

以前あったあるスレの書き込み。
スキーに常陸宮夫妻が行ったとき、火星はモタモタ準備していた。
で、それをのこして運動神経のいい華子妃殿下はさっさと滑り降りていったらしい。
998日本@名無史さん:2008/08/21(木) 22:51:05
 
999日本@名無史さん:2008/08/21(木) 22:53:01
和泉節子・・・?
1000日本@名無史さん:2008/08/21(木) 22:54:59
 
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