952 :
949:2006/11/02(木) 21:09:07
>>951 弘仁期には、新羅人の帰化や沿岸襲撃騒動が頻発してるよ。
まあそれこそ「新撰姓氏録」編纂と同時期のことなので、「帰化」とするにはやや落ち着かないか、
という程度の意味で「移住」と書いたがね。
「東国」てのは、元慶の乱と混同したかもしれんね。
953 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 08:59:45
新撰姓氏録はでじを偽る物が多数いてたので造った
954 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 10:07:21
この糞スレ、まだ続いているのか?
嵯峨源氏
52代嵯峨天皇の子孫。嵯峨天皇は多くの皇子皇女に源氏姓を賜り臣籍降下させた。
源氏初代となる源信(みなもとの・まこと)、源常(-ときわ)、源弘(-ひろむ)
、源融(-とおる)などで、朝廷の一大勢力をなした。中でも左大臣に上った源融の
子孫は嵯峨源氏融流として最も有名で、源融は、紫式部『源氏物語』の主人公の
光源氏の実在モデルともされる人物。
仁明源氏
54代仁明天皇の子孫。清和源氏の源満仲の妻の父であり、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)
の養父の源敦が知られる。
957 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 13:48:58
清和源氏
56代清和天皇の子孫。もっとも栄えたのは第六皇子・貞純親王の子・六孫王経基の子孫。
経基の嫡男の源満仲は、摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)に源氏武士団の本拠地を形成。
満仲の子は、嫡男の源頼光が摂津源氏(現・兵庫県川西市多田)、次男の源頼親が大和源氏
(現・奈良県宇野)、三男の源頼信が河内源氏(現・大阪府羽曳野市壺井)となり、いずれ
も畿内(関西)を本拠地とする。清和源氏の嫡流は、源頼光の摂津源氏であり京を活動の主舞台
とし、天皇を警護する大内守護の任を相続した。
陽成源氏
57代陽成天皇の子孫。清和源氏の源満仲は実は陽成源氏の出自であったとする説がある。
詳細は貞純親王の項を見よ。
宇多源氏
59代宇多天皇の子孫。源雅信(左大臣)は藤原道長の舅になり、その子孫から庭田家
・綾小路家・大原家・五辻家・慈光寺家の5堂上家を出した他、近江に土着した
佐々木氏は別名、近江源氏あるいは佐佐木源氏ともいい武家として繁栄した。
醍醐源氏
60代醍醐天皇の子孫。醍醐天皇の第十皇子・源高明(たかあきら)が左大臣にのぼったが
藤原氏と対立し追放された。源高明は有職故実に深く通じ、その著『西宮記』は平安時代
以降、朝廷の公事典礼の典型となる。織田信長の家臣河尻秀隆の家は源高明の子孫、
醍醐源氏を称する。なお、源高明の昇進・配流などの経歴が『源氏物語』の主人公・
光源氏に酷似しているため、源高明こそが光源氏のモデルとする説もあり。 この他、
醍醐天皇の第一皇子・克明親王の子・源博雅も醍醐源氏。
村上源氏
62代村上天皇の子孫。源氏長者の一族。天皇の子・具平親王の娘源隆姫が藤原頼通の
正室となり、親王の死後には息子の源師房(資定王)も義兄・頼通の養子として育て
られる。師房は頼通の父・藤原道長からも愛されてその娘婿となり、最後は右大臣に
まで昇った。以後も村上源氏と摂関家の協力関係は続き、多くの堂上家を輩出する。
鎌倉時代初頭の土御門通親は「飛将軍」と呼ばれるほどの実力者でその子供たちは堀川
・久我・土御門・中院の四家に分立した(ちなみに僧侶になった末子が後の道元である)
南北朝時代に活躍する北畠親房や北畠顕家は中院家の庶流である。また赤松則村(円心)
の赤松氏は、村上源氏季房流と称した。明治維新で活躍した岩倉具視もこの流れである。
花山源氏
65代花山天皇の子孫。堂上家の白川伯王家となり、神祇伯を世襲して神道を統括した。
後白河源氏
77代後白河天皇の第二皇子・以仁王(高倉宮)。以仁王は異母弟・高倉天皇が平氏の
母より生まれたため、皇子でありながら平家の影響によって親王宣下がなされず、つ
いに治承4年(1180年)に平家の専横に反発して源頼政とともに挙兵するが、敗死。
そのため皇族殺害の汚名をおそれた平清盛の計らいにより、源姓を賜与されて名も
「源以光」と改められ、まだ生存していて流罪となったとされる。だが、そのため
「以仁王の令旨」は、まだ本人が生存しているので有効との見方がなされ、諸国の
源氏に平家打倒の口実を与える結果となる。
後嵯峨源氏
88代後嵯峨天皇の孫・源惟康。後嵯峨天皇の第二皇子宗尊親王が鎌倉将軍(6代将軍)
を退いた後、その一男で7代将軍に就任した惟康王に対し、源姓が賜与されて「源惟康」
となる。ただし、その後鎌倉幕府が惟康を京へ追放し、代わりに久明親王を将軍に迎える
ため、その下準備として幕府の要請により朝廷より惟康に対して親王宣下がなされ、
惟康は皇族に復帰。すなわち「後嵯峨源氏」は惟康一代で終わる。
正親町源氏
106代正親町天皇の子孫。堂上家となり、広幡家を称す。
文徳源氏..光孝源氏..三条源氏..後三条源氏..順徳源氏..後深草源氏
堂上源氏 数多くの源氏の中でも、昇殿を許された源氏の家は、堂上源氏と呼ばれた。
以下の18家。
村上源氏 - 10家 - 久我家、中院家、六条家、岩倉家、千種家、久世家、東久世家、
梅渓家、愛宕家、植松家
宇多源氏 - 5家 - 庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家
花山源氏 - 1家 - 白川家
正親町源氏 - 1家 - 広幡家
清和源氏 - 1家 - 竹内家
嵯峨源氏
52代嵯峨天皇の子孫。嵯峨天皇は多くの皇子皇女に源氏姓を賜り臣籍降下させた。
源氏初代となる源信(みなもとの・まこと)、源常(-ときわ)、源弘(-ひろむ)
、源融(-とおる)などで、朝廷の一大勢力をなした。中でも左大臣に上った源融の
子孫は嵯峨源氏融流として最も有名で、源融は、紫式部『源氏物語』の主人公の
光源氏の実在モデルともされる人物。
仁明源氏
54代仁明天皇の子孫。清和源氏の源満仲の妻の父であり、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)
の養父の源敦が知られる。
970
975
976
うめ
埋め
982
983
984
985
986
埋め
立て
嵯峨源氏
52代嵯峨天皇の子孫。嵯峨天皇は多くの皇子皇女に源氏姓を賜り臣籍降下させた。
源氏初代となる源信(みなもとの・まこと)、源常(-ときわ)、源弘(-ひろむ)
、源融(-とおる)などで、朝廷の一大勢力をなした。中でも左大臣に上った源融の
子孫は嵯峨源氏融流として最も有名で、源融は、紫式部『源氏物語』の主人公の
光源氏の実在モデルともされる人物。
仁明源氏
54代仁明天皇の子孫。清和源氏の源満仲の妻の父であり、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)
の養父の源敦が知られる。
清和源氏
56代清和天皇の子孫。もっとも栄えたのは第六皇子・貞純親王の子・六孫王経基の子孫。
経基の嫡男の源満仲は、摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)に源氏武士団の本拠地を形成。
満仲の子は、嫡男の源頼光が摂津源氏(現・兵庫県川西市多田)、次男の源頼親が大和源氏
(現・奈良県宇野)、三男の源頼信が河内源氏(現・大阪府羽曳野市壺井)となり、いずれ
も畿内(関西)を本拠地とする。清和源氏の嫡流は、源頼光の摂津源氏であり京を活動の主舞台
とし、天皇を警護する大内守護の任を相続した。
陽成源氏
57代陽成天皇の子孫。清和源氏の源満仲は実は陽成源氏の出自であったとする説がある。
詳細は貞純親王の項を見よ。
宇多源氏
59代宇多天皇の子孫。源雅信(左大臣)は藤原道長の舅になり、その子孫から庭田家
・綾小路家・大原家・五辻家・慈光寺家の5堂上家を出した他、近江に土着した
佐々木氏は別名、近江源氏あるいは佐佐木源氏ともいい武家として繁栄した。
醍醐源氏
60代醍醐天皇の子孫。醍醐天皇の第十皇子・源高明(たかあきら)が左大臣にのぼったが
藤原氏と対立し追放された。源高明は有職故実に深く通じ、その著『西宮記』は平安時代
以降、朝廷の公事典礼の典型となる。織田信長の家臣河尻秀隆の家は源高明の子孫、
醍醐源氏を称する。なお、源高明の昇進・配流などの経歴が『源氏物語』の主人公・
光源氏に酷似しているため、源高明こそが光源氏のモデルとする説もあり。 この他、
醍醐天皇の第一皇子・克明親王の子・源博雅も醍醐源氏。
村上源氏
62代村上天皇の子孫。源氏長者の一族。天皇の子・具平親王の娘源隆姫が藤原頼通の
正室となり、親王の死後には息子の源師房(資定王)も義兄・頼通の養子として育て
られる。師房は頼通の父・藤原道長からも愛されてその娘婿となり、最後は右大臣に
まで昇った。以後も村上源氏と摂関家の協力関係は続き、多くの堂上家を輩出する。
鎌倉時代初頭の土御門通親は「飛将軍」と呼ばれるほどの実力者でその子供たちは堀川
・久我・土御門・中院の四家に分立した(ちなみに僧侶になった末子が後の道元である)
南北朝時代に活躍する北畠親房や北畠顕家は中院家の庶流である。また赤松則村(円心)
の赤松氏は、村上源氏季房流と称した。明治維新で活躍した岩倉具視もこの流れである。
花山源氏
65代花山天皇の子孫。堂上家の白川伯王家となり、神祇伯を世襲して神道を統括した。
後白河源氏
77代後白河天皇の第二皇子・以仁王(高倉宮)。以仁王は異母弟・高倉天皇が平氏の
母より生まれたため、皇子でありながら平家の影響によって親王宣下がなされず、つ
いに治承4年(1180年)に平家の専横に反発して源頼政とともに挙兵するが、敗死。
そのため皇族殺害の汚名をおそれた平清盛の計らいにより、源姓を賜与されて名も
「源以光」と改められ、まだ生存していて流罪となったとされる。だが、そのため
「以仁王の令旨」は、まだ本人が生存しているので有効との見方がなされ、諸国の
源氏に平家打倒の口実を与える結果となる。
後嵯峨源氏
88代後嵯峨天皇の孫・源惟康。後嵯峨天皇の第二皇子宗尊親王が鎌倉将軍(6代将軍)
を退いた後、その一男で7代将軍に就任した惟康王に対し、源姓が賜与されて「源惟康」
となる。ただし、その後鎌倉幕府が惟康を京へ追放し、代わりに久明親王を将軍に迎える
ため、その下準備として幕府の要請により朝廷より惟康に対して親王宣下がなされ、
惟康は皇族に復帰。すなわち「後嵯峨源氏」は惟康一代で終わる
正親町源氏
106代正親町天皇の子孫。堂上家となり、広幡家を称す。
文徳源氏..光孝源氏..三条源氏..後三条源氏..順徳源氏..後深草源氏
堂上源氏 数多くの源氏の中でも、昇殿を許された源氏の家は、堂上源氏と呼ばれた。
以下の18家。
村上源氏 - 10家 - 久我家、中院家、六条家、岩倉家、千種家、久世家、東久世家、
梅渓家、愛宕家、植松家
宇多源氏 - 5家 - 庭田家、綾小路家、五辻家、大原家、慈光寺家
花山源氏 - 1家 - 白川家
正親町源氏 - 1家 - 広幡家
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