てんてん手まりのてんてまり。
てんてん手鞠の手がそれて
秀次自身の実績・力量より地位だろ。なんたって関白だし
実績があったからこその地位かと。
ほかの親族はたいした地位をもらっていませんからね。
秀長が一番血の濃い親族(兄弟)だったのも確かだが。
352 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 19:02:06
age
>>338 くやしくて、くやしくて仕方がない?
分かりました、ならばこう叫びなさい。
謝 罪 と 賠 償 を 要 求 し る
あ い つ の せ い だ あ い つ が 悪 い あ い つ を 殺 せ
謝 罪 と 賠 償 を 要 求 し る
あげ
356 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 09:31:44
age
357 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 15:42:48
秀吉は中国皇帝として全アジアを支配に置き、秀長を日本国王としたかった。
秀次は長久手の失敗が痛すぎるわな。
>>338 >秀長にしても「蓄財魔」との悪評があり
秀長が金を貯めていたのは
領土内の不平不満を持っている寺社や豪族どもを金で慰撫するためとか、
金に困ってる大名に貸し与えたり大名間の調整のために使ってたわけで、
秀長自身の私利私欲のために使ってたわけじゃないだろ。
蓄財魔=倹約家で悪いことではない。
361 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 18:58:01
蓄財魔と悪評判だった大名
徳川家康 黒田如水 羽柴秀長
大仕事した奴ばっか、イザと言う時に蓄えておくのは武士の心得なのである。
おおっと、そこに伊勢宗瑞も加えて貰おうか。
363 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 02:19:49
それで大和も平和になったんだからいいんじゃね
というか他の大名は金をためてなかったのか?
普通の大名なら貯めるでしょ
馬鹿な大名は奢侈のめに浪費したり考えもせずに恩賞などを与えまくって財政破綻
366 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 21:24:23
死因は何だったの?
お墓は?
結核じゃないか。
368 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 09:38:47
369 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 18:11:29
少なくとも、秀長が秀吉より長生きしてれば秀吉が臨終の時に
家康に「息子を頼む」なんてことは言わずにすんだだろう・・・
秀長が生きてる内は、豊臣子飼いの大名たちも分裂することはなかったのでは?
そりゃそうだよ。
371 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:31:14
>>371 それが秀長クオリティ
まあ、地味な補佐役を地で行った人だからね
家康vs秀長+(秀次+秀家+秀康)の関が原を見てみたい。
これじゃあ家康挙兵する気も起こらないだろうけど。
秀次、近江八幡の治世を見るとそれほど凡庸ではなさそうだし。
若年で血気にはやった小牧長久手以外はそこそこそつなくこなしている感じ。
374 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:23:59
それでもダメな奴はダメ
375 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:24:03
その時歴史が…にもあったように、秀吉の弟・秀長思いのエピソードは、胸にくるものが
あった。思うに、秀長がいきていれば、と言うよりも、二人が仲良く協力している時期が
長ければ、家康の付入る隙は無かったというのが正解ではないか、と思います。
やはり、天下を取る器は秀吉、舵取りで暴走を防ぐのが秀長、秀吉が出陣する秀長の兜の
内側に秀長加護の札をつけてやる・・・この兄弟愛があればこそ、天下人にまで届く強運
と、当時の日本人の後押しがあったんじゃないかと、思います。黄金の兄弟とでも言うべき
か…。それが、ひとり秀吉が、肉親を失って、暴君になった時点で、家康ならずとも、"次"
を狙いうる存在が、出てきたんだといえるのだと思われるのですが。
376 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 23:48:30
秀吉と秀長、種は違えど畑は同じ
377 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:00:13
大政所の再婚時期と秀長の出生時期から秀吉四人兄妹は共に同父というのが新説。
この兄弟の個人的な武名は、さほど高くないようだが、使い捨てにされる士卒
時代に乱戦を戦った経験が多々あるので、決して弱かったわけでもないんだ
ろうな。
武士としての強さがないと誰も付いてこないだろうし。
379 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:48:30
武芸は、むしろ劣るくらいだったろう。武士でなかったのだから。
まあ、ここでいう武士も、江戸時代のように明確でないし、父親は鉄砲足軽といい、
半士半農といえたろうから、ある程度の戦の訓練は受けていただろう。
しかし、この兄弟は実質、事実上、農業に従事していたろう(秀吉は違うか?)から、
ほぼ全く武芸の心得は無かっただろう。
が、秀吉の進軍の神懸り的速さ等、武将としての、所謂、軍事能力はやはり
相当、秀でていたろう。それを認めているからこそ、家康も従わざるを得なかった。
それをサポート出来たんだから、秀長の将器も大した物だろう。
ただし、家康などのように、実際、刀を振るう能力のある武士ではなかったろう。
秀長で言えば、、それを先頭で代行してくれる家臣が、藤堂高虎だったのであろう。
380 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:50:00
>>338 >賎ヶ岳や根白坂における采配を秀吉から罵倒されたという話だってあります。
しかし、賎ヶ岳 においては、家臣たちの前で、わざと兄に罵倒させたという話もあります。
弟でさえ叱り付ける所を見せつけ、中川清秀の死に対する秀吉への反感、動揺を防ぐために。
そういう、もし逸話にしても、この手の話が残ると言うのは、秀次と違う点であり、やはり器
の大きな武将と言えましょう。
381 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:00:39
重盛みたいな性格だと思う
朝鮮出兵反対
秀次切腹
千利休切腹
という自滅の素は秀長の反対で彼の存命中出来なかったから
上の3つは全て秀吉が秀長死後死後行った
382 :
381:2006/11/30(木) 19:00:56
訂正 × 朝鮮出兵反対
○ 朝鮮出兵
× 秀長死後死後
○ 秀長死後
383 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:00:58
秀勝や秀保の暗殺疑惑は、充分あると思う。
が、鶴松病死と秀次の関白叙任の間じゃなかった?秀長の発病から死去は。
すると、秀頼の為の、強引な粛清はまだ開始されていないので、秀長暗殺
は無いでしょう。実際、秀吉は頼りにしてたようだし。
384 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 17:30:53
秀長は秀保を養子にしてたんじゃなかったっけ?
385 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 09:02:54
>>378 行軍スピードが、神業だったり。
そうすると、馬に乗りこなす運動神経なんかは、並大抵じゃない。
もちろん、武家に生まれて、成長過程で、叩き込まれたものではない。
剣術は、史実のとおり、不得手だったでしょう。つまり、さむらいとして、
刀や槍を扱うは、不得手だが、軍馬を率いての将としての器は、抜きん出て
いた。そう言えるのでは?
馬を操り、軍を差配する能力、いくさの戦略に優れていた。そうでなくては、
小牧・長久手のときの家康との睨み合いは成立しない。
百姓出身で、どうして?という疑問がおこる。普通はこうなる、という答え
は、同じ小牧・長久手の戦いで、甥の秀次が、身をもって示してもいる。そ
のギャップも面白い。ところで、この時、秀長は、どうしてたんだろう?
必死に救援にあたってもおかしくないのだが。
やはり、三河武士の勢いは、止められなかったんだろうか?
いずれにしても、出自の卑しい彼らが、どうしてそうなれたのか、そこが最も魅力
的な所じゃないでしょうか?
386 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:13:13
>>378 信長や家康だって槍働きでは有名でないんでねえか。
むしろ護衛のいる殿さんよりこの兄弟の方が凄いよな、
卑怯に逃げてて生きてるなら誰もついてこんし、信長の目にもとまらないhazu
三河武士の勢いて、別に攻めて来た訳じゃないからなあ、
中入りの禁忌を犯した池田が亜ボーンしただけだし。
家康かて信玄あいてに喧嘩売ってうんこ垂れたりとガッツのあるとこ見せてまんがな
389 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 19:11:59
ここで秀秋が登場ですよ。
思えば、信長の五男だった秀勝が生きていれば、まったく歴史は変わっただろうな。
しかし肉親死にすぎ。>豊臣家
391 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 14:58:20
子孫は細々と生きてます
>>385 小牧・長久手の頃は、秀長は伊勢を平定中で織田信雄を追い詰めていたところ。
394 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:54:36
>>385 近年の研究では、「秀吉の出自は武士階級」ということになっている。
395 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:01:27
講談社日本の歴史15で、
元々父弥右衛門は尾張の百姓で信秀に足軽として仕えたが負傷して帰村した。
とあるのは間違いか?
396 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:59:43
小一郎さん萌え
>>385 小牧・長久手の時の秀長は紀伊攻めの総司令官。
雑賀や根来の残党をつぶして家泰の同盟者を消し、
同時に本拠・京大坂の安全を確保した。
秀長が小牧長久手に来ていれば、第二軍団の指揮は
戦術レベルで何の不安もなかっただろうけど、
紀伊を押さえることは戦略レベルで必要だった。
実際、家康が屈服したのは、こうした戦略レベルで
味方になる勢力がつぶされていったから。