1 :
m:
彼が長生きで日本は変わった。
2 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:15:40
2
3 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:45:59
秀長・秀次・利家のいずれかが長生きだったらね。
4 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:47:35
あるいは北政所がテキトーな時期に亡くなってても
随分違ったろうね。
5 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 05:51:49
6 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 05:58:23
秀長が生きてたら、家康も行動を起こせなかっただろうな。
7 :
m:2005/08/02(火) 16:38:31
家康は秀長と対立すれば、関ヶ原みたいに味方をつけられなかった
だろう。加藤清正あたりの武将は秀長に付くだろうし、北政所のバックも
ついてかなりの組織になったはず。
秀長は「けち」で有名だったから、それほど人望があったとも思えんが、家康も「けち」だったから似たもの同士か、、、
9 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:18:40
秀長が長生きしていたら・・・
秀吉の死後、北政所とタッグを組んで、淀殿と三成を引退に追い込む。
天下は家康に譲る。
秀頼は国持大名のひとりとして幕末まで安穏に存続できるようにとりはからう。
大和は譜代大名の誰かに譲って自分は田舎に移る。
そんなところじゃない?
10 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 23:58:59
家康が大坂で秀吉に頭を下げたが、家康の中では自分を説き伏せた秀長に対し頭を下げる、
という認識だったのでは?
11 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 01:15:41
13 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 19:37:49
△
(´・ω・`)
朝鮮出兵もなかったかも
15 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 22:41:04
>>9 政所が石女なのがイタくないか?
それとも秀頼は拉致するの?
16 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 12:32:19
>>8 兄貴が浪費家だから「ケチ」に徹するしかなかった、というのが真実だろうね。
家康は「ケチ」で「陰湿」ってのは本性だと思うけど・・・
何と言っても、家康は大久保利通の憧れの人だからね。
17 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 01:30:11
人気ないのか全然伸びないな
18 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 21:39:44
秀吉が太陽なら秀長は月だからな
影はやっぱり地味
19 :
日本@名無史さん:2005/11/09(水) 23:57:40
秀長なら天下は家康に譲り、家を守っただろうな。
秀長と家康には何か通じるモノがある
保守
21 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 23:27:33
ぶぅぶぅ・・・・・
22 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 23:53:00
秀長が長生きしていたら・・・
秀吉の死後、北政所とタッグを組んで、淀殿と三成を引退に追い込む。
天下は家康に譲る。
秀頼は国持大名のひとりとして幕末まで安穏に存続できるようにとりはからう。
大和は譜代大名の誰かに譲って自分は田舎に移る。
そんなところじゃない?
23 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 14:10:37
age
秀頼生まれる前に死んだんだっけ。
秀長は淀殿とは仲良かったの?
というか、この人は「生きてさえいれば」格的にも実績的にも家康以上だからな。
何気に豊臣政権下〜関ヶ原直前まで、
日本には10万単位の混合軍を指揮して勝利した武将って秀吉以外には彼しかいない。
(家康が小牧長久手で指揮した兵力は2万以下)
関ヶ原のような大軍烏合の衆の指揮実績はケタ違い
(家康も関ヶ原はあたふたしていた)だから
借りに五分五分の条件でも秀長なら勝つだろうね。
それ以前にこのひとは「生きてさえいれば」豊臣家の八割方の支持を
無条件で集められる存在だし。
26 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 16:44:08
人間、死ぬということほどに無能力になることはない、
というなんかの小説の一説を思い出した。
28 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 20:58:06
堺屋太一の豊臣秀長っておもろいんスか?
29 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 21:59:08
28 :日本@名無史さん :2006/01/26(木) 20:58:06
堺屋太一の豊臣秀長っておもろいんスか?
上下巻あるけど面白かったよ〜
30 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 00:05:40
31 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 09:28:02
堺屋太一の結構面白いな。蒲生氏郷も面白かった。
32 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:57:33
内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長)
33 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 19:25:02
宗易も秀長の執り成しで生きながらえていたしね
いい加減秀吉も疎ましく感じていたが秀長が擁護するから我慢してたが
秀長死んだ途端に腹切らせた
豊臣政権では杖とも柱とも頼む存在だったんだろうな。
この人が生きていれば、五奉行はその直属であって、
奉行制度=中央政権化=豊臣政権の主体、というのに
誰も文句付けることができなかったと思う。
穏当派ではあるけど、秀長はけっこう中央集権主義者。
健康でさえあれば、朝鮮出兵の代わりに
対徳川戦も辞さなかったかもしれない。
35 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 05:09:09
せめて秀保以外にも跡取り候補の養子を迎えて、秀長・秀保亡き後も大和豊臣家を存続出来てれば
秀頼の強力な後ろ盾になったかもしれないのにな。
この場合、藤堂高虎が豊臣方に残る訳だし。
36 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 09:44:24
>>25 家康の本領は、自分の思うように操れる徳川軍10万弱を持っていた事。
混成軍で関ヶ原を勝ったから自身の損失が少なかったことや、
豊臣を完全に潰せたことで、江戸時代の安定性が得られた。
秀長が生きて、豊臣が残った場合、
1.それでも徳川が政権を執る。
2.豊臣が政権を執る、の主に2つの可能性があると思う。
豊臣の残った徳川幕府なんて、早いうちに崩壊したかもしれんよね。
→日本人は今より不幸になってたかも。
豊臣の残った場合でも徳川が不安定要素になる。
関西政権にとっては、関東は常に潜在的な不安定要素だから、
仮に徳川が滅んでいても大阪中心の豊臣では不安定になっただろうね。
さらに、徳川が豊臣の商業システムを維持しつつ、重農政策を行ったのにたいして、
元来、直轄領の少ない豊臣は、重商政策を押し進めるしかないから、
最終的に、日本が植民地にされるか、あるいは、早期から植民地を得たか、
そのどちらかになる気がする。
どちらにしても、豊臣の政策の場合、
国内国外の日本人人口は爆発して行った可能性が高いよね。
37 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 11:06:26
豊臣政権が継続していたら、海外交流を積極的に行っただろうから、
もしかしたら欧米列強と同じくらいのスピードで産業革命を起こし、
アジア支配権を握っていたかもしれん。もっとも、今の日本人とは
全く違った気質をもった人種に俺たちはなっていただろうが。
「へうげもの」って漫画に出てくる秀長が一番イメージに合ってる気がする
39 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 20:00:12
どうしてこうも秀長の消息が不明なところが多いのだろうか。
不思議でならない。
>>36 関ヶ原の時点においては家康は「自分が思うように操れる」兵力は10万もない。
7万強で、しかも家康がこの全軍を動員するのははじめての経験。
福島正則の顔色を伺い続けたことでもわかるように、
「自分の家来」として動かせたわけではなく、
家康はむしろ大軍、混成部隊の動かし方を関ヶ原で学び、
大坂の陣ではじめて効果的に運用したといっていい。
家康の勝因は、そんな状態の彼でさえ、この時期に
その経歴・威厳・経験を上回る人間がまったくいない第一人者であったこと。
これが最大のアドバンテージ。
しかし秀長は経歴・経験とも家康をはるかに上回る。
そもそも10万クラスの混成軍の指揮官などというのは、経験するチャンスもなければ、
成功するための指揮能力・威厳などは並大抵ではなく、
家康でさえこの時点ではあたふたしている、としか言いようのない戦い方をしている。
上杉謙信でさえ、北条攻めの8万の混成部隊を把握できなかったことを考えれば当然ではあるが。
逆に秀長は10万級の混成軍を四国・九州の二度にわたって指揮し、勝利を収めている。
要するに、秀長が生きている時点で、家康が関ヶ原で勝利した原動力の大半が無効になる。
ま、豊臣政権がその性格上必要不可欠であった海外政策を失敗し、
また遠洋艦隊技術を軽視したことで、長らえてもジリ貧になっていたことには同意する。
>>35 最初に養子にした丹羽(藤堂)高吉は名将だっただけに惜しいことをしたな。
秀吉が血の支配にこだわらなければ、菊姫の婿養子にとって二代目宰相として
宇喜多秀家以上の西軍の中心に成り得た。
42 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 02:29:12
そもそも大和豊臣家が存続してたら関が原の様な合戦での政権交代は起きないかもな。
43 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 02:31:26
秀長が生きていたらむざむざ秀次を殺させるようなことはなかっただろう
44 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 01:35:27
この人も側室とか沢山居たんだろうか。
豊臣家の事を考えると、娘二人ってちょっと足りない…
2月22日、竹島の日
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>>40 徳川譜代軍 70,000 vs 豊臣混成軍 100,000なら、
徳川が勝つよ。
小牧・長久手の時で、
徳川譜代軍 20,000 vs 豊臣混成軍 100,000で
引き分けでしょ。
一旦、徳川が立ち上がれは、
黒田、伊達、島津etcも豊臣の言う事を聞かなくなる。
嫡子秀頼の補佐に過ぎない秀長には、政治的な状況を統制する力は無い。
すごい脳内妄想ですね
黒田が秀長に逆らったら、彼の基盤である「豊臣系武将からの信頼&親密度」が全部崩れる。
財産の9割預けている銀行の頭取に、預金凍結された状態で喧嘩売るようなもんだw
島津は、自分たちを九州で破った秀長と、戦ったことのない家康とのどっちに脅威を感じるか
伊達は、何があっても大崎一揆はやるだろうけど、何があっても天下に影響なしだからOKw
小牧後に、十分な力を蓄えたのち、秀吉は口実が無くて家康を倒す軍を出せなかった。
家康の関ヶ原時点前の実力は、前田利家ひとりが生きているだけで軍を起こせない
口実=正当性と実力にすぎない。
秀長が生きていれば、利家の10人分に匹敵する存在。
家康は「立ち上がっただけ」で諸侯から袋叩きにあう。
秀長ってか、秀吉死後に「豊臣家の意思」をちゃんと表明できる一門が生きているだけでも違うよな。
秀吉が甘いんだよ。
もっと非情になって外様やら粛清せにゃ。
魅力半減だけどな
関が原まで生きてたら官位と領地はどれくらいになってだろうか。
右大臣か内大臣、領土も伊賀か伊勢あたりを加えて130から150万くらいにはなるかな。
そこで朝鮮出兵ですよ
小田原戦以後の時点で大和豊臣家は100万石なら全国3、4位ぐらいの大大名家だな
織田信雄と上杉、あと秀次の豊臣家と比べてどうかというところか。
秀長の実力は石高じゃないっぺ
56 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 03:00:07
1、秀吉は「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」と言ったように、秀長の豊臣政権下における位置は非常に重いものがあった。
秀吉にしても公私を問わず頼れるのは肉親の秀長であった。
2、秀長は秀吉の実弟でもあり、実力も兼ね備え、しかも、そのおだやかな性格から豊臣政権のまとめ役であった。秀長の死を知った時、秀吉は片腕を失った、と号泣したという。
3、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはないが、秀吉に対して遠慮なく諫言できるのは秀長だけであった。
秀吉も天下治める頃は大分横暴になってきて
それを諌めてたのが秀長だけだったから彼の死後は暴走した感が強い
だが、秀吉と秀長も度々対立してるんだよね
九州征伐でも秀長が島津の降伏を勝手に許してしまったので
独断が過ぎると秀吉が激怒して一時は秀長も危うかった
まあイエスマンなだけでは補佐役にはならないし、激怒させようが
最終的に折り合い付けれるという関係だからこそなんだろうけど
59 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:19:26
確かに豊臣政権を支えてるのに豊臣秀長の功績は大きかったと思う。
同意します。
秀長が死んでから秀吉も狂ってきたし、豊臣政権の安定もなくなってきたように感じる。
秀吉の軍事的な才能は備中高松の水攻め・中国大返し・賤ヶ岳の戦いで証明されている。
小牧・長久手の戦いでは徳川家康に池田恒興・森長可を討ち取られるなど苦戦するが、秀吉は徳川方の織田信雄と和議を結ぶことに成功。
家康も兵を退き、息子の松平秀康を秀吉の養子として送って和している。
秀吉はこれによって織田信長の実質的な後継者となったので、結果的には勝利している。
しかし、実質的に豊臣政権の内政を担当していたのは秀長と千利休だ。
足利尊氏・直義兄弟のように、足利政権が「軍事の尊氏・内政の直義」だったように
豊臣政権も「軍事の秀吉・内政の秀長」だったと思う。
鎌倉幕府のように「軍事の義経・内政の頼朝」だったら政権も長続きしただろう。
しかし、内政の秀長が先に死んだことが豊臣政権の崩壊の原因だった。
秀長が死んでから、秀吉は千利休に切腹の命ずる。
もし、秀長が徳川家康よりも長生きしていたならば、豊臣政権は安定だったと思う。
前田利家が家康よりも長生きしていたら家康の天下はなかったと言われているくらいだから、秀長が生きていたなばら、さらに不可能だっただろう。
そう考えると、信長・謙信・信玄な早死にしている武将はいくら才能があろうとも天下を統一できず、長生きした武将が繁栄を築いている。
もし元就が早死にならば毛利家あれほどの繁栄はなかっただろう。
60 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:27:00
>>59 長生きしてDQN秀吉の愚行、暴挙をいさめて欲しかった…
61 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:30:24
答えは「否」でしょう。
秀長が死去するまでもなく、秀吉は神子田正治や尾藤知宣といった功臣を粛清し、大陸出兵を推進するなど、相当に「狂った」ことをしています。秀吉・秀長の兄弟仲も悪化しており、すでに秀長は大坂出仕を禁じられています。
秀長が生きていても、すでに狂っていた秀吉に粛清されて、甥の秀次のように汚名を着せられるのがオチかと思われます。秀長や蜂須賀小六は、狂いに狂った秀吉を見ずに死ねたのですから、むしろ幸せだったかもしれません。
62 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:50:13
>>61 そうですか…秀吉の狂気の前に憂き目にあった人が気の毒。
長生きしたとして、秀吉の狂気がいよいよやばくなって自身も危ういとなったら、
関白秀次担いで秀吉と本格的に対立したかな。
64 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:55:08
秀長死去は秀吉を狂わせたか?
答えは「YES」でしょう。
>秀吉は神子田正治や尾藤知宣といった功臣を粛清
初期の秀吉家中において御子田正治・宮田光次・戸田勝隆・尾藤知宣の4人が並び賞されている。
宮田光次・戸田勝隆は最後まで知行は安泰され病死を迎えている。
神子田正治は確かに優れた軍学を修め、軍師として秀吉に仕えるが、
あまりにも功名心が強かったために秀吉に疎まれたという。
軍師の仕事も任されず、竹中半兵衛ばかりを重用する秀吉を恨むようになっていた。
そして、小牧・長久手の戦いの際には織田信雄勢の攻撃を受け、尾張二重堀城の守備に失敗して敗走する。
その責任を問われて所領を没収され、高野山に追放された。
従って、晩年の秀吉が狂ったのではなく、神子田正治とは尾張時代より火種はあり、所領を没収したのは常識的なの判断である。
尾藤知宣につても九州征伐に従軍した際に日向根白坂の戦いで島津軍の攻撃を受けた味方の救援を怠り、秀吉の怒りを買って所領を没収されているので、
味方の救援を怠っての所領の没収は信長も信玄も謙信も、ほとんどの戦国大名が行っている賞罰です。
>秀長が死去するまでもなく大陸出兵を推進
秀長は1591年に没している。
文禄の役は1592年に出兵している。
秀長は病床にありながら朝鮮と戦を行うことに反対していたが、朝鮮出兵が決定されたのは秀長の死から2ヵ月後のことである。
秀長の死後、秀吉が無謀な朝鮮への侵略戦争に向かって暴走しはじめたことは周知の事実である。
65 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:59:54
>秀長が生きていても秀吉に粛清されて汚名を着せられるのがオチ
私はそうは思わない。
あなたは本気で秀吉が秀長を殺したと思うのでしょうか?
秀吉が秀長を殺すと思う根拠を教えて頂きたい。
私は秀吉は100%秀長を殺さなかった自信がある。
根拠としては
1、秀吉は「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」と言ったように、秀長の豊臣政権下における位置は非常に重いものがあった。
秀吉にしても公私を問わず頼れるのは肉親の秀長であった。
2、秀長は秀吉の実弟でもあり、実力も兼ね備え、しかも、そのおだやかな性格から豊臣政権のまとめ役であった。秀長の死を知った時、秀吉は片腕を失った、と号泣したという。
3、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはないが、秀吉に対して遠慮なく諫言できるのは秀長だけであった。
4、あなたは秀長と秀次を同じように考えているが、2人の立場は全く違う。
ブレーキ役の秀長を失ったことが、豊臣政権の崩壊をはやめたことは間違いない。
そして、秀長を失ってからの秀吉は内政面でも人が変わったように利休切腹、秀次抹殺と暗い面ばかりが目立つようになる。
>秀吉・秀長の兄弟仲も悪化しており、すでに秀長は大坂出仕を禁じられ
この話は聞いたことがないので、この事件が載ってあるサイトなど示して下さい。
病気療養を命じたのは知っているが、
大坂出仕を禁じるというのはそのことか?
だったら牽強付会が過ぎるな。
67 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 09:21:30
>>64 >>65 「逸話」というものはいくらでも創作できるもので、秀長が秀吉に諌言したというのも、ほとんどその類でしょう。
大陸出兵反対に至っては、なんと昭和になってから創られた話です。
「逸話」を参考にするならば、秀長にしても「蓄財魔」との悪評があり、賎ヶ岳や根白坂における采配を秀吉から罵倒されたという話だってあります。
少し情報操作をすれば秀次に劣らぬ汚名の持主となりましょう。
実子のいない秀長の後継をめぐり、秀吉・秀長が揉めたという話もありますね。
なお、大坂出仕の停止について言及したサイトは存じ上げませんが、
当時の記録に確認できる事実であり、秀長について書かれた文章で、よく紹介されています。
逸話はともかく、この兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高いです。
秀長の評価が高いのは、極論すれば早めに死ねたからでしょう。
秀次とて朝鮮出兵の前後に病死していれば、
「秀次が生きていれば豊臣家も安泰だったろうに」などとさぞ惜しまれたことだと思われます。
68 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 09:32:33
>秀次に劣らぬ汚名の持主
スレ違いですが、秀次も言われなき汚名をきせられたという説
が強くなっていますね。歴史は強者の論理で語られることが多い。
大坂出仕の停止は秀長配下の代官の紀州の木材売買の不正に関してのものじゃなかったかな。
その出仕停止も確か正月の拝礼のみでそれほど大事なものではなかったような。
確かに晩年は秀吉との関係はあまり良くなかったが
秀長は政治的位置が大きなものになっていたから
兄弟の情を抜きにしても秀長を蔑ろにはできなかった
まあ、おまえら、まずは堺屋太一からの評価をぬぐって考えろ。
話はそれからだとオモ。
と言っても秀長好きは、どこかで堺屋にぶちあたってしまうけど、
(売れ行きでも史料の再編成という点でも秀長関係の文章の最メジャーだし)
この人が膨らました秀長の虚像は、司馬遼太郎の竜馬にも匹敵するほどやっかい。
軍事面の秀長の実像はわかりやすいと思うけど。
中国攻略や天下取りの各戦での秀長の働きは第1級といってもいいのでは。
74 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:49:59
>>67 あなたの話は「〜にあった可能性が高いです。」「〜思われます。」など、推論・推測の域を出ていません。
その根拠を示して下さい。
>大陸出兵反対に至っては、なんと昭和になってから創られた話
>秀長にしても「蓄財魔」との悪評
>実子のいない秀長の後継をめぐり、秀吉・秀長が揉めた
>兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高い
以上、4点の根拠を示して下さい。
「信長公記」や信頼性の薄い『甫庵太閤記』『甫庵信長記』などでも結構です。
また重複になりますが
>秀長が生きていても秀吉に粛清されて汚名を着せられるのがオチ
私はそうは思わない。
あなたは本気で秀吉が秀長を殺したと思うのでしょうか?
秀吉が秀長を殺すと思う根拠を教えて頂きたい。
>兄弟仲も悪化しており、秀長は大坂出仕を禁じられ
サイトは結構ですので、この事件が載ってある資料を示して下さい。
どの資料に書かれていたのでしょうか?
75 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:11:32
>>74 ・大陸出兵反対
根拠となっているのが『武功夜話』(これは昭和になってからの編纂疑惑が有力)という段階で話になりません。
また『武功夜話』の他に大陸出兵に反対した記録を聞いたこともないです。
・蓄財魔疑惑
やや信憑性に問題のあるケースとして『川角太閤記』にて諸将に兵糧を売り付けた話。
より信憑性の高いケースとして『多聞院日記』に紀伊の材木を売った代金を着服した挙句、秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害したとの記事があります。
・後継者問題
秀長重臣だった藤堂高虎の伝記『高山公実録』に載っています。
・兄弟仲の悪化
「蓄財魔疑惑」も絡ますが、『多聞院日記』に材木事件の後、秀長が大坂出仕を禁じられたと記されてます。
秀長とて叩こうと思えば、幾らでも埃は出てきます。
あとは情報操作を多少加えれば秀次と同様の「愚物」の出来上がりですね。
一時は秀次兄弟による豊臣家相続を考えていた秀吉にとって、秀長は邪魔者となりつつあり(『高山公実録』では秀保との養子縁組を拒否してます)
後年の秀次一門に対する仕打ちを考えれば、秀長にもあまり明るい未来は待っていないかと。
断っておきますと、私は秀長の器量や功績を否定しているわけではありませんよ。
ただ、早世した人にありがちな「生きていれば歴史は変った」という論は、巨大に疑問であると考えています。
>>75 大坂出仕の停止の一事をもって兄弟仲の悪化ととるのはどうなんでしょう。
他にそれをうかがわせる史料はないのでしょうか。
77 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 07:01:52
>>75 歴史を捏造してはいけませんよ。
>『多聞院日記』に紀伊の材木を売った代金を着服した挙句、秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害した
私はこの事件のあった和歌山県新宮市に出身ですが、
>秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害した
はウソです。
地元では有名な話です。
歴史を間違って教えてはいけませんよ。
中国・韓国がやっているように捏造された歴史が正史になったらどうするつもりですか。
この代官は「吉川平助」と言います。
神倉神社に火をつけて焼くなど、地元の新宮市では悪行を尽くした人として有名です。
熊野材を勝手に大阪で売り払って私腹を肥やしていたのも、この平助です。
78 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 07:14:20
>>75 この吉川平助は家康の伊賀越を助けた伊勢大湊の船奉行で、
後に秀長に仕え七千石の大身だけに新宮滞在中も暴若無人の振舞で速玉大社の神宝を捲き上げ、
神倉聖の制止も聞かず聖地天ノ磐盾に登って月見の酒宴を催す等の専横ぶりに、
たまりかねた修験者らが暗殺を計ったらしく
年代記は
「天正16年10月16日神倉炎上、三藏、平介これを焼くに、大和大納言殿の御用にて十津川北山へ参りたる木奉行にて両人を切殺す。」
と記している。
その真相は聖達が魔所だから登ってはならぬ。と止めるのも振り切って登った二人を襲い三藏を斬り捨てると、
驚いた平助は本堂に放火して早鐘をつき鳴らし、
社人達も慌てゝ駆け登ったが間に合わず悉く炎上してしまったらしい。
平助達はその前年にも秀長の命で郡山城建造用木材集めに北山にやって来たらしく池峯明神の神木を伐ったのも彼らと云われ
神官達には「秀長公の落し種」と称して権勢を振い、望んで今回の討伐隊長を命じられたようだ。
神倉炎上事件は恐らく大検校たる氏喜の報告によって秀長の耳にも入ったらしく
平助は即座に召喚され厳しく詮議の結果、彼が熊野材を勝手に伐り大阪で売り払って私腹を肥やしていた事が露見し、
その十二月に奈良西大寺前で斬罪に処せられている。
誠に秀長らしい正邪曲道を誤らぬ大領主らしい裁決であったが、
これには良弘も大いに尽力しているようだ。
79 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:14:57
>>75 >『多聞院日記』に紀伊の材木を売った代金を着服した挙句、秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害した
司馬遼太郎対話選集の紀州路の部分を読んだが「熊野材を勝手に大阪で売り払い、私腹を肥やしていたのは吉川平助だと書いている。
本当に『多聞院日記』に紀伊の材木を売った代金を着服した挙句、秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害したと書いてあるのか?
私にはどうも疑わしく感じる。
『多聞院日記』を読んだ司馬遼太郎も紀州郷土歴史家も、熊野材を勝手に大阪で売り払って私腹を肥やしていたのは吉川平助だと言っている。
あなただけが、秀長が不正をしたと言っている。
原文を抜粋して頂きたい。
私は秀長は不正をする人物のように思えないし、司馬遼太郎や紀州郷土歴史家の言っていることを信じている。
また『川角太閤記』が信憑性に欠ける資料だということは言うまでもなでしょう。
80 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:43:57
>>75 >秀長にしても「蓄財魔」との悪評
この根拠は、司馬遼太郎や紀州郷土歴史家は平助だと言い、あなただけは秀長だと主張する『多聞院日記』だけでしょうか?
この1つだけでしょうか?
もしそうならば、信憑性も薄く、説得力もないですね。
「蓄財魔」とは日野富子のような人物を言います。
たった1回だけ材木を売ってポケットに入れても「蓄財魔」にはならないでしょう。
81 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 20:51:35
82 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 21:35:59
豊臣秀長、中臣鎌足。この人が生きていればなあ(戦争防げたかも知れない)、って人、他に揚げてください。
>>82 桂小五郎が生きていたら西南戦争はおこらなかったかも。
84 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 23:32:38
>>74 >根拠となっているのが『武功夜話』という段階で話になりません
誰が武功夜話を根拠に挙げましたか?
一言もそんなことは言っていないでしょう。
武功夜話は偽書で有名な書物です。
前野但馬守が秀吉の弟・大和大納言秀長のことについて、次のように述べている。
『美濃守(秀長のこと)存命の頃は、関白殿下に度々高麗(朝鮮)退治のため、大軍を相催し、渡海の事異見申さりける。
九州、関東併せ国中相治まり候、この上は御政道全くあるべきこそ肝要なり。
徒に外国と争端を発し人馬兵糧の費えは暴挙なり、損失のみ多くうる所無し。
不戦和議を講じ交易をひろむる事富国の第一、軍忠功をもって禄を求むる者あらば、我の給地を与えられよと死力を尽くして御異見あり。』
参考:上垣外憲一『文禄・慶長の役』(講談社学術文庫)45P〜48P
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061595415/250-6380973-0433052 >『武功夜話』の他に大陸出兵に反対した記録を聞いたこともない
「秀長が唐入りに反対」したことは常識ですが、一応、ソースを貼っておきます。『武功夜話』発見以前から、秀長が唐入りに反対だったことは証明されていますよ。
>大陸出兵反対に至っては、なんと昭和になってから創られた話
この根拠を示して下さい。
85 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:30:55
>>82 すれ違いかも知れないが、近衛文麿・広田弘毅がいなければ、支那事変は講和できていたと思う。
86 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:54:20
>>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81 >>82 >>84 材木事件についてはリサーチ不足があったようです。御教示ありがとうございます。
『多聞院日記』は原文が手元に無いので、回答は後日ということで。そんなに待たせませんので。
大陸出兵についてですが、
>『美濃守(秀長のこと)存命の頃は、関白殿下に度々高麗(朝鮮)退治のため、大軍を相催し、渡海の事異見申さりける。
>九州、関東併せ国中相治まり候、この上は御政道全くあるべきこそ肝要なり。
>徒に外国と争端を発し人馬兵糧の費えは暴挙なり、損失のみ多くうる所無し。
>不戦和議を講じ交易をひろむる事富国の第一、軍忠功をもって禄を求むる者あらば、我の給地を与えられよと死力を尽くして
>御異見あり。』
↑は明らかに『武功夜話』からの転載ですね。具体的には『武功夜話』(新人物往来社)の3巻185頁です。
上垣外氏の『文禄・慶長の役』(講談社学術文庫)はわりと最近の出版であり、「『武功夜話』発見以前から、秀長が唐入りに反対だったことは証明されています」とは言い難いです。
かりに秀長が大陸出兵に反対していたとしても、歯止めがかけらていた形跡は無く、ブレーキ役としての秀長というのは、やはり相当のフィクションが入っていそうです。
87 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 01:21:32
利家も生きてれば関が原は防げたんじゃないか
88 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 01:40:53
89 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 18:39:14
>>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81 >>82 >>84 図書館に行く用事があったので、ついでに調べておきました。
材木事件に関する『多聞院日記』の記事は天正16年12月7日条にありました。
「平介ト云人、大納言殿(秀長)ヨリ紀伊国ノ大将トシテ、サイカニ城拵、
富貴シテアリシ、熊野山ノ木ヲ売ヘキ由被申付、
二万本エリ切テ大坂ヘ遣、ウリテ代金毎月過分ニ上之、
関白殿(秀吉)ヘ被聞、曲事トテ被召捕、一昨日五日於西大寺被誅了、
主ニハ一円無過事也、大納言殿天下ノ面目失儀也、
跡ニハ七百枚持テ上之云々、女子共ハ不苦云々、不情不便ノ次第也」
また天正17年正月5日条にも関連記事があります。
「大納言殿旧冬熊野木売付、関白殿御意ニ不入、
雖被参無御見参故、郡山ヘ于今無御帰」
『多聞院日記』の記事は以上の二つです。
90 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 18:53:56
>>76 >>77 >>78 >>79 >>80 >>81 >>82 >>84 この件で、豊臣秀吉は正月に秀長の「見参」を拒否したものの、「大坂出仕の停止」については、たしかに私の思い違いでした。
とは言え、材木事件で秀長によからぬ評判があったこと、また秀吉から不興を蒙ったことは概ね事実でしょう。
同年正月に秀長が淀城普請を命じられことは、懲罰措置ともとれます。
御指摘のように、材木事件があくまで吉川平介の汚職事件とすれば、秀吉の反応はやや過剰であり、秀吉・秀長の間に何らかの疎隔が生じていたことを想定させます。
秀保の養子問題が天正16年ですから、秀長にある種の圧力をかけたとも解釈できます。
「逸話」のみならず、現実でも秀吉と疎隔が生じていたのならば、秀長にあと数年か十数年の時間があったとしても、あまり幸福な晩年とはならないでしょう。
明の洪武帝もそうでしたが、偉大極まる独裁者がイカれてしまうと、どんな功臣が生きていても、手はつけられないかと。
91 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 19:46:11
>>40 あれ?
秀次も10万率いてた経験が無かったかな?
92 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 19:47:50
>>90 時節から言うと、佐々成政を切腹させて日が浅いから、
身内の失政を不快に思った程度じゃないのかな?
信長が信雄を叱責したときのことを真似て「身内じゃな
かったら首をはねていた」くらいの事は言ったかもねw
でも、尾は引かないと思うよ。
家康に気を使った背景にある恐れみたいなものを、秀長
に対しても持っていたんじゃないかな?
「完全に敵対すると、コイツに付くものが大勢出る」ってね。
建前は重要だから人前では叱責しただろうが、裏で頭を下
げるくらいの事はしたでしょ。
家康にしたようにw
俺もこんな弟が欲しい。
うほっ
96 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:28:51
>>89 >>90 >信憑性の高いケースとして『多聞院日記』に紀伊の材木を売った代金を着服した>挙句、秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害したとの記事
>材木事件で秀長によからぬ評判があった
>秀吉から不興を蒙ったことは概ね事実
そのような事実が『多聞院日記』のどこに記されていますか?
『多聞院日記』を分かりやすく訳すと
「平介という人が秀長の部下で紀伊国の大将として雑賀城にいた。熊野の材木の売る仕事を受け、2万本を大坂で売ったが、代金の毎月を多く申告してピンはねしていた。それが秀吉の耳に入り捕まった。一昨日の5日に西大寺にて処刑された。秀長の面目も潰れた。以下略」
>信憑性の高いケースとして『多聞院日記』に紀伊の材木を売った代金を着服した
>挙句、秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害したとの記事
このようなことは書かれていないのに、あなたは意図的に捏造して伝えた!
許しがたい行為です。
中国・韓国・北朝鮮とやっていることは同じですよ。
97 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 09:23:38
>>89 >>90 >材木事件で秀長によからぬ評判があった
>秀吉から不興を蒙ったことは概ね事実
『多聞院日記』のどこにこのような記事が書いてありますか?
>秀吉・秀長の兄弟仲も悪化しており、すでに秀長は大坂出仕を禁じられ
>大坂出仕の停止については、たしかに私の思い違い
では、秀吉・秀長の兄弟仲が悪かったという根拠を示して下さい。
>秀吉と疎隔が生じていたのならば、秀長にあと数年か十数年の時間があった
>としても、あまり幸福な晩年
秀吉と秀長の疎隔が生じていたというのは、あなたの推測でしょう?
繰り返しますが、秀吉・秀長の兄弟仲が悪かったという根拠を示して下さい。
『多聞院日記』にある、たった一度の淀城普請では説得力がありません。
98 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 20:51:51
>>89 >>90 >秀長にしても「蓄財魔」との悪評
>大坂出仕の停止については、たしかに私の思い違いでした
この根拠は、司馬遼太郎や紀州郷土歴史家は平助だと言い、
あなたも誤訳の間違いを認めた『多聞院日記』だけでしょうか?
この1つだけでしょうか?
もしそうならば、信憑性も薄く、説得力もないですね。
「蓄財魔」とは日野富子のような人物を言います。
たった1回だけ材木を売ってポケットに入れても「蓄財魔」にはならないでしょう。
秀長に「蓄財魔」との悪評があった根拠を示して頂きたい。
99 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 22:13:26
>>93 >>96 >>97 >>98 捏造とまで言われるのは心外です。
議論をするにしても、相手の人格にまで立ち入った批判はよろしくありません。
『多聞院日記』の記事とて、秀長が吉川平介をスケープゴートにしたと解釈する余地もあります。
平介個人の汚職としても、その人格を見抜けなかった秀長にも責任アリでしょう。
事実、秀吉から「見参」を拒まれています。
>>84 ところで『武功夜話』以外に秀長が大陸出兵に反対した根拠はどこに行ったのでしょう?
相手のミスは徹底的に追及するが、自分のミスは無視というのは感心しません。
俺はあなたにかみついてる人間ではないけどさあ
あの多聞院日記の記述からはあなたの推論を導き出すのとは
どうしてもできないんですけど。
あなたはあの記述のどこに罪の転嫁が行われたことを見出すことが
できるのか示してくれないかな。
101 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 19:06:33
>>99 99さんの主張を要約すると
秀長は「蓄財魔」との悪評
理由1:秀長が吉川平介をスケープゴートにしたと
理由2:汚職をした平助の人格を見抜けなかった秀長にも責任アリ
理由3:秀吉から「見参」を拒まれている
このどこが「秀長は蓄財魔との悪評」の根拠がありますか?
「秀長が罪の転嫁した」などとは書いていませんよ。
102 :
93:2006/03/25(土) 00:43:01
HN使わないと、同一人物扱いになっちゃうのかあ。
考えが違うから「異論を唱えた」事にはなるんだろうけど、
人格否定したつもりはないよ。
俺は俺の考えを書いただけだから、これでおしまい。
103 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 02:17:05
>秀長とて叩こうと思えば、幾らでも埃は出てきます。
>あとは情報操作を多少加えれば秀次と同様の「愚物」の出来上がりですね。
これは『多聞院日記』などを意図的に誤訳し、
中国や韓国のように歴史を捏造し、
豊臣秀長は「蓄財魔と悪評」で、
「紀伊の材木を売った代金を着服した挙句、秀吉に咎められると代官に責任を取らせて殺害したとの記事がある。」
など、ウソを並べれば、どんな人物でも“悪”になります。
中国で曹操が“悪”なのも、あなたが秀長に行った行為と同じことを中国人がしているからです。
私はあなたの、そのような態度を非難しているのです。
もっと歴史に対して正直になって下さい。
そして本当に反省しているのならば、自分の間違いを認めて下さい。
久しぶりに覗いてみたが、なんだこの流れ
「豊臣秀長のすべて」にも秀長がやたらと金を溜めていたと描かれていたが(図書館の本だから手元にないが)
「有事に備えた戦国武将には当たり前」みたいに弁護されていたぞ。蓄財家でもいいじゃないか秀長ファンよ。
つーかその何割かは確実に秀吉も黙認している政権の裏資金的なもんだろ・・・。
106 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 00:54:04
>>100 >>101 >>102 >>103 >>104 >>105 私は意図的に誤訳・捏造したつもりはないし、「逸話」を参考にするならば、とも断っています。
秀長を敬愛されているのはよく分りましたし、そのために私の書込みに著しく気分を害されたのならば、その点はお詫びします。
ですが、あなたたちの連続した詰るような書込みで圧倒するかのような手法にはやはり感心しません。
別に関心してもらおうとも思ってないし。
「あ、こいつすげえな」と思う書き込みをしている人間から
そう思われたらいいなあ、とかちらって思うことはあっても、
ふつーか、それ以下のレスに対して、
その文章の裏に居る人間のことなんかいちいち考えないってばw
108 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 23:02:38
>>106 >秀長を敬愛されているのはよく分りましたし、
>そのために私の書込みに著しく気分を害されたのならば、
>その点はお詫びします。
私は秀長を敬愛してはいませんし、確かに書込みに不快感がありましたが、
その理由はあなたの歴史を冒涜する態度のことです。
「〜ともとれます。」「〜とも解釈できます。」「〜ならば」「〜を想定」
など、自分の都合によい推論・推測を元に、秀長を“悪”へと導いていく。
その態度のことです。
109 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 23:04:18
>>106 >秀長にしても「蓄財魔」との悪評
>秀長が生きていても秀吉に粛清されて汚名を着せられるのがオチ
>秀吉・秀長は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高い
>秀長とて叩こうと思えば、幾らでも埃は出てくる
>あとは情報操作を多少加えれば秀次と同様の「愚物」の出来上がり
繰り返しますが、中国で曹操が“悪”なのもあなたが秀長に行った行為と同じことを中国人がしているからです。
私はそのような態度を非難しているのです。
もっと歴史に対して正直になって下さい。
110 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 11:37:56
>>107 >>108 >>109 御自分こそ『武功夜話』は偽書と断定しておいて、『武功夜話』のわりと有名な箇所を引用しているでしょう?
このままトピが荒れていくのは本意でありませんので、私の書込みはこれにて打切らせて頂きます。
111 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:21:26
余計なことかもしれませんが中国・韓国を例にあげるのは厨っぽいし見てて痛々しいから止めたほうが・・・・・・・・・
各人の見方によって善悪の判断が分かれるのは仕方が無いことだし、
歴史上の有名人なのでどの資料見たって多少の矛盾やらなんやらが見つかるのは仕方が無いと思いますよ。
秀吉の弟って縁故関係があったとしても農民出身でこの出世っぷりはすごい。
秀吉が天下取ってからお飾りでどっかに据え置かれたわけじゃないし、あんま大きなミスは犯してないし。
112 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 16:22:39
見方によるとかいうレベルじゃないけどなw
113 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 18:12:50
秀長自体は節約家で有名、刀の件などの逸話がある。
自分は節約していざという時に秀吉の為に役立てようとしていた、と読むのが普通。
114 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 19:37:13
秀長は惜しい人材だよ。人望も高く、利休も信頼していた。細川忠興を始め哲人達も頼ったからね。秀長がいなければ、秀吉の天下はすぐ終わっていたよ。
115 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 18:10:46
>>114 実際秀吉より早く死んだから、豊臣政権はすぐ崩壊したわけだが・・・
116 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 12:36:33
>>114 >>115 私はそうは思いません。
秀吉は秀長が生きている時から相当狂っていました。
秀長が生きていたとしても、秀吉の暴走を止めるのは不可能だったでしょう。
秀長が死去するまでもなく、秀吉は神子田正治や尾藤知宣といった功臣を粛清し、大陸出兵を推進するなど、相当に「狂った」ことをしています。
秀吉・秀長の兄弟仲も悪化しており、すでに秀長は大坂出仕を禁じられています。
秀長が生きていても、すでに狂っていた秀吉に粛清されて、甥の秀次のように汚名を着せられるのがオチかと思われます。
秀長や蜂須賀小六は、狂いに狂った秀吉を見ずに死ねたのですから、むしろ幸せだったかもしれません。
118 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 14:11:00
116 いや、止められた!家康、利家、ねね、蒲生家跡目も利家とねねでサクット変わったし、政宗も利家と家康がいなければ、小田原で終わりだよ。
生きていれば秀吉の暴走を止められたかどうか、はともかく、上のレスであるように
生きていれば徳川家康の台頭は防げたよな。
120 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 07:19:22
>>117 >>118 >>119 コピペですが本人です。
秀長は1591年に没している。
文禄の役は1592年に出兵している。
秀長は病床にありながら朝鮮と戦を行うことに反対していたが、
朝鮮出兵が決定されたのは秀長の死からわずか2ヵ月後のことです。
秀長が死ぬ以前から、秀吉が無謀な朝鮮への侵略戦争に向かって暴走しはじめたことは事実です。
そして、秀長は朝鮮出兵を止めていない。
『武功夜話』(昭和に作られた悪書)の他に大陸出兵に反対した記録を聞いたこともないです。
121 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 07:21:03
>>117 >>118 >>119 断っておきますと、私は秀長の器量や功績を否定しているわけではありませんよ。
私が言いたいのは、早世した人にありがちな「生きていれば歴史は変った」という論は、巨大に疑問であると考えています。
>>121 まぁ信長厨とかは同意だが秀長が長生きしていれば家康の天下はまずない
123 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:33:41
>>123 122じゃないけど…
秀長が存命なら、秀頼の後見人は秀長がなるだろうから、
仮に豊臣の看板を掲げて事業を行うなら、それは秀長が秀頼の名代として行われるだろう。
家康は史実のように後見人の地位を傘に、太閤の遺命に背いたり上杉討伐の号令を取れない。
家康の能力は申し分ないが、秀吉死後〜関ヶ原一連の事件を利用して
豊臣家の力を弱めるような真似が出来ないのだから
流石に天下取りは厳しいと言わざるを得ないと思う。
秀長が病死しなかったら、秀次と一緒に殺されそう。
秀長の朝鮮出兵反対説を武功夜話しか記録がないから信憑性がないとしているのに
自分の秀長秀吉仲険悪の根拠が秀長重臣の不正による出仕停止のみというあなたの分析は
正直どうよと思うんだけど。他に険悪化しているということを裏付ける資料か記録をだしてよ。
128 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 11:03:31
利家がいただけでも、家康の天下取りは難航してたから、秀長がいたら無理。
大体、関ヶ原で家康に付いた豊臣系大名の殆どは秀長に付くわな。
秀長マンセーの高虎・如水はもちろんの事、利家派だった清正や忠興もそう。
ねね系や一族も割れないだろうしな。
高虎や長政の家康系の切り崩しの暗躍も見られ総、おもしろスー。
朝鮮出兵はともかくも秀次粛清に関しては変わった可能性は高いと思う。
五大老五奉行制も違うものになっただろう
130 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 15:47:20
秀長が後見なら大老は不要でしょ、家康が権力を得ることも無くなる。
朝鮮出兵で対立が起きたら、家康みたいに武断派を切り捨てて終了。
家康と秀長が戦ったら家康に付く大名なんているのかな。当時の政権は豊臣政権だから
普通には豊臣に付く、余程徳川に恩があるか関ヶ原の時みたいに力量差が明確なら家康
で有利でなければだれも家康にはつかんでしょ。
名護屋での利家との対立は豊臣政権内の勢力争いだから両派に割れたが、豊臣政権が相手で
力量的にも家康に劣らない相手が大将なら、まず豊臣側に付く。
まあ、家康がそんな馬鹿な戦はしないけどね。
どういう状態で戦争になるかわからんのに答えようは無いわな、
利も義もなければ秀長かて孤立するし。
133 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:29:37
秀頼の後見役なら利も大義もあるぞ。
利とか義とか使いたかっただけだろうw
それは皆同じ、大義と利を振りかざせれば勝ち組。
この人、肖像画も残ってないのか。
137 :
120:2006/04/09(日) 08:05:02
>>124 >>127 >>128 >>129 >>130 >>131 論旨をすり替えないで下さい。
私は「秀長が生きていても、朝鮮出兵は行われた。」と言いたいのです。
みなさんは「秀長が生きていたら、朝鮮出兵はなかった。豊臣政権は安定していた。」と言います。
果たしてそうでしょうか?
私は「唐入り(朝鮮出兵)」は信長なら続く歴史の大きな流れで、秀長一人が生きていたとしても変えられなかった流れだと断言できます。
質問ですが、唐入りなくして、今まで織田〜豊臣に仕えてきた武断派の人間をどうやって納得させることができますか?
三成のような文官は平和な時代でも能力を発揮できるでしょう。
しかし、戦場で手柄を立てて出世してきた人間は、よほど痛い目に遭わなければ、領土拡張を指示することでしょう。
秀長が唐入りへの反対をした根拠を示して下さい。
出せないと思いますよ。
なぜなら、秀長は唐入りに反対していませんからね。
>>127 むしる秀長がいたほうが、唐入りの成功率はUPするしね。
秀長がいれば、秀吉or秀長が朝鮮半島入りできるし、
どちらかが現地に入れば、指揮の統一も図れる。
もっとも、それでも成功するかは未知数だけどね。
>>137 論旨は摩り替わったんじゃなくて移行したんだよ。
秀長が生きていれば朝鮮出兵はなかったか
よりも
秀長が生きていれば徳川幕府はどうなっていたか
の方が話題的にも面白いしね。
140 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:11:07
秀吉以外で豊臣政権で秀長に対抗できる人物は存在しない。
だから秀長が長生きしてたら当然家康の出番はない。
141 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:19:56
しかし、秀吉は秀長が長生きしたとして、
秀次と秀長どちらを後継者として据えたのだろうか。
やっぱ年若い秀次に関白譲り、秀長を右大臣にして補佐させるのがベストかな?
秀頼が生まれても、秀次の養子にして3代目を継がせることくらい、秀長ならできたのでは。
142 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:55:53
秀長と家康。
位が高かったのはどっち?
領地は120万石と250万石で家康だよね。
最高官位は、大納言と内大臣でこれまた家康だけど
秀長在世中はどっちか誰か教えてください。
あと二人は仲がよかったのかどうかも知りたいです
>>142 双方とも天正十五年に従二位権大納言で、
秀長が天正十九年没。
慶長元年に家康、正二位内大臣。
追記
家康の最高官位は
慶長七年、従一位。
元和二年、太政大臣。
死後、贈正一位
146 :
142:2006/04/09(日) 19:37:46
144さんありがとうございました。
とうことは秀吉は、秀長と家康をほぼ同等とみていたということですかね。
そう考えると、そのときの前田利家は左近衛少将だったから、まだまだその当時は
重用されてなかってことですね。
>>146 利家は、他の切り札が全てなくなってから急に持ち上げた三番手ピッチャー兼ヘッドコーチ。
秀長は、全盛期の秀吉陣営オールスターズの中で5番キャッチャー兼二軍監督兼球団社長。
(エースで4番、監督、オーナーは秀吉ね)
148 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 20:45:03
149 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 23:25:59
秀長は武田信繁のような武将になりたいと思っていたそうだな
秀吉政権内 秀長→隆景→利家 じゃない。
秀吉は家康の能力と人柄を買いながらも、バランスを考えてたんジャマイカ。
149 ホント?シュツ店あればきぼんヌ。
>>148 外人、DH、3番打者。
年俸はNO.1。
野球豚ウザイ
154 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:57:53
>>138 現地総司令官には秀長がなったと思う
秀吉が渡航しようとしたら、家康や利家に反対されている
健康面に不安があったのではないかと思う
家康や利家だと成功した場合の功績が大きくなりすぎるし
大軍団を率いて勝利した実績のある秀長(身内だし)がなるのが妥当だね
実際の「唐入り」には現地総司令官にあたる人がいないんだよね
てっきり、小早川隆景だと思っていたんだけど
小早川隆景は豊臣家の五大老の一人であると同時に毛利家の重臣という
二重の複雑な立場だったから唐入りを含めて遠征の総司令官には
置けない存在でしょ。
力量はあるだろうけど
宇喜多秀家と金吾が司令官らしき立場にあったんじゃなかったっけ?
第○軍司令官と全体の名目上の大将を兼ねる感じで。
秀長が居たら、名実ともに総大将だな。
堺派筆頭の秀長に対して博多商人はどう接しただろう?
157 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 22:51:54
秀長は男色家で女色に淡泊だったために無嗣のまま没したのでしたよね。
158 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 00:35:58
秀長は男色家>資料をおながいします。
159 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 11:52:03
>>149 >>154 >>155 >>156 「逸話」というものはいくらでも創作できるもので、秀長が唐入りについて秀吉に諌言したというのも、ほとんど「逸話」でしょう。
唐入りつまり大陸出兵反対に至っては、なんと昭和になってから創られた話です。
「逸話」を参考にするならば、秀長にしても「男色家」「蓄財魔」との悪評があり、
賎ヶ岳や根白坂における采配を秀吉から罵倒されたという話だってあります。
少し情報操作をすれば秀次に劣らぬ汚名の持主となりましょう。
実子のいない秀長の後継をめぐり、秀吉・秀長が揉めたという話もありますね。
逸話はともかく、この兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高いと思われますね。
秀長の評価が高いのは、極論すれば早めに死ねたからでしょう。
秀次とて朝鮮出兵の前後に病死していれば、
「秀次が生きていれば豊臣家も安泰だったろうに」などとさぞ惜しまれたことだと思われます。
>>159 逸話を以て、唐入りを否定し、
逸話を以て、兄弟の相克を肯定する。
これほど、堂々としたダブルスタンダードは久しぶりだ。
さらに逸話はともかく、としながら晩年は険悪とする論理思考にいたっては、
理解不能だ。
また実績の明らかな秀長と、実績の乏しい秀次とを同じ土俵に立たせて、
死期を理由に同等の評価をする姿勢は、開いた口がふさがらない。
いや、159さんは卑劣な情報操作の実例を示してくださってるんですよね?
162 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:57:58
>>161 >この兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高いと思われますね。
文章をきちんと読んでほしい。
思われますね。と書いてある。
秀吉・秀長兄弟が晩年には険悪な関係にあった可能性が高いというのは、私の推測です。
もちろん史料もないので、推測の域を出ない。
では、
>>161は“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”という史料を出せるのか?
“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”という史料は武功夜話以外に存在しない。
つまり、推測の域を出ない。
史料がないので、兄弟の相克を否定し、
史料がないのにも関わらず、唐入りの諌言は肯定する。
これほど、堂々としたダブルスタンダードは久しぶりだ。
さらに史料がないにも関わらず、秀長は秀吉に唐入りを諫言したとする論理思考にいたっては、理解不能だ。
繰り返すが、
>>161は“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”という史料を出せるのか?
>>162 やれやれ、私は秀長が唐入りを否定したなんて一言も言ってませんよ。
逸話を以て一方を否定し、一方を肯定する姿勢を批判しているだけ。
それが推測であっても、「逸話」という事柄に対する君の姿勢は、ダブルスタンダードなんですよ。
史料を重視するなら、双方とも信頼性に乏しいとするべきだし、
逸話も評価するなら、双方とも可能性があると推測すべき。
もっとも「可能性が高い」なんて推測はもってのほかでしょうね。
164 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 13:15:59
>>161 >>163 では、秀長が唐入りに諫言を呈した史料は出せないと。
負けを認めるということかな?
すぐに負けを認めるのに、軽軽しくケンカを売るんじゃないよ。
学びなさい。
>>164 はぁ?
いや別にいいけど、その論理はすなわち…
晩年には険悪な関係
の史料を出せない君の負けも確定するんだよ
もっとも私は秀長が生きていたら秀長が朝鮮に渡ったであろうと思っているので、
秀長が唐入りを諫言したなんて、これっぽっちも信じていませんがね。
┐(´д`)┌
なんか
>>164とやりとりしてると、朝鮮人と議論したことを思い出すよ。
>>149から誰一人として「唐入りを諫言した」なんて言ってないのに…
いつの間にか私が「唐入りを諫言した」と言ったことになっているんだから…
変な奴が粘着してるな。でもほんとに思考法があっちの人間ぽいわ。
ずばり粘着してるのは家康厨だと思われ
彼の天下取りに数々の幸運があったことを認めたくないんだろう
169 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 16:32:21
家康厨でも秀吉厨でもない。
では、「秀長が生きていたら、朝鮮出兵はなかった。豊臣政権は安定していた。」と言う人は
“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”という史料を出せるのか?
170 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 17:32:04
粘着晒し上げ
跡継ぎ無く滅んじゃった上本家も滅んじゃったからね、勝ち残った余人を交えて
の上での発言ならともかく内々でのことは残ってないだろうねぇ
秀長家臣って藤堂高虎が筆頭家老だったんだろうけど、2万石くらいか。
箸尾(4万8千石)、桑山(一族で5万石)、羽田(2万5千石)とか高虎以上の身代の奴が多いな。
素人考えですが、、
実際んとこ、秀長が家康位に長生きした場合、関が原はほぼ有り得ないと
思うけど、後継者問題(というか淀君と北の政所の勢力争い)はどうなった
んでしょうかね。秀次も秀長生きていてもあの状況じゃ取り潰しは免れない
ような。
秀頼しか後継者がいないあの状況で、秀吉、秀長はどんな組織を作ったんで
しょうかね。
174 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 01:25:36
秀長が生きていても、秀頼の将来を案じた秀吉によって秀保とともにあぼ〜んされてたんじゃない?
有力な後継者候補なんだし。
秀次が降って沸いたように殺生関白とか言われ始めたように
結局邪魔者として難癖つけられて殺されたかもな
でもって親(秀吉)の因果が子(秀頼)に報いると
秀次は秀頼誕生以前に後継者に認定しちゃったから
それを取り消す為に殺されたわけで。
1591豊臣秀長51才(秀吉の実弟で政権NO2だった)有馬温泉に湯治に行った後、急に病にかかり、後に死去
1591千利休70才(内々の事は利休にと言われる程だった)よく判らん理由で切腹
1592豊臣秀勝23才(秀吉の養子で秀次の実弟)病死
1594豊臣秀保17才(秀長の養子で秀次の実弟)不審な滑落死→領地郡山は石田三成に近い増田長盛の所領となる。
1595豊臣秀次28才(秀吉の養子で後継者筆頭だった)謀反の疑いで切腹。謀反といわれる程の事をしたとは思えないのに。
その結果、石田三成、淀君、が権勢を振るい、秀頼の世継としての立場が確立。
豊臣政権の権力抗争で淀君、三成派に次々と殺されたように思えてしょうがないんだが。
176>そいうこと、秀次が関白を返上してれば問題なかったし、秀長と秀次じゃ格が違いすぎる。
秀次が殺されたからって、何でも殺されると考える厨が多すぎる。素直に考えるなら利家や家康に
後事を託すより、秀長に後見を託すと考えるのが普通。
農民的な感覚なら、むしろ肉親こそ信頼できないってのは?
180 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 11:49:14
豊臣政権の権力抗争で淀君、三成派に次々と殺されたように思えてしょうがないんだが。>俗説に汚染されているな、
淀が権力て、いつの話だ。三成は近江出身だから淀派みたいに言われるが、取り立てて親しくない。最近ではねねとの
方が親しかったとの説もでている。
いい加減に江戸期につくられた三成のイメージを考え直せや。
181 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 11:50:45
武士の感覚じゃない?親、兄弟、親戚、家臣すら信頼できない。
信長、家康、正宗なんかもそうだしね。
でも、この人、ほんまに貧しい農民の倅かよて気がするんだが・・・。
どこでここまでの訓練受けたのだろうかと思うくらい。
183 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 16:58:22
秀吉の家って、足軽と言っても水のみ百姓じゃなくて、有産の百姓だとの説をどこかで見た木がス。
>>180 豊臣秀長、千利休、豊臣秀勝、豊臣秀保、豊臣秀次
こういった政権の中枢にいた人や、秀吉の後継者候補たちが次々に死んでいったのが
江戸期の捏造とでも言うのか?
>>185 それらは史実だが、それらの人物が死んでいったことが全て三成の陰謀というのは、
>>177の思いこみに過ぎないと、思うのだが…
豊臣秀長、千利休、豊臣秀勝、豊臣秀保、豊臣秀次
これらが短期間に次々と死んだのは、どう見ても不自然で、当然疑惑を向けるべきで
犯罪捜査の基本では、まず「受益者を疑え」なので
その受益者が誰かというと、三成であり、淀君であり、あるいは秀頼を世継にしたかった秀吉自身とい言う事になる。
>>187 なるほど
だがね、秀長と秀勝は秀頼誕生の前に死んでるのよ
さらに後継者候補でない利休を加えている。
秀頼をよりどころとした権力確保を動機とするなら、秀保秀次が限界
明らかな、でっち上げがあるのは如何なモノでしょう?
犯罪捜査の基本は、直接因果関係のない事柄を無理矢理結びつけるでなく、
証拠を積み重ねて犯罪を立証すること
自分の私見としては、利休と秀次に関しては三成は関係あると思う。
他に関しては、言いがかりと思うな
>>180を少し擁護。
三成の三女が北政所の養女なため、淀殿より北政所と親しかったという説はあるみたい。
>>188 >だがね、秀長と秀勝は秀頼誕生の前に死んでるのよ
>さらに後継者候補でない利休を加えている。
動機は後継者問題だけじゃなくて、政権内部のイニシアチブを誰が
取るかという権力抗争もあるって言ってるの。
イニシアチブは、秀長、千利→三成に移ったでしょ。
秀頼誕生前は権力抗争のみで、誕生後に後継者問題が絡んできた感じかな。
死んだ順番からして、初めは政権のイニシアチブを取っていた、秀長、千利で
後に後継者候補の、秀勝、秀保、秀次 、だしね。
>>190 イニシアチブが移った?
三成は基本的に秀吉の命に従う官僚型の腹心というスタンスは、秀長死後も変わりなかったでしょう。
秀長のようにNO2として補佐したり、利休のように相談役的なこともなく、
政治を壟断したわけでもない。
推測ばかりでは仕方ない。
ここは日本史板らしく、またスレタイにあわせて秀長と三成が権力を争ったという史料の提示を
192 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 02:42:44
盛りあがってまいりますた
>>191 イニシアチブが移ってないとでも?
秀長・利休死後、三成は実質的に秀吉政権の宰相的な地位だったんだが。
五奉行の中でも格別だったしな。
ソース出せってか? 面倒なんで気が向いたらそのうち提示するわw
>ここは日本史板らしく、またスレタイにあわせて秀長と三成が権力を争ったという史料の提示を
だから〜
>>177の不自然な連続死が三成が秀長・利休を消して権力を奪ったのではなかろうかという
疑惑が浮かび上がってくるっていってんだよ。
>>191 三成を過小評価し杉。
秀吉が老いてきたこともあるかもしれないけど、大きな権勢を振るって政権を切り盛りしてたし
その事で他の秀吉子飼いの武将から恨みを買ってた。
秀長は2年近い、おそらく労咳による長患いの末に死亡だから
自然と権力基盤が低下していったんだろうな。
>>193 秀長の死を契機に利休が失脚したならまだしも、秀長もってのは妄想しすぎ
>だから〜
>>177の不自然な連続死が三成が秀長・利休を消して権力を奪ったのではなかろうかという
>疑惑が浮かび上がってくるっていってんだよ。
「ソースはないけど疑惑があるから8割方確定だ」なんて主張が通るはずがない。
逆説の日本史でも読んでろ。
利休や秀次の粛清の影には三成の暗躍ありとは昔からの俗説に
あるからいいとしても、秀長に関しては飛躍しすぎだろう。
オールオアナッシングな人がいるね
200 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 00:42:08
なんで三成を悪役にしたがるのかなあ、そんなに簡単に暗殺できるなら、家康も暗殺できるよ。
三成暗躍なんて小説の域を出ないだろう、歴史板なんだから最低でも資料を出して、類推して
議論しようよ。
201 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 11:46:47
秀長が長生きして秀頼の後見役となり、官兵衛を脇に従えて
三成・清正を統率したら家康は手も足も出なかっただろうに
202 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:11:11
まあね、武功派も文治派もまとめられたろうし、汚れ仕事も高虎がしてくれるし、全て桶では。
だいたい、暗殺なら高虎の方が得意ジャマイカ、三成の方がアボーンされそう。
>>203 その頃の高虎だと紀州粉川に1万石だか2万石だった。
伊賀上野を治めるのは家康についてからだから、
そんなに暗殺は得意とはいえんのジャマイカ?
205 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 14:21:44
そうかモンテネグロ。
でも、紀州も悪党など多いし、伊賀・甲賀でなくても直家や元就も得意だしね。
伊賀甲賀の忍者wでなければ暗殺が出来ない、とはこれはまた滑稽な・・・。
207 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 00:50:32
>>194 三成は狂いに狂っていく秀吉の忠実な手下という点
で暴君秀吉のブレーキになっていない。秀長が秀吉
を本当に諌められるような立場だったか不明だが、
真の発言力を持った賢者の不在が豊臣家の崩壊を早めた。
208 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 07:56:51
もういいよ。
実際には諫めたのは三成だけらしいが、秀次の時も仲裁しようとしたが不在でマニアわなかった筈。
まあ、そんな三成だからボケ太閤も最期まで信用した訳で、それで妬まれもする訳で。
>>207 >暴君秀吉のブレーキになっていない。
いや、文禄の役で次第に苦戦に陥った後も
秀吉はやる気満々だったが
講和のために奔走したのは三成。
単なるイエスマンではない。
まあ、結局講和は破談して、慶長の役になったが。
212 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 17:41:00
>講和のために奔走したのは三成
何かに奔走したという史料があるのですか?史料を教えて下さい。
213 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 18:03:12
秀次や宇治里の時に救済に奔走してたのは聞いたことがあるが....朝鮮のは氏らなんだ。
でも、盟友の小西が和平派だからなあ、ありえる話かも。
小西のは和平と言えるのかどうか。
あの段階での和平は、もう加藤らにしてみれば、
後ろから鉄砲を撃たれるようなもの。
というか、撃ってるような。
まぁ、商売すればいいじゃないかって小西が正論なんだが。
秀吉が三成を重用したのは「俺の顔色を伺わず諫言できるから」と公言してる
まあ三成のそういう空気嫁ないところが長所でもあり短所にも繋がったわけか
217 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:53:25
秀吉はボケてもさすがな所はあったのだな。おべんちゃらを言う連中は所詮頼りにならないということなんだが、
そういう連中からすると三成はゴマすって虎の威を借りてるなんて、陰口を叩くわけだ。
現代にもあてはまるな、でも三成みたいに生きるのは難しいよ、自分なら無理ポ。
秀吉は大和大納言家を潰すべきではなかったな。
それこそ秀秋でも放り込んで存続させておけばよかっただろうに。
秀長が育てた優秀な家臣団を直属にしたかったという思惑もあったのだろうが、
結局秀次事件で多数処刑した上に、藤堂高虎は家康のブレーンとして打倒豊臣に貢献したし。
219 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 05:33:38
>>215 例えば「信長公記」レベルの史実性の高い史料記録が
あるのかと思ったが…
220 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 07:17:51
諫言とかしたのかも知れんが、結果として
秀吉の暴走を食い止められていないわけで
三成の発言力がどの程度のものかと…
221 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 07:56:01
まあ、その程度。
誇張されているのでは。
秀吉の時代に起きた悪いことは、みんな三成一人のせいにされてるんだろうな。
悪政に関しては他の奉行や家康、利家も同罪だよな。
223 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 00:12:18
あいつが全て悪いにしとけば皆んな楽だし、それにすぐ乗る椰子も多い。
>>222 少なくとも家康は秀吉が悪政してくれれば万々歳だろうし止める義理もない
でも秀吉が存命中の家康って中央の政治にそれほど口出しできたの?
秀吉の惣無事令、刀狩、太閤検地。
大局的に見て、善政だと思うが。
まぁ、太閤検地で、度量衡をいじったのは、庶民にとっては悪政かもしれんが。
税が重かったって話もあるな。
刀狩、太閤検地は、農民レベルじゃ大悪政。
地租改正や消費税並よか悪い。
>>227 そりゃ農地改革を地主にとって大悪政というようなものじゃないでしょうか?
>>225のいうように大局的に、見れば戦乱期から近世へと時代の節目には必要な政策と思うよ。
>>226 税率は確かに高かったようです。
ただ江戸も初期は高かったようだし、政権初期のインフラ整備と朝鮮出兵のためだったようです。
ある程度は仕方ないでしょう。
江戸時代なんか時代を経るにつれ天領はどんどん税率が下がりましたが、
水戸藩なんか八公二民というクレイジーだったそうです。
朝鮮出兵をしなきゃ、1590年の小田原攻めから、
関ヶ原までの10年間、戦争がない状態だったのにねぇ。
10年間、戦争がない状況を続けるだけでも、
豊臣政権が存続できた可能性が生じるような気もするが。
人生50年の時代に、10年間戦争から離れるというのは、
かなり人心に影響すると思うが。
>>229 戦争がなければ崩壊する経済システムが豊臣政権。
勇気を出して家康ともう一度戦うべきだった。
231 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 20:51:28
単に百姓出・・と云うが兄弟そろっての歴史舞台登場てのも考えてみればすごい。
232 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:31:05
有力大名が秀長か秀次(もしくは豊臣の誰か)をかつぎあげて何かするかもと危惧したかもな秀吉
秀長・・・年齢的に担ぎ上げられれる可能性は低い
秀次・・・関白になった時点でこれ以上担ぎ上げようが無い
234 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:57:11
>>233 >年齢的
前田利家(秀長より1歳年上、死亡年齢は9歳年上、豊家におけるポジションは秀長の後釜)は
対家康戦の総大将として前田家の五大老中の独裁権限をエサに担ぎ上げられている。
=年齢は関係ない
>>担ぎ上げようがない
役職はどうでもいい。天下人の看板が必要なだけ。
日本は最高の存在である天皇を御輿にかついで物語と進める特異な国だよ?
現実として関白の「ひとつ上」に太閤があるのだから、むしろもっとも担ぎやすい御輿。
かなり、勉強が足りない。というか、知性が足りない。
関白の上位職が太閤なんかw
237 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:19:32
大変な男色好みだったから嗣子が居なかった。
妻女との間に子女が生まれなかったのも
衆道愛好家だったからである。
>>236 位階の話じゃない。
現実問題として政権内で秀吉は秀次の「ひとつ上」にあっただろ?
秀次は奥州討伐の際に、東関東と奥州の諸大名と誼を結んでいる。
その結果、秀次事件に連座して多数の大名が改易されたり処刑された。
ただ秀吉に対抗して秀次を担ぎ上げるということはなかったわけで、
現実的に秀吉が死ねば次期No.1の秀次の時代になるのは明白なのだから、親交していた。
秀次も、秀吉に対抗するというより、秀吉死後の地盤固めのために、豊臣政権では末期に参入した東国の大名達を手懐けようとしていた。
というのも、秀吉が取り立てた者達は、秀吉個人に忠誠を誓う場合が多いからである。これは織田、武田などの大名でも同じことだった。
240 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 17:11:54
秀長に氾濫させたい厨が鵜剤罠。
241 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 23:06:29
こんにちわ。
はじめまして。
私は秀次が都市の基礎を築いた近江八幡市に住んでますが、
現在でも秀次は名君で石田三成ら奉行に嵌められたと解釈されています。
城跡の案内板には「秀吉(呼び捨て)」「秀次公(敬称)」となっております。
現代の解釈の基礎ととなる文書(手紙類を除く)は内容も変遷しており
どれが正しいと云いきれるものではありません。
政権による検閲があったといわれてますし。
極端な例えですが、500年後の人間が発掘された鉄腕アトムを読んで
2000年の社会を想像している姿を想像してみてください。
玉石混交から玉を捜すのも歴史の楽しみだとおもいます。
豊臣家なら山室女子の「黄金太閤」一読の価値があるとオススメします。
242 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 02:01:19
秀長の手柄を秀吉の手柄にした疑いもあるし、本当に凡人だった疑いもある。
まあ、400年も経てば、幾ら資料が在っても真実は分からんもんじゃよ。
だがな、秀長は戦国時代では珍しいタイプの稀有な弟だったと思いたい。
243 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 02:16:37
嫌われ者の吉良も地元では名君。
秀次が名君、秀吉・三成悪役説が江戸期に流布されたものでなければ本物だが、241さんの
言うように真実は難しいね、でもそこを多角的に見て楽しむのが歴史オタ。
244 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 03:22:38
ひでながが生きていればトクガワセイケンはなかっただろうな。ただ、イエヤスは頭いいから、関東のいちだいみょうにおさまっていたろうけど。
246 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 09:22:31
>>244 そうだね。義将 五大老筆頭 徳川家康ってことで、戦国ゲームのヒーローになっていたかも。
247 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 09:52:25
家康は無理しないだろうな、天下人の器量がありながら天下を望まなかった律義者。
たぶんねー、秀長が生きていたら、
秀長がえげつなく家康挑発しまくって逆関ヶ原にもちこんで、
このスレの住人は、みな家康党になっているだろーな。
秀長「おっと家康どのをこれ以上虐めるのはよしましょうか、ははは」
三成「左様、またブルってクソもらしされても困りますからな」
家康(わなわな・・・)
400年後
日本史板
「三河の義将・家康が天下を取るには?」
「秀長が早死にしてなきゃ無理なんじゃね?」
まあ、そういう状況でも忍ぶのが家康クオリティー。
250 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 08:58:39
>>248 「70歳からの天下取り、ゾンビ家康を讃えるスレ」
「元就超えた、じじいやり過ぎなんだよ。関ヶ原」
とかもできそうだな。
251 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 09:13:09
>>248 まあ、前田や島津と組んで家康や三成の独走を阻止したであろう。
>248
そのセリフは三成じゃなくて高虎が言いそうじゃないのか?w
253 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:22:21
答えは「否」でしょう。
秀長が死去するまでもなく、秀吉は神子田正治や尾藤知宣といった功臣を粛清し、大陸出兵を推進するなど、相当に「狂った」ことをしています。秀吉・秀長の兄弟仲も悪化しており、すでに秀長は大坂出仕を禁じられています。
秀長が生きていても、すでに狂っていた秀吉に粛清されて、甥の秀次のように汚名を着せられるのがオチかと思われます。秀長や蜂須賀小六は、狂いに狂った秀吉を見ずに死ねたのですから、むしろ幸せだったかもしれません。
254 :
秀長マニ:2006/05/13(土) 21:08:01
始めまして。
朝鮮出兵ですが、秀長が健康である事を仮定し、朝鮮に乗り込んだとします。
秀長は司令官となり、朝鮮半島を取っていたでしょう。戦では負け無しの秀長。
また、人望厚く、統率力はかなりの物。考えただけで怖いですね。
秀長が早く亡くなってしまったのは、家康にとっては好都合でしょうね。
豊臣の血を断絶するのに、秀長を粛清する大義名分がないですから。
それこそそんな事したら、加藤清正・福島正則、加賀前田家が黙っていないでしょう
し、九州の島津、中国の毛利、四国の長ソカベ、畿内は黙っていないでしょう。
それこそ一気に徳川家は滅びてしまうでしょう。
家康より長命だったら、秀忠ではなく、秀康をたてたことでしょうし。
確かに秀吉との仲は危なかったかもしれません。秀次が朝廷に多額の献金を
して、秀吉の不信感を増徴させてしまいましたが、その資金源が秀長だったら・・・
まあ、秀長がいれば、秀次もおとなしくしたでしょうが。
秀頼も秀長には頭上がらなかっただろうし、まあ、大きな存在ですわな。
ケチっていう話もあるが、それこそ金のやりくりしっかり出来てるから金溜まる
んじゃないの?争いごとは金で解決は秀吉から教わったところだしね。
255 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 21:42:22
>>254 「逸話」というものはいくらでも創作できるもので、秀長が秀吉に諌言したというのも、ほとんどその類でしょう。
大陸出兵反対に至っては、なんと昭和になってから創られた話です。
「逸話」を参考にするならば、秀長にしても「蓄財魔」との悪評があり、賎ヶ岳や根白坂における采配を秀吉から罵倒されたという話だってあります。
少し情報操作をすれば秀次に劣らぬ汚名の持主となりましょう。
実子のいない秀長の後継をめぐり、秀吉・秀長が揉めたという話もありますね。
なお、大坂出仕の停止について言及したサイトは存じ上げませんが、
当時の記録に確認できる事実であり、秀長について書かれた文章で、よく紹介されています。
逸話はともかく、この兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高いです。
秀長の評価が高いのは、極論すれば早めに死ねたからでしょう。
秀次とて朝鮮出兵の前後に病死していれば、
「秀次が生きていれば豊臣家も安泰だったろうに」などとさぞ惜しまれたことだと思われます。
はいはいワロス、ワロス。
三戦板から逃げてきたのか。
三戦板から逃げてきたのか。
259 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 00:49:51
実際の秀長は優秀だったのかな?
どうなんだろうね。
260 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 05:49:53
史実は何とも言えないね。堺屋太一とかが変に
持ち上げちゃってるけど。
堺屋太一以前から秀長は高く評価されてるけどね。
史実に関しても相当に優秀な武将であるというのははっきりしてると思うけどね。
司馬も短編に高評価で書いてたな
小説をあげれば、野上弥生子の「秀吉よ利休」とか
兄の代理で大任をなんどもこなしている。
それを有能といわずになんというかだ。
265 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 09:59:39
豊臣家だけの話にすると、秀長が一番優秀って事でいいかな?秀吉意外で。
266 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 11:07:00
というより他は皆無能
>>262 「播磨灘物語」かなんかでは「凡人」つってたな。但馬攻めのくだりで。
268 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 16:37:42
秀長って史料が少ないんだよね。
豊臣政権の裏仕事を担当していたから、表に出せるものが少なかったのだろう。
跡継ぎなく途絶えちゃったのがでかいかと
合戦に関しては史料からも秀長が重要なポジションで活躍してるのが読めるけどなあ。
山崎合戦では秀吉軍の主軸として光秀軍に打撃をあたえて退却に追い込んでるし。これなんか
同じ方面を担当してた黒田官兵衛の手柄とかにされてるけど数百単位の黒田の軍勢と1万近い秀長勢の
どっちが戦勝の要因として大きいかなんていわずもがなと思うのだけど。
271 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:01:30
秀長、官兵衛のコンビって強いね。
相性が良いのかも。
272 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 00:03:40
信玄の場合も信繁が早めに死んだから、駿河進行とかして、武田家滅亡の遠因を作ったんだろ。
信繁が死なずに生きてたら、展開も違ったはずだし。
273 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 10:30:47
秀吉は勝つ戦を
秀長は負けない戦を
274 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 14:01:36
確かに早死にした人の評価が高くなるのは事実だよな。
武田信繁も徳川信康も「あいつが死なずに生きてたら、展開も違ったはずだよな。」って話になる。
まあ、それも過去の実績があればこそ、ただ死んでもダメはダメポ。
276 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 02:01:33
賤ヶ岳の戦いの戦いでは、あからさまに敵に内通していて、中川見捨てて遁走した高山を疑わず城内に迎え入れ
「お前は、俺の弟ではない別物だ」と
秀吉の逆鱗に触れたという話があるよ。
277 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 07:54:27
賤ヶ岳の戦いで、秀長は作戦ミスをして、秀吉に怒られてらしい。
戦でミスすることもあるんだな。
そりゃあ、どんな人間でもパーフェクトは無い罠、エロエロ学んで強くなる。
逆に若い自分は叱責を受けるぐらいが勝ち。
279 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 00:45:39
仮に秀吉から独立して、信長直属の配下だったらどうなっていたか。
軍師?軍団長?侍大将程度かな?
280 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 10:38:45
部下の能力をうまく引き出して使うタイプな気がス、から軍団長向きでは。
281 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 11:09:23
軍団長につけられる寄騎だな、蜂屋クラスじゃないか?
史実では織田家全軍団クラスの指揮を2回も取ってる
その2回とも見事な完勝をおさめたし
283 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 22:21:27
軍団長乙
10万って言ったら、軍団長どころの騒ぎじゃないよな。
285 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 23:37:07
でも秀次も10万動かしているし
そこそこの補佐と知恵があればだれでもできたりして
九州征伐なんて馬鹿でもなきゃ負けないだろ。
最初から結果は見えてた。勝って当然。
287 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 01:56:51
んなこたーない
秀長って人望厚かったらしいじゃん?
一時期は利休と双璧を成すぐらいなもんだったらしいし。
文部に秀でたオールマイティー弟のイメージができあがっちゃってるけど、
実は人を扱うのが上手かっただけで、
秀長の長所って「人あしらい」にこそ本分があったんじゃないかね?
プロデュースはできるけどディレクションはできねーって感じ?
しかもそれを自分で解かってる。
金は出すけど結果さえ出してくれれば口は出さない、っつーか。
秀長には武勲に優れた高虎とかいたし、一説には島左近とかもいたらしい。
彼のために粉骨砕身する人々も多かったんじゃないかな?
無論人望ってだけじゃなく秀吉の弟、片腕としての立場も大いに関係したと思うけどサ。
優秀だがアクの強いブレーンたちを総括できる器としての大将と考えると、
九州四国制圧のコントロールもすんなり受け入れられるとおもうんだ。
むしろ完璧超人な上司よりも、穴ばっかだけど憎めない上司の方が、人心掌握術はあるかなぁと思うよ。当時の武人たちがどういう精神構造だったか知らんけど。
ってゆーのが俺の秀長のイメージ。
「ったく! うちの殿様は事の重大さ解かってんのかなぁ。俺が付いてないとホント駄目だよなぁ。まったく仕方ねぇなぁ」
とか部下がニヤニヤしながら呟いてそうな感じ。なんかほのぼのしてて良い。
だめ?
290 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 08:36:03
大将の器は全部兼ね備える必要はない、自分に足りない能力を有する者を集めて使いこなすこと。
人の意見を聞きなすべき事をその都度、的確に判断できること。
これが出来る人はなかなかいない。
>>288 とりあえず、高虎は戦に弱いことで有名。
島左近は仕えたとしてもほんとうに一、二年、名前を連ねただけ
(おそらくは仕えていない)
秀長の自前の軍団は連合軍の本営としての役割を果たすため、
百十万石にふさわしい武勇に優れた侍大将がいないと言ってもいいんじゃまいか。
292 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:45:20
「逸話」というものはいくらでも創作できるもので、秀長が秀吉に諌言したというのも、ほとんどその類でしょう。
大陸出兵反対に至っては、なんと昭和になってから創られた話です。
「逸話」を参考にするならば、秀長にしても「蓄財魔」との悪評があり、賎ヶ岳や根白坂における采配を秀吉から罵倒されたという話だってあります。
少し情報操作をすれば秀次に劣らぬ汚名の持主となりましょう。
実子のいない秀長の後継をめぐり、秀吉・秀長が揉めたという話もありますね。
なお、大坂出仕の停止について言及したサイトは存じ上げませんが、
当時の記録に確認できる事実であり、秀長について書かれた文章で、よく紹介されています。
逸話はともかく、この兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高いです。
秀長の評価が高いのは、極論すれば早めに死ねたからでしょう。
秀次とて朝鮮出兵の前後に病死していれば、
「秀次が生きていれば豊臣家も安泰だったろうに」などとさぞ惜しまれたことだと思われます。
コピペ
>>291 何いっているの?
藤堂は足軽一卒から槍働きのみで出世して
浅井長政から感状もらいまくつている。姉川でも磯野の下で大活躍
秀長が藤堂を高禄で迎え入れたのは、当時秀長の部下に戦で強い人材をがいなかったから
石田を高禄で迎え入れた左近のような位置づけ
大阪では真田を撃退し、家康の命を救ったこともある
戦で弱いなんて聞いたことがない
295 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 08:27:57
上 石田を高禄で迎え入れた左近のような位置づけ ←訂正汁
影の主君は左近だよ、石田は木偶
297 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 22:51:33
296 藻前が土偶だろ。
298 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 12:23:06
どぐう?
299 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 14:44:54
いつ秀長が織田全軍の軍団長になったのかい?
300 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:03:02
279読むよろし。
ゆとり教育の弊害か
302 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 17:05:52
>>292 豊臣秀次は、戦国大名としては無能といわても仕方ない結果を残してしまった部分が多いだろうけど、彼なりに秀吉の後継者として勤めていたのではなかろうかと思う。
それが、後に統治していた地で慕われている結果かもしれません。
どちらかというと武士というよりも、貴族化した平家のボンボン風のイメージが強いです。
妾何十人ってナニ?
戦下手もヒドイ…いくら池田恒興の進軍に問題があったとはいえネ。
もう少し武士らしかったら、貴族好みも愛嬌で許されたのかもしれないし… 宇喜多秀家のように一門として残れたでしょう。
(秀家は一門扱いだけど…血縁関係はない)
秀次が秀吉を真似ては、敵も作るし三成にもジャマ者扱いされてしまうでしょう。
それでも三成の政敵に対する処置は、人心を離す要因の一つでしょう。
そういう果断な処置を抑えていれば…関ヶ原でも強引な手で味方を増やすコトもなかったのにネ。
303 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 06:59:33
>>161 >この兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高いと思われますね。
文章をきちんと読んでほしい。
思われますね。と書いてある。
秀吉・秀長兄弟が晩年には険悪な関係にあった可能性が高いというのは、私の推測です。
もちろん史料もないので、推測の域を出ない。
では、
>>161は“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”という史料を出せるのか?
“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”という史料は武功夜話以外に存在しない。
つまり、推測の域を出ない。
史料がないので、兄弟の相克を否定し、
史料がないのにも関わらず、唐入りの諌言は肯定する。
これほど、堂々としたダブルスタンダードは久しぶりだ。
さらに史料がないにも関わらず、秀長は秀吉に唐入りを諫言したとする論理思考にいたっては、理解不能だ。
繰り返すが、
>>161は“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”という史料を出せるのか?
304 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:52:40
>史料は武功夜話以外に存在しない
武功夜話って史料じゃないから、ゼロってことだな。
305 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:33:13
>>304 そうだな。
それじゃ、“秀長が唐入りについて秀吉に諌言した”というのはウソってことになるな。
やっぱ秀長の代でいきなり断絶してしまったし
豊臣家自体も滅亡したりで資料も少なく伝承も曖昧になんのは仕方ないわな
307 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:52:45
てか、大昔の資料なんて、捏造されちゃ本当かどうかは全てわからんわ。
三河物語なんかエゴ丸出しw
信長公記も、近しい人物が書いたとなると本人がどう書こうが、贔屓の
存在を否めない。
伝聞そのものは、あったかもしれないが、伝聞の中身が事実かは、わから
ない。
ってところだなw
なにせ、その場に居合わせていないのに、そうであるかのように書かれてい
ることが多いからねえ。
そういうのもまた面白いとこだな。
この資料は、この人物に近い人から書かれてるから、
ここは割り引いて読まなきゃとか、ここは眉唾だなとか、
そういう読み方をするのがさ。
将来、現代史を勉強する連中も、
朝日だから、ここの政府批判は割り引いて読まなきゃとか、
産経だから、ここは信用できないとか、
政府系の統計資料だから、分母の設定がおかしいかもとか、
2ちゃんのログだから、信用できないとかなるんだろうな。
310 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:17:43
>>305 秀長がもう少し長生きしていれば・・・と考えた時、私は歴史のおもしろさを覚えずにはいられない。
「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」と言われたように、秀長の豊臣政権下における位置は非常に重いものがあった。
秀吉にしても公私を問わず頼れるのは秀長であったはずである。
秀吉の実弟でもあり、実力も兼ね備え、しかも、そのおだやかな性格から豊臣政権のまとめ役であった。
また、常に秀吉を立て決して弟の分を超えることはないが、秀吉に対して遠慮なく諫言できるのは秀長だけであった。
秀長が死の床についた時、見舞いに来た前野長康に「わたしも病気を得て、すっかり気が弱くなってしまった。志も達することもできずに病気となり、兄者に諫言することもままならず空しく伏せっている。
我が命のある限り兄者、天下のことに尽くしたく毎夜、夢にうなされている。
ご憐察ください。」と言ったというが、本人も無念であったろう。
また、秀長は「いたずらに外国と争い、人馬や兵糧を費やすことはおろかなことである。損失ばかり多く、何も得るものはない。
和議を講じて交易を行うことが富国の一番の道である。」
として病床にありながら朝鮮と戦を行うことに反対していたというが朝鮮出兵が決定されたのは秀長の死から2ヵ月後のことであった。
311 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:18:28
秀長の死を知った時、秀吉は片腕を失った、と号泣したといわれるが、秀長を失った秀吉は人が変わったように利休切腹、朝鮮征伐、秀次抹殺と暗い面ばかりが目立つようになる。
秀長が生きていれば、少なくとも利休、秀次のことはなく、朝鮮とのことも違った形になったのではないか。
そうなれば、加藤清正らと小西行長、石田三成の対立もそれほど表面化しなかったのではないか。
もちろん、秀長が生きている間は家康の出番もなかっただろう。
もちろん、以上のことは私個人の空想の域を出るものではないが。
312 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:25:11
>>302 秀次の御乱行については
摂政関白と殺生関白が同音である事から転じた駄洒落ではないだろうか?
現代で評価の高い大谷義継は
業病を癒す為に辻斬りを働き生き血をすすっている
と豊臣治下の大阪で噂されていた。
秀長の事跡の資料である多聞院日記などの日記類であるが
彼等の所属する団体に偏したものである事を考慮しなければならないでしょう。
秀長は、宗教国であった大和を武家の支配力を強める過程の統治者であり、
日記の書き手である僧侶らは既得権を奪われる側であった。
甲斐の妙法寺記のように
写経の末尾にその歳の出来事をメモした・・・・
というものと資料の精度には大きな差があります。
313 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:06:30
秀次は近江八幡と清洲で名君だったらしいよ
314 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:23:36
あ
315 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 10:01:08
長生きしていたら?
晩年の狂を発した秀吉により粛清されていたと思う。
兄弟ってのは自分の息子を脅かす後継者候補になりうるから。
まあ秀長のほうでは、狂いだした秀吉を暗殺して秀頼を自分の後見の元、関白にしたかもしれないけど。
それが一番だろうな、ボケた秀吉をお神輿にして秀長が仕切る。
実子がいないから変に疑われることもないし、利休や高虎を使ってウラ技もオケでしょ。
秀吉の子飼いは彼に頭が上がらないし、ねねも桶。
如水もおるでよ。
で家康を抹殺!
321 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 22:56:49
狸汁乙
秀長が死んだから秀吉が狂ったんだろ
兄弟愛?乙
豊臣家の柱が死んだんだからそりゃ狂うわ
唯一信じられる身内か?
秀次は野心有り荘、秀秋バカぼんぼん、秀家たにん・・・
326 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:58:36
秀長が長生きしていたら、豊臣の天下存続はわからないが、豊臣の血は残った
だろうに。
生きてる間は豊臣の天下安泰でしょ、生きてる間はね。
秀次の惨めな死もなかったのだろうか。まあ、秀次を説得して
穏便に捨もしくはお拾に禅譲という形をお膳立てできたかもしれないが。
出来なければ、普通に病死してもらえばよしと。
330 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:09:01
「表の事は秀長に、内々の事は利休に。」なんて言うが、ていうことは表も裏も秀長ジャン。
331 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 14:12:45
age
千家には、表も裏も綾小路もある。
洒落?
334 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 17:31:12
秀吉が公儀体制(中央集権化)を固め始めた頃から
奉行衆が台頭し、秀長の地位は相対化していった。
しかし、秀長は一門筆頭としての格式を有するため、
中央集権化に反発する外様大名からは頼みとされた。
これが「公儀のことは秀長、内々の儀は利休」の正しい解釈。
こういう状況のなかで秀長は死去し、
勢いを増した奉行衆は利休を死に追いやった。
その後、秀次がこの役割を担わされた。
秀次の場合、後継問題が絡んだため、さらに複雑な立場となり、
その末路は皆さんご存知のとおり。
秀長、秀次亡き後、このポジションを得たのが、
徳川家康と前田利家。
335 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 18:49:58
秀長が長生きしていたら・・・
秀吉の死後、北政所とタッグを組んで、淀殿と三成を引退に追い込む。
天下は家康に譲る。
秀頼は国持大名のひとりとして幕末まで安穏に存続できるようにとりはからう。
大和は譜代大名の誰かに譲って自分は田舎に移る。
そんなところじゃない?
336 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 23:02:29
このスレ、無限ループwww
>>335 家康が豊臣家を生かすわけないよ。
そして秀長にそれがわからないわけがない。
338 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 17:37:07
「逸話」というものはいくらでも創作できるもので、秀長が秀吉に諌言したというのも、ほとんどその類でしょう。
大陸出兵反対に至っては、なんと昭和になってから創られた話です。
「逸話」を参考にするならば、秀長にしても「蓄財魔」との悪評があり、賎ヶ岳や根白坂における采配を秀吉から罵倒されたという話だってあります。
少し情報操作をすれば秀次に劣らぬ汚名の持主となりましょう。
実子のいない秀長の後継をめぐり、秀吉・秀長が揉めたという話もありますね。
なお、大坂出仕の停止について言及したサイトは存じ上げませんが、
当時の記録に確認できる事実であり、秀長について書かれた文章で、よく紹介されています。
逸話はともかく、この兄弟は少なくとも晩年には険悪な関係にあった可能性が高いです。
秀長の評価が高いのは、極論すれば早めに死ねたからでしょう。
秀次とて朝鮮出兵の前後に病死していれば、
「秀次が生きていれば豊臣家も安泰だったろうに」などとさぞ惜しまれたことだと思われます。
339 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:59:01
兄弟仲が険悪やったまではいわんが、
秀長さんが九州攻めぐらいから
浮いた存在になってきたことは確かや。
これは誰かさんが言うてはるとおり、
豊臣家が大きなってきたんやから仕方のない話や。
しかし、まだ秀長さんには使いみちがあった。
秀吉さんは外征を目論んでたから、
場合によっては自分はこの大仕事に専念して、
内政は誰に任せるいう構想もあったやろう。
そうなると内政を任せられる人間いうたら身内しかおらん。
身内で高位の者いうたら秀長さんしかおらんわな。
秀長さんが死んでもうたから、その話はお仕舞い。
ところが実際に外征してみたら、やっぱり大変やった。
それに息子の鶴松くんも死んでまうし、
秀吉さんも外征に専念することにしたもんやから、
国内のことを誰かに任せなあかんようになってもうた。
ここで誰かさんがいうとおり秀次さんの登場や。
>>338 まあ「蓄財魔」って言えば又左衛門にもその手の伝承があるわけだが。
冑櫃に入ってた算盤の話とか、能登で佐々と小競り合いやってたころのまつとの口論の話とか。
どこまで本当かは知らんが、それに近いことは多少なりともあったのだろう。
341 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 00:12:00
大望あるものは、それに備えて蓄財する。
私利私欲の為ではない。
秀次とて朝鮮出兵の前後に病死していれば、
「秀次が生きていれば豊臣家も安泰だったろうに」などとさぞ惜しまれたことだと思われます。>
そりゃないわ、何の実績もない秀次と秀長を同列に置くのはムリ。
>>342 まがりなりにも奥州平定の実績があります。
秀長に比べたらそりゃ実績はないけれど、
その辺は同世代の2世大名も同じ。
死んだら美化200%で「若き俊才」扱いになるのはまちがいない。
344 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 23:35:34
お神輿乙。
単にひでyしが箔をつけさせようとしただけさ。
346 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 18:31:33
吉宗
紀州は良いとこ日の光。
てんてん手まりのてんてまり。
てんてん手鞠の手がそれて
秀次自身の実績・力量より地位だろ。なんたって関白だし
実績があったからこその地位かと。
ほかの親族はたいした地位をもらっていませんからね。
秀長が一番血の濃い親族(兄弟)だったのも確かだが。
352 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 19:02:06
age
>>338 くやしくて、くやしくて仕方がない?
分かりました、ならばこう叫びなさい。
謝 罪 と 賠 償 を 要 求 し る
あ い つ の せ い だ あ い つ が 悪 い あ い つ を 殺 せ
謝 罪 と 賠 償 を 要 求 し る
あげ
356 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 09:31:44
age
357 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 15:42:48
秀吉は中国皇帝として全アジアを支配に置き、秀長を日本国王としたかった。
秀次は長久手の失敗が痛すぎるわな。
>>338 >秀長にしても「蓄財魔」との悪評があり
秀長が金を貯めていたのは
領土内の不平不満を持っている寺社や豪族どもを金で慰撫するためとか、
金に困ってる大名に貸し与えたり大名間の調整のために使ってたわけで、
秀長自身の私利私欲のために使ってたわけじゃないだろ。
蓄財魔=倹約家で悪いことではない。
361 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 18:58:01
蓄財魔と悪評判だった大名
徳川家康 黒田如水 羽柴秀長
大仕事した奴ばっか、イザと言う時に蓄えておくのは武士の心得なのである。
おおっと、そこに伊勢宗瑞も加えて貰おうか。
363 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 02:19:49
それで大和も平和になったんだからいいんじゃね
というか他の大名は金をためてなかったのか?
普通の大名なら貯めるでしょ
馬鹿な大名は奢侈のめに浪費したり考えもせずに恩賞などを与えまくって財政破綻
366 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 21:24:23
死因は何だったの?
お墓は?
結核じゃないか。
368 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 09:38:47
369 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 18:11:29
少なくとも、秀長が秀吉より長生きしてれば秀吉が臨終の時に
家康に「息子を頼む」なんてことは言わずにすんだだろう・・・
秀長が生きてる内は、豊臣子飼いの大名たちも分裂することはなかったのでは?
そりゃそうだよ。
371 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:31:14
>>371 それが秀長クオリティ
まあ、地味な補佐役を地で行った人だからね
家康vs秀長+(秀次+秀家+秀康)の関が原を見てみたい。
これじゃあ家康挙兵する気も起こらないだろうけど。
秀次、近江八幡の治世を見るとそれほど凡庸ではなさそうだし。
若年で血気にはやった小牧長久手以外はそこそこそつなくこなしている感じ。
374 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:23:59
それでもダメな奴はダメ
375 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:24:03
その時歴史が…にもあったように、秀吉の弟・秀長思いのエピソードは、胸にくるものが
あった。思うに、秀長がいきていれば、と言うよりも、二人が仲良く協力している時期が
長ければ、家康の付入る隙は無かったというのが正解ではないか、と思います。
やはり、天下を取る器は秀吉、舵取りで暴走を防ぐのが秀長、秀吉が出陣する秀長の兜の
内側に秀長加護の札をつけてやる・・・この兄弟愛があればこそ、天下人にまで届く強運
と、当時の日本人の後押しがあったんじゃないかと、思います。黄金の兄弟とでも言うべき
か…。それが、ひとり秀吉が、肉親を失って、暴君になった時点で、家康ならずとも、"次"
を狙いうる存在が、出てきたんだといえるのだと思われるのですが。
376 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 23:48:30
秀吉と秀長、種は違えど畑は同じ
377 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 00:00:13
大政所の再婚時期と秀長の出生時期から秀吉四人兄妹は共に同父というのが新説。
この兄弟の個人的な武名は、さほど高くないようだが、使い捨てにされる士卒
時代に乱戦を戦った経験が多々あるので、決して弱かったわけでもないんだ
ろうな。
武士としての強さがないと誰も付いてこないだろうし。
379 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 18:48:30
武芸は、むしろ劣るくらいだったろう。武士でなかったのだから。
まあ、ここでいう武士も、江戸時代のように明確でないし、父親は鉄砲足軽といい、
半士半農といえたろうから、ある程度の戦の訓練は受けていただろう。
しかし、この兄弟は実質、事実上、農業に従事していたろう(秀吉は違うか?)から、
ほぼ全く武芸の心得は無かっただろう。
が、秀吉の進軍の神懸り的速さ等、武将としての、所謂、軍事能力はやはり
相当、秀でていたろう。それを認めているからこそ、家康も従わざるを得なかった。
それをサポート出来たんだから、秀長の将器も大した物だろう。
ただし、家康などのように、実際、刀を振るう能力のある武士ではなかったろう。
秀長で言えば、、それを先頭で代行してくれる家臣が、藤堂高虎だったのであろう。
380 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 20:50:00
>>338 >賎ヶ岳や根白坂における采配を秀吉から罵倒されたという話だってあります。
しかし、賎ヶ岳 においては、家臣たちの前で、わざと兄に罵倒させたという話もあります。
弟でさえ叱り付ける所を見せつけ、中川清秀の死に対する秀吉への反感、動揺を防ぐために。
そういう、もし逸話にしても、この手の話が残ると言うのは、秀次と違う点であり、やはり器
の大きな武将と言えましょう。
381 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 19:00:39
重盛みたいな性格だと思う
朝鮮出兵反対
秀次切腹
千利休切腹
という自滅の素は秀長の反対で彼の存命中出来なかったから
上の3つは全て秀吉が秀長死後死後行った
382 :
381:2006/11/30(木) 19:00:56
訂正 × 朝鮮出兵反対
○ 朝鮮出兵
× 秀長死後死後
○ 秀長死後
383 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 12:00:58
秀勝や秀保の暗殺疑惑は、充分あると思う。
が、鶴松病死と秀次の関白叙任の間じゃなかった?秀長の発病から死去は。
すると、秀頼の為の、強引な粛清はまだ開始されていないので、秀長暗殺
は無いでしょう。実際、秀吉は頼りにしてたようだし。
384 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 17:30:53
秀長は秀保を養子にしてたんじゃなかったっけ?
385 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 09:02:54
>>378 行軍スピードが、神業だったり。
そうすると、馬に乗りこなす運動神経なんかは、並大抵じゃない。
もちろん、武家に生まれて、成長過程で、叩き込まれたものではない。
剣術は、史実のとおり、不得手だったでしょう。つまり、さむらいとして、
刀や槍を扱うは、不得手だが、軍馬を率いての将としての器は、抜きん出て
いた。そう言えるのでは?
馬を操り、軍を差配する能力、いくさの戦略に優れていた。そうでなくては、
小牧・長久手のときの家康との睨み合いは成立しない。
百姓出身で、どうして?という疑問がおこる。普通はこうなる、という答え
は、同じ小牧・長久手の戦いで、甥の秀次が、身をもって示してもいる。そ
のギャップも面白い。ところで、この時、秀長は、どうしてたんだろう?
必死に救援にあたってもおかしくないのだが。
やはり、三河武士の勢いは、止められなかったんだろうか?
いずれにしても、出自の卑しい彼らが、どうしてそうなれたのか、そこが最も魅力
的な所じゃないでしょうか?
386 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 20:13:13
>>378 信長や家康だって槍働きでは有名でないんでねえか。
むしろ護衛のいる殿さんよりこの兄弟の方が凄いよな、
卑怯に逃げてて生きてるなら誰もついてこんし、信長の目にもとまらないhazu
三河武士の勢いて、別に攻めて来た訳じゃないからなあ、
中入りの禁忌を犯した池田が亜ボーンしただけだし。
家康かて信玄あいてに喧嘩売ってうんこ垂れたりとガッツのあるとこ見せてまんがな
389 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 19:11:59
ここで秀秋が登場ですよ。
思えば、信長の五男だった秀勝が生きていれば、まったく歴史は変わっただろうな。
しかし肉親死にすぎ。>豊臣家
391 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 14:58:20
子孫は細々と生きてます
>>385 小牧・長久手の頃は、秀長は伊勢を平定中で織田信雄を追い詰めていたところ。
394 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:54:36
>>385 近年の研究では、「秀吉の出自は武士階級」ということになっている。
395 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 18:01:27
講談社日本の歴史15で、
元々父弥右衛門は尾張の百姓で信秀に足軽として仕えたが負傷して帰村した。
とあるのは間違いか?
396 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:59:43
小一郎さん萌え
>>385 小牧・長久手の時の秀長は紀伊攻めの総司令官。
雑賀や根来の残党をつぶして家泰の同盟者を消し、
同時に本拠・京大坂の安全を確保した。
秀長が小牧長久手に来ていれば、第二軍団の指揮は
戦術レベルで何の不安もなかっただろうけど、
紀伊を押さえることは戦略レベルで必要だった。
実際、家康が屈服したのは、こうした戦略レベルで
味方になる勢力がつぶされていったから。