1 :
日本@名無史さん:
実際、吉継はスゲーよ。関ヶ原でも一番活躍したし。
全然有名じゃないけど。
月光仮面?
3 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:14:17
だれ?
4 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:32:17
ハンセン病だったんだよな。
5 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:47:49
でもがんばったんだよ。
秀吉に「百万の兵を指揮させたい」と言わしめた男。
6 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:50:28
死後、小早川を呪い殺したんだよな
7 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 02:52:41
死せる吉継、生ける秀秋を殺す
8 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 03:05:51
大好物は肝!
肝萌えヨッシー、千人斬り。
10 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 03:24:45
今も関ヶ原のどこかには吉継の首が埋まってるんだぞ。
日本は殆ど酸性土だから、ヨッシーの頭骨も溶けちゃったん
じゃないの。
12 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 03:34:15
首は溶けたとしても、魂はそこに残ってるんだよ。
13 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 06:00:44
息子は大阪の陣で亜ボーン
鼻水ぽっちゃん
15 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 11:29:11
石田三成に恩義友諠を感じていたが為の西軍参戦
だったっけか・・・
三成に、もう少し人徳があれば負けるにしても、
あれほどの大敗にはならんかったろうに。
まぁ、秀頼が出陣しなかったのが一番痛かったん
だろうが。
それにしても、三成ってのもおかしな人だな。
片方で嫌われまくるかと思えば、大谷吉継や直江
兼継には慕われたって言うんだから。
この人は、もう少し有名になってしかるべき人だ
と思うんだけどねぇ。
ライ病だっけ?
今でも十分実績以上に名が知れてると思うけど>大谷吉継
元は北方の一大名、しかも負け組み西軍に属した武将なのに
三成との友情話のおかげで家康・三成に次ぐ関が原のメインキャスト扱いじゃん
18 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 14:03:06
癩病患者だった話は有名ぢゃ。
尤も彼一人に限った事では無いのぢゃが・・・。
19 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:30:42
吉継age
茶会ん時、吉継から回って来た茶を
他の武将は病気がうつる、汚いと
吉継が盲目なのを良い事に飲むフリしてたんだよな。
でも三成は全部飲み干したんだよ。
素敵やん…。
20 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:35:32
俺が聞いた話では
茶会のとき吉継は自分にまわってきたとき
膿が茶の中に入ってしまった。
みんなに見られたかもと固まっていたら三成が
「すいませーん、喉かわいてるんで先に飲ませてください」
とその茶をいっきに飲み干してしまった。
だった
21 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:48:25
22 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:55:04
関ヶ原で勝ったとしてもライ病に苦しんだかもな<石田三成
23 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 16:17:08
寄るな、触るでない(家康
TVドラマで高橋幸治さんがやってた吉継は最高にかっこよかった
25 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 19:01:34
>>24 禿同。
そして吉継は武将の中で一番好きだ。
26 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 21:30:33
スレッド違いますが
続戦国自衛隊の
マシンガン乱射して孤軍奮闘の吉継萌え
27 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 01:32:04
兵力が600前後だっけ?やるわねぃ…
28 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 01:50:54
この人は、いったい何した人なの?
関が原で親友三成のために命を散らせた、ライ病(ハンセン病?)だった。
くらいしか知らんのだけど
29 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 13:20:13
娘は真田幸村の正室。
幸村も不利を承知で岳父同様に豊臣家に殉じた。
この二人には侍の美学・武士道を感じる。
圧倒的不利を承知で、強大な敵に闘争心たぎらせることが大和魂。
30 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 16:26:32
配下の人望も厚かったね。
最期は皆、目の見えなかった吉継の前を
馬に乗って名乗りながら敵陣に突撃していった。
その後吉継は切腹する。
そのとき介錯した配下・・・当然吉継のクビを埋めた人なのだが(名前忘れた)
クビを埋めた直後に旗本に討ち取られる。
その際
「俺が討ち取られた場所(=クビを埋めた場所の近く)は誰にも言わないでくれ」という約束をする。
討ち取った旗本も戦国の三河武士らしい、無骨な人物で
戦後、家康に「吉継のクビを確認したいから場所を教えろ」といわれたが
「絶対イヤだ」と答え、約束を守った。
いい話だね。
31 :
野呂一拍:2005/08/10(水) 18:29:43
埋めたのは湯浅五助だったよね確か…
32 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 10:45:55
裏切って山を駆け下りてきた小早川勢を逆襲し、逆に500mほど敗走させたのがイケてるよな
関が原は詳しい記録が残っているから面白い。
大和民族が愛して止まない不世出の義将でつ
34 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 01:56:10
保守
35 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:03:02
学生時代に関ヶ原にある墓に線香上げてきた。
一人でチャリで行ったが途中で階段あるわ工事やってるわで大変だった。
今となっては懐かしい思い出だが。
36 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:09:28
大谷吉継は木曽義仲、真田幸村に並ぶ好きな武将です。
大谷吉継は義人です。
だからこそ好きです。最期に泣けました…
残された妻子や親、家来とその家族の安寧を確保できた上で、
負けを承知の戦いに望むのならば、それこそ本懐だが
逆に死地に身を投じた末に、残された家族を省みずに路頭に迷わせるようでは義人でも何でもない。
ただの身勝手だ
38 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 12:15:38
言っちゃわるいがこういうスレは三戦板に立てた方がいいよ。
ちなみにこの日本史板の関ヶ原スレでは
大谷の三成との友情話などを否定する辛口の意見が多かった。
例えば三成との茶会で助けて貰った話しは信頼できる史料にはない講談話しだし、
大谷が西軍についたのは友情のためなどではなく立場上、奉行派につかざるやおえなかったから、
という事らしい。
彼は三成や小西とともに武断派を球団する役割だったからね。
こういう意地悪でロマンを崩すような意見が
日本史板には多いから三戦板にさっさと行った方がいいよ。
鼻汁云々や三成の挙兵を止めた云々は歴史的に疑わしいとしても、
関ヶ原本戦でやる気のない他の西軍諸侯と違い、
東軍と真面目に戦って壮絶な死を遂げたのは事実だろ?
それだけでも十分顕彰に値する
43 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 21:25:54
大谷吉継 名武将!
44 :
大谷山脈:2005/08/21(日) 11:23:04
俺も大谷刑部大好き!戦国武将で一人挙げろっていわれたら
「大谷吉継」って即座に答えるだろうね。
あの関ヶ原のシーンで白い頭巾と戸板に担がれての進軍は
泣かされるね。司馬の「関ヶ原」の大谷の台詞
「死ねや、死ねや」だったっけ。ああ思い出しただけで
目頭が熱くなってきたよ。
昔、テレビドラマ(多分月曜8時TBS提供ナショナル)で萬屋(中村)錦之介が
真田幸村をやったやつでは志村喬が演じていた。
当時、小学生か幼稚園だったが、なんでこのおじさんは
覆面しているのだろうと疑問だったが、それでも子供心にかっこよかったなあ。
45 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 11:54:18
葵三代で吉継が佐波山に戻って一言
「お主も馬鹿じゃが、わしも大馬鹿じゃあ」
ちょっとグッときたよ
46 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 02:55:34
幸村の娘は伊達の・・・小重郎(?)に
嫁いだよね。えーっと、名前が出てこない・・・。
コーエーの「決戦」では大砲が使える便利な武将だったな。
俺もこの武将好きで、RPGで名前つけるときはこいつと宇喜田秀家をよく使う。
↑三戦板逝け
秀吉存命中の敦賀統治と港湾整備&貿易の手際とかいいやね
目が見えなくなって不自由な身になりながら、兵を鼓舞、指揮した将軍・・・
といえば、麻原もそうだな。
よって、麻原=平成の大谷刑部
断固拒否する
52 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 07:24:44
>>50に判決。
その暴言に禁固200年
三日の断食と一年のおやつ無し
此処から永久追放!
53 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 12:03:18
吉継は何処出身だと思う?
さすがに大友家臣説は電波だろ。
無難に近江だよな。
54 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 13:24:24
足立区谷中じゃなかったかい。
本木じゃないよ。北綾瀬のほうだろう。
55 :
50:2005/08/27(土) 23:22:02
あはは、麻原=平成の大谷刑部、うけた?wwww
ま、それはともかく、俺も刑部、好きだよ。
関ヶ原では東西通じて最も好きな武将。生きざまがかっこ良過ぎる。
俺が死ぬまでに一度は彼の墓参りをしたいと、マジで思っている。
56 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 04:58:32
カッコイイ!
57 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 07:13:58
そう、大谷吉継はカッコイイ。
意外かもしれないけれど、日本人が好む武将は
中国史ならば三国志の趙雲。日本の戦国時代なら
大谷吉継なんだそうな。
「訓録・仁義なき戦い」(徳間)に書いてあったが、
何かの本の帯でもそんな記述があったよね。大谷の本だったかな?
真田親子もそれはそれで格好いいが、
大谷吉継のそれはなにかステージが違うような気がする。
滅びの美学と簡単に云えない なんだろう?
「信義」かな?
義理人情じゃないか?
家っていう共同体の重みが嫌って程身にしみてて、
現実的には37っぽい考え方が暗黙のコンセンサスになってる世界だからこそ
敢えてそれを破ったように見える生き様が
余計に非常の生き方に感じられるんだろうと思う。
59 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 11:02:55
でもさあ、「義理人情」っていってしまうと
なんか、ほんのちょっぴり軽い感じしない?
寅さんとか健さんとか のイメージがどうしても
邪魔してしまう。
いつの時点で発病したの?
61 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:01:28
五奉行とかが固まる前らしい。
奉行の一人に選ばれてもおかしくない人物。
もっとも福島正則も奉行的な仕事をやっていたので、武将派 対 吏僚派 はさほどの違いはない。
秀吉の取り巻きで、地方派遣されたのが武将派
最後まで中核にいたのが吏僚派
このあと朝鮮の役で決定的にこの二つのグループの対立が発生する。
62 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 12:22:10
もっと前じゃね?>発病
九州征伐の頃には発病してたっぽい記述あったような…
義理人情があったか知らんが
政治、軍事共に才があったのは確かだね
身動きもままならないのに最後まで家臣が逃げずに討ち死にした所を見ると
人望も兼ね備えていたのも確かだ
領地が少なかったのが悔やまれる
契りあれば六つの衢に待てしばし 遅れ先だつことはありとも
こんなこと言ってくれんなら
そりゃ命をかけて仕えますよ
65 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 15:23:40
64>よくいった!
いいコメントだ!座布団三枚。
「衢」ってなんて読むの?
声に出して口ずさんでみたいな。朝夕に。
67 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 19:38:43
>>64 同意!!!
私が戦国時代にいたら、ホントに一生かけて仕えますよ・・・。
68 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 22:15:42
俺が聞いた話では
乱交パーティーのとき、吉継から回って来た女を
他の武将は病気がうつる、汚いと
吉継が盲目なのを良い事にやるフリしてたんだよな。
でも三成は本番した。
だった
69 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 22:48:37
それは、お茶じゃなかったっけ!?
70 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 11:55:12
えっ?お茶々と?
なんとまた赤裸々な。
71 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 16:01:08
あんまり知られてないけど母親は秀吉の側室だったんだよな。
慶長の切り裂きジャックの時に一切御詮議無しだったのもこれと関係あるかも。
72 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 19:45:52
73 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 09:12:13
>>72 いや実際吉継じゃなかったでしょ?
てか生き血とか化け物扱いだよな…
ケガレもいいところだ。
74 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 17:40:30
>慶長の切り裂きジャック
ってなんですか?
75 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 18:00:17
吉継なんて、過去スレで散々語られている・・・
こと以下なクオリティだなこのスレは orz...
76 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 18:05:54
吉継は三成の誘いを
「我々が束になっても内府にはかなわない。それに今の平静を乱すのは反対だ」
と、一度断ってるんだね。
そして佐和山から垂井の陣所に戻って考え直し、天下最強の家康を向こうに回して戦おうとする三成の心意気と
その三成に対する友誼とかつて茶会で受けた恩を思い、三成と共に戦って果てようと決意した…。
かっこいいなぁ…清水宗治にも勝るとも劣らない高潔の士だ。
77 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 21:03:54
石田三成って小利口者で当時の武人から
忌み嫌われ、歴史の評価も高くはないけど
大谷吉継といい、上杉家の家老 直江兼続といい
いい親友がいたな
三成にもどこか魅力があったっていうことか
78 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 21:17:24
79 :
77:2005/09/14(水) 21:58:43
>>78 豊家に対してだけは忠臣だったな
その他の人間には倣岸不遜な人物と
受け取られていたし
行政手腕があってもその手法が強引で
またズルいところがあって
大名からも恨みを買っていたようだ
それでも義理堅い大谷刑部からは
「危なっかしいけどどこか放っておけない男」
だったのだろうよ三成は
80 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 22:32:53
>>77 それそれ、俺も前から感じていた。
三成の評判というかこれまでも描かれ方はだいたいそんな感じで
司馬も嫌っている。
でもさ、俺は大谷吉継ファンだけど、直江兼続も超好きだよ。
この二人を親友にする三成の人物像って、もしかすると実際とは違うんじゃないかな。と。
類は友を呼ぶともいうけれど、それとも乃木と児玉と福島だったのかな。
81 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 23:39:22
三成の行政能力を、例を挙げてどうか教えてください。
>>46 「鬼小十郎」片倉重綱だな。
ルックスもイケメンな重綱は小早川秀秋にストーカーくらってたこともあるらしい。
>>77 個人的に三成は優等生な学級委員みたいなイメージがある。
現代でも正義面して教師に告げ口する奴とかって嫌われるじゃん?
ただ、言われてるような冷酷なイメージはないなぁ。
司馬遼太郎はむしろ三成贔屓だと思うが
関ヶ原では主人公として好意的に描かれてるし、初芽なんて架空の愛妾までつけてもらった
覇王の家で主人公であるにもかかわらず冷めた見方をされた家康とは対照的
85 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 15:57:54
家康に対しては相当「好かん」気持ちが
読者にもひしひしと伝わってきたよな。
そうか、「むしろ三成贔屓だと」
なるほどね。昔読んだんでかなり記憶が風化してしまっているのかな。
84さん、有難う。機会があったら読み返してみますよ。
86 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 17:04:45
佐和山が落城したとき、
人々は太閤秀吉の寵臣として一大勢力を築いた三成だから城内もさぞ絢爛豪華であろうと噂したらしいけど、
実際はほとんどが板張りや荒壁だったんだってね。
何となく三成の人柄が偲ばれる。
さんざん嫌われても大谷や直江、佐竹義宣が三成を見捨てられなかったのはわかる気がするよ…
87 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 19:01:54
戦下手と言われるけど秀吉がやった
中国大返しや賎ヶ岳の高速ワープは三成が兵站をカバーしたからだからね
88 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 20:37:19
関ヶ原以前の大谷の実戦経験ってどうだっけ?
朝鮮で城攻めしてなかった?
89 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 20:47:50
三成と忍城(ry
90 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 13:07:28
>>82 よくそういうこと言われますが
そういう仕事に従事していた、ということと
その才能が優れていた、ということはイコールじゃないと思うんです。
「すっげー才覚!」
ってのがわかるエピソードがあると嬉しいのですが。
大谷くんも、「すっげー采配!」ってのがわかるエピソードがほしいところです。
偽文書で前田軍を帰宅させた、ぐらいしか・・・
92 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:20:49
大谷の場合は秀吉の「百万の軍£率いさせたい器量」という激賞が有名だが、
秀吉は激賞癖が酷くてあてにはならない。
彼が激賞した人間は数十人に及ぶ、
93 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 15:37:53
関ヶ原で奮戦と言われても
彼は盲人だったんだから、
あんまり采配に技術が反映されたとは思えない。
むしろ部下が頑張って指揮したんだろ。
大谷隊を指揮したのは平塚為広。
95 :
下駄さん:2005/09/16(金) 22:01:27
>>83 有難う御座います。
「鬼小十郎」片倉重綱でしたね。
自分で質問していて忘れていたでがんす。
それで、小十郎とは代々継がれる名とか聞いたような勘違いだったか・・・。
昔、大河ドラマで「独眼龍政宗」やりましたよね。
この婿殿は西郷輝彦が演じた小十郎なんですかね。
それともその息子が花婿さんなんですかね。どうか御指南をひとつ。
96 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 23:16:39
ちょっと大谷を美化しすぎ。
関ヶ原で奮闘した件にしろ、
彼の部下や家族はどうなるんだ?
仮に「友情に殉じた」が事実であろうがなかろうが、
彼のために尽くした家臣は討ち死にし、所領を失うのだが。
97 :
日本@名無史さん:2005/09/16(金) 23:50:09
>>96 いや、価値観が違うのではないだろうか。
武士という生業はそのようなものだったのだろう。
気持ちは十分理解はできるのが、原則論のようですまん。
>>96 大将に付いて行けないとなれば他家に移ればよい
当時の武士は色々な家を渡り歩いているだろ
小早川家の松野主馬などはそのさいたる者
>>98 なかなかそういうわけにはいかないだろう。
100 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 02:29:25
>>97-98 何はともあれ、自分の家族や家臣のためを思って、
関ヶ原や大阪の陣で徳川方についた連中は決して、エゴイストと切り捨てられる連中ではないぞ。
彼らなりに優しい連中だったと思う。
>>)~
>怪文書で前田軍を帰宅させた
あれはむしろあんまりやる気のなかった前田が大谷の文書を利用して帰宅したのだが。
意図的に騙されたとでも言おうか。
>>97 それは江戸時代中期以降の武士観だと思う。
吉継は自家の政治的な損得を考えて西軍についたはず。
必要以上に美化されているのは、徳川の三成奸臣化政策によるものでしょう。
吉継ファンだけど、そう考えています。
103 :
102:2005/09/17(土) 10:15:21
>>102 >それは江戸時代中期以降の武士観だと思う。
そうだね。たださ、それが定着化、原則化するには、何某かの原型が必要じゃない。
吉継の凡例は徳川(一般的)でも評価したんじゃないのかな。
「三成奸臣化政策」に逆利用するのは手が込みすぎているきがする。
まあ、利用する側の意図(結果的に)と一致していたともいえるのが。
104 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 11:04:17
>>101 俺、「怪」文書なんて書いてませんけどwwwww
我が家は明智と同じ桔梗の紋で大谷姓
関が原で敗れて少数の家来を連れて武士を捨て密かに南関東に移り、
荒地を開墾して居ついたと伝えられるんだが
大谷吉継とはなんか関係あるのかな
106 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 17:14:07
大谷吉継って娘婿の真田幸村に似てますね。
関が原の戦いのみで、その名を大きく歴史に留めた。
まあ、病人なのによくやったと思う。
108 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 20:38:34
大谷吉継は関ケ原時、目が見えなかったようですね。好きな武将だなぁ。
娘婿の大阪の陣の死は吉継の影響があるんじゃないのかな。綺麗に考え過ぎだろうか。
盲目で出陣した吉継も負け戦に身を投じた真田もかっこいいよ。震えを覚える。
吉継の義民気質が大好きなんだよなぁ
110 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 13:18:13
109↑同感です。
111 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 13:47:39
彼の宿痾はまことに癩病かゑ?
112 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 16:14:20
脇坂あたりにやられた武将でしょ?
強いの?
高台院と親しければ、東軍に付いた。
昔の職場に大谷吉継の子孫がいた
115 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 17:28:33
>>112 でもさ最終的には10倍近い、軍に攻撃されて壊滅したんだしさ。
その中に脇坂がいたというだけ。
目も見えず、鎧が着られないくらい体も衰えてた大将なのに
兵たちが全滅するまで戦ったっていうのが超燃える
本当、人格者だったんだろなあ
大谷隊の最期は吉継を円の中心にして討死にするんだよね?
119 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 21:33:48
むしろ前田利長を撤退させた手腕が評価できるかと。
グル説もあるが、まあ普通に策にハマったって所だろう。
120 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 23:58:00
実際、手勢はどのくらいいたのかな?
資料によっては2,000とかも言われてるし、600ってデータもあるし、
どの辺りが正解なんだろ。
121 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 14:27:47
所領は5万石だから一般的な算出から言えば1,000〜1,250程度かと。
その他にも豊臣家の蔵入地とかの収入もあったと思うから、もう少し兵は
出せても不思議ではないかなと思います。
122 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 14:34:12
目はめしいて、身体は乗馬出来ばかりか鎧にすら耐えれぬ程の
有様で、配下の兵達は死力を尽くして全滅まで戦い抜いたってのは
異様な戦意だと思う。余程、家臣に慕われていたのだろう。
戸田・平塚の両氏も特に大谷とは結びつきも無かったであろうに、
小勢ながら尋常ではない戦い振り…。
やはり一角以上の人物であったのは間違いないでしょう。合掌
本当この人には魂を揺さぶられるよ。逸話もジーンとくるものが多いね。
吉継がメインの小説ってみた事がないんだけど、あるかな。最期がこんなにもかっこいい武将は自分の中では吉継だけだ
>>123 けっこうあるよ。俺は↓これ読んだ。
名将 大谷刑部 新潮文庫 南原 幹雄 (著)
可成りのボリュームだからけっこう読むの大変。
あと吉継ファンにはこれがおすすめ。
↓
大谷刑部のすべて 人物シリーズ
花ヶ前 盛明 (編集)
目次
大谷刑部とその時代
大谷刑部の家族・一族
大谷刑部と豊臣秀吉
大谷刑部と朝鮮役
大谷刑部と徳川家康
大谷刑部と石田三成
大谷刑部と前田利長―北国計略と謀書の作成
大谷刑部と西軍の武将たち
慶長五年九月十五日の大谷刑部
大谷刑部逸話集〔ほか〕
>124
おお!ありがとうございます!
さっそく購入してみます!
関が原って、ようは徳川一辺倒に権力が集中していくのを
耐えられない人達が奮戦したんじゃない?(西軍)
島津は、三成もそうだし徳川も気にいらなかったと・・。
加藤清正も福島正則も気がついていたんだよ・・徳川の考えをね。
後年愚痴る福島に加藤は言ってる
謀反の準備でもするかい?城建設の役を押し付けられた際にね
三成は、豊臣恩顧のあまりも不甲斐ない行動に信じられない様子だったけど
大谷はドライに考えていたんじゃないかな?
病が、そうさせたとも言うし友情がそうさせたのかも・・それはわからん。
どこか後ろめたい東軍に、腹をくくってた西軍(実質戦っていた人達ね)
勢いだけでは勝てないって事だねぇ
大河で大谷吉継やったらヒットするかな?
>128
関ヶ原までの前身を考えると一年もつのかって感じがするけど、個人的には見てみたい。
ラストの演出がどうなるかとか、友人や部下上司との関係とか、是非映像化して欲しい人だ。個人的に。
島津は最初東軍行く予定だったけど伏見城で追い返されたんじゃなかったっけ
>>95 ドラマ見てないから分からないけど親父が景綱で息子が重綱。
政宗の相棒は景綱の方
132 :
下駄さん:2005/09/29(木) 15:31:13
>>95 様
有難うございます。
積年の胸のつかえがとれました。
133 :
乗船員:2005/10/04(火) 18:56:01
ゲタサン スグ カエレ
キョネンハニチロセンソウ100ネン
デ マツ
134 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 19:32:35
刑部:「ワシはめしいておって、おぬし等の戦振りを目にすることが出来ぬ。
めいめい名乗ってから行くがよい。」
・・・・名乗りを挙げて一騎また一騎と雲霞の如く押し寄せる小早川勢に突撃を
していく大谷家馬廻衆と近習の面々。…そしてやがて静寂…。
刑部:「五助よ。…皆死んだか。」
五助:「…はっ。みなみな見事な最期にござりました。」
刑部:「そうか…。手仕舞いと致そう。…佐吉よ一足先にゆくぞ。
…五助、我が首を打ちて埋めよ。病み崩れたシルシを敵方の手に渡すな。
頼むぞ、五助。」
五助:「し、承知仕りました。…殿、御免!」
負けると知りつつ己を知る友の為に戦場の露と消えた大谷刑部少助輔吉継。
その最期も義将と呼ぶに相応しい最期だ。…泣けるよォ
駄目だ、朝から涙でそうだ
吉継かっけぇ…
136 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:57:28
このあとの湯浅五助と藤堂仁右衛門の約束までを一巻としてほしい。
>花ヶ前 盛明
このおっさん色々書くね。
138 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:07:50
朝方より、数倍の藤堂・筒井勢を相手に獅子奮迅の働きを見せた大谷勢であったが、
金吾中納言8000余の返り忠により、戸田・平塚の与力衆も討ち取られ総崩れとなった。
藤堂和泉守の一門、藤堂仁右衛門は崩れながらも死に物狂いで立ち向かってくる大谷勢
残党を掃討しつつ良き手柄を立てんと戦場を馳駆していた。
やがて大谷本陣の辺りで仁右衛門は黒革威に身を固めた然るべき身分であろう侍がうずく
まっているのを見かけ、声を掛けた。
仁右:「やぁやぁ、そこにおわすは大谷家中の物頭と御見うけた致す!それがしは藤堂泉州が
一門にて仁右衛門高刑ともぉす。」
疲れ切った様子の侍はかすれた声でようやっと答える。
五助:「…湯浅五助じゃ。」
仁右:「なんと!」
仁右衛門は思わぬ幸運に奮い立ったが、大谷家中にその人ありと言われた
槍の名手で高名な湯浅が己の手には余るかと思ったが、そこは仁右衛門とて
侍である、ままよとばかりに槍を数合合わせると思いのほか容易に五助の
高腿を貫く。五助も未練なく槍を手から離すと太刀で仁右衛門の槍を手元
から切り落とした。
やむなく双方組討せんと身構えた時、五助は太刀をも投げ捨てると仁右衛門
を制してこういった。
<続く>
139 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:23:33
>続き
五助:「申したき事が有るゆえ、暫し待たれよ。」
と消え入りそうな声でかろうじて告げる。
「実はそれがし、我があるじ刑部少輔の介錯仕り、ミシルシをこの辺りに埋め
申した。知っての通り主は病を得て晒されるのに忍びない有様でござる。
ここで貴殿に出おうたも縁、我等に替わってわが主の後生を弔って頂きたい。
この事存知おるのは足下しかおり申さず。ゆめゆめ他言なさらぬ様、お願い
申し上げるのみじゃ…。」
仁右:「…五助殿、御安心召されい。この一事、たとえ何びとたりと他言致しますまい・」
五助は大いに喜んで言う。
五助:「かたじけない、誠にかたじけない。…では我が首進ぜよう。」
五助は槍を取り直すと形ばかり一合槍を合わせ仁右衛門に討ち取られたのであった。
<続く>
140 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 21:46:39
<続き2>
関ヶ原の合戦が終わり、首実検が行われた。仁右衛門は討ち取った湯浅五助の
シルシを家康に献じた。
家康:「この兎口、まごう事無き高名な湯浅五助に相違なし!じゃが…五助ほどの
侍大将があるじ刑部少輔から離れて討死とは。仁右、そこもと何ぞ存知より
の事があろう。」
仁右:「知り申さずという訳にはござりませねど、湯浅五助に何人であれ、
他言せぬと堅く約定せし上で槍合わせ故、申し上げる事出来かね申す。
たとえ内府公直々の御所望とあっても、これは武士と武士の約定にござる
ゆえにご希望には添いかね申す。無礼と思し召さば、如何様なる御処罰とて
甘んじてお受け致すのみ。」
と恐れずに申し上げた。居並ぶ徳川家重臣衆は色めきたったが、意外にも家康は
機嫌よくカラカラと笑いつつこう言った。
家康:「何とも律儀なるやつではある。有体に申さば抜群の軍功となろうにの。
和泉守もなかなか良き家臣をお持ちじゃな。」
その後、家康は藤堂家に何の咎め立てもせぬばかりか仁右衛門に太刀・槍などを
下されたという。
後に藤堂仁右衛門は五助の死を賭した約定を守り、大谷刑部の墓を作り毎年の
供養を欠かさず続けたという。
<おわり>
141 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:24:40
142 :
138:2005/10/05(水) 22:31:53
>>141 ありがたし。
大谷刑部、本当に泣かせるね。
本来、家康は好きではないがこの件のさばきは御見事。
武士の棟梁ですな。
143 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:32:16
144 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:14:50
>140 これには後日談がある。明治になって仁右衛門の子孫が五助の兜を五助の子孫に返したのだ。仁右衛門の子孫は今でも三重県に住んでる。
145 :
GTS:2005/10/05(水) 23:25:43
>>141 いやあ、よかったね。感動したよ。
有難う!
146 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 23:26:40
>140 これには後日談がある。明治になって仁右衛門の子孫が五助の兜を五助の子孫に返したのだ。仁右衛門の子孫は今でも三重県に住んでる。
147 :
140:2005/10/06(木) 07:46:15
>>144>>146 ほぉ、それは初耳。良い話しですな。仁右衛門は湯浅の兜を残してたんだね。
湯浅五助という人物は関ヶ原後半のエピソードしか知らないんですが、討ち取った
後に兜まで残したという事は当時はかなり有名な人物だったんでしょうな。
大谷刑部を弔う際に五助の兜も持参したんだろうか…(泣)。
湯浅五助のエピソード御存知でしたら教えて下さい。
「慶長記」より。五助の人柄の良さが伺えますね。
(前略)此五助は関東■(ろう)人馬のりにて形(刑)部少輔馬屋別当小身
なるもの、其上新参もの、三十余なるものなり。(中略)五助とは岡部小衛
門・富永主膳・中田六兵衛なと知音にて常々寄合語候ていかにもしつかに物
やわらかなるよきものと申されしなり。それほと主人の用に立申候。
149 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 07:51:53
>>148 そんな記録もあるんですね。五助の人となりの一部が垣間見得ますね。
バロン殿、ありがとうございました。
150 :
日本@名無史さん :2005/10/07(金) 23:27:34
ハンセン病と言われているが
当時流行の梅毒という説もある
梅毒も進行すると皮膚がボロボロになったりするし
体のいたるところに合併症が出る
感染経路から症状から何もかも全く違う病気。
治療法・対処療法の無い当時の強い梅毒だったらそんなに長く生きてられない。
20代で発病して40過ぎてまで生きてられない。
小早川秀秋、結城秀康がイイ例。
やはり天刑病だろうな
大谷吉継の小説なら、俺は山田風太郎の短編をお勧めするね。
「刑部忍法陣」
もともと大谷は、関が原での三成の蜂起は無謀で止めさせたかった。
しかし、この人の娘婿は、あの真田信繁。
当然、真田側もなんとかして大谷家を味方に引き入れようとするわけ。
伝記に記されている記述をもとに、このころの大谷刑部の不可解な
うごきと忍者猿飛佐助によって、しだいに歴史の展開どうりに物語は
すすんでいく。
いつも思うんだが、山田風太郎はオチのつけ方が抜群にうまい。
154 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:38:12
刑部殿、落ちるにはまだ早し。今一度age申そう。
>>152 止めさせたかったって、刑部には極秘だったじゃん。
垂井から息子迎えにきたというマヌケぶりを発揮している。
三成も冷たいよな。
156 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 10:19:01
その段階では上杉と通じてるだけじゃないか?
その次に刑部に打ち明けて、人望がないから無理だと諭され、
毛利とか宇喜多を担ぎ出した筈。
真田は自分でも知らなかったと記してたような
三成にそんな書を出していたような気がする。
というか、蜂起自体極秘なんだからそう巧く味方組めないよ。
158 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:17:02
まぁ洋の東西を問わず決起っていうのは世相と勢いだからな。
徳川支持の勢力と日和見の連中はともかく、徳川勢力との間に何らかの利害関係
ある大名たちの間には反徳川的な雰囲気があったのは確かだろうし、家康はそれをも
利用したところが恐るべしってとこだね。
159 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:32:19
>>26 それ漫画ですか?
戦国自衛隊の関ヶ原バージョンがあるなんて知らなかったんですが・・・
>>158 まぁ根本的な話し、利害関係に関係無いところで命掛けたりしないわな。
謹慎させられてた三成だってあのまま黙ってたら、難癖付けられて改易必至だし
大谷もあの時点では早計と判断しても、いずれは徳川が豊臣を疎んじるのは目に見てた
いただろうからな。反家康的な雰囲気も家康が作ったようなものだし。
161 :
日本@名無史さん:2005/10/20(木) 23:53:13
吉継あげ
いつか関ヶ原に墓まいりにいきたい
162 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 11:58:39
俺も
163 :
158:2005/10/21(金) 13:12:17
>>160 そう。そういう意味で家康はスゴイって事だな。
164 :
日本@名無史さん:2005/10/21(金) 21:27:09
>>160 武士の精神(こころ)はお前には一生理解出来ないんだろうな。
こころだけでどうにかなるなら誰だってそうするさ。
犬畜生と罵られようが家中の生活を考えてやれる殿のほうが
勇気も度量もあると思うがね。一介の足軽なら己を知るものの為に
殉じるのも良かろうが自分の体面や美学の為に己を信じてくれた
家臣をあたら無駄死させるのは単なる自己陶酔の末の我儘だ。
ヒロイックな小説じゃなくて政治の延長上にあった史実なんだからさ。
っていうか石田も大谷も恩や情だけで動いてたわけでもないだろ。
徳川の未来にはどっちも居場所はないが、
豊臣政権が長く強固になればどっちにも明るい未来設計がある。
脳内オッズが4:6ぐらいなら…俺ならのるね。
166 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 03:36:02
>>164 ヌルい江戸時代に出来た美意識だぞ?それ。
>>165 当時の武士の考えに近いんじゃない?
>>164の武士の精神なんて江戸期になって支配者に都合のいいように作られた思想。
もちろん日本人の中にそれを受け入れるのに都合がいい素地があったんだろうけど。
義に殉ずるって思想もあったと思うし。ただ、それじゃあ食えないよな。
勝つ方に付き、家中を安泰に導くのが当時のトップの義務。
小早川秀秋を悪く言うやつぁ俺が許さねぇ。
契りあれば六つのちまたに待てしばし
後れ先立つことはありとも
江戸時代の武士なんて当時の日本人口の10分の1程度
170 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 00:13:57
つうか、現代の合理論で四百年前の斬り合いを推し量って判ったような気になってる奴ら凄く笑える。
戦国武将こそ一番極端な合理論の体現者では?
戦と斬り合いは別のものだしね。
172 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 06:24:29
大谷は元々、生粋の奉行派。
石田や小西と共に朝鮮役では武断派を追求する立場であり、
長束などと同様、西軍につくのは当然とも言える位置にいた。
また三成との茶会の逸話なども江戸時代の信用性の低い書物に出てくるもので事実ではなく、
関ヶ原に三成の友情で出陣したというのも疑わしい。
さらに大谷の関ヶ原までの活躍はおもに吏僚としてのもので、補給などに功績があったのみ。
秀吉の「百万の兵を率いさせたい器量」なんてのも秀吉の激賞乱発癖から当てにはならない。
173 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 06:25:39
言い忘れたが関ヶ原の奮戦も盲人の彼がどれだけ、
采配をふるえたか疑問である。
たぶん、たいしてかかわってはいないだろう。
174 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 07:26:31
たぶん家来たちは状況とかを細かく説明したんだろうな、
そんで吉継は受けた報告から作戦とか出したいが、目が見えないからおおまかな命令をだすくらい、
あとは筆頭の家来が細かく指揮をすると、
そをな戦いだったんでね?
175 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 07:30:48
馬も一人で乗れないから逃げる事できない吉継カワイソス
>>169 そんなにいないよ。2〜3%以下。
そもそも農民からのあがりで食っている封建時代の武士がそんなにいたら大変。
ただし、薩摩や土佐など半農半士が残っている所はその限りではない。
177 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 11:38:08
>>173 いくら大谷が太閤秘蔵の家臣だったとは言え、失明の上、自力での歩行のかなわぬ
ような有様で采配は満足には振るえまい。
ただ言えるのは、盲目の重いハンセン氏病患者であった大谷刑部は越前の西軍諸将を指揮
し、加賀前田80万石、20000余の関ヶ原参戦を妨げた上、関ヶ原本戦でも最も難しい
位置に布陣し、あれだけの奮戦を指揮・継戦できた事は彼が相当の人物であることを
意味している。また大谷勢はれだけの小勢であり、大将は盲目の病身。普通あっという間に
潰走してもおかしくない。それが最期までおのが大将を奉じ、側面の裏切も含め圧倒的
な敵勢にあれだけの敢闘をせしめたのは,大谷刑部が家臣の並々ならぬ尊崇を集めていた
事の証左であろう。
単に失明したし病身で先が短かったから
自分の命を粗末に扱えたような気もするが。
しかし自分はともかく、家臣や兵の命まで粗末にすべきではない。
まあ現代人の感想ではあるが。
>>178 家臣、農民にかかわらず、現代の俺らみたいに10年先の生活などは全く考えられなかっただろう。
兎に角今を生きることで精一杯だったんじゃないか?
現代の俺らだって今を生きるのに必死だからな
国家100年の計とか妄想唱えてる人たちはともかく
181 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 23:13:06
大谷は大谷で勝つ可能性も多少はあるとは見てただろう。
ただ己の死期を悟って名を惜しんだかもしれん。
だが、それだけなら家臣がついては来ないだろう。家臣を粗末にしたという意見も
あるが、当時は主が気に食わねば退転する権利も家臣にはある。実際に織田秀信家中
はじめ東西どちらに加担すべきか家中が割れた大名家はある。真田・九鬼のケースもある。
大名自身が病が篤く、失明すらしていたとすれば普通のケースでは重臣等の合議で事は
進んだはずだろう。だが大谷家は違った。家中は主の判断を信じたということだ。
くどいようだが家臣・兵を粗末にするなという意見は分からんでもないが歴史を知っている
現代人だから言えること。
ああ、そうだ。
183 :
日本@名無史さん:2005/10/23(日) 23:47:02
>大谷は元々、生粋の奉行派。
>長束などと同様、西軍につくのは当然とも言える位置にいた。
とか
>大谷刑部が家臣の並々ならぬ尊崇を集めていた事の証左であろう。
とか、
「オレの妄想願望論」大杉。
>>183 大谷が奉行派で朝鮮の役で奉行として派遣され
三成・小西と共に加藤や黒田といった武断派を糾弾したのは事実。
立場的に奉行派であった。
別に妄想でも願望でも何でもない。
そんな人を見下した偉そうな事を言う貴方は何様?
私は一応、中部地方のとある大学の史学科卒だが。
185 :
184:2005/10/24(月) 06:51:47
元々このスレは三戦厨が勝手に立てて
周囲の「三戦板へ逝け」という忠告を無視して、
大谷のドリームを語り続けるスレだからね。
私のような史実を語る日本史板住民が現れると
スレ住民の無知さゆえ、
逆に「オレの願望妄想論」とか言われてしまうのかな?
186 :
177:2005/10/24(月) 07:08:28
>>183 ちゃんと読めよ、アンちゃん。
>大谷刑部が家臣の並々ならぬ尊崇を集めていた事の証左であろう。
この記述の前に病身の主で尚且つ小勢の大谷家の家臣達はあれだけの劣勢の中で
戦史に残る敢闘をしたんだよ。
現代の感覚で言えば、大谷家はワールドスタンダードから外れてきた規格の製品を
生産してる中堅企業。その上、社長は半病人で盲目。それでも社長は規定路線で
社を挙げて頑張ろうっていう感じで、社員一丸となって倒産するまで頑張るってこと
なんだよ。
願望・妄想と好き勝手に書きこむのは君の自由だが、客観的推察は出来る大人に
なりなさいな。
187 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 07:23:05
言っちゃわるいがこういうスレは三戦板に立てた方がいいよ。
ちなみにこの日本史板の関ヶ原スレでは
大谷の三成との友情話などを否定する辛口の意見が多かった。
例えば三成との茶会で助けて貰った話しは信頼できる史料にはない講談話しだし、
大谷が西軍についたのは友情のためなどではなく立場上、奉行派につかざるやおえなかったから、
という事らしい。
彼は三成や小西とともに武断派を球団する役割だったからね。
こういう意地悪でロマンを崩すような意見が
日本史板には多いから三戦板にさっさと行った方がいいよ。
考証の末残るロマンもあると思うけどね。
敦賀の港湾整備の話でもしようよ。
189 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 08:57:17
つーか
>>183は単なる荒らしだろ。
自分はソースはおろか意見すら出せない癖に他人を馬鹿にする
発言のみして自分が聡明だと思ってるバカ。
>>183が馬鹿にしてる連中は少なくとも意見なり考察なり
典拠示しなりはしてるが、
>>183はそれすらできない単なる掲示板煽り荒らし。
悔しかったらお前の意見・考察なり
ソースとなる具体的史料や典拠を出してみろ。
まあ出せるわけないがな。
なぜならお前、ただの人を煽って楽しんでる煽りだもん。
>>187 球団は糾弾の間違いだろ?
痛いとこ指摘されたからって、、、この瞬発キレ具合はいかがなものかと
>>190 「指摘」なんかされてないだろ。
「指摘」とはきちっとした反論ソースがあって初めて成り立つもの。
>>183はなんの典拠もソースも示さずに
他人の意見を否定しただけ。
こんなのただの煽りとしか思えん。
192 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 11:17:08
石田や大谷の家臣で生き残った奴は戦後、関ヶ原での戦いぶりを称賛されて他家からひっぱりだこだった。
>>191 「はい!オレです!」って認めてどうすんだよwww
2chで
>>183みたいな下等な釣りに引っかかるなよ。
荒れてるね。
>>183も悪いが
釣りに引っかかる奴も悪い。
自己弁護&収束努力キター
198 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 20:43:26
まぁガキな183は捨て置いて本題に戻ろうや。
>>188 敦賀港湾整備ってどんな感じなんですか?
厨房必死だな
200 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:03:01
おい、無駄にスペース使うなや。
201 :
日本@名無史さん:2005/10/24(月) 23:20:45
↑無駄な書き込み
とりあえず吉継は好きだ
203 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 14:13:07
俺も好き。関ヶ原で散った西軍の将という事実だけで十分興味深い。
204 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 12:14:16
しかし大谷家中の連中ってスゴイよな。
大将は不治の病で目は見えない。そんな状況で前田の大軍を相手にしようと
したり、天下分け目の決戦に出て全滅するまで戦うなんて普通できんよな。
あの頃は江戸期のような武士道なんてなかったから
人望によるものだな
あれでせめて2万も軍勢率いていれば
小早川の横槍喰らってもものともしなかったろう
いくらなんでも2千じゃ…
206 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 13:05:27
いやいや2万と言わず8,000でも良い。相当な働きはしただろう。
>205さんがいうように当時は所謂江戸期の武士道は確立されてないから
まさに大谷刑部個人の人望なんだろうね。病身の大将の小勢があれほどの
働きをするのは常識を超えた力だ。
石田家の結束と戦振りもさることながら、東軍・西軍あわせても大谷の
統率・結束は群を抜いていたは間違いないな。
もっと取り上げられてもよい武将・良将だ。
お、立ち直ったのか厨くん。
大谷吉継「関ヶ原」に散った仁将(PHP文庫)読了('A`)
どうでした?
210 :
208:2005/10/31(月) 22:32:38
関ヶ原の最期の場面をもっとドラマチックに書いて欲しかった・・。
211 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 00:52:31
吉継が奉行側に付かざるを得なかったってのはちょっと…。
吉継は三成と違って、徳川と対立してるわけじゃないし、
五大老にも恩を売ってる。
別に垂井で馬鹿みたいに使者を往復させずにとっとと家康を追うことも可能。
てか制止の使者を派遣してる時点で、吉継は不利を承知していたわけだ。
この時点ですでに友情でFAのような気が。
吉継はずっと前に事実上の引退イベントまで開いてるから閥関係で云々は無し
だろ…。
必然説の根拠って婚姻ぐらいのものじゃねーの?
212 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 17:25:27
あげ
213 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 23:31:33
とりあえず「吉継」という響きがいい
さらには「大谷刑部」という響きも最高
214 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 00:46:11
「石田治部」とか「直江山城」もいいね!
与力の平塚為広と戸田重政の活躍も忘れてはいけない
216 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 02:42:01
大谷派の人?チベット探検の
大谷の息子って大阪冬の陣・夏の陣に参加したのですか?
関ヶ原の時に死んだんじゃないか?
219 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 16:00:06
嫡男吉勝または吉治(一説には甥とも)は関ヶ原で討ち死にという説と、
落ち延びて大阪夏の陣で討ち死にしたという諸説がある。
其の外に弟・頼継という人物もいたらしいが、こちらは越前で病没したらしい。
220 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 00:52:44
本願寺継いだんじゃないの?
222 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 06:43:00
>>220 本願寺の大谷家と大谷吉継はなんの関係もない。
223 :
日本@名無史さん:2005/11/26(土) 07:03:11
吉継ってどんな実績があるの?
>>223 合戦の働きは関ヶ原くらい。
あとはほとんど三成と同じく奉行としての働きばかり。
朝鮮の役では三成と一緒になって武断派を糾弾した。
関ヶ原でも盲人の彼だから、
采配なんてほとんど実質ふるってない。
ただ部下への人望はたしかにあったようだ。
確かに戦に出たことはほぼ無かったが
関ヶ原での働きは見事だったと思う
秀吉じゃないが、病気にかからず万の軍勢を指揮させれば
いかほどの働きをしたか見てみたかった気はする
部下に見捨てられ、敵に討ち取られた肥前の熊とはえらい違いだな。
主君が奇病だからこそ、部下は燃えたんだろうな。
俺の高校時代の野球部の監督も失明してたから、何としても試合に勝ちたかった。
なんとなく、情景が思いうかぶ。
>>226 よく考えると、関が原でも大して働いてないぞ。
・対陣した相手がクズばかり
・なんとなく、その死に様が日本人のあわれを誘う
ってだけで。
>>228 なんかおい・・・一行で泣かすなコラ・・・・・・(号泣)
>>229 執拗なアンチが儲を釣って楽しむのが恒例になったらしいなw
>>229は吉継がクズの藤堂京極を蹴散らしたと思っているらしいが残念ながら
実際は息子と与力が片付けてるんだよな。
吉継個人の戦働きを言うのなら大軍小早川の裏切りに伏兵で対応し何度か、
撃退した点。
233 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 02:02:38
「ぐふふふふ…お主も馬鹿じゃがワシも馬鹿よのうぅ…」
細川と江守だっけ?いいよね。
>>230 そう考えると、確かにたいした敵じゃないな・・・
包囲殲滅されてるし
235 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 05:43:24
関が原で一番槍働きしたのは宇喜多勢なのに
どこもまったくとれあげてくれない。
しかもあの空中分解した家臣勢の中でよくやったよ。
冷遇されすぎ
吉継「よう金吾、朝鮮じゃずいぶん痛めつけられたらしいな。天下無敵のはずの小早川軍を苦しめたのはどちらさんで?」
秀秋「その汚い顔をどけろ」
吉継「太閤殿下はお怒りだぜ。おまえのとった勝手な行動にな」
秀秋「あの世に逝ったんじゃ文句も言えまい」
吉継「殿下は成人後の秀頼様に関白職を譲られるらしいぜ」
秀秋「なんだと!?」
吉継「おまえも関白職を欲しがってたらしいが、あきらめるんだな」
秀秋「関白職は渡さん!あれは俺のモンだ!」
左近「三成様、たった今、金吾に向かって吉継が迎撃態勢を備えました。
それから、先ほどから毛利勢は沈黙したままです。使者を向かわせましたのでまもなく様子がつかめるでしょう」
三成「まあ、問題は私に逆らった金吾の始末ですけどね」
左近「吉継は百万の軍勢を指揮できる実力ですから、金吾もただでは済まないでしょう」
吉継「へっへっへ、金吾・・・やっとライバル同士決着をつけるときがやってきたようだな」
秀秋「ライバル同士だと?くっくっく、じゃあいいものを見せてやろう」
吉継「けっ逃げ足の速さをか?」
秀秋「寄騎の寝返りをだ!!」
吉継「ね、寝返りだと?!」
秀秋「脇坂・朽木・小川・赤座の動きをよーくみてみやがれ!!!」
吉継「ば・・・ばかな!!もともと俺とおまえは互角の兵力のはず」
秀秋「まぬけめ!!小早川軍は絶えず実戦で戦っていたんだ!朝鮮じゃ死にかけたほどの戦いだった!!
太閤殿下の元でぬくぬくとしていた貴様とといつまでも互角だとおもうか」
郷舎「どうした左近?」
左近「いや、遠眼鏡の故障だと思うが、小早川軍の兵力が2万を超えた辺りで・・・」
郷舎「そりゃ故障だぜ。おまえの遠眼鏡は堺製だからな。・・・そんな馬鹿な。俺の南蛮製でも2万4千に見える」
237 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:46:21
↑
これなんか元ネタがあるの?
無いなら精神病院に配流だな。
ドラゴンポールだなw
>>235 石田がいるじゃないですか。
でもガチで戦ったのは、宇喜多vs福島、かなぁ。
お前ら太閤縁者同士だろ・・・
240 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 21:34:11
>>226 盲人の時ですら、あんなに奮戦したのだから、
健常だったら、もっと凄い奮戦をしただろう。
なんてのは間違った三段論法の気がする。
>>235 >>239 たかだか自分の軍の1/3の兵力の福島軍とガチだったというのは
奮戦と言うに値しないよ。
むしろ自分の軍の三倍の軍勢を引き付けた力戦した石田軍の方が偉い。
241 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 00:12:08
やっぱり大谷隊の奮戦が目立ってるだろ。
藤堂、京極隊を蹴散らして家康の予備寺沢の投入決定をさせている。
兵の稼働効率という点ではダントツだろ。
早めに布陣してたから戦術も練れてたはず。
家臣団はどんなもんだったの?
>やっぱり大谷隊の奮戦が目立ってるだろ。
強引過ぎ。
・大谷隊は、大した敵とやってない
・殲滅戦には、あとから掃討戦力を投入するのはセオリー
244 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 14:07:40
>>243 その「大した事のない敵」ってのが良く分からない。
藤井に布陣した藤堂は2000〜2400、京極は2900〜3500あたりでしょ?
吉継の本陣は600弱、吉勝、頼継(コレが主力)が2500〜3500ぐらいで、
戸田、平塚は千人はいないってのが常識だよね?
一体なにを持って「大した事のない敵」なのか?
>・大谷隊は、大した敵とやってない
>・殲滅戦には、あとから掃討戦力を投入するのはセオリー
↑
なんだこりゃ?寺沢隊が大谷隊と交戦状態になったのは小早川が裏切る前
だよ?「大した事のない敵」と戦っている吉継に家康は「殲滅戦」を
仕掛けたのかw?
必死だな
オマエモナー
247 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 21:27:48
248 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 02:46:38
>>236 すばらしい!
死ぬほどワロタ!!!
あれか、ベジータとキュイか。wwwwww
よく考え付いたね。
あーおかしかった。
このスレ一人で回してるのか
250 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 14:09:43
>>236は最高に幼稚なネタだな。アニメ板で一人でやってろ。
酷い自演を見た。
犯人はフィギュア萌え。
253 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 21:04:33
>>244 戸田平塚って合わせても一〇〇〇は越えないだろうな。
254 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 00:14:30
大谷の名声の1/3は、戸田と平塚の活躍に負っている
あの二人がいなけりゃ、後世にこんなにも名声は残せなかっただろう
せいぜい「友情に殉じた」「秀吉が才能を高く評価していた」だけの人で終わっただろう
また自作自演か。
>>256 いや、
>>254は正しいでしょ。
あの客将二人が実質的な大谷隊の前衛部隊を率いて、小早川勢を押し戻すほどの
戦果をあげたからこそ「大谷刑部は名将!」と言われるようになった。
若い経験不足の子供たちと、際立った侍大将もなく朝鮮の役でもあまり実戦を
経験していない大谷軍、身体も目も不十分な主将だけなら、あっという間に
小早川勢に飲み込まれてほとんど何の戦果も残さず消えていただろう。
そしてそうなった場合、後世には友情に厚い義人という以上の評価は残らなかった。
押し戻したというのは真に受けるなよ。
259 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 00:55:43
一度(もしくは二度)押し戻したのは大谷勢の伏兵。
半日戦い続けた千足らずの兵が押し戻せるかい。
人間じゃないよ。
な ん だ こ
野
ス レ
>>244 あなたは間違ってます
大谷吉継 5.0万石 1,500人
木下頼継 2.5万石 750人
平塚為広 1.2万石 360人
戸田重政 1.0万石 300人
大谷軍は合計で2910人です
前田の南下に備えて越前守備隊を残しているから
実際はもっと少ない兵力です
262 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 22:06:14
>>261 大した敵じゃないとか言ってた連中はどこ行ったんだろうなw?
263 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 19:23:13
>>262 今頃は雪の北陸道辺りをひたすら落ちている頃だろう。
この寒さでは例え落延びても生き残れまい。
合掌。
水野忠重を謀殺したから
結構腹黒い人物だったようだね
265 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 19:49:10
age
266 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 14:21:19
あげ
267 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:25:31
関ヶ原にあるお墓、四百年間毎朝地元の女の人が掃除してくれてるんだよ。四百年間線香が絶えたことないんだって。地元の人に聞いた話。
酷い自作自演を見た
269 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 08:01:38
>>267 ほぉ。さすがに刑部少輔の人柄というべきか。
朝から清々しいレスを見れたな。
267さん、ありがとう。
270 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:29:25
石田三成推薦で秀吉に仕官したってのは本当ですか?
だとしたら、西軍参戦の理由付けの一つと思うのですが。
三戦板にけーれ
272 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 14:30:47
大谷刑部の凄いところは、三成との友情話でもなく、関が原の
奮戦でもなく、病により目が見えなくなり、鎧もつけられず、
馬にすら乗れない状態だったと言うのに、最後まで付いてきた
家臣が多かったと言うことだろ。
比較的簡単に主家変えをする事が可能だった頃に、戦という大事
を前にして、病の主を最後まで押し立てる家臣が多かったと言う
のは、それだけこの大谷刑部に人徳・魅力があったんだろう。
それだけでも、一軍の将として、人間として一段上のレベルに
あった人ではないかと思う。
273 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 17:46:33
あまり詳しいことはわからないが、
婿に真田幸村、義父が家康の重臣の榊原氏ということからも、
有能な凡将というレベルではないとは思うが。。。
子供はネット使っちゃいけませんよ?
275 :
日本@名無史さん:2006/01/13(金) 19:03:06
越前は豊臣家直轄領が多いから、秀吉は大谷にもっと加増すべきだったな。
越前国敦賀6万石は少なすぎる。
子供はネット使っちゃいけませんよ?
277 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 10:11:21
保守
278 :
;:2006/02/02(木) 13:29:28
刑部と平塚.戸田.の係わり合いについて知りたい。刑部の奮戦はこの2人の
奮戦によるところが多い。ただの与力大名としたとしたら.この2人を奮戦さ
せたものがわからない。
279 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 00:40:13
平塚さんのほうが付き合いは深いだろうね。いわゆる小名だけど、武将として一廉の人間だったんだと思うよ。
じゃなきゃ、体が動かない吉継の代わりに本戦で指揮したりしないだろうし、あの三成を吉継の代わりとはいえ、挙兵を思いとどまるよう諫めに行かせたりはしないだろう。
280 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 02:23:35
大谷と平塚は多少関わりがあったけど、戸田勝成(重政)は仁義・忠義に厚い
その人柄により自ら奮戦したのであって、別に「大谷が奮戦させた」わけじゃないでしょ。
合戦が始まる前から、小早川秀秋が西軍の禍根になると判断して会談にかこつけて
秀秋を殺そうとしたり、軍議でやる気のない諸将を奮い立たせんと気合を入れたり、
関ヶ原における戸田の様子は諸大名に広く慕われたいつものおだやかな人柄とはまるで別人。
その後の奮戦も名高く、「関ヶ原で悔いのない戦いをしたのは治部と武蔵守(戸田)」と
評された戸田勝成の様子は、武勇で豊臣家中ではトップクラスだった兄・戸田勝隆の
魂が乗り移ったようだね。
恐らく、初老だったこともありここが自分の死に場所と決めて気分が高揚していたんだろう。
関ヶ原で実戦の指揮官は戸田・平塚コンビで、大谷刑部は後方にあって実質的な指揮は
とっていない。
大谷刑部の人柄はすばらしいし、その眠った才能もすばらしいものがあったのだろうが、
例え三成の友情エピソードがあったにせよ、戸田・平塚コンビの活躍による戦果がなければ、
大谷刑部はここまで有名にはならなかっただろうし美化もされなかっただろう。
そういう意味では、二人は大谷の「恩人」と言えるのかもしれない。
281 :
求道心:2006/02/04(土) 21:42:32
大谷刑部が死ぬことを妻に見せた話(石田軍記より簡約)
慶長5年9月13日に、留守を守る妻と女官が月見をしていると、庭の木陰で大勢の悲しげな声が聞こえた。そこで物陰からそっと覗くと、およそ百人以上の男女が、非常に位の高そうな人の棺をかつぎ、幟・提灯等が続き、いかにも格式高い葬送が行われているようだった。
282 :
求道心:2006/02/04(土) 21:44:05
宿直の武士たちを呼び、その場所を詮索させるも消えうせてしまった。女官達は刑部の妻を部屋に引き入れ、大勢ので円座してすわり、雑談をはじめた。隣の部屋では、家老等が万一に備え待機した。
283 :
求道心:2006/02/04(土) 21:45:38
その雑談の中で、先ほどの件は、全くもって狐や狸の仕業に違いない、妖は徳には勝てない等とげんかつぎの祝い言葉を話していた矢先に、又、庭で大声で笑う声がおこり、一同肝を冷やしていると、怪しげな声で「追ってこの不思議な出来事はわかる」と大声で叫び、掻き消えた。
284 :
求道心:2006/02/04(土) 21:46:24
こんな不思議なことは放ってはおけないと、評定し、出陣した軍の様子もしりたいし、このことも報告しなければと決まり、手紙を刑部の陣へ送るも、その手紙が到着する前に、関が原で西軍敗北し、刑部も自害したと判明し、みんな腰を抜かしてしまったとさ。
越後村上藩の藩祖・村上義明には、村上義清の関係者とする説と戸田武蔵守重政の子で
義清の娘と村上義満(義清の甥)の養子となり村上氏を名乗ったという説がある。
286 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 02:30:04
上げるぞ
上げついでに思い出した。小説の話で悪いが、前田慶次が主人公のやつ
『一夢庵風流記』
だっけ?あれで前田家出奔後の慶次が、最初に大谷吉継を訪れてる様な気が…。昔の記憶なんで、曖昧です、すまん。
287 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 00:31:02
すんまそ、FUNが多そうなので教えてほしい
会社の上司に【契りあれば 六つの衢に 待てしばし 遅れ先だつ ことはありとも】
を教えられ、お前には仁義や道徳を解ってないとしかられたんですが
大谷吉継の辞世の句であることはわかったんですが、解説サイトがなくて・・・
誰か解説もしくは、意味を解りやすく教えてくれませんか?
>287
ここで共に死ぬ運命ならば、六道の別れ道でしばらく待っていてくれ。
お前より死ぬのが遅かったり、先に死んだりするかもしれないが。
ぐらいの意味じゃないかなぁ?
吉継とか左近みたいなのに好かれてたところを見ると、光成も今残ってる
敗者としての評判ほど嫌味な奴でもなかったのかもなあ。
考えてみれば、敗色濃厚な秀頼のためにあそこまでやったわけで。
>吉継とか左近みたいなのに好かれてたところを見ると、光成も今残ってる
>敗者としての評判ほど嫌味な奴でもなかったのかもなあ。
吉継はともかく左近が三成を「好いていた」かどうかは分からないのでは。
三成は左近を厚遇していた。
当時のプライド高い武辺者たちは、漫画の前田慶次のように自分と「心が通い合う
主君」を求めるような「変人」より、自分を高く買ってくれる主君を選ぶほうが
一般的。
むしろ主君が武断派でないほど、高名な武辺者は厚遇されやすいという現実的な
計算がなかったとは言えない。
増田長盛のようなどっちつかずの卑怯な大名に仕えて、関ヶ原敗戦後も郡山城開城に
あたって見事な振る舞いを見せた渡辺了のような例もある。
>考えてみれば、敗色濃厚な秀頼のためにあそこまでやったわけで。
秀頼じゃなくて三成の間違いかい?
左近が三成に就職したのは三成の絶頂期だし、その後の経緯も結果論から言えば
家康の圧勝だが、当時の大名たちはぎりぎりまでどっちが勝つのかわからず
右往左往した。
そして自分の最後を華やかなものにするのも武辺者としてのプライドであって
主君への忠誠心とはまた別物。
いってみれば、読売巨人軍に高額な金でFAしてきたジェイアンツ愛などない
スラッガーみたいなもんかもしれないよ。
まあ、俺もこの二人には「心の通い合った主従」であってほしいけどさあ。
大谷吉継の辞世とされるのは、同僚であった平塚為広から送られた和歌
「名のためにすつる命は惜しからじ つひにとまらぬ浮世とおもへば」
(名誉の為に棄てる命は惜しくはない いつかは死んでしまうこの世と
思えばくらいの意味?)
に対する返歌とされるもの。意味は
>>288さんのであってると思う。
「六つの衢」の六つはおそらく六道、衢(ちまた)は道の分かれる場所と
かいう意味だから、あの世の入り口くらいの意味なんでしょう。
出来すぎてて史実とは思えないけど、吉継と為広の関係がうかがい知れる
エピソードだと思う。
>>290 なるほど、俺はちと司馬小説のイメージを先行させすぎていたようだな。
『敗色濃厚な』は分かりにくくてスマソ。
秀頼のためにばらばらになってた大名どうにかまとめて家康に対抗した
光成はけっこう義理堅かったんじゃないかな〜って意味だったorz
仮に西軍が勝っても、身分とか勢力とかから光成は天下取れなかっただろうし。
>>291 実は大谷は男色家で三成LOVE!為広LOVE!とか。
しかし、今日の戦国自衛隊の大谷は目立たなかったなあ。
軍議のシーンでチョイと写っただけ。
どうせなら嶋村2等陸尉が三成と友情で結ばれ、歴史上の「島左近」か「大谷吉継」となって
三成とともに家康に挑む!・・・みたいなストーリーにしてほしかった。
葵三代の細川版吉継はネ申だったな。
295 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 22:35:06
>>294 平塚為広は槍で刺されて落馬するとこだけだったね
<実は大谷は男色家で三成LOVE!為広LOVE!とか。
女相手ならともかく、衆道の相手は一人にしぼってほしい……
男三人の三角関係とか官能もくそもねえw
その時代男色なんてよくあることだろ
むしろ女にしか興味ないほうが記録に残ってたりする
298 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 11:40:17
>>297 偉そうにいわずとも、その程度のことはこの板の住人なら誰でも知ってる
みんなが言いたいのは、「友情のため」「義に殉じた」という大谷吉継の美名が、
単なる愛欲ボケで家臣を巻き添えにしたという汚名に変わってしまうという
ところがポイントなんだろ
299 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 01:19:16
大谷吉継を冷静に判断すると・・・
1:石田三成らとつるんで奉行の権力を振りかざし、黒田如水ら老臣・功臣をないがしろ。
2:「刑部に百万の軍の采配を・・」という秀吉のセリフを、後世の人間は大谷に関してだけ
過大評価しすぎ。
秀吉が家臣を発奮させるために大げさな褒め方するのは、そのほかの様々な事例を見ても
明らかであり、大谷吉継に関しても単なる褒め言葉に過ぎない。
3:大名のくせに安っぽい売春婦を抱いて梅毒にかかる
唐瘡に犯された大名は彼だけではないが、せいぜい発疹か鼻が欠ける程度で
全身がボロボロになるまで感染したスケベ男は大名の中ではコイツだけ
4:秀吉の小姓あがりの子飼い大名のくせに、秀吉が死ぬと次の権力者・家康に媚びへつらう。
しかも自分の家臣を家康の門番代わりに忠勤させるなどのあからさまなへつらいぶり。
5:「船で攻撃する」と虚報を流して前田勢を引き上げさせたというが、前田はもともと
この戦いに乗り気でなく、家康に対する言い訳程度の戦果を挙げたら引き上げて
天下の模様眺めをするつもりだったのは、引き上げ後に丹羽長重と講和を結んだ後
何もしなかったことからも推測できる。
よって前田軍の退却は大谷たち西軍の攻撃を恐れたわけではない。
6:いわゆる後世に伝えられる関ヶ原での「大谷隊の奮戦」は、実質的には平塚・戸田の
戦功であり、大谷自身は戦闘そのものの指揮はとっていないし、とりたくてもとれない。
これに、大谷吉継最大の売りである「友情の参戦」の逸話の真相が、実は単なる小姓時代からの
マブダチへのホモ愛欲から、一度は臣従することを表明した家康を裏切った・・・
ということになれば、かなり下らないヤツだという評価になる。
300 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 21:42:37
あいつってハンセン病だろぅ?
茶がどーのこーので石田に助けてもらったとかで
石田側に付いたんじゃなかった??
もう出てたらスマソ。。。
ハンセン病だったのかも怪しいしなぁ。
はっきりしているのは盲目だったらしいということぐらいだし。
残りの病状は軍記および現代人の想像に過ぎない。
>>299 下らないとまでは言わないが、確かに秀吉の一言と友情で大谷吉継は
過大評価されすぎだと思う。
特に本当に「友情」だったのかどうかは、衆道かどうかは別としても
(ありえない話ではないが)非常に疑問がある。
当時、友情などという感情は下っ端ならまだしも大名レベルでは
ありえない。
そもそも「友」などという概念自体、江戸期以降のものだし、自分の
選択に一族・家臣・領民の生活・命がかかっている時代において、
友情を基準に重大なことを決めたとはとても思えない。
まだ「秀吉・秀頼への忠義」のほうが理解しやすい。
それに、あの時点では東西いずれが勝つともわからなかったわけで、三成を
選んだとてそれは「負けるのが分かっている側について友情に殉じた」など
という結果論で評価されるのはおかしな話だ。
単に、高い地位と大きな報奨に釣られたのかもしれず、グズグズと三成説得に
時間をかけたのも自分を西軍に高く売り込む作戦とも考えられる。
それに本当に吉継が「親友」なのであれば、今さら三成が家康に臣従すること
こそありえないと分かっていたはずであり、それを「説得」などするのは
変だ。
303 :
;:2006/02/15(水) 13:02:03
>>302 大谷が家康軍と一緒に下向したのは.家康と上杉の仲裁をやろうとし
たものだといた説がある。これには.上杉の直江山城あたりと吉継が相当懇
意であり。また.家康も吉継を相当買っていたという事情があるのではない
か。
大谷が関ヶ原戦前に前田軍を虚報で撃退して遅参させたとか聞いたけど、
前田軍は虚報だけで帰ったの?それとこ大谷が凄いことやったんだろうか・・
大谷隊と小早川隊の戦闘をたとえるならば、
正面衝突した桶狭間合戦。
大谷はくるのわかってたよ
>>303 それは後世の人が大谷吉継を「義の人」風に盛り上げるために作った説。
明らかに無理がある。
本当に説得するつもりなら戦端が開かれる前に東下しなければならない。
家康に遅れて出かけて、もし不測の事態で戦いが始まってしまえば説得など不可能。
それなのに、家康の会津下向に同道しないばかりか、
>>302の言うように
不可能と分かりきった「三成説得」に時間をかけている。
・
・
>>302 >下らないとまでは言わないが、確かに秀吉の一言と友情で大谷吉継は
>過大評価されすぎだと思う。
はげどう。
秀吉は「xxxは天下一の武士だ」というたぐいのほめ言葉を
連発していて、秀吉らしい大げさな人心収攬術にすぎないと
それらのセリフは評価されているよねぇ?
にもかかわらず、大谷吉継に対するほめ言葉だけは、それがあたかも
事実であるかのように受け取られているのは何故だろう?
「百万の軍勢を指揮」なんて、いかにも大げさ。
吉継にそんな能力があるなら、関東・奥州・朝鮮の際も奉行など
させずに小西たちと同じように武将として使うはずだ。
秀吉に仕えて以来、一貫して大谷吉継は三成と同じく文官として
働いている。
病気のせいだよ('A`)
江戸時代に書かれた講談がそのまま定説になってることも結構あるからなぁ
>>309 発病したのは朝鮮の役でのことでしょ?
それまでは何事もなく務めている
天正十四年、大坂で辻斬り騒動が起きた時、既に罹病していた吉継が治療の
為に血液を集めているのではないかと噂された。
そして、朝鮮の役の頃にはほとんど外出できない程まで、病気が進行してい
たようだ。
マジレスすると百万の軍勢なんて指揮させられたら謙信でも信玄でも無理
314 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 15:25:11
>>312 大谷は朝鮮の役で朝鮮に渡海して、奉行まで務めていますが?
子供はネット使うなって
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、船奉行・軍監として物資輸送の手配などを務めており
例の「吉継に百万の軍勢を指揮させてみたい」はその手腕を褒めた言葉。
よって見た目はどうであれ、朝鮮の役の時点ではバリバリ現役ですな。
ちなみに「百万の軍勢を・・・」は、吉継の戦闘における采配や戦術能力を褒めたものではなく
戦略、それも主に兵站面での能力に対する賞賛であり、「それなら戦闘指揮のほうも見てみたいよね!」
という程度の褒め言葉であり、ハンセン病患者である吉継へのいたわり・叱咤激励でもあったと
思われます。
関ヶ原のおける大谷隊の戦功は、やはり吉継の戦闘指揮能力というよりは過去レスで言われている
ように、大谷隊の実質的な指揮官である戸田・平塚の敢闘が大きく寄与し、それに主将が死を
覚悟しているという高揚感が家臣を突き動かして生まれたものでしょう。
いや、だから「ほとんど」「ようだ」って言ってるじゃない。
鹿苑日録 慶長二年九月二四日条
早朝太閤発象馭於大谷刑部少輔華第。刑少久所労也。以為悪疾。五六年不出。
言い回しが悪かったかな。
「外出しない」じゃなくて「公の場に出ない」くらい?
>>318 どっちかっつーと、「病状が悪い」というより「ミジメな姿を他人に晒したくない」
というコンプレックスが、朝鮮の役のような仕事でもない限り公式の場に
顔を出さない理由かもね
日本人はその国土的歴史(中国やヨーロッパにくらべせまいということ)
のせいか兵站というものがあまり重要視されてない。
そういうなかで大谷吉継はその才能があったと思う。
どうだろうか?
いや、戦国末期以前は大規模な戦闘なんてめったに無かったから
兵站技術が発展する理由が少なかった
長期戦が少ないからなあ。
中国の場合だと土地が広大なので戦争というと
遠征を意味することがほとんどなのでショウカ(劉邦の家来の)みたいな
兵站・治国の化け物がいないと勢力として成立しないからなあ。
兵站だと武田家の内藤昌豊もなかなかよかったよね。
324 :
;:2006/02/25(土) 12:22:34
大谷隊は.脇坂.小川.赤座.朽木.の小大名勢の反転で崩壊したと言われて
いるが.もしなかったら.どうなっていただろうね。
大谷隊は小早川に対して兵を備えていたというけど、裏切り4人に対してはなにもしてなかったからねぇ
>>324 東軍+小早川隊相手に最後のあがきをみせていた大谷・戸田・平塚に、その4人は
駄目押ししたってだけで、その4人が裏切らずともいずれは力尽きたでしょう。
けど平塚はなかなかがんばったなぁ。
おれけっこうお気に入り。
俺も平塚さん好きでいろいろ調べたよ
けど信長の野望では平塚はしょぼいから使えない・・・・・・・
330 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 01:58:27
戸田重政(武蔵守・勝成・勝重・半右衛門)
「謀才俊雄の英士」と称され、また関ヶ原での奮戦により「関ヶ原で天下に面目をほどこしたのは
(石田)治部少輔と(戸田)武蔵守」と称えられた。
東軍の諸将もその死を悼んだと伝えられる。
■子:戸田内記
関ヶ原で戦死。
戸田重政が前田利長に送った書状には内記が三成と衆道の知音であることが記されている。
■子?:村上義明
越後村上藩藩祖。
戸田武蔵守氏繁=武蔵守重政or氏繁(勝隆)の子で村上義清の娘と村上周防守義満(義清の甥)の
養子となり村上氏を名乗った。
氏繁は勝隆の名乗りだが、地理・時期的関係や勝隆の家系が嗣子がなく廃絶になったことから
重政の子であると言われている。
■兄:戸田勝隆(氏繁・氏知・政信・三郎四郎・民部少輔・駿河守)
秀吉の政権初期の功臣で御子田正治・宮田光次・尾藤知宣らと並び称され、これら初期の
功臣が秀吉に疎まれ退けられていった後も重用された。
勝隆は鷹狩の最中に自分の嫡男が自らの過ちで事故死したとの急報に接すると「己の過ちで事故死する
ような気質では益に立つべき器にあらず、見るに及ばず」と言い捨て、そのまま鷹狩を続けたという。
以後子に恵まれず、勝隆の死によって大洲戸田家は絶家となった。
■?:戸田為重(家生・家正・民部少輔)
戸田勝隆の一族。
豊臣秀吉の蔵入地7万石の代官を勤める。
1595年前後に秀吉から一万石を賜り大名となった。
大坂冬の陣では南の平野口を守備しているが、その後は不明。
関ヶ原の戦いの直前に死亡し、大坂の陣に参加したのはその子供という説もある。
■そのほかの戸田重政の係累の説がある人物
戸田勝直:喜三郎・茂左衛門・道可。浅野長政・幸長の家臣。紀伊国新宮城代、備後国三原城代。
戸田重治:従五位下・豊前守。所領一万石の大名。関ヶ原で西軍につき所領を没収されたといわれる。
>>330 ( ゚∀゚)へー、戸田一族ってけっこう活躍してたんだねえ。
重治が一族だったとすると、勝隆以外は小身ながらも豊臣政権下で
4人も大名を輩出していたことになるじゃん!
三河・尾張付近にいて家康の家臣にもいる戸田氏と関係あるのかなあ?
あの戸田氏にも「重」がつく名前のヒトがけっこういるよね。
ぜひ平塚氏、大谷氏の調査もキボン。
>>328 ぜひウプして教えて。
332 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 06:32:17
癩患
しずがたけで大谷って補給路整備してから遅れながらも参加して功立てたんだよな
それってやっぱ凄いことなんだろうか。大谷だけ?
三成は先駆け衆じゃなかったか
城攻めのときだけとかかな
336 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 03:03:02
>>331 平塚氏にはほかに大名級の武将はいないと思われ
>>299がちっとも冷静に判断できてないところが大爆笑
大谷マンセー
339 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 02:32:29
大谷って後に本願寺のエライサンになった一族?
340 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 10:58:24
アイレディース化粧品は大谷吉継公へ謝罪すべし。
341 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 13:19:32
基本的にアンチ大谷は東軍につかなかった事に腹を立てているからな。
342 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 18:52:02
あの場面で三成見捨てて東軍につくようなやつは大谷であって大谷ではない
343 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:00:54
>>341 別にアンチばっかりじゃないでしょ。
実像以上に評価されすぎな大谷吉継を冷静に評価しているものも多い。
実際、関ヶ原を戦った東軍武将たちによる戦後の評価は石田・戸田・宇喜多勢
(明石ほか)のほうが大谷より上だった。
それが江戸期の講談で真田が毛利勝永らの功績を「吸収」する形で評価を高めて
いったように、戸田・平塚らの功績を吸収して大谷が実像以上に有名になり、
さらに明治維新後に、明治政府側が自分たちの倒幕を正当化するために石田ら
豊臣系や西軍の武将を誇張して再評価したことで、今の大谷吉継像ができあがった。
大谷の評価を下げる書き込みがあっても、単なるアンチばっかりじゃない。
345 :
金吾秀秋:2006/03/10(金) 01:15:15
アンチばかりじゃないんだぜ(´・ω・`)
東軍武将が敵をそう簡単に誉める訳ないしな
敵を誉める→倒した俺サイキョー!
>>346 現代の戦争じゃない
当時は、敵を称えるのは当たり前の行動
>>347 徳川政権の正当化の為に西軍は逆賊扱いだろうよ
誉めるなんて余裕ない。三成の扱いが良い例。家康はちょっとは誉めたらしいが。
>>349 なんか勘違いしてないか
敵の健闘ぶりを称えるのであって、敵の思想・行動に賛同するわけじゃないぞ
そして敵の強さを称えることは、強い敵に勝った自分たちの武功を誇ることにも繋がる
関ヶ原の三成隊や大坂の陣の真田隊を、敵方が褒めた史料なんていくらでもある
351 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:24:02
大谷吉継の子孫はいますか?
352 :
暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/03/14(火) 21:12:39
353 :
;:2006/03/16(木) 13:06:08
>>326 立花宗成以下15000が西軍に加わっていたらどうだろう。
354 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:54:17
毛利輝元以下4万が加わったらどうだろう。
355 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 08:55:21
輝元が秀頼を連れてくれば勝ち
藤本正行先生の石田三成の
関が原での戦略は家康のそれより優れていた
って説。
いいね。
みんなみてみてね。
>>351 祖母が直系だとかいう子孫が知り合いにいる。
いとこんちが宗家?らしいが。
358 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 21:49:50
吉継の娘が真田幸村と結婚、
その子供なら結構いたぞ。
で、真田大八とか言うのが上杉の庇護の元で暮らし、
現在は14代の幸村の子孫だっけ。
359 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:53:06
立花軍15000は琵琶湖沿岸の大津に居た。関ヶ原に間に合えば…
歴史は変わったかもね。
360 :
;:2006/03/28(火) 11:49:28
>>359 島津義弘が10000ほどの兵力なら.西軍は勝っただろうな。
361 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:50:19
関ヶ原合戦開始日がもうちょっと遅れていればよかったね。
362 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:52:17
>360
島津軍一万で家康本陣を突けば、家康を討ち取ることはできたよね。
363 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:52:52
いや、義弘が三成と険悪なままなら島津は動かないだろう・・・。
364 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:56:54
島津の急行突破の時に1万いたらおもしろそう。
365 :
;:2006/03/28(火) 13:34:05
>>362 364 島津に10000いたら.最初から動いて.前半戦のやや西軍有利って情
況が西軍断然有利って状況に変わっていただろう。そうなれば.小早川は寝返
らず.毛利も山を降りて戦場に参加するだろう。
366 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 17:04:14
>義弘が三成と険悪
こんなのネタだよ。
367 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 20:16:11
ネタかどうかなんて、古いし分からない
368 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:42:52
大谷吉継が馬鹿金吾の裏切りを予想し、自爆覚悟で陣替えしたのは、義をもつ名武将。
369 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 13:46:41
俺だったら発狂するなあ、そんな場面になったら。
370 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 19:18:26
敦賀城はどんな城だったんだろ。でかくは無さそうだが工夫でもあったのかな?
371 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 10:26:34
秀家は発狂したが。
372 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 20:26:00
宇喜多秀家?関ヶ原で発狂したの?
kwsk!
とりあへず・・・
刑部様の病は戦国自衛隊のご医官に治していただきませう♪♪
薬を持っていたらの話だがな
375 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:51:31
どう言う性格だったんだろう?
島津に一万も動員能力があるのに驚きw
377 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 15:04:23
すべきだとお主は責めるが。あの阿呆にも阿呆なりのあり様があろう。いまはあの男を責めるよりも、裏切りをした場合の手立てを講じておかなければならぬ
>>372 秀家じゃなく秀秋の間違いだと思われます。
秀家でいいでしょ、秀秋の裏切りに「おのれ金吾!」
380 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 04:22:33
そうなると西軍ほとんど発狂したことになるが…
381 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 01:10:56
やっぱ白覆面ってトコに尽きるよなあ・・・
382 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 13:43:06
お前ら刑部のお墓に御参り行ったことあるのか?
こんもりとした小高い森の中にひっそりとあるんだけど、そこだけまじで空気感が違うんだぞ。
まぁ木々に囲まれてるからだろうけど、湿度が高くて寒い。でも空気は澄んでる感じだな。
そしてやっぱり花がいっぱい供えてある。隣の湯浅五助の墓も同様だ。
383 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 14:36:33
とりあえずGWに上杉神社に逝くつもりだけど刑部のお参りはしたことないな
あなたは今、回し飲みの茶会にいます。
そこで大谷刑部様はあなたよりも順番が先です。
ところが、大谷様の順番の時に鼻水がお茶の中に入ってしまいした。
あなたはそのお茶を躊躇なく飲めますか?
386 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 20:24:26
ある資料では膿とかいてあったけど。
で、その膿か鼻水が入っちゃったお茶を、三成が飲むんだよね?
三成じゃなくて、秀吉って言う説もあるけど。
その話をおじいちゃんにしたら、
三成でも秀吉でもなく、加藤清正って言われた・・・・。
(だからハンセン病患者のためのお寺があるっていってた)
真実はどっち・・・・
>>386 漏れの知ってるのは、司馬遼太郎(この時点でちょっとアレ)のどれだったかの本で
入ったモノ→鼻水
飲んだ人→三成→だから関ケ原を付き合うほどの仲になった
388 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 12:16:21
大谷は危ない奴人斬って生き血飲んでたのに一票
>>386 清正ってのは初耳だしありえないと思う。
おそらく(熊本では特に)清正の方が贔屓される風潮にあるから爺ちゃんは歪曲された話を記憶しちゃったんじゃないの。
普通は三成と吉継の友情を端的に表した話として出される。
どこかで爺さんの記憶がごっちゃになっておられるのでは
加藤神社がライ病に効くって謂れはあったと何かで読んだ。
明治くらいまでは平癒を願ってライ病の人が参拝してたとか。
爺ちゃんはそれと混同してんじゃね?
加藤は梅毒?
393 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:07:24
>>386です。
たしかにそうかもなぁ。
おじいちゃん、なんかと勘違いしてんじゃないかな・・・・
ま、それはべつとして。
301のいうとおり、確かにハンセン病だったかどうかも怪しい。
読んでないけど、『死闘関ヶ原 大谷吉継伝』って本では、
吉継の病気は眼病だって話だよ。
この本読んでみたいなぁ。
でも肖像画見ると頭巾(あれ初めて見たとき『上杉のお館さまだ!』とちょっと
おもった)かぶってるし・・・。
やっぱりハンセン病か、何かかかってたんじゃ・・・?
歴ヲタのイメージはヒステリックで石頭
まぁ実際お前らの話は見ていて本当になるほどと思えるし好きだよ。
リアルでは歴史を語り合える奴なんていないしなー
戦国板じゃ普通に三成の一番の親友認定されてるんだけど、実際の所どうだったんかね?
さすがに石田が大谷を推薦した、とか互いに推薦したとかは嘘だと思うけど。
というか、この人って意外と謎が多いんだな…
>397
出身地は諸説あるし(まぁ、近江なんだろうけど)、
両親もよく分からないし(母親は東殿と呼ばれて北政所に仕えていたようだけど)、
妻が誰なのか不明だし(全然聞いたことが無い)、
子供たちも本当に吉継の子供なのか分からないし(兄弟説、甥説、養女説など)、
本当にハンセン病だったのか分からないし(目を患っていたのは確かなようだけれど)、
知名度の割には個人情報がほとんど詳細不明。謎だらけ。
399 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 08:40:51
らい病
400 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 15:21:29
新人物往来社の大谷刑部のすべて(花ケ前 盛明編)を読め。
401 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 20:21:56
平塚為広
402 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 09:58:00
>>401 刑部の墓に向かう手前(林道の入り口)にひっそりあるね。
ここにお参りしてから刑部&五助の墓に向かう道筋で、なんだか泣けてくるんだよ。
紀之介は本気で格好良い武将だよ。
404 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:51:08
凍傷吉継
405 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 22:12:35
え、でも目が見えなくなったのって、ハンセン病のせいでしょ?
ってことは、仮に彼がハンセン病にかかってなかったら、
目は見えてるような気がする・・・・。
大体、何でどこの本も、『彼はハンセン病を患っていて・・・・』
って、ホントかうそかわからないのにちゃんと書いてあるのが不思議。
もしちがってたら失礼だよ・・・・・・。
たしかに、彼って謎が多い。
だいたい、彼の息子と思われる木下頼継の苗字が「木下」なのが引っかかる。
ふつう、吉継の息子なんだから大谷頼継、のはずなのに、
木下頼継って資料には書いてある。
詳細知ってる方、教えてください。
養子に行った、したどっちか。
普通に考えると、木下家に養子に行ったか、木下の名字を貰ったと考えるの
が妥当なんだろうけど、『鹿苑日録』に「養子大覚(学)出迎える」とあっ
て、兄貴という大学も養子である可能性が高いから、もしかしたらこの兄弟
は木下家の出身なのかもね。
実子を養子に出して、嫡子に養子を迎えるのも変だし、養子を養子に出すの
も変だし。
408 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 22:22:56
紀之介ってなんて読むの?
のりのすけ?きのすけ?
409 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 23:13:03
>>408 きのすけ のハズ。
それはそうと、刑部の娘さんは
真田幸村の奥さんなのに色んな作品で扱いが酷い件について
特にゲーム系では対外スルー
大谷吉継は記録では『癩』。
現代においては『癩はハンセン病のことではないか』と言われているが、実は違う病気だったのしれないってことね。
確か宇喜多直家も『癩』だよね。
411 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 08:31:41
412 :
日本@名無史さん:2006/10/19(木) 23:30:50
大谷の家紋てカッコいいよな。対の蝶だっけか?
413 :
日本@名無史さん:2006/10/24(火) 23:10:53
脇坂・朽木・小川・赤座 の極悪カルテットは
皆殺しじゃ
415 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 04:07:00
age
416 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 17:43:13
417 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:40:22
花の慶次ではドアップで一コマだけ描かれて棚
418 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:54:52
兵には見向きもすな。切っ先揃えて金吾が陣めがけて駆けろや
419 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 01:19:12
梅毒なんでない
顔面がただれて視力の低下って
420 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 12:20:20
421 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:55:07
真田幸村は映画化されたりドラマの主人公になってるのになぜ大谷吉継はならないのか?あんなに素晴らしい武将はいないよな!
422 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 02:07:06
>>421 病状について差別論議になる可能性があるからじゃない?
423 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 02:34:49
癩病とかハンセン病とか言われてるが…あの時代差別などなくて大名に取り立てる秀吉はやっぱりエライよな!
424 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 02:43:15
大谷刑部吉継って関ヶ原の戦いで唯一戦死した大名だよね…敗走する西軍武将の中孤軍奮闘して最期まで戦った名将ですね!
425 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:27:50
age
426 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 02:56:20
昨日テレ東でやってた「女達の戦国
ttp://www.tv-tokyo.co.jp/sengoku/」って番組での
『大谷吉継は秀吉の隠し子だった』説の概要
■吉継の父は誰なのか諸説有り、何故かはっきり特定されていない。(前提)
■吉継の母である東殿は、秀吉の正室の北政所(おね=ねね)の侍女でしかないのに、東「殿」と敬称を与えられたのは、秀吉の側室でもあったからではないか。(説)
■秀吉の正室以外が生んだ子供2人が2人とも原因不明の病気で死んでしまう。当時は慣わしとして将軍の子供は正室が養育する事になっていた。(史実)
正室である北政所が、自分に子が無いため嫉妬して毒殺した可能性が高い。少量ずつ毒を投与して病気に見せかけて。(説)
■後に生まれた淀殿(茶々)の子、秀頼が無事育ったのは、母である淀殿が「前の子を北政所に託した為に死んだ」と思っており(知っており)、
大阪から離れ、京都で養育した。(史実)
■北政所は、その後生まれた東殿(吉継の母)の子供が「秀吉との間に出来た子」と知っていた為、その子にも毒を飲ませ始めた。
それに気付いてか、その子も北政所から離して養育した。東殿が正式な側室ではなかった為(?)か、その子(大谷吉継)は隠し子として育てられた。(説)
■秀吉は吉継の病気が治るように秀吉のプライベートな空間(なんとかの間だかなんとか殿:失念)で祈祷会を行った。(史実)
当時としてはとても特別な扱いだそうです。
■吉継の業病と言われる病気は、ハンセン病ではなく服毒に拠るアレルギー反応だったのではないか。(説)
■吉継の「吉」は秀吉の名前から、「継」は秀吉を継ぐものとして名付けられた可能性が高い(当時の慣習から推測して)。
て事でちょっと興味深かったです。
報告まで...
>426
見逃したのが悔やまれるネタ番組だ。
大友宗麟が書状に「東殿」と書いているが、
部外者が傍から見ても側室と分かる状況だったとでも言うのかねぇ?
吉継が毒を飲まされていたのに気づいたのは誰? 秀吉?
子供に毒を飲ませるような主に東殿はずっと仕えてたの? なぜ?
>■秀吉は吉継の病気が治るように秀吉のプライベートな空間(なんとかの間だかなんとか殿:失念)で祈祷会を行った。(史実)
詳細が知りたいなぁ。吉田兼見への依頼とは別物?
>■吉継の業病と言われる病気は、ハンセン病ではなく服毒に拠るアレルギー反応だったのではないか。(説)
どんだけ遅効性の毒だよw
>■吉継の「吉」は秀吉の名前から、「継」は秀吉を継ぐものとして名付けられた可能性が高い(当時の慣習から推測して)。
一字書き出しなら分かるが、実名を与えるなんて慣習は聞かないなぁ。
前提の父親不確定の話も、そんなこといったら五奉行なんか長政と三成ぐらいじゃん、
父親がだいたい分かってるの。適当だよなぁ。
>>427 誰が気付いたかは番組内では言ってない
毒を飲ませていたのはおねではないかと言ってる。
淀の長男鶴松をおねに預けてた事から、秀吉自身は知らなかった、気付いてなかったのだろう
秀吉はおねに終始頭が上がらなかっただろうから、秀次事件が自分の息子を次々殺された腹いせだと思うと興味深い。
鶴松、南殿が産んだ石松丸秀勝に盛られたのはチン毒(少量一週間与えれば風邪をひいたように衰弱死するらしい)
吉継に盛られた毒については、元監察医上野正彦先生が言うには、ぶす(トリカブト)の可能性があると。
トリカブトは刺激臭が強く毒だと分かりやすいので、毒キノコの粉等色々なものを混ぜ味を中和させ毒を強めようとしたが
トリカブトの毒が弱まり失敗したのではないかと。
吉継はアレルギー反応を起こして皮膚炎になり顔が変形したのではないかと言ってた
説としてはとて面白かった。
隠し子説はねーよwwwとしか言いようがないが…
東殿が側室だったというのはどうなんだろうね
甥だか息子だかの頼継が秀頼から一字貰ってたとすると、
結構一族揃って優遇されてたことになるし理由としてなくはない
……か?
430 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 11:29:08
面白い番組だったけどね。
白覆面の大谷義継にまた興味がわいてきた
俺も観たけど面白かった
いい奴だと思った
茶会の時、吉継の鼻汁を飲んだのは三成じゃなかったの?
433 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 21:01:40
当時はフリーセックスだったろうから、他の奴とも一杯性交したと思うよ。
みんなで輪姦とかして、それで秀吉も身に覚えはあったんじゃないだろうか
434 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 23:04:32
毒が遅過ぎる。
たしか、大谷紀之助が病気を治すために辻斬りをやってるという
噂が立ったことがあるらしいが、その段階で秀吉はすでに権力者だった
ころ。その頃に病が重くなってきたと推測できると思うのだが、ガキの
ころから毒を盛られて、発症が成人になってからというのはあり得るのか?
435 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 01:21:02
こじつけ大好き、妄想大好き、な人のルールでは、
そういうエセ科学もアリです。
436 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 02:23:15
ほしゅ。
438 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 17:53:17
大谷は何であんなに少数なんだろう?
関ヶ原に近いからもっと連れてこれないのかな?
439 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 02:13:39
>>438 大谷吉継は敦賀に5万石と、意外と小身だったからな。
ちなみに、前田玄以が同じくらいの禄高だったはず。
440 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 08:10:05
ハンセン病かどうかのレスに対してマジレスしてみた
・ハンセン病で失明は十分にあり得る話
(知覚神経を侵されるために視神経が麻痺・または瞼周辺の筋肉が麻痺して
各種の眼病に感染→痛覚や視神経などの低下・血管神経の麻痺によって重症化
→どっちにしても失明)
・1594年に草津温泉に湯治に行ったとの記録あり(草津・湯畑)
(当時からここはハンセン病・梅毒患者が多く集まる湯治場として有名。
江戸時代には患者の集まる一角があったと草津道中膝栗毛に記述があり、
明治になると湯之沢なる患者部落が出来たほど)
・ハンセン病の発病の多くは10代以降
(感染してから数年から数十年の潜伏期間あり、成人後の発病の可能性もあり)
・癩はハンセン病をはじめ、類似した症状を示す皮膚疾患の蔑称
今となっては分からんが、自分はとりあえずハンセン病説を支持。
更に
>>391にマジレスすると清正公の菩提寺である本妙寺のほうがもっと
有名で、1940年までハンセン病患者のスラムが存在した。九州のほうで
清正公が贔屓されるのに加えてハンセン病という共通因子が加わって
清正公=ハンセン病(の守護)=大谷吉継の混同が出来たと思われ
9月15日に大谷さんのお墓にお参りしてきた。腐女子っぽい人が沢山いて吃驚した・・・。
普段はその周辺にも人がほとんどいなくて静かな良い所なんだけど。
442 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 01:12:24
>441
すみません…。
その腐女子と似たり寄ったりの歴史オタです。
腐ってはいるけど、みんな大谷さんが好きなんだな、と思って生温かい目で見てやってください。
かくいう私も、旧暦の9月15日に墓参りに行きたいなー、と思ってたりする。
東国に住んでるので難しそうだけども。
444 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 16:58:42
関ヶ原に行こうが墓参りに行こうが勝手だが騒ぐのだけはやめてくれ
あと同人誌置いてきたりな
お前ら跡地巡りしても腐った妄想するだけなんだからさ、おとなしくしててくれよ
445 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 17:06:06
朝鮮出兵で大活躍。
446 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 17:51:34
内部撹乱と、丹羽長重だけで、前田100万の動きを止めた。
447 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 16:04:03
>>424 死ぬ前に「三成、地獄で会おうぞ」とつぶやいたという話もある
それってなんかの小説の話だろ
>444
言いたいことはよく分かる。
私も、たとえ同類でも、微妙な人を見るとどん引きするので。
同人誌置いてくる、とかいうのも非常識極まりない、って認識してるから大丈夫。
腐女子っても、ピンからキリまでいますよ。
非常識なののが絶対数的には少ないと思うんだけど、騒ぐから目立つんだよ。
腐ったことを考えることもあるけど、
真剣に当時のことを考えている腐女子もいるんだと認識していただけると幸いです。
ていうか、非常識な同類が騒ぎ立てていて、本当に申し訳ないとは思ってる。
元々歴史が好きな人から見れば、にわか歴史ズキーのオタクが痛々しく映るのも自覚してる。
それは本当に申し訳なく思ってる…。
本当にすみません。。。
なんとなくあなたが空気読めない人なのはわかった
451 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 16:51:01
ドキュンからバックアップうけている反日本記事捏造のアサヒる新聞。
恥ずかしくて公共の場では読めない新聞。
453 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:21:46
>>405 頼継は父や兄と共に豊臣秀吉の家臣として仕え、越前国内に2万5000石の所領を与えられた。
秀吉の寵愛を受けて、木下姓を名乗ることを許されたという。(Wikipediaより)
「吉継は秀吉の隠し子」説と並べると興味深い
454 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 20:38:09
とにかく出生に関しては謎だらけだよな刑部殿は
455 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 03:48:53
あげ
456 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 18:29:31
友情のために戦するとか、勇気ある。
勝ち目がないってわかっててもいくんだから、吉継はすごいと思う。
一族郎党を守る責務を放棄してるんだぞ
458 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:44:37
一応、確率は低いが勝算があったから味方したんだろうな。
459 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:53:15
460 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:02:59
>>548 そんだけの価値があると思ったんじゃね?
>>546の言うみたいだったらカッコイイけど、西軍強しとみて去就を決めた奴らも少なからずいた感じだし、豊君への忠誠とか、石田への友誼ばかりでもないように思うよ
真田みたいな器用さを持ってなかったのは好きだけど。
461 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 08:23:17
大谷吉継が好きで福井まで旅行に行ったけど、地元の人にあんまり知られてないみたいだね
もったいないなぁ
462 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 00:18:16
敦賀のラーメンは全国的に知られてないよね。残念だよ。
鶴亀鏡の奉納者の同東、小石、徳、小屋の特定ってされた?
「デッドボール×ツツイヅツ」って小説読んだ人いる?
三成と吉継の話がベースにある、大将を守りながら戦う日本生まれの新球技が題材の小説なんだけど、
このスレの住人に超おすすめしたい。是非に司馬遷太郎の関ヶ原とセットで読んで欲しい。
球技の競技理念は「凛々堂々」。義とか忠とか友誼とか吉継が大事にしていた気概がたっぷり詰まった青春小説でした!
465 :
日本@名無史さん:2008/08/03(日) 14:51:45
この男って生まれつき顔面崩壊して顔が気持ち悪い形に腫れあがってたのか?
神州纐纈城
この大谷吉継って奴の魅力はイマイチよくわからん。
見た目がおっかないだけじゃねえか。
>>469 ググルか、このスレを頭から読めばみんながどこに魅力を感じてるかは判るだろう。
それが真実かどうかは判らんが。
石田「ちょww膿がお茶にww」
大谷「サーセンww」
こいつって色々と気持ち悪くて嫌いな戦国武将だわ。
イマイチ何がカッコイイのかわからんし。
見た目も気味悪かったみたいだし。
472 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 20:28:09
>>471 病気になる前は凄い美男子だったらしいよ
473 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 21:39:47
ライ病だったんだろ?
475 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 21:42:39
>>471 さすが厨房 浅はかな知識だよ
石田は膿の入った酒を飲み干した。それで義継は西軍で戦うことを決めた
476 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:10:50
>>475 それって昔やってた「関ヶ原」というドラマでそんなシーン
あったような。
お茶に膿が・・・というエピソードの出典がWikipediaでは豪商・神谷宗湛の
『宗湛日記』となっているけど、本当にそんなこと書いてあるのか?
家にある世界人物逸話大事典(角川書店)では
宗湛日記が出典になっている。
茶会の日付は天正15年正月、場所は大坂城。
宗湛日記自体は確認できない、ごめん。
478 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 11:18:25
>>477 わざわざありがとう。
天正15年だと吉継29歳の時か。
かなり悪化していたみたいだな。
479 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 12:06:07
形式主義の三成が作法に従って茶を飲んだのを見て、三成って本当は良い奴じゃないかと勘違いして関が原で奮戦。
三成に騙されたの?
>476
もちろん『宗湛日記』にお茶に膿が…なんて話は載っていない。
茶会自体は確かに大坂城で天正15年正月3日に開かれているが、
吉継のことなど何ひとつ書かれていない。
じゃあ結局茶会の逸話の出典は何なんだ…?
485 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 18:54:53
小説による創作とか。
『野史』や『名将言行録』のような史料寄せ集め的な本にも出てこない話だしなぁ。
487 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 21:28:23
「三成!おぬしもわしももう目が見えぬ。見えぬ者同士の誼じゃ。この命呉れてやる。受け取れい」
488 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 12:05:47
濃茶はまわし飲む物だから、吉継の後に飲む人間たちが腹の調子が悪いとスルーする中で、
最後に居た三成が全部飲み干すシーンをドラマで見たな。
膿が入ったなどの表現はなく、ただ病気を恐れてるという感じだった。
489 :
あ:2008/09/09(火) 15:19:35
第1回クルセーダーズのエルサレム奪還で初代エルサレム王になったやつもハンセン病によって死んだな。
当時は伝染病と考えられていたので 誰にでも移ると恐れられてた
実際は後天免疫障害の先天性遺伝がなければ感染はしない。
誰しもハンセン病の根元となる病原菌は飛沫感染でもあるため、みんなその病原菌は体内に移り住んでる
しかし発病するのは上記で述べた先天性遺伝があるもののみ。
かりに膿をのんでも発病はしない
さらにハンセン病は比較的若い時期に発症する傾向もあるため、年かさねてなっていないなら、感染しない
当時三成はそれを知っていたんだろ
義継は明らかに 感情論で三成に組みしている
三成は 負ければ死ぬ ならば仮に感染してでも勝って死んだ方がましと考えた
さらにこれらの事実をしっていたがため 義継の心を利用した
ここらが正解だろ
>>488 最後に飲んだ三成は志村けんみたいにドバーッと吐き出したと聞いた
次の方ドゾー呆
大谷ってなんか嫌いだ
493 :
日本@名無史さん:2008/09/17(水) 02:41:52
そうすか?↑
なんで?
495 :
493:2008/09/21(日) 00:04:36
は?
全然人いないな
497 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 07:53:08
「関が原」で高橋幸治の神演技があったから好きってのが、理由の95%は占めてるな。
498 :
日本@名無史さん:2008/10/12(日) 22:53:56
↑あれはかっこいいですね。
高橋氏はとても声も通っていて、素晴らしいです^^
499 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 11:25:31
TVニュースで見たが、若いねぇ〜ちゃんの団体が関ヶ原に行って
関ヶ原合戦ツアーをしてた。合戦祭りの武者行列で大谷が歩いてくると
泣いてた若いねぇ〜ちゃんがいて驚いた。
今、若いねぇ〜ちゃんの間では武将ブームなんだってね。
500 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 11:44:26
大谷吉継の子孫は台湾、朝鮮、中国、転々とします。
子孫が今、敦賀市の市長をしています。
メタボリックぎみですが、元気です。
501 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 13:10:04
あげ
やっぱどこを取っても影が薄くて褒めるべき所がないよな太谷って。空気。
503 :
関ヶ原:2008/11/13(木) 23:17:31
大谷卿は史実にこそ残っていないが、九州、小田原で見事な戦歴をのこしているぞ。
関ヶ原でも、本陣が後ろにあるのに伝令を使って、ほぼ前線指揮に近い形で藤堂隊と京極隊を蹂躙したんだぞ。
もっというと、おまいらは兵端奉行をバカにしてる。 兵端奉行=行軍日数、陣形及び戦闘規模の計算=戦略構成になる。大名でも年単位で悩む。
ましてや、太閤殿下の戦争は規模がでか過ぎるからな。石田三成が戦に強かったのも当たり前の話かもな。
戦略と戦術はちがうからなあ
刑部カッコイイ
507 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:00:02
age
508 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 22:28:56
>>503 史実に残っていなけりゃ、いくらリアルだろうとかっこよかろうとヨタ。
三成との逸話だけで充分かっこよかろうに、更にレジェンドくっつけたがる馬鹿は贔屓の引き倒しまっしぐらな厨房
>>508 「史実に残ってない戦歴をなんでお前が知ってんだよ」
って言わなかったところが大人だと思いました
大谷カッコイイ
平塚為広との辞世の句に感動した
512 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 16:12:21
糞早川糞秋。
513 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 08:49:47
「人面獣心なる金吾め、三年のうちに呪い殺してくれる!」
秀秋も秀吉に振り回された被害者の一人
515 :
日本@名無史さん:2009/05/23(土) 18:56:56
歴史読本で大谷吉継の特集号が販売されていますね。
このドラマCD買って聴いて下され。
全2話だが どちらも 大谷吉継が絡んでくる話です。
ドラマCD「戦国武友伝~久遠の交はり~」
http://www.amazon.co.jp/ %E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%8F%8B%E4%BC%9D~%E4%B9%85%E9%81%A0%E3%81%AE%E4%BA%A4%E3%81%AF%E3%82%8A~-%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0/dp/B0026C917I/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=music&qid=1244023748&sr=8-1
518 :
日本@名無史さん:2009/06/08(月) 23:43:05
519 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:33:15
秀吉からも「百万の軍勢を預けてみたい」といわれた
リアル「海のリハク」
520 :
日本@名無史さん:2009/08/13(木) 22:33:57
歴史ミステリー感動した。
多少誇張があっても、誇れる人物が過去にいたというのは
日本人として自信がつく。
521 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 15:08:56
忙しくて見れなかったけど
テレ東の決着歴史ミステリーそんなに凄かったの!?
見たかったなぁ…
再放送はあるの???
>>521 病名なんだけど、顔が崩れるというだけで他に確固たる根拠も無く
限定的に進行性梅毒とされていて、なんだかなぁという感じだったが。
最後の結果だけ見逃したんだけど、視聴者投票は隠し子説と梅毒説どっちになったの?
梅毒
梅毒の方かぁ〜。
ありがとう。
ハンセン氏病の可能性は語られなかったね。
ハンセン病説だとこのご時世、色々ややこしいからかな
妙にリアルな顔のメイクしてたよな
あの、茶にぽたっと膿が垂れるシーンが脳裏から離れない。。。
>>528 そんなことやったのか
ちょっと見たいけど…
「天地人」には登場しないのか?
登場したって吉継の人柄は完全無視されて
美味しいところは全部兼続に持っていかれると思う
あんな脚本じゃなんの期待もできないね
532 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 20:39:04
なにかの本で大谷吉継の最後は自刃したのではなく
家臣に自分の首を打たせたと書いてあったけど、
それって確かなの?
酷い病人だったから事実だとは思うんだが。
>>532 首を打たせた=介錯
自刃の際に介錯してもらうのは極めて普通のこと
介錯がないと色々な意味でキツイ
自刃する人が腹を切る寸前かほぼ同時に、介錯人が首を打ってあげてたこともあったらしいね。
「首を打たせた」=自刃せずに、斬首みたいなものかと思った。
つまり、病気のための障害で、自刃する腕力がなかったか
手が動かなかったのかと。
切腹なんてものは無理に腹を切らなくていい。
ちょっと腹に短刀を当てる程度で十分。
できれば一ミリでもいいから切ったほうがいいんだけどね。
大谷が病人ならそんなに豪快に腹を切らなかったかもしれない。
江戸時代になるとさらに形骸化して扇子や木刀での切腹が当たり前だった。
自刃する腕力は多少あったとしても
主の苦しむ姿を見たくないと思った五助が迅速に首を切り落としたかも…
戦国時代は腹切った後、自分の臓物を引きずり出した武将もいたっけ
「自刃したのではなく 家臣に自分の首を打たせた」
形式的な切腹の場合も、一応自刃というのかな?どうなんだろう。
癩病の場合は指が変形して刃を持てない場合もあるよね。
でも、采配は持っていたような…
いろいろ大変そうだ。
539 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 12:02:26
>>538 形式的な切腹の場合も、一応自刃の場合でも自刃と言うのが正しい。
切腹というのはとにかく扇子腹だろうとなんだろうと手順を踏んでいれば
自刃とされる。
それどころか切腹を命じられた武士が納得いかずに口ごたえしたのを
その場で無理矢理、切り伏せて首を取った例すら
切腹・自刃と発表された例すらある。
540 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/05(土) 11:35:22
江戸時代、百姓は馬車馬の様にして働き、重い年貢に苦しめられ、ご公儀に
無礼を働いたとして、犬猫の様に殺された。
黒船が来て、幕府が外国の要求を受け入れた為に、庶民の生活が益々苦しくな
った。坂本竜馬ら草莽の士が窮民を救う為に倒幕に立ち上がった。明治維新を
実現させる為に何万人もの草莽の士が斃れた。
帝政ロシアは日本を含むアジアの侵略を企み、コンクリで固めた旅順要塞を
建設して、その基地にしようとした。貧しい日本は乏しい武器弾薬を使って、
肉弾攻撃を行うしか方法がなかった。死屍累々の山を築いても、28センチ榴弾
砲をもってしても、堡塁を破壊する事は出来なかった。砲撃の援護射撃を受け
た決死の肉弾攻撃が功を奏した。乃木将軍の真心に将兵が奮い立ったのである。
ロシアの侵略を防ぐ為に何十万人もの兵士が斃れた。
メーソンはアジア侵略を防ごうとする日本を、侵略者に仕立てて葬る為に、
日本のメーソンを使って真珠湾攻撃を工作させた。日本の最後通牒遅延を工作
したのは、騙し討ちにして米国民の戦意を高める為である。
暗号解読によって空母等新鋭艦を避難させた。ミッドウェー海戦で艦爆の兵装を
転換させて敗因を作った。日本軍は玉砕、神風特攻で最後の抵抗を試みた。自
分の命を捧げる事で護国の鬼となって、国民の命を護ろうとした。日本を護る
為に何百万人もの人命が失われた。最後に特攻隊員・大塚要の遺書を紹介します。
母上様
要は特攻破邪隊第3隊の一員として往きます。
母上様もこの一事あるは覚悟されていた事と思います。
父亡き後、母上がいかに御苦労なされたか一番知っている自分です。しかし、
国あっての家です。国のお役に立つ、君の御楯となる、男子としてこれ以上の
光栄がありますでしょうか。母上には申訳ありません。家はお願いします。要
が先に逝ったからとて、母上は決して悲しまないで下さい。また身体を悪くさ
れたりすると死んでも死に切れません。健康に充分注意して決して無理をせず、
強く生きて下さい。
541 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 21:49:45
>>540 事実関係以前にこれだけの短文で論理が破綻してる。
なぜなら、感情による事例の列挙に過ぎないから。
刑部は本当に格好いいよな
石田三成は友達少ないかもしれないが幸せ者だよ
543 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 16:24:31
いよいよ大谷刑部、天地人に登場か・・・
でも石田治部との友情シーンはカットだろうな!
544 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 19:56:02
テレビドラマの「真田太平記」の大谷吉継はカッコよかった。
545 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/09(水) 12:17:29
ナチスのユダヤ人ホロコーストのまやかし
ナチスのユダヤ人ホロコーストが嘘である事の最大の根拠は、アドルフ・ヒ
トラーがユダヤ人だからである。彼の父アロイス・ヒトラーは母マリア・アン
ナ・シックルグルーバーの私生児であり、彼女がウィンの男爵サロモン・マイヤ
ー・ロスチャイルドの家政婦を勤めていた時の子供である。即ちヒトラーの祖
父はユダヤ人である。ヒトラーが入っていた黒魔術の秘密結社・トゥーレ協会は
ユダヤの影が濃い。
ドイツがポーランドへ侵攻し、オランダ、ベルギー、フランスと征服したが、
ドイツ軍装甲部隊が突然ダンケルク前面で停止した。その為に英仏軍33万人が
脱出出来た。こんな愚行は有得ない。1941年6月にロシアへ侵攻したが、なぜそ
の前にユダヤの本家・イギリスを征服しないのか。日本が真珠湾攻撃を行った
直後、ドイツがアメリカに宣戦した。三国同盟は日本が苦戦になってから行え
ば良い。この宣戦は早すぎる。イギリスはアメリカの参戦で生き返った。タイ
ミングが良すぎる。
ドイツは前の大戦の賠償金の支払義務を負わせられ、軍備資金の調達はどう
様に捻出したのか。ナチスの反ユダヤ主義は表向きの事で、裏ではユダヤ(メー
ソン)と結託していた。そう考えれば様々な疑問が氷解する。
アンネ・フランクはなぜ日記を書き始めたのかと言う理由を述べている。私
には信頼出来る友達がいない。誰にも見せたくない、心の内をぶちまけたもの
を書いて、心を慰めたいからです。そこには母親への辛辣な批判、大人への反
抗、恋心、セックスの好奇心等が書かれている。戦争が終わったら国民の苦難
話を募集するとのラジオ放送を聞いて、自分も本を出したいと考え、日記を小
説風に書き直したとある。しかし、少女が心に秘めた告白を公開するだろうか。
放送が流れた時期は連合軍上陸の3ヶ月前で戦局は不明で、現実味に乏しい。
父オットーが生還したのはガス室がなかった事の証明。
アンネは収容所でチフスにて死亡した。メーソンはこの少女を悲劇のヒロイ
ンにしてプロパガンダに仕立てたのである。ナチスのユダヤ人差別、虐待、大
虐殺を宣伝して自らを正当化し、世界の人民の同情を得て、念願のイスラエル
建国を果たした。
546 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/09(水) 12:19:05
メーソンは神の悪の御用の選民
英国王室の紋章は左に獅子が、右に1角獣(馬)が立ち上がろうとする姿に描
かれている。馬は胴体に鎖が巻きつけられて繋がれている。王冠の上に獅子が
立っている。ここで疑問に思われるのは、獅子が王のシンボルであるなら、な
ぜ1角獣を鎖で縛る必要があるのか。その答えは1角獣の方が王のシンボルで
あり、獅子は女系である。英国王がエリザベス女王になっているのもその為で
ある。ミケランジェロ作のモーゼ像には頭に雄牛の様な角が生えている。
天皇家の紋章は左に1角獣(麒麟)が、右に獅子がいて、王冠には麒麟が描か
れている。中央に枠の中の8匹の獅子とそのうえの左に2匹の麒麟、右に2匹
の獅子がいて、これはユダヤ12支族を表している。最高位は麒麟で天皇家はダ
ビテ王を引き継ぐユダ族である。
霊界物語に、ロシアで発生した悪霊が八岐大蛇で、各国の国王に憑依し、イ
ンドで発生したのが金毛九尾の悪狐で、王妃に憑依して活動している。ユダヤ
で発生したのが6面8臂の邪鬼で、自分が盟主になって全世界を妖魅界にしよ
うと企んでいる。これがメーソンの本体である。ヨハネ黙示録に、龍の口と獣
の口と偽預言者の口とから、がま蛙の様な汚れた霊が三つ出て来るのを見たと
あり、メーソンが偽預言で偽救世主になって現れるのである。エホバの証人等
がその例である。しかし、別頁に、王座の周囲に4つの生物があり、第1の生
物は獅子、第2は雄牛、第3は人間、第4は鷲とあり、メーソンは神の召使と
なっている。即ち、メーソンは悪魔に魂を売った人間供を退治する使命を受け
ているのである。ユダヤ人(メーソン)は虐殺されて怨霊になったのである。龍
神は怨霊になって大蛇に化身した。神風特攻隊の怨霊は、暴走族となって爆音
を響かせ、無差別殺人を行って憂さを晴らしている。メーソンの侵略を防ごう
と、国や国民の命を護る為に命を捧げたのに、日本国民はそれを感謝するどこ
ろか、侵略者にして唾を吐き、日本を亡国に陥らせる元凶となっている。
547 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 12:27:56
548 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/09(水) 21:50:07
狂牛病は牛の共食いによって起き、豚インフルは豚の共食いによって起きる。
牛も豚も人間に近い動物で、彼らを食う事は共食いと同じである。
神の最後の審判
日本人は神の戒律(不殺生(肉食も)、不姦淫、不愉盗、不虚言、不破壊(神が
創り賜うた自然の破壊))を破った罪で死刑に処する。ただし、反省して改心し
た者は、それまでの罪に応じた死の苦しみの試練に耐える事が出来れば、弥勒
の住人となれる。改心出来ない者は当然その試練に耐えれないから、段階的に
動物以下にされる。最下位は草木に替えられる。その中でも極悪なものは魂ま
で焼き滅ぼされる。
人間供の罪状
科学者 神の存在を否定し、神の働きを愚かな理論にすり替えて誤魔化し、
人民を騙している自然破壊の極悪人。
宗教家 神の戒律を人民に正しく伝えず、悪魔の宗教を広めた極悪人。
政治家 神の天産自給の政治を行わず、金権政治をはびこらせた極悪人。
教育者 間違った道徳、学問を世に広めて、非人を産み出す学歴社会を築い
た極悪人。
医 者 人民の悪業を悟らせず、邪道の西洋医学で誤魔化して、自然治癒力
を毒によって弱体化させている極悪人。
農 家 土地を農薬と肥料で汚染し、毒漬け作物を売っている悪人。
主 婦 女の役割(家事等)をまともに勤めず、男に逆らって、不道徳を行い、
社会制度を壊している悪人。
企業家 金儲けに走り、公害を撒き散らし、国民から搾取している悪人。
公務員 公僕を忘れ、世の為に働いていない、税金泥棒の悪人。
商 人 商品を右から左に動かすだけで暴利を稼ぐ悪人。
その他世の為に不必要な職業 人の生血を吸っている悪人。
世の為に役立っているのはただ一つ、昔ながらの百姓のみである。
549 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 22:53:07
>>543 [890]人間七七四年[sage] 2009/09/07(月) 16:06:08 ID:JonffKpX
AAS
次週のあらすじ
>三成(小栗旬)は知略にたけた盟友・大谷吉継(津田寛治)にともに立つことを求める。
そして、毛利輝元(中尾彬)を総大将として大坂城へ入り、秀頼(小林海人)を奉じ、
家康討伐のため挙兵する。
550 :
馬鹿な学者の妄説信者へ:2009/09/15(火) 14:10:52
宮本武蔵の正体は柳生十兵衛
宮本武蔵と佐々木小次郎との巌流島の決闘は1612年に起きた。細川家の剣術
指南の小次郎は武蔵に敗れて18歳で亡くなる。小次郎は富田勢源の弟子である。
しかし、勢源は美濃国主・斉藤義龍の御前で梅津某と試合を行い、勝っている。
それは1560年の事で勢源は40歳を過ぎていた。仮に彼の生年を1520年として、
1612年には92歳である。そんな年寄が弟子をとるのか。小次郎は18歳で指南役
が勤まるのか。勢源は小太刀の使い手、小次郎は長剣で矛盾している。
豊前29万石の藩主・細川忠興は慶長15年小倉城を改築して移った。翌年津山
藩船が小倉領海を侵犯する事件が起きた。翌々年に巌流島の決闘となる。徳川
家光(光秀の子)は、父を謀反人に仕立てた忠興を、改築を口実にして反逆罪で
失脚させる為、武蔵(公儀隠密・柳生十兵衛)を津山藩船に乗り込ませて侵入さ
せた。忠興は剣豪・小次郎を雇って、御前試合の形で殺そうとした。だから、
武蔵は逃亡の為に、遅れて船で来たのである。
武蔵は徳川家の為に働いている。関ヶ原の戦いでは宇喜多軍に紛れて内部撹
乱。大坂の陣では豊臣軍に紛れて内部撹乱。島原の乱では小倉藩家老・伊織と
共に参戦。武蔵が師とした沢庵和尚は柳生宗矩との関係が深い。紫衣事件で出
羽上山(藩主土岐頼行は光秀と血縁)へ流罪になった沢庵を、宗矩が家光に進言
して赦免させた。その使者の十兵衛は出羽国正法ヶ原で伊織を得た。家光は彼
の為に東海寺を建立した。沢庵は光秀の血縁者である。武蔵の五輪書には禅の
思想が入っており、枯木鳴鵙図は名画である。頼芸の鷹図と印象が似ている。
十兵衛は頼芸の曾孫。
忠興の跡を継いだのは三男忠利で、長男廃嫡、次男自刃と二人が失脚したの
は不自然である。忠利は幼時、家康に人質にとられ、友矩とすり替わったので
ある。
武蔵の父・新免無二斎は入道名で本名でない、暗号。新しく免ぜられた→剣
術指南役の宗矩。十兵衛は氏井孫四郎光秀と署名した文書を残して暗号にして
いる。柳生家は光秀の血筋で、十兵衛は明智十兵衛光秀からの由来。
美濃から名僧、剣豪を輩出している。心頭滅却の快川禅師、宝蔵院槍術・可
児才蔵、鏡新明智流・桃井春蔵等。
551 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 08:04:59
552 :
日本@名無史さん:2009/09/21(月) 19:46:24
津田寛治もなかなかの好演だったけれど、
小早川の裏切りを予期していなかった風の描き方は痛い。
>>552 だよなぁ。っていうかあの秀秋の描き方は酷すぎるな。脚本家が何がしたかったんだかさっぱり判らん。
554 :
日本@名無史さん:2009/09/22(火) 04:15:47
>>553 あの脚本家は、女の視点で描きたいから、合戦とか政治とかがむちゃくちゃ。
あの秀秋は酷すぎるよな〜、あれじゃどうしようもない子供だろ。
大谷さんも人気あるからとってつけたように書いてるし、
あれじゃ、あるていど知識がない人にはなにがなんだか分からんだろ。
ほんと、酷い脚本だ。
>>552 でもさ、「葵三代」の時の良継も
伝令「申し上げまーす!」
良継の家臣「なんじゃー!?」
伝令「小早川義秋が向かって来ます!」
良継「おのれーー!!」
ってな具合で、全然寝耳に水って反応だったよ。
あ、字間違えた。
良継じゃなくて吉継だ。
557 :
日本@名無史さん:2009/09/22(火) 11:14:43
上杉との戦闘が始まってから挙兵してたら良かったのに。
>>555 いや、関ヶ原の部分だけしか見てない人にはそう解釈されるかもしれんが…
その前に三成にも小早川が疑わしいことをほのめかしているし、
事前に吉勝と一緒に小早川の陣にも出向いている。
「おのれーー!!」は寝耳に水という反応ではなく、やっぱり来たかという反応。
連投スマン。追記。
>>555 ちなみに葵三代じゃなくて葵徳川三代な。
小早川義秋じゃなくて小早川秀秋な。
「葵三代」の細川刑部は、「関ヶ原」の信長刑部と並ぶ名キャストでした。
関ヶ原着陣以前に、疑っているシーンがあったような。
>>555 だ。
>>559 サンクス。
なんつーか、漢字から話の解釈に至るまで全て間違ってるな、俺。
首吊って死んだ方が良いレベルだなorz
でもまぁ、石田といい宇喜多といい大谷といい獅子奮迅の活躍なのに、
そいつらに比べると、どうも小西が見劣りするな。
それでも参戦しなかったヘタレ共よりゃマシだが。
>>561 >それでも参戦しなかったヘタレ共よりゃマシだが。
おっと、長宗我部の悪口はそこまでだ。毛利が道塞いでるんじゃどうしようもないじゃん。
>>557 >上杉との戦闘が始まってから挙兵してたら良かったのに。
その通りだが近頃は宇喜田が先走って兵を動かした説が有力らしい。
>>554 >あの脚本家は、女の視点で描きたいから、合戦とか政治とかがむちゃくちゃ。
それは判ってるんだけど、若い頃の兼続も酷かったけど、それにしても秀秋は酷過ぎた。
>>560 >信長刑部
ワロタ。意味するところはちゃんと分ります。
見開いた時の目が最高!
564 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 04:24:16
>>562 酷すぎるよね。ドラマだから脚色はもちろんありだが、
矮小化が酷すぎるし、フィクションとしても面白くもなく、
「なるほど」といった物語的説得力がない、
「それはありえんだろ」というマンガ的粗雑さが有りすぎ。
スレ違いだけれど、今回のドラマは、戦国大名から近世大名へと変質・適応を遂げる
上杉家の事績とその中での執政・直江兼続の仕事を、まったく描いていない。
歴史上あった場面、大事なエピソードがまったく出て来なかった。
566 :
日本@名無史さん:2009/09/23(水) 21:20:51
>>565 別にいいんだよ。ドラマなんだから。
だけど見せ物としての完成度が低すぎるのが問題だ、ドラマとして。
565の書き方だと要求が真面目すぎるようだけど
戦国三傑と時代の波に翻弄されながら生きた田舎家老の奮戦記として、
エンタメの中でそういうことを伝えるのは可能だったと思う。
でもドラマの兼続は乱世に愛を掲げるとかいうただの変なやつ。
おまけに三成が心を開いた唯一のお友達で西軍挙兵の発起人ときた。
それじゃおまえも死ねやぁぁと刑部に代わって言いたくなる。
なんかいろいろあんまりだ。
568 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 12:50:38
直江が超大物になってるね
569 :
日本@名無史さん:2009/09/24(木) 13:08:52
大谷は裏切りがまかり通る乱世において、筋を通した一人
三成、兼続などなども含む
>>569 兼続って筋通したっけ?関ヶ原のあとに主人と一緒に
上洛して畳に頭を擦り付けて家康に謝って家名存続を許され
家康の謀臣本多正信の次男を養子に迎えるまでに遜って
大坂の陣では家康が激賞するくらいの働きを示したのに
>>570 だって関ヶ原が負けなんだから後は生き残る事が最優先されるでしょ。
徳川に臣従したら徳川のために頑張るのが筋ってもんだ。
むしろ福島正則とか加藤清正とか、筋通せよ。
上杉家中なら岡左内とかもキャラ立ってるし見たいよな。
小判敷き詰めてゴロゴロとか。
嘘みたいだけどそういう事する人っているんだよな。
ゲーリングとか宝石で満たしたボウルに手突っ込んで癒されてやがったし。
上杉ものなら仙北一揆とかで大谷吉継を見たかった
もう関ヶ原はいいよ
まさか出羽合戦をおざなりにして関ヶ原やるとはな
まさか最上も佐竹もださんとはな
そんなにローカル事情が描きたくないなら
最初から謙信後の上杉なんぞを題材にするなといいたい
574 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 15:06:32
前田慶次もでないのか?
>>574 出演しない(?誰かが演じることはない)と明らかにされてるらしいよ。
残念だよね、直江が主人公なのに。
つうか今回の大河は何を書きたいのかわからん。
あんな独善的というか排他的に盛り上げられたら、直江ファンでも嬉しくないと思う
576 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 15:55:32
女もべつに描けてないよ
マンガみたいな設定のアホな女忍者とか変だよ
忍者と言えば真っ昼間から黒装束の忍者が煙玉投げてたっけ
小早川を裏切らせるのは北条の遠山康光(死んでる)とか
デタラメっぷりには気合い入ってるけど
578 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 21:16:08
>>577 女忍者酷いよな。描きたいのと成功してるのは違うからw
戦闘員とか鐘突く、影喝の妻とかで描けてると思ってると勘違いしてんじゃないか。
別に史実と違うのはドラマだからありだろ、
そもそも史実などどれほど現在の通説に信憑説があるか分かったもんじゃないw
579 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 21:58:23
お船は成功してると思う
史実と違う(というか一級史料で裏付けられない)のは別にいいんだけどな。
戦国板でもいわれてたけど、刑部が三成への友誼もあって西軍に与したとかも
本当かどうかわからないし、茶会のエピソードとか俗説にきまっとる。
でも講談、小説、ドラマでは面白いから許すってかむしろそういうのを期待してる。
しかし天地人で死んでるはずの遠山がどこにでも出没するのは面白くも何ともない。
581 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 23:41:37
>>579 え〜、お館の乱?まではまあありかもしれないが、
そのあとは無理やりで、流れをぶったぎってるだろ、常磐ちゃんは熱演してると思うが、つか役者は大体いいんだよな〜
>>580 なんか、悪役にしたかったんだろ。でも、上手くないよな。蛍雪次郎もいいんだが、ぜんぜん、伏線が生きてないし。
オレ的には松方だけ流石だと思う。あの脚本で見せるからな〜
582 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 00:14:03
松方さん
悪家康を見せてるね。
583 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 00:16:52
松方もええ味だしてまんな〜
秀吉やってた俳優さんもよかったけど
個人的には前田慶ニも誰かに演じてほしかったで…
584 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 06:03:20
>>582 いいよね。もはやアレだけが救い。
>>583 笹野さんね。名優だけど今回の秀吉は全然だったな。
あれじゃ、バカみたいでドラマとして成立しないだろ。
女を描かなきゃ、色々出せるんだけど、女を描くために割愛されたんでしょ。
なんかここ天地人スレになってない?ww
586 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:04:23
大谷の出番がすくなすぎて
587 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 13:11:08
大谷刑部、真の男だな。
天地人の再放送始まった。
588 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 19:12:07
589 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 00:19:59
この間須賀谷温泉の近くの集落を歩いてたら
大谷性が集まる地域があった。
この辺の出身じゃねえの?
590 :
日本@名無史さん:2009/10/14(水) 01:52:53
大谷喜久蔵陸軍大将も末裔だと聞いたことがある
591 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 07:18:48
可成り若い頃から発病していたらしい(千人斬りの風評から推して)が、
石田三成との男色関係は何歳ぐらい迄つづいていたんだろう?
流石に晩年は念契関係には無かった模様ぢゃが。
592 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 07:22:49
『豊臣秀吉存命の時代より常に周囲から疎んじられてきた。
己のみに降りかかった不幸を許容することができず、
すべての人間を不幸に陥れることを目的に、
天下分け目の戦を起こすため暗躍する。』
ってどういう設定だよ。考えた奴の正気を疑う。
カプコンもひどいことするよな
実在した人物の名を使ってこの仕打ちはないだろ…
キモヲタって惨めですね
>>593 考えた奴もそれを許した上司も頭がおかしい。
業病の患者団来に訴えられるべきだ。
596 :
日本@名無史さん:2009/10/20(火) 18:16:46
BASARAの設定酷すぎるな…
597 :
日本@名無史さん:2009/10/21(水) 09:46:20
今更かよ
ずっとBASARAはヤバいって言い続けてきたのに
だってBASARAなんぞ、何の興味もないから知らないもの。
599 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:17:33
場サラって女がするゲームじゃねえの?
腐あるいは歴史を知らない馬鹿がするゲームだよ。
歴ゲーはどれもマジメに史実を考えるもんじゃないけど
Bが好きなのは悪趣味な連中だろう
明智光秀が快楽殺人者とか三成は家康の惨殺しか考えてないとか
下劣な設定ばかり・・・
602 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 09:45:42
大谷吉継大嫌い
603 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 09:47:49
バサラは悪趣味じゃないよ
年齢不詳なの?
605 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 12:17:53
もし捕まったら三成みたいに斬首だったのかな?
直江山城絡みではは数少ない見せ場の長谷堂合戦まで無視するなんて、武田対上杉で第四次川中島合戦無視するのと同じだろ…。
脚本家のアホぶりは酷いな。早々と視聴停止(魚津城落城直後)して大正解だな。
挙げ句の果てに小早川裏切りに大谷吉継狼狽(?)描写とは…。救い難いな。
608 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 07:18:25
>>607 歴史じゃなくてドラマだから、そんなこといってもね
ドラマとしても酷かったが
>>608 それはそうなんだが、(長谷堂合戦を)映像で見れる最初で最後の機会が
脚本家の無知、独善、オナニー台本で全て夢と消えて怒りのやり場無かったんで
つい…ね(^_^;)。
絵(花の慶次)で我慢するか…はあ…(T_T)。
脚本家は女性なんで合戦を描く事は出来なかったんだろう。
wikipediaの「小松江里子」の記事の半分が天地人批判でワロタ。
>>610 新平家物語、国盗り物語、花神、徳川家康は女性だよ脚本家。
男女以前に、脚本家(粗末御大)の力量の無さと、プロデューサーの姿勢が全て
612 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 07:12:29
>>609 ドラマとしても出来は悪いと思う。
松方ぐらいしか生きてなかったし。
>>610 小松はどんと晴れでわざと凡庸に書いてるのかと思ったけど、
ただの深読みだった。無能なだけ。運だけはいいな。
>>611 そう思う。しかし視聴率的には成功だからな
>>611 毛利元就(現横審委員)追加で。
歴史考証(?)の小和田さんも機能不全。
オバサンやスイーツはともかく、お父さん方の信頼は完全に失墜したね。
NHK、みなさまにちゃんとツケは払えよ。自業自得だ。
614 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 07:51:02
大谷様について語る掲示板なのに、なんで大河ドラマの話しをしているんだ
天地人での関ヶ原での大谷描写が不満
↓
いつの間にか天地人そのものへも不満をぶつける
って流れかと
616 :
日本@名無史さん:2009/12/02(水) 09:06:35
レス違い
再来年の大河に期待したいとこだけど
きちんと登場するかどうかはあやしいね
618 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 02:24:31
やーい、大谷吉継男女女男
619 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 20:12:55
まるでダメな大谷吉継略してマダオ
何故変な奴が湧き出したんだ?
621 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 05:39:25
三成とはおホモ達だったんだろ?
622 :
日本@名無史さん:2010/01/06(水) 08:56:48
この人って浄土真宗の両トップの家とは無関係?
2月6日、敦賀短大の外岡教授による
「史実と伝承−大谷吉継の武辺咄をめぐって−」という
講演会が福井県立図書館であります。
おじゃましました。
624 :
白頭:2010/02/16(火) 17:33:03
大谷吉継の米原市にある墓の見学と講演を2/21します。
米原駅西口12時集合です。
ハンセン病学会が戦国BASARA3の問題についてカプコンに要望書送った
発売中止を切に願ってやみません。
ほっほー
630 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 22:38:52
age
631 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 22:44:10
今北産業
632 :
日本@名無史さん:2010/08/04(水) 11:12:45
義将吉継、天晴れ!
領国の統治能力はあったみたいですね。武将というよりは能吏に近いでしょう。
そして誰が見ても不利な側につき、負けていったのが後世に名を残した理由ですね。
ただ、負けたから悪く言われるのであり(お家断絶等)、逆にもし勝っていれば
恩賞は思いのままなのだから、何とも言えないですね。
信長だって義元に勝ったから頭角を現したのだから。負けていれば
うつけ者でおしまい。