全体主義と責任
近代における個人主義の根本は責任の観念であつた。個人とは責任の主体のことであつた。
各人は自己に対してそのあらゆる行為に責任を有するものとせられた。
個人の自由の問題も責任の観念から考へられたのであつて、もしも自己が自由でないならは我々は自己の行為に対して責任を負ふことを要しないと考へられるところから個人が責任あるものであるためには自由でなければならぬと考へられたのである。
その商取引においても契約に責任を負ひ、責任をもつて契約を履行するといふことが自由主義の主要な道徳であつた。
この責任において個人主義や自由主義は決して単に勝手気儘に振舞ふといふことを意味しなかつたのである。
政治上の自由主義の根本もまた責任の観念であつた。
議会政治もその本質においては責任の政治であつた。
個人主義、自由主義、デモクラシイの堕落は、すべて責任の観念の喪失に関係するといひ得るであらう。
従つて今日いはゆる革新とは、道徳的には、責任の観念の確立とその発展になければならぬ。
全体主義は個人主義、自由主義、デモクラシイを否定するものとして現はれた。
しかし全体主義は責任の観念を廃止するものでなく、却つて責任の観念を発展させるものでなけれはならない。
個人主義や自由主義においては個人は単に個人に対して責任を有するものであつたとすれば、全体主義においては個人は自己に対してのみでなく全体に対して責任あるものと考へられねばならぬ。
デモクラシイを否定して全体主義が独裁の形をとつて現はれたといふことも、デモクラシイにおいて政治が無責任になつたのを責任ある政治に変へようとした限りにおいて意義があつたのである。
今日我が国の全体主義的風潮の中において特に考ふべきものはこの責任の観念である。
そのことは、よく言はれる如く自由主義が完全に発達しなかつた我が国においては、特に大切である。
全体に名を藉りて個人の責任が回避され、悪い自由主義よりも一層無責任になるといふことがあつてはならぬ。
ただ時流に従ふといふのが全体主義ではない、それは個人が自己の責任を回避することでしかない。
自己の責任の観念を有する者は自主的でなければならぬ。
ただその自主的といふことが社会と国家に対する自己の責任と結び付けることが要求されてゐるのである。
今日の全体主義的風潮の中において責任の道徳が確立され発展させられなければならぬ。
― 三木清 (昭和十四年四月十九日 讀賣新聞夕刊)
近年我が国においては全体主義が強調され、そしてそれは大切なことであつたが、その反面個人としての完成に対する努力が無視されてきた。
しかも専ら日本民族の優秀性を自覚させようとしてきた結果は、他の民族を尊重する念を失はせると共に、国民に自己批判を忘れさせ、国民を独善的にした。
真の自覚は自己批判を通じて達せられるのである。
従来の国民指導の方針の欠陥が今日支那において特に明瞭に現はれてゐる。
国民性の改造はまづこの指導方針の改善でなければならぬ。
個人といふと直ちに自由主義だとか、個人主義だとかいつて排撃する浅薄な態度が改められなければならぬ。
立派な国民は同時に個人としても立派であるべき筈である。
個人として完成された人間を作つて大陸に送り出すのでなければ、建設工作は完全に遂行されないであらう。
我が国においてはなほ個人主義や自由主義も或る一定や重要な意味をもつてゐるのである。
三木清 ”国民性の改造” 1940.6 中央公論