『諸君!』 2007年5月号
国家情報論 21世紀日本生存の条件(19)
「大いなる嘘」で生きのびるレーニン主義 中西輝政(京都大学教授)
独裁国家主導の「敵対的宣伝」によって過去の歴史に呪縛される日本の悲劇
http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/shokun0705.htm ベルリンそしてパリに本拠を置いたコミンテルンの秘密宣伝部としての「ミュンツェンベルク・
マシーン」は、実は1920年代から対日包囲と日本孤立化の国際宣伝戦略に動き出していた。
(中略)
コミンテルン発足の2年後の1921年、ヨーロッパと世界に向けたコミンテルンによる
「秘密宣伝」のほぼ全権をレーニン自身から直接、委ねられていたミュンツェンベルクは、
ベルリンを本拠にして、まず「隠れ蓑」として国際NGO組織IAH(国際労働者救援会)を設立し、
モスクワからの莫大な秘密資金を運用して、当初まず国際的な慈善運動を展開し、その活動
を通じ世界各国にコミンテルン宣伝のための極秘ネットワークを組織して西側各国での
メディアへの浸透や支配へと乗り出してゆく。日本に対しては早くも、大正12年(1923年)の
関東大震災に際し「被災民救援」を口実に、コミンテルンの地下ネットワークの構築に着手し、
大正14年(1925年)には神戸、川崎造船所を始めとする頻発する日本での大規模ストライキ
に際し、困窮する日本人労働者への“人道支援”を名目に、大々的な「炊き出し」活動を陰で
組織していった。こうして築いた日本におけるコミンテルンのディープなネットワーク(・・中略・・)
は、すでに1920年代半ばには日本国内に大きく根を張っていたのである。
(続く)
>>731 (続き)
この「マシーン」の一員として活動経験のあったアーサー・ケストラーによれば、1926年の
時点で「日本では、ミュンツェンベルク・トラストが直接・間接手掛けていた<⇒コントロールド>
雑誌・新聞は19に上っている」とのことであった(『ケストラー自伝――目に見えぬ文字』彩流社、
1993年 邦訳 P264)。大正末の日本で、知識人やメディアがあれほど急速に左傾化していった
背景を考えるとき、こうした「ミュンツェンベルク・トラスト」による、日本の左翼・非左翼の陣営に
向けた秘密のメディア、学界、労働界への浸透工作という要因を無視することはできない。
日本近代史の研究者・伊藤隆氏によれば、1920年代後半から30年代にかけ、日本から
ヨーロッパとくにベルリンに留学していた文部省派遣留学生を中心にコミンテルンとつながる
「ドイツ共産党日本語部」が組織されていたという。