134 :
日本@名無史さん:
『世紀末から見た大東亜戦争』(現代アジア研究会編/プレジデント社、一九九一)
第五章 大東亜戦争とコミンテルン 京都大学名誉教授 勝田吉太郎
尾崎がひそかに抱いていた構想と工作の方向は、彼の獄中手記を読めば明瞭となる。
「私がしきりに心に描いていたところは、次のごときものでありました。第一に、日本は独伊と
提携するであらうこと。第二に、日本は結局英米と相戦ふに至るであらうこと。第三に、最後に
我々はソ連の力を借り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連に於て
日本自体の社会主義国家への転換を図ることでありました」
さらに別のところで、
「日本は南方への進撃に於ては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありませうが、その
後の持久戦により消耗がやがて致命的なものとなって現はれて来るであらうと想像したので
あります」
と述べている。つまり南方への侵略政策によって英米と戦わせ、日本を消耗戦に導くというの
である。
さらに、こんな一節もみえる。
「英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ連の援助を
必要とするでありませうが、更に中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、
資本主義機構を脱した日本と、ソ連の三者が緊密な提携を遂げることが理想的な形と思はれ
ます」
つまり社会主義体制となった中国と日本とソ連、この三者の力によって世界革命を図ろうと
いうのである。さらにまた、こんな一節もある。
135 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:14:42
>>134 「更に英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を
各々一個の民族共同体として前述の三中核体と(中略)密接なる提携に入るのであります。
(中略)世界新秩序完成の方向と東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであってはならない
ことは当然であります」
獄中で死を前にして書かれたこの手記によると、近衛首相の側近となって近衛を動かした
尾崎、ならびに尾崎の息のかかった側近グループの壮大な世界戦略とは、第一に、
“社会主義の祖国”ソ連を守るために日本を南進させ、英米と衝突させて、その植民地を解放
する一方、日本を長期消耗戦の泥沼に陥らせて日本国内に革命的状況を作り出すというもの
であった。
第二には、中国を共産化するために、中国をも長期の泥沼戦争に導くべく、日中間の休戦を
図ろうとする一切の企図を妨害し、流産させることであった。
(中略)
近衛内閣によって国策とされた「大東亜新秩序」の建設は、コミンテルンと尾崎の描く大戦略
のなかで、軍部や右翼の唱える「大東亜共栄圏」の衣をかぶったアジア共産化革命の一環と
して位置づけられていたのである。
こうした事情について、忘れられた書物である三田村武夫著『戦争と共産主義』
(昭和二十五年刊)に詳述されている。
136 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:28:55
『世紀末から見た大東亜戦争』(現代アジア研究会編/プレジデント社、一九九一)
第六章 日本を陥れたもの 京都産業大学教授 丹羽春喜
(本稿は、『現代警察』五十五号、平成二年五月号所収の拙論に大幅な改訂を
加えたものである)
当時は、尾崎が所属していた『朝日新聞』をはじめとする大新聞も、これに同調して、日本の
全国民を対中・対米英戦争に駆り立ててやまなかったことは周知のとおりである。しかも、
このことについては、次のような驚くべき事実があったことを認識しておかねばならない。
すなわち、終戦後、マッカーサー司令部は、朝鮮戦争勃発を機に、当初の容共政策を改めて
「反共・防共政策」に転じ、日本の新聞社から共産主義分子を排除する指示を出した。
いわゆる「レッド・パージ」である。このとき朝日新聞社からは、二百人前後ものスタッフがそれ
に該当するものとして追放されたわけであるが、その人たちは、その年齢や地位から見て、
その大部分は尾崎と同様に戦前・戦中に入社して、戦争中の『朝日新聞』を作っていた人たち
であったことは明らかである。すなわち、戦前・戦中に、「暴支膺懲」「蒋介石政権撲滅」
「独伊枢軸との提携強化」「鬼畜米英打倒」などを狂的なまでに叫び続けた『朝日新聞』の
編集は、このような共産主義者およびその同調者によってなされていたわけである。
137 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:30:14
>>135 三田村武夫著『戦争と共産主義』からは、尾崎のグランド・デザインに賛同した人物として、
朝飯会、昭和研究会、企画院事件の関係者ら、実名を多数引用掲載している。
企画院事件絡みでは、正木冬氏と勝間田清一氏の尋問調書が掲載されている。
満州事変以降の準戦時体制の確立強行によって資本家、半封建的生産関係を破壊し、
統制経済の名のもとに「上からの社会主義化」を進めるという供述をしている。
勝間田は、日支戦争を英米等の帝国主義終焉に向けた進歩的戦争と見なし、コミンテルン
が世界革命本部として確立し、各国が協力することの重要性を主張。そして、日本共産党との
関係について検事に問われ、自分たちの活動が、マルクス主義革命の前衛たる日本共産党
の目的達成に将来的に寄与するだろうというような事を述べている。
138 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:30:50
「第五章 大東亜戦争とコミンテルン」と「第六章 日本を陥れたもの」によると、軍部や右翼と
共産主義者の間には戦略、政策に関しても共通面が多かった。
反資本主義、反自由主義、反英米、農民・農本主義=反地主、反財閥、革命・クーデターに
よる社会変革、そしてアジア植民地解放。違いは天皇制への態度だけ。
実際、治安維持法下、特高は、“転向”で天皇制さえ認めれば、共産主義的信条の持ち主で
あっても赦す例が極めて多く、かなり“寛容”だったそうだ。
こうした共産主義者は1935年の有名なコミンテルン・テーゼの意に沿い、国家権力の中枢
に食い込む“体制内革命”をめざしていた。
革命運動は抑えられたが、マルクス主義学習は自由で、文献も大量出版されていた。
転向した知識人(容天皇制)は、諸種のブレーン組織やシンクタンク的な政策研究・立案集団
に迎え入れられることが多かった。
そして、こうした隠れ左翼は独伊との共闘を説くなどしていたそうだ。