109 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 23:51:55
聖徳太子がイエスの影響を受けて創作された人物だっていう説は既出?
110 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 00:12:41
ユダヤ教がゾロアスター教の影響が強いらしいね。
111 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 01:49:39
13世紀、オスマン商人は胡椒の生産地として、インド経由で東南アジアに
進出。ミンダナオ、ボルネオ、スマトラ、ジャワにプランテーションを
建設するも、領土的・宗教的野心は希薄。
同地域には、既にヒンズー教が拡散しており、イスラム原理主義は中和され、
17世紀、オランダの東インド会社の進出も容易であった。
オスマン・トルコにとって東南アジアは胡椒の植民地としての価値しかなく、
その目的に合致しない台湾、中国、日本への領土的・宗教的野心は皆無に近い。
日本がイスラムの洗礼を免れたのは、当然の帰結。
112 :
【^▽^】元イスラム教徒ジョーカー:2005/09/04(日) 02:49:47
13世紀に「オスマン商人」!?
113 :
【^▽^】元イスラム教徒ジョーカー:2005/09/04(日) 02:57:14
日本にも中国の回族(回民)みたいのがいたら面白いのにね。 せいぜい500万人ぐらい。
室町時代に日本に来て足利義満に仕えたというインド商人、葛葉西忍は
ヒンドゥー教徒?それともムスリム?
ひょっとしたら茶道や能など室町の文化に、ムスリムの文化がとりこまれていることはありうるのでは。
115 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 12:37:55
茶道はキリスト教の聖体拝礼の影響を受けてるのは聞いたが…
とりあえず、小村不二男『日本イスラーム史』は必読。
史料的にも、文章的にもやや難のある本だけど、ここまで纏まった通史はない。
著者は、支那事変中、内蒙の回民に対して宣撫工作を行っていたムスリムの方です。
117 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 14:54:34
>>113 日本には共産党、公明党という一神教の人々が存在する。
戦前は天皇教という一神教が盛んだったが、敗戦後に廃れてしまった。
118 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 09:59:07
捕手
119 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:23:30
既に横浜や千葉や都内にはモスクもあるところもあるんだが・・・
パキスターナがそのうちイスラム原理主義党を結成してで選挙大勝
利が近いのでは?
その前にフィリピーナ政権樹立かな?
私もムスリムだったが、同じ日本人のムスリムとムスリマが「日本は不寛容な国だから生活が大変だ」とぼやいていた。
121 :
papa:2005/09/19(月) 14:19:38
何かで読んだが
イスラム教国の高校教師が伊勢神宮を訪問して
驚愕したそうだ
イスラムの教えではテロで殉教すれば天国へいける
と教えられる
そこは、緑がたくさんあり清流が流れる場所で殉教者はそこで憩うことが
できるとされるが
日本では殉教しなくても、それはそこに存在していた
富山県の新湊市にもモスクがある
何年か前にコーランが破られたとき、日本中のパキスタン人が大挙してやってきた地
123 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 04:07:45
奈良時代の渡来人とかってペルシャ人いなかったっけ?
あと浄土真宗って一神教っぽいよな
124 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 06:49:11
>>123 ペルシア人の人物(技術者など)は奈良・平安時代なんかにちょくちょく来たよ。
ガンジンと共に日本に来た弟子にもペルシア人はいたしね。
元々、古代の中国にはペルシア人がコロニーとしをつくるほどたくさん居たわけだし、
詩人のリハクもペルシア人説があるほど。
ちなみにヘルシアはローマ帝国とも親交がありグレートブリテン島にも渡った記録があるわけで、
古代からユーラシア大陸の端から端まで行ったわけだ。
こんにちでもイラン人はヨーロッパや日本にやたらやってくるが、やはり民族的体質は遺伝するんだな。
125 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 06:50:05
ちなみに当時のペルシア人はまだイスラム教徒ではなかったのだが。
8世紀にササン朝ペルシアがアラブ・イスラーム軍に敗れ占領された後もなかなかイスラームへの改宗が進まなかったしね。 シーア派が誕生してから、広まった。
127 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 12:55:48
もし日本でイスラム政党が出来たら対抗してカトリックの政党とプロテスタントの政党が出来そうだな。
唯い(ry
129 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 00:16:31
むかし…
日露戦争のすぐあとで、トルコ中心に中東で日本の人気が高まった。
日本にイスラム教を広めようとする動きもあって、
明治天皇をカリフにしようとかいう風潮もあったみたい。
130 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 22:25:06
イスラムはマルクスレーニン主義、毛主義、主体思想とならぶ
危険思想として世界中で監視し、懲罰を与えるべきだ
131 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 15:00:54
あげ
一向宗とかの教義はイスラム教の影響を受けてるように思うんだけど
キリスト教が入ってきた為にその辺の一神教の影響を全部キリスト教の影響にされてる気がする
宣教師はそれを喧伝するし、似たようなものがあると同化させ、奇跡だのと言って手柄にして布教してたし
江戸期前のキリスト教って、宗教というより侵略の道具の色合いが濃いから、うまい具合に形跡を消されたんじゃないかな?
もともと、中国方面のムスリム・コミュニティーの基礎は
イラン系が主体でアラブ系は殆ど無いに等しい。
遡れば、沿岸部コミュニティーの起源はサーサーン朝時代に
定着したソグド系やペルシア湾周辺の商人達のコロニーで、
イランや中央アジアのイスラーム化に従って、この地のイラン系
の人々もムスリムになっていったようだ。
イブン・バットゥータが訪れた14世紀中頃の江南の諸都市のムスリム・
コミュニティーの主体は人名の出身地を見るかぎり、イスファハーニーや
アルダーウィーリー、カーザルーニーなどイラン方面のものが目立つ。
雲南から北のコミュニティーはサイイド・アジャッル・ブハーリーを
嚆矢としてホラーサーン系が有力だったようだが、やはりアラブ系は
まったく出てこない。日本に残る鎌倉時代の「大食」の来文は時代性も
あるだろうが、やはりペルシア語文しかないようだ。
もし、近代以前に日本にイスラームが浸透してくるとすれば、多分彼ら
イラン系が主体となったはずだ。雲南の例を考えれば、蒙古襲来で九州
あたりが丸まる大元朝の側に征服されたならば、あるいは日本にイスラーム
がキリスト教に先駆けて根付くきっかけになったかも知れないが。
当時のムスリム商人達の活動をみるかぎり中国本土にばかり注目がいって
東方の日本や高麗まで商益の範囲にしていたか微妙な感じ。
あるいは五島列島とか博多とか九州の西側あたりの中世の遺跡をもう少し
丹念に掘ればあるいはそれらしいの出てくるかも知れないけども。
134 :
日本@名無史さん:2005/10/28(金) 00:16:17
元寇の後って、そのイスラム教を伝播しそうな人達は日本に来てた史料とか今はでてないのかな?
あんまり外交に関する資料を知らないので誰か教えてください
原敬を暗殺した男は後にムスリムになったらしい
136 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 19:04:30
仏教の信仰の対象は仏、邪神は阿修羅つまりスラ
仏 ( ゚д゚) スラ
\/| y |\/
( ゚д゚) イスラム
(\/\/
(゚д゚ )
(| y |)
137 :
日本@名無史さん:2005/11/08(火) 19:18:56
イスラム教は南からはインドネシア、マレーシア、ミンダナオ島まで
西からはウイグル、寧夏回族自治区まで来たがそれ以上進まなかった。
中国本土の儒教圏には入りこめなかったのだろう。
ヨーロッパではスペインまで、南東部ではユーゴースラビアまで入ったが、
キリスト教圏内には入り込めなかったのだろう。
インドは一時、回教王朝ができたが土着のヒンドゥー教に戻った。
>>137 少々、間違いがある。
中国では華北、華中、華南を問わず沿岸部にも
北京にも昔から回民(回族。中国語を話すイスラム教徒たち)
がいるよ。 彼らの先祖はイラン人ら異民族とその妻に
なった漢人女性ばかりではなく、
その影響でイスラムに改宗した漢人男性も多くいた。
イスラムの広まり方がそれぞれ違う。
中国でのイスラムは侵略で広がったわけじゃない。
それに対して、イベリア半島はアラブ・ベルベルの、
バルカン半島はオスマン帝国の侵略で一部広がった。
イベリア半島はカトリック、バルカン半島は
大半がビザンティン正教だったけどね。
あまり知られていないようだが、北京では市内や郊外に故宮東部の清真寺をはじめ
大元朝時代やそれ以前に遡るモスクが146ケ所存在している。
1987年の統計によるとこれらのモスクを中心に約50ケ所のムスリム集住地域があり、
18万5000人のムスリムが確認されている。北京西南部、右安門近くの牛街の礼拝寺は
清朝の康煕帝の時代に現行の敷地規模が整ったらしいので、明朝以後も現代に至まで
北京にはムスリムがモスクとともに生活し続けたとみて間違いなさそうだ。
140 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 13:20:56
イスラムだけでなく遣唐使が持ってきたはずの景教やマニ教が流行らなかった
のが不思議です。なぜ仏教しか流行らなかったのでしょうか?
そういえばモンゴル人も色んな宗教と出会ったのに選んだのは
チベット仏教ですよね。なんか関係あるのかな。
141 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 13:35:53
>>136 それは正しくない。
ちなみに阿修羅の起源はイランのゾロアスター教の主神アフラ・マスダ。
インドに入って、三貴神やインドラと対立するアスラという悪魔に転じた。
それが中国や日本に伝わると密教では大日如来という最高の仏とされるようになった。
ちなみに阿弥陀如来、薬師如来、アシュク如来も起源は阿修羅と言われる。
その一方で何故か単に「阿修羅」と言われる悪魔も伝承されてるんだけどね。
142 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 13:41:32
>>140 関係あるかどうかわからんが、
チンギス・ハンがモンゴルを統一する課程で
モンゴル西部の大勢力のナイマン族の宗教がキリスト教であった。
そしてその国の王子が隣の国、西僚に逃げて、機会をみてその国を乗っ取り、
再びチンギスと対立したが結局は制圧されて殺された。
単にキリスト教はモンゴル族の始祖と対立する部族・人物の信仰する宗教だったからかもね。
143 :
翁:2005/11/13(日) 14:55:55
>>140 平安時代前後の宗教は主に学問だったからね宗教というよりも哲学や道徳学
に近かったんだと思うよ。第一、日本の仏教は神道と共存してたしね天皇も
仏教を推進しながらも天照や大国を祭ってたもんね。
ただ、天照などの神道は天皇関係者のみの宗教であって国としての宗教としては
チョット弱い気がする、庶民は天照よりもその土地土地の氏神やら土着神が主神
だっただろうし精々稲荷信仰くらいしかありがたみが無かったんじゃないかな?
年貢を払うのが嫌で偽僧侶になった庶民とかは居るけど基本的には仏教って上流階級の
大学みたいな物だっただろうし仏教が庶民にまで広まったのは浄土宗ぐらいからじゃない?
あと、聖徳太子の話なんか見てると知識としてのキリスト教(景経)は入ってたと思うよ
ただ、仏教の道徳学や祭祀方法が時の権力者に受け入れられたのと、中国の文化を吸収したい為に
仏教を選らんだだけでしょう。
ちなみに、浄土宗は一神教じゃないよ、多くの神様の中で阿弥陀如来(すべての人を極楽浄土に導くと約束した)
を信仰(帰依)します。てだけだよ元々仏教の中に入ってる考え方です。
あと、戦国時代あたりのキリスト教は庶民に理解させる為にキリストじゃなくて大日如来を神に仕立てて
布教してたらしい(じゃ無いと庶民には理解不能)
144 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 16:30:01
145 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 17:52:11
イスラム教って野蛮で頭悪そうなイメージ
こいつらと同じようなのはヤンキーDQN
146 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:12:08
キリスト教ほどじゃないぞ
んだ、もともと原理主義があってそれに対応してのイスラム原理主義だしキリスト教が本家
148 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 23:15:01
日本には日本のオリジナル宗教しか流行らないんだよ。
仏教だって日本ではびこってるのは釈迦の教えとかけ離れた
邪教の親鸞や日蓮なんだし、戦後民主主義とかだって外人が聞けば
基地外の思想だし。経典がしっかりしたイスラムは日本風のアレンジが
効かないから流行らなかった。
149 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 23:25:02
イスラム教は武力と供に伝播されていった宗教だからさ。
150 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 23:27:09
>>146 キリスト教は異教徒を滅ぼすのも平気だし。
宇月原晴明の「黎明に叛くもの」っていう小説では
日本にイスラム教の一派が伝来してる。
斉藤道三と松永久秀が暗殺教団の子孫というかなりイカレた小説だが
結構面白いので読んでみそ。
152 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 02:07:49
中国でも回教は仏教や明教ほど流行らなかったよな。
153 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 02:13:45
イスラム教って無神論者がコーランとか読む限りだけど、
辛い地域で生きて行くためのシステムを教えてるように思えるんだけど。
だから、イスラムの教え以外に生きる術が確立されている所では受け入れる必要性が薄い。
ユダヤ教にも言えることだけど、神との契約と言う名の政治システムなんだと思う。
キリスト教もイスラム教もユダヤ教の分派みたいなもの
日本はキリスト教がいちばん投資したが布教に失敗した国
これらを受け入れない気質があるのだろうね
>>140,142
マニ教やゾロアスター教も景教も、結局のところソグド系やサーサーン朝系の
人々が信仰していたもので、彼らイラン系のコミュニティー以上には中国本土で
信者が増えることが無かったことが大きいと思う。
仏教は南朝でも北朝でも政権側から積極的な庇護と、イラン系以外での広範な布教に
成功していたから、唐代には仏教の存在は、中国本土ではこの種の人種的な障壁を
クリアして一般化していた。
もしマニ教やらゾロアスター教を信仰すると&文字体系をマスターしなければなら
なかったが、中国仏教は7、8世紀の段階でおおかたの仏教典籍は漢語訳がすでに
完了していたので、漢籍の購読能力しかなかった当時の日本社会では中国仏教を
専修する以外に選択はあり得なかったと思う。
ではなぜモンゴル時代直前にケレイトやナイマンあたりでキリスト教(景教=ネストリウス派)
が信奉されていたかというと、ウイグル王国の存在が大きな役割を果たしている。
ミスった(汗
>もしマニ教やらゾロアスター教を信仰すると&文字体系をマスターしなければなら
「もしマニ教やらゾロアスター教を信仰するとなるとさまざま言語&文字体系を・・」
>>155の続き。
なぜケレイトやナイマンなどテュルク系遊牧勢力でネストリウス派のような
キリスト教が信奉されていたのかというと、ウイグル王国が唐朝での廃仏以降も
一緒に放逐されたイラン系の人々を宗教ともども庇護を続けたことに起因している。
突厥時代から北方遊牧勢力でのソグド人による経済分野での独占状態は、ウイグル王国
でも引き継がれ、これらソグド系やサーサーン朝の遺民たちといったイラン系の住人が、
王国での経済分野を支えていた。
10世紀ころにウイグル王国がマニ教を国教化したことでウイグル人の間でも、
マニ教信者が急増した。マニ教の折衷主義でこの頃接触のあった中国系の仏教や
道教との折衷工作を大々的に行うようになって、この頃からマニ教典の漢語訳が
本格的に始まったらしい。廃仏以降も北京方面や泉州などでイラン系コミュニティー
が存続できたようだが、やはりウイグル王国の国家的な庇護によってイラン系居留民の
センター的役割を担っていたことの意義は大きい。
それとあわせてウイグル語でのマニ教典やゾロアスター教や景教、仏教などの各典籍の
翻訳や研究が盛んになって、ウイグル語、イラン語、漢語の互換性が構築できるようになった。
ソグド文字を改良して、テュルク語であるウイグル語を筆記するウイグル文字として
構築しなおしたのもウイグル王国での出来事。あまり言われて無いがウイグル文字の
正書法はマニ教文字でのイラン語の正書法がかなり影響しているように思える。
その後のウイグル王国はマニ教が国教の地位から転落し、王国は仏教国家に
遷移してしまうが、イラン系住人の多様な信仰形態は保持されたようだ。
確証があるわけではないが、ケレイトやナイマンなどにネストリウス派の
信者を拡大できた背景は、ソグドなどイラン系住人などが保持していた
キリスト教信仰や教理研究などをウイグル語に変換できる条件が、これらの
事情によって確保できたことが大きい。
シリア語聖書などをソグド語やパルティア語などは6、7世紀には翻訳されて
いたようだが、それらの研究蓄積をウイグル語に還元できたことによって、
テュルク系の他の住人にも宣教が可能になった。12世紀頃にバビロニアの
ネストリウス派大司教区の管長(カトリコス)が東方への布教を指示している
ようだ。ケレイトやナイマンがキリスト教を信仰していたと聞くと、唐突にも
思えるかも知れないが、つまるところこのような事情があったためだ。
イスラム教のテュルク系への布教も、カラハン朝のサトク・ボグラ・ハーンの
改宗伝説が有名だが、これもペルシア語文芸復興の端緒であるサーマーン朝の王子が
絡んでいる。その後のセルジューク朝にしてもイルハン朝にしても北・中央アジアでの
テュルク系のイスラムの受容は結局のところイラン・イスラム文化の摂取そのものだった。
現在ウズベキスタンなど中央アジアのテュルク系イスラム教徒住民が自分達の土地を、
イラン語の接尾辞である「-(i)stan」で表現していることは、まさにその事実を象徴的に
表現していると言えるだろう。
ネストリウス派のケレイトなどへの布教も、イスラム教のカラハン朝以降のテュルク系
勢力への浸透も、イラン系住民とテュルク系勢力との関係史上、根を同じくする現象だと
言えるだろう。
翻って日本には、テュルク系との間にに見られるようなこの種のイラン系住人との重層的
かつ密接な交流史は存在しなかったので、日本で仏教以外にマニ教以下が普及しなかったのは、
全くの自然なことと言えるかと思う。
158 :
日本@名無史さん:
age