1 :
日本@名無史さん:
英彦山、日向系神話、阿蘇山
2 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:02:00
英彦山神宮
福岡県田川郡添田{そえだ}町英彦山に鎮座。主神として正哉吾勝々
速日天忍穂耳尊{まさやあかちかちはやひあめのおしほみみのみこと
}を祀{まつ}る。一名を彦山権現{ひこさんごんげん}ともいう。
天忍穂耳尊は天照大御神{あまてらすおおみかみ}の御子で、
英彦山に降臨されたことから、日子山{ひこさん}と称する。
神武{じんむ}天皇東征に際し、天村雲命{あめのむらくものみこと}
を派遣して天忍穂耳尊を鎮祭し、崇神{すじん}天皇41年、
英彦山頂に社殿が創建されたと伝える。
阿蘇神社
熊本県阿蘇郡一の宮町に鎮座。阿蘇十二神、すなわち一宮健磐竜命
{たけいわたつのみこと}、二宮阿蘇都比?{あそつひめ}命、三宮国竜神
{くにたつのかみ}、四宮比?御子{ひめみこ}神、五宮彦御子{ひこみこ}神、
六宮若比?{わかひめ}神、七宮新彦{にいひこ}神、八宮新比?{にいひめ}神、
九宮若彦{わかひこ}神、十宮弥比?{やひめ}神、十一宮速瓶玉{はやみかたま}
命、十二宮金凝{かなこり}神を祀{まつ}り、さらに別殿に『延喜式{えんぎ
しき}』に記す全国3132座の神を祀る。一宮健磐竜命は神武{じんむ}天皇の
子神八井耳{かんやいみみ}命の子、二宮阿蘇都比?命はその妃{きさき}で、
そのほかはすべてその血縁関係にあたる。社伝によれば、健磐竜命は
神武天皇の特命を受けて九州鎮護の任にあたり、当時大湖水であった
阿蘇火口湖を開いて美田を開発し、住民に農耕の道、畜産の法を教えた
といい、その子速瓶玉命によって孝霊{こうれい}天皇の代に祀られたの
が本社の創建という。
3 :
サガミハラハラ:2005/07/04(月) 09:04:22
確かにいままでは、九州説対近畿説としての論争に力をいれすぎたきらいがある。
その点、九州説をもって邪馬台国論争をすることは大変意義のあることだとおもいます。
4 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:04:44
日向系神話
天孫瓊瓊杵尊{ににぎのみこと}の降臨以後、その御子{みこ}の彦火火出見
尊{ひこほほでみのみこと}、孫の鵜葺草葺不合尊{うがやふきあえずのみ
こと}の三代にわたり、日向{ひむか}の地と海神国を舞台として展開され
る神話。瓊瓊杵尊の聖婚、火中出産、海幸{うみさち}・山幸{やまさち}、
豊玉姫{とよたまひめ}の出産、鵜葺草葺不合尊の五群からなるこの神話は、
高天原{たかまがはら}の神話と初代天皇神武{じんむ}の人代とを結ぶ位置
にあり、太陽神・穀母神の天照大神{あまてらすおおみかみ}の裔{えい}で
ある天神御子{あまつかみのみこ}が、いかにして現人神{あらひとがみ}なる
支配者となるかの経緯を語る。
5 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 09:15:35
宇佐神宮
《古事記》《日本書紀》に名の記される宇佐津彦,
宇佐津姫のまつる宇佐(比売)神があったとみられるが,
《扶桑略記》《八幡宇佐宮御託宣集》などには,欽明32年
に大神比義(おおがのひぎ)が託宣により誉田天皇広幡
八幡麻呂を奉斎したとある。八幡神は712年(和銅5)創立の
鷹居瀬社にまつられ,のち小山田社に移り,725年(神亀2)
現在の小倉山に社殿が造られた。日向大隅の乱の鎮定に協力
宗像大社
福岡県宗像郡玄海町田島の辺津宮(へつみや)(祭神は市杵島姫
(いちきしまひめ)神),および同郡に属する二海島,すなわち
大島の中津宮(湍津姫(たぎつひめ)神)と沖島(おきのしま)
の沖津宮(田心姫(たごりひめ)神)の三宮を宗像大社という。
祭神の三女神については古来異説があり一定しないが,
天照(あまてらす)大神と素戔嗚(すさのお)尊の誓約(うけい)
の際に生まれたと伝えられている。鎮座地が九州本土から朝鮮に至る
海上交通の要衝に位置していたため,古くは海上交通者や漁業従事者
などの信仰を受けていた。近年,数度に及ぶ沖島の発掘調査により
発見された古墳時代の祭祀に関する豊富な資料は,このような原始祭祀
に関連したものであると考えられる。
6 :
サガミハラハラ:2005/07/04(月) 09:52:26
とりあえず、それぞれの説をあげてみるのも一興かとおもいます。
私は佐賀県小城説です。
唐津(西唐津八幡町)から東南に33.3km進み(松浦川沿いの芦や柳の生い茂る中を進みます)、多久市南多久の庄集落の延寿寺にとうちゃくします。ここが伊都国です。ここから東南に6.6kmが奴国ですが、「行」という字がないのでいきません。
延寿寺から東へ6.8kmで小城町(不彌国)に到着します。町の南の大江から南に20日で投馬国にいたりますが『行」という字がないのでいきません。
小城町の南、不彌国に面して邪馬台国の都があります。「行く」とかいていませんが、面して接しているので『行く」は省略しています。
水行10日陸行1月はここまでの総日数です。
道順を説明するとき、道のりを説明したあと、5分ぐらいですよ、と時間を付け加えることがあるでしょう。それとおなじですよ。
卑弥呼の墓は小城公園内の桜ケ岡です。この岡はかつて娑婆岡とよばれ、江戸時代以前に大量の人骨が発見されています。
これらは、卑弥呼の殉死者でしょう。
郡治のソウルからここまで786.7kmであるが、海上の千余里は実測より長く表示しているので千余里は67kmとしてみると、
総キロ数は828.8kmとなる。1里はざっと67〜68mですから、68で割ると12188里となり1万2千余里にあう。
よって邪馬台国は佐賀県小城市であることがなりたつ。
邪馬台国の地は、大分の宇佐、
駅館川流域河口付近が極めて可能性が高い。
当時の河口付近は、
今現在の河口よりやや上流にあたる可能性がある
当時の河口が今現在より下流域にあったのなら、
周防灘の海の中
8 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:30:38
9 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:44:37
10 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:58:03
僕はどの国の経済力も一長一短で全ての国を束ねることは出来なかったと思う。
そこで神懸かり的な人、地域に支配を委ねたと思うんだけどな
11 :
プラム:2005/07/04(月) 11:37:37
今まで無かったのが、不思議なくらいのスレですね
(現時点の私の比定地)
『邪馬壹国』
博多〜唐津までの沿岸地域『一大率』
半島南岸か壱岐島
今の所ピンポイントで特定するに至っておりません
12 :
プラム:2005/07/04(月) 11:44:25
>>11補足
『邪馬壹國』
半島南岸・対馬・壱岐・(博多〜唐津)
13 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:05:25
http://ja.wikipedia.org/wiki/アマテラス 出雲(イザナギ)が近江(黄泉)で戦って
スサノオは根の国へ行く前に姉のアマテラス(卑弥呼or台与)に会おうと
高天原(九州山地、高千穂、耶馬)上った
豊葦原中国(中津)に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。
豊葦原中国が平定され
と思えてならねー
でも根の国が分からない・・
14 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:12:27
>>12 そうすると九州人を韓国人認定したい派閥ですね。
三韓(弁韓、辰韓、馬韓)は九州人だったというわけですか・・
土地勘の無い東日本の派閥ですね
15 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:25:31
16 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:31:07
余談ですが、八女には筑後方言をほとんど話さない謎の集落があり
出雲系の物部麁鹿火の末裔ではという説があったりします。
17 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:43:31
どの説も特定の史書や地名、遺跡だけに目がいき過ぎてるように思う。
邪馬台国は出雲との統一、畿内政権発足前夜ですから。
日本にとっては大きな転換点です。
史書や地名、伝説にある程度共通点が見られるはずです。
18 :
プラム:2005/07/04(月) 12:44:07
>>14 いいえ違います。
当時半島や大陸からの物資を円滑に調達するのに半島南岸地域の港には 九州地域の勢力が多少なりとも入っていたと思われるからです。
対馬では南北市糴無くしては生活に支障をきたすので、かなり以前より交易人の半島側居住区が存在していたと、思われます。
すごい電波を感じます
20 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:15:04
21 :
プラム:2005/07/04(月) 13:51:05
当時、倭や韓の住人の中に倭人や韓人などと区別意識を持って生活していたヤシはどれほどいただろう
陳壽等は高等な学問を身につけた官僚だから
そのような認識を持ち合わせていたのだろうけど
当の韓や倭の住人達にそのような認識があったとは思えない。
自分の集落と他の集落や自分達に敵対する所などの認識はあったろうけど
敵対しないその他の地域は全て同一認識が一般的ではないだろうか?
言葉や生活習慣の違いで分けたりすることはあっても、政治的な自国愛は、極一部を除いて皆無であったろう。
22 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:56:54
>>21 気分的には良くないが、一部同意。
ただ、同一民族だとすれば半島にヤマトなど倭系の地名はないのだろうか?
23 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:06:59
24 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:12:24
小国分裂国家だから利害があえば他国とも同盟結んだ可能性はあるな、
しかし、あの地域を韓という風に区別していたのは間違いないと思う
25 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:18:36
人口も少ない、海超え領土争いするほどの危険侵す必要も無かっただろう。
わざわざ、海の向こうから人を受け入れる必要もない。
そもそも九州と中国地方は言葉が違っていたし、九州内でも差異があった。
当時の倭人にとって半島は未知の国に思えたに違いない。
26 :
プラム:2005/07/04(月) 14:20:44
>>22 同一民族や異民族という認識がそんざいしたのだろうか?
それは、華人側の認識ではないか
>>23 魏書東夷伝に「倭奴国」が登場しない(触れていない)ということは
「東夷伝倭人」そのものが古倭奴国そのものか それとも全く別の場所か
私は前者をとります。
27 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:47:52
倭という地域、奴国という行政単位を示しているだけだろう。
>>26感覚的だけど、
一般的に沿岸部の漁労民は国境の意識は低いと思う。
しかし、沿岸から20kmも過ぎれば、完全に山の民、平地の民になる。
船も、海洋技術もない、沿岸部の人とは言葉も通じない。
海の向こうの人ならなおさら(現代でさえ、関西・四国と中国と九州には
ハッキリと言葉の壁があるのに・・)
それに、現代のように労働者が行き来する習慣も必要性もない。それなのに
船で半島と九州島を混血が起こるほど行き来するだろうか・・不自然だよ
28 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:55:29
筑後平野から南の人間は驚くほど閉鎖的で
断固対外勢力を排除するよ。
(中国地方人でさえ近畿人は外人だと思ってるし)
経済的な利害度外視してもやるだろ、
これはおそらく古代から変わらない。
29 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:56:28
×(中国地方人でさえ近畿人は外人だと思ってるし)
○(中国地方人、近畿人でさえ外人だと思ってるし)
30 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 15:15:03
東日本には九州=朝鮮認定勢力が根強いから。
おそらく、開拓民(東日本人)と土地の人(九州人)の
土地に対する根本的な観念の違いと思われる。
東京で100k離れても同じ東京人だか土地の人は100k離れると
言葉が変わり、民族が変わる意識がある。
それと戦前戦後の固定化した学説
31 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:07:26
神社は本来、新羅のものだな・・・
発祥は出雲だろう
神社の出目に秘密があるように思えてならない。
32 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:48:39
出雲系とヤマト系のどっちが先住民族で渡来系かということは
この神社の成り立ちに掛かってる。
そして邪馬台国の場所も関係してくる。
俺は、出雲・宗像こそ渡来系種族の末裔だとみてる。
33 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:57:37
記紀神話によれば,出雲の国譲りに際し,天照大神は大国主神に対して,
日隅宮(ひすみのみや)を建造すべきことを約束し,また瓊瓊杵(ににぎ)
尊が日向の高千穂の峯に降臨したとき,これを八衢(やちまた)に迎えた
猿田彦神は,地上に降って伊勢の五十鈴河のほとりに退いたが,のちに
その地に倭姫命がたどりつき,天照大神の神鏡を鎮祭するに至ったと伝えて
いる。この神話は,のちの出雲大社と伊勢神宮の起源を語るもので,両宮
は日本の神社の中で最古のものと考えられた。その後,崇神天皇のときに
,大国主神の子大物主神を大和の三輪山にまつり,また倭大国魂神を同国
の山辺郡にまつったとあるが,それらは出雲,伊勢につぐ神社であった。
以上の例から明らかなように,大和朝廷はその国土統一にあたって,
みずからの神々の社〈天社(あまつやしろ)〉のほかに,
(出雲系)の神々の社〈国社(くにつやしろ)〉をまつったと考えられる。
>>31 天照大神の弟を祀る出雲は、発祥の地でないのは確か。
三女神が一体誰なのかが何を表すのかが核心
35 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 17:24:26
山人(ヤマト=縄文人)、出雲・宗像(海人)=渡来人?
36 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:01:18
37 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:08:27
神道による神を祀る場として、その原初形態の時代から、
社殿のある神社があったのではない。『日本書紀』天孫降臨
の条にも「天津神籬{あまつひもろき}および天津磐境{あまつ
いわさか}を起こし樹{た}てて、吾{あ}が孫のために斎{いわ}いまつらん」
とあるが、そのような神籬・磐境が神を祀る場であったのである。
すなわち、神籬は、現在では神の[_よりまし]としての樹{き}のみを
さす語とされているが、古くはそれを含めた神を祀る場をさして称し
た語のようである。また磐境は、今日各地にみられる祭祀遺跡から察
せられるように、自然の岩石のある神聖な神祀りの場のことであり、
そのような場で神祀りがされたのである。
38 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:10:23
さて以上神社成立の起源をみる基礎として神祀りの場をみたが、
それらおのおのの発生には、時間的にはかなりの差があるものとみられる
。その厳密な判定はなしがたいが、それらを基礎として、
神祀りのときだけでなく、常設的また恒久的な社殿等が一般に
設けられるようになったのは、飛鳥{あすか}時代より白鳳{はく
ほう}時代になってからかとみられる。
そこには、それ以前からすでに社殿を有する宮居も存したが、
当時仏教寺院の建築が次々となされたこと、また国内諸体制の
整備とともに、神祇{じんぎ}行政もその緒についてきたことに
関連して考えられるのである。かくて常設的な社殿を設けた神社
のなかに、古代信仰をそのままに継承し、独自の形をもつ神社がある。
奈良の大神{おおみわ}神社は三輪{みわ}山を神体として本殿がなく、
長野の生島足島{いくしまたるしま}神社は明治時代以後に本殿が建て
られたが、もとはその池の中の本殿の建てられた島そのものが神体と
されていて本殿はなかった。いまの本殿も大床{おおゆか}のない
形式である。奈良の石上{いそのかみ}神宮も、明治時代以前は、
拝殿の前の禁足地が神体の埋蔵された聖地で本殿を有していなかった。
伊勢{いせ}の神宮では、古来拝殿はなく、祭儀は庭上でなされている。
原初時代に、神を祀る場合、一定の神聖な場に神を招き祀られたとみら
れるが、ときに臨時の屋舎が設けられることもなされ、また一方の御屋
のあることより、進んで常設的な社殿が設けられ、神社として発達して
きたのである。→磐境
39 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:14:45
次に3世紀より6世紀にかけて発達した古墳が各地に残存するが、
その古墳に接続して鎮座する神社がある。これはその古墳に鎮まる
神霊を祀る場に恒久的な社殿が設けられ神社となったものであろう。
また、神宝、神体を神聖なる地、のちに禁足地{きんそくち}とよばれ
るようになった地に埋蔵し、それを対象とした神祀りの場より発生し
たとみられる神社もある。神社とは、神体があり、それを祭祀するため、
また拝礼するために公衆に開放された場でもあるが、以上のごとき場が、
その成立の起源とみられる。
40 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:28:50
卑弥呼はやはり山とか磐に関係してる、アニミズム的な場所
天高原
出雲とはなんだったか・・
41 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:33:24
古墳とは少なくとも日本では自らが山(御神体)になることを意味してたかも
42 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:44:41
原始アニミズムの九州倭人の勢力は後進的で時代遅れだった
新羅(騎馬民族)との交易を重視していた出雲は先進的な軍事国家だった。
43 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 18:58:38
自ら御神体になったからこそ神の物語として描かれた。
44 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:19:32
http://www.tabiken.com/history/doc/T/T328C100.HTM 対馬国・一大国(一支国)・末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・
邪馬台国を掲げた後,〈斯馬国・己百支国・伊邪国・郡支国・弥奴国・
好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇国・鬼国
・爲吾国・鬼怒国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・奴国
北九州の地域が本来,「倭」であったとすれば,大和政権は倭の別種
であるとする認識も存在したようである。それが『旧唐書』に言う,
〈日本国は,倭国の別種なり〉ということばに象徴される意識ではな
かろうか。『旧唐書』には,さらに〈或はいう。日本は,旧小国,
倭国の地を併せたりと〉とも述べている。其の国,日辺にあるをもって,
日本を名としたというのは,元来は,西方の北九州,つまり「倭」に対し,
大和が東方の国であるという主張からおこったものかも知れない。
もちろん,倭国という名称は忘れ去られたわけではない。ヤマトの
名称に大倭や大和をことさら当てるのもそのためであろう。
45 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:26:54
己百支国:三養基郡
郡支国:鳥栖
弥奴国:柳川
誰か解読して・・
46 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:31:14
ねぇ 頼むから
そういう話はオカルト板でやってくれないかな
47 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:35:46
>>45 どういう話だといいんですか?
オカルトじゃないですよ。
やっぱ
神話の世界はオカルトか出雲スレにご招待かな
49 :
サガミハラハラ:2005/07/04(月) 19:46:54
>>45 郡支国とは都支国のことだと思いますけど、都支国はタキ国と読み福岡市西部の金武、吉武のある室見川流域です。
50 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:50:05
>>48 神話にも少なからず史実が隠されています。
51 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:54:47
>>48 我々現代人が日本統一を想像してかくとは異なり
この著者は遠くない過去の言い伝えを神話として描いています。
52 :
サガミハラハラ:2005/07/04(月) 19:57:53
日本神話は天石戸事件以降はかなり史実に近くなってきます。
53 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:01:38
54 :
プラム:2005/07/04(月) 21:23:34
よく関連スレにて(アマテラス=卑弥呼)というレスをよく見掛けますが
どうして=になるのか、よく理解できません。
景初三年に魏に朝貢の使者を出し
其年十二月に親魏倭王の詔号並びに金品を贈られ
正始元年には魏の使者(郡の役人)が詔書・印綬を持って倭国王に上表
その他諸々の魏と倭の外交をどのように 読み取ればよろしいのか
ご説明いただけないでしょうか
55 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:27:10
古田説信者でつ
56 :
太:2005/07/04(月) 21:48:12
アマテラスは卑弥呼姫じゃぁないよ・・・。全然別人で〜すな。
57 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:00:11
アマテラスって記紀の中で生きてる人だろう
外に出てはいけないんだろう
残された有限の資料と摺り合わせ、最後の消去法で、
天照=卑弥呼で間違いないとおもうが、
これは絶対に、永遠に、決して公で認められることのない
日本のアンタッチャブルな存在であり続ける
よって日本の古代史は、
ローマ帝国の起源や、中国史のように、
晴れて正々堂々と明るみに解明されることのない
神話のままであり続ける
天照=持統も捨てがたい
61 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 03:05:33
神話から考える。
アマテラスとは母性原理の女神さま
母性によって要請された父性原理が高天原の神々。
しかしながらアマテラスは高天原の主神でもある
記紀神話で主要な祖神とされる、天御中主・高御ムスヒ・神ムスヒ
の三神のうち、二神のムスヒは産霊の神である。
ムスヒとは天地創造のエネルギーと考えられるが
本質的には母神が持つ産出・豊穣力に他ならない。
62 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 03:11:15
中国における「天」の思想は騎馬遊牧民とのつながからもたらされたものである。
それは父性原理であり人格神であり世界を操作する神である
彼らは絶対神で唯一神であるから、相対神や多数神なぞは認めない。
つまり神話の多数神は母神が産み出したものである。
63 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 03:14:25
つまり神話の中の高天原は母神が産み出したものである。
に訂正。
64 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:19:40
日本は中国ではないし、中国の影響も考えにくい
65 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:41:46
>>54 当時の倭(九州)が畿内・出雲に外交政策をあかすとは思えない。
66 :
プラム:2005/07/05(火) 06:40:03
>>65 なんかへんではありませんか?
外交記事は国内からではなく、中国国史からの情報ですよ 記紀編纂時には魏書の存在、内容を知っていただろうし
政治的意図により削除されたのであれば意味が通りますが
もう一度背景を検討のほど
67 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:07:54
>記紀編纂時には魏書の存在、内容を知っていただろうし
普通に考えて
知らないでしょう、中国への使者は倭勢力(九州)しか送ってない
出雲が支配的だった大和(難波・近江)にはそのことは伝わってない。
68 :
プラム:2005/07/05(火) 07:18:49
>>
すると
大和朝廷は一度も大陸に使者を派遣したことがなく
全て、九州(倭)の出来事だと?
69 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:22:55
>>68 倭の五王から以降は全て大和(大倭)で畿内・出雲・倭(九州)の
統一政権でしょう。難波(安曇江)、黄泉(近江(安曇江の付近))
はまだまだ未開な地だった。
70 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:42:21
>>68 できれば、あなたのその時代の歴史観がもっと知りたい。
韓≒倭としてたり、邪馬台国が九州にあったとしてるにも
関わらず畿内政権が倭の後裔であるとみなしてたり、
出雲も影響についてもどう考えているのか・・
71 :
プラム:2005/07/05(火) 07:45:16
では、奈良朝廷はどうでしょう?
過去の外交記録は奈良朝廷にも伝えられず闇の中に葬り去ったのでしょうか
72 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 07:59:38
>>71 倭(九州地方)の外交記録は無いし、九州と関係薄い、言い伝えもない
と思われる畿内、出雲の人にどうやって倭(九州)の行った外交が伝わりますか?
邪馬台国の密使の記録が畿内に伝わるとは思えないし、
おそらく奴国や不弥国のような周辺国も知らなかったと考えるのが
自然でしょう。畿内政権は倭(九州)の直系ではないと考える。
>>44をみるに当時の九州の地名は畿内の地名と関連性は無いように
思う。三輪、久留米、甘木などは畿内に征服された後の地名かな・・?
73 :
プラム:2005/07/05(火) 08:06:33
>>70 私の場合、畿内政権は(紆余曲折があったものの)マキムクを基盤に発展したものだと考えていますよ
九州北部地域は四世紀を境に各地の豪族が独自路線を歩むととらえてます。
出雲は拡大する畿内勢力に次第に飲み込まれたと
六世紀になると、主だった地域もかなり畿内色の濃政治体系下に
74 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 08:16:40
>私の場合、畿内政権は(紆余曲折があったものの)マキムクを基盤に発展したものだと考えていますよ
ほぼ同意
>九州北部地域は四世紀を境に各地の豪族が独自路線を歩むととらえてます。
四世紀を境というより、西南九州は本来は全く別の勢力だったと思います。
海岸沿いの勢力と東北九州の勢力が畿内・出雲よりだったと考えます。
75 :
プラム:2005/07/05(火) 11:57:19
>>74 >西南九州は別勢力
同意します。
東北九州は、宗像氏の動向次第だとかんがえてます。沖の島経由神湊ラインは当時画期的なルートと考えるからです。
76 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 15:05:28
>>44 地図をみて由来の分からない地名(特に字)、そこにヒントがある。
当時の倭語はだいぶ現代日本語と異なっていたように思う。
77 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:42:25
西南九州は狗奴国のあったところ。
西北九州にあった邪馬台国と対立していた。
78 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:47:38
>西北九州にあった邪馬台国と対立していた。
おねがい、常識と外れた説流す時は根拠を頼む
西北九州=末盧国・伊都国・奴国
79 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:06:30
>>44 >北九州の地域が本来,「倭」であったとすれば,大和政権は倭の別種
>であるとする認識も存在したようである。それが『旧唐書』に言う,
>〈日本国は,倭国の別種なり〉ということばに象徴される意識ではな
>かろうか。『旧唐書』には,さらに〈或はいう。日本は,旧小国,
>倭国の地を併せたりと〉とも述べている。其の国,日辺にあるをもって,
>日本を名としたというのは,元来は,西方の北九州,つまり「倭」に対し,
>大和が東方の国であるという主張からおこったものかも知れない。
別種であるらしい事は『梁書』に『扶桑國』として記されている。
慧深という坊主が中国の東にあるところから来て畿内王朝の情報を伝えている。
ただし、言葉が旨く通じなかった為情報は錯綜している。
日本でも自分が梁書の『扶桑國』である事を自覚していたらしく、
平安時代には『扶桑記』『扶桑略記』『扶桑日記』などが書かれている。
80 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:28:47
扶桑國=ふそう国とよむのかな・・
ふそうと倭全然違うね、どこかに名残はないのだろうか
81 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:41:00
>ふそうと倭全然違うね、どこかに名残はないのだろうか
倭じゃないもん。
82 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:42:31
扶桑(本州)と扶余、語感似てる。。
新羅・高句麗の侵攻も同族援護じゃなかったのか?
日本ももっと本当の歴史教えて欲しいよ。
83 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:55:05
84 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:08:53
>しかし、5世紀といえば、日本列島ではすでに九州から東北
>まで前方後円墳が普及していた時代である。その時期の九州
>と近畿でそれぞれ個別に中国に遣使しうる王権が存在してい
>たというのは無理があるのではないか
ここの意味がよくわかりません。
倭の五王は畿内政権が倭の後裔
を詐称してるものだという説を持っているので
85 :
太:2005/07/05(火) 19:15:02
>>59 後段
心配すんな。長時間経過するものの、俺がいずれ決着を付ける日が来るんさ。
86 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:22:49
我々は中央政権の希望的な歴史観により間違いなく騙されている
87 :
太:2005/07/05(火) 19:25:15
どういう点が希望的なんだろう?
88 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:35:54
日本列島の何処かに倭とは違う国があって、その国は中国(南朝)とは付き合いが無かった。
ということが解る。
その国を関東にする人間もいれば、畿内とする人間もいる。慧深は単なる詐欺師という意見もある。
しかし、九州王朝を支持する漏れとしては畿内王朝だと思いたい。
畿内王朝は南朝とより北朝側と強い交流があったらしい形跡がある。
89 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 20:09:01
皆さんは倭政権と扶桑政権は何時統一したと思いますか?
つ 扶桑政権などない
91 :
プラム:2005/07/05(火) 21:35:24
『扶桑』とは
山海経や淮南子などの古代中国神話に現れる、東方の日出ずる処に生えているという神木が生えてる場所
中国南朝「梁」の時(520〜527)扶桑を国号とする国より来たと称する僧侶の報告が朝廷に取り上げられた。
彗深の証言が正しく、扶桑が日本の何処かであれば仏教伝来は宋の大明二年(458年)になる
92 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:55:18
93 :
92:2005/07/05(火) 22:06:18
もうだんだん過去に何が起こったか分かってきた・・
縄文人と倭人(呉越人)と倭族(除福)の温厚な混血民族を
とツングース・モンゴル人(出雲人)が力で制圧したんだ・・
94 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:15:02
>>93 酔っ払ってるの
もう、思考能力ゼロみたいそろそろ寝たほうがいいよ
95 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:15:04
>>91単に仏教が受け入れられなかっただけでしょう・・
96 :
プラム:2005/07/05(火) 22:34:08
>>95 信じる信じないは、別として
「慧深証言」
扶桑国には458年にカシミールの僧五人が渡来して来て仏教を伝えたと、いうことです。
扶桑国の所在は、中国の東大漢国の東方二万餘里の所にあるそうです。
私は話半分状態でこの資料を見てますが
>>75 沖ノ島経由は、別に画期的なルートじゃないでしょう。
祭祈遺跡などをみれば縄文時代から利用されていたことは顕かですが、
定期航路の中継点には成り得ない島です。
先ず、良港が無い、そして、水も無い。
絶海の孤島ですので、小船が緊急避難的に利用することはあっても、
交易船が経常的に利用するような島ではありません。
単なる目印としてであったら、前述のとおり縄文人にも知れていた島ですので、
新たなルートでもないでしょう。
それとも、単に山陰、博多湾、関門海峡方面から韓半島への直行便が出現したと言うことですか?
だとしたら、それは航海技術の進歩や海上交通の主体者の勢力変動の問題ですが、
後世の「宗像氏」につながるような事実は、何も検証されていませんよ。
遣隋使の時代であっても壱岐経由なのですから、三世紀に「沖ノ島経由」のルートがあったとも
思えませんが・・・
何をもって「当時画期的なルート」と考えられるのでしょうか?
98 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 06:21:58
>>96 話半分でいいと思うよ。
大漢国(新羅)の東方一万余里(短里)で大邱から700km余。
ピッタシじゃん。
99 :
プラム:2005/07/06(水) 07:22:16
>>97 画期的
ようするに
航海技術の進歩ですね
目標物がなくても目的地に到達することが
沿岸航海に頼らず 初期の海洋航海ですね
二つの勢力が対立してたんじゃなかろうか?
瀬戸内海路の支配圏を巡って
101 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 10:39:56
誤爆った orz
103 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 17:33:21
宗像・出雲は渡来人だね、おそらくヤマトにとって外人だろう。
104 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 18:07:27
>>103 何故、そう言える?
地元民と言えない根拠はなに
105 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:08:36
ヤマト大王の魂は日本列島に福をもたらした福の神
彼らは伝説ではなく本当に先住民族に沢山の
福をもたらし融合した大王の末裔
これに対し東朝鮮から光(太陽)を求めて
天を仰ぐ邪術を使いツングース系の訛りで話す外人勢力、
出雲、日本海、東日本一帯、九州の大分に支配圏を広げた天孫。
106 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:17:49
出雲神話、日本神話よめば答えはでる。
間違いない
出雲・日本海、東日本一帯、大分(豊国)の宗像、宇佐
こいつらの出目は外人ツングース!!
107 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:18:57
天孫が天皇がツングースとは片腹痛い
天皇は土人
ツングース厨があちこちのスレでマルチしてるUZEEEEEEEEEEEEEE!!!!
109 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:45:25
認めたくない現実だろう、だから今まで隠されてた。
110 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 19:47:04
なんで「ツングース」なわけ?韓人でいいじゃん
111 :
これが真実の歴史:2005/07/06(水) 20:09:09
邪馬台国は豊前一体。
イヨの時代は宇佐が中心地。
大和朝廷との関係は
戦いなどなく平和的な融合。
しかし4世紀末になると
邪馬台国が大和朝廷をのっとる。
これが応神王朝。応神・仁徳の
墓がばかでかいのは九州・畿内の
完全統一の象徴。国力が倍増したため。
それまでは同盟関係でしかなかった。
のっとりを正当化するために記紀を編纂。
日向(当時の邪馬台国都)から神武(応神)が
東征したふうにみせかけ王位を正当化。
112 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:14:18
>>108 気分わるくされたらごめん、でもほぼ確信持ってる。
事実は伝えなければならない。
113 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:23:06
「ツングース」と表現を濁しているところに、ツングース厨の考えのあやふやさが
滲み出てるわけだがw
114 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:25:42
異教徒、異人種だったのさ、だから内乱が起こった。
115 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:38:15
この関連スレは
いつから 「マングース族」と「神話族」に占拠されたんだ
116 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:51:51
白村江で負けたヤマトは新羅の傀儡だった出雲や東日本と
何かあったのかも
117 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:06:46
基地外スレたてるんじゃねーよボケが!
118 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 22:23:39
大和朝廷は、出雲地域の重要性を認識どころか
かなり蔑んで見ていたようだ
出雲は大和朝廷にとって、辺境であり不浄な地域なようだ
出雲地域が神聖な重要地域なら 出雲の北部に浮かぶ「隠岐」を天皇の流罪地(聖武帝)などにしたりしない。
119 :
太:2005/07/06(水) 22:26:49
後鳥羽天皇?
120 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:45:02
邪馬台国は、日向にありました。
卑弥呼は、ヒムカです。
台与は、トヨで、宇佐に居ました。
宇佐神宮の境内の下の古墳は、卑弥呼ではなく
台与のものだと思います。
台与の時代に内乱が起こり、崇神が台与から政権を
奪い取り大和へ東征したのです。
その頃、大和には大物主の末裔が王として君臨していましたが
鉄の武器で武装した崇神の軍隊にあっけなくやられてしまいました。
間違いない。
121 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:48:38
>>120 何度も言うけどね〜
>間違いない。
と、思っているのはお前だけ!w
122 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:55:17
乙
>>120 それ当たりでしょ。後の崇神のは認めたくないけど・・
もう、過去に何があったかはだいたいわかった。
伊勢・出雲、東日本のチョン共め・・
吉野ヶ里、あれは地名からみてチョン(東日本人)に負けた都市だな!!!
久留米、甘木はヤマトの地名が残ってる。こっちは
チョンに負けてない・・佐賀はチョンに明け渡し・・・
倭寇は積年の恨みだったんだろ・・
ご先祖様の伝えきれなかったことを僕は
解読しました、みなさんはご先祖様に感謝して
この史実をデータをあつめ立証し、世間に広めてください。。。。。
つまり、こういうこと
韓国、朝鮮人は、非常に人種差別的、権威主義的、 階級意識の強い人々
韓国、朝鮮人は、自分たちの階級意識や権威主義的、人種差別的、価値観を他国に押し付けたがる人々
韓国、朝鮮人は、日本の権威、権力と自分達とを無理やりに こじつけて、日本人に対する優越感を持ちたがっている
130 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:53:27
どこも殺伐としてますね・・・
ツングース厨が荒らしまわってるからね
インターネット倭寇?
133 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 01:28:49
邪馬台国は、吉野ヶ里です。
吉野ヶ里 吉野はニニギの言葉です、占領して地名変えやがった
けがらわしーーーーー
135 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 02:27:11
大国さんは侵略者スサノオの子で、天照にびびって国わけあたしたんだよね?
太ってばっかで小心者だったんだね。。。嗚呼出雲。。
平将門の乱もなんかありそうだ、俺がしらべてもいいが、とにかく
いろんな人にこの事実を伝えて一人一人の力で
出雲東日本朝鮮人の
悪行を洗いざらい暴露していきましょう。
137 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:00:58
邪馬台国は鹿児島にありました。
場所は霧島神社周辺です。
そして神武の時に東征しました。
間違いない。
138 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:11:30
邪馬台国は、八女市周辺だろう。
「邪馬」は「八女」です。
「台」は首都を示す。
狗奴国は、熊本です。
「狗奴」は「熊」です。
官のコクチヒコは、菊池日子です。
間違いない。
139 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:19:06
いんや、
邪馬台国は、
沖縄だよ。
沖縄の神社には
卑弥呼を彷彿させる
女の神主がいます。
倭人伝を素直に読めば
邪馬台国の位置は、
沖縄辺りになるんだよ。
間違いない。
140 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:23:33
>間違いない。
と、思っているのはお前だけ!w
猿の言う掲示板がここですか?w
へまやろうww
142 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:37:51
143 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:44:29
ヤマトの積年の恨み、インターネット倭寇、
ツングース=出雲
144 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:31:42
邪馬台国は(国名を変えているのでその点は触れないが)
福岡県北部〜佐賀県南部〜熊本県西部〜福岡県北部 と変遷した。
だから、今の1都市を指定すること自体無理がある。
145 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 14:46:30
もう、出目については振れないよ、ごめんね。
一つ聞くけど、外国も国体で工作活動したりってするの?
146 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 15:15:00
>>144 キチガイですね。
邪馬台国は変遷などしていません。
大和に遷都するまでずっと宇佐です。
147 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 15:18:31
邪馬台国は、吉野ヶ里です。
狗奴国は、日向です。
148 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 15:23:34
↑お前こそ基地外!
邪馬台国は宇佐で
狗奴国は鹿児島県一帯。
149 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:27:27
邪馬台国は阿蘇山麓一帯だろう。
「有阿蘇山」と書かれた文献があるからな。
150 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:29:05
九州説ってレベル低いね、
151 :
元祖プラム:2005/07/08(金) 16:41:10
邪馬台国の比定範囲は倭(九州)から狗邪韓国を含めた韓半島南部一帯で
その中で卑弥呼が鎮座したとされる場所は大隈半島のつけねにある都城でしょう。
狗奴国は女王国と南に境を接するのだから、大隈半島から薩摩半島と考えるのが妥当
です。
太陽のカラス
「八咫烏を御先として、太陽神の子孫が行く」神武東征で天照(太陽信仰)と関わりが
深いカラスが神の使者として登場します。
このことから天照が卑弥呼であった可能性は非常に高いと考える。
152 :
元祖プラム:2005/07/08(金) 16:43:05
太陽信仰は朝鮮由来とされてます。
153 :
プラム:2005/07/08(金) 16:48:26
↑勝手にコテハン使うなよ
154 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:50:02
やっぱりなw 九州説ってレベル低いね
155 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:55:43
捏造日本書紀を信奉するヤシは畿内説も九州説もレベルは低いさ。
邪馬台国とヤマトは全く無関係。
156 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:56:10
マングースの正体が分かったような希ガス、なあプラムw
157 :
プラム:2005/07/08(金) 17:22:03
マングースはもう結構です。
とても私に付き合えるレベルではありません。
158 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 17:39:09
コテハンだとそう言うしかないわなw
159 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 18:01:45
東京競馬場だろw
え!
それでは、私が マングース房の疑いをもたれてる様ですね
別に構いませんが
これはいい機会、私も少しマングース族の勉強でもしますか
それに、どうやら「元祖プラム」を使うヤシが現れたようなので
対策を考えなくてはいけませんな
どうせ「プラム」のコテハンも時間の問題で、遊ばれるでしょうから
161 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 19:02:21
もうその位にしとけ〜よ
162 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 19:12:03
つーことでマングース房の猛威も少しは治まることでしょう
163 :
サガミハラハラ:2005/07/09(土) 19:45:03
あと1月で邪馬台国到達14周年です。来年の15周年は盛大に祝いたいものです。
164 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 19:48:28
まさか、邪馬台国の謎を解くことで古代史全ての
謎を解けるとはおもわなんだ。。
165 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 18:49:57
>>151 邪馬台国は宇佐です。
日向が狗奴国の首都、
卑弥弓呼はヒムカ王という意味。
>>151の
邪馬壹國の比定地「都城」
確か、以前何処かのスレでこのフレーズに心辺りありん〜 ほんの少し思い出してきた…
167 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:46:18
169 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:11:57
↑まったくですw
邪馬台国は宇佐に決まってますよね。
都城なんか狗奴国の一部にすぎないよ。
対馬、壱岐、筑前、筑後、豊前(邪馬台国)、豊後、肥前、が
邪馬台国連合です。
日向(狗奴国)、肥後、大隅、薩摩が
狗奴国連合です。
間違いありませんよw
170 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:18:07
↑これが定説です。
100%間違いありません。
ライフ・スペース? う〜ん?
172 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:22:06
173 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:29:21
174 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:55:02
175 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:24:19
>>174 めんどくさくて
いちいち披露などしてられんよ。
176 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:40:20
なにを言っているんだ
何が定説だ
日向こそ邪馬台国だよ
宇佐は投馬国であろう
卑弥呼=日向(ヒムカ)であろう
177 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:41:37
基地外が多くて困るよw
178 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:41:42
初心者な質問でスマンが、邪馬台国などの弥生時代って
卑弥呼のほかに有名な人物(武将)って誰がいた?
たとえばヤマトタケルやスサノオなんかは半分は創作の
人物だといわれてるけど、この時代にリンクしたのかな?
神武天皇あたりだと卑弥呼の時代と重なる?
↑めんどくさいのに
何故このスレに
180 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:49:13
神武は卑弥呼よりも1世紀ほど古い時代の
人ですので時代は重なりません。
181 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:55:39
邪馬台国は沖縄だって言ってるじゃんくゎ!!!!
182 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:05:09
>>180 なにを根拠にその様なデタラメをいうんだ
183 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:09:50
↑出鱈目などではありませんよ。
定説です。
184 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:10:42
だーかーらー
沖縄だって言ってるじゃんくゎ!!!!!!!!!!!!!
185 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:11:29
沖縄は九州外ですので此処には書き込まないでね。
186 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:55:04
相変わらず九州連厨はレベル低いねぇ〜
厨房レベルというより小額レベルだな。
まぁ邪馬台国が九州にあったなんて考える事
自体小額レベルなんだけどねw
187 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 06:42:29
>>186 出たな 認定坊や
九州説を見ると「厨房」扱い
たまにはスレに沿うカキコでもしてみろよ
坊やにはちょっと難し宿題かな w
>>187 >たまにはスレに沿うカキコでもしてみろよ
>坊やにはちょっと難し宿題かな
スレに沿うカキコ。
ハテ?話はとんと進んでないみたいですな。
「坊や」どころか大人にも難しい題材だったんだね。
やっぱり、神武東征神話は九州にあった邪馬台国が大和方面に本拠地を移したってこといっとんのかな。
190 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:31:18
九州で王様だった形跡がないんだよね、神武は。
畿内で初めて領主となった。
だから「都・首都移転」ではまったくないわけ。
191 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 22:30:58
冷静に考えてみな
領主でも王でもない ましてや地元民でもない
何処の馬の骨とも解らない「神武」の過去など
誰が覚えているのかな?
普通に考えれば解ること
192 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 03:11:18
幼稚なスレたてるなよw
当たり前のこともわざわざ書かないと分からないのがいるわけですよ。
194 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:28:23
195 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:38:13
196 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 21:42:28
>>196 自分のLessにアンカー付けてどうするの
198 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:55:38
199 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:33:25
>>197 ところで「Less」って何さ?
「RES」のことかな。
201 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:53:01
202 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:56:55
ツングースマンセイ
204 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 02:46:27
自作自演おつ
205 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 02:48:24
203=荒らし
206 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:51:44
邪馬台国は宇佐にありました。
卑弥呼の墓は宇佐神宮の境内の下にある古墳です。
私が調査した結果では100%間違いない。
狗奴国は日向です。肥後菊池は狗奴国の連合に
組していて菊池日子がいました。間違いない。
戦争で狗奴国が邪馬台国に勝ってその後大和に
東遷しました。間違いない。
207 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:57:16
>>206 戦争で邪馬台国に勝った狗奴国は何故、後に大和へ東遷するの
208 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:58:42
その可能性が非常に高いがいずれにしても
天孫族卑弥呼の人種と宗教、九州の土着の倭人の宗教とは
かなり異質なものだったに違いない。
そこを徹底的に追求解明したい。
209 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 11:59:31
>>297邪馬台国が畿内に行ったのですよ。
文意読めない人ですね
210 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 12:52:43
>>209 邪馬台国は人の名前か?
それなら畿内へ行く可能性はあるよな
邪馬台国は国の名前か?
それなら畿内へ行けるわけないだろうよ
舟の上にでも乗せていくのかい。
え〜っ
211 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:17:31
>>210 大和(天孫ツングース族なりすましヤマト)が畿内に移ったのです。
【人種論】
日本神話では、いわゆる「天孫{てんそん}民族」が新しくきて、
国土を統一したように伝えている。それを歴史に読み替えて、
天孫民族が日本人、先住民族がエゾですなわちアイヌという理論に
発展した。『類聚国史{るいじゆうこくし}』では、エゾを「風俗部」
に数え、これを一種の「国内殊俗{しゆぞく}」すなわち「国内異民族」
扱いしている。歴史的経過に照らせば、北東日本に拠った「国内異民族」
にあたるものがアイヌであることは、まことに自然である。だから、
エゾをアイヌと考えることは、十分理由のあることである。しかし、
これは、蝦夷をエゾと読むようになった平安中期以降では無条件に正しい
のであるが、蝦夷をエミシ(エビス)とよんでいた古代においては、
これをすぐにアイヌと置き換えるだけの十分な理由がない。古代エゾ観念
は人種観念でないからである。それを、エミシ時代の古代エゾをも含めて、
通して、アイヌか日本人かという二者択一の人種論でとらえようとしてきた
ところに、この議論の誤りがあった。
212 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:17:51
【歴史上の蝦夷観念】
初めエゾという呼称はなかった。エミシ(エビス)であった。
それをすべてエゾと考えてきたところに問題があった。エミシは
もともと「勇者」の意味である。人名にエミシがあるのはこの意味である。
他方、この勇者は、神武{じんむ}歌謡以来、「東の抵抗する勇者」
として意識されるに至っている。「エミシを一人{ひたり}、百{もも}な人
人はいへども 手向ひもせず」が、皇師東征の歌であることに注意すべき
である。こうしてエミシは「あずまびと」への賤称{せんしよう}という
ことになる。「あらぶる人たち」「まつろわぬ者たち」というのがその
性格規定である。「夷」はヒナとも読んだが、
「あずま」もヒナ=辺鄙{へんぴ}の意味であった。エミシはヒナ人である。
律令{りつりょう}時代に彼らが無法、無道とされるのもこの意味である。
すなわち歴史上のエゾ観念は、政治的、文化的な蛮族観念である。
人種の違いに基づく異民族観念ではないのである。古代国家の統一に抵抗し、
その支配と文化を受け入れないゆえに、体制側からすれば、未開、野蛮な人
たち、その意味での政治的、文化的異民族であったのである。人種上の
異民族であったかどうかは、別途の考察を要する。
213 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:59:44
>>206 >間違いない。
と、思っているのはお前だけだってw
215 :
サガミハラハラ:2005/07/21(木) 09:45:23
私は邪馬台国小城説です。宇佐説ではありません。
尚 邪馬台国は小城で間違いありません。今は少数でもそのうち多数となり、
認知されることになります。
216 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:00:15
↑
絶対になりませんから(w
217 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 11:08:20
>>215 >間違いありません。
と、思っているのはお前だけだってw
218 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 12:25:47
>>215の真偽の程は解りませんが
サガミ氏の小城町説は解りました。
しかしながら
>>215で、あえて「宇佐説」を否定なさる発言は、理解できません。
別に触れなくてもよいことでは?
それに、どうしてトリップを付けないのですか?
219 :
トリップ ◆vNFYAR5c0g :2005/07/21(木) 12:48:46
トリップ#好きな文字
を入れ名前欄
220 :
サガミハラハラ:2005/07/21(木) 13:37:59
宇佐説うんぬんの件は、私の読み違え、勘違いでした。気を悪くされたかたごめんなさい。
トリップですが、トリップ欄はどこですか?
221 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 13:40:45
サガミハラハラ#好きな文字
こんな感じで名前欄に入力すればコンピューターが
勝手に#の下に任意の番号を割り当てます。
222 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 14:20:19
>>220 サガミハラハラ#S.KC%2UP でやってみてください。
223 :
サガミハラハラ ◆EROBaNmQX. :2005/07/21(木) 14:36:22
↑
これで良いのかい(w
224 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 14:37:17
225 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 14:56:41
>>223 サガミ氏 OKです。
これで、偽者「サガミハラハラ」もかなり減るでしょう。
それでプラムさんは一体、
邪馬台国はどこにあった説を支持してるんだろな?
227 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 18:00:35
>>226さん
私の邪馬壹國比定地は、
まだピンポイントで示せませんけど
筑後川以北の福岡平野辺りから博多⇔前原(玄界灘沿岸)の何処かにあったと考えてます。
228 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/21(木) 18:05:57
太宰府なんて
魅力的ですよね
ワクワクしちゃいます。
229 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/21(木) 19:00:05
私が相模原のサガミハラハラです。
230 :
◆ypURG809QA :2005/07/21(木) 20:38:34
サガミさん、再度質問いたします。
諸橋大漢和辞典は読まれた事はない、ということでよろしいんですか?
231 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/21(木) 22:47:01
はい、読んだことはありません
232 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:23:24
●濊(カイ)
濊は南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は日本海に窮まる。朝鮮
(中国領)の東は皆その濊の土地です。戸数は二万。大君主はいないと
されています。ここも高句麗の同族と唱えていました。言語や法俗は
ほとんど高句麗と同じで、衣服に違いがある。真珠や玉は宝としません。
武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
濊はおそらくタイの転訛で、楚人が先住の北方系民族の上位に入って建国
した国かと思えます。
朝鮮民族の祖とされる檀君は熊から生まれたとされていて、楚の熊
トーテムに一致しています。濊は虎トーテムだったらしく、虎を祭って神
としています。これは熊と同時期に、人間に変りたいと穴にこもったが、
途中で挫折して失敗したとされている動物ですから、熊トーテムの下位に
置かれていた部族と見当が付けられます。
中国では虎のことを李父や李耳といいますから、濊の首長階級は李姓と
考えられ、そして、これはトゥチャ族(=巴の李氏は虎トーテム)の
可能性濃厚です。加藤清正の虎退治も、当時の朝鮮が虎トーテムの
李氏朝鮮だったため、このように表現されたもので、実際に虎と戦った
わけではないでしょう。
夫余は北方系民族(東胡)に楚人が融合した熊トーテムと考えられますが
(*)、そこに狗トーテムの越王の血が入り、朱蒙(鄒牟=騶)が南方で
独立して高句麗を建てた。夫余から分かれて東方に展開した濊は、
その下位氏族で虎トーテムだったという順序になるようです。
(*/高句麗本義では、天帝の子と名乗る夫余王、解慕漱が熊心山に
結びつけられています。)
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_4.htm アイヌは自らをカイというけどどういう関係かな・・
233 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:39:13
武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
武帝に追われた「濊王の印」を持つ一族で、北方に逃れた主力が夫余
となり、東方に移動したものがこの濊になったと解釈すればいいようです。
234 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:47:37
扶余とはツングース化した縄文人なのか?
そして、倭人、濊(カイ、ワイ、アイヌ?)人も同族なのか・・・
当時の中国人はまだいたであろう縄文人を
どう表現したのであろうか?
倭人、濊(カイ、ワイ、アイヌ?)人、韓人とごちゃまぜにして
東夷として表現したんじゃないのか・・
235 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:14:24
>>233 >アイヌは自らをカイというけどどういう関係かな・・
アイヌ語で「カイ」というのは聞いたこと無いですね。日本語でいうとどういう意味ですか?
236 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:21:00
237 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:28:20
カイ(縄文系?)の一派で扶余化せずに
新羅化しその後北海道に逃れたという可能性もあるのかなっと。
アイヌは北海道をカイと呼んだり、自らをカイとよぶらしい。
238 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:34:59
アイヌがアムール下流域からきてるなら周辺部族と
言葉が似ててもいいはず
239 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:44:51
240 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:44:52
沃沮
(よくそ)
朝鮮北東部の古代民族とその居住地の名。『魏志東沃沮伝』
{ぎしとうよくそでん}によれば、地形は南北に長く、北は?婁{ゆうろう}、
夫余{ふよ}、南は?貊{わいばく}に接し、戸数は5000戸で、大君主はいず
、邑{ゆう}ごとに長帥(首長)がいて、言語は高句麗{こうくり}とほぼ同じ
という。前漢の初め、衛氏{えいし}朝鮮に臣属したが、武帝が四郡を置くと
(前108)、玄菟{げんと}郡の支配を受けた。のちに高句麗に臣属したが、
魏の毋丘倹{ぶきゅうけん}の高句麗攻撃(244、245)の余波を受けて、
その居住地は荒廃した。
古代の朝鮮半島北東から現在の中国の東北方面北方にかけて居住
していた部族名。またその国名,地名。沃沮については最も詳細
な記録を残した《三国志》魏志東夷列伝によると,沃沮族は半島の北東部,
すなわち現在の咸鏡道からその北方に居住していたようであるが,
古文献ではさらに北方のウスリー江流域一帯に存在していたらしい。
北は■婁(ゆうろう)や夫余(ふよ)族,南では■貊(わいばく)に接し,
西方には高句麗の勢力があった。その言語は高句麗と大同小異で,
四方を強敵に包囲されているため,必然的に高句麗の直接間接の支配を
うけざるをえなかった。前108年,漢の武帝が漢四郡を設けたとき,
沃沮は玄■郡(げんとぐん)治に入った。そのころの中心地は現在の咸興
に比定されている。しかし高句麗族の強大化にともないその支配に屈した。
3世紀半ば曹魏の毋丘倹(かんきゆうけん)の高句麗遠征のおりには,
高句麗王の宮(位宮)が沃沮に亡命したので沃沮も魏軍の討伐をうけ,245年,
玄■太守王■(おうき)の攻略に下った。このとき高句麗王はさらに逃れて
北沃沮に走ったという。しかし北沃沮とか南沃沮とかの区別は便宜的なもの
で,部族的に特別の違いはなかったようである。また,沃沮の文化で注目
されるのは独自の習俗とともに,かなり中国文化の影響が及んでいること
である。
241 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:50:52
>>238 周辺諸言語の中で同義の単語を例えば語頭音を取り出して比較すると
現代の日本語、朝鮮語、アイヌ語は最も近いグループだったりします。
242 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:58:05
>アイヌ人が自らをカイと呼ぶのは初耳なので気になってます。
どのあたりで明確に否定していますか?
カイ、ワイ、アイヌ、カムイ、ピラ(ヒラ)、ベツ
アイヌ語というより古代の縄文語の名残のようにも・・・
243 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:10:02
想像だけど、現在の朝鮮人は血縁重視、万世一系思想の
ツングース系なので、縄文の血をほぼ排除して
しまったんではないかな?朴、金、白
一方日本は少なくとも倭人(ヤマト)の頃まではそういった
思想が無かったので縄文の血が残ってしまったのかもしれない。
244 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:14:29
245 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:15:04
>>242 >蝦夷はカイ?
>田島照生 (2001/02/18 18:48)
ここが発端になって、以下飛び飛びで関連のあるやりとりがあります。
検索しやすいように表題のところだけコピペします。
>アイヌの自称「カイ」?
>佐藤和美 (2001/02/19 09:01)
>カイ
>田島照生 (2001/02/19 10:28)
>RE:カイ
>佐藤和美 (2001/02/20 12:04)
>RE:RE:カイ
>nupkes (2001/02/20 17:24)
>RE:RE:REカイについて
>resaknay (2001/02/20 17:42)
>RE:^4 カイについて
>nupkes (2001/02/20 21:13)
>「蝦」の発音
>佐藤和美 (2001/02/21 12:04)
出発点を見つけたら順に下にスクロールしていけばわかると思います。
一番最後に引用したレスで明確に否定してます。
246 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:34:57
中国人が蝦夷をカイと読んだかどうかは関係ありません。
蝦夷は本来日本ではえみし、えびすで勇者の意味で
人名にも使われています。
沃沮にいた民族は濊(カイ、ワイ?)であり、この議論でもアイヌ自身が
カイと呼んでないと否定はされていません。
そのそも平安期の朝廷が東北、蝦夷(えぞ)征伐を行った時期に
東北には既にツングース系の大勢力があり、ほぼ確実に
アイヌ≠東北蝦夷は否定されます。ですから蝦夷がアイヌでないと立証しても
なんの意味もありません。
RE:^4 カイについて
nupkes (2001/02/20 21:13)
『アイヌ史を見つめて』p.105「アイヌ民族自称の変遷』を読みました。
平山氏のアイヌ語能力を見くびっていたため、この項を読んでいませんで
した。確かに、この論証からは、「カイ」の可能性は、否定できないかと
思います。
不明を恥じます。
247 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:52:45
>>246 nupkes (2001/02/20 21:13)
のすぐ下にある
>「蝦」の発音
>佐藤和美 (2001/02/21 12:04)
は、アイヌ人が「カイ」と自称していたので「蝦夷」の漢字を当てたという説
(『アイヌ史を見つめて』)があって、それを否定してます。
で、そもそもアイヌ語で自分のことを「カイ」と自称しているという例は見つかってません。
従って中国人が蝦夷をカイと読んだかどうかと関係なく、アイヌ人は「カイ」とは自称してません。
248 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 02:02:10
>>246 改めて読み返してみて何か誤解があるような気がするので、しつこいですが。。。
「蝦夷がアイヌでないと立証」するつもりはまったく無いです。
アイヌ人が「カイ」と自称していたか否か一点だけに拘っていて、他の歴史的スキーム
を否定したいとか肯定したいわけではないです。
249 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 02:06:26
250 :
サガミハラハラ ◆EROBaNmQX. :2005/07/22(金) 03:04:07
私が本物のサガミハラハラです。
>>229は偽物です。間違いない。
251 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:15:08
>>249 スレ違いだと思うのでこれで最後にします。。。
http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/aynu/bbsaynu99.htm (前略)
>さて、アイヌ語です。
>こっちもノストラダムス研究家と同じ状態ですね。
>「カイ」+「ナ」でなんで「カイナー」なんでしょう。
>せめて「カイナ」とつじつまあわせくらいしとけ、とツッコミを入れたくなります。
>どこから、「カイ」が「この国に生まれた者」で、「ナ」が「敬語」というのがでてくるんだか
>根拠を見せてほしくなります。
>たぶん、ネタ本を無批判に使ってるんでしょう。
>このHPでも何回かアイヌ語のいいかげんな扱いを書いてきましたが、
>もうすこし、資料を吟味してから使ってもらいたいものです。
>私にはこういういいかげんにアイヌ語を扱う人達が「フランス語を知らないノストラダムス研究家」
>とダブって見えてしかたありません。
佐藤女史の説が全て正しいかどうかはわかりませんし、彼女に独善的なものいいが多いような
気もするのですが、「カイ」=「アイヌ人の自称」は、松浦武四郎著『天塩日誌』が出典で、他に
それを補強する資料はないようです。松浦時代からアイヌ語研究はすすんだはずですが、
これほどの重要語がいくつかあるアイヌ語辞典には載ってません(載っていれば佐藤女史が
見落とすとは思えないし)。
「カイ」=「アイヌ人の自称」であれば、持論が有利になるというひとがきちんと調べないで
主張しているような気がしています。
253 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 03:25:36
254 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 07:22:21
255 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 07:51:59
256 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 08:50:07
みなさん東遷だのなんだのぶっそうですねえ・・
この国は和をもって尊しとなす「大和」の国ですよ。
邪馬台国は北九州にあった確率は極めて高いですが
畿内勢力と大規模な戦いはなく、話し合いで平和的に
融合していったとみるのが自然でしょう。
東遷後に、畿内の幼稚な銅鐸文化が
あっというまに駆逐されているから、
かなりのぶっそうな衝突があったと思われる
258 :
サガミハラハラ ◆EROBaNmQX. :2005/07/22(金) 10:41:49
俺が本物!
間違いない!
259 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:45:09
>>256 >北九州にあった確率は極めて高いですが
極めて低いの間違いだろ(w
260 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:46:56
>和をもって尊しとなす「大和」の国ですよ。
時代が違うだろボケ
261 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/22(金) 12:07:13
>>258 サガミ氏 それでは
卑弥呼共立の年代と
男王の治める七、八十年の見解をお聞かせください。
262 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/22(金) 12:27:53
>>258 サガミ氏
お手数ですが
今一度、桓霊少献の間をご説明して戴きたく。
263 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/22(金) 13:27:04
まず
>>258のサガミハラハラさんおこたえください。
264 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 14:48:52
>>257 俺は銅鐸文化が東征によって駆逐されたなどと幼稚な説は支持しとらんよ。
なぜ、そらまで畿内に争いが無かったといえるのかと・・
265 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:13:36
大陸半島との交易を一手に仕切っていた九州の勢力が
畿内の銅鐸文化も意図的に作り上げた可能性が高い。
銅剣銅矛の恐ろしさと畿内以東の勢力の巨大さを知っていたから
九州の勢力は軍事的に優位に立つ為にもそういったものを
規制したんだと思う。
266 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 16:30:21
267 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:13:53
弥生時代の始まりが500年遡って、畿内は後進地帯だってことがわかったね。
畿内政権唯一絶対信仰はもうダメポ
268 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:23:39
俺の想像だけど九州人が少なくとも関東あたりまで人の移動、
文化に至るまで取り仕切っていたと思う。(中部は、出雲の勢力が強い)
武器使用を認めず争い事も禁じていたのでは?
しかしそれが裏目にでて出雲勢力の拡大に繋がった。
九州政権の最大の誤算。
269 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:32:12
近畿に関しては難波に開拓の余地があったので先住民
と争う必要性がなく棲み分けあるいは共同で国作りを
することが出来たという考え方もある。
九州の海人勢力がその辺移民とか調整をしていたのではないか?
関東も似た状況で殆ど沼地だった地域を開拓していく作業で
争う暇も無かったように感じる。
270 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:37:32
柔軟性の高い先進的な平地の縄文人は新しい農耕文化を受け入れながら
融合していった筈です。山に住んでいた勢力とも棲み分けが
あり大きな衝突は無かったと思うね。
271 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:44:51
そもそも縄文時代の後期はドングリ拾ってきて狩猟しているような
原始人の生活とはかけ離れた文化的生活を営んでいるわけで
稲作の必要性とか交易品の重要性を認識していた後期の縄文人は
我先にとそれに飛びついて行ったでしょう。
どうして東征や東遷に固執するのでしょう。
「記・紀」からのソースと思われるが
273 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 23:28:18
単に畿内の大王の祖先として神武の「東侵伝承」が有ったに過ぎない。
松平家発祥伝承のように、かなりショボイ話。
遷都話でもなく大征服話でもない、只の悪党侵略話。
274 :
元祖プラム:2005/07/23(土) 00:36:53
なんらかの東征はあったとみて問題ない。
倭人伝ばかりに目が眩んで記紀がソースだとトンデモ扱いとは
馬鹿の標本プラムらしくてよろしw
275 :
元祖プラム:2005/07/23(土) 00:38:46
宇佐説なんて馬鹿認定w
>>274 >>275 貴方ですか
あちこちで、他人のコテハンを使用して荒らし回っているのは
楽しいですか?
悲しいデスネ
277 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/23(土) 06:45:23
>>276 別に構いません。
使いたければ、使えばいいよ
>>274-275 神武東征は、どうみても「記・紀」の中でもネタ話だろう
この内容を史実として受け止めるには、かなり困難じゃ無いか
もし、どうしても史実であると言うなら
「ご説明」下され
私、《馬鹿の標本》なので
278 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 10:17:21
神武説話が、まったく架空の話なら、もっと立派に書けばよい。
なんで兄弟が戦死し、モロ負け敗走したなどどと描写するのだ?
威風堂々と畿内全領域を一発制覇と描けばよし。
279 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/23(土) 11:39:15
>>278 もうすぐ皇紀2700年
記紀編纂時が皇紀約1300年神武東征の記録がよく残っていたね
280 :
元祖プラム:2005/07/23(土) 16:07:50
おまえが嫌われのは馬鹿のくせに背伸びしすぎるからだよ
281 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 16:09:34
喧嘩するなw
神武よっぽどうれしかっただな
「撃ちてしやまむ」とかいって
3回も小躍りしてるしw
283 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/23(土) 19:53:46
邪馬台国小城説宣伝強化期間中
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。
末ロ国(唐津市)から記述どおりに東南に500里(33.7km)進み、伊都国(多久市南多久延寿寺)に到着。
そこから東へ百里(6,75km)で不彌国(小城市不二町)。邪馬台国はそれに南接してありました。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
284 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 00:50:23
>>280 別に嫌われても構わないが。
>背伸びしすぎ
じゃあ 背伸びの境界線を示してくれ
それに 貴方がこのスレ主なら スレ主の言葉として尊重するので こんりんざいこのスレに近ずかないよ
>>280 貴方がこのスレ主なんだね!
それなら私は異存なしです。
285 :
1:2005/07/24(日) 01:00:33
>>284 違います。
いろんな方の意見が聞きたいので
どうぞ、書き込んで下さい。
286 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:01:17
邪馬台国は大和。
狗奴国は熊襲。
残念ながらこれが現実です。
邪馬台国が九州にあったなら
その当時の日本は邪馬台国と大和朝廷の
2大勢力が並存していたことになるが
倭人伝の記述や考古学上の物証から判断するに
すでに九州も大和に併呑された後。
287 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 10:59:45
>>286 >倭人伝の記述や考古学的物証
それは具体的に何かな?
288 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 11:33:11
なんてったて中国人の祖先が残した資料だし。
それ程、信用おけません。
289 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 13:44:04
畿内説は古墳のでかさだけで判断してる気がする。
290 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 14:21:29
隋あたりの書物に邪馬台国=大和朝廷と書いてあるし
倭人伝にも邪馬台国が九州だったら畿内勢力について
もっと大きい描写があるはずだし、考古学的にも
3世紀の畿内の物が九州から出土。もうほぼ間違いなく
邪馬台=大和で決まり。九州だなんて言ってるのは基地外だけ。
卑弥呼の時代はすでに大和朝廷の初期段階とみるべき。
291 :
圭角:2005/07/24(日) 14:35:38
お邪魔します。良いスレタイトルですね。九州説バンザイ。そのついてですが、
プラムさんこんにちは。最近は偽者も出現してるみたいですね。以下,九州説
補強のために一言。
世世王ありて、みな女王国を統属す、につきまして。
白川静先生の字通で統属の意味をあらためて引きましたところ、所管を治める
とありました。また、大漢和辞典を蔵書している知人に頼んで、統属を調べたら
所属の宮司を統べ治める、とある由であります。さて、そうなりますと、従来は
世々王あるも、みな女王国に統属す、という読み方よりは
伊都国には代代王が居てみな女王国を統属支配していた、ということになります。
なんとなれば、かくなる其の国も倭国も卑弥呼が共立された地域領域も、よけい
北部九州説が色濃くなるものと考えます。
ついでに倭人伝の信憑性に大いに疑義ある人は外交記事年次を倭人伝と帝紀とで
比較参照確認なさったら如何でしょうか。それと、他の正史と違いは正史の著者が
生きた時代つまりは現代史を記しているという点にも注意すべきと存じます。
292 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/24(日) 15:05:26
偽者ですね
「嬉しいような困ったような」 その対策に(トリップ)を付けてみました。
圭角さんも(トリップ)対策いかがですか?
ところで、
「世々王…云々」の事ですが 私も以前から
「伊都国の代々の王が女王の居る国を、前から統属していた。」
と、解釈していましたが
先日、住人諸氏より「間違った解釈」と言われ困っていたところです。
293 :
圭角:2005/07/24(日) 15:22:29
プラムさん、しかしまだ、松本清張氏、長奥野正雄氏、阿部秀雄氏くらいで
少数派みたいですね。ただ私は白川先生は信頼尊敬していますので、自分は
そのように解釈しています。字通は凄い辞典だと存じております次第です。
294 :
関 ◆s6lHoJ82zo :2005/07/24(日) 20:59:27
あのー、素人の上ぶしつけですが
私が一番最初に原文を読んだ時、「世有王、皆統属女王国」の「統」を後ろの「属」とくっつけずに副詞的に「〜はすべて」と読んで
世々王有り、皆「すべて」女王国に属す。
と読みました。この可能性はないのですか?
現代中国語で「統統」などといえば
「〜すべて」という意味で使ったりするので、こっちの方が自然に読めたのです。
まあもちろん現代漢語と違うことは分かってますがw
ちょっと疑問に思ったもので。
295 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:01:30
邪馬台国はすでに畿内で決着してるんじゃないの?
296 :
歴史の真実:2005/07/24(日) 21:19:00
神武天皇=中国新朝の残党の隊長。
畿内大和政権の誕生は1世紀。
卑弥呼はヤマトトヒモモソヒメ
応神は任那の傭兵隊長。
297 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:51:19
↑
またまたキチガイ登場!
298 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:52:27
299 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/24(日) 23:10:50
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園の桜ヶ岡にあります。
邪馬台国小城説宣伝強化期間
300 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:22:53
↑
ウザイ。
>>298 × とうり=党利・桃李
○ とおり=通り
302 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 00:10:12
>邪馬台国はすでに畿内で決着してるんじゃないの?
それは脳内邪馬台国。阿蘇山も金印も九州。
303 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 03:25:34
304 :
16歳中卒:2005/07/25(月) 09:45:36
2世紀の倭国大乱とやらが
九州・畿内をも巻き込んだ
西日本全域における覇権争いだった。
それまでは九州は九州で。
畿内は畿内で。それぞれ共存共栄してた。
そして長年にわたる戦いに疲れて
倭国全体で会議を開き、卑弥呼を共立王にして
戦いは終結したと。卑弥呼のいた邪馬台国は
おそらく畿内だろうけどそれははっきりいって
たいした問題じゃない。九州であったとしてもいい。
重要なのは卑弥呼共立の時点で九州・畿内に渡る
西日本連合国家体制ができあがったということ。
>>304 >西日本連合国家体制
ナンジャそりゃ
>畿内でも九州でも、どちらであっても
ナンジャそりゃ
>>305 16歳中卒にしてはしっかりした意見です。
307 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/25(月) 15:38:55
ヒッキーなので暇なんです。
学校行かず歴史本や推理小説ばかり読んでます。
というのはさておき、107年に倭面土国の
師升という王が九州連合の長として
中国に朝貢しています。つまりこの時点では
まだ九州は九州、畿内は畿内で別個の勢力だったということです。
そして2世紀後半になると倭国大乱が起こります。
仮にこれが九州限定だったとしても畿内にとっては
まさに漁夫の利を得る好機だと思い、九州が乱れてるのに
乗じて、いっきに九州に侵攻したはずです。つまり
こういう流れで西日本全域が争う時代に突入し
この戦いを終結させる手段として卑弥呼が現れるわけです。
というのが若輩の僕の意見です。邪馬台国の場所は
おそらくマキムクです。残念ながら九州だとは
思いません。理由は地理的な要因。仮に北九州が
邪馬台国だったとすると、外国から簡単に中心部への
侵入を許してしまいます。畿内に中心部を置いたほうが
安全です。
308 :
太:2005/07/25(月) 15:46:22
巻向ならば朝廷の近隣のため、記紀に女王国の情勢が多大に載るはずだ。
それが無い。ということは、九州に女王国があったということになる。
シャーロック・ホームズのつもりで再考しな。
309 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/25(月) 15:53:26
重要なのは邪馬台国の場所ではなく
卑弥呼を中心に始めて西日本がまとまったと
いうことだと思うわけです。
なので天照大神=卑弥呼が最高神として
崇められてるのではないでしょうか?
神武東遷に関しては、3王朝交代説を支持し
応神天皇のところで王朝が代わってると思います。
おそらく九州の一派が東征して畿内勢力に勝ち
政権を奪取したのでしょう。それを暗示してるのが
神武東遷だと思います。
310 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/25(月) 15:55:36
>>308 記紀には邪馬台国・卑弥呼は誇張して載っています。
天照の神話として。なので大和朝廷では天照が最高神なのですよ。
311 :
太:2005/07/25(月) 16:00:02
日神は卑弥呼姫にあらず。全然別のお姫様だよ。
中学生では大した論述です。
さて、何故か?記紀の記述をみて一目瞭然。すなわち時代がはるかに離れている。
312 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:01:30
↑
>すなわち時代がはるかに離れている
時代は捏造したに決まってるだろボケ
313 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:14:31
314 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:24:58
>313
何も表示されないんだけど・・・
315 :
太:2005/07/25(月) 17:26:10
>>312 どういう理由で捏造か?
太安萬侶とお前様とどっちが信用できるか?
当たり前だ。太の方だ。太は古事記の前文で偽を削る旨特段の説明をしておる。
それでも、確かに間違いは出ているが、お前様のほうがずっと信用できない。
316 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:26:50
漏れはおそらく、正史、神話から卑弥呼は豊前あたりだと思ってるが
問題はそういう場所を比定することではなく邪馬台国の
範囲、政治的な統率力、性質(民族とか人種、文化)が
重要だと思うわけだ、だから最初から邪馬台国の場所がどこ
そこであるという事ばかりに拘ってもあまり意味はないんだよね。
317 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:28:14
オペラでは表示できるよ、ブラウザ変えてみて。
318 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:33:32
319 :
太:2005/07/25(月) 17:36:55
太安萬侶はキチガイではない。
320 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:37:40
サガミハラハラ氏の小城も邪馬台国であるかはともかく
古代史の重要な謎が隠されているとは言えそうだね。
321 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:41:21
322 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 17:46:50
323 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:22:55
↑
空白のページとか表示されて
なにも見れないよ。
324 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:26:02
もう、弥生時代とか縄文時代とか幼稚な時代区分はやめてほしい
思考停止に陥るだけだ。
325 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 18:48:41
www007.upp.so-net.ne.jp/jkodaisifukugen/index.html#nomichiJ
これでもはりつけてみ、2chのエロページ排除してるせいだろ。
>>324 政治的なゴマカシなんだよな、国内向けの。
いづれ利用されるぞ、超大国に。
327 :
太:2005/07/25(月) 19:22:38
>>322 その007・・・は、時代区分がかなり誤認おおく承服できないな。
328 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:14:48
>>327便宜上
現時点での結論を出しているせいで、多少の強引さも感じる、
それを差し引いて評価すべきかなと思う。
329 :
太:2005/07/25(月) 21:35:53
う〜ん。なるべくよい評価をしてやりたいが、強引度が非常に多大だ。
研究熱心さは大したもんだ。〜が、とにかくうまくない。
330 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:42:29
>>329 そうですね、一つ、一つみると強引過ぎる面はある。
331 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:07:11
>>サガミハラハラ
最近辻直樹氏の書物を読むと高天原=佐賀県大和町説があり、隣町ですね。
(大和町という地名は邪馬台国と何の関係もない)
そう言えば吉野ヶ里にも近い。
狗奴国=出雲、熊襲=佐賀東部〜福岡南部というのも独創的でした。
以前は安本氏の福岡県甘木市周辺の地名セットが奈良県橿原市周辺地名セットと
偶然以上の類似性があるというので、これで決まりと思っていたのが、崩れてきま
した。
332 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:30:24
当たり前です、なぜ8世紀に作られた新都太宰府が邪馬台国なのかと
ミニ平城京だろうが、安本 Zくせー名前だ・・
333 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 02:54:38
>>332 安本氏は大宰府=邪馬台国説ではなくて、もう少し南の甘木市周辺
説ですが。
しかしその地名セット説は捨て難いという気もします。これを発見した
のは明治時代の歴史学者だったようですが。(白鳥庫吉?)
334 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/26(火) 08:15:42
辻直樹さん
この方、唐津から乗合バスに乗り、松浦川沿いに小城にはいり、邪馬台国にニアミスをされたかたです。
その後、タクシーで高天原である背振山を縦断していきました。
もう少し、佐賀に滞在して探査していたら、彼が、邪馬台国の第一発見者となっていたかもしれません。
ホントヒヤッとしました。
どんな方だろうと思って彼のお住まいまでたずねていってみました。
335 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 10:05:45
鏡の出土状況・8万戸もの人口を養える土地
この2つを九州説の方々はどう説明するのでしょうか?
三角縁神獣鏡の出土状況は圧倒的に畿内です。
国内産だったとしても卑弥呼に縁のある品ですよ。
8万戸もの人口が北九州に集中していたのでしょうか?
そこまでの人口を養えるだけのキャパシティが
当時の北九州にあったとは思えませんが・・
336 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 12:38:33
三角縁神獣鏡は一つの文化なんじゃないか?
北部九州の遺跡ではこれが一切でてこない場所も多い、
三角縁神獣鏡が全国共通の文化だとは言えないから
この出土量だけで推し量るのは無理がある。
337 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 13:37:30
おそらく元となる鏡が100枚あり
そのレプリカを国内で量産したということでしょう。
権威の象徴かなにかで。
いずれにせよ、畿内から大量に出土してるし
3世紀の日本の中心部は畿内とみて
いいのではないでしょうか?
338 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:14:19
弥生初期、縄文後期からそういう文化があればそうといえるが
339 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:52:31
鹿児島県に卑弥呼神社がある。
カルト爺が創ったモノだけど。
341 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 15:12:24
342 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 23:38:24
>>334 サガミハラハラ
私は辻直樹氏の書を読んで(数日前)吉野ヶ里が邪馬台国ではないのか、という
感想をももちました。
安本氏の説より強引さがなくて合理的な説だと思います。
343 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 09:45:01
280年代に朝鮮に出兵してますし、
九州邪馬台国が出兵したとすると
自国の兵力を他国に向けることになり
自国の防衛力が低下。畿内勢力に
つけいる隙を与えるだけです。
また畿内政権が出兵したとしても
九州近辺は邪馬台国の勢力下なので
これも考えにくい。つまり邪馬台国は畿内ですw
344 :
太:2005/07/27(水) 10:21:23
短絡的思考だなぁ・・・。
345 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 10:55:51
そうでしょうか?
まだ若輩者なのですいません。
346 :
太:2005/07/27(水) 11:22:40
記紀は読んだのか?女王国の具体的記述が多大になければならぬのに、殆ど掲載されて
いないのだ。畿内にあったのならば、大和朝廷の近隣なので女王国の詳細がう〜んと
記紀に記述されるはずだ。それが1ページもないのに畿内にあるといえるか?
そんなはずはないだろう?記紀の編者が真近の女王国を秘匿する必要はないし、よもや
あったとしても、畿内周辺の住民からその存在がさらに外周の人々へと、その存在が
伝達されるのは妨げられない。だから、女王国が畿内にあったとはとうてい考えられない。
半ページも記載がないということは、女王国の情報の量が編者側に殆ど無かったという
ことだ。ということは、情報の届かない大和から非常に遠隔の地に女王国があったという
考察にいたるのが当然の帰結である。だから女王国は九州にあったと観るのが正なのだ。
347 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 11:27:20
記紀に女王国の記述がないのは明白。
なぜなら征服王朝だから。
継体のところで王朝が変わっているかは微妙ですが
応神のところはほぼ確実に変わってる。
なので前代の王朝の記述など曖昧にして
いかに応神王朝が正当かを記述したのが記紀。
ゆえに神武東征とか都合のいい情報ばかりが書かれてる。
348 :
太:2005/07/27(水) 11:43:17
曖昧にする必要はないだろう。征服者側が敵たる女王国に打ち勝てば
相手の悪口を記紀に書けばよいだけで、歴史を曲げる必要にはならない。
逆の場合、女王国に負けたということを隠すことがあるというならば、
先のとおり、一般の多数の住民に真実は知られているのだから、秘匿は
無理であるから、存在はかくせず、女王国の記述をしておいて、自己が正当
だというように、有利に記紀に書けばいいだけのことだ。
なにも、女王国を隠匿までする必要にはならない。
さらにだ、万一それが可能でも一般の真実を知る住民が、当該政権に捕まらない
ように、その真の史実を別の書に記載して残すことをやって真実を保全することを
やってくるはずだ。そうならば、記紀以外の古史古伝に女王国の姿を大幅な頁
を使って記述するを妨げられない。しかしながら、現存の古史古伝に多数の頁を
使って、女王国を解説したものは、今のところないではないか?
だから、その万一の状況などはありえんのだよ。
以上から、秘匿など考えられない。女王国は九州にあったのだ。
349 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:43:33
新羅、高句麗出兵は新羅の振興勢力かあるいは旧来の勢力を支援していたか
いずれかだとみるな。当時半島も北の新しい勢力と土着の勢力が
争っていた頃だろう。卑弥呼のいた場所は日向、豊国だがこれは畿内大和の
傀儡政権みたいなもんだろ。
神武というのはとても微妙な存在。
征服勢力でもあるし、土着勢力でもある。
350 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:53:34
最後まで狗奴(薩摩、熊本、福岡の南、長崎佐賀)
の倭勢力は邪馬台国を承認してなかったと思うね。
豊、日向にも抵抗勢力はあっただろう。
351 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:56:08
畿内にあろうが、九州にあろうが、
邪馬台国っていうのは超ド不安定なキチガイ政権。
当時新羅にも同じ対立構造があった。
352 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 12:04:36
なんせ、国津神を絶対にテン高原の朝鮮人から選ぶという奇怪な
習わしを持つ集団なのだから
353 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 12:29:52
テンコロ族と倭との間で話し合いはあっただろ、しかし
倭にとててとても承伏できる内容ではなかった、なんせ
列島全土を朝鮮から覇権されるテンコロ一味で埋め尽くす方便に
過ぎなかったからである。
中世以降もかならず国司、受領、郡司は
畿内や関東のテンコロ一味から
覇権されることになる。
354 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 12:32:26
抵抗勢力を差別すること、氏名、出自を隠蔽し結束力を削ぐこと
情報・政治工作をし洗脳をすること。
テンコロ一味の陰謀
355 :
太:2005/07/27(水) 12:45:06
356 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:06:04
357 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:17:51
げぇ!また、アンチ韓流乃レスが書きまれている!!な〜ぜだぁ〜?
358 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 13:20:23
万世一系を守る建前上
征服王朝だとはおおっぴらに
書けるわけないでしょw
359 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 13:32:01
8万戸も養えるだけの土地が当時の北九州にあったのでしょうか?
360 :
太:2005/07/27(水) 13:55:11
>>358 いやー、書けますよ。武烈天皇の不利な話も書かれている。有体の物で大きいものほど
隠すのは困難です。まあ、小物は隠せますがね。一国というバカでかい物は隠すことは
無理。記紀には気にいらない国は悪口をかけばよいだけで、隠すことはできにくい。
無体物ならば、大きくとも隠せるものはいくらでもありますよ。ということで、
だから、記紀に超大なる女王国の記述がないということは、畿内よりずっと離れた遠方
に卑弥呼の国があったということに結論が出ざるを得ないのです。
361 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/27(水) 14:02:53
いやいやw
卑弥呼を中心に始めて国がまとまったので卑弥呼の後継者が
万世一系で国を統治する不文律がこの国で定着したんだと思うんですよね。
とりあえず万世一系はこの国の大前提。武烈天皇の悪口は書けても
天皇家が万世一系でないとはかけません。なので応神天皇のところでも
無理やり血のつながりがあるような書かれ方がなされています。
女王国の記述は記紀の中では神話の世界として完結しているでしょうね。
アマテラスの神話としてねw
362 :
太:2005/07/27(水) 14:06:42
簡単じゃないかい。大和朝廷が女王国をだよ、平将門じゃあないが悪皇として、正当の
萬世一系の大和朝廷に弓をひいた不届きの国だとすれば記紀に書き込めますよ。
それがない、だから女王国は畿内の近くに無かったんですよ。九州にあったの。
363 :
太:2005/07/27(水) 14:07:56
今日は外出しますので後日に・・・。
364 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:53:49
熊蘇、隼人の一部、狗奴国、土蜘蛛、蝦夷
と未開人扱いされている人たち
かれらはみなこの万世一系思想に刃向かったものだろう、
日本中が彼ら支配階層の敵だったに違いない。
365 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 14:58:36
366 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:40:57
>畿内の近くに無かったんですよ。九州にあったの
九州なんて近い近い。何千年も前から
遠いというのは例えば中国とローマ帝国くらいの距離
367 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 12:35:03
邪馬台国が九州では
西は中国・朝鮮
東は畿内政権
南は狗奴国
から狙われてることになりますね。大変ですねw
368 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:36:40
畿内政権との連合体が邪馬台国だ、だから畿内から狙われん。
369 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 12:39:01
だったら倭人伝にもっと畿内についての記述があるはずです
370 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:47:36
出雲についても記述がないだろ、関東についても記述がない
日本神話には本州の様々な地名がでてくるが
倭人伝等には記述されていない。
371 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 12:52:52
それは邪馬台国が大和国で
狗奴国が出雲で、関東は
東に倭種の国ありとかかれています。
372 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 13:12:42
まあいいや、いずれにしても邪馬台国は日本という国そのもの
秘密が沢山隠されている。そこ研究してください。
373 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 13:33:45
別に隠されてませんよ。
隠されてるのは邪馬台国よりも
もう少し前の時代です。
邪馬台国の時代はすでに大和朝廷初期段階。
374 :
太:2005/07/28(木) 13:44:00
なんであなたは、記紀が女王国の記述を隠したと主張していて、
>>372氏の
言う、隠されているという話を隠されていないと言いだすのか?
375 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:02:43
子供だからだよ、ほっとけ。
376 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/28(木) 14:04:29
日本国誕生の秘密という意味ですよ。
日本国の原型の誕生はおそらく1世紀くらいだと思っています。
377 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/28(木) 20:44:06
>>361ヒッキー君
>卑弥呼を中心に初めて国がまとまった。
それは違うぞ
「魏書東夷伝倭人」に、
【其国本亦以男子為王住七八十年 倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名日卑弥呼…云々】
と、いうことは、争乱の起きるそれまでは、男王中心に七八十年間は少なくとも国が纏まっていたと 推測出来ますな!
纒向で7万戸も養えたの?
379 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 08:14:14
>>377 それはおそらく倭面土国の師升を王とした
九州連合国家のことをいっているのでしょう。
そこから倭国大乱が勃発して西日本全域に渡る
争乱が展開され、そして卑弥呼が登場するのです。
想像してみてください。九州の国同士で覇権争いを
互いにして国力を弱めあってるときに畿内や吉備といった
本州の勢力が黙ってみているでしょうか?
常識的に考えればこれは九州を制圧するチャンスだと思い
漁夫の利を得るべく、争乱に加わったはずです。
九州を押さえれば大陸との交渉もしやすくなりますからね。
つまり倭国大乱とは九州だけでなく当時の西日本全域に
渡る覇権争いだったわけです。そして畿内邪馬台国の
卑弥呼を王とした体制に移行するわけです
380 :
太:2005/07/29(金) 08:15:52
うあっはっは〜!
381 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 08:18:14
>>378 マキムクだけでなく奈良でなら7万戸くらい
養えるでしょうね。しかし北九州で7万戸も
養えるのでしょうか?かつて漢に使者を送った
九州の奴国でも2万戸です。1世紀に最も
九州で力があった奴国で2万戸ですよ。
その3倍超の国が同じ北九州にあったとは思えません。
むろん投馬国も九州ではないでしょう。
382 :
太:2005/07/29(金) 08:45:09
>>379 ここは九州であるという前提のスレだよ。近隣スレが適切だね。
ただ残念ながら、畿内説は誤りですな。
383 :
太:2005/07/29(金) 09:54:58
>>366 現在は航空機、新幹線があるから、それは近いと言ってもまあ納得できる。
江戸住民がお伊勢参りをするのに、きわめて遠隔なのに一生に一度の大旅行。
それより、古代の人々が大和にいて九州に旅をするとなると、きわめて遥か遠方
に行く大変な難儀の大旅行だったはずだ。貴殿の言うように古代人は近いなど
とは思ってはいませんよ。現代の感覚で貴殿は主張しているだけだ。
時代錯誤の弁論だよ。
384 :
太:2005/07/29(金) 10:03:30
>>366 >遠いというのは例えば中国とローマ帝国くらいの距離
じゃあ私が別人になり替わって貴殿のやり方と似たような言い分をしてみましょう。
385 :
太:2005/07/29(金) 10:12:42
>>384 は以下のとおり。
「中国とローマ帝国とは近い近い。
俺たちは1日幾10回も行ける距離だよ。遠いというのは地球から火星位の距離。」
〜スペース・シャトルの乗組員
貴殿の主張はこれと似たようなもんさ。古代人との断層が激しいのに貴殿は同位置
同程度に両者をつなげて論をしているわけだ。古代人に対応する徒歩地上人には近い筈はない。
そこに貴殿の説明のとんだ錯誤があるわけだよ。
386 :
太:2005/07/29(金) 10:32:32
>>366 元禄年間、江戸城松の廊下での刃傷で、江戸から播州赤穂まで事件の知らせを伝えるのに
早がけで数日かかっているはずだ。遥か古代、当時では大和から九州まではきわめて遠く
近いはずがあろうわけがない。だから、その頃では記紀への記述は、全部ではないが
わりかし近隣の(これでも遠いが)畿内周辺に内容が限定されることになるはずだ。
その遠隔性のため、九州情勢の記録が少量であるのさ。
貴殿は古代に、近い近いの新幹線電車や航空機を持って行くことのできるタイムマシン
トラベラーか?笑われるぞ。www
387 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:14:54
なんのために伊都国に一大卒を派遣してるのか考えれば
邪馬台国は九州ではなく畿内だとわかるでしょう。
遠すぎるから派遣してるんですよw
388 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 11:22:52
伊都国が糸島で邪馬台国が豊前だとすると
伊都国へいかずにそのまま南下したほうが早いわけです。
つまり伊都国へいくのは無駄足。
実際は伊都国から海上ルートで瀬戸内から
畿内邪馬台国へ進んでいたのでしょう。ですから
伊都国は重要だった。
389 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 11:28:27
伊都国はどの勢力にとっても重要だろ、
最後には、畿内勢力が経済力で勢力圏にした。
390 :
太:2005/07/29(金) 11:28:53
>>366 この遠い、近いを、お金の高い安いで説明すれば、>366氏の言い分がピントを外れて
いるのが分かるであろう。
明治大正のころは100円といえば大金、高額のお金であったはずだが、平成の現代では
缶コーヒー1本をも買えなくなっている安金であろう。それを明治大正の古話をして
いる時、高額の説明をしているのに、横から強く「いやぁー、低額ですよ。」などと
文句を言ってくるようなもので、それは、今の現代では缶コーヒーも買えられない安金
で正解の文句のようだが、一点ピントのヅレているおかしな言い草だということが、
常識ある人ならば、一発で見抜ける主張だということがわかるはずだ。
>366さん。平成は明治大正か〜?航空機電車の時代は徒歩、馬類だけの時代なのか?
俺たちをケムにまく遠近観(円金缶)で正論を曲げないでくれ。
391 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:32:47
邪馬台国が九州だとすると
奴国で2万戸、邪馬台国で7万戸
その他もろもろの国も合わせると
10万戸以上ですか?北九州に
当時数十万人もの人口がいたことになりますね?
ありえるのですか?
392 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:34:36
393 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/29(金) 20:00:11
>>391 それでは、北部九州には何人の人口が可能でしょうか?
それに、大和や出雲、吉備、東海の可能人口数はどのくらいでしょうか?
北部九州に数十万の人口は当時としては異常な数字でしょう。
しかし、それは北部九州に限らず、その他の地域にしても同じような事が言えるのではないでしょうか。
地域を広げる事により、その人口が可能になるでしょうが
範囲が広がる程その数値の信憑性も低くなり 意味を成さないものになってしまいます。
「東夷伝倭人」に記載されてる(戸数)は、華人側の意図によりかなり水増しされた数値と思われます。
394 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 02:12:45
遺跡の出土状況などから推測する人口の割り出しは可能。
で、当時の人口は近畿>九州全土であるからして
倭人伝に記載されている人口の誇張云々は、可能性は無きにしも非ず
だが非常に小さい。
土器、埴輪等で黥面文身が多く見られる地域はどこでしょうか
396 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 09:03:55
当時の北九州に数十万人も生活できるような
キャパシティはないと思います。
畿内大和にならあったとは思いますが・・
397 :
畿内説者:2005/07/30(土) 09:26:35
>>396 3世紀の大和にもそのような生産力はありませんよ。
例えば、唐古であっても数千人規模の集落です。
まだ、全容は不明ですが、纏向でも1万人以下でしょうね。
狭い大和盆地で、唐古級、纏向級の集落が何十個も並存できるわけもないでしょう。
万戸を超える国は、かなりの広域ブロックだったと考えるのが妥当です。
それよりも、ここはスレ題のとおり「九州説」スレです。
それを無視しつづける貴方の行為は、2chでは「アラシ」と呼ばれ、
本来ならペナルティを受けるべきものです。
すみやかに「撤退」されることを期待します。
398 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:29:19
ヒッキー君
畿内大和には古代湖があってかなりの面積が湖の底だった。
山辺の道はその湖の湖岸にそって作られたと言う説があるくらいだ。
とてもとても北九州を上回る耕地面積はなかった。
畿内説が拠り所にしているのは近畿地方全体なら北九州を上回るのではないかと言う事だ。
399 :
畿内説者:2005/07/30(土) 09:34:48
>>393 「範囲が広がる程その数値の信憑性も低くなり 意味を成さないもの」
詭弁だね。
「範囲が広がる=計測対象が大きくなる」から「精度が落ちる」と言う表現を持ち出すことはできても
「信憑性の低下」をステップに「意味を成さない」と結論づけるのは反則行為。
計測対象がどんなに巨大であっても、統計学的にはある程度の数値は常に有意だ。
その前に、「邪馬台国は九州であるという前提で話を進めるスレ」で、
その前提で話を進めていないお前が反則行為なんだよ(笑
401 :
圭角:2005/07/30(土) 10:12:43
そもそも、倭人伝の戸数や里程記事には誇張があることを認識すべきです。
以前,九州には邪馬台国の戸数の人口を養う平野がないことを以って、近畿
だと本気で主張する著名な学者がいましたが、そういう輩は東夷伝すらも
読んでいないと推定されます。倭人伝のみならず誇張は各伝にも有ります。
高句麗伝には
座食する者は1万人以上という記事が記してあります。
皆さんは、これを信じられましょうか。
里程にしても同様です。東夷伝中でも倭人伝は特に誇張されています。
明帝紀には、洛陽から遼東まで四千里と記してあります。地図で確認して
比較してみると倭人伝の誇張が解ります。別に魏晋短里説などをあえて
持ち出す必要もなくなります。
私は再々申し上げておりますが、倭人伝は東夷伝そして帝紀と比較参照
して解釈して、そこに誇張があるという前提にて勘考すべきと存じます。
402 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 10:46:52
里程や人口については曖昧すぎるので
とりあえずおいておきましょう。
しかし水行10日陸行1月 といったような
記述は信憑性が高いと思いませんか?
里程や人口は誇張されてるかもしれませんが
こうした日程を誇張するとは考えづらいです。
403 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 12:40:37
>>402 その、行程日数も大きく分けて二つの説が有ることは君も、知っていると思う。畿内説諸氏は、その基点を(伊都国或は不彌国)とし、九州説諸氏は概ね(帯方郡)を基点に、(水行十日・陸行一月)としている。
その辺りの問題解決をせねばなるまい。
404 :
圭角:2005/07/30(土) 14:50:01
恐縮ですが、皆さんに提言がございます。
このスレは、邪馬台国が九州に在ったとして話を進めるスレ、なのであります。
したがって、すでに一応、皆さんの邪馬台国の九州内の候補地については、書込みは
済んだと存じます。
さすれば、邪馬台国はどこですか、という別のスレもあることですから、ここでは、
邪馬台国ヤ狗奴国のその後のゆくすえについての皆さんの見解を聞きたいものです。
九州説を基にすれば、次のいずれかもしくはその他になるでしょう。
@女王国は狗奴国を屈服させた後、畿内に東遷して大和政権を立てた。
A狗奴国が女王国を滅ぼして東遷して大和に入った。
B女王国も狗奴国も第三の移民族に征服され、彼らは東漸し大和を併せて統一政権を
樹立した。
C九州邪馬台国は消滅して別な大和国なる政権が大和に成立した。
つまり、このスレを邪馬台国は九州とした前提の下での、邪馬台国は大和朝廷になった
のか、について皆さんの熱い想いをお聞きしたいのでありますが−−−。
405 :
圭角:2005/07/30(土) 14:55:26
ちなみに、小生はCであります。
406 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 14:57:47
/ ̄ノノノ ̄\
( \ / )
|;;;;; ー@-@-)
(6 (_ _) )
| ∴ ノ ○ ノ <
http://kimunaru.tripod.com/ / \ ____ノ
/ ヽ ........;;;. ヽ
/ ,ィ -っ、 ヽ
| / 、__ う 人 ・ ,.y i
| /  ̄ | |
ヽ、__ノ ノ ノ
| ヽ x 9 /
| ヽ、_;;;;;;;;;;;;;_,ノ彡イ
| ;;(::υ::);; |
407 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 17:12:39
>>403 帯方郡から水行10日陸行1月で北九州に邪馬台国が
あったとすると、水行陸行合わせて考えると
水行10日?熊本あたりにいくんでしょうか?
そこから陸行1月??どこをさまようのでしょうか?w
408 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:42:03
博多、甘木と回ったが彼らに朝鮮人の血は殆ど流れてないと
実感した、倭奴そのものだ、古代から全く変わってないかもしれない
人種的にはポリネシア、マレーよりアイヌに似ている。
後は中国人か?呉越あたりの奴らか?
色黒、ちび、目ぎょろ、眉毛ふとっそんなのばっかり。
孫も半島の倭人の末裔かもしれんなリアル朝鮮人とは違いすぎる。
409 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 20:49:09
圭角さん
私も、Cです。
>>407 私は、水行十日で倭国(常駐地)に到着し、邪馬壹國(女王之所都)へは、その日の内に行ける所にあると、想定しています。
列島内で、陸行一月も必要とする所は考えられないでしょう。
舟が最大限いかせる、細長い島国ですので
すると、この陸行一月は、日本列島内での行程では無く、(半島・大陸)での行動と推測します。
「あくまで、水行十日陸行一月を基準にした考えです」
410 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:56:54
>>407 帯方郡から狗邪韓国までが7000里で邪馬台国までが12000里が正しいとする
と狗邪韓国から邪馬台国まで5000里、対馬、壱岐の2000里を差し引くと残り3000里
これでは奈良大和まで行き着けるはずがないと思う。(比例関係から見て)
3000里÷30日=100里/日(短里として一日10km以下)水行10日+陸行一月とすると
一日当り陸行は10kmをかなり下回る程度になり、古代の旅行速度から見れば妥当
な線ではないかと思う。
瀬戸内海を通ってきたのなら対馬、壱岐、松浦と同じような途中の大島の描写が
欠けているのが不自然だ。特に淡路島、明石海峡の描写がないのは淋しい。
411 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 21:31:39
>>410 >当時の旅行速度が一日10`程度が妥当
どのように割り出した数値でしょうか?
412 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 21:50:00
魏の使者は伊都国までしかいってないんですよ。
そこから先は伝聞できいただけですよ。
畿内まで遠いですし、外交は伊都が担当してますしね。
おそらく伊都国で邪馬台国へは水行でこのくらいで
陸行でこれくらいかかり、その情報をもとに
伊都国から邪馬台国までは異なる里程測定方法で
記述したものと思われます。なにしろ先入観で
倭国は南に連なる島国だと思ってたくらいですしね。
我々の価値基準で考えても答えは出ませんよ。
当時の人達と我々の常識は違いますから。
413 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:15:53
>>411 東海道五十三次が500kmとすると一日10km弱になることを参考に
しています。
東海道のように整備されていない前を行く人が見えないジャングルのような
古代の道路を魏の使者が大名行列のように旅行したのなら、その程度では?
414 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 22:26:17
>>412 >使者は伊都国までしか行ってない
では、「倭王」は何時も伊都に常駐してるか伊都が倭王都なのですか?
415 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:34:34
魏の使者が邪馬台国へいったとしても
伊都から邪馬台国までの里数がかかれてませんし
おそらく日程から狗耶韓国から伊都までの測定方法とは
違った方法で計った場合12000里ということですよ。
おそらくこの時代、里数測定方法の変更かなにかがあったはずです。
そうとしか考えられない。ってか正直よくわかりません。
若輩者なので勉強不足でした。
416 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/30(土) 22:37:09
>>413 舟で来た使者が、わざわざろくすっぽ整備されていない陸路を一ヶ月も掛けて道中する意味がわかりません。
417 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:40:04
415はめちゃくちゃな文章でしたw
すいません。カットしてください。
つまり僕が言いたいのは投馬国までの水行とそこから水行10日陸行1月を
3000里だとしていたとすれば
やはり魏の使者は正確に伊都〜邪馬台国までの距離を認知しておらず
日数から逆算して里数を割り出したのではないでしょうか?
418 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 22:45:14
>>404 安本説の九州甘木市を中心とする地名群と奈良地方の地名群の一致または
類似は首都移転と見られるという考えは説得力が大きいと思います。
@またはAに一票
419 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 22:56:45
僕はまあこのスレの趣旨に従えばCが
1番僕の考えに近いかな。
そもそもなんで東遷なんてする必要性があるのですか?
畿内を制圧するにはそれ相応の兵力が必要となります。
それと同時にちゃんとした補給も確保されていなければ
話になりません。補給路が九州〜畿内では長すぎますし
大兵力を海上輸送で大兵力を長期的に食わせるだけの
兵糧輸送能力があったのでありましょうか?
また邪馬台国VS狗奴国の戦は相当激しかったみたいですし
その後、東遷するほどの力があったのか疑問です。
また大規模な兵力を東遷に向けることで自国の防衛力が
低下し朝鮮か中国に攻め込まれたら一貫の終わりです。
そういう意味で大陸に近い九州は危険なのです。
420 :
太:2005/07/30(土) 23:01:37
>>419 下段3段分の意味するところは、女王国が九州だからこそ直通の中国魏史・・・に
女王国の話がストレート的に載ったという論拠の一つになってる。
421 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:12:36
>>416 邪馬台国が内陸部にあったのなら歩いていくしか方法が無いのでは?
しかし九州の中で一月歩くとすると一日10kmとすれば300km弱になり、
どの方面へ向かっても海に出ることになるので一里55m説を採って165kmと
すれば何とか内陸部に納まると思います。この場合は一日5.5kmしか進ま
ないというのが難点ですが。一月ぶっ通しで歩くのではなく休憩しながら
歩くと考えれば、一日10km程度でも構わない。
422 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:25:55
>16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc
そもそもなんで東遷なんてする必要性があるのですか?
そもそもなんで引篭もりなんてする必要性があるのですか?
423 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:28:23
>>422 学校なんていってくだらないことに縛られるより
1人で動いてやりたいことやったほうがいいからですよ。
バイトや読書やゲーム、あと勉強のペースも
自分で決めれますしね。
424 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/30(土) 23:29:30
ただ今は勉強と読書とゲームしかしていない
ヒッキーですがねwバイトもしないと親にしかられる・・
425 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:33:39
>>423 お遍路さんに行ってお姉さま方と立川真言流の修行をしなさい。
「六根清浄煩悩即菩提」と唱えながら。
426 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:41:27
中華体制なんていってくだらないことに縛られるより
知恵遅れの住民がいる東に動いてやりたいことやったほうがいいからですよ。
国内戦争や支配体制の確立、あと首都のスペースも
自分で決めれますしね。
>>421 それじゃぁまるっきり、数字のツジツマ合わせですよ
>ヒッキー君
引きこもり生活は、人間しか成し得ない行動だよ
ガンバレ
428 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:47:29
しかし、水行十日、陸行一月は奈良としてもおかしい。大阪湾から一月も
歩くと関東まで行ってしまうのではないか?
429 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:51:21
>>428 じゃあ東京都の東大和市が邪馬台国ってことで。
430 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:54:40
だから、八幡平(ヤマタイ)が邪馬台国ってことで。
>>429 馬鹿だなぁ−
大和は昭和二十年(1945年)に、沖縄の海に沈んだのさ
1700年前の時代と一緒に
だから今でも論争が終結しないのさ
432 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 01:07:23
北九州の伊都国から陸行一月で奈良まで歩いていくというのも変だ。船で来たのだ
からそのまま瀬戸内を船で行く方が速いに決まっている。
そして船で行くのなら上陸後の陸行一月は間違いだろう。
九州説、近畿説ともに陸行一月は計算上、無理がある。
434 :
圭角:2005/07/31(日) 09:14:41
行程里程記事の読み方について整理したいと思いまして。
注意すべきは、郡より倭に至るには、という書き出しが行程記事の冒頭です。又
その終わりも,郡より女王国に至る、万二千余里と記していることです。つまり、
郡より倭に至るには、里数では一万二千余里、その里程を日数で示せば水行十日
陸行一月と書いているのです。
魏書明帝紀には、里数の行程を示してからその旅行に何日かかるかを述べた文例
が少なからず有ります。
近畿説の読み方は、郡から不弥国までの区間里数の合計に水行十日陸行一月をも
さらに加算するという矛盾を抱えた解釈論であることが判明する次第となります。
435 :
圭角:2005/07/31(日) 09:56:07
東夷伝の韓伝に韓は縦横四千里と記してあります。
郡から釜山近傍の狗邪韓国までで7000余里。これは妥当と言えます。
狗邪韓国から対馬国まで 1000里
対馬国から一支国まで 1000里
一支国から末櫨国まで 1000里
末櫨国から伊都国まで 500里 以上ですでに10500里。
ところで、奴国を博多とし、伊都国を前原とし、末櫨国を唐津とすると
伊都国は末櫨国と奴国のほぼ中間に位置します。
以上から、郡より倭もしくは邪馬台国または女王国の国境たる狗奴国との
境までの里程里数は一万二千余里であり、その行程にかかる日数旅程で示すと
水行十日陸行一月と解して、なんら不自然はありませんし、かく読むべきに
無理もありません。
水
436 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:01:47
よめた!よめましたよ。
おそらく海上移動の距離は12000里の中に加算されていないんです。
陸上移動での総距離が12000里なんです。
ですので伊都国から海上移動で投馬国、さらに海上移動で大阪にいき、
そして残りの1500里陸上移動して畿内邪馬台国に到達するわけです。
437 :
圭角:2005/07/31(日) 10:02:36
陸行一月には無理があるというご意見に対して。
草木繁茂して行くに前人が見えないという記事からして,無理ではなく
至極当然でありましょう。
官道の整備は八世紀以降のことです。東海道五十三次をヤジキタ道中する
訳ではないのですから。
438 :
圭角:2005/07/31(日) 10:05:16
ヒッキーさんには、初めて御意を得ます。
よろしければ、小生の書込みを読み直してくださいませな。
439 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:07:56
もしくは神武東征の経路同様
わざわざ紀伊半島のほうから上陸して
畿内へ入ったのかもしれません。
なぜこんなルートをとるのかは謎ですが・・
考えられることとして大阪は
邪馬台国側とは違う勢力が牛耳っていたので避けて迂回したとか。
440 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:11:31
>>438 読み直しましたが
12000里は陸上移動での総距離だという
僕の考えはやはりあっさり否定されるものなのでしょうか?
441 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 10:11:38
>>434圭角さん
おはようございます。
茨城は連日の35度越えの猛暑が続いています。
今日も朝から暑いです
ところで、行程に関する先ほどのレス
大和の地を主張する諸先生方の、どの本を拝見致しても霧のベールに包まれた状態でいつの間にか、畿内に到着しています。
今回の、圭角さんのレスにも
反論レスを期待しながらROMりたいのですが はてさてどの位反論レスがあるやら
442 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:16:13
すいません海上移動も含んでましたね。
稚拙なレスをしてしまいスマソ。
まだ若輩者なので勘弁してくださいw
443 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:19:10
投馬国が鹿児島で
邪馬台国は沖縄だったりしてw
444 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 10:26:44
邪馬台国は宇佐市のあたりだよ
445 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 10:30:13
それじゃ井沢元彦さんが正しいことになってしまう・・w
446 :
tociguri:2005/07/31(日) 10:42:23
>>437 歴史のど素人ですが、陸行一月というとジャングルの中としても一日少なく
とも10kmの移動として300km移動することになり、九州北岸または大阪湾から300km
移動すると九州または近畿から飛び出してしまうという難点があると思います。
一日5kmという超スローペースで何とか九州、近畿の範囲内に納まる程度では?
>>434 笑止!
未来多き青少年相手に意固地な年寄りの与太話は迷惑だな。
『郡より倭に至るには、里数では一万二千余里、その里程を日数で示せば水行十日
陸行一月と書いているのです。
魏書明帝紀には、里数の行程を示してからその旅行に何日かかるかを述べた文例
が少なからず有ります。』
あなた、ちゃんと原文も引用しなさいよ。
路程記事の記載は、『自郡至女王國萬二千餘里』
日程記事は『南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月』
文中の「女王之所都」は単なる補足説明なので、一連の文章は、
「(A地点から)南に水行十日、陸行一月で邪馬壹國に至る」と書いてあるだけだ。
路程記事では「自郡」と出発点が明らかだが、日程記事では省略されている。
しかし、俯瞰的には「東南」とイメージされている倭地の王都の説明なのだから、
方位説明で「南」にと表現されている以上(A地点)が「郡」であるわけがない。
まだ、それでも「郡から」と強弁を続けるのであれば、同じく路程記事の
「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」「南至投馬國水行二十日」
についても郡からの路程となってしまうぞ。
ついでだが、「明帝紀には、里数の行程を示してからその旅行に何日かかるかを述べた文例」
とあるが、この実例を示してくれれば、それと対比することにより434氏の倭人伝の読解が、
激しくトンデモであることがよくわかると思う。
ちなみに、俺は正義の味方でも何でもないので、こういう輩を退治する気は無いが、
無垢な青少年諸氏が、この手の手合いに引っかからないように一つのサイトを紹介しよう。
↓ここで勉強してデムパ諸説に対する耐性を鍛えてくれ。
ttp://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/shosai/menu02.html
>>447 では貴方が(ヒッキー)に説明してあげなよ。
正しい読み方と結論を
で
なければ、貴方も
>>434と五十歩百歩だ
449 :
圭角:2005/07/31(日) 13:04:11
あえて、 明帝紀の明帝の言の記事を書込みましょう。
司馬イを遼東に派遣する折の記述です。今鷹真訳、筑摩学芸文庫です。
四千里の彼方に征伐に赴くのだから、たとえ奇策を用いるとはいっても
やはり軍事力に頼るべきであり、戦費を安くあげ゜ようと計ってはならない。
明帝は司馬宣王に言った。往復に何日かかるか。司馬宣王は答えた。
往きに百日、戻りに百日。
あとは、447氏もご自分でお調べになられてご確認よろしく。
450 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/31(日) 13:18:23
圭角さんへ、>434で述べておられます「魏書明帝紀には、里数の行程を示してから、その旅行に何日
かかるかを述べた文例がすくなからずあります。」とありますが、これは、水行10日
陸行一月が総日数と言う説には格好の例となりますので、是非その部分を、
抜書きして頂きたいとおもいます。よろしくおねがいいたします。
邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。
451 :
圭角:2005/07/31(日) 13:26:23
ちなみに、行程里程記事に誇張があることを重ねて強調しておきます。
帝紀には、洛陽から遼東の襄平までの里数は四千里と明記されています。
帝紀は、ご承知のとおり、正史の中の正史ですから、その四千里の記述は
正確に陳寿は記したはずであります。
しかしながら、東夷伝はいわば司馬宣王の顕彰伝でもありますから、むしろ
誇張して当然といえます。其の証拠を以下書きます。地図を参照ください。
東夷伝の里程記事に注目してください。
高句麗伝に遼東から丸都までが千里、韓伝に韓の領域は縦横四千里と、
記されていますね。つまり、帝紀には洛陽と遼東の間が四千里と記しながら
韓の領域の一辺の距離は、洛陽遼東間に匹敵すると誇張して記しています。
倭人伝の狗邪韓国から伊都国までの里程里数は、三千五百里と記されて
いますね。つまり、ほぼ洛陽遼東の間の里程距離と大差ない訳ですよ。
東夷伝は倭人伝も含めて誇張されて記してあることは明白ですよ。
452 :
圭角:2005/07/31(日) 13:48:26
サガミハラハラさんへ。
奥野正雄氏の論文においても、氏はかく書いています。
魏志の中には、里数の行程を示してからその旅行にいくらかかるかを述べた文例が
少なからずあるのに、残念なことです。註2
註2 魏書 明帝紀第三 中華書局本 三国志 一 110−111ページ
453 :
447:2005/07/31(日) 14:07:36
>>449 そのセリフは明帝紀本文じゃなくて、干寶の晋紀からの引用部だね。
原文は
帝問宣王「度公孫淵將何計以待君」
宣王對曰「淵棄城預走、上計也、據遼水拒大軍、其次也。坐守襄平、此為成禽耳。」
帝曰「然則三者何出」
對曰「唯明智審量彼我、乃預有所割棄、此既非淵所及、又謂今往縣遠、不能持久、必先拒遼水、後守也。」
帝曰「住還幾日」
對曰「往百日、攻百日、還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」
と言う問答で後文の説明で距離は4千里だと言う記述は出てくる。
※道路迴阻四千餘里雖假天威有征無戰寇或潛遁消散日月命無常
しかし、これが倭人伝の
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支・・・
と言う一連の文章から「水行十日、陸行一月」の部分だけを抜き出して、それが郡からの総日程だと言い張る
ことの根拠なのか?
これは、単に距離の標記もある土地に対して、たまたま旅程日数の標記もあるというだけではないか。
しかも、日数の方は、遼東攻めに一年を要す内訳として往くに100日、攻めるに100日、還るに100日・・・と
説明しているのであって、倭人伝の読解の例としてあげるような、いわゆる地理的説明の文章ではない。
まともに相手にするに値しない、全くもって不誠実な反論だ。
私は、これで消えるので、後は好きなだけ吼えていたまえ。
454 :
圭角:2005/07/31(日) 14:16:48
イマ,閑ですから、ヒッキーさんや447氏にも一度答えます。
陳寿は、まず最初に、郡より倭に至るには、と前置きして、前段の狗邪韓国から
対馬,壱岐、末櫨、伊都、奴、不弥の国々に至る行程を、水行、陸行、方位、里数で
表記しています。
次に、後段の投馬国と女王の都するところの邪馬台国、に至る行程を水行、陸行、
日数で表記しています。
次に、二十一の傍国名のあと、其の南に狗奴国ありとし、全行程の最後にふたたび
郡より女王国に至るには、と記して、万二千余里なり、という里数の合計を記して
います。注意すべきは、行程記事の初めと終わりに、郡より−−−に至るには、と
記しているのです。
455 :
圭角:2005/07/31(日) 14:26:14
陳寿の行程記事は、その用例からみて、里数で記した行程も日数で記した行程も
両方とも、帯方郡を出発点に女王国に至る行程を記しているのです。つまり、
郡より倭に至るには、里数で示せば一万二千余里、
その里程を日数で示せば、水行十日陸行一月、と書いているのです。
456 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 14:31:59
そのようなことは前前から想定内でしたが
それでは邪馬台国は北九州になってしまうので
こうして他の可能性を思案しているのでありますw
457 :
圭角:2005/07/31(日) 14:41:31
行程里程記事の読み方においては、日数は里数に加算できない性格のものです。
あえて日数を加算しての距離とする解釈論は、近畿説の近畿説による近畿説の為の
捏造に過ぎないことが自明となります。
そもそも,悌シュン等も張政等も邪馬台国に行っていることは外交記事から
明らかです。なんとなれば、邪馬台国までの里程里数をあえて不明として、
これを記さずに、あえてあえて、日数で十日一月と記したはずがありません。
458 :
圭角:2005/07/31(日) 14:46:18
ヒッキーさん、文献解釈つまり倭人伝等を読んでのみの邪馬台国の位置は
北部九州説にしかなりませんよ。
だからこそ、畿内説者は北も南も無視歪曲して、前方後円墳とばかり強弁
している次第なのですよ。
459 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 15:24:03
倭人伝の解釈ではたしかに北九州になりますね。
まあこのスレも北九州にあることが前提なので
では邪馬台国が九州だったとしてその後どうなったのでしょうか?
僕の考えでは応神が邪馬台国の末裔で
それで東征して崇神王朝を倒したと思うのですが・・
あくまで邪馬台国が九州だったらの話ですけどw
460 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:25:20
梁書に
「其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。」
黒齒国と裸国が倭を去る事4千余里にあって、船で行けば一年位で行けるだろう。
と記述されている。
実際の距離と掛かる日数を同時に記述した例だ。
461 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 15:28:17
4000里で1年とかめちゃくちゃじゃないですか?w
だったら12000里の邪馬台国へは何年かかるんdねすか?w
462 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/07/31(日) 15:34:20
倭国を周旋すれば5000里だと言ってますし
もうわけがわかりませんw
463 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:46:43
梁書の例は、わかり易いですね。
距離と日数が連記されてるんですね。
それに引き換え、倭人伝は、文中の二カ国(投馬国、邪馬台国)だけ日数が載っていて、
その内の一カ国(邪馬台国)についてだけ文章の最後に距離ががくるんですかあ。
なんか、とてもわかり辛いですね。
昔の中国の中の人って、とても文章読解に苦労したでしょうね。
例えば、隋書を書いた人なんて昔の倭人のことを「夷人不知里數、但計以日」なんて言ってますから
きっと、魏志倭人伝を読んで倭人は邪馬台国までの距離も説明できないんだと思っちゃったんでしょう。
科挙を通った人たちにしてからが、これだから僕達が読みこなすことなんて不可能だよ。
それなのに、魏徴が読み間違った難文を見事読解してしまう凄い人が2チャンにはいるんだなあ。
464 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/07/31(日) 16:36:50
圭角さん即座の解答ありがとうございます。
ただちょっと物足りないです。
465 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 20:35:06
107年倭国王使帥升等が朝貢した。
それから倭国は七、八十年後漢朝(楽浪)の支配下の元男子王の治世が続いたが、桓霊の乱れた政治が原因で倭国においても国が長期に渡り乱れた。
半島では、黄巾の乱に乗じ公孫氏が半独立政権を樹立、204年に帯方郡を設置、韓をその勢力下におき、以前より郡の仕事である倭の支配にも乗り出した。
国乱れる倭に卑弥呼を擁立し、諸国の首長を黙らせた(女王共立)
238年公孫政権が滅亡すると、女王卑弥呼はすかさず(魏朝による事前工作)魏に朝貢
死後、国が一度乱れるがすかず郡よりの告喩により、壹與を擁立
466 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/07/31(日) 21:01:54
壹與を擁立し、安定を取り戻した倭国も
265年魏王朝が消滅するころになると 安定していた倭国も、各首長達が独自の行動するようになり
王朝消滅(魏王朝との冊封体制の解除)をきっかけに、
壹與政権もその統率力を失った。
記録上AD57年より約200年続いた第一次冊封体制も壹與政権消滅を期に中国史書より一時的にその姿を消す
467 :
tociguri:2005/07/31(日) 23:12:50
>>461,462
黒齒國、裸國というのは印象としては沖縄の風聞ではないか?
倭国周旋5000里は倭国が九州だとすればまあまあ妥当(郡から狗邪韓国7000里
との対比)で、本州とすれば少な過ぎるのでこの記事からも倭国は九州にあった
ものと推定できると思う。
>>437 徒歩のばあいの所要日数については、現在の常識とは全く違って、道ではないところを
進まざるを得なかったはずだし、往きも帰りも、土産物を持っていたわけだから、余計
に日数がかかったとしても不思議はないですが、半島中部西岸との行き来では必ず船を
利用しなければいけないのだから、なぜ、山陽道なら山陽道を、わざわざ歩いていくのか?
という、合理的な説明が成り立ちにくい謎が生じてしまうわけですね。
>>451 「意図的な誇張」以前に、「元々正確に測量しながら進んだ可能性はないと考える
ほうが事実に近い」という事情を考慮したほうがよろしいかと。
結果として、単純一律に何倍(何分の一)にするとかいった計算はナンセンス。
数字の違いは、もっとおおざっぱに、「数字に大きな差がある」なら、それは、
「距離に大きな差がある(と認識されていた)ことを物語るだけ」、と考えたほう
が良いと思います。
人口の数字も同様。倭国で正確な国勢調査が行われていたか、正確な国勢調査を
行いながら進んだとでも考えるのでないなら、「数字自体を何らかの仮説の論拠と
するのは、ありうる事実関係を無視した間違いか、為にする歪曲」でしょう。
470 :
tociguri:2005/08/01(月) 02:01:41
>>468 瀬戸内海か山陰の日本海回りで奈良へ行ったとして水行十日というだけの
記録で済むものか、途中のめぼしい大きい島のことや停泊場の記録くらいは書く
だろうと思うのですが。(狗邪韓国〜伊都国のように)
471 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:37:30
>>470 >途中のめぼしい大きい島のことや停泊場の記録くらいは書く
>だろうと思うのですが。
長官と副官が居る様な国(島)が有れば書いただろうが
それが書かれて無いと言う事は、途中にその様な国(島)は
無かったと言う事だろう。
472 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:42:27
473 :
tociguri:2005/08/01(月) 03:35:49
>>471 四国という大きな島には長官や副官が居たはずですが何も記録がないような
のもおかしいのでは?
瀬戸内海が「水行十日」と何事も無く通過できるような海路だったのだろうか?
>>470 そうですね。その点でも、そこでいう水行は瀬戸内海ないし山陰ではないと
考えるほうが事実に近そう。
>>471 途中に、邪馬台国連合の重要メンバー国があったなら、国賓に当然伝えられ
るだろうし、そういった国のほうも、まぢかを通る国賓を、何のもてなしも
せずに素通りさせるということは考えにくいから、そこでいう水行は、途中
に重要な国がある行程ではない、ということになりそうですね。
>>473 その点も不審。瀬戸内海ではないと考えれば問題なし。
476 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/01(月) 10:36:35
倭人伝からじゃ邪馬台国は九州としか読めません。
477 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 10:49:17
近畿説では瀬戸内航路が通説。
478 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/01(月) 12:36:11
邪馬台国が九州なのに
当時の日本の中心部は畿内。
古墳も鏡も畿内にある。
とすれば考えられるのは
邪馬台国は畿内政権の出先機関。
後の時代の鎮西探題のように
九州を統括するべくもうけられた機関だった。
そこに派遣されたのが卑弥呼。
こう考えれば一応のつじつまは合いますが
さすがにこれを証明するのは無理がありますねw
479 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 12:39:10
↑
>畿内政権の出先機関。
伊都国がそれです。
480 :
tociguri:2005/08/01(月) 14:06:11
後の隋?のハイセイセイは瀬戸内を通って来たらしいと分かるような文章
だった。朝鮮通信使も瀬戸内経由だったが、魏志倭人伝には瀬戸内航行の
印象が全くない。
481 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 14:43:07
>印象が全くない。
「全くない」って事は無いだろ。
482 :
tociguri:2005/08/01(月) 14:53:30
>>481 水行十日…これだけでは瀬戸内海経由という印象は感じられない。
対馬や壱岐に渡る時の「渡海」を使うのが自然だと思う。
マツロから陸行一月で奈良まで歩いて来たというのもあまり合理性がない
と思う。
483 :
tociguri:2005/08/01(月) 15:03:18
郡から邪馬台国までの12000里のうちマツロまで10000里かかり残り2000里
で邪馬台国に至るのなら邪馬台国は北九州か山口県にしか存在しないだろう。
484 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:20:23
>>482 >「渡海」を使うのが自然だと思う。
いや、陸地に沿って航行したでしょうから「水行」の方が自然でしょう。
485 :
tociguri:2005/08/01(月) 23:43:46
>>484 そう言えば郡から狗邪韓国までは「循海岸水行、歴韓国」ですね。
瀬戸内にも「循海岸水行十日」と書いてあったら大和説も現実味があるのですが。
486 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:07:45
「循海岸」が有っても無くても殆ど意味は同じ。
487 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 00:36:37
なぁー
よく考えてみなよ!
舟使って遣って着た連中が何が悲しくて海を見ながら獣道を一月も歩かなければならないんだ
列島の幹線道路は今も昔も殆ど海岸沿いだよ
488 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 02:12:21
↑
俺も厨房の頃はお前と同じこと考えてた。
不自然かもしれないが実際は邪馬台国から遠く
離れた地で下船してわざわざ海を見ながら獣道
を一ケ月も歩いて行ってんだよ。
489 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 07:17:46
>>488 海岸沿いの獣道を一月も歩いたとする根拠はなに?
その時通ったコースはどこ?
490 :
サガミハラハラ:2005/08/02(火) 08:01:49
川口浩探険隊ではない(絵を盛り上げるため、りっぱな車道があるのに、わざわざ薮漕ぎをした)ではないのであるから、歩きやすい道を通ったと思いますよ。
491 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 08:49:29
邪馬台国東遷説の安本氏がでは正しいのでしょうか?
492 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 10:36:47
↑
正しい分けないだろ。
彼は正真のキチガイです。
一連のスレで安本氏の名前を出すと必ず、条件反射的に誹謗中傷する馬鹿が現れるよな
まあ畿内論者の程度の低さを露呈しているわけだが
494 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 11:57:43
邪馬台国が九州にあったとしても
東遷はなく畿内政権に併呑されたとみるべきですか?
495 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/02(火) 12:31:17
>>494 私はそう考えてます。
経済力で圧倒的優位に立った畿内勢力
「富と力は、より富と力のある所に集まる。」
496 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 12:36:48
では宇佐八幡神託事件はどう説明されます?
なぜ伊勢神宮ではなく宇佐神宮に神託をうけにいったのですか?
497 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:59:00
宇佐はイ妥国(邪馬台国)の残党狩りの根拠地だったから、
いわば畿内政権の立役者。
498 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/02(火) 13:13:06
うろ覚えでわるいけど、あの神託は宇佐神宮からでたので、もう1度宇佐神宮に確かめにいったのだとおもっていますが。
井沢元彦先生の逆説の日本史に詳しいいきさつがのっていたとおもいます。
499 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:20:39
あの人学会でなんの信用もされてませんよ。史料もろくに暗記もしてないし。
500 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:51:21
井沢元彦も安本と同様に正真のキチガイです。
501 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 13:52:15
八幡というのはたしか応神天皇のことだと
聞いたことがありますし、やはり応神が我々が
歴史で習った大和朝廷の始祖とみるべきなのでは
ないでしょうか?仲哀と応神のところで血統が
変わってるとみるべきです。仲哀以前は畿内土着の政権で
応神がこれを滅ぼた。こう考えればなぜ記紀で
九州がクローズアップされてるのか?がわかります。
502 :
tociguri:2005/08/02(火) 14:14:16
>>500 安本先生は統計学の大数の法則とかで、天皇の平均在位年数や近隣言語の
頭音だけ取り出して比較するという非常に大雑把に見える方法を採っているが、
それはそれで意味があると思う。
503 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:25:13
井沢元彦大先生は
卑弥呼を祭る霊廟があるところが
邪馬台国だとおっしゃられ宇佐神宮の
比売大神がそれだといささか短絡的とも
思える内容でベストセラーをたたき出し
儲けているようですがw
504 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:27:51
卑弥呼が天照大神で皆既日食で死んだとも
おっしゃられてました。アマテラスは元々男神だったと
記憶してますがいつのまにか女性になってしまっていた
ようですね。おそらく藤原不等人により改ざんが
なされただけではないでしょうか?
505 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/02(火) 14:28:27
不比等でしたっけ?すまそ
506 :
太:2005/08/02(火) 17:46:00
507 :
太:2005/08/02(火) 17:50:40
アマテラスが男神だったら、君の説では卑弥呼が男性になっちゃうよん。ww
男か女かしらんが
ちゃんとDNA鑑定したんだろうな
510 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/04(木) 19:27:52
井沢氏は、一時宇佐説を唱えた事があるといっていましたので、今は宇佐説でないとおもいますよ。
井沢氏自身、逆説の日本史の一巻目は、将来書き換えるかもしれないといっていました。
よってアマテラス卑弥呼説も修正するとおもいます。
邪馬台国小城説宣伝強化期間
邪馬台国は佐賀県小城市甘木地区です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
511 :
圭角:2005/08/05(金) 14:47:01
プラムさんの書かれた、当時の富と力とは、米穀食料と鉄器だと、相も変わらずに
私は思っております。米と鉄です。人口も兵力数も軍力の技術も米と鉄が始点です。
前にも書きましたが、鉄器東漸の経緯を探求することこそが、邪馬台国は大和朝廷に
なったのかを解き明かす鍵です。
512 :
圭角:2005/08/06(土) 09:25:06
もっとも、大和政権は卑弥呼邪馬台国の系譜ではありません、が。
513 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 11:35:01
邪馬台国九州説晒し上げ
514 :
太:2005/08/08(月) 21:33:09
『阿蘇ト大分県ノ間ニ注意セヨ!!!』
515 :
太:2005/08/10(水) 19:21:45
よく↑を調べろ!
516 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 19:32:05
暗記科目=クソ科目
馬鹿があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
517 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/10(水) 19:40:27
>>513 晒し上げって、どういうところが晒しあげられるのでしょうか。御教唆お願いします.
518 :
tociguri:2005/08/11(木) 17:58:35
514
519 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:17:43
きょう‐さ【教唆】ケウ‐
[名]スル■ある事を起こすよう教えそそのかすこと。
「―扇動」「法外な給料増加の請求を坑夫等に―し」
〈木下尚江・火の柱〉■他人をそそのかして犯罪実行の決意
を生じさせること。
誤用です、先生
御教示、ですね。
521 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:13:29
そんなこと言うと、拡張型心筋症で入院しちゃうぞ!
522 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 05:31:57
崇神天皇が南韓の人で期を持して邪馬台国(宇佐)を攻め落とし
その後、瀬戸内海を渡り近畿地方を平定したと言う説はどーよ。w
なので近畿地方の人のDNAは他の地域の日本人のDNAに比べ韓国人に
非常に近くゆえに近親憎悪で異常に韓国人を嫌う「西村真悟」みたくに。w
>>519ー521
これで、サガミハラの2CHネラとしてのプロフは、
偽りだと言うことがはっきりしたね。
自身が言うような元教師のじいさんだとは、とても思えない国語力だ。
自費出版狂の元先生は名前を騙られているだけで、
やはり、サガミハラ本人は、痴漢プレー好きの風俗オタクだろう。
524 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 09:59:59
教唆 誤用のご指摘ありがとうございました。
どこかで誰かが使っているのを、確かめもせず使ってしまいました。
定説や通説を再考もせずに鵜呑みにしているとずいぶん人のことを攻撃してきましたが、
人のことばかりいえないですね。反省します。
525 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 14:22:57
邪馬台国が歴史上から姿を消すころに
崇神天皇が四道将軍を送るんですよね・・
やはりイリ王朝に九州邪馬台国連合は吸収されたと
みるのが1番妥当な見解か・・
時代的にも畿内政権が中央集権化を進めだしたころに
邪馬台国は消えますしね。
526 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 14:59:57
今日で邪馬台国発見14周年となります。
邪馬台国小城説宣伝強化期間として小城説を喧伝してまいりましたが、ご賛同はともかく小城説の存在
をおわかりいただけましたでしょうか。
来年の15周年には、大きなイベントをと思っておりますのでどうぞよろしくお願いいたします。
527 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:00:49
小城ってどこですか???
相模原ってことは神奈川ですよね?
528 :
太:2005/08/12(金) 15:25:26
529 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:28:56
>>528 では
>>525の僕の意見も間違いでしょうか?
今回は今までの皆様との意見交換を
全部踏まえた上で現時点における自分の結論を
述べてみました。
530 :
太:2005/08/12(金) 15:37:05
>>525 の前段は間違い。崇神の世に女王国はまだない。
531 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/12(金) 15:41:33
>>530 どういうことでしょうか?
崇神天皇は3世紀後半くらいの
人なのではないのですか?
邪馬台国より前の時代の人では
つじつまがあわなくなります。
応神天皇は4世紀後半の天皇だということは
ほぼ確定されてますし逆算すると
応神より5代前の崇神は100年前くらいになるんじゃないですか?
当時の平均寿命も短かったでしょうし・・
532 :
太:2005/08/12(金) 15:46:59
確定?そんなのされていないぞ。だまされるなよ。
>>527「ヒッキー」君
佐賀県内で吉野ヶ里遺跡の西方(向かって左側)に有るから
地図にて確認を
534 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/12(金) 15:56:32
>>527 邪馬台国は九州佐賀県(福岡県の西隣り)の小城市(佐賀市の西隣り)の甘木地区(JR小城駅のところ)です。
甘木とは、天の城、つまり王様の居る所の意味かとおもわれます。
卑弥呼の墓は、駅の北の小城公園の中の桜ヶ岡です。
相模原は私の現住所です。
宣伝期間の延長を考えています。
535 :
◆ypURG809QA :2005/08/12(金) 16:17:31
>>503 16歳中卒ヒッキー 殿
>>510 サガミハラハラ殿
井沢氏は宇佐が邪馬台国だとは断言してないですよ。
井沢氏の小説「魔鏡の女王」で
「卑弥呼の墓は佐賀平野のどこかにあるんじゃないか」と
仮定している程度ですが。
536 :
圭角:2005/08/12(金) 20:05:38
サガミハラハラさん。
私は、卑弥呼の塚が卑弥呼が都した邪馬台国である必然性は必ずしもないのでは、
とも思うことがあります。男弟がマツリゴトをおこなっていた土地と、卑弥呼が
カリスマを為していた土地とは、同一の土地地域ではないような気がいたします。
無論、根拠理由はありませんが、
見るある者少なく、とか、の記事や、男弟あり佐けて国を治む、とか、さらには
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す、などの記事からすれば
そう思える次第です。
また、その俗挙事行来に云為云々の記事からすれば、卑弥呼の墓が卑弥呼が都した
邪馬台国ではない可能性も極めて高いのではなかろうか、とも想う次第です。
537 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/13(土) 08:57:32
watasiが卑弥呼の墓が桜ヶ岡であると談じた根拠のひとつは、当時の都の設計が
吉野ヶ里を例にとれば、北に墳丘墓、その南に王の住居(北内カク)その南に一般?住居
そして市場という構成になっているころから、(安本美典氏のいう甘木市は、北に甘木公園の丘群、
南に甘木の地名、さらに南に牛木(市木の訛化か)の地名)小城の構成もおなじようである(北に
桜ヶ岡、その南に甘木の地名、さらにかなり南に石木の地名がある)ことから、桜ヶ岡が卑弥呼の墓
であると断じました。また魏使も墓をみているとおもいます。
538 :
圭角:2005/08/13(土) 08:59:39
魏の使節が卑弥呼の墓を見ていることは,確実と私も想います。
539 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:02:15
まあ邪馬台国は九州にあったのでしょう。
でその後どうなったのですか?
540 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:23:42
>>532 ええっー
雄略天皇=武 というのはほぼ間違いないはずですし
だとしたら倭王讃が応神か仁徳になるはずですよ・・
とすると崇神天皇と邪馬台国が同じ時代くらいですし
崇神天皇の四道将軍の時期に邪馬台国は吸収されたのでは?
541 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/08/13(土) 09:35:45
もう一つ下の垂仁天皇の時代かもしれません。
応神天皇の生誕は355年で確定でしょう。
542 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 09:45:14
狗奴国、大和朝廷からはさみうちにあう
かっこうになり自然消滅したのかもしれませんね。
そしていつのまにか大和朝廷VS熊襲の戦いになってる。
ヤマトタケルの時代にすでに熊襲征伐の話がありますしね。
垂仁の時代と一致します。
543 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 10:27:37
>>541 サガミ氏
>応神の生誕は355年で確定でしょう。
好太王碑・新羅本紀・日本書紀等を照らし合わせ、一年のズレを修正し、新羅出兵を読みとると、仲哀帝崩御が362年、神功皇后の出兵後の応神生誕は363年になります。
サガミ氏の主張される355年では 日本書紀を書き直さないといけなくなります。
544 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/13(土) 10:40:55
壱与が死んだあたりに中国も
5コ十六国時代の争乱の時代に入りますし
中国からの後ろ盾を失った邪馬台国は
衰退していったとみるべきなのでしょうか?
つまり王の権威の低下とでもいいましょうか。
545 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 10:57:35
>>544 壹與死亡並びに、邪馬壹國衰退の記載は文献上ないと記憶します(間違いであればスマソ)
265年に魏から西晋王朝に移行し、266年に倭女王(壹與?)が朝貢
中華王朝の冊封体制は続きます。
しかし、313年に楽浪郡が高句麗に滅ぼされ、あい前後し、馬韓族により帯方郡が滅ぼされています。
これにより
中華王朝と倭の交易ラインは寸断され、冊封体制も313年までには解除されたと見るべきでしょう!
546 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 11:28:23
>>545 266年の朝貢が「女王」だと言う文献は存在しないと思いますよ。
547 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 11:34:50
>>546さん
これは、勇み足でした。
間違いの指摘感謝です。
「泰始二年十一月己卯倭人来献方物」(武帝紀)
でした。
548 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 11:47:28
>>546さん
しかしながら、
日本書紀所引の晋起所居注には、
「泰始二年」の遣使を「倭の女王」と、しています。
書記編纂時の事情でしょうか?
549 :
圭角:2005/08/13(土) 12:16:41
プラムさん、九州は連日の炎暑です。プラムさんの548に関連しまして。
いわゆる大宰府のと申しますか、書記が引いている倭人伝の記録つまりは
景初二年が明帝景初三年という件などを思いますと、倭人伝が木版印刷される
までの期間、伝写に次ぐ伝写伝写にて誤記は当然生じたとして確実であると
思う次第です。
一般には、景初二年は三年の誤とされています。この点についてはプラムさん
いかがお考えでしょうか。ご見解をお聞かせください。
550 :
圭角:2005/08/13(土) 12:46:01
このスレは邪馬台国が九州であるとして話を進めるスレという認識のもとに
狗奴国につきまして書きます。
狗奴国は定説通説では筑肥山地以南の熊本と比定されていますが、陳寿が、
あえて、素より和せず、と記した理由には、やはり、血の違いつまり種族
としての違いからくる長年積年の争いを想起する次第です。
まあ例えて言うならイスラエルとパレスチナみたいなものだったと想います。
古はおそらく春秋戦国から倭に稲作とともに渡来した人々がいて、北部九州
へも、中部九州にもおそらくはほぼ時を一として渡来したと想われます。
しかし、その渡来した人々の数は北部九州の方が地理経路からして多かった
と考えて自然です。なんとなれば、筑肥山地以北にも以前は勢力を有していた
熊襲の狗奴国が南に押されて行かざるを得なかったろうと想います。
無論狗奴国は勢力土地の奪還を目指し、北部九州に侵攻した。しかし、
女王国は、筑肥山地を防波堤としてこれを防ぎ、攻撃し合った。為に、今も
筑肥山地周辺から多数の鉄鏃が出土しているのだと考えます。
551 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 12:47:23
圭角さん
茨城はどんよりと曇り空で若干過ごしやすいお盆を迎えております。
年号の誤記ですが、景初三年とする理由はやはり、公孫氏討滅の時間的関係にあると思いますし、
現在の我々よりリアルに近い時間帯で魏書を見ることの出来た、書紀編纂グループが書記の中に「景初三年」とし、朝貢記録を残した事にあると考えてます。
552 :
圭角:2005/08/13(土) 13:11:17
プラムさんは、狗奴国の土地を昔に旅行されたと書いておられました。
それで少しばかり私の狗奴国伝を読んでくださいませ。
まず江戸時代の肥後細川藩の石高は五十四万石です。石高だけからならば
雄藩ではないかとの見方もありますが、否です。細川藩の場合は天草を除く
肥後一国でその石高です。筑前黒田藩は筑前という肥後に比べたら狭小にも
かかわらず肥後細川藩の石高を超えています。
つまり、熊本平野などと申しますが熊本市の北の土地は畑作地で稲作には
不向きな台地だと言う方が適切です。地図帳で見ると熊本市周辺は緑色にて
塗られていますが水耕地適地は以外と狭いのです。熊本はスイカの生産量が
日本一ですが、裏返せばそういうことです。博多へ高速道を往復しても、
熊本県に入ると熊本市を通過南下するまでよほど目を凝らしていなければ、
水田風景を目にすることはできません。
例外の土地はクコチヒコの菊地市付近ですが、高速道から離れています。
熊本市の南は貝塚が多くあり、昔は稲作地ではありませんでした。
プラムさん、面白いのは、私自身が高速道で熊本県から福岡県に入ると
まさに、国境いや県境を実感して福岡県側の水田地帯を眺めては、熊本より
福岡が豊かだと本当に実感するのです。
狗奴国の人々にとってはそれこそ垂涎の父祖の故地だったと想います。
553 :
圭角:2005/08/13(土) 13:29:17
再び景初二年三年につきまして。
私も以前は岩波版のテキストや書記引用文からして二年は三年の誤と
考えておりましたが、二年をよりリアルと考えるようになりました。
その理由については、おいおい書きますが、坂口安吾ではありませんが
歴史通説には必ずウラがあると思うからです。
明帝紀の明帝の、いかに奇策を用いると雖も、という台詞の記事が
ありますね。それは、海船を各地で大々的に建造し、楽浪郡帯方郡から
先に接収平定して,然る後に遼東の公孫淵を討ったという単純なものでは
ないと、私は思うのです。
明帝は韓の有力者には二郡平定後にさかんに位号を与え懐柔工作したと
明帝紀にあります。となれば、司馬宣王が自ら洛陽に凱旋する数ヶ月前に
自らの名声を高からしむる為に、二年に倭から朝貢使を仕立てたとしても
自然な解釈に思う次第です。
554 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 14:31:39
>>553圭角さん
なるほど!
以前より、魏王朝への朝貢が余りにも鮮やか迅速であったので
必ず裏工作があっての朝貢と、思っていましたが…!
それから、先程熊本のスイカ事情はよく解りますよ、茨城も地図で見ると南側は平野で一面水田風景の様ですが、実情は、大変畑作地の多い土地で
スイカ、メロン(日本一)梨、栗…etc… 等が盛んです。
それと、以前サガミ氏と卑弥呼共立年代について意見交換をしましたが
圭角さんのお考えを、お聞かせいただければ幸いです。
しかし、魏の使節がみたところによると倭人
野菜ばっかり食ってたらしいですね
556 :
圭角:2005/08/13(土) 15:00:33
卑弥呼の共立年代につきましては、やはり私としては共立の主語に相変わらずも
こだわっております。以前のレスで東夷伝各伝つまり高句麗伝と扶余伝においては
共立の主語が明記されているのに倭人伝のみ無いから何か特殊事情が作用したのでは
ないかと書きましたけれど、皆さんのご支持は得られなかった次第です。
さて、東夷伝韓伝の、健安年間196−220年、公孫康は帯方郡をつくり兵を
起こし韓ワイを討たせた。これ以降、倭と韓は公孫氏の帯方郡の支配を受けるように
なった、との陳寿の記述から推測されることは、三世紀初頭に公孫氏の意向を受けた
帯方郡が卑弥呼共立にかかわったと自分は推定しています。
一時期、卑弥呼共立も司馬宣王かと疑ったのですが、陳寿は司馬宣王顕彰を基調に
三国志を記していますから、もしそうであれば、帝紀にも東夷伝にも記していなくて
はなりませんから、その可能性は無いことになります。
したがって、公孫康が韓とワイを討った直後のことと考えられますが、陳寿がその
年次を明記していませんから健安年間の半ばと考えております。
倭人伝みると大和朝廷が卑弥呼を支援していたという風にみえる
奴国では大倭の役人がうろついている、みな畏れている。
558 :
◆ypURG809QA :2005/08/13(土) 15:18:44
サガミハラハラ殿ならびに皆様
え〜、小城町に行って見ました。
実際に行って見て「あること」で腰を抜かすほど驚きました。
なんであんなに集中して存在するんだか・・・・・・
まるで桜ヶ丘を囲うような、まるで結界というか・・・・・・
桜ヶ丘が卑弥呼の墓かどうかは私には判断つきかねますが、
南には佐賀西部最大と言われる土生遺跡や
東には宇佐神社があったりと
桜ヶ丘のあたりには、やはり「何か」があるとしか・・・・・・
ちなみに小城駅の職員さんに
「このあたりが邪馬台国だったという説をご存知ですか」と聞いたところ、
きょとんとした表情で
「知らんねえ、吉野ヶ里ならともかく、そげん話ば初めて聞いたばい」と言われました。
宇佐株式会社の佐賀支店ですね。
その後5世紀の福岡南部、熊本の装飾古墳の東北南部への広がりを
考えると狗奴国の勢力は本州にも一定の影響を及ぼしていたと思うね。
そういえば、福岡南部、熊本の無アクセントは東北南部の言葉と似てるよ。
そのずっと以前も磐座信仰が九州から東北まで広がっているわけで、
古代社会に対する認識を改めるべきだと思うね。
出雲の勢力が関東から東北に入ったのはその後だと考えるべきだよ。
その前は九州の勢力が東北の方にも一定の影響を及ぼしていたと考える
のが自然だよ。神代文字の広がりもみてみよ
561 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:19:32
>>560 神代文字なんちゃらと言っている時点であぼ〜ん
562 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:21:14
九州は極めて先進的で独自性のある文化をもっていて本州にも
影響を及ぼすほどであった、しかし何時の頃からか、大王を中心とた
巨大な権力の集中が本州、日向の方であった、これに出遅れたのが
西九州一帯の小国家群(後の女王国)、狗奴国であった。これらの地域は
本州の権力に次第に飲み込まれていくことになるのである。
563 :
太:2005/08/13(土) 16:23:16
ヒッキーさん
雄略天皇は武王というのは完全に間違い。
>>561 神代文字をなめるな。
564 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 16:33:04
>>558さん
暑い中ご苦労様です。
遠地に居る私には大変参考になります。
>>556圭角さん
私は、以前にもレスしたことがあるのですが
卑弥呼共立(擁立?)を204年以降とし、これは全て公孫氏の仕業と考えてます。
理由は、
@国乱を鎮静化するには当時外圧が最も有効(冊封体制の定着意識)
A239(8?)年の朝貢記事
桓霊の間時の共立なら 221年頃に魏王朝に朝貢、或は180年代に後漢王朝に朝貢した記録が記載されてるはず
魏王朝や自国の共立でない為に、公孫氏が滅びると余りにもタイミングよい朝貢により現体制を維持しようとする行動
565 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:54:27
朝貢はしても厳格な冊封体制に入っていたといえるのだろうか?
そもそも冊封とは中国の支配者を他国に送り込むことやその
影響力を行使することではない。仮にその説が正しいとして
その目的をどのようにして執行していたのだろうか?
魏の使節は倭国の独特の風習、法治体制を報じている。
しかもさほど理解しているようではない、こんな中国人に倭が
支配できたとは到底思えん。
566 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:06:00
567 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/13(土) 17:12:00
「卑弥呼以死大作冢径百餘歩殉葬者奴婢百餘人」
ここで注目すべきポイントととして(百歩・百人)だと思います。
調度きりのよい「百」という数字を使い 誇張するような表現として使われているような印象を持ちます。実際の墓は、全国レベルで考えると周溝墓に毛の生えた程度(しかし、その地域では大きな規模)
殉葬者の百餘人も、
さも、偉大な女王だったとする誇張
その様に思えてならないのですが
未だ発見に至っていないため、あくまで空想ですが
568 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:16:35
奴国周辺の人は大変だったろう、彼らも元々は狗奴の勢力だった
のだろうが、東の方には宗像のような出雲系、宇佐、辛島、佐伯のような
畿内大和系の連中もいる。
569 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:24:04
女王国の連中も渋々邪馬台国に従っていたのは見え見えだし
渋々、嫌々墓も作ったのだろう、小さい墓だと思う。
570 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 17:41:28
京都には韓神を北に園神を南に祀る風習がもともとありこれが
平安朝廷にも受け継がれたと言われている。
まさに韓神とは出雲朝鮮、園神とは土着を意味するのではないか
豊国の言葉は畿内語を東京アクセントにしたような不思議な言葉である。
かつての支配層の言葉だったのではないか?
571 :
圭角:2005/08/13(土) 18:36:36
東夷伝の各伝をまず充分に読みそれを前提として倭人伝を吟味すべきでしょう。
女ばかりで男の居ない国があると、沃狙伝で陳寿は記している次第です。
ならば、帝紀に倭の女王卑弥呼と記している訳ですから、侍女を千人以上も
侍らせたとしても、自然な筆遣いと言えるでありましょう。
そもそも、陳寿は漢書の班固を気取って西域伝の代わりに、曹真をボツして
司馬宣王を顕彰するために書いたのが三国志ということを忘れるべきでは、
ありません。彼が服従させた高句麗に座食する者が一万人以上居たり、また
邪馬台国の戸数が際立って多いと記したことは当然でしょうね。
邪馬台国の使者が万二千余里の絶遠の彼方から朝貢したことは、それら全部
司馬宣王の顕彰に結びつくのです。そのことは、汝がある所はるかに遠きもと
わざわざ詔書記事にもある次第です。
司馬イ伝は三国志にありません。彼が殺した公孫淵伝はあってもです。
つまり、東夷伝は倭人伝は司馬イ顕彰伝として陳寿が記したものであって、
当時の読書人も当然にかくなる了解のもとに読んでいたことになるのです。
断定形の形容詞をいささか多用して恐縮です。が。
572 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:13:06
中国人が倭国に内政干渉したというのは不自然だ、
そう主張したいならもっと確固たる証拠か何かを提示して欲しい。
573 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:46:20
中央政権は北九州政権を朝鮮か中国の傀儡で
大和朝廷の中核、侵略者とみなしたいのは山々だからな
あの手この手で曲解し話をこんがらかせ、しらきって、
真相を闇に葬るつもりでもいるんだろう。
それが日本政権の歴史教育戦略なんじゃないかな
宗教施設の方向性みても明らかだろうに!
574 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:48:41
んで邪馬台国は九州であるという前提はどうなったい。
575 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:49:54
倭国大乱で連合政権内さえ統制できないのに、どうやってその
数十倍も人口あろうかとみられる本州を制圧できるのか、
キチガイとしか言いようがない。
576 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:54:23
邪馬台国は九州にしかない、そうしか書いてない。
では九州にあった邪馬台国の主権とは何かと論じているのです。
そこが一番の核心だと思うのです。
577 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:56:05
>>575 はい、そこで「邪馬台国は古代版一向宗説」が出てくるわけですよ。
578 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:58:30
>>577 なんじゃそりゃ?
九州のどっかにあった邪馬台国の植民地(?)が全国各地にあったとでも?
579 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:01:13
>>571 あなたは福岡南部、熊本、東北南部に多く存在する
装飾古墳群をどう解釈しますか?
580 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:05:01
>>579 東北南部ってどこですか?
福島、宮城あたりなら黒潮に乗った南部九州人がもたらしたってことで
説明ついちゃいますが。
581 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:20:04
装飾古墳
(そうしょくこふん)
石室、石棺などに彫刻、彩色を施して装飾された古墳の総称。
わが国の古墳時代には5世紀から7世紀にかけて、古墳石室の入口や内部、
石棺の内外面、および横穴の外壁や内部に、各種の文様や絵画を彫刻や
彩色で表す風習があった。それらの分布は福岡県南部と熊本県下にもっ
とも多く、全国の総数約300例のうち半数以上を占める。同じ九州でも
宮崎、長崎県下には少なく、鹿児島県下には発見されていない。本州
では島根県東部と鳥取県西部に集中し、畿内{きない}およびその周辺
にはきわめて少ない。東日本では相模{さがみ}湾周辺、および鹿島灘
{かしまなだ}に面した茨城県地方に多く、これに隣接する福島県東部
には集中的にみられる。それらの多くは横穴系に属し、北は仙台平野
北部の宮城県志田{しだ}郡地方に及ぶ。
初期の図柄は主として直線と弧線を組み合わせた直弧文{ちよつこもん}
をはじめ、円、同心円、三角形、菱形{ひしがた}などの幾何学図形文を
表したものが多い。一方、5世紀前半ごろには、鏡や大刀{たち}、
短甲{たんこう}、靱{ゆき}、楯{たて}など、具象的な図柄が出現し、
やがて赤、白、黄、青、緑などの彩色も併用される。6世紀代になると
壮麗なものが多く、なかには被葬者に関する一種の物語風場面を構成
するものがあり、それらの意匠は横穴の表壁や内部に踏襲される。
その点、奈良県高松塚古墳の壁画は系流を異にし、高句麗{こうくり}
や唐文化の影響によるものであった。
装飾古墳の起源を中国の後漢{ごかん}や朝鮮半島の高句麗壁画墓に
求める向きがあるが、無関係で、その目的には悪霊排除などの
呪術{じゆじゆつ}的な意味が考えられる。しかし6世紀後半になると、
大陸系の四神や日月、竜馬神話などが画題に反映し、思想的な影響が
あったことがわかる。
582 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 21:02:17
熊本と福岡南部は磐井の乱、南北朝時代、西南戦争まである程度
一蓮托生的な関係でやってきてるのだから、
おそらく倭国大乱の頃もこの関係があったものとみる
のが妥当でしょう。
583 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/14(日) 00:37:26
>>565 遅レス申し訳ないです。
盆入りの為何かと野暮ようが
当時の倭に対する中華王朝や半島郡の影響力はかなりあったと考えます
中華王朝や郡の乱れた時や冊封体制化が途切れた時等は必ず「倭」の情勢が乱れます。
それだけ普段から影響力があったと思われます。
それに、「倭」の争乱の原因の一つに 冊封体制下になろうとする利権争いがあると思います。
中華王朝に朝貢し、冊封体制下に入るということは、その交易利権を独占出来るというメリットがあるからです。
584 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:07:18
馬韓人は極めて先住系に近い民族、習俗だったようです、
馬は既にあったようですが、彼らは馬に乗ることをせずに
専ら副葬に使っていたようです(ペット?)
馬韓人は亡命してきた大陸の人に辰韓を与え、王を馬韓人から
選び天君と呼んでいたようです。
どうもこれが天皇制の始まりのようにみえます。
しかし、次第に辰韓には好戦的な北方渡来高句麗系の
民族が入ってきます。(扶余とも違うようです)
彼らは馬韓の風習を受け入れ出雲にも渡来したようです。
その内天君の地位おもをこの辰韓人が乗っ取り
新羅国を建国しました、更に倭へも渡来してきたようです。天孫族
585 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:19:33
倭国は多いに乱れたと思う、しかし魏の使がみたのは九州の
政情のみだったのでしょう、おそらく中華利権を独占していた
九州(倭)がその最前線だったはずです。
586 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 02:36:36
四隅墓を残した部族が北方系なのか中華系なのか難しいところではある
しかしいずれにしても後の新羅人と通じていたではあろう。
587 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 07:56:55
邪馬台国が北九州にあり、壱与の死後
連合国家体制が瓦解し狗奴国(熊襲)と
大和朝廷のはさみうちの形になり
自然消滅して大和朝廷に吸収されていったとしても
それなら邪馬台国が滅んだという伝説が
どこかに残されてるんじゃないですかね?
ないんですか?
588 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 08:59:37
>>587 古田教と言う宗派が、そういった伝承を口伝して後世に残そうとしています。
589 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/08/14(日) 11:13:18
>>587「ヒッキー」君
いったい貴方自信の仮説はなんなんですか?
関連スレを見てみると
殆ど質問スレになっており貴方自信の筋が見えないのです。
とりあえずこの辺で
貴方の仮説をご披露されたく思います。
つい最近の質問内容には、関連スレにて、あい反する内容の質問をされてる様でROMる側も多少困惑致しております。
590 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 12:20:43
ヒッキー君は昔の誰かさんに似ている。渡来説をくどく主張してた人かな。
邪馬台国が滅んだという伝説は何故残っていないんだ、という言い回しは
記憶にあるようだが。
そんな伝説が残ってる訳ないだろ。
記紀は大和政権が改竄したというより、他の豪族の伝を消滅させるために
編纂したんだから。
反論してごらん、ヒッキーくん。正体を暴いてあげるからさ。
>>589 587は、九州邪馬台国と大和朝廷は、もともと同一政治圏に属しており
日本史的には、特段の事件もなく忘れ去られ、中国の文献にだけその名を残したって言ってるんだろう。
587は、別に「質問」しているわけじゃない、それがご本人の「仮説」なんだよ。
関連スレでは何と言ってるのかは知らないが・・・
592 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 13:01:40
俺は基本的にヒッキー君と似た仮説をもつものだからヒッキー君の
説がもっと学会で支配的になりその方面で集中的に論議されることを
望むね、あとは裏付けとっていくだけだとおもう。
この一番自然に考えられる仮説をなぜ学会は邪険にするのか
真相を隠すために諸説流し困惑させるのが狙いだとさえ思う。
せめて2chだけでもヒッキーの説が支配的になってほしい
593 :
ヤットデタマン:2005/08/14(日) 13:20:03
592氏、お久しぶり。やはり君かね。
>>592 隠さなきゃいけない「真相」ってなだよw
595 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 16:05:12
>>592 単なる学閥の面子でしょ。
京大系派閥と東大系派閥のつまらん意地の張り合い。
596 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 17:49:49
若輩者の僕のレベルではやはりまだ
ここで議論できるレベルにはありませんか・・
古代史の勉強のほかにやるべきことが
多くあるのでなかなか深く勉強できません・・
とりあえず、内田康夫著「箸墓幻想」という
本を先ほど購入してきたので読んでみます。
597 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 18:00:30
>>589 すいません。若輩者だもんで
皆様の意見を聞いたり、他の書物を
どんどん読んだりしてるうちに
考えが変わっていくようですw
つまりまだ勉強不足ということですね・・
邪馬台国の本ばかり読んでても視野が
狭くなりますしやっぱ年配向けなのかなこういうのは・・
純粋な質問です。
私にはいわゆる古田説がもっともしっくりくると思われるのですが、
なぜ邪道(トンデモ?)扱いなのでしょう?
外三郡誌関連では確かにチョンボしちゃいましたが、
九州王朝関連では議論の土俵に上げてもいいのではないかと思うのですが、
頭から否定してかかる何か理由があるのでしょうか?
私は専門的に勉強しているわけではないので、
なんらかの信用に値しない事柄(事件)があったことを
知らないだけかもしれませんが。
599 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:18:14
ワは宇佐ですけど、古田さんの説は極めて合理的で
自然です。彼の説はもっと理解されるべきです。
600 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 18:25:44
僕の仮説ですか・・?
若輩者の意見ですが九州邪馬台国連合というのは
今に例えれば県全体がそれにあたり
あとなんとか国というのは今でいう市にあたる
気がするのです。そして邪馬台国というのは
今で言う県庁所在地であり県知事(卑弥呼)が
選挙で共立されてるというわけです。
しかしそのシステムがうまくいかなくなったので
3世紀終わりか4世紀初頭になり
大和朝廷のほうで軍事力を担保に北九州を
吸収して大和朝廷による直接統治に切り替わったのだと
思います。今に例えれば国のほうから県に
圧力をかけて政府の息のかかった県知事を
送り込んだり、地方交付税等を増やすなり
えさを与えて懐柔したとでもいいましょうか・・
つまり九州邪馬台国連合というのはそっくり
そのまま残っていたわけですが彼らは
大和朝廷による支配を選択せざるをえなかった
だけではないでしょうか?いや選択したほうが
いいと結論ずけたのかもしれません。
601 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:40:49
倭人伝書いた人はどうも琉球のあたりも倭と考えていたらしい。
そのせいで、倭の地域を南にのびる巨大大陸?あるいは中国大陸の
南北の長さを過小測定していたように思う。
彼らは倭人と琉球人を同族的に認識し琉球を倭大陸ともいうべき
九州地域の直ぐ下にある島だと認識していたのかもしれない。
倭を会稽の東方と言っているのもその為であろう。
習俗も倭と琉球を似たものとし認識している。
しかし、彼らは倭(九州)の北にも倭の勢力がある事を又聞き的に
知っていた、しかし全く通交関係が無かったとみえる。
やはり朝貢により倭人(九州人)が本州地域との中華との結びつきを
絶っていた為であろう。
倭国大乱以前は中華政府は100余りの国と国交があったらしい、
それが30余りの国に減っている、これをどうみるか、
小国が合併したとみるべきではなく、いずれかの地域との国交が
邪馬台国の政治力により絶たれたためだと思う。
狗奴国連合かもしれないし、あるいはもっと南の勢力かもしれない
しかし、本州ということはまずないだろう。
彼らは本州を全く知らないのである。
602 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:53:40
中華利権を完全に牛耳っていた九州の支配者、本州地域の豪族は
彼らの支配下にあったものもいれば
全く別の勢力もあっただろう、彼らは主に新羅、高句麗経由で
大陸のものを仕入れていた。彼らは九州と九州の息の掛かった本州の
勢力と敵対関係にあったが、次第に九州の息の掛かった本州の勢力も
新羅高句麗系の勢力に呑み込まれていく中で本州大倭政権連合が誕生した。
九州の勢力はこれに太刀打ちできずむしろ支配される側になってしまった。
その転換点、過渡期にあるのが九州邪馬台国だと思う。
603 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/14(日) 18:58:44
畿内政権にとって邪馬台国というのは
消滅させるより存続させるように支援していたほうが
都合がよかったはずです。狗奴国と大和朝廷との
防波堤的役割もありますし双方で力を削りあってから
漁夫の利を得ようと考えていたのだと思います。
北九州を制圧しようとするより交易ルートだけ
確保されてれば畿内政権にとって北九州の役割は
果たしていたのだと思います。
604 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 19:20:29
筑後地区に残る祭り風俗はまるっきり南方のものが多い
そのまま太平洋の風俗
605 :
太:2005/08/15(月) 21:19:38
606 :
圭角:2005/08/16(火) 14:00:28
579さんからお盆前に私に対して装飾古墳をいかに考えるかというお尋ねがある
ことを盆休みに紛れて今知りました。失礼致しました。
熊本が地元でございますので、いくつかは見ております。各学者の諸説その他を
拝聴する次第のみにておりますが、熊本の装飾古墳の絵模様には、農耕に関した
ものが少なく、漁労や船などや抽象画図が多く、農耕を図柄とするものが多い北の
地域とは文化圏を異にした側面を感じております。
ちなみに、熊本県の県木は楠です。古代の船材として多用され適した材質であった
ことを想えば、長崎周りで伊都国や壱岐対馬との交流交易を想うしだいです。
607 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 15:47:01
宇佐!宇佐!
608 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/16(火) 17:58:50
みなさんにお尋ねしますが
やはり投馬国も九州にあったのでしょうか?
投馬国はどこだとお考えですか?
僕は一応日向あたりかなと思ってるのですが・・
609 :
圭角:2005/08/17(水) 08:15:44
仮に、九州説の投馬国が宮崎県で、邪馬台国が福岡県の南部だったとしても、陳寿は
これを机上で南の方角へ直線につないだのであろう。
水行は、大きな川や海があるという伝聞報告が帯方郡の報告書にあったので、それを
陳寿が行程の中に取り入れたに過ぎない。
水行を筑後川、有明海、周防灘、瀬戸内海、日本海などと考えるのも、意味のない
ことである。
以上は松本清張の説の一節ですが、私は次の通り考えています。
張政の派遣滞在の記事からして、相当に詳しい地理情報報告は郡に届いていたはず
となります。しかし、司馬宣王顕彰の記述姿勢からすれば、邪馬台国はできる限り
絶遠の地が望ましいのはいうまでもないこと。よって、奴国の南に位置した投馬国
を水行二十日と記した、と。
610 :
圭角:2005/08/17(水) 08:22:54
わたしが609に書いた理由根拠はいたって単純明快です。
陳寿は、その余の傍国は遠過ぎて里程は詳らかではない、と記しています。
しかるに、その絶遠のその余の傍国のさらに南のさらに遠い狗奴国の官の
名前も王の名前も、ちゃんときちんと明記しているということなのです。
611 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/17(水) 08:38:29
福岡県前原市の平原遺跡では日本最大の内行花文鏡(5枚)が出土。
福岡県春日市の須玖岡本遺跡では同じく鏡・剣・勾玉の「三種の神器」の原型ともいうべき副葬品が見つかった。
奈良県では鏡・剣・勾玉の「三種の副葬品」は2世紀以降(平原遺跡はBC50年までさかのぼれる)にならないと出土しない。
ということは神武東征は1世紀にあったのでしょうか?
612 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 09:33:31
>>611 神武東征があったとすれば、1世紀ごろが妥当だと思うよ。
613 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:18:02
>>612 神武よりむしろニギハヤヒの方が先ではないかと・・・
ちなみにあたしゃ
呉の滅亡(280年)が神武東征を引き起こすきっかけになったと
思うちょりますばい。
614 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:49:04
難しくなってきた・・
ニギハヤヒというのは隼人じゃないの
615 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:53:14
確認しよう、三種の神器
剣の中心地、鏡の中心地、勾玉の中心地はそれぞれ何処だ。
そしてそれらがそれぞれ何を意味するのか・
確かに、三種の神器がそろったとき
日本の全国規模の支配者が
誕生したとみえる。
616 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 16:56:43
神武のルーツが日向であったとしても日向にこの三種の神器が
くるのは遅いんだよね?
北部九州でそれは揃った、つまりこの神武の勢力に近い勢力が
この北部九州にきた時に初めて支配が確立したのか。
神武の前のウガヤ朝の存在、そして弁韓支配(ガヤ)
繋がるかな・・
617 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:08:15
鏡;美(福岡)
剣:武(熊本、福岡南部)
勾玉:呪術(本州)
ここに日本の統治王、大王が誕生したなり!
618 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:23:36
619 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:52:50
鏡は外見の良さの象徴だろ、
剣は文字通り武芸の達人
そして勾玉は智の象徴である。
この三つが揃い倭は統治された
この倭とは漏れには
福岡(鏡)、熊本(剣)、大分(勾玉)
に思えてならない。ただ大分の勾玉については
起源は山陰地方出雲である。
620 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:04:15
↑それらが東征したのか?
621 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:28:06
何時東征したかまではわからない。
ただ、これらは各地を統治する中で生まれたもので
最初から支配者が三つを揃えて居たというわけではなく
統治の歴史の中で自然と神聖化されたとみるべきではないか
と思うわけ。もし不条理にこれら三つをもった支配者なら
三種の神器を今の今まで神聖化するとは考えにくいしな
622 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 18:46:05
筑後地方は水の神の起源だからおそらく違うと思う。
あの地域は農業神でどちらかというと労働、被従属民だろうな
時に熊蘇、時に邪馬台国の支配に甘んじた地域だろう
頻繁に水の被害に見舞われたので遺跡もあまり残ってはいないが
623 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:11:56
最終的に九州を統治したのは近畿の豪族(少弐、菊池、大伴)
と関東の豪族(島津)、そして畿内で二種の神器をいや
勾玉を加えた三種の神器だと主張したのは藤原(ト部)
こうなるとわけわからん状態。
624 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:09:28
まあ、結局日本を統治したのは近畿の藤原と関東の源氏
というわけです。
これが今の日本人の容姿を決定付けているわけです。
625 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:11:31
しかもこの近畿の藤原、茨城の鹿島と深い関係があるんでは
なかったですか?
626 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:28:32
磐井の墓に三種の神器はなかったよね
筑後地方には勾玉と鏡が欠けていたと思う。
これは熊本と近い傾向がある
627 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:51:06
磐井は明らかに菊池や狗奴の勢力にあると思うよ。
古墳とかの共通性が極めて高い。
筑紫国造というのが成立したのはやっと6世紀後半だろ
ヤマトと最後まで対峙したのはこの狗奴を中心とした
九州の勢力だったのです。間違いないでしょう。
628 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:03:11
九州の勢力は、伊勢、関東の太平洋側、東北の南部と
文化的共通性をもつ遺跡を残す。
629 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 22:16:40
台与の後、狗奴国が勝利し九州の殆どを治めた。
小倉、八幡、宇佐の渡来勢力は畿内に従ったものと
狗奴に従ったものに分かれた。
狗奴国の中心地は筑後市、八女市周辺に置かれた。
630 :
ニワカ:2005/08/29(月) 19:24:36
海幸山幸の神話は最初に九州を統一したスサノオの出雲王朝を
後から来たヤマト王朝が倒したという意味。ここまで分かった。
神話から妄想したんですが、スサノオの軍隊は津波で滅んだのかも・・・
631 :
日本@名無史さん:2005/08/29(月) 21:16:20
スサノオの伝承は九州ではあまり聞かない。
氷川神社もない、こちらは八幡神社です、
「討ちてしまん」だったかな?
「討ちてし止まん」では?
633 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/08/30(火) 11:25:13
投馬国東遷説
634 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 11:55:31
邪馬台国は投馬国より南ですよね。投馬国は不彌国より、20日も南ですよね。
とすると、東遷したところはどこですか。
635 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 19:51:32
お正月になると、山の神が村に客としてやってくる祭がありますよね
有名なのはナマハゲですが、大分県ではヤマドって言うんだって
636 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/03(土) 10:06:36
豊の国大分県の山神様はヤマドというんですか・・
ヤマド?ヤマト?邪馬台??w
637 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 10:22:24
普通に考えるとヤマド=山人ヤマンドか?
638 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 11:29:04
邪馬台国は九州、投馬国は出雲、狗奴国は畿内。
邪馬台国の「ヤマ」は「アマ=天」に通じ、
狗奴国の「クナ」は「クニ=国」に通じる。
狗奴国の指導者的人物は「卑弥弓呼」として、中国の史書に載っている。
もちろん狗奴国の王は一代限りではなく、何代もあったはずである。
日本側の史書には主に次の人物に投影されていると思う。
スサノオ、オオクニヌシ、崇神天皇、景行天皇、ヤマトタケル、仲哀天皇・・・。
魏に朝貢した頃の邪馬台国は、すでに畿内を中心に膨張を続ける狗奴国に
さまざまな面で押されており、中国の後ろ盾を得ようと、
大陸に助けを求める形になっていたのだと思う。
639 :
太:2005/09/03(土) 11:44:51
う〜ん、何とも??w
640 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 11:50:17
スサノオが、ヤマタノオロチに象徴された畿内の原住民(アイヌ系?)を
平定して一大強国の礎を築いた英雄の投影であるのは間違いない。
その力はオオクニヌシの代までに受け継がれる。オオクニヌシは、
古代出雲を手中に収めたあと、山陽山陰を駆け抜け、
播磨のアメノヒボコを討ち、遠く、越や諏訪まで平定したという。
これは、邪馬台国の時代に畿内にあった王権の想定される勢力範囲に一致する。
崇神天皇や景行天皇はそのスサノオ・オオクニヌシの歴史を
二重写しした存在である。四道将軍の記事やヤマトタケルの東征の記事は
狗奴国の勢力範囲が飛躍的に拡大した史実をふまえたものだ。
崇神〜仲哀は、もともとは邪馬台国(アマテラスの子孫=天皇家)に
関係のない王族だったが、何らかの理由で天皇家の歴史に組み込まれたのだろう。
スサノオとて、明らかに神々の里である高天原には
似つかわしくない記述のされ方をしている。
これはもともと九州のアマテラスとは全く関係のない
神だったからに違いない。
641 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 12:13:39
崇神天皇とは何者か?スサノオと同一の存在で、
最初に大和の地に王権をひらいた指導者と考えてよいが、
また別の側面で、ここでは「崇神」という称号に注目したい。
「神」については神武や応神など初代の偉大な天皇を示す文字である。
応神についてはここでは触れない。問題は「崇」である。
一般に「崇」とは、臣下に殺されたり、
不遇の死を遂げた天皇におくられる称号であることは有名である。
怨霊とならぬため、鎮魂のための称号と言い換えてもよい。
崇神天皇がなぜ「崇」の文字をおくられたのか、
一応の説明はあるのだが、その記事(神の祭り方を間違えた)について
何か腑に落ちないものを感じる人も多いはずである。
崇神天皇以外はすべて「怨霊化しそう」な人物なのに、
彼だけは例外なのである。不遇の死を遂げたわけでもない、
怨霊になる可能性があるわけでもない。
(あるとすれば神の祭り方を間違えて寿命が縮まった、くらいか)
もし仮に、天皇の称号をつけたとされる淡海三船が、
「怨霊になる危険がある」と、崇神を見ていたとしたら、
その根本となる事件とは何か?
642 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 12:26:46
スサノオ=崇神が怨霊化しそうな事件とは何か?
それは、子孫の悲劇と考えて間違いない。
オオクニヌシはアマテラスの使者に国を奪われ、出雲の神殿に幽閉された。
出雲大社は、オオクニヌシの牢獄と言ってもよい。
崇神天皇とて、そうである。景行天皇やヤマトタケルによって
日本の大部分を手中に収めた畿内発の王権も、仲哀天皇の代で断裂している。
このことは、さまざまな歴史学者が説いている点である。
神功皇后が出産を遅らせた話などから、仲哀と応神が血のつながりは無い。
九州の地でクーデターが起こり、そのリーダーだった応神が、
九州から大和へ逆に攻め上って新しい王族となった。
643 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 12:38:43
応神天皇についてここで触れよう。
神功皇后は応神の母ということだが、多分に神話的人物である。
これは、神功皇后が、応神の母だけではなくて、
祖先までも投影していることを指すのではないか。
応神が生まれたとされる九州の地で、かつ、
これに該当する女性と言えば、それは卑弥呼である。
応神が本当に零落した卑弥呼一族の末裔だったか、あるいは、
応神が立ち上がるときに、「私は卑弥呼の末裔」と僭称したのではないか。
応神がどのような手段をもって、新しい王族になり得たかはわからないが、
かなりドロドロした、陰惨なことが行われたに違いない。それは、
オオクニヌシの国譲り神話に象徴されているはずだが、
なにぶん神話なので、ダークな部分までは描かれていない。
644 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 12:56:46
日本の神話はダークな話とエッチな話ばかりなんですが・・・
645 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 13:18:04
>>644 国譲り神話に対応するなんらかの史実があったとして、
それが国譲り神話ではある程度マイルドに抽象化されている、
という意味で言ったんですが・・・
深読みすれば、マイルドに描かれているからこそ、
ダークに思える気も確かにしますけどねぇ。
646 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/04(日) 21:06:47
>>638 >中国に朝貢した邪馬台国
中国(魏朝)に朝貢したのは邪馬台国ではなく女王国「倭」ではないか
647 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:18:12
親魏倭王ですから、そうですね。
邪馬台国は倭国の代表国なのですね。
648 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:26:14
649 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/04(日) 21:45:54
>>647 代表国と言うよりも
邪馬壹國は陳壽の認識する、「女王の都する所」ではないか?
魏書倭人の中での邪馬壹國の記載はほんの一部
外交、風俗記事は女王国「倭」の出来事
そのような認識でよろしいのでは?
650 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/04(日) 21:55:36
>>648 >崇与の次の崇神天皇
その証明は
>>崇神天皇の東遷
現実的ではない
651 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 21:55:40
652 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 22:12:29
>>650 取敢えず邪馬台国は何処だと思う?九州だろ?
崇神天皇の実年代何時だと思う?
俺は卑弥呼死亡直後か壱与死亡直後だと思ってる
このサイトの様に東遷したと考えてるが、
俺は神武東征後.300年弱して邪馬台国が力を失った後に、
大和の氏族が覇権を握ろうとしたのがの崇神天皇の四道将軍派遣だとも考えている
どの道崇神天皇後は九州は歴史の表舞台から脱落したし
崇神前の欠史八代は大和は主役じゃなく、九州が主役だった
だから東遷でも別に大筋の話に無理が無い
むしろ現実的だろ?
このサイトの主張では神武も欠史八代は架空としていて俺の考えと合わないが
卑弥呼後に崇神を置いてる事に全面同意するし
ここが一番重要なだろ
653 :
太:2005/09/04(日) 22:15:36
同意できない。
魏書倭人伝では「〜国」の概念はどんな感じ?
今でいうと国家?それとも地方自治体?
655 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 23:37:09
半島 九州 近畿
筑紫のスメラギ彦瀲
前1世 新羅王統朴氏初代となる←─稲氷命が渡海
1世紀前半 ─神武東征→ハツクニシラススメラミコト
族長時代 欠史八代
1世紀後半 倭の多婆那国より脱解尼師今が § §
立ち新羅王統昔氏初代になる §
新羅王統金氏の祖を §
倭人瓢公を見つける神話 § §
2世紀後半 大乱相伐 §
共立女王時代 欠史八代
新羅に卑弥呼が使いを送る
新羅より日本への王族亡命神話
3世紀後半 日向邪馬台国─崇神東遷→日本大和国
ハツクニシラススメラミコト
←四道将軍派遣─崇神天皇─四道将軍派遣→
─────新羅王子、天の日矛が亡命───→
4世紀後半 ←三韓征伐──神功皇后九州行幸
百済──────七支刀────────→倭王旨=応神天皇、
倭軍、三韓を制圧し高句麗と交戦
5世紀後半 ↑海渡95ヶ国平定←─西国66国平定──安東大将軍倭王武=雄略天皇─東国55国平定→
6世紀初頭 百済武寧王、継体天皇に鏡を送る
656 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 23:47:00
× 倭人瓢公を見つける神話
○ 倭人瓢公が見つける神話
657 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 00:08:02
二世紀の新羅より日本への王族亡命神話は、実際には王族とは書いてない
しかし新羅王統朴氏王朝の最後の王の治世の説話だ
その次代からの王統は昔氏が連続するが
昔氏に王統が代わった理由は「朴氏の王に王子が居なかった」からだと云う
やはり王子を寄越したのではないか?卑弥呼の招へいによって。
新羅から呼び戻した筑紫のスメラギの血統を以って、
大和に向かった筑紫のスメラギの血統の先駆者達を統一政権を作る為に
658 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 00:31:28
魏書の国は自治体みたいなもんだろうな
659 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 00:34:36
山口組系○○会の組長のヨウナもの
660 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 02:28:47
661 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 03:47:36
応神がクーデターで、吉備東進ってのはおとぎ話レベルに
過ぎないな、九州で生まれたら=朝鮮という東京人の妄想だろ?
こんな強烈な人間がいたら遺跡なり伝承が九州に残ってるよ。
そういうのはないw
応神は、ヤマトタケル、仲哀、神功、斉明という九州攻略の実行部隊
の一人に過ぎない。九州でクーデター起こして東進って話が
バカ共はお好きなようだが・・
そうい四方八方に広がる的な妄想は渡来人の妄想、
朝鮮の血の濃い証拠だw
662 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 04:24:06
渡来系は東を神聖、絶対視しているからね。
太陽崇拝とかと関係あるのかな
663 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/05(月) 11:15:51
邪馬台国まで12000里なのに
日向では遠すぎる。基本的な部分からしておかしい。
神武天皇が一大卒とかもうわけわからんしw
664 :
圭角:2005/09/05(月) 14:03:32
記紀の神話人名比定論に水をさすようで恐縮ですが、現在の九州は台風14号対策で
皆さん大変です。南九州はほぼ経済活動がとまっているというのが実情です。明日は
完全に止まります。九州人は、明日明後日の一両日は南九州全域が停電することを、
一様に皆、既に想定済みといったところです。ハリケーンカトリーナ並かもと。
ところで、皆さんは風速50メートル以上という台風を実体験されたことありますか。
伊勢湾台風など台風は日本各地に襲来しますが、九州がやっぱり台風銀座ですよ。
猛烈な台風が同じ年に、九州邪馬台国に連年続けて襲来したとするならば、卑弥呼の
女王国も簡単に衰退したとして自然だと今思っています。無論、実証は無理ですが。
十数年ほど前の19号台風は、それは凄まじいものでした。収穫の時期のいまごろに
あんな台風が吉野ヶ里だろうとどこだろうと、続けて襲来したならば、翌年の種籾は
一粒たりとも消失したことと確信する次第です。九州卑弥呼女王国の衰退理由原因の
ひとつとして、猛烈台風襲来を想定して自然かと思います。
665 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:14:44
>>664 確かに、無視できない自然災害ですね・・
当時の民家は一溜まりも無かったでしょうね〜
666 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:28:34
>>664 阿蘇山か雲仙岳噴火、震度8クラスの大地震、大津波で全滅という
考古学遺跡はないのでしょうか?
渤海が白頭山噴火で滅亡したという説もあったように。
667 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:41:02
漏れの知る限り最後の阿蘇大噴火は8万年前ではなかったか・・
九州半分を火山灰が覆ったらしい。
668 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/05(月) 16:31:59
>>664 圭角さん並びに九州・中国・四国の住人諸氏
くれぐれも台風災害には、きおつけて下さい。
何事も無く通り過ぎる事を期待します。
私も、広島に妹夫婦がおりますので大変心配です。
669 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/05(月) 16:48:52
>>668訂正
きおつけて…×
気をつけて…〇
失礼しました。
670 :
圭角:2005/09/07(水) 08:33:57
プラムさんへご返信。ご心配かたじけなく存じます。
台風はメディアの伝えるとおりですが九州西半分はたいしたことありませんでした。
しかしながら、吉野ヶ里の規模の遺跡にしても、当時の台風被害は大変なもので
あったろうと、あらためて想いました。当時の卑弥呼の宮室、楼観、城柵などは
ひとたまりもなかったことでありましょう。
九州で台風被害の僅少地域は、あらためて福岡県しかも筑後ではなく、しいて
言うなら筑紫でしょうか。台風経路から邪馬台国所在地を考えることも、一法かと。
671 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 09:15:55
http://yamatai.cside.com/yasumoto/tyosyo94.htm 書評 立花隆氏、本書を絶賛 (週刊文春8月25日号 文春図書館より)
安本美典『大和朝廷の起源』(勉誠出版 3200円+税)には、
「邪馬台国の東遷と神武東征伝承」という副題がついている。
この本を読むまでは、私も通説に従って、神武天皇などというものは、
神話伝説上の人物にすぎず、リアルな存在では全くないと思っていた。
しかし、この本を読んだ後はちがう。神武天皇伝説の背景には、
骨格において伝説に近い史実があったにちがいないと思っている。
672 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 18:41:55
畿内説の人(安本美典氏などを執拗に攻撃する人)は、
なぜ神話の舞台が九州なのか、なぜ神武天皇の東征伝承があるのか、
オオクニヌシとはいったい何者か、銅鐸とは何だったのかそしてなぜ消えたのか、
ほか、邪馬台国の所在を畿内とすると、魏志倭人伝に明らかに矛盾点が生じてくることを、
論理的に納得できる形で説明してほしい。
>>672 それは無理ってもんですよそれが出来ないから、「論争」として
長年議論しあっている
674 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 20:49:14
畿内説(笑
675 :
圭角:2005/09/08(木) 09:28:15
台風が過ぎ去ってあらためて思うことがあります。
ご承知のとおり台風は夏から秋つまり収穫時期に多く九州に襲来します。私も九州
ですから何度か猛烈な台風被害に遭いました。みなさんも、テレビ画像にてご覧に
なっていることと存じますが、実際の風圧のみは体験した人でないと、なかなか
ほんとうには理解し難いものではないでしょうか。
トラックが横倒しになったり大型船舶が陸に打ち上げられる画像からそれが推定
できるのであれば、卑弥呼邪馬台国の時代にも、猛烈な台風が来ればそれこそ一発
で壊滅状態になりますね。イネも翌年の種籾一粒すら飛散してなくなったでしょう。
わたしは、北部九州の遺跡が三世紀末を境に急速に衰退した理由を、政治的な
ものに求めるより、その方が現実的だと思います。世界の古代王国が突然消滅して
いる原因は多くの場合が天災だったとされていることはご案内のとおりです。
むろん、スペインのインカ帝国などの殲滅という政治軍事的な事例もあります。
しかしそれは、一方が片方に比して絶対的軍事力差異があることを前提とします。
三世紀末から四世紀初頭にかけての倭において、そのような事実は推測困難です。
なんとなれば、台風被害の僅少な畿内大和が、猛烈な台風被害と諸国争乱にて疲弊
した北部九州を、食糧生産力という経済力を基として、軍事的にも凌駕していった
と考えるのが一番自然な解釈ではないでしょうか。
さすれば鉄器東漸も北部九州の生活風習の東遷も鏡の副葬の東への遷移も無理なく
解釈できることとなる次第です。
676 :
圭角:2005/09/08(木) 09:48:59
連投で恐縮です。自由業にてヒマなときはヒマなものですから。
たいていの古代史つまり古代の歴史は政治面から語られる場合が多いです。
それは中世の場合にしても同様です。中世から近世への大いなる契機となった
一因は貨幣の発達でしょう。領主に支配されていた農民が貨幣の流通発達に
伴い、甕に通貨を入れてチャリンとした音が近世を開いたのは、富の蓄積や
労働賦役の蓄積ができるようになったからです。理由は、それまで労役を貨幣
で領主に納めればくなったからに他ならなくなったというのが定説通説です。
さすれば、日本の古代史のみを政治的史眼からのみ眺めるというのは、少々
抵抗を感じます。神武や神功が万にひとつ実在の人物だと仮定してみても、
歴史というものは義経や頼朝で大きく転回したということにはなっていない事
からしても明らかだと思う次第です。
677 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 09:53:32
台風如きで滅亡するなんてないね
九州全土が作付け地域なのに
678 :
圭角:2005/09/08(木) 10:05:42
677さん、言葉尻を捕って恐縮ですが、私は滅亡でなく衰退と書いています。
くわえて、狗奴国は南九州もしくは熊本というのが定説です。
677さんは、九州全土が女王国邪馬台国の領域という御説でございましょうや。
679 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 11:24:22
九州本土と諸島部の国を合わせて30国だろ
680 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 12:46:14
漢書で倭は100余国あって、魏書では倭は100余国、
内30国が遣使、女王国の東に倭種の国。三韓は78国
宋書で倭王武の征服地は東55国、西66国、半島95国
魏書の100余国は九州に100余国か?
女王国の東に海を渡った国を入れて100余国だろ
九州には30国しかない、そして狗奴国以外は女王の天下
こう云う事だろ?
681 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 13:10:50
(舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。)
01狗邪韓國,02對馬國。03一大國04末盧國,05伊都國,
(皆統屬女王國,)
06奴國,07不彌國,08投馬國,09邪馬壹國,(女王之所都,)
(自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳。)
10斯馬國,11已百支國,12伊邪國,13都支國,14彌奴國,15好古都國,
16不呼國,17姐奴國,18對蘇國,19蘇奴國,20呼邑國,
21華奴蘇奴國,22鬼國,23為吾國,24鬼奴國,25邪馬國,
26躬臣國,27巴利國,28支惟國,29烏奴國,30奴國,
(此女王境界所盡。)
31狗奴國,
(男子為王,其官有狗古智卑狗,不屬女王。)
--------------------------------------------------
・06奴國=30奴國
・01狗邪韓國〜31狗奴國までが遣使している30国
・10斯馬國〜29烏奴國は、09邪馬壹國の直属
・女王國とは、女王の都の或る09邪馬壹國に始まり10斯馬國〜29烏奴國までの連邦王国
>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
・水行十日陸行一月とは、帯方郡〜09邪馬壹國までの距離
>自郡至女王國萬二千餘里
・一万二千里余とは、帯方郡〜女王國の北限の29烏奴國までの距離
これで地理的に辻褄が合うだろ
682 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/08(木) 13:27:29
>>681 奴国が2つ入ってますよ^^
つまり行きと帰りのルートが違うということです。
行きは06〜09、帰りは09〜30のルートを
使ったということです。
683 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/08(木) 13:34:17
ああすいません、よく読んでなかったです。
681の意見に同意しますよ。
684 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 13:49:44
延喜式によれば庸・調を運ぶ運脚は、
薩摩、大隈、日向からは大宰府まで12日掛かるようだ
これが街道が整備されてない3世紀なら並の旅団なら一ヶ月は必要じゃないのか?
延喜式によれば肥後から大宰府までは運脚は3日で行くようだ
狗奴国が肥後なら、その北にある邪馬壱国は筑後か?
これも延喜式によれば筑後から大宰府までは運脚は1日で行くようが
この距離が3世紀に一月掛かると思えない
三世紀に九州上陸後に一ヶ月掛かる距離とは、
上陸地点から一番遠くにある必要があるんじゃないのか?
因みに対馬から大宰府までは4日、壱岐から大宰府までは3日だそうだ
対馬から壱岐は魏書では1000余里
1000余里/1日だ
魏書では帯方郡から末盧國までが一万里、つまりこれが水行十日じゃないのか
末盧國から陸行一月で、09邪馬壱国
まぁ、時代は違うが延喜式を見る限り、薩摩より邪馬壱国が北にあるなんて考えられない
3世紀でも一番遠い日向ですら一月掛からないかもしれないしな
延喜式では薩摩、大隈、日向は同じ日数と云う事だし
685 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 14:22:58
>>683 つまり、01狗邪韓國も倭人の勢力下で
31狗奴國も個別に遣使を行っていると云う事にも同意してくれるんだな?ヽ(´ー`)ノ
686 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 14:25:47
単純計算で分速80mで1日4時間歩けば30日で576km
3時間なら432km
>>675 それまでに異常な長雨が続いていたりしたら、水田ならずとも、台風をきっかけに可耕地に
壊滅的な打撃が加わる、ということもありそうですね。
>>684 長らく戦乱が続いていた時代で、卑弥呼さんが死んだけでまた乱れたくらい不安定だったのだから、
防御の目的もあって、道さえも「整備」どころか、現代の荒れた山道程度の状態のままでおく、
ということもあるかも。幅の広い川なんかは「まんま外堀」。
だから、平地を直線状に進むより、山の裾伝いとか山の尾根伝いに延々と迂回するほうが
かえって早くて楽だったりすることもありうる。
689 :
688:2005/09/08(木) 15:07:53
だから、船団を仕立てて渡海してきているはずなのに、なぜ延々と「陸行」することがあるのか、
合理的に説明しにくくなる、という面もある。
690 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 15:31:33
卑弥呼が死ぬ前も防衛目的で
末盧で降ろして伊都止まりだった云う事で
ただ台風の被害は毎年の事でして、それに応じた準備・町作りも
あったでしょう、事実、この地域は河川より少し離れた場所に
古代都市がありますし、それなりの対策もしていた筈。
(当時、山斜面近辺に家を建てる人もいないでしょう。)
しかし、台風が九州の勢力を全国規模にまではなしえなかった
最大の原因と捉えることは出来ると思う。
692 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 16:04:05
水行十日陸行一月、水行二十日は伊都国からだよ派↓
693 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/08(木) 16:11:34
話すネタが枯渇してきた。
僕の知識量ではやはりぜんぜん足りない。
出直してきます。
680
反論するのマンドクサー
そんなこと言って工作しても、
やっぱり魏の使節は
本州に倭の国を認識してなーい。
695 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 16:38:59
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。
696 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 17:51:55
そもそも卑弥呼という人物が議論に値する程の大物であったかどうか・・
おそらく今で言う村長もしくは町内会長レベル程度ではなかったんだろうか。
久留米地域は旧三潴県なのでツマ国でもいいし、
旧百隈なのでクナ国でもいい。
山門もあるので邪馬台国でもいい。
つまり地名からみればなんだっていい、
そもそも同じ語彙を持ってるのですから似て当然。
>>696 漏れもそう思う、行橋の稗田さんが卑弥呼の末裔だと思う。
699 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 18:13:58
金印も眉唾だしな・・
700 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 20:30:51
ぎし倭人伝がうわさでかかれてたのかも、事実を見たのではなくまたぎききで
>>700 >倭人伝がうわさだけでかかれた。
魏書は、倭人伝だけでは無い 帝紀から読んでみれば
702 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 01:18:56
09邪馬壹國が九州東海岸なら、09邪馬壹國の北方に10斯馬國〜30奴國とは別の国がある事になるんじゃないの?
>(自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳。)
703 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 01:23:01
んなこたぁーない
704 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 09:03:35
江戸時代なら東海道500kmに半月いらないらしいぜ
---------------------------------------------------------------
東海道宿駅設置400年
−岡崎宿・藤川宿−
平成13年11月27日(火)〜平成14年1月14日(月)
慶長6年(1601)正月、徳川家康によって街道が整備され江戸と京坂を
結ぶ東海道の各所に宿場が置かれ東海道宿駅、伝馬の制が定められてから
2001年で400年。東海道は江戸日本橋を起点とし、品川より近江大津までの
53宿を経て京都三条大橋を終点としました。旅程としては東海道全体の距離が
約125里(500km)で通常10日から13日位の旅程であったところ、
河川増水による川留めや関所などがあり、それ以上の日数がかかったといいます。
http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/db/kikaku/E/e007%20toukaidoushukueki.htm >約125里(500km)で通常10日から13日位の旅程であったところ、
705 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 09:06:56
706 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 09:16:26
健康ウォーキングとは
今、最も身近な健康管理としてウォーキングが注目されています。
でも単に歩いているだけではつまらない。このイベントでは、歩数を距離に換算、
合計の距離で、中山道69次や、東海道53次、日光街道21次、奥州街道27次、
甲州街道、山手線、四国一周八十八札所巡り、スイス大自然周遊コースを
ネット上で旅しながら、歩数を基準にカロリー計算もできる画期的なシステムを導入。
あなたも歩数計とインターネットを使って楽しい旅してみませんか?
https://gnl.cplaza.ne.jp/walking/index.html --------------------------------------------------------------
現在東海道(日本橋〜京都三条大橋) を歩いています。
30日間で22.7%を踏破、ゴールまで382.93km残っています。
箱根(神奈川県足柄下郡箱根町)区間14.6/14.7km(静岡県三島市)
登録日 2005年 8月 3日
歩行日数 30日
総歩数 189500歩
平均歩数 6316歩/日
最高歩数 13000歩
総距離 112.56km
平均距離 3.75km/日
最高距離 7.72km
http://takashi001.no-blog.jp/ichi/cat1047028/ --------------------------------------------------------------
健康ウォーキングの人でも 3.75km/日 で月に112km
さっきの、50km/日弱は速いな、江戸時代にしても
これが普通か?
707 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 09:21:59
708 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 09:27:05
709 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 09:38:34
710 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 09:40:49
邪馬台国はともかく、少なくとも狗奴国は熊襲か、どっちにしろ九州南部の
勢力ということでおk?
712 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 12:05:34
狗奴国、熊襲、大隈半島
>>691 少なくとも、大規模な防災土木工事が当たり前の現代とは全く違うと。
714 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 09:25:20
みなさんに質問です。
邪馬台国が九州にあったとして丁度百年後には朝鮮半島に畿内の勢力(?)が一万人以上
援軍を派遣しています。邪馬台国はどうなってしまったのでしょうか。
近肖古王 371年平壌攻略 七支刀銘文より(天理市石上神宮所蔵)
これについてはどのようにお考えですか。
715 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 10:08:13
畿内は主導権がなく、九州の中央政権からの派兵の檄を受けて
出兵したんだろな。防人の一部だろ。
旧唐書>日本国、旧小国にして倭の別種なり。
716 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 10:15:43
出兵は九州没落後でしょ
717 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 11:44:42
邪馬台国が宮崎にあったと仮定すると、いろんなことがうまく説明できる。
邪馬台国までの里程、日程についても北部九州よりずっと合理的。
神武東征で、政権が大和に移動したとすれば、邪馬台国のその後も納得できる。
問題点があるとすれば、古代に宮崎あたりの勢力が
北部九州を支配下に置くことが出来るかどうかかな?
大陸から遠いと言うこともあるし、福岡などの人にすれば、
宮崎ごときにって感情があるだろうし。
しかし、古墳などを見ても、
宮崎が重要な地域であったことは確かだと思う。
それに、大和朝廷が作った記紀にしっかりと
皇室の祖先は日向から来たと書かれているわけだから
けっこう無視できない説ではないかと思う。
邪馬台国が北部九州にあったとすれば、どうしても「その後」が引っかかる。
718 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 11:55:22
支配と云うか、乱世を軍事力で治めたんじゃなくて
宗教の教祖が共立されて女王になったんだから
そのカリスマ性からすれば場所の問題は関係ないような気がする
どっちにしろ、邪馬台国と同盟を組んでいた北九州の諸国と
朝鮮南部との間では貿易でも人種でも密接な関係があったことは確かだな。
だから朝鮮南部に援軍を送ることはなんら不思議ではない。
720 :
圭角:2005/09/13(火) 19:48:15
717さんにお伺いします。
邪馬台国が宮崎に在ったとするといろんなことがうまく説明できるとの御説ですが
魏略逸文にさえも、女王之南、又有狗奴国、と記す狗奴国の位置所在は何処になるの
でしょうかね。
宮崎の南だから鹿児島ということなのでしょうが、それは不自然不合理となります。
なぜならば、その余の傍国の斯馬国以下二十一国の諸国は、鹿児島県に偏って偏って
集中し偏在していたことになりますよね。
シラス台地の多い鹿児島県に三十国のうち二十一国が偏在集中したとなりますよね。
これで、邪馬台国が宮崎に在れば、全てうまく説明できるというのは、明白に無理です。
721 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 22:31:21
鹿児島本線沿線に並べれば良いだろ
722 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 22:43:07
723 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 00:22:16
奴国が二つになるじゃん
724 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 00:23:31
邪馬台国主要3スレは一本化して欲しいな
725 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 04:08:10
>720
その余の旁国の位置については、それほどこだわらなくてもいいと思います。
最初にそれぞれの国の位置を比定した新井白石も、
最終的には邪馬台国を一番南に持って来ています。
だから、邪馬台国を宮崎とすると、狗奴国は後の熊襲と言うことになります。
また、日本書紀の記述で、景行天皇が熊襲征伐のために宮を置いたのは、
宮崎平野と思います。
もちろん、邪馬台国九州説の王道が北九州説であることは知っています。
しかし、疑問もあるのです。たとえば、一大率。
邪馬台国が北九州にあるとすれば、どうして一大率が伊都国になければならないのでしょう。
邪馬台国があるだけで、十分に諸国を畏れ憚らせることが出来ると思います。
だから、北九州説では「一大率」についていろんな解釈が出てきます。
魏または帯方郡が派遣した高官だみたいな説が。
しかし、それだったら、邪馬台国と狗奴国との争いのときに、もっと一大率が
活躍してもいいと思います。わざわざ張政がやってくる必要はない。
弥生時代後期の南九州の人口は、北九州より多かったとされます。
また、宮崎の発掘調査は、近畿地方はもとより、北九州に比べても
はるかに遅れています。
もう少し注目されてもいいと思ったわけです。
726 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 01:39:42
727 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 18:51:59
神話の高天原という表記を見ても
大規模な人を養うのを考えても
位置的なものを見ても
たぶん佐賀平野だと思う
米さえできて人口が増えればあとはどうにかなる
ここから伊都まで出れば中国地方にもいけるので
スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治に行ったりも可能
畿内説はもう絶対ありえないと思う
そこまでの航海でよれるとこには全部よって補給しながら
貧弱な船で来てるのにいきなり急に機内まで行くのはおかしいし
使者の記述がそのあとの何かあったときのための
軍事的資料としての意味も持ってるなら
魏の兵士が進みやすいように魏に近いところほど詳しく
しかも面の情報で軍が行動できるように書かなければならないはず
急にめんどくさくなって書かなくなった以外なら
伊都国からは放射状の情報のはず
728 :
という説もある:2005/09/28(水) 19:15:32
>>725 何らかの軍事的な理由で「一大」の「率」を置いた、と考えれば、
理由は依然として不明ではあるものの、意味は通る。
729 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/28(水) 21:04:11
>>725 一大率は軍事的な目的じゃなく朝貢交易に必要な施設と考えればスッキリするんじゃない
>>729 「率」は、軍事の司令官の意味なので、それ自体は軍事関係の人員でしかありえないけど、
海上保安庁とかいう感じですか。うーん。
731 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 22:58:43
卑弥呼が九州人だったら
「明日あさってに台風の来るごたるけん、
稲刈りばはやめに終わらせとかんね」
とかいってたかも
732 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 22:59:26
倭寇とか村上水軍みたいな海賊とかがいたのかな?
733 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 23:30:18
なんかもう卑弥呼のイメージがばってん荒川で固まってきた・・・
734 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 01:34:01
>>696 それはいいすぎ。
倭人伝によると、戸数が一番多く、周りの国を従属させていたのが邪馬台国と卑弥呼なんだから。
ただ、おそらく当時の大和の勢力よりは弱かったかも。
735 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 07:24:45
>>730 >海上保安庁
程よい表現だと思います。ただ、その機関がどちらの機関なのかは、今後の課題ですが
736 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 07:57:13
私の考えとしては
その任に就いた人物は「難升米或は牛利」と考えます。
半島や倭の人々が行き交う海峡で、両方に睨みが効く存在は
王朝側から直接任官された人物と考えた方が自然かと思います。
難升米にしろ牛利にしろ、使者であるにもかかわらず王朝から「率善」の叙任を受けているのです。
その意味とは…
737 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:07:09
難升米=男王
738 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/29(木) 08:16:31
殺人事件等の犯罪捜査と一緒で
論理的に推理していかなくてはダメでしょう。
畿内説など卑弥呼と同時代の鏡や古墳がでてくるから
畿内が邪馬台国だと言ってますが、それって
殺人当日、犯人と同じ店で買い物して、同じ時刻に同じ喫茶店で
コーヒー飲んでたからおまえが犯人だと言ってるのと
一緒でめちゃくちゃです(下手な例えですいませんがw)。
とんでもない冤罪もいいとこです。殺人が行われたという
事実とその当時の状況を示す文章が倭人伝にあたるわけですし
これを否定したらまず殺人そのものが行われたことすら
否定することになるので、倭人伝をまず前提に推理しなくては
なりません。そこで息詰まったら他の手法に切り替えなくては・・
739 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 10:06:11
一大卒があるのが伊都というのがポイントではなかろうか
朝鮮からの敵ならマツロに軍をおくはず
そうじゃなくて伊都に在るということは
本州のほうにも人がいて攻めてくる可能性があったのかも
たぶん福岡か佐賀か熊本に軍をおいていたのでは
奇襲に備えられないということなのではないだろうか
740 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/29(木) 10:19:13
>>737ヒッキー君
>難升米=男王
それは違うのでは!
難升米=卑弥呼の「使者」であり、魏より叙任された「率善中郎将」でしょう。男王の認定は、それこそ
>>738に、なってしまいますよ
>>696 連合の首長に祭り上げられたのだから、実力者であることは間違いなし。
「実力」といっても、武力ではなくて「逆らうと呪い殺される」とかいうことかも知れないけど。
また、使節団を派遣するだけの「実力」もあったわけで。
>>700 先行する史書を大いに参考にしているのは事実だが、敷き写しではないことも事実。
>>718 それはある。
ただし、「当時の交通状況に照らして現実的」といえる範囲内であることは必須。
その辺も論点ですけどね。
>>736 連合の大立て者、少なくともぽっと出の小物ではないことは間違いないでしょうね。
746 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/09/30(金) 11:22:49
>>746 「郡」ということは「ありえない」でしょう。
748 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 06:43:44
749 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 09:00:41
公孫氏なので組合長になれた
>>748 邪馬台国連合の政治等の事情の説明の中に、特別な断りはなく書いてあるから、統治の主体は邪馬台国連合側でしかあり得ない。
>>748 郡が設置した機関なら、当然、首長は郡が任命したことになるから、その旨が明記されるのが当然。
また、郡が設置した機関なら、「使者」など送る筋合いはなくて、適宜、「郡の命令の伝達者」ないし「新しい首長」が送られたはず。
そういった事情を明示する部分がないどころか、伺わせるような記述も存在しないのだから、そういう支配関係は全く存在しなかった。
「非常に友好的な関係」が存在していたことは確かですが、それは「支配関係」とかではありえない と。
>>751 いるじゃありませんか!
女王国の人なのに魏王朝から職をもらった人が二人も
>>752 それなら、具体的な下命に基づくことになるから、なおさら「誰が誰をして設置せしむ」とか、明確に書くのでは?
>>753 仮に女王国側で設置したとしても、そこの長官は魏の役人ではないでしょうか
そのために、「(率)善中郎将・(率)善校尉」の叙任を使者に下したと考えます。
>>754 内実がどうであったのかはさておいて、だからこそ「郡に愚痴をこぼしに行く筋合い」があった、とか。
うーん、だけど、それにしては、全般に「辺境の未開国の出来事」らしすぎるような。
756 :
訂正:2005/10/03(月) 19:51:56
>>755 > 全般に「辺境の未開国の出来事」らしすぎるような。
> 全般に「魏とは無関係の辺境の未開国の余所事」らしすぎるような。
757 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 12:49:33
fd
758 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:30:33
卑弥呼はどうしてもバッテン荒川のイメージじゃないな、、
漏れの感覚では。
759 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:33:57
そもそもスサノオって九州で祀ってるか?
あれって出雲発祥だろう。
760 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:42:07
一番しっくりくるのは八幡=邪馬台国
これだと博多に一大卒置く理由も説明つく。
761 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 15:16:44
隈とは隅っこという意味だから西九州に隈の地名が沢山ある。
後に大和朝廷など中央の人がこの地の人を隈人とよび特に朝敵
背いたものを隈背(熊蘇)とよんだ。これとは別に熊トーテムだった
可能性もあるかもしれない。
狗奴国は奴国の隅っこにある国という意味で隈奴国という方が
正しいように感じる。
762 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/09(日) 17:45:09
>>761 >狗奴国は奴国の隅っこ………正しいように感じる。感じるのは自由だが
「狗」は(犬)ではないか?
中国側が東の外れにある蛮夷に対して、蔑む意味で「獣」の名前を付けたのでは
>>762 中国の史書における外国の固有名詞は、基本的に「発音の敷き写し」でしょう。
764 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/09(日) 21:31:27
>>763 では、その実例をあげて貰えないでしょうか?
三〜四世紀頃の中国史書と倭の地名でお願いします。
766 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 06:21:45
767 :
766:2005/10/10(月) 06:26:58
>>766 で貼り付けたリンクは
福岡県 前原市のあたりのヤフーの地図だけど、
この地図の中央の赤いマークのあたりに
日向があるのを確認してください。
768 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 07:36:43
>>766 それは単に、それっぽい地名引っ張り出してきてるだけだしな・・w
それにそのへんは伊邪国だろうから、まず7万戸を抱える
邪馬台国の候補としては考えにくい。
まあ、もちろん邪馬台国連邦の一員ではあるからその意味で
邪馬台国だわなw
まだ、佐賀の外れ、長崎とか鹿児島とかの方がしっくり来る。
769 :
766:2005/10/10(月) 07:50:39
>>邪馬台国の候補としては考えにくい。
じゃなくて、神武は邪馬台国の中心勢力ではなくて、
傍系の証拠なんだって。
もしかしたら、神武は邪馬台国連合の一員である伊邪国の王
であったのかもしれない。
日向が北九州であれ南九州であれ、いずれにしても
なぜ邪馬台国の中心地から出発していないのか、という
疑問に対する解釈としては、神武が傍系であったという
のが一番有力ということになってる。東征支持派では。
770 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 07:59:15
一般的には3世紀終盤に邪馬台国が東遷したから
銅鐸文化は廃れたと考えられてますが
僕は真実はその逆だったと考えています。
つまり畿内政権が邪馬台国を滅ぼしてから
銅鐸文化は消滅したと。三角縁神獣鏡も
畿内から大量出土し各地に配られてますし
邪馬台国の銅剣も持ち帰られたのでしょう。
ではなぜ畿内政権が邪馬台国の鏡や銅剣を
さも自分たちのものだというふうにしたのか?
771 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 07:59:50
それは1世紀後半〜2世紀前半にかけて
畿内に東遷してきた神武天皇が邪馬台国王家の者だったからでしょう。
しかし支流の落ちこぼれだったと思います。
その神武の子孫である畿内政権の王が邪馬台国を滅ぼした際
九州邪馬台国の存在を隠蔽し、自分たち(畿内政権)が
邪馬台国だというふうにすり替えが行われたのです。
それは記紀において神功皇后が卑弥呼であると
暗示してるところからも伺えます。つまり全く時代が異なると
わかっていながら卑弥呼は神功皇后である、つまり
畿内政権は邪馬台国であるとしているのです。
772 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 08:00:55
こう考えれば銅鐸文化が消滅した3世紀終盤に
邪馬台国が滅ぼされたことがわかります。
つまり壱与の時代にです。266年で中国への
朝貢がとまってしまった理由もこれで解けます。
そして記紀において邪馬台国の存在は隠蔽されているので
神武東征の出発点である日向もカモフラージュです。
日向は邪馬台国ではないということがわかります。
では邪馬台国はどこであったのか?
畿内政権が壱与を殺したとしたら壱与を祀る社があるはずです。
出雲大社の大国主や、中尊寺金色堂の奥州藤原氏のように
大国を治めていた王には怨霊を恐れて立派な社があります。
倭国30国の女王であった壱与にもそれがあるはずです。
これにあてはまるのは宇佐神宮しかありません。宇佐神宮の
比売大神が壱与です。宇佐神宮が伊勢神宮に次ぐ2番目の
格式を誇る宗廟なのも壱与が自分たちの本家である王であり
宇佐が自分たちの先祖の地だからです。
773 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 09:18:09
いずれにしても九州と関西は遠すぎるし文化雰囲気違い過ぎる。
しかし、畿内が日本の中核になるには、
関門海峡を制する事が絶対不可欠だったわけ。
関門海峡は瀬戸内に至唯一の無防備な
極めて狭い海峡でここを支配せずして畿内の未来はない。
そこで、九州の反主流派やら不満分子と
同盟結んだり、畿内周辺諸国と共同して九州の征服を共同作戦を企むという
程度のことはあったかもしれない。
晴れてこの地を征服した畿内人はここに九州支配の為の
軍事拠点を置いたのである。
そもそも瀬戸内、畿内での紀元前後からの対立の構図は
日本海沿いの新興勢力出雲と古来の土着勢力との衝突。
ここに、九州の弱小勢力がまともに入り込む余地があったか
甚だ疑問。
774 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 09:20:54
倭国大乱を鎮めるために、公孫氏の指導で共立した臨時の大王なので
実態があったのかどうか、疑問に思います。宮都だけなら小さすぎてさがせないのでは
775 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 09:37:30
神武天皇の東征出発点がなぜ日向なのかの点について。
これは、もともと神武軍が狗奴国征討軍だったからではないかなぁ。
書記によれば、日向は熊襲の居地とされている。
狗奴国が熊襲だったとすれば、神武天皇は狗奴国本拠から
出発したことになる。
しかし、天皇家のルーツが狗奴国だったとは思えない。
というのも、まだ古代の記憶が消えてないと思える頃に
何度も大和朝廷は何度も熊襲討伐をしているから。
仲哀天皇や景行天皇とか。仲哀天皇は戦死しているし。
となれば、神武軍はもともと狗奴国征討軍だったと考える
のが合理的かと思う。
776 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 10:00:23
>>775 ヒッキー君、いや失礼 名無しさん
そもそも
狗奴=熊襲とする根拠は?
777 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 10:07:22
777ゲットしました。
778 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 11:29:04
>>770 >一般的には3世紀終盤に邪馬台国が東遷したから
いまどき邪馬台国が東遷したなんて考えてるやつはいないだろ?
よほどのド素人か。お花畑かだ。
ヒッキー君なんで名無しにしたん?コテハンのがいいのに
780 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:11:10
>>778 邪馬台国東遷説を信じてる人は大勢いますよ。
井沢元彦氏や黒岩重吾氏等著名な推理作家や
産能大学教授の安本美典氏や歴史作家の関裕二も
支持しています。
782 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:19:13
ちなみに私も16歳中卒ヒッキー氏と
同じ意見です。大和朝廷による邪馬台国隠蔽説を
支持しております。実に斬新な説であり
魅力的であります。このような説を唱えてる方は
他にいないのではないでしょうか?
783 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 12:23:54
邪馬台国東遷というか、邪馬台国の主流を大きく外れた
神武天皇(かそれに相当する人物)が東遷したというのが、おおむね定説だろ。
だいたい、そうでないと記紀の古代の話の舞台がなぜ九州
なのか、なぜ三種の神器などという九州王権のシンボルを
天皇家が持っているのかの説明ができないじゃないか。
ただ、神武の東遷が事実の反映としても、
邪馬台国王家と血縁関係は極めて薄いかまったくないのはほぼ確実だから、
それをもって邪馬台国の東遷と言っていいのかどうか。
邪馬台国傍系の東遷とでも言わないといけないんじゃないかな。
問題は、東遷後、取り残された邪馬台国はどうなったかということかな。
いわゆる九州王朝として存続したという考えもあるかと思うが、どうだろ。
784 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:30:43
>>783 ようやく私の支持者が現れましたねw
そうですよ。神武は邪馬台国の落ちこぼれです。
取り残された邪馬台国は神武が作った畿内王朝に
滅ぼされ、その存在は隠蔽されております。
まぁ北部九州連合の一派があるいは近畿の一部勢力と同盟して
東遷したって感じですかね
786 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:37:08
>>785 自営ヒッキー氏
兄様と呼ばせてくださいw
僕も似たような考えであります。
787 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:39:09
邪馬台国のその後がどうなったかということについて
ですが、ここで井沢元彦氏ご自慢の怨霊信仰を使うのです。
井沢氏の説はほとんど電波で使い物になりませんが
怨霊信仰だけは支持します。大和朝廷が邪馬台国を
滅ぼしたのはほぼ確実です。だとしたら邪馬台国王を祀る
廟があるはずですよ。
前方後円墳文化は、北部九州と無関係に成立しうる。
しかし、北部九州は、吉備や阿讃との協力無しに畿内に古墳文化を築くことはできない。
>>787 >邪馬台国王を祀る廟があるはず
それが宇佐だと言いたい訳ね。
790 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 12:59:41
いやあ、サガミハラさんじゃありませんが
本でも出しましょうかね。邪馬台国の謎解いたり。
邪馬台国隠蔽説、実に面白みがあります。
サガミハラさんの小城説などより数倍ましですw
791 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:04:06
近畿系はむしろ出雲を神聖視してるように見える。
近畿は元々九州とは全く違う出雲系の
文化圏で後、一部九州系も入っているかもしれないが、
邪馬台国以降常に九州征伐に出かけているとこみると
元々両者の仲は悪いだろ。
畿内大和は九州の豪族に9世紀ころまで自治権を与えているように
思うので、完全な支配は10世紀以降か。
792 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:07:00
ハッキリいうと、近畿と九州はぜーんぜんち・が・う
793 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 13:10:04
邪馬台国隠蔽説で
邪馬台国の場所も畿内政権とのかかわり方も
すべて氷解したじゃありませんか。
めでたしめでたし。反論もないようですし
皆様納得されてる模様で何より。
794 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:13:42
26歳大卒ヒッキーよ
十年経って戻って来るのはかまわんが
まだ童貞だろう。キモイぞ実際の年齢は解らんが
やることが幼稚杉
795 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 13:17:39
僕は26歳ですよ。
16歳君とは別人です。
意見はほぼ一緒ですが。
796 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 13:22:06
>>790 ヒッキー君
自分の本を出すのは自由だが、そこにサガミ氏を引き合いに出すことはないだろう。
短い期間でも
それなりに意見交換をした住人ではないか
見損なったよ
だからヒッキーなんだね
797 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 13:23:40
意見交換などした覚えはありません。
したのは16歳氏でしょう。僕は26歳、
今日デビューしたばかりです
798 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 13:31:12
邪馬台国の謎は解けたし
次は義経伝説でもやりますかな
799 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:37:01
九州倭の中心はずっと奴国だっただろ、これを苦々しく
持っていた人や国もあっただろう、いつか奴国をギャフンと言わせて
やると、このなかで邪馬台国というのが台頭してきた
彼らはどうしてここまで大きくなったのか、小国家を統合したかもしれないし
九州以外の別の勢力の後ろ盾があったかもしれない。
近畿と異なり九州は統合が難しい地域性がある、一丘越えると方言が
違う、国が違う地域、だから内乱は長引いた、このような人たちの
極少数の人が近畿のような巨大で同質性の高い地域を支配するのは
不可能に近いだろう。
800 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:39:37
801 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:40:50
つーか、
もともと、神武は邪馬台国の中心勢力ではなかったというのは、
もっとも有力な説だよ。古田氏や安本氏もそうだし。
802 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:44:13
当たり前だろ、記紀みても神武は
邪馬台国が登場するずっと前の話だし
803 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 13:45:29
だからそう言ってるでしょw
神武は邪馬台国の傍流。
記紀で邪馬台国の存在が隠蔽されており
邪馬台国は畿内王朝に滅ぼされ、黙殺されております。
804 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 13:51:45
ではこれを2ch内では定説とします。
異論はございませんね?
805 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:53:48
漏れは邪馬台国は畿内と同盟結んでいたからこそ
巨大化したと思っております。
しかし、磐井の乱の頃には、九州全体が一丸となって大和に抵抗しているのを
みるとこのころ迄に畿内大和と邪馬台国系の国が仲違いしたので
あろうと考えている。
806 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 13:55:01
>>800さんそうですね
そうであってほしいです。じゃ無いと
あまりにも悲しすぎます。26歳の彼も結果を出した様だし、今度は「成吉思汗の秘密」に移るみたいだしスレを戻しましょうか
807 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 13:55:46
>>803 だから、特段に新味のある点はなし、と言ってるんだって。
つまり価値なしということ。
808 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 13:58:39
新味なしですかw
まあ邪馬台国論争などもう何百年も
続いてますし今更新味の出る説などでてこないのでは?
もう出尽くされてるでしょ。その中のどれかに
真実があるはず。
809 :
26歳大卒ヒッキー ◆wWCooN6if6 :2005/10/10(月) 14:05:51
みなさんレスつけるのが遅くて
眠くなってきました。他の板もみながら
やってますがだるいです。ネトゲーでもして
バイト行きます。ノシ
810 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:08:07
邪馬台国が小城であるかともかく。
漏れはサガミさんの説も無視はできないと考えているよ
小城も邪馬台国連合であっただろうから、卑弥呼や
他の誰かの遺物があっても別におかしくはない。
何より、サガミさんはいい人だし、熱意があるし、
邪馬台国の研究や関連する知識についても漏れの数段上だし
人生についても先輩。
一般的な説の受け売りをしてるヤシが批判する資格ないと思うな。
811 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:11:34
812 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 14:21:12
ようするに
ヒッキーの彼は大の高木ファンで、自分と天才神津恭介をダブらせ主人公に成りたいんだろう。
813 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 14:29:47
この自称26歳ヒッキーは16歳ヒッキーとは別人だろ、
言ってる事が違うもん、一々指摘するのめんどいのでしなけど
814 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 14:50:28
>>799さん
>畿内と違い九州は統合しずらい
そうですね、
以前よそスレにてカキコしましたが、地勢的(河川の特性)に難しい地域と考えます。
独立性の強い九州と集団性のとりやすい畿内地域と
区分することが出来るのでは
河川だけを見れば
九州、中国地方などが独立性の強い地域で
畿内、中京、等は集団性の強い地域と分ける事が出来るのでは
ま、
おおざっぱですが
815 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 15:30:41
>>808 だってさ、神武は邪馬台国の傍系というのは、古田氏や安本氏が
とっくに唱えていることだし、(その後の邪馬台国の運命は二人で全然違うけど)
邪馬台国の滅亡が封印されてるというのの元ネタは、
たとえば、このHPあたりかもしれない。
記紀には、なぜ卑弥呼の名がないのか
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai07.html この人の場合は、邪馬台国は大和地方でそれが九州から来た
神武に乗っ取られたというものらしいが。
こういうものの、思いつきによる組み合わせでしょ?
天皇家のルーツが九州にあるというのは、記紀の記載や
三種の神器から明らか。しかし、それは邪馬台国・卑弥呼の時代の
前なのか後なのか、ということかな。
いまや、考古学的には大和地方の古墳の始まりは、3世紀どころか
2世紀後半ぐらいまで遡ってしまっている。
一方、記紀にもあるとおり、神武東征の際、大和の地を支配していたのは、
九州出身であることを示す天孫族だった。
唐子遺跡や銅鐸が捨てられたのは、2世紀後半くらい。直後には
巻向遺跡が繁栄する。
卑弥呼が死んだのは3世紀半ばの248年とされている。
さらには、卑弥呼という人も多い箸墓の主・モモソ姫の記述はおかしい。
一国を支配した女王の記述とは思えない。仮に本当に卑弥呼だとすれば、
これは、大和朝廷と卑弥呼にただならぬ関係があることを示しているのでは?
こういった事実をどうまとめる???
>>799 普通考えればその通りだね。
九州に邪馬台国があっても、畿内から攻められれば、各個撃破されて終わり。
まして、九州勢力が畿内に攻め込むなどできねえだろ。
>>815 まあ、もちつけ。
おまいは考えすぎなんだよ。
卑弥呼の名前が無いからといって、封印は無いだろう。
「ヒメミコ」の略(役職名)かも知れないしな。
それなら、候補者はいくらでも考えられるだろ。
818 :
26sai :2005/10/10(月) 15:54:59
やはり選択肢が限られるため
僕と同じような思考回路の人が何人か前にいたようですねw
まあ当然か。発掘が進まない以上空想でしかないし
どの説をとるかあ人それぞれですね。
そういえば大伴氏や物部氏などの豪族の発祥地が九州らしいって話もありますね
>>819 九州かどうかは確定じゃないが、大和が本拠じゃないことは間違いない。
821 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 16:55:55
822 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 17:22:09
>>821 大伴氏は、記紀によれば、
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫。
高天原が九州という仮定を持ち出さずとも、よほど古くから天皇家に
したがっていたのであろうと考えられ、天皇家のルーツが
九州なのは確実なので、九州の出自と考えていいのでは。
823 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 17:43:09
五百年前の徳川家の出自すらはっきりしないのに
二千年前の天皇の出自を九州と?
824 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 17:53:13
>>823 学会の定説じゃん。
そうでないというなら、記紀の記載や三種の神器はどう説明するの?
仮に邪馬台国が大和地方にあったとしても、天皇家の究極のルーツは
九州というのは、おおかたの同意を得てるでしょ。
反対するなら、根拠を示してほしい。
825 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 18:17:29
>>824 記紀編纂の疑問は
今まで散々カキコしてきたから省略しますが
定説なら仕方ないね
826 :
開国派:2005/10/10(月) 18:17:46
>>824 定説であろうが仮説に過ぎない
実際に発掘で定説という名の仮説を裏ずける物でも出たのかよw
三種の神器は九州とは関係ないな。
828 :
開国派:2005/10/10(月) 18:19:52
邪馬台国が九州かどうかは
まずは卑弥呼の墓と 邪馬台国の後を発掘してからにしてもらいたいな
雰囲気と思い込みだけで歴史を捏造するなんて
朝鮮神じゃあるまいし
829 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 18:34:17
>>826開国派さん
彼等から(定説)の二文字を奪ってはいけないよ
定説は三ツ葉葵の御紋
とりあえず(定説)が出たら 逆らわないのがお約束
「三種」の神器
鏡・・・漢鏡を中心とした大型白銅鏡、平原出土の大型鏡が有名。
剣・・・北部九州を中心にして威信材として普及しているが出雲などでも信仰の対象となっている。
玉・・・勾玉、古来より装飾品として各地に流通、朝鮮半島にもある。
831 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 18:39:18
>>829 茶化すなら、出てくるなよ。
何様のつもりだ!
832 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 18:40:47
>>830 おい、そのプラムとかいう阿呆に付き合うのは止めとけ。
こいつとは議論にならん。
三種の神器の起源について、ちゃんと知ってるか?
鏡→天照の岩戸隠れ→伊勢神宮
勾玉→丹波→石上神宮
剣→出雲→尾張→熱田神宮
>>833 三種のセットがいつ頃成立したのか?
そんな8世紀に成立したような話を持ち出しても関係ないだろう。
835 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 18:58:48
>>832 議論にならないのはどっちだよ
(三種宝物)が最初に出てくるのが古事記(八世紀)だよ それと天皇のルーツを一緒に語られて「定説」が出て来たら どんな議論をすればいいのかね
各地から王墓クラスから出土する
鏡と剣と玉のセットと天皇の印である三種神器では意味が違い過ぎ
片方は死者に与える宝物で片方は決して埋葬しない宝物だよ
836 :
開国派:2005/10/10(月) 19:01:59
まずは物出せや!
物がなくてもいのなら俺は 邪馬台国 ムー大陸説を
主張するwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
837 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 19:02:19
三種の神器は「剣」「鏡」「玉」である。
これらは九州の特に北九州の弥生墳墓および畿内の古墳から出土する。
つまり、ルーツは九州。
もう、いいからプラム、お前は消えろ。
お前とは議論にならん。
>>838 総合すると、出雲が中心地だな。
オオクニヌシがルーツだろう。
840 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 19:10:01
で、神話の問題はどう解釈するんだ?
天皇のルーツは大和地方にあったとしよう。
ならばなぜ、記紀の神話は九州が舞台となっているのか?
津田左右吉氏いわく、作り話だからw
そのレベルか? どうなんだ。
841 :
あぽ〜:2005/10/10(月) 19:13:53
とりあえず、ここでは九州前提で騙れや。
842 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 19:16:22
>>837 それは鏡、剣、玉という動産だろう
それも、死者と一緒に埋葬する。
天皇家のルーツとは関係ないだろう
843 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 19:22:50
>>842 で、お前の理屈によれば、
三種の神器のルーツはどうなるのよ。
語ってみろや、このアホウ。
どうせムー大陸なんだろ。笑わないから、正直に言えよ。
844 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 19:34:12
しかし、弥生墳墓から出る鏡、剣、玉の3点セットと
三種の神器はまったく無関係とすると、
この三種のセットの内容が一致するのは
まったくの偶然ということなんだろうな。
すごいね。
845 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 19:36:37
三種宝物のルーツは古事記鏡、剣、玉を死者と共に埋葬したのは北部九州
何様か知らんが
人をアホウ呼ばわりかい
日本人が仏教式で葬式したからといって、インドに征服されたわけではない。
様式を受け入れただけ。
九州には邪馬台国があった。
畿内には大和朝廷が興った。
神武は、邪馬台国以前に九州から追い出された人。
それで何の問題も無い。
848 :
あぽ〜:2005/10/10(月) 19:46:20
鏡も剣も九州以外でも出るんだから「決め手」じゃないよ。
三種の神器の人は、他の論拠もだしてくりゃれ。
849 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 19:47:46
>>845 >三種宝物のルーツは古事記鏡、剣、玉を死者と共に埋葬したのは北部九州
なによ、その答え。九州とは関係ないんだろう?
てめえがいったことだろうが。
それより、
記紀の神話の舞台が九州なのはなぜよ。
記紀の編集者の世迷いごとか?
アホウ呼ばわりは、てめえが先だろうが。
それも忘れたか、このアホウ。
850 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:01:34
>>847 >九州には邪馬台国があった。
>畿内には大和朝廷が興った。
>神武は、邪馬台国以前に九州から追い出された人。
大筋、俺も近いんだがな、少し違うが、
あのプラムというヤツは、人の揚げ足とるだけらしくて、
むかつくやろうで、議論にもなにもならん。
あと、記紀によれば、神武東征時に大和地方を治めていたのは
天孫族(九州勢力)。つまり、九州対大和とは九州勢同士の
衝突でもあったというのは、やはり事実の反映だと思えるなぁ。
(でなければ、そんなことを記載する理由がない)
あと、神武はやはり卑弥呼の後の人と思う。
851 :
あぽ〜:2005/10/10(月) 20:06:26
現代北部九州でも遠賀川流域は、博多湾・糸島地方より渡来系の遺伝子が多いらしい。
九州といっても一つではない。
て、言うか全くことなる勢力が割拠していたようにもも見える。
>>850 >あと、神武はやはり卑弥呼の後の人と思う。
それはない。
3世紀から、畿内では古墳が造られ始めている。
853 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:15:40
あと、プラムの野郎に一言いっとくが、
俺が定説だろと言ったのは、件の説が
井上光貞氏の「日本の歴史 神話から歴史へ」でも
採用されてる説だからだ。
津田氏の流れも引く同氏のこの著作は、いい意味でも悪い意味でも
現在の古代史論の礎になっている。
それに採用されてる説を否定するのなら、
否定する側が論拠を示すべきだろうということ。
アホウにはいうべき言葉もないので、これまでとする。
854 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 20:33:22
>>853 それだけ?
何時、定説を否定した?
疑問点を指摘しただけだろう。
名無しは困るとすぐ罵倒かよ
九州北部で神譜でも出土すれば白旗用意するけどね
各地の神和を利用することにより、その時代から天皇家の影響が及んでいた事を示す為
九州は特に輝いて見えたのでは 記紀編纂に卑田阿礼を担当させた辺りにもその謎があるのでは
855 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:41:59
>>854 お前、自分でなに書いてるのか分ってるのか?
>各地の神和を利用することにより、その時代から天皇家の影響が及んでいた事を示す為
>九州は特に輝いて見えたのでは 記紀編纂に卑田阿礼を担当させた辺りにもその謎があるのでは
これが一体なんの論拠になってるのよ。
議論の仕方もしらんのか。
論拠というのは、根拠をあげることをいうんだ。
だからアホウというんだ。
もうお前とは議論はせん。あばよ。
856 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 20:58:09
>あばよ
はじめから来るなよ
857 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 21:04:12
>>855 なんだかんだ文句言ってる割には、
結構楽しんでいるじゃない素直じゃ無いんだから
居るよ!PTAの集まり行くと
一人位は必ず
858 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/10(月) 22:57:41
簡単に言えば
中華王朝が宗主国として朝貢交易を行ってきた
九州(倭)とは、別な系統であることを強調し
新に対等的立場で付き合いを運びたかった
その裏付けとして 日本書紀は漢文で書かれている
859 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 23:14:22
>>858 あのう、その割には書紀には卑弥呼は神功皇后であると
かかれてますよね?
860 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 23:26:01
>>852 >>あと、神武はやはり卑弥呼の後の人と思う。
>それはない。
>3世紀から、畿内では古墳が造られ始めている。
僕自身はそう思ってませんが、邪馬台国は大和地方にあり、
九州から来た神武に滅ぼされたという考えもありますよね。
神武に対峙した大和の天孫族ニギハヤヒが邪馬台国の一族という
ことになるんでしょう。
僕自身は、卑弥呼はあくまで九州の人と思っていて、
神武はその後継で東征した。しかし、その前に九州一族が
大和を支配しており、九州勢同士が大和で衝突。
大和側は、記紀の記載どおり元九州勢と大和勢が仲間割れし、
兵力的には劣勢だった神武の勝利となったという
ことではないかなと思っています。
神武は290年ごろの人。しかし、神武の前に東征した九州勢の
移動年代は180年ごろと思います。
>>860 九州勢が大和を支配って、どうやってするんだよ?
兵力は何人だ?
その兵力が九州からいなくなって、九州は大丈夫なのか?
いきなり、畿内の人工が増えたら、食料はどうするんだ?
はたまた、吉備や近江や尾張や美濃の軍勢が、簡単に九州勢の味方につくのか?
もっと畿内の情勢というものを考えたらどうかな?
862 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 00:12:18
>>861 神武の東征が統計年代法の推定どおり290年ごろとして、
しかし、唐古遺跡や銅鐸の破棄はその100年ほど前の2世紀後半に起こっている。
纏向は直後に栄えたが、これは計画都市と言っていいものと聞いている。
だから神武より前の東征がこのとき(180年頃)起こったのではないかと僕は思っている。
記紀にも、ずばり神武東征時、実はすでに九州勢力が大和を治めていた
と書いてあるわけだが、僕はもしこれが事実でないというのなら、
なぜこんなことを書くのか理解できないと思う。
それに290年頃は、すでに大和の方が兵力的に優勢だった可能性が高く、
記紀にもあるとおり、大和側の元九州勢と大和勢力の内部分裂でもないと
勝つのは難しいと感じるな…。
>>862 ニギハヤヒの東征が180年で、そのときに銅鐸が終了したというわけか。
そのころ、大和はただの湿地帯だったろうから、敵も少なく、
少数の民族移動でも、定住は可能だろうな。
次に290年に神武東征があったわけか。
これは、日本書紀にあるとおり、
同族とみなして溶け込むことができたんだろう。
泥沼の内部分裂まで想定しなくてもいいだろうな。
しかしだ。ひとつ問題があるぞ?
ニギハヤヒやヒコホホデミが訪れたという伝説のある神社がある。
籠神社だ。
籠神社は、大和ではなく、若狭湾側にある。
大和には、ニギハヤヒやヒコホホデミを祀るような神社は無い。
さて、どうする?
864 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 01:22:24
>>863 うーむ、その議論に付き合っていると、
結局、ヤマトトトソモモソ姫が卑弥呼であるという
ところまでつき合わされそうですねw
が、僕はあくまで神話は事実の核を伝えているのみで、
細部にこだわってもしょうがないと思ってますし、
邪馬台国は九州であり、神武は卑弥呼より5代後と考えてます。
というのも、王の系譜は帝記のコアの部分であり、
これを疑うには論拠が必要であると思うからです。
ニギハヤヒに関しては、物部氏の祖ともされていますが、
物部氏か同種の氏族全体の歴史を仮託された存在でしょうから、
物部の有力者がそのあたりに居を構えたことがある
くらいの理解でいいのではないかと思いますけどね。
もちろん、納得しないとは思いますけどw
865 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 02:24:42
松本、西川とか近畿に多い名前は豊国地域に多いよ。
勝本とかの苗字も関東の方か、それから、藤原系は藤田さんと佐藤さんが
九州地域にも多少いるが、他の藤原性はほとんど聞かない。
旧奴国地域の博多は楢崎とか近畿や本州では
殆ど見られないそういう特徴のある名前が多い。
物部の裔、児玉や鈴木に至っては本場は本州の方だろう。
そういう面でみても博多近辺以南の人間が近畿や本州の
主流のなったってのは想像できないし考えにくい。
事実10世紀頃まで両者は対立してるじゃんか。
正直、水と油の仲だよ。近畿に九州の中核が移ったというのは
まず考えられない。
866 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 02:40:14
物部に関してニギハヤヒの裔だとすれば九州系だろうが
熊野だとすると出雲系だもんね。
出雲とニギハヤヒはルーツが違うもんね。
どっかで異なる話が融合しちゃったのかしら
867 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 04:11:17
おれも近畿に行った別の一派が大和朝廷になったのはありえると思う
でも問題は畿内に九州と同じ地名があること
九州の勢力を攻め滅ぼしてもとある地名に
あとからもう一回名前つけるのはメンドクサイだろうから
最初に行ったときに名前つけたはず
問題はその付けた理由でただ利便性から付けたっつーのと
もうひとつは懐かしくて付けたっていうのがあると思う
もし懐かしくて付けたとすれば畿内に行った民族は
故郷を離れたくなかった筈そうだとすると故郷を追われたということになる
なので同じ邪馬台国の一派か他の民族に
追われて畿内に逃げたんじゃないだろうか
ヨーロッパの民族大移動みたいに
868 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 05:49:53
ガヤとかの地名はセタガヤ関東の方か、これはウガヤのガヤとも関係ありそう。
近畿と九州は全くの別種、遠すぎる、苗字も方言も違う。
ただ、一部地名の一致がみられる。しかし、これは
何も畿内と九州に限ったことではないという。
869 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 05:54:57
安本のような京都の長(朝)顔少ない、短い顔多し。
870 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 06:17:21
京都は新興都市、九州と関係あったとすれば畿内でも
瀬戸内海沿いの地域だろう。京都が出来た頃は九州と畿内は
より疎遠。
871 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 08:20:12
なんにせよ壱与が祀られている
宇佐神宮がある宇佐が邪馬台国だよ。
872 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 08:35:17
神武東征が成功した理由は
1世紀当時における九州の優位性が挙げられる。
九州の貴重な技術を東に教えていくことで
信頼を勝ち得て奈良で即位したのだろう。
873 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 08:53:20
宇佐が渡来人が居住していた最も開けた地だったことからも
ここが邪馬台国だと分かる。神武による東邦への技術伝播は
宇佐の渡来人を若干ながら連れて行ったのだろう。
東征においてさしたる大規模な戦いもなく
ニギハヤヒもあっさり神武に恭順してるのは
神武一族の技術水準の優位性があったと考えられる。
874 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 08:54:09
籠ちゃんの、かごですか、
875 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 09:59:34
しかし、宇佐は大和朝廷の
隼人征伐の対象にされた地域でもあるわけよ。
それから、今日全国ニュースでしったが志賀島の速太鼓祭りで
2千年前に能古の島の近く志賀島から石川県の志賀町に移り住んだという
人が観光に訪れていました。イザナギ
やはり二千年前でも何らかの記憶ってものは地元民には
必ずあるものですね。
876 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 11:54:22
隼人征伐の地域も何も関係ないですよ。
だって大和朝廷は邪馬台国の存在を
黙殺しようとしてるんですし。
しかし壱与を殺してしまったので祟りは
恐ろしいので宇佐神宮に祀ってあります。
宇佐神宮は、八幡の神で、秦氏の祭っていた渡来系の神社だよ。
比売大神は、ひとりの神ではなく、三神の象徴。
宗像三神と起源が同じで、渡来系の海上交通安全の神。
宇佐が邪馬台国というのは、卑弥呼が朝鮮人だと言ってるのと同じだ。
878 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 12:48:03
卑弥呼は京都郡行橋町の稗田さんだよ。
日枝さんもその子孫かな。
879 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:07:40
>宇佐が邪馬台国というのは、卑弥呼が朝鮮人だと言ってるのと同じだ。
そのとおりでしょう。それが何か問題でも?
卑弥呼の鬼道は道教ですし卑弥呼一族は渡来人ですよ
8世紀に魏志倭人伝を読んだ人は、
邪馬台国は大和のことだと疑わなかっただろうな。
881 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:21:00
それは違うね。
自分たちが中国に朝貢したなんて
屈辱的なことを受け入れたくはなかっただろう。
それにも関わらず自分たちが邪馬台国だと書いた。
つまりそこまでして邪馬台国の存在は
隠したかったんだよ。
>>881 なにそれ?
いってることがおかしいやん。
「邪馬台国は、大和朝廷が滅ぼしました」って書けばいいだけだろ。
ばかでつか?
883 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:29:13
>>882 わかってないなw
邪馬台国は神武の出身地だから
そこを滅ぼしたと書けるわけがないだろ。
884 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:32:42
バカアホのののしりあいはしないように、がんばろう
885 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:36:20
つまり記紀で大和朝廷が邪馬台国だとぼかして書いてあるところから
推察するに、神武は邪馬台国の傍流で畿内に東遷。
そしてのちに畿内政権が邪馬台国を滅ぼし、
自分たちが邪馬台国だということにしたのさ。
886 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:38:47
そして邪馬台国を滅ぼしたときに
持ち帰った魏の鏡を自分たちの王の墓に埋めたり
配ったり、銅鐸文化を改め、邪馬台国の銅剣文化を
取り入れ、銅鐸文化を記紀から抹消した。
887 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:43:20
邪馬台国を滅ぼし存在を消し
実は自分たちが邪馬台国だというふうにしたのさ。
だから倭人伝の記述と考古学的見地との間にずれが生じる。
888 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 13:47:43
完璧だ、邪馬台国の謎を解いてしまった。
次はエジプトのピラミッドの謎にでも挑もう
889 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:13:30
だいたいそんな感じかもね、でも完璧じゃないと思う。
神武は日向からきたとなってる、そしてそこに古墳が
集中している。だから、神武はやぱり邪馬台国とは
違う。
890 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:15:29
日向と大和の文化的共通点、そして隼人と大和との関係
まだまだ謎だらけ。
891 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:19:10
記紀では邪馬台国の存在を隠蔽してるんだし
神武の出生地とされてる日向も嘘に決まってるだろ。
よく考えてからカキコしてくれよw
日向はおそらく投馬国だよ。邪馬台国とは姉妹国。
邪馬台国は宇佐だけど、宇佐だと書いたらまずいんで
日向にしたのだろう。
892 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:24:23
宇佐の地に応神の霊が現れたから
応神を祀る宇佐神宮が建立されたらしいが
宇佐が応神に関係してなければ一笑に付されるだけ。
北陸や東北に応神の霊が現れたとしても
なぜそのようなとこに?デマもたいがいにせいと
みんな思うだろうが、応神のゆかりの地に現れたとなれば
もしやと思うだろう。
893 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:29:31
もしくは考えられるのは
邪馬台国が移動した可能性。
大陸や畿内との交易の関係で
日向では遠いので宇佐に移動したんだろう。
894 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:36:20
難しいな。
これ以上はマジで妄想の領域になってしまうからやめよう。
895 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 14:38:17
日向は邪馬台国の前に近畿に移ったと思うけどな、
実際、初期古墳群の共通点やら都城、西都という地名からも
それが伺える。
九州から畿内には志賀島の集団、日向の集団、豊国の集団
という順序で移り住んだように思う。
そして大和の王と直接関係があるのが日向。
しかしその後豊国と同盟的な関係をもち、豊国出身の人が
朝廷に厚遇される。
仏教も神社も宇佐、出雲を起点にして始まっているようである
896 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 20:13:58
897 :
妄想中:2005/10/11(火) 23:12:53
政権を取った物が、その都度自分用に書き換えてるので、今となっては解明が
難しすぎる、白木人も、名門の百済人と言ったほうが、有利だったので
898 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:03:32
九州から畿内への政治的な変化があったのは多くの学者が認めるとこだ。
畿内など本州での祭具であった銅鐸がある時期を境に失われ
変って剣や勾玉のような九州の祭具が本州に広がっているのだからな
一部地域で銅鐸と銅剣が発見されて銅鐸文化圏説も怪しくなったといってもそれには変りない
899 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:10:20
投馬国=日向 が元邪馬台国。
人口も2番目に多いしここが旧首都だった
可能性が高い。卑弥呼・壱与の時代の
邪馬台国はおそらく宇佐。大陸との接触に
日向では遠いので宇佐に遷都した。
900 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:11:09
しかし、九州のどこの誰が近畿の政権を掌握したかだな、
その子孫は誰という話しが重要になってくる。
九州出身と言われているのは対馬の藤原くらいじゃないの?
物部なんかは関東の鈴木・児玉だし。出雲系か
畠氏、蘇我氏にいたっては渡来系だからな。。
901 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:13:24
投馬国は邪馬台国の姉妹国。
名前に同じ「馬」が入ってるし
倭人伝にも邪馬台国と並列表記されてるし
間違いない。「投」の字からもわかるように、
おそらく旧首都だから投げ捨てられたと
いう意味があるのだろう。
902 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 13:15:33
葛城さんは桂さんし
903 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 16:53:22
大和の豪族で、九州を故地とするのはいない。
よって、東征はありえません。
神武が一人で来たとでも?
904 :
妄想中:2005/10/12(水) 16:57:21
奈良の都には、讃岐とか地方の国名の町名があるそうで、どちらが先かと言えば
わからないけど、仁和寺みたいに京都が本部で寝屋川が出先なので、参考にして
905 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 17:24:07
>>900 初期の大和朝廷は畿内の有力豪族の集合体に過ぎず。大王もその上につま先立ちしているような状況だった。
徳川幕府の例を見ればわかるように動乱の時代に勝ち進んだ結果できた統一国家であれば、このような王権は存在するはずがなく
大和朝廷は畿内の政権の妥協の産物だったのだろう。
九州の勢力が畿内に入ったときに畿内勢力はもちろん当初は強硬に対立したが、やがて対抗するのに疲れたか
それとも別の理由があるかわからんが、戦いを放棄して九州勢力を受け入れたのだろう。
その結果、九州からの豪族と畿内の豪族の連合体による王権が成立した。
初期の大和朝廷の成立はそんなものだと推測しているけどね。もっともその大和朝廷が現天皇家に連なる政権かどうかは異論もあるだろうが
906 :
平四郎:2005/10/12(水) 17:40:13
藻れは大和本拠をもつ勢力は狗奴国だと思うし、日本書紀に見える熊襲
が邪馬台国ではないか
907 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 18:02:13
>>905 >戦いを放棄して九州勢力を受け入れたのだろう。
戦いを放棄した根拠を書かないと証明にならんだろう。
何度言えばわかるんだチキン野郎め。
九州の一地方政権が畿内に来ても大和連合には勝てない。
畿内勢力が、九州討伐したんだよ。
908 :
平四郎:2005/10/12(水) 18:35:12
熊襲「芸能本創作説」
景行天皇の熊襲征討の話は、ヤマトタケ伝説を下敷きにした創作である可能性が高い
女装し、熊襲の首長を倒す話も伝説っぽいし
熊襲という穢れた部族を、タケが神の力で女性に化け首長を倒し、穢を祓うという
後世的な芸能の台本から創作されたとする説
909 :
平四郎:2005/10/12(水) 19:09:34
後世的と言えば
神功皇后が熊襲討伐の途中、三韓遠征するようにとの神託を受ける話も後世的
七世紀頃大和朝廷の勢力が南九州に及んだおりに朝廷の遠征を、正当化するために
熊襲征討の伝説が幾つか創られた可能性が
邪馬台国を熊襲に置き換え朝廷の九州進出を侵略ではないものとしたかったんだろう
邪馬台国は滅んだわけではなく266年の朝貢を最後に、南へ追い込まれていった
910 :
妄想中:2005/10/12(水) 21:02:36
大王の力はつよく、さからった物は、9族までが首をはねられた、ので
小泉は手ぬるい
911 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:31:03
>>907 あのですね。あの時代のことをちゃんとした根拠を示せるわけがないでしょうが。
なぜなら中国と違って歴史書がないからです。
そうである以上は発掘された遺物や神話などあの時代のことを投影したと考えられるものから推測するしかない
実際、考古学者の説を聞いてもみんなそんなもんだ
912 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 00:35:45
>>911 考古学的に、九州勢力を受け入れた証拠は無い。
913 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 01:25:39
上の倭国は滅亡したを受けて
はくすきのえの戦いで本家の邪馬台国が滅びたか
またはその邪馬台国自体が戦勝国の韓国から逃げるために
王様がいない状態で東に移動した
って言うのは時代的に考えられる?
914 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 03:20:02
戦勝国の新羅は、唐に対して猛烈に戦って勝ちまくっているから、
むしろ唐は倭人に対して、ある意味やや友好的な支配を狙うしかなく、
かといって新羅は日本列島にまで攻めてくる様子はまったく無く、
邪馬台国が九州から逃亡するとすれば、唐の柔らかな支配からも
逃げたい人だけであったといえる→天武のような人。
915 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 06:49:53
天武は濃尾のアマ族なことは間違いないだろう
九州にアマ族なんてのは居ないし
916 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 09:45:57
>>913 白村江の戦いに先立つこと筑紫の豪族磐井の反乱があった。
磐井の墓は九州最大級の前方後円墳であり、一年に渡って大和朝廷と戦ったとこを見れば、それこそ大和朝廷でも一目置かざろう得ない
西国の一大勢力だったのだろう。
九州にそれだけの勢力があったということは、江戸時代の外様大名同様に大和朝廷に後から帰順した勢力でないかと考えられる。
神武の東征があったことを仮定しての話だが、神武が東征を始めた理由を考えれば、九州には容易に落とせない勢力が早くから存在していたので東への勢力拡大を図ったか。
あるいは九州での勢力争いに破れ東に逃れたか、そんなとこが考えられる。
この東征を行った神武の正体が誰かによって、何とも言えないとこがあるけどな
崇神天皇が神武であれば、その後に四道将軍を派遣するなど勢力拡大が見られるが。
神武というのが古い伝承に九州から東征してきたとされただけの、記紀編纂の当時から誰なのかはっきりしないのであれば、神武の東征は複数の歴史を投影されたものになる
917 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 09:55:01
どうも、壬申の乱と白村江と邪馬台国滅亡を関連付けたがるやつがいるな。
ヘンな本でも読んで毒されてるんじゃないか?
918 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 09:58:11
磐井の乱は反乱なんていう地味なものではないと思うけどな。
おそらくかつて対立していたであろう、豊国の勢力にも
協力を要請していることから磐井勢力がこの地を奪還したと
も考えられる。そう考えると豊国の大和派が畿内方面に
逃走し大和に援軍を求め磐井を討ったとも考えられる。
豊国にも大和派、磐井派みたいのいて内部分裂的な状態が
あったかもしれない。近畿の勢力の最初のターゲットになるのは
間違いなく宇佐地方であろうし、ここが九州勢力、近畿勢力の最前線
であったことはまず間違いない。
919 :
妄想中:2005/10/13(木) 10:03:36
大和には最初から同族が住んでいて、苦労なしで統一した、元々共立の
王なので、吹けば飛ぶような実態のないヤマダ国だった
920 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:12:47
同族だけでなく利害で一致すると思うね、九州の奴国勢力は
本州人にとっては目の上のたんこぶ的な存在であったから
これを討つという目的に関しては一致団結できるだろうしな
本州にも奴国派は多く居ただろうが、基本的に奴国打倒で
一致団結した、その最前線になったのが豊葦原中津国、豊国。
921 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:23:12
卑弥呼が使った鬼道これは魏の使節にも物珍しいもので
あったように書かれている。
これから察するに当時の倭国の新教であり
魏でも珍しいものだったと想像できる。
倭国の盟主保守勢力は邪馬台国の全てのやり方に反発した
当然戦争が起こる、しかし協力な同盟関係をもつ邪馬台国の前に
戦い疲れた旧奴国勢力はついに敗北をみとめ卑弥呼の共立の下
和睦する。
922 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:34:22
九州の邪馬台国は、その後、支那大陸に進出。
五胡十六国時代の前秦となり、隋となった。唐とも呼ばれた。
九州はアジアを制したのであった
923 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:43:57
九州にルーツがありそうなので史実に近いと思われるのが
奴国の一派イザナギや日向のカムイイワレヒコ神武。
彼らが本州の一部に勢力をもっていたのは確かかもしれないが
それと同時期にそれ以上の大勢力出雲が本州を支配していたのも
確かなのでその話が記紀であのような形で書かれたのかな・・
と思ったり。
924 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:59:26
磐井の乱以降も九州には筑紫の国造が存続している。
普通、大和朝廷側が圧勝したのであれば、再び反乱を起こすことないように九州の勢力を削ぐことに力を注ぐだろう。
功労者に磐井の領土を割譲して与えるなどの処置が行われるはずだ。
しかし筑紫には国造が相変わらず領土を支配していた点を注目すれば、磐井への大和朝廷の勝利は一方的なものではなく
筑紫勢力にも相当な配慮を行わざろう得ない勝利だったと推測される。
925 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 11:08:25
それ以降も畿内勢力が入ってはないから、
本格的に近畿の勢力が入ってくるのは藤原純友とか菅原道真とか
あの辺りから。
そもそも関東東北近畿中心の歴史ばかり
教えている朝鮮系の文部科学省のおかげで九州の歴史は闇に
葬られている。
926 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 11:40:20
邪馬台国出身の神武は
東征後、自分の出身国の名前を
そのまま継承した、それが大和国。
927 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 11:59:53
藻前ら、とうとう神武を実在の人物としてしまった様だな
そろそろ神武の実在性の証明をしてもらおう
928 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 12:07:20
状況証拠でさんざん説明しましたが。
記紀において邪馬台国の存在を隠蔽しているので
おそらく神武が邪馬台国出身だということ。
神武の時代は邪馬台国は日向にあり、
その後宇佐に移動したこと。明白じゃありませんか
929 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 12:09:15
神武=崇神じゃないの
930 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 12:11:55
まだそんなこと言ってるんですかw
欠史8代も実在ですよ。
あんなん全部嘘だとしたら
作者はとんでもないペテン師ですねw
931 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/13(木) 12:33:26
>>930 名無しのヒッキー君
私も、モデルとなる人物は存在したと思います。
しかし、それが誰で有るか
誰も解らないでしょうね
932 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/13(木) 12:49:26
天皇家のルーツ
この流れを探るのに最も必要な要素は、玉だとかんがえます。
三種宝物の鏡と剣は、所詮舶来品
その中で唯一縄文期より大事にされ、国内産出である翡翠や瑪瑙
この玉の流通を探る事が
天皇家のルーツに辿り着く事では無かろうか?
妄想ですが
933 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 13:17:08
ヒッキー君は、どうも、論破されて悔しくてファビョってるみたいだなあ。
934 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 13:57:39
>>932 天皇家の王統は、何度か交代があったと考えるべき。
玉を考えるなら、「玉造」を地名に持つ山陰・出雲が生産地。
オオクニヌシの支配地だったが、後から他の国の王に国譲りさせられた。
というところまでは考えられる。
玉は天皇家のルーツには結びつかないだろう。
935 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 14:02:27
そうかなあ?
936 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 14:21:31
まあ九州という言葉自体が天下という意味だからね
禹が天下を9州に分けたという故事に倣ったメイドインジャパンの9州
だからある時代まで九州島がイコール日本だったと思われる
937 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 14:55:26
日本ではなく倭国だな。
日本は日本平とかの地名のある中部地方だろう。
938 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/13(木) 15:00:32
>>934 >山陰・出雲が生産地
それは主に瑪瑙だろう
939 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 15:08:23
九州倭奴(な)勢力、
出雲熊野意宇(おう)勢力、
濃尾海部(あま)日本平勢力
これらが列島三大勢力
近畿はこの三つの勢力が何らかの形で関与している。
940 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 15:51:43
勾玉は朝鮮半島が原産と思われていますが、実はそうではありません。
勾玉は縄文中期には既にその原型にあたるものが日本各地で出土しております。
近畿では少ないようでこれが後に勾玉の文化をもった者に征服された
的な発想に繋がったのかもしれませんね。
勾玉は極めて高度な技術と原石によって作られ列島、半島各地で宝とされた
ようです。
941 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/13(木) 16:01:19
玉は、今でも身近な宮中に置いてある様で
玉は
「天下を治める」と言う意味がある様で
942 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 16:46:54
>>936 九州=筑紫島には、国は4つしかありません。
943 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/13(木) 18:06:18
1665年に出雲大社の東方から銅戈(弥生期)とともにヒスイ製の勾玉が出土している
出雲では元来有ったヒスイを参考に、独自の地元産出の瑪瑙を利用し玉を製造した。
これが玉造の地名の由来と考えられる
ヒスイによる勾玉と玉造の地名とは、直接的な結び付きを見出だす事は困難かと
ヒスイありきの 出雲の玉製造かと
ようするに、二番煎じでは?
944 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 18:08:21
>>942 国がいくつあろうと関係ないの
九州という言葉が権力者から見て天下=わが国土という意味なんだよ
945 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 18:18:38
>>944 ずいぶんと無茶な理論だな・・
他に何か証拠はあるのか?
それだけだと、却下だよ。
946 :
妄想中:2005/10/13(木) 18:45:32
いまでも勾玉の穴を開ける技術は難しいので
947 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 19:06:58
>>944 九州が九州と呼ばれるようになったのは、平安時代だろ。
>>947 想定される回答その1:
偉大なる九州王朝(もしくは九州倭国)の記憶が平安時代でもまだ強く残っていたからこそ、
九州という名前がつけられたのだ。
想定される回答その2:
平安時代なら、九州王朝の全盛期だ。
なんといっても、三十三間堂も桂離宮も九州王朝からの移築だからな。
949 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 19:26:03
>>944 九州は筑紫島
本州・秋津島
四国・伊予二島
あの時代には九州という地名はないはずだが
950 :
妄想中:2005/10/13(木) 20:52:15
わが国を9つの地域にわけたのは、どの天皇やろか
951 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 22:36:37
>>944 残念、「九州」と呼ばれる前にまず「九国」と呼ばれていたんだよ。
952 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/13(木) 23:03:25
>>934 出雲では玉湯町の花仙山から良質の碧玉や瑪瑙が産出され
古墳時代頃から周辺で玉作りが行われてきた
この周辺では、玉作りの遺跡が集中し、仁多郡に玉作りの社がある
「山の嶺に玉工の神あり」
953 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 00:30:02
勾玉でなくとも、トンボ石のようなものはそれこそ先史時代からあった
日本では江戸時代にトンボ石の造り方は入ってきたが、それ以前から勾玉を作っていたわけでね
トンボ石も勾玉も起源は一緒でないかと考えたことあるけど
954 :
あぽ〜:2005/10/14(金) 00:36:44
勾玉は縄文時代早期から今の日本列島各地で愛好されていた装飾品です。
もともと翡翠などの加工貴石類のデザインの一種で私見では牙を模倣したもの思われます。
故に九州が発祥の地と言うわけでもなく、逆に関東・東北方面からの伝播の可能性の方が強いでしょう。
また、勾玉型のデザインにも多数のバリエーションがあり、地域性もあります。
弥生期の九州ではカーブのきつい「コの字」型が好まれたようです。
ちなみに「八尺瓊勾玉」もこのタイプのデザインです。
955 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 01:21:24
「八尺瓊勾玉」が、記紀のどこに登場するか調べれば、
三種の神器の起源が九州とは無関係なのがわかるだろ。
956 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/14(金) 07:40:43
>>955 日本書紀神代下巻の天孫降臨の部分ですね
957 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 08:07:32
三種宝物の仲で勾玉は鏡と剣とは違い文化と深く関係あることは確か。
鏡、剣はその実用性から使用されるもので人の動きとは無関係に
物のみ移動する性質を持っている。
その実用性から今でも鏡、剣は今でも使用され続けている。
しかし、勾玉は明らかにその土地の人の文化的な象徴である。
人の動きと連動して動く性質がある。これは埋葬方法や言葉と
同様の性質をもつ。
958 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 09:16:21
プラム、自演乙。
お前の精一杯の努力、泣けてくるが、
心根の卑しいまねはもう寄せ。
三種の神器というのは、三点のセットであるのが
ポイントだろ。勾玉の起源だけ云々してもむなしい。
959 :
妄想中:2005/10/14(金) 09:18:21
出雲白木系が玉を
960 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 09:44:28
日教組に染まった中学校の教師連中は邪馬台国が九州に存在したとは、記紀に盲従する復古主義者だって子供に教えていたよね。
しかし実際に発掘物を見れば、畿内説を裏付ける根拠となるものが数多くある
ヒミコの墓に相当すると思われる同時期の大型古墳に魏から贈られたと考えられる銅鏡
結局のところ、教師連中は天皇崇拝を否定したいから記紀否定に走ってそう子供達に教えていただけだったな
961 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 09:48:27
そうか、神功皇后により邪馬台国は滅ぼされていたのか
962 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:02:06
>>961 記紀の記述を見れば九州勢力や出雲勢力の討伐は何度も繰り返し起こっている。
崇神天皇の四道将軍派遣やヤマトタケルのクマソ討伐などなど
ってことは、それだけ九州勢力を完全に恭順させるには時間がかかったってことだ
963 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/14(金) 10:20:00
964 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 11:30:45
>>962 つまり、九州の邪馬台国が東遷したことはない。
九州の邪馬台国は、畿内の大和朝廷に滅ぼされたのだ。
965 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 11:50:56
>964
その大和朝廷は、九州王朝(邪馬台国)から来て
大和土着王国を滅ぼした天武系朝廷なわけだが
966 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 11:54:55
967 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 12:01:01
そう、九州王朝には有明湾岸の熊襲族系と
博多・唐津湾岸系のアマ族系がいるが、天武はアマ族系。
968 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 12:09:42
天武は、東海系のアマ族だろ。
969 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/14(金) 12:26:26
降臨するホノニニギに対してアマテラスが与えたのが八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣の三種の宝物である。
三種セットで出てくるのは、天孫降臨の時だけ
しかも日本書紀の本文ではなく一書(異伝)にであるそこには、三種の関連性を示す材料はなく
三種セットの宝物である理由等全然出てこない。
970 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 13:06:53
プラムも、まだまだだな。
三種の神器が登場したのは、天孫降臨じゃない。天の岩戸隠れだよ。
日本書紀をよく読みな。
八坂瓊の五百箇の御統・八咫鏡・茅纏の矛が三種の神器の原型。
「矛」がポイントだな。
つまり、天の岩戸隠れは九州の伝説ということだ。
よって、卑弥呼=アマテラス
971 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 13:24:31
「勾玉」をつくったのは、大玉命。
大玉命は、忌部の遠祖。
天大玉神社は、奈良県橿原市忌部町にある。
古代から勾玉を生産していたのは、畿内ということだ。
勾玉を重要視するなら、天皇家は畿内出身である。
よって、九州・邪馬台国は、畿内・大和朝廷によって滅ぼされた。
972 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 13:30:12
記紀神話は、日本中に伝わっていた伝承を寄せ集めたもの。
九州の岩戸隠れ神話、畿内のイザナギ・イザナミ神話、出雲のスサノヲ神話などを寄せ集めて、
記紀神話は生まれたのだ。
そこに、なんらかの意図を読み取ろうとするのは愚か者である。
アマテラスが天皇の祖とされても、事実とは限らない。
973 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 14:02:32
ヒッキー君が常々言ってるとおり
邪馬台国と大和朝廷は別物ですよ。
卑弥呼=アマテラスなんて言ってる人は
電波です。
974 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 14:35:33
アマテラスは神功皇后だよ。
宇佐神宮由緒とか鹿島神宮の縁起読めば判る。
記紀神話は5世紀に亡命してきた伽耶人の伝説である事が首露王神話とあわせて読めば良く判る。
神功皇后は応神天皇の母親だから高天原は朝鮮だ。
つまり、卑弥呼は大和とは全く無関係。
975 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 16:30:13
>>974 おまいの言ってるのはわからん、漏れがバカなのかもしれんが
言ってるのはアマテラス=神功皇后で卑弥呼は誰なんなんだ?
976 :
安曇連浜子:2005/10/14(金) 16:42:24
卑弥呼も神功皇后でいいんじゃない?「日本書紀」の書き方がそうなん
だし。でも
>>974の記紀神話は5世紀に亡命してきた伽耶人の伝説であ
るというのはよくわからん。
977 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2005/10/14(金) 17:27:52
>>970 鏡と玉は岩戸隠れだけど
剣は、ヤマタノオロチ退治ではないかい!
>>975 卑弥呼=卑弥呼だろう
魏への朝貢記事も、神功皇后紀に記載してあるだけで皇后の使者とは書かれていない。
978 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:53:08
以前から思っていたのだが、卑弥呼(=日御子)という呼称はどうも男性的な名称に感じるのだよね
あの時代に女性であれば、比女とか戸女とか呼ばれるだろう。
比子とか御子など、最期がコで終わる名称は男性の呼び名だ。現在とは違ってな
それを考えると卑弥呼という呼び名は男王の卑弥呼に仕えた彼女の弟の呼称でなかったのかな?
巫女だった卑弥呼と取り違えて魏の使者に記憶された可能性はないだろうか
979 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:57:23
発音は、「ヒミヲ」ですよ?
980 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 20:13:48
>>978 可能性は無い
張政が告喩しに訪れている
981 :
妄想中:2005/10/14(金) 20:36:48
共立した女王なので、知事みたいなもので、影の実力者に使われていた
982 :
日本@名無史さん:
>>978 ヒメミコの音を省略して、卑弥呼としたという説もある。