弥生人は水田稲作なんか持ってきていない

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1日本@名無史さん

◎弥生時代の始まり、紀元前10世紀後半
 
国立歴史民俗博物館の春成秀爾教授らは23日、千葉大で開かれた日本考古学
協会の研究発表会で、北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化
物を放射性炭素年代測定した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)は
紀元前十世紀後半」と発表した。

 同教授らは昨年、弥生早期の始まりを前十世紀とする説を出したが、早期初め
のデータを得られないまま早期後半の測定値などから推定していた。

今回の発表によると、佐賀県の菜畑遺跡から出土した「山の寺式」土器
(早期初め)の炭化物は、前930―前800年。福岡市の板付遺跡の「夜臼1式」
(早期前半)は前900―前790年だった。その結果、早期初めは前945―前915年
と推定されるという。

 また水田稲作が各地に広がった弥生前期の始まりは、北部九州が前九世紀末
だが、高知県の居徳遺跡や高松市の東中筋遺跡などの土器の測定から、四国や
近畿は前8―7世紀ごろとみられるという。〔共同〕 (07:00)

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20040524AT3K2302C23052004.html
2日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:29:49
2
3日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:28:17
3
4日本@名無史さん:2005/06/29(水) 01:02:20
おもしろいな。
5日本@名無史さん:2005/06/29(水) 01:05:20
教科書の最初の方に書いてあったのは、
あれは一体何だったんでしょうね??
6日本@名無史さん:2005/06/29(水) 19:32:44
弥生人がやって来たのは前3C。
水田稲作の開始が前10C。

時間差が700年間も発生してしまう。

100年200年渡来時間が早いのではないかという説は聞いた事があるが、
さすがに700年も渡来時間が早まるというのは無理がある。
7日本@名無史さん:2005/06/30(木) 23:14:28
渡来人は本当の意味では稲作など持ってきてはいない。
渡来人が来た時、既に日本は水田稲作をしていた。

稲作は6500年以上前に日本に入り、朝鮮半島には日本の縄文人から朝鮮の土着民
に約4000年前頃に伝わった。水田稲作も約3000年前頃に日本に入り、
同じ頃に朝鮮半島南部にも伝わっていたと考えられる。
渡来人が来る約6〜700年前には既に日本も朝鮮半島南部も水田稲作をしていた
のである。

既に水田稲作をしていた日本に、渡来人が持ち込んだという稲作文化は
朝鮮半島南部の稲作文化の中に中国の影響が見られるという。

渡来人は北方から朝鮮半島に侵入して朝鮮半島南部で初めて稲作と
出会い、それから日本に渡ったと考えられる。
8日本@名無史さん:2005/07/01(金) 02:19:10
わかった!南方の馬と稲作が前10C,
北方系の渡来人が
前3Cで、かなり整合性が保たれる!
9日本@名無史さん:2005/07/01(金) 11:43:18
そもそも弥生人など存在しない。
10ひひーん:2005/07/01(金) 14:53:16
>>8
馬は違うだろ、馬は・・・。
一緒にするのは不味いよ・・・。
11日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:59:00
>>9
縄文系(土着系)弥生人さえも居らんと言うんかwwww

12日本@名無史さん:2005/07/02(土) 22:35:15
渡来人がやって来るずっと前から水田稲作は日本にあった。
つまり水田稲作は渡来人から始まったものではない。

渡来人ははるか北方から移動を開始し、移動通過点の朝鮮南部で
朝鮮南部式の水田稲作をすでに水田稲作のあった九州北部に
ただ単に運んだだけ。
13日本@名無史さん:2005/07/03(日) 01:14:27

国立科学博物館ってハッキリ言ってあほですね


>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました
14日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:01:27
で、水田稲作は誰が持ってきたのか?
15日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:03:29
安曇族(呉越系)だよ、ほほ確定だろ
16日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:03:50
朝鮮経由で入ってきたのが定説です
17日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:06:53
>>16具体的には?
安曇族は具体的に日本各地に伝説、地名、習俗を残しています。
18日本@名無史さん:2005/07/03(日) 20:08:03
>>16戦前戦後の色眼鏡をはずせ
19日本@名無史さん:2005/07/03(日) 21:11:37
稲の遺伝子は8っつあって、朝鮮には7つの遺伝子があり、日本には2つしかない。
中国南部には8っつともある。
日本の遺伝子の二つの内、一つは朝鮮半島には無いもので、中国には両方がある。
だから稲が朝鮮から来たとは考えられない。中国から直接来たと考えるべきだろう。
20日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:09:54
昔は華中から山東半島、山東半島から朝鮮、朝鮮から日本という説の方が
有力だったんだよな。
21日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:10:57
精液を女の顔に塗りたくれ!
22日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:13:11
データからそういう説がでたなら仕方がない。
まず、希望ありきでそれ前提に説構築するの止めてほしい。
23日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:30:32
朝鮮半島の方が日本列島よりも文化的には優れていたと思い込みたがってる朝鮮人の歴史捏造だろ。
朝鮮半島に無いタイプの稲が日本列島にあるのであれば、朝鮮半島から伝わった筈が無い。
24日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:39:06
稲が華中から入ってきたからといって、
弥生人まで華中から来たというデムパはもう止めてもらいたいね。
25日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:47:34

違う、関東人のねつ造癖、黒潮文化とかも希望を前提に創作された。
>>24
デンパというならまず反論をして、華中から入っても
後に物部など出雲、モンゴルの勢力増殖してるのでDNAには顕れない。
26日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:50:47
弥生人はどこから来たのかね。
稲と同様に弥生人も現代朝鮮人とは遺伝的に無関係だという事実を無視して、
朝鮮半島から来たとでも言い張る気か?
27日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:55:00
基本的に朝鮮も日本も弥生時代は南洋系の呉越文化です。
その後、西朝鮮は漢、東朝鮮は北方騎馬民族の血が混じり
日本との差異が生じます。
28日本@名無史さん:2005/07/03(日) 22:59:33
呉越文化というより、呉越と同様にミクロネシア文化だったという方が妥当だろう。
29日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:01:28
元々稲って熱帯地方のものじゃなかったっけ?
だったらそっちから直接日本に来たとも考えられるな。
30日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:02:42
それはわかってる、ただ、それを直接いうとなんか希望交えてそうで
いやらしい。
31日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:03:30
弥生人はバイカル湖周辺にいた一種族が南下して朝鮮半島に定着せず、
日本まで渡ってきたに決まってるだろ。

日本人には南方系の遺伝子なりハプロタイプなりがほとんど
見られんのだよ。

おまけに華中人はほとんど二重まぶたの人種ときたもんだ。
32日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:06:53
>>31それは桓武、清和、物部等々モンゴル系の人種が増殖したからという
可能性は頭をよぎらないの?
33日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:13:19
全然よぎらないね。

日本人には華中や中国に多い遺伝子がほとんど見られないし、
逆に中国人にも日本人に多い遺伝子がほとんど見られない。

朝鮮人には中国に多い遺伝子がたっぷり見られるがなw

34日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:15:28
安曇系弥生人こそ呉越系だったと思う。
出雲系は新羅に近い人達だった。
残念だけど大量増殖したのは出雲系。
馬術に優れていたのが栄えた要因
35日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:17:10
日本人の遺伝子は土着のものか遥か北方に関係したものばかり。

中国や南方の遺伝子なんかほとんど出てきやしない。

YAP+の割合から日本人種の半分近くが弥生人に由来すると言うのに。
36日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:18:01
>>33
チャバネゴキブリを在来種だと主張するタイプだな
37日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:25:43
>>35
アナトリアトルコ人にモンゴロイドの痕跡がないのと同じ。
38日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:31:27
>>31
南洋系と言うと沖縄、九州南部だな。
縄文系の血が強く入っているのだろう。

弥生人は水田稲作を伝えた長江下流の呉越人。
呉越人は半島にも沢山行った。日本より沢山だったろう。
だから半島には稲の遺伝子が沢山ある。
39日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:36:02
半島の稲の遺伝子の多様さは大陸経由と考える方が自然だと思うが・・

>>35
ちょっとまて考えるから
40日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:37:08
日本人には華中や南方に多い遺伝子やハプロタイプが
ほとんど見られない。

北方の遺伝子やハプロタイプばかり。
41日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:38:37
●漢の4郡⇒前漢の武帝が前108年、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・真番・玄菟・臨屯
の直轄領4郡をおく。中心は楽浪郡(現在の平壌付近、他の3郡は前75年までに廃止)
で、313年高句麗に滅ぼされるまで約400年間、漢の朝鮮支配の拠点となる。

●帯方郡⇒204年頃、遼東の太守公孫度により楽浪郡の南部を割いて設けられた。
魏・晋も領有し、倭と通交。韓族・ワイ族に滅ぼされた(313)。

5)朝鮮民族も、地理的な隔たりが無い点に於いては、日本民族と同じで
ある。ただ、日本民族と朝鮮民族の間には、かなり高い異質性が存在する。
朝鮮民族は、基本的には日本民族と同じ北方型蒙古系民族に属するGm遺伝子
パターンを持ちながら、それよりはるかに強く漢民族などの影響(混血)を
受けていると見られる。中国と朝鮮とのあいだの、相互移民や侵入などに
よって、海で隔てられた日本に比べ、北方少数民族や漢民族との混血の機会
がはるかに多く、これが民族の形成に影響したと考えられる。

http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/gmdna.html
42日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:38:40
日本人の遺伝子の65%以上が弥生時代以降に伝わったもの。
初めは南方系の縄文人が列島の多数派だった。

おそらくは後の古墳時代にやってきた古墳人とか、騎馬民族が日本の多数派になった。

43日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:39:29
日本人からはほとんど南方系のハプロタイプが出てこない。
朝鮮人は2番目に多いハプロタイプに南方系が出てくる。
漢人に犯られた事が原因。

◎本土日本

B52-DR15 8.2%(弥生) > B44-DR13 5.2%(縄文) > B7-DR1 3.6%  

◎韓国

B44-DR13 4.5%(縄文) > ★B44-DR7 3.8%(中国) > B13-DR7 3.4%

>タイ人で2番目に多いA33B44DR7というのは、韓国人にもあり、
>これは日本人ではほとんどいないということです。

http://www.hananoki.npo-jp.net/kitaori/kaihou/24gou.html
44日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:41:22
>>42
縄文人は北なんだよ
45日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:45:10
>>44
その説は典型的アホ学者の説。
46日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:47:12
×日本人の遺伝子の65%以上が弥生時代以降に伝わったもの。
◎日本人のYAP+遺伝子の所有率は45%。単純に弥生人は55%。

×初めは南方系の縄文人が列島の多数派だった。
◎縄文系が45%も居ると言うのに日本人からは南方系の遺伝子なり
ハプロタイプがほとんど見られない。

×おそらくは後の古墳時代にやってきた古墳人とか、騎馬民族が日本の多数派になった。
◎デムパすぎてお話にならない。
47日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:50:45
>>43
聞くけど、仮にそれが真実だとして
南方系の習俗持った弥生人はどこから来たと思うね?
48日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:54:59
>>46
入った当初の比率ではなく繁栄の程度が重要だぞ。
日本は天皇、祭祀系など出雲系が大繁栄してるのだから
49日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:58:19
>>47
縄文人自体が海洋民的特徴を持っていた事から考察して、
南方系の風俗と思っていたものの多くは実は縄文人自身の風俗で
縄文人の海洋活動を通してそれが南方に伝播した、或いは
南方の風俗が縄文人の海洋活動を通して日本に持ち込まれたかの
いずれか。
50日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:18:24
>>49
骨格の変貌、絹栽培、機織技術、高床式が説明できない。
51日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:26:46
骨格は北方モンゴロイド風に変貌しているよ。

文化の伝播なんて人の定着と全然関係ないからね。

それは毎日スーツを着てハンバーガーを食べているからと言って
我々が英国紳士やヤンキーでないのと同じ事。
52日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:32:41

弥生人は殆ど渡ってきておらず、縄文人自身の骨格の変貌が
起こったというわけか・・
ありえるな
53日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:38:34
はるか北の彼方からやって来とるやんけ・・・

◎本土日本

★B52-DR15 8.2%(弥生) > B44-DR13 5.2%(縄文) > B7-DR1 3.6%  
54日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:47:11
>>53
古墳時代以降の影響はまた別じゃん
55日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:54:23
古墳時代に大きな渡来など無いよ。

それに4C初頭には日本人口はすでに280万人にも達していたんだよ。
56日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:59:46
確実に言えるのは、朝鮮人が妄想しているほどには朝鮮半島からの遺伝的な影響を受けてはいないということだ。
57日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:07:21
つーか >>1 は言ってることがおかしいんだよ。
水田稲作が始まったのが弥生時代の始まりなんて
勝手に言葉の定義を変えてんじゃねえよ。
そいつは縄文土器じゃねえか。
いわゆる縄文稲作だろ。
菜畑からはBC10世紀の稲のプラントオパールが出てたし
過分ならBC16世紀まで遡ったはずだ。
58日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:10:52
朝鮮人がまだ縄文人の亜種だった頃、はるか遠い北の彼方から
朝鮮半島を素通りして日本にやって来た朝鮮とも中国とも
全くさらさら関係ないオオキミを長とするエイリアン集団がやって来た。

これが弥生人。別名B52-DR15。
59日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:12:55
縄文稲作は6000年前からだろうがw
60日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:21:48
B52-DR15は日本列島、西日本で最大値、日本からモンゴルに渡ったという仮説
61日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:27:28
>>60
B52-DR15を超高頻度で持つ北方にいた狭い範囲の少数集団が
日本に渡って人口爆発したと見るのが普通。
62日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:30:46
どの氏族だろうか
63日本@名無史さん:2005/07/04(月) 06:47:37
B52-DR15
このソースが欲しいね、検索すると、2chの書き込みばかりで
例の始めに結論ありき論組み立て型で信憑性が低い
64日本@名無史さん:2005/07/04(月) 07:45:18
B52-DR15 などはHLAハプロタイプと呼ばれ、
http://www.marrow.or.jp/NWJ97/bank-hla.html
「HLAはウイルスなどの外敵とのたたかいで変化してきました。
ウイルスは宿主がないと生きていけない寄生体(パラサイト)です。
寄生するためにホストの免疫をかいくぐるために自分をどんどん変化させます。
新種のウイルスは次から次へと現れます。宿主たる人類もそれに対応してHLAを多様化させてきました。」

HLAタイプは過去に先祖がどのようなウィルスに遭遇したかを示すもので複雑で、人種推定の決定打にはなりにくい。
65日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:29:34


◎HLAで人類の移動を追跡

HLAハプロタイプは少なくとも数千年は維持されます。また他の多型性より
格段に種類が多いものです。そして、同じハプロタイプが別のところで別の
時期に発生することはまずありません。このことは「ハプロタイプの集積を
追うことはそのハプロタイプをもっている人の遠い祖先の移動を追うことに
等しい」ことを意味します。あなたのハプロタイプがわかれば、祖先が移動
してきた後をたどることができます。膨大な他地域のHLAデータが必要
ですがね。これもアジア骨髄バンクを設立すればデータは自然に得られる
でしょう。

http://www.marrow.or.jp/NWJ97/bank-hla.html
66日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:30:40

■民族の起源を探る

 日本人はどこからやって来たのか? あるいは、地球上に散らばって
いる多様な民族は、いったいどの地から発祥したのか? 自分自身の
アイデンティティに関わるこうした問題には多くの人が関心を持って
いるが、これに答えを与えることができるのもHLAの功績である。
 たとえばモンゴロイドがベーリング海峡を越えて北米に渡り、約1000年を
かけて南米大陸の南端にまで到達したという大移動説は、従来、さまざまな
傍証によって証明が試みられてきた。ところが、各地の原住民のHLA検査を
行うことによって、この移動の経路を直接的に証明することができたのである。
HLAによる人類学研究は、さらに興味深い事実を発見しており、今後の検証が
大いに期待されている。

http://www.medi-net.or.jp/tcnet/tc_2/2_3.html
67日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:31:00




HLAのハプロタイプは、いったん形成されると何十万年かそれ以上も
維持されて、そう変化しない。地球上の別の場所で、同時多発的に
形成されることは考えられないから、ハプロタイプをたどっていくと、
人類の移動や拡散の道筋が分かるのである。

http://www.interq.or.jp/dog/macendo/book009.htm


68日本@名無史さん:2005/07/06(水) 20:59:53
佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは
焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の
弥生遺跡に共通する特徴です。そうしたことから私は、ひょっとすると
縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで
目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。
縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、
朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの
曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性
があると思うわけです。

―― なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。
確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人が
朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析と
いうのは、本当にいろいろなことが分りますね。

http://www2.athome.co.jp/academy/botany/bot06.html
69日本@名無史さん:2005/07/07(木) 20:28:55
朝鮮からというのが先入観。
70日本@名無史さん:2005/07/09(土) 14:08:01
日本人・中国人・モンゴル人・渡来系弥生人は、中頭で、
絶壁頭ではない。

関西朝鮮人・本家朝鮮人は、短頭で、
頭を横から見ると、
頭の前後の長さが上下で、ほぼ同じで、
頭の後ろが、上下で、ほぼ垂直に一直線になる絶壁頭。

頭を横・上から見れば、異人種である事が明白。


※短頭=頭が左右に長く、前後に短い
長頭=頭が左右に短く、前後に長い
中頭=短頭と長頭の中間
71日本@名無史さん:2005/07/09(土) 18:04:08
>日本人・中国人・モンゴル人・渡来系弥生人は、中頭で、絶壁頭ではない。


おまえっていつの時代の人?
大正時代の人か?w

東北地方以北以外、現代日本人種のほとんどが短頭だよ。
ただ100年前まではほとんどが中頭だったがな。

つまり、この100年間で日本人種自体の形質が進化したのだよ。

それと短頭は絶壁まで行かない。絶壁は超短頭以上。

日本人種で超短頭が多いのは意外だろうが沖縄や鹿児島。
朝鮮人もほとんどが短頭だが、超短頭の比率が日本人種より高い。
日本人は中頭に近い短頭で、朝鮮人は超短頭に近い短頭。

形質だけの人類学はもう前世紀で終わった。

これからは数々の遺伝学を総合的に見て人類を透視していく時代。
72日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:31:53
BC3〜5Cころ、弥生人がモンゴルあたりから移動して
最初に水田稲作に出会った場所、それは朝鮮南部。

その何百年も前に日本から朝鮮南部に水田稲作が伝わっている。
73日本@名無史さん:2005/07/09(土) 23:36:25
>>72
支離滅裂なこといってんじゃねーよw
74日本@名無史さん:2005/07/10(日) 18:57:44
>>72
どこが支離滅裂ですかね?
75日本@名無史さん:2005/07/10(日) 19:50:22
>>>>>74
ごめん。別に支離滅裂じゃなかった・
吊ってきます止めないで。。。
76日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:02:03
弥生人は朝鮮半島でやはり略奪しまくってたんだろうな。

それとも朝鮮の土着民たちは流民たちを快くもてなしてくれたのだろうか?
77日本@名無史さん:2005/07/12(火) 20:57:05
日本人からはほとんど南方系のハプロタイプが出てこない。
朝鮮人は2番目に多いハプロタイプに南方系が出てくる。
水田稲作は漁労民などの縄文人自身の手によって日本に持ち込まれた。

◎本土日本

B52-DR15 8.2%(弥生) > B44-DR13 5.2%(縄文) > B7-DR1 3.6%  

◎韓国

B44-DR13 4.5%(縄文) > ★B44-DR7 3.8%(中国) > B13-DR7 3.4%

>タイ人で2番目に多いA33B44DR7というのは、韓国人にもあり、
>これは日本人ではほとんどいないということです。

http://www.hananoki.npo-jp.net/kitaori/kaihou/24gou.html
78日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:15:26
少年時代、弥生人とは要は朝鮮人で、その弥生人が稲作を持ってきたと
言っていた先生方。

あの方々は一体何者だったんでしょうか?
79日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:18:20
韓神を祀る天皇陛下の工作員でしょう。
80日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:21:38
朝鮮の歴史家も半島南部と北部は全く違う文化圏といってるからな
今の半島人は北部の後裔だから朝鮮人が稲作持ってきたというのは
あまりに無茶な理屈。
81日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:27:26
欧米系の学者で半島から南九州とミョウチクリンな動きをした
学者がいたな。
82日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:06:30
あげませう
83日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:40:59
>>71
各時代の頭蓋骨を分析して得た頭長と頭幅の比である頭長幅示数をみると、
日本人の頭長は平均196〜182ミリ、頭幅は平均156〜147ミリで、頭長幅指数は77〜86である。
これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。
なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。


これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。
なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。

これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。
なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。

これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。
なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。

これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。
なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。

これには地域差があり、長頭ないし中頭は、東日本や日本海岸、離島に多く、短頭は西日本で、中心は畿内地方である。
なお朝鮮・韓国人は短頭が多い。これらは弥生時代以後に渡来した人々の分布を示している。


短頭=頭が左右に長く、前後に短い
長頭=頭が左右に短く、前後に長い
中頭=短頭と長頭の中間
84日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:41:20
20世紀以降の太平洋ベルト地帯に沿っての日本人の短頭化が著しいが、
これは朝鮮併合による在日朝鮮人の影響や、
朝鮮と同じで、短頭地域である関西地区の人々が、 鉄道などの交通機関の発達によって全国に拡散した影響だと考えられる。

形質は、その時代の環境によって大なり小なり変化するのだが、
人間においては混血でもない限り、その変化にも限界がある。
中国人は古代から現代まで一貫して中頭。
朝鮮人も三国志時代から短頭だったようだ。
日本人は短頭化が激しく、かなり変化しているが、
アイヌ人は古代から 現代まで一貫して長頭だから、やはり日本人は環境からよりも、
混血によって形質が変化したと見て良いだろう。
85日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:42:28
北九州地域の異なる2つのタイプの渡来系弥生人 / 中国東北部起源と長江流域起源
--------------------------------------------------------------------------------

最近では、北部九州の渡来系弥生人と、中国大陸の同時代人骨との比較研究も進んでいる。

ミトコンドリアのDNA分析などから、
山東半島や江南地域の出土人骨とは高い親縁性のある事が指摘されて始めている。

渡来系弥生人は同じ北部九州でも長身で顔が細く華奢な「北九州」タイプと、
やや横幅が張った彫りの深い「西北九州」タイプに分かれる。

前者は山東、朝鮮半島から中国東北部起源、
後者は山東、朝鮮半島から長江流域起源
の可能性か高いという。


和佐野喜久生氏(佐賀大学農学部)は、
日中韓の炭化米を調査した結果、同じ短粒米でも、
玄界灘沿岸地域のものが丸く小さいのに対して、
有明海沿岸地域のそれは、やや長めで大きい事を突き止めた。

前者は同時代の半島のモノに近く、
後者は中国の長江や淮河流域のモノに近いという。


この結果は期せずして、人骨の二つのタイプと一致している。

--------------------------------------------------------------------------------

日本の歴史02 王権の誕生 寺沢 薫著 講談社より

http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/roots2.html
86日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:04:01
ルーツ捜査において極端に飛びぬけて秀でているのはHLAだけ。

ハプロタイプの数が実に1000万種類と圧倒的。

ハプロタイプの数がわずか数十種類しかないmtDNAや他の遺伝学の
実に数十万倍の精度と特定力。

しかもmtDNAの遺伝的系統の割合は、古い系統が新しい系統の割合を
剋する関係であるため、ウソ割合であって実際の割合ではない。

過去にこんな系統がいましたよ、残存している本当のところの割合は
分かりませんが、という程度にしか使えない。

分かる事と言えば過去にやって来た大雑把な系統だけ。
現在の実際の系統には全く使えないのだ。
87日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:28:12
日本に来た渡来系には、大きく2種類あったと思われる

縄文人が日本を占拠していた時期に、モンゴルから朝鮮半島を経て
渡来したもの。B52−DR2、弥生人である。
特徴として、頬骨が発達している

すでに、弥生人が西日本を占拠していたころに
朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、新しく関西周辺に入ってきた渡来人
B44−DR13である。
顔の特徴は頬骨が前者の弥生人程発達してなく、蚕型の輪郭をしている
関西周辺から入り、秋田方面、東海方面へと広がっていった
やはり西日本は弥生人がすでに占拠していたため、
西日本にはあまり入りこめず西に行くほど頻度は低くなる


現代朝鮮人・関西周辺人・中国地方人は同じ新モンゴロイド系だが、
関西周辺人だけ、ぶっちぎりで現代朝鮮人に近い、
現代朝鮮人と同一の血を持つ集団が、弥生時代から古墳時代頃に関西周辺にだけ土着したという証拠である。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりで朝鮮人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より
ハプロタイプは、ルーツ捜査において極めて精度が低く、人種間距離が計算できない劣悪なシロモノ。
88日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:42:31
>すでに、弥生人が西日本を占拠していたころに
>朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、
>新しく関西周辺に入ってきた渡来人B44−DR13である。


B52-DR15が日本とモンゴルで高頻度の場所が二極化しているのに対し、
B44-DR13は高頻度の場所が日本と韓国しかなく、
一番頻度が高い地域が東海地方と来れば、東海地方から広がって
いったと見るのが正解。
89日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:21:00
亜種を含めたら数倍になる、韓国人最多ハプロタイプ・B44−DR13が、縄文人のハプロタイプの1つなわけねーだろ。

韓国人には、
琉球系縄文人の遺伝子が約17%しかなく、
アイヌ系縄文人の遺伝子が約1%しかない。


縄文人のmtDNAは琉球人によく見られるタイプのmtDNAとして現れるが、
意外な事に、韓国人の方が縄文人のmtDNAが本州日本人より僅かに多い。
その分、本州日本人(伊東市)にはアイヌのmtDNAが入ってくる。
アイヌは東日本までは確実に南下したようだ。

http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm


ハプロタイプは、ルーツ捜査において極めて精度が低く、人種間距離が計算できない劣悪なシロモノ。
90日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:57:04
>>89
mtDNAの琉球に多い縄文人タイプは韓国人が17.4%、本土日本人が16.1%
と韓国人が僅かに多く、日韓ほぼ同じくらいなんですねえ。

アイヌのタイプは韓国人が1.6%、本土日本人が8.1%と大差が出る。

その中で韓国人最多HLAハプロタイプB44-DR13の頻度が
韓国人5.1%≒本土日本人4.8%、または韓国人4.5%≒本土日本人5.2%
と韓国人と本土日本人で割合がほぼ同じ。


ありゃま、どーしましょうwwww

韓国の琉球に多い縄文人タイプとB44-DR13はどこからやって来たんでしょうねwwww
91日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:02:51
全部スレしんどるやねーか!!
92日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:06:36
チョンの荒らしが出まくってるからな
93日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:19:38
荒らしたら逆に切り返されて余計な墓穴を掘る馬鹿チョン。
94日本@名無史さん:2005/07/17(日) 13:35:19
少年時代、弥生人とは要は朝鮮人で、その弥生人が稲作を持ってきたと
言っていた先生方。

あの方々は一体何者だったんでしょうか?
95日本@名無史さん:2005/07/17(日) 13:42:45
>>94
ある意味、その説は最近再評価されてる
半島からだけではないがな
96日本@名無史さん:2005/07/17(日) 13:48:22
>>95
おまえの中だけで最近再評価されてるんだろ(プ
97日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:45:01
佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは
焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の
弥生遺跡に共通する特徴です。そうしたことから私は、ひょっとすると
縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで
目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。
縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、
朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの
曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性
があると思うわけです。

―― なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。
確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人が
朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析と
いうのは、本当にいろいろなことが分りますね。

http://www2.athome.co.jp/academy/botany/bot06.html
98日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:45:06
ますます遠くなる弥生人中国説w
99日本@名無史さん:2005/07/23(土) 09:29:43
弥生人は中国でいいと思う。
だだ少ししか来なかった。
縄文人が少数の弥生人から水田稲作を学んで弥生化した。
100日本@名無史さん:2005/07/23(土) 13:04:38
HLA遺伝子から日本人最大の血統は渡来種。

モンゴル方面にいた単一部族。

弥生人はモンゴル方面。

水田稲作は縄文漁民が持ち込んだ。

ただそれだけ。
101日本@名無史さん:2005/07/24(日) 20:10:28
ますます遠くなる弥生人中国説ww
102日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:05:42
>弥生人はモンゴル方面

じゃない。
モンゴル方面は5世紀に来た騎馬民族だ。
103日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:23:46
騎馬民族説ってかw

恥ずかしくて見てられん。
消防は消防の巣に帰った帰ったw

104日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:07:37
ドンドン遠くなる弥生人中国説www
105日本@名無史さん:2005/07/26(火) 05:58:23
亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13が、縄文人のHLAの1つなら、
朝鮮人は、沖縄人やアイヌ人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に、1人か2人しかいなく、非常にマイナーな存在。


朝鮮人が縄文系に見えるなら、あんた、精神病院に行ったほうがいいよ。


韓国人には、
琉球系縄文人=沖縄系縄文人の遺伝子が約17%しかなく、
アイヌ系縄文人の遺伝子が約1%しかなく、
非常に、マイナーな遺伝子。


縄文人のmtDNAは琉球人によく見られるタイプのmtDNAとして現れるが、
意外な事に、韓国人の方が縄文人のmtDNAが本州日本人より僅かに多い。
その分、本州日本人(伊東市)にはアイヌのmtDNAが入ってくる。
アイヌは東日本までは確実に南下したようだ。

http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
106日本@名無史さん:2005/07/27(水) 20:13:24
>>105
ビビンバよりめがはみ出してるぜwwww
107日本@名無史さん:2005/07/30(土) 12:24:45
>朝鮮人に縄文顔の人は、10人に、1人か2人しかいなく、非常にマイナーな存在。
>朝鮮人が縄文系に見えるなら、あんた、精神病院に行ったほうがいいよ。


もうちょっと多いな。朝鮮人10人に2〜3人くらいが縄文系が強い顔。
要はあまり朝鮮人らしくない顔。
こちらの方が本当の土着系の朝鮮人の顔なのに朝鮮人らしくない顔
と表現するのもおかしな話なんだが。
それともう一つ付け加えておくと、朝鮮人の顔を総じて観察すると
地域差もあるが北方新モンゴロイド感がまだまだ全然足りない。
日本人より多少北方新モンゴロイド感が強いといった具合で
北方新モンゴロイドの感じが全然もの足りない。
かといって、日本人のように古モンゴロイド感が強い訳でもないのは、
朝鮮人が華北人から中央モンゴロイドの遺伝形質を引いているからであろう。
この遺伝形質が日本人には無いから、顔の差異もより一層大きく感じる。
108日本@名無史さん:2005/07/30(土) 12:27:22
ああ^^^^^^^^^^^
ひまだからセンズリこくか
109日本@名無史さん:2005/07/30(土) 17:25:12
日本人の遺伝子の65%は弥生時代以降に渡来したと言うのは遺伝子学会の常識。
35%が縄文系の遺伝子を持っている事になるのかな。


110日本@名無史さん:2005/07/31(日) 22:06:40
何を持って遺伝学の常識と言っているのか知らんが、

日本人のYAP+遺伝子の平均所有率が45%と、日本人男性の45%までが縄文系
と単純に分かるが、渡来系が女性を男性と同じ比率で連れてきた場合と
全く連れてこなかった場合まで計算して、日本人の45〜72.5%までが
縄文系だと簡単に分かる。
111日本@名無史さん:2005/08/01(月) 00:47:01

◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度

西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
西日本人 10%超、 韓国人 1.4%、西日本人 10%超、 韓国人 1.4%
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度である
朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人≠朝鮮人≠西日本人≒モンゴル人
112日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:18:24
弥生人は朝鮮人で、弥生時代に朝鮮半島から稲作は伝わりました。
113日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:44:12
弥生人は朝鮮人で、稲作は弥生時代に朝鮮人が持ってきました。
114日本@名無史さん:2005/08/12(金) 15:53:05
115日本@名無史さん:2005/08/13(土) 14:41:25
ドンドン遠くなる弥生人中国説wwww
116日本@名無史さん:2005/08/13(土) 16:23:57
中国人その者が大混血種。
そんなもんをボルト付けして基準にしてどうするよw
将来、半島以上に電波飛ばしまくるぞ。
117日本@名無史さん:2005/08/14(日) 19:25:18
中国人はもともと南方系が土着系。
南方系の遺伝子やらハプロタイプが中国人からはたっぷり出るが
日本人からは中国人に多いハプロタイプほとんど出てこない。

日本人から特に一番出てくるのはモンゴルとかブリアートとか、
北方アジアの遺伝子ばかり。
118日本@名無史さん:2005/08/15(月) 17:52:03

437 名前:出土地不明 :2005/08/14(日) 21:09:26 ID:v8RxupLI
弥生文化をもたらした渡来人は、江南からやってきた

弥生時代初期の遺跡から出土した人骨の中に
周りと異なる体格の人骨が少数混じっていた

この人骨は中国江南で出土したものと遺伝的に一致した
奇しくも弥生初期の稲のDNAもこの地方のものと一致した

列島が大陸から切り離された後、海流が生まれた
半島から対馬経由で海を渡るよりも
江南から海流に乗って来る方が楽らしい

半島から漕ぎ出すと、海流に流されて、着いても出雲あたりだそうな
江南からだと損失率5%くらい、5日で九州にたどりつくと聞いた
119日本@名無史さん:2005/08/15(月) 19:30:37
ほとんど科学ソースの無い江南ヴァカw
120日本@名無史さん:2005/08/18(木) 19:56:06
>この人骨は中国江南で出土したものと遺伝的に一致した


で、そのソースは?
121日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:20:10
弥生時代の人種相がどうだったかは案外不明なんだよ。
弥生人骨というのは時代的にも地域的にも局所的な出土してるから。
古墳時代以後と縄文以前には、人種的な落差が大きいことは事実だが。
122日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:24:29
少年時代、弥生人とは要は朝鮮人で、その弥生人が稲作を持ってきたと
言っていた先生方。

あの方々は一体何者だったんでしょうか?
123日本@名無史さん:2005/08/20(土) 13:13:12
しかし人口の数パーセント以下だが
古代ユダヤもいる。
124日本@名無史さん:2005/08/20(土) 13:14:23
おそらく稲作もたらしたのは
古代ユダヤだろう
125日本@名無史さん:2005/08/20(土) 16:08:35
>>122
考古学は、ちょっと何かが出てきただけで、言うことが皆さん
ころころ変わる学問です。

例:ゴッドハンド

「考古学の成果」にのっかって、何かをいうと、たいがい痛い目にあいます。
126日本@名無史さん:2005/08/20(土) 22:58:41
>>124
ユダヤ人は羊飼いの牧畜民か、農業ならせいぜい小麦だろ。
なんで稲作なんだよw
127日本@名無史さん:2005/08/21(日) 19:37:40
弥生人は北方から流れてきた流民なんだから、定着した西日本に
やって来るまでに移動してきた方々で色んな文化を吸収しただろう。

稲作は朝鮮南部で初めて出会ったんだろう。

おそらく弥生人は弥生人で、もともと稲作以外の農業技術を持っていただろう。
朝鮮南部を通過しながら朝鮮式の稲作技術も吸収して九州北部に上陸した。
しかし、そのとき日本はすでに水田稲作大国であった。

彼らが持ち込んだのは水田稲作ではなく新しい農業技術だったのである。



128日本@名無史さん:2005/08/21(日) 23:00:52
魏志倭人伝、東夷伝読んで下さい。
事細かに、三韓地域のことも書いています。
それらと、遺跡と整合性のないレスは没です。
129日本@名無史さん:2005/08/21(日) 23:20:02
>>127
いいかげん、北部九州人が本州に広がった的妄想は止めて下さい。
本州人は全く違う出自を持っています。
九州人は大和朝廷とは少なくとも3,4世紀以降繋がっていませんし、
本州には殆ど広がっていません。
130日本@名無史さん:2005/08/24(水) 20:11:08
九州北部人なんか広がる訳がないだろ。
九州北部に上陸した渡来人が海路で広がったんだからw






131日本@名無史さん:2005/08/26(金) 12:43:11
当時は九州から海を渡ったところにも領土があったんだから人手の行き交いくらいあるんじゃないのか?
132日本@名無史さん:2005/08/27(土) 12:35:44
弥生人は九州北部から山口あたりを本拠地に、
北は北海道南部、南は琉球まで渡っている。

弥生人骨が見つかるのと同時に、彼ら独特の貝の腕輪などが見つかる。

ゴボウラなどの琉球産の貴重な貝の行商を船で日本全国にしていたようだ。
133日本@名無史さん:2005/08/28(日) 18:15:24
朝鮮の水田稲作は結局日本から伝わったんでしょ?
134日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:30:14
↓華南系らしい在日南方人のできる限りの工作を見て笑うwwww


456 名前:出土地不明 :2005/08/29(月) 23:30:29 ID:WpABbhDy
このスレおもしろいな
旧説と新説と珍説が入り乱れているな
縄文人と弥生人については、今のところまだまだ資料が少ないために
はっきりしたことは言えないというのがFA
日本の土壌は酸性で、骨が残りにくいんだよ・・・
んで、研究者によって持論がかなり違っているんだ
でも、弥生系の遺跡から、江南地方との関連を示唆するDNA(人・稲)が出たのは事実
どういうルートで列島に至ったかは不明だけどね
列島よりも古い証拠が半島から出ていない以上、海流ルートも否定できないんだ
中国の文献には、紀元前の周の時代から倭人が訪れていたという記録もあるので
もしこれが列島の倭人なら、縄文時代の航海術も馬鹿にならないレベルを有していたことになるしな
また、弥生初期に民族の大流入があったという証拠も実は無いんだよ
135日本@名無史さん:2005/09/02(金) 02:48:04
>>134は、どの辺が間違っているの?
136日本@名無史さん:2005/09/02(金) 04:52:48
>縄文人と弥生人については、今のところまだまだ資料が少ないために
>はっきりしたことは言えないというのがFA
>日本の土壌は酸性で、骨が残りにくいんだよ・・・
正確には、縄文時代の骨はけっこう残っている。貝塚に埋葬されると骨が残りやすい。
逆に弥生期の骨はあまり残っていない。埋葬方法が変わったのが原因と見られる。
故に、縄文から弥生初期にかけての変容については、謎に包まれている。

>んで、研究者によって持論がかなり違っているんだ
事実。

>でも、弥生系の遺跡から、江南地方との関連を示唆するDNA(人・稲)が出たのは事実
正確に言えば、稲は2系統になるらしい。稲については、佐藤洋一郎氏の著作が詳しい。
人DNAは、福岡県筑紫野市出土の人骨(歯だったと思う、ググってみて)と、江南地方の紀元前5〜8世紀の人骨の塩基配列が一致した。
江南人骨日中共同調査団」の調査結果(1999年3月)

参考URL
DNAで探る稲の考古学 http://inoues.net/science/wan.html
歴史の常識を今なお覆し続ける吉野ヶ里遺跡 http://www.pref.saga.lg.jp/at-contents/kenseijoho/koho/sagamaga/22/power2.html

>どういうルートで列島に至ったかは不明だけどね
事実。それに、たった一個体のみでは判断できない。

>列島よりも古い証拠が半島から出ていない以上、海流ルートも否定できないんだ
古い証拠云々についてはダウト。日本にはあるのに半島からは出ない稲DNAもあるので、海流ルートは否定できないには同意。

>中国の文献には、紀元前の周の時代から倭人が訪れていたという記録もあるので
>もしこれが列島の倭人なら、縄文時代の航海術も馬鹿にならないレベルを有していたことになるしな
後代の記録なので証拠にはならないが、縄文時代には既に青森−静岡間の交易が行われていたらしいことが判っている。

>また、弥生初期に民族の大流入があったという証拠も実は無いんだよ
大流入の証拠がないことには同意。縄文人が自分で出向いて水稲技術を持ち帰ったという説もある。前述の佐藤洋一郎氏など。
137日本@名無史さん:2005/09/03(土) 13:30:01
463 名前:出土地不明 :2005/09/03(土) 13:00:45 ID:vWVM1Qxo
ふっ、mtDNAの塩基配列が福岡と江南で一致するのは当たり前だろ。

東アジア全体でmtDNAのコンテンツも割合も極めて酷似している
んだから。

モンゴルだろうが、台湾だろうが、華北だろうが、東アジア内なら
どこも福岡と一致するだろうよ。

むしろそのほとんどは土着系のものと見るべき。

東アジア内の移動では、mtDNAは渡来系も土着系も識別できない。

つまりmtDNAは東アジア内の渡来系には全く使えないシロモノ。
138日本@名無史さん:2005/09/04(日) 18:24:13
渡来人はあまり女性を連れてこない傾向が強く、母系しか分からない
mtDNAは渡来人の故郷捜しには全く適していない。

そういった意味では逆に父系しか分からないY染色体の方がはるかに
適しているだろう。

しかし、mtDNAもY染色体もハプロタイプの数が30種類程度しかない。

遺伝学指標におけるハプロタイプの数は、その遺伝学指標で最高限で
識別できる人類の系統の数であり、つまり識別能力であり、簡単に言えば精度である。

そういった意味ではY染色体は渡来人の故郷捜しにおいて精度が低い。

では渡来人の故郷捜しにおいて一番精度が高い遺伝学は何か?

ズバリHLAである。

HLAのハプロタイプの数は全人類でなんと1000万種類ほどもあり、
これはmtDNAやY染色体の識別能力のはるか数十万倍に匹敵する。
139日本@名無史さん:2005/09/06(火) 07:01:25
古い骨しか残ってなかったら
mtDNA調べるしかねーじゃん
他のは残ってねーんだし
現代人のDNAだけを調べて
故郷探しするってのもなあ・・・

それに、mtDNAもY染色体も
ハプロタイプが30種類って何だそれ
寝言か?
まさかお前何も知らないで語ってんのか?

つまり何が言いたいかってーと
あれだ
HLA厨 乙
140日本@名無史さん:2005/09/07(水) 21:24:37
怒りに震える江南厨ことmtDNA厨w
141日本@名無史さん:2005/09/10(土) 13:28:11
ドンドン遠くなる弥生人中国説wwww
142名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 15:10:35

 YAP+型は“縄文系”の男性とみられる。宝来聡・総合研究大学院大学教授
(人類学)の研究では、アイヌ民族の88%にYAP+がみられる。古い形質を
残した遺伝子型のようだ。このタイプはアジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や
中国、シベリアにはみられない。世界を見渡しても日本人のほかには黒人にしか
みられない変わった遺伝子型だ。

 中堀教授は、YAP+の集団を「タイプ2」とした。タイプ2は、都市部では
北から南まで均等に分布し、金沢、福岡、大阪、札幌のいずれで調べても、人口
の三割程度を占める。しかし本州や四国の山間部では五割を占めていた。
弥生人に追われた縄文人という通説にほぼ合致する結果だ。精子濃度が薄いという
特性があるという。

http://www.horagai.com/www/salon/edit/ed2003g.htm

アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
アジアでは日本列島だけにあり、朝鮮や中国、シベリアにはみられない
143日本@名無史さん:2005/09/14(水) 20:28:51
うんこの香りの中国説
144日本@名無史さん:2005/09/17(土) 12:55:23
弥生人は朝鮮人で、稲作は弥生時代に朝鮮半島から伝わりました。
145日本@名無史さん:2005/09/18(日) 18:55:44
弥生人は朝鮮人で、稲作は弥生時代の前3世紀に朝鮮半島から伝わりました。
146日本@名無史さん:2005/09/21(水) 20:16:04
しかし、稲作を利用して、今まで渡来人の故地をさんざん中国だ、江南だ、
とプロパンダして洗脳活動くれたな。

このお礼、これからウン十年かけてたっぷり仕返しするぜ。
147日本@名無史さん:2005/09/22(木) 21:47:56
弥生人がやって来たのは前3C。
水田稲作の開始が前10C。

時間差が700年間も発生してしまう。

100年200年渡来時間が早いのではないかという説は聞いた事があるが、
さすがに700年も渡来時間が早まるというのは無理がある。
148日本@名無史さん:2005/09/23(金) 14:32:20


国立科学博物館って、ハッキリ言ってアホですね。

至高のアホです。



>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました



149日本@名無史さん:2005/09/24(土) 14:02:43
天下の国立科学博物館の権威を有難がっている輩が多いようだが、
所詮、国立科学博物館でもこの程度のレヴェル。
150日本@名無史さん:2005/09/24(土) 20:13:59
まあな。
でも2ちゃんの厨よりはマシ。
151日本@名無史さん:2005/09/25(日) 18:48:35
私どもが日本に来たときにはもう日本は稲作やってました。


by渡来人
152日本@名無史さん:2005/09/28(水) 21:15:24
え〜、どーも渡来人です。

私どもが日本に来たときにはもう日本は稲作やっていましたよ。

それと私どもは中国なんかから来ていませんよ。
153日本@名無史さん:2005/10/01(土) 14:16:06
佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは
焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の
弥生遺跡に共通する特徴です。そうしたことから私は、ひょっとすると
縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで
目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。
縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、
朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの
曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性
があると思うわけです。

―― なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。
確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人が
朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析と
いうのは、本当にいろいろなことが分りますね。

http://www2.athome.co.jp/academy/botany/bot06.html
154日本@名無史さん:2005/10/01(土) 19:13:15
少年時代、弥生人とは要は朝鮮人で、その弥生人が稲作を持ってきたと
言っていた先生方。

あの方々は一体何者だったんでしょうか?
155日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:15:52


最近はこの手のアホもめっきり少なくなりました。

恥ずかしくて、もう出てこれないのでしょう。


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/03 21:01 ID:dLIcfTh9
渡来弥生人はどこから来たかは 不明だが、現在では 華南説が最も有力です。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
(米に耐寒遺伝子が無く、華北から朝鮮へ伝わった米と異なっている事が判明した為)

韓国人との類似性は
・中央アジアで発生した縄文人の血(日本は樺太から南下)
・華南から来た弥生人の血(最近は華南説が有力)
のベースが近い為だと思われ、
遺伝子的には 中国人→琉球人→日本人・韓国人になっている。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
156日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:47:29


アホ発見w


437 :出土地不明 :2005/08/14(日) 21:09:26 ID:v8RxupLI
弥生文化をもたらした渡来人は、江南からやってきた

弥生時代初期の遺跡から出土した人骨の中に
周りと異なる体格の人骨が少数混じっていた

この人骨は中国江南で出土したものと遺伝的に一致した
奇しくも弥生初期の稲のDNAもこの地方のものと一致した

列島が大陸から切り離された後、海流が生まれた
半島から対馬経由で海を渡るよりも
江南から海流に乗って来る方が楽らしい

半島から漕ぎ出すと、海流に流されて、着いても出雲あたりだそうな
江南からだと損失率5%くらい、5日で九州にたどりつくと聞いた
157日本@名無史さん:2005/10/03(月) 02:15:21
さあ、アホ狩りする場所になってきましたww
158日本@名無史さん:2005/10/03(月) 03:23:10
テストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテストテスト
159日本@名無史さん:2005/10/04(火) 21:17:18


アホを狩る!


30 :出土地不明 :04/12/12 17:39:06 ID:qcvFv5pM
長江流域の2000年前の人骨と、弥生人の人骨は、全くおなじ人種のものだそうだよ。
中国の他の同時代の人骨や朝鮮半島の同時代の人骨とは全く違うと。
これで弥生人が長江流域から稲作文化や、様々な文化と共に海を渡ってきたことが証明されつつある。
同時代の徐福伝説も中国国内では歴史の事実としている。
160日本@名無史さん:2005/10/15(土) 14:04:10


アホの首を軽く切り落としてみる。


392 :出土地不明 :2005/08/30(火) 02:50:36 ID:Cd0bojou
>>390
だから、弥生時代がはじまったかなー、というころになって、発掘
される骨をしらべると、あきらかに、それまでの縄文人とは違うわけ。
顔がのっぺりしていて、面長で、背も高い。縄文人の身長は、男性
でも150センチ台だったが、その面長の連中は、背がだいたい160
センチ半ばくらい。10センチくらい身長が高い。
それから、彼らが入ってきたころから、水稲栽培が本格的に普及する。
ただし、そのふたつの見た目がかなり違う人々が、西日本では、まざ
って住んでいる状況が発見されている。もちろん、新しいタイプの
面長で背の高いのがほとんどっていう遺跡もあるし、縄文人の系統
の人々だけ、っていう遺跡もある。
で、その新しいタイプが縄文人系統とまざって住んでいる場合をみる
と、抜歯の習慣などからして、文化的には同じことをやっている。
で、最近になって、この新しいタイプがどこから来たのか、とたどる
と、どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい。朝鮮半島
経由である可能性も指摘されているけどね。
で、一緒に同じ村で住んでいるし、混血もそこそこしているようなの
で、征服者が縄文人と戦ったというような話にはならない。
とまあ、こんな具合ね。騎馬民族説はまあ、否定されたっていうより
あったとしても小規模だろうね、ってことで、その時期は、弥生時代
の中期以降だろう、いや後期だろうって話だ。
161日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:40:18


AHOの代表、国立科学博物館を晒す。

至高のAHOです。



>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました






162日本@名無史さん:2005/10/19(水) 22:09:53
AHOを晒しまくる。
163日本@名無史さん:2005/10/22(土) 15:07:32
水田稲作を渡来人に最大限悪用してきた教育関係者は毒ガス室へ送れ。
164日本@名無史さん:2005/10/22(土) 15:12:18
いまさらだめだろ。
メリケンも戦略的に利用するだろ。
165日本@名無史さん:2005/10/23(日) 18:08:43
はぁ?

あんたアホ?
166日本@名無史さん:2005/10/29(土) 13:06:57

で、シナチクはいつまで弥生人のふりをしているつもりなのかな?


例えば、日本人には10パーセントと高率に見られるハプロタイプは、
朝鮮半島に行くと二、三パーセント、中国大陸の北のほうでは1パーセント
程度しかないんですが、モンゴル共和国に行くと5パーセントに跳ね上がる
んです。そうすると日本人に最も多いハプロタイプはモンゴルから来た
らしいと分かるわけですよ。

http://www.interq.or.jp/dog/macendo/book009.htm

中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
中国大陸の北のほうでは1パーセント程度しかないんですが
167日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:33:11



人類学板でAHOをゲット!


182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2005/10/30(日) 19:35:59 ID:fPu63iEy
>>181 では、弥生人は蒙古人てつた、と考えると稲作技術を持ち込んだ経緯で合わなくなるんだが、
縄文農業から水田耕作技術が発展的に産まれ、これに最適な稲は長江下流域原産という事実に
どう決着を付けるのかな?



168日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:48:52
朝鮮半島云々かんぬんスレッド・・・マルチワンパターンスレッド纏めろ!他の板にも同様スレッド乱立し過ぎて邪魔! スレッド1ツに絞り纏めろ!
169日本@名無史さん:2005/10/30(日) 21:52:19
↑未確認非行物体AFO登場
170日本@名無史さん:2005/11/02(水) 22:39:38
三国志倭人項を見ても中国から日本に来るよりも、
日本から中国に行く事の方が多かったように見える。

8000年も前から縄文人は船で琉球まで渡っていた事を考えても、
水田稲作は縄文人が持って帰ってきた可能性の方がはるかに高い。
171日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:01:46


謎の未確認非行物体AFOを大公開!!


30 :出土地不明 :04/12/12 17:39:06 ID:qcvFv5pM
長江流域の2000年前の人骨と、弥生人の人骨は、全くおなじ人種のものだそうだよ。
中国の他の同時代の人骨や朝鮮半島の同時代の人骨とは全く違うと。
これで弥生人が長江流域から稲作文化や、様々な文化と共に海を渡ってきたことが証明されつつある。
同時代の徐福伝説も中国国内では歴史の事実としている。

172日本@名無史さん:2005/11/05(土) 14:36:42


謎の未確認非行物体AFOを目撃。


392 :出土地不明 :2005/08/30(火) 02:50:36 ID:Cd0bojou
>>390
だから、弥生時代がはじまったかなー、というころになって、発掘
される骨をしらべると、あきらかに、それまでの縄文人とは違うわけ。
顔がのっぺりしていて、面長で、背も高い。縄文人の身長は、男性
でも150センチ台だったが、その面長の連中は、背がだいたい160
センチ半ばくらい。10センチくらい身長が高い。
それから、彼らが入ってきたころから、水稲栽培が本格的に普及する。
ただし、そのふたつの見た目がかなり違う人々が、西日本では、まざ
って住んでいる状況が発見されている。もちろん、新しいタイプの
面長で背の高いのがほとんどっていう遺跡もあるし、縄文人の系統
の人々だけ、っていう遺跡もある。
で、その新しいタイプが縄文人系統とまざって住んでいる場合をみる
と、抜歯の習慣などからして、文化的には同じことをやっている。
で、最近になって、この新しいタイプがどこから来たのか、とたどる
と、どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい。朝鮮半島
経由である可能性も指摘されているけどね。
で、一緒に同じ村で住んでいるし、混血もそこそこしているようなの
で、征服者が縄文人と戦ったというような話にはならない。
とまあ、こんな具合ね。騎馬民族説はまあ、否定されたっていうより
あったとしても小規模だろうね、ってことで、その時期は、弥生時代
の中期以降だろう、いや後期だろうって話だ。
173日本@名無史さん:2005/11/05(土) 16:12:07
弥生人が日本に持ち込んだのは
殺戮と搾取の歴史だろ
174日本@名無史さん:2005/11/05(土) 16:18:25


拡大してみるとAFOからの隠されたメッセージが・・・


で、その新しいタイプが縄文人系統とまざって住んでいる場合をみる
と、抜歯の習慣などからして、文化的には同じことをやっている。
で、最近になって、この新しいタイプがどこから来たのか、とたどる
と、どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい。


175日本@名無史さん:2005/11/06(日) 13:52:16


謎の未確認非行物体AFOからのメッセージを更に拡大!


どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい
どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい
どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい
どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい
どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい
どうも、中国の江南の稲作地帯からやってきたらしい

176日本@名無史さん:2005/11/09(水) 20:24:04


謎のAFO、再び日本史板に飛来!


862 名前:日本@名無史さん :2005/11/09(水) 20:17:39
現代の中国人だけ見てるわけないでしょ。
まず稲作は南アジアから入ってきたもの、というより
寒冷地では育たない。日本はどうかというと九州四国
から中部地方あたりまでなら稲作に向いてるが、それより
北は粟やヒエや麦の方が向いている。
今北海道まで稲作ができるのは品種改良ができたつい
最近の事。だから江戸時代でさえ米は貨幣のように貴重な
ものだった。そして稲作には高床式が向いている。
最初から麦や粟が主食だったら苦労して米なんか作るか?
古代中国北部で稲作が盛んだったとも思えないな。
だから古代中国北部に餅や赤飯の習慣があったとも
思えないんだよ。餃子の歴史は古いぜ。
活字になったものだけ信じるのはどんなもんかな。
177日本@名無史さん:2005/11/09(水) 20:36:41


コピペが増えるほどにAHOが
正しいと思えてくる不思議w


178日本@名無史さん:2005/11/09(水) 20:51:41
↑遂に、あの謎の非行物体AFO、自らスレ上空に降臨!
179日本@名無史さん:2005/11/10(木) 20:47:28
おお、117、あれこそまさにあの謎のAFOだ!

青い光に包まれており文字らしきものも見える。
180日本@名無史さん:2005/11/12(土) 15:05:16
なぜかAFOのメッセージから八角(ういきょう)のニオイが強く放出している。
181日本@名無史さん:2005/11/13(日) 19:27:25


国立科学博物館も未確認非行物体AFOに侵入されていた。

これが例のMJ12か?



>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました


182日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:17:06
なんか一人だけでコピペしてるスレだな。
183日本@名無史さん:2005/11/15(火) 19:50:08


謎の未確認非行物体AFOがまた現れた!



863 :日本@名無史さん :2005/11/15(火) 14:30:28
バイカル湖周辺の倭人
普通に考えれば、倭人が北方に移住したでOKだろ。
で、弥生人は長江から米を持って移住してきた



184日本@名無史さん:2005/11/15(火) 21:06:23


またも謎の未確認非行物体AFOが現れた!


888 名前:日本@名無史さん :2005/11/15(火) 20:55:10
長江以南に住んでいた越人(百越)の別名が倭人。

中国人は古代日本人のことも倭人と読んでいた。
さらに、東アジア半島南部にも倭人が住んでいたと、
史書に書いてある。
倭人と稲作文化は深い関係にある。日本は稲作文化圏。


185日本@名無史さん:2005/11/19(土) 14:48:01
その謎のAFOには、Made in Taiwan と記されている。
186日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:31:40
そのAFOのクルーは台湾人か?
187日本@名無史さん:2005/11/23(水) 16:23:38


AFOが降臨した瞬間をカメラが捕らえた!


177 :日本@名無史さん :2005/11/09(水) 20:36:41


コピペが増えるほどにAHOが
正しいと思えてくる不思議w



188日本@名無史さん:2005/11/23(水) 23:15:11
AFO ばっかりか
189日本@名無史さん:2005/11/29(火) 20:54:48
AFOの燃料が稲らしいものでな。
190日本@名無史さん:2005/12/05(月) 21:23:33


AFOから出てきたヒューマノイドをついにカメラが捕らえた!



http://www.saintmarys.edu/~rjensen/mongol.GIF


191日本@名無史さん:2005/12/05(月) 21:29:03
埴原百万人渡来説はあまりにも極端。

今の日本人を一億三千万人として、
弥生人は近畿、瀬戸内、九州北部あわせてせいぜい五千万人以下。
弥生5対縄文8ぐらいが、
古墳期から現代までの比率と思う。
192日本@名無史さん:2005/12/05(月) 21:42:23
渡来人は北方から朝鮮半島を短期間で突き抜けてきた
北方新モンゴロイドで、最初は数十人から数千人の勢力だったが、
彼等は精子の段階で土着の古モンゴロイドよりも繁殖能力が
やや高いらしく、2300年という時間経過の中で現在のような勢力に
なっていったというのが最も支持されている科学説。
193日本@名無史さん:2005/12/10(土) 17:29:44

国立科学博物館って、ハッキリ言ってAFOですね。

至高のAFOです。




>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました



194日本@名無史さん:2005/12/10(土) 18:28:26


究極のAFOを某スレから発見。



【8:948】弥生人の起源が江南だったら何か拙いの?
1 名前:日本@名無史さん 04/11/05 04:32:50
江南厨なるレッテルまで作ってやたらと反発するやついるけどさ
米作りに来たのに米のとれない華北や半島から来るわけねーじゃん
普通に江南だろ?江南だったら何か拙いことでもあるの?


195日本@名無史さん:2005/12/10(土) 23:31:35
なぞの古代の日本の勢力形態は、中世の日本の勢力形態と同じということらしい。
基本的に、日本は国土の80%が山間部である島国であり
稲作農耕の人口密集地帯だ。こういうところは、
農耕社会を通じて、同じような歴史を繰り返すらしい。

例えば、戦国時代、畿内・濃尾の織田家と、瀬戸内海周辺の毛利家が
事実上、覇権をかけて戦っていたが、
同じく3世紀も、畿内・濃尾の狗奴国(大和王権)と
瀬戸内海周辺の邪馬台国(吉備)による覇権争いだったらしい。
どちらも、中国から日本国王だと思われていたのは
瀬戸内海周辺の 毛利家と邪馬台国。

その後、中世では、豊臣秀吉が朝鮮出兵をしたが
古代でも、応神天皇が朝鮮出兵していたとか...

また、最後のクライマックスとして
中世では、関が原の戦いがあったけど
古代では、壬申の乱が不破の関(後の関が原)であった。
196日本@名無史さん:2005/12/11(日) 21:10:48
誤爆のAFOか?
197日本@名無史さん:2005/12/12(月) 19:23:52

最近はこの手のAFOもめっきり少なくなりました。

恥ずかしくて、もう出てこれないのでしょうか。


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/03 21:01 ID:dLIcfTh9
渡来弥生人はどこから来たかは 不明だが、現在では 華南説が最も有力です。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-14.html
(米に耐寒遺伝子が無く、華北から朝鮮へ伝わった米と異なっている事が判明した為)

韓国人との類似性は
・中央アジアで発生した縄文人の血(日本は樺太から南下)
・華南から来た弥生人の血(最近は華南説が有力)
のベースが近い為だと思われ、
遺伝子的には 中国人→琉球人→日本人・韓国人になっている。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
198日本@名無史さん:2005/12/13(火) 02:30:49
>>195
吉備(邪馬台国?)ぐらいにしとけ!
199日本@名無史さん:2005/12/13(火) 23:28:23

放送席!放送席!

今さっきAFOが某スレについに飛来したとの情報が当スタジオに入ってきました。



52 :日本@名無史さん :2005/12/13(火) 20:03:18
日本人と韓国人が、異民族・異人種どうしであることは
間違いない。

稲作は、朝鮮半島とは無関係だ。
長江から、稲作文化は伝わったのだ。


200日本@名無史さん:2005/12/14(水) 13:23:37
200get
201日本@名無史さん:2005/12/16(金) 23:01:06


同一のAHOか!?



30 :出土地不明 :04/12/12 17:39:06 ID:qcvFv5pM
長江流域の2000年前の人骨と、弥生人の人骨は、全くおなじ人種のものだそうだよ。
中国の他の同時代の人骨や朝鮮半島の同時代の人骨とは全く違うと。
これで弥生人が長江流域から稲作文化や、様々な文化と共に海を渡ってきたことが
証明されつつある。同時代の徐福伝説も中国国内では歴史の事実としている。


202日本@名無史さん:2005/12/16(金) 23:09:51
お前らは、チョンは人類ではないという
大前提を忘れていないか?
203日本@名無史さん:2005/12/16(金) 23:16:27
もちろんチョンもチャンコロも人類未満という前提ですがw

弥生人はチョンではなく、北方からチョン半島を短期間で
突き抜けて定着せずに日本までやって来た北方モンゴロイド。
204日本@名無史さん:2005/12/16(金) 23:20:11
↑おまえ文章能力ないのか?人には伝わりにくい文章能力。
205日本@名無史さん:2005/12/17(土) 13:48:20
素朴な疑問なんだが、
米栽培の北限を越えて米を作り食べる日本人と、
米が主食ではない北方モンゴロイドって、
なんとなく結び付かないんじゃね?
206日本@名無史さん:2005/12/17(土) 14:50:43
では朝青龍は日本で何を主食にしてるのかね?w
207日本@名無史さん:2005/12/17(土) 20:21:38
日本でも羊くってるけど何か?
少なくても東京にいれば本格的なモンゴル料理は
誰でもしょっちゅう食えるよ。
田舎っぺは知らんだろうがな。
208日本@名無史さん:2005/12/18(日) 00:01:21
本来、米が育たないところでまで
米を作るほどのこだわりってのに
違和感があるって亊だ。

ここまで書いてやれば、
低能馬鹿や、東京に出てきたのが
うれしくて仕方がない田舎者にも分かるだろ?
209日本@名無史さん:2005/12/18(日) 16:05:14
郷に入っては郷に従えって諺を知らんのかな?

北方モンゴロイドは北方から流れてきて、朝鮮半島南部で稲作を知り、
米を食べて、日本に渡っていったのである。
210日本@名無史さん:2005/12/19(月) 15:36:16

まだ弥生人が水田稲作を持ってきたと思っているAFOがいますねえw

頭が本当にAFOなんでしょうなw

AFO!AFO!AFO!




250 名前:日本@名無史さん :2005/12/19(月) 00:44:45
華南で弥生人と思われる骨が多数見つかってる
水田稲作もそこから伝わっているし
日本で発掘された稲のDNAも、華南で発掘された稲のDNAと一致


211日本@名無史さん:2005/12/19(月) 17:05:53
日本が明治に入って近代化が進んでいる頃の半島の写真
見た事有るんだけど、あれはどう見ても弥生時代の日本
と同程度の文化レベルだったな。
212日本@名無史さん:2005/12/20(火) 17:06:32
2年前にソウルに行ったときにロッテホテルに泊まったんだが、
100年くらい前の白黒のそういう写真が部屋に飾ってあったな。

甕を頭に乗せて歩く農婦とか、農村の青年とか。

100年前のソウルは原始時代と変わらなかったという写真なのかな?
213日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:36:07
当時、都会であったろうソウルでさえ、それなんだから
ちょっと田舎に行けば肉や魚取りの生活じゃないの。
214日本@名無史さん:2005/12/20(火) 23:15:28


国立科学博物館も未確認非行物体AFOに侵入されていた。

これが例のMJ12か?



>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました



215日本@名無史さん:2005/12/21(水) 01:13:39
現実は
国立科学博物館 > 何が言いたいのか意味不明なアホの>>214
なんだけどなw
216日本@名無史さん:2005/12/21(水) 01:27:31
>>215
何が言いたいのか知りたくなってしまったのか?

それはすぐには分からないだろう。

しかし、それを知るための方法がたった一つある。

まず、これからもずーっと弥生人が稲作を持ってきたと
唱え続ける事だ。

いずれその答えが分かる時が来よう。

いいか、これからもずーっと永久に弥生人が稲作を持ってきたと
唱え続ける事。

それが一番重要だ。
217日本@名無史さん:2005/12/21(水) 01:36:30
念仏唱える宗教か?アホでキモイ椰子だなw
218日本@名無史さん:2005/12/21(水) 02:24:57
高度な水田稲作が開花したのは弥生に入ってからというのが常識。
ついでに上野原遺跡では穀作をしていた可能性が非常に高いらしい
稲の痕跡は見つかってないが、以降の早い段階で稲作
をやっていたと推測したとしても、それは条理的だろう
なんせ6000年ほど前の時代だからね。
あと稲作をどう捉えるかは考えもの。
219日本@名無史さん:2005/12/21(水) 22:05:08
「常識」というだけでは全く説得力がないな。
220日本@名無史さん:2005/12/21(水) 22:46:05
age
221日本@名無史さん:2005/12/22(木) 14:37:19
稲は一時、日本列島に自生していた可能性があるな。

およそ6000年前の縄文海進の時代、日本列島の気温は今より3度以上も
高く、海面は数十メートルも高く、現在、平野と言われているところは
ほとんど海の中だったという。

そんな亜熱帯に近い古代日本列島に、南方から海流によって稲籾が
運ばれて定着、あるいは江南からの渡り鳥の糞から運ばれた稲籾が
定着、そんな経緯で日本列島にも一時、野生稲が自生していた時期が
あったんじゃないかと思う。

そのときに縄文人は稲を徐々に栽培し始めていったのではないか。

やがて再び日本列島の気温は下がっていき、それと同時に自生していた
野生稲も徐々に消滅していき、ついに数千年前には絶滅した。
222日本@名無史さん:2005/12/23(金) 01:54:10
熱帯種の稲はもともと日本にはなかったのだから
長江辺りにいた半農半漁の民が縄文期に持ち込んだものなのだろう
両種は熱帯ジャポニカで同種だし、今現在でも漂流して日本に流れ着く
漁民らもいるそうな
ベトナム?には野焼き稲作があるらしいが縄文期の古代稲作とはそのような
ものだったのかもしれない
中国ではまもなく湿地の方が稲はよく育つということが発見される、水田稲作が
一気に広がっていく、3000年ごろ前には朝鮮半島南部に到達、炭化米が縄文式土器
などと一緒に出土、半島にはやはり縄文人がいた、または交流があった。
菜畑は周知の通り水田稲作の温帯ジャポニカ早生米。さあ弥生時代の始まり。





とかなんとか日本人はるかな旅でいってますたよ。
223日本@名無史さん:2005/12/23(金) 14:23:41

その「日本人はるかな旅」こと国立科学博物館はこんなレヴェル↓



>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました


224日本@名無史さん:2005/12/23(金) 14:30:45
元々居た奴が農業技術の発展で急激に増えただけだろ。
225日本@名無史さん:2005/12/24(土) 02:19:13
age
226日本@名無史さん:2005/12/24(土) 15:14:59


丸地三郎もAFOにやられたようだ。


http://members2.jcom.home.ne.jp/1228105901/0509jofuku.pdf


227日本@名無史さん:2005/12/25(日) 17:02:28
AFOに侵されたサイトを晒す


日本には、約2500年前に稲作の技術を身につけた人々が朝鮮半島から
渡来して水田稲作が始まったとする考えが、土器や石器あるいは人骨の
研究から有力です。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/harukanarutabi/toraikei/toraikei.html
228日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:39:05
AHOAHOサイトを晒しまくりw


ただし、約2400年前の縄文時代の末ごろになると、灌漑用の水路をともなう
水田による稲作が、九州北部にあらわれ、その後、西日本から東日本へと
だんだん広がっていった。

http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/1-3.htm
229日本@名無史さん:2005/12/27(火) 16:37:53
AFOサイトをどんどん晒す


2.B.C.350ごろ中国大陸のあるいは朝鮮半島から九州北部に水田稲作と
金属器の文化(弥生文化)が伝わった。

http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-26-3.html
230日本@名無史さん:2005/12/28(水) 18:40:13
AFOサイトをどんどん晒す


C 日本で最も古い稲作遺跡は、北九州と瀬戸内海沿岸から見つかります。
今から約2300年ほど前のことです。

D また、この遺跡とまったく同じ土器を持った稲作遺跡は、2100年ほど
前には、愛知県より西の日本列島に広まり、さらに遠く秋田県や青森県にも
広がっていました。

http://kawa-k.vis.ne.jp/jyugyou/nihonnjinn/nihonnjinn3.htm
231日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:10:51
稲は、中国の長江中・下流域で、野生種をもとに約11000年前に
栽培が始まったと言われているが、日本列島は約15000年くらい前まで
は確実に大陸とつながっており、九州西部あたりに長江の河口があったと
言われている訳だが、そんな日本列島に果たして本当に稲の野生種が
無かったと言えるのだろうか。
232日本@名無史さん:2005/12/31(土) 00:25:48


「日本人はるかな旅」こと国立科学博物館はこんなレヴェル↓
なにが有力なんでしょうかねw


日本には、約2500年前に稲作の技術を身につけた人々が朝鮮半島から渡来して
水田稲作が始まったとする考えが、土器や石器あるいは人骨の研究から有力です。

http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-25.html


233日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:27:48
AFOサイトをどんどん晒す


一番最初の波は2400年前の中国の春秋・戦国時代の500年間。
秦の始皇帝が中国を統一する前後の中国は戦乱の時代でした。
この時代に中国から稲作文化を持った人々が朝鮮半島をつたわって南下し、
日本列島にやってきた。

http://www.bund.org/opinion/20040925-1.htm
234日本@名無史さん:2006/01/04(水) 02:19:23
age
235日本@名無史さん:2006/01/05(木) 19:24:56
AFOサイト晒しまくり


大陸から伝わった稲作は,2300年程前始まった。

http://www.tokyo-shoseki.co.jp/multi/web-exe/db-movie-history/contents/douga/yayoi/yayoi.htm
236日本@名無史さん:2006/01/05(木) 19:53:08
AFO晒しまくり


そして、今から二千数百年ほど前、稲作文化を携えた渡来人が、
列島に押し寄せる様になりました。弥生時代のはじまりです。

http://www.geocities.jp/tbpnj392/Nihonroots.html
237日本@名無史さん:2006/01/06(金) 05:43:03
もういいよ。

稲作の仕方が違うだけ。
今まではそのような図式が定着していたが、
実際は縄文にあっても稲作は行われていた事が近年の調査で次々に明らかになっている。

稲作と日本人との関係に新たなパラダイムが生じた。

縄文という時代の列島における意味の再認識が必要。
238日本@名無史さん:2006/01/06(金) 06:11:24
そもそも、稲作が朝鮮半島に日本より先に入る可能性はとてつもなく
低いんだけどね。

淮河以北じゃ稲作は行われていなかったから、まず満州経由で
朝鮮半島に稲作は入りようがない。

山東半島も淮河以北だからここを経由するルートもアウト。

となると残りは江南から直接ってのだが、これなら海流の
関係で普通は日本に着く。ま、朝鮮半島南部にもたどり着く
可能性はあることはあるが、そうなると問題は気候風土。
19世紀でも半島の稲作は南部で細々と行われていたことから
見て、とても稲作に向いているとは思えん。大規模稲作文化
が日本より先に花開くと考えるのは無理ありすぎ。
239日本@名無史さん:2006/01/06(金) 23:00:21
>>238
全くそのとおりです。自分で書いたんじゃないかと目を疑うような感じです。
半島での稲作は、恐らく列島から移ったものと思います。
というより、米食が常習化したのは、日韓併合によるところが大きいのではないか、
とさえ思います。少なくとも、半島北部については、完全にそうではないでしょうか。
240日本@名無史さん:2006/01/08(日) 16:32:33
なんと直線的な発想しかできない頭が固い人間の思考回路なんだろうね。
頭が固いという事は頭が弱いという意味である。

まず、稲作は縄文時代早期から日本にはある訳ですよ。

先生方にはまだ常識ではないんですか?

そして、ここは、そんな稲作の伝来を追求するスレではなく、
水田の伝来を追求するスレなんですが。
241日本@名無史さん:2006/01/08(日) 19:48:26
>>240
どのコメントに対するコメントでしょうか?
分かりにくいですよ。
242日本@名無史さん:2006/01/08(日) 19:50:20
238や239に対してだろ。
243日本@名無史さん:2006/01/08(日) 19:55:25
>>240
>>238>>239は、稲作が半島経由じゃないと言っているだけで、
縄文時代から日本にあることを寸分否定していないが?

何を興奮しているの?
244日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:08:13
>>234
238を含め、一体全体このスレと何の関係が??

>>238
>淮河以北じゃ稲作は行われていなかったから、



で、このソースは?


245日本@名無史さん:2006/01/08(日) 20:08:51
>>243
238を含め、一体全体このスレと何の関係が??
246日本@名無史さん:2006/01/09(月) 16:18:36
>>238
>淮河以北じゃ稲作は行われていなかったから、




おえ!このソースはまだか?



247日本@名無史さん:2006/01/09(月) 17:39:11
朝鮮半島に植民していた中国人は、米を蛮夷の食べる物として嫌ってた。
248日本@名無史さん:2006/01/09(月) 17:48:46
周は米も作っている。
水田の北方ルートも再考するべきではないか?


Q:周の時代はどんなものを食べていたのですか。

A:穀物・・・アワ、キビ、大麦、小麦、米。
動物・・・牛、羊、ウサギ、シカ、イノシシ、鳩、雁、ウズラ、キジ。
鯉、フナ、ウナギ、ドジョウ、スッポン(これは高級料理)。
野菜・・・ニラ、ウリ、ショウガ、フユアオイ、タケノコ、ワラビ、タデ、ハス。
果物・・・桃、スモモ、梨、栗、柿、ナツメ。

http://www.hyogo-c.ed.jp/~mikihigashi-hs/maekawa/02-05.htm
249日本@名無史さん:2006/01/09(月) 18:29:19
>>248
華北平原でも相当古い時期(特に縄文高温期の時期)から
稲作「も」行われていたことは事実なんだが、
漢族が行っていた華北の稲作農耕の方式は独得だったんだよ。
西晋の時期の記録による華北漢族の稲作方法は、
まず牛に丸太のローラーを牽かせて雑草をならし、
その後ならした土地に直播で籾を播種するという
西南日本の稲作とは共通点が全く無い農耕方式だったりする。
華北の稲作農耕は漢族植民地となった朝鮮半島西岸までは到達したらしいが
日本の稲作農耕法とはほぼ全く関係が無いと言い切って良い。
これは日本の農耕文化全般に言えることなんだけど、
中国南部以南の照葉樹林帯・亜熱帯モンスーン式稲作・芋作農業と
満州方面以北の北アジア式雑穀粗放農業の影響は大きいが
中間に存在する漢族華北式農耕は不思議なほど伝わってきていない。
これは日本に黄土層が無いからという地理的条件もあるようだが。
250世界@名無史さん:2006/01/10(火) 00:01:03
紀元前後の日本での稲作文化は現在の青森県から鹿児島県まで
行き渡っていましたよね?ということは、同じ民族文化圏に属していた
ということでいいんじゃない?
251日本@名無史さん:2006/01/10(火) 19:30:47
人類発祥の流れ

東アジアには大陸よりも南洋へと先に展開したと、最近の説にあるらしい。
海流によって日本列島にたどり着くのは自然だから、
ユーラシア(中国大陸)よりも列島に人が定着する時期は早かったということなんだろうか。
とすると稲作水耕の歴史はその基盤の上に立つ新しい歴史だから
今迄常識とされた
大陸→半島→列島
という定式は再検討の必要があるかもね。
252日本@名無史さん:2006/01/10(火) 19:54:00
>>249
んなこたあAFOでも分かってるんだよ。

問題は水田の伝播だろ。

華北に水田が全く無かったっていうソースや証拠はあるかい?
253日本@名無史さん:2006/01/11(水) 14:20:33
>>252
じゃ華北に水田があったという証拠やソース提示キボン。
254九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/11(水) 18:57:25
>>252
無いものが無い証拠を出せ?
無茶を言うな。
批判内容を理解できますか?
255日本@名無史さん:2006/01/11(水) 19:52:15
学術的発言をしたのなら、その学術的発言に責任を持って、他の参加者への
質疑応答に答えるべし。

この場合、252の質問の方が先だから、まずは249が最初にソースなり
証拠を出す義務がある。
256日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:58:02
>>255

おいおい。
「華北に水田が全く無かった」っていう証拠はどうすれば
だせるんだ?遺跡を全部調べてまわったって「全く無かった」と
断定することはできないだろう。残っていないものの方が多いからね。

水田の伝播をいうのであれば、
あったという側が、あったという証拠をだして反論せねばどうしようもないだろう。
それを立証せずに、質問している。

AFOを連発するわりには頭が悪すぎ。
257日本@名無史さん:2006/01/11(水) 21:20:04
>>238
>淮河以北じゃ稲作は行われていなかったから、




おらおら!このソースはまだか? まだか? まだか?



258日本@名無史さん:2006/01/11(水) 21:27:52
>>256
だからソースや証拠は無いんだろ。
だったら、素直に「ありません。」と言えばいいだけじゃないの。

素直じゃないんですよ。素直じゃ。

という事で、

華北に水田が全く無かったっていうソースや証拠はない事が判明しました。
259日本@名無史さん:2006/01/11(水) 21:34:43
>>257
おちつけw
260日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:40:33
華北は淮河以北を指すが、華北でも水田らしき跡が出てきたという報告が一つある。

江蘇省北端の連雲港市藤花落遺跡では、紀元前2500年の龍山文化文化の
城壁集落から多数の短粒米が出土し、水田らしき跡も検出されているという。
つまり、紀元前2500年にはジャポニカ種の短粒米を主体とした安定した
水稲農耕が、北緯34度60分まで北上していた事になる。

また山東や遼東で発見される炭化米や稲籾も水稲と鑑定されているとの事。

http://inoues.net/study/japonica3.html
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/ine/chosonrice.html
261日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:56:52
>>260
行ってみましたが、

>龍山文化前期に当たる山東省揚家圏の稲籾(2,440+-130B.C)も水稲として鑑定され、
>遼東半島大連市の大嘴子遺跡から出土した炭化米も水稲である可能性が高い。

と書いてありましたよ。いまひとつ明確ではありませんね。
むしろ、確実なものはなにもない、という印象を受けました。

というより、列島から半島へ伝わったということも、他の説と少なくとも
同程度の可能性はあるという印象を受けました。
262日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:10:50
稲作自体は日本から半島に伝わったと俺も思っているわけだな。

ただ水田技術だけは3000年前に無紋土器と一緒に縄文人が半島南部から
輸入して弥生時代の幕開けになったと思うわけだな。

そしてその何百年か後に北方モンゴロイドが朝鮮半島を突き抜けて
日本に到着して、再び半島南部の文化を持ち込んだという展開。
263日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:11:35
249だが。
俺は華北で「水稲栽培のための湿地農地」つまり水田が無かったなんて
一言も言っていないよ。実際、淮水以北どころか内陸の関中盆地にも
周代には水稲栽培のための水田があったことが明らかになっている。
だが問題はこの「華北水田」で漢族により行われていた農法が、
日本での水田稲作農法と全然関係が無いということだ。
華北の稲作法は華北伝統の乾燥農法の特殊な変形で、
苗代作りや田植えといった日本稲作の決定的伝統に欠けることが
文献などから明らかなんだよ。
ローラーを牽いて草をなぎ倒して整地するなんて稲作法は
考古学の時代以来日本列島では数千年来あり得ない。
この農法ソースはかなり古い文献になるが佐原真「豊穣の大地」にあったはず。
264日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:21:53
>>262
なんで水田技術だけが半島から日本に伝わるんだ?

>>263>>249で書いているように、日本の水田稲作は江南の
系統のものだ。江南からの技術の渡来は、半島より日本
の方が、海流、気候の面からルートとして自然と思うが。
なのに何故そこだけ半島が早いんだ?
265日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:28:09
半島南部と九州北部は、一体の地域で、倭と呼ばれていたと思う。
266日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:48:12
>>261
たしかに明確じゃないよね。兵粮として南から米を輸送して持ち込んだという可能性もあるし。

米の調理法も文化伝達に関連してると思う。粉食や麺にするのか、蒸すか、炊くか。
267日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:02:06
>>264
あのな、北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化
物を放射性炭素年代測定した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)
は紀元前十世紀後半」と発表されたんだよ。

BC10C、当時の中国はすでに灰釉陶が主流の時代である。

その炭化物が付着した土器はまぎれもない朝鮮半島南部の無紋土器
の影響を受けた紅陶である最古級の弥生土器。

灰釉陶でも灰陶でも黒陶でもない。

水田技術を九州北部に伝えた場所は弥生土器の技術を伝えた場所
そのもの。
268日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:06:44
弥生土器の技術って元々この近辺は無紋に近い土器が
主流だったし薄手だったでしょ。
269日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:07:42
九州では基本的に縄文土器は作られていないんでしょ。
270日本@名無史さん:2006/01/12(木) 00:27:52
何も当時の重要な中国文化は日本に伝わってないよ。

さようなら。
271九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/12(木) 01:28:14
>>269
最古の縄文土器は九州産。

>>260
クーロン牛と同く、捏造研究じゃないの?
そうでなければ、
温帯種水稲耕作は倭から半島に伝わり、無紋土器は半島から九州に伝わったと解釈しても良いのでは?
272日本@名無史さん:2006/01/12(木) 01:33:13
http://www.town-takajo.jp/syoukai/tyosi/003/018.htm
ごめん、縄文土器というか、
縄の模様という意味の縄文土器の
事をいってたんだよ。
273日本@名無史さん:2006/01/12(木) 02:02:29
でもみんなのおかげでかなりの部分分かってきた。
感謝するよ。
274日本@名無史さん:2006/01/12(木) 02:09:27
>>273
ようするに、日本への水田稲作の伝播ルートは未だにはっきり
定まっていないということだよね。

そしてどうやら華北→半島→日本の可能性はほぼなく、
江南から伝わったものらしいこと、江南からどうやって
日本に伝わったかはまだわからんと。そういうことですな。
275日本@名無史さん:2006/01/12(木) 02:20:25
ん、稲作の問題もそうだけど、邪馬台国にしろ、
弥生人の広がりにしろ、
2chで共有された知識はここ一年で飛躍的に上がってる。

学者の説もムダではないが
正直、学者顔負けの知識だと思う。学者はデータはあるが束縛が
多く真実には近づけていない感じだ。
276日本@名無史さん:2006/01/12(木) 06:52:30
水稲と陸稲、籾だけ見て水稲の可能性が高いって何故言える?
277日本@名無史さん:2006/01/12(木) 07:21:34
>水田らしき跡
何haくらい?

>安定した水稲農墾
なぜに安定したと言える?収穫量のソースは?

水稲以外にはどのような作物が見つかってんの?
278日本@名無史さん:2006/01/12(木) 09:32:02
宮崎や三重の南部には今でも米の2期作をする地域があるが、
米の自生はこの辺なら可能だったかも。あったかいねーw
279日本@名無史さん:2006/01/12(木) 19:51:17
>>273
あのな、北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化
物を放射性炭素年代測定した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)
は紀元前十世紀後半」と発表されたんだぜ。

BC10C、当時の中国はすでに灰釉陶が主流の時代である。

その炭化物が付着した土器はまぎれもない朝鮮半島南部の紅陶文化の
無紋土器の影響を受けた最古級の弥生土器。

灰釉陶でも灰陶でも黒陶でも彩陶でもない。

つまり、水田技術を九州北部に伝えた場所とは弥生土器の技術を
九州北部に伝えた場所と考えるのが自然。

水田技術の華北→半島→日本ルートを再考すべきである。
280日本@名無史さん:2006/01/12(木) 19:56:09
九州北部の縄文土器と弥生土器の線引きは
曖昧なのです。
元々無紋系の土器を使っている地域です。
281日本@名無史さん:2006/01/12(木) 20:22:50
縄文土器から弥生土器になる過渡期があるのは当たり前。
ただし、弥生土器は間違いなく朝鮮半島南部の紅陶文化が母体。

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/1997b.html
282日本@名無史さん:2006/01/12(木) 20:48:28
>>281
よく分かりませんね。
この論文から、
>弥生土器は間違いなく朝鮮半島南部の紅陶文化が母体。
と、どうして断言できるのでしょうか。

かりに、列島のものと半島南部のものが似ていたとしても、
それは、当時は、列島と半島南部が一体の文化圏だったのかもしれないし、
列島から半島南部へ伝播したのかもしれませんね。
283日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:01:28
>弥生土器は間違いなく朝鮮半島南部の紅陶文化が母体。
>と、どうして断言できるのでしょうか。


それはな、その数千年も前に内モンゴル南部や満州あたりで
紅陶文化が花開いたからだよ。

紅山文化と言う。
284日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:14:45
仰韶文化でしょ
285日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:17:28
それは彩陶w
286日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:24:56
>>285
彩陶と紅山の土器の違いってなに?
弥生土器が赤いのは確かにその影響かもしれないな〜
倭人が体を真っ赤に塗るのと関係あるのだろうか?
287日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:31:59
朝鮮半島はそんな長い歴史がありながら、農業の政策失敗続きなのでは?
なぜ、学習能力があるのに、無理なわけ?
日帝のせいで農業まで途絶えたとか言うわけ?
288日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:32:24
>>285
紅山文化とはいうが、
紅陶文化というのは世界中でアナタだけです。
ぐぐりましたがアナタしかいませんでした。
紅山文化は彩色様々な陶器の文化を持っていたそうで
竜山文明と同じく仰韶文化の後裔です。
http://www.google.co.jp/search?num=100&hl=ja&c2coff=1&q=%E7%B4%85%E9%99%B6%E6%96%87%E5%8C%96&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja
289日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:38:50
>>274
いや、定まってるけど、文部省が認定しないだけじゃない?
290日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:55:37
>>289
『正しい歴史認識』とやらを強要する隣国への配慮ですね。
291日本@名無史さん:2006/01/12(木) 21:57:34
隣国条項とかいうくだらないもの。
日本国民口あんぐり。 何でもいいから、教科書に隣国条項に
ついて述べる必要がある。
292日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:22:54
本当の『正しい歴史認識』を議論する会を隣国の方々と作って、
遠慮なく堂々と議論すれば、どういうことになるでしょうかね。
彼ら自身が間違いに気付いてくれればよいのですが、感情的になって、
無茶苦茶なことを叫びまくって、議論にならないような気もしますね。

もう少し、彼らが成熟して大人になるまで、待つしかないかもしれませんね。
293日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:27:02
いや、日本人自身も間違いに気づくべき。
隣国の事なんか眼中にないのよ。問題なのは日本の事だけ。
太平洋戦争なんかどうでもいい。何なら教科書から省いてもいいわ。
もっと大切な歴史がある。
294日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:33:29
>>288
ひょっとして紅山文化と紅陶文化が同意語だと思ってたのか?w

紅山文化は今から7〜8000年位前に内モンゴル南部に現れた文化の事で、
紅陶文化は単に紅陶が主流の文化の意。
295日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:45:15
>>293
省略された言葉が多いのでしょうか、
日本語の意味が分かりません。
296日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:47:17
>>295
無理して分かる必要ないよ。日本語を習得するのは時間がかかるのは
多少想像できる。
297日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:48:09
>>294
それは288にではなく283に言うことだよな?w
298日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:52:23
俺も含めて、多くの人が内モンゴル〜満州南部付近の古代文化を
みんなひっくるめて紅山文化と呼んでしまっているんだが、
本当は時代ごとにこんなに細分化されているらしい。

西遼河流域の新石器時代から青銅器時代の文化年代は次の通りである。
小河西文化(8500年以前)、興隆窪文化(8200〜7600年前)、趙宝溝文化(7400〜6700年前)、
富河文化(6700〜6000年前)、紅山文化(6500〜5000年前)、小河沿文化(4500〜4000年前)、
夏家店下層文化(4000年〜3500年前)。

http://www.nihonkaigaku.org/03f/i031213/t13.html
299日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:52:24
>>296
なるほど。>>293 は、日本の方ではないのでしょうかね。
申し訳ありませんでした。気にしないことにします。
300日本@名無史さん:2006/01/12(木) 22:53:51
>>299
あんたのことだよ! あんた、そこの朝鮮学校卒のあんたの事!
301日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:01:31
私は、>>299 ですが、>>292 でもありますよ。
日本人です。
単純に、>>293 の意味が分かりにくかっただけです。
302日本@名無史さん:2006/01/12(木) 23:02:03
気にしなくていい。
失礼した。
303九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/14(土) 03:44:37

>>274
>そしてどうやら華北→半島→日本の可能性はほぼなく、
>江南から伝わったものらしいこと、江南からどうやって
>日本に伝わったかはまだわからんと。そういうことですな。

江南から日本への移住時期
BC10C 気温の急激な下降期(縄文後期温暖期から縄文後期低温期への移行期) 食料生産力低下 社会構造の変化? 江南の戦乱?
BC5〜4C 弥生低温期(弥生小氷期) 食料生産力低下 社会構造変化 戦乱(春秋戦国)
304日本@名無史さん:2006/01/14(土) 15:51:12
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w

水田稲作をはじめて受け入れた北部九州のムラからは、朝鮮半島南部と
そっくりの農工具が出土する。稲作技術はもとより、住居の構造やムラの
あり方にも彼らの影響が見える。
305日本@名無史さん:2006/01/14(土) 15:53:37
ムラという言葉は本州の渡来人全般に広がったみたいだよ。
九州の場合はムラと言う言葉は使わなかったらしい。
ムラ社会、村という言葉は新羅から本州人へと受け継がれたという説が有力らし
306日本@名無史さん:2006/01/14(土) 15:58:40
>>304
そしてビズマークなんて言ってるのもキミだよな?
なんか受け売り知識ぽく思えるんだけど
307日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:02:05
>>304
要するに何が言いたいかというと、知識が断片的で
欠落部分が多すぎるというのが見え見えなんですよ。
初心者なのは分かってますからもう少し謙虚になっては如何でしょう。
ビズマーク
308日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:04:23
>>305
でもそれを持ち込んだ渡来人は朝鮮半島の種族じゃないがな。
309日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:15:18
大和政権の場合最初に条里制があるよね。
村っていつ頃が元祖?
東日本から村制が伝わった筈です。
310日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:27:18
>>307
では、お言葉に甘えて謙虚に言おう。

で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
で、江南からいったい何の文化が伝わったの?w
311日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:47:20
>>310

しらないw
312九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/14(土) 19:51:28

>>310
>江南からいったい何の文化が伝わったの?

素潜り漁業
水稲耕作
その他色々

上記に伴う社会習慣や形態

江南の人々の移住は、
BC10C〜BC4Cの長い期間ですから、
もっといろんな文化を、
九州島西面北面沿岸部、
半島南部西面南面沿岸部、
本州最西端部に
持ち込んだでしょうね。
313日本@名無史さん:2006/01/14(土) 19:58:45
ふーん。

要するに、なーーんにも伝わってないって事だね。

ところで江南産の弥生遺物ってあるの?
314九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/14(土) 20:00:19

>>312の追加
里芋栽培や彼岸花栽培も持ち込んだのかもしれませんね。
315日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:07:04
スレが不毛になりますから荒しはスルーしてください。>>構ってる人
日本における稲のDNAは江南に近く、朝鮮半島系の稲とは異なことや、
プラントオパールから稲作の開始時期が日本が朝鮮半島より早いこと等は
常識です。
無学な荒しが知識がないので定型文で煽る事はよくあることです。

316日本@名無史さん:2006/01/15(日) 02:17:06

>>315
ごめんなさい。
317日本@名無史さん:2006/01/15(日) 11:20:35
>>288
紅山文化の別名を何て言うか知ってるか?

赤峰紅陶文化。
318日本@名無史さん:2006/01/15(日) 11:30:03
>>315
×日本における稲のDNAは江南に近く、朝鮮半島系の稲とは異なことや、


朝鮮半島の稲と異なっているのではなく、ただ単に朝鮮半島に無い稲の
種類もあるというだけ。


>プラントオパールから稲作の開始時期が日本が朝鮮半島より早いこと等は


水田技術の伝来とはなーーんの関係も無い。



おまえ自身がデムパで無学の荒らし。
319日本@名無史さん:2006/01/15(日) 11:59:48
「日本列島最古の水田跡」と「朝鮮半島最古の水田跡」の年代
ご存知の方は教えてください。

320日本@名無史さん:2006/01/15(日) 12:31:30
稲作は大陸から半島そして列島という
考えはもう古い。
321日本@名無史さん:2006/01/15(日) 12:42:47
稲作はもとから日本にあった稲の野生種の栽培に始まり、
縄文人が水田技術を半島から持ち帰ったという考えが今一番ナウい。
322日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:18:28
朝鮮の水田開始は確かBC10C頃だったという記憶が。
323九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/01/17(火) 03:49:33

東アジアの稲
水田耕作 水稲 温帯ジャポニカ種
焼畑耕作 陸稲 熱帯ジャポニカ種

南米大陸の稲(原住民の栽培)
焼畑耕作 陸稲 インディカ種?
アマゾン流域? ボリビア? コロンビア? 
どなたか栽培地域と品種をご存知の方おられますか?
324日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:00:03
古代日本にも野生稲があったが絶滅したんだろう。


江西:野生稲、絶滅の危機に世界が注目
2001/09/05(水) 00:10:01更新

  『新華社』南昌31日付けの報道によれば、中国江西撫州東郷の学術界では
「パンダより保護されるべき種」と言われている野生稲が絶滅の危機に瀕しており、
世界からの注目を集めているという。

  野生稲は1978年に江西省撫州市の農民である饒開喜氏に発見され、1982年の
調査でその分布が世界最北であることが確認された。その発見が水稲の起源と今後の水稲の
交雑利用に極めて重要な意義を持っているとされている

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2001&d=0905&f=general_0905_001.shtml
325日本@名無史さん:2006/01/21(土) 21:13:21
北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定
した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)は紀元前十世紀後半」と発表
された訳だ。

BC10C、当時の中国はすでに灰釉陶が主流の時代である。

その炭化物が付着した土器はまぎれもない朝鮮半島南部の紅陶文化の
無紋土器の影響を受けた最古級の弥生土器。

灰釉陶でも灰陶でも黒陶でも彩陶でもない。

つまり、水田技術を九州北部に伝えた場所とは弥生土器の技術を
九州北部に伝えた場所と考えるのが自然。

水田技術の華北→半島→日本ルートを再考すべきである。
326日本@名無史さん:2006/01/21(土) 22:38:01
>>325
素人発言で申し訳ないですが、よく分かりません。
書かれた内容から分かることは、
(1)BC10C、中国では灰釉陶が主流。
(2)北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定
   したらBC10C後半と出た。
(3)その土器は、朝鮮半島南部の紅陶文化の無紋土器と関係があると見られる最古級の弥生土器である。
ということですね。

そこから想像できることは、半島南部と九州北部は一体の地域で、BC10頃には
稲作を行っていたということですね。どちらかから、もう一方へ伝わったと考えるのは、
飛躍があるように感じます。
ただし、半島南部で稲作をしていた証拠がいつごろからあるのかによりけりですが
(素人でむみません)。
327日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:28:54
それまでの九州北部は縄文土器であるし、半島は無紋土器の前は櫛目紋土器
であるから、半島南部と九州北部は両者の文化伝達の玄関ではあろうが、
一体の地域とは考えにくい。

しかし、弥生土器と水田は、BC10Cにはすでに九州北部にあった事だけは
確かである。

水田技術を九州北部に伝えた場所は弥生土器の製法技術を伝えた場所と
関係が深いと見て良いだろう。
328日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:36:02
九州は縄文土器なんか古代から殆どつくってないよ。
ずと、貝殻紋とか楠目とかそういうの九州、半島の
土器はそう
329日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:37:48
>>327
>弥生土器と水田は、BC10Cにはすでに九州北部にあった事だけは確かである。

そうですね。確かなことは、それだけです。

その他は全部想像です。
水田技術がどこかから伝わったものか、自分達で発明したものか、
弥生土器がどこかから伝わったものか、自分達で考案したものか、
分かりませんね。
弥生土器が半島に伝わって、あるいは影響を与えて無紋土器が生まれたのかもしれないし、
列島の水田技術が半島に伝わったのかもしれませんね。
可能性はいろいろあります。
330日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:47:51
>九州は縄文土器なんか古代から殆どつくってないよ


で、そのソースは?

331日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:48:39
>>328
そうなんですか。
そうなると、やはり、半島南部と九州北部は一体の地域だった感じがしますね。
むしろ、本州と九州の間の方が開きがあったのかもしれませんね。
332日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:50:22
http://www.town-takajo.jp/syoukai/tyosi/003/018.htm
九州、半島は古モンゴロイドの時から縄文土器なんか
つくっていない。

これは朝鮮人(日本人、日とは朝鮮のこと)が
よくやる、カモフラージュ
333日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:53:38
>>331
古代史スレみろ、高天原は近畿出雲本州人だ。
高句麗と通謀して九州(葦原中津国)と馬韓(青海原)
に高麗人を天下りさせたんだ。
古代人=古モンゴロイド、土蜘蛛、熊襲を服従して
日本←日とと高句麗人の持ち込んだ思想
334日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:57:03
朝鮮系の帰化姓は本州、特に東日本で顕著だ
金、今野、近野、紺野
高橋、高田、新井、荒井、藤原系
全部、高句麗から本州に移住したツングースの末裔だ
335日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:04:50
装飾は本州よりシンプルだが、九州でも縄文土器はちゃんと作ってますよ。

西九州で作られていた曽畑土器が沖縄や朝鮮半島に伝わって
櫛目文土器になったみたいだが。

http://www.umakato.jp/itte/2003/vol15.html
336日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:05:49
>>328
>九州は縄文土器なんか古代から殆どつくってないよ





で、そのソースは?




337日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:08:08
>>331
すぐに分かるクサーイ自作自演ほど恥ずかしいものはないよね。

338日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:10:59
>>327
北部九州での「最古の弥生土器」の出土と水田稲作の最古の遺構を丁寧に調べると
どうも話は単純ではないことが分かってきているよ。
最古の弥生土器のうち、ある種のものは朝鮮南部の無紋土器とそっくりだと言われるが
外形上は九州在来の縄文晩期の土器がすでにかなり無紋土器と外形上似ているわけで
決定的な違いは土器製作の際の粘土紐の重ね方という製法の問題に尽きる。
在来の縄文土器はどんぐりを皿に乗せ上から叩く時強いように外傾で接合する。
だが弥生早期に穀物を入れるための壷に適する逆向きの内傾で接合する技術が導入される。
どうも技術だけが入ってきたらしく、在来の外傾と新しい内傾の土器が混在した後
稲作生活に適するのは内傾製法だということが分かってきて内傾製法の「弥生土器」一色になる。
つまり在来の九州縄文人が2つの技術を実地で使い比べていたらしいのだ。
だが、この内傾製法の渡来を示す土器と稲作の証拠となる遺構や籾などが
良く調べると出土する遺跡別や年代など微妙に食い違っているんだよね。
この2つはセットで同じ地方から伝わってきたのでは無い可能性がある。
なお、日本最古の支石墓もほぼ同じ時期に伝わっているが、
そこに埋葬されていたのはなんと在来縄文人だったらしく、
これも墓制のトレンドだけが伝わったものらしい。
339日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:22:28
>>338
>日本最古の支石墓もほぼ同じ時期に伝わっているが、
>そこに埋葬されていたのはなんと在来縄文人だった




ソースは?



340日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:25:07
>>339
それについては学者がいま必死で言い訳考えてる最中。
嘘を嘘で塗り固めるためにw
341日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:27:53
>>340
>日本最古の支石墓もほぼ同じ時期に伝わっているが、
>そこに埋葬されていたのはなんと在来縄文人だった




だから証拠なりソースは?




342日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:42:14
>>339>>341
新町遺跡の支石墓から出土した人骨だ。あまりにも有名な事実なので
ソースはちょっと調べるだけで沢山出てくるはずだ。
新町遺跡の位置から考えて、支石墓文化と共に
朝鮮半島から大量の人がやってきたという事実は非常に疑わしくなる。
343日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:51:51
支石墓のほとんどの埋葬者は渡来系だよ。
ただ糸島半島の新町遺跡で縄文系の埋葬者が一つ出たから騒いでるだけで。

それに最も縄文人骨から遠い形質の渡来人骨はやはり筑紫野一帯で、
土井が浜は既に混血していたと考えられる。

でも最初、渡来人は少数で、混血して、すぐに消えていったと
思われた。

しかし、彼らの遺伝や繁殖力は遺伝子から縄文人を遥かに
しのぐもので、たちまち縄文人を渡来人化していった。

ここにYAP+が半分残された理由もある。

>糸島半島の新町遺跡では、その支石墓の下から、縄文人的な形態と
>抜歯風習をもった弥生前期初頭の人骨が出土した。

http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/147.html
344日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:57:00
>>342
たった一体出ただけでそこまで言い切ってしまうとはもう
お笑いレヴェルだね。

新町遺跡の支石墓が日本最古の支石墓と言うのも創作だろ?w
345日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:09:25
支石墓は長崎の高来村有馬が有名だけど、ここでは縄文時代の
屈葬を継承してて人骨も縄文形質を強く残すものであったと
聞いたぞ。
346日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:12:00
稲作を日本中に伝えたのは日本武尊さんだよ

それより半年近くかかる米作りを最初の人はよくやったな
347日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:12:37
>>343
その筑紫野あたりの弥生人骨の年代推定は
「歴博鑑定BC10Cショック」の前のものであるはずなので
2つの異なる時代のものである可能性があるので結論が出るのはもう少し先だ。
支石墓は弥生早期の墓制の中でも特殊なもので扱いに苦慮するわけで
(局所的でかつ他の弥生墓制と分離したまま消滅してしまう)
例えば板付遺跡の集落は結局一度も導入していないはずなので
>>338の論拠の中では傍論に過ぎない扱いをした。
支石墓文化を一切持たずに弥生式稲作を始めた遺跡は多く
日本の稲作農耕の始まりは支石墓遺跡を無視しても説明可能だからね。
俺は土井が浜弥生人はBC10Cよりかなり下った時代の香具師で
おそらく北アジアの大陸方面から
朝鮮をストローして一気に南下して来た香具師だと考えている。
土井が浜人の形質は明らかで、確かに山口県あたりに今でも多い。
出身地は違うが、評論家の副島隆彦氏やユニクロの柳井正社長のような
顔と頭を思い浮かべればそんなに外れてはいないだろう。
348日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:13:53
>>346
日本武尊?
もう誤魔化しみたいな説を流布するのやめようよ。
真実を語るべきではないですか
349日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:17:34
筑紫野と小郡の北だよ、ここ知ってる人いるならわかるけど
比較的最近まで原野だった地域さ。
本州のタイプは出雲の古浦がピークになってるよ。
いい加減にしろよ、九州ばっかり根掘り葉掘り調べて
朝鮮認定するの!
朝鮮人はおまえら本州人なんだよ!
真実をみろ!
350日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:20:37
小郡以南では早くから
旧石器遺跡が発掘されてて縄文遺跡もあるよ。
おそらく博多近辺の指導者が原野だった筑紫野と小郡の北部に
半島人集団移住させたんでしょ。
大嫌いだったから、高句麗人
351日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:25:25
おまえらアホ?渡来人が半島人だったら形質では見抜けないよ。


こうした研究成果から想像をたくましくすれば、同じ人種の海洋民が朝
鮮南部沿岸と対馬、西北九州一帯に住んでいたとも考えられます。実際これを
裏付けるかのように、韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が
発掘されたと、釜山大学・鹿児島大学の共同作業チームが報告しています。
http://www.han.org/a/half-moon/hm009.html

韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された
韓国の煙台島から縄文人とそっくりのたくましい人骨が発掘された




352日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:25:42
一度、記紀と魏志倭人伝、東夷伝をよんみろ。
訳文でいから
イメージ変わるから!
353日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:27:17
半島というか高麗人だよ。
高木とか高橋とかあれってどうやら
354日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:31:12
>>353
早く寄り目半島に帰れよ。
355日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:55:36
当時の朝鮮半島には縄文人にそっくりの形質を持った土着の中央モンゴロイドが広がっていた。
中央モンゴロイドとは二重まぶたで顔の彫りが浅くないモンゴロイドの事である。

日本列島が大陸と朝鮮半島と切り離され始める15000年くらい前に、朝鮮半島の古モンゴロイドは
日本の古モンゴロイドである縄文人と別れ、形質そのままにYAP+を失って中央モンゴロイドに変化した。

おそらく古代華北においても朝鮮半島と同様に縄文人そっくりの中央モンゴロイドが広がっていた
と考えられるが、朝鮮半島や日本列島より一足早い6000年くらい前に華北は北方モンゴロイドに
侵入され、北方モンゴロイド的形質を持った中央モンゴロイドに変化していた。

北方モンゴロイド(ツンギーデ)と一口に言っても、北方アジアは非常に広大で、
様々な北方モンゴロイドの種族が広がっている。

日本に侵入した種族は北方アジアから朝鮮半島に侵入した後も留まる事をせずにそのまま九州北部に
渡ってきてしまった種族で、朝鮮半島には定着していない。

朝鮮半島に定着した種族はその後に侵入した別種である。
356日本@名無史さん:2006/01/22(日) 08:42:32
>>338
貴重な情報をありがとうございます。
ただし、

>どうも技術だけが入ってきたらしく、在来の外傾と新しい内傾の土器が混在した後
>稲作生活に適するのは内傾製法だということが分かってきて内傾製法の「弥生土器」一色になる。
>この2つはセットで同じ地方から伝わってきたのでは無い可能性がある。
>なお、日本最古の支石墓もほぼ同じ時期に伝わっているが、
>そこに埋葬されていたのはなんと在来縄文人だったらしく、
>これも墓制のトレンドだけが伝わったものらしい。

と、何箇所かに「入ってきた」とか「伝わった」とありますが、
そのように考えるのは飛躍があるのではないでしょうか?
彼ら自身が考案した可能性も充分ありますね。
357日本@名無史さん:2006/01/22(日) 09:25:54
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1137884195/l50
3 :日本@名無史さん :2006/01/22(日) 09:04:15
この少しあとに苗字制度が始まるのだが当時の人はまだ苗字がない。
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki.html
http://www.dai3gen.net/ems.htm
当時の日本人の名前の変化面白いよ。
名前は身分、生活様式、渡来か否かを顕す
九州の土蜘蛛の方々(足、手、耳垂、鼻垂)等体の名前がついてる。
倭人伝によると投馬国は彌彌那利、彌彌とおそらくミミ=耳で
土蜘蛛系だろう
初期の大王にも足がついてるのでやはり元は九州の土民の血が濃いのかも

筑紫国熊県の方は名前に熊がつく、熊襲国の人は鹿
動物の名前が好きみたいだ、狩猟民族の名残か
当時の大和政権の上層部は
彦(日子)、日、五十、鈴などを名前につけている。
特に出雲系に近い人は鈴、五十を好む。銅鐸、五十猛(スサノオの末裔だから)
ニギハヤヒも日だね。
九州の上層部の人は田という言葉が好きなようである。水田稲作
この少し後に近畿に白というトーテムが入る。

渡来アイテムは五十、鈴、日から白へと変わる。
東北に白という地名が多いのは新しい渡来人が入ったか、
新しい畿内文化が入ったかいずれか。
358日本@名無史さん:2006/01/22(日) 17:59:57




紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で
見られ(約4〜6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあると
いわれている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93


359日本@名無史さん:2006/01/22(日) 18:51:00
朝鮮南部の文化が九州北部に伝来した時代はBC10C頃とBC4C頃と
大きく分けて2派あると思われ。

BC10C頃に入ってきたのは弥生土器、水田技術、支石墓、磨製石鏃、
石包丁、木製農具などで、九州北部と朝鮮南部の土着民の間で
伝わり弥生時代が始まり、

BC4C頃に入ってきたのは主に金属器で、平形銅剣、銅鉾、銅戈、
銅鐸、銅鏃などの青銅器や鍬、斧や鉄製農具などの鉄器で、
北方モンゴロイドの形質を持つ渡来人が持ち込んだのではないか?
360日本@名無史さん:2006/01/22(日) 20:15:13
>>359
根拠は何ですか?
361日本@名無史さん:2006/01/22(日) 20:36:21
ただなんとなく。

弥生早期にはあまり金属器が出てこなくて、中期以降に徐々に
石器から金属器にとって代わられるんだよね。

ただ北方モンゴロイドの形質を持つ渡来人はBC4C末に来たと一般的に
言われているが、BC10Cの弥生時代開始にはもう来ていたのかもしれん。

そうなると全くダメダメなんだが。

しかし渡来人骨の時代変更は全く言われていないので、
やはり従来通りで良いのではないか?
362日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:52:52
やはり、根拠なく、半島から列島へいろんなものが伝わったという思い込みが
あるようですね。
半島以外のルート、列島独自の工夫、列島から半島への伝播、等
ありうる可能性を考える必要がありますね。
363日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:57:21
しかし弥生期に半島以外のルートで何が伝わったというのですか?
364日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:59:32
海流の関係で半島より中国南部のほうが簡単に日本に渡航できるんだよ
365日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:05:28
しかし中国南部から一体何が伝わったと言うのですか?
366日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:07:05
>>359>>361
俺も弥生早期の話ともう少し後の話は分けて考えるべきだと思うよ。
一応体系的な稲作が始まったのは早期でBC10Cだが、
この時には文化のパッケージとしては北方要素は強くないし
人種的混交もあまり起きていないようだ。
土の中でも朽ちない土器と石器しか分からないので
朝鮮朝鮮言っている香具師がいるが、
いわゆる照葉樹林式文化を支える基礎は植物製品だからね。
そもそも歴史時代以降の稲作農法の文化的基礎が西南日本と朝鮮では
かなり異なるので、稲作朝鮮伝来説にはどうしても同意できないんだよ。
>>338の土器の製法と、稲作技術と、担う人の人種は別の可能性が高い。
日本の弥生文化と直接繋がると朝鮮説論者が主張する朝鮮最古級の稲作遺跡は
実は多くがBC7C、最古のものでBC10C前半と言われている。
俺はこの数字(BC10C前半)は疑わしいと思っているが
この韓国学者の公称を信じるにしても「日本伝来」まで数十年しか無いんだよ。
やっとこさ水田稲作を覚えて数十年でいきなり対馬海峡を渡ろうとするかね?
まずは半島内で稲作適地を開墾していくのが先だろうにw
367日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:07:27
>>363 朝鮮に高床式住居などがあるのか?日本の農村風景は東南アジアと
同じ印象があるが、朝鮮の農村と似ているのか?
368日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:42:46
高句麗に高床式建築ってあったような?

有名な韓国のオンドルは高床式と聞いている。

北方アジアにも高床式建築があったんじゃないか?
369日本@名無史さん:2006/01/22(日) 22:58:30
そーら、雲行きが怪しくなってきたw



(注)最近の説によれば日本の高床式は北方由来説もあるらしい。
布野修司「住まいの夢と夢の住まい」

http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page136.html

370日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:01:48
>>368 日本の神社建築のような建物が東南アジアやインドネシアにはあるが
ああいうう、千木をもち、高床の下はピロティ式になっていて、高床に階段
で登るような建物は朝鮮や北アジアにはないのでは?

371日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:03:26
>高句麗に高床式建築ってあったような?
>有名な韓国のオンドルは高床式と聞いている。

列島から半島に伝わったと考えられますね。
372日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:04:44


高床式を極北の地で見ることは想像外でした。街の道路はまだほとんど
舗装されておらず、信号は来年初めて設置されるとのことでした。
昨年4月1日にそれまでの北西準州から分離、創設されたヌナヴット
(「我らが地」という意味)の新しい州都の息吹は、民族色豊かな
準州議会議事堂の新設など州都としての機能を整備するための建設
ラッシュや人口の増加がこの極北の町に活気を与えている様子から
うかがえました。街で見かける人々は、我々日本人にどこか懐かしさ
と親近感を覚えさせる顔つきの人たちが多いのが印象的です。
先住民族のイヌイットと呼ばれる人々です。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/staff/hokubei/h_40.html
373日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:06:28
なんでオンドルが日本から伝わるのか?w


 シベリア東部から南東部にかけてはDw(冷帯冬季少雨)気候となり北半球の
寒極となっています。そのためこの地域では永久凍土層が分布し,住居の多くは
暖房の熱による土壌の融解を避けるために高床式になっています。

http://www.chirikids.com/kogi/data/2/centerkogi03019.html

374日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:08:27
住居としての高床式建築は日本文化の中では比較的新しいものだよ。
庶民の生活住居に採用されたのは西国で平安時代から、
東国では中世になってから。
それまでは竪穴式住居で、これは縄文も弥生も同じ。
竪穴式住居以来の土間の伝統はかなりしぶとく生き残り、
日本の一般的な住居から土間が完全追放され完璧な高床式になったのは
戦後になって竈が姿を消してからだよ。
今も残る農村の伝統的住居を見れば、
寝起きする高床と作業する土間を巧みに併用していることが分かる。
照葉樹林文化という単語が大流行した時期に、
何でもかんでもこの概念に放り込まれた嫌いがあるが
その中にはガセも多いので注意が必要。
375日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:16:08
西シベリアには確実に高床式建築があるなw


ハントィ:自然環境、家屋等に関すること(家の飾り・トナカイ頭蓋骨、デコイ、
高床式の狩猟用倉庫・鼠返し、季節物衣料の取出し)、トナカイ飼育(革なめし)、
舟(樹皮舟、仕上げ、火おこし式錐で穴開け、樹皮紐で板を接続)、橇(運搬用橇)、
揺り篭(小型吊式、模様)(カレリアの大型床置式と比較)、墓(樹上揺り篭)
(カレリアのロシア正教墓と比較)、狩猟(弓矢)、漁猟(梁)、料理(屋外竃、
平型パン焼き)(カレリアと比較)、衣装(女性はスカーフで顔を隠す、模様)、
祭(熊送り、飾りたてた熊の頭、面、歌、踊、

http://tokyocinema.net/westsiberialist.htm
376日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:18:46
オンドルの話が出てきたが、オンドルネタは
日本の住居文化が朝鮮や満州とはかなり異質であることを示すんだけどね。
オンドルと思われる住居遺構は6世紀前後の北陸地方に散発的に現れる。
どうも朝鮮満州方面から日本海を渡ってきた移民が建てたらしい。
だが結局数世紀たたないうちに北陸でも完全に廃れて姿を消す。
日本程度の寒さなら竪穴式住居で十分暖かいので
日本人はオンドルを受け入れなかったということだ。
朝鮮や満州でオンドル式住居の起源がどこまで遡るのか俺はよく知らないが
日本でこの北陸の遺構以外にオンドル式住居の遺構が見つからないのは
どのような説によるのであれ、
少なくとも弥生人の主力はオンドルを知らなかったということを示唆する。
377日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:29:54
イヌイットもシベリア人も高床式文化を持ってんだよ。

弥生人も知ってたと思われ。
378日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:47:36

ヤクーツクの建物はみな,高床式です。永久凍土に柱を立てるので,
建物からの伝導熱で凍土が溶けて不等沈下するのを防ぐためです

http://www.eng.osaka-u.ac.jp/gar/cs/garcs002/research/theme1/photo/album1.html
379日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:19:00
地球上の色々なところで高床式のメリットに気付いたようですね。
他から伝播しなくても、各地で独自に思いついた可能性が高いようです。
380日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:26:12
日本の高床式建築は沖縄から伝わったんじゃないの?
381日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:04:54
高床式建築自体は縄文時代からある。
但し当時は倉庫用で、弥生時代になっても同じく倉庫用が第一の用途。
時代が下ると農耕儀礼を行う祭祀場が
倉庫と同じ高床式建物で行われるようになり、
おそらく神に仕える神官が高床建築に住まうようになって
祭政一致の古代ではさらに神官≒豪族の一部が
高床式建築を住居として使うようになったと思われる。
この時代に至っても庶民はずっと竪穴住居住まい。
ここで中国式の建築が包括的に伝わり、
華北式の土間式平地住居が一旦政府朝廷の基本建築となったらしい。
これと高床式建築が融合して寝殿造りの高床住居が生まれる。
どうやら南方の暑さと害虫を凌ぐための高床住居も
北方の永久凍土対策やオンドルのための高床住居も
日本建築史にはあまり関係なさそうだよw
382日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:31:32
外来と思っていた文化も実は土着文化だったってのも実はいっぱい
あるんだろうな。

何でも外に求めたがるのは日本人の悪い癖だ。
383日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:25:06
平氏(赤旗=先住民の色)はどこに拠点があった?
源氏(白旗=朝鮮人の色)はどこに拠点があった?
南朝はどこに拠点があった?北朝はどこに拠点があった?
水神と共に祀られる平氏、水神といえば西日本だよね。
平氏も貴族だから朝鮮の血は濃いよ、しかし先住民の
反乱だったんだ。あれは単なる権力闘争じゃないんだよ。
南朝しかりだ。よーく考えよう。
記紀、倭人伝、東夷伝、風土記をよーく読もう。
先住民はいま朝鮮人(源氏=東日本人)により根絶やしに
されようとしているのである。
384日本@名無史さん:2006/01/23(月) 08:47:38
>>383 この朝鮮イデオロギーは何なんだ?
385日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:17:35
>まあ日本人には多かれ少なかれ朝鮮半島の血が流れているわけだが。

実はほとんど流れていない。
続日本紀によると、7C、百済滅亡で日本に来た百済人が3100人くらい。
高句麗滅亡で来た高句麗人が1800人くらい。
それらとは関係なく自主的に来た百済人や新羅人が数百人。
帰化人のピーク時の7Cでも全部合せて5000人くらい。

それ以前の帰化人が始まる5C、続く6Cに来た半島帰化人が合せて
2〜3000人くらい。

半島帰化人の総数は7〜8000人くらい。

古墳時代の日本人口が400万人くらいの時だから、
朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.2% ほどに過ぎない事が分かる。
386日本@名無史さん:2006/01/29(日) 18:18:22
伊勢神宮の星マークはユダヤ人がもたらしたものだとは思いません。
387日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:15:37
吉備(邪馬台国?)ぐらいにしとけ!
388日本@名無史さん:2006/02/02(木) 17:52:00
弥生時代と古墳時代の開始時期がよく分からない。
いまどうなってるんだ?
389日本@名無史さん:2006/02/02(木) 21:39:29
済州島の古名=耽羅(タンラ)は、元はタムラと発音した。

タムラの語源は、日本語古語の屯(タムロ)だ。
タムロとは、大勢の人間が集まる場所の意味。
タムラ島は、古代中国と筑紫(日本・九州)・百済の中継地だった。
人が集まる島だったので、日本人(大和人と百済人)が
そう名づけたのだ。
390日本@名無史さん:2006/02/03(金) 19:02:11
新羅と志良岐は違う国じゃん。

新羅(シルラ)は313年以降に、朝鮮人=金奈勿一派が建てた国だろ。

志良岐(シラキ)は、稲飯命が建てた日本民族の国じゃん。
金奈勿が高句麗と手を組んで、志良岐王家を滅ぼし、新羅を建てたのが真相。

金奈勿は、もともとは志良岐王家に仕えていた役人だけどね。

391日本@名無史さん:2006/02/03(金) 19:06:48
>>357
>彌彌那利、彌彌とおそらくミミ=耳で土蜘蛛系だろう

ミミは耳じゃあないだろ。御身という意味だろ。
お体ではなくて、古代日本語で「この御方」という表現だろう。
貴人、とくに皇族などへの敬称だろうな。



392日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:58:11
水田技術は朝鮮半島南部から日本に伝わってるね。

弥生時代の幕開けの頃の九州北部の弥生遺跡に水田と朝鮮半島南部と
そっくりの農工具と半島南部の無文土器の影響を受けた最古級の
弥生土器が同時に出土するからである。

中国から亡命者が来て弥生時代が幕開けしたなら、弥生時代の幕開け
の頃の弥生遺跡から鉄器やら灰陶やら金文やらがもう出まくりのはずだろw

でも現実はなーんにも当時の中国の主流の物的文化は伝わっておらず、
中国からの人の生命的存在感はまーったくゼロ。

それはただ単に中国から人など全く来ていないという事に過ぎない。
393日本@名無史さん:2006/02/15(水) 22:23:28
>>392
>弥生時代の幕開けの頃の九州北部の弥生遺跡に水田と朝鮮半島南部と
>そっくりの農工具と半島南部の無文土器の影響を受けた最古級の
>弥生土器が同時に出土するからである。

その事実から普通に言えることは、半島南部と九州北部が共通の文化圏に
あったということですね。
どちらかからもう一方へ伝わったとかいうことは、容易にはいえないことです。
仮に、そういうことを言いたい場合には、九州北部から半島南部に伝わった
可能性も充分に考慮する必要があります。
394日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:15:19
いや、そんな必要はさっぱりさらさら無いですね。

なぜなら水田技術と農工具と弥生土器は同時期に伝わっているのだから。

それはただ単に水田技術が農工具と弥生土器の技術を九州北部に伝えた場所から
同時に伝わったという事に過ぎない。

農工具は朝鮮半島南部とそっくりで弥生土器は半島南部の無文土器の影響を
受けている。

そしてそこには当時の中国の主流の物的文化が何も伝わっていない。

それとも水田、弥生土器、農工具という高度な技術が、同時期に九州北部で
急に開発されたとも言うんですかね?w
395日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:50:56
朝鮮半島伝来だとなにか不都合でもあるのか?
396日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:58:07
1万2000年前に消滅した。
縄文人は (クルミ どんぐり トチの実 貝)

リスだぞ!栗鼠!


弥生は3000年前
397日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:04:47
>>394
>農工具は朝鮮半島南部とそっくりで弥生土器は半島南部の無文土器の影響を
受けている。

事実は、「半島南部と九州北部では、農工具がそっくりで、土器も似ている」
ということだけでしょ。
それからどうして、半島から九州へ伝わったといえるのでしょうか?
全く、論理性に欠けます。
398さらしあげ:2006/02/19(日) 01:48:14
392さん
真性ですか?真性ならお教えしましょう!
水田稲作の伝来は中国の周や晋、斉の中原の文化ではなく、
中国文化圏外の蛮越か東南アジアだということですよ。

中国南部の文化は、あなたの言う「中国の主流の物的文化」ってないですよ?
「中国南部地域若しくは東南アジアの稲作文化や高床式文化はきていますよ」
論理的な事と時系列的な事を事実に反してまで言い換えるとは、なかなかお主やるではないかw

日本の文化をよく吸収した在日か三韓人の方ですか?

>>394
混じれ酢いくない。

399日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:32:21
>>397
ほほう、そうですか。

では、同時期に伝わったそれらの技術は一体どこから伝わったのですか?
400日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:36:59
>>398
おまえはまずこれを暗記しな。



d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)

茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに
広く分布。 (世界大百科事典/平凡社)


401日本@名無史さん:2006/02/19(日) 18:31:36
>>399
どこから伝わったのかについて私は詳しく知りませんが、
>>398さんの意見には説得力を感じます。
402日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:52:37
>>401
ほう、どこから伝わったか自分の説も無い分際で学会の定説である私の説を
否定してるんですか。

これは大爆笑ですな。

炭化物が付いていたのは日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡の弥生時代早期初め
の縄文土器の名残を残した最古級の山の寺式弥生土器ですよ。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/nahatake/nahata.html

弥生土器が朝鮮半島南部の無文土器の影響を受けているのは学会の常識。

弥生土器も無文土器も紅陶だが、無文土器の前の朝鮮半島の主流だった櫛目文土器
は縄文土器の影響を受けた土器。

その頃、南蒙古や遼東には赤嶺紅陶文化が広がっていたので、朝鮮半島の無文土器は
明らかにその影響を受けた文化という事になる。

ゆえに弥生土器は朝鮮半島南部から九州北部へ伝わった事が明らかな技術文化
という事が証明できる。

その弥生時代早期初めの日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡から出た縄文土器の
名残を残す日本最古級の弥生土器に炭化物は付いていたのですよ。

日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡から日本最古級の弥生土器が出てくるんですよ。

つまり九州北部に水田技術を伝えた場所は弥生土器の技術を伝えた場所に他ならない。
403日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:46:44
>>402
自分の説があるかどうかは関係ありません。
分からないことを分からないということは大切なことです。
常識というだけでは何の説得力もありません。

>弥生土器が朝鮮半島南部の無文土器の影響を受けている

これは本当ですか?

>その頃、南蒙古や遼東には赤嶺紅陶文化が広がっていたので、朝鮮半島の無文土器は
>明らかにその影響を受けた文化という事になる。

これも本当ですか?
404日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:59:57
>>403
本当です。

というより、常識的な事なんですが難し過ぎましたか?
405日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:16:22
>>404
根拠は、土器がそっくりというだけですか?
406日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:16:57

 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における青銅器時代とほぼ一致する。
文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、
手捏ねか輪積みによるものがほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されていたことがわかる。そして
この無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html
407日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:20:13
>>405
いえいえ、君の弱いオツムには難しかったかと聞いているんです。

難しかったのか?
408日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:28:41
>>407
別に難しくはありませんが、説得力は感じません。
409日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:41:42
>>408
そうか。

では説得力がある君の話を聞かせてくれたまえよ。

自らは何も与えずに、人の言う事をただ説得力が無いとしか言わない
なんて子供のする事だよ(爆笑
410日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:46:01
>>408
自らは何も語らない君の方が何も説得力が無い。

つか、空っぽで、ただのアホじゃないか。
411日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:49:01
>>408
自らは何も語らず、人の言う事はただ説得力が無いと否定するだけの
空っぽ人間の君の方が全く説得力が欠けているじゃないか。

412日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:51:34
水田技術は朝鮮半島南部から日本に伝わってるね。

弥生時代の幕開けの頃の九州北部の弥生遺跡に水田と朝鮮半島南部と
そっくりの農工具と半島南部の無文土器の影響を受けた最古級の
弥生土器が同時に出土するからである。

中国から亡命者が来て弥生時代が幕開けしたなら、弥生時代の幕開け
の頃の弥生遺跡から鉄器やら灰陶やら金文やらがもう出まくりのはずだろw

でも現実はなーんにも当時の中国の主流の物的文化は伝わっておらず、
中国からの人の生命的存在感はまーったくゼロ。

それはただ単に中国から人など全く来ていないという事に過ぎない。
413日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:24:13
>>398
説得力が感じられる。
414日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:29:49
>>398>>413
ぜーんぜん説得力が感じられない。

日本語も変で、チャンコロが書いたような可笑しな文章。
415日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:15:31
炭化物が付いていたのは日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡の弥生時代早期初め
の縄文土器の名残を残した最古級の山の寺式弥生土器。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/nahatake/nahata.html

弥生土器が朝鮮半島南部の無文土器の影響を受けているのは考古学会の常識。

弥生土器も無文土器も紅陶であるが、無文土器の前の朝鮮半島の主流だった
櫛目文土器は縄文土器の影響を受けた土器。

その頃、南蒙古や遼東には赤嶺紅陶文化が広がっていたので、朝鮮半島の
無文土器は明らかにその影響を受けた文化という事になる。

ゆえに弥生土器は朝鮮半島南部から九州北部へ伝わった事が明らかな技術文化
であると事が証明できる。

その弥生時代早期初めの日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡から出た縄文土器の
名残を残す日本最古級の弥生土器に炭化物は付いていた。

日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡から日本最古級の弥生土器が出土するのである。

つまり九州北部に水田技術を伝えた場所は弥生土器の技術を伝えた場所に他ならない。
416日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:26:53
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/harukanarutabi/toraikei/toraikei.html


渡来系弥生人は大陸のどこからやって来たのでしょうか。最近の調査により、水稲耕作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人
によく似た人骨があいついで見つかっていま?
キ。この時代の中国は、政治的に動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日
本にやって来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。


同じHPに書いてあるぞw

恣意的に情報用いたらいかんねえ。

江南→九州南部→朝鮮南部と人が動いた可能性は全然
否定できないじゃねえか。朝鮮南部で満州系の土器と
出会ったって別に不思議でもなんでもない。

むしろ今日本でやっているような江南系の水田稲作は
華北、遼東、満州で紀元前に行われた形跡はねえぞ。
417日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:28:56
>>416
九州南部じゃなくて、九州北部です。
418日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:34:40
まーだ、そんな電波番組を信じてる馬鹿がいるのかw

その「日本人はるかな旅」こと国立科学博物館はこんなレヴェルw↓



>http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-10.html
>やがて、6000年ほど前、このような北方アジア人が、シベリアから南下し、
>中国の大部分に広がっていきました。2300年前頃には、水田稲作の技術とともに、
>ついに日本列島にやってきました


419日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:40:41
>この時代の中国は、政治的に動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。
>日本にやって来た渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。


その時代の中国の主流な物的文化はなーにも伝わっていないよ。

金文ひとつな。

来たとしたなら幽霊だろうなw
420日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:43:51
>>419
ま、しかし紀元前に水田稲作の行われた形跡の全くない
華北→遼東→朝鮮半島経由で日本に水田稲作が入ったと
考えるよりは余程可能性が高いけどな。

それともなにかい?水田稲作は朝鮮起源とでも主張しますかな?w
421日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:03:31
な訳がないだろw

ただ日本最古の水田のある遺跡から無文土器の影響を受けた
最古級の弥生土器が出てきてしまうのは事実。

水田技術は弥生土器の技術を伝えた場所に関係があるのは事実だよ。
422日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:50:35
無文土器とやらが弥生土器の影響を受けたのではないのか?
423日本@名無史さん:2006/02/25(土) 17:09:14
当時の紅陶文化の広がりは赤嶺紅陶文化の影響が中国東北地方(満州)一体に
広がっていて、それが朝鮮半島に南下して日本まで伝わっている。
その頃の中国大陸においては既に灰釉陶と呼ばれる原始磁器が主流で、
既に磁器の時代の入っていた。


◎弥生土器の技術の伝播

 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における
青銅器時代とほぼ一致する。文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の
平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、手捏ねか輪積みによるもの
がほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されて
いたことがわかる。そしてこの無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の
母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html
424日本@名無史さん:2006/02/27(月) 00:12:42
>>423
無文土器が列島に伝わって弥生土器の母胎となったという証拠は見られない。
425日本@名無史さん:2006/02/27(月) 10:28:17
同一の水稲耕作様式によって対馬海峡両岸の生産性が均衡してくることに
よって土器も耐久性、利便性である種のストリームラインされるのではないだ
ろうか。GMとトヨタといった感じかねー。
426がいやまん:2006/02/27(月) 11:47:19
漏れも、記紀にある、カグツチ、スサノオへの原罪、処刑、追放は古代人の
渡来人政策を反映していると思う。大体、韓国の稲作人にも追放されて日本に
入ってくるんだから、既にインフラを持っているアマテラス勢力からすれば、
僻地追放がいいところであったんだと思っているんだけど。
427日本@名無史さん:2006/02/27(月) 20:58:07
>>424
縄文晩期土器から遠賀川式土器への移行期の状態が典型的に現れ、これは本来広く
環瀬戸内で生起した現象と考えられ、当該地域の縄文文化が朝鮮無文土器文化と接触し
弥生文化を生成する過程として理解することができる。 

北部九州では突帯文系統の土器の中に朝鮮半島無文土器の影響による異系統の土器が
出現し、それが板付T式段階には遠賀川系土器の基本形の壷と甕となる。

遠賀川系の甕の形は北部九州において突帯文期の無文土器系深鉢から板付祖形甕をへて
完成するが、半島の無文土器の容量組成は遠賀川系がもっとも類似する。

その結果、畿内第T様式新段階〜第U様式の時期にも、朝鮮半島南部の無文土器文化の
影響が間接的にせよおよんでいる蓋然性が指摘できた。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~thropus/yoshida.htm
428日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:00:51


◎遠賀川式土器とは?

 遠賀川(おんががわ)とは九州の福岡県を流れる川のことで、
この川の河口付近からたくさんの「弥生式時代前期」の土器が
発見されており、そのことから、前期の弥生式土器の総称を
「遠賀川式土器」とするようになったのである。

http://www2.inetpia.ne.jp/shimasyo/syokai/tiiki/rekisi/ongagawa.htm
429日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:06:34
>>427>>428
「無文土器が列島に伝わって弥生土器の母胎となった」というのではなくて、
「縄文文化が朝鮮無文土器文化と接触し弥生文化を生成する過程として理解することができる」
に微妙に変わっているようですが、それにしても、特別明確な証拠がある訳ではないことが
よく分かりました。
430日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:22:56
>>429
特別明確な証拠も何も、考古学の常識的なところだろ。

九州北部や西日本の弥生遺跡で朝鮮無文土器がわんさか出土する
のが何よりの証拠だろう。

灰釉陶や灰陶など、中国の磁器や土器は一切出土せんのだ。残念ながら。

あと何を手本とするんだね?

いずれにせよ、無文土器の影響を受けて弥生土器は生まれている。
431日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:40:01
しかし、それを否定する方法がたった一つあるんだなw

その弥生土器の技術を持ち込んだ集団が満州以北から朝鮮半島を
短期間で定着せず一気に突き抜けて九州北部にまで渡来した
とすれば問題は別だ。
432日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:46:01
>>430
>九州北部や西日本の弥生遺跡で朝鮮無文土器がわんさか出土する

これは初めて聞きました。どこの弥生遺跡で朝鮮無文土器が出土したのでしょうか?
433日本@名無史さん:2006/02/28(火) 00:10:51
434がいやまん:2006/02/28(火) 11:01:40
朝鮮無文土器中で
●先松菊里式
● 松菊里式
 水石里式
 勒島式
が、弥生土器では
● 夜臼T 式
● 夜臼U a 式
● 夜臼U b 式
● 板付T 式
● 板付U a 式
● 板付U b 式
● 板付U c 式
● 城の越式
● 須玖T 式
と、時代的には700-800年間重なる。
炭素14年代の較正にもとづく弥生時代の実年代参照。↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
朝鮮の無文何式が、日本の何地方、弥生何式に共伴するという説明でなければ
700-800年もアバウトな話となる。
435日本@名無史さん:2006/03/01(水) 19:53:11
トンデモな初心者の方が居るようだから大雑把に出しだだけだよ。

ここでは弥生土器の技術が朝鮮無文土器の影響を受けた事さえ分かれば
よろしい。
436日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:00:17
無紋土器時代の幕開けはBC13Cくらいのようですな。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/index.htm
437日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:21:01

注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器が,日本の弥生文化の土器
と類似していることである。学者たちは,大陸と日本列島の間に交流が存在した
と見なしている。

http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm
438日本@名無史さん:2006/03/02(木) 01:02:58
水田稲作を持ってきたのは、シャムに住んでいた人たちだろ?
高床の切妻建築様式もだろ?

弥生式ドキッは関係あるんですか?
439日本@名無史さん:2006/03/02(木) 01:12:14
稲を持ち込んだのは7〜8000年前に琉球進出した縄文人自身。

水田技術は半島南部から。

渡来人は北方アジアのツンギーデ。

あほは氏になさい。
440日本@名無史さん:2006/03/05(日) 16:03:12



 稲作農耕が伝播する前の縄文時代から、朝鮮半島と日本列島の間では、人びとの盛んな
交流がありました。考古学の資料からも、縄文時代前期の土器が朝鮮半島の櫛目文土器と
つながりがあることがわかっています。また、日本列島での稲作の広がりと関係がある
遠賀川式土器(弥生前期の土器)が、朝鮮南部の無文土器に起源をもつことが指摘されて
います。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002051311.htm

441日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:27:39
中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770−同221年)の地方国家、越の貴族墓から、日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土した。発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張敏所長が9日までに明らかにした。

 日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。

 稲作農耕を中心とする弥生文化のルーツ解明にも影響を与えそうで、発掘結果をめぐる今後の議論が注目される。

※写真=中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)

(共同通信社)

http://news.google.co.jp/news?hl=ja&ned=&q=%E7%A8%B2%E4%BD%9C%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6&ie=UTF-8&filter=0


442日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:33:13
稲作は縄文時代から行われている。
朝鮮半島よりも早期に稲作が行われていた可能性もある。

近年になって縄文後期に属する南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが判明している。
また朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、縄文時代前期にまで遡れるとする説もある。

また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたことも判明しつつある。
さらに近年の炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきたことも特筆すべきことだろう。

朝鮮半島よりも早期に稲作が行われていたことを示すデータとして注目されている。

443日本@名無史さん:2006/03/08(水) 01:08:40
>>442
地形や気候について、稲作の適地が半島より多いはずですね。
444日本@名無史さん:2006/03/08(水) 02:02:52
近年の研究では縄文時代には陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることがわかってきています。
つまり朝鮮半島よりも日本の方が早期に稲作が行われてきたということです。
また遺伝子考古学により稲の伝来方法も朝鮮半島よりも「長江周辺から直接伝来したルート」が有力視されている。

1、縄文後期に属する南溝手遺跡の土器片中からプラントオパールが発見されたことにより、約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが明らかにされた。
さらに朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、稲作は縄文時代前期から行われていた。
また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたことも判明しつつある。
さらに近年の炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた。
朝鮮半島よりも早期に稲作が行われていたことを示すデータとして注目されている。

2、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、日本と中国にしかない固有の(朝鮮半島には存在しない)水稲の品種が発見された。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠となる。

3、弥生時代の稲作の跡と言われている所から出土する稲は、熱帯ジャポニカと言われる種類は縄文時代に伝わった稲が弥生時代になってもそのまま栽培されていた事を示しており、古墳時代にもこの傾向は続き、江戸時代になっても熱帯ジャポニカの稲は出土します。
結論として、弥生時代に朝鮮半島からやってきた稲はあったとしても極めて少ないと考えられる。
445日本@名無史さん:2006/03/08(水) 19:44:48
>>441
あのな、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わったとホザく南京博物院
考古研究所長のどこが超ドAFOなのかと言うとな、

この一行にその超ドAFOの全てが凝縮されている。

日本で最先端を行く2chの弥生人スペシャリスト達ならすぐに分かる
だろうけどさw

銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
銅鐸(どうたく)に形が似た 青 磁 器 の鐸がこのほど出土
446日本@名無史さん:2006/03/08(水) 19:56:41
>>442-444
まーだ7年前に終わった話をしてるのかw

稲作は最初から日本にあったのはもう常識だろが。

問題の焦点は『水田技術の伝播』だろがAFO。
447日本@名無史さん:2006/03/11(土) 14:04:43
銅鐸はBC2C頃に日本に伝わっているが、青磁が中国で開発されるのはAD1C。
448日本@名無史さん:2006/03/16(木) 02:49:43
447はアホですか???

紀元前770−同221年の地方国家、越の貴族墓から
日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土した。
って書いてあるじゃん。

紀元前ってことは
「BC7C〜BC2C」ってこと。
銅鐸はBC2C頃に日本に伝ってるなら、それよりも前に作られているんだよ。
449日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:22:44
中国人学者の思いつきだが
なんで青磁が銅製品の起源なのよ
銅鐸の変遷はわかっており、最初の銅鐸は朝鮮式小銅鐸からの変化であることは明らか。
450日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:45:37
>>449
どうかなあ?(ここで笑う)
451日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:57:26
中国のはちょっと似てるだけの思いつき
452日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:02:51
【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、最初は乾馬国(コマ)と呼ばれたようだ。
453日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:05:10
そのコピペは聞き飽きたし

文献にもないただの妄説
454日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:26:07
ほっとけばいいじゃん。




455日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:29:01
アク禁依頼しようとも思うが
456日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:36:01
【百済の歴史】

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
457日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:38:22
こいつ凄いなw

池沼という意味で
458日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:36:46
>>456
なるほど、そうだったのか。
459日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:38:20
自作自演w


根拠もないのになw
460日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:49:11
百済の建国に帯方郡の影響はありうるが、3世紀のこと。
ただし帯方郡に対抗して馬韓北部の韓人が結集したもの。
倭との直接関係は文献上360年代以降、考古学的にも同様。
また漢城百済の領域に入らない百済より南の馬韓諸国は3世紀頃から倭と通交。
西新遺跡など博多湾岸で大量の馬韓土器がより近い伽耶土器よりも出てくることが最近分かった。
461日本@名無史さん:2006/03/17(金) 07:57:23
>>449

日本で発掘さえる銅鐸に使われている鉛は中国産か日本産なんだぜ。

>最初の銅鐸は朝鮮式小銅鐸からの変化
銅鐸は中国から発生したに決まってるだろうが!!
朝鮮〜中国に伝わるワケないって。


紀元前770−同221年の地方国家、越の貴族墓から
日本の弥生時代の銅鐸に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土した。
って書いてあるじゃん。

紀元前の「BC7C〜BC2C」で中国で銅鐸の原型が作られたってこと。
銅鐸はBC2C頃に日本に伝ってるのが定説だけど、
それよりも前に伝わっている可能性があるぜ。

462日本@名無史さん:2006/03/17(金) 08:12:24
そんな形はちょっと似てるだけ
銅製品じゃないのに
画像か図を出してみw
朝鮮式小銅鐸は銅鐸の祖形そのもの
また朝鮮の青銅器も中国の鉛使ってるものも多いし、日本の青銅器も朝鮮産鉛を使ったものが初期には多いがな
463日本@名無史さん:2006/03/17(金) 08:16:27
近年の研究では縄文時代には陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることがわかってきています。
つまり朝鮮半島よりも日本の方が早期に稲作が行われてきたということです。
また遺伝子考古学により稲の伝来方法も朝鮮半島よりも「長江周辺から直接伝来したルート」が有力視されている。

1、縄文後期に属する南溝手遺跡の土器片中からプラントオパールが発見されたことにより、約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが明らかにされた。
さらに朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、稲作は縄文時代前期から行われていた。
また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたことも判明しつつある。
さらに近年の炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた。
朝鮮半島よりも早期に稲作が行われていたことを示すデータとして注目されている。

2、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、日本と中国にしかない固有の(朝鮮半島には存在しない)水稲の品種が発見された。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠となる。

3、弥生時代の稲作の跡と言われている所から出土する稲は、熱帯ジャポニカと言われる種類は縄文時代に伝わった稲が弥生時代になってもそのまま栽培されていた事を示しており、古墳時代にもこの傾向は続き、江戸時代になっても熱帯ジャポニカの稲は出土します。
結論として、弥生時代に朝鮮半島からやってきた稲はあったとしても極めて少ないと考えられる。
464日本@名無史さん:2006/03/17(金) 08:33:52
問題は水田技術、灌漑技術や水田に伴う道具類や農耕文化複合の伝播だ。それらが朝鮮半島から人を伴い渡来したのは多くの考古学的証拠から明らか。
陸稲と水田品種は違うからこの時な水田品種も来ただろう。
なお現在の在来種で過去、特に古代を推定するのは問題がある。その後の環境などで淘汰されたり、また農耕文化定着後にその環境に合う品種だけ伝わることもあるからだ。
465日本@名無史さん:2006/03/17(金) 18:50:38
>>464
水田技術なんてどうでもいいだよ。
問題なのは『本当に稲作は朝鮮半島から来たのか?』だろ!
論旨を入れ替えるな!!
「麺は日本にあったが、スープが朝鮮半島から伝来したかが重要だ。」って言っているのと同じだ。

>>463
の意見いいね。これで朝鮮半島から稲作が来るよりも早く日本は稲作をしていたことが証明されたわけだ。

近年の研究では縄文時代には陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることがわかってきています。
つまり朝鮮半島よりも日本の方が早期に稲作が行われてきたということです。
また遺伝子考古学により稲の伝来方法も朝鮮半島よりも「長江周辺から直接伝来したルート」が有力視されている。

1、縄文後期に属する南溝手遺跡の土器片中からプラントオパールが発見されたことにより、約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが明らかにされた。
さらに朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネプラントオパールが発見されたことによって、稲作は縄文時代前期から行われていた。
また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたことも判明しつつある。
さらに近年の炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた。
朝鮮半島よりも早期に稲作が行われていたことを示すデータとして注目されている。

2、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、日本と中国にしかない固有の(朝鮮半島には存在しない)水稲の品種が発見された。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠となる。

3、弥生時代の稲作の跡と言われている所から出土する稲は、熱帯ジャポニカと言われる種類は縄文時代に伝わった稲が弥生時代になってもそのまま栽培されていた事を示しており、古墳時代にもこの傾向は続き、江戸時代になっても熱帯ジャポニカの稲は出土します。
結論として、弥生時代に朝鮮半島からやってきた稲はあったとしても極めて少ないと考えられる。



466日本@名無史さん:2006/03/17(金) 19:05:56
>>464

日本人は縄文時代から稲作をしていたのか、最近の研究で証明されているよね。

稲作をしていたってことは、日本独自の水田技術・灌漑技術・水田に使う道具はあったってことだよね。
木製の鍬とか。まさか手で堅い地面を掘るなんて不可能だし。

そこで朝鮮半島から新しい「水田技術・灌漑技術・水田に使う道具」が伝来することが、どうして重要なの?

水田技術が伝わったことによって、人口が爆発的に増加したわけ?

>>464
朝鮮半島から新しい水田技術が伝播することの重要性を説明して下さい。
467日本@名無史さん:2006/03/17(金) 19:17:15
長江周辺の水稲には8種類がある。
A〜Hまでの種類とすると、

日本 ⇒ A・B
朝鮮半島 ⇒ A・C・D・E・F・G・H

がある。B種類は朝鮮半島には存在しない種類だ。

逆に、A種類の水稲については、日本から朝鮮半島に伝播した可能性がある。
468日本@名無史さん:2006/03/17(金) 19:52:23
>>467

C・D・E・F・G・Hの種類の水稲は日本にはないんだ!!
ビックリだね。

もし、朝鮮半島から水稲が伝来したならば、C・D・E・F・G・Hの種類も伝来してるはずだよね。

なんで日本にはC・D・E・F・G・Hの種類がないの?
469日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:05:31
伝播の先端だから淘汰されたか、単に伝わらなかっただけ。また陸稲と水田稲作の違いがどうでもいいってイタイな。

馬鹿かお前。

まあ水田稲作は朝鮮半島から来たというのはいいんだな。
470日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:20:48
木鍬が事実出ているし、使用痕もある。木は材によっては堅いし、別に岩盤を耕したわけじゃない。湿地を耕したはずだが。あと石鍬は畑作には使いうるが、サイズ的に水田耕し用じゃないが。縄文からあったのは根菜類の土掘り用とされる。水田用具ではない。
木鍬が水田用なのは実際の水田遺跡での出土からも明らかだが。お前無知過ぎ。
あと道具といえば斧類含め大陸系磨製石器群が朝鮮半島から水田稲作と来ている。
また陸稲の灌漑とは何だかなあ。陸稲はそのままでは水田につながらない。
灌漑水路や井堰は陸稲にないだろ。
また水田品種は現存品種で古代を推定してもあくまで推測に過ぎず、
様々な歴史過程や品種の淘汰、後世の品種伝播を考える必要があり、あまり根拠にならん。
471日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:23:22
陸稲があったことが、なんでいつのまにか独自の水田稲作があったことになるんだ。アホ過ぎこいつ。
472日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:25:13
北朝鮮では水稲の遺跡が見つかっていない。
ということは陸ルートではなく、海ルートで伝わったことになる。
海を経由すれば、日本も朝鮮半島南部も優先順位は変わらない。


最近、島根や福井などの日本海側に医療廃棄物は流れ着いている。
血の付いた注射器や薬の入ったビンだ。
この地域では社会問題になっている。
最初は朝鮮半島から流れ着いたものだと思ったが、中国の福建省からだと判明した。

中国の福建省から風任せに流れれば、太平洋側ではなく、日本海側に漂着することが判明した。
中国の福建省といえば、長江に近い。
そして、徐福に稲を伝えた有力者の出発した地として有名だ。

古代人は風に乗って中国から出発したのだろう。
そして、日本列島に着き、朝鮮よりも早く日本で稲作が始まったのではないか。
473日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:38:54
北朝鮮はいいとしても、優先順位が変わらないと言ったはずが、
なぜいつのまにか日本が先になるのか不明。
実際は最近は無文土器前期の朝鮮半島南部の農耕関係資料は増えていて、水田も出てきはじめている。
無文土器前期は日本の弥生早期の前だ。朝鮮半島の方が水田稲作は早い。水田含めた農耕文化複合が朝鮮半島から来たのは明白。
あと縄文の陸稲含めた畑作は、採集経済の一部の補助的生業であり、灌漑も伴わず、いわゆる農耕社会になっていない。しかし、弥生早期以降は水田稲作、灌漑を伴った本格的農耕社会だ。その直接的起源地は数多くの文化要素から朝鮮半島南部だ。
474日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:41:50
潮流で来ることがある、漂流があることと、それが本格的な文化伝播になりうるかは全く別問題。何の論証にもならないが。
475日本@名無史さん:2006/03/17(金) 20:49:00
縄文中期までのプラントオパールは怪しい。混入が疑われている。種子で確認できない。
また水田稲作開始時には水田に向いた品種も入っただろう。陸稲の一部は水田に適応した品種もあっただろうが、それだけではないだろう。
朝鮮半島との品種の一部の相違は環境によりお互いで淘汰されたと考えても良い。
476日本@名無史さん:2006/03/17(金) 21:42:06
農学系の文献も目を通しておくといいよ。
すでに古典になっているが、安藤広太郎とか田中正武とか中尾とか・・・

ちなみに満州・北鮮では、気候上、稲が育たない。
現在でも、この辺りでは、麦粟キビコウリャンなどが栽培される。
477日本@名無史さん:2006/03/17(金) 21:47:27
ただ農学の古い文献は今では考古学的所見と合わない部分もあるが。
例えば稲作の起源地問題など。中尾佐介系の佐々木高明は考古学もよく取り入れているが
478日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:29:27
満州・北鮮では、気候上、稲が育たない。
現在でも、この辺りでは、麦粟キビコウリャンなどが栽培される。

では、どのようなルートで稲は伝わったのか?
海を経由したからだろう。

長江周辺の水稲には8種類がある。
A〜Hまでの種類とすると、

日本 ⇒ A・B
朝鮮半島 ⇒ A・C・D・E・F・G・H

朝鮮半島B種類は朝鮮半島には存在しない種類だ。
もし、朝鮮半島を経由したのならば、朝鮮半島には存在しないB種類の稲が日本にあるのはどうしてだろう?

そして日本の稲の約70%以上がこのB種類から派生しているのは、
やはり水稲も朝鮮半島は経由していない証拠ではないか?
479日本@名無史さん:2006/03/17(金) 22:36:02
北朝鮮はもとから経由してない。朝鮮半島南部経由だが。
また現在の品種分布で起源や伝播経路を推定するのは問題が大きいがな。遺跡出土の米が品種レベル、できれば遺伝子レベルでわかるまでは怪しい推定に過ぎない。
何度も言ってるが。水田稲作に伴った多くの文化要素から朝鮮半島南部からの伝播を無視して、いきなり中国直接渡来を主張するのは誤り。
480弟の日本国民へ:2006/03/17(金) 22:58:21
弟の日本国民へ

1、朝鮮人が稲作を日本に教え、米文化を日本に広めました。

2、仏教と仏像を日王に紹介したのも朝鮮です。

3、奈良(ナラは韓国語で国に意味)の仏像をつくったのは渡来人、すなわち朝鮮人です。

4、徳川時代に教えを請われ儒教を教え、儒教を通じて明治維新を起したのは朝鮮人です。

5、漢字を伝えたのも朝鮮人です。


弟の日本人は最近、恩を仇で返していませんか?
独島は韓国領ですよ。

反省し謝罪すれば、
兄の国は寛容な態度で、弟を許しましょう。
481日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:08:57
ピプシサーマル期に一応水田を作る稲作法が
遼東半島を回りきって朝鮮を南下した形跡は一応あるようだよ。
降水量が多く水はけの悪い粘土地が多い日本列島では
天然の水溜りに稲を植えつければ水陸未分化稲なら収穫が見込めるだろうが
降水量が少ない遼東や朝鮮半島ではそんな適当な稲作は不可能なので、
小規模水田として確立した華北の稲作でこそ伝播可能だったと思われる。
それが日本へ伝わったと。だがこの伝播技術は水田を作るというだけで
まだ直播の北方的農法だったことは確実なので
ここで伝来した農法は後世の日本式稲作の雛型そのものとは言えない。
縄文中期から奈良時代くらいまでの長い間に複数のルートで技術が渡来し
それが改良改善されて日本式稲作が成立するわけだからね。
482日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:11:08
魏志倭人伝には「邪馬台国の住民は全身に刺青をして、抜歯をしたり歯を黒くしていた。」と記述があります。

刺青・抜歯・歯を黒くする風習は中国の長江周辺の呉や越にみられます。
朝鮮半島には「刺青・抜歯・歯を黒くする文化」はありません。

また日本と長江周辺には夜這いの文化はありますが、
朝鮮半島にはありません。

卑弥呼などのシャーマンの形式も日本は憑依タイプですが、朝鮮は体内から出てきます。
またその儀式の時に、日本人は血を嫌いますが、
朝鮮半島では血で穢れたもの(鶏の首を切ってを殺す)など使用します。

長江周辺と日本には共通の文化が多くあり、顔も似ていますが、
朝鮮とは異なった文化がほとんどで、顔も似ていません。

以上の理由により、朝鮮よりも『長江周辺に日本のルーツ』があると考えるのが自然ではないでしょうか?


楽浪郡が新羅人を皆殺しにした記述があります。
楽浪郡とは後の百済の場所にあった漢王朝の機関です。
483日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:12:47
これはまた嫌韓厨がわざと煽っているな。
1、2、5はいいとしても、3、4はダメだろ。
朝鮮から伝わったものは多い。特に原始古代はな。しかし何でもかんでも朝鮮起源じゃないし、日本から行ったものもある。隣同士ふつうに交流がある。

また竹島は元は日本領だ。李承晩が内政から目をそむけるため無理やり駐屯し居座ったに過ぎないが。最初に何もしなかった日本政府も無能だが。

484日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:16:36
5は楽浪あたりかもしれんが、4世紀に百済から中国古典が五経博士とともに伝わったのも確か。これは日本書紀にあるし。日本側が認めるところ。
485日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:21:55
>>482
楽浪と百済は場所違いますが。
また朝鮮半島はその後も満州や華北の文化影響が強く、日本と違う文化に変化しただけ。
根拠が超時代的、単純伝播主義の文化圏説だ。民族学勉強したら。
486日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:24:30
>>477
それをいったら「古い考古学」も現在否定されている部分も多い。
読んで欲しいのはそこじゃないですよ。

華北で栽培される麦・粟・キビなどは「華北→満州→北鮮→南鮮→日本」で伝播。
南方原産の栽培植物である里芋・蒟蒻・茶などは「江南→日本」で伝播。
(稲の場合、気候による栽培北限ラインが朝鮮半島を横断しているのが問題ですが、
個別に見ていくと日本にあって朝鮮にない野生植物或いは栽培植物も多い)
487日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:28:29
>>481
板付遺跡などを見ると、弥生初期から灌漑技術や水田区間にバリエーションがあり、一概に言えない。
江南起源の水田技術も来ているだろう。ただし朝鮮半島南部で一度融合してからだが。
最近の韓国の大規模調査では無文土器時代の水田や畑作跡が多く出ている。水田もバリエーションがあるようであり、それら調査成果が報告される一般化すれば我が国の農耕文化の起源もより明白に解明するでしょう。
488日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:32:44
>>486さんは水田稲作は朝鮮半島南部経由でいいですね?
江南起源の作物については、書かれているように朝鮮半島に一部ある可能性は否定できないのと、作物により、伝来時期が問題では。
茶なんかかなり新しいはずだが。
489日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:34:44
>>482

「卑弥呼などのシャーマンの形式も日本は憑依タイプですが、朝鮮は体内から出てきます。
またその儀式の時に、日本人は血を嫌いますが、
朝鮮半島では血で穢れたもの(鶏の首を切ってを殺す)など使用します。 」

これは梅原猛が言っていた説だよな。
俺もこの本を読んで、
古代朝鮮人が渡来して倭人を支配して大和朝廷になったって説を否定できたな。

古代朝鮮人と古代日本人は違いすぎる。
文化的にも、風俗的にも。
朝鮮人は血の穢れも平気らしいな。
日本人は血の穢れに敏感すぎる。
大和朝廷では日本人はカラスの死体があるだけで御祓いする、
もしくはその場所は焼くのような行為をする。

梅原は植物学的に考えても、南方原産の栽培植物である稲は朝鮮半島よりも早く日本列島に伝播するとも言ってたな。
490日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:42:38
梅原は哲学者だ。面白い発想もあるが、歴史学者としてはDQN。法隆寺で露呈したが。ましてや考古学は素人。
そんなヤシの言説しか根拠ないのか?
またシャマニズムについては日本のそれは北方系とする説もあり、簡単には結論出せない。
韓国と日本のシャーマンの違いは歴史的展開が違いによる変化があり、後の歴史時代の違いが元からそうという保証はない。
491日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:45:58
>>487
遺物の出土状況を見るに、朝鮮南部と江南の結びつきは
九州と江南の結びつきに負けず劣らず証拠に乏しいものだから、
俺は弥生早期に九州に渡来したのは北方系稲作一本だったと考えているよ。
黒陶のような土器は九州でも半島南部でも散発的に出ないことも無いが。
江南の農法が本格的に日本に渡来するのはもう少し後ジャマイカ。
下手をすれば大和朝廷時代に入ってからかもしれない。
江南式稲作法は結局朝鮮半島では近代に至るまでほとんど根付いていないので
(今の韓国の江南・日本式稲作法は大日本帝国の農法指導によるもの)
後世のこの農法は東支那海を直接渡来したと思われる。
492日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:47:13
その儀式の違いは農耕に伴う家畜の有無にある。佐原真が騎馬民族説否定に言ったやつだ。
ただし江南というか中国にも動物供儀はあり、それは弥生文化に伝わってあない。
493日本@名無史さん:2006/03/17(金) 23:53:53
>>491
漏れも江南から朝鮮半島南部というより山東あたり経由と思う。あと弥生初期だけでなく歴史時代を含めた何度かの農業技術や作物伝播があったというのは賛成。
ただ水田技術は低湿地に小さい水田を作るだけの単純なものでは当初からなかった。
板付遺跡とかの内容を評価すべき。
494日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:10:21
>>493
そりゃ雨季が実質2ヶ月程度しかなく夏も短い遼東や朝鮮半島で
直播で種から収穫まで5ヶ月近く
水田で稲を育てなければならなかったわけだから
それなりの灌漑技術はあったはず。
九州の気候から考えればオーバースペックにさえ見える。
だが、カロリー計算で見れば米の比率はかなり低かったらしく、
(板付あたりではまだ木の実のほうが明らかにカロリー比重が高い)
本格的な稲作依存の生活様式では無かったらしい。
そういう意味で「小規模な稲作」ということだよ。
江南でかなり昔から行われていたような巨大なものとは違う。
495日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:22:07
ただ最近は田植えがあったとする説が強いが。少なくとも古墳時代にはあったようで、弥生時代も大足や田下駄の存在から農学的に主張されている。
496日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:54:18
降水量が多く水はけの悪い粘土地が多い日本列島では水稲は育ちやすい。
天然の水溜りに稲を植えつければ水陸未分化稲なら収穫が見込める。

降水量が少ない遼東や朝鮮半島ではそんな適当な稲作は不可能。
雨季が実質2ヶ月程度しかなく夏も短い遼東や朝鮮半島で
直播で種から収穫まで5ヶ月近くも水田で稲を育てるのは技術が必要。


では、南方原産の栽培植物で多量の水分も必要であるある稲は
朝鮮半島と日本列島のどっちの早く適応するだろうか?

明らかに日本である。

稲は植物です。
植物学も勉強したら幅も広がりますよ。

歴史学だけの硬い頭で考えるのではなく、他の学問も勉強して柔軟に考えましょうよ。
497日本@名無史さん:2006/03/18(土) 00:59:13
水田がより適応し、その後発展したのはなるほど朝鮮より日本列島だが、日本列島への渡来の直接的起源地は朝鮮半島南部起源であることも考古学資料からは否定しがたいがな。
498日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:51:36
>>475
> 縄文中期までのプラントオパールは怪しい。混入が疑われている。種子で確認できない。
また「あいつ」か?
499日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:52:28
>>478
> 満州・北鮮では、気候上、稲が育たない。
いつの話してんの?
500日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:53:14
>>480
で、いくら払えと?(笑い)
501日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:59:50
>>497

>南部起源であることも考古学資料からは否定しがたいがな
その資料を具体的に挙げなければ説得力はありませんよ。


478さんの
「長江周辺の水稲には8種類がある。
A〜Hまでの種類とすると、

日本 ⇒ A・B
朝鮮半島 ⇒ A・C・D・E・F・G・H

朝鮮半島B種類は朝鮮半島には存在しない種類だ。
もし、朝鮮半島を経由したのならば、朝鮮半島には存在しないB種類の稲が日本にあるのはどうしてだろう?

そして日本の稲の約70%以上がこのB種類から派生しているのは、
やはり水稲も朝鮮半島は経由していない証拠ではないか? 」

は説得力がありましたよ。
502日本@名無史さん:2006/03/18(土) 02:01:58
>>497
> 日本列島への渡来の直接的起源地は朝鮮半島南部
要するに、陸伝いではなくて海伝い臭いということでは?
もしそうなら、なにゆえに半島と島嶼(日本列島ね)を分けようとするのか?
海流に乗ってきたと仮定するなら、地域的には大差なくて、どちらにも着く可能性があるのでは?
503日本@名無史さん:2006/03/18(土) 02:05:10
>>501
同感ですね。
「何が何でも陸伝いの半島経由と決めつける必要などない」といったところ。
504日本@名無史さん:2006/03/18(土) 02:06:57
>>501
一方、それなら、半島にはあって島嶼にはないタイプはどういう経由で来たのか。
505日本@名無史さん:2006/03/18(土) 07:15:04
>>498-504
同一人物自演乙!


全てへの反論は書いているし、朝鮮半島南部から水田稲作と農耕文化複合が伝わったことはふつうに定説だし、考古学的根拠も何度も書いているがな。
事実、考古学的に水田稲作も日本より古い。
海流云々はただそれだけじゃ根拠にならないが。
あとプラントオパールの危うさはちょっと調べれば分かるがな。
こいつはこうやって故意に話をループさせる。
アホらしw
506日本@名無史さん:2006/03/18(土) 07:59:03
江南厨は同じ話の繰り返しばかりで議論にならんな。
考古学は無知すぎだし。
507日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:18:18
>>480 ここには新興宗教信者の出入りは禁止だ。
508日本@名無史さん:2006/03/18(土) 08:38:36
>>480はむしろ嫌韓厨側の故意的な煽りだろ
509日本@名無史さん:2006/03/18(土) 09:19:10
>>505

>朝鮮半島南部から水田稲作と農耕文化複合が伝わったことはふつうに定説
>考古学的に水田稲作も日本より古い
その根拠を挙げて頂きたい。

「〜は普通に定説」「〜は事実」じゃ説得力ないよ。

478さんの
「長江周辺の水稲には8種類がある。
A〜Hまでの種類とすると、

日本 ⇒ A・B
朝鮮半島 ⇒ A・C・D・E・F・G・H

朝鮮半島B種類は朝鮮半島には存在しない種類だ。
もし、朝鮮半島を経由したのならば、朝鮮半島には存在しないB種類の稲が日本にあるのはどうしてだろう?

そして日本の稲の約70%以上がこのB種類から派生しているのは、
やはり水稲も朝鮮半島は経由していない証拠ではないか? 」

について反論はないのか?

ないということは認めたということになるぞ。


510日本@名無史さん:2006/03/18(土) 09:30:44
>>480
儒教からは明治維新の発想など出てこんがな

熱帯原産の米が寒冷地からくるわけないやん?
フツーに江南から九州北部と朝鮮南部に同時伝播でしょ?
米ひとつ自分の手でつくったことない奴がギャーギャーわめくんじゃねえ!
511日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:06:20
だから考古学的に朝鮮南部が早いし、水田含む農耕文化がまとめて朝鮮南部から来たって。
同時伝播は考古学的に無いが
512日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:12:15
>>509
根拠今まで何人もたくさん書いているのに無視してるだけだろ

阿呆らしいなw
513日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:23:26
>>512
何人も沢山書いてあるなら、根拠上げるのは簡単だよね。
それでは根拠をどうぞ。
514日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:00:51
あのな、北部九州出土の弥生時代早期初めの土器に付着した炭化
物を放射性炭素年代測定した結果から「水田稲作の開始(弥生時代早期)
は紀元前十世紀後半」と発表されたんだよ。

BC10C、当時の中国はすでに灰釉陶が主流の時代である。

その炭化物が付着した土器はまぎれもない朝鮮半島南部の無紋土器
の影響を受けた紅陶である最古級の弥生土器。

灰釉陶でも灰陶でも黒陶でもない。

水田技術を九州北部に伝えた場所は弥生土器の技術を伝えた場所
そのもの。
515日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:03:24
縄文土器から弥生土器になる過渡期があるのは当たり前。
ただし、弥生土器は間違いなく朝鮮半島南部の紅陶文化が母体。

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/1997b.html
516日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:07:40
中国には遅くともBC5Cまでには間違いなく小麦があった。

日本には弥生時代後期になってから、ようやく小麦と餅類が
伝わったそうだ。

何で弥生人がやって来た時に小麦が入ってこないのかね?


木鍬が事実出ているし、使用痕もある。木は材によっては堅いし、別に岩盤を耕したわけじゃない。湿地を耕したはずだが。あと石鍬は畑作には使いうるが、サイズ的に水田耕し用じゃないが。縄文からあったのは根菜類の土掘り用とされる。水田用具ではない。
木鍬が水田用なのは実際の水田遺跡での出土からも明らかだが。お前無知過ぎ。
あと道具といえば斧類含め大陸系磨製石器群が朝鮮半島から水田稲作と来ている。
また陸稲の灌漑とは何だかなあ。陸稲はそのままでは水田につながらない。
灌漑水路や井堰は陸稲にないだろ。
また水田品種は現存品種で古代を推定してもあくまで推測に過ぎず、
様々な歴史過程や品種の淘汰、後世の品種伝播を考える必要があり、あまり根拠にならん。


陸稲があったことが、なんでいつのまにか独自の水田稲作があったことになるんだ。


実際は最近は無文土器前期の朝鮮半島南部の農耕関係資料は増えていて、水田も出てきはじめている。
無文土器前期は日本の弥生早期の前だ。朝鮮半島の方が水田稲作は早い。水田含めた農耕文化複合が朝鮮半島から来たのは明白。
あと縄文の陸稲含めた畑作は、採集経済の一部の補助的生業であり、灌漑も伴わず、いわゆる農耕社会になっていない。しかし、弥生早期以降は水田稲作、灌漑を伴った本格的農耕社会だ。その直接的起源地は数多くの文化要素から朝鮮半島南部だ。
517日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:14:10
縄文石器の鍬は畑作用か芋掘り用。
水田耕起用には不適切で、木器が使われる。それは日韓で一致。
あと弥生初期の石包丁ですが、韓国の無文土器前期に類似先行形式がありますが。山東もネットでなく本でよく調べたら。
あと大陸系磨製石器群って知ってますか?韓国にたくさんありますが。水田含む農耕文化に伴って伝播したのは確実ですが。

木鍬が事実出ているし、使用痕もある。木は材によっては堅いし、別に岩盤を耕したわけじゃない。湿地を耕したはずだが。あと石鍬は畑作には使いうるが、サイズ的に水田耕し用じゃないが。縄文からあったのは根菜類の土掘り用とされる。水田用具ではない。
木鍬が水田用なのは実際の水田遺跡での出土からも明らかだが。お前無知過ぎ。
あと道具といえば斧類含め大陸系磨製石器群が朝鮮半島から水田稲作と来ている。
また陸稲の灌漑とは何だかなあ。陸稲はそのままでは水田につながらない。
灌漑水路や井堰は陸稲にないだろ。
また水田品種は現存品種で古代を推定してもあくまで推測に過ぎず、
様々な歴史過程や品種の淘汰、後世の品種伝播を考える必要があり、あまり根拠にならん。

518日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:16:20
北朝鮮はもとから経由してない。朝鮮半島南部経由だが。
また現在の品種分布で起源や伝播経路を推定するのは問題が大きいがな。遺跡出土の米が品種レベル、できれば遺伝子レベルでわかるまでは怪しい推定に過ぎない。
何度も言ってるが。水田稲作に伴った多くの文化要素から朝鮮半島南部からの伝播を無視して、いきなり中国直接渡来を主張するのは誤り。

江南説にしろ華北説にしろ、弥生人が本当に中国から来たのなら、

何で当時の中国の主流だった灰釉陶や印文硬陶が伝わってないのかね?

最低でも何で粗悪な灰陶くらい伝わっていないのかね?

何で漢字の前身である金石文も伝わっていないのかね?

何で青銅貨などの金属貨幣くらい伝わっていないのかね?

何で木製車輪のような便利な良いものが伝わっていないのかね?

何で当時の中国で主流だった土とん墓が主流にならないのかね?

何で弥生文化は紅陶文化と支石墓文化なのかね?

これらは当時の朝鮮から満州にかけての文化ですよ。

519日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:19:20
紹興酒も伝わっていない。


紹興酒の歴史は約二千五百年以上前、文字が書き記された頃に始まり、
これは春秋時代の越の国からの計算となり ます。紀元前492年、越は呉に敗れ、
臣下は妻を伴い呉へ労役に行くことになりました。《呉越春秋》には臣下たちが
越を離れる際、酒を酌み交わし別れに涙する句の記述がなされています。
それが古典書に記された紹興酒であるといわれています。1973年、紹興地区に
帰属する"余姚河姆渡"にて、今から7千年以上前の原始氏族社会の遺跡が発掘され、
大量のモミ・陶器・陶片・骨製木製の道具・芸術品などが出土し、当時すでに
醸造の物質的条件を兼ね備えていたことが立証されました。中国建国以来、
紹興各地から、多くが春秋戦国時代の青銅・印紋・陶製の酒器などが出土し、
初期の紹興酒が2500年前から存在していたことが更に立証されています。

http://www.the-best.co.jp/chinese/02.html

弥生土器は朝鮮無文土器を元に生まれた土器。

縄文土器に比べて薄手で堅く、赤褐色を帯び、無地か、模様があっても
幾何学的な簡素なものがほとんどゆえ、縄文土器と明確に区分できるし、
形成もちゃんと轆轤に近いものが使用されている。

http://members.at.infoseek.co.jp/toujiki/jhis/yayoi.htm

中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

520日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:22:54
>縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を
>見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。

絶対無理。
育苗から脱穀まで見よう見真似で出来るかね?
水田だって貯水池や排水路などの利水・土木技術も必要です。
農機具や穀物倉庫、米の調理に関わる竈や調理器も必要です。
更に天体観測による暦の概念も必要です。
さらにそれらの作業を行う大勢の民衆を指示統括する高度な集権的支配組織概念も必要。
あと土地・水源地所有権の概念も必要です。

521日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:24:47
 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
九州北部に水田技術を伝えた場所はどこか?

それは九州北部に農工具を伝えた場所でもある。

九州北部に農工具を伝えた場所。

それは朝鮮半島南部。


522日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:35:15
>弥生時代を開いた最初の渡来技術は水田稲作農耕でした。
>水田稲作をはじめて受け入れた北部九州のムラからは、朝鮮半島南部
>とそっくりの農工具が出土します。稲作技術はもとより、住居の構造
>やムラのあり方にも彼らの影響が見えます。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data5.html

まず、仮に優れた陶器製作技術者が来なかったとしても、多量に渡来したなら持ち込み品は多少はあるはずだ。しかしそれはない。
また自分の文化を多少は保持しようとするはずだ。だから例えば中国の灰陶を模倣した弥生土器が出ていいはずだ。しかしそれすらない。
また貨幣が入ったが鋳直したってか?
それは一見もっともらしいが、日本で青銅器が出てくるのは弥生前期末からだが。
しかも初期の青銅器は鉛が朝鮮半島産が多いがな。また青銅器自体の型式もほとんど朝鮮半島系だが。全くつじつまが合わないなw
それと難民だから技術者が来なかったってか?青銅器は技術者いるだろw論理が自己矛盾だなw
まあその場限りの言い訳だから馬鹿なこと言うわけだろうがw



523日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:37:57


では、なぜ弥生時代の幕開けの頃の九州北部の弥生遺跡に
水田技術と朝鮮半島南部とそっくりの農工具と半島南部の無文土器の
影響を受けた最古級の弥生土器が同時に出土するのかね?

中国から亡命者が来て弥生時代が幕開けしたなら、弥生時代の幕開け
から鉄器やら灰陶やら金文やらがもう出まくりw

でも現実はなーんにも当時の中国の主流の物的文化は伝わっておらず、
中国人の生命的存在はゼロ。

それはただ単に中国から人など全く来ていないという事に過ぎない。

524日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:59:14
ていうかあまりに考古学に暗いデタラメなレスばかりだが
スレ自体議論が平行するばかり
不思議なのは、北アジア説も、華北説も、江南説も、
直接的渡来のみ強調し、隣の朝鮮半島からの人や渡来の影響は無視するか、過小評価するかで一致している。
江南や華北や北アジアにしても、間接影響ばかりで直接的な証拠はほとんどない。
そういうわずかな証拠や影響を評価するなら朝鮮半島からの文化伝播はより強調し評価すべきなのになぜか評価しない。弥生から古墳時代の朝鮮半島からの文物渡来も確実に多いのに関わらずだ。
朝鮮半島からの文化伝播を否定するばかりに例えば水田は知らないものでも見よう見まねですぐできるなどと言い強弁するう椰子も出る始末。
つまり上記の3説は嫌韓厨で一致している。
また3説お互いに矛盾する、人骨形質や遺伝子要素の都合いい情報だけを持ち出して論証と称すのも一致するかと。
現代人の各地遺伝子が、古来不変とする前提の矛盾に気づいてないし。
525日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:03:10
ていうかあまりに考古学に暗いデタラメなレスばかりだが
スレ自体議論が平行するばかり
不思議なのは、北アジア説も、華北説も、江南説も、
直接的渡来のみ強調し、隣の朝鮮半島からの人や渡来の影響は無視するか、過小評価するかで一致している。
江南や華北や北アジアにしても、間接影響ばかりで直接的な証拠はほとんどない。
そういうわずかな証拠や影響を評価するなら朝鮮半島からの文化伝播はより強調し評価すべきなのになぜか評価しない。弥生から古墳時代の朝鮮半島からの文物渡来も確実に多いのに関わらずだ。
朝鮮半島からの文化伝播を否定するばかりに例えば水田は知らないものでも見よう見まねですぐできるなどと言い強弁するう椰子も出る始末。
つまり上記の3説は嫌韓厨で一致している。
また3説お互いに矛盾する、人骨形質や遺伝子要素の都合いい情報だけを持ち出して論証と称すのも一致するかと。
現代人の各地遺伝子が、古来不変とする前提の矛盾に気づいてないし。
526日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:04:57
炭化物が付いていたのは日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡の弥生時代早期初め
の縄文土器の名残を残した最古級の山の寺式弥生土器ですよ。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/nahatake/nahata.html

弥生土器が朝鮮半島南部の無文土器の影響を受けているのは学会の常識。

弥生土器も無文土器も紅陶だが、無文土器の前の朝鮮半島の主流だった櫛目文土器
は縄文土器の影響を受けた土器。

その頃、南蒙古や遼東には赤嶺紅陶文化が広がっていたので、朝鮮半島の無文土器は
明らかにその影響を受けた文化という事になる。

ゆえに弥生土器は朝鮮半島南部から九州北部へ伝わった事が明らかな技術文化
という事が証明できる。

その弥生時代早期初めの日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡から出た縄文土器の
名残を残す日本最古級の弥生土器に炭化物は付いていたのですよ。

日本最古の水田跡で名高い菜畑遺跡から日本最古級の弥生土器が出てくるんですよ。

つまり九州北部に水田技術を伝えた場所は弥生土器の技術を伝えた場所に他ならない。

 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における青銅器時代とほぼ一致する。
文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、
手捏ねか輪積みによるものがほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されていたことがわかる。そして
この無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html
527日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:09:48
無紋土器時代の幕開けはBC13Cくらいのようですな。

http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/index.htm

 稲作農耕が伝播する前の縄文時代から、朝鮮半島と日本列島の間では、人びとの盛んな
交流がありました。考古学の資料からも、縄文時代前期の土器が朝鮮半島の櫛目文土器と
つながりがあることがわかっています。また、日本列島での稲作の広がりと関係がある
遠賀川式土器(弥生前期の土器)が、朝鮮南部の無文土器に起源をもつことが指摘されて
います。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002051311.htm




528日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:11:43
当時の紅陶文化の広がりは赤嶺紅陶文化の影響が中国東北地方(満州)一体に
広がっていて、それが朝鮮半島に南下して日本まで伝わっている。
その頃の中国大陸においては既に灰釉陶と呼ばれる原始磁器が主流で、
既に磁器の時代の入っていた。
◎弥生土器の技術の伝播
 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における
青銅器時代とほぼ一致する。文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の
平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、手捏ねか輪積みによるもの
がほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されて
いたことがわかる。そしてこの無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の
母胎ともなった。
http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html
>>424
縄文晩期土器から遠賀川式土器への移行期の状態が典型的に現れ、これは本来広く
環瀬戸内で生起した現象と考えられ、当該地域の縄文文化が朝鮮無文土器文化と接触し
弥生文化を生成する過程として理解することができる。 
北部九州では突帯文系統の土器の中に朝鮮半島無文土器の影響による異系統の土器が
出現し、それが板付T式段階には遠賀川系土器の基本形の壷と甕となる。
遠賀川系の甕の形は北部九州において突帯文期の無文土器系深鉢から板付祖形甕をへて
完成するが、半島の無文土器の容量組成は遠賀川系がもっとも類似する。
その結果、畿内第T様式新段階〜第U様式の時期にも、朝鮮半島南部の無文土器文化の
影響が間接的にせよおよんでいる蓋然性が指摘できた。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~thropus/yoshida.htm
529日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:38:24
北部九州では突帯文系統の土器の中に朝鮮半島無文土器の影響による異系統の土器が
出現し、それが板付T式段階には遠賀川系土器の基本形の壷と甕となる。
遠賀川系の甕の形は北部九州において突帯文期の無文土器系深鉢から板付祖形甕をへて
完成するが、半島の無文土器の容量組成は遠賀川系がもっとも類似する。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html
530日本@名無史さん:2006/03/18(土) 12:47:59
http://www.coara.or.jp/~sasakiak/SiteList.html
<朝鮮半島における農耕関連遺跡>

○智塔里遺跡   櫛目文土器前期   (炭化アワ)
○南京遺跡    櫛目文土器末期   (炭化アワ)
○蔚山玉山見遺跡            (水田状遺構)小区画乾田
○諭山麻田里遺跡           (水田状遺構)
○晋陽大坪玉房遺跡          (はたけ状遺構)
○晋陽大坪漁隠遺跡          (はたけ状遺構・等高線に直交する畝)
○一山1地区(遺跡名未定)      (イネ籾)4070±80年BP
○農所里遺跡  櫛目文土器      (土器PO分析)
○ウ島の貝塚(遺跡名未詳)櫛目文後期後半籾混土器
○欣岩里遺跡23号住居趾       (炭化米・麦・高粱)
○欣岩里遺跡14号住居趾       (炭化米)
○松菊里遺跡54−1号住居趾     (多量の炭化米)
○松菊里遺跡無文土器   前期    (土器籾圧痕)
○大坪里遺跡無文土器   前期    (土器籾圧痕)
○南京遺跡36号住居趾        (炭化米・粟・高粱・大豆・黍)

玉山見遺跡は無文土器前期後半、北部九州の縄文晩期前期後半に平行
北部九州の突帯文期=弥生早期の前だ。
その他、ウル山の也音洞遺跡も無文土器前期水田あり

531481:2006/03/18(土) 16:22:21
無視している香具師はいるが過小評価している香具師はいないだろw
朝鮮半島で水田稲作が発祥したことは 絶 対 に 考えられないので、
朝鮮の稲作の起源はどこかということになるが、
おそらくそれは全く海を渡らず遼東を大きく北回りしたものと思われる。
(朝鮮西岸と中国との直接の結びつきが遺物の上であまりにも希薄すぎる)
温暖湿潤な紀元前二千年紀のうちに渤海北岸を回りきった水田稲作農法が
紀元前一千年紀の急激な寒冷化に追い立てられて足早に南下し、
朝鮮南部に達したのが最速でBC13C、北部九州に達したのがBC10C。
ただ、北側を回る段階でいくら温暖期とは言え遼東の気候に耐え得る品種が淘汰され
>>478の品種Aだけしか携えていなかったのだろう。
それ以前から粗放的な稲作は日本列島で行われていたので、
弥生時代以降の水田にも在来種は植えつけられることとなった。
532日本@名無史さん:2006/03/18(土) 20:44:20
水田を持って来るなんて、重すぎて普通の人間には不可能です。
533日本@名無史さん:2006/03/18(土) 20:54:19
↑水田技術とそれに伴う農耕文化と道具類だよ
534日本@名無史さん:2006/03/18(土) 21:46:04
>>509

その話だが、この板の■疑惑の弥生人中国説について語れ■でも書いたんだが、
この説にはまだ補強すべき点があるんだよ。

546 :521:2006/03/14(火) 23:45:44
>>542
いや、ところが最近のDNA研究という奴で、中国、半島、日本の水稲在来
品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これら
に小文字のaからhでの字を当てると、aからhまでの変形版がどこに位置
するかを調べると面白い事がわかるという。

中国: a b c d e f g h
半島: a c d e f g h
日本: a b

中国には8種類全部ある。半島はb以外全部ある。日本にはabしかない。
確かに水田稲作は朝鮮半島経由は間違いないだろう。しかし半島にないb型
が日本にないのは説明できない。
そこから、bの籾を持った中国人集団がダイレクトに日本にこれを持ち込ん
だという新しい稲の伝来ルートがあったというのである。疑惑の弥生人中
国説だ。

ここ参照→ただし半島在来品種からbが発見されれば(在来品種のカテゴリー付け)話は別だが・・・

このSSR多型分析でサンプルで使った資料では、"3国にある在来種"のイネをピックアップして
いるが、在来種であるかどうかの判定は追調査される必要があるし、1999年頃から発掘成果がでて
いる半島の水田跡遺跡から、bが発見されない保障もない。大陸から半島にその籾だけ来ていない
のは逆に不思議だ。その立証はまだなされていない。
535日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:00:12
bが後に環境適応で淘汰された可能性は?
536日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:40:24
考古学しか勉強していないやつは、頭が固いな。

「〜が発掘されたから」と良く言うが、もし朝鮮半島よりも早く日本が水稲で稲作していた遺跡が見つかったらどうするつもりだ?

相変わらず「発掘・資料至上主義」だな。
だから、頭が固いっていうんだよ。

10年くらい前までは、縄文人は定住していないってのが定説だった。
しかし、三内丸山遺跡の発掘で1500年定住しているのが証明された。

日本では先土器文化はなかったと言う学者がいる。
理由は先土器文化の遺跡が発掘されていないから。
バカ言ってんじゃねーよ。
遺跡が発掘されていないから、日本には先土器文化はなかったのか?
では日本列島ではいきなり縄文土器を作る高度な技術を持った縄文人が出現したのか?
そんなわけはない。

↓に続く。

537日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:41:00
↑の続き。

かつて津田左右吉は神武の東征は作り話だと言った。
その根拠のの1つが
「生駒山の麓まで船で行き」「戦に敗れた後、南方を通って逃げた。」
の2点だ。
津田左右吉と本居宣長は
「生駒山の麓まで船で行くのは不可能だし、奈良からいきなり南方を通って逃げるのは無理だ。」
と言った。

しかし、現代の地政学の研究によって、4世紀〜5世紀にかけて、今の大阪はほとんどが海だったことが判明した。
これで生駒山の麓まで船で行けることが証明されたわけだ。
そして、今の大阪城から西中島南方までが半島のように突き出していたことも証明された。

南方とは「なんぽう」ではなく、「みなみかた」と言う地名だった。

考古学や歴史学ではなく、他の学問から神武の東征は正しいことが証明されている。
発掘・資料至上主義ではこのような証明はできないだろう。

↓に続く。
538日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:51:09
従って、水稲の伝播ルートも、他の学問から明らかにされる日が近いだろう。
発掘・資料至上主義では水掛け論になり絶対的な証明はできないからである。

植物学から見た稲の伝播ルートは信頼性が高い。
稲は植物だからな。

ほとんどの植物学者が言うに
南方原産の栽培植物である稲は華北や北朝鮮での栽培は寒さにやられ育たない。
長江から直接、日本列島に伝播するのが一般的な植物の伝播ルートだそうだ。
また、日本にあって朝鮮にない植物は多く、特に稲と同じ南方原産の植物に多い。

これだけ色んなジャンルの学問が発達しているのだから、稲の伝播ルートも他の学問から総合的に解明される日が近いかもな。
539日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:56:42
朝鮮半島南部を意図的に外したな
540日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:58:20
水田の発見は他の文化要素から予測できたが、突帯文以前は難しい
541日本@名無史さん:2006/03/18(土) 22:59:48
>>505
「自分で自作自演をやっている者」が言いそうなことだね(苦笑)
542日本@名無史さん:2006/03/18(土) 23:03:19
>>539
あの辺は「同じ国」でしょ、どうせ。
543日本@名無史さん:2006/03/18(土) 23:05:28
何言ってるんか?
朝鮮南部からはいいわけだな?
544日本@名無史さん:2006/03/18(土) 23:25:08
当時、半島南部は倭で、列島と同じ民族。
半島南部と列島には、同時に華南から稲作が伝わったと考えるのが自然。
545日本@名無史さん:2006/03/18(土) 23:43:26
>>545
まったく同意
そもそも倭人とは江南から朝鮮南部から九州北部にかけての地域に移住した集団の総称なんじゃないの?
546日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:09:38
BC4300年の九州南の鬼界カルデラの大噴火と灰土が水稲の九州での普及を
阻んだと考えられるので、長江からもたらされた半島南西部の水田文化が
灰土の影響が消えた後に九州へ上陸したのだろう。
547日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:22:22
「漢委奴国王」の委奴(イナ)と「稲づくり」のイネって何か関係あるんじゃない?
そもそも実(コメ)と草(イネ)で呼び方が異なる植物ってめずらしいんじゃないかなぁ
委奴国式の農法ということで水田耕作のことを「イナづくり」と呼び出したのがはじまりだったりして
548日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:23:29
>>545
そういう可能性もあるかもね。
日本列島で人類(の一部)が発祥したという新説を捏造するのでもないなら、どのみち、
大陸か半島から流れてきたに決まっているわけで、どっちでも大差ないけどね。
549日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:23:55
>>536
半分だけ同意。
考古学でしか通用しない理論が定説になっていいのだろうか?
(「縄文人が弥生人に進化した」なんて電波もあった)
金属も分からない、人類学も分からない、農学も分からない、植物学も分からない、
遺伝子も分からない、史学も分からない、民俗学も分からない。
地面を掘って、遺跡を分類する事も重要だが、
オーケストラの一員である事も併せて認め謙虚であるべき。

>>545
同じく賛成。
江南・南鮮・九州など相互交流の中で伝わったと考えるべき。
550日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:27:14
>>546
そういえば、九州南部は、全般に「水田不適地」状態が長く続いたのかな。

ただ、水田の適地なら、火山灰は水流で比較的早く「除去」されるのでは?
何年くらいでどうなるというデータを持ち合わせているわけではないですが。
551日本@名無史さん:2006/03/19(日) 00:40:09
>>545
自分にレスかよ?
朝鮮南部が倭との根拠は?
基本的には三韓のはずだが。

>>544
だから水田農耕文化は朝鮮南部の方が早い十分な証拠がある。時期の問題は考古学的に詰めるべき。
>>549
考古学に無知なだけだろ?
過去の歴史は考古学的検証がないとダメだよ。
だいたいモマイらの金属学農学人類学その他の知識自体が怪しいが。付け焼き刃で都合のいいことのつまみ喰いだし。矛盾すること平気で言ったりするしな。
552日本@名無史さん:2006/03/19(日) 01:04:15
>>551
「蓋国(朝鮮半島東部の国)は燕の南、倭の北にあり、倭は燕に支配されている」
                                        山海経
553日本@名無史さん:2006/03/19(日) 07:26:03
>>551

極論になるが、考古学しか知らない「発掘・資料至上主義」の証明よりも、
金属学・人類学・農学・植物学・遺伝子・史学・民俗学などの複合的な要素から証明した方が、
精密である可能性が高く、
「発掘・資料至上主義」ではわからないことも証明してくれる。

従って、考古学単独の意見で議論するのではなく、色々な学問から多角的な視野で稲の伝播なども議論していくべきだ。
考古学的検証も確かに重要だが、それの単独だと説得力は低い。
考古学は明確な数字が出ない分、やはり複数の意見も生んでしまうからな。
554日本@名無史さん:2006/03/19(日) 08:00:50
>>538
南方原産の栽培植物である稲は華北や北朝鮮での栽培は寒さにやられ育たない。

→植物学の見地から正しくいうと、水稲でも北方種は育ちます。北海道でも育ち
ます。しかしこの北方種はまだ弥生時代末期までなく、日本・半島南部で改良さ
れたものです。
日本や半島に伝来したのは、大陸の一般種と呼ばれる古いタイプの水稲ですが、
この一般種は寒さに弱く、食用に適する実を結ぶ北限がありました。
華北や北朝鮮でも籾から発芽し生えますが、食用に適する実を結ぶことができな
いというのが正当だと思います。
これは発芽〜幼苗に到る日照時間・温度が華北や北朝鮮では得られないからです。

また弥生時代〜中世まで水稲と陸稲が並立して作られていたものと考えられます。
水稲に必要な灌漑技術・寒さに強い北方種の改良が行われていき、水稲が主流に
なったのでしょう。
555日本@名無史さん:2006/03/19(日) 08:21:46
>>554

>弥生時代〜中世まで水稲と陸稲が並立して作られていた

江戸時代にも陸稲が栽培されていたという記録があるが、どうだろうか?
556日本@名無史さん:2006/03/19(日) 09:16:48
稲の栽培北限を考えるなら古気候学も重要だよ。
紀元前二千年紀までは縄文温暖期なので
温帯ジャポニカの直播栽培なら渤海北岸でも何とか収穫は見込めたと思われる。
この時代西南日本は亜熱帯気候に近いので稲作のためには温帯ジャポニカである必要は無い。
縄文稲作は熱帯ジャポニカ主体だった可能性のほうが高いだろう。
紀元前一千年期には平均気温はつるべ落とし状態になるので
この時期に稲作が朝鮮半島を「北上した」という考えは非常に考えにくい。
北方民が満州方面から北風に追われて南下したのだろう。
このうち玄界灘を渡れたのは稲Aを持っていたごく一部の集団だけだったらしい。
朝鮮半島の温帯ジャポニカの遺伝子の豊富さは、後世の渡来の可能性もあるが
原始的な段階で遼東を通過した稲がそのまま淘汰されずに残った可能性もある。
朝鮮半島は農法進歩が緩慢で品種淘汰がなされないので
紀元前二千年紀以来の古い品種がそのまま残ったということだろうな。
日本列島の弥生稲作の劇的な北上については
平均気温の低下が一段落した弥生中期以降になる。
557日本@名無史さん:2006/03/19(日) 11:20:21
>>553
あなたこれは認めるだろうが、その諸学の総合の中に、考古学も無いとおかしいだろう?
そしてあなたも認めるように過去の検証は考古学が重要だ。
何か勘違いしてるよいだが、考古学者が関連諸学に無知みたいな書き方するのは間違いだろ。
農耕の起源や伝播問題、あるいは民族形成問題については学史を見ると分かるが、
当然ながら関連諸学との対話や協業のもとになされている。例えば農耕については、
佐々木高明の研究も考古学との共同作業により修正しつつ発展している。
考古学でも、佐原真や寺沢薫その他弥生時代農耕の研究、最近の山崎純男の縄文農耕の追究など関連諸学との対話の上だ。
考古学が単純に発掘至上主義というのは誤りだが。
水田農耕の起源と伝播問題も、日中や日韓の関連諸学を含む学者で国際的、学際的にやっている。
その上で、異論もあるかもしれんが、水田農耕は、
江南→山東→朝鮮西・南部→日本というせつが最有力で一応の定説なわけだ。
そもそも根拠が他より弱いなら定説化しない。異説を述べるのは結構だが、考古学が発掘至上主義で単純すぎとか、関連諸学を分かってないとか、それは言い過ぎだろう。
558日本@名無史さん:2006/03/19(日) 11:49:15
★ 百済は日本人が建国した ★

『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。

第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。

百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
559日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:30:19
>>555
水利と勾配の点で水田の開発に困難な地域、北方種が品種改良される以前以後または
その品種籾の流通が届かなかった地域、客土しなければならない火山灰土の地域等に
ついては、畑による陸稲が近世まで残ったものと思われます。
ただ、このような土地では陸稲に固執せずとも、麦、蕎麦、稗、粟等の他の穀類も収
穫できたはずで、人々の暮らしが安定し米経済となった江戸期に、食品上の嗜好や経
済的価格差等の点で、減少されたのではないでしょうか?
560日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:48:59
★ 百済は日本領土 ★

百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。
561日本@名無史さん:2006/03/19(日) 13:24:38
九州と四国と佐渡島が本州と陸続きだったらいいのにな。
562日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:40:25
>>557
>江南→山東→朝鮮西・南部→日本というせつが最有力で一応の定説
>そもそも根拠が他より弱いなら定説化しない。異説を述べるのは結構
考古学しか勉強していないやつは、頭が固いな。
そもそも根拠が他の学問より弱い“から”定説化しなくて、異説が出てくるんだよ。
他の学問のように数字で出せれば、誰も文句は言えない。
これが発掘されたが、こう解釈できる、ああ解釈できる。
このような資料があるが、邪馬台国は九州にある、いや、大和にある。
この遺跡は時代的に何時代だ、いやもっと古い、いや新しい。
など、多種多様な意見が出てくるんだ。
「〜が発掘されたから」「〜が定説だから」とよく言うが、もし朝鮮半島よりも早く日本が水稲で稲作していたという決定的な遺跡が見つかったらどうするつもりだ?
発掘された時点で定説ではなくなる。
一つの発掘で定説が覆るほど根拠薄弱な学問なんだよ。
そもそも定説なんてものは覆るものだ。
557は相変わらず「発掘・資料至上主義」だな。
だから、頭が固いっていうんだよ。
では、質問だが、10年くらい前までは、縄文人は定住していないってのが定説だった。
しかし、三内丸山遺跡の発掘で1500年定住しているのが証明された。
「縄文人は定住していない。」ってのは、根拠が他より弱かったのか?
なぜ定説化していなのだ?
当時、「縄文人は定住していた。」異説を言ってたやつはたくさんいたが、定説化していなかった。
なぜなら、遺跡が発掘されていないから。
遺跡が発掘された時点から、「縄文人は定住していた」という異説は定説になったわけだ。
さらに日本では先土器文化はなかったと言う学者がいる。
理由は先土器文化の遺跡が発掘されていないから。
バカ言ってんじゃねーよ。
遺跡が発掘されていないから、日本には先土器文化はなかったのか?
では日本列島ではいきなり縄文土器を作る高度な技術を持った縄文人が出現したのか?
そんなわけはない。
この「発掘・資料至上主義」が往々にして考古学しか勉強していないやつの欠点なんだよ。
563日本@名無史さん:2006/03/19(日) 17:03:22
かつて津田左右吉は神武の東征は作り話だと言った。
その根拠のの1つが
「生駒山の麓まで船で行き」「戦に敗れた後、南方を船で逃げた。」
の2点だ。
津田左右吉と本居宣長は
「生駒山の麓まで船で行くのは不可能だし、奈良からいきなり船で南方を通って逃げるのは無理だ。」
と言った。
(奈良の南方は山脈だから。)

しかし、現代の地質学の研究によって、4世紀〜5世紀までは、今の大阪はほとんどが海だったことが判明した。
地質学という他の学問で生駒山の麓まで船で行けることが証明されたわけだ。
そして、今の大阪城から西中島南方までが半島のように突き出していたことも証明された。
そして、その半島の先端にあるのが、現在の西中島南方になることも分かった。
つまり、南方とは「なんぽう」ではなく、「みなみかた」と言う地名だった。

考古学や歴史学ではなく、地質学という一つの学問で神武の東征は正しいことが証明された。

発掘や史料を読み解くだけで、これが証明できるか?
津田左右吉は史料を読んだ上で、神武の東征は作り話だといったのだ。
発掘・資料至上主義ではこのような証明はできないだろう。

私は考古学を全否定しているわけではない。
地面を掘って、遺跡を分類する事も重要だが、様々な要素の中のあくまで一つの要素であり
オーケストラの一員である事も併せて認め謙虚であるべきといいたいのだ。
564日本@名無史さん:2006/03/19(日) 17:17:01
>>557

>江南→山東→朝鮮西・南部→日本というせつが最有力で一応の定説
>そもそも根拠が他より弱いなら定説化しない。異説を述べるのは結構

557は定説っ定説って連発するが、定説なんて時代によって変わるもんですよ。
そして、異説が定説になりやすい学問でもある。
特に考古学界は大御所が死ぬまでは、誰も新しい説が出せない縦社会で有名だよ。
大御所が生きているのに、新しい説を出して、考古学界を追放された人なんでたくさんいるしね。
そんなヤツは海外に逃げるとか、職を失うんだ。
誰も怖くて新しい異説を出せない。
そんな閉鎖的な学界なんだ。
そんな考古学界では定説絶対なんだ。

だから、考古学以外の学問から異説を出すことが重要なんだね。
俺達、考古学界に住んでいる人間でも言えないことを、言ってくれる。
正直、考古学界の現状は手詰まりなんだぜ。
言いたいことも言えないしな。
565日本@名無史さん:2006/03/19(日) 17:32:59
>>564
日本人には科学的思考があわないんだな
先輩だから後輩だからって言いたいことも言えないなんて中学生の同好会以下
その人を尊敬することと、その人の学説を批判して検証することとは全く別のことだろうに
自分の説を否定されて我を見失い、学問に関係ないところで相手を個人攻撃するにいたっては精神年齢は幼児なみ
アマチュア研究家もしくは専門家以外のところからすばらしい発想が出てくる可能性が高いということだね
566日本@名無史さん:2006/03/19(日) 17:51:34
稲は6500年以上前から日本にある事が分っており、
品種も熱帯ジャポニカだろうと見られている。

おそらく8000年ほど前の縄文人の琉球進出の時に台湾から華南あたり
から持ち込んできたのではないかと見られるが、日本にも絶滅した
稲の野生種があった可能性も否定できない。

ただし、水田技術の伝播は朝鮮半島南部からと見られている。

弥生時代開始時に伝わったクワの系譜が長江流域に無いからである。
567日本@名無史さん:2006/03/19(日) 17:54:03
 中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
568日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:13:47
>>564

考古学界では確かに大御所が死んだ途端、新しい異説がどんどん出てくる傾向がある。

前出の津田左右吉が死んだらすぐに新しい異説がどんどん出てきたしな。

俺の大学の教授も奈良の大御所の学説に対して異説を言ったら、学界を追放されたらしい。

中世〜江戸時代にかけての建築学を研究している宮本教授だが、日本の学界の閉鎖性を嘆いていたよ。

565の言うように、その人を尊敬することと、その人の学説を批判して検証することとは全く別のことだろうに。

「それは異説だ。定説ではない。」といって否定して追放するのではなく、様々な視点から検証すればいいだろう。

逆に言えば、そうしなければ日本考古学界の発展はないと思う。
569日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:14:03
>>564
いや、考古学会も今はカリスマ的な大学者みたいのがいなくなってかなり百家争鳴で、旧説を覆す研究は結構あるけどな。
ただ水田農耕伝播については、ある程度の共通理解があってその中での細かい点が争点だ。
朝鮮南部経由ルートは別に考古学だけでなく関連諸学との学際的な成果だが。
例えば歴博の研究でもちゃんと見たらいいが。
考古学が発掘資料だけで勝手に言ってるのではないがな。
570日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:22:10
>>568
津田左右吉は文献史学
571日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:54:48
>>448
>紀元前770−同221年の地方国家、越の貴族墓から
>日本の弥生時代の銅鐸(どうたく)に形が似た青磁器の鐸がこのほど出土した。
>って書いてあるじゃん。


では何で青磁が伝わってないのかね?

そっちの方が遙かに問題だと思うが。

青磁なんて贅沢言いません。

灰釉陶や粗悪な灰陶でも良いんです。

何でなーんにも伝わってないのかね?
572日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:15:27
上に同意
573日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:15:41
発掘されてないだけだよ。

先土器文化の遺跡も発掘されてないんだよね?
先土器文化の遺跡は発掘されたの?

灰釉陶や粗悪な灰陶も発掘される可能性はあるじゃん!

発掘一つで定説が変わる学問なんでしょ?

素人意見でこめんね。
574日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:20:13
これだけ掘られて、かけら一つも出てこない。より下層にあり残りも悪い先土器文化と一緒にできない。
575日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:22:08
あんまり説得力ないんだけど。

発掘されてない可能性は0ではないよね?
576日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:33:09
正直、灰釉陶が見つかる可能性はあるわな。
577日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:47:32
AFOが多いなw

技術が伝わってないと言っているんだよ。

灰陶の出土自体は弥生後期の遺跡でたまに出土している。

楽浪郡との交流で輸入された楽浪遺物で、灰陶の流れを汲む
楽浪土器と呼ばれる瓦質土器である。

しかし、灰陶技術が日本に初めて伝わったのは5C。

君たちの良く知っているあの「須恵器」からだ。

中国系半島帰化人の阿知使主(あちのおみ)率いる漢氏が
伝えた技術である。
578日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:48:34
もしあっても中国と直接関係する弥生中期以降だろ
579日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:58:07
>>577
その言い訳は聞き飽きたが
集団で渡来したのゎだよな?
仮に技術者がいなくても、持ち込んだものはあったはずだろ?それすらない。
また集団で渡来したなら故地の文化を再現しようとするだろが。ならば灰陶の形を模倣した弥生土器があるべきだが、それすらないが。
580日本@名無史さん:2006/03/19(日) 20:14:51
>>579
よく読めよ。

技術は何も伝わっていないとしっかり書いてあるだろ。
渡来して定着したなら技術は確実に伝わる。

しかし技術は伝わっていない。中国からは渡来してないからだ。

灰陶自体の出土はあるが、それらは日本産ではない。

楽浪産である。
581日本@名無史さん:2006/03/19(日) 20:38:27
それなら同意 スマソ
ただそういう言い訳する香具師が前にいたので
582日本@名無史さん:2006/03/19(日) 22:11:28

実況スレ

NHKアーカイブス 原告 小松みよ 稲がまたみのるとき
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1142773727/
583日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:52:29
植物学の見地から正しくいうと、水稲でも北方種は育ちますが、実を結ばない。
そして、この北方種はまだ弥生時代末期までなく、日本・半島南部で改良されたものです。
日本や半島に伝来したのは、大陸の一般種と呼ばれる古いタイプの水稲ですが、
この一般種は寒さに弱く、食用に適する実を結ぶ北限がありました。
華北や北朝鮮でも籾から発芽し生えますが、食用に適する実を結ぶことができな
いというのが正当だと思います。
これは発芽〜幼苗に到る日照時間・温度が華北や北朝鮮では得られないからです。

また弥生時代〜中世まで水稲と陸稲が並立して作られていたものと考えられます。
水稲に必要な灌漑技術・寒さに強い北方種の改良が行われていき、水稲が主流に
なったのでしょう。

従って、朝鮮半島よりも早く稲作が行われていた可能性が早いです。
584日本@名無史さん:2006/03/20(月) 02:10:34
でも実際は朝鮮半島南部が早いわけだ。無文土器前期に成立するが、日本は無文土器中期平行だ。
水田農耕に伴った様々な文化要素も朝鮮南部が先で日本にほぼ同じものが伝播しているのだから仕方ないが。
朝鮮南部については認めているんだし、日本が起源地じゃないんだから、
また水田稲作に限らず農耕文化の伝播は、単に植物学上の問題だけでなく、文化、技術の問題もあるのだし、地理勾配もあるのだから、
単に環境上の生育適地か否かだけで、その成立や伝播時期の遅速を決めるのには賛成しない。ただし、その農耕の発展性については当然ながら植物学上の適地か否かが左右するというなら同意するが。
585日本@名無史さん:2006/03/20(月) 03:20:28
>>583

>実際は朝鮮半島南部が早いわけだ
>無文土器前期に成立するが、日本は無文土器中期平行だ

無土器文化のことなんてほとんどわかっていないじゃん。
新しい遺跡が発掘されれば、どっちに転ぶかわからないよ。
586日本@名無史さん:2006/03/20(月) 20:35:04
稲作は日本の方が2500年以上は早いね。

琉球経由の熱帯ジャポニカだもの。

水田技術は縄文人が朝鮮半島から持ち込んだがな。
587日本@名無史さん:2006/03/20(月) 21:02:48
>>583
私の文章を借用していただいても結構ですが、朝鮮半島よりも早く稲作が行
われていた可能性が早いかどうかはまだわかりません。
江南の一般種が適しているのは緯度の近い九州西岸、半島南西部でしょう。
プラントオパール痕跡はBC1000頃、熊本県東鍋田遺跡、福岡市四箇遺跡、ソ
ウル郊外欣岩里遺跡で確認されています。北方種の発見はBC2000〜1000頃で
はないかと思われますが、場所の特定は困難だと思います。
鬼界カルデラの大噴火と灰土による地球寒冷化はBC4300頃とされていますの
で、水稲の爆発的な増加とは時期がズレるので、あまり影響がなかったかも
しれません。ただ半島の水田の起源がBC4000頃までに遡れるものが見つかれ
ば、江南から九州を迂回して、籾が半島にもたらされ、極東アジアでの水田
発展の揺籃になったのかもしれません。

半島南西部と九州の違いを比較するのは、かたつむりの角を比べる程度かも
しれません。中国の史書では倭人は同地域に海峡海洋国家として存在してい
る事を示しています。邪馬台国も半島に領土を持っていましたし、大和朝廷
も、加羅・任那等の保護地域を半島南部に領有していました。
同一の食文化を持つ倭人であった可能性は、史書からも伺えると思います。
588日本@名無史さん:2006/03/20(月) 21:12:13
伺えません。

別系統です。

それに稲作の伝播と水田技術の伝播を分けて考える
知能指数くらいそろそろ持ち合わせましょう。

馬鹿じゃないんですからw
589日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:17:24
弥生人は水田稲作なんか持ってきていない。

これは事実である。

まず6500年以上前の縄文時代早期以前から稲作は日本にあった。

そして水田技術が伝わる弥生時代開始から前期中頃まで渡来系の形質を持つ
人骨は全く出土していない。

つまり水田稲作は縄文人自身が方々から持ち込んできたものである。
590日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:31:15
川べりや干潟を利用しての稲作は弥生時代以前からやってたんじゃないのかなあ
塩に強い品種の改良なんかも普通にやってそうだし
水田が出現するきっかけはいったいん何だったのか
個人的には畦をととのえるには鉄製の農具が必要だったんじゃないかと思うんだけど
591日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:42:10
縄文人が朝鮮半島から水田の技術を持ち帰ってきただけ。

最初は木製の農具だろ。

これも縄文人が土器と一緒に日本に持ち帰ってきただけ。
592日本@名無史さん:2006/03/20(月) 23:42:41
6500年以上前の縄文時代早期以前の陸稲も江南起源の熱帯ジャポニカ。しかも
鬼界カルデラの大噴火でその灰の下だったからこそ発掘されたのだから、断絶
はいかんともしがたい。やっぱり中国製。なーんてね。
593日本@名無史さん:2006/03/20(月) 23:54:38
道具の作り方や使い方、農事暦、農耕に伴った儀礼などを無視して、見に行っただけで真似したとかいう香具師がいるなw
仮に見に行って真似しようといっても、教えてもらう人を連れて来た方が楽だし確実だろが。
そういう渡来者たちの存在をも否定しようというのはかなり無理がある。
人骨の資料数は弥生早期や無文土器前半期はまだごく僅かだろが。比較もできないのによく断言できるな。
594日本@名無史さん:2006/03/20(月) 23:59:37
ほーれ、誘導工作鮮人現れるw
595日本@名無史さん:2006/03/21(火) 00:03:06
592がチャンコロで、593がチョン
596日本@名無史さん:2006/03/21(火) 00:53:08
>>587
そんな感じと思います。
半島南部と九州北部を区別する意味はほとんどないと思います。
どちらも倭ですからね。
とはいうものの、江南からの伝播のしやすさから考えると、九州の方が先と
見る方が自然ではあります。今後の発掘に待つべきですね。
597日本@名無史さん:2006/03/21(火) 01:03:30
で、596が自作自演チャンコロ
598日本@名無史さん:2006/03/21(火) 03:38:02
宮崎大学で稲作伝播の研究をしていますが、伝わった水稲は「熱帯ジャポニカ」ですよ。

温帯ジャポニカにって言っている人がいましたが違います。

熱帯ジャポニカは北朝鮮はもちろん、中国北部でも育ちません。

朝鮮半島よりも早く稲作をやっていたと私は思っています。

なるべく遅く始まっても、朝鮮半島と同時期かなと思います。

朝鮮半島から稲作は渡って来たという意見には100%「NO」と言えますね。
599日本@名無史さん:2006/03/21(火) 07:39:39
熱帯植物だもん
九州南部に稲が自生してたって不思議はあんめぇ?
さまざまなルート通って伝播したんだよ
仮に半島南部から来たとしてもチョンが日本に伝えたのではないだろうよ
倭人だよ
600日本@名無史さん:2006/03/21(火) 08:36:40
半島南部の倭人地域は、その後異民族に侵略されて列島に逃げて来たんですね。
これが渡来系と呼ばれる人たちですね。
601日本@名無史さん:2006/03/21(火) 13:17:26
熱帯植物の稲が朝鮮半島から伝わっただと?
植物学的に考えてありえない。
北朝鮮で熱帯植物は育たないだろう。
常識的に考えてみな!!!
602日本@名無史さん:2006/03/21(火) 14:58:12
自作自演チャンコロは消えろ
603日本@名無史さん:2006/03/21(火) 15:11:00
>>598
では、どこから温帯ジャポニカが入ってきたんだ?

縄文稲は熱帯ジャポニカ。弥生稲も熱帯ジャポニカなら
日本の過半数を占める温帯ジャポニカは一体何なんだ?

それに朝鮮半島から伝わったのは稲作ではなくて『水田技術』
だと何度言えば分かるんだ?この知恵遅れが。

縄文人自身が半島南岸から水田技術や無文土器や支石墓文化を
持ち込んで渡来人の手によらず弥生時代は始まったのである。

渡来人骨が現れるのはそれから3〜400年後の弥生前期の後半からである。
604日本@名無史さん:2006/03/21(火) 18:53:44
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。

【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。

古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。

■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm
605日本@名無史さん:2006/03/21(火) 20:58:11
>>598

温帯ジャポニカ、つまり北方種の誕生については、先にも書いた通りBC2000
〜1000頃ではないかと思われますが、場所の特定は困難だと思います。

北方種は、江南で獲れる一般種から数世代かけて品種改良・淘汰され寒冷に
強い籾として生産されていったものですが、それは逆に言えば、元々一般種
が既に水田として完成された地域が揺籃としてなければ、品種改良・淘汰実
験の試行錯誤はできません。失敗すればその年の収穫はない訳ですから。

江南の一般種が適していたのは緯度の近い九州西岸、半島南西部です。
この地のどこかで、最初の温帯ジャポニカが試行錯誤の末、改良に成功した
のだと思われます。
イネに限らず、植物の品種改良には、普通より多くの品種の組み合わせ・掛
け合わせができる程、成功の可能性が広がります。この点からみれば、上で
だされていたSSR多型の多様性の調査結果がありましたが、

中国: a b c d e f g h
半島: a c d e f g h
日本: a b

というように、品種の多様性に極端に乏しい日本ではなく、有利な半島で
あったのかもしれません。
プラントオパール痕跡はBC1000頃、熊本県東鍋田遺跡、福岡市四箇遺跡、ソ
ウル郊外欣岩里遺跡等で確認されています。今後の発掘成果に期待します。
606日本@名無史さん:2006/03/22(水) 09:22:02
江南の一般種が適していたのは緯度の近い九州西岸、半島南西部です。
この地のどこかで、最初の温帯ジャポニカが試行錯誤の末、改良に成功した
のだと思われます。
607日本@名無史さん:2006/03/26(日) 14:37:46
おまえら、對馬の民を忘れていないか?

對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、
乘船南北市糴。

對馬の民は、乘船南北市糴。船に乗って南北に市糴す。

つまり船に乗って朝鮮半島南部や九州北部と交易していた。

縄文人や半島人が海を渡らなくても、對馬の民によって
他方の文化は勝手に双方に入ってきてしまうのである。

渡来系の形質を持つ人骨の出土年代から見て、
渡来人はBC6〜BC7C頃に来ている。

もちろん半島人なんかではない。

朝鮮半島に縁もゆかりもない北方から流れてきたツンギーデである。

北方から朝鮮半島を短期間で定着せずに突き抜けて九州北部に
渡ってきた北方アジアの一種族である。
608日本@名無史さん:2006/03/26(日) 19:34:45
北方アジアの一種族はマンモスでも狩っててください。
609日本@名無史さん:2006/03/27(月) 00:53:06
>608
::::...   北方アジアの一種族はマンモスでも狩ってればいいのかなぁ?
   ::::... ∧_∧_∧
    ::::.(∀・( ´Д`)  ワケわかんねーこというなよ
   r -(  ( O┰O
  ..::ii'⌒< <  ) 冊冊〉キコキコ・・
  ::'、__,,l!しし(_)l!lJ´
          '、__,l!j    ::::..  
610日本@名無史さん:2006/03/27(月) 21:41:54
朝青龍の顔を見れば、渡来人がどこの方面から来たのかくらい分かる。
611日本@名無史さん:2006/03/28(火) 01:50:26
>610
      _ノ  ノ_     
     / ヽ   / \   
    〈    | ̄|    〉  ←朝青龍
     \ 丿 |  /   
         ̄     
612日本@名無史さん:2006/03/29(水) 20:20:21
↑中国大陸にすむ遺伝子真っ赤っかの南方人wwww
613日本@名無史さん:2006/03/30(木) 00:08:07
 ↑
染色体には赤い色が着いていると思っているやつwwww
614日本@名無史さん:2006/03/30(木) 00:37:30
↑ウンコみたいな醜く汚らしい南方人種wwww

ああああ、きしょいきしょい。
615日本@名無史さん:2006/03/30(木) 02:20:13
 ↑
本当に染色体には赤い色が着いていると思っていたので焦っているやつwwww
616日本@名無史さん:2006/03/30(木) 03:00:04
生まれた時の尻は青いがな。
617日本@名無史さん:2006/03/30(木) 03:03:38
北欧フィンランドでは金髪で蒙古斑の赤ん坊はそれほど珍しくない。
618日本@名無史さん:2006/03/30(木) 13:41:24
日本にたいした文化はない.
百済が日本に伝えた文化だ.
文化交流??.............
勘違いしないでください.
一方的な開拓です.

武士も百済祈願,
剣道も韓半島祈願,
寿司も中国祈願,
着物百済祈願,
日本刀も韓半島祈願,

日本に文化があるわけがあるか!!!
日本文化は韓国祈願だ!!!

日本人は日帝殖民統治時代36年を忘れたか?
韓国の記憶はお爺さんお婆さんから聞いた日帝侵略の記憶を覚えている...
日帝植民地支配は、世界史上例のない悪辣な統治だった....
619日本@名無史さん:2006/03/30(木) 23:29:41
>>618
> 祈願

(ー人ー) なむー
620日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:06:30
日本には6000年前の縄文前期から陸稲の稲作があったのはもう常識だが、
弥生時代に朝鮮半島南部から伝わったのは水田稲作ではなくて、
単に「水田技術」なのであって、日本稲作は華中とは直接的な
関係など無い。


◆日本最古の稲作

岡山県にある縄文時代前期 (6千年前頃) の遺跡の地層から
稲作の痕跡が見つかっています。

http://www.gohan.gr.jp/kurashi/02.html

弥生時代を開いた最初の渡来技術は水田稲作農耕でした。水田稲作を
はじめて受け入れた北部九州のムラからは、朝鮮半島南部とそっくり
の農工具が出土します。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data5.html
621日本@名無史さん:2006/04/07(金) 05:38:29
なぁ、俺日本史大好きだよ
本当だ。マジで大好きなんだ
でもな、時々思うんだよ
別に水田稲作の時期がいつで、何処から伝わってきて
新たな事実発覚で、なんか教科書と時期の誤差がでてるぞ!!
てきなニュースを見るたび
別にそんなことどっちでもよくない?今俺たち普通に米食ってるわけだし
まぁ昔大陸から伝わってきたんだろー的でよくね?
って・・・
なぁ、俺が変なのか?別にその辺はっきりしてなくても良くないか?俺だけか?
俺が変なのか?
622日本@名無史さん:2006/04/07(金) 12:48:19
そうだ。

おまえが変なだけ。
623日本@名無史さん:2006/04/09(日) 08:35:54
>>621

興味がないなら来るな。
うちの母親も稲作になんて興味ない。だから、ここの来ない。
お前も興味がないなら来るな。
624日本@名無史さん:2006/04/10(月) 10:08:26
朝鮮半島で水田稲作が行われていた?

朝鮮半島のほとんどが北海道より暖かいのにか。
ソウルでも北海道南部並みに寒い。
北朝鮮はもっと寒い。
北朝鮮で稲作が行われていたと言うやつが大陸の気候も判らんのか。
北海道で、月平均気温で−10℃以下にさがる地域はどの程度あるのか知っているか。
朝鮮半島で、月平均気温で−10℃以下にさがる地域はほとんどだ。
625がいやまん:2006/04/10(月) 10:22:57
稲作が、慶州南道から列島サンベルトに移動するのは宿命であった、つーか、
収まるところに収まったというわけだな。
626日本@名無史さん:2006/04/10(月) 10:24:45
ケッペンの気候図見れば624のウソが一発で分かるよw
627日本@名無史さん:2006/04/11(火) 07:07:35
>>626

俺が嘘つきとはな。
気候図と気温は違う。
大陸性の気温の区別もつかないのか。
http://www.erina.or.jp/Jp/Asia/kiko.htm
に、1月平壌−6,1℃。札幌−4℃。ソウル−2,5℃と出ておるが、
北朝鮮北部山地ではもっと寒い。
628日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:03:03
で、月平均-10℃以下の場所があったのか?wwww
629日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:25:49
>朝鮮半島で、月平均気温で−10℃以下にさがる地域はほとんどだ。



アハハハハハ

アハハハハハ

アハハハハハ
630日本@名無史さん:2006/04/11(火) 14:22:00
北朝鮮北部山地で稲作などやっているのか?
631日本@名無史さん:2006/04/11(火) 16:42:25
古代から黄海沿岸伝いからに決まってるだろ呆
632日本@名無史さん:2006/04/12(水) 06:57:59
北九州地域の異なる2つのタイプの渡来系弥生人 / 中国東北部起源と長江流域起源
--------------------------------------------------------------------------------

最近では、北部九州の渡来系弥生人と、中国大陸の同時代人骨との比較研究も進んでいる。

ミトコンドリアのDNA分析などから、
山東半島や江南地域の出土人骨とは高い親縁性のある事が指摘されて始めている。

渡来系弥生人は同じ北部九州でも長身で顔が細く華奢な「北九州」タイプと、
やや横幅が張った彫りの深い「西北九州」タイプに分かれる。

前者は山東、朝鮮半島から中国東北部起源、
後者は山東、朝鮮半島から長江流域起源
の可能性か高いという。


和佐野喜久生氏(佐賀大学農学部)は、
日中韓の炭化米を調査した結果、同じ短粒米でも、
玄界灘沿岸地域のものが丸く小さいのに対して、
有明海沿岸地域のそれは、やや長めで大きい事を突き止めた。

前者は同時代の半島のモノに近く、
後者は中国の長江や淮河流域のモノに近いという。


この結果は期せずして、人骨の二つのタイプと一致している。

日本の歴史02 王権の誕生 寺沢 薫著 講談社より
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/roots2.html

日本人のルーツ
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/index.html
633日本@名無史さん:2006/04/12(水) 16:09:03
>>632
前者は河北山東人(燕斉)、後者は江南人(呉越)だろう。
634日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:07:31
>ミトコンドリアのDNA分析などから、山東半島や江南地域の出土人骨とは
>高い親縁性のある事が指摘されて始めている。

mtDNAではモンゴルから華南まで高い親縁性のあるのだがw
ルーツ捜査ではgm遺伝子よりも精度が低いのがmtDNAだよw
http://www.scs.uiuc.edu/~mcdonald/WorldHaplogroupsMaps.pdf

>渡来系弥生人は同じ北部九州でも長身で顔が細く華奢な「北九州」タイプと、
>やや横幅が張った彫りの深い「西北九州」タイプに分かれる。
>前者は山東、朝鮮半島から中国東北部起源、
>後者は山東、朝鮮半島から長江流域起源

北西九州タイプは縄文系というのが定説であり常識。
それに、山東半島や長江流域の出土人骨は今までさんざん北九州タイプの
渡来系人骨と似ていると骨屋は言ってたじゃないの。墓穴だなwwww
635日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:09:56
1月の月平均気温で見ると、

韓国は東北くらいの気温で、北朝鮮は北海道くらいの気温。

朝鮮半島北部でも最寒月の月平均気温が-10℃以上で世界的に見ても
温暖な地域。

最寒月の月平均気温が-20、-30℃などの、一重まぶたやツンギーデが
出現するような気候環境ではない。


上の地図が1月
http://www.data.kishou.go.jp/climate/cpdinfo/20th/fig/1_1_5_2.gif
636日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:40:28
>>634
>北西九州タイプは縄文系というのが定説であり常識。

そんな珍説はもまえの脳内にしかないよw
縄文系といわれてるのは「南九州タイプ」。

北九州タイプというのは所謂「土井ケ浜タイプ」のことで
正確には「福岡=山口」タイプというべきもの。
西北九州タイプというのは昔でいう「吉野ヶ里タイプ」。
637日本@名無史さん:2006/04/13(木) 09:36:35
馬鹿なチャンコロ工作員がいますねw

縄文人から引き継いだ在来種の弥生人は西北九州タイプ弥生人と呼ばれる。

西北九州タイプ弥生人は、長崎県など西北九州地域に住んでいた
海浜部の弥生人。顔は低く(短く)て幅が広く、鼻根部が深く陥凹
(くぼんでいること)していて、彫りの深い容貌をしている。
身長は低い。

当たり前だが、日本全国で一番多く見られる弥生人骨は
この在来種タイプである。
638日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:00:28
縄文前期からの稲作は陸稲だったわけで、
温帯ジャポニカの耕作法を伝えた人も
中国南部から、水稲と共に、日本に来たと考えるべき。

ただ、水稲を持ってきた人(々)が、
いわゆる弥生人にあたるかどうかはいまだ不明。
639日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:15:33
日本には6000年前の縄文前期から陸稲の稲作があったのはもう常識だが、
弥生時代に土器技術や農耕具と共に朝鮮半島南部から伝わったのは
水田稲作ではなくて、単に「水田技術」なのであって、日本稲作は華中とは
直接的な関係などさらさら無い。


◆日本最古の稲作

岡山県にある縄文時代前期 (6千年前頃) の遺跡の地層から
稲作の痕跡が見つかっています。

http://www.gohan.gr.jp/kurashi/02.html

弥生時代を開いた最初の渡来技術は水田稲作農耕でした。水田稲作を
はじめて受け入れた北部九州のムラからは、朝鮮半島南部とそっくり
の農工具が出土します。

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data5.html
640774:2006/04/13(木) 16:29:58
縄文時代前期に伝来したと推定できる>>605の言うところの
SSR多型のbタイプが岡山で見つかったでしょ。

SSR多型のbタイプは日本と中国にしかないらしいよ。
朝鮮半島では見つかっていない。
長江から直接、伝播したと思われるらしい。
641日本@名無史さん:2006/04/13(木) 19:46:56
琉球人種は港川人と8000年くらい前に渡来した九州縄文人の末裔。
北日本→九州(12000年前)→琉球(8000年前)


細石器文化は旧石器時代の終末期に北方ユーラシア大陸を中心に普遍的に
展開した特異な文化である。

長崎県福井洞穴では細隆起線文や爪形文土器に細石器が共伴し、放射性炭
の測定で約一万二〇〇〇年前後に比定されている。
http://www.coara.or.jp/~fuminori/3banme.html


縄文時代前期(約8000〜5000年前)の遺跡からは九州で生産された土器が
出土することから、九州縄文人が船で琉球列島に渡ってきたと考えられる。
http://inoues.net/ruins/nakamagawa.html
642日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:05:55
6500年以上前の熱帯ジャポニカは縄文人の琉球進出時に
台湾・華南ルートで縄文人自身の手によって持ち込まれた
可能性が高い。

また日本にも九州あたりに野生稲があった可能性も否定できない。

九州南部で4〜5000年前の稲作の痕跡が見つかり始めている。

http://www.asahi.com/culture/update/0717/001.html
643日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:25:34
>>636
ほれっw


「西九州タイプ」の弥生人は、顔が短く、横幅は広く、眉の部分が盛り上がり
鼻骨が付け根から高く隆起し、顔を横からみると鼻根部が深く陥凹しており、
ホリの深い容貌をしていました。推定身長値は、男性が約158cm、女性は148cmで、
男女とも低身長です。「南九州・南西諸島タイプ」の弥生人は、頭や顔が小さく、
頭を上から見た形が、限りなく円に近い形をしています。
身長は著しく低く、男性で153cm〜155cm、女性では143cm程度しかなく、きわめて
小柄な弥生人でした。三タイプの弥生人のうち、「西九州タイプ」の特徴は、
実は縄文人の特徴なので、「西九州タイプ」の弥生人は、縄文人直系の弥生人と
考えられます。

http://www.doigahama.jp/sub/html/main_07_4.html
644日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:11:24
>>631
一衣帯水の南の方に適地があるのに、何でわざわざそんな回りくどいことをしたと?
645日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:27:27
>>631
海流が分からんから何日とはいえないが、距離でいったら、手こぎボートで陸伝いに行ったとしても、
中国南岸から半島南部まで何ヶ月もかからん。
行く先々でわざわざ停滞したのでないなら、何年ということはあり得ない。
何でわざわざ北のほうの寒い不適地で停滞したというのか?
地歩を固めながら歩いて行ったものと頭っから決めつけてないか?
646日本@名無史さん:2006/04/14(金) 09:11:19
朝鮮半島南部に伝わっている農耕具の系譜が華中とは異なるからだよ。
647日本@名無史さん:2006/04/14(金) 09:50:33
半島南部の水田遺跡で出土する土器の系譜もな。
648日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:03:43
ttp://www.asahi.com/science/news/TKY200604130374.html
コメを稲穂にとどめる変異を特定、農業生物資源研

日本で栽培されている稲は、約1万年前に中国の長江中流域で
栽培化され、約3000年前に日本に伝えられたと考えられている。
今回見つかった変異の分布を調べた結果、中国での栽培化開始から
日本伝来までの間に突然変異が起き、その特長のある稲を栽培向きと
考えて代々選んだため、現在日本で栽培されているジャポニカ米全体の
特長となったらしいという
649日本@名無史さん:2006/04/14(金) 10:22:49
それが?
650日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:52:31
日本に来た渡来系には、大きく2種類あったと思われる

縄文人が日本を占拠していた時期に、朝鮮半島から渡来したもの。B52−DR2、弥生人である。
特徴として、頬骨が発達している

すでに、弥生人が西日本を占拠していたころに
朝鮮北部から、瀬戸内海を渡り、西日本を素通りして、新しく関西周辺に入ってきた渡来人
B44−DR13である。
顔の特徴は頬骨が前者の弥生人程発達してなく、蚕型の輪郭をしている
関西周辺から入り、秋田方面、東海方面へと広がっていった
やはり西日本は弥生人がすでに占拠していたため、
西日本にはあまり入りこめず西に行くほど頻度は低くなる


現代朝鮮人・関西周辺人・中国地方人は同じ新モンゴロイド系だが、
関西周辺人だけ、ぶっちぎりで現代朝鮮人に近い、
現代朝鮮人と同一の血を持つ集団が、弥生時代から古墳時代頃に関西周辺にだけ土着したという証拠である。

手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との距離
朝鮮 0
近畿 0.007←関西はここ。ぶっちぎりで朝鮮人に近い。
中部 0.012←関西のとなりの濃尾平野はここ。
中国 0.035
九州 0.035
四国 0.038
東京 0.048←関東はここ。
東北 0.068←東北はここ。
南西諸島 0.092
アイヌ 0.118
山口敏「日本人の顔と身体」より
651日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:54:07
亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13は、縄文人のHLAの1つではなく、
渡来人のHLAの1つ。

もし、亜種を含めたら数倍になる、朝鮮人の最多ハプロタイプ・B44−DR13が、縄文人のHLAの1つなら、
朝鮮人は、沖縄人やアイヌ人と同じ縄文系という事になるが、
朝鮮人に縄文顔の人は、10人に、1人か2人しかいなく、非常にマイナーな存在。


>「B44ーDR13」は関東で5,7%とさほど多くない。
>韓国は7,0%で北陸7,2%から秋田に多く、近畿6,6%、
>東海10,7%でも頻度が高い。日本中央部に多いタイプ。
652日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:59:15
>>651-651
じゃあ、どのHLAが縄文人のものなのなんだい?w
653日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:05:35
>>646-647
だから?
654日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:38:25
>>648
ただし長江流域からは直接来ていない。

日本には約6500年以上前から熱帯ジャポニカの稲作はあるので、
約3000年前の弥生時代開始時に朝鮮半島南部から水田技術、
長江流域とは系譜の異なる農耕具、そして北方アジア系の
紅陶無文土器の技術と同時に日本に伝わった稲というのは
温帯ジャポニカである。
655日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:12:09
>654
温帯ジャポニカが伝来したのは、
江南→朝鮮半島南部か北九州じゃない?

>朝鮮半島南部から水田技術、
>長江流域とは系譜の異なる農耕具、そして北方アジア系の
>紅陶無文土器の技術
と、温帯ジャポニカが全て同時に入ってきたというのを証明できる
論文あるん?
656日本@名無史さん:2006/04/15(土) 15:49:48
それを言うなら、温帯ジャポニカの伝来が江南→朝鮮半島南部か
北九州という論文もあるのか?

朝鮮半島南部から水田技術、長江流域とは系譜の異なる農耕具、そして
北方アジア系の紅陶無文土器の技術が同時期に入ってきたという事は
日本最古級の水田遺跡である菜畑遺跡の存在そのものが証明している。
657日本@名無史さん:2006/04/15(土) 20:57:07
>>654
最低限として縄文海進の頃の異常な高温期の事情は切り離して考えないと見誤るということでよろしいかな?
658日本@名無史さん:2006/04/16(日) 13:04:25
野生稲の可能性も忘れてはいかん。
659日本@名無史さん:2006/04/16(日) 13:56:57
朝鮮南部も日本の領土だったので
直接九州もありえるよ。
660日本@名無史さん:2006/04/16(日) 14:13:29
ありえません。

華中とは農耕具の系譜が違う。
日本に入ってきている土器系統も違う。
661日本@名無史さん:2006/04/18(火) 01:29:50
ありうる話だと思うがなぁ。
佐藤洋一郎助教授がDNA鑑定した結果だと、
温帯ジャポニカは、江南起源で、
半島を経由していない品種が見つかっているわけで。

そして、水田自体は、現在の水田と違って、
焼畑に水を入れ込んだだけのもの。

温帯ジャポニカを栽培目的も、熱帯ジャポニカと交配させ、
早稲種を作るのが目的だったんじゃないか、という事だし。

温帯ジャポニカとその大まかな育て方だけ伝わって、
正確な水稲栽培法が伝わっていなかったと考えられる。

翻ってスレタイに戻ると、確かにそういう意味では、
水田稲作の正しい方法は持ってないね。
662日本@名無史さん:2006/04/19(水) 21:59:06
だから半島を経由していない品種が6500年以上前からある熱帯ジャポニカ
なんだろがヴォケ!

で約3000年前に伝わった品種が温帯ジャポニカなんだろが。

弥生期の稲作は水田稲作ではなくて、ほとんどが陸稲の擬似水田稲作である。
663日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:16:14
>662
>だから半島を経由していない品種が6500年以上前からある熱帯ジャポニカ
>なんだろがヴォケ!

佐藤先生は、
温帯ジャポニカが、中国から直接渡来したという主張だよ?

で、
>弥生期の稲作は水田稲作ではなくて、ほとんどが陸稲の擬似水田稲作である。
ここは、そのとおり。
664日本@名無史さん:2006/04/21(金) 13:42:31
江戸時代まで、東北地方では“陸稲”を栽培していた記録がある。
665日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:57:38
陸稲の擬似水田耕作とはどういうものを言うのでしょうか。
陸稲の種籾を使って水田で稲作をすることですか?
教えて厨ですみません。
666日本@名無史さん:2006/04/22(土) 15:33:13

佐藤 1995年に、私の勤務する静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡で、
約5万・もの広さを持つ水田跡が発見されました。この水田跡は、古墳時代のもので、
3〜4畳半程の小区画が連続しているという形状をしています。

―― 5万・とは、また随分広いですね。

佐藤 収穫量を計算してみたら、少なく見積っても15tくらい。100人以上が米だけで
暮らすことのできる量ですが、当時のその地域の人口はそんなに多くなかったのです。

そこでその一角の土を調べてみたところ、水田ではなく休耕田が含まれていたと判明
しました。結局、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらに
DNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。

―― せっかくの水田で陸稲を栽培していた!?

佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの
雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する
特徴です。

http://www.athome.co.jp/academy/botany/bot06.html
667日本@名無史さん:2006/04/22(土) 17:13:07
>>666
ありがとうございます。勉強になりました。
668日本@名無史さん:2006/04/22(土) 17:42:24
669日本@名無史さん:2006/04/22(土) 19:43:58
>>668
これまた、ありがとうございます。
水田稲作が入ってきても、穀物の生産手段の全てが水田稲作にとって代わられたのではなく
陸田と水田の併用がずっと続いていたんですね。
明治維新後の近代化のように、水田耕作で日本の文化が根本から大きくかつ急激に変わった
のではなく、以前からの焼畑陸稲栽培に水田耕作を部分的に取り入れて行き、当時としては
急な変化かもしれませんが、我々現代人が想像する、明治維新や終戦での社会変化ほど
劇的でもなかったようですね。
670日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:14:56
その通り。

しかも、最も重要な事は、BC10Cの弥生時代開始から約300年後の弥生前期中頃
のBC7C頃まで、渡来系の形質を持った人骨が全く見られないんだよ。

つまり朝鮮半島南部から水田技術や農耕具や土器技術を九州北部に持ち込んで
弥生時代の扉を開いたのは・・・・・

渡来系の形質を持った人骨が現れるのは弥生前期中頃のBC7C頃。
2chでよく話題になる扶余が登場してくる時代とは全然違うんだよ。
671日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:16:36
>渡来人の存在を否定するわけではないが、その遺伝的な影響が及びだしたのは、
>弥生開始期ではなく、弥生前期末以降の、北部九州で青銅器などの大陸系の遺物が
>急増する時期だというのである。

>板付遺跡にも近い福岡空港内の雀居(ささい)遺跡では、弥生前期中頃の墓から、
>非常に面長で扁平な顔つきをした長身の女性人骨が発見された。しかも奇妙なことに、
>この渡来系弥生人によく似た女性は、下顎切歯と上顎犬歯を対象とする、縄文後晩期
>の人々や新町遺跡のときと同じく、支石墓の被葬者と同じような抜歯風習の痕跡を
>残していた。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/jiyomonkarayayoi/jiyomonyayoi.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
672日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:54:28
朝鮮半島南部に住んでいたのは倭人じゃないの?

その後、北方から騎馬・遊牧民族が朝鮮半島を南下して、高句麗・新羅などを建てた。

だから、ソニンや和田あき子など、セイシュウ島出身の韓国系は、日本人の顔が似ている。

騎馬民族出身の韓国人は、目がつりあがり、どちらかと言うとモンゴル人に似ている。

やっぱり騎馬・遊牧民族なんだなと思うが、どうだろうか?
673日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:22:19
馬鹿、逆だろw

日本人がモンゴル人の方と顔が似ている。

ソニンや和田あき子など、済州島出身の朝鮮人は
色の黒いのっぺら長顔で寄り目の満州族に似ている。
674日本@名無史さん:2006/04/25(火) 05:40:46
モンゴルも朝鮮も中国も同じだし、どれも、キモイし、おぞましい。

関西人が、他の日本地域と異なる人種集団である以上は、
日本人とは別の人種であることは明らかなわけで。

関西人=渡来人ではない、
日本土着であり、モンゴルや朝鮮は関西人の支流であるという考え方もできますが、
発掘結果はそうではない。

日本人とは別の人種=ビビンバ・ニダー

それと関西人が現実問題、
縄文系の強い東国・九州・アイヌ・沖縄や、
白人・コーカソイドなどより人種的にかっこよければ無問題ですが、
細くて一重の目、頬が突き出て平べったい顔、絶壁頭などなど、はっきりいって醜い。
日本社会には不要な民族なのですよ。

必死になってモンゴルだと主張しても、日本には関西人=ブサイク・ビビンバ・ニダーは不要。

祖国モンゴルなり、朝鮮なり、中国なりに帰っていただきたい。
675日本@名無史さん:2006/04/25(火) 20:40:47
↑リアルビビンバwwww
676日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:11:55
また人種厨が騒いでるのか・・
現代人の顔みて短絡的に何百年も前の顔も同じだと思う奴は真性の厨。
677日本@名無史さん:2006/04/27(木) 19:42:47
 中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
678日本@名無史さん:2006/04/27(木) 19:46:17
山東半島東端の龍山時代の遺跡からコメが見つかっている事
から、この時期に遼東半島に山東半島経由で入っていた可能性があろう。

http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/higasiajia.html

龍山文化前期に当たる山東省揚家圏の稲籾(2,440+-130B.C)も水稲として
鑑定され、遼東半島大連市の大嘴子遺跡から出土した炭化米も水稲である
可能性が高い。

http://inoues.net/study/japonica3.html

紀元前2000年ころ(?)とみられる種籾が、漢江の河口に面 する金浦(キムポ)
と一山(イルサン)で発見されました(注)。   

(注)韓炳三『NHK人間大学、韓国の古代文化』日本放送出版協会、1995

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=ffckdcbfma4oi4baqa4aba4imha4bfa4na4aba1a9&sid=1835396&mid=5344
679日本@名無史さん:2006/04/28(金) 00:25:32
>677
温帯ジャポニカの渡来と農耕技術の渡来は関係ないので、
稲作農耕技術と北方渡来の農機具で、熱帯ジャポニカと
長江から直接渡来の温帯ジャポニカが混在する、
雑駁農耕が行われていた。

ということですね。


680:2006/04/28(金) 00:27:39
誤 稲作農耕技術と北方渡来の農機具で、
正 北方渡来の稲作農耕技術と農機具で、

です。
681日本@名無史さん:2006/04/28(金) 21:35:56
そもそもなんで朝鮮南部から九州へってことが当たり前に話されてるんだ?
むしろ九州から朝鮮南部へのほうが正常な気がするんだけど
682日本@名無史さん:2006/04/29(土) 01:01:02
>>681
朝鮮半島の方が中国大陸に近いから
考古学でも山東半島と遼東半島のつながりの深さは証明されている。
よって雑穀農耕は日本よりも早く伝わった。
しかし、稲の生態は寒冷な高緯度では育ちにくいから、その雑穀農耕に
当初からお米が含まれていた可能性は低い。

農耕そのものは半島の方に早く伝わったが
熱帯ジャポニカの陸田での栽培は日本の方が早い。
個人的考えでは、九州などで寒冷にも強くなった品種が対馬海峡を渡ったと思う。
そして逆に、半島を北から南下してきた鍬などの北方系の道具が入ってきた。
683日本@名無史さん:2006/04/29(土) 15:24:45
以前と比べるとかなりまともになってきたなw

稲作自体は日本が先。

のちに華北から山東半島→遼東半島→朝鮮半島という経由で
朝鮮半島に水田技術や農耕具が伝わり、やや遅れて北方アジア文化が
朝鮮半島に南下し始め、朝鮮半島は縄文土器の影響を受けた櫛目文土器文化
から北方系の紅陶無文土器文化に変わる。

朝鮮半島南部まで水田技術、農耕具、紅陶無文土器が伝わり、
半島南部と交流のあった九州北部の縄文人がそれらを持ち込んで
擬似水田稲作や擬似無文土器の弥生土器を焼き始めて弥生時代が始まった。

弥生人が北方アジアから朝鮮半島に定着せずに突き抜けて九州北部に
侵入してくる300年くらい前の出来事である。
684日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:57:46

>渡来人の存在を否定するわけではないが、その遺伝的な影響が及びだしたのは、
>弥生開始期ではなく、弥生前期末以降の、北部九州で青銅器などの大陸系の遺物が
>急増する時期だというのである。

>板付遺跡にも近い福岡空港内の雀居(ささい)遺跡では、弥生前期中頃の墓から、
>非常に面長で扁平な顔つきをした長身の女性人骨が発見された。しかも奇妙なことに、
>この渡来系弥生人によく似た女性は、下顎切歯と上顎犬歯を対象とする、縄文後晩期
>の人々や新町遺跡のときと同じく、支石墓の被葬者と同じような抜歯風習の痕跡を
>残していた。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/jiyomonkarayayoi/jiyomonyayoi.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
685日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:54:59
まあ、そもそも「稲作が外国から伝わった」という事自体が憶測だからね。
686日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:06:53
その通り。

縄文時代まで日本に絶滅した野生稲があった可能性も否定できない。

水田技術と農耕具と土器技術は半島から持ち込んだだけ。
687日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:19:43
農耕具と土器技術はともかく、
水田技術は、試行錯誤の上の自主開発の可能性はないのか?
688日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:29:28
農耕具・擬似無文土器と同時に水田が九州北部限定で
出現するところがネックなんだよ。
689日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:57:27
朝鮮半島と同じくらいの寒さの東北地方で稲作が出来るようになったのは、いつ頃ですか?
690日本@名無史さん:2006/05/06(土) 13:58:12
すでに縄文時代からだよ。
691日本@名無史さん:2006/05/06(土) 20:04:23
>>689
気候は変動してきているので、いつも「最近の気温」と大差ないと思ったら大間違い。
692日本@名無史さん:2006/05/07(日) 10:30:17
>>683
>のちに華北から山東半島→遼東半島→朝鮮半島という経由で
>朝鮮半島に水田技術や農耕具が伝わり、

のところはどうかな。水田技術が北から伝わったというのは理解し難い。
693日本@名無史さん:2006/05/07(日) 10:44:32
>>683
紅陶無文土器文化

→紅陶無形土人文化と、思わず読んでしもた
694日本@名無史さん:2006/05/07(日) 20:39:16
中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から
稲作伝播の様子を解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。

 田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、日本(縄文晩期終末=
弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、水田が
造られた地形、土壌などを比較しました。

 また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、クワの系譜が
山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。

 「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。

http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
695日本@名無史さん:2006/05/07(日) 21:02:38

また華中、南朝鮮、北九州の同一性が強調されるが、差異を見なくてはなるまい。
農法の違いがあげられる。華中では相当遅い時代まで特殊な農法「火耕水耨」が
行われていて、「田植」などは唐代になってからであるとされている(注10)。
一方日本や朝鮮では「施肥」や「田植」が行われていたことは「田下駄(オオアシ)」
や「田舟」が弥生中期ごろの遣跡から出されることから想定されている。
明らかに水田耕作技術は中国とは異なっている。

http://www1.odn.ne.jp/~cak49740/newpage04.htm
696日本@名無史さん:2006/05/08(月) 14:32:30
>>694
この田崎教授も水田稲作は土器、道具、作物が不可分のセットになって
伝播していくはずという先入観が強いんではないかと

日本で北方由来の鍬をつかって陸稲を含む雑穀栽培をしていた所に
本来なら鋤を使うべき水田稲作が入ってきても、より使いやすい鍬の方を
稲作の道具として選択したって全然おかしくない。
硬い土地を耕すのは鍬の方が便利だ。まして近代に至るまで陸田の割合が
高いのが日本の稲作なんだし、鋤は日本式の稲作には向いていなかった。

と考えても全然おかしくない。
697日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:05:58
あれえ?

当時の江南はインディカ種の方がメインなのに
何で日本にインディカ種が伝わってないの?
698日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:27:36
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町,彦崎貝塚の約6,000前の地層から稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと,同町教委が18日,発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例めだが,今回は化石が多量で,小麦などのプラント・オパールも見つかり,
町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。
縄文晩期に大陸から伝わったとされる我が国稲作の起源の定説を約3,000年以上もさかのぼることになり,新たな起源論争が起こりそうだ。

読売新聞,2005,2,19より引用
699日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:30:02
中国の国営通信、新華社は22日、中国の長江(揚子江)下流の新石器時代の上山遺跡(浙江省浦江)から、約1万年前の世界最古の栽培稲のもみ殻が見つかった、と伝えた。
新華社電によると、これまで最古の栽培稲は長江中流の遺跡などで見つかった8000年前のものとされており、稲作の起源はさらに約2000年さかのぼることになる。

同省の考古学研究所などが調査した結果、上山遺跡で約1万年前の土器とともに大量の稲のもみ殻が出土。
もみ殻を調べたところ、野生種より長さが短く、幅は逆に太い栽培稲の特徴が確認できたという。

専門家は今回の結果について「長江下流が稲作の発祥地の一つであることを裏付けた」との見方を示した。

中国では1990年代に長江中流域の玉蟾岩遺跡(湖南省)や仙人洞(江西省)で1万年以前とされるもみ殻も見つかっているが、
栽培種か野生種か明確でないことなどから、稲作の起源とはされていない。

稲作の起源をめぐっては近年、長江流域での発掘成果が注目され、長江下流域の草鞋山遺跡では約6000年前の水田遺構も発掘されている。

(北京・共同)

毎日新聞 2005年1月23日 記事

700日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:32:14
これまでインドのアッサム地方が原産と言われていた栽培稲は近年の発見にもとづく研究で「インディカ種」はアッサム地方,「ジャポニカ種」は中国と言われてきました.どちらも紀元前6千年ころと言われていました.

ところが今回の発見によって稲の栽培そのものが中国からはじまったという可能性も出てきたと言うわけです。
一方世界最古の土器が発見されている日本ですが,もしかしたら日本でも早い段階から稲作が伝わったかもしれないという可能性が出てきました。
なぜなら土器はモノを煮炊きする道具であり,農耕とも密接な関係があるからです。
現在日本最古の稲の痕跡は縄文時代前期の岡山県朝寝鼻移籍から発見された稲独特の細胞「プラントオパール」です。
この発見によって日本でも今から6〜7千年前に稲作があった可能性があると言われてきました。


長江下流域から黒潮と言う海の道でつながっている日本は,中国から直接の人やモノが意外に早く簡単にくるのです。
これも早くから農業の技術が日本にきた可能性の大きな要素になります。
そのうち日本でも縄文時代の耕作あとが発見されるのも近いでしょう。
701日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:34:58
>>697
熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを掛け合せると何になるか?
で、それは主に自然環境を念頭において作られたとみるべきだが
どこで誕生し収穫されていたのか? 基本的な質問。
702日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:39:09
栽培イネの起源地については東南アジア低湿地説にかわり、近年はアッサム?ヒマラヤ?雲南地方の高緯度地帯とみる説が有力になっていた。
しかし最近、中国湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡から、野生種から栽培種への過程をしめす籾痕(もみこん)のある約9000年前の土器がみつかった。
さらに、1997年に同省の長江(揚子江)中流域から栽培イネ1万2000粒が発掘されるなど、長江流域説が急浮上している。

703日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:45:26
>>697

栽培されるイネには、大きくわけて日本型(japonica:ジャポニカ種)とインド型(indica:インディカ種)の2種類があり、それぞれ栽培されている地域がちがう。
また、イネは変異性にとみ、世界に広く分布しているので、栽培方法によって水稲と陸稲にわけられるほか、栽培時期によってもさまざまな分類がなされる。

もみ(籾)が丸みをおびていて、味が濃厚でご飯にすると粘りの強い日本型のイネは、日本人の好みにあい、なじみの深いイネであるが、
世界的には、もみの形が細長く、粘りの少ないインド型のイネのほうが多く栽培されている。

日本型のイネ(japonica:ジャポニカ種)は比較的高緯度の地域で栽培され、日本をはじめ、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北の平坦地などで栽培されている。
これに対してインド型(indica:インディカ種)のイネは、中国の長江以南、東南・南アジア各国の平坦地、アフリカ諸国など熱帯の主要米産国で栽培され、栽培面積や生産量は日本型のイネにくらべてはるかに大きい。

この分布図やネーミングを見る限り、日本にインディカ種が伝わってないのは当然である。
例えるなら、「アフリカ大陸にアジア人が住んでいないのはどうして?」と質問するようなものです。
704日本@名無史さん:2006/05/10(水) 15:07:49
必死すぎに笑ったw
705日本@名無史さん:2006/05/10(水) 15:47:46
四国の研究は、いがいと進んでないようなきがする
706日本@名無史さん:2006/05/10(水) 17:40:14
>>704
反論できない惨めさよテラワロッススススwwwww
707日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:22:04
おやあ?

当時の江南はインディカ種の方がメインなのに
何で日本にインディカ種が伝わってないのかな?
708日本@名無史さん:2006/05/10(水) 20:46:09
悔しくて悔しくてトチ狂ったみたいだなw
同じこと繰り返えしていう九官鳥並みの頭、いや単細胞かwww
うぁはははははっ
709日本@名無史さん:2006/05/10(水) 22:02:22
おやあ?

当時の江南はインディカ種の方がメインなのに
何で朝鮮・台湾・長江より北にインディカ種が伝わってないのかな?
710日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:54:56
>>707

インディカ種が日本、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北に存在しないのは当たり前だろう。
何を言っているんだ???
711日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:00:43
>>710
意味不明。

>朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北に存在しない

ソースは?
712日本@名無史さん:2006/05/11(木) 00:05:07
>台湾、中国大陸の長江以北に存在しない


特にここんとこのソースは?
713:2006/05/11(木) 01:38:37
>709
とりあえず、長江河姆渡遺跡でインディカ種だと思われた稲はジャポニカ種だった。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/catv/kodai/kk08.html
714日本@名無史さん:2006/05/11(木) 01:49:59
>>711
>>712

ソース・ソースって、お前はバカか?
インディカ種が日本、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北に存在しないのは常識だ。
そんなことから教えなイカンのか┐( ̄ー ̄)┌
少し調べればわかることだ。
自分で調べてから、出直して来い!!

こんなヤツがいるとは、このスレもレベルが下がったな。
715日本@名無史さん:2006/05/11(木) 02:17:44
>>714
まあまあ、そんなに怒らずに。
我慢していこうよ。

>>711
>>712

ソースは?って質問する前に、基本的なことは自分で調べなきゃダメだよ。

http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/catv/kodai/kk08.html
716日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:05:11
で?何が言いたいのこのバカは?w
717日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:07:19
>台湾、中国大陸の長江以北に存在しない

はやく〜ソースマダー?
718日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:12:16
じゃあ、おまい一回インディカ種、長江以北で栽培してみろよ。
育つわけないからw
719日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:15:20
何でGW過ぎてもリア厨がいるんだ。サボりか?
720日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:22:29
ttp://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/ineha2.htm
>709
とりあえず、
>当時の江南はインディカ種の方がメイン
というソースを教えていただけませんか?

かつて、江南では、インディカとジャポニカが同時に栽培されていた、
と考えられていたのが、遺伝子研究で、インディカと思われていた米は
実はジャポニカであったということについて、
>713
で提示しています。
721日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:28:26
>720
探していたついでに、遺伝子研究から見た
稲の栽培研究について、よくまとまっているページを見つけました。
ttp://inoues.net/study/japonica5.html
722日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:59:43
>>707
>>709
>>717

>当時の江南はインディカ種の方がメイン

この根拠は?
当時の長江周辺では、「温帯ジャポニカ」が栽培されていた。
そして、フィリピンやベトナム辺りでは「熱帯ジャポニカ」が栽培されていた。

>当時の江南はインディカ種の方がメイン
という意見が間違っていると思うよ。
今も昔も、上海・南京・長沙・杭州ではジャポニカ種が栽培されているしね。
723日本@名無史さん:2006/05/11(木) 13:10:09
インディカは謎だよな。
池橋宏みたいにジャポニカからインディカが生まれたんでその逆はありえねーって言い切っちゃう人もいるし。
しかし日本に温帯ジャポニカが渡来した頃の長江流域の稲作がインディカメインつーのは、ありえんと思うぞ?
単に書き込んだ奴の知識が古かっただけだろう。
724日本@名無史さん:2006/05/11(木) 15:04:18
>>723

長江流域の稲作はジャポニカが主流なのに、
間違ってインディカメインと覚えてしまったんじゃないか?

しかし、バカの一つ覚えみたいに「ソース・ソース」って言っているよな。
自分ですぐに調べれるだろうに。
725日本@名無史さん:2006/05/11(木) 16:34:10
>当時の江南はインディカ種の方がメイン

はあ??何言ってンの???

当時の江南はジャポニカ種の方がメインだ。

ジャポニカ種が南下して、そこからインディカ種が派生したんだよ。

ちゃんと勉強してから出直してこい!!!!!!!!!
726日本@名無史さん:2006/05/11(木) 19:17:00
藻前らタコ踊りし杉
727日本@名無史さん:2006/05/11(木) 23:02:33
今の江南はインディカがメインなのは確か。
南宋の時、皇帝直々の勅命で、現ベトナムの占城(チャンパ)からインディカ米を導入
このお米は条件がよければ三期作も出来る早成種。このお米のおかげで
中国では「蘇湖熟すれば天下足る」と言われた。
728日本@名無史さん:2006/05/12(金) 12:04:22
あらあら変ですねえ。

当時の長江下流域はインディカ種の方がメインなのに
何で日本にインディカ種が伝わってないのかねえ?
729日本@名無史さん:2006/05/12(金) 12:15:17
>728
あなたのいう、「当時」とは何時の話ですか?

それが、縄文晩期〜弥生期を指すのであれば、
当時の長江流域がジャポニカメインであることは、このスレッドのレス、
提示されているWebソース、提示されている書籍を読めばわかります。

逆に当時の長江流域の稲作がインディカがメインであるという説は、
かなりの珍説にあたり、現在、そのような主張をされている方を、私は知りません。
ですので、縄文晩期〜弥生期の稲作がインディカメインであるというソースを出してください。

非常に興味があります。

730日本@名無史さん:2006/05/12(金) 12:19:54
>728
ついでに、今現在、インディカの誕生については、
かなり不明の点が多数あります。

あなたは、インディカの発生地、発生状況、伝播について
どのようにお考えでしょうか?

これも興味がありますので、参照できる資料とともに、
教えていただきたいものです。
731日本@名無史さん:2006/05/12(金) 13:38:13
>>728

本当にインディカ種は謎が多い。

まず、ジャポニカ種が誕生して、しばらく経ってインディカ種が派生した。

縄文・弥生時代に長江・東南アジアで主流だったのは、ジャポニカ種だ。

>>728はたぶんウソと分かっているのに言っているのだろう。
732日本@名無史さん:2006/05/12(金) 21:47:37
世に言うジャポニカとインディカ。
そんな区別は本当は存在しない。
日本人が、内地米と外米を尤もらしく区別するために発明した便宜的な表現に過ぎません。
厳密には無意味な区別です。
733:2006/05/12(金) 23:16:38
>732
フェノール反応、塩素酸カリ抵抗性、ふ毛の長さ、低湿抵抗性
という4点の形質において明白な差が、
ジャポニカとインディカには存在します。

種子の形・味で区別するわけではありません。

ジャポニカとインディカは、その祖先が異なっており、
DNA判定によって区別が可能です。
734日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:10:00
あんれえ?

当時の長江下流域はインディカ種の方がメインなのに
何で日本にインディカ種が伝わってないのかねえ?
735日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:15:21
>>734は悔しい在日荒らし
736日本@名無史さん:2006/05/13(土) 14:32:26
私は純血の日本人種でございますがw

737日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:47:21
あれれれれ??

事実、長江下流域は古代からインディカ種があったわけでしょう?
何で日本にインディカ種が伝わってないのかねえ?
738日本@名無史さん:2006/05/13(土) 18:57:14
コメは中国朝鮮自治区経由で伝わりました。はい間違いありません。
739日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:00:53
>737
ソース読んでおられますか?
今のところ、遺跡からインディカは全く見つけられておりません。

まずは、きちんと中国の稲作関連の資料を読んでください。
その上で、長江でインディカが発見されたというソースがあるのなら、
提示してください。

それが出来ないようでしたら、単に不勉強による、
ご自身の勘違い、思い込みを元にした根拠に欠ける不正確なレスと
判断させていただきます。
740日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:02:19
コメ作りは朝鮮人が日本人に教えてあげました、チョッパリは感謝してください。
741日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:14:41
コメ作りは華北人が朝鮮人に教えてあげました、朝鮮人も感謝してください。
742日本@名無史さん:2006/05/13(土) 19:50:56
いやいやいやいや。

古代より長江下流域はインディカ種のメッカなのに
何で日本にインディカ種が伝わってないのかねえ?
743日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:20:12
>>742

インディカ種が云々言うやつがいるが、無視していこうぜ。
はたぶんウソと分かって釣っているのだろう。
744日本@名無史さん:2006/05/14(日) 12:36:48
ありゃりゃ?

長江下流域には6000年以上前から水田があるのに、
何で縄文時代の稲作には水田が伝わってないんだろうねえ?
745日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:41:25
イネは、北上して仰韶時代には既に黄河流域に達していたが、早くから温帯の
気候に適応し、それまでの熱帯型に加えて温帯型が出現した。熱帯型は長粒で
あるが、温帯型は短粒であり、今日では前者をインディカ indica、後者を
ジャポニカ japonica として区別する。
 
河姆渡遺跡で栽培されていたのはインディカが60〜74%、ジャポニカが20〜40%
といい、B.C.3300‐B.C.2250年の良渚文化遺跡からもインディカ・ジャポニカ
二型がともに検出されている。降って湖南省長沙馬王堆{マオウタイ}漢墓(B.C.2c.前半)
出土の米はインディカといい、三国時代以降江南に移った北方の漢人達は
それまでのアワ・キビに代ってイネに親しんだが、これもインディカであろうかという。

http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Dictionaries/Dictionary%20of%20Chinese%20Painting/Items/gadai_kacho_ine_Dao.htm
746日本@名無史さん:2006/05/14(日) 17:43:25
6000頃
長江下流域の河姆渡遺跡。象や犀が生息。母系社会。断髪ないしは丸坊主。
住居は高床でホゾ組使用、現代の木組法と同じ手法。壁は板を縦に並べている。
大量の籾、インディカ系60〜70%、残りがジャポニカ系、その他が若干混じる。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/00/kks-tyok.html
747日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:18:30
>インディカ種が台湾、中国大陸の長江以北に存在しないのは常識だ。
>じゃあ、おまい一回インディカ種、長江以北で栽培してみろよ。
>育つわけないからw




●アジアのお米分布図

http://www.syokuryo.maff.go.jp/museum/qanda/fig5-7.gif



748日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:22:26
まず東南アジアから支那の長江一帯に、そしてじわじわ北上し、九州近畿、そして朝鮮に伝わるのが普通でしょうよ。
でも有史以来ずーっと支那の勢力に蹂躙されてきた半島に、日本より先に稲作の「ソフト」が伝わったのもありうるかもしれん。
それが半島経由で日本にきたかどうかは不明だが
749日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:49:26
こんな事言うとすぐにビビンバ認定されるので俺も言わないで
おいたが、縄文期に伝わった熱帯ジャポニカこそ華北→朝鮮→日本
だと思うな。

なぜなら、インディカが無いし、水田も農工具も無いんだから。
750日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:11:08
熱帯ジャポニカが寒い地域に入ったからこそ温帯ジャポニカが
生まれた訳で、その頃には水田や農工具も遼東から朝鮮半島に伝わり、
やがて九州北部の縄文人に伝わって弥生時代の開始になる。

何千年もかけて、ただ単に人の手から手へ伝わっていっただけで、
渡来人とはなーんの関係もない。

事実、渡来人骨が見つかるのはそれから300年くらい後の事。
751日本@名無史さん:2006/05/14(日) 20:44:57
BC20C頃の満州は既に稲作をしている。


4000年前の中国東北部の稲作を示す文家屯(ぶんかとん)遺跡
の石器や玉器

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data22.html

稲は、日本では、今では北海道でも立派なお米ができますし、中国の東北部
(旧満州地方)でも盛んに米作りが行われています。冬には零下30から
40℃まで下がるような地方でも、お米が作られる夏の稲作期間に気温が
稲の生育に適する程度まで上がるからです。稲の生育期間は100から
120日も必要ですが、寒い地方でも、内陸性の気候で夏期には20から
30℃まで気温が上がる場合があり、このような土地ではお米が作れるのです。

http://www.afftis.or.jp/QandA/box/mon/mon69.htm
752南京大虐殺の首謀者:2006/05/14(日) 20:57:10

南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。

あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
753日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:21:34
>745
>746
の提示した資料は古いものですね。
>720の資料の方が新しいものです。

稲の研究は1997年頃から、遺伝子学による研究が入り、
それによって、それまでの定説が、ことごとく覆されています。
きちんと読むべき本は、読んでおいた方がいいです。

河姆渡遺跡の米は、DNA解析によって、
インディカではなかったと証明されております(全く存在しなかった)。

インディカが、江南に入ったのは
>727以降の話であり、また、東アジアにおけるインディカ栽培も
>727以降であるというのが今の定説です。
754日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:31:57
>>745
>>746

長江河姆渡遺跡でインディカ種だと勘違いされていた稲は、最近の研究によって「ジャポニカ種」だと明らかにされた。



http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/catv/kodai/kk08.html
755日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:37:46
最初から知ってたよ。

ただ定説じゃなくて、佐藤が言っているだけ。佐藤説なだけ。

残念ながら、まだ学会の定説ではないよ。

学界の定説は745で正しいの。
756日本@名無史さん:2006/05/14(日) 21:52:03
>>748.749

長江下流域からの直伝というルートが注目されています。
(もちろん、半島経由もありますが。)
757日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:02:54
長江直伝なら縄文時代から水田も農工具も伝わっているはず。

弥生開始期に伝わった水田においては、そこから出てくる
土器や農工具は長江とは系譜が違う。
758日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:08:30
長江直伝なら黒陶や灰陶や三足土器なんかも伝わっちゃいます。
759日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:22:25
縄文時代からね。
760日本@名無史さん:2006/05/15(月) 10:35:56
>755
考古学方面の方?
民俗・文化人類学方面は、佐藤説でFAですが。

>757-758
イネの伝播と文化の伝播を同じに考える必要は全くありません。
文化の伝播には集団の存在が必要になりますが、
米の伝播を考えると、すでに日本で熱帯ジャポニカの栽培が開始されていたことを考えると、
米を集団で伝えなければならない必然性が全くありません。

長江から米の種子が届いたという事です。
農耕技術が届いたり、移民した集団がいたという話ではありません。
761日本@名無史さん:2006/05/15(月) 12:27:35
稲だけ握り締めて渡って来たのかね?w

不自然ですなw

水田や鋤や三足土器の伝播など一人の渡来で結構。
762日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:21:05
雑穀栽培をしているところに、陸稲を取り入れることは敷居が低いが
水田を作って、水稲栽培をすることは凄く敷居が高い。
江南のように沼地を利用するにも日本にはその様な土地は少ない
必然的に土木工事をしないといけない。
しかし、その土木工事の労力に見合った収穫があるかどうかなんて
当時の人にはわからない。
763日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:28:36
「どうして奈良が古代日本の中心地だったか」

近年、地質学の調査により、現在の奈良市の辺りは湿地帯だったことが明らかになった。
湿地帯だったということは、水田稲作が発展しやすいということだ。
食料が確保できれば、人口は増える。
人口が増えれば、軍事力も増す。
764日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:32:48
>>762

>江南のように沼地を利用するにも日本にはその様な土地は少ない

俺は滋賀に住んでいるが、琵琶湖周辺には沼地は多い。
俺の近所の周囲半径100M以内にも、沼地はざっと数えるだけで、5個はある。
大学に行く道のりで、絶対に沼地を通る。
今は埋め立てられているが、昔はもっと沼地は多かったらしい。

最近、沼地が埋め立てられて新興住宅街になっているが、そんな場所には住みたくないな。
765日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:40:35
>>762

まあ、普通に考えて最初に稲作する時は、土木工事なんかせずに、湿地帯や沼地に植えるわな。

大湿地帯が奈良にあったなら、そこで稲作は発達するだろう。

なぜなら土木工事なんかするよりも、湿地帯や沼地に植えた方が効率的だからね。
766日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:50:18
日の丸は、朝廷に貢献した大名などに下賜して有り難がらせて
またバカをやらすことに使われたもので、
いわば天皇家の象徴。
その朝廷は日本を征服支配した朝鮮人が作ったもの。
つまり、日の丸は、朝鮮人による日本支配の象徴なのである。
767日本@名無史さん:2006/05/15(月) 22:50:44
>>764

沼地に建てられた家は風水的に最悪らしい。
あと、T字路の突き当たりの家も最悪らしい。
768日本@名無史さん:2006/05/15(月) 23:15:11
なんか沼地の建てられたマンションとか地震とかに襲われたらヤバそう。
それに、地場とかも怪しいよね。
自律神経失調症とかになるって聞くしね。
769日本@名無史さん:2006/05/16(火) 02:39:03
>>766
梅干しをおでこに貼り付けておきなさい。
770日本@名無史さん:2006/05/16(火) 02:40:42
>>767-768
安心しなさい。君の病気の原因は他にある(笑い)
771日本@名無史さん:2006/05/17(水) 12:15:11
>インディカ種が台湾、中国大陸の長江以北に存在しないのは常識だ。
>じゃあ、おまい一回インディカ種、長江以北で栽培してみろよ。
>育つわけないからw




●アジアのお米分布図

http://www.syokuryo.maff.go.jp/museum/qanda/fig5-7.gif




772日本@名無史さん:2006/05/17(水) 21:30:41
江戸時代の利根川新田開発も、その田んぼは陸田がほとんどだったと言うし
今のような水田風景が関東平野を覆うようになったのは維新後でしょう。
それだけ、水田を開墾維持するのは難しいことだと思う。

今やブランド米の産地になった南魚沼も、戦後大規模な灌漑工事のおかげ。
それまでは水はけが悪く、潟スキーみたいなのを使ったり、船から農作業を行っていて
そこのお米も不味くて有名だった。角栄さまさまだ。
773日本@名無史さん:2006/05/18(木) 11:22:01
BC20C頃の満州は既に稲作をしている。


4000年前の中国東北部の稲作を示す文家屯(ぶんかとん)遺跡
の石器や玉器

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data22.html

稲は、日本では、今では北海道でも立派なお米ができますし、中国の東北部
(旧満州地方)でも盛んに米作りが行われています。冬には零下30から
40℃まで下がるような地方でも、お米が作られる夏の稲作期間に気温が
稲の生育に適する程度まで上がるからです。稲の生育期間は100から
120日も必要ですが、寒い地方でも、内陸性の気候で夏期には20から
30℃まで気温が上がる場合があり、このような土地ではお米が作れるのです。

http://www.afftis.or.jp/QandA/box/mon/mon69.htm
774日本@名無史さん:2006/05/18(木) 23:08:15
>>769

ガハハハハ・・・・!
豆腐の角でアタマをマッサージするのも効き目がありそうだね(笑
775日本@名無史さん:2006/05/18(木) 23:30:22
>>761

鉄とか銅てのは、鉱脈を発見しなきゃ意味がないだろうよ。
それらは、渡来してすぐに見つかったのか?
それでもって、いきなり『少数』の渡来人が、鉄器とか作り始めたっていうのかよ?
         ↓
>>773
>稲の栽培は縄文時代にも行われていたこと、一時に多数の渡来人が押し寄せたわけではないことが
明らかになりつつあります。

三々五々渡来したらしい。しかも、各地から、バラバラな場所に漂着したんだろうな。
達人でもないんだから、新天地で稲作して食っていくだけで精一杯だったんだよ。

見知らぬ土地へ移住した場合、人間はどのように適応して行くかというと、まずはその土地の
気候風土などを把握して、その土地に合わせた生活必需品を手に入れようとするものだ。
その場合、先住の人々の習慣を取り入れる場合もあり、必需品が手に入らない場合は、近所の町へ
買出しに行くわけだ。

おなじ民族でも住む地域が異なると、生活習慣が変わる場合がある。
例えば苗族でも、土間式の家に住む者と高床式の家に住む者がある。
その土地の地形や複雑な事情でそうなるのだ。
776日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:29:52
>>775
おまえ馬鹿?

最初の農工具は全て木製だぜ。
777日本@名無史さん:2006/05/19(金) 14:05:54
>>776
悪いが、そういうことではないのだ。
778日本@名無史さん:2006/05/19(金) 14:30:55
>>776
例えば、大陸か半島の鉄を産出する地帯から移住して来ても、
急に鉄器を作りはじめるわけではない。
それと同じように、ごく少数者が旧文化の完全なる継承者に
なる事も無い、と言う事。
779日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:50:23
>>775
漂着ではないでしょ。
別の目的で頻繁に種籾を船に積んで移動する理由が見当たらない。
大陸側では、何処でも作ってる稲を売り買いしないでしょ。(半島の耕作
面積は狭く売るほど作れない)

種籾と農具を持ちこまないと耕作は難しいから、意図して渡来してる
のは間違いないと思うよ。
ただ、戦争でもない限り大規模に移動する理由はそんなにない。
移動したいと思うものだけ来るから、大人数では来ない。

対馬からは、九州北部も朝鮮南部も見通せる。見える近さがあるから
船を作れば行き来するようになるでしょ。

これまで、一方的にやってきたと思う人が居て、渡来人>縄文人みたい
な構図があるわけだけど、向こうから来れるのであれば、こちらからも行
けるわけだから、相互に行き来があったと考えたほうが無難。
朝鮮南部は大和朝廷の支配下だった時期もあり、それ以前の古来から
日本の勢力圏だったと考えておかしくなく、渡来人と区別される人との
違いは住んでいた地域の違い程度なんだろうね。

朝鮮語の文法は日本語と同じで、陸続きなのに大陸の影響が見られない
ところから見て、人種的には日本人が土着したのが朝鮮人と考えたほうが
自然。
稲作文化は、陸続きの朝鮮半島が先になるのは当然だが、民族的には
島国で育った固有のものが半島に渡っているとしか思えない。
780がいやまん:2006/05/19(金) 18:23:56
朝鮮・日本語がアルタイ系に似ているのは印欧語が農耕牧畜金属の伝播
の際に各地に広まったプロセスと似ているのでは。
781日本@名無史さん:2006/05/19(金) 18:51:44
モンゴル南部で畑仕事やってるのは、匈奴に連れて来られた漢民族の末裔らしいね。
ちなみに、戦前の旧満州領で畑仕事やってたのも漢民族。(現在の旧満州領の農民は殆ど漢民族)
782日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:25:29
日本に青銅器を持ち込んだのは間違いなく渡来人である。
渡来人骨と青銅器の出現と拡散が全く同時期だからである。
つまり青銅器は渡来人の故郷を知る上で最も重要な手がかりである。
ところが日本の青銅器には中国青銅器の器形が全く伝わっていない。


>渡来人の存在を否定するわけではないが、その遺伝的な影響が及びだしたのは、
>弥生開始期ではなく、弥生前期末以降の、北部九州で青銅器などの大陸系の遺物が
>急増する時期だというのである。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/jiyomonkarayayoi/jiyomonyayoi.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
783日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:26:26
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形がさーっぱり伝わっていない。
その代表である三足器形さえも伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html




784日本@名無史さん:2006/05/19(金) 22:45:41
残念ながら弥生開始時に水田や農工具や無文土器の技術を持ち込んだのは
朝鮮半島人ではない。

弥生時代が始まってから約300年間もの間の渡来人骨が全く出土しないからだ。
つまりそれらを持ち込んだのは半島南部と交流していた縄文人自身と考えられる。

弥生開始から300年ほどの時間が流れ、ようやく渡来人が青銅器を持って
日本に渡って来るが、その青銅器には中国青銅器の器形がなく、
彼らの人骨は朝鮮半島から出土した古代人骨とは全く形質が異なっていた。
785日本@名無史さん:2006/05/20(土) 00:00:46
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1135786435/l50
沖縄は九州と同一の文化圏で
本州四国とは隔絶した
文化圏であったことは間違いないなw


黒潮文化圏妄説ここにて崩壊www
786日本@名無史さん:2006/05/20(土) 01:26:24
>>779
北方アジアから紅陶無文土器文化が流入する前の朝鮮半島の土器文化は
櫛目文土器文化であるが、半島では櫛目文土器のルーツを遠くスカン
ジナビア半島からウラル山脈を越えてシベリア一帯にひろがった文化と
直接つながりを持つもので、中国東北地方に典型的な櫛目文土器文化が
発達しなかったのは北から南への文化の伝播が早くて定着する暇が
なかったと釈明しているが、それが嘘なのは明らかである。

櫛目文土器は縄文前期の曽畑式土器と形や模様が非常に似通っており、
製作の根源は同じである。

縄文前期に朝鮮半島に伝わった曽畑式土器文化が日本では消滅し
朝鮮半島で生き残っただけである。

朝鮮半島の土着民との交流は縄文前期からあったようだが、
人種的にはYAP遺伝子の有無から、陸分岐の約15000年前頃に縄文人と同種の
古モンゴロイドから分かれていった中央モンゴロイドと見た方が良いだろう。

縄文稲作はやはり朝鮮半島から入ってきたと見ている。

華中に6〜7000年以上前からある水田や農耕具や甑(こしき)が一切伝わっていないからだ。
787日本@名無史さん:2006/05/20(土) 01:41:55
>>786
でも縄文稲作には半島との直接的関連を示す遺物もセットで出てこないよ。
俺は華中ではなく華南から沖縄経由で伝わったのではないかと思っているが。
日本の伝統的稲作農耕文化は、縄文から中世近世に至る時期まで
日本列島にさまざまなルートで伝わってきたり
あるいは独自の進化を遂げた農法の巨大な集合体で、
この内弥生早期に九州へ伝わったものは
おそらく華北・遼東・朝鮮回りで伝わった稲作農法だが、
これは日本の稲作文化の一部に過ぎないよ。
朝鮮は結局近代まで基本はこの弥生早期農法のままだったので
(華北遼東はその後専ら畑作地域になったので朝鮮は取り残された)
明治日本の政治家は李朝末の朝鮮農業の現状を見て愕然とすることになった。
当時の記録を見ると九州へ伝わった弥生農法とよく符合する。
だがその後かなり異質の農法が多重的に日本列島へ伝わったことも分かる。
788日本@名無史さん:2006/05/20(土) 02:30:30
稲作は仰韶時代には既に黄河流域に達していた。
遼河にはBC20C頃の稲作遺跡もある。

黄河→海河→濼河→遼河→鴨緑江→漢江→洛東江→九州北部

のルートで水田や農耕具は伝わってきたのであろうが、
縄文時代からこのルートで稲作がかなり古くから入ってきていた
のではないか。

なお、「黄河→海河→濼河→遼河→鴨緑江→漢江→洛東江」
の各河川の下流域は現代も稲作が盛んな地域である。
789日本@名無史さん:2006/05/20(土) 03:03:45
>>788
縄文高温期は別として、
現代の遼東を含む満州の稲作は大日本帝国の満州開拓時代に
日本式の寒冷地稲作農法が持ち込まれた結果なんだが。
稲作は魅力ある農業なので常に試され、モンゴル帝国時代に
モンゴル高原カラコルムでさえ試されたという記録まであるが
長期に持続可能なものではなかったらしい。
今でも満州では日本式を引き継いだ稲作が行われているが、
日本式稲作の要諦が忘れられた北朝鮮では稲作そのものが廃れ、
北朝鮮の大同江流域あたりで>>788の「リング」は切断されている。
近年の黄河下流域ではいわゆる「断流」で水が足らず稲作は絶滅状態だ。
西暦紀元前後以降の気候では華北や北朝鮮では
持続可能な稲作はかなり困難な農法に属する。
稲作が遼東を楽々回ったのは縄文高温期の1回限りだったと思うよ。
790日本@名無史さん:2006/05/20(土) 08:48:43
>775
鉄器の材料は砂鉄なんで日本でも広く採取できるよ
791日本@名無史さん:2006/05/20(土) 14:44:29
BC20C頃の満州は既に稲作をしている。




4000年前の中国東北部の稲作を示す文家屯(ぶんかとん)遺跡
の石器や玉器

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data22.html



792日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:33:41

朝鮮半島へイネを運んだのは誰だか判明してるの?
華北人?それとも江南人?

その場合は、古代半島のイネのDNA調査が必要だと思うけど、
それは、江南や日本で出土したものと一致してるのかな?

それから、華北が温暖湿潤だった時期はかなり短いと言う説もるけど、
どう思う?

もし江南や日本のイネと完全に一致するようなら、呉越地方から人間が
移住してもたらしたと言う事になるの?
793日本@名無史さん:2006/05/21(日) 19:56:35
頭弱いな。

誰も意識的に運んでないよ。

ただ単に隣人から隣人に渡りながら黄河流域から満州南部に入り、
さらに朝鮮、日本に入っただけの事。

それにイネのDNA調査なんか全くあてにならないよ。

なぜなら、稲ほど品種改良ばかり繰り返されてきた植物は
ない訳で、拡散後に各地で人工的に淘汰消去されてしまったDNAや
自然環境に適合できず淘汰消失していったDNAもいっぱいあるから、
入ってきたDNAが各地に全部揃っているはずがないからである。

それに稲は実はマイナス10℃くらいまで耐えられる植物だ。

なんとか江南のクサイ南方人が日本に入ってきた事にしてやろうという
悪意に満ちた在日チャンコロのおまえの見え透いた誘導工作に参加者全員
もう辟易しているんだよ。

汚らしい中国人の腐った屎尿の臭いを強制的に嗅がされたような
実に穢らわしい不快感を残すだけなので以後二度とやめろ。
794日本@名無史さん:2006/05/22(月) 06:21:53
>>793
マジで2〜3回しか書き込んでないんだけど…

縄文人が持ち込んだ可能性もあると思うが、大陸・半島経由もあるだろう、
というそれだけだよ。
ただし、同じ時期のイネのDNA調査は必要なんじゃないかとは思っている。
少なくとも、先祖の遺伝子は、ある程度は受け継いでいくと思うから。
795日本@名無史さん:2006/05/22(月) 12:19:18
とぼけてないなら、おまえは相当な脳弱。

弥生開始から3〜400年間の渡来人骨が一切出てこないんだっつーの。

単に半島南部との交流の中で稲作も水田も伝わっただけ。

それから3〜400年してから渡来人が北方アジアから青銅器を持って
朝鮮半島を越えて九州北部にやって来た。
796日本@名無史さん:2006/05/22(月) 14:19:41
藻前はチョン半島を強調したいだけのチョンコロだろ?w
797日本@名無史さん:2006/05/22(月) 16:15:04
>>795
こんな事を書くとまた脳弱と言われそうだけど、、、、、

>単に半島南部との交流の中で稲作も水田も伝わっただけ。

と言うなら、半島以外の地域との交流の中で単に稲作や水田が伝わった
可能性もあるじゃないの?
既に前の方で多くの人が指摘してるけど、農機具が出てこなかったり種類が違うから
「絶対」に無い、とかいう事かい?
何が何でも半島だけ、古代人は半島以外には一切目もくれなかったって?


日本列島は四方を海に囲まれていると言うのに、古代人が半島一本槍
とはさみしいというか、残念な事だねぇ。
俺が古代人だったら、別の交易ルートなんかも開拓しちゃうよ。
798日本@名無史さん:2006/05/22(月) 21:13:23
人の移動や交流で最も重要なのは土器であるが、
日本には縄文時代から古墳時代に入るまで中国灰陶の技術が一切
伝わっていない。
中国土器の一般的な器形である三足器形すら伝わっていない。
華南ルートならそこに印文の文様が加わるがそれも伝わっていない。

ところが朝鮮半島には縄文早期に日本で生まれた櫛目文土器が伝わっているし、
日本産の縄文土器が出土する。
逆に日本には朝鮮半島と同じ北方アジア系の無文土器の技術が伝わっているし、
朝鮮産の櫛目文土器や無文土器が出土する。

日本最古の水田には中国土器などは一切出ず、朝鮮半島と同じ北方アジア系の
無文土器の技術から生まれた新しい土器や同じ農耕具が出土している。
799日本@名無史さん:2006/05/22(月) 21:39:57
>藻前はチョン半島を強調したいだけのチョンコロだろ?w


私がチョンコロなら渡来人は朝鮮半島から来たと言うでしょうなw

何でわざわざ渡来人は北方アジアから朝鮮半島を越えてやって来た
という表現なんか使う必要があろうか。
800日本@名無史さん:2006/05/23(火) 06:52:53
>>798
なるほどね・・・(今のところ)考古学的にはそうでしょう。

でも一般人的にはこうだよ。↓

縄文人は日本中にかなり満遍なく住んでいた。
それが全員半島だけを目指して舟を出し、弥生時代には半島だけから人間が入ってきたなんて考え方は、
一般人の感覚的には「異常」このうえない話だ。

古墳時代の話も出たけど、だいたい、卑弥呼の時代から大陸との交流がある程度活発であったのに、
半島に他を圧倒するどんな物凄い「魅力」があったって言うの?

「日本人は古代より半島だけど交流し、古代人は半島からしか流入しませんでした」
と言いたいのかな??
それこそ、考古学的にもありえないでしょう。
801日本@名無史さん:2006/05/23(火) 08:10:11
つ「蜀の舟形木棺」
802日本@名無史さん:2006/05/23(火) 09:20:46
九州の古代神
http://www.geocities.jp/gotos_room/_geo_contents_/tane.html
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/kamado/index.htm

▲種子島宇宙センター大崎射場(大型ロケット発射場)を望む。
古代へ!宝満神社と玉依姫と稲作の秘密

まずはいっきに古代へと時代を遡ってみましょう。
種子島の南部に創建年代がわからないほど古くから
この地にご鎮座される宝満神社があります。
御祭神は玉依姫。その昔、18人の従者を連れて
種子島の地にやって来たという伝説が残る女神です。
この玉依姫が持参していたものが赤米で、
それが日本の稲作発祥の地と言われる由縁となりました。
宝満神社は今でもオセマチと呼ばれる神田を持ち、
4月にはお田植の神事が執り行われるそうです。
玉依姫が伝えた赤米、ルーツはインドネシアの品種に
遡れるそうで、種子島には3万年以上前の立切遺跡や
縄文晩期の長崎鼻遺跡、弥生時代中期の広田遺跡と、
考古学的にもとても重要な遺跡が残っています。
太古の昔から人間が定住していたという証拠ですね。
玉依姫は一体いつこの地に現れたのかを空想しながら
島内の遺跡や神社巡りをするのも楽しいかも。
玉依姫の神威が今も伝えられる種子島は
日本一収穫の早い米どころでもあるそうです。
宝満神社には人の手が入らない聖域が今も残り、
参道をたどると種子島最大の淡水湖である
宝満の池にたどり着きます。稲作に水は不可欠ですし、
玉依姫は水の女神でもあったのかもしれません。
余談ですが、種子島宇宙センターのロケット打上げ時には
宇宙開発事業団の方が成功祈念にお参りするそうです。
803日本@名無史さん:2006/05/23(火) 11:04:55
オセマチ(神田)では、牛馬や農薬を使った米作りが禁止されてきたらしいが、
これについて「詳しく」説明できる人います?
804日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:11:43
>>800
何の遺物的証拠も出せない人間に異常呼ばわりされる覚えはないがな。

私には揺るぎ無き明確な遺物的証拠の裏付けがある。

卑弥呼時代から大陸との交流がある程度活発になったのは楽浪・帯方郡
があったからだ。

何度も言うが、いわゆる弥生人と言われる渡来人は朝鮮半島から来たが
朝鮮半島人ではない。

朝鮮半島を越えてきた北方アジア人である。
805日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:35:58
>朝鮮半島を越えてきた北方アジア人
        ↑
最近古代史ヲタの間で話題の「モンゴル人」のことか?
806日本@名無史さん:2006/05/23(火) 17:58:39
>>804
手漕ぎで潮流の速い対馬海峡を越えるのはきつい。
台湾〜奄美諸島〜鹿児島なら小島が多く手漕ぎ船でも可能。

また奄美諸島経由で考えると漁業の関係で外洋に出る機会が非常に多いだろうし
生活レベルでの航海に対する知識もあったはずだが、大陸と陸続きであった
朝鮮半島で外洋に出るという必要性が感じられない。
807日本@名無史さん:2006/05/23(火) 18:27:38
>>804

>>800ですけど。

交流や移住を物語るものは、土器や農機具だけですか?
その他の遺物は、交流や移住の証明にはならないと?
じゃぁ、「漢倭奴国王」や「親魏倭王」は、何をやっていたんですかね?
何も得るものが無く、何の影響も受けなかったということ?

>>朝鮮半島を越えてきた北方アジア人

日本人の7〜8割が北方系で残りの2〜3割が南方系とよく言われているけど、
南方が入り込んだ可能性は「ゼロ」ですか?例の「赤の遺伝子」とやらの証拠
があるから、交流の可能性はゼロだと?

具体的に、半島を越えてきた北方アジア人て誰ですか?
808日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:22:02
>>807
まず、弥生人がいつ頃渡来したか分かっているか?

漢倭奴国王から700年くらいも前のBC7C頃の事だよ。

逆にその頃の中国遺物があるなら是非私に教えてくれよ。

その他の遺物って具体的に何?金印と鏡の事か?

例えば、楽浪郡以降の楽浪瓦質土器、三韓瓦質土器なら弥生後期の遺跡で
しばしば出土しておるが。もちろん伝わってはいないけど。

残念ながら南方から入り込んだ可能性は「ゼロ」だな。

当時は今の江蘇省から東南アジアまで印文硬陶(印文装飾の灰陶)が主流だが、
灰陶も印文も三足器形も、琉球や九州に伝わってはいない。
809日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:40:05
>>808

ようするに、

>人の移動や交流でも最も重要なのは土器やであるが、

に対する単純な質問ですが。


本当にそうなのか?という素人の素朴な突っ込みです。
但し、素人の突込みを甘くみんなよ。

>残念ながら南方から入り込んだ可能性は「ゼロ」だな。

イネのDNAの一致は完全に無視できる範囲のものなの?というか、無視すべきものなの?
半島からのイネのDNAが分かっていたら教しえてください。
それから、半島へのイネの伝播がどうやって行われたか、直感ではなくて専門家の意見
としてお聞かせ下さいな。
810日本@名無史さん:2006/05/23(火) 21:48:11
>>808

あ、そうだ、具体的に何者が渡来したのかも聞いてなかった。
それもあわせて「ズバリ」お答えください。
811日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:13:19
>>808
まだあった、

日本人の遺伝子ね。
今は、「赤の遺伝子」とか色々言われていますが、少し前に話題に上ったこちらの
遺伝子解析は無視していいレベルなんですか?

日本人固有タイプ4・8%
中国人(台湾本省人)に多いタイプ25・8%
韓国人に多いタイプ24・2%
沖縄人に多いタイプ16.1%
アイヌに多いタイプ8・1%
それ以外・・

お亡くなりになった宝来先生の遺伝子解析ですが、これはガセだったんですか?
812日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:06:14
http://www.kyuhaku.com/pr/roji/roji_ys-05.html
稲作は種子島から北部九州へ
813日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:15:50
>>809
土器を調べない考古学は無い。どんな考古学もまず土器ありき。

稲ほど品種改良ばかり繰り返されてきた植物はない。
拡散後に各地で人工的に淘汰消去されてしまったDNAや自然環境に適合
できず淘汰消失していったDNAもいっぱいあるから、入ってきたDNAが
各地に全部揃っているはずもないからである。

おまけに古墳時代以降の日中間の貿易で入ってきたり、逆に出て行った
品種もあるので稲のDNA調査はあてにはできない。
あくまで参考程度に留めておくものである。

>>810
単に大和民族を形成した北方モンゴロイド。
弥生人は当時アジアの至るところに起きた北方モンゴロイドの
拡散の一環にすぎない。
814日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:32:11
>>811
よーく御覧なさい。

北方アジアが無いでしょう?

mtDNAの調査は形質人類学の調査と同じ。
いつも北方アジア抜きの調査で語られている。

おまけにmtDNAは母系しか分からない。
mtDNAは女性を伴う事の少ない渡来系よりもむしろ土着系の系統を
見る方に適した指標である。

同じ遺伝学なら北方アジアまで含めた調査がなされており、母系父系
の無いHLAやgm遺伝子の方がよほど参考になる。
815日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:17:23
朝鮮から見れば「朝鮮の稲作が日本へ伝わったニダ。ホルホルホル。」
のように見えるんだろうが、
日本の稲作文化は朝鮮とは比べ物にならないほど複雑で重層的だから、
日本から見れば朝鮮から伝わった稲作文化は日本の稲作史のごく一部だけになる。
日本には縄文農耕の「既存の湿地に稲を適当に植えておくだけ」
という亜熱帯的な原始農耕文化から
中世のインディカ米(占城米)導入に至るまで
(食味が悪いので淘汰されたが実は日本でもインディカ米は一時栽培されていた)
東アジア各地から多種多様な稲作と稲作文化が伝わっているんだよ。
文化伝播は古代だけでなく中世から近世に至るまで断続的に続いている。
その重層的な積み重ねの総体が「照葉樹林文化」というものなんだな。
朝鮮の場合、稲作農法の伝播は、縄文高温期の終わりに
遼東から半島を南下して九州へ渡った日本弥生早期の稲作伝播の一回限りで
稲作文化としてはこの一層しかない。
日本から見ると、朝鮮の稲作は弥生時代が
そのまま19世紀末の李朝末期まで続いているようにみえる。
日本による併合が無かったら今でも弥生時代のままだっただろう。
816日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:41:35
>>814
となると、>>811の「宝来数値表(仮名)」は「典型的な統計の嘘の類い」ということでよろしいですか?
817日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:01:17
>>816
宝来数値は嘘ではないと思います。
亡くなったのがつい最近でまだ50代だったから、ボケてもいなかったと思います。

ただし、遺伝子解析は方法により、さまざまな角度から答えを出す事ができる=いかようにも
解釈ができるものらしいですねー。
他の板で見かけましたが、「韓国人と日本人の遺伝子距離がゼロ」という答えを導き出した学者も
いるようです。だったらYAP+はどうなるんだ?という事になります。
また、民族には固有の遺伝子タイプというものもあって、韓国人や中国人はこれが案外多いらしいが、
日本では4・8%と少ないとも聞きました。

>>813
>北方モンゴロイドの拡散の一環

それも漠然としてますがな。
北方モンゴロイドが、半島よりも北、サハリンなどを経由した可能性はどうですか?
ブリアートが日本人に一番近いという話もあったけど、あれは今はどうなってるの?

それから、遺伝子や言語の事を考える時、沖縄を無視する事はできないと思うけど。
沖縄人は、本土日本人やアイヌ人と同様YAP+の保持者です。本土人との遺伝子距離も非常に近い。
さらに言語的にも、日本祖語から分岐したのはそれ程昔ではないと思われます。
で、遺伝子的に非常に近く言語的にも極めて近いとなると…半島経由の北方モンゴロイドは、
いつどのようにして沖縄の南端までたどり着いたのでせうか?
もし半島経由で沖縄南東まで来たとなると・・・古代人て凄い航海能力があることにならんですか?

>日中間の貿易で入ってきたり、逆に出て行ったり

江南のイネで検査対象になったのは、古墳時代よりももっと前のものじゃなかった?
それが日本のものと一致しているというのは、どういうことになるのだろう?
品種改良が行われなかったということかな?そもそも、日本のイネが大陸へ行く可能性ってあるのかしらん?

それから、どなたか「縄文語」に詳しい方いますか?
818日本@名無史さん:2006/05/24(水) 12:33:14
言わない事は嘘を言っている訳ではないよな。
調査しない事を公表しない事も嘘をでっち上げてる訳ではないよな。

でも、mtDNAの宝来も、形質人類学の松下も、本州しか調査していないのに
日本には流氷は無い、日本にはマングローブは無いと言ってるのと同じ
なのである。

北方モンゴロイドがサハリンを経由した可能性はアイヌの存在から無理。
琉球に入ったのは北方古モンゴロイド。

>江南のイネで検査対象になったのは、古墳時代よりももっと前のもの

ソースは?
819日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:58:55
>>818
>ソースは?

「中国河娒渡遺跡展」
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
>今から7000年前に稲があったのだ。さらに、これらの稲は野生種ではなく、
日本の縄文時代におそらくは焼畑で栽培されていたと思われている熱帯ジャポニカと
同じものである

>北方モンゴロイドがサハリンを経由した可能性はアイヌの存在から無理。

サハリンやカムチャッカを経由せず、全て朝鮮半島を経由したんですか?
それこそ大混乱になりませんかね?
820日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:03:25
つうか、北方つう言葉が好きだなw
まあ、その方が政治的には安心だろうがw
821日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:14:18
>>802
>>812
赤米ってのはだいぶ古いの?
ルーツはインドネシアということだが。
黒潮ルートは、完全に無視されているみたいだよ。

822日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:52:11
http://www14.synapse.ne.jp/minamita/index3-8.htm
「日本書記」にみゆる掖玖(屋久島)・多禰島(種子島)と隼人とは
823日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:55:09
http://reimeikan.pref.kagoshima.jp/kgs01_s3_3.htm
原始・古代のかごしま;弥生文化
資料名:広田遺跡の貝製品 個人蔵【複製】

種子島に 勾玉、女王あり
そして筑前と同じ宝満神社。
824日本@名無史さん:2006/05/25(木) 13:04:59
>>823
>籾痕(もみこん)のある土器や石包丁、柱状石斧(ちゅうじょうせきふ)など稲作農耕の存在を示すものや、
南海産の貝輪製品が出土するなど交易のうえでも貴重な遺跡である。

>中国大陸の影響を受けたとも見られる貝製品が大量に出土している。

稲の遺伝子と伝播経路は判明してますか?
825日本@名無史さん:2006/05/25(木) 23:21:56
>>824
ソース元に意見があるならメールで聞いてみれば?
826日本@名無史さん:2006/05/26(金) 07:47:51
>>825
結構重要な事ですよ。
大陸と深く交流しても、伝播するのは土器だけではないという証明にもなります。
正確な伝播経路が判明すれば、今までの先入観を打ち破る事にもなります。
827日本@名無史さん:2006/05/27(土) 17:08:17
馬鹿馬鹿しい。

単に華中→華北→遼東→朝鮮経由で伝わってきただけ。

7000年前の河姆渡遺跡にある木製や骨製の鋤も木杵も甑もなーんにも
縄文時代に伝わっちゃいないよ。

朝鮮半島に無いb遺伝子の稲も弥生期までに伝わったという確証も無い。

単に古墳期以降の日中貿易で入ってきただけだろうね。
828日本@名無史さん:2006/05/27(土) 17:09:03
>サハリンやカムチャッカを経由せず、全て朝鮮半島を経由したんですか?
>それこそ大混乱になりませんかね?


大混乱になっただろうね。特に朝鮮半島は。

朝鮮人は中央モンゴロイドと北方モンゴロイドの中間的な様相を帯び、
日本人より北方モンゴロイドの影響を強く受けている様相だが、
弥生系ほど北方的ではない。北方的な様相が足りないのである。
829日本@名無史さん:2006/05/27(土) 18:01:37
>>827
なるほど、そうすると是川の漆工芸は日本源流だって事だな。
830日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:17:24
>>828
>弥生系ほど北方的ではない。

弥生系人骨っていうのは、今までにただ一種類しか出土してないんですか?
831日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:40:25
832日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:47:30
こっちだった。

http://www.doigahama.jp/sub/html/main_07_4.html

単に西九州タイプ、南九州・南西諸島タイプは在来種。
833日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:22:49
西九州、南九州(大隅含む)、南西諸島タイプは
同一文化圏にあるわけで、彼らがおしなべて扁平顔だとすると
現在の九州人は扁平顔ばかりじゃないと説明できないわけです。

では実際そうか?そうじゃないわけです。
朝鮮も当然当時は古代人が闊歩していた世界なわけです。
鮮卑、扶余、マッカツなどの南下はもっと古墳時代直前の
話になるわけです。
834日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:33:55
>>827
馬鹿なのはお前だ。
炭化米のDNAで調べてるんだよ。
現在の稲のDNAと比較してる訳じゃない。
835日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:40:08
西九州タイプは縄文人そのもの。
南九州・南西諸島タイプもやはり顔の彫りが浅くなく超短頭。

これは今の琉球人や薩摩人の形質とまーったく同じ。単に縄文亜種。

朝鮮半島の古代人骨は縄文人骨にかなり近い。

つまり北部九州・山口タイプは必然的に朝鮮半島以外のどこかから
朝鮮半島を越えて渡来してきたという事になる。
836日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:42:29
>>834
で、その調査のソースは?

837日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:50:20
ところが、北大の山口氏によれば
西北九州人は縄文時代から高身長であったという調査もある。
東北九州人は低身長で顔が広かったらしい。
本州縄文人はおしなべてにた形質。
弥生、古墳でも別けなければなるまい。
縄文時代と相対差でみればなるまいて

北部九州の筑後地方の人は眼底の凹みがみられ
その意味でも縄文時代とさほど変わりないとも考えられる。

838日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:55:40
>>836
てか、それ常識なんじゃ・・・
839日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:57:44
弥生時代は基本的に北方系の
民族の移動は殆どないと考えれれる。
牛馬、カササギはいないとう。(倭人伝)
たしかに朝鮮式の土器、物産はでよう。
だが、彼ら朝鮮人も南方的習俗だったのだ、
鮮卑、扶余、マッカツの南下はずっと後の話
朝鮮式土器がでた位で北方人が南下したとはいえまい。
そこに強烈な先入観があるといえよう。
840日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:04:58
国立歴史民俗博物館で弥生人の復元人形を見たけど、
ひょろひょろとして華奢だったよ。(顔は醤油系だったが)
朝青龍みたいなマッチョじゃなかったよ。
肩幅とかも狭そうだったし。
841日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:08:51
ああいうのは典型的な例を選別者の主観と偏見で
決めてるから参考程度にしかなるまい。
842日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:11:41
>>838
では、b遺伝子の稲は琉球経由で入ってきたのかもな。

縄文稲作には河姆渡遺跡のような先進文化的なものがなーんにも
ないからね。

いずれにせよ未開なところから入ってきている。


>>839
無文土器も支石墓も青銅器も北方アジア系なんだが。
843日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:12:35
吉野ヶ里の祭祀の復元図は白装束の袴
を纏ってるが
どうみても倭人伝の服装とは違いすぎる。

どういう思考か
倭人伝のように描くと何らかの影響があると考えたか
それとも単なる偏見か
844日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:14:53
>>841
でも、そういう弥生人骨も実際に発見されていたって事だろ?
歴博は独断と偏見に満ちていたのか…ショーック!
845日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:17:02
九州では縄文土器は基本的に無文系が多いと思うが?

支石墓はまだ古モンゴロイド的な特徴を有するモノの墓の形質か

青銅器はまあ利便性の高いものだから倭人、韓人が
受け入れたともいえる。
何時までも原始人のような生活してれば
滅ぼされるだけだからなw

846日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:18:50
弥生人骨の全てがあの扁平顔かのごとく喧伝してるのは
事実だろ、そしてそれに国民がまんまと引っかかってるのも
事実だ。
847日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:18:54

どうでもよいが、鹿児島の遺跡についてはどうなのよ?
848日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:26:44
その辺で鹿児島を
意図的に外してる時点がすでに工作行為だろ

鹿児島人なんか縄文、現代と大きくはかわっておらんだろ
にも関わらず文化は変貌してる
849日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:27:28
日本や朝鮮の青銅器も無文土器も弥生土器も北方アジアの文化の影響。


韓国の青銅器時代はおおよそ紀元前10世紀ごろに中国東北、シベリア地方などから
北方文化の影響によって始まり、本格的な農耕と牧畜による生産力の増加は階層の
分化をもたらし、しだいに身分的な差として発展するようになる。

彼らがのこした遺跡としては住居跡・貝塚および墳墓などがあり、遺物としては
さまざまな種類の磨製石器と無文土器、そして各種の青銅器がある。

http://daegu.museum.go.kr/museum/japanese/body_02/body2_1_03.html
850日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:28:27
支石墓は満州南部から遼東あたりで発生して北方や朝鮮半島に広がっていった。


東北アジアでの最初の支石墓は、中国東北地方の遼東半島(現在の遼寧省)
から吉林省の南部で建築されたと考えられています。

遼東半島付近から現在の吉林省南部にかけての地域でテーブル形が発生し、
朝鮮半島へと伝播していきます。

http://www.nara.accu.or.jp/about/symposium/symposium.pdf#search='謾ッ遏ウ蠅・驕シ譚ア蜊雁ウカ'
851日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:36:19
無紋は九州では縄文時代から無紋なわけだが。
それはともかく、支石墓は
マッカツ、鮮卑、扶余の本来の文化ではないのかもしれん
遼東あたりの人が発祥か
852日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:39:51
            ↑
弥生時代には北方モンゴロイドのみが半島「だけ」を経由して日本に渡来した。
弥生人はみなツンギーデばりばりの容貌と体格だった。しかし、稲作は玄人だった。
と主張する一方で、鹿児島の遺跡などは、華麗にスルーするという哲学の先生だ。
853日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:42:24
縄文土器の影響を受けた朝鮮の櫛目文土器文化圏は、BC13C頃、満州(中国東北部)や
アムールなど、北方アジアの無文土器文化圏へと急激に凌駕されていく。


 紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における青銅器時代とほぼ一致する。
文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、
手捏ねか輪積みによるものがほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江に
またがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されていたことがわかる。そして
この無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の母胎ともなった。

http://www.moco.or.jp/jp/intro/intro_3/intro_3b.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf

注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器が,日本の弥生文化の土器
と類似していることである。学者たちは,大陸と日本列島の間に交流が存在した
と見なしている。

http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm
854日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:50:02
>>851
吉林省あたりまで含まれているので、
支石墓の発祥は満州南部あたりと言った方が良いだろう。
855日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:59:15
>>852
渡来人がやって来る300年くらい前に既に水田技術は伝わっていて
弥生時代は開始してるの。
渡来人は水田技術なんか持ってきていないの。
渡来人が持ち込んだのは青銅器。


>渡来人の存在を否定するわけではないが、その遺伝的な影響が及びだしたのは、
>弥生開始期ではなく、弥生前期末以降の、北部九州で青銅器などの大陸系の遺物が
>急増する時期だというのである。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/jiyomonkarayayoi/jiyomonyayoi.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
856日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:09:34
北部九州と南部九州は殆ど同じ文化圏であったことは
明白だ。
857日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:15:33
>>853
ついに、レコードが壊れたようだ。

俺の疑問には一切答えないつもりらしい。

東南アジアや江南からの移住や米の伝播は一切無かったという立場ですよね?
それで、交流すれば必ず土器が伝播すると。だから半島経由以外には
一切考えられないと。
じゃぁ、例の鹿児島の遺跡についてはどう説明しますか?
土器以外のものが伝わったり、影響を受けたりする場合もあるんじゃないですか?
858日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:35:03
東南アジアや江南からの人の移住など一切無かったという立場ですが。

華南から稲の伝来はあったかもしれないが、所詮、琉球経由で
縄文人自身が持ち込んだだけでしょうね。

土器以外のものって貝製品の事か?

北部九州・山口の渡来系が貝製品を目当てに琉球と交易していた事は
よく知っているが。

貴重な南洋貝のゴボウラを輪切りにして腕輪にしていたのだよ。

お金だったんじゃないか?
859日本@名無史さん:2006/05/28(日) 05:38:41
>>534

最近のDNA研究という奴で、中国、半島、日本の水稲在来
品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これら
に小文字のaからhでの字を当てると、aからhまでの変形版がどこに位置
するかを調べると面白い事がわかるという。

中国: a b c d e f g h
半島: a c d e f g h
日本: a b

中国には8種類全部ある。半島はb以外全部ある。日本にはabしかない。
確かに水田稲作は朝鮮半島経由は間違いないだろう。しかし半島にないb型
が日本にないのは説明できない。
そこから、bの籾を持った中国人集団がダイレクトに日本にこれを持ち込ん
だという新しい稲の伝来ルートがあったというのである。疑惑の弥生人中
国説だ。

ここ参照→ただし半島在来品種からbが発見されれば(在来品種のカテゴリー付け)話は別だが・・・

このSSR多型分析でサンプルで使った資料では、"3国にある在来種"のイネをピックアップして
いるが、在来種であるかどうかの判定は追調査される必要があるし、1999年頃から発掘成果がでて
いる半島の水田跡遺跡から、bが発見されない保障もない。大陸から半島にその籾だけ来ていない
のは逆に不思議だ。その立証はまだなされていない。
860日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:54:09
渡来系弥生人と在来系弥生人を区別しないと。

前10〜8世紀頃、在来系弥生人(縄文人の子孫)が
江南と交流して水田耕作の技術をもちこんだ。
この際、江南系渡来人もいたかもしれないが
遺伝子や人骨を残さない程度の少数だった。


前5〜4世紀、呉王夫差と越王句践が抗争した頃
江南地方からきた難民が吉野ヶ里タイプ弥生人。
この時すでに日本では水田耕作がはじまったずっと後。
吉野ヶ里タイプ弥生人はあんまり広がらず消滅。

前3〜2世紀、斉の田単と燕の楽毅が戦った頃
山東半島からきた難民が土井ヶ浜タイプ弥生人。
これはその後、海岸線に沿いながら全国に広がった。
861日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:58:55
>>858
しかも人間の渡来ルートは「半島のみ」とうい立場ですか?
種子島についてはどうですか?
貝製品だけど「中国の影響を受けたと見られる貝の装飾品」
って書いてありませんでした?

「一切」なんて、なんだか厳密過ぎるなぁ…
サハリンと半島の中間の海岸線からの渡来とかも「一切」無い
とする立場ですよねぇ?
他は一切認めないぞ、と。可能性すらも排除するぞ、と。


>>860
>遺伝子や人骨を残さない程度の少数派だった。

人骨も江南地方とそっくりさんなのが出てませんでしたっけ?
現代人同士を遺伝子レベルで比較しても、南部中国人と物凄く
隔たって共通性が無い、わけはないですよ。
(これをいうと諸悪の根源認定されちゃうけど、宝来先生の
遺伝子解析も、ホラではないですから。あの時点では、かなり
の共通性が認められたはずです。)
862日本@名無史さん:2006/05/28(日) 10:59:24
とりあえず件の宝来数値について貼っておきます。
捏造調査ではありませんが、皆さん色々と意見がおありでしょう。
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
863日本@名無史さん:2006/05/28(日) 14:21:34
まーた稲しか能が無い江南ゴキブリが涌いてるのか(嘲笑


>そこから、bの籾を持った中国人集団がダイレクトに日本にこれを持ち込ん
>だという新しい稲の伝来ルートがあったというのである。疑惑の弥生人中
>国説だ。


その稲が日本の野生稲でないという証拠は?
縄文人自身が持ち帰ってきたものではないという証拠は?
何でその中国人は木製鋤や木杵や甑を持ってきていないの?
864日本@名無史さん:2006/05/28(日) 14:31:50
>前10〜8世紀頃、在来系弥生人(縄文人の子孫)が
>江南と交流して水田耕作の技術をもちこんだ。
>この際、江南系渡来人もいたかもしれないが
>遺伝子や人骨を残さない程度の少数だった。


じゃあ何で火耕水耨が伝わっていないの?
何で青銅器が伝わっていないの?
何で江南とは別の土器技術が伝わっているの?
何で三足器形が伝わっていないの?
865日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:02:49
↑何で別のクワが伝わっているの?が抜けている。


>前5〜4世紀、呉王夫差と越王句践が抗争した頃
>江南地方からきた難民が吉野ヶ里タイプ弥生人。
>この時すでに日本では水田耕作がはじまったずっと後。
>吉野ヶ里タイプ弥生人はあんまり広がらず消滅。


じゃあ何で弩が伝わっていないの?
何で銅刀、銅鉞、銅戟、三足青銅器が伝わっていないの?
何で篆書の金文の1つくらい伝わっていないの?
何で車輪が伝わっていないの?
何で印文硬陶の灰陶か文様の1つくらい伝わっていないの?
何で原始磁器が伝わっていないの?
何で三足土器が伝わっていないの?
866日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:12:16
>前3〜2世紀、斉の田単と燕の楽毅が戦った頃
>山東半島からきた難民が土井ヶ浜タイプ弥生人。
>これはその後、海岸線に沿いながら全国に広がった。


じゃあ何で弩が伝わっていないの?
何で篆書の金文の1つくらい伝わっていないの?
何で車輪が伝わっていないの?
何で加彩灰陶が伝わっていないの?
何で原始磁器が伝わっていないの?
何で三足土器が伝わっていないの?
867日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:27:39
>>861
渡来ルートは「半島」だが、来たのは半島人ではない。
北方アジア人だ。

広田遺跡は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡。
本土の影響を受けただけ。


>貝製品だけど「中国の影響を受けたと見られる貝の装飾品」
>って書いてありませんでした?


そんなデタラメがどこに書いてあるの?

868日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:41:25
>>861
松下孝幸の率いる現代形質人類学や故・宝来聰のmtDNAは
今まで1度たりとも北方アジアの調査を行ってはいない。

朝鮮や華北華中をちょこちょこと調査しては、弥生人骨と一致した、
遺伝子が一致したと、ほざいているだけの低脳。

いつも必ず、北方アジアは抜き、北方アジアは無視の偏った調査ゆえ、
ともに全く参考にならず。

形質人類学と宝来mtDNA。

この2つの偏向調査における偏向情報の極悪コラボレーションが
渡来人のルーツにおける研究者の錯誤と勘違いを招いているだけの
諸悪の根源なのである。
869日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:42:37
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/03/3200.html

古代の日本列島には他民族が雑居していたっぽい。
870日本@名無史さん:2006/05/28(日) 16:32:29
>>867
>>868
>今まで1度たりとも北方アジアの調査をおこなってはいない。

http://ethol.zool.kyoto-u.ac.jp/kura/JapanEemp/FameleEmp/1-3.htm

文章は怪しいので無視しても構わないと思いますが、別の人が北方や中央アジアを
含めた解析を行っています。
やっぱり共通性は低くないでしょう。これは、無視していいレベルですか?

>そんなデタラメがどこに書いてあるの?

ばっちりメモしてあったのはホント。手元にあるから。
今ソース探し中です(苦笑) 高橋貝塚とかはどうですか?

それから、琉球列島と交流ができるんですから、その逆に南方から
列島への渡来もあったんじゃないですか?
海流から見ると、そちらの方が容易いように思いますよ。

いずれにしても、人の流れが半島一本槍っていうのがちょっと不思議な印象。
871日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:06:20
大々的な報道はされてないけど近年でも長崎辺りには
チャイナ人乗せた船が漂着するらしいぞ
おぼろげながらも印象に残っているのはゴムボートでの漂着。
黒潮や対馬海流に乗ってきた民も相当数いたと考えるのが正常だな
でもまあ間違いなく流民の入植は半島からってのが主流なんだろうけどね。
872日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:26:51
>>870
宝来のmtDNAについて言っているんだがな。

その他者のマップも何で中国人にあるKが日本人には無くて、日本人にあるNが
中国人にはなくて北方人にあるのか低脳どもは考えもしないだろうから、
低脳をだますにはもってこいだとは思うがね(嘲笑

まあ、いずれにせよ、

物証>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>mtDNA


>ばっちりメモしてあったのはホント。手元にあるから。
>今ソース探し中です


永遠に探してろ。
873日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:27:41
そもそもよ、「夜口笛を吹けばなになにが・・・」これが稲魂信仰に由来するとするなら
あんまり北に広がるのも、民俗学、気象学的におかしいw
874日本@名無史さん:2006/05/28(日) 17:39:00
だから渡来人は稲作とも水田とも関係が無いって何度も言ってやってるだろ。
渡来人が来たのは水田技術が伝わって弥生時代が開始してから
300年くらい経ってから。
渡来人が持ち込んだのは青銅器。



>渡来人の存在を否定するわけではないが、その遺伝的な影響が及びだしたのは、
>弥生開始期ではなく、弥生前期末以降の、北部九州で青銅器などの大陸系の遺物が
>急増する時期だというのである。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/jiyomonkarayayoi/jiyomonyayoi.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
875日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:06:53
>>872
馬鹿だねぇ、先生。

中国大陸の人間と日本人の遺伝的距離が離れすぎているとでも?
日本列島の海岸線は長いんだよ。
北方が大好きなのは分かったが、北方人だけが一箇所から渡来した
わけでもなかろうが?って話だよ。

あんた、個人的に何か特別な理由でもあるのか?
876日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:10:11
>>872
Kだったら、パプアニューギニアなんか凄いじゃん!
じゃぁ、先祖はパプアでいいよw

全体的に見たら、華北とかの方がはるかに近そうな感じだが。
877日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:12:53
>>876
訂正。
Nだったね。N,確かにNだが…少ないねぇN。

やっぱり全体的に見たら華北の方が近いよ。
878日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:16:20
エスキモーやヤクートのNは猛烈に多いが、日本人のNは少ない。
これは、物凄〜く近い民族と言うわけではないがな。


PCの調子がいまいちで細切れ投稿になっているがご容赦。
879日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:31:08
http://ethol.zool.kyoto-u.ac.jp/kura/JapanEemp/FameleEmp/1-3.files/image003.jpg

漏れには性的淘汰、後天的な淘汰が全てだとしかおもえない。
これ見る限り正直形質とミトコンドリア、Yなどに
明確な関連性はみられない。

結局はある集団に扁平顔の人が入った、性的に気に入られたか
あるいは生存競争に勝った。それがたまたまCだったり
DだったりNだったりしただけの話。
つまり形質とミトコン、Yは独立して遺伝したということ。
形質とこれらが連動していないということが全ての原因だと
思う。
880日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:37:01
たとえ話でいくと、アイヌの集団に一人の扁平顔の日本人
が家系に入った。
1,ア、堀深い
2.ア、扁平
3.日、堀深い
4.日、扁平

2ないし3が遺伝子を残すとやっかいなことになる
検査の対象である遺伝子と全く逆の形質がでることになる。

そういうこった、わかった?!

881日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:55:42
>>879

アパッチ、アラスカ、エスキモー、ヤクート、エベンスク、アルタイに
多く見られるQが、華北人には有って、日本人には見られないという事実。
882日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:07:26
Nはエベンスクにピークがあり比較的新しいものといえるか。
問題はKこれ華北人に有る程度
あるが日本人空っぽ華北人が入ってるなら
Kが少しはないとおかしい。
883日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:16:46
ポリネシアに多いCがモンゴルにも多い。
地理的には隔たり、形質も大いに異なる。
Cは日本人にもあるが、そう多くはない。
Dは原住民だが、チベットにも多い。
Kはパプアやアボリジニーに多く見られ、
多くはないが、華北人にも見られる。

日本人は、いったいどこから来たんだろうか?

華南の方は調べてないけど、華北よりもKが多くなりそうか?
884日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:21:11
>>882
Kはモンゴルにありますよ。モンゴルと華北にはあって、日本人にはありません。
885日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:21:26
Kは奇妙な分布してます。
パプアにピークがあるようだが
他の太平洋はそう多くはない。
もっとも古い東南アジアの遺伝子かもしれない。

886日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:25:11
北方のエベンスクにもKがありますよ!
887日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:32:52
たぶんあれだよ、後天的要因大きいよ。
地味な公家とか侍のかっこしてるから
地味な新モンゴロイド顔になったのさ。
能面みたいな無表情やめて白人みたいに
表情豊かにすればポリネシアンみたいな
顔に戻るかもしれない。
888日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:39:37
ヒストリ案は気楽でいいよね。
889日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:39:37
風雨に耐え、寒さに凍え、その上、東洋的
絶対主義社会の中で東洋人の顔面は硬直し
扁平顔になったのである。
これは遺伝子の問題ではない。
今も進行中の東洋人の顔面の病である。
890日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:43:59
【参考】内閣府男女共同参画局予算(本局のみで年間9兆9千億円!!!毎年増額/国家総予算82兆円中)

その実体は過激フェミ学者&団体員の巣窟。
既に国家・社会・生活の●ありとあらゆる面に●巨大かつキチガイじみた影響力を陰に陽に行使。
スーパー省庁として全ての官庁/審議会に過激メンバーが出向し、そこでも凶悪な害悪を撒き散らしています。
1997-99年にだまし討ち的に出来たばかりの局が(外野でわめいていたフェミ団体が権力中枢に殺到)、
財政が火の車にもかかわらず、毎年桁外れの●天文学的な●予算を浪費・支配。しかも他の予算が減額する中、毎年増額しています。
こいつらの力の前にはマスコミなど今や奴隷です。更なる権限・利権を貪るため「男=悪・ダメ」の醜悪巧妙な洗脳&一般女の総フェミ化戦略。
以上が●日本最強力の権力&圧力団体●になったフェミニズムの実態です。
参画局は巨大審議会なので、外部から「女性問題の識者」の肩書きで、男性を憎怨するババアフェミ学者と団体員が
無限に入ってきてしまう構造がこの悲劇を招きました。
全自治体にも男女共同参画課を作らせ別途莫大な額をキチガイ浪費。
最近では10兆円の利権がらみなのか、創価公明がフェミの主張を丸のみ腰巾着化しています。

皇室典範も従軍慰安婦も、最強勢力はこいつらです。
人権擁護法も法務省を完全制圧したフェミがまさに起草(+部落)。女に激甘の求刑・判決/天国みたいな女刑務所。
痴漢を出汁に首都圏に女車両を無理矢理導入。[男→女]の順が多い便所等の案内パネルを
ブチ壊して逆にする工事の指導が電鉄会社に来ており、補助金が際限なく出るとのこと。
海上自衛隊歌も女性差別とされ全歌詞変更。配偶者控除全廃もフェミの悲願。
各種重要試験・採用で女性優遇措置アファーマティブアクション(ex国家1種合格者が最終採用される率:女>>男子東大生)。
マスコミ指導・国民洗脳。真実は、強姦は昭和40年の3分の1殺人は昭和30年の3分の1です。騙されるな!!
権利は貪りつくし、義務は免れるという剥き出しの女権拡張主義フェミニズムが根元にあります。
「女男」という表記に徹する文科省検定教科書も既に複数本登場。○保存&コピペ希望○

苦情を是非お願いします!→http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
891日本@名無史さん:2006/05/29(月) 07:24:07
アラスカとパプアと南インドは完全なる別世界だな。
892日本@名無史さん:2006/05/29(月) 07:51:07
NはOから分岐した新しい方の遺伝子か…
北に分布しているということは、そういう
ことなんだろう。
Oは東南アジアからモンゴルまで幅広く
分布しているが、それよりも西や北へ行くと
殆ど見られなくなる。
日本を含めた東アジアにおいて、東南アジアから
中国大陸に広がっている特徴的な遺伝子だ。
893日本@名無史さん:2006/05/29(月) 08:29:59
幾らmtDNAを追っても無駄無駄。分かるわけがない。


物証>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>mtDNA
894日本@名無史さん:2006/05/29(月) 10:31:18
>>882
中国は多民族国家だし、唐代辺りに混血したんジャマイカ?
895日本@名無史さん:2006/05/29(月) 10:38:27
かつてこんなにスゴイ品揃えのサイトがあったか!?
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896日本@名無史さん:2006/05/29(月) 11:16:13
江南→東北→半島南部→日本列島

と考えれば、遺伝子的にも物証的には何ら矛盾がなくなる。
897日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:16:51
現時点ではそのルートが一番しっくりくるな。
女系はどこも土着だけど
898日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:38:21
日本人に一重まぶたがほとんど居なくなるルートねw
899日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:20:16
>>898
広東人は一重も多いよ。
一重で、デレーッとたれた目だ。
900日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:23:21
リークワンユは一重だよね。
明らかに華北顔だとおもうが
901日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:23:30
移動中に混血するだろう、当然。
902日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:36:24
華南人だと一割いるかいないかだな。
基本的に耐寒用の形質だし。

西日本人は半分くらいが一重だし、半分は縄文系だから、
華南人が弥生人だと一重が0.5割以下になってしまい、
ぜーんぜん割に合わない。
903日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:43:57
おいおい、ご先祖様の形質をそのままの形で引き継ぐかよw
古モンゴロイド集団に、一滴新モンゴロイドとその逆は?
両者の変化度合いは?
904日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:48:28
↑慌てふためく馬鹿チャンコロw
905日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:22:39
皆の衆、餅つけ。

北上する間に混血するだろうし、半島南部に勢力を張っている間にも、
他の半島人と混血するだろう。日本列島にたどり着く頃には、混血
しまくってある程度薄顔に変貌を遂げていたと思うよ。

だから、江南→東北→半島南部→日本列島

というルートが遺伝子的にも、形質的にも、物証的にもしっくり
来るのじゃないかと思う。

つーか、ポリネシア起源だとか、中央アジア起源だとか言う方が
突飛なんだよ。

日本人は混血しながら隣の大陸から引っ越してきて現地の娘と結婚した
だけなの。諦めなさい。
906日本@名無史さん:2006/05/29(月) 22:15:04
日本人は奥二重が多いんだよ。司馬遼太郎も言ってたジャン。
司馬遼太郎の韓国人の友人が「私は二重瞼だから、半チョッパリと呼ばれるんです。」
と街道シリーズでのたまってたよ。

明治の頃の日本人は濃い顔だったらしい。
日本には薩摩タイプと長州タイプがあるが、どんぐり眼でずんぐり体系の薩摩タイプの方
が広く見られるって、ベルツも言ってたでしょ。戦後日本人の薄顔化が促進したんだよ。

て、ことはだ。薄顔遺伝子は濃顔遺伝子よりも優勢にあるということか?
907日本@名無史さん:2006/05/30(火) 00:05:31
韓国に二重瞼が生き残るのは、奇跡だよw
まあ、どのみち消えるが。
908日本@名無史さん:2006/05/30(火) 08:47:56
>>905
ついでに、魏志倭人伝などの記述とも矛盾しなくなる。
一度に全てを解決しようとすると、こうしたルートを辿らざるを
得なくなるのだ。

もっとも、複数渡来説を支持すれば、こうした強引なルートを
設定しなくても済むのだが。
909日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:00:33
http://www.rurubu.com/pref/index.asp?KenCD=45
「貝の道」は沖縄→西九州→北海道のルートであり
おそらく西九州人が中心的役割を担っていたと考えられる。
従来、黒潮文化圏などという妄想が蔓延っていたが
どうやらそういったものは存在しないと考えられる。
910日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:33:47
馬鹿馬鹿しい。

朝鮮半島程度の気候で一重まぶたが発生するのなら、
東北、北海道、アイヌ、北欧、東欧、カナダは一重まぶただらけだよ。

あれはシベリア周辺の形質。

渡来人は単に北方モンゴロイドの拡散の一環に過ぎん。

楽浪以前は日本も朝鮮も中国から伝わっていない物的文化がほとんど。

稲作は単に人の移動を伴わない緩やかな文化伝播だったに過ぎない。
911日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:34:03
       ↑

北京の人は一重瞼が多いよ。
もちろん東北三省もね。
住んだ事がないから妄想をたくましくしているようだが。
日本人よりも平べったい顔は少なくない。

それから、弥生時代に渡来した人間が全員一重瞼だったという
証拠をプリーズ♪

それから、混血の力を舐めちゃいかんよ。
マカイエンサ。ポルトガルから広東にやってきて何代か経つと、
混血してすっかり「中国人」になってしまう。
回族。元々はペルシャ人やアラブ人だが、今ではすっかり混血して
一重瞼の薄っぺらい顔つきに変貌している。顔だけじゃない。
遺伝子的にも、モンゴル人や漢人などに近くなってしまっている。
912日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:38:56
>>906
それって西郷だけなんじゃないの?
他そんな特徴の人間っていたかな?
913日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:54:37
チャンコロの誘導工作が目立つね。
914日本@名無史さん:2006/05/30(火) 13:02:52
日本人の祖先がチャンコロなわけがねーじゃん(嘲笑
915日本@名無史さん:2006/05/30(火) 13:18:30
女子ピンポンを見ていると福原愛のような容貌のシナ人や朝鮮人は見たこと
がないな。

 日本には日本人独特の容貌があって他のアジア人と区別がつく。
916日本@名無史さん:2006/05/30(火) 14:22:00
>913,914,915

朝鮮工作員、1号、2号、3号。
917日本@名無史さん:2006/05/30(火) 14:43:10
華北人は、アパッチ、アラスカ、エスキモー、ヤクート、エベンスク、アルタイに
見られるQを持っていて、モンゴル、キルギス、南インドに見られるJも微量ながら
持っている。
日本人は、これらのいずれの遺伝子も保持していない。但し、Nを僅かに持っている。

華北人自体が、かなり北方民や西方民と混血していそう。
918日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:27:57
>>916
誰が日本人の祖先が朝鮮と言ってるんだ?

この誘導チャンコロがw
919日本@名無史さん:2006/05/30(火) 16:26:46
中国なんぞ大混血のかたまりじゃないかw
大きく新モンゴロイド化したw
だが連中の中心性は、北には無いな鏡見ろよ。
920日本@名無史さん:2006/05/30(火) 16:35:28
シナ人種は日本の弥生系に具が似ていない。



c.シニ−デ(中央蒙古人種)

いわゆるシナ人種。やや高身、中頭で、頬骨突出や蒙古皺襞が弱く、
鼻が突出している。中国本土の大部分を占める。

d.パレモンゴリーデ(南蒙古人種)

茶黄色、低身短頭で、顔は丸くやや広鼻。中国南部から東南アジアに
広く分布。 (世界大百科事典/平凡社)


921日本@名無史さん:2006/05/30(火) 16:45:14
やっぱりシベリア人か?

ゆーろーとか呼ばれていた連中よりも北から来たの?
922日本@名無史さん:2006/05/30(火) 17:00:25
アムールから満州北東部だろうね。

いずれにしても渡来人は朝鮮半島に定着しなかった北方蒙古人種の
一種族だよ。
923日本@名無史さん:2006/05/30(火) 18:21:34
>渡来人は朝鮮半島に定着しなかった北方蒙古人種の一種族だよ。

遊牧民族か?
半島に定着しなかったという証拠は?
924日本@名無史さん:2006/05/30(火) 18:28:26
北方遊牧系古代人



南方ムードたっぷりの日本の神話と神社建築



誰か、この2つを結び付けてくれ。
925日本@名無史さん:2006/05/31(水) 09:09:19
《これが日本人の先祖の国??1900年頃の朝鮮半島の写真》
http://photo.jijisama.org/OldKorea.html

朝鮮人は遊牧民族。
日本人は農耕民族。
この写真を見る限り、全く違う民族だと思うな。
926日本@名無史さん:2006/06/01(木) 00:39:14
常識的に考えて、遊牧民が米を作る訳ないでしょう。

日本の母体は南方と云われ縄文・弥生人も南方要素の強い民族とするべきです。
古墳期に北方民族要素が強まったと云うことです。
927日本@名無史さん:2006/06/01(木) 06:54:55
>>926
半島や中国東北に長く滞在した経験がなければ、
すんなりと米作りに移行する事はできなかった
んじゃないかと思う。
ダイレクトに騎馬民が突入してきた可能性は、
、、、かなり微妙だな。
928日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:28:39
BC20C以前から満州(中国東北部)は既に稲作をしている。


4000年前の中国東北部の稲作を示す文家屯(ぶんかとん)遺跡
の石器や玉器

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data22.html

稲は、日本では、今では北海道でも立派なお米ができますし、中国の東北部
(旧満州地方)でも盛んに米作りが行われています。冬には零下30から
40℃まで下がるような地方でも、お米が作られる夏の稲作期間に気温が
稲の生育に適する程度まで上がるからです。稲の生育期間は100から
120日も必要ですが、寒い地方でも、内陸性の気候で夏期には20から
30℃まで気温が上がる場合があり、このような土地ではお米が作れるのです。

http://www.afftis.or.jp/QandA/box/mon/mon69.htm
929日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:35:16
渡来人が来たのは水田技術が伝わり弥生時代が開始してから
300年くらい経ってから。

渡来人は稲作とも水田とも関係が無い。

渡来人が持ち込んだのは青銅器。



>渡来人の存在を否定するわけではないが、その遺伝的な影響が及びだしたのは、
>弥生開始期ではなく、弥生前期末以降の、北部九州で青銅器などの大陸系の遺物が
>急増する時期だというのである。

http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/yayoiiseki/jiyomonkarayayoi/jiyomonyayoi.html
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf
930日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:41:42
日本語と朝鮮語が分岐したのは、早くても6000〜7000年以上前。
琉球語が日本祖語から分岐したのは、3世紀ごろ。しかも穏やかな
変化だったと見られる。
モンゴル語や満州語とはそれ以上の隔たりがある。
現代の北方人と日本人は遺伝子的にかなりかけ離れた面がある。
彼らに特徴的な遺伝子を、日本人は微量しか持たないか、全く
持っていなかったりする。


一筋縄ではいかない話だ。
931日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:56:33
>モンゴル語や満州語とはそれ以上の隔たりがある。


で、そのソースは?


>現代の北方人と日本人は遺伝子的にかなりかけ離れた面がある。
>彼らに特徴的な遺伝子を、日本人は微量しか持たないか、全く
>持っていなかったりする。


で、そのソースは?

932日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:59:33
>>926
>常識的に考えて、遊牧民が米を作る訳ないでしょう。

気候的に米は無理だが麦なら匈奴も作ってたぞ。
933日本@名無史さん:2006/06/01(木) 10:11:25
>>925 朝鮮人に遊牧民族の風習、文化が何か残っているのだろうか?
狩猟採集民族ではないか?
934日本@名無史さん:2006/06/01(木) 10:19:09
たしかに民俗学分野で電波とばすやついないねw
935日本@名無史さん:2006/06/01(木) 19:04:24
>>931
遺伝子に関するソース。
http://ethol.zool.kyoto-u.ac.jp/kura/JapanEemp/FameleEemp/1-3.files/image003.jpg

言葉に関するものは、自分でぐぐってみて。
ちなみに「日本・朝鮮語」とひと括りになっている場合がある。
その場合、日本語族として琉球語が含まれる。
936日本@名無史さん:2006/06/01(木) 19:10:11
937日本@名無史さん:2006/06/01(木) 22:20:55
>>933
牛肉を大量に食べる。
内臓を食べる。

どちらも一昔前の日本には馴染みのない文化。
938日本@名無史さん:2006/06/02(金) 08:46:22
言いたいことがよくわからんが、ほとんどの遊牧民が食べるのは”羊肉”で
”牛肉”を大量に食べる民族はいないと思うが。

ついでに薄切りの焼肉は日本が発祥。(炭火で使う七輪も日本)
欧米だと焼くときに肉汁を全て出し切るような焼き方をやらない。
939日本@名無史さん:2006/06/02(金) 09:42:34
>>935
見れねえぞ。

それに本文入りで貼れってえの。
940日本@名無史さん:2006/06/02(金) 10:28:31
>現代の北方人と日本人は遺伝子的にかなりかけ離れた面がある。
>彼らに特徴的な遺伝子を、日本人は微量しか持たないか、全く
>持っていなかったりする。


( ´_ゝ`) フーン

http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg

◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度


本土日本人 8,6%、 沖縄人 1,5%、 アイヌ人 1,0%、
韓国人 1,4%、 中国朝鮮族 2,2%、 モンゴル人  5,9%
941日本@名無史さん:2006/06/02(金) 11:00:28
>>935の出したいのはこれらしい。
ttp://ethol.zool.kyoto-u.ac.jp/kura/JapanEemp/FameleEmp/1-3.HTM



なんで下に某軍艦が、、、、、
942日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:55:50
>>940
沖縄に赤の遺伝子が少ないのは意外だなぁ、、
沖縄と言えば、海洋交易。東南アジアとの関係は古くから盛んだ。
それに、福建省辺りからの移民が多い。
なのに、赤の遺伝子を持つ割合は、沖縄が最も少ない。

ふっしぎ〜。ガセじゃない?
943日本@名無史さん:2006/06/02(金) 19:01:37
沖縄本島は、多少増えてるだろw
944日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:06:33
>>940
沖縄と北海道で、赤の遺伝子は最も少なく、本州ではやや多い。
という事は、縄文及びアイヌは、赤の遺伝子を持っていないか、
ごく僅かしか保持していないのかも知れない…
日本人のおよそ6割が大陸系で、残りが縄文+アイヌ+その他諸々だとする。
中国人の中で赤の遺伝子を持つ割合は、当然ながら華北人が少ない、、
Y染色体の解析図と比較すると……

な〜んだ、やっぱり華北人と原住民が混血しただけじゃ〜ん…

マズイ、「赤の遺伝子図」は単なる自爆だ!

恥ずかしいので、すぐに引っ込めろ!!!



945日本@名無史さん:2006/06/03(土) 13:57:07
>現代の北方人と日本人は遺伝子的にかなりかけ離れた面がある。
>彼らに特徴的な遺伝子を、日本人は微量しか持たないか、全く
>持っていなかったりする。


( ´_ゝ`) フーン


http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg

◎HLA遺伝子 B52-DR15(B52-DR2)の頻度


本土日本人 8,6%、 沖縄人 1,5%、 アイヌ人 1,0%、
韓国人 1,4%、 中国朝鮮族 2,2%、 モンゴル人  5,9%
946日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:04:20
>>945
Y染色体に関しては、全くその通りだろう。
彼ら(北アジア人)に特徴的なものを日本人は持っていないか、僅かしか持っていない場合が多い。
複雑で、答えは出ないね。プロパガンダはいいから、少しは知恵を絞ってくれ。
947日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:58:11
>>938
羊がいなかっただけじゃないのか?
遊牧民族というよりは、騎馬民族だな。
948日本@名無史さん:2006/06/04(日) 12:41:11
>>942
>沖縄と言えば、海洋交易。東南アジアとの関係は古くから盛んだ。

笑わせるなよ。その点だけ取り上げられるから有名になっただけで、
実際にはたいした期間ではないぞ。

949日本@名無史さん:2006/06/04(日) 14:22:44
>>946
おまえら在日糞チャンコロのいつ見ても破廉恥極まりない
変態プロパガンダの足元にも及ばんよ(嘲笑)

チャンコロには恥というものが無いらしい(ウルトラ嘲笑)


459 名前:出土地不明 :2006/06/02(金) 09:18:43 ID:CWlS9PpD
人類学的なパースペクティブを簡単に説明。

縄文人はバイカル湖周辺に発生した旧モンゴロイドで、シベリア、サハリンを経て日本列島に渡来。
弥生人は長江の流域から渡来。民族的には楚、呉、越で江南系。しかし江北との地理的なせめぎ合いの中で北方系
民族との混血がある程度進んでいたものと見られる。
即ち弥生人は旧モンゴロイド(江南)と新モンゴロイド(江北)の混血。

朝鮮半島にもともと定住していたのは日本列島から渡った縄文人。
その後弥生人が、長江の流域から北九州一円(半島南部含む)へ渡来。
このことから、古代の北九州一円(半島南部含む)における定住者の間に、大きな人種的差異はなかったものと考えられる。

現在ある日本人と朝鮮人との間の人種的な差異は、その後の半島におけるツングース系民族の侵入、移入による混血が原因。

即ち、

日本人=縄文人+弥生人
朝鮮人=縄文人+弥生人+ツングース系
950日本@名無史さん:2006/06/05(月) 16:27:59
>>948
沖縄人の遺伝子具合から見て、自分で言うほど大した交易してなかったんじゃないか?
と感じる。
951日本@名無史さん:2006/06/05(月) 16:32:34
>>949
さすがに、その投稿はおかしいだろう。(>>946
弥生人て言うのは、倭人と完全にイコールではない。
だから、弥生人が朝鮮半島に住んでいた、というのは
不思議な話だ。倭人ならいたかも知れんけど。
952日本@名無史さん:2006/06/05(月) 17:28:40
>>950
交易と遺伝的なケコーンは別物。
貿易黒字が数百兆円を超えても日本人と米国人とのケコーン率が上がらないのと一緒。
953日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:27:28
>>952
同意。
沖縄本島ではいくらか混血した形跡があるが、八重山は少ない。
台湾本島からの原住民の移住もなさげ。あの近距離にして意外。
954日本@名無史さん:2006/06/06(火) 06:25:57
>>949

そういうお前は、何人なのだ?

漏れは、遺伝子解析を参考にして、北アジア人との意外な遠さを
指摘してみただけなんだが。(ちなみにその出土地不明の笑える
スレは、漏れのじゃないよ。)
日本人とモンゴル人で近い点があるのは認めるが、かけ離れている
点も有る。
日本人≠北アジア人なんだから、その他のルートも考えた方がいい
でしょう。北アジアルートを無視するという事ではなくて。
955日本@名無史さん:2006/06/06(火) 08:29:50
>>954
だから、それはmtのみで見てるだけだろ。

あれは遺伝学でも非常に特殊な遺伝学で、解釈も複雑極まりなく、
mtだけで判断するのは非常に危険だよ。

その他のルートというのは約17000〜18000年前に大陸と陸続きだった頃の
名残に過ぎんよ。
956日本@名無史さん:2006/06/06(火) 09:47:04
HLAを見ると、本土日本人には8.6%、特に西日本人には10%超と超高頻度に見られる日本人最多の
ハプロタイプは、韓国に行くと1.4%、中国華北の北部では約1%ほどしか無いが、モンゴルに行くと
5.9%に跳ね上がる。そうすると日本人最多のハプロタイプはモンゴルあたりから来た北方新モンゴ
ロイドと分かり、韓国人や中国人とはあまり関係が無い人類集団である事も同時に分かる。北方新
モンゴロイドは、まず中国系とアルタイ系に南北に分かれ、更にアルタイ系はトルコ系、モンゴル系、
ツングース系に分かれた事が知られているが、本土日本人はこの中のモンゴル系に近い事が分かる。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
しかし、宝来のmtDNAで日本人のmtDNAを見てみると、それは韓国人によく見られるタイプと中国人に
よく見られるタイプの複合体でしか表されておらず、それが肝心のモンゴル系である事が一切出てこ
ない。つまり、mtDNAは北方新モンゴロイドは全て韓国人によく見られるタイプと中国人によく見られ
るタイプの複合体としか識別できず、それ以上の種類までは識別できない非常に性能と精度の低い
遺伝学材料であるようなのだ。
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
何も知らない人間がこんな性能と精度の疑わしい材料で日本人の人種系統を見たらどうなるだろう。
日本人は土着系と韓国人と中国人の混合体と簡単に錯誤してしまうではないか。
そういった意味でも宝来のmtDNAは危険極まりない粗悪な遺伝学材料と言わねばならないだろう
957日本@名無史さん:2006/06/06(火) 17:00:59
>>956
モンゴル人の5・9%というのはあくまでも、モンゴル人の「一部集団」にそういった
傾向が見られたということで、モンゴル人全体を全ての項目に渡って詳細に調べた
わけじゃないでしょ?
それから、中国南部やベトナムに多く見られるタイプについては、(あなたが)
意図的に無視ているようで、非常に気になる。
あと、比較的重要だと思われるチベット人が、調査対象外になっている。



モンゴル人は、中国人や韓国人に比べて親日的だから贔屓したい気持ちは
理解できるけどね…
958日本@名無史さん:2006/06/06(火) 17:57:42
>>957
宝来DNAの特におかしい部分だけについての考察であって、
おかしくないところについては書いていませんよ。
959日本@名無史さん:2006/06/28(水) 00:18:43
書いてますよ。
960日本@名無史さん:2006/06/28(水) 22:49:17
これを見ると、日本人と遺伝子距離が一番近いのはチベット人らしい。

http://www.goodrumj.com/Tree1.jpg
961日本@名無史さん:2006/06/28(水) 22:52:01
962日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:56:34
「 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。蛙と亀は穴を
 共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。ざんばら髪の君には長者の相なく、
 入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、建康(今の南京)に住まいし、
 ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿イ農{人ベンに農}(おいら)と言
 ふた言めには阿(お)、お{返事などの時}の連発。菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が
 代用飯、茶が飲物代わり。じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)を
 クチャクチャ。手には豆寇{共にクサかんむり}(ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛
 む。中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根にかじりつき、
 鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。        」

* 六世紀に書かれた「洛陽伽藍記」より *

華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を批判した言葉です、
まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味そう!
963日本@名無史さん:2006/07/08(土) 13:54:45
おもしろい
964日本@名無史さん:2006/07/08(土) 15:58:47
ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿イ農{人ベンに農}(おいら)と言
 ふた言めには阿(お)、お{返事などの時}の連発。菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が
 代用飯、茶が飲物代わり。じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)を
 クチャクチャ。手には豆寇{共にクサかんむり}(ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛
 む。中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根にかじりつき、
 鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。        」

・・・これのどこに現代日本人に対する批判と感じるのだ?過去の日本人としても
日本人の食生活とは相当異なるだろう。

965日本@名無史さん:2006/07/08(土) 20:10:59
アハハハハハ...

ジュンサイや蟹の黄やスッポンは高級だけど、昔の日本人は、こんなに
いいもの食べてないよね、きっと。
966日本@名無史さん:2006/07/08(土) 21:53:29
>おのれを阿イ農{人ベンに農}(おいら)と言ふ
967日本@名無史さん:2006/07/14(金) 12:50:30
半月型石包丁は満州南部から。



龍山文化(紀元前30世紀−前20世紀)の特徴的な半月形石刀が、
吉林、永吉、宁安、珲春、通化、桓仁などで出土。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm


968日本@名無史さん:2006/07/24(月) 15:12:42
おもしろいな
969日本@名無史さん:2006/08/04(金) 11:07:33
ついに稲作妄想者の首が落とされた決定的瞬間!


182 :日本@名無史さん :2006/07/23(日) 21:23:57
>>142
>>151
>弥生人というのは弥生文化(稲作文化)をもってきた人種
>新たな渡来人が進んだ稲作技術を持ち込んだ


ハイ、時間切れ!タイムアウトォォオオオ!!



只今をもって、新たな渡来人や人種が稲作技術や文化を持ってきた
という証拠が一切無いという事が確定いたしました。
970日本@名無史さん:2006/08/04(金) 11:12:10
http://homepage3.nifty.com/na-na_divas/menu.html

↑自信過剰で自意識過剰な人を見て苛つきたい方は、こちらへどうぞv
 日記が痛いですよ。掲示板荒らしてねv
971日本@名無史さん:2006/08/12(土) 19:13:31
朝鮮人のWikipedia(ウィキペディア)捏造に対抗せよ 12 
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1153715761/l50 

お願いです、英語の書ける方、力を貸して下さい。 

中韓系アメリカ人や彼らの肩を持つ他のユーザーに比して、日本勢は無勢です。 
(韓国系だけが相手なら現状拮抗していると言えるんだけど) 

日本、日本人、日本史 (特に古代)、竹島、対馬、日本の戦争犯罪、等々 
酷いことが書かれています。 
ひとつひとつ順番に計画を立てて当たり、 
議論とソースで何が正しいか示し、相手やその他大勢を 
納得させていかないと、書き直すことができません。 
972日本@名無史さん:2006/08/13(日) 22:53:19
外務省レベルでやらんとどうにもならんでしょうな。

個人のレベルでは限界があるよ。
大学の研究者なんかが協力してくれるのが一番いいのだが。
973日本@名無史さん:2006/08/13(日) 23:47:20
>>971
古墳時代は、普通に「奈良百済説」「古代朝鮮語は日本語に残っている説」とか
が書いてあって吃驚した。

古墳時代は、完全に韓国の支配下に入っているな...

英語力と歴史力のある椰子、古墳時代を何とかしてください。
974日本@名無史さん:2006/08/14(月) 00:01:12
>>973 そんなものは日本語と朝鮮語の関係の薄さだけで反証になるだろう。

 前方後円古墳は日本起源でより新しいものが朝鮮南部に存在することも
分かっている(日本>朝鮮への進出としか考えられない)。
975日本@名無史さん:2006/08/14(月) 14:41:49
最も重要な事は、弥生時代が開始して300年くらい後の遺跡からでないと
渡来人骨なんか出土しないという事。

つまり、水田技術、無文土器技術、農工具技術を持ち込み弥生時代を
開始させたのは渡来人骨の持ち主ではないという事。

弥生時代の途中からようやく青銅器とともに渡来人骨が出土し始めるが、
その渡来人骨は朝鮮半島の古代人骨とは形質が異なり、
その青銅器は中国青銅器とは大きく異なり、遼寧式(満州式)と一致する
という事。

これらの情報から分かる事は、水田技術、無文土器技術、農工具技術を
持ち込んで弥生時代を開始させたのは縄文人自身であるという事と、
渡来人骨の持ち主は弥生時代の途中で満州以北から満州式の青銅器を
持って朝鮮半島を抜けて九州北部までやって来たという事。
976日本@名無史さん:2006/08/17(木) 00:29:55
ほほう。
977日本@名無史さん:2006/09/06(水) 14:44:18
977
978日本@名無史さん:2006/09/06(水) 14:45:06
978
979日本@名無史さん:2006/09/06(水) 14:45:44
979
980日本@名無史さん
980