こっそりと俺の昭和史の本をアップ

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1日本@名無史さん
誰にも言うなよ!
前にN速で途中で終わったので。
2日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:16:43
<つよまる軍部の力>
1926年、年号は「昭和」とかわった。だが世のなかは不景気におおわれている。
この危機をどうやってきりぬけたらよいのか──軍人たちの目は、国家と軍部の改造にむけられていく。

不景気のあらし
1926年(大正15年)12月25日、病気だった大正天皇が亡くなられ、25歳の皇太子である裕仁親王が第124代の天皇となられた。
元号は「昭和」とすると発表された。
「昭和」ということばには、「世界が平和であり、天皇と国民が心をあわせて国づくりをしよう」という願いがこめられている。

写真:馬車で宮城を出発される天皇 昭和3年11月6日、ご大礼式のため京都にむかわれる。
*元号は「昭和」 昭和の元号は、中国の「書経」というふるい本の中の「百姓昭明、協和万邦」から、2文字をとったもの。
大正15年12月25日に改元されたので、昭和元年は1週間だけ。
3日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:25:21
じつはそういう願いがこめられるほどに、世のなかにはおもくるしい気分や不安がたちこめていた。
第一次世界大戦(1914〜1918)がおわったあと、日本の経済は不景気にみまわれていたが、関東大震災(1923年)による被害がさらに景気をわるくした。
昭和になってまもない1927年(昭和2年)3月には、有力な地方銀行のいくつかが休業や倒産においこまれるという「金融恐慌」がおこった。
金融恐慌──それは、銀行などの信用機関が倒産したり経営が悪化して、それらを利用する人や会社までが被害をうけることである。
このため都市や工業地帯では失業者が多くなり、労働者やサラリーマンの生活もくるしくなっていた。
そして、不景気を反映して賃金の引き上げや労働条件の改善をもとめるストライキが各地でおこり、社会主義運動がさかんになっていた。

写真:東京駅 1914年に完成し、鉄道交通網の中心となった。
絵:地下鉄開通ポスター 杉浦非水画。(東洋唯一の地下鐵道 東京地下鐵道株式會社)帝都高速度交通営団蔵
写真:電気洗濯機 1930年の製作。電化製品は当事は一部の上流・中流の家庭でつかわれていた。
4日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:30:07
絵:デパートの女店員 中村岳陵画。デパートガールは当時の女性のあこがれの職業である。
絵:昭和初期の電気ごたつのポスター (二重安全装置付温度調節自在 ナショナル電氣コタツ)松下歴史館蔵
写真:にぎわう浅草六区映画街 東京台東区にある浅草では昭和5・6年ごろから映画館がにぎわいをみせた。

いっぽう農村では、地主から土地をかりて耕作している小作農民の生活がくるしくなって、小作料(土地の借用料)の引き下げを要求する小作争議がひんぱんにおこっていた。
また、家族で自分の土地を耕作する自作農民の中には生活ができなくなって土地を手放す人もいた。
このように「昭和」はくらいふんいきのなかでスタートしたのである。
内閣は「立憲政友会」と「立憲民政党」という二大政党が交代で担当したが、三井・三菱・住友といった財閥(大会社のグループ)とむすびついているといわれ、みにくい政権争いや
汚職にうつつをぬかし、景気をたてなおして世のなかを安定させる力はなかった。

絵:凶作地を救え 奥山儀八郎画。農村への援助をうったえたポスター。
写真:凶作下の東北の農民 凶作、農村恐慌に農民はくるしんだ。
5日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:36:05
中国のうごき
日本の国内が不景気のなかでストライキや小作争議でゆれているとき、となりの国、中国では
歴史的な事件がおこっていた。蒋介石(しょうかいせき)による北伐である。
第一次世界大戦後、戦勝国はそれぞれの民族は他の民族の支配を受けないで独立するのがよいとする「民族自決」を尊重して、領土問題を解決した。
そのかんがえに反して、日本政府は中国に、日本側に都合のよい二十一か条の強圧的な要求をつきつけて実行をせまったから
中国全土に抗日(日本に抵抗すること)や排日(日本の力をのぞくこと)の運動がおこった。
日本人は「東洋鬼(トンヤンキ)」とよばれ、中国の子供たちまでがこんな歌をうたった。

日本製品手にとるな いつまでも手にとるな 日貨(日本製品)を売るやつは売国奴
日貨を買うやつにはつばかけろ 日貨にはいっさいふりむくな 取り引きやめればいたがるぞ
6日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:40:02
こうした中国民衆の抗日・排日の熱をみてとった孫文(中国革命の指導者)の後継者である蒋介石は、国民革命軍をひきいて中国の統一にのりだした。
孫文の国民革命が、孫文の死後に途中で失敗したあと、中国は軍閥とよばれる、それぞれに軍隊を持った地方ボスが各地方を支配していた。
地方ボスらは日本やイギリスなどの外国にだきこまれ、一般の民衆に対してはきびしい政治をおこなっていた。
蒋介石の目的はこれらの軍閥を破って中国を統一することであった。このため蒋介石は、国民党が支配する南京を出発し、遠征軍をひきいて北上した。
これを「北伐」というのである。

*二十一か条の要求 第一次世界大戦中の1915年、大隈重信内閣が中国の袁世凱政府にだした要求。
中国では、要求をうけいれた5月9日を「国恥(こくち・国の恥)記念日」とよぶようになった。
7日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:44:04
陸軍将校たちのあつまり
1928年(昭和3年)11月、東京の九段(千代田区)にある「偕行社(かいこうしゃ)」という陸軍将校クラブに10名前後の陸軍の将校たちがあつまっていた。
将校とは少尉以上の人をいい、軍隊を指導する立場の人たちである。
「これからの戦争は地上という平面の戦争ではなく、空間、つまり空中をふくめた戦争となるだろう。
飛行機などの兵器の発達からそうなるのだ。わたしはそれを立体戦争と名づけている。」将校らを相手に説明しているのは、
わざわざ満州(中国東北部)の関東軍からこの会合のためにやってきた石原莞爾(いしはらかんじ)中佐である。
「陸軍に石原莞爾というすごい戦略家(戦争を大きな目でみて、作戦をたてる人)がいる」
1922年(大正11年)にドイツ留学から帰国し、陸軍大学校で講義をしていた石原の名は、陸軍の内部にしられるようになった。
8日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:44:55
「これからはトーナメント(勝ちぬき)試合のように、強国の間で勝ちぬき戦争がおこるだろう。最後は二つの超大国の決勝戦争となり、
これが世界の最終戦争となるはずである。」石原はこのように予言していた。
「日本が勝ち残るためには、いつでも最大の戦力が発揮できるように国内をととのえるとともに、満州や蒙古(中国の北辺部)を日本の物資供給地帯としなくてはならない」
石原はこうも説いていた。
「石原中佐のいうとおりだ。いまのような状態では日本は自由主義か社会主義国となり、
日清戦争以来きずいてきた満州や蒙古における利権もうしなってしまうだろう」
陸軍の中堅幕僚たちは石原中佐のかんがえにつよく共鳴していた。

*関東軍 日露戦争で得た中国東北部(満州)に駐留していた日本の陸軍部隊。
もとは日露戦争で得た鉄道や、その付属地の守備隊だったが、1919年に独立して関東軍となった。
*石原莞爾 満州事変は、石原と板垣大佐が中心になっておこした。先を見ぬく力があり「天才石原」といわれた。
のち石原は東条英機と対立し、軍の現役からおわれた。
9日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:45:43
軍隊には階級がある。その中で将校というのは、下位から順に少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐であり、
さらにそれより上級の少将、中将、大将を将官という。そのなかでも陸軍士官学校、陸軍大学校をすぐれた成績で卒業し、
陸軍の課長級のポストにある大佐や中佐、少佐らを中堅幕僚とふつうよんでいる。
これらの中堅幕僚の一部の人たちは大正時代の後半ごろから団結して「二葉会(ふたばかい)」という会をつくり、
さらに同志をふやして陸軍ぜんたいの実権をにぎろうとしていた。
1928年(昭和3年)11月の「偕行社」における会合は、同志をふやす目的で
「二葉会」のメンバーである鈴木貞一(ていいち)中佐によってあつめられたものである。
そこで石原中佐が立体戦争の理論を説明していると、のっそりと永田鉄山(てつざん)大佐がやってきて隅の方にすわった。
この永田大佐こそ、「二葉会」の指導者だったのである。

写真:本庄中将と中堅幕僚 中央が本庄中将、前列左から2人めが石原中佐。昭和7年9月の撮影。(交差する二本の日本国旗の前に前列に7人、後列に4人いる)

永田大佐はひとこともしゃべらず、石原中佐の説明や、出席者たちの議論にききいっていた。
この会合にあつまった中堅幕僚たちのかんがえや決心を観察し、信頼できるかどうかを心の中でおしはかっていたのである。
というのは、永田大佐はひそかに心のなかで、あるかんがえをかためていたからだった。
10日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:46:51
陸軍と国家を改革しよう!
時間はさかのぼって1921年(大正10年)10月。ドイツ南部にある温泉地のバーデン・バーデンに三人の日本人が宿をとった。
スイス駐在武官(外国にいて軍のしごとにあたる軍人)である永田鉄山少佐、ソ連駐在武官の小畑敏四郎(としろう)少佐、
ヨーロッパ視察旅行中の岡村寧次(やすじ)少佐の三人である。
三人は陸軍士官学校の同期生なので、一軒の宿屋にあつまったのだが、話題はとうぜん外交や戦争の話になった。

写真:バーデン・バーデンの森 西ドイツ南部の有名な温泉保養地で、森林地帯がひろがる。
*永田・小畑・岡村少佐 同期生の三人は、1919年7月にそろって少佐に進級した。
出身は永田少佐が長野県、小畑少佐が高知県、岡村少佐が東京だから、長州閥とは結びつきがなかった。
11日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:51:04
「これからの戦争は軍隊だけの戦争ではない。国民全員がそれに協力し、科学や文化や経済も戦争に利用できるように、
ふだんから準備しておかなくてはいけないだろう」三人の中でもずばぬけて頭の回転がはやい永田少佐がいった。
「そのとおりだ。しかし、いまの日本をみていると、永田、きみがいっていることとはほどとおいではないか、政党は財閥(大会社のグループ)と
むすんで自分たちの利益のことばかりかんがえ、国民は自由主義や社会主義の影響をうけて軍隊を批判している。このありさまでは日本は戦争になっても負けてしまうぞ。」
小畑少佐がまゆをくもらせていう。
「まず陸軍から改革しなくてはいけないな。わが陸軍は兵器をみれば日露戦争(1904〜1905年)のころとあまりかわっていないし、戦いかたもかわっていない。
幹部といえば長州(山口県)出身者の藩閥がのさばっている。藩閥をおいだし、陸軍の近代化をはかることからやろう」永田少佐は提案した。
「それはいいが、どうやってやるのだね」それまで永田少佐と小畑少佐のやりとりをだまって聞いていた岡村少佐が口をはさんだ。
12日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:52:15
「われわれとおなじかんがえの将校をあつめて団結させ、上層部をうごかしていくのだ。クーデター(反乱)のような
力ずくの方法は陸軍を分裂させるからやりたくない。団結して陸軍をかえ、つぎには陸軍が中心となって国家をかえていくのだ」
永田少佐の力づよいことばに二人は大きくうなずいていた。このころすでに陸軍大学校を主席(一番)で卒業した
永田鉄山少佐は頭の回転のはやさ、状況をよみとるふかさ、人を指導する能力などが注目されており、
「将来は陸軍大臣になるだろう」と陸軍のなかでもうわさされていた。

永田の説明をきいて、小畑、岡村の二人は「さすがは永田である」と感心した。
三人が日本の陸軍、そして国家の改革を相談したこの会議を「バーデン・バーデンの会議」とよぶ。
このあとをよめばわかるように、昭和の歴史は三人が相談したような経過をたどった。そのことをかんがえると、
「バーデン・バーデンの会議」の重要さがわかるだろう。
13日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:53:39
満州をねらう軍人たち
帰国した三人はじぶんたちとおなじかんがえをもつとおもわれる将校にはたらきかけ、
「二葉屋」という料亭(料理屋)でひんぱんに会合した。そして、会の名まえを「二葉会」と名づけたのであった。
当時、陸軍は薩摩閥(鹿児島県出身者でかたまっているグループ)の上原勇作元帥をボスとする一派もだいじなポストをしめていた。
上原元帥は宮崎県出身であったが、薩摩閥に属し、山県有朋(やまがたありとも)の死後は陸軍の中心となっていたのである。
このため「二葉会」の永田中佐(少佐から進級)らは、岡山県出身の宇垣一成(うがきかずしげ)中将をかつぎ、これに対抗した。
そして1924年(大正13年)1月に成立した清浦奎吾(きようらけいご)内閣で、ついに宇垣一成を陸軍大臣(陸相)につけることに成功した。
藩閥を追放するという「バーデン・バーデンの会議」の目的のひとつがここにはたされたのである。

*幹部といえば長州出身者 明治維新いらい、軍の組織は「長の陸軍、薩の海軍」とよばれ、
長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)出身者がたかい地位についてきた。これを藩閥といった。
14日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:54:53
*元帥 陸軍・海軍の大将のうち、とくに功労のあった人におくられる称号。
明治から終戦の1945年までに日本の元帥になった人は陸軍で17人、海軍で13人だけである。
写真:宇垣一成(うがきかずしげ) 陸軍の近代化を断行。陸軍大臣を四期つとめている。

「さあ、つぎは陸軍の近代化だ。人員をへらして飛行機や戦車や高射砲を配備するのだ」永田中佐らはいきおいづき、宇垣陸相に陸軍の近代化をせまった。
その結果、宇垣陸相は四個師団(師団は、陸軍の部隊の単位の一つ。このころ、一師団には約一万数千人がいた)
を廃止し、かわりにういた予算で飛行機・戦車・高射砲・機関銃を配備することにした。

*陸軍の近代化 当時の日本の軍備は日露戦争のころのままであったので、軍部はあせりを感じていた。しかし軍縮のうごきもあったので、
軍縮でういた費用で軍備の近代化をはかったのである。

図:兵器の近代化 軍縮とあわせて、飛行機などの近代兵器も登場した。
甲式四型戦闘機(大正四年)九一式戦闘機(昭和七年)九三式重爆撃機での訓練(昭和八年)
15日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:56:24
これが「宇垣軍縮(軍備縮小)」といわれるものだが、多くの将校が退役することになった。将校らの中には軍縮に不満をもち、民間の軍備拡大運動にくわわる者がいた。
このように永田中佐をリーダーとする「二葉会」は、宇垣一成陸相をかついで陸軍の中枢ポストをにぎり、
実権をにぎりつつあった。そして、なお陸軍内部でなかまをふやそうとしていたのである。
1928年(昭和3年)11月に東京九段の「偕行社」にあつまった将校のグループは「一夕会(いっせきかい)」と名のり、
「二葉会」のグループとも連絡をとりながら、「二葉会」とおなじようにしばしば会合をかさね、団結をかためることとなった。

*多くの将校が退役 「宇垣軍縮」によって、将校のほか約3万3000人の軍人がへらされた。
これにたいして、上原勇作元帥をはじめとして多くの軍人が反対した。
16日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:59:05
この将校らは陸軍内の人事のことや国内の政治のことを議論していたばかりではない。
蒋介石の国民政府軍が日本の権益(権利と利益)があつまる満州(中国東北部)ちかくにせまり、
それにおうずるように満州で排日(日本の力をのぞく)熱がたかまるのを心配していた。
「政府は国民政府と外交交渉で排日問題をかたづけようとしているが、そんなことでは中国をつけあがらせ、
ますます排日熱をたかめるばかりだ。」口ぐちに将校らは政府の中国政策がなっていないと非難した。
このグループのなかには石原莞爾中佐もいた。石原は隅の方でみんなの話を黙って聞きながら何やら考え込んでいる。
「石原君、きみは満州を占領してしまえという考えをもっていたな」それに気づいて永田大佐(この時は中佐から進級していた)が声をかけた。
17日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:00:19
「そうです。おもいきったことをしないかぎり、満州問題は解決しないでしょうからね」「やるか」
めがね越しに永田大佐は石原の顔をみつめ、その腹のなかをさぐるような目つきをした。
石原はただにやりとわらってみせた。
すると鈴木貞一大佐が石原の決意をうながすように「われわれは国内で国家改造をやる。
君は河本大佐につづけ」とはっぱをかけた。
河本大作(こうもとだいさく)大佐──この会合の五ヶ月前に蒋介石に敗れて満州に逃げ帰る張作霖(ちょうさくりん)
の乗っている列車を爆破してころした軍人である。張作霖は満州の軍閥(地方ボス)で、日本軍にあやつられていたが、
河本大佐は張作霖を生かしておけば満州は混乱するばかりだとかんがえてころしてしまったのである。
「河本大佐につづけか」
石原は心のなかでそうつぶやいた。

写真:張作霖爆殺 張作霖一行をのせた特別列車は、関東軍の謀略(はかりごと)により爆破された。
*張作霖の爆殺事件 1928年6月4日午前5時23分、張作霖ののった特別列車を奉天駅の1キロ手前で爆破した事件。
この計画をたてた河本大佐は、翌年の7月に陸軍をやめた。
18日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:01:54
<満州事変と二・二六事件>
関東軍が計画した鉄道爆破事件をきっかけとして、満州事変がはじまった。
力をつよめた軍部の青年将校は、五・一五事件で犬養首相を殺し、さらに二・二六事件で重臣たちをおそった!

満州事変がおこる!
1931年(昭和6年)9月18日の夜、満州(中国東北部)の奉天(いまの瀋陽・シェンヤン)の北方にある柳条溝(柳条湖)
というへんぴな場所で、とつぜん爆発の音とともに火の手があがった。だれかが鉄道の線路を爆破したのである。
ちょうどそのとき、日本軍の守備隊が夜間訓練のために鉄道の線路ぞいに歩いていて、爆発の音に気がついた。
「たいへんだ。線路が爆破された!」守備隊の隊長である川島正(かわしまただし)大尉はおどろいてさけぶと、火があがった方向に
部下たちと走った。にげていく数人の黒いかげがみえる。守備隊が近づくと、畑や建物から銃声とともに弾がとんできた。

写真:関東軍司令部 奉天(瀋陽)にあったころのもの。政府の指示を無視することが多かった。
19日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:04:33
日本は広大な満州のうちの旅順(りょじゅん/リュイシュン)や大連(だいれん/ターリエン)
などがある関東州と南満州鉄道会社(1906年に日本が中国につくった会社)の沿線の付属地を租借(借用)
していた。そして旅順に「関東軍」という陸軍の部隊の司令部をおいて、租借地の防衛にあたっていた。
この夜の線路の爆破は南満州鉄道の付属地でおこったのである。
この事件のときの「関東軍司令部」の高級幹部の名はつぎのとおりだった。
関東軍司令官・・・本庄繁(ほんじょうしげる)大将
関東軍参謀長・・・三宅光治(みやけみつはる)少将
関東軍高級参謀・・・板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐
関東軍作戦参謀・・・石原莞爾中佐

*南満州鉄道の沿線の付属地 大連─長春(ちょうしゅん/チャンチュン)間、
奉天(瀋陽)─安東(あんとう・丹東/タントン)間。とその支線の線路に沿った幅62メートルの地域と、
主要都市にある南満州鉄道株式会社の社有地などをさす。
20日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:06:51
事件の第一報をうけると、これらの軍人は関東軍に出撃をめいじ、攻撃させた。
中国軍は、日本軍の陰謀(はかりごと)によって暗殺された張作霖のむすこである
張学良(ちょうがくりょう)東北辺防軍指令の指揮のもとにあった。
関東軍は19日の朝までに北大営(ほくだいえい)と奉天城とを占領し、さらに長春も占領した。
柳条溝で線路が爆破された被害は片側のレールが曲がってめくれ、枕木が二本ばかり傷ついたという軽いものであった。

実はこれは関東軍司令部作戦参謀(参謀は作戦や計画をたてて司令官をたすける役目)の石原莞爾中佐が中心となって仕組んだ陰謀であった。
石原中佐は満州を占領して日本の領土とするために、線路を爆破させ、それを中国軍のしわざに見せかけて軍事行動を起こしたのである。
21日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:08:45
*線路が爆破された被害 被害は下り線の線路が約70センチ、上り線の線路が約10センチ、枕木2本が傷ついただけ。
爆破のあと現場にさしかかった列車は、無事にここを通過している。
写真:もえる兵営 日本軍の攻撃により炎上する中国軍の兵営。

本庄軍司令官らの関東軍司令部の高級幹部は石原中佐の計画を知っていながら黙って見過ごしたのである。
司令部の高級幹部だけではない。東京の陸軍省(内閣のもとにあって軍関係の事務にあたるところ)や陸軍参謀本部
(内閣から独立している軍の作戦などをたてる中央機関)の高級幹部のなかにも同じような考えの人たちがいた。
22日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:13:56
すすんでいた満州占領計画
なぜ満州(中国東北部)を占領しようとしたのだろうか。北伐に成功した蒋介石の国民政府軍は
1928年(昭和3年)6月に北京(ペキン)に入城し、さらに満州と華北(中国中部、黄河流域の一帯)
との境界にある万里の長城にせまった。「国民革命」の波が満州の境界線までに打ち寄せてきたのである。
とうぜん、満州の中国人たちはこれに力を得て、いっそう反日運動に走った。

*満州の中国人たちは・・・ 1923年12月、張学良は国民革命のシンボルである「青天白日旗(蒋介石のひきいる国民党の旗)」を
中国東北部にかかげさせ、国民政府に協力する姿勢をしめした。
23日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:14:26
1931年(昭和6年)6月、参謀本部から出張して、満州の奥地で偵察にあたっていた中村震太郎大尉が中国人のゲリラ(小規模の遊撃隊)に捕まって
ころされるという事件がおこった。
そして7月には吉林(チーリン)省の万宝山で、中国人がそこに農民として住みついた朝鮮人を襲撃して、
多くの朝鮮人をころすという事件がおこった。南満州鉄道にたいする妨害や、日本人の商店などへの投石などの小さな事件は数知れなくおこった。
そして、満州の軍閥(地方のボス)である張学良も中国民衆のあいだにひろまった反日の熱を無視することができなくなり、日本のいうことをきかなくなっていた。

写真:ひろがる反日運動 上海の学生が日本への抵抗をよびかけている。
24日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:15:29
いっぽう、日本の側では「満州の反日運動をおさえ、満州の経済を日本のために利用するには、もはやおもいきったことをしなくてはだめだ。」
という声がおこっていた。かねてから「満州を日本の支配地にしなくてはいけない」とかんがえていた石原莞爾中佐が、関東軍司令部の作戦参謀として
満州にやってきたのは1928年10月だった。
「日本が世界最終戦争まで勝ち残るには、満州や蒙古(中国の北辺部)の資源を利用しなくてはいけない。これらの地域の反日・抗日(日本に反対し抵抗すること)
をおさえるには、これらの地域を日本の支配地としてしまうことです。」
石原は「一夕会」の同志にも、陸軍の上層部にもことあるごとにこううったえていた。
「よし、石原にやらせてみようではないか」そうかんがえた永田大佐らは陸軍の上層部にはたらきかけて
石原を関東軍の作戦主任としておくりこんだのである。石原には大きな期待がかけられていたのである。
25日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:17:20
満州に着任した石原は、満州全土を視察してまわり、地形を頭にたたきこみなんども作戦をねりなおした。
「満州や蒙古を支配できるかどうかに日本の将来がかかっているのだ」石原はかたく信じていた。
満州を支配する張学良の軍隊は関東軍のなん十倍もの数である。関東軍の少ない兵力で短期間のうちにどうやって広大な満州を占領できるだろうか。
石原は一生懸命になって作戦案の研究にうちこんだ。「よし、これでいい」
三年間の研究のすえに自信をもった石原は、とうとう作戦案を実行にうつしたのである。

*関東軍のなん十倍もの数
張学良軍の兵力は17万。張学良軍のほかにも、中国東北部の各地に軍閥がいて兵をやしなっていた。
これに対して当時の関東軍の兵力は約6500。
26日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:25:35
対立する政府と軍部
「中国軍が満鉄線(南満州鉄道)を爆破したので、攻撃することになった。」この報告が東京の陸軍省と参謀本部に届くと、
幹部は「やむをえないだろう」といって、攻撃をみとめた。しかし、若槻礼次郎首相や幣原喜重郎外務大臣(外相)は
「この事件は軍部がたくらんだのではないか」
とうたがい、「これ以上事件を大きくしないほうがいい」と主張した。
このため、陸軍はしぶしぶ関東軍に「関東軍のおこないは正しいものであるが、
必要な限度をこえないように」と連絡した。
いっぽう、満州全土を占領するつもりの関東軍は、「ハルビンや吉林(チーリン)に
住む日本人が中国人に乱暴されているので、助けなくてはならない」という理由をつけ、
まず吉林に軍をすすめて占領した。

*「…軍部がたくらんだのではないか」 奉天(瀋陽)の林総領事は、19日の午前「今度の事件は
軍部の計画的な行動のようにおもわれる」と幣原喜重郎外務大臣に電報をうっている。
27日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:33:04
あらかじめ関東軍は朝鮮にいる日本軍と連絡をつけ、戦争をおこなうため兵を動かしたときは
朝鮮の日本第三九旅団(旅団は、師団より下の部隊の単位)が満州にかけつけるという約束をかわしていた。
このため、内閣や天皇の許可もないのに、第三九旅団は満州に進軍した。
こうして関東軍は、第三九旅団をくわえて占領地をひろげるいっぽう、満州を日本の領土にしてしまおうとした。

*内閣や天皇の許可もないのに・・・ 朝鮮にいる日本軍が中国に進軍すれば国外出兵となる。このときは天皇の許可をうけた命令と
費用について内閣の承認をうけなければならなかった。
28日本@名無史さん:2005/06/12(日) 17:47:13
しかし、陸軍省や参謀本部の高級幹部は「日本の領土にするのはやりすぎで国内や世界から非難されてはまずい。
独立国をつくるにとどめよう」とかんがえた。しかし、若槻首相や幣原外相は「日本が満州に新政権をつくるようなことをしたら
世界のなかの日本の立場がわるくなる。やってはならない」とつよく反対した。
そのため南次郎(みなみじろう)陸軍大臣もやむなく首相や外相のかんがえにしたがうことにした。
だが石原中佐らは政府や陸軍中央にしたがって満州を併合する(日本の一部にする)ことはあきらめたものの、新政権をつくって独立させるというかんがえをすてなかった。
石原中佐らの関東軍幹部は政府の命令はもちろん、陸軍の上層部の命令をも無視してかってなことをしていた。彼らは政府や陸軍の上層部が自分たちを支持してくれないのなら
「日本から独立する」とおおっぴらにいって、はばからなかった。
29日本@名無史さん:2005/06/12(日) 18:03:01
1931年(昭和6年)10月8日には、かれらは独断で錦州(チンチョウ)を飛行機で爆撃した。
この爆撃は、若槻首相や幣原外相の国際外交における立場をわざとわるくさせてやろうという目的でおこなわれたものであった。
そして、かれらがねらったとおり、政府は各国から戦闘を拡大していると非難や抗議をうけて、くるしい立場にたたされることになった。

写真:吉林駅におりたつ日本軍 吉林出兵は関東軍のかってな行動で、これを機に満州事変は拡大した。
*飛行機で爆撃 このころ、張学良は錦州に本拠をうつしていた。爆撃は11機(うち5機は張学良軍からうばった飛行機)の編隊で、
石原中佐も飛行機にのっていた。爆弾は75発おとされた。

写真:三間房(さんかんぼう)の戦い 1931年11月に、日本軍は三間房陣地を攻撃した。これから突撃をおこなおうとしている。
写真:チチハル入城 黒竜江(ヘイロンチャン)省省都チチハルへ入城する第2師団。
写真:錦州城入城 1932年1月、日本軍はあいついで錦州(チンチョウ)に入城した。張学良軍は戦いをさけ万里の長城の南に撤退した。
写真:上海北停車場付近の戦い 海軍陸戦隊は中国軍と交戦した。
30日本@名無史さん:2005/06/12(日) 18:10:29
スイスのジュネーブに本部がある国際連盟理事会は10月24日に、「11月16日までに日本軍は、もとの位置まで後退すべきである。」
という決議案を13対1で採決した。反対票1は日本であった。
そして、国際連盟理事会は「日本は不戦条約に違反している」ときめつけた。
不戦条約とは、日本・イギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど15カ国がパリで調印した条約であり、その内容は
「国際紛争を解決しようとして、戦争にうったえるようなことはしない、国家の政策の手段として戦争をおこなわない」というものである。
このように若槻内閣は国内では陸軍にひきずられて関東軍の暴走をおさえられず、国際的には批判にさらされているとき、若槻内閣を倒そうという
クーデター未遂事件(実行にはいたらなかった事件)がおこった。
31日本@名無史さん:2005/06/12(日) 18:22:04
軍部のクーデター計画
1929年(昭和4年)10月に、ニューヨーク株式市場で株価が大暴落したのをきっかけに
世界経済恐慌がはじまり、日本の経済もまきこまれてしまった。1930年(昭和5年)秋には日本の失業者は30万人をこえた。
このころ「一夕会」とはべつに、東京九段の「偕行社」に月一回あつまってなにごとかを相談している陸軍将校のグループがあった。
この会を「桜会(さくらかい)」という。
「二葉会や一夕会のやりかたでは日本を改革できない。やるなら武力をつかうのをためらってはだめだ」「桜会」の指導者である
橋本欣五郎(きんごろう)中佐はそのように主張してなかまをあつめた。橋本は「国家改造は全陸軍が一体となって合法的にやるのだ」と主張する
永田鉄山大佐のやり方を「手ぬるい」と批判していた。

*世界経済恐慌 この大不景気は、1930年から1933年のあいだに世界各国にひろまった。株価が大暴落した1929年10月24日が木曜日だったので、
この日は「暗黒の木曜日」とよばれている。
32日本@名無史さん:2005/06/12(日) 18:35:08
1931年(昭和6年)3月に橋本中佐ら「桜会」のメンバーはクーデター計画をねり、宇垣一成陸軍大臣(陸相)や
永田大佐ら中堅幕僚のいちおうの支持を得た。しかし、実行するすぐ前に宇垣陸相がためらったのでそれは中止になった。
しかし、橋本中佐らはあきらめきれず、機会をひそかにうかがっていたのである。
8月になると、満州事変を計画している関東軍司令部のほうから「9月18日に満州でことをおこすから内地(日本)でもその日にクーデターをやってほしい」
という連絡がとどいた。

*それは中止になった このクーデター計画は「三月事件」とよばれている。
民間人を動員して議会をとりかこみ、その混乱のすきに軍隊を出動させ、軍人の宇垣一成内閣をつくる計画だった。
33日本@名無史さん:2005/06/12(日) 18:43:13
そこで橋本中佐らは北一輝(きたいっき)大川周明(おおかわしゅうめい)井上日召(いのうえにっしょう)西田税(にしだみつぐ)らの
国家改造をとなえる民間人にも参加をよびかけ、また陸軍の上層部の許可を得ようとした。
しかし、一部をのぞいて陸軍の上層部は「クーデターをおこしても成功しないだろう」とひややかな態度をとり、民間人たちも
橋本中佐のやり方に不安を感じていた。
このためクーデター決行の準備がすすまず、満州事変がおこった日に実行できなかったのである。「こうなったらクーデターに賛成する同志だけでやろう」
そう考えた橋本中佐はクーデターの決行日を10月24日ときめ、「桜会」のわずかなメンバーだけで準備をすすめた。
ところが橋本中佐らは幕末の志士(命をなげだして国家につくす人)をきどり、毎晩のように料亭(料理屋)で酒をくみかわしながら、
「クーデターが成功したら、おれは内務大臣になる予定だ」「国家はおれたちが改造する。資金は陸軍からたっぷり出ているのだから心配することはない。」
などと大きなことをいっていた。
34日本@名無史さん:2005/06/12(日) 19:09:41
またあした以降にします
しばらくためてから来るカモ
35一寸だけですが:2005/06/14(火) 17:40:06
このためかれらの計画はすぐにひろまってしまい、10月17日に橋本中佐ら参加者14人が憲兵隊によってつかまってしまった。
こうしてクーデター計画はまぼろしにおわったのである。橋本中佐らの計画をしった永田鉄山大佐は「こんないいかげんな計画で
クーデターを決行しようとした頭の幼稚さにはあきれ果てた」ともらした。
「陸軍ぜんたいが団結して政府に要求をおしつけていけば、国家を改革できる」とかんがえる永田大佐は、本心でははじめから橋本中佐らのクーデター計画に反対していた。

*クーデター計画はまぼろし この計画は「十月事件」とよばれている。
三月事件をくわだてた桜会の一部将校が、満州事変中に軍部政権をつくる計画をたてたが、情報がもれて失敗した。
写真:北一輝 二・二六事件の思想的指導者で、事件後死刑となった。
36日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:40:30
この事件の二か月後に、若槻内閣は閣僚の対立が原因で総辞職(全員やめる)することになった。「日本は国際連盟の規約を守り、諸外国と仲よくやっていかなくてはいけない」
とかんがえる幣原喜重郎外務大臣(外相)もやめることになった。
幣原は1924年(大正13年)から若槻内閣が総辞職するまで、そのあいだ田中義一内閣をの二年間をのぞいた約五年間を外相としてつとめ、日本の外交をそのような方針ですすめようとした。
このため陸軍や右翼から、「幣原は国を外国に売るものだ」とはげしい批判をあびせられた。それでも幣原はくっせず、満州事変の拡大に反対したのである。
「若槻首相や幣原外相がやめれば、強く反対するものがいない。満州全土を占領して満州国をつくってしまおう」石原中佐らは強引に計画をすすめていった。そして、黒竜江(ヘイロンチャン)省のチチハルを占領し、
1932年(昭和7年)1月には錦州(チンチョウ)を占領した。
37日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:41:08
つくられた満州国
これより先の11月10日、華北の天津(テンチン)にある家からこっそり出てくる数人の人影があった。
「さあ、だれにもみられないうちに、このなかにおはいりください」家の門の外にとめてある
防弾自動車に近づくと影の一人が別の影にむかってトランク・ルームの中に入るようにすすめた。
その人影はほかの人たちに助けられながら、せまいトランク・ルームの中にもぐりこんだ。
市内では二日前から中国人による暴動がおこり、日本軍が出動していた。
装甲自動車は日本軍の警備兵にとがめられることもなく走り、一軒の料亭の庭にとまった。
じつはトランク・ルームの中にひそんでいるのは清朝の最後の皇帝である溥儀(ふぎ・宣統帝といった)であった。
溥儀は日本軍の土肥原賢二(どひはらけんじ)大佐の説得でひそかに満州(中国東北部)にいくところだった。
石原莞爾らは溥儀を満州国の皇帝に即位させる計画でいたのである。
溥儀にしたがうのは側近(そばちかくで仕える人)である鄭親子と三人の日本人にすぎなかった。
「ここにある日本軍の軍服をきてください。日本兵に変装すれば、うたがわれませんからね」
料亭の一室でまっていた日本の将校に、溥儀は日本兵の軍服を着るようにいわれた。
かれが軍服を着ると車にのせられ港まではこばれた。

*清朝最後の皇帝である溥儀 1908年に3才で清朝の皇帝になったが、
1912年孫文による辛亥革命によって中華民国が成立したため退位。その後は天津の日本租界(借用地)に住んでいた。
38日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:41:39
港の岸壁には日本の船がまっていた。溥儀はそれにのせられ、沖合いで別の船にうつされた。
十三日の朝、溥儀をのせた船は満州の営口(インコウ)に入港した。
溥儀は満州の民衆がよろこんでむかえてくれると思っていたが、むかえてくれたのは数人の日本人にすぎなかった。
石原中佐らは溥儀を満州につれてきたことを秘密にしておいたからである。
石原中佐らは溥儀を執政とする満州国政府をつくる準備をかってにすすめた。
このため、政府も陸軍の中央も石原らにひきずられるように、かれらのおこないをみとめてしまった。

1932年(昭和7年)3月1日、石原中佐ら関東軍司令部の計画どおり、溥儀を執政とする満州国が誕生した。
石原莞爾中佐らは満州国を日本人、満州人(満州族)、中国人(漢人)、朝鮮人(朝鮮族)、蒙古人(蒙古族)の「五族」
がともに力をあわせて国づくりにはげむ理想の国にするのだといっていた。
しかし、いちおう満州国は独立国というたてまえではあったが、関東軍司令部があやつる傀儡(かいらい・人形劇の人形)政府であり、
政府の要職(重要な職務)には日本人がおくりこまれていた。

*満州国と「五族」 満州事変がはじまって半年後に誕生した満州国の面積は、日本の約3.5倍。
各民族の人口は中国人3600万、満州人270万、朝鮮人170万、蒙古人100万、日本人70万。
写真:溥儀 清朝最後の皇帝で、その後満州国皇帝の位についた。
39日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:42:20
「五・一五事件」がおこる
満州で満州国の国づくりが始められているころ、日本国内ではおそろしい事件がおこっていた。
「一人が一人の要人(社会の重要な地位についている人)をころせば、政治はかわる。いまの日本は財閥(大会社のグループ)や
政党のためにくさりきっている。財閥や政党の要人をころすのだ。」自分をしたって集まった農村の青年たちを前にして、そう囁やいているのは
井上日召という日蓮宗の僧である。うすぐらい電灯のあかりの下で、井上をかこんで真剣な顔で話にききいっている若者たちは10人はいるだろうか。
それは井上日召がつくった「血盟団(けつめいだん)」という団体である。
一人が一人をころす──それを井上日召は「一人一殺(イチニンイッサツ)」と名づけた。

*血盟団 茨城県大洗海岸の護国寺住職だった井上日召を中心に、農村の青年や大学生たちによって組織されていた。
政治や経済界の代表者を「一人一殺」し、世のなかをかえていこうとした。
写真:井上日召 日蓮宗の僧侶で、のちに一人一殺の血盟団を指導した。
40日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:50:19
1932年(昭和7年)2月のある夜、大蔵大臣をつとめたことがあり、立憲民政党の次の総裁であるとみられていた
井上準之助(じゅんのすけ)は演説会に出ようと車からおりた。
そのとき、井上のうしろから若者がせまってきて、ピストルをぬくや、背中から三発の弾をうちこんだ。あっという間の出来事だった。
犯人の若者は「血盟団」の団員の一人だった。犯人は、日本銀行総裁から政界に入った井上準之助を、日本の銀行界の代表者であるとみてころしたのである。
この事件からまもない三月には、こんどは三井財閥の理事長をしている団琢磨が、やはり「血盟団」の団員によってころされた。
これによって人びとは「血盟団」というおそろしい団体があることを知って驚いたのだが、五月にはもっとたいへんな事件がおこった。
五月十五日の夕がた、とつぜん九人の若者が首相官邸に乱入し、犬養毅(いぬかいつよし)首相の部屋になだれこんだ。
「話せばわかることだ」おちついて首相は若者たちを説得しようとした。
しかし、若者たちは「問答無用」(話しあう必要はない)というや、首相をピストルで撃ち殺してしまった。これを「五・一五事件」とよんでいる。

*「話せばわかることだ」 若者たちが乱入したとき、警官が避難させようとしても首相はにげなかった。
撃たれたあとも、「いまの若者をよんでこい。話してきかせてやる」といったという。
41日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:57:22
この若者たちのなかまは牧野伸顕(のぶあき)内大臣の邸宅や政友会本部や警視庁や三菱銀行に押しかけ、乱暴をはたらいた。
別の者たちは発電所や変電所をこわして、東京を暗やみにしてしまおうとした。
この若者たちは海軍の青年士官や陸軍士官候補生、それに「愛郷塾(あいきょうじゅく)」という茨城県の過激な農民団体の団員だった。
「混乱をおこして、国家を改造する雰囲気をつくるのだ」この若者たちはそうかんがえてこの事件をおこしたのである。
かれらはさきに「一人一殺」で高官の暗殺をおこなった「血盟団」とも連絡をとりあっていた。
翌年の七月になると、今度は民間の右翼団体が中心となり、陸海軍の軍人をふくめたクーデター計画がおこった。
いちはやく警察が計画を知り、計画をたてた者たちを捕まえてしまったので実行はされなかった。
この事件は「神兵隊事件(しんぺいたいじけん)」という。
このようにあいつぐ暗殺事件やクーデター未遂事件は、政党の政治家たちをおそれさせ、政党政治を衰えさせてしまった。
そのかわりに軍人たちの発言力は増したのである。

*国家を改造する雰囲気をつくる 暗殺事件やクーデター未遂事件の裁判中に、犯人たちに同情し、減刑を願う手紙が送られてきた。
五・一五事件では、150万通にも達したという。
42日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:58:24
統制派と皇道派
このころ軍人たちは二つの派閥にわかれて勢力争いをしていた。永田鉄山少将を中心とする中堅幕僚は
「陸軍全体が一つに団結して政治をかえていかなければならない」とかんがえており、そのために陸軍を上から統制しようとしたので
「統制派」とよばれた。これにたいして少尉・中尉・大尉の下級青年将校は「統制派は、陸軍を自分たちの派閥を大きくするのに利用しているので許せない」
と反発し、統制派を「軍閥」とよんで軽蔑した。
政友会や民政党の政治家、三井・三菱・住友の財閥、重臣、軍閥らは自分たちの野心や利益のために天皇をないがしろにしてみにくい争いをしている。
かれらをとりのぞき、天皇親政の政治を実現すれば、国民が平等の平和で豊かな国がつくられる。
下級青年将校はそうかんがえていた。この青年将校らは天皇親政の体制を昭和維新と名づけ、
「古事記」や「日本書紀」に示されている天皇制のあり方を理想と考えていたので皇道派とよばれた。

*昭和維新 維新の意味は「すべてをあらため、あたらしくすること」。
皇道派の青年将校たちはあたらしい国家の体制をつくろうとし、これを明治維新にならって「昭和維新」とよんだ。
写真:犬養毅 五・一五事件で暗殺された。犬養首相の死により、日本の政党政治は一時中断された。
イラスト:血盟団 井上日召の指導をうけた若者たちは政治家・実業家を暗殺した。(左・血盟団 井上日召 右・団琢磨を射殺した 血盟団 菱沼五郎)
43日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:58:55
皇道派の青年将校の中心人物は磯辺浅一(あさいち)元大尉や村中孝次(こうじ)元大尉であった。
「日本改造法案」をあらわした民間の思想家である北一輝や、もと陸軍の将校であり、北一輝の思想にうちこんでいた西田税とも交際して、影響をうけていた。
「民間の政治運動とむすんで陸軍の中でかってに政治運動をするのはけしからん。彼等(皇道派)にかってなことをさせると陸軍の団結にひびが入るおそれがある。
彼らをきびしく取り締まろう」統制派のリーダーである永田鉄山少将はかってな行動派のやりかたに立腹した。
永田少将は1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長に就任した。
軍務局長とは陸軍省のもっとも中心となる役職である。永田はこの地位を利用して皇道派の青年将校たちに対してきびしい処置を次々ととっていった。これに対抗して、
「統制派のボスは永田鉄山や東条英機(とうじょうひでき)や石原莞爾だ。とくに永田はけしからん。あいつをきれ」皇道派の将校たちは息巻いた。

*永田鉄山 当時陸軍の中央は統制派と皇道派にわかれていた。永田は統制派で、軍人としてすすんだ考えをもっていたが、皇道派の青年将校からは敵視されていた。
44日本@名無史さん:2005/06/14(火) 17:59:33
永田鉄山がさされる!
1935年(昭和10年)8月12日、永田鉄山少将は陸軍省軍務局長室で話しあいをしていた。永田は話に夢中になっていて、
ドアが音もなくひらき、軍刀をもった一人の将校がそっとうしろから忍び寄ってきたのに気づかなかった。
その将校は皇道派の相沢三郎中佐である。相沢は剣道の達人だった。
「天誅(てんちゅう)!」(天にかわって罰をくわえる)とさけぶと、永田少将の胸に軍刀を突き立てた。
相沢中佐は、ちかく台湾の部隊に転勤になるのが永田少将のいやがらせと思い、伊勢大神宮に参拝したあと、永田をきるつもりで上京したのである。
相沢はその場で取り押さえられ、永田少将は病院に運ばれた。しかし、傷が深く、午後四時すぎに亡くなった。
「永田少将がきられた」というしらせは陸軍全部にひろまった。
石原莞爾はちょうど8月1日に、関東軍作戦参謀から、陸軍省のとなりにある参謀本部の作戦課長に転勤してきたばかりだった。
「なんというばかなことをしてくれたんだ」石原は相沢中佐にはげしいいかりを感じた。
このいかりが、このあとにおこる二・二六事件の反乱軍将校に対するきびしい態度につながる。
白昼、陸軍の幹部が同じ陸軍の将校によってころされるというのは、陸軍はじまって以来のことである。内部のはげしい対立をしらない一般の人々は
「陸軍のなかで何かおこっているな」とうすうす感じていた。
まもなくこの対立は、二・二六事件となって爆発するのである。
45日本@名無史さん:2005/06/14(火) 18:09:00
「二・二六事件」がおこる
その夜、東京には三十年ぶりという大雪が降り積もっていた。1936年(昭和11年)2月25日の夜半のことである。
翌26日の午前五時、東京永田町(千代田区)の首相官邸前に武装した兵士たちの影が雪明かりの中に浮かび上がった。
「剣つけ!」指揮官である栗原安秀(やすひで)中尉の号令で兵士たちはいっせいに小銃の先に剣をつけた。
「よし、かかれ」号令とともに兵士たちは、首相官邸の中に侵入した。
官邸を守っている警官が物音に気がついて飛び出してきた。撃ちあいがはじまった。

*武装した兵士たち 2・26事件をおこした反乱軍部隊の兵士は約1500名で、機関銃や小銃、
10万発をこえる弾薬をもち、完全武装をしていた。首相官邸は300名の兵士におそわれた。
写真:2・26事件と兵士 ふりしきる雪の中に立つ反乱軍兵士たちは、事件の目的をあまり知らなかった。
写真:尊皇討奸 自分たちを維新軍と称した反乱軍将校たちの寄せ書き。
46日本@名無史さん:2005/06/14(火) 18:11:56
おなじ時間に、斎藤実(まこと)内大臣・渡辺錠太郎(じょうたろう)教育総監・高橋是清(これきよ)大蔵大臣・鈴木貫太郎(かんたろう)侍従長
湯河原(神奈川県)の旅館にとまっていた牧野伸顕前内大臣、警視庁、陸軍大臣のところにも兵士たちがあらわれた。
これらの兵士たちは政府の要人(社会の重要な地位についている人)をころして国家をかえようという
一部の青年将校にひきいられた兵士たちであった。
岡田啓介首相は秘書官と警官にたすけられて非常口から、すみこみのお手伝いさんの部屋の押入れにかくれた。
反乱軍は岡田首相の妹の夫である松尾伝蔵秘書官を首相だとおもいこんでころした。
岡田首相は反乱軍に占領された首相官邸に見舞いにやってきた人たちにまぎれて官邸をぬけだし、危ういところを助かった。
47日本@名無史さん:2005/06/14(火) 18:22:49
斎藤実(まこと)内大臣は全身に四七か所も銃弾を撃ちこまれ、さらに何十か所も軍刀で斬られて即死した。
夫人は内大臣のからだの上にかぶさり、「ころすならわたしをころしてください。でなければ一緒にころしてください」とたのんだ。
反乱をおこした将校は「どけ」と夫人をひきはなすと、さらにピストルで内大臣を撃った。
斎藤内大臣をころした将校と兵士たちは、今度は渡辺錠太郎教育総監(陸軍の三つの重要な役職の一つ、教育や訓練にあたる最高責任者。)
の家にむかった。戸が破られる物音に気づいて起きた夫人が、
「あなたたちは軍人としてあまりに乱暴ではありませんか」とたしなめたが、反乱軍は夫人をおしのけると寝室にはいりこみ、渡辺教育総監をうちころした。
48日本@名無史さん:2005/06/14(火) 18:45:59
財政や景気のたてなおしにとりくんでいた高橋是清大蔵大臣も寝たままピストルで撃ち殺された。
鈴木貫太郎侍従長はおもい傷をうけ、牧野伸顕前内大臣は旅館からにげて命が助かった。
こうして、政府の高官をころすか傷をおわせた反乱軍は、首相官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省、
参謀本部、警視庁などの建物を占領したてこもった。
これが有名な「二・ニ六事件」である。

*鈴木貫太郎侍従長はおもい傷 侍従長邸にむかったのは、安藤輝三(てるぞう)大尉と150名の兵士。
安藤大尉はとどめをうたなかったので鈴木は助かり、のち終戦のときに首相としてかつやくする。
事件をつたえる当時の新聞 雪の東京でおこった青年将校の反乱事件は、日本じゅうに大きなショックをあたえた。
(大阪毎日新聞:首相、内府、教育總監 昨曉襲撃され即死 一部の年將校蹶起 廿六日陸軍省發表)
49日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:05:35
批判する人、同情する人
夜があけて事件のようすがわかると、人びとはおどろくとともに、反乱軍のやりかたを批判する者と
同情をよせる者とにわかれた。同情をよせた人びとは、反乱軍が目的にかかげた「昭和維新」に大きく共感を感じたからである。
景気はあいかわらずわるかった。とくに東北の農村は冷害つづきでひどい不作となり、むすめたちを売るほどだった。
小地主や自作農のなかにも生活が苦しくて土地を手ばなす者が少なくなかった。
いっぽう、都市ではたいへんなかずのサラリーマンや労働者が失業していた。それなのに、三井や三菱や住友の財閥は立憲政友会や立憲民政党などの
政党を利用して大きな利益をあげていた。反乱軍は、
「元老・重臣・軍閥・官僚・政党が私心私欲(じぶんたちの利益)をほしいままにして、民衆をひどいくるしみのなかにおいている」といっていた。
暗殺という手段はともあれ、かなりの人びとが反乱軍に同情をよせたのは、そうした当時の政治や経済のありかたに対する批判や不満があったのである。
陸軍の幹部のなかにも「かれら(反乱軍)は国をおもう純粋な気持ちでこんなことをしたのであるから、これを機会に昭和維新を断行すべきである」と主張する人たちがいた。
決起(決意してたちあがること)した青年将校たちの尊敬をあつめている真崎甚三郎大将や荒木貞夫大将らである。

*元老・重臣 明治以来、天皇の側近としてだいじなけ決定に意見を述べた人を元老という。
昭和初期、元老が1人だけになったので、首相を経験した人などを選び、重臣としてもちいた。
50日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:17:37
そのなかで断固として反乱軍を鎮圧(とりしずめること)せよとゆずらない軍人がいた。
参謀本部作戦部長に昇進していた石原莞爾大佐(この時は中佐から進級していた)である。
反乱軍に陸軍省と参謀本部を占領されて、なすすべもなく陸軍幹部があわてふためいているなかで
石原大佐だけは「青年将校のかんがえがどうであれ、かってに軍隊をうごかし、政府要人をころしたのは許せない。
かれらを鎮圧すべきである。」と主張した。
参謀本部で反乱軍将校を前に石原がどうどうと話すものだから、反乱軍将校はいかって石原のこめかみ(目のわきのところ)に
ピストルをつきつけた。
「きさまのようなやつはころしてやる」しかし、いすにすわった石原は顔色一つかえず言い放った。
「おれをころしたところで、お前たちが反乱をおこしたという事実はかわらないぞ。お前たちがやったことは帝国陸軍に泥をぬるようなものだ。
責任をとって自決(自殺)せよ」「なにを……」

*陸軍幹部があわてふためく 26日に「陸軍大臣訓示」と「師団命令」が反乱軍にだされた。
その内容は、決起の意味をみとめ、警備部隊に任ずるというもので、反乱軍とされていなかった。
51日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:26:58
その将校がひき金をひこうとしたとき、磯部浅一元大尉がかれの手をおさえた。
「やめろ。こんなやつをころしてもなにもならん」
「そうかな」
「いうことをきかねば軍旗をもってきてお前たちを討つぞ」
「なにを!」
いまにも青年将校は石原を撃ちそうだったが、かれの気迫に負けたのか撃たなかった。
その夜、宮中(皇居)で陸軍の首脳の会議がひらかれ、石原は杉山元(はじめ)参謀次長にしたがってそれにくわわった。
この会議には青年将校らにしたわれる真崎甚三郎大将や荒木貞夫大将らもいた。
会議の席上で真崎・荒木の二人の大将は「かれら(反乱軍)のいいぶんにも耳をかしてやったらどうだろう。
かれらは国をおもう心からやったことなのだ」と反乱軍に同情するような発言をした。
そこでも石原は、「かれらの心情はわかるにしても、軍隊の命令秩序を乱したのだから許せない。断固鎮圧したほうがよい」
とゆずらなかった。
イラスト:不敵な石原中佐 「おれをころしてもお前たちの罪はきえないぞ。いさぎよく自決したまえ」
52日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:35:32
鎮圧された反乱軍
その会議のあいだに天皇が「反乱軍の鎮圧に手をこまねいているのはなぜか。それなら朕(天皇自身のこと)
みずから近衛師団(皇居を守る軍隊)をひきいて鎮圧にあたるぞ」といったという話がつたわってきた。
「陛下は決起した青年将校たちを反乱軍とよんでいる」石原は天皇の言葉を100万の味方を得たにひとしいとおもった。
これをきっかけに会議の流れがかわり、まず反乱軍にもとの部隊にもどるように、陸軍大臣の名まえでうったえ、それでもだめならば
武力で鎮圧するという方針がたてられた。

*陸軍が鎮圧に手をこまねいている… 27日、天皇は本庄繁侍従武官長を数十分ごとによび、鎮圧をいそぐようもとめた。
重臣たちを多数うしなった天皇の決意はかたかった。
53日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:46:36
深夜になると、香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官を戒厳司令官に任命し、東京市内を戒厳令
(すべてを軍の支配下におく命令)のもとにおいた。石原は戒厳司令部参謀に任命され、香椎司令官を助けることになった。
戒厳司令部が多忙をきわめていると、真崎甚三郎大将がやってきて、口だしをした。
かねてから青年将校を影でおだてているのが真崎大将であるのをしっていた石原は
「こんなばか大将がいて、かってなことをするからこんなことになるんです」とどなりつけた。
石原は大佐、真崎は大将であり、階級は真崎がはるかに上である。真崎はまっかになっておこった。
「上官にむかってばか大将とはなにか。軍記(軍隊の規律)の点で許せん」
だが石原は平気な顔で「軍隊がこんなざまになって、なにが軍記ですか」とやりかえした。

*戒厳令 日本国内の事件で戒厳令がだされたのは、1905年(明治38年)の日比谷焼き討ち事件、
1923年(大正12年)の関東大震災、そして1936年(昭和11年)の2・26事件のときである。
*反乱軍 2・26事件がどのような方向で解決されるかわからないうちは、立ち上がった軍に対して決起部隊とよんでいたが、
天皇の決断によって、反乱軍の呼び名がふつうとなった。
54日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:57:53
反乱軍将校は説得をきかずにたてこもったままだった。このため石原らは武力鎮圧の用意をすすめ、三日目の
二月二十九日午前九時に、鎮圧にのりだすことにした。
その上で、もとの部隊にもどるようにうったえた「兵に告ぐ」というよびかけをラジオでおこなった。
青年将校たちは、自分たちが決起したら真崎大将や荒木貞夫大将らが陸軍上層部にはたらきかけて「昭和維新」を実現してくれるものだとおもいこんでいた。
だがこの二人の大将は、ずっと年下の石原にしかりつけられ、また天皇が激怒しているとしらされると、青年将校らにもとの部隊にひきあげるようにうったえる始末であった。
「真崎、荒木にうらぎられたのだ」磯部浅一元大尉は歯ぎしりをしたが、あとのまつりだった。

写真:日比谷公園の鎮圧部隊 鎮圧部隊の砲列は、反乱軍のたてこもる東京永田町方向にむけられた。
写真:勅命下る軍旗に手向うな(ちょくめいくだるぐんきにてむかうな) 天皇の命令が出た。鎮圧軍に抵抗せずに、自分の部隊にもどれ、と反乱軍によびかけたアドバルーン。
55また来るYo:2005/06/14(火) 20:26:36
*鎮圧にのりだす 2・26事件で3人の大将がおそわれた。海軍では、天皇の許可を得て、土佐沖から
戦艦4隻をふくむ40隻の艦隊を東京湾につけ、27日夕刻には鎮圧の準備をおえていた。

「下士官(将校の下にいて直接兵を指導している人たち)と兵はもとの隊にもどしてやろう。
彼らは我々の命令にしたがって動いただけであって罪はないのだ」
そういって将校たちは下士官と兵をもとの隊にかえし、陸軍大臣官邸にむかった。
将校らは第二応接室にとおされ、一人ずつ別室によばれて、自決(自殺)をすすめられた。
一人だけが自殺し、ほかの者は裁判によって事実をあきらかにするため自決を拒否した。
このため彼らは憲兵(陸軍で軍人をとりしまる警察官の役割の軍人)によって逮捕された。
青年将校の反乱をそそのかしたという理由で、民間人の北一輝と西田税も逮捕された。
かれらは裁判にかけられ、銃殺の判決がくだった。将校一七人、民間人四人の二一人である。
死刑は1936年(昭和11年)7月12日におこなわれた。
56日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:27:07
日中戦争はじまる
日本と中国との対立は、ついに日華事変を引き起こすまでになった。
戦争は北京から上海へ、さらに南京へとまたたくまにひろがり、日本国内は戦時色に塗りつぶされていく──。

たかまる軍部の要求
二・ニ六事件のあと、陸軍の統制派は皇道派をおいだし、陸軍の実権をにぎった。岡田啓介にかわって、外交官出身の広田弘毅(ひろたこうき)が
内閣をつくったが、もはや陸軍の要求を無視するわけにはいかなかった。
このとき広田内閣の大臣を誰にするか、また広田内閣の方針をどうするのかという問題をきめたのは満州事変や二・二六事件で有名になった石原莞爾大佐だった。
「国家を改造し、日本を強国にするのはいまをおいてしかない」と石原大佐はかんがえた。
「世界はいまに大きな戦争に突入する。日本がこの戦争に勝ち残るには日本や満州の経済生産力を高め、国内でおもいきった政治の改革をおこない、軍備を増強しなくてはいけない」
陸軍の中堅幕僚のなかでもずば抜けた戦略家である石原はこうかんがえた。

写真:広田弘毅 陸軍の要求を無視できず、軍備拡張をおしすすめた。
57日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:27:31
とくに石原がおそれたのは、めざましいいきおいで軍備を増強しているソ連だった。このため彼は、
「日本はソ連と対抗できる軍備を急いで持たなくてはいけない。それまでは中国とも仲良くしていたほうがよい。」と主張した。
ところが陸軍の中堅幕僚のなかには「満州国をそだてていくためには、華北(中国中部、黄河流域の一帯)から国民政府の勢力をおいだし、
ここを中立地帯にしよう。」とかんがえる者がいた。このようなかんがえは「北支(華北)分離論」とよばれた。
また、政治家や財界人のなかには、日本・満州・華北を一つの経済圏に統一した「円ブロック圏」(日本のお金をつかって、経済的にまとまった地域)を
つくろうといううごきもあった。それでは中国との情勢はどうであったろうか。時間をさかのぼり、満州国が成立したあとの日本と中国との関係をみてみよう。

*軍備を増強しているソ連 ソ連は1928年(昭和3年)に第1次5か年計画、1933年(昭和8年)に第2次5か年計画に着手し重工業化をおしすすめて、軍備を大幅に増強していた。
58日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:27:56
華北に侵入する日本軍
満州を占領して満州国を独立させたあと、関東軍は満州と華北との境界である万里の長城をこえて
華北に侵入した。敗退をつづける中国軍は停戦を申し入れ、1933年(昭和8年)5月に日本と塘沽(タンクー)停戦協定をむすんだ。
「日本軍が満州にひきあげるかわりに、満州と華北との境界の南の地域から国民政府軍はひきあげる」協定の内容はそういうものであった。
さらに日本は国民政府につぎつぎと要求をつきつけ、華北で活発な工作をおこなった。
1935年(昭和10年)末には華北の一部に「冀東(きとう)防共自治委員会」という名の自治政府(地域的な政府)をつくった。
「日本は満州をうばったあと、こんどは華北をうばうつもりだ」そうかんがえた中国の民衆は日本に対する反感をつよめた。
このころ国民政府をひきいる蒋介石は「まず中国を統一するのがさきだ。日本と戦うのはそのあとでいい。」とかんがえていた。
このため、中国の民衆の中には「国内の争いはやめてまず日本と戦おう」とよびかける中国共産党を支持する人がふえた。
そうなると中国の反日・抗日(日本に反対し、抵抗すること)の運動はいっそうはげしくなった。

*国民政府につぎつぎと要求をつきつけ・・・ 1935年(昭和10年)6月に河北(ホーペイ)省から中国軍と排日団体を撤退させる協定や、
チャハル省に非武装地帯をつくる協定などをむすんだ。
写真:塘沽(タンクー)の会議 日本軍は中国軍からの停戦の申し入れを受けいれ、塘沽(タンクー)で停戦協定がむすばれた。
59日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:28:19
1936年(昭和11年)11月には上海、ついで青島(チンタオ)の日本の紡績工場で中国人労働者が
ストや暴動をおこすという事件がおこり、日本軍が青島に上陸しておさえつけるほかなくなった。
ちょうどこのとき、中国では歴史に残るようなできごとがおこった。
満州で日本軍からおいだされた張学良が、視察のために西安(シーアン)にやってきた蒋介石をとらえて、監禁したのである。
共産党の幹部は蒋介石に会って言った。「あなたは中国を侵略する日本軍よりも、おなじ中国人である共産党を敵にしている。
なぜ日本軍と戦わないのですか。力をあわせて日本軍と戦いましょう」張学良や共産党の周恩来(しゅうおんらい)に説得された蒋介石は、
しぶしぶ共産党と力をあわせ、日本と戦うという約束をした。これが共産党と国民政府との協力(「国共合作」という)のもとになった「西安事件」である。
蒋介石が西安から釈放されて洛陽(ルオヤン)にもどると、民衆は歓喜して蒋介石をむかえた。「抗日」は民衆の願いだったのである。

*協力のもとになった 国民党軍と共産党軍はひとまず内戦をやめることにした。この事件で張学良は国民党に反感をもたれて軍法会議にかけられ、現在も台湾で軟禁されているという。
(執筆当時)
60日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:28:51
盧溝橋事件がおこる
1937年(昭和12年)になると、華北で中国人と日本人とのあいだに争いがたえなくなった。両国の軍隊のこぜりあいもおこった。
7月7日の夜、北平(ペーピン・いまの北京)の南西にある豊台という町にいた日本軍の中隊が夜間演習のために駐屯地(兵をとどめている場所)を出発した。
中隊は盧溝橋の北側で突撃の演習をおこなった。すると、中国軍から銃弾をうたれた。「演習中止。全員集合」中隊は人員をかぞえた。すると、一人足りなかった。
この兵隊は下痢のために用を足していたのだが、中隊長は中国軍の銃撃で死ぬか負傷したとかんがえて豊台の大隊本部に報告した。
連隊長である牟田口廉也(むたぐちれんや)大佐は、一木清直(いちききよなお)大隊長から「中国軍から射撃され、兵士一人が行方不明です」と電話でしらされた。
牟田口大佐は「大隊は現場に急いで行き、中国軍責任者に謝罪させよ」と命令した。
一木少佐は大隊をひきいて現場である盧溝橋にむかった。そして中国軍をこらしめようと攻撃をくわえた。
1937年(昭和12年)7月7日におこったこの事件が、日本と中国との戦争(日華事変)の発端となった「盧溝橋事件」である。

*盧溝橋 北京から数キロはなれた永定河(ユンチンホ)にかかっている橋。マルコ・ポーロがヨーロッパに紹介したので、マルコ・ポーロ橋ともよばれ
中国でも指おりの名橋といわれる。
写真:盧溝橋事件がおこる 現地で作戦会議をおこなう日本軍。
61日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:38:54
東京の陸軍参謀本部には7月8日の朝に事件をしらせる電報がとどいた。
「たいへんなことがおこった。これは日本と中国との本格的な戦争になるぞ」と感じる幹部が多かった。
そのなかで田中新一陸軍省軍事課長と武藤章(あきら)参謀本部作戦課長の二人は「これは力で解決するしかない。
大軍をおくりこんで華北を占領するよい機会でもある。」と主張した。
そうしたかんがえにはげしく反対したのは石原莞爾作戦部長だった。「そういうことをしたら、戦争が広がってはてしなく続くことになる。
そのあいだにソ連から攻撃されたら大変なことになる」石原作戦部長はそういって華北に大軍をおくることに反対し、外交交渉で解決するように主張した。
石原と武藤ははげしく意見をたたかわせ、その結果つぎのような方針ができた。
「外交交渉で解決するのを原則としながら、いつでも陸軍三個師団を華北におくれる準備をすすめる」
現地ではいちおう九日には銃声がやみ、日中両国の担当者が停戦の交渉にはいった。
ところが、抗日・反日にもえる中国兵は上官の命令もきかずに日本軍と戦う気がまえでおり、交渉はなかなかはかどらなかった。

*はげしく意見をたたかわせ 日本側では二つの意見があった。一つは、大軍が出兵すれば中国は降参するだろうという意見、
もう一つは中国側の抵抗ははげしくなるという意見だ。
62日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:39:19
7月25日の夜、北平と天津(テンチン)のあいだにある郎坊というところで、日本軍の部隊が中国兵に攻撃されるという事件がおこった。
ここにきてついに、平和解決を主張した石原作戦部長も陸軍三個師団を華北におくることに同意するほかはなくなった。
「もうだめだ。なにもしなければ破滅だ。いそいで内地から援軍をおくろう」事件いらい参謀本部にとまりこみ、疲れきっていた石原は
血をはくような悲痛な表情で中国に増援部隊をおくるように指示した。
7月28日、天津に駐屯(軍隊が一箇所にとどまること)する支那駐屯軍は中国軍を攻撃した。8月1日からは陸軍三個師団と航空部隊が華北にむかって移動しはじめた。
このように盧溝橋での日中両軍のこぜりあいは、石原作戦部長の願いもむなしく、日中両国の全面戦争になろうとしていた。

*陸軍三個師団を華北におくる・・・ 中国軍の大軍が北上していると現地から電報が入ったので、石原作戦部長は少兵力の日本軍と民間人を守るため、増援部隊をおくることに同意した。
63日本@名無史さん:2005/06/16(木) 22:39:44
上海での戦い
8月になると、華中(長江流域の一帯)の上海でも海軍の陸戦隊(陸上戦闘にあたる部隊)と中国軍が戦いにはいった。
上海に押し寄せてくる中国軍から上海を守るために、石原作戦部長は二個師団を上海におくることにした。
8月23日にこの二個師団は上海の北方に上陸したが、中国軍のはげしい抵抗にあってくるしい戦いをしいられた。このため、
陸軍参謀本部はさらに三個師団を上海におくることをきめた。事件を大きくしない、つまり「不拡大方針」は守れなくなってしまったのである。
石原莞爾は作戦部長を辞任した。「このさい国民政府軍を徹底的にやっつけ、華北から国民政府軍をおいはらってしまえ。そうしないと満州は安全ではいられない」
そう主張する強硬派をおさえて、石原は事件を大きくしないようにほねをおってきた。だが「不拡大方針」を守れず、事件を大きくしてしまった責任をとってやめることにしたのである。

*二個師団を上海に 先頭にはいる前、日本の海軍軍人が中国の保安隊にころされる事件があった。これが原因で、陸戦隊2000と中国軍10万が戦うことになり、上海に増援部隊をおくった。
64日本@名無史さん:2005/06/17(金) 15:32:04
石原は満州の関東軍参謀副長というあたらしいポストにつくこととなり、日本をはなれた。満州に着任しても、石原は
「中国との戦争はやめて、日本はソ連に対抗できる軍備をつくっていかなくてはいけない。でないと日本はソ連に負けてしまうだろう」
と、ことあるごとにうったえた。しかし、中国で国民政府軍を破り、どんどん占領地を広げている陸軍の上層部は有頂天になって石原のことばに耳を貸そうとしなかった。
それどころか「石原は臆病なのでそんなことを言っているのだ。もっと勇気がある男だと思っていたが見損なった」などと石原の悪口を言う始末である。
このため石原は陸軍の中で孤立(取り残されること)することとなった。そして、満州事変以来の名声と人望をうしない、失意のうちに終戦をむかえることになった。

写真:長城線をめぐる戦い 日本軍は長城線を突破して進軍した
写真:上海市街戦 中国軍の抵抗により、はげしい市街戦となった。
65日本@名無史さん:2005/06/17(金) 15:50:04
戦火ひろがる
「国民政府は日本が攻めていけば降伏するだろう」陸軍の強硬な軍人たちはそうかんがえてどんどん中国を攻めていった。
1937年(昭和12年)の12月には、国民政府の首都である南京を占領した。
しかし、蒋介石はあくまで戦い続けようとした。「中国は広い。南京がうばわれたら奥地に退却しても戦い続けよう」
そういって蒋介石はあたらしい首都を漢口(ハンコウ)にうつした。
強硬だった陸軍の軍人たちの中にも「蒋介石を降伏させるのはどうやら難しいようだ。そうなると戦争が長引いてしまう。
日本は蒋介石と和睦(仲直り)をむすんだほうがよい」とかんがえる人も出てきた。
同じかんがえをもっていた広田弘毅外務大臣はドイツの中国駐在大使であるトラウトマンにたのんで、蒋介石に和睦したいと申し出た。
「条件しだいで和睦してもよい」蒋介石はそう伝えてきた。
広田外相は「和平をむすぶなら、中国を攻めている日本軍を全部引き揚げるというような思い切った条件でなければ蒋介石総統が受け容れてくれないだろう」
と主張した。

*トラウトマン工作 ドイツの中国駐在大使トラウトマンを仲立ちにして、停戦にしようというもので石原莞爾がかんがえた。
その後、石原が関東軍にうつされたため工作は成功しなかった。
66日本@名無史さん:2005/06/17(金) 16:01:43
しかし、陸軍省の強硬派の軍人は「そういう条件では日本が負けたみたいではないか。
日本は勝っているのだから、日本に有利な条件でなくてはだめだ」と反対した。
そして強硬派におされた近衛文麿(このえふみまろ)首相は1938年(昭和13年)1月に「これからは
国民政府を相手にしない。日本は中国にあたらしい政府をつくって助けることにする」と声明した。
このため、いったんは和平の交渉にのぞむつもりになった蒋介石はおこり、日本政府を信用しなくなった。

写真:近衛文麿 各界の期待をになって首相になったが、軍部をおさえきれなかった。
画:南京入城 鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)画。入城閲兵式をおこなう方面軍司令官松井石根(いわね)大将。
イラスト:渡洋爆撃 海軍は日華事変が拡大すると、東シナ海をわたって上海や南京を爆撃した。
67日本@名無史さん:2005/06/17(金) 16:24:07
こうして、せっかくの和平の兆しも立ち消えになってしまった。「短い期間で蒋介石を降伏させられないとすると、
戦争はながびくだろう。こうなったら長期戦争をかくごして戦争しなくてはならない」政府も軍部も長期戦争を覚悟しなくてはいけなくなった。
そこで日本は長期戦争を続けるために、戦争を指導する最高の機関である「大本営」をつくり、戦争の名前も「北支事変」から「支那事変」とあらためた。
この「支那事変」は、現在では「日華事変」とか「日中戦争」とよばれている。
また、日本国内では1938年(昭和13年)4月に「国家総動員法」を制定した。
この法律は、電力や石炭などの資源や工場などを統制し、経済やエネルギーや労働力を戦争経済に役立てようというかんがえのもとでつくられた。
この法律の制定をきっかけに、日本は戦争色一色にぬりつぶされていった。

写真:すごろく 日華事変のうつりかわりを盛り込んでいる。(右から読む字で・皇軍大勝利支那事変双六)
写真:キャラメルのポスター 戦時色のこい宣伝ポスター(右から読む・森永ミルクキヤラメル)
写真:軍隊将棋 遊びのなかで軍隊の階級や役割をまなんだ。(薄口行軍將棊 右から読む字で敵營占領・東京西口商店謹製・タンク入)
68日本@名無史さん:2005/06/17(金) 16:35:21
山本五十六のふんがい
1937年(昭和12年)ごろが「石原時代」とよばれるように、陸軍内で石原莞爾大佐が実力を発揮していたとき
海軍の実力者は海軍次官である山本五十六(いそろく)中将だった。
山本五十六はことあるごとに陸軍が政治に口をはさみ、内閣をかげで動かそうとしているのをにがにがしくおもっていた。
だから石原莞爾とは性格もかんがえることも違っていた。
盧溝橋事件がおこったとき、山本は「陸軍のバカがまた戦争をはじめた。おれは腹が立って仕様がない」とふんがいした。
そして山本はこのときの海軍大臣である米内光政(よないみつまさ)と一緒になって「これ以上紛争を広げてはならない」とつよく主張した。
中国と戦争することだけは、石原莞爾と同じように山本五十六もつよく反対だったのである。

*事変 日本は中国に宣戦布告(相手の国に対し、戦争をすると宣言すること)していないので、戦争といわずに事変といった。
日本としては和平の手がかりを失いたくなかった。
69日本@名無史さん:2005/06/17(金) 16:49:06
<悪化する日米関係>
山本五十六らの心配をよそに、日本はアメリカとの対立を深めていった。
アメリカの態度も強硬なら、日本軍部の態度も強硬だ。そして日本は、ついに対米英戦争を決定した。・・・

複雑怪奇な国際情勢
ソ連の共産主義をおそれていた日本とドイツとは、1936年(昭和11年)11月に「日独防共協定」をむすんだ。
翌年にイタリアも「防共協定」にくわわった。
この防共協定は、@国際共産主義運動についてあつめた情報を交換したり、それに対抗する方法を相談しまた力をあわせて協力する。
A反共産主義の立場をとるほかの国々をこの協定に力をあわせて加入させる。
B協定が効力をもつのは5年とする。という内容であった。
ところが、このあと日本の陸軍の一部の軍人は「防共協定」にあきたらなく、ドイツやイタリアと軍事同盟をむすぼうとかんがえた。
このような軍人は日本・ドイツ・イタリアという三国を軸にして世界の外交を指導しようとかんがえていたので「枢軸派(すうじくは)」とよばれるようになった。
しかし、外務省や海軍がはげしく軍事同盟に反対したために、軍事同盟の交渉はすすまないでいた。

写真:日独防共協定調印 1936年11月、ベルリンで調印された。
70日本@名無史さん:2005/06/17(金) 17:06:23
そのうちにドイツは1939年(昭和14年)8月になってソ連と「独ソ不可侵条約」をむすび、「防共協定」をなんの意味もないものにしてしまった。
「防共協定」で敵としているソ連と、日本には内緒で交渉をすすめ、ある日突然ドイツとソ連はおたがいに戦争はしないという条約を取り決めてしまったのである。
このときの日本の首相である平沼騏一郎(きいちろう)は「国際情勢は複雑怪奇である」という有名な文句をはいて辞職してしまった。
ソ連から攻撃される心配のなくなったドイツは、1939年(昭和14年)9月、ポーランドに侵入をはじめた。これをきっかけとして、ヨーロッパでは第二次世界大戦が開始された。
平沼内閣のあとをついだ阿部信行(のぶゆき)内閣と米内光政内閣は、中国問題で仲が悪くなるいっぽうのアメリカやイギリスとの友好関係の回復につとめた。
ところが、1940年(昭和15年)6月になってドイツがフランスを降伏させ、イギリスが負けるのも時間の問題とみられるようになると、ドイツに好意的な枢軸派の政治家や軍人は
「バスにのりおくれるな」とさけんで、ドイツとの軍事同盟を求めるようになった。つぎつぎと周囲の国々を征服するドイツというバスにいそいでのり、イギリスやアメリカに対抗せよというのである。

*ポーランドに侵入 準備をととのえていたドイツは、9月1日ポーランドに侵入し、3週間ほどで占領した。
ポーランドと同盟をむすんでいたイギリス・フランスはドイツに宣戦した。
*ドイツがフランスを降伏させ・・・ ポーランドを占領したドイツ軍は、その後デンマーク・ノルウェー・ベルギー・オランダを占領し、フランスからイギリス軍をおいだした。
71日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:39:43
つぶされた米内・山本の意見
このとき、枢軸派にまっこうから反対したのは海軍の米内光政首相や山本五十六連合艦隊司令長官だった。
山本五十六は1936年(昭和11年)末から1939年(昭和14年)末までの3年間、海軍大臣の次にたかい地位である海軍次官をつとめ、
ドイツとの軍事同盟に反対し続けてきた。「ドイツと軍事同盟をむすべば、イギリスやアメリカと日本は戦うことになってしまう。
そうなったら日本に勝ち目がない」山本五十六はそう確信していた。
山本はアメリカに駐在武官(外国にいて軍の仕事にあたる軍人)として滞在したり、ヨーロッパに視察旅行に行ったりしてアメリカの国力や
ヨーロッパの情勢にくわしかった。アメリカに滞在していたときのエピソードにこんなものがある。
コーヒーが好きな山本は友達を連れて喫茶店に入った。コーヒーが運ばれてくると山本はカップにどっさりと砂糖を入れた。それを見た友人が、
「おいおい。そんなに砂糖を入れてのめるのかい」と聞いた。すると山本はこう答えた。
「くやしいけれどアメリカは日本にくらべてずっと物資がある。だから砂糖をすこしでも多くつかってやるのさ」
このようにアメリカをよく知る山本は、、たとえ日本がドイツやイタリアと軍事同盟をむすんでもとても資源や経済力にまさるアメリカには勝てそうもないと
かんがえていたのである。

イラスト:山本駐在武官の確信 アメリカに駐在した山本は、アメリカの国力の大きさを知らされた。
72日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:40:19
山本があまりにもドイツとの軍事同盟に反対するので、陸軍の枢軸派と手をむすんでいる右翼の者たちに命をねらわれることもあった。
山本のもとには「軍事同盟に賛成してほしい」とか「反対するなら殺すぞ」とかいう手紙がたくさん届いた。
山本はすこしもおそれずに、平気な顔でこういっていた。「僕がころされても海軍のかんがえはかわりはしない。次の次官も同じことをいうだろう。
次官が何人かわっても海軍のかんがえはまったくかわらないのだ」平沼騏一郎内閣がつぶれると、山本の先輩である米内光政は、山本が暗殺されることを心配して
山本を連合艦隊司令長官に任命した。東京をはなれ、軍艦にのって海の上にいれば安全だろうとかんがえたのである。
山本は連合艦隊司令長官になってからも、何度もドイツとの軍事同盟には反対であるとかんがえを述べていた。1940年(昭和15年)1月に首相となった米内光政も山本と同じかんがえで
「ドイツと軍事同盟をむすべ」という声を無視していた。

*「反対するならころすぞ」という手紙 このころ、山本には毎日数十通のきょうはく状が届けられたという。山本自身は暗殺されることをかくごし、遺書を書き残している。
*山本と同じかんがえ 米内も「日本の海軍は防衛のための海軍だから、米英2国を相手に戦えばまったく勝ち目はない」と語っている。これが責任ある海軍首脳部のかんがえだった。
73日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:40:39
ところが同じ年の7月、とうとうしびれをきらした陸軍は畑俊六(はたしゅんろく)陸軍大臣をやめさせ、
そのあとの陸軍大臣を内閣におくらないという、あくどい方法に出た。陸軍大臣がいなくては内閣はやっていけない。
「米内内閣のもとには陸軍大臣をおくらない」という陸軍からのおどしに、米内光政はやむなく辞職することになった。

三国軍事同盟がむすばれる
つぎの内閣は陸軍に支持された家族で最も位のたかい公爵の近衛文麿がひきうけた。そして、軍事同盟に賛成する東条英機が陸軍大臣に、
松岡洋右(ようすけ)が外務大臣になった。「ドイツやイタリアと軍事同盟をむすべば、アメリカは日本におれてくるだろう」そうかんがえる松岡洋右は、
外務省の中で軍事同盟に反対する幹部を、賛成する人たちと交代させた。あまりに多くの幹部がとつぜん交代させられたので、これは「松岡旋風」とよばれることになった。
松岡は外務省を枢軸派でかためた上で、ドイツに軍事同盟をよびかけた。

*軍事同盟をよびかけた 松岡のかんがえは、日本・ドイツ・イタリアの3ヶ国で同盟をむすび、いずれはソ連もくわえた4ヶ国で
アメリカやイギリスに対抗しようというものだった。
写真:ドイツに電話をする松岡外相 三国軍事同盟成立のときのもの。(3人の男の前で電話している)
74日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:40:55
このころヒトラーはイギリス本土に上陸作戦をおこなうのはむずかしいとかんがえ、攻撃の矛先をソ連にむけようとおもっていた。
そうなると、イギリスとの戦争が長引くことになる。またアメリカがイギリスの味方となってドイツと戦うおそれもあった。
そのためヒトラーは「日本と軍事同盟をむすべば、極東(アジアの東の端)のイギリス艦隊が大西洋にうつってこれなくなるし、
アメリカもうかつにドイツと戦争ができなくなるだろう」とかんがえた。そして、よろこんで松岡のよびかけにこたえた。
交渉はドイツからやってきたハインリヒ・スターマー特使と松岡外相のあいだで東京で9月におこなわれた。
二人の話しあいは都合よくはこび「日独伊三国軍事同盟」は、1940年(昭和15年)9月27日にベルリンで調印式をむかえることになった。
ベルリンで調印された軍事同盟条約は次のような内容だった。
@日本は、ドイツとイタリアがヨーロッパできずいた勢力範囲をみとめる。
Aドイツとイタリアは日本がつくりあげる勢力範囲をみとめる。
B日本・ドイツ・イタリアの三国は、このうち一国がべつの国によって攻撃をうけたときは、おたがいに助けあう。
C三国は合同技術委員会をつくり、条約をどうやって守っていくかを定期的に相談する。
75日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:41:19
「日独伊三国軍事同盟」がむすばれたことを知った山本五十六は「たいへんなことになった。これでイギリスやアメリカは日本をドイツの同盟国とみなし、敵とみるに違いない。
その結果日本は、この二国と戦争になるかもしれない」と部下にもらした。
「イギリスはドイツとの戦争で日本を相手に戦争をする余裕はないでしょう。アメリカだけならおそれることもありません。」ある人がそんなことをいうと、山本は血相(顔色)をかえ、
「ぼくはアメリカにいたことがあるから知っているが、アメリカの経済力は日本のなん倍もある。戦争になれば経済力がものをいうから、とても日本がかなうものではない。
アメリカに勝てるなどというのはアメリカの経済力を知らない人がいうことだ。」とおこった。
また、あるとき近衛文麿首相をたずねたとき「アメリカと戦争になったら、連合艦隊は一年か二年は暴れまわってごらんにいれます。しかし、そのあとは自信がありませんから
政府が外交でアメリカと仲良くなってください」と山本はたのんだ。

*1年か2年は暴れまわる 海軍で最後の大将となった井上成美(しげよし)は、なぜこのとき山本が「戦えばかならず負けます」ときっぱりいわなかったのかと
きびしく批判している。
76日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:46:17
ふかまる日米の対立
ところが、アメリカとの戦争にならないようにという山本の願いもむなしく、日本とアメリカの関係はわるくなるばかりだった。
「無敵艦隊」(むかうところ敵のない艦隊)とよばれた連合艦隊をひきいて山本は日夜猛訓練をおこなっていたが、海の上にいても心は政府がある東京に飛んでいた。
山本は近衛文麿首相や米内光政元首相に「アメリカとは仲良くしてくださいよ」とたびたび念をおしていた。
近衛首相は1941年(昭和16年)はじめに、アメリカとの関係をよくしようとして、野村吉三郎(きちさぶろう)をアメリカ大使に任命して日米交渉にあたらせた。
野村吉三郎は、ルーズベルト大統領をはじめアメリカの政治家や軍人に友人が多かった。そこで野村ならアメリカ政府との交渉をうまくすすめてくれるだろうと期待したのである。
それではいったい、日本とアメリカとのあいだにある対立する問題とはどんなことであったのだろうか。ここで時間をもどして、日本とアメリカとの関係をふりかえってみよう。

*日夜猛訓練 山本は戦争に反対だった。しかし不幸にして戦争がはじまったときは軍人としてりっぱに戦おう、たとえ負けるとしても全力を出しきろう。とかんがえて猛訓練していた。
画:連合艦隊 村上松次郎(しょうじろう)画。「長門」型戦艦を先頭にしてすすむ、無敵をほこった連合艦隊。
77日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:46:40
日本が国民政府との戦争を華北(中国中部、黄河流域の一帯)にかぎっているあいだは、イギリスもアメリカも日本のおこないを黙って見過ごしていた。
しかし、戦乱がイギリスやアメリカの経済権益があつまっている華中(長江流域の一帯)におよんでくると、はっきりとこの二国は蒋介石総統の国民政府を助けるようになったのである。
その理由はこうである。
@アメリカとイギリスは戦争によって中国との貿易がじゃまされたり、企業(会社など)が破壊されるのをのぞまなかった。
A日本が占領地の経済を独占するのをよろこばなかった。
Bアメリカやイギリスは、国民政府に対して巨額のお金をかしてあるので、国民政府に負けてほしくなかった。
C日本が中国を占領すると、一段と強国になるので、それをくいとめようとした。
このような理由から、イギリスとアメリカはかげになりひなたになって国民政府を資金面でも武器の面でも助けたのである。
そして、それは中国で日本軍とアメリカの外交官や貨物船との衝突事件を何度もひきおこすことになった。
78日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:46:59
さらに両国の関係をわるくさせたものに、アメリカに移住した日系人の問題があった。
アメリカでは1920年代になって日本人移民に対する差別運動がはげしくなった。日本人はどんなにひどい条件や賃金でも
文句ひとつ言わずに勤勉にはたらくので、アメリカの農場主が日本人移民をすすんで雇うようになった。このため、
「日本人移民に仕事をうばわれる」と感じた白人たちが日本人移民に反感をもつようになったのである。
いっぽう、日本のほうでは同胞(おなじ国民)が差別されていることに反感をもった。こうして日本とアメリカ両国は簡単には仲直りができないほど、
こじれた関係になってしまったのである。

*アメリカに移住した日系人 アメリカやカナダへの移民は、1924年(大正13年)に排日移民法が実施されたため、完全に閉ざされた。
アメリカ移民の総数は27万7000人になったという。
79日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:47:23
日本軍の南方進駐
日本がドイツと軍事同盟をむすんだ1940年(昭和15年)9月、日本軍はフランス領であるインドシナ北部(当時、仏印とよんでいた)
に軍隊をすすめた。(北部仏印進駐)イギリスは、インドシナ北部やビルマ─雲南(ユンナン)から、重慶(チョンチン)にうつっていた国民政府に援助物資をおくっていた。
これをやめさせるのが日本軍の進駐の第一の目的だったが、将来インドネシアやマレーやビルマを攻撃する必要がおこったときの基地にしようという、隠れた目的もあった。
オランダ領であるインドネシアは石油の産出地であり、イギリス領のマレーはゴムやスズの産出地である。また、イギリスの属国(他国の支配をうけ、独立していない国)である
ビルマからは石油や鉛やスズがとれる。
日本はイギリスやアメリカから資源の輸出をとめられたとき、これらの地域を占領して資源を手に入れるつもりだったのである。
いっぽうアメリカはドイツと戦っているイギリスに武器をあたえて助けるいっぽう、ドイツと軍事同盟をむすぶ日本に対して75品目におよぶ製品の輸出を禁止した。名目は日本がインドシナ北部に
軍隊を進駐させたことに対する制裁(こらしめ)ということだったが、日本の軍需(軍事品)経済は大変な損害をうけた。75品目の中には鉄工業にかかせないくず鉄やくず鋼もふくまれ、日本はその輸入を大きく
アメリカに頼っていたからである。1941年(昭和16年)2月になると、アメリカはイギリスやオランダと相談し、力を合わせて日本にあたることにした。
日本はこの三国に中国をくわえた四国が日本を制裁してくることを「ABCD対日経済包囲陣」とよんだ。Aはアメリカ。Bはブリテン(イギリス)。Cはチャイナ(中国)。Dはダッチ(オランダ)の頭文字である。

写真:北部仏印進駐 ハイフォン(ベトナム)にはいる進駐軍。
*ビルマ─雲南 雲南・ビルマルートとよばれる。中国では10万人をつかって、1938年(昭和13年)から自動車道をつくりはじめた。
1940年には5万トンの物資がはこばれた。
*インドシナ北部に軍隊を進駐 日本軍が進駐したのは、ハノイやハイフォンなどで、兵力は2万5000名。事前にフランス側に話していたが、
戦闘がおこなわれた地域もあった。
80日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:48:03
たかまる強硬論
このころ日本の陸軍の中には東条英機陸軍大臣を中心とする「対米強硬派」が力を得てきた。
陸軍省軍務局長である武藤章少将や参謀本部作戦部長である田中新一少将ら、かつての統制派の流れをくむ軍人たちである。
「アメリカの要求をききいれたら、日本は三等国になってしまうだろう。また、このままずるずるとアメリカと交渉を続けていれば
『ABCD対日経済包囲陣』のために日本の経済はつぶれてしまうだろう。10月ごろをめどに外交交渉がまとまらなければ、日本は戦争にふみきるべきである」
彼らはそう主張して近衛文麿首相にせまった。貴族出身の近衛首相は気がよわい性格だったため、陸軍のはげしい突き上げをことわれなかった。
このため「アメリカとの外交交渉には全力をあげて取り組むが、10月末までに交渉がまとまらなければ、アメリカとの戦争もやむをえない」と陸軍のかんがえにあわせてしまった。
「アメリカと戦争にならないように力をつくしてください」と山本五十六に頼まれていたにもかかわらず、近衛首相は「戦争もやむをえない」とかんがえるようになってしまったのである。

*Aはアメリカ アメリカ(America)のA。イギリス(Britain)のB。中国(China)のC。オランダ(Dutch)のDと、それぞれの頭文字をとったもの。
81日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:48:20
それでは海軍はどういうかんがえをもっていたのだろうか。
1941年(昭和16年)5月ごろの海軍の首脳は海軍大臣は及川古志郎(こしろう)、軍令部(内閣から独立した、海軍の作戦・用兵をとりまとめておこなう最高の機関)総長が永野修身(おさみ)だった。
二人とも信念をもって陸軍に対抗できる人物ではなく、陸軍の主張にひきずられていた。
「このままだと戦争をとめられない」訓練などで多忙な毎日をおくる山本は気が気ではなく、海軍の首脳を信念をもった意志のつよい人に交代させなくてはいけないとかんがえた。また、海軍大臣に山本をつけようという
岡田啓介や米内光政らの海軍の先輩のうごきもあった。しかし、どちらもうまくいかなかった。

きびしいアメリカの態度
ワシントンで野村吉三郎大使がハル国務長官とけんめいに交渉を続けているさなかの1941年(昭和16年)7月、日本軍は今度はインドシナ半島の南部に進駐した(南部仏印進駐)。
前の年のインドシナ半島北部への日本軍の進駐に続いて、南部への進駐というできごとに、アメリカの世論は日本に対する反感をつよめていた。

*インドシナ半島の南部に進駐 1940年7月の御前会議で、南部に進駐することが決定した。
日本はフランス側に、カムラン、サイゴンの軍港と8つの空港を進駐地として通告した。
82日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:50:01
ある日、野村大使がルーズベルト大統領に日本の目的は自分の国を守るためであったと説明しにうかがうと、大統領はいかりをおさえながら言った。
「日本はこのあと南方を占領しようとするつもりではないか。そうなったらアメリカは太平洋を平和的に使えなくなるばかりか、スズやゴムなどの資源を手に入れられなくなる。
またフィリピンも危険にさらされることになる」大統領は日本がインドシナ南部に軍隊をおくりこんだのは、インドネシアやマレーやビルマを占領するための足がかりをつくろうとしたものだとかんがえた。
そして大統領は日本をこらしめるために、ふたたび経済制裁を日本にくわえた。アメリカにある日本人の財産が利用できないように凍結(つかえないようおさえてしまうこと)するいっぽう、日本への石油の輸出を禁止したのである。
石油は、船や飛行機を動かすうえで欠かせないものであったから、軍部にとっては、大変なできごとだった。
8月14日にルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と大西洋の軍艦の上で会談し、有名な「大西洋憲章」を発表した。
八か条の「大西洋憲章」は、国民の意思に反した領土の変更をおこなわないとか、侵略された国の領土を回復するとかの目的をうたい、
アメリカがドイツとの戦争にふみきる決心を宣言したものであった。

*大変なできごと 石油の輸出の禁止によって、軍部の中には石油を消耗していってジリ貧になるよりも
戦争をはじめて南方の石油を手に入れようという意見がつよくなった。
写真:「大西洋憲章」を発表するルーズベルト大統領(左)とチャーチル首相
83日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:50:21
このようにルーズベルト大統領はイギリスとの結びつきをつよめ、ドイツと戦争する決心をかためた。
そして当然ドイツと軍事同盟をむすんでいる日本との外交交渉でもつよい態度でのぞんできた。
日本では、陸軍の対米強硬派が「アメリカは日本と外交交渉で仲直りするつもりはないのだ。ずるずると時間をひきのばして軍備を強化する時間を稼いでいるだけだ。
10月末になったら交渉を打ち切り、戦争にふみきろう」と主張した。
事実そのとおり、ルーズベルト大統領は日本とドイツを同時に相手とする戦争ではアメリカの軍備はまだ不十分であり、日本との交渉をひきのばして時間を稼ごうとかんがえていた。
アメリカの国務省の暗号解読班は、日本の外務省がアメリカの野村吉三郎大使とかわす暗号電報を手に入れ、解読して「マジック情報」とよんでいた。
ルーズベルト大統領はこの「マジック情報」をよみ、日本の政府がアメリカ政府との交渉でなにをかんがえているのか知りつくしていた。
その上でルーズベルト大統領はハル国務長官に「野村との交渉は適当にあやしておきたまえ」と指示していた。

*暗号解読 このころアメリカでは、日本の外交用の暗号は解読していた。のちのミッドウェー海戦、山本五十六の搭乗機撃墜のときには、外交用のほか軍事用の暗号も解読していた。
84日本@名無史さん:2005/06/19(日) 16:50:38
アメリカ政府の態度がこうだったから、野村大使がどれほどがんばっても交渉はまとまらず、日本政府が期限とかんがえた10月になった。
「ルーズベルトの態度には誠意がない。交渉を打ち切って戦争をしよう」陸軍の強硬派は近衛首相に戦争をせまった。
しかし、いざ決断をするときになって近衛首相はためらった。天皇、重臣(天皇の相談役。主に元首相がなった)、それに外務省や海軍の一部が戦争に反対していたからである。
優柔不断(ぐずぐずしていて物事を決められないこと)で気がよわい近衛首相は両方からはげしく攻め立てられて首相でいることにいやけがさし、辞職してしまった。
「つぎの首相にはだれを推薦するか」天皇にたずねられた近衛は東条英機陸相を推薦した。「陸軍の強硬派をおさえられるのは東条陸相をおいてほかにありません」
その結果、1941年(昭和16年)10月18日、東条英機が陸軍大臣をかねて首相となることになった。
東条はアメリカとの交渉はまとまらないだろうとかんがえていたが、「交渉にあらためて力をつくすように」という天皇のことばで、11月末まで外交に力をつくすことにした。

写真:東条内閣の発足 東条首相は太平洋戦争の開戦を決断した。(内閣の集合写真)
*東条英機が首相に 東条は「清水の舞台(たかいところ)から目をつぶってとびおりることも必要だ」といい、戦争を決意した。
アメリカでは、東条内閣を戦争開始のための内閣とみた。
85日本@名無史さん:2005/06/19(日) 17:08:00
開戦への決断
アメリカの首府ワシントンでは野村大使はなお希望をすてないで、ハル国務長官とねばりづよく交渉をかさねていた。
11月26日の夕方、ハル国務長官から大使館に連絡が届いた。
「私の事務所に来ていただけませんか。あなたにアメリカ政府の条件を伝えたいのです」
野村大使は、東京から応援に駆けつけてきてくれた来栖三郎(くるすさぶろう)特使といっしょに、ハル国務長官の事務所があるホテルにとんでいった。
ハル国務長官は前の日にあったときとは違ってひどくきびしい表情で二人をむかえた。「これがわが国の日本に対する条件です」
そういってハル国務長官は文書を手渡した。その場でそれに目をとおした野村大使はびっくりしてしまった。
それはインドシナと中国からの日本軍の引き上げや、国民政府の承認、中国におけるすべての権益の放棄、「日独伊三国軍事同盟」の破棄など、
とうてい日本がみとめられない条件を突きつけてきた。
「これは──」といって野村大使は絶句(声をうしなうこと)してしまった。
これまでのながい交渉の末に、日本とアメリカはいくつかの点で妥協し、二、三の点がまだまとまらないでいた。ところがこの要求はこれまでの交渉の結果をすべて無視し、
きびしい条件をあらたに突きつけてきたのである。文書の内容が日本にとどくと、強硬派も和平派も、政府も大本営も、陸軍も海軍も、
「交渉は破れた。これはアメリカが日本に戦争を通告してきたも同じだ!」とおもった。
その直前まで日本側は「ぎりぎり最後のところで交渉はまとまるだろう」とかんがえていただけに、おどろきはなおさらだった。
86日本@名無史さん:2005/06/19(日) 17:35:32
和平派の東郷茂徳(とうごうしげのり)外相でさえ「この文書──『ハル・ノート』はわざと条件をきびしくして日本を戦争に追いこむものだ。
日本がとても受け容れられないのを知っていながらアメリカは条件を突きつけてきたのだ」とアメリカ政府を批判した。
東条内閣はただちにあつまり「もはや予定どおり戦争にうったえるしかない」と決めた。重臣の中には「アメリカの要求は受け容れられないが、戦争にうったえるのも反対である。
交渉を打ち切ったままいまの状態を続けたらどうだろう」と戦争に反対する者もいた。
しかし、「時間が経てば経つほど軍備強化をいそいでいるアメリカは強大になるいっぽう、資源をとめられた日本は弱くなる。そうなったら、アメリカに屈服(降参)するほかはないだろう」
という東条首相の言葉にしぶしぶ彼らも戦争に賛成するほかなかった。
12月1日、宮中で天皇が出席されて御前会議(ごぜんかいぎ)が開かれた。全大臣と陸海軍の首脳があつまり「やむなく戦争にふみきることになりました」と東条首相が天皇に報告した。
このときまで、ただひたすらアメリカとの交渉がまとまることを願っておられた天皇は、悲痛なおももちでうなずくと、ひとことも発しないで立ち上がり、奥に姿を消された。
ついに日本は、国力がまさるアメリカに戦争をいどむという決断をくだすことになったのである。

写真:東郷茂徳 太平洋戦争開戦時の外相。和平派といわれた。
*ハル国務長官は文書を・・・ この文書は「ハル・ノート」とよばれる。ハル長官は「もう問題はわたしの手をはなれた。あとは陸海軍の仕事だ」といった。
アメリカも戦争を予期していた。
*アメリカは強大になる このころアメリカは、日本にふりむけられる軍備が、充分でなかった。むしろ戦争が開始されてから、急ピッチで軍備の生産がおこなわれたのである。
87日本@名無史さん:2005/06/19(日) 17:55:46
<太平洋戦争はじまる>
太平洋戦争は、日本軍の真珠湾攻撃によって開始された。日本軍はつづけざまにマレー、
シンガポール、フィリピンを占領して進撃をつづける。だが、この勝利はいつまでつづくのか──。

山本五十六の決断
1941年(昭和16年)11月26日の早朝、千島列島の択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾で、つぎつぎにいかりをあげて出航していく軍艦のすがたがあった。
おびただしい軍艦の数である。飛行機をのせている航空母艦もあれば、砲身が空をにらんでいる鋼鉄のかたまりのような戦艦もいる。
スマートなかたちの巡洋艦や、戦艦にくらべると子どものような駆逐艦もいる。
それは南雲忠一(なぐもちゅういち)海軍中将を長官とするハワイ空襲機動部隊だった。航空母艦六せき、戦艦二せき、重巡洋艦二せき、軽巡洋艦一せき、
駆逐艦九せき、潜水艦三せき、補給艦七せきの大艦隊である。
アメリカとの戦争になったとき、いち早くハワイの真珠湾を母港としているアメリカ太平洋艦隊を攻撃するために、
この機動部隊はこれから片道だけでも3500マイル(約5600キロメートル)という航海にのりだすのである。

*ハワイ空襲機動部隊 航空母艦6せきの搭載機は、合計399機。
戦艦2せきは、航空母艦のはやい速力とながい航続力についていける高速戦艦であり、重巡洋艦2せきも最新のものであった。
写真:単冠湾に集結した起動部隊 左手に戦艦「霧島」、右手に航空母艦「赤城」がみえる。
88日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:09:23
ハワイ攻撃という作戦をかんがえついたのは山本五十六連合艦隊長官だった。
日本とアメリカの関係がわるくなり、戦争になるかもしれないと思われていた1940年(昭和15年)3月に、
山本は「飛行機でハワイをやっつけられないかな」ともらした。
秋になると彼は部下たちに「ハワイを空襲する方法を研究せよ」と本気でめいじた。
山本がアメリカとの戦争を心からのぞんでいなかったのは、これまでに書いてきたとおりである。
しかし、政府がひとたび戦争を決断すれば、軍人である山本はこの決断にしたがわなくてはならない。
「もし戦争になるなら、日本が勝てる方法をかんがえなくてはいけない」山本がかんがえ続けた末に決心したのが、
ハワイのアメリカ太平洋艦隊に奇襲攻撃をくわえることであった。
「山本五十六連合艦隊長官はハワイに対する空襲をかんがえている」
海軍で作戦をつくっている軍令部(海軍の作戦・用兵をとりまとめておこなう最高の中央機関)はそんな話をきくと、無謀であるとはげしく反対した。
軍令部は「アメリカとの戦争になったら、連合艦隊はマーシャル諸島あたりでアメリカの艦隊をまちぶせてうち破る」という作戦をたてていたのである。
89日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:22:20
「ハワイまで航海するあいだにアメリカ軍に発見されたら、機動部隊は全滅してしまう。
また、飛行機だけで戦艦を沈められるわけがない。もし失敗したら取り返しがつかないだろう」
軍令部はそういって反対した。
いや、反対したのは軍令部だけではない。ハワイ空襲をおこなう機動部隊の南雲忠一長官までもが
「成功する自信がない」とまでいうのである。しかし、山本はおとなしくひきさがるような軍人ではない。
「軍令部のつくっている作戦では日本に勝ち目はない。開戦と同時にアメリカの太平洋艦隊の多くを沈めてしまえば
アメリカ海軍が立ち直るまでに何ヶ月もかかるだろう。そのあいだに日本は南方地域をやすやすと占領できることになる。」
かれは熱心に説いた。また、危険が多いとか、飛行機では戦艦を沈められないという批判に対してはこう反論した。
「戦争に危険はつきものではないか。危険をおそれては戦争はできない。飛行機では戦艦は沈められないというが、それは飛行機の力を知らないからだ」

*開戦と同時に・・・ このかんがえを、山本ははやくからもっていた。アメリカと戦争になれば、アメリカ・イギリス・オーストラリア・オランダの艦隊が敵になり、
その戦力は強大になる。
*飛行機の力を知らないからだ この当時、世界のどの国でも飛行機で戦艦を沈めることができるとはかんがえられていなかった。
だから、山本のかんがえた作戦には批判が多かった。
写真:戦艦「大和」 世界最大最強の戦艦。強力な攻撃力と防御力で、大かつやくを期待されたが・・・。
90日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:32:24
戦艦より飛行機を!
山本は海軍の中で飛行機の威力をいち早くみぬき、海軍の航空隊をつくるのに力をつくしてきた。
日本の海軍の航空隊のうみの親だった。
飛行機が戦場にあらわれたのは第一次世界大戦(1914〜1918)のときだったが、あまりかつやくしなかった。
このため多くの軍人は飛行機をかるくみていたのである。
海軍でも、威力がある大きな大砲を持つ戦艦こそが海戦では有利である。とかんがえる軍人が多かった(大艦巨砲主義)。
そのかんがえにしたがって建造されたのが世界最大の戦艦である「大和」と「武蔵」である。
山本五十六は「大和」と「武蔵」をつくるのにはげしく反対してこういっていた。
「そんな巨艦をつくっても沈まないということはありえない。これからは飛行機の攻撃力がつよくなっていくから、
大砲をうつ前に空から飛行機で攻撃されることになってやられてしまう。これからは大きな戦艦はいらなくなるのだ」
このように山本は飛行機をつかえば、ハワイの真珠湾に停泊しているアメリカの戦艦を沈められると自信をもっていた。
91日本@名無史さん:2005/06/19(日) 18:41:39
それでも軍令部がしぶって許可をあたえないでいると、山本は、
「ハワイ空襲を許してくれなければ、戦争をやっていく自信がありません。連合艦隊司令長官をやめさせてください」とせまった。
やまもとにやめられてはたいへんである。山本長官以上にすぐれた海軍の指揮官はいないからである。
そこでとうとう軍令部も許可をあたえることになった。そうときまると山本は連合艦隊をきびしく訓練した。海軍には土曜日も日曜日もない。
「月月火水木金金」ということばがはやったくらいだった。
とくに攻撃の中心となる航空部隊は、ハワイの真珠湾に地形がよく似ている鹿児島湾ではげしい訓練を日夜おこなった。
「もしも戦争にならなかったら、ハワイのすぐ近くまでせまっていても引き返してください。それで全滅しても、戦争よりはいいのです。」
出発前に山本は南雲中将に念をおした。このように山本は戦争をさけることをなによりも願い、やむをえないときにハワイ空襲をおこなおうとしたのである。

*山本長官以上にすぐれた指揮官 2・26事件で助かった岡田啓介元首相は、「あれだけの人物を連合艦隊司令長官にしたのは失敗だった。海軍大臣がよかった」と、のち山本の才能をおしんだ。
92日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:06:29
運命の十二月八日
しかし、山本の願いもむなしく、12月1日に御前会議で開戦が決定された。
瀬戸内海の柱島(はしらじま)に停泊する連合艦隊の旗艦(艦隊の司令長官や司令官がのっている軍艦)「長門(ながと)」にのりこんでいた彼は、
予定どおり12月8日に開戦するという連絡をうけると、悲痛な表情でハワイ空襲のための機動部隊にそれを無電でしらせた。
「新高山(にいたかやま)のぼれ。一二〇八」これは、「X(エックス)日(開戦日)を12月8日にする」という暗号だった。
このとき南雲中将が指揮する機動部隊はどこにいたのだろうか。
機動部隊は択捉島の単冠湾を出て6日間、運がよいことに一せきの船に出会うこともなく順調に航海し、北緯42度、西経175度の海上をこえたところにいた。
機動部隊は最後の燃料を海上で補給すると、ハワイめがけて22ノット(時速約41キロメートル)の速度でむかった。
12月7日の夜、機動部隊は大本営海軍部からつぎの情報を無電でうけとった。
「6日に真珠湾に停泊しているアメリカの艦は、戦艦9せき、軽巡洋艦3せき、潜水母艦3せき、駆逐艦17せきである。
また、ドッグに入っている艦は、軽巡洋艦4せき、駆逐艦2せきである。しかし、重巡洋艦と航空母艦は全部出動している」
情報はハワイの真珠湾内にいるアメリカの艦艇についてのものであった。

*新高山(にいたかやま) 台湾にある玉山(ユイサン)のことで、たかさは3950メートルある。この当時台湾は日本の領土で、
玉山(ユイサン)は新高山(にいたかやま)という日本名がつけられていた。
93日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:48:02
なぜ大本営海軍部はそれがわかったのであろうか。
じつは日本の海軍は、真珠湾を出入りするアメリカ海軍のうごきを調べるためにスパイをおくりこんでいた。
このスパイは吉川猛夫(よしかわたけお)少尉といったが、ホノルルの日本総領事館に森村正(ただし)という偽名でつとめながら、
アメリカ太平洋艦隊の基地である真珠湾のようすをさぐり、暗号電報で海軍軍令部にしらせていたのである。
運命の8日の日の出がやってきた。天気はよかったが風がつよく、ちぎれ雲が空にうかんでいる。機動部隊はハワイ諸島の北方230マイル(約370キロメートル)の海上に達していた。
「敵はとくに警戒している様子はない。かならず成功するようにいのっている」攻撃隊を発進させる前に大本営から電報がとどいた。
「一斉回頭(いっせいかいとう)!」旗艦「赤城」のマストに信号旗があがり、いっせいに6せきの航空母艦が飛行機を発進させやすいように、風上にむけて艦首をまわした。
そして偵察機を発進させたあと、合計183機の第一次攻撃隊を飛び立たせた。
早朝の海の静けさを破って、飛行機の爆音がとどろく。航空母艦の乗員たちは帽子を、あるいは手をふって、つぎつぎにうなりをあげて飛行甲板から飛び立っていく飛行機をみおくった。
それぞれの航空母艦から飛び立った戦闘機、艦上攻撃機、艦上爆撃機は上空で編隊をくむと、爆音を残して真珠湾にむかった。

*大本営 戦時または事変のとき、必要に応じて天皇のもとに設けられる最高の作戦機関。
参謀総長(陸軍)・軍令部総長(海軍)は、部下の参謀をひきいて仕事にあたった。
*艦上攻撃機 原則として航空母艦から飛び立ち、水平飛行から魚雷または爆弾を落として敵の船を攻撃する。
これに対して艦上爆撃機は、急降下して爆弾を投下する。
写真:作戦会議 航空母艦「加賀」艦上で攻撃の説明をきく航空隊員たち。
94日本@名無史さん:2005/06/20(月) 18:28:16
真珠湾への奇襲
この日は日曜日だったので、ハワイはのんびりした雰囲気にひたっていた。日本と戦争になるかも
しれないといううわさが広まっていたが、市民も軍人も、真珠湾が攻撃されるなどとは夢にも思っていなかった。
彼らの油断をついて第一次攻撃隊は真珠湾の上空に達した。眼下には小さく太平洋艦隊の艦艇がいかりをおろし、早朝の日差しの中にまどろんでいた。
淵田美津雄(ふちたみつお)隊長は「トトトト・・・・」(¨全軍突入せよ¨をしめす信号)と命令を下したあと、かねてうちあわせていたとおり「トラ・トラ・トラ」(¨われ奇襲に成功せり¨をしめす信号)と無線電信をうたせた。
日本機は停泊中の艦船におそいかかった。
油断していたアメリカ側は日本機の編隊が上空にあらわれたときさえ、「みかたの編隊だろう」とおもいこみ、これは演習だろうとのんびりかまえていた。
ところが「アリゾナ」や「オクラホマ」といった戦艦が爆弾や魚雷の攻撃をうけて猛火に包まれるのを見て、おどろきあわてふためいた。
たちまち「アリゾナ」と「オクラホマ」はかたむきはじめた。

(写真?画だと思うが作者は記されていない):奇襲成功 ハワイ奇襲攻撃。たかくあがる水柱は、日本軍の魚雷がアメリカ戦艦に命中したもの。
95また来るYo:2005/06/20(月) 19:23:57
第一次攻撃隊がさんざん真珠湾をあらして30分後にひきあげたあと、こんどは第二次攻撃隊167機があらわれた。
そのころには黒煙が空を覆い、沈没した艦、かたむいて炎上している艦、湾外に脱出しようとしている艦で真珠湾は惨憺たる光景だった。
第二次攻撃隊は容赦なく魚雷をうちこみ、爆弾をふらせた。
また、第二次攻撃隊の一部はちかくの飛行場を攻撃し、アメリカ軍機を破壊してしまった。
第二次攻撃隊は午前10時ごろにひきあげたが、アメリカ太平洋艦隊はひどい損害をうけた。戦艦3せきと駆逐艦2せきがくず鉄となるほどの被害をうけ、
戦艦3せき、駆逐艦1せき、機雷敷設艦1せきが大損害をうけた。さらに戦艦3せきをふくむ8せきがかるい被害をうけた。
また飛行機でも、アメリカは188機をうしない、159機が被害をうけた。
これに対して日本側は29機の飛行機をうしなっただけだった。日本側の完全な勝利だった。
真珠湾攻撃の成果が発表されると(ラジオの定時ニュースで逐一流していた)、日本の国じゅうがよろこびにわいた。しかし、山本はうれしそうな顔もしないでかんがえこんでいた。
「長官はうれしくないのですか」部下がこうたずねると山本は言った。
「ほんとうの戦いはこれからだぞ。この成果に心をおごらせるようではつよいとはいえない。
勝って兜の緒をしめよとはいまのようなことをいうのだ」
このように山本五十六は決して成果にうちょうてんにならず、アメリカとの戦争はこれから本当にはじまるのだと、心をいましめていたのである。

*機雷 容器に多量の爆薬をつめ、水面下の一定の深さのところに設置して、敵の艦船がこれに触れたとき爆発するような仕組みにしておいたもの。
港のちかくや艦船の航路に設置する。
*長官はうれしくないのですか 戦いの前途を心配したこともあるが、直接にはハワイでアメリカの航空母艦を1せきも発見できなかったのを残念におもったためである。
96日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:31:18
南方作戦の展開
開戦の約1ヶ月前に大本営(天皇に直属し、戦争の指導にあたる最高機関)がきめた戦略では、
「日本は南方地域ののだいじな国や島を占領したあと、資源を日本に運んで経済力をつよめて長期の戦争にそなえる。そうすればアメリカには負けないだろう」というものであった。
オランダ領東インド(インドネシア)には石油が、イギリス領マレーにはゴムやスズなどの資源がある。
そのほかにも東南アジアのそこここには資源がたくさんある。これらの資源を手に入れて利用すれば、大国であるアメリカにも負けないだろうと考えたのである。
大本営は香港・マレー半島・オランダ領東インド・フィリピンを同時に占領する作戦に「Z作戦」という暗号名をつけた。
南雲忠一長官の機動部隊がハワイめざして一路航海していたとき、陸軍の部隊を運ぶ大輸送船団は、それぞれきめられた上陸地をめざして南下していた。
日本軍の最初の大きな目標は二つあった。一つはインドシナ南部からタイとマレー半島にむかう攻撃であり、もう一つは台湾からフィリピンにむかう攻撃である。
さらに、香港やグアム島やウェーキ島を占領するための攻撃もあった。
大本営は攻撃軍として四つの方面軍をつくった。
第二五軍──マレー半島を占領する。第一四軍──フィリピンを占領する。
第一六軍──オランダ領東インドを占領する。第一五軍──タイとビルマからイギリス軍をおいだす。
このうちまず第二五軍と第一四軍が戦いをおこすはずだった。

*南雲忠一 南雲はハワイ、ミッドウェー、ソロモン海戦で戦い、最後はマリアナ方面の中部太平洋艦隊司令長官だったが、サイパン島で戦死した。
97日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:31:39
「イエス」か「ノー」か
真珠湾攻撃がはじまる約2時間前に、第二五軍はマレー半島の東北の端にあるコタバルに上陸した。
これからはげしい銃火が飛び交うともしらず、陸地には無数の灯火がきらめいていた。
いっぽう第二五軍の主力はイギリス領マレーとタイとの国境ちかくのタイ領、シンゴラとバタニーの2か所に上陸した。
ここではイギリス軍の抵抗はなかったが、コタバルから上陸した部隊ははげしい抵抗にあった。
その後、第二五軍はマレー半島の東海岸ぞいと西海岸ぞいの二つのルートでシンガポールにむかった。
第二五軍の進撃はマレー半島のイギリス軍が立ち直れないほどはやかった。戦車やトラックや自転車をつかって進撃し、
年が明けた1月末には、イギリス軍をシンガポール要塞(とりで)においつめてしまった。
第二五軍の司令官は山下奉文(ともゆき)中将だったが、休まずにイギリス軍をおいつめていった勇猛果敢さ(いさましくつよいこと)から
「マレーのトラ」と連合軍にあだなされた。
シンガポールはマレー半島の南端にある島で、1キロの幅があるジョホール水道でへだてられている。イギリス軍はこの島を強固な要塞としてかため、
「シンガポールは難攻不落(攻めるのに難しく、なかなか落ちないこと)だ」と自慢していた。
日本はこの島を2月11日に占領するつもりでいた。
イギリス軍はインド兵をふくめて約10万人がシンガポールにこもっていたが、攻撃する第二五軍が用意できたのは約5万人、飛行機約160機にすぎなかった。
はたしてこれでシンガポールを短期間のうちに占領できるのだろうか。

*第二五軍 陸軍の作戦単位のうち、いちばん大きい組織を総軍、つぎが方面軍、つぎが軍、つぎが師団である。
第二五軍はこのとき、3つの師団からなっていた。
98日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:32:00
2月9日午前零時に日本軍は攻撃をくわえた。
イギリス軍のはげしい砲撃の前に、ジョホール水道で兵士をはこぶ上陸用舟艇がなんせきも沈没したが、2か所で日本軍は対岸にたどりついた。
そして、それを足がかりにシンガポール市内に突入した。
がんきょうなイギリス軍のがんばりに、日本軍は多くのぎせい者を出し、2月11日になってもまだこの島を占領できないでいた。
なかでも島の西方にあるブテキマ高地のうばいあいでは日本軍はくるしい戦いをしいられた。
15日になっても日本軍はこの島を占領できず、大砲の弾がつきてしまい、いったん攻撃を中止しようとまでかんがえた。
ところがこの日の午後にイギリス軍が降伏を申し出てきたのである。
イギリス軍が降伏を申し出たのは、飲料水が不足した上に兵士たちの士気(戦う気持ち)がよわっていたからだった。
降伏の調印式は午後7時にフォード自動車工場でおこなわれた。イギリス軍の司令官であるパーシバル中将は降伏する条件をあれこれ要求しようとした。
すると山下奉文司令官は単刀直入(すぐに本題にふれること)に大声で、
「イエス・オア・ノー」とせまった。
山下司令官の高圧的な態度は勝利者の傲慢とうけとられた。
だが本当のところは、いそいでイギリス軍を降伏させないと日本軍のほうも兵士の疲労や弾薬不足からまいりかけていたからだった。
やむなくパーシバルはこわばった表情で
「イエス」(降伏する)
とこたえた。
こうして「難攻不落」をほこったシンガポールは日本軍の手におちたのである。

*山下奉文 太平洋戦争において、「海の山本」「陸の山下」といわれもっとも有名だった。
のちフィリピン方面の最高指揮官となり、戦後は戦犯としてとらえられ、1946年2月に処刑された。
画:マレー沖海戦 中村研一画。イギリスの戦艦と巡洋艦を沈めた。
画:香港攻撃 山口蓬春(ほうしゅん)画。イギリスの植民地香港を攻撃したときのもの。
画:山下・パーシバル両将会見図 宮本三郎画。山下中将は降伏を要求した。
99日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:32:35
「バターン死の行進」
それではフィリピンを占領するはずの第一四軍はどうだっただろうか。
本間雅晴(まさはる)中将を司令官とする第一四軍の主力は、フィリピンの中心部であるルソン島に1941年12月10日になって上陸した。
アメリカの属国(他国の支配をうけて、独立していない国)であるフィリピンでは、フィリピン陸軍はアメリカ軍に編入され、アメリカ極東軍司令官であるダグラス・マッカーサー将軍の指揮下に入った。
マッカーサー将軍は1万9000人のアメリカ兵と16万人のフィリピン兵を指揮していた。
後に連合国軍太平洋総司令官となるマッカーサー将軍はフィリピン総督の息子であり、アメリカの陸軍士官学校をトップで卒業した秀才だった。
マッカーサーはたとえ日本軍の攻撃があっても3か月は持ちこたえられると自信満々だった。
海戦早々に日本軍はフィリピンの飛行場を空襲して軍用機を破壊してしまった。そして、北部から上陸した。
マッカーサー将軍はいくえもの防衛線を築いていたが、日本軍はそれらをつぎつぎと突破し、ルソン島の南部においつめた。
マッカーサー将軍は司令部があるマニラ市を無防備都市にすると宣言して軍隊を引き上げさせ、マニラ湾の入り口にあるコレヒドール島の要塞に立てこもった。
このコレヒドール要塞こそシンガポール要塞以上の堅固な要塞だった。
コレヒドール要塞は海岸が断崖絶壁(切りたった険しいがけ)となってとりつくしまもなく、無数の大砲が周囲から突き出ていた。
地下には巨大なトンネルとホテルのような部屋がつくられ、約3000人の兵士が立てこもることができた。トンネルには電車が走っていた。

*無防備都市 軍隊をおかず軍事施設がないことを宣言した都市のこと。そのため、戦争をするときの取り決めによって軍事的な攻撃目標からは、外されることになっていた。
100日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:32:53
第一四軍はこの要塞を包囲しておいて、1942年(昭和17年)の年頭にマニラに入城した。
それから周到な(手落ちのない)準備の末に、マニラ湾外に突き出ているバターン半島とコレヒドール要塞の攻略にとりかかった。
おなじ年の4月はじめのことである。アメリカの海外放送は「バターン半島はおちず、コレヒドールは健在である」とさかんに宣伝をおこなっていた。
第二五軍がシンガポール要塞をすでに陥落させていたので、本間司令官以下の第一四軍の幹部にはメンツ(体面)がかかっていた。
しかし、日本軍のたびかさなる攻撃に、バターン半島のアメリカ軍も4月9日に降伏してきた。
「バターン半島を占領するのは4月末になるだろう」とかんがえていた第一四軍は約7万5000人もの捕虜をあつかいかねた。彼らを収容する場所も食料も用意がしてなかったからである。
こまった日本軍は捕虜を約60キロの道のりをあるかせて収容できる場所に連れて行こうとした。
だが、疲労しきっていたアメリカ兵は炎天下の行軍と、マラリアなどの病気のためにつぎつぎとたおれていった。
のちにこれが「バターン死の行進」とよばれ、本間司令官が戦争犯罪を理由に処刑される原因となるのである。

*本間司令官 名まえは雅晴。「バターン死の行進」の責任を問われて処刑されたのは1946年(昭和21年)4月3日のことで、
銃口にむかって「さあ、こい」とさけんだという。
写真:コレヒドール島 全島要塞と化していたコレヒドール島は、日本軍上陸前に破壊しつくされた。
写真:捕虜のむれ 多すぎた投降者が「バターン死の行進」の原因となった。
101日本@名無史さん:2005/06/22(水) 18:06:06
アイ・シャル・リターン”
コレヒドール要塞に対して日本は約1か月間にわたり砲撃をくわえた。
この砲撃のときに、日本のある砲兵部隊は10キロメートルはなれた要塞にひるがえる星条旗のおとしっこをやった。
何回目かの射撃のあと、星条旗に命中して、砲兵たちは「ばんざい」をさけんだ。
ところがふたたび星条旗があがり、砲兵たちはあっけにとられた。
それは一人のアメリカ兵が飛んでくる砲弾のなかを旗ざおにのぼり、もういちど星条旗を結びつけたのである。
砲撃のあと、日本軍の決死隊がコレヒドール島にむかって上陸した。さすがの要塞も砲撃でよわり、
これがきっかけで日本軍は要塞の中に突入した。
5月7日にウェーンライト司令官は日本軍に降伏したが、捕虜の中にマッカーサー将軍はいなかった。
彼はルーズベルト大統領の「脱出せよ」という命令にしたがって、魚雷艇にのってひそかにコレヒドール島を脱出し、
オーストラリアにむかったのである。
島をはなれるときマッカーサー将軍は部下たちにむかって、
「アイ・シャル・リターン」(わたしはまたもどってくる)と告げた。
このことばどおり彼は、二年半後にフィリピンにもどってくるのである。

*さすがの要塞も砲撃でよわり 日本軍の24センチ重砲(口径が24センチ)の263発目が火薬庫に命中し、
要塞の大砲は300メートルも空中にふきとばされた。これで勝負がついた。
102日本@名無史さん:2005/06/22(水) 18:06:32
飯田祥二郎(しょうじろう)中将の第一五軍は5月15日までにビルマを占領した。
全体を通じて、大本営が予想していたよりも、日本軍の損害は少なく、また作戦を終えるのが早かった。
これは日本軍に「連合軍なんてたいしたことはない」とあまくみる原因となり、日本軍が敗れる原因の一つとなるのである。
103日本@名無史さん:2005/06/22(水) 18:06:55
<苦戦する日本>
勝利をつづけていた日本軍も、ミッドウェーの海戦、ガダルカナル作戦を機に敗北への道をたどる。
山本五十六の苦悩はたかまるばかりだ。そして、ついに山本も帰らぬ人となった。・・・

山本五十六の苦悩
1942年(昭和17年)の春までに日本軍は、「南方の重要な地域を占領する」という第一の目的をなしとげてしまった。
じつは大本営はもっとんがくかかるとかんがえていたのだが、おもっていたよりもはやくこれを達成してしまったのである。
連合艦隊はむかうところ敵なしというありさまで、西太平洋や南太平洋でアメリカ・イギリス・オーストラリアの軍艦を次々に破っていた。
海軍の中でも、真珠湾攻撃をおこなった「赤城」(あかぎ)「加賀」(かが)「飛竜」(ひりゅう)「蒼竜」(そうりゅう)「翔鶴」(しょうかく)「瑞鶴」(ずいかく)
の6せきの航空母艦を中心とする機動部隊のかつやくはめざましかった。
機動部隊は日本にもどって休息したあと、1942年はじめにトラック島にすがたをあらわし、オーストラリアのポート・モレスビーを爆撃したかとおもうと、
インド洋にあらわれ、セイロン島(スリランカ)を空襲した。また、たくさんの数の連合軍の商船も沈めた。
これまで海軍では、「大きな大砲をつんだ大きな戦艦のほうが有利である」とかんがえる海軍の軍人のほうが多かった。
このようなかんがえを「大艦巨砲主義」といい、開戦のすぐあとに完成した世界でもっとも強力な戦艦である「大和」や「武蔵」はそのようなかんがえからつくられたのである。
しかし機動部隊のかつやくは戦艦ではなくて、飛行機こそが戦争の主役であることをみせつけた。
しかも日本海軍には「ゼロ戦」とよばれる世界でもすぐれた性能をもつ戦闘機があり、連合軍の戦闘機をよせつけなかった。
あいつぐ勝利に「この戦争は勝った」という声も国民の中からおこった。

写真:零式戦闘機(上)とグラマン戦闘機 日本とアメリカの代表機。
*ゼロ戦 正式の名は零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)。アメリカはゼロ・ファイターといっておそれた。
とくに飛べる距離がながく(約3400キロメートル)これがかつやくする大きな力になった。
104日本@名無史さん:2005/06/22(水) 18:07:23
しかし、山本の気持ちははれなかった。
この程度の戦果では強国であるアメリカは大してこまっていないだろうとおもっていたのである。
ある日、山本長官は部下にこのようにもらしたことがあった。
「いまこそ日本は戦争を外交交渉で終わらせなくてはいけない。日本が勝っているいまがいちばんよい時期である。
そのためにはこれまで占領した地域を全部かえす必要がある。だが政府にはとてもそのような決心はつけられないだろう。
結局、われわれは戦って死ぬしかないだろう」なんと悲壮なかくごだろうか。山本長官にはどれほど日本が善戦したところで、
最後にはアメリカに負けることがわかっていたのである。
それでも連合艦隊司令長官という職務についているのであれば、長官として勝つためにアメリカと戦わなくてはいけない。
「日本の力ではアメリカを降伏させることはできない。だから日本はアメリカが戦う気持ちがなくなるように、アメリカの急所をつぎつぎと攻撃し、
日本に有利なように和平をむすぶしかないだろう」そのようにかんがえた山本長官は、ミッドウェー島のちかくにアメリカの機動部隊をおびき出して全滅させてしまうという作戦をたてた。

*連合艦隊 海軍最大の艦船部隊。海軍は外洋(大きな外海)作戦に際しては、これに適した大部分の艦船や部隊を1つの組織にあつめ、これを連合艦隊司令長官が指揮した。
105日本@名無史さん:2005/06/22(水) 18:07:43
ミッドウェーへの出撃
ミッドウェー島はハワイから北西に約1150マイル(約1840キロメートル)はなれたところにあるアメリカ領の小さな島である。
「この島を占領するようにみせて攻撃をくわえれば、アメリカの機動部隊が攻めてくるだろう。そこを全滅させてしまうのだ」
山本長官はそのように作戦をたてた。
ミッドウェー作戦をおこなうのは、連合艦隊の中心である全部の軍艦だった。航空母艦8せき、戦艦11せき、巡洋艦23せき、
駆逐艦65せき、潜水艦18せき、そのほかの小艦艇やタンカーをあわせると190せき、飛行機は800機に達した。
この作戦でアメリカの太平洋艦隊を全滅させてしまおうとかんがえる山本長官も、完成したばかりの連合艦隊の旗艦「大和」にのって出撃することになった。

5月27日に攻撃の中心である機動部隊は瀬戸内海を出航し、一路ミッドウェー島にむかった。
「アメリカ海軍はたいしたことはない。日本海軍のほうがつよいのだ」ハワイ空襲からずっと勝ち続けていた日本海軍はアメリカ海軍をあまくみて油断していた。
ところがアメリカ海軍は日本海軍がかわす暗号の通信文をよみとり、日本海軍の目的がミッドウェー島であることを知っていた。
そして3せきの航空母艦、8せきの巡洋艦、15せきの駆逐艦をいそいでミッドウェー島にむかわせた。
アメリカの潜水艦は日本の機動部隊をみつけ、あとを追いかけながら位置を刻々と司令部にしらせた。このためアメリカ海軍は日本の機動部隊がどこにいるかはっきり知ることができた。

*旗艦 艦隊の司令長官がのっていて指揮をする軍艦。艦隊の中心となるもので、太平洋戦争中の連合艦隊の旗艦は、戦艦「長門(ながと)」「大和」「武蔵」巡洋艦「大淀(おおよど)」であった。
写真:ミッドウェー島 日本軍の攻撃で炎上しているありさま。
106日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:03:43
6月5日の朝、日本の機動部隊はミッドウェー島の北西210マイル(約340キロメートル)の海上にあらわれた。
南雲忠一長官は「アメリカの航空母艦がミッドウェー島にむかっている」という連絡をうけていたが、どこにいるのかわからなかった。
そこで南雲長官は「敵がどこにいるのかつきとめるために偵察機を発進させよ」とめいじた。
しかし、偵察機がみつけられなかったので「このち近くにはいないだろう」とかんがえた。
このため南雲長官は「ミッドウェー島を爆撃せよ」と命令を出した。
一回目の爆撃隊をおくりだしたあと、南雲長官は二回目の爆撃隊を発進させようとした。
航空母艦の甲板には、アメリカの艦隊をみつけたら攻撃をくわえようとして飛行機に魚雷をつんでいた。
南雲長官は魚雷ではミッドウェー島の基地を攻撃できないので、魚雷を爆弾にかえさせた。
この取替え作業のあいだに、偵察機が「敵の艦隊を見つけた」と報告してきた。
おどろいた南雲長官はミッドウェー島に対する爆撃をやめさせ、もう一度爆弾をはずして魚雷に取り替えさせようとした。

*アメリカの航空母艦が・・・ アメリカ海軍の航空母艦は「ヨークタウン」「ホーネット」「エンタープライズ」の3せきで
「ヨークタウン」だけが沈んだ。日本は航空母艦4せきをうしなった。
写真:航空母艦上のアメリカ軍機 発艦準備をととのえ、日本の航空母艦の攻撃にむかう。
107日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:04:04
敗れたミッドウェー海戦
どちらが先に相手を攻撃できるか。時間の争いだった。
おなじころ3せきのアメリカの航空母艦も日本の航空母艦を攻撃しようといそいで準備をしていた。
攻撃をしかけてきたのはアメリカの海軍のほうが先だった。しかし、日本の海軍は二回の攻撃を全滅させ、
逆に反撃する準備をいそいだ。「あと何分ぐらいで攻撃隊を発進できるのか」南雲長官はそれぞれの航空母艦に聞いた。
「あと30分です」そのとき、アメリカの急降下爆撃機の編隊がおそってきた。
日本軍は海面すれすれにやってきた雷撃機のほうに気をとられ、それに気がつかなかった。
まず航空母艦の「加賀」が四発の爆弾をうけて火につつまれた。つづいて「蒼竜」と「赤城」も爆弾をうけた。
この3せきは爆弾や魚雷に火がうつり、爆発をおこしながらつぎつぎに沈んだ。
機動部隊の中でただ一せき攻撃をうけなかった「飛竜」は、アメリカの機動部隊めがけて攻撃隊を発進させた。
そして航空母艦「ヨークタウン」に大きな被害をあたえ、やがて「ヨークタウン」は日本の潜水艦の攻撃をうけて沈められた。

*「飛竜」 1万7300トンで、搭載機数72機。ミッドウェーではほかの航空母艦が沈んだのちも最後まで奮戦した。
「ヨークタウン」を戦闘不能にしたのは「飛竜」のはたらきによる。
写真:航空母艦「飛竜」 アメリカ軍機の攻撃をさけ、舵をいっぱいにきっている。(左へ)
写真:炎上する「ヨークタウン」 魚雷を二発うけて炎上し、しずんだ。
108日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:04:26
「飛竜」はなおも第二次攻撃隊を発進させようとした。
しかし、アメリカの攻撃隊が上空にあらわれるのがはやかった。攻撃をうけて
「飛竜」はたちまち火につつまれ、黒煙を空たかくふきあげた。
乗員はひっしで消火をおこなったが、艦内の爆弾や魚雷に火がうつり、つぎつぎに爆発して手がつけられなくなった。
「総員集合せよ」
山口多聞(たもん)司令官と、加来止男(かくとめお)艦長は「飛竜」の救出は無理であると判断して、甲板に乗員をあつめた。
「みながいっしょけんめい努力してきたけれども、このとおりやられてしまった。どうかみんなでこのかたきを討ってくれ。ここでお別れする」
山口司令官はそう訓示すると、全員に艦から脱出するようにめいじた。
そして加来艦長といっしょに乗員が駆逐艦にのりうつるのをみおくったあと、
「いい月だな、月でもみよう」
といって艦橋(甲板上にたかくつくった台)にのぼっていった。
しかし、「飛竜」はしばらくういていて、翌日の早朝にしずんだ。山口司令官と加来艦長は「飛竜」と運命をともにした。

画:提督の最期 北連蔵(きたれんぞう)画。部下と別れる山口司令官(中央)と加来艦長。
*山口多聞 「飛竜」「蒼竜」の2つの航空母艦を指揮した。アメリカ機動部隊発見の報に、
山口は南雲長官に、陸上攻撃用の爆弾のままで、すぐ攻撃するよう意見を述べたが採用されなかった。
109日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:04:45
「飛竜」はなおも第二次攻撃隊を発進させようとした。
しかし、アメリカの攻撃隊が上空にあらわれるのがはやかった。攻撃をうけて
「飛竜」はたちまち火につつまれ、黒煙を空たかくふきあげた。
乗員はひっしで消火をおこなったが、艦内の爆弾や魚雷に火がうつり、つぎつぎに爆発して手がつけられなくなった。
「総員集合せよ」
山口多聞(たもん)司令官と、加来止男(かくとめお)艦長は「飛竜」の救出は無理であると判断して、甲板に乗員をあつめた。
「みながいっしょけんめい努力してきたけれども、このとおりやられてしまった。どうかみんなでこのかたきを討ってくれ。ここでお別れする」
山口司令官はそう訓示すると、全員に艦から脱出するようにめいじた。
そして加来艦長といっしょに乗員が駆逐艦にのりうつるのをみおくったあと、
「いい月だな、月でもみよう」
といって艦橋(甲板上にたかくつくった台)にのぼっていった。
しかし、「飛竜」はしばらくういていて、翌日の早朝にしずんだ。山口司令官と加来艦長は「飛竜」と運命をともにした。

画:提督の最期 北連蔵(きたれんぞう)画。部下と別れる山口司令官(中央)と加来艦長。
*山口多聞 「飛竜」「蒼竜」の2つの航空母艦を指揮した。アメリカ機動部隊発見の報に、
山口は南雲長官に、陸上攻撃用の爆弾のままで、すぐ攻撃するよう意見を述べたが採用されなかった。
110日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:07:21
四せきの航空母艦が飛行機の攻撃をうけてつぎつぎとしずんだころ、山本長官をのせた「大和」らの戦艦隊は機動部隊の後方にいた。
機動部隊が敗れたとしらされると、山本はいさぎよくミッドウェー作戦を中止し、退却するようにめいじた。
だが、部下たちはおさまらず「『大和』でミッドウェー島を砲撃して占領しましょう」ときかなかった。
山本は「それは将棋でいえばさしすぎだよ」といってとりあわなかった。
こうしてミッドウェー作戦は完全な失敗となってしまった。日本は正規の空母(航空母艦)四せきと多くのベテラン・パイロットをうしない、
最後までこの損害をおぎなえなかったのである。

*4せきの航空母艦が 日本の航空母艦は「赤城(3万6500トン)」「加賀(3万8200トン)」「蒼竜(1万5900トン)」
「飛竜(1万7300トン)」の4せきであった。
111日本@名無史さん:2005/06/24(金) 16:37:41
ガダルカナル島の戦い
ミッドウェー海戦のあと、大本営も山本長官も「アメリカが反撃してくるのは1943年(昭和18年)の春ごろだろう」とかんがえた。
山本長官は反撃にそなえる準備をいそいで取るようにめいじ、まず南太平洋のソロモン諸島にあるガダルカナル島に海軍の飛行場をつくることにした。
航空母艦を4せきもうしなってしまったので、陸上の飛行場で穴をうめようとしたのである。
ところが、アメリカ太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は「日本軍がガダルカナル島に飛行場をつくっています」という報告をうけると、
「飛行場が完成してからでは反撃がむずかしくなる。いそいでガダルカナル島を占領するのだ」とめいじた。
1942年(昭和17年)8月はじめ、アメリカの海兵師団がツラギ島とガダルカナル島に上陸してきた。
この二つの島にはわずかの海軍守備隊しかいなかったので、たちまち島は占領されてしまった。
はじめ日本側は、これがアメリカ軍の反抗であるとはおもわず、少数のアメリカ軍が偵察のために上陸してきたぐらいにしかかんがえていなかった。
このため、「なあに、すぐにとりかえしてみせる」とアメリカ軍をあまくみていたのだった。
また国内では、ガダルカナル島の位置をしらないで「ガダルカナル島とはどこにあるのだ」とあらためて地図を調べる陸軍の作戦参謀もいた。

*海兵師団 太平洋戦争でかつやくしたアメリカの軍隊。組織や戦力は陸軍の師団ににているが、
海軍に属し、戦闘ではもっとも困難でぎせいの大きい上陸作戦の主役となった。
ガダルカナル島の戦いと関係地図
ニューギニア島(都市ホーランジア、都市ポートモレスビー)、オーストラリア(都市ポートダーウィン)、
ビスマーク諸島(ニューアイルランド島、ニューブリテン島(都市ラバウル))、ソロモン諸島(ブカ島、ブーゲンビル島、イサベル島、ムルア島、ガダルカナル島)そして珊瑚海。
112日本@名無史さん:2005/06/24(金) 16:56:07
ガダルカナル島に上陸してきたアメリカ軍は約1万1000人だったが、日本側は6000人ぐらいだろうとすくなく見積もった。
日中戦争のひきがねとなった盧溝橋事件のときの日本軍守備隊の指揮官であった、一木清直大佐がひきいる第一陣の日本兵900人が島に上陸したのは、アメリカ軍が上陸してから11日後の8月18日の夜だった。
「アメリカ軍の大部分は島から撤退して2000人ぐらいしか残っていない。残っている者たちも日本軍が上陸したら逃げてしまうだろう」
一木清直大佐はあやまった情報をしらされて、「よし、すぐにアメリカ軍を攻撃しよう」とおもいたった。
ところがアメリカ軍は逃げるどころかがんじょうな陣地をつくり、日本軍が攻撃してくるのを待ち構えていたのである。そのため日本軍は全滅し、一木清直大佐も戦死してしまった。
そのあとも日本軍はぞくぞくとガダルカナル島に援軍(応援の軍)をおくりこんだが、アメリカ軍のはげしい抵抗に出会い、いたずらに戦死者を出すばかりだった。

*日本軍はぞくぞくと ガダルカナル奪回につぎ込まれた日本軍は、一木支隊、川口支隊、第2師団、第38師団で、そのぜんぶを第17軍という。
113日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:19:52
ガダルカナル近海での戦い
このあいだ山本長官が指揮する連合艦隊はどうしていたのだろうか。
「ガダルカナル島への輸送や補給はこの山本が責任をもって引き受けます」
山本長官はガダルカナル島を取り戻そうとする陸軍にそのように約束していた。そしてことばどおり連合艦隊の全力をそそいだ。
このとき連合艦隊の旗艦「大和」は瀬戸内海に停泊していたが、山本長官は連合艦隊の主力に出撃をめいじた。
「これを機会にミッドウェー作戦のかたきを討つのだ」山本長官はそう決意していた。
ミッドウェー海戦のあと、日本の航空兵力は航空母艦「翔鶴」と「瑞鶴」、それに小型航空母艦の「竜驤(りゅうじょう)」の三せきで第三艦隊をつくっていた。
「大和」らの戦艦隊にさきだって南下をつづけた第三艦隊はソロモン諸島の北方でアメリカの機動部隊と出会った。
第三艦隊の司令長官はミッドウェー海戦で四せきの航空母艦をうしなってしまった南雲忠一中将だった。南雲は敗北の責任を取ろうとして切腹しかけたところを部下たちにおさえられた。
山本長官は「南雲の責任をとうな」と部下たちにいい、もういちど航空母艦隊の司令長官につけたのである。
山本五十六の部下おもいに感激した南雲は、ミッドウェー海戦のかたきをいまこそ討ってやろうという意気にもえたっていた。
114日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:48:26
両軍はほぼ同時に相手を見つけた。アメリカの機動部隊は「エンタープライズ」と「サラトガ」の二せきだった。
第三艦隊の攻撃隊は「エンタープライズ」の甲板に三発の爆弾を命中させ、10月まで修理のために動けなくした。
いっぽう、アメリカ軍の攻撃隊は「竜驤」にさっとうし、これを沈めた。
「アメリカの機動部隊は逃げていきました」という報告をきいた「大和」の山本長官は、「おいかけて、日本海軍得意の夜戦でやっつけよう」とかんがえて、戦艦隊をひきいて追いかけた。
だが、アメリカの機動部隊は逃げ足がはやく、追いつけなかった。
やむなく山本長官は「大和」を日本海軍の基地があるトラック島にむけた。
二か月後の10月末、ふたたび機動部隊どうしの戦いが南太平洋でおこなわれた。
日本の「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳(ずいほう)」の三せきの航空母艦がアメリカの「ホーネット」と「エンタープライズ」の二せきの航空母艦と出会ったのである。
やはり両軍はほぼ同時に攻撃隊を飛び立たせた。日本側は「ホーネット」をしずめ、「エンタープライズ」にかるい損害をあたえた。
いっぽう被害のほうは「翔鶴」が爆弾四発をうけて修理のために引き上げた。
この海戦より先に、日本の潜水艦は、アメリカ航空母艦「サラトガ」に三か月間も修理のために動けなくするという被害をあたえ、また航空母艦「ワスプ」をしずめるという損害をあたえた。
この結果、アメリカ海軍が太平洋全域でつかえる航空母艦は、11月はじめには「エンタープライズ」のたった一せきとなってしまったのである。

*トラック島 南洋カロリン諸島中にあり、日本海軍の出先の最大基地だった。1944年(昭和19年)2月17日、18日にアメリカ機動部隊の攻撃をうけて、徹底的に破壊された。
*潜水艦 潜水して敵艦にちかづき、魚雷を発射して攻撃する軍艦。1000トン以上の1等潜水艦と、1000トン以下の2等潜水艦にわかれていた。最大は3530トンのものもあった。
イラスト:魚雷命中 航空母艦「ワスプ」に日本潜水艦の魚雷が命中。爆発をおこした。(文章・爆発炎上の「ワスプ」)
115日本@名無史さん:2005/06/24(金) 18:32:13
飢えにおそわれた日本軍
戦いは航空母艦によるものばかりではなかった。ガダルカナル島ではジャングルの中で両軍の兵士がはげしい戦いをつづけた。
島をうばいとろうとする日本軍もひっしなら、島を守りきろうというアメリカ軍もひっしだった。
上空ではラバウルの海軍航空隊と島のヘンダーソン飛行場から飛び立つアメリカ軍機とのあいだで毎日戦いがつづけられ、おたがいにたいへんな数の飛行機をうしなった。
周辺の海では、島に物資や兵士をはこぶ輸送船団を守る日本の艦隊と、輸送をさまたげようとするアメリカ艦隊とのあいだに海戦がおこなわれ、「アイアン・ボトム(鉄床海底)」とアメリカ軍が呼ぶほどたくさんの軍艦がしずんだ。
日本側にとって目の上のたんこぶは、日本軍が島につくり、占領したアメリカ軍が「ヘンダーソン飛行場」と名づけた飛行場だった。
ここから飛び立つアメリカ軍機が、島の日本軍に食糧や物資をおくろうと近づく日本の船団におそいかかり、しずめたからである。
116日本@名無史さん:2005/06/24(金) 18:32:30
日本側は、夜中に戦艦隊や巡洋艦隊で飛行場を砲撃し、アメリカ軍機を破壊した。だが、飛行場を無力にすることはとうとうできなかった。
こまった日本側は駆逐艦や潜水艦で食料や物資をはこんだが、はこべる量が少ないので、島の日本軍は飢えにおそわれた。
多くの兵士が栄養失調になったり、マラリアや赤痢という伝染病でたおれた。このため日本軍はこの島を「餓島(がとう・飢餓の島)」と呼ぶようになった。
両軍とも、たくさんの物資・飛行機・軍艦、それに人命をうしなった。当然このことは経済力でおとる日本のほうに不利にはたらいた。
「ガダルカナル島をめぐっていつまでもこのような戦いをつづけていると、日本は力がつきてしまう。ここでの戦いをやめよう」
山本五十六連合艦隊司令長官はとうとう1942年(昭和17年)末にこのように決心した。
これまで陸軍や海軍の高官のなかには、「ガダルカナル島をあきらめよう」と心の中でおもっていても、“弱虫”といわれるのがいやで言い出せなかった者もいたのである。
彼らは山本が勇気を持って言ってくれたのでほっとした。

*ラバウルの海軍航空隊 日本の海軍航空隊の陸上基地はラバウルだった。それで一般に、ラバウル航空隊という名まえで有名だった。なお、海軍は航空隊、陸軍は飛行隊という。
*夜中に戦艦隊や・・・ 日本海軍が飛行場砲撃にむかわせた戦艦は、第1回「金剛(こんごう)」「榛名(はるな)」、第2回「比叡(ひえい)」「霧島(きりしま)」 である。
第2回目はアメリカ艦隊が待ち受けて第3次ソロモン海戦となった。 
写真:ラバウル基地のゼロ戦隊 開戦時に無敵をほこった「ゼロ戦」も、やがて苦戦をするようになった。
117日本@名無史さん:2005/06/24(金) 18:54:58
ガダルカナルからの撤退
島から日本兵を救出する第1回目の作戦は、1943年(昭和18年)1月末から2月はじめにかけておこなわれた。
20せきの駆逐艦がやみ夜に島に接近した。途中でアメリカ軍の飛行機70機におそわれたが、たった1せきが被害をうけただけだった。
この1せきをべつの1せきでひきながら基地にかえしたあと、残る18せきは島に突入した。
「日本軍がこの島をひきあげるはずはない」アメリカ軍はそうおもって油断していた。
浜辺には負傷者や病人が救助をまちのぞんでいた。駆逐艦からおろされたボートが砂浜につくと、彼らは戦友にかつがれながらボートにのりこんできた。
骨と皮だけにやせおとろえた彼らを見て、駆逐艦の乗組員はだれもがないた。
「しっかりしろ」「ごくろうさん」乗組員は彼らを元気づけようと声をかけた。
救出隊は約5400人の日本兵をのせると、あわただしく島をはなれた。途中1せきの駆逐艦が機雷にふれて沈没したが、残りはぶじにガダルカナルの北西部にあるショートランドの日本軍基地にもどったのである。
救出作戦はその後、数日おいて二回もおこなわれた。二回とも六せきの駆逐艦のうち一せきだけが空襲の被害をうけただけだった。
第三回目のとき、救出隊は「もうだれもいないか」と声をかぎりにジャングルにむかってさけび、だれも残っていないのをたしかめてから島をはなれた。
アメリカ軍が日本兵が一人も島にいないのに気づいたのは、2月8日、第三回目の救出隊がぶじにショートランドについてからであった。
このみごとな救出作戦について、アメリカの太平洋艦隊長官であるニミッツ大将は、「敵ながらわが海軍の不意をついた救出作戦は歴史にきざまれるほどみごとであった」と戦後本に書いている。
118日本@名無史さん:2005/06/24(金) 19:06:57
救出された日本兵は約1万1706人。この島に上陸した日本兵の三分の一にすぎず、しかも、救出された兵士たちは栄養失調や病気や負傷でよわりきっていた。
約半年にわたるこの島をめぐる戦いで、日本もアメリカも、軍艦や輸送船や飛行機や物資をたくさんうしなった。
しかし、どちらの国も同じくらいの損害をうけたとしても、日本のほうが痛手をうけた。損害を回復する経済力が日本のほうがよわいからである。
ここでの戦いをさかいに、日本はひたすら守る側に追いやられたのである。

写真:ガダルカナル島の将兵を救出する訓練をしているところ
*駆逐艦 1000〜2000トンの軍艦。3〜4せきで水雷船隊をくみ、魚雷で相手を攻撃するのを任務とする。
しかし太平洋戦争中は、敵前輸送などの任務もはたさなければならなかった。
*輸送船 兵士やものをはこぶ船で軍艦ではない。これがあつまったものを輸送船団という。
輸送船が予想よりはるかに多くしずめられたことが、日本の敗れる大きな原因になった。
119日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:14:13
部下おもいの山本五十六
連合艦隊はさきにミッドウェー海戦で四せきの主力航空母艦と多くのベテラン・パイロットをうしない、ガダルカナル島攻防戦では多くの艦船・飛行機・パイロットをうしなった。
アメリカとの戦争は、山本五十六長官が予想したように日本に不利になろうとしていた。山本長官は、自分のわるい予想があたるのをどのような気持ちでみていたのであろうか。
山本長官は部下おもいだった。それらの部下がつぎつぎといのちをうしなっていくのをみて心をいためていた。
また、前線(戦場)の兵士たちが戦いでくるしんでいるのをみて、じぶんだけが安全なところで戦いの指揮をとることに、とてもたえられない気持ちでいた。
「前線の兵士やパイロットは日夜はげしい戦いにくるしんでいる。それなのにおれが安全な後方で指揮をとっていられるか。前線をまわってかれらを激励してやりたい」
山本長官がそういいだしたのは、1943年(昭和18年)4月のことである。
山本長官はガダルカナル島やニューギニア東部のアメリカ軍の航空力をたたきつぶす「あ号作戦」を計画していた。この作戦に成功してアメリカ軍の反攻をおさえこもうとかんがえ、
そのためにも前線の兵士やパイロットを元気づけたいとおもった。
このため山本長官は、4月3日にトラック島に停泊している旗艦「武蔵」をあとにし、ニューブリテン島のラバウルにやってきた。
そして、毎日なんども出撃してはげしい戦いをつづけている航空隊のパイロットを激励した。
「ソロモン諸島の前線部隊にも激励のためにいってみたい」そういいだしたのは4月13日のことだった。
部下たちは「危険です」ととめたが、いいだしたらきかない山本長官は、「どうしてもいきたい」といいはった。
そこで部下たちは日帰りのスケジュールをつくり、この日の夕方に山本長官が訪問する予定の基地に暗号の電文でしらせた。
120日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:14:35
よまれていた暗号
ところが日本側はしらなかったが、この電文がアメリカ軍に傍受(無線通信でぬすみぎきすること)され、アメリカ海軍省暗号解読班によって解読されてしまったのである。
山本長官のスケジュールをしったルーズベルト大統領とノックス海軍長官は、「真珠湾を攻撃した責任者である山本をころそう」ときめた。
「山本をころせ」という命令をうけたのは、ソロモン地区航空隊司令官のミッチャー少将だった。
ミッチャーは攻撃に成功するとはおもわなかったが、いちかばちかやってみることにした。
日本海軍の電文では、「四月十八日午前八時バラレ着」となっていた。そこでミッチャーはおなじ時刻にブーゲンビル島の南方にある島のバラレ基地上空に戦闘機を待ち伏せておくことにした。
「山本は時間を正確に守る軍人だというから、もしかすると成功するかもしれない」とミッチャーはおもっていた。
4月18日午前6時、山本長官と部下たちは2機の一式陸攻にのりこみ、ラバウル基地を飛び立った。日程がアメリカ軍にしられていることも、ましてアメリカ軍が山本長官をねらっていることもしらなかった。
長官を守るのはたった6機の「ゼロ戦」にすぎなかった。
いっぽう、それより50分はやく、山本長官ののる飛行機を撃墜するために26機のアメリカ軍戦闘機がガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を飛び立っていた。

*ラバウル ニューブリテン、ソロモン方面の日本陸海軍の最大基地だった。陸軍はここに大地下要塞をつくったので、マッカーサーは損害が大きくなることをおそれ、上陸するのをやめた。
*一式陸攻 陸攻とは陸上基地からとびたつ意味で、この飛行機は滑走がながかった。攻撃には魚雷または爆弾を使用した。マレー沖海戦では魚雷を使用してイギリス戦艦をしずめた。
写真:ミッチャー少将 高速機動部隊司令官としてかつやくした。
121日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:14:54
山本五十六の死
午前7時40分ごろ、ブーゲンビル島のブイン基地のちかくで、山本長官機を発見したアメリカ軍の戦闘機は、上空からおそいかかった。
ランファイヤー大尉は長官機とおもえる飛行機をみつけると、正面にまわりこんで機関銃をうちこんだ。
すれちがう瞬間、かれは長官機の右エンジン、それから右翼が火をふくのをみた。
「ゼロ戦」2機がランファイヤー機を追ってきた。逃げようと機体を上昇させたとき、墜落した長官機がジャングルのこずえにひっかかり、もえあがるのをみとめた。
「やった!真珠湾のかたきを討ってやったぞ」ランファイヤー大尉は興奮のあまりおもわず操縦席の中でさけんでしまった。
ランファイヤーは追跡してくる「ゼロ戦」をふりきって、もういちどふりかえった。
真っ青な海にうかんだ緑の島から一本のけむりが糸をひくようにたちのぼっている。その真上を数機の「ゼロ戦」が最期をおしむようにゆっくりと旋回している。
海軍のすぐれた指導者である山本五十六のこれが最期だった。
122日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:15:22
数日後この島に捜索隊がおくられ、森の中で炎上した一式陸攻を発見した。
山本長官の遺体はそっくり機内に残っていた。遺体は遺骨にされたあと、日本におくられ、山本長官の功績と苦労にむくいるために国葬(国がおこなうお葬式)にされた。
6月5日、山本五十六の遺骨をのせた霊柩車は東京芝の「水交社」(海軍将校のクラブ)を出発して多磨墓地にむかった。海軍軍楽隊が演奏するショパンの「葬送」の曲とともに葬列はしずしずとすすんだ。
沿道は山本五十六の死をいたむ人々でうまっていた。
戦死する20日前に、山本五十六は親類の者に手紙を書いていたが、その中で「小生はまだ死に場所をみつけていません」という意味のことを書いていた。
また、トラック島を出発するときに、みじかい視察旅行のはずなのに「しばらくは帰れないかもしれない」といい残していた。
このことをかんがえると、山本長官は死の予感にとらわれていたようにもおもえるのである。
ともあれ、山本五十六のようなすぐれた戦略家をうしなったことは、海軍ためだけではなく日本のためにも大変な損失であった。
山本五十六の死をさかいにして、日本は坂道をころがるように、敗北への道をあゆむことになるのである。

*捜索隊がおくられ 海軍も捜索隊を出したが、遺体を最初に発見したのは、ブーゲンビル島にいた陸軍の道路設営隊だった。隊長は「はすなみ・つよし」という少尉である。
*山本五十六の死 アメリカでは、日本軍の暗号を解読していることを隠しておくため、山本五十六を撃墜したことを発表せず、しらないふりをしていた。
写真:山本長官の国葬 山本長官の戦死は、海軍ばかりでなく国民ぜんたいにも大きなショックだった。(感想:霊柩車が荷車に見える。これが正装?)
123日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:16:00
原爆投下と日本の降伏
兵士たちの奮戦にもかかわらず、敗北はつづく。日本本土への空襲もはじまった。
沖縄では悲劇的な戦いがつづく。そして、広島・長崎には原爆がおとされ、日本は降伏した。・・・

おいつめられた日本軍
「ドイツに勝利することを第一の目的とかんがえ、日本に勝利することは第二の目的とする」というのがルーズベルト大統領の戦略だった。
このためアメリカは軍隊や物資をおもにドイツ軍との戦いにふりむけ、日本との戦いには残った戦力をむけてきた。
それでも太平洋のアメリカ軍は、日本軍の何倍もの戦力や物資の多さをほこっていた。おそるべきアメリカの国力である。
北太平洋ではアメリカ軍はアリューシャン列島のアッツ島を1943年(昭和18年)5月に占領し、南太平洋ではソロモン諸島から東部ニューギニアに進攻した。
おなじ年の9月、日本の政府と大本営は「マリアナ諸島、カロリン諸島、西ニューギニアに後退して、ぜったいにこれらの地域を防衛する」という方針をきめた。
日本はマリアナ諸島─カロリン諸島─西ニューギニアをむすぶ線を、「ぜったいに守りきらなくてはいけない線」として、「絶対国防圏」とよんだ。
1944年(昭和19年)2月、アメリカ軍は「絶対国防圏」にせまってきた。
マリアナ諸島がアメリカ軍の手に落ちれば、ここを基地として日本本土に対する「B29」による空襲ができるようになる。
日本の政府は2月25日に「決戦非常措置要綱」を布告した。それは中学生以上の生徒や、14歳から25歳までの独身女性を工場におくって、軍需生産を増やすなどの国力を集中して増やすための政策だった。
1942年(昭和17年)後半から1943年末までの一年半、日本はたいへんな量の飛行機や軍艦や輸送船をうしなっていた。このため、空と海とで連合軍の物資の多さにはとてもかなわなくなってしまった。
そこで生産力をあげるために、中学生や若い女性まで工場ではたらくことになったのである。

*B29 アメリカの超重爆撃機。「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」といわれた。1939年末から開発され、1942年9月に試作機ができ、1943年7月から量産された。日本本土は1944年からB29の爆撃にさらされた。
124日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:30:45
マリアナ沖の惨敗
しかし、連合軍は日本にたちなおる余裕をあたえず、マリアナ諸島におしよせてきた。
6月半ば、飛行機による爆撃と、軍艦による砲撃によって日本軍の抵抗をよわめたあと、マリアナ諸島の中心であるサイパン島にアメリカ海兵隊が上陸してきた。
島を守っていた第31軍ははげしく抵抗したが、海兵隊の上陸を許してしまった。
この島でアメリカ軍の反撃を食い止めようとひっしの大本営は、連合艦隊に出撃をめいじた。
このころ連合艦隊はマリアナ海域で決戦するために、第一機動艦隊と、第一航空艦隊をつくりあげていた。
第一機動艦隊は、大小の航空母艦9せきのほかに戦艦「大和」「武蔵」「長門」をふくめ、残った連合艦隊の主力のすべてだった。飛行機は440機だった。
いっぽう、西太平洋の島じまの基地に展開する第一航空艦隊の飛行機は560機だった。
これらの兵力で来襲したアメリカ海軍の軍艦をしずめ、上陸した海兵隊を全滅させてしまおうというのが連合艦隊の作戦だった。
小沢治三郎(じざぶろう)中将にひきいられた第一機動艦隊はフィリピンの基地から出港し、マリアナ諸島にむかった。
「日本艦隊が出撃してきた」偵察機の報告をうけたアメリカ軍の第五八機動部隊をひきいるミッチャー中将は、日本艦隊を迎え撃とうと西にすすんだ。
戦力では、ミッチャー中将の第五八機動部隊のほうが小沢中将の第一機動艦隊よりも二倍の大きさであった。

*大小の航空母艦9せき 大型航空母艦が「大鳳」「翔鶴」「瑞鶴」の3せき、中型が「隼鷹(じゅんよう)」「飛鷹(ひよう)」の2せき、
小型が「竜鳳」「千歳」「千代田」「瑞鳳」の4せきで合計9せきである。
125日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:31:13
はじめ戦争の女神は日本に有利に微笑んだ。というのは、ミッチャー中将は第一機動艦隊の正確な位置をしらなかったが、
小沢中将はずっと第五八機動部隊の位置を正しく知っていたからである。
6月19日の朝、第五八機動部隊に約500キロメートルにせまった小沢中将の第一機動艦隊は先に攻撃隊を発進させた。
パイロットたちはミッドウェー海戦のかたきをとろうと、はげしい闘志にもえていた。
ところが、半分ほどの距離まで飛んだところで、アメリカ艦隊のレーダーにとらえられ、あと90キロという海上でアメリカの戦闘機におそいかかられた。
「ゼロ戦」は勇敢に戦ったが、日本軍機はばたばたとうちおとされた。わずかに残った日本軍機が第五八機動部隊にせまったが、高射砲や機関銃で撃ち落された。
64機のうち、41機がうちおとされたのである。

*日本軍機はばたばたと 出撃した373機のうち、もどってきたのは150機だけであった。
日本の航空機がかんたんにうたれるので、アメリカ軍では「マリアナの七面鳥うち」とあなどった。
126日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:31:39
その後も日本軍機の攻撃はうまくいかなかった。
その大きな原因は、日本軍機のパイロットたちの技術が低かったためであった。
ミッドウェー海戦でベテランのパイロットを多くうしなったあと、日本は訓練がじゅうぶんではないパイロットを戦いになげこむほかはなくなっていた。
このことが「マリアナ沖海戦」とよばれるこのときの戦いでの日本軍の惨敗の大きな原因だった。
日本海軍の損失は飛行機だけではなかった。攻撃に失敗した第一艦隊が退却するとき、アメリカ軍の潜水艦によって「大鳳」「翔鶴」という二せきの航空母艦がしずめられた。
「大鳳」は完成したばかりの大型航空母艦であり、「翔鶴」は開戦のときからかつやくしてきた歴戦の航空母艦である。
また商船を改造してつくられた小型航空母艦である「飛鷹」が飛行機による攻撃をうけて沈没した。
日本海軍は三せきの航空母艦をいちどにうしなってしまったのである。

写真:航空母艦「翔鶴」の沈没 小沢中将(円内の写真)ひきいる第一機動艦隊はマリアナ沖海戦で完敗した。
*「大鳳」 3万2000トンの最新鋭の航空母艦。魚雷を1発うけたがなんともなかった。
沈没の理由は、エレベーターの故障で通気口(つうきこう)がふさがり、艦内にみちたガスが爆発したことによる。
127日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:32:27
東条英機首相の退陣
いっぽうサイパン島では日本軍の守備隊がはげしく抵抗して戦った。
しかし、物資の多さでまさる連合軍にはかなわず、七月七日の七夕の日に全滅した。
サイパン島が連合軍の手におちたのをきっかけに、首相を経験した人物を中心とする重臣の中から、
東条英機首相をやめさせて、連合軍との和平をはやく実現しようという動きがおこった。
重臣のこのうごきの中心人物は、二・ニ六事件のときの首相であり、このときあやうく命が助かった岡田啓介海軍大将であった。
岡田は1943年(昭和18年)ごろから、ほかの重臣たちとひそかに何度も会合をもち、「この戦争はどうしてもやめなくてはいけない。はやく連合軍と和平をむすぼう」と相談していた。
そしてサイパン島が連合軍の手におちたのをきっかけに、東条内閣をたおそうと動きはじめたのである。
東条英機は首相のほかに、陸軍大臣と陸軍参謀総長の地位もかねて独裁色をつよめていた。
そして、戦争がますます日本に不利になっても、戦いつづけることを方針として、戦争をどうやって終わらせるかをまったくかんがえていなかった。
そうした態度に重臣たちは、「このままでは日本はすべてが破壊されてしまう」というおそれをもち、東条内閣をたおそうとたちあがったのである。
これに対して東条英機は、大臣の顔ぶれをかえて批判をかわそうとした。だが、東条内閣に対する不満は政界や民間のあいだにも広がっていた。
このため、さすがの東条英機首相も、1944年(昭和19年)7月18日に総辞職するほかはなくなった。
つぎの首相には陸軍の小磯国昭大将がなったが、副首相として海軍の米内光政大将が内閣にくわわった。山本五十六がもっとも尊敬していた海軍の先輩である。
小磯─米内協力内閣はとりあえずは戦争をつづけることにしたが、米内の本心は戦争の前途をあやぶみ、なんとか和平のきっかけをつかもうとしていた。
128日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:32:46
画:サイパン島の戦い 橋本八百二(やおじ)画。日本軍ははげしく戦い、全滅した。
*重臣 おもい役目の臣下という意味。太平洋戦争以前は、内閣総理大臣の経験者、枢密院議長、内大臣で重臣会議を構成し、つぎの首相候補の選定をおこなった。
*小磯─米内協力内閣 東条内閣のあと小磯国昭が首相になったとき、米内光政と協力して内閣をつくるよう天皇がめいじた。明治時代に、大隈重信─板垣退助の例がある。
写真:小磯国昭内閣 東条内閣のあとをうけたが、うまい策はなかった。
129日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:41:50
学童疎開と勤労動員
1943年(昭和18年)の夏ごろから、国の外から資源や物資をはこぶ船がつぎつぎに連合軍によってしずめられるようになった。
このため、日本国内では物がますますたりなくなった。
配給される食料だけではたりないので、都市に住んでいる人は農村まで食料を買いに出かけるようになった。これは「買いだし」といわれ、流行のことばとなった。
また、お金の信用がなくなろうとしていたので、物を買うにもお金ではなく、物と物とを交換するようなこともあった。こういう交換のしかたは「物物交換」といわれた。
1944年(昭和19年)になると、肥料や働き手がすくないために、農業の生産がひどくわるくなり、食料が極端にたりなくなった。
「このままでは子供たちは栄養失調になってしまう」おどろいた政府は、この都市の4月から大都市で学校給食をおこなうことにした。お弁当を持ってこれない生徒もたくさんいたからである。
しかし、それぞれの家庭がうける配給や学校給食ではお米がたりなく、ジャガイモやサツマイモやカボチャがまぜられた。それもおなかをいっぱいにするほどではなかった。
このため大都市に住んでいる人は自分の家の庭を畑にして、たりない分をつくった。現在の小学校と中学校にあたる国民学校でも、校庭を畑にして作物をつくった。
130日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:42:10
マリアナ諸島がアメリカ軍の手におちると、長距離爆撃機である「B29」が日本本土を爆撃できるようになった。そこで政府は爆撃による火災の被害を少なくしようと、大都市の住宅の一部を取り壊したりした。
また、老人や病人や子どもたちは空襲のおそれがない田舎にうつるようにすすめた。
1944年夏には、大都市の国民学校は学校単位で田舎にうつることになった。「学童疎開」である。
生徒がそろえなくてはならないものは、掛け布団一枚・敷き布団一枚・枕一個・毛布・寝巻き・下着・シャツ・ズボン・猿股かズロース・靴下・足袋・腹巻き・モンペ・防空ずきん・日用品・履き物・教科書・学用品ときめられた。
東京だけで20万1600人が集団学童疎開し、40万9000人が親戚をたよって個人で疎開した。
集団学童疎開の子どもたちは親の元をはなれ、田舎のお寺などに集団でとまって生活した。当然食べるものも少なく、いつもおなかをすかしていた。
それでは中等学校(いまの高等学校)の生徒はどんな学校生活をおくっていたのであろうか。
中学生は学校のちかくの工場や畑ではたらいていた。大人たちが戦争に行き、人手がたりなかったからである。
このため中学生は「勤労学徒」とよばれた。このように、子どもたちも、勉強どころではなかった。

*国民学校 1941年(昭和16年)におかれた。初等科6年と高等科2年があり、初等科は現在の小学校、高等科は中学校にあたる。
いまの6・3制は1947年(昭和22年)からはじまった。
131日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:42:34
日本本土への空襲
1944年(昭和19年)6月、北九州に「B29」が68機あらわれて爆撃をくわえた。ついで沖縄をはじめとする南西諸島に連合軍の飛行機の大編隊があらわれ、はげしい空襲をおこなった。
とうとう日本本土に対する空襲がはじまったのである。
連合軍のはやい進攻のために、本土は空襲に対する備えがじゅうぶんではなかった。このため被害は大きかった。
はじめアメリカ軍は軍事施設や工場をねらって爆撃をくわえてきた。
そのために日本の軍事生産はいちじるしく低下した。このような爆撃を「戦略爆撃」といった。
だが1945年(昭和20年)になると、アメリカは都市の破壊や住民の殺傷を目的とする無差別爆撃をくわえてきた。
1945年3月10日、300機をこえる「B29」の大編隊が東京の下町の、木造家屋の密集地帯をねらって空襲をおこなった(東京大空襲)。
それまでにも東京は何回か空襲をうけたが、この空襲はこれまでとちがっていた。
それは住宅密集地を焼夷弾で焼き払うことをねらっていた。この夜の空襲で、26万戸の家が焼け、死者8万3000人、負傷者5万人を出した。
この空襲は最初で最後のものではなかった。「B29」の編隊は東京などのおもな都市を毎日のように空襲し、家を焼き払い、人々を殺傷したのである。
あるときなどは猛火に追われて逃げまどう住民の上に低空飛行し、空から石油やガソリンをふりまいたりした。
この空襲で日本の軍事施設や経済施設はほとんど破壊され、国民は戦いつづける意欲をうしなっていった。
132日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:42:58
*北九州に・・・ 北九州をB29がはじめて爆撃したのは6月16日で、八幡製鉄所を攻撃した。このときは中国の成都(チョンツー)付近の飛行場から飛び立ってきた。マリアナからは11月24日が最初である。
*焼夷弾 油やリンをつめてものを燃やすのが目的の爆弾。日本の家は木造なので、アメリカ軍は火薬爆弾をつかって破壊するよりも、焼夷弾をつかって焼き払うほうが効果的だとかんがえたのである。
*空襲 空襲による戦災都市は119、全焼した住宅数220万戸、被害をうけた人の数は約960万人、死傷者は推定66万人というおびただしい数にのぼった。
写真:B29の焼夷弾投下 B29の本土空襲ははげしさをまし、住宅地への焼夷弾爆撃がはじまった。
画:空襲下の東京市民 鈴木誠(まこと)画。消火にあたる人、子どもと避難する人、みな命がけであった。
写真:メガホン 緊急のことを知らせるため、隣組(となりぐみ)の当番が使用。
写真:乾パン 空襲のときの非常食として用意された。
写真:防衛食 真空容器(陶器)に入ったもので、非常食となった。
写真:消化弾 火元に投げて消火する。
写真:防毒マスク 毒ガスを防ぐためのもの。
写真:携帯用医療セット 外出のときバッグに入れて持ち歩いたもの。
133日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:43:36
硫黄島の激戦
1945年(昭和20年)2月16日の夜明け、南海に浮かんでいる火山島である硫黄島は時ならぬ騒音につつまれた。
おびただしい数の飛行機が爆弾・ロケット弾・ナパーム弾・銃弾を上空からふりそそぎ、島を取り巻いている軍艦が砲弾とロケット弾をうちこんだ。
爆撃と砲撃はえんえんと三日間もつづき、島のかたちがすっかり変わってしまうほどすさまじいものだった。
「これだけ攻撃すれば、生きている日本兵は一人もいないだろう」アメリカ軍のだれもが、このはげしい攻撃をみてそうおもった。
そして指揮官たちも、この小島は一週間で占領できるだろうとかんがえていた。
硫黄島は日本の本土とマリアナ諸島のあいだにある。アメリカ軍が、この小島を占領しようとしたのは、日本空襲にむかう「B29」を護衛する戦闘機の基地にするためだった。
また、日本の上空で被害をうけた「B29」が緊急着陸するためでもあった。
19日の午前9時、アメリカの海兵隊員7万5000人が上陸をはじめた。
日本軍の射撃はわずかだったので、かれらは「日本軍はひどい損害をだしたのだろう」とおもっていた。
134日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:48:07
ところがそれは日本軍の作戦だった。
この島の司令官である栗林忠道(くりばやしただみち)中将は爆弾や砲弾ではびくともしない陣地を地中深くつくらせ、島ぜんたいを強固な要塞(とりで)にかえていた。
そして「命令があるまでうつな」と2万1000人の日本兵にめいじていたのである。
「うて!」命令と同時に日本軍が射撃をはじめた。海兵隊員はばたばたとたおれ、死傷者をおびただしくだした。
これをきっかけに硫黄島では昼も夜も激戦がつづいた。とくに島の南西の突端にある摺鉢山(すりばちやま)の攻防は、両軍ともたくさんのぎせい者をだした。
2月23日にアメリカ軍は苦戦のすえに摺鉢山を占領したが、頂上に海兵隊員が星条旗をたてる瞬間の写真は全世界で有名になった。
物資の多さでまさるアメリカ軍は、しだいに日本軍を島の北東においつめた。栗林司令官が最後の夜間攻撃をおこなったあと自決(自殺)したのは3月27日のことで、
アメリカ軍が上陸してから40日ちかくも経ってからのことだった。
日本軍は約2万人が戦死し、アメリカ軍は戦死者約6800人、負傷者約2万人、それにノイローゼのために病院におくられた者2600人だった。
アメリカ軍の死傷者の割合はそれまでの戦いのうちで最高だった。
1968年(昭和43年)5月に、硫黄島をふくめる小笠原諸島が日本にかえされ、自衛隊の基地ができた。
このとき感想をきかれた、硫黄島の戦いにくわわった海兵隊員だった人は、
「もういちどあの島を占領しろとめいじられたら、さっさとカナダににげるね」とこたえた。

*約2万人が戦死 硫黄島で戦死した将兵の中には、1932年のロサンゼルス・オリンピック大会で、馬術の大障害に優勝した西竹一中佐(戦車連隊長)もいた。
写真:硫黄島の戦い 摺鉢山に星条旗をたてるアメリカ兵。
135日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:10:06
悲劇の島・沖縄
しかし、アメリカ軍はすぐにつぎの激戦地にむかうことになった。
1945年(昭和20年)4月1日にアメリカ軍は沖縄に上陸したが、硫黄島にまさるはげしい日本軍の抵抗に出会ったからである。
沖縄を守るのは牛島満(みつる)中将が司令官をつとめる第三二軍だった。
「これまで太平洋の島々では、日本軍は上陸してきたアメリカ軍を波打際(なみうちぎわ)で攻撃をくわえて失敗してきた。
沖縄では硫黄島とおなじく突撃攻撃をやめて陣地に立てこもり、できるだけながくこの島を守るのだ」
そうかんがえた牛島司令官は沖縄に巧妙な地下陣地をつくり、できるだけ多くのぎせい者をアメリカにださせようとおもった。
いっぽう硫黄島とちがうのは、「軍民一体」という名のもとで住民をも戦いにくわえたことである。
住民は陣地づくりから食料の調達まで協力させられたばかりか、軍隊とともに戦うことをしいられた。
そこから、ひめゆり部隊のような悲劇もうまれることになった。ひめゆり部隊とは、女子学生でつくられた部隊であり、
のちに多くの女子学生が捕虜となるのをきらって自決(自殺)するのである。
4月1日にアメリカ第10軍がみ3日間の爆撃と砲撃のあとに沖縄本島の嘉手納海岸にさっとうした。

写真:ひめゆりの塔 ひめゆりの塔は沖縄の女子学生が若い命をおとしたあと地にたてられた。
*ひめゆり部隊 沖縄の女子学徒隊は総数約500名で、おもに負傷者を看護する仕事についていた。
戦後、学校べつに、ひめゆり部隊、白梅(しらうめ)部隊、瑞泉(ずいせん)部隊、梯梧(ていご)部隊とよばれている。
136日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:10:29
「硫黄島以上の戦いになるぞ」アメリカ兵はそうかくごしたが、日本軍からは1発の銃声もきこえなかった。
かれらはキツネにつままれたような感じで、こわごわ陸地をふみしめた。
「そうとも。きょうはエイプリル・フール(四月馬鹿。人をだましてもよい日)だからな」
だれかがじょうだんをいうと、みながどっとわらった。
「まるでハワイの海岸を散歩しているみたいだぜ」
べつのだれかがいうと、またわらった。
ところがこれは日本軍のたくみな作戦だったのである。
アメリカ兵のだれも、これから3か月ものあいだ血みどろの戦いがつづき、
5万人ものアメリカ兵が死ぬか傷つくことになるなどとは、おもわなかったにちがいない。
日本軍は内陸部に主陣地をつくり、アメリカ軍が近づくのをまちかまえていたのである。
本格的な戦いは4月5日から6日にかけて、アメリカ軍が日本軍の主陣地第一線に近づいたときはじまった。
日本軍ははげしい砲撃と射撃をあびせ、アメリカ軍の進撃をとめてしまった。
沖縄の戦いがきっておとされたのである。

写真:沖縄上陸 嘉手納海岸に上陸したアメリカ軍は、物資をぞくぞくとはこび、攻撃準備をすすめた。
画:陸軍特別攻撃隊万朶隊(ばんだたい)のアメリカ艦隊攻撃。宮本三郎画。
*主陣地第一線 沖縄防衛の主陣地は、首里、那覇をむすぶあたりで最大の激戦となり、最後は南部の摩文仁(まぶに)の丘においつめられた。
牛島中将は6月23日にここで自決した。
137日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:11:09
戦艦「大和」の最期
沖縄戦がはじまると、日本の連合艦隊司令部は「『大和』に死に場所をあたえてやろう」とかんがえた。
それは日本が負けたとき、みすみす戦勝国にとられてしまうよりも、最後の花をさかせてやったほうがよいと、かんがえたからである。
「大和」とは「武蔵」の姉妹艦であり、アメリカとの艦隊決戦にそなえて、開戦したすぐあとに完成した巨大戦艦である。
全長256メートル、最大はば38.9メートル、基準排水量約7万トン──世界最大の戦艦だった。
その主砲である18インチ(約46センチメートル)砲は1.46トンの重さの砲弾を最大4万1400メートルのかなたにまで飛ばすことができる。
しかも18インチ砲を九門(門は大砲を数えることば)もち、40秒間隔で連続して射撃できる。
これだけの大口径砲(だいこうけいほう)をもつ戦艦は「大和」と「武蔵」のほかはなく、またアメリカの最新の戦艦の16インチ(約40センチメートル)砲ではこの2艦のあつい装甲鉄板を撃ち抜けない。
だが、不運なことに、山本五十六が予言したように、この2艦が誕生したときには海戦の中心は戦艦よりも飛行機にうつり、これというかつやくをしないままに「武蔵」はしずめられた。
そしていま「大和」は瀬戸内海でひっそりとその巨体をやすめていたのである。
138日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:11:27
4月6日午後4時、「大和」は巡洋艦一せきと駆逐艦八せきをともなって瀬戸内海を出航した。
かつては山本五十六長官のもとで太平洋を圧していた無敵連合艦隊のおもかげはなかった。
「『大和』は敵の飛行機をひきつけて神風特攻隊の突入を助けたのち、敵艦隊の中に突入せよ。
それでも動けるときには沖縄の陸地にのりあげて敵をやっつけよ」これが「大和」がうけた命令だった。
なんと残酷な命令だろうか。「大和」も乗組員も生きて帰るのぞみはないばかりか、アメリカの艦船に爆弾を抱いて
パイロットごと体当たりする神風特攻隊を成功させるために、アメリカの飛行機をひきつけるおとりになれというのである。

*主砲 「大和」の18インチ砲(口径が約46センチ)は、弾丸の重さが1460キロ、約4万1000メートル飛び、3万メートルの地点で、あつさ40センチの鉄甲板をうちぬく威力があった。
139日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:11:54
「大和」は一路南下したが、その動きはこくこくとアメリカ海軍にしられていた。
4月7日の正午、約250機の飛行機の大群が「大和」めがけておそいかかってきた。
「大和」はその18インチ砲9門をふくめ、すべての武器を空にはなった。
アメリカの攻撃機はおってもおってもおそってきた。爆弾や魚雷が何発か命中した。
それでも「大和」は速力もおとろえずに航行している。
第二波、第三波の攻撃隊がやってきた。そして第四波、第五波がつづいた。
「大和」は黒煙をあげてかたむき、ほとんど停止した。
第六波の攻撃隊がきたとき「大和」は大きくかたむき、沈没寸前だった。
「総員退艦せよ!」乗員が重油で黒くなった海面につぎつぎと飛び込んだ。
午後2時23分、不沈をほこる戦艦「大和」ものべ1000機をこえるアメリカ軍機に耐えられずにしずんだ。
そして、海中で二度爆発し、海底におちていった。
いっぽう沖縄の第三二軍は6月21日まで戦いつづけた。そして、アメリカ軍をくるしめた牛島満軍司令官最後に自決(自殺)した。
日本軍の損失は、10万7500人にのぼり、また多くの住民がまきぞえになった。
アメリカ軍の死傷者もすくなくなかった。1万2500人が戦死し、3万6600人が負傷した。飛行機763機をうしない、34せきの艦船が沈没、368せきが損害をうけた。

写真:戦艦「大和」の最期 爆弾や魚雷攻撃をうけ、「大和」はひっしに防戦したが、ついにしずんだ。
*爆弾や魚雷が何発か 「大和」がうけた魚雷は21本、爆弾は何十発か数えられない。さすがに不沈戦艦といわれた最期だった。そのようすは吉田満(みつる)著『戦艦大和ノ最期』にくわしい。
140日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:22:15
特攻隊の出撃
日本には日本本土しか残されなくなっても、陸軍は戦うのをあきらめなかった。
「戦争で負けたのは海軍である。陸軍はまだアメリカ軍と本格的な決戦をしていない。
アメリカ軍が本土に上陸してきたら、海にたたきおとしてやる。和平をむすぶとしてもそのあとだ」
陸軍の阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣をはじめとする幹部はそのように言い張った。
そして、1945年(昭和20年)に入ると、「本土決戦」の準備をおしすすめた。
本土には陸軍だけで230万人の兵力が残されていた。そのほかに15才から65才までの男性と、
17才から45才までの女性を国民義勇隊に加入させ、一億の国民すべてが兵士となって戦うことになった。
日本の戦いかたは、はじめから生存をかんがえない、戦死するのを当然とする戦いかたであり、これを「一億玉砕」とよんだ。

*本土決戦 日本本土で最後の勝負を決しようという作戦。大本営は、アメリカ軍が九州の南岸に最初に上陸してくると判断していたが、
これはアメリカ軍の計画と一致していた。
141日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:22:34
飛行機でパイロットもろとも体当たりをする特攻機のほかに、戦う方法がなくなった日本は、たくさんの特攻兵器をつくった。
爆弾を頭のところに積み込んでパイロットもろとも体当たりする人間ロケット「桜花(おうか)」爆薬をつめた小型の潜水艦で操縦員もろともに体当たりする
人間魚雷「回天(かいてん)」、おなじく爆弾をつんで体当たりするモーターボート「震洋(しんよう)」などである。
「神国日本は負けるはずはない」と信じきっている一部の軍人たちは、
「これらの特攻兵器で、攻めてくるアメリカの軍艦や輸送船の半分をしずめてみせる」とえらそうに言っていた。
また、日本民族こそ世界一すぐれた民族であり、天皇を中心とする政治のしくみは最高のものであると信じこんでいる青年将校たちもいて、
「降伏するくらいなら、日本民族が滅亡したほうがまだましだ。国民ぜんぶが戦って死のう」と言っていた。

写真:「回天」出撃 人間魚雷「回天」とともに硫黄島へむかう隊員。(イ368と4人の笑顔の隊員たち)
写真:特別攻撃機 体当たりをしていく特攻機(左上)。
142日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:39:29
いっぽうアメリカでは、ルーズべルト大統領が病気で4月12日に亡くなり、
副大統領であるトルーマンがあたらしい大統領になっていた。
トルーマンは、「日本を完全に負かすには、あと一年半くらいはかかるだろう」とかんがえていた。
アメリカの統合参謀本部は、日本を降伏させるまでに百万人のアメリカ兵士の命がうしなわれるだろうと計算した。
日本をどうやって降伏させるかということでは、陸軍や海軍にさまざまなかんがえがあった。
陸軍は「日本本土を占領しなくてはだめだろう」といい、
海軍は「日本本土のまわりを軍艦で包囲し、日本本土を孤立させれば、日本は降伏するだろう」と主張した。
いっぽう、陸海軍に付属する空軍部隊は「日本本土を爆撃して破壊すれば、日本は降伏するだろう」とかんがえていた。
戦後にわかったことだが、連合軍は日本の能力をたかく評価しすぎていた。このため戦争があと一年半もつづくとおもいこんでいたのである。
連合軍のぎせいをなるべく少なくするために、ルーズベルト前大統領はソ連に対して日本を攻撃させようとしていた。トルーマン大統領もその政策をうけついでいた。

*統合参謀本部 アメリカ軍は陸軍と海軍にわかれ、空軍をそれぞれがもっていた(空軍の独立は1947年)。この陸海の作戦を中央で統合していたのが、統合参謀本部である。
143日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:40:05
原爆がつくられた!
そのころアメリカのニューメキシコ州の砂漠の中につくられた巨大な建物の中で、ある研究が完成しようとしていた。
まわりを鉄条網でかこまれ、いくつもの建物がならぶ。
ここでは「マンハッタン計画」という秘密の名まえで三年半ものあいだ原子爆弾の研究がすすめられていたのである。
マンハッタン計画の総責任者はレスリー・グローブス将軍という軍人だった。
四月末にトルーマン大統領のところにあらわれたグローブス将軍は、
「原爆は8月に完成いたします。原爆を投下すれば、はやく戦争を終わらせることができますし、多くのアメリカの兵士の命がうしなわれないですみます」と報告した。
戦争をはやく終わらせたい。アメリカ兵のぎせいを避けたい。そうかんがえていた大統領は報告をきいてよろこんだ。
「よくやったぞ、将軍。硫黄島や沖縄での日本軍の戦いぶりをみると、日本本土に近づくにつれて、日本軍ははげしく抵抗し、
アメリカ軍に損害をあたえるだろう。原爆を投下すれば、日本は戦う気をなくして降伏するだろう。どこに投下するかを研究するのだ」
トルーマン大統領の指示で、グローブス将軍は原爆の目標をきめる委員会をつくった。そこでの研究の結果、小倉(北九州市)・広島・新潟・京都の四つの都市が選ばれた。
この目標がスチムソン陸軍長官に報告されると、かれは京都に投下するのに反対した。
「京都は日本のむかしの首都であり、歴史的にゆいしょのある都市なのだ。日本人にとっては心のふるさとなのだ。そこに投下するのは反対だね」
グローブス将軍はあくまで京都も目標にくわえたほうがよいと主張した。二人の論争はなかなか解決されず、京都を目標にするかどうかは最後まで決着がつかなかった。

写真:トルーマン大統領 終戦時の大統領。原子爆弾使用を決定した。
*原子爆弾 原爆の研究は、日本・ドイツ・ソ連・イギリスもおこなっていた。この中でアメリカが一番先に完成させた。
学問・技術的にはオッペンハイマー博士が中心であった。
144日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:40:28
そのあいだにもグローブス将軍は原爆投下計画をどんどんすすめていった。
グローブス将軍はマリアナ諸島のテニアン基地に原爆を組み立てる技術者団をおくり、
さらに四月末には原爆を投下する飛行隊をおくった。そして五月末にはいっさいの準備が終わり、原爆の完成を待つだけとなった。
7月7日、トルーマン大統領はドイツのポツダムでソ連のスターリン首相やイギリスのチャーチル首相と、対日問題やヨーロッパの戦後処理の問題を相談しようとワシントンを出発した。
「原爆をおとす前に、日本に降伏をすすめたらどうでしょう。それでも日本が降伏しなければ、やむをえず原爆をつかうのです」
スチムソン陸軍長官の提案で、大統領は日本に降伏をすすめる宣言文をポツダムで発表するつもりだった。
大統領がポツダムでスターリンやチャーチルと会談する前日の7月16日、アメリカのアラモゴードの砂漠で、原爆の実験がおこなわれようとしていた。
グローブス将軍はこの実験に「トリニティ計画」と暗号をつけていた。
午前5時半、秒読みがゼロになったとき、西の地平線の上空に巨大な光がひろがった。
やがてそれは火の玉となって燃え、きのこ雲がたちのぼった。
原爆の実験は成功してしまったのである。

*原爆投下計画 アメリカが原爆実験に成功したのは1945年7月16日のことだが、
はやくも1943年末には、B29の改装や特別部隊の編成などの準備をすすめていた。
145日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:41:03
広島・長崎に原爆が!
7月26日、アメリカ・イギリス・中国(宣言では、ソ連にかわって中国が参加)の三国は、ポツダムで共同宣言を発表した。
ポツダム宣言としてしられる宣言である。
それは日本に降伏をすすめ、降伏の条件として、軍国主義の追放、連合国による占領、日本の領土の範囲、日本軍の武装解除、
戦争犯罪人の処罰をかかげていた。
このとき日本の首相は海軍の長老である鈴木貫太郎だった。鈴木は岡田啓介らの重臣によって、戦争を終わらせようと首相にさせられたのだが、
強硬な陸軍の手前和平をのぞんでいる気配も見せなかった。
ポツダム宣言が日本に届いたとき「それをうけいれて降伏したほうがよい」とかんがえる者がすくなくなかった。
しかし、鈴木首相は「この内容では陸軍がとても納得しないだろう」とかんがえ「黙殺する」(無視する)と記者団にかたった。
連合国は「黙殺する」を「拒否する」とうけとった。そして原爆投下を決定したのである。

*降伏したほうが・・・ 8月9日の最高戦争指導会議では、阿南陸軍大臣、梅津(うめづ)参謀総長、豊田(とよだ)軍令部総長が戦争継続、
鈴木総理大臣、米内海軍大臣、東郷外務大臣が和平を主張した。
146日本@名無史さん:2005/06/30(木) 19:41:28
8月6日の午前2時45分、「エノラ・ゲイ号」とあだなされた「B29」爆撃機がテニアン基地を飛び立った。
それは胴体の中に爆弾をつみ、第一目標──広島、第二目標──小倉、第三目標──長崎と指示されていた。
8月1日から乗員はいつでも飛び立てる状態でいたのだが、日本の天気がわるく、延期になっていたのである。
約6時間半飛びつづけた「エノラ・ゲイ号」は広島の上空にたどりついた。そして、約9600メートルのたかさで原爆を投下した。
すぐにその場を逃げないといけない。「エノラ・ゲイ号」は旋回した。そのあいだにまぶしい閃光が空を走り、衝撃波で機体がゆれた。
4時間たっても広島上空は噴煙がたれこめ、市街がどうなっているのか上空からはわからなかった。
じつはその下では地獄のような光景がみられたのである。
広島市の60%が破壊され、死者が約7万8150人、行方不明者が約1万4000人、重傷者が約9400人、軽傷者が約2万8000人にのぼった。
2日後になると、ソ連は「日ソ中立条約」を破り、日本に宣戦を布告(戦争をすることを告げる)した。
9日にはふたたび長崎に原爆がおとされた。
どうあがいても日本は降伏するしかなくなってしまったのである。

写真:広島の学術調査団 爆心地に残る原爆ドーム。もと産業奨励館。
*原爆投下を決定 8月6日の広島につづいて、長崎には8月9日午前11時2分に投下された。
長崎では被爆者約27万人、死亡者約7万人に達した。
147日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:03:04
日本の降伏
しかし、陸軍の一部の青年将校たちは、
「ポツダム宣言では、天皇制がどうなるかはっきり述べられていない。
これではそれをうけいれられない」と、あくまで戦いつづけようとした。
阿南惟幾陸軍大臣(陸相)も青年将校らの気持ちをおもい、
「陸軍のメンツ(体面)をたてて、本土決戦をやらせてほしい」と鈴木貫太郎首相にうったえた。
そして、鈴木首相や米内光政海軍大臣(海相)が降伏の準備をすすめているのをしると、陸軍の一部の者はクーデターを計画した。
「クーデターをおこされたら、たいへんなことになる」鈴木首相や米内海相は、なかなか阿南陸相が降伏をうけいれないので、天皇の御聖断(決断)にあおごうとした。
天皇のご決断なら阿南陸相もやむなくしたがうだろうとかんがえたのである。
八月十四日の午後一時半、開戦のときとおなじように御前会議がひらかれた。
天皇は「連合国は悪意をもってポツダム宣言を書いたとはおもえない」と述べ、
「このまま戦争を続けては結局わが国土は焦土(やけ野原)となり、国民に苦悩をなめさせることになる」と降伏の決意を述べられた。
この結果、内閣では最後まで降伏に反対した阿南陸相も、ついに降伏に同意したのである。
日本の政府は連合国に「ポツダム宣言をうけいれる」と通告するとともに、八月十五日に天皇が国民にむかって降伏したことをしらせることにした。
八月十五日、正午、日本の降伏をしらせる玉音(天皇のお声)放送がおこなわれた。
戦争を続けようとする一部の軍人や民間人たちが、各地でさわぎをおこしたが、降伏の流れをせきとめることはできなかった。
長く、そして多くのぎせい者をだした戦争(第二次世界大戦)はここに終わったのである。

*御前会議 天皇が出席しておこなわれる会議をいう。最後の御前会議は8月14日で、天皇は8月9日につづき、ポツダム宣言を無条件でうけいれるほかはないと決定された。
*一部の軍人や 8月14日夜から15日朝にかけて、一部の軍人は終戦の詔書を録音した盤をうばおうと宮中に乱入したがはたせなかった。阿南陸軍大臣は15日未明に切腹した。
イラスト:玉音放送 日本降伏をつたえるラジオ放送をきき、国民は戦争に負けた事実を全身でうけとめた。(文字・ラジオで敗戦の放送を聞く人々)
148日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:03:25
たちなおる日本
敗戦後、連合国軍による占領がはじまった。貧困の中で人々はたくましくたちなおり、独立も達成された。
以後日本は、経済的にも文化的にも、世界で注目される国になりつつある。

マッカーサー元帥がくる
1945年(昭和20年)8月30日、東京の西にある厚木飛行場(神奈川県厚木市)に一機の輸送機が着陸した。
まもなく輸送機のドアがひらいて一人の長身の軍人がすがたをあらわした。
サングラスをかけ、口にはパイプをくわえている。この軍人は輸送機からおりてくる前に足をとめ、傲慢そうな態度であたりの光景をみまわした。
彼こそは連合国軍最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥だった。
彼は日本の占領統治をまかされ、やけ野原のひろがる日本にのりこんできたのである。
マッカーサー元帥を総司令官とする連合国軍総司令部(英語の頭文字をとってGHQとよばれた)はまず横浜におかれ、9月半ばに東京にうつった。
「戦争犯罪人を処罰し、日本の民主化をはかるのがきみの任務である」
トルーマン大統領からマッカーサー元帥はそう命令されていた。つまり、ポツダム宣言の条件を実行するために、彼は日本にやってきたのである。

写真:厚木飛行場におりたったマッカーサー元帥(右手にはパイプを握っている)
*マッカーサー元帥 連合国軍総司令部は皇居の濠ばた(ほりばた)にあった。占領軍の指令はいっさいがここから出たので、人々はマッカーサーのことを「濠ばた天皇」とうわさした。
149日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:03:45
東条元首相の自殺
「東条を逮捕したまえ。また彼をふくむ戦争犯罪人のリストをつくって、私のところにもってくるのだ」
日本にやってきてすぐに、マッカーサー元帥は連合国軍総司令部のエリオット・ソープ情報部長にそうめいじた。
マッカーサーは東条英機元首相らが連合国軍の占領政策を妨害することをおそれ、いそいで逮捕しようとしていたのである。
ソープ情報部長はまず東条英機ら39人の戦争犯罪人のリストをつくり、9月8日にマッカーサー元帥に提出した。
元帥は満足そうにうなずくと、3日後に39人全員を逮捕するようにめいじた。
「東条を逮捕せよ」という命令を受けたのはポール・クラウス中佐という将校だった。
彼は部下を引き連れて東条英機の家へむかった。ドアをノックすると、窓越しに東条が顔をみせた。
「マッカーサー司令部に行く用意をしろ」クラウス中佐はめいじた。
「逮捕状は持っているのか」「逮捕状はないが、公式の拘引命令書を持っている」
「それでは用意してくる」といって東条は家の中にきえた。
まもなく、家の中から銃声がとどろいた。連合国から東条英機は日本の軍国主義の中心人物であるとみられていた。
この有名な東条が逮捕されるのを一目(ひとめ)みようと、クラウス中佐の一行についてきたアメリカの新聞記者が興奮した声で「きみのえものは自殺したぞ」とさけんだ。
150日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:04:08
ドアに体当たりをして破り、中佐らが家の中に入ると応接間のソファーにくずれるようにして東条が座っていた。
彼の右手にはピストルが握られていた。中佐の部下たちは東条を助けようというよりも、ハンカチを取り出し、
あらそうように、それを東条の体から流れる血にひたした。「これが有名な東条の血だ」とあとで自慢するためである。
中佐はまず近所にすむ日本人の医者をよんだ。この医者が手当てをしているあいだ、東条はとぎれとぎれの声で、
「一発で死にたかった。戦争は正しい戦いだった。切腹しようともおもったが、ともすると間違うこともある。
一思いに死にたかった。あとから手をつくして生き返らないようにしてくれ」とつぶやいた。

*一発で死にたかった 東条元首相は終戦直後に自決(自殺)をかんがえたが、東条が死ぬと最高責任者がいなくなるので、
下村定(しもむらさだむ)陸軍大臣は、自決しないで法廷に出るよう頼んでいた。
151日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:04:27
ピストルの弾は左乳首から左肺(さはい)をぬけていた。しかし「死にたい」という東条の願いもむなしく、東条は奇跡的に助かった。
連合国軍総司令部はこの日の39人を皮切りに、10月5日に21人、12月2日に59人、12月6日に9人、12月18日に110人と戦争犯罪人を逮捕していった。
彼らは昭和のはじめから終戦まで、何らかの形で大事な役割を演じた日本の指導者であり、政治家・外交官・軍人・財界人・官僚・政治団体や文化団体の幹部などだった。
いっぽう、昨日までの敵である連合国軍に逮捕されるという屈辱に耐えられない人たちはつぎつぎと自殺した。
盧溝橋事件、三国軍事同盟、仏印(今のインドシナ半島)進駐、日米交渉といった重要な出来事のときに首相であった近衛文麿は毒を飲んで自殺した。
遺書の中で近衛はこう述べていた。「僕はたくさんの政治的な間違いを犯した。これには深く責任を感じているが、戦争犯罪人として裁判を受けることには耐えられない」

写真:東条元首相の自殺 ピストルで自殺をはかったが、失敗した。(血に染まる東条のシャツと、刑務官らしき制服の男性に枕を直されている様子?)
*遺書の中で近衛は・・・
近衛元首相は12月16日未明、青酸カリを飲んで自殺した。
その直前、午前2時まで次男と語り、僕の心境を書こうか、といってこの遺書をしたためた。
152日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:13:01
極東国際軍事裁判
戦争犯罪人を起訴する検事団は12月はじめに日本にやってきた。
約半年の間の証拠集めや証人調べのあと、検事団は「平和に対する罪」を犯したとして東条英機ら28人を起訴した。
裁判──正式には極東国際軍事裁判は1946年(昭和21年)5月にはじまり、1948年(昭和23年)11月に判決が出た。
病死したものを除く25人の被告に有罪判決がくだり、東条英機、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石見、
武藤章の7人は死刑の判決をうけた。
このほかにも旧日本軍占領地域や連合国各国でB・C級戦犯(通例の戦争犯罪と人道に対する罪をおかした者)を裁く裁判がおこなわれた。
連合軍総司令部は、戦争犯罪人の処罰とならんで、
「日本を戦争に駆り立てた人物をすべての公職から追放し、政界を粛清する」と発表して「公職追放」をおこなった。
また軍部とむすんでいたり、過激だったりした右翼団体を解散させた。

*検事団
裁判において、被告の罪を調べて起訴するのが検事である。
検事団の主席はキーナンで、彼はアメリカでギャングのアル・カポネを捕らえたことで有名だった
*公職追放
公職とは現代風にわかりやすくいうと、公務員またはそれに準じる者の事で
役人・政治家・学校の先生などがこれにあたる。公職追放令で日本の指導者は一変した。
153日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:25:14
死刑の判決を受けた7人の被告の処刑は1948年12月23日におこなわれた。
マッカーサー元帥は「処刑された戦争犯罪人の遺体は火葬にして、その骨灰はひそかに海にすてよ」と、めいじていた。
それは骨灰が日本のどこかに埋葬されたことがしれると、日本人が彼らを殉教者あつかいにして礼拝するとも限らないと思ったからだった。
処刑された遺体は横浜の久保山市営火葬場にはこばれた。火葬にしたあと、アメリカ兵の作業員たちは遺骨をくだいて容器につめた。
その作業をひそかに暗闇の中でうかがっている人影があった。近くの興福寺のお坊さんと小磯国昭元首相の弁護人だった三文字正平である。
「さあはやく。アメリカ兵は行ってしまいましたよ」二人の隠れている所にやってきて、せきたてたのは日本人の火葬長だった。
「よし、いまだ」2人は骨捨て場(ほねすてば)に走った。
アメリカ兵の作業員たちは容器に納まらなかった骨灰を骨捨て場にすてたのである。
3人はいそいで骨灰をすくって容器に納め、あるところに隠した。
のちにそれは名古屋の郊外にある三が根の山頂に埋葬され、「殉国七士の墓」という慰霊碑がたてられた。

写真:極東国際軍事裁判 1946年5月にはじまった裁判は2年半におよび、25被告全員が有罪となった。
154日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:29:50
天皇はさばかない!
連合国、特にソ連は天皇こそ戦争犯罪人であるのだから、天皇を逮捕して裁判にかけよと主張した。
しかし、マッカーサー元帥は「天皇が戦争犯罪人であるという確かな証拠がない以上、天皇を逮捕できない」とつっぱねた。
また、マッカーサー元帥は天皇が降伏を決断したとき、国民がそれにしたがったのをみて、天皇の力のおもみに、かんがえをあらためていた。
1945年(昭和20年)9月に天皇がマッカーサーを訪問するというできごとがあった。
この会談でマッカーサーは天皇の性格にすっかりひきつけられ、「天皇を戦犯にかけるべきではない」とおもった。
そして1946年(昭和21年)はじめにアメリカ国務省につぎのように書きおくった。
「天皇の犯罪行為についてひそかにできるだけくわしく調査したが、天皇が過去十年間、日本の政治の決定に加わったという
はっきりした証拠は見つからなかった」
「天皇を告発すれば、日本人はショックをうけ、日本はめちゃくちゃに混乱するだろう」
また、おなじときの1946年(昭和21年)1月1日、天皇は、自分は神ではなくて人間であるとの「人間宣言」をおこない、
つづいて国土の復興を願って国内をめぐりあるいた。国民はとまどいながらも、イメージのかわった天皇をうけいれたのである。
1946年6月に、国際軍事法廷のキーナン主席検事(アメリカ)は、「天皇はさばかない」と宣言し、天皇の戦争犯罪問題をうちきった。
日本の降伏は連合軍が計算していたよりはやかった。このため連合軍はこまかい占領計画をつくらないままに日本にやってきた。
連合軍が直接に政治をとるには人数がたりなかった。このため、連合軍は戦いで勝ちとった沖縄と硫黄島をのぞき、
天皇や日本の政府を利用して政治をとろうとした。
このためにも天皇制を廃止しないほうがよいとマッカーサー元帥はかんがえたのである。
155日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:30:07
写真:アメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪問された天皇(左にマッカーサー、右に天皇。天皇の顔ひとつ分ぐらいの身長差があるYo)
*天皇の性格に
天皇は最初マッカーサーを訪問したとき「じぶんの身の安全をたのみにきたのではない。
飢えにくるしむ国民を助けてほしい」といわれた。それに元帥は心から感動した。
*人間宣言
正式の名ではなく一般的なよび名。1946年の「念頭の詔書」のなかで、
「天皇を神とし、日本人は世界を支配する民族だという架空の観念をすてよ」といわれたのである。
156日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:30:37
すすむ日本の民主化
マッカーサー元帥は日本から軍国主義を一掃するかたわら、日本の民主化をすすめていった。
10月にマッカーサーは民主化の基本方針として、婦人の参政権をみとめる、労働者の団結権をみとめる、学校教育を民主化する、
司法制度を民主化する、経済機構を民主化する、という5つの条件をあげた。
経済機構の民主化は、「財閥解体」と「農地解放」という政策となって実行にうつされた。
三井・三菱・住友・安田らの財閥は家族や親族が株をもつ持株(もちかぶ)会社をつうじて、産業の各分野の多くの企業を支配していた。
そして、その財力にものをいわせて、政友会や民政党の政党をだきこみ、政治にも影響をあたえていた。
連合国軍総司令部は財閥の持株会社を解散させ、また一族がもつ株式の数を制限して、財閥支配下の企業を独立した企業とさせた。
農地解放は、日本の封建主義を育てるもとになった地主─小作制度を解体し、地主の農地を小作農民に分配して自作農民をつくりだした。
学校教育の民主化は国がさだめた教科書をなくしたり、授業から神道教育をとりのぞいたり軍事教練(学校でおこなう軍事訓練)や修身(道徳)教育を廃止したりすることでなされた。
また、学制も小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年となり、中学校までが義務教育となった。
しかし、なんといっても大きな変化は新憲法の制定という事件だった。
マッカーサー元帥が「日本人は平均年齢が8才である」とあきれたくらい、日本人はアメリカ人からみると民主主義からほどとおかった。
マッカーサーは民主主義が確立されていないのが、その原因であるとかんがえ、民主的な憲法を日本にもたせようとおもった。

写真:財閥解体 占領軍の監視のもとで、株券をはこびだす。
*民主主義
民主主義の基本として、当事は「人民の、人民による、人民のための政治」という、
アメリカのリンカーン大統領のことばがよくつかわれた。
157日本@名無史さん:2005/06/30(木) 20:31:04
第1回の衆議院総選挙が1946年(昭和21年)4月におこなわれることになると、300をこえる政党がつくられた。
それらのなかでは片山哲(かたやまてつ)を書記長とする日本社会党、鳩山一郎の日本自由党、大戦前にあった立憲民政党系の日本進歩党が有力であり、
また合法となった日本共産党も無視できなかった。
マッカーサー元帥は1946年2月に、「日本の新憲法の草案をつくれ」と総司令部民政局に指示をあたえたことにしげきされ、各政党もそれぞれの憲法案をつくって発表した。
1946年4月の選挙は、婦人参政権がみとめられた最初の選挙だったが、自由党141議席、進歩党94議席、社会党93議席、協同党14議席、共産党5議席、諸派38議席、無所属81議席という結果だった。
この選挙では婦人議員が39人も当選して話題をよんだ。
第一党である日本自由党の鳩山一郎があたらしい内閣の首班に選ばれた。ところが鳩山は戦前に文部大臣をつとめていたことから公職追放令にひっかかり、
首相就任をあきらめるほかはなかった。そこで鳩山ら自由党幹部は吉田茂を自由党総裁にむかえ、首相になってもらうことにした。

*新憲法の草案
草案はいろいろな人がそれぞれの立場で研究した。近衛文麿、佐々木惣一、宮沢俊義(としよし)
松本烝治(じょうじ)高野岩三郎(いわさぶろう)らが中心だったが、けっきょく連合国軍総司令部が案をつくった。

写真:買いだし列車 都会の人にとって食糧確保はたいへん。買いだし列車は鈴なりの人でこみあった。
158日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:04:21
吉田茂の登場
吉田茂は戦前には外交官だった。イギリス駐在大使をつとめていたときにはチャーチル首相ともしりあいの仲であった。
吉田は1939年(昭和14年)に外務省をやめて悠悠自適(世間にわずらわされないで気ままに)の生活をおくっていたが、
太平洋戦争になると戦争に反対したため、憲兵(軍人をとりしまる警察官の役割をする軍人)に監視されたり、逮捕されたりしたこともあった。
日本の降伏とともに、鈴木貫太郎内閣は総辞職し、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣とつづいたが、
吉田はこの2つの内閣で外務大臣をつとめていた。
吉田は日本の政治家にはめずらしい毒舌(口がわるいこと)やウィット(機知)のもちぬしだった。
また、軍部をきらってもいた。あるときマッカーサー元帥が「日本の官庁の統計数字はいいかげんであてにならない」とふんがいすると、
吉田はつぎのようにいって元帥をわらわせた。「もし戦前から正確だったなら、あんな戦争はしなかったですよ」
軍部がアメリカと日本の国力の大きな差をしらないで戦争したことをひにくったのである。
吉田はとうていうけいれられないというような連合国軍総司令部の命令や指示ははっきりとことわった。
連合国軍総司令部だからといってひくつにはならなかったのである。
「吉田はだめなことはだめというかわり、ひきうけたことはかならず実行する男だ。」とマッカーサーは吉田をたかく評価した。

写真:吉田内閣成立 幣原内閣総辞職のあと第一次吉田内閣が成立。吉田は5回も首相となった。
*吉田茂は…
昭和はじめ外務省の役人のころ、田中義一首相から、総理大臣秘書官になるようすすめられた。
吉田は、「総理大臣はできるが秘書官はだめだ」とことわったエピソードがある。
159日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:04:46
吉田内閣の前の幣原内閣はマッカーサー元帥の指示で憲法草案を研究していた。
その内容は元帥がかんがえているのとはちがっていたので、元帥は不満だった。
「もし日本が民主的な憲法をもてば、世界は日本をみなおすだろう」とマッカーサーは吉田にいった。
戦争で評判をおとした日本の国際的な地位をたかめようとする吉田もおなじだった。
「民主憲法を公布する」というかんがえで2人はおなじだったのである。
新憲法草案は連合国軍総司令部と政府とのあいだでなんどもねりなおされた。
ある人が、「憲法草案は問題点が多い」と批判すると、吉田は平然として、
「やってみてあんがいうまいくかもしれないし、ぐあいがわるいところがあれば、あとでなおせばよいのだ」
とこたえた。このように吉田は新憲法に柔軟で現実的なかんがえをもっていたのである。

*憲法草案
第9条の戦争放棄は、マッカーサーがアメリカ上院で「わが愛すべき老人、シデハラ(当時の首相幣原喜重郎)が
そういうから賛成した」と証言している。
160日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:05:09
新憲法(日本国憲法)は1946年(昭和21年)11月に公布され、翌年の5月3日に施行された。
この日、皇居広場でひらかれた記念式典には1万人が参加して新憲法を祝った。
しかし、総選挙で敗れた吉田茂は辞職し、1947年(昭和22年)5月、新憲法のもとでの最初の内閣は社会党の片山哲がひきうけることになった。
片山内閣は1948年(昭和23年)2月までつづき、与党(政権をとっている党)である社会党の内部対立から総辞職すると、民主党の芦田均(あしだひとし)がひきついだ。
芦田内閣は「昭電疑獄」というスキャンダル(不正事件)でたおれた。閣僚や高級官僚が昭和電工という企業からわいろをうけとった事件である。
これが発覚したのは、吉田茂をふたたび首相につけようという連合国軍総司令部の謀略(たくらみ)
だともいわれるが、真相はわからない。つぎの首相はふたたび吉田茂となった。これからのち、しばらくは
「吉田時代」といわれる時代がつづき、吉田のもとで日本は復興していくのである。

*片山内閣
保守政党である民主党との連立内閣だった。連立にもせよ、日本社会党が政権についたのは、日本ではこれ1回かぎりである。(執筆当時)
*吉田時代
吉田は5回内閣をつくった。明治時代の伊藤博文が4回で、歴代首相中いちばん多い。国民はワンマンとよんだ。
しかし、このことばのなかには親しみもこもっていた。
161日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:05:30
朝鮮戦争とその波紋
1950年(昭和25年)6月25日早朝のことである。
北緯38度線で、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国のそれぞれの軍隊がとつぜんうちあいをはじめた。
時間がたつにつれ、先頭はしだいにはげしくなり、朝鮮民主主義共和国軍が北緯38度線をこえて大韓民国に
なだれをうってはいりこんだ。朝鮮戦争がはじまったのである。
どちらがさきに最初の銃弾をうったのかは今でもはっきりわからない。
これより前の1949年(昭和24年)10月には、中国で毛沢東(中国読みではマオチュウトン)が蒋介石の国民政府を台湾においだし、中華人民共和国を成立させていた。
この結果、日本にちかい国では韓国だけが共産国ではなく、アメリカは韓国の共産化だけはどうあってもふせごうとかんがえていた。
朝鮮民主主義共和国軍は3日後には大韓民国の首都であったソウルを占領した。
これに反撃をくわえるため、その3日後、国連軍はプサン(釜山)に上陸した。
国連軍の最高司令官にはマッカーサー元帥が任命されていた。
162日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:05:52
朝鮮戦争がおこると、日本はアメリカ軍の後方基地となり、アメリカ軍から物資や軍需品(戦争でつかうもの)の特別注文をうけることになった。
「朝鮮特需」である。
不景気にくるしんでいた日本の経済には、朝鮮特需は干天(かんてん・ひでりのこと)にふっためぐみの雨のようだった。
日本の経済はこれをきっかけに好景気にわき、経済の復興にむけて大きくふみだすことになった。
また、朝鮮戦争は日本の政治や外交にも大きな変化をあたえた。軍国主義を一掃し、民主化をはかるという連合国軍総司令部の方針は、
共産主義とたたかい、日本独自の軍事力をつよめるという方針にきりかわった。
そして、共産党幹部を公職から追放し、国内を防衛する警察予備隊をつくらせた。
警察予備隊─自衛隊の前身である。吉田茂は旧軍人にたいする公職追放令を解除し、かれらを警察予備隊に入隊させた。
日本に駐留しているアメリカ軍が朝鮮半島で戦っているので、日本の国内の治安を守りきれない。
そこで警察予備隊に治安の維持をまかせようというのである。
吉田茂は、GHQ(連合国軍総司令部の略語)を、「ゴー・ホーム・クイックリー(はやく国へ帰れ)の略だ」
などとシャレたことがある。吉田は占領軍にはやくひきあげてもらい、日本の独立を実現したいと、ひそかにかんがえていた。

写真:警察予備隊誕生 1950年、警察予備隊ができ、隊員をあつめてアメリカ軍式の訓練がはじまった。
*共産党幹部を追放
レッドパージという。日本共産党中央委員24人をはじめとして、
官公庁で1200名、教職で1700名、民間企業で1万2000名とひろい範囲におよんだ。
163日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:13:56
再軍備には反対だ!
朝鮮戦争のためにアメリカが日本を必要としているとかんがえた吉田は、たとえアメリカ一国とだけでも
講和条約をむすび、早く独立をはたしたいとおもった。
いっぽうアメリカ側でも、トルーマン大統領の顧問であるダレスが「日本と講和をむすんだほうがよい」とトルーマン大統領にすすめていた。
1951年(昭和26年)1月に、日本と講和条約を相談するためにダレスが日本にやってきた。
ダレスは「日本を独立させて再軍備(ふたたび軍備をもつこと)させ、その軍隊を朝鮮半島におくろう」とかんがえていた。
ところが吉田は再軍備に反対した。
「今の日本はまず独立をしたいという一心であり、独立してどうするかなどとは
かんがえる余裕もありません。再軍備は日本の経済をだめにしてしまうし、外国は再軍備を心配しています。また軍部が生き返るおそれがあります」
ダレスもがんばる。2人の意見はあわなかった。そのあと2人はマッカーサー元帥をたずねた。
「いまダレス大使ははなはだこまった質問をしてわたしをくるしめているのです」
吉田がマッカーサー元帥に言うと、元帥は吉田の肩をもってくれた。
「自由世界が日本にもとめているのは軍事力ではない。再軍備などとうていできない。
日本は軍事生産力をもっているから、労働力と資材をあたえて、この生産力をいかしたらどうだろう。
これから意見が衝突したら、いつでも仲介役(仲だち)をしよう」
そのあと数日間、ダレスと吉田は会談したが、とうとう吉田は再軍備に反対する態度をつらぬいた。
これらの会談で吉田はへとへとになり、体重が大きくへってしまった。
164日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:14:17
日本とアメリカが講和条約の交渉をにつめていた1951年4月、トルーマン大統領によってマッカーサー元帥がやめさせられるというできごとがおこった。
マッカーサーは「国連軍は中国に進撃したほうがよい」とか「原爆の使用をためらわない」などといっていた。
このころ朝鮮戦争を休戦させたいとかんがえていたトルーマン大統領は、戦争がひろがるのをおそれて元帥を解任したのである。
元帥が日本をはなれたことは吉田には痛手だったが、吉田は日本の独立にむけてねばりづよく連合国と交渉した。

写真:マッカーサー元帥の帰国 元帥は日本国民におしまれながら帰国した。(飛行場で飛行機に乗る前の互いに敬礼するようす)
*マッカーサー元帥解任
解任6か月前、トルーマンとマッカーサーはウェーキ島で会談した。トルーマンは本国の事情を話し、司令官は大統領の命令に従うべきだと主張した。
アメリカに帰国した元帥は、議会で別れのあいさつをし、「老兵は死なず、ただきえゆくのみ」と有名になったことばで演説をむすんだ。
*朝鮮戦争
国連軍の仁川(インチョン)上陸で決着がつくかとおもわれたが、中華人民共和国が義勇軍を動員して朝鮮民主主義人民共和国軍を応援し、
2つの世界が対決する大戦争になった。
165日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:14:38
講和条約がむすばれる
元帥が解任されてまもない8月、吉田茂を団長とする講和全権団はサンフランシスコにむけて飛行機でとびたった。
中国・インド・ビルマ・ユーゴスラビア・ソ連・ポーランド・チェコスロバキアをのぞく連合国48か国の代表と講和条約に調印するためである。
日本国内では、「すべての連合国と講和すべきだ」とか、「沖縄と小笠原諸島にアメリカの施政権をみとめた講和は、アメリカのいいなりではないか」と批判する者たちがいた。しかし、吉田は
「どんな条件であれ、主権を独立させたほうがいい」というかんがえをかえなかった。
サンフランシスコの講和会議では、全権団が会場にはいると、あたたかい拍手でむかえられた。
各国代表が演説したあと、吉田茂が講和条約を受け入れるという演説をした。
吉田首相は演説文を長い巻紙に書かせてよみあげたので、外国人の記者団は吉田がトイレット・ペーパーに演説を書いたのかとおもいこんだ。
演説しているうちに、吉田の口調がどんどんはやくなり、途中をぬかしてしまった。
あとでこのことを聞かれた吉田は、こう答えた。「はじめはまじめに読んでいたんだよ。
ところで途中で、議場で聞いている者は誰も日本語がわからないとおもうと、つまらなくなった。それでとばしてやったのさ」
このように吉田は、こうした大きな国際会議でも人をくったようなところがあった。
こうして、1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコで対日講和条約がむすばれた。

*講和条約
国内は全面講和か単独講和かで2つにわかれた。ソ連はサンフランシスコにはやってきたが、
会議に参加させるべき重要な国々が抜けているといって、ひきあげた。
166日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:14:58
講和条約の第6条は日米安全保障条約(安保)の締結をうたっていた。このため、講和条約の調印と同時に、吉田は日米安保条約にも調印した。
日米安保条約は日本の領土内で日本、あるいはアメリカのどちらかが攻撃されたときには、お互いに軍事的に助け合うという軍事同盟条約である。
これによって日本は軍備を最小限にしてアメリカに守ってもらい、経済復興に力を入れることができた。
しかし、そのかわりに、アメリカの世界戦略と無関係ではなくなり、アメリカと他国との戦争に日本がまきこまれるおそれもうまれた。
講和条約によって、1952年(昭和27年)4月28日、日本は独立することになった。

写真:演説する吉田全権 対日講和条約が調印されたあと、吉田全権は受諾演説をした。
写真:吉田全権の演説原稿 (ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが國民に恒久的な制限を課することもなく
日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として國際社会へ迎えるものであります……)
写真:終戦直後の東京 空襲によりみるかげもない都心。G・フェレース/U・Sアーツ提供
167日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:15:18
独立後の日本
1954年(昭和29年)12月、吉田内閣が内閣不信任決議案をのりきれないとみて総辞職した。
かわって公職追放を解除された日本民主党総裁の鳩山一郎内閣が成立した。
独立後まもない日本では、北富士演習場すわりこみ闘争とか砂川基地闘争とかのアメリカ軍の演習や基地に対する反対運動がおこった。
このようななかで鳩山内閣は日ソ国交回復をはかり、国際連合に加入して、アメリカ一辺倒だった吉田時代とはちがった政治をめざした。
政治は安定しつつあった。1955年(昭和30年)10月に日本社会党では左右の両派が統一すると、自由党と日本民主党がとが合同して
「自由民主党」結成した。ここに日本の政治はこの2大政党を軸にしてうごくことになったのである。

*自由民主党を結成
これを保守合同といった。日本社会党の左派と右派が合同したので、保守側も2つの政党にわかれている場合ではないとさとったのだ。
168日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:49:52
1956年(昭和31年)12月に鳩山一郎が政界引退を発表して辞職すると、はげしい派閥あらそいのすえに
石橋湛山(たんざん)が首相となった。しかし、わずか2か月で石橋が病気となると、東条英機内閣のときの商工大臣だった岸信介(しんすけorのぶすけ)が首相の座についた。
このころ日本経済は復興の波にのり「経済白書」は「もはや戦後ではない」と書いた。
テレビ・冷蔵庫・電気洗濯機が「三種の神器」ともてはやされ、家電ブームがおこった。
日本は経済大国への道をあゆみだそうとしていた。そうした経済の自信にうらづけられ、自由民主党の一部は憲法改正をもとめるようになった。
その根拠は「新憲法は占領軍のおしつけであるから、日本独自の憲法をもたねばならない」というのである。
1960年(昭和35年)には日米安全保障条約(安保)の期限がきれることになっており、打ち切りか継続かを日本政府が決めることになった。
岸首相は継続することにきめたため、はげしい安保改定反対運動がおこった。
1960年1月、日本はワシントンで日米安保保障条約改定条約に調印し、国会の批准(承認の手続き)を待つことになった。
自由民主党は国会の内外の反対をおしきり、強行採決をしてこの条約を発効させた。しかし、岸内閣はその責任を取るほかなくなって総辞職した。
169日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:50:23
繁栄の時代から新時代へ
岸退陣のあとを受けて首相になった池田隼人(はやと)は「所得倍増論」(収入を2倍にしようという考え)をかかげ、
経済発展を重視する政策をとった。これをきっかけに日本は高度経済成長の時代をむかえた。
この日本の繁栄を世界に示したのが、1964年(昭和39年)におこなわれた「東京オリンピック」であり、
1970年(昭和45年)大阪でひらかれた「日本万国博覧会」であった。
だがいっぽう、工場から出る廃水や排煙は海や川の水と空気をよごし、公害問題をひきおこした。
この間、佐藤栄作内閣時代の1971年(昭和46年)にアメリカの統治下にあった沖縄の返還が決定され、
田中角栄内閣時代の1972年(昭和47年)には、中華人民共和国とのあいだで日中国交回復のための声明がだされた。
しかし、1971年8月に、アメリカの経済不況からおこったドル・ショック、ついで1973年(昭和48年)10月に
中東戦争をきっかけとしておこった石油ショックなどによって日本も世界的な低成長の波をうけることになった。
そうしたなかにあっても、日本は経済力のつよい国として、世界じゅうの注目をあびている。また、ながい歴史によってつちかわれた
すぐれた文化をもつ国としても、大きな興味をもたれるようになってきた。
さらによりよい日本は、きみたち一人一人の努力によってつくりあげていかなければならない。[完]

*東京オリンピック
この大会で戦後の日本が世界にみとめられたという満足感もあった。金メダルは16個で、
アメリカ、ソ連についで3位。オリンピックのテレビ世界中継の最初でもある。
写真:超高層ビル 東京霞が関ビルが1968年にたてられてから東京新宿副都心にも数多くの超高層ビルが建設された。
写真:東京オリンピック 1964年に開催され、参加国は93か国、選手5541人。当時、史上最大の大会といわれた。
写真:日本万国博覧会 1970年、大阪で開かれた万国博覧会は経済大国の名を世界にひろめた。
写真:田中首相歓迎夕食会 日中共同声明調印後にひらかれた夕食会。
写真:沖縄復帰記念式典 天皇・皇后両陛下ご出席のもとでひらかれた。
170日本@名無史さん:2005/07/10(日) 16:07:57
>>102 の訂正。
おくれて進攻した今村均(ひとし)中将の第一六軍は1942年(昭和17年)3月8日にオランダ領東インド(インドネシア)を、
飯田祥二郎(しょうじろう)中将の第一五軍は5月15日までにビルマを占領した。
全体を通じて、大本営が予想していたよりも、日本軍の損害は少なく、また作戦を終えるのが早かった。
これは日本軍に「連合軍なんてたいしたことはない」とあまくみる原因となり、日本軍が敗れる原因の一つとなるのである。
171日本@名無史さん:2005/07/25(月) 12:52:32
保守
172日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:33:36
<歴史図解コーナー>
太平洋戦争の戦線
1941年12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争がはじまった。そして半年後には、中部太平洋から東南アジア、ビルマにかけての広い地域を占領したが、やがてアメリカ軍を中心とした連合軍におされ、日本の勢力範囲は、せばめられていった。

地図:1941年11月の日本の勢力範囲
都市東京。サハリン島南部。硫黄島。沖縄島。台湾。
中国大陸(主に東北地方や華中・華南地方と沿岸部):都市大連(ターリエン)。都市北京(ペキン)。都市青島(チンタオ)。都市南京(ナンキン)。都市上海(シャンハイ)。都市マカオ。都市広東(カントン)。都市香港(ホンコン)。
インドシナ:都市ハノイ。都市サイゴン。
太平洋の島々:マリアナ諸島。パラオ諸島。マーシャル諸島。トラック島。
173日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:34:51
日本の最大勢力範囲(1942年夏)
アリューシャン列島:アッツ島、キスカ島まで。
ビルマ:都市インパール。
マレー半島:シンガポール。
フィリピン:都市マニラ(ルソン島)。レイテ島にミンダナオ島。
東インド列島(正式名ではない):都市パレンバン(スマトラ島)。都市バタビア(ジャカルタ)。
都市スラバヤ(ともにジャワ島)。都市ブルネイ。都市タラカン(ともにボルネオ島)。
都市メナド。都市マカッサル(ともにセレベス島)。モルッカ諸島。アンボン島。チモール島。
都市ホーランジア。都市ポートモレスビー(ともにニューギニア島)。都市ラバウル(ニューブリテン島)。
太平洋の島々:ギルバート諸島。ガダルカナル島。ソロモン諸島。

インド:都市カルカッタ。ウェーキ島(占領できず)。ミッドウェー諸島。ハワイ諸島。オーストラリア:都市ポートダーウィン。

写真:真珠湾攻撃 アメリカ艦隊は大損害を出した。
写真:硫黄島の戦闘 1945年2月、硫黄島に上陸したアメリカ軍は、日本軍のかたい守備陣地に苦戦し、多数の死傷者を出した。中央が摺鉢山。
イラスト:少女「戦争がひろがったわ。」
174日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:35:50
太平洋戦争の日本軍
日本軍は、陸軍と海軍からなり、それぞれが航空戦力をもっていた。すぐれた兵器もあったが、資材と生産力の不足になやまされた。

イラスト:陸軍の軍装 前と横から。歩兵銃や防毒マスク、鉄帽など、全部で約20種類も身につけた。
海軍水兵の軍装 白い服装(左)は夏用、紺色の服装(右)は冬用。
三八式歩兵銃 明治38年から使われた主力小銃。命中率がよかった。
九七式中戦車 ほかに、数種類の戦車があったが、火力や防御力がおとった。
戦艦大和 世界最大で最強をほこった戦艦。1945年4月に沈没。同型艦に武蔵もあった。
陸軍の階級章 飢えから、大将・中将・少将・大佐・中佐・少佐・大尉・中尉・少尉・准尉・曹長・伍長・兵長・上等兵・一等兵・二等兵。

●ゼロ戦 太平洋戦争中の日本の軍用機の中で、もっともよく知られ、もっとも多くつくられた。性能もよく、一時は世界無敵の戦闘機としてかつやくした。

イラスト:ゼロ戦(零式艦上戦闘機・32型)
前から。エンジン 最高速度は時速約530キロ。
7.7ミリ機銃の銃口/7.7ミリ機銃 胴体の中に2つある。
操縦席 真ん中の操縦桿を中心に数多くの計器類がならんでいる。
20ミリ機関砲 右翼(みぎよく)にもある。
車輪 おりたたんでしまうことができる。
ピトー管 スピードをはかる。
燃料タンク 両方の翼と胴体の中にあり、約2300キロを飛ぶことができる。

●米軍の航空戦力 工業のすすんだアメリカは、つぎつぎとすぐれた軍用機を生産した。

イラスト:P51戦闘機 太平洋戦争で最強の名機といわれた。
イラスト:B25 第2次世界大戦中の代表的な中型爆撃機。
175日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:36:50
日本本土大空襲
1944年、アメリカ軍はサイパン島を占領し、その年末から、ここを基地として爆撃機が連日のように日本各地に爆弾の雨を降らせた。工業・農業生産力は、大きく低下し、国民生活も急速に悪化していった。

空襲による各県の被害
亡くなった人・けがをした人(民間人)の合計をあらわす。
()内は空襲以外の艦砲射撃などによる被害。
北海道・875(564)人。青森・1821人。秋田・82人。岩手・184(1178)人。山形・53人。宮城・3188人。福島・1232(29)人。
栃木・1724人。群馬・2647人。茨城・5472(404)人。千葉・3634(36)人。埼玉・1676人。東京・216988人。神奈川・22839人。
新潟・1660人。長野・70(8)人。山梨・2112人。富山・5975人。石川・0(60)人。福井・3679人。岐阜・2471人。静岡・15812(489)人。愛知・27120人。
三重・7349人。滋賀・187人。京都・381人。奈良・190人。和歌山・7037(29)人。大阪39436人。
兵庫・32865人。鳥取・24(11)人。島根・0(441)人。岡山・3033人。広島・147207(うち原爆によるもの129558人)。山口・6585(22)人。
香川・2147人。徳島・2238(3)人。愛媛・3565人。高知・1745人。
福岡・9634人。大分・1087人。佐賀・417人。長崎・69298(うち原爆によるもの66673人)。熊本・2039(8)人。宮崎・1267人。鹿児島・5986人。
沖縄・94000人。

※防衛庁資料による。沖縄は、戦闘参加者と一般県民の戦没者の合計(沖縄県調べ)。
176日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:42:31

写真:空襲によって焼け野原になった大阪
イラスト:国民服 一般の人も、兵士とおなじ気持ちで生活し、苦しさにたえてがんばった。

●原子爆弾 1945年8月6日に広島、9日に長崎におとされた原子爆弾は、あ
っという間に10万以上の生命をうばった。
また、町並みも破壊されて、両市の市街地は焼け野原になってしまったのである。写真:原子爆弾による被害(長崎市)

イラスト:少年「戦争はいやだなあ。」









177日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:43:10
コンピュータの発達
計算する機械から、かんがえる機械へ──。第二次世界大戦後の科学技術の進歩はめざましく、つぎつぎとすぐれた性能のコンピュータをうみだしてきた。
コンピュータの発達は、限りなくすすむ。

第一世代
もっとも初期の実用的なコンピュータは、1946年から1950年代にかけてのもの。真空管をつかい、機器本体も大きかった。
写真:初期のコンピュータにつかわれた真空管
写真:1950年代のコンピュータ 真空管がたくさんつかわれている

第二世代
初期の真空管の約200倍の能力をもつトランジスタは、1960年ごろからコンピュータに応用された。価格も下がり、急速にふえはじめた。
写真:トランジスタを使ったコンピュータ
写真:トランジスタ 1947年に発明された。
178日本@名無史さん:2005/07/26(火) 16:44:31
第三世代
1960年代後半、トランジスタをあつめ小型化したICの登場で、機器本体が小型化し量産もできるようになった。
写真:ICをつかったコンピュータ
写真:IC 約1.25センチ四方。
*IC 集積回路といい、1個が最大でトランジスタ1000個分にあたる能力をもつ。

第四世代
ICがさらに発展したLSIの登場で、コンピュータはいっそう身近になった。
30年前にくらべ、おなじ性能をもつ機器の価格は、約20分の1になっている。
写真:今日(こんにち)の代表的なコンピュータ(80年代中盤)
写真:LSI 手のひらほどのこのLSI1個で、1960年代のコンピュータ1台分の仕事ができる。
*LSI 大規模集積回路といい、1個が最大でトランジスタ1000個分にあたる能力をもつ。

●これからどうなる?
これからのコンピュータは、機器自体にある程度の判断力が備わったものになるであろう。そして、より身近になり各家庭にも置かれるようになってくるものとおもわれる。(第五世代)
イラスト:将来の家庭 家族一人一人がコンピュータを操作する。
179本当は巻頭に書いてあった:2005/07/26(火) 16:47:21
<この巻の時代のあらまし>
・満州事変と日中戦争
第一次世界大戦後、日本をおそった不景気は、昭和に入ってもなおつづいていました。
そこに、アメリカ合衆国で始まった世界的な大不景気の波が押し寄せ、日本の経済は完全にゆきづまってしまいました。
都市では工場が倒産し、失業者が大量に出ました。また、生糸の輸出が振るわず、まゆや米の値段が下がるなど農家の人々の生活も苦しく、
学校へ弁当をもっていけない子どもも多く見られるようになりました。
こうした世のなかで、力を伸ばしてきたのは、財閥(大資本家のグループ)とそれと結びついた政党でした。
そして、自分たちの利益だけをはかり、国民の利益をあまりかんがえようとしなかったので、ますます不景気からの脱出はむずかしくなってきました。
社会がゆきづまると、政治家や軍人の中には、中国に勢力をひろげ、ゆきづまりを切り開くほかはないと主張する人が増えてきました。
そして、日本の軍部は、1931年に満州事変をおこし、翌年には満州国をつくらせて、日本が実際の支配を進めました。
中国はそれを、日本の侵略だと国際連盟に訴えて非難しました。
そして、日本と中国との対立は、1937年に日中戦争(日華事変)を引き起こすまでになり、戦火は中国全土にひろがりました。

写真:凶作におそわれた昭和初期の農村のようす
180本当は巻頭に書いてあった:2005/07/26(火) 16:49:19
・太平洋戦争と日本の敗戦
中国への侵略を警戒していたアメリカ合衆国やイギリスとも日本は対立し、1941年12月、ついに太平洋戦争を開始しました。
そのころヨーロッパでは、ドイツとイタリアが手をむすび、イギリス・フランス・ソビエト連邦と戦争をはじめていました。
そこに日本とアメリカ合衆国が加わり、第二次世界大戦といわれる大戦争となったのです。
はじめのうちは、勢いの強かった日本軍もしだいに後退し、ついには本土の空襲、沖縄の占領、広島・長崎への原爆の投下、
ソビエト連邦の参戦となって、1945年(昭和20年)8月15日、日本は降伏をすることになったのです。
明治以来つづいた国力を強める願いは、結局戦争の渦の中で、日本の敗北に終わりました。
これをきっかけに、国民が政治にしっかりと参加する仕組みをもたなかったからだと、反省する動きが強まってきました。
日本は、この降伏を機会に、民主主義の政治と社会を求めて、新しい歩みを始めようとかたく決意し、戦火で焼かれた国土の中から立ち上がったのです。

写真:降伏文書の調印 署名をしているのは重光葵(しげみつあおい)外務大臣。左はマッカーサー元帥。(俺の補足:たしか戦艦ミズーリの艦上だった)
181本当は巻頭に書いてあった:2005/07/26(火) 16:51:54
・戦後の民主主義への歩み
ながい歴史の中で、はじめて外国に占領された日本は、世界の新しい動きの中で民主主義への歩みを始めました。
軍隊の解散、婦人参政権、労働組合をつくる権利、財閥解体、農地改革・・・など、やつぎばやに民主化への改革が進められていきました。
この改革を効果的に進めるには、民主主義を基本にした憲法が必要です。連合国軍の要求もあって、日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、
翌年5月3日施行されました。こうして日本は民主主義の土台をつくり、その改革に力強く歩み始めたのです。

写真:満員列車で食料の買い出しにでかける人たち(写真を見た俺の補足:SLのC57125の先頭にも人が8人大人と子供も座っている)
182本当は巻頭に書いてあった:2005/07/26(火) 16:58:12
・めざましい産業の発展
ないないづくしの戦後の生活は、お米の配給が二週間もない、弁当がないので勉強ができないなど、苦しいものでした。
そこで政府は、産業の発達に重点をおく政策を進め、鉱業・工業などの発展に力をつくしました。
電力・鉄鋼・機械・石油化学などの重工業の発達はめざましいものがありました。
東京オリンピックの開催、東海道新幹線の開通、電化された家庭生活、自動車の普及などはすべて産業の発達に重きをおいた政策の結果です。
しかし反面、自然の破壊や公害をおこし問題となりました。
その反省に立って、産業重点から人間優先の考え方をすすめ、さらに豊かな世の中をつくっていこう、という動きが高まっています。

写真:石油をはこぶマンモス・タンカー
183本当は巻頭に書いてあった:2005/07/26(火) 16:59:45
・国際社会へのなかまいり
1951年のサンフランシスコ講和会議において、日本は48カ国と平和条約をむすびました。
さらに1956年には国際連合に加入が許され、独立国として世界の仲間入りをし、平和を守ることを世界の国々に約束しました。
日本は、独立を回復してからアメリカ合衆国と協力してきましたが、アメリカ合衆国とこれに対立するソビエト連邦は、それぞれ
新しい核兵器を開発し、軍備を強化する競争をつづけています。
 日本は、世界でただひとつの被爆国として核戦争のおそろしさをうったえ、平和を守る努力をつづけることが大切です。
また、すぐれた工業技術と経済力をもって世界の国々に役立てることも、これからの日本の大きな役割です。

前節と本文の間に写真二枚
写真:山本五十六 アメリカと戦えば日本は負けると知りながらも、連合艦隊司令長官として、戦争の指揮にあたった。
写真:攻撃された戦艦 炎上し、しずんでいくウェストバージニア。ひっしの消火活動がつづく。
184日本@名無史さん:2005/07/26(火) 17:24:06
>>111-118 に関連しているか気になることを見た

余談だが新日曜美術館「清水登之・戦争にほんろうされた画家」.
で彼の最愛の息子(育夫・ニューヨークで生まれたかららしい)が戦艦金剛に載ってて
1944年6月(1945年だったかな)に台湾沖で撃沈されて戦死したらしい

そして朝まで生激論で言ってた話だが
戦艦比叡は天皇搭乗艦(なんていうか忘れた)でソロモン海戦で沈没?
「転進」(ガダルカナル撤退)決定は1942年(12・31)の御前会議?(これについてはスタジオで反論も)
185日本@名無史さん:2005/08/06(土) 02:48:04
186日本@名無史さん:2005/08/06(土) 03:19:28
うおっ2人目の来客
歓迎しまつ

>>185
読むよ ノシ
187日本@名無史さん:2005/08/06(土) 06:37:15
それと、この本未整理な戦場わざと避けてるね。

(内地の様子やノモンハン、インパール、石井部隊(731部隊)、フィリピンの戦争後期や南京や満州など中国での戦線、
(国民党・共産党の八路軍・汪兆明の傀儡政府など入り乱れててページ数足りなかったかも知れんが))

日本軍が民間船に偽装して敵に攻撃してたって言うのも聞くし、そういうのにアメリカ側が過剰反応したってのもあるのか?

当然天皇の統帥権とかも議論されるべきだしこれからの課題ってことか
188日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:59:02
>>175
> 空襲による各県の被害
> 亡くなった人・けがをした人(民間人)の合計をあらわす。

> 埼玉・1676人。

これ、ほとんどが熊谷空襲(1945.8.14夜〜15未明)の死傷者なんだろうな・・・。
もし戦争が24時間早く終わっていたら、このほとんどが死傷せずに済んだ。
189日本@名無史さん:2005/08/15(月) 09:36:20
1、選挙権付与(ふよ)による日本婦人の解放・・
2、労働組合の結成奨励(しょうれい)・・
3、より自由なる教育を行うための諸学校の開設・・
4、秘密検察およびその濫用(らんよう)により国民を不断の
  恐怖に曝(さら)し来りたるがごとき諸制度の廃止・・
5、所得ならびに生産および商業上の諸手段の所有の普遍的分
  配を齎(もたら)すがごとき方法の発達により、独占的産業
  支配が改善せらるよう、日本の経済機構を民主主義化すること。

マッカーサーの5大改革
「恐怖諸制度の廃止」云々はここにはないな
190日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:06:40
山崎晃嗣、アプレゲールに関心がある方おられますか?
191日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:17:23
あの ‥
192日本@名無史さん:2005/08/16(火) 20:23:00
>>190-191
とりあえずしんでくれ。もうくるなカス
193日本@名無史さん:2005/08/17(水) 07:35:47
うっせ
194日本@名無史さん:2005/08/17(水) 13:23:52
>>188
とりあえずしんでくれ。もうくるなカス
195日本@名無史さん:2005/08/27(土) 22:17:49
あれてるな・・
「恐怖諸制度の廃止」言ってたのはテレ朝だけだった
この前のフジのNONFIX「ナトコ映画の回」では5台改革には入れてなかった
駅前に特高警察がいたとかだろうか

NONFIXでは農村の女性の地位が異常に戦前は低かった言ってた
死ぬ直前に一生に一度医者にかかる(金かかるから普段は呼べない)とか
まじない師を呼んでたとか。
かまどの煙で目を傷めるとか腰を常に曲げてたので老人になると腰が曲がるとか
あとは地方の地域新聞について少しだけやってた
196日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:26:43
+ ;
* ☆_+
: , xヾ:、__,..-‐‐:、、,へ.........._
         く '´::::::::::::::::ヽ
          /0:::::::::::::::::::::::',
       =  {o:::::::::( 'ー`) ::}  <まて まて〜!
         ':,:::::::::::つ:::::::つ
      =   ヽ、__;;;;::/
           し"~(__)
197日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:29:15
+ ;
* ☆_+
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         く '´::::::::::::::::ヽ
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         ':,:::::::::::つ:::::::つ
      =   ヽ、__;;;;::/
           し"~(__)
198日本@名無史さん:2005/09/20(火) 23:52:20
今日は朝起きて学校に行くか迷った。もうどーでもええわって思ったけどまだ試験残ってるから気力を振り絞って登校した。しかし学校について一時間目から模試だと聞いてやる気なくした。試験中に本屋にエスケープして紙プロを読んで勃起した。午後の授業は爆睡。

もういやだ。もうだめだ。さっさと試験終わってくれ。
こういう時間が一番いやなんだ。こういう人生が一番いやなんだ。
その辺の能無しヤンキーと一緒だ。まるでなっちゃない。体という資本を無駄に消費してる。
嫌なら自分で立ち直れと簡単にゆうてくれるな。一度気持ちがきれたら修復するのは至難の業だ。てかあと5日で終わりだから今さら気持ちを高めるつもりもない。
でも試験が終わらないと次の目標やらを見つける気にも、全力で遊ぶ気にもなれない。
なんとも中途半端だ。もどかしい。
ほんの数ヶ月前までは毎日研ぎ澄まされていて充実していたのに。いや、充実しすぎていたからこそ今の反動があるのだろう。

あと少し、あと少しの辛抱だ。耐え忍べ、俺。
199日本@名無史さん:2005/09/21(水) 22:04:51
松本清張の昭和史発掘
200日本@名無史さん
       祝! 200get

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