【聖人君子】 平宗盛 名君伝説   

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1日本@名無史さん
この前、平宗盛が傷ついた小鳥を助けているのを見たよ。
             (現代語訳・栃木県に伝わる民話より)
2日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:35:12
雑魚
3日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:35:35
2

4日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:04:17
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5日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:09:29
名馬「木下」強奪
源頼政の嫡男・仲綱の所有する名馬「木下(このした)」を欲しがり、
地位と権勢にものをいわせて強引に借り受けると二度と返さず、
その馬の名前を「仲綱」と改め、馬の尻に「仲綱」の焼印までして社交の馬に率いてゆき、
源仲綱に屈辱を味あわせる。その恨みがのちの源頼政の挙兵の一因とされる。
6日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:10:38
源競による名馬報復
源頼政が挙兵すると、その配下にいた渡辺党の武者で武勇の誉れ高い源競(みなもとの・きそう)は、
愛馬を奪われた仲綱の恨みを晴らすため、偽って宗盛に寝返り、源競を気に入った宗盛より名馬を譲り受ける。
既に自分の名馬を持っているのにまた他人の名馬(仲綱の「木下」)を欲しがる宗盛を軽蔑した源競は、
その名馬で再び頼政の陣に戻り、その馬の尻に「宗盛」の焼印をして平家方に突き返す。
激怒した宗盛は自らの手で源競を八つ裂きにするため、配下の武者たちに源競を殺さずに捕えるよう命じるが、
源競は獅子奮迅の活躍のうえ壮絶に斬り死に、平家方の武者たちにまで賞賛される。
翻って宗盛の狭量さは同じ平家方の武者たちからも軽蔑される。
7日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:11:34
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いにおいて、平氏の大敗が決定的になり、一門が次々と入水していく中、棟梁である宗盛は逃げ回るばかりであった。
それを見た諸将はあまりのみっともなさに嫌気が差し、ついには宗盛を捕まえて、無理やり海に突き落とした。
しかし、泳ぎの名手であった宗盛は、源氏の兵に助けられた。
8日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:12:08
頼朝との面会
頼朝と面会した宗盛は、命惜しさのために、頼朝に対し媚びへつらい、それを見た源氏の諸将は宗盛をあざ笑う。
頼朝は、宗盛の名を平末国と改名させた。
9日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:12:34
徳子との関係
妹である建礼門院徳子と通じており、安徳天皇は、徳子と宗盛との間にできた子であると言われた。
10日本@名無史さん:2005/06/06(月) 23:14:37
時子との関係
壇ノ浦の戦いにおいて、醜態をさらす息子を見た時子は、宗盛は清盛と自分の子ではないと言った。
清盛との間にできた子が女子であったため、男子を望んでいた清盛のことを考え、京の傘売りの子と実子を取り替えたのだという。
真偽の程は定かではないが、平家敗戦後に宗盛は自らこの説を認め、平家の血筋でないことを理由に命乞いをしたとされる。
11日本@名無史さん:2005/06/21(火) 15:39:00
he-
12日本@名無史さん:2005/07/15(金) 04:04:51
あげ
13日本@名無史さん
おもろい。 あげ