>>928 秀吉、家康は前任者を引き継いだだけ。
信長も「なしくずし的」な要素が強い。
上洛した後、本来滅ぼす気もなかった勢力(友好勢力含む)が
次々と刃向かってきたからそれを滅ぼしてるうちに
巨大勢力になっただけ。
織田は尾張守護代の家臣筋の傍系でしかなかったので、その成り上がりぶりゆえ
上洛するとあちこちから反対勢力が出たが
逆に言えば武田は名家すぎるし、往来から将軍家や一向衆とも仲が良すぎたので、
上洛してもうまくはやってくだろうけど、
滅ぼす勢力も少なく、他勢力との協調を主とした小さな権力に留まると思われ。
そういや信長は朝倉ですら当初は友好的に対処しようとしてたな。
935 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 10:47:37
勝頼には武田信玄がやったように信長包囲網を作る才覚はなかったのだろうか。
たとえば、上杉・武田・北条同盟をつくり、中国の毛利、四国の長曾我部と組む。
そして同時期に、信長を攻めるとかの。
外交的な策を信玄は教えていなかったのだろうか、、、、
第一次信長包囲網は信玄が案出したというか、
足利義昭の策だが。
それに利害が一致した勢力が参加しただけ。
ただ信玄は本願寺と婚姻関係があったのが大きかった。
それと勝頼そんな政治手腕や信頼なかったし、
そもそも織田が強大になりすぎてた。
せめて上杉謙信が長生きしてればね。
937 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 11:15:01
信玄の対外政策はチグハグで有名だしね。
信長包囲網もたまたま都合が良いので参加しただけ。
信玄がまとめあけだわけではない。
若い時からあんなデタラメで行き当たりばったりなな対外政策してて、
信長包囲網の主力になれたのは幸運というのもあるが、その強大な力を見込まれてだけどね。
信玄のピンチの一つに相越同盟締結があるね。
甲相駿三国同盟を破棄し今川を攻めたためにこうなった。
あの時は家臣も動揺したらしい。
しかし信玄はそのピンチを積極的に打って出る形で切り抜けた。
勝頼はむしろそういう信玄の姿勢を見習って破滅したのかも。
あの時とは状況が違うって・・・
はっきりいえば「包囲網」を作った人物なんていない。
結果的にみてそうなってるだけ。
>>939 でも一番の立て役者があちこちの大名に信長打倒の
書状を送りつけた義昭なんだよな。
941 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 21:29:57
領土も増やせず家名も潰した。雑魚だな。
領土は増えたじゃん、すぐ減ったけど。
943 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 11:13:40
しかし、信長を誘い出して、合戦で討ち取っていればなんとかなったかもね。
例 毛利元就、たしか敵の中心人物、陶 晴賢を合戦で討ち取ったら、
あとは総崩れして、大きな領土が一度に手に入ってない?
合戦では信長の討ち取りは不可能。
秀吉がそんなことを言ってなかったかな。
945 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 23:00:21
従う家来がいないなら武将やってられねぇよな
946 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 08:34:45
>>943 それが出来れば苦労しない。
それと多分、それをやろうとしたのが長篠だが、
結果は・・・
数年かけて大内義長らを責めて周防・長門を攻略してるね。
中心人物を倒せば領土が手に入るってのは「信長の野望」の、しかも最初のバージョンだけだと思うが。
仮に信長を討ち取ったとしても、後継者信忠や秀吉、柴田、丹羽、明智、池田、前田その他の家臣や従属勢力いるので、
武田が一気に肥大化するなんてありえない。少しくらいは領地を掠め取る程度だろ。
むしろ秀吉あたりが天下を取るのが早まるかも。
それと中心人物を倒しても領地が手に入らなかった例としては、桶狭間とか沖田畷があるが。
949 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 10:19:21
状況にもよるだろうね。謀略で家臣同士の内乱とか、起これば話は簡単かも。
ま勝頼には、毛利元就みたいな、ねちっこい謀略の才能はなかったみたい。
950 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:25:07
>>944 秀吉が天下を取る(取った?)時の話し、(信長の戦ぶり、仕様を振り返って家臣に対し・・・)
「仮に信長様と蒲生氏郷殿(信長の娘婿)が戦ったとする・・・
わしならどちらに付くか・・・、
わしなら信長様に付く。何故ならいざという時、氏郷殿と戦になった場合には
主だった武将5人も討ち取ればその中には必ず氏郷殿の首があるだろう、
だが、信長様相手の戦の場合、
何人武将を討ち取ろうが首は決してその中から見つかる事は無いだろう」
−的な話を何かで読んだ事がある・・・。その事かなあ・・・?
(信長がいかに慎重で用心深かったかの例え話として記憶している・・・
まあ、結果的には本能寺であんな風になっちゃたけどね・・・)
951 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 15:13:18
>>949 そうそう。仮に信長が死んでも、
勝頼に信長領を巧みに併合していくような政略・智略は彼にはない。
毛利元就ですら、大内領併合に苦心している。
あれは彼の才覚あっての話しだろうね。
あと「話は簡単かも」なんて言ってるがそれもない。
実際、本能寺後に織田が分裂した後も羽柴、柴田など武田の手に余りそうな勢力に分裂しただけだし。
>>950 いや。
実際、本能寺でも、
主だった大将をことごとく討ち取った中に、
信長の首は入ってなかったでしょうが。
晋でも首は残さないってだけじゃ、
いささか意味がないけどね。
953 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 10:37:35
武田勝頼、どう見ても情報戦がおかしい気がする。
長篠の戦だって、相手の陣地の構造くらい、
ちょっと間者を使えば解るのでは。
ま、ちょっと考え方を間違えたのかも。
長篠の戦では、織田信長軍に一戦、ある程度の損害を与えて恐れさせ、退く。
と大決戦とする気はなかったのかも、、、、、、
それがずるずると、、、、となったのかな?
>>950 それそれ。
信長の慎重さを言ったのではなく、秀吉は恐らく金ヶ崎の退却を念頭においた
発言で、信長の見切りの速さ(逃げ足の速さ)を言ったんだと思う。
だから、信玄があのまま西上して尾張辺りで信長と決戦して勝ったとしても、
(私見では勝てたとは思っていないが)信長の討ち漏らし確実。
信長と家康を生かしたまま入京は不可能。美濃入りも難しそう。
早々と甲斐に戻るしかなっかたと思う。
955 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 10:38:00
ただひとりの逃亡、、、、それも時と場合によりけり、
ここぞという決戦で全軍を捨てて逃げたとかなったら、
部下たちの不信、不忠は確実。
あいてが信玄なら、そのことで大宣伝確実。信用失墜。
もともと寄せ集め、傭兵の織田は、大軍でもすぐ崩壊するかもしれない。
あの武田信玄西上のときは、どうでも逃げずに大決戦するしかなかったのでは?
>>954 岩村あたりをすんなり奪還できなかった史実からみて
ガチ決戦してたら信長は正直負けたかもしれない…。
信玄が死んでくれてやっとこさ奪還できたっぽい感じもある。
>>955 曲解。金ヶ崎と同じように信長が行動するとは書いてない。
『信長は見切りが早い人、と秀吉は評価してる。その秀吉の評価の
判断資料となっている一つが金ヶ崎である』というのが私の考え。
そして、『信長は見切りが早い人ということを前提にするなら、
もし信玄と決戦して、もし信玄が勝ったとした場合に、信長は討たれるような
事態になるまで戦場にいることはない。
故に
>>943の言うような信長の討ち取りは不可能』と私は考える。
>>956 決戦の有無およびその勝敗についてはさまざま意見のあるところですが、
ここではご勘弁。
958 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:07:52
名家、諏訪家の血をつぐ勝頼だもの…。決してザコなんかじゃない!しかし新武城建設は無駄だった。
959 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:59:12
信長が逃げおおせたとしても、、、、、
そのあとにどれくらい軍を集められるかで決まるわけで、、、、
野外決戦で負けた場合、あとは篭城になると思えるわけで、、、
すると将軍足利義昭、浅井、朝倉、本願寺が健在だから、、、
ほとんど、尾張と美濃以外は守れないだろうと、、、、
もともと寄せ集めの傭兵部隊だし、、、
妄想通りに行けば西上も可能でしょう
巣にカエレ
961 :
大納言:2005/10/08(土) 17:17:25
本格的な信濃経営に着手した武田晴信にとって彼の誕生は極めて重要な意味を持つものであった事は住人の皆さんも御承知のことだと思います。
しかし『武田の家名存続(武田の後継者)』という視点から見た場合、勝頼の存在価値はその重要性が期待されていなかったものと思われてなりません。
その理由として『勝頼』という名の命名を挙げておきます。
当時の命名は『偏諱(へんき)』といって“一字授け”の習慣がありました。これは政治的意味合いが強いもので、元服の際に烏帽子親の名前の一字を貰い受けていました。又、『先か後か』で優劣を付けていました。
(例)武田晴信の嫡男の場合
晴信の『信』の字を与え→義信。※足利将軍・義輝より偏諱を賜った為に“義”の漢字が先に来ています。
信玄は七人の男子をもうけましたが、“信”の字を与えていないのは勝頼だけで、元服当初は『武田の者』という考えではなく、あくまで諏訪氏の跡取りとして考えていた事は命名された名前からも察する事ができます。
又、『武田が勝ち+頼重は負け』=『諏訪氏は武田の所有物』という思いから“頼”の前に“勝”の字が来ているようにも思えてくるのです。
「大納言の強引な“こじつけ”だ」とのお叱りがあろうかと思いますが『偏諱と政治』を同一化してみると、どうしても上記の考えに至りました。
※勝頼滅亡と直接の因果関係が無いですが、論点を戻す意味を込めて書き込みしました。m(__)m
穴山梅雪マンセー
>>961 いや、俺は十分面白いと思った。参考にもなる。
古い風習やしきたりを重んじる武田ならその推測は間違っていないような気がする。
>>961 それ、既出といえば既出ですよ。
信玄は勝頼を諏訪から甲府に迎える前年の元亀元年(1570年)、将軍義昭に
勝頼の官途と御一字をもとめていますが叶っていません。
スレ違いかも知れんが、武田信玄よりも毛利元就のほうが
力量が上だと思うの俺だけ?
そう思ってないのは信玄厨のみ。漏れも元就のが上だと思う
967 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 09:59:34
長篠の戦は、信玄の旧家臣団が、諏訪勢力を重んじる武田勝頼にわざと失敗させて、
このあと自分たちの言うことを、政治軍事に聞かせようと
わざと前線の情報を与えなかった。
しかし、武田勝頼が引かず、さらに織田の攻勢が激しかったので
思った以上の損害になった、、、
という推理は?
968 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:32:39
当たっているかも?
971 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:25:23
何しろ長男武田義信に信玄は謀叛の疑いをかけて消しているからな。
信玄の死後、そのことがぶりかえされていても不思議ではない。
972 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:46:48
義信の失脚?の黒幕が諏訪系のヤツらだったんで
勝頼と仲が悪くなった、なんて説もある。
973 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 16:40:56
佐竹義重と伊達輝宗と最上義光
>>972 それは誰の唱えてる説?
外交上、人脈上含めて、義信を後継者にしたくない派というのも
あるだろうけど、それが諏訪系だという根拠は?
975 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:42:51
武田義信の妻おつねは今川家出身、、、
で、義信は信玄の駿河侵攻に反対し、反乱を企てたとして処分された
とする本を読んだんですが
真偽のほどはどうなんですか?
>>975 細かいとこスマンが、まず
義信室(離縁後剃髪して貞春)の名は伝わっていなかったと思う。
その説はわりと頻繁に紹介されてる通説の一つみたいなモノで。
真偽・・・と聞かれても義信の死の本意については謎も多いから
どれが正しいかなんてわからない。
重要な理由の一つに数えられる・・・くらいでいいと思うけど。
977 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 14:12:42
>>907確かに柳沢吉保の子孫というのが正しいからね。
後北条は丹羽・真田・奥平と同様に今は政宗の子孫だけど、明治維新まで残ったことから考えると
>>883のところではむしろ、上杉が忠臣蔵を見れば解かるようにアウトで、むしろ後北条の方が本道だな。
978 :
大納言:2005/10/14(金) 15:02:39
>>975さんの疑問ですが、ほぼ間違い無いと思われます。
しかし、外交問題における親子間の『意見の対立』という単純な見方をすると事の真意を誤ってしまうと思います。
…このクーデター未遂事件は『譜代衆の信玄に対する反目』という側面が強いからです。
義信に付いた譜代の武将達は『信虎追放事件』に関与はしていましたが、信虎追放後の発言権は功績のあった外様衆に移行しており信玄も彼等の意見を尊重していることから譜代衆の不満が溜っていったものと思われます。
上記の理由から、義信の取り巻きの者(飯部兵部、長坂源五郎、曽根周防)からすれば『義信を利用して成り上がる』可能性を期待していたであろうし、信玄の立場からすれば『自分が逆の立場(追放される側)になる危険性』がある…と各々、複雑な思惑が絡む事件だった訳です。
この事件から派生する延長線に『譜代と外様』又は『甲斐衆と信濃衆』の意見の対立があり、ひいては結束力の低下(家臣団の分裂)を招き“武田家滅亡”へと繋がって行ったものと思われます。
だから、原因の一つでいいんじゃないの。
980 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 17:21:09
武田勝頼は政治面はかなり長けていた武将ですよ。
>>978 >義信の取り巻きの者(飯部兵部、長坂源五郎、曽根周防)からすれば『義信を
>利用して成り上がる』可能性を期待していたであろうし
その三家、かたちは異なりますが結果としては家中での地位を高めていますね。
飯部兵部は弟が有名な山県昌景ですし、長坂源五郎は長坂釣閑斎(虎房)の
長男で、釣閑斎は諏訪郡代からやがて勝頼に接近しましたし、曽根周防は成敗
されましたが、子の昌世が三増峠で戦死した浅利信種の部隊を立て直して奮戦
し、駿河興国寺を与えられました(後に信長に内通したようですが…)。
もっとも滅亡に至った理由には、対立というよりも勝頼が集権化を図ったため
という事の方が有力みたいですが。