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3 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 01:02:20
まあ、マッタリと語りましょう。
まずは、3世紀初頭に発生したとされるマキムク王権は、どの程度の地域に
影響力を行使出来たのでしょうか。
北部九州はすでに、畿内王権の風下に立っていたと考えていいのでしょうか?
邪馬台国=畿内王権と考えればそうなりますよね。
4 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 02:18:23
奴国王朝→→物部王朝→→大和政権
初代倭王 倭の大乱で撃沈! 〆 近畿物部 孝霊の娘 卑弥呼参上!
〆 崇神様〜おな〜り〜
5 :
圭角:2005/05/28(土) 07:27:27
三世紀初頭、邪馬台国は畿内王権で、北部九州はその支配下だとするのは不合理。
九州説畿内説という場合の論点の相違は、その根拠となる考古学史料の差異です。
よって、纏向遺跡の纏向型前方後円墳のいわば名付け親の寺沢薫氏の当該古墳の
定義を見直してみる。氏の著の王権誕生の259頁です。
前方後円墳の起源である纏向型前方後円墳は、三世紀前半のヤマト王権の王都纏向で
誕生した。其の縮小規格のものが各地の王に、庄内式畿内系土器とともに取り入れられ
ほぼ関東から南九州にまで拡大拡散した。纏向遺跡の当該古墳の代表格の石塚、勝山
矢塚、東田大塚、ホケノ山古墳はいずれも百メートルの大規模。続く三世紀後半に
其の三倍近い大規模の箸墓古墳が造営された。
以上が、纏向王権、畿内王権、畿内説の論拠根拠ですが、九州説のみなさんは、
むろん私も含めて、過去スレにおいては、之に対する必要十分な根拠のある反論が
極めて不足していた感が有ります。なかには、あえて無視する姿勢も多く見受けられ
九州説者の私としても遺憾に存じております。
まずは、皆様の活発なご議論を期待します。PART18が3蕃さんのレスで
蓋が空いたからには、当然の筋かとも存じますので。
6 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 08:36:06
大王墳(天皇陵)と言うのは当代日本一の量子単位的なもの、それ以下のサイズは
もはや物質ではない、といった見地から見て行かなくては話がおかしくなる。大王墳(天皇陵)は箸墓において始めて成立したと言うことは日本が統一、建国されたということ。
箸墓において重要なことは農業に続く人類経済市場第二番目の発明である鐙が世界で
初めて使用されたと言うこと。これは騎馬民族であった楯築遺跡(突厥系のステラ(石柱)
を持つ中円双方墳、これは興安嶺北方からカザフスタンに分布)被葬者と関係する
吉備系が特殊器台と共に儀式に使用したのではないかと見ているんですが。
7 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 08:42:28
ちなみに記紀によればスサノオは馬を農耕に使用したり、突厥系の葬送儀礼である
馬の生皮を屋根においたりして黄泉の国(石見あたりか)に神やらいされていますが、
これは日本からは牧畜習慣を一掃すると言う声明だろうと思います。
8 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 09:03:37
スサノオというのはスサノオ神話を共有する部族と言うことで、ある時は武塔神と
言いますから、これはおそらく高句麗大武神王AD18-44年時代はこの部族は遼寧省
辺りを南下中であったのではないかと思います。
9 :
圭角:2005/05/28(土) 09:19:14
カモネギさん、おはようございます。
よろしければ、6の
天皇陵は箸墓において初めて成立した
ということは、日本が統一建国された
に関しまして、もう少し詳しくお聞かせください。
10 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 09:48:51
【調査】中国人、日本旅行の目的は「富士山」「新幹線」「温泉」…「買い物」低迷
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1117069906/ 27 :名無しさん@5周年:2005/05/26(木) 10:23:04 ID:efoVnYlF
中国人がなぜ富士山が好きかといえば、やはり徐福伝説だろう。
始皇帝の家来の徐福が富士山にあるという不老不死の薬を探せと命じられ
大船団を引き連れて日本にやってきたが、そのまま日本に定住し
現在の日本人の祖先になった。つまり日本でいう弥生文化を持ち込んだのは
中国人であると。
11 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 09:53:38
箸墓に先行するものとしては小規模な纒向の古墳がありますが、傑出したものは
ありません。パワーにおいては同等のものであったのでしょう。纒向建設は鹿児島
から関東北部、朝鮮半島にいたる土器が集結していることから、倭国の首都建設
であることには間違いありません。土器の全国標準化が布留式をもって完了する
ことによっても日本が統一されたことがわかります。箸墓は初代の天皇陵だと言う
ことがいえますね。
12 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 09:57:35
>>10 中国の方には気の毒ですが、徐福当時の日本はボルネオのようなところで
ありまして、韓国に漂着するのならともかく、日本に来たとしても土人の酋長、銅鐸
にインデアンのような絵がありますが、そういった形で裸踊りをする程度じゃなかった
のかな。王様になったとしても決して威張れるようなものではなかったでしょうね。
13 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:05:38
北部九州、吉野ヶ里に見られる甕棺、ドルメン等は朝鮮半島と共通するところが
あるのでしょうが、イミテーションと言うこともありえるかもね。
14 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:17:36
初代の天皇は神武のはずなんですが、倭人伝では、男性では都合が悪く女性にした
んだと言うことですから神武妃かなということになりますが、ホトタタライスケヨリヒメ
と言うのはあまりにも古臭い。ヤマトトトヒモモソヒメなんていうのが格好いいですね。
女性の世界にも移り変わりはあったのかなー。
15 :
圭角:2005/05/28(土) 10:23:49
カモネギさんに質問します。
土器の全国標準化によって、何ゆえ、日本が統一されたことがわかるのですか。
16 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:27:10
統一されるというのは良くない。自主的に各地が弥生土器を捨ててフリマ用の土器を
用するEUのようなものが形成されたようです。この点は土器の変遷を研究されている
名古屋大学系の先生方のウェブサイトでよく説明されていますね。
17 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:29:16
なんか共鳴と言う概念であったかと思います。ちょうど明治の夜明け前にも似た
期待感があったようでして。
18 :
圭角:2005/05/28(土) 10:32:28
縄文式土器が廃れ、弥生式土器がいわば全国的な標準化を見ます。
このことが、EUのような経済の連合を形成したと、いうことですか。
19 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:33:17
石でもって一反のイネを収穫、脱穀するのと、これを鉄で行った場合との
生産性の格差が例えば対馬の対岸では既に現実化されていたのが海人族の
情報によって常世の国の話などとして伝えられていたのでしょうか。
20 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:35:27
連合はまさに崩壊した、いや、それを崩壊させ新秩序を作るうえで三角縁神獣鏡
の国産化と分配システムの確立が計画されたのでしょうね。
21 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:38:43
縄文・弥生は水稲栽培という高度な生産システムが導入されたということでしょうが、
その当時の事情は暦博によって詳細な突帯文式土器の研究が公開されています。
22 :
圭角:2005/05/28(土) 10:39:09
EUのユーロ通貨と
倭国の庄内式土器や布留式土器とは
連合を語る場合において、
同じモノサシだと
カモネギさんはお考えなのですか。
23 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:45:25
富本銭まではまだまだでして、私は海幸、山幸に出てくる釣針なんてのがすごいと
思います。瀬戸物屋さんと言う商売もあったかと思われますが、大根と交換したり
してね。
24 :
圭角:2005/05/28(土) 10:47:30
カモネギさんの20の書込みの
連合を崩壊させ、新秩序を作る上で三角縁神獣鏡の国産化分配システム
というお話ですが、
よく理解できずに苦慮いたしております。
ご説明賜りますようお願いします。
25 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:51:01
釣針千本なんていうと残高が一億円のキャッシュカードなみってところかなー。
26 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 10:54:09
ごめんなさいね。原料の輸入、製品の製造の朝廷による独占、その配分を租庸調と
引き換えに地方首長に対して行う制度のことです。
27 :
圭角:2005/05/28(土) 11:02:35
租庸調というのは八世紀の律令政治の話です。
カモネギさんの20の書込みに対する私からの質問とお願いのご返事を
当方は、待っているものです。
28 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 11:07:03
租庸調がそれ以上古い時代にはありえないと言うことはどうやって断言できるのか
こちらが却ってお尋ねしたい。
29 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 11:08:53
やくざの世界でも共産主義の世界でも租庸調はあると思いますよ。
30 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 11:10:03
現代では青色、白色、確定申告なんて区分がある。
31 :
鴨禰宜:2005/05/28(土) 11:19:06
庸なくして古墳建設ができますか?狩猟、水産に従事する民は無税とすれば、稲作
民には不公平でないでしょうか。
32 :
カモネギ:2005/05/28(土) 11:55:56
>>24 昔は、ムラの王が隣のムラの王に対して、脅したりゆすりたかりで貢物を要求してたのだよ。
脅してるだけじゃ、盗賊とかわらんが、
貢物の量、忠誠心を評価して、みかえりに鏡を配ったのさ。
そうして、ムラの絆が深まり、クニになったのさ。
33 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 11:59:35
>>15 読んでいて思ったのですが、
圭角さんは、あなたが言うところの「日本の統一」とは、何世紀頃のことだ
と考えられていますか?
34 :
圭角:2005/05/28(土) 12:11:02
33さんへご返信。
日本の統一ということになると、大和政権の東北進出は多賀城、肝沢城が724年
802年とされておりますので、九世紀初頭になるかと存じます。
大和政権の成立は、三世紀末から四世紀初頭と、考えております。
35 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:19:25
>>34 では、3世紀のマキムク政権は大和朝廷になったとお考えでしょうか?
3世紀末〜4世紀初頭にかけて、大きな政治体制の変化(畿内の鉄器の保有量の
急増でもいいですが)があったとすれば、その契機はなんだったのでしょうか?
36 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:35:49
圭角さんが言うような「鉄の漸次的東進」により、やがて畿内勢力が
北部九州を圧倒したというのは、非現実的。
もっと劇的な変化があって、それはなんらかの政治的決着によるものと
考えた方が自然だと思います。
37 :
ウマミミ:2005/05/28(土) 12:39:37
>>32 鏡とか剣とかは、単なる代紋、エムブレムの類。
実際に与えられていたのは「安全保障」でしょう。
ただし、「ムラ」レベルの存在が他の同一レベルの集団の安全を保障するような力を保持するのは不自然。
やはり、「ムラ」が「クニ」レベルの社会になった時に派生する力でしょう。
複数の「ムラ」が一つの「クニ」へ成長するにあたり、
そう言った安全保障問題(倭國大乱とか)が起因となることも有るでしょうが、
治水や港湾維持などのための共同化が主因と考えるのが「世界史」レベルの通説でしょうね。
38 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:49:02
>>35 >3世紀末〜4世紀初頭にかけて、大きな政治体制の変化(畿内の鉄器の保有量の
>急増でもいいですが)があったとすれば、その契機はなんだったのでしょうか?
日向勢力の東征による、畿内大王位の簒奪。
>>37 山口組の山菱みたいなものですね。
山口組に期待されているのは、その抜群の紛争調停能力であって、
おそらくは初期ヤマト朝廷の三角縁神獣鏡も同じような役割を
果たしたのでしょう。
39 :
圭角:2005/05/28(土) 12:57:55
35さんと36さんとは別の方々と拝察して書込みします。
三世紀の纏向遺跡を造営した勢力が、鉄器東漸による鉄器取得量を増大し
大和政権に伸長発展したと考えます。マキムク政権というのは尚早と思料します。
その契機は、卑弥呼の死による北部九州の混乱衰退滅亡、三世紀末の晋の
八王の乱以来の晋の衰退による楽浪郡と帯方郡からの渡来人の大和流入、その前の
男王更立による北部九州の戦争難民の鉄器携行の東漸遷移移動です。
次は36さんへの反論を少しだけ。
鉄器東漸による大和の勢力の拡大西進を非現実的と断じられて、かつ、もっと
政治的決着による劇的変化として自然とおっしゃるなら、ご自説を披露あれ。
その折、当時に、政治的決着なる文言をも吟味されたし。
40 :
圭角:2005/05/28(土) 13:11:43
連投で失礼。
私は九州説ですが、あえて、纏向遺跡や大規模な纏向型前方後円墳に対して
論及する姿勢でおります。
したがって、九州説の皆様に申し上げたい。九州説者は、もっと積極的に
マキムクや纏向型前方後円墳に堂々と対峙されるべきです。
マキムクが話題になると、九州説者の投稿が極端に減る傾向はよくないです。
41 :
36:2005/05/28(土) 13:11:51
>鉄器東漸による大和の勢力の拡大西進を非現実的と断じられて、かつ、もっと
>政治的決着による劇的変化として自然とおっしゃるなら、ご自説を披露あれ。
>その折、当時に、政治的決着なる文言をも吟味されたし。
簡単に言えば、高句麗南下による半島での消耗戦遂行にあたり、ナショナリズムの
発揚の挙国一致の考えが広まった、と。
畿内の祭祀王共立=各地の有力豪族の連合体制ではなく、もっと中央集権的な軍事的大王の
存在が要請されたということでしょう。
その時、熊襲征伐長官として武名を馳せた日向王が、九州豪族たちに推戴されたのでは
ないでしょうか。
葛城や吉備の協力もあり、日向王の遠征は成功裡に終わったのでしょう。
その日向大王は後世、応神と呼ばれ、「神武」のモデルとなりました。
42 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 13:27:05
>鉄器東漸による大和の勢力の拡大西進を非現実的と断じられて、
あなたは、畿内の鉄器の過少さを声高に主張されていますよね。
つまりそれは、当時、北部九州が「鉄の技術」を政治的交渉カードとして
利用し、物資統制、東への流出を防いでいたからだと思います。
その鉄が、突然3世紀末の畿内で潤沢になるのは、何故だと考えられるの
ですか? 経済的に徐々に圧倒したというには、余りにも突発的だと
思いますが。
43 :
圭角:2005/05/28(土) 13:43:37
36さんへご返信。
失礼ですが、36さんはもっと歴史年表年次のご確認が必要かと存じます。
高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼしましたが、直後に鮮卑の慕容氏から痛撃
され、342年には慕容氏に父祖の墓まで暴かれ、371年には百済との戦いで
故国原王を亡くし、逆境の連続でした。広開土王の即位復活は391年です。
倭が百済と同盟して渡海して戦うのはその後です。391年は四世紀末ですよ。
36さんのおっしゃる劇的変化の政治的決着はこっこうですが、
高句麗南下は、五世紀以降のことです。もっと年次は大切にされるべきですね。
44 :
圭角:2005/05/28(土) 13:57:12
42さんへご返信。連投で失礼。
三世紀末から四世紀以降に、近畿の鉄器出土が増加するのは、基本的には
近畿の経済力が北部九州を凌駕したゆえと思料します。
一方、流通経済的に言うと、当時、鉄器流通介在の主役を担っていた壱岐
対馬や宗像のいわゆる東西市糴による交易流通の拡大だと思料します。
交易の鉄則は、交換価値を高くすることですから、彼らが疲弊衰退した
北部九州には鉄器を介在せず、マキムクの大型古墳を造営する近畿に対して
鉄器を売ったことは、合理的で無理の無い解釈と思料します。
45 :
36:2005/05/28(土) 14:05:51
>>43 ごめんなさい。
確かに、100年間違えていましたね。
>>41は、4世紀末の倭国の政治状況を書いたと読み替えて下さい。
46 :
圭角:2005/05/28(土) 14:34:59
36さんへ。
別に、ごめんなさい、などとおっしゃることはありませんよ。
小生にしても浅学浅識にて、このチャンネルで皆さんと仲良く勉強できれば
と楽しんでいるんですから。今後とも宜しくお願いします。不一。
47 :
元祖プラム:2005/05/28(土) 19:26:07
みなさん こんばんわです
『統一国家』ですが
(私見)では
539年仏教伝来以降、現実的に始まったと思われ
八世紀に聖武天皇が、各地の国に『国分寺、国分尼寺』の建設を命じたことにより、完成されたものと考えております。
それ以前に軍事的圧力を加え、土地豪族に『国造、軍司』任命
各地の統制を委託したが反乱も多々見られまだ、不完全と考えられます。
仏教伝来は『心』と『教養』の統一に最大の武器になったはずです
仏教には経典が付随し『漢字』の広まりを意味するものです
48 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 21:14:41
>三世紀の纏向遺跡を造営した勢力が、鉄器東漸による鉄器取得量を増大し
>大和政権に伸長発展したと考えます。マキムク政権というのは尚早と思料します。
マキムクを造った勢力が発展して大和政権になったのなら、別に大和政権と
読んでもいいと思うけど。
あなたの言うところの「政権」の定義とは何なんでしょうか?
>三世紀末から四世紀以降に、近畿の鉄器出土が増加するのは、基本的には
>近畿の経済力が北部九州を凌駕したゆえと思料します。
畿内の経済力が凌駕したって言うのは、つまり北部九州が政治的混乱で疲弊
したってことでしょう?
あえて経済経済と言う神経が分かりません。
>48
ちゃんとアンカーぐらい振れよ。
それじゃ、どのレスにコメントしてんのか判らんぞ。
50 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 21:57:08
別に記紀を神聖・絶対視するつもりはありませんが、
3世紀に大都市マキムクを造営する勢力があって、それが後のヤマト政権に
なったとするなら、記紀の内容は歴史書として、ある程度信憑性があるって
ことでしょう。
51 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 22:28:56
>あなたの言うところの「政権」の定義とは何なんでしょうか?
つまり、邪馬台国を北部九州に持って行く為には、マキムクが政権であっては
いけない訳だ。
52 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 01:15:08
近畿論者でも九州論者でも、自論でもって解こうとする姿勢は素晴しい!
漏れなんか、やれ九州だやれマキムクダとコロコロと考えが変わるからいかん
53 :
圭角:2005/05/29(日) 08:41:03
48と51さんへ返信します。
政権というのは普通一般に解されている意味です。
つまり、政治をおこなう権力であり、統治権力です。
マキムクの段階では未だ政権と呼称するに至らず値しないことは明らかです。
寺沢薫氏の著の王権誕生に反論する形で書きます。其のほうがなたたちにも便利でしょう。
ずばり、結論から書きます。卑弥呼邪馬台国連合は未だ政権といえません。
狗奴国との戦いの窮状をはるばる帯方郡庁まで、泣き付き訴えて、張政ら軍事顧問団を
招聘し派遣してもらい、難升米や壱与までもが、告諭されているという陳寿の記事は
邪馬台国には、きわめて、統治権力は希薄微弱で無いにも等しいことを明示しています。
さらに、経済見地から、マキムクの三世紀前半に鉄器の出土はほぼ皆無に等しい事実です。
大和邪馬台国マキムク政権が成立していたならば、かくなる考古学事実は存ません。
ついでに48氏に申し上げておく。人の神経云々というのなら名を名乗りなさい。
格別に注目してあげるから。
54 :
圭角:2005/05/29(日) 08:51:20
48氏へ追伸。
ソビエトが崩壊した原因も経済にあっことくらいは、ご存知だろう。
今般、EUの憲法批准が各国にて討議されている。
しかし、この以前にEUは通貨をユーロに統合している。
つまり、経済は、古今東西、憲法や政治統合に先行する好例だ。
経済視点視野史観なしに、歴史を語るなかれ。
これでも、なお不明というなら、さらに説明してあげるから名を名乗りなさい。
55 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 09:30:58
圭角さん
おはようございます。
まだ文献に書かれてるうわべだけの歴史を、最重要視され
根本である 生活経済を軽視されるカキコをみると大変残念に感じます。
『記、紀』愛読者の大好きな(アマテラスやニギハヤ)なども
その活動には、財や食が必要であるし 仲哀帝の放浪にも財や食が必要なのです
東(征、遷)や遠地討伐になると、その量は莫大ですいつの世でも後方支援物資が勝敗決めます
56 :
ウマミミ:2005/05/29(日) 10:37:00
>>54 48&51の代わりにお願い。
あなたの言う「経済」、つまり「鉄交易」の主体について、具体的な例証を挙げて説明ください。
例えば、3世紀初頭の倭における韓式の輸送用土器の分布は西日本全域に及びますが、
その中でも、博多湾沿岸(主として福岡・西新)と河内(主として八尾・久宝寺)に集中化します。
この現象と「鉄交易」の主体者の変遷について考えてください。
ちなみに、私は弥生期の「鉄交易」が、その時代の商業活動全体に占める割合はほとんど0に近いものと
考えています。
また、「鉄」以外の「経済」についても語ってください。
最後に「あげるから」「名乗りなさい」とは、なかなかタカビーな精神の現れです。
でも、その方が本音丸出しで、何時もの馬鹿丁寧な言い回しより、2chらしくてよろしいかと。
今後は、文章の簡潔化の為にも2ch流の書き方に馴染んでくださいな。
57 :
48:2005/05/29(日) 10:49:47
>>53 ちょっと感情的に書き過ぎましたか。
当方も経済を軽視するつもりはありませんから。
ただ、政治的混乱が経済に悪影響を与えるのも事実ですし、あえて
経済を政治と分離して考える必要もないと思いますが。
両者はある程度不可分なものではないでしょうか。
それと三世紀初頭の経済力比較で、畿内<北部九州の理由が
鉄器出土量のみという考えもお粗末。完全な鉄器史観ですね。
58 :
48:2005/05/29(日) 11:08:34
>邪馬台国には、きわめて、統治権力は希薄微弱で無いにも等しい
>ことを明示しています。
まあ所詮連合政権ですしね。各地の王も自国の兵の被害を恐れて積極的な
軍事行動を取らず、戦争の士気も揚がらなかったのかもしれません。
農業国では労働力はとても貴重ですから。
「マキムクが政権ではない」という根拠としては薄弱ですね。
ただ単に大王権力が弱かっただけで。
59 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 11:13:28
『財は貧を嫌い富に集まる』 『商人も貧を嫌い富に流れる』
一時的に政治の思惑に流されることはあるが
必ず、大局に流され
『貧しき者はより貧しく、富める者はより財をなす。』
これ
すべて歴史の根本
60 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 11:29:35
ご存知『ドラマ水戸黄門』
世直しの為、光國公諸国漫遊
時々ドラマのシーンに、助さんが国元からの送金を受取に、両替商に赴く事がある
黄門様といえども
本国のバック無くしては旅を続けることが
不可能なのだ
61 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 11:58:17
「畿内が北部九州を経済面で圧倒した」っていうのはそうなんでしょう。
それが、稲作に適した奈良盆地や河内平野を抱え、災害が少なく、
人口が増え易い風土であったため、というのもそう。
ただそれは、ロングスパンの捉え方で。
大陸からの鉄の輸入に関しては、完全に政治・外交問題だよ。
畿内に鉄が過少であるのは、北部九州を盟主とした政治体制で、
鉄の東への流出を出来るだけ防いでいたからであろう。
マキムクを築いた畿内勢力が、鉄が買えない程貧しかったとは思えないし。
鉄を独占することで、鉄を外交カードの一つとして、北部九州が利用した。
北部九州勢力が畿内大王に屈服することで、漸次的に畿内の鉄が増えると。
62 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 12:02:55
寺沢 薫氏著書『王権誕生』
>マキムク型古墳の原型はキビの楯築墳丘墓に求められる。
その理由Aの
>楯築の円丘部径と前後の突出部長の比も2:1で、突出部一つをはずせばマキムク型前方後円墳とそっくりになる。
>>何故、二つ外すと円墳になることをカキコしないんだ
@は時期Bは規模Cは祭祀の理由も付け加えているんだが
それでは、何故キビの古墳を参考にするのか?
古墳の発祥地が『キビ』と断定できるのならば 筋は通るのだが
63 :
ウマミミ:2005/05/29(日) 12:21:34
>>61 鉄を過大評価するのもどうでしょうかね。
鉄器、それ自体は、弥生早期に関東まで伝播していたことは確認されています。
木製遺物の加工痕などから、西日本全域で使用されていたことも間違い有りません。
ただ、その全てを輸入頼るため流通量は少なく、国内交易の主力商品とは成り得なかったのでしょう。
北部九州が鉄を「独占」していたのは、流通を制限していたのでは無く、「売るほど」の量を入手出来なかったからと思えます。
つまり、「貴重」でありすぎたのです。
また、鉄は確かに便利な製品ですが、安価な代用品があればコストパフォーマンスの観点から普及がままならないこともあります。
当時の北九州にあっても金属器の主流は銅器です。
倭人伝にでてくる「鏃」にしても青銅製品も主流でした。
現代においても、例えば「電線」のように伝導効率で優る「銀」や「金」より、安価な「銅線」が主流のものもあります。
64 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 12:30:25
>北部九州が鉄を「独占」していたのは、流通を制限していたのでは無く、「売るほど」の量を入手出来なかったからと思えます。
>つまり、「貴重」でありすぎたのです。
なるほど。なかなかの論客の登場、嬉しい限りです。
では、畿内で爆発的に鉄が増えるのはどうしてなんでしょうか。
65 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 12:36:45
畿内で鉄器が増えるのを、圭角さんのように「経済力で、畿内と北部九州の
地位が逆転した」ことに理由を求めるのには無理があるように思います。
経済というより、何らかの政治的原因があったのではないでしょうか。
例えば、北部九州からの多くの鉄技術者の畿内への入植とか、
倭国の半島への進出によるものとか。
>>64 >>65じゃないけど鉄自体はありふれた鉱石で日本でもあちこちにあるから。
ただ加工技術、要は高い温度を必要としたから初期には輸入オンリーでなかなか普及しなかった。
それさえ解決すれば産出場所の限られる銅、レアメタルと言っていい錫の合金である青銅に頼らなくて済む。
通常、銅とスズは同じ鉱山からは産出しないしね。
あとは技術と人手、炉で燃やす木材が豊富にある場所が有利。
67 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 12:42:16
>>63ウマミミさん
『魏書韓伝』の鉄に関する記載をどのようにあつかいますか?
目立った特産だから記載されたのではないでしょうか
>>62 寺澤は特殊器台→円筒埴輪から、吉備勢力主導のマキムク政権の誕生を
想定しているみたいです。
マキムクは都の地として選ばれたに過ぎない、と。
69 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 13:01:56
>>68さん
寺沢氏のキビ政権主導マキムク王都建設論には
疑問が多すぎます。
その発想は、空の上から列島を見下ろし適所を選ぶ手法です
当時は少ない情報で尚且つ平面発想の世界です
どんなに情報収集に優れたと言っても、たかが知れています
氏の『遠地に王都建設』
これには賛成出来ないし
それに基づくマキムク型古墳の楯築墳丘墓参考説も否定せざるおえません。
70 :
圭角:2005/05/29(日) 13:13:36
ウマミミさん、初めて御意を得ます。質問させてください。貴殿の次の書込みです。
鉄器は弥生早期に関東まで伝播していることが確認されている。
倭人伝に出てくる鏃も青銅製品が主流だった。
北部九州にあっても金属器の主流は銅器だった。
わたしには、ハツミミです。
私は、奥野正雄氏の鉄の古代史と広島大学考古学研究室の寺越氏の鉄器総覧の確認を
根拠に、申し上げております。
このスレは学問版ですから、根拠学術史料を貴殿も掲げなさい。
もとに言及しておりますので、
71 :
圭角:2005/05/29(日) 13:26:12
当時、鉄が貴重であり過ぎたのであれば、
回収不可能な飛び道具の弓矢の矢の鏃に用いたりはしませんよ。
もう少し、現実的に物事を見られることをお勧めしたいですね。
>>71 だから威信財だった訳ですよ。
古墳時代では、靫に弓矢を逆さに入れて、鉄の鏃を見せびらかして
いたんだから。
73 :
圭角:2005/05/29(日) 13:56:25
プラムさん、今日の狗奴国は真夏のように暑いです。
寺沢氏の著の主張で、もうひとつ強調されていることは
畿内系土器が目だって流入している地域において、
纏向型前方後円墳も築造されているという点です。
その分布は南は鹿児島から北は福島まで渡っていると掲示しています。
氏の主張は繰り返すまでもなく、三世紀前半の畿内政権成立ですね。
さて、そこで面白い氏の記述を見つけました。
氏は、卑弥呼亡き後の争乱は小規模で早期に終息したと記しています。
プラムさん、ということはですね、氏も自らの説に疑念を抱く点があるのです。
つまり、戦乱や軍事的緊張下にあるヤマト邪馬台国では、巨大な箸墓の造営は
不合理不自然となることを、氏自身、気づいている証拠といえます。
やはり、それぞれの仮説自説諸説には弱点がありますねえ。
>>73 >プラムさん、今日の狗奴国は真夏のように暑いです。
圭角さんは東海在住ですか、それとも南九州でしょうか。
和歌山の熊野じゃありませんよねw
75 :
圭角:2005/05/29(日) 14:11:26
72氏へ。
一度、吉野ヶ里に行って御覧なさい。
鉄の鏃が頭蓋骨に突き刺さった写真を見ると判りますから。
威信材ならば、戦いで鏃に用いますかーーー。
スルーさせていただこうかと存じましたが、あえてご教示させていただきました。
76 :
68:2005/05/29(日) 14:19:01
>>69 吉備主導のマキムク建設が非現実的だとは、私も思いますよ。
ただ、吉備が倭国大連合の主要構成メンバーであったことは疑いようが
ないように思います。
マキムクが王都に選ばれたのは、当時の倭国連合の支配領域の中心であった
というのが大きいでしょう。
畿内がイニシアティブを取り、東海、吉備、越、丹波が参画したのが
初期ヤマト連合だったのでしょう。
マキムクの出土土器や、記紀の四道将軍の記述とも符合するものです。
77 :
圭角:2005/05/29(日) 14:25:33
74氏へ。
昔の畿内説では、狗奴国は熊野でしたね。
さすれば、壱岐対馬から九州さらには近畿までを統治しているはずのヤマト
邪馬台国としては、苦戦して帯方郡庁まで泣きついているのは不合理。
ならば、どこにしようかと迷った挙句、後漢書の東に目をつけこれ幸いと
濃尾平野にまで持っていった。しかし、それでも疑念疑問は残る。
相攻撃し合うという地理位置には、近世の関が原じゃあるまいしちと遠い。
壬申の乱の規模の戦いで、始終しょっちゅう狗奴国と交戦していたことになる。
しかし、その事情も鉄器出土の不整合にも、あえて目をつむって、土器がとか
前方後方古墳がとか、並べ立てる。
私の在住地は、之でお分かりと存じます。
78 :
68:2005/05/29(日) 14:27:32
各地の王が自兵を率いて王都マキムクに上洛。女王に直接仕えたのだろう
と思う。
初期ヤマト政権はそのような政治体制だった。
関東御家人の連合体であった、初期鎌倉幕府のようなものか。
頼朝=卑弥呼で、北条やら梶原、三浦、比企、和田やらが大和や吉備、
東海であった。
やがて北条=大和が一人勝ちして、世襲制の大王権の成立に至ったと。
79 :
74:2005/05/29(日) 14:38:25
いや、私は狗奴=熊野と思っていますので。
正確には葛城・吉備連合ですが。
欠史八代の葛城王朝が三輪王朝に滅ぼされて、その残党が熊野に拠って
三輪と対抗したのだろうと。
紀伊国造がその交替に際して特に上京・報告することが義務付けられた
のは、恐るべき敵対者である出雲国造と同じ。
紀氏の勢力、特に熊野水軍は、侮り難いものだったと思いますよ。
80 :
74:2005/05/29(日) 14:40:33
>>79 >正確には葛城・吉備連合ですが。
ごめん。×吉備→○紀伊で。
>>75 >威信材ならば、戦いで鏃に用いますかーーー
さあ。当時の戦争がどんなものだったかわかりませんが、少なくとも
鉄鏃は使用されていたのは事実でしょう。
ただ、それが一般兵士の手に渡る程、普及していたかどうかは別ですよ。
それと、弓矢は、鉄砲とは違って日頃の鍛錬が必要ですから。
日頃、農作業に従事している人々にいきなり弓矢を渡したところで、
どれ位上手に使えたことやら。当時の倭国に軍事に専従出来た人間がどの
程度いたのでしょうか?
普段から狩猟で鍛えている蝦夷や熊襲は別ですが。
82 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 15:14:24
>>78 「畿内=鎌倉幕府、北部九州=朝廷」の喩えは面白いな。
その場合、一大卒=六波羅探題になるわけね。
83 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 15:39:45
いや〜。
圭角さんにウマミミさんが加わって、俄然論争がヒートアップしていますね。
考古学では邪馬台国畿内説で決まりみたいに言われていますが、
畿内説にもまだまだ隙があることが良く分かりました。
ただ願わくは、罵倒合戦なることなく、有意義な意見交換、情報提供になって
頂ければ。
あまり中傷するようレスをすると、昔みたいに誰もいなくなってしまうよ。
84 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 18:43:04
圭角さん 遅レス失礼しました。
日中、子供達のドッチボールの指導に出てまして
今日の 常陸の国は夕方東風が吹き肌寒くなりました。
所で
寺沢氏の著書ですが
確かに自信の無さが伺える部所を見つけることが出来ますな
『連合』の範囲を広げ過ぎ、矛盾をふやしているように見受けられます。
三世紀当時なら、せいぜい奈良盆地を統制することが限界と認識しますが
如何でしょう?
85 :
圭角:2005/05/29(日) 18:49:40
74氏へ。
たしか、鳥越憲三郎氏の説ではないですか。
74氏のご自説の展開とご披露を期待しております。
それから83氏へ。ご忠告真摯に受け止めます。これからも宜しく。
86 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 19:03:52
鳥越氏もやはり
南を東と改正してますなぁ
しかし、彼の著書に『漢書〜旧唐書』の倭伝、倭人伝を集録したものがありまして
その本には大変お世話になりました。
初心者の方にはお勧めです
87 :
圭角:2005/05/29(日) 19:06:09
プラムさん、こんばんわ。コーチお疲れ様でした。
やはり、前方後円墳の起源と意味を避けて通る議論は不適切だと思料します。
起源については何百もの説があり、寺沢氏の説はご承知のとおりです。
私は、松本清張氏の説を支持しています。つまり、
円丘円形と方丘方形楔型を、それぞれ女性と男性のシンボルとみて、男女の結合
を象徴したものだという説です。この説が説得力をもつ理由は、実に四百年間に
渡って古墳の造営が継続していることです。つまり、大和政権の前方後円墳体制
論などでは、とても説明のつくことではなく、民俗的なものと見る必要があると
考えます。今から四百年前は江戸幕府開府ですから、相当に長い時空です。
その長い時空において、政治主導の前方後円墳造営は不合理不自然です。
88 :
元祖プラム:2005/05/29(日) 19:19:41
圭角さんこんばんわ
以前『考古学板』(古墳)スレにて
>横穴式石室は
女性の内性器であり、羨道は(膣)で石室は(子宮)ではないかと提示したところ
あっさり否定されました。でも、まだ諦めてはいませんが
>>75 吉野ヶ里の頭部嵌入鉄鏃についてはその数も一、二例と少ない。
これは他の遺跡でも言えることだけど。
殺されたことははっきりしてるけど、それが戦死なのか処刑なのか、はたまたイケニエなどの
儀式的死なのかははっきりしていないんだよ。
何故鏃を刺したまま埋葬してるのか?って問題もあるしね。
使われたことは間違いないけど、それが「戦い」によるものかどうかまでは分からない。
仮に威信財としての位置付けであっても貴人を処刑、儀式的死ならば説明は付けられる。
90 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 19:29:53
91 :
ウマミミ:2005/05/30(月) 01:23:50
>>67 目立った特産だから記載されたのでしょうねえ。
他に考えようも無いです・・・
92 :
ウマミミ:2005/05/30(月) 01:28:37
>>72 威信財だったかもしれないが、実用品でもあったでしょうね。
埋納以外でも普通に出土するから、実際に使用されていたわけだ。
それも、狩猟用としてなら「回収・再利用」も可能だから「戦闘用」として。
これは、事実だよ。
93 :
ウマミミ:2005/05/30(月) 01:37:07
>>70 先ずは注文!
今後、レスを付けるならアンカーを振ってくださいな(w
弥生時代の金属器の出土状況(特に武器系)の数量関係がわかる資料として次のWEBを紹介します。
なかなか、コンパクトで地域ごとの概要が見やすいですよ。
ttp://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/yayoijidai.html 「当時の北九州にあっても金属器の主流は銅器です。」
「倭人伝にでてくる「鏃」にしても青銅製品も主流でした。」
と言うコメントの是非は、ここを一読していただければご理解いただけると思いますが・・・
当然、奈良の唐古からも加工木製品が出土しているのはご存知でしょう。
関東での鉄器利用は群馬や神奈川の前期遺跡から西日本と同系統の刷毛目紋(実際には板目)土器が
出土することなどから、木材加工具として流入していたと思われます。
しかし、鉄製遺物の「分布」が筑豊肥に多いことは、ほとんどの人が認めてますよ。
ただ、出土数自体はどうなんでしょうか?
一番多い鉄鏃にしたって全国で1500に満たないと思います。
数十万件以上の出土がある「土器」と比べると考古遺物としてもはなはだしく「貴重」ですね(w
で、あなたの提示した資料を見ると弥生時代の、少なくとも九州では、鉄製品が銅器や石器製品を凌駕して、
使用されていたということがわかるのでしょうか?
日本における鉄器の本格的普及、石器の消滅は、やはり古墳時代以降と考えるべきじゃないですか?
94 :
ウマミミ:2005/05/30(月) 01:49:03
>>83 私は、昔からいる常連だよ。
名無しじゃ困る人がいるので一時的にステハンを名乗ってるだけだ。
別にスレ人口が増えたわけじゃないさ。
95 :
ウマミミ:2005/05/30(月) 02:05:44
>>64 あなたもアンカー振ってくれ!
「畿内で爆発的に鉄が増えるのはどうしてなんでしょうか。」
畿内って言うか大和でだろう。
爆発的にって言うのは、ベースが0に近いから。
奈良県内では、確か2〜3個、多くても片手に余る個体数だからな。
京都府あたりだとその100倍くらいの出土数が」あるよ。
まあ、基本的には三世紀前の大和は「田舎」だったんだよ。
畿内で「都会」と言えば河内、摂津、山背。
マキムクは歴史が無い新開地だし、主力の唐古は水没時期がある。(木製加工物はある)
これが、例の「溶けちゃった」説の出どころだな。
水没すると鉄が溶けちゃうのは、九州で言えば川添遺跡なんかもそうだよな。
96 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 02:56:12
奈良に鉄がなくても王権は出来る。
周囲のクニも鉄がないのだから無問題。
北九州と奈良を直接比較するのは非常識だ。
鉄がある北九州地域と、鉄の無い吉備・畿内連合とでは、
鉄の無い吉備・畿内連合が優位なのは言うまでも無い。
97 :
圭角:2005/05/30(月) 07:39:38
陳寿の倭人伝記事の
倭人の竹の矢は、鉄の鏃、あるいは骨の鏃である
という記述を、みなさん、お忘れのようでありまするなあ。
98 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 08:14:59
陳寿は、日本に来て無いだろ。
伝聞で書いただけ。
99 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 09:10:18
伝聞て随分簡単に言うなあ
卑弥呼に親魏倭王の金印授けたり
難升米に黄幢授けたりした魏使が行ってんだから
倭国の事情を記した復命書があったに決まってんだろ
>>93 いままで何回かアンカー振れといわれてるはずだが、
どうやら振る気はないようだよ、圭角さんは。
そういう他人への配慮は無いらしい。
101 :
圭角:2005/05/30(月) 16:10:06
プラムさん、こんにちわ。私は自由業ですので勝手な時間にばかり書き込んでいます。
寺沢薫氏の著の王権誕生を昨日読み返してみました。
氏も、卑弥呼共立の三世紀前半の、相攻伐歴年や狗奴国との相攻撃の状や更立男王に
国中服せず相殺という記事と、マキムク遺跡建設との不整合には、自ら疑念と不自然に
腐心しているようです。280頁の氏の苦しい言い訳を掲示します。
狗奴国は、倭国と不和だったのであって、邪馬台国と不和だったのではない。
素より和せず、も新生倭国誕生以前にさかのぼらせて考える必要は無い。
ともかくも、正始六年に魏帝が詔勅して難升米に魏の戦旗まで賜与し、そのうえ
正始八年には、新任早々の太守に重ねて泣き付きに郡庁まではるばる遣使して
窮状を訴えている状況下においての、マキムク王都の造営なのだ、
ということですから、氏もご自身にて、無理を承知のことと推察されますね。
氏はたしか、橿原考古学研究所員でしたね。橿原だと、このくらいの無理は
やむを得ないのでしょうか。
考古学でも文献史学でも、その前にあるのは、解釈の自然さ無理のなさ、つまりは
整合性や合理性がなくては、不自然では、説得力に欠ける気がする次第です。
102 :
元祖プラム:2005/05/30(月) 17:59:14
圭角さん
常陸の国は朝からスッキリせず 現在雨が降ってます。
リーマンの悲しさか
時間が余りとれません
寺沢氏は橿原の研究員ということもあり
局地的な研究は大変参考になるし尊敬すら致します。
でも『氏』に至っても大局になるとかなり苦しい所や矛盾点などがチラホラ見かけられますね
>>99 そうは言っても出土数から見れば石鏃が圧倒的なんだよ。
酸性土壌だから骨や鉄が残りにくいけど、それにも程度があるでしょ。
陳寿も嘘を書いたわけじゃないだろうが使者が見たのは倭国の一部分だけだしね。
104 :
圭角:2005/05/30(月) 19:30:56
プラムさん、ご返信有難うございます。
自由業とて同じです。貧乏するのも自由だから自由業と呼称される所以かと。
氏にしても誰にしても、完成された仮説が無いからこそ、私たちはこうして
楽しめるものだと思います。私の郷土では江上波男先生、プラムさんの御地では
石原道博先生ということに、あやかりましょうか。
リアリティーを重視した司馬遼太郎氏には、いわゆる古代史ものがありませんね。
項羽と劉邦が唯一だったと記憶します。氏も記紀を史料としては流石に書けないと
いうことだったのでしょう。黒岩重伍氏が昔に卑弥呼の小説を書かれています。
古代史の多岐多様多種の説を小説化して一気に説明論述してしまいたいとの志向と
私自身は思いました。多少の創作を挟むことで、リアル効果を求められたのだと
思っています。
だけど、わたしはこのスレに参加させてもらってほんとうに良かったです。
寺沢氏などの論評などというものは、近辺の人とはなかなかできるものではないです。
それにしても、プラムさんはまだ私よりずいぶんとお若いみたいですから
いずれ相当な水準に達されると期待確信します。これからも宜しく。不一。
105 :
元祖プラム:2005/05/30(月) 19:37:44
(魏書倭人)では『南』
でも何故か『東』にすりかわる
どんな魔法を使ったんだろう
あれこれ理由はあるものの『倭人伝』スレなんだから
少しは矛盾を取り除かねば(だろ〜ぅ)
106 :
元祖プラム:2005/05/30(月) 19:58:59
『いえいえとんでもない』若く無いですよ
なんせ、石坂氏のナレーションで始まる『ウルトラQ』を
リアルタイムで見てますから
ただ、『邪馬壹國論争』は若いですよ〜まだハイハイの状態ですから
学歴も無いから基本が出来てなくて今になって不具合が生じてます。
どちらかというと『理数系』で『文系』が苦手な変な奴です。
よく『嫁』にも言われます『バッカじゃな〜い』って
とにかく
これからもよろしくお願いします。
>>97 倭人伝になんて書いてあろうが、現実に石鏃や銅鏃もいぱーい出土してるんだろう。
このオヤジは、何駄々こねてるんだかな。
108 :
元祖プラム:2005/05/30(月) 23:02:48
>>103 >使者が見たのは倭国の一部だけ
>>そのソースは?
>>108 なんで、そんなことを聞く?
トンカツ食うわけでもないのにソースなんかいるのか?
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」とか書いてあるのに
わざわざ、倭国全部を行脚したとか、考慮しなくちゃならんのか?
ついでに「>>そのソースは?」って言う不等号の使い方へんだよ。
普通、不等号とかスラッシュとかを文頭に振るのは「引用文」であることを表示するための慣用。
自レスにくっ付けるのは意味無い、ってか伝送量の無駄づかいだな。
110 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 23:31:33
>>107 圭角さんの弁護を少しだけ。
近年の考古学では邪馬台国=畿内説が既成事実になっていますが、
そう考えると矛盾に感じる部分も出てくる訳で。
具体的に言えば、倭人伝の記述ですよね。あれを読むだけでは、
邪馬台国が九州にあったと考えた方がシックリきます。
事実、十数年前までは九州説の方が優勢でした。
いや、私は畿内説なんですけど。
北部九州勢力の東遷説が非現実的と否定された今となっては、
@ 邪馬台国=マキムクが大和朝廷になった
A 邪馬台国=北部九州で、3世紀末頃に畿内大和朝廷に屈服した
の2説が残されるのみとなっています。
私はどちらでも良い気がするのですが。畿内が北部九州を併呑したのが
3世紀初頭か3世紀末かの違いだけで、大筋の流れとしては同じですし。
もはや、邪馬台国がどこにあったかは、古代史を語る上で、それ程
重要ではなくなってきているのかもしれません。
>>108 記述と実際に出土する資料との不一致。
最も多く出土するのは石鏃であるのにそれに対する言及が全く無い。
他の習俗や道具についての描写はあって数において優るはずの石鏃については無い。
一部しか見ていないと書いたのは地理的な意味と使者も目が届かなかった、見つけられなかった部分が
あったと言いたかった。
漢書地理志も魏志倭人伝も鏃は骨、鉄と書いているが実際の考古学資料とは乖離がある。
二つしかない文書史料拘るより遺物のほうを重視すべきだと思う。
112 :
110:2005/05/30(月) 23:42:38
たとえば、「邪馬台国」を抜きにして初期ヤマト政権の揺籃期を
記述するとすれば、
3世紀初頭に生まれた畿内王権はマキムクを都として、吉備や東海など
と連合。巨大な古墳群を築造する。
やがて畿内王権は北部九州を圧倒し、初期ヤマト政権となった。
北部九州がヤマト政権に組み込まれた時期については、
早くて3世紀初頭、遅くとも3世紀末と。
>>110 >>112 なんか、それって『圭角さんの弁護』とぜんぜん関係無いように思えますが・・・
それに
>>97のような態度に対して、それを「弁護」なんてする必要あるのかい?
114 :
元祖プラム:2005/05/30(月) 23:58:46
>>109と
>>111は、同一なのかな?
ただあの場面で>一部の『倭国』という
カキコが出たので
また 文献論争を展開するのかなと思ったので ふってみました。
あ、それに
>>109さん
>>の件
以後きおつけますね
伝送量の無駄になりますから
115 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 00:06:19
>>104 >氏も記紀を史料としては流石に書けないということだったのでしょう。
戦前の津田左右吉以来、戦後の古代史研究は記紀の軽視が余りにも酷かったと
私は思いますがね。
神代(出雲神話、日向三代)にしても、少なくとも記紀編纂の8世紀には共通の
【神話】として認識されていたのでしょう。その中に何らかの史実の反映や、
天皇家や有力豪族の思惑があったかもしれません。
そして人代(神武・欠史八代)からは歴史書の体裁が整ってきますし、
記紀編纂者も、歴史書を書いているという意識があったのではないでしょうか。
しかし神武東征については、どうかなあと思います。初代大王の功績を飾り立てる
ために創作されたものでしょう。
116 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 00:10:36
>>110さん
@とAの他に
Bとして
邪馬壹國=九州北部で
三世紀末〜四世紀初期頃衰退し各地の豪族達が無統率のまま半世紀、四世紀後半〜五世紀中頃にかけて徐々に大和王朝の勢力下にはいった。
入れてもらえませんか?
117 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 00:11:43
神武東征説話が生まれたのはいつなんでしょう。
崇神の頃か応神か、もしくは雄略か。
少なくとも継体はイワレの地で即位していますし、その頃には神武の
存在が信じられていたのかもしれません
>>114 違うよ、自分以外が全て…ってやつだなこの場合
それにしても普段、自分は余り資料を示さないで語るのに人には要求するんだねぇ。
逆に聞きたいんだけど、全国隈なく、風俗習慣も網羅して見聞したとは思ってないよね?
119 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 00:23:17
>>116 Bだと、倭の五王はどこの誰だというのかね?
120 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 00:23:51
>>118 思ってないよ。
と、いうか
アンカーの付けた文が長かったから誤解を生じた。
(正確には)
>倭国 かな!
>>113 圭角さんは良識派だと思いますよ。
全く内容の無い反論もされていません。多少煽り気味に書いた方がレス
して貰え易いしね。誰かがそんな助言をしてたよ。
いや実際のところ、圭角さんも6〜7割方は畿内説なんじゃないのかなあ、
と思っています。考古学も良く知っておられるようですし。
ただ大勢に反抗したくなるというのも人間の心情、また、
既成事実だと思われていることを一度疑ってみるというのも、ひとつの
見識ではないでしょうか。
圭角さんのマキムクに対する考察は、それなりに頷かされる部分が
ありました。
122 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 00:33:20
>>119 『倭』の人じゃないか
自分としても『倭の五王』については謎だらけで、まだ収拾がつかない。
123 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 00:42:38
古代史の最大かつ根本の謎が
『倭』『倭人』『倭国』
だろう。
まだ自分の知る範囲で
この謎を完璧に区分けした人を見掛けたことが無いので
それとも
俺だけが知らないのか?
124 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 00:55:54
>>119さん
『倭の五王』の件があるために
大和朝廷の九州進出を三世紀後半に設定しなくてはいけないのかね?
それに、九州北部の衰退⇒(ソク)⇒大和朝廷の進出は、いくらなんでも出来過ぎではないかな
125 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 00:59:40
>>124 『倭の五王』の件があるために
その頃、九州〜畿内は統一されていたと考えるしかないんだよ。
九州〜畿内が分断されていて、どうして
畿内で古墳を造り、朝鮮出兵が可能なのか?
126 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 01:26:14
>>125さん
好太王碑文に書かれている「倭」の侵略にしても
大和朝廷じゃなくあくまで「倭」であって
まだ賛否両論の段階の筈では?
『多くの学者先生達が研究の末 そうなっているんだ』と、言われればバンザイですが
古墳造成については
前レスにて少しだけ触れましたのでこの場はパスします。
>>126 少なくとも、倭王武が雄略っていうのは通説だよ。
129 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 07:24:06
>>127>倭王武=雄略が通説
でも『旧唐書』にて
日本と倭を切り離しているが
御先祖の雄略帝を否定か?
>>123 別に区別する必要もないから、だれも謎だとも思ってないんじゃない。
東夷伝中のもう一つの分立地域、韓だって韓人、韓國と文脈により変わる。
普通に読んで、何か不都合があるのか?
131 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 07:49:48
>>130 仮に同一としても
範囲の取り方は千差万別だと思うよ
>>129 ばっくれたに決まってるだろう。
日出ずる処の天子様以降の外交姿勢方は、実質はともかく建前は対等外交だ。
日本書紀だって、中国側に見せるためってのも、編纂開始の理由だろう。
こう言った日本の見え透いた強弁に対する中国側の困惑が、
旧唐書に見える混乱として表現されているのじゃないかな。
>>129 ばっくれたに決まってるだろう。
日出ずる処の天子様以降の外交姿勢方は、実質はともかく建前は対等外交だ。
日本書紀だって、中国側に見せるためってのも、編纂開始の理由だろう。
こう言った日本の見え透いた強弁に対する中国側の困惑が、
旧唐書に見える混乱として表現されているのじゃないかな。
134 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 13:14:39
日本が中国様と対等?
もとは倭国だった分際で笑わせるアル。(旧唐書)
135 :
↑:2005/05/31(火) 13:31:10
AD57 倭の奴国が後漢に朝貢し倭の奴国王の称号を承る
AD57〜AD107 新たな勢力(面土)が渡来、又は拡大し奴国の脅威になる、又は戦いに勝つ
AD107 倭面土国王自ら後漢に「願いて見を請う」
金印を与えられ優遇された奴国に比べ対応は冷ややか
奴国王を倭の国王と認める、又は復活させることで面土国を承認、そしてその勢力の拡大を禁じる
新天地(出雲?大和?)に向かわせるこれで漢と面土国は妥協することになる
AD140ごろ 漢が衰える、影響力がなくなる
AD140〜180 倭国大乱、漢の権威に押さえ込まれていた面土国
一気に攻勢に出る、勢力を拡大する
AD180ごろ 面土王、同盟国と女王卑弥呼を共立し公孫氏の帯方郡に保護を求める
これどうよ?↑
136 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 13:40:48
「面土」=やまと
137 :
鴨禰宜:2005/05/31(火) 13:45:29
博多湾から遠賀川河口八幡付近に移動する姿が自然だなー。八幡でいこう。
いや待てよ、山門もあるなー。
138 :
鴨禰宜:2005/05/31(火) 13:48:12
おっとっと、八女がある。この辺は強力だからなー。
139 :
↑:2005/05/31(火) 13:56:04
新天地がってこと?
140 :
鴨禰宜:2005/05/31(火) 13:59:34
当時後漢は植民地朝鮮族の搾取に手一杯。残余の朝鮮半島は倭国のものだった
と考えていいんじゃない。
141 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 14:04:27
朝鮮の倭が面土国?それが奴国の脅威になるって流れ?
142 :
日本@名無史さん :2005/05/31(火) 14:54:16
143 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 15:46:05
>>136 「面土」=ベトベトと顔に土料を塗りたくる集団
邪馬台国の風俗とも一致
「倭面土国王」は誤字で、もとは「国王」を誤って2回書いたんだろう。
145 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 16:19:15
「倭の奴国」ではなく「倭奴(いと)国」。
倭奴国=伊都国
146 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 17:04:58
倭面土=いめと ぃやめとうぃ やめぃ やまい やまと
147 :
匿名 ◆fR9zoUJANc :2005/05/31(火) 17:08:06
やま台国はなかったって言ってる人もいるらしい。
148 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 17:14:33
>>145 順番的には
倭奴国=伊都国じゃなく
伊都国=倭奴国だろう
でも(=)じゃなく(≠)だろう
149 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 17:24:14
倭面土国は邪馬台国になったのか?じゃなく
邪馬台国は大和朝廷になったのか?がこのスレね
150 :
サガミハラハラ:2005/05/31(火) 19:16:06
委奴国=邪馬壱国です。これは邪馬の委の国のことです。奴は国土の意味です。
邪馬壱国=邪馬台国です。これは邪馬の大いなる委の国と言う意味です。
大いなる委で大委(ダイ)でこれを中国人は台<旧字>で表記しました。
大和朝廷は120年頃、邪馬壱国が倭面土国を滅ぼした時、東方へ移住していった
人達が築いた国です.
151 :
元祖プラム:2005/05/31(火) 21:05:00
>>150 サガミハラハラ氏こんばんわ
>東方へ移動 そして後に大和朝廷確立
戦に敗れ、見たことも無い土地を目指し(目指したかどうか)落ちのびた コジキ同然の敗戦者達は
大和の地にて成功し、立身出世その勢い留まること知らずで とうとう頂点にのぼりつめ
大和朝廷を興した。
ドラえもんでも居なければ不可能じゃありませんか?
もし可能ならそこに至る経緯をご説明願え無いでしょうか?
152 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 22:22:38
大国中国共産主義者から逃れた少数の人々は、
小島の台湾で経済的成功を成し遂げましたが。
153 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 22:25:03
今後100年以内に中国共産党が滅びて、
台湾の中華民国が中国を支配することは、ありえなくはない。
そろそろ壱与以降の時代について語ろうじゃないですか。
先ずは、ネタフリとして・・・・
魏の正始10年に起きた司馬宣公のクーデター、倭人伝記載の最後の遣使より2年後の事件。
これ以降は事実上は司馬政権と言える。
東夷伝の体裁によれば司馬イの功績の目玉ともなる倭人との交流は、逆に尻すぼみとなって行きます。
晉書帝紀の泰始2年(266年)、魏晋の王朝交代に伴う朝貢(主体者不詳)以降倭人関連の記事は途絶えます。
この後、晋朝は武帝時代の東方拡大の後、鮮卑の勢力拡大力により衰退期となり南下してしまいます。
晋朝の復興により、高句麗は336年に、百済は372年に、倭は413年(讃遣使)に晋朝との復交を果たします。
この復交の遅れは致命的で「倭の五王」は、両国との任官競争でついに優位にたつことが出来ませんでした。
この空白の150年間にあっては、中国側の文献記録が無く、韓半島を含んだ考古資料だけが頼りとなりますが、
この時代をどう位置ずけましょう。
私は、当初は晋朝の東方拡大策に恐れをなして、衰退期には頼る当らず、結果として「鎖国」政策を取らざるを得なかった
ものと解しています。
この間は、国内的には古墳時代、前方後円墳が爛熟期を迎える時代でもあります。
東遷説の方々は、この時期に大きな変動があった痕跡を提示して頂く必要があるのですが、どうでしょうか?
155 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 02:00:52
>>154 >東遷説の方々は、この時期に大きな変動があった痕跡を提示して頂く必要があるのですが、どうでしょうか?
首都が移動した程度では、考古学的物証は残らない。
鎌倉幕府がいつ出来たかも、文献にたよるしかない。
>>155 苦心のネタ振りに冷たい人だねw
『痕跡』と言ったって孝古資料に限る必要もないさ。
それに古代大和に王朝が在ったことは事実なわけで、
実年代不詳の考古資料は、大王墓級の古墳を筆頭に腐るほどあるさ。
それを後世の文献や『出ていかれた』方の九州の状況と組み合わせて考える人が多いんじゃないかな。
あと、文献時代の鎌倉を例に出されたが、首都移転の傍証と成りそうな考古資料として、
かまくら道に代表される交通ネットワークの発展とか、
仏教寺院の突出した集中、近隣の武蔵国六浦港の整備などが思い浮かぶね。
晉書帝紀によれば、三世紀後葉の晉朝は積極拡大策を採り、
強圧的な東夷政策を実行している。
公孫氏や魏朝とは異なる対応だろう。
すでに成立していた高句麗は別にして他の二国、百済と新羅の成立の遠因かとも思う。当然、倭人社会にも大きな影響があっただろう。
158 :
圭角:2005/06/01(水) 09:27:14
鎖国説への疑問。
ひとつ、未だ中央集権制度確立以前の大和政権に可能か否か。合理性の有無。
ふたつ、国産鉄の精錬を通説のとおり六世紀以降とすれば、四世紀以降に
近畿に鉄器が集中増加する経緯理由の合理的説明の必要性。
みっつ、江戸時代の鎖国と言えどもはなはだ完璧な鎖国とは言い難いこと。
よっつ、水際での異国船打ち払いの可否
いつつ、流通経済、交易流通の本質。
以上からして、きわめて非現実的なものと、私は思料する次第です。
ご異論ご反論の向きのご高説は、むろん謹んで拝聴仕りますが。
159 :
サガミハラハラ:2005/06/01(水) 16:45:48
乞食同然とはいっても、鉄製の武器で武装しており、歴戦の戦士ぞろいです。
大和の地には侵略です。彼らがどのような卑劣な手段をつかったかは、古事記日本書紀の神武紀をみれば歴然です。
立身出世ではありません。勢力拡大です。
160 :
元祖プラム:2005/06/01(水) 17:32:29
>>159 遠い大和の地に行く前に
吉備とか瀬戸内海沿岸の集落があるんだから
そちらを先に侵略すればいいはずだが
それに
醜い戦の末もぎ取った土地で 巨大古墳造成に至る財源はなに?
規模の大きなマーケットなくしてあれほどの巨大古墳は造れませんよ
ファッションだけ素敵な戦士達に 経済感覚を伴う国造りが出来ましょうか
161 :
元祖プラム:2005/06/01(水) 18:15:48
元々大和の地は大和川流域に小さな集落が点在し
目立った特産品がある訳じゃ無く広い耕作面積を有するわけでもない
小さないざこざはあるものの大乱などは見られない
元々生活基盤の弱い土地で生き残るには
小から中、中から大規模共同体へ変化しなければならない
元来戦の少ない土地では『共同』認識が比較的生まれやすく 九州北部のように財を戦に費やさなくても済む
162 :
元祖プラム:2005/06/01(水) 18:29:59
こつこつと積み上げてきた大和の地において
侵略という 他方面からの武力征圧が加わる余地を、見出だせない
侵略有りで始まる大和朝廷へのプロセスを
聞きたいものです。
そのプロセスの途中には、巨大古墳造成という現実が口を大きく開けて待ってます
163 :
サガミハラハラ:2005/06/01(水) 19:54:46
侵略は弱い所を狙うのが常道です。瀬戸内沿岸諸国は相当強力だったようです。
大和は元々生活基盤の弱い小規模で平和な集落が点在するところであり、強力な共同体を結成する必要もないところでした。
そういうところに軍事力で征圧しようという集団が登場した場合、ひとたまりもないわけです。
かの一団は徹底した戦闘集団であり、武器に使える金属は徹底して武器のみに使用したようです。
そのため大和からは鉄器の出土がすくないわけです。そんな大切なものを副葬や農具にできるか?というわけです。
なお巨大古墳は、大和朝廷が倭国を統一してからです。プロセスが終了してからです。
164 :
元祖プラム:2005/06/01(水) 20:03:27
経済的な背景も出来た畿内で次に狙うは 壱岐、対馬の交易商人達から聞き及んでいる 半島、大陸交易
しかし
それを不備なく遂行するには、瀬戸内ならびに北部九州を大和の勢力圏にしなければならず
その勢力を西に延ばして行った
(その方法は解らない)
現体制のステップアップには、どおしても大陸の新しい文化が必要だし
より大きな富を得る必要性があった。
165 :
元祖プラム:2005/06/01(水) 20:15:56
>>163 そこで一番の問題点になるのが
どおして小さな集落の点在する大和なのか?
宛も無く放浪の末の出来事か、はたまたターゲットを絞りこんでの行動なのか
九州の田舎の兵士が、当時何も無くしかも山に囲まれたど田舎を?
166 :
元祖プラム:2005/06/01(水) 21:19:12
連レス失礼します
>>163 ひとつ書き忘れましたが
敗戦で国乱れ新天地に向けて東征
人数もある程度まとまっていることでしょう。
しかし補給物資は望めません どうしたんでしょう?
秋の刈り入れが終わってからの行動なら行く先々で強奪すればいいですが
敗走ですので時期など選べません
見ず知らずの軍団に協力支援なども無理な話し
兵糧持参何てたかがしれてる
どうしますか?
長距離の東征何て不可能ですよ
自国の基盤がしっかりしていないと無理ですよ
後ろでアメリカが糸を引いているなら話は別ですが
167 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 21:20:36
逃げてきたんじゃないの?
168 :
サガミハラハラ:2005/06/01(水) 23:21:43
奈良を侵略することは、出征の始めからきまっていました。
敗走とはいっても、戦後処理はおわっており追撃されることはありません。
途中で岡山の勢力を味方につけているようです。
後世岡山に巨大な大和朝廷への協力勢力が形成されたのはこの時に九州の東征への協力参加に起因するものと考えます.
臺與以後の倭について
数少ない文献資料として、梁書(唐、姚思廉 撰)諸夷伝に倭国の王統譜のような記載があります。
公孫淵誅後、卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王
卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、
復立卑彌呼宗女臺與爲王、
其後『復立男王』、並受中國爵命
晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。
ここでは、晋書には見られない記述として、臺與の後は男王であったと言うものがあります。
この男王の朝貢が晋書泰始2年(266年)のものかどうかは不明ですが、
三世紀末の八王の乱、二郡滅亡へと続く混乱期までには、まだ四半世紀の余裕がありますが、
単に晋書に記録されなかった存在なのかもしれません。
ただ、代替わりがあれば遣使を行うのは当然、266年遣使は、中国側の王朝交代に伴うものですので
男王即位は、晋書、太康7年(286年)の馬韓等十一國、遣使來獻、とかの記事の中の一国扱い
と言うことも考えられるでしょう。
臺與の時代は、少なくとも266年、遅ければ280年代まで続いていたと言うことでしょうか。
170 :
圭角:2005/06/02(木) 07:23:33
ウマミミさんのおっしゃるとおり、壱与の時代は266年もしくは280年代までは
続いていたと見て、自然だと思います。
問題は、壱与が北部九州に居たのかマキムクに居たのかですね。
ウマミミさんは、いかにお考えですか。
171 :
筑波神:2005/06/02(木) 07:45:17
ここに興味深い文がある
「正五位上勲五等太朝臣安万侶謹上」と『古事記』は終わってる 『続日本紀』は「麻呂」となっており
ふつう「侶」の字を使用するのは不自然とすることが通説になっていたが
奈良市で墓誌銘が出土され「万侶」の文字が刻まれており
通説はくつがえった。
官名も同様である
172 :
圭角:2005/06/02(木) 07:49:59
プラムさんの164へ、おはようございます。
その方法は解らないとの書込みに関しまして、私見を書きます。ご意見下さい。
住吉水軍だと思います。住吉大社はもともと大阪湾播磨灘の海人勢力でしょう。
とりわけ興味深いのは、住吉神社は東日本はよく知りませんが、西日本各地に
実にたくさん有ります。たとえば、下関や博多など数え切れません。
私は住吉の水軍を支配下として原大和国が瀬戸内を西に侵攻拡大したものと、
考えています。各地の海岸近傍の住吉神社はその名残痕跡かと思います。
当時は瀬戸内沿岸地域のクニの拠点を繋いで行けば瀬戸内の制海権掌握が可と
なります。大和政権の軍事的政権成立とは瀬戸内海の制海権の制圧こそが
陸地の領土拡張より大きな意義を持つものだと考えます。
173 :
サガミハラハラ:2005/06/02(木) 09:06:05
大阪の住吉神社は福岡の住吉神社の分祀です。つまり九州の方が本家です。
AD356年の神功皇后帰還の際、持ってきたものです。
174 :
圭角:2005/06/02(木) 09:07:27
プラムさんは風邪は直りましたか。最近は鴨禰宜さんを見かけませんね。
私は非記紀者ですが、彼の喜ぶことをひとつ書きます。
宗像海人宗像氏も瀬戸内を制圧した大和に服属し臣従して行ったと思います。
さて、イザナギノミコトの子の十二柱の神々のうちにアマテラスの他に、
住吉大社祭神のソコツオノミコト、ナカツツオノミコト、ウワツツオノミコトが
居ますが、宗像大社祭神のタゴリヒメ他の三姫神はアマテラスの子ですね。
そうするとつまり、住吉大社祭神と宗像大社祭神とは、いわば伯父姪の間柄と
なりますね。鴨禰宜さんが喜び過ぎても困るのですが、大和政権成立においては
瀬戸内と関門と半島への海路の掌握は最優先軍事のひとつだと思う次第です。
175 :
圭角:2005/06/02(木) 09:18:56
誤解を避けるため、あえて連投追記しますが
私は、末社を多く持つナントカ大社とかナントカ神社とかは、昔からの
豪族勢力が地名なり名前なりを名残痕跡にしているとの推説にて書いたものです。
したがって、神宮皇后なども所詮架空の人名としか受け止めていません。
分祀、本祀いずれが云々など論及する気もありませんが、三浦氏や住吉大社の
社務所などとは、サガミハラハラさんのご見解は異なるようですね。
176 :
サガミハラハラ:2005/06/02(木) 09:36:51
福岡の住吉神社に十五年ぐらい前にいきお札売り場の人に聞いたら、福岡の方が古いといっていました。
住吉の神の神話は九州が舞台ですから九州のほうが先であって当然です。
177 :
鴨禰宜:2005/06/02(木) 09:44:19
うわさをすれば。圭角さんおはようございます。
海神(わたつみ)の、豊旗雲(とよはたくも)に、入日(いりひ)さし、
今夜(こよひ)の、月夜(つくよ)、さやけくありこそ
この作者、天智天皇、は相当の古代史の専門家であった感じで
香具山は 畝傍を惜しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし
古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき
色々とわれわれにヒントを与えてくれます。こんど2chにお招きしたいものです。
さて、これとは関係はありませんが、宗像のはるか沖合いの沖ノ島付近から
暖流に乗って一気に出雲・丹後へのショートカットができ、物流の流れが
変化したともいえるんじゃないかと思います。もちろんこれは季節、貨物
によりけりで8-9月の台風気等は極めて危険ですがね。
178 :
鴨禰宜:2005/06/02(木) 09:51:34
海岸から沖(実は逆で沖から海岸にかもしれないが)に向う水平方向とは
90°異なるすもぐりの世界は難波とは異質の感じがありますね。
179 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 10:01:26
180 :
鴨禰宜:2005/06/02(木) 10:05:31
沖ノ島において飲料水、食料の補給を受ける船はその積載貨物の5%を消費税として
宗像神社に収めるべし。小泉純一郎・・・こんな法案が出雲議会に提出されたとしたら
現在の郵政法案どころの騒ぎではなかっただろうことも容易に想像できます。
181 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 10:15:49
住吉大社は、宗像大社をパクって応神天皇が造ったんだよ。
182 :
サガミハラハラ:2005/06/02(木) 12:41:54
大阪に住吉大社を勧請したのは神功皇后です。
住吉の神は熊襲の氏神であったとかんがえます。
皇后に熊襲が協力したことにより、その氏神をまつったのでしょう。
183 :
☆ななみちゃん☆ ◆jvBtlIEUc6 :2005/06/02(木) 15:34:35
>>169 >臺與の後は男王であったと言うものがあります。
>この男王の朝貢が晋書泰始2年(266年)のものかどうかは不明ですが、
台与の後の男王は崇神だろうけど、古事記の干支から崇神の没年を
258年と考えると、晋書泰始2年(266年)の朝貢は、崇神よりも
後の王が行ったものと考えられます。
>臺與の時代は、少なくとも266年、遅ければ280年代まで続いていた
台与の後の崇神が258年に没していますので、
266年〜280年は、崇神から1〜4代くらい後の
時代ではないでしょうか。
184 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 16:12:10
185 :
元祖プラム:2005/06/02(木) 21:17:49
圭角さんこんばんわ
体調の方は七分程度回復しましたが 今度は鼻水か止まりません。
ところで 初歩的な質問で恥ずかしいのですが『倭の五王』について少々
倭王武は『梁書武帝紀』にて鎮東大将軍(号を征東大将軍)に任じられ、その前文に
「斉建元中除武(使)持節(都)督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事…」と
そして、一連の文に
鎮東大将軍・百済王の餘大と記載されています。
イマイチ内容を理解できず困っています。
どなたかご教授を
よろしくお願いします。
神功皇后が実在しない、というのはそうなんでしょう
ただモデルになった人物や神様はいたと思いますよ。
例えば、玄界灘に色濃く残るオオタラシ姫伝承。典型的な母子神信仰ですね。
あとは倭人伝の卑弥呼や、白村江の時の斉明か。
188 :
元祖プラム:2005/06/03(金) 06:06:02
190 :
サガミハラハラ:2005/06/03(金) 07:50:44
186さんへ
神功皇后が実在しないという根拠はなんでしょうか?
遺骨がないというなら私の曾曾じいさんもそうですが。
倭における男王と女王期の変遷は、それぞれ政祭一致期と政祭分離期とするのが通説でしょうか。
この後、四世紀になると東北アジアでは中国王朝の支配力が低下し、
替わって高句麗や北方系が強大化します。
中国王朝の統制下のもと、分立状態にあった三韓諸国では、
辰王などの既存システムでは対応できず、百済・新羅の二国を中心に統合されていきます。
この期に鉄を含む交易システムも大きく変化したものと考えます。
当然、倭人社会のシステムも大変化が生じたことでしょう。
192 :
圭角:2005/06/03(金) 08:06:47
ナントカ天皇が記紀のナントカミコトという方々、教えてください。
大和政権が邪馬台国の卑弥呼の系譜であるのなら、なにゆえに卑弥呼として
マキムクでも畿内にでも、堂々と正面から祀らないのでしょかね。
アマテラスとして伊勢に祀ってあるじゃないか、という人に教えて欲しいな。
何故に大和ではなく遠い伊勢なんでしょうかね。
三輪山付近にはすでに地元の神が祀られていても、アマテラス卑弥呼を
大和の地には、何故堂々と祀らなかったのでしょうかね。
卑弥呼が九州邪馬台国の女王だったからと解釈して自然ではないでしょうか。
193 :
圭角:2005/06/03(金) 08:20:24
卑弥呼は魏書の帝紀にも記してある固有名詞の実在人物です。
その実在の人物を消したあるいはアマテラスに置き換えた記紀の人物比定は無意味
徒労です。神代編のナントカ天皇をいくらひねくりまわしても無意味なことです。
歴史書というのは、常に勝者覇者に都合よく書かれていることは自明のことです。
記紀の編纂には卑弥呼を周知していた渡来人もかかわっていたはずですから、
天武天皇のご機嫌を損ねることはできません。陳寿の記事に有名な赤壁の戦いが
記してありますが、たったの一行です。その理由は自明です。魏が負けてるから。
194 :
圭角:2005/06/03(金) 08:30:08
ウマミミさん、四世紀になると高句麗が強大化したという書込みは、勘違い
ではないですか。たしかに四世紀初頭に二郡を滅ぼしていますが、その後、
鮮卑の慕容氏から痛めつけられ、百済との戦いでは国王を戦死させていて
逆境の連続が高句麗の四世紀の年表年次です。好太王の即位、高句麗の復活
は391年のことです。念のためウマミミさんのお手元史料でご確認を。
195 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 08:45:46
>>180 やはりあるんですね↓
「勒島貿易は,朝鮮半島の政治変動による韓人の日本列島移住という事態の
なかで鉄器・青銅器に対する倭人の需要が刺激されたのに対し,朝鮮半島の
政情安定によって朝鮮半島からの物資の流入が鈍ったために,倭人の側から
積極的に朝鮮半島南岸での交易を展開したことにより成立したと思われる。勒島
貿易での主要な交易品と考えられる鉄器・青銅器・金属素材などは,山陰・
畿内にももたらされたはずであるが,勒島でみられる弥生土器の大半が北部
九州の土器であることからすると,主に北部九州の倭人が山陰・畿内への
金属器・金属素材供給に介在したと考えられる。そして,その流通路は,
瀬戸内よりも山陰日本海岸を経由したようである。」
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html#2_3
196 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 08:59:01
197 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 09:03:05
198 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 09:14:21
>>186 沖ノ島関連としての「息長足媛」、ただし、顧客である近江、摂津、山城方面でも
、また、仕入先である任那方面では辛国息長大姫大目命(The Greatest Quenntてな
ことかな)として神話的存在となり、太陽神アマテルと習合されたと考えられますね。
199 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 09:24:30
「チンド」「ヌクト」については難波の女王天童姫がチンド翼賛の歌で風靡されて
いますが、古の、難波のアカルヒメは身をもって御体験されたようで、ご苦労なこと
と思いますね。
200 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 09:30:49
細烏女のパートナーはヨンさんでしたが、アカルヒメはアメノヒボコという大きな
ボッコにストーカーされたことになっています。どなたの言い分が正しいのかとかく
この種の話には証人がいませんよね。
201 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 09:36:59
私はウズヒコ(珍彦)というのは大きなボッコを持っていたのではないかと想像している
のですが、ではその理由はと聞かれると、秦の末裔融通王なるものは纒向に兵主神社
を築いた、つまり、箸墓を建設した勢力ではないかということです。
202 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 09:40:50
では纒向の「オオモノヌシ」はどうなる。神女に聞くとあれは「スクナヒコナ」じゃ、明け方
には小さな蛇ほどのサイズになり腐ってノー・・・。
203 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 10:13:17
秦の時代から纒向に時代までは4-5世紀あります。この間の天下の形勢やいかにと
いえば、先ずは扶与(冒頓単于によって駆逐された小月氏の一部を含む)、衛氏、秦
からの各種渡来民、なかんずく、徐福集団、そうしたものをまとめる漢の楽浪、帯方、
そこから派生するハクサイを含む三韓、倭に渡海しての、物部集団、これの九州から
投馬国吉備への移住といった長い歴史があったものだと思われます。これは一方的な
流れではなく、アカルヒメ、細烏女などの弁辰進出、そこでのコングロマリット集団の
倭国への渡来ということもあったと思います。
204 :
圭角:2005/06/03(金) 10:20:10
鴨禰宜さんもお暇なご様子ですね。かくいう私もですが。
邪馬台国は大和朝廷になったのか、という当該スレにおいて皆さんのご意見
への感想を書きます。結局、畿内説の場合は前方後円墳体制論もしくは政治
連合を持ち出さないと、大和政権の西進拡大が説明できない。しかし、広域
政治連合というのは根拠薄弱だから、つまり幼稚園のお話し合いという仮説
をもっともらしく修飾するために、前方後円墳でお化粧することになる。
もっとも、白石氏のように政治連合成立の契機となったのが、近畿瀬戸内の
政治連合が半島の鉄の搬入経路を巡る争いで三世紀初めに勝利したなとどの
デタラメを言う。ところが、この時期には未だ鉄器は東漸していないから、
やむをえず畿内の鉄は溶けちゃった、と済ましてしまう。
205 :
圭角:2005/06/03(金) 10:32:57
一方、九州説者も大和政権の西進拡大を十分に説明できる仮説を有しない。
そこで、東遷説を持ち出す。しかし、九州説では南の狗奴国の追撃封じ込め
への具象的仮説も有せず、東遷の考古学痕跡も無い。そこでお決まりの、
記紀の神武東征に目をつけて、ミコミコトを並べ立てるも、いかんせん、
リアルの欠落をして説得力が無いと自らも思うから、まさに自己暗示して
記紀は真実を伝えていると自らを思い込ませ他にも同じく主張する。
勿論、非記紀者は頑強に受け入れない。よって同じことを重ねて強弁する
この悪循環。そこへたまに渡来人征服説も登場して大混乱。
206 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 10:37:39
>>204 圭角さん、おはようございます。
潜在的に土地神話、一所懸命思想を生む稲作文化はプルが原則、江戸幕府の転封の
ためどれほどの苦労があったかなどを考えると、仮に、物部の移動があったにせよ、
農民の移動であれば明治の北海道開拓のようなことであり、ありえそうになく第2次産業
すなわち物部としてこそ移動はありえたのだと思います。大和地方でクリティカルな意味
を持っていたのは神武軍が入っていった大和川・竜田川の狭い峡谷であり、奈良盆地の
水位低下にも焦点のあったことが考えられます。いずれにせよ吉備、河内、大和などは
低気圧圏であったわけであり、流れは、川の流れのごとく自然なものであったのでは
ないでしょうか。
207 :
圭角:2005/06/03(金) 10:41:04
ですから、いかがでしょうか、皆さんに提案ですが、
九州説、畿内説のいずれにしても、大和政権が西へ伸長拡大した経緯の仮説
をもって、邪馬台国は大和朝廷になったのか、を論じてみませんか。
東遷説にしてみても、一度は後にした北部九州を奪回したことになるのです。
ならば、その経緯についての仮説を期待したいですね。
畿内説のみなさんも、お話し合いで成立した広域政治連合などとは、本気で
お考えになっているものではないと存じますが。
208 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 10:43:48
インフレーション宇宙のように膨張したモノカルチャーに対し、土器、金属器、土木
灌漑などのインフラ建設、それに対する集落を超えたメタ的な結合はモノカルチャー
経済の内蔵する必然的課題であり、東シナ海沿岸にこうした動きが多少の人的な
流れを伴って発生したというように一般化ができるかとも。
209 :
圭角:2005/06/03(金) 10:48:59
それからついでで恐縮ですが、私は不幸にして、お話し合い政治連合の例を
知りません。むろん、遊牧民族においてならば存じております。
なれど、当時の農耕民族もしくは漁労の民によるお話し合い政治連合なるもの
が世界史において珍しいものでないのならば、後学のために、どなたか
ご教示くださいませ。
210 :
圭角:2005/06/03(金) 10:53:52
鴨禰宜さん、まずは、東遷の必要性と必然性の説明をお願いします。
無論、仮説でけっこうなのは当たり前ですが、単に東遷したのではないか、
というのではなく、南のライバルの狗奴国の動向や、東遷を具体的軍事的にも
具象しうる説明を期待しています。
211 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 11:06:53
スカウトというのが相当暗躍したようです。大和宿禰、ウズヒコなど。別に神武に来て
もらいたかったんじゃなく、建設労働者、技術者(鏡)などですね。狗奴国は呉と通じ
ていたんじゃなかろうか。ところが赤烏年号のある鏡は山梨県から出ている。
212 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 12:30:48
>>209 『お話し合い政治連合』論者なんてもの自体が存在しないから
誰からも説明は無いと思うぞ。
213 :
圭角:2005/06/03(金) 13:19:22
しかしながら、白石氏が執筆を担当されている山川の日本史教科書では
広域の政治連合という文言を用いてありますので、本質としてはやはり
お話し合いではありませんか。卑弥呼共立をお話し合いで決めて女王と
したとする説がもっぱら多数説でしょうが。
日本古代史独自特有のお話し合いという学説を唱える学者さん、多いですよ。
214 :
圭角:2005/06/03(金) 13:33:16
皇国史観から未だ抜けきれていないのですよ。前方後円墳にしたところで
大和発祥とは考古学上も未だ証明されていない、と奥野正雄氏も言ってます。
神武東征の前に天孫降臨なる神話を学説仮説で論じている学者さん多いでしょ。
実在もしない神武の名を鴨禰宜さんなど実に多用されています。
このスレに参加してみて一番驚愕したことは、歴史学に記紀神話伝承を
多用していらっしゃる方々が多いことでした。その理由を自分なりに考えた
結果、自身で考える仮説より記紀をあれこれとこじつける仮説構築の方が
安易だからからでしょうな。記紀は真実と断言重言すれば、馬鹿らしくなり
もういいよ、と降りた方も以前からずいぶん見かけましたよ。
このスレには記紀信奉者の方々は、やはりスレ違いですなあ。
215 :
圭角:2005/06/03(金) 13:49:43
さてところで、大和政権成立時の広域政治連合成立形成を主張する皆さんへ。
その背景は何なのでしょうかね。そもそも、政治連合と簡単にいわれますが
後世の日本史での政治連合なるものが、ありますかな。
古代史の政権成立に参考になるような、もしくは批准するに値する政治連合が
ありますかな。加賀の一向一揆にしても天草四郎もその範囲領域は狭小です。
ちなみに政治連合の意味は、強いて解すれば二つ以上の政治組織体の結合の
意でしょうが、広辞苑においても、政治連合そのものとしては載ってません。
つまり、政治連合なる文言はそのくらい抽象的曖昧模糊ということですな。
216 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 13:53:32
畿内政権の鏡分配制度(椿井大塚山古墳に集中していることで知られる)が
九州政権(伊都国、奴国を中心として成立していた九州北部集落群)のコピペ
であることは疑うべくもありませんが、神武説話の如き戦闘を裏付ける遺跡は
全くありません。香具山の埴で焼いたヒラカが標準化ということならわかりますが。
では九州からいきなり東遷があったのかと考えると、例えば鏡作りにしても近畿に
多い銅鐸作り集団が製品を切り替えたのかもしれません。しかし、何かがあって
九州の発想が畿内に伝わった、そうしたエーテルを神武としますか。この正体を
考えていると倭人伝の投馬国というのが怪しい。戸数は多いが場所が広域のよう
である。こうしたことから投馬国とは吉備から播磨にかけての地方ではなかったの
かななんてことが考えられる。九州の次には吉備があった。それに続いて纒向が
あった。こういう風に考えてみたいと思っています。
217 :
圭角:2005/06/03(金) 14:01:52
織田と徳川の政治連合と言う人がいるやもしれぬので、先に言っておきます。
いわゆる合従連衡と政治連合とは別物ですから、念のため。
小生が不思議でたまらぬのは、政権が政治連合から生まれ出るということです。
むろん、近世なら例も多々ありますが、日本で最初の政権が大和政権でしょ。
最初の政権が政治連合を基に生まれますかな。中国の殷、周、秦、漢などでも
政治連合を基盤に政権樹立ではないですな。倭だけが特殊なんですなあ。
だって、和をもって尊し、とする特殊な史観が浮遊していますからなあ。
218 :
圭角:2005/06/03(金) 14:04:56
鴨禰宜さん、だから、東遷の必要性必然性またその背景に言及してください
と先ほどから再三お願いしているじゃああーりませんか。
219 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:07:12
安本さんが九州、甘木朝倉と大和との地名を対比させた図は有名ですが、鳥が
羽を広げて東に飛ぶようになっているのが不思議ですね。私はこれを宗教的な
陣形だと見ます。出雲にアマノヒナドリという言葉がありますが、それは日の鳥の
ことであり、ヤマトトトビモモソヒメというのは左右4旗の両翼を持つ百済(百工、百姓)
等の物部(職業的に特化した部族)の頂点に立つ女王という意味で、各国から共立
された卑弥呼をさすものと考えています。大和と八幡は同じ意味になりますね。
220 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:12:36
圭角さんはこのコンコルドの如き怪鳥は結えなくして着地したのかと質問されている
ようですね。陳寿さんの伝聞では一度男の王を立てて後70年くらいですか国が治ま
らずとのことです。纒向には卑弥呼の70年前の巨大遺跡はありません。あるのは吉備
の楯築です。ここに首都を建設することに国中が反対したんでしょうね。
221 :
圭角:2005/06/03(金) 14:13:59
物部氏の東遷については昔から鳥越憲三郎氏が力説されておりますが、その
必要必然もしくは経済背景などには言及がなかったと記憶します。小生の
記憶違いならご指摘ください。
東遷説は東遷移説ではなはだけっこうと思うのですが、仮説である以上は
やはり、根拠や説得力は持つべきでしょう。それがないかぎりは辻褄合わせ
としか受け止め難いと申し上げている次第なのです。
222 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:14:41
やはり、神武説話の通り大和宿禰などが日向の豪族なんかを挑発してことを起
こしたのかもね。
223 :
圭角:2005/06/03(金) 14:18:35
鴨禰宜さん、手塚治虫の火の鳥や大和と八幡の意味は置いといて東遷の必然
の背景についてお尋ねしているのです。
224 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:19:08
東遷説を言うならその実体を明らかにするべきですね。古墳の形体からいえることは
ヨモノヒラサカ(四隅突出墳)宗教に対立する新しい宗教が創造された感じがあります。
その主体は東瀬戸内海の豪族達でしょうか。
225 :
圭角:2005/06/03(金) 14:19:56
鴨禰宜さん、やはりーーーかもね、では拍子抜けしますよ。
226 :
圭角:2005/06/03(金) 14:22:03
古墳は宗教なんですか。
民俗的なものとする解釈が一般的とされていると記憶しますが。
227 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:24:35
この豪族達とは鳴門萩原、ホケノ山などですが楽浪郡と共有する鏡があたりしますし、
日向に本邦初の木郭(ユーラシア系)が現れたりしてますね。東遷というのは海外も
視野に入れるべきではないでしょうかア。
228 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:26:12
古墳の上で行われる儀式に変革があったということはもはや時代が民俗から宗教に
変わりつつあったのでは。
229 :
圭角:2005/06/03(金) 14:36:57
鴨禰宜さん、三世紀前半から前方後円墳を築造して以来、
七世紀の626年に大化の薄葬令が出たときまでの期間でも四百年間です。
歴史時空と呼称するに相応しい長さです。民俗的なエネルギーなくては、
これほど長期にわたり造営しつづけることは困難です。
仮にこれを宗教と断ずるなら、始祖は誰とは記紀には書いてないのですか。
前方後円墳が宗教なら何という宗教でしょうね。神道より古い訳ですよ。
またさらに、東遷は海外も視野に入れるべきとはどういうことですか。
230 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:46:44
共産主義とか主体主義でないことはわかりますが。しかし、最初は君主制の非常に
薄い共和制に近い共立制ですかね。陳寿さんは単に鬼道と片付けていますが、圭角
さんは何かあったんだろうてなもんですね。パチンコの景品みたいな鏡の配分システ
ムではなかったのかな。まー、古墳の渡りの部分は現在の神社に残る橋、後円部分
はその後の本殿でしょうな。神道の基礎になる九州神話とはまだ遭遇していなかった
ことは考えられますね。
231 :
圭角:2005/06/03(金) 14:50:46
鴨禰宜さん大和政権の鏡配布説 というのはもはや過去に葬られた仮説ではないかな。
似たような説に前方後円墳縮尺設計図配布説という珍妙な仮説もありましたな。
こういうのって、いわゆる大和中心主義なる皇国史観の亡霊幽霊ですな。
232 :
圭角:2005/06/03(金) 14:55:04
鴨禰宜さん、日本の古代史を語るのに、いくらなんでも、共和制はないよ。
語彙としては非常に時代錯誤ですね。それに、君主制なる文言もさらにまた
一般の君主制の意味からして錯誤不適当ではございませんか。
233 :
圭角:2005/06/03(金) 14:58:22
ところで、鴨禰宜さんは東遷説者、わたしは非東遷説者ということだけは
解りました。これからも宜しく。
234 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 14:59:41
宗教が何であったにせよ、二上山からバケツリレー式に石を一つ一つ昼夜となく
手渡すその精神は現在の地上にはないものではないかと思います。
235 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 15:02:15
中国では既に共産主義があったらしいし、魏の王朝なども心の中は唯物論者
であったのかもね。
236 :
圭角:2005/06/03(金) 18:14:15
鴨禰宜さんの 234と235には、なんとご返事申し上げてよいか不明です。
ご返信できぬこと、恐縮ながら、ご無礼させていただくほかございません。
あしからず。
237 :
圭角:2005/06/03(金) 18:20:15
さて、もう一度重ねて皆様にご提起させてくださいませ。
畿内説、九州説、東遷説のいずれをとるにせよ、大和政権の西日本統一または
服属臣従させた経緯過程は重要な論点かと思料いたします。
皆様のご慧眼によるご高説のご教示賜りますこと期待申し上げております。
238 :
元祖プラム:2005/06/03(金) 19:05:01
圭角さんこんばんわ
先程までのお二人のやり取りROMらせていただきましたが 鴨禰宜氏の後半部分は
どうしても意味不明で理解に苦慮致します。
畿内勢の西進に『吉備』『瀬戸の海賊?』の存在は無視出来ません。
瀬戸内どうしというのはどおやら余り大きな揉め事を引き起こさないようで
陸側と海中側との住み分けがうまくいってるみたいです。
それに『吉備』にしても
かなりの経済力を持ちながら 吉備中心にした広域拡大をした痕跡も無く
余り歴史上表舞台に出ていないように感じます。
そのへんに何か糸口が有りそうな
239 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 19:22:09
圭角さん、細かいのは抜きでね。圭角さんの地元発生説に若干補強して賛意を
表す。
(1)秦の時代九州に銅剣銅矛、出雲丹後経由河内に銅鐸と青銅器文化が到来。
(2)後漢末に吉備・瀬戸内海東部に楽浪方面から扶与系を含む古墳文化が到来。
投馬国とし首都を吉備纒向に建設。これには天照(九州・近畿・東海)も一次は出雲の
指導下に参加したものの、叛旗を翻し、河内・大和方面に百部(モモノベ)制度を導入、
遂には纒向建国。
(3)4-5世紀纒向邪馬台国は九州と接触、その神話を取り入れ大和朝廷となる。
てなことで、後漢光武帝の金印なんてのは神話時代の話。
これってどうでしょう。天皇の起源はモモノベのトップ。
240 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 19:24:59
失礼、スサノオとか、吉備のウラなんていうのは外人勢であった。
>>215 >さてところで、大和政権成立時の広域政治連合成立形成を主張する皆さんへ。
>その背景は何なのでしょうかね。
瀬戸内海交易の拡大により、より広域の政治権力が求められた、ていうこと
でしょう。
商取引が安全・円滑に執り行えるように、航路の安全を保障する権威が
必要とされた。
それ以前は、後漢に承認を受けた「玄界灘グループ」がその役割を
果たしていましたが、@倭国大乱による伊都王の権威失墜→A瀬戸内海沿岸に
高地性集落が現れ始め、膠着。軍事的手段による解決が困難になる→B女王共立という
政治的決着が図られたということ。
>>215 >後世の日本史での政治連合なるものが、ありますかな。
上の方でも言いましたが、関東武士団による初期鎌倉幕府は
良い例になると思いますよ。
頼朝=卑弥呼で考えてみて下さい。
243 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 19:31:23
↑玄界灘グループは渡来が引き起こした倭国大乱、投馬国建設によって
衰退し、近畿との接触を断たれたというのは?
244 :
鴨禰宜:2005/06/03(金) 19:34:50
ピッチャー、神武君、ピッチャー、神武君。これ場内アナウンス。
245 :
太:2005/06/03(金) 19:56:09
>>214 記紀のどこまでが神話伝承だと言われるのですか?それとも記紀の全部だと主張するのですか?
>>237 >畿内説、九州説、東遷説のいずれをとるにせよ、大和政権の西日本統一
>または服属臣従させた経緯過程は重要な論点かと思料いたします。
ヤマト政権の大王が軍事的統率者として君臨出来たのは、応神以降だと
思いますよ。その頂点が雄略で。各地の王たちから巫女を差し出させて
采女とし、宗教的には全国を統一してました。
ただ各地の王たちには、まだある程度の自主性が残されていたと思います。
大和朝廷が各地の紛争や相続争いなどに積極的に干渉していき、
徐々にその支配を強めていったのでしょう。
実際に軍事的に各国を制圧できたのは、もっと時代を下り、継体以降の
ことでしょう。宣化の時に、屯倉が激増していることから考えると。
247 :
元祖プラム:2005/06/03(金) 21:15:51
>>246 >宗教的に全国を統一
その宗教は何?
いまだかつて日本を統一してしまった宗教など聞いたこと無いが
それも応神の頃だろう?
248 :
元祖プラム:2005/06/03(金) 22:17:58
半島への進路に瀬戸内海は避けて通れない
瀬戸内海水先案内人(海賊)を引き込み 九州へのシーラインを確保、安定的な海上交易を始める
次第にそのパイプを太くして行く
瀬戸内海航路には水先案内は必要不可欠、彼等に美味しい餌を与え争わずして
畿内勢の内に取り込むことを選択したはず
249 :
元祖プラム:2005/06/03(金) 22:35:07
大和陸運(株)は(株)瀬戸内海運の第三者増資を引受
筆頭株主に
後に株式交換により完全子会社にしてしまい
新会社『大和流通株式会社』が誕生 業界一位の座を得る
それまで陸運業において肩を並べていた『吉備陸運』はいつの間にか、一地方陸運に
>>247 宗教という言い方が気に入らないなら「呪術的に」でもいいよ。
251 :
元祖プラム:2005/06/03(金) 22:59:59
その地位を地方陸運に落としたといえ
その莫大な含み資産は魅力的 これから『ノース九州商事』に敵対的M&Aを仕掛け 外資と対等商売するには『吉備陸運』を取り込みたくなる
『吉備陸運』としても『大和流通』の旗下に入り生き残りをかけたかった
252 :
元祖プラム:2005/06/03(金) 23:37:43
『大和流通』が宗像に本社を持つ『ノース九州商事』の取り込みを始めようとしているころ
本社『大和グループ』が動き出し『大和流通』と『吉備陸運』の持ち株新会社会社の設立を画策していた
その比率は大和 1吉備0、1のなかば乗っ取りホールディング会社である
大和グループの流通部門『『大和陸運』は九州進出を前に 日本一の流通会社
畿内、吉備、瀬戸内海に拠点を持つ『大和グループ:大和商事HD』になった
(明日の日本史経済新聞早刷板より抜粋)
鴨禰宜さん。
あなたは他者との議論を欲していないのでしょうか。
知識はあるんだろうけど、まともな根拠も提示せずに長々と書かれると、
いちいちレスする気が失せるんですよ。
ポイントを絞って書き込んで下さい。
>>195 鴨禰宜氏ご推奨のサイトを私流に見ると弥生時代全般をとおして日韓貿易のシステムは、
勒島と壱岐・原の辻において行われる拠点型交易、及び直接消費地近在まで「商人」がやってくる
移動型の二系統があったように思えます。
拠点型と言うのは「バザール」のようなもので、特定の場所に各地から「商人」が集うシステムです。
この場合、「拠点」自体は、これといった産品も無く、さして重要な消費地である必要はありません。
大事なことは、物理的・政治的にある程度の「中立性」があり、また安全な場所であることでしょう。
つまり、交通上の利便があり、特定勢力の中心部でもなく、されど遠隔の地でもないこと。
これは、勒島と壱岐に共通して言えることですが、勒島は、韓半島南岸多島海中の一小島、
島自体には産品はあり、また、地域の大国、金官からは適度の距離にあります。
壱岐は、勒島に比べればはるかに大きな島ですが、倭人伝の記載によれば食料自給もままならい国です。
九州島西岸・瀬戸内・山陰からはほぼ等距離、そして、これも地域の大国、伊都と適度の距離を保っています。
「適度の距離」とは、微妙な表現ですが、地域外の「商人」、壱岐の場合であれば、三韓や帯方・楽浪郡の商人に
とって、ある程度の「自由」が維持でき、かつ、安全保障上の効果も得られる距離とも言えます。
次に移動型ですが、これは韓半島に倭人の生活土器が、そして倭地(特に玄海地方、瀬戸内各地)には、
韓系・楽浪系の土器が、港湾地区を中心に数多く出土することから、多くの人的交流があったことは確実ですので、
それに伴う物資の流通が主体だったと思います。
ただし、これが古墳時代(三世紀前葉以降と思って下さい)に入ると大きな変化が見られ、韓系の生活土器の出土が
瀬戸内地方からは激減し、北九州地区に集約されます。
これは、瀬戸内の流通システムが倭人側の統制のもとに置かれ、韓人との交易は博多湾のみに制限されたように見えます。
つまり、北九州・瀬戸内を包括するような大掛かりな交易システムが完成されたわけです。
私は、この交易システムを作った勢力こそ、卑弥呼共立勢力なのだと考えています。
そして、邪馬台国自体は畿内にあったものとも考えていますが、その詳細はいずれまた・・・・
255 :
鴨禰宜:2005/06/04(土) 05:55:38
>>254 ウマミミさん、バザール、常設展示販売場、インプレッシブですね。
>ただし、これが古墳時代(三世紀前葉以降と思って下さい)に入ると大きな
>変化が見られ、韓系の生活土器の出土が瀬戸内地方からは激減し、
>北九州地区に集約されます。 これは、瀬戸内の流通システムが倭人側の
>統制のもとに置かれ、韓人との交易は博多湾のみに制限されたように見えます。
>つまり、北九州・瀬戸内を包括するような大掛かりな交易システムが完成され
>たわけです。 私は、この交易システムを作った勢力こそ、卑弥呼共立勢力なの
>だと考えています。 そして、邪馬台国自体は畿内にあったものとも考えていますが、
>その詳細はいずれまた・・・・
一大卒がこれに似てます。古墳から占うと苅田近辺の大塚山古墳、この辺は
豊後水道沿いとも言え、西部九州より本州各地に近縁であったことが考えられる
のですが、最終倭国乱、纒向革命の大立者で明治維新の勤皇の志士出身の
大物のように一大卒に就任し、諸国を睥睨したということもあるかと。
諸国これに従うなんていってるが、要するに奴国、旧倭国王家の監視も大きな
仕事だったんでしょう。国旗のような鏡を朝廷に渡すのが仲哀の頃ですから
それまでは出雲と裏で倒閣、クーデターの話ばかりしていたのかなー。
256 :
鴨禰宜:2005/06/04(土) 09:08:14
夜は寝るのが早いために、舌足らずな部分を補うと
考古学的時代分類を実年代に換算するときの目の子としては↓
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/katudoh/kenkyuhokoku/031221/shiryo7.pdf を使用し、高地性集落
http://www.yu-ji.com/kouchi.htm を検討すると、
第V期というのは戦国末-前漢初程度だがこれが、高地性集落第3期
『北部九州から瀬戸内に高地性集落出現---
九州、山陽、四国、畿内、州部、関東地方にかけて
高山性、高原性、高地性集落出現、特に瀬戸内に密度が高い』
これは例の勅島貿易がらみの海外からの脅威に対する防衛、
『第W期(紀元前後) 第4期
中部・東部瀬戸内、四国、畿内、紀伊水道東岸にわたる
畿内系土器の分布圏に分布』
これは九州方面からの東遷による投馬国形成に対する緊張、
豊前香春山から出雲にスサノオが神やらいされ、同族の丹生津姫等が
四国、紀州で丹沙を求めたのではと考える。
第X期(その後卑弥呼没辺りまで)
『第5期
中部瀬戸内から畿内にかけての地域と紀伊水道の東岸に分布---
九州、山陽、四国、畿内、中部、関東、東北地方に出現
第3期に似た分布を示す』
これは纒向建設にかかわる緊張、こんなところかな。
>>256 「考古学的実年代」ってのは、ブレが激しいので細かいことは考えないほうがすっきりしますよ。
で、「高地性集落」ですが、ご提示のリンク先は、よく教科書にも載っている分布図ですね。
防御的機能を重視した集落なのだから、守るべきもの(富とか人)の多い裕福な土地なんでしょう。
海賊に狙われることも多いので、「クニ」同士の争いだけが要因ではないのではとも思います。
全般を見回すと瀬戸内に多いことは確かなんですが、ただ一点吉備だけは少ないように見えます。
吉備は、桃太郎の本場でもありますので、鬼退治(海賊行為)の好きな連中の本拠でもあったんでしょうかね(w
258 :
鴨禰宜:2005/06/04(土) 12:27:10
そこ、吉備、それと、九州北部、その辺から周辺に影響を及ぼしたから周辺が
ガードしたのではないでしょうか。その地域をネガ画面にして捕らえ、そこに投馬国、
豊前の秦系居留地の姿を描きたいわけです。
259 :
鴨禰宜:2005/06/04(土) 12:45:59
>>255 寺沢さんの王権誕生を見るとこれは石塚山古墳でした。コピペしそこなった
感じですが、自己流に豊前の山々とかのウェブ情報で創造をたくましくしていた
のですが。
260 :
鴨禰宜:2005/06/04(土) 13:11:21
>>258 吉備の重要性
皆さんのおうちを中心に近郷の町名が
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/bemin-data.htm こういう風であったとしたら、皆さんは自分のうちが皇居ではないかと思うはず
じゃないでしょうか。これは出雲にはないと思います。九州にもこれだけ集中
したものはなく、やはり、楯築遺跡は纒向のリハーサル、被葬者は国中治まら
なかった男王だと思うのです。ところで、備中・賀夜の生部、これってナシベ
と読んで銅を精製する職業のことだそうです。どこかで耳にしたようですね。
倭人伝のナシメてのがこれかなと思っているんです。
横から失礼しますが、ちょっと戯言を聞いてください。
ヤマタノオロチっていますよね。スサノオの尊が倒した大蛇。
あれは洪水の神格化だの色々言われていますが、あれが反政府軍の神格化だとしたら……どうでしょうか。
『ヤマタ』ノオロチと『ヤマタ』イコク……強引なこじつけかもしれませんが。
神話を史実と結びつけるのも、本来はあまりしてはいけないことですが、あえてするなら。
ヤマタイコクの政を担う卑弥呼が死に、次期の卑弥呼としてクシナダヒメとその姉妹が候補にあがるが、
それをよく思わない者たち……これがつまり男王政権樹立を狙う者、つまりオロチなわけだが……
クシナダヒメの姉妹は皆ことごとく殺される。
そこにどこかの国を追放された王子がやってくる。彼は、男王政権樹立を狙う者たちを倒し、クシナダヒメを救う。
ヤマタイコクを亡国の危機から救った彼は、太陽神の弟、スサノオの尊と同一視され、神格化される。
……ここまで書いて、これはオカ板向きだったことに気づいたorz
262 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 20:46:37
>>261君あんた賢いよ
キッチリとオカルト認識が出来ている
その辺の(記紀オタ)連合に爪の垢でも煎じて飲ませたい
263 :
元祖プラム:2005/06/04(土) 21:24:30
>>260 鴨禰宜さんこんばんわ
生部(ナシベ)難升米(ナシメ)
こんな説がありますなぁー『難升米』は
(ダシベ、ダシマ、ナシマ、ナシベ )と、訓めることから邪馬壹國の外交担当官ではないかと思われていて
天日槍の末裔で田道間守は常世の国から橘を持ち帰った但馬の人で 子孫に神功皇后がおり 伊都の系列である
そんなところから
外交担当官の家系が但馬にあるのではないか?
264 :
元祖プラム:2005/06/04(土) 21:54:54
>>257ウマミミさん、こんばんわ
瀬戸内海沿岸の『高地性集落』ですが
寺沢氏の「王権誕生」P200にも分布図が掲載されております。
瀬戸内海沿岸に多く分布する理由の一つに
夏の瀬戸内海沿岸部におこる(ベタ凪ぎ)状態対策並びに有害虫対策をあげておきます。
これが全てという訳ではありませんが
そんな単純なことも必要ではないでしょうか?
歴史は人々の生活の積み重ねですから
265 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 22:46:27
>>264 >夏の瀬戸内海沿岸部におこる(ベタ凪ぎ)状態対策並びに
>有害虫対策をあげておきます。
詳しく教えて下さい。
266 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 22:59:04
>>256-257 リンク先の高地性集落の分布図に、国内最大級の鳥取県・妻木晩田遺跡群(1〜3世紀ごろ)
が載っていないのは何故なんだ?
高地性集落っていうのは、臨時の避難場所だったり、見張り場所のようなところであったり、
通常の集落とは異なる特徴をもった特殊な集落だからだよ。
妻木晩田は標高の高いところにある(役割としては)通常の集落。
>>266 「どれくらいの規模か」を無視して、「どれくらいあるか」という数を
重要視した結果だ。恣意的な情報操作と言っていい。
高地性集落とは、戦国期の逃げ城みたいなもので、一国一城、もしくは
国境にひとつあれば充分。ていうか、多く造っても意味が無い。
つまり、高地性集落の数が多い地域とは、小豪族が乱立し統一が進んでいなかった
ということを意味するに過ぎない。
吉備には、比較的早い時期に大きな政治連合体が生まれていた、ということ。
>>267 >妻木晩田は標高の高いところにある(役割としては)通常の集落。
じゃあ、なんで標高の高い所に集落を作らなければならなかったのか?
に答えてみてよ。
それは防御を考えてのことでしょ。
宗教的な意味合いがあったとか言うつもり?
>>269 水田でしょ。低地を耕作地にして、高い所に住んだ。
>>264 平野部から見て相対的に高いところある集落であってもその性格が不明なものは多多ある。
しかし、明らかに中世の山城的な性格のものも数多く確認されている。
中には、焼き討ちに遇った痕跡を残すものもある。
近年、否定的な意見が多いのは、「高地性集落」の出現を「倭国大乱」のみに結びつける考えに対して。
272 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 07:42:19
全国規模的については最近のガードレール金属片問題のような成因を想定する
必要もあろうが瀬戸内中心のものについては出雲荒神谷出土の広型銅剣が中部
瀬戸内海方面向けの仕様であったこと等も考慮すると吉備方面に中心が成立しつつ
あったこととの関連があるのではとの印象を深める。妻木晩田の集落は現地
での説明に夜と時系列的に高地と低地間を往復しているといっていた。漏れとしては
吉備の政権が神体石の容貌が示すような、吉備津彦ウラ征伐にもある渡来系であった
という仮説は捨てがたい。楯築遺跡の巨石列はアルタイ・興安嶺西麓の遺跡と、また、
中円双方墳はトルコ系の古墳と共通するものがあるし、スサノオに似ている生皮を」剥いで屋上に掲げるというトルコ系の葬礼も気になる。
273 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 07:59:51
>>263 元祖プラムさん、時差があるようで。
>天日槍の末裔で田道間守は常世の国から橘を持ち帰った但馬の人で 子孫に
>神功皇后がおり 伊都の系列である
当時の倭国の朝廷は倭人伝の母系・シャーマン社会が維持されたはずであり、
天皇と臣下の関係などはなく、シャーマンのご神託を告げる神主的なものに
過ぎなかったと思います。先帝の陵の前にひれ伏すというのは400年ほど前に
徐福の秦族が行ったことの伝承があったのを記紀に取り入れたものに過ぎない
と考えています。
274 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 09:11:29
天皇は男系長子相続とするといった中央競馬会のような系図重視の考えは
倭人社会とは無縁。倭人社会の天皇家のあり方は豪族のフレームワーク内に
おいて族長家の娘を中心に決めるといったもので、たまに男子が理想的に出現
する場合は2-3代の男系が出現するといった、制定法ではなく慣習法に近い
ものじゃないすか。だが、渡来系の秦氏等は中国流の男子直系といった考えを既に
古代から持っていた可能性は残るが。倭人社会の理念は日嗣というか、儀式に
よって日神の霊が取り付いたものが天皇というシャーマニズムのようなものだと思い
ますね。
275 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 09:32:07
さて、吉備・出雲を否定して、大和が首都に選定されたとすれば、吉備からの
東遷ではなく、邪馬台国は少なくとも畿内豪族連合が中心となったもので、この
豪族連合に欠如している祭祀儀礼を移動する専業の土師・忌部集団が担当した
が、それらは豪族の統制下にあったということか。そこで卑弥呼とは誰かを考えると
吉備族出身とみなすよりか、海部・尾張族で崇神のおば程度のものとするのが
順当であり、摂津の銅鐸時代からの旧家である三島ミゾクヒ家辺りから出た感がある。
3世紀末-4世紀については全く卑弥呼情報がないので、この間、イスケヨリヒメ・モモソヒメ
以外にも卑弥呼を勤めた姫がいてもおかしくはない。モモソヒメなんてのは多分称号
なのだろう。初代卑弥呼は記紀の通りイスケヨリヒメとしましょう。神武はその初恋の
人であったらしいとでもするか。三輪山に祭ると神への不倫問題で神罰が下るために
祀られなかったと考えてみる。
276 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 09:34:55
鴨禰宜さん、ウマミミさん返レスありがとうございます。
『高地性集落』ですが寺沢氏の書の中では、そのピーク期を三つに区分されてるようで
>>264にカキコした私の二つの要因に
(見晴らしの良さ)を付け加えて 第一期初期の発生要因の一部と考えて見たく思います。
277 :
太:2005/06/05(日) 09:37:56
278 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 09:40:52
>見晴らしの良さ
なるほど。なんだか史跡指定されなければゴルフ場にあるとか、あるいは、ゴルフ場を
開発しようとして史跡なってしまったような感がありますね。そうした精神面の「高天原」
ムードと、町村合併、区画整理、農協的な稲作経済の成長プロセスの両面から考える
べきだということになりましょうか。
279 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 10:22:05
そうですね
軍事的あるいは政治的目的などと
堅苦しい要因は 第二次ピーク時以降に、第一次期の利点を発展させたものではないでしょうか?
山陽地方の特徴ではなく四国側にもかなり存在することに 政治的臭いが薄らぐ要因かと
あれほど広範囲に共通するとなると 人為的な要因よりも自然環境にその発生を求めたほうが しっくりくるような
ただ、そこに宗教を加えると話が飛んでしまうため私は避けます。
日本中にあっという間に広がった『ガードレール事件』 電波的宗教を感じるのは私だけでしょうか?
>>278 「見晴らしの良さ」ってのは、集落の防御的性格の一つですよね。
平野部の環濠集落なら唐古の楼閣みたいに見張り台機能の設備が必要ですからね。
本拠近くの尾根上に2〜3軒の小型高地性集落が付随する場合も多いでしょう。
>>276 スレの流れは
>>256で提示のあった『防衛的』高地性集落分布図に則って展開しているので誤解の無いように。
281 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 10:46:14
BC1800年頃バルカン半島黒海沿岸を木郭墳・騎馬民族が南下、一部は
パンノニア平原に侵入する。このころ、侵入する対抗して農耕民族はパン
手オン神殿のような逃げ城を高台に築く。これが印欧諸語に*teikhosという
共通語根として残る。という話がありますがこの背景は移動する部族と
ったはずです。この場合、移動する部族が実在したのか、社会が流動化
したのかは明らかでありませんが、その数百年の地におこる民族大移動の
一つのさきがけでとも考えられます。エーゲ海ではその後、海の民による
クレタ・小アジア等への侵略が続きますが、弥生末の倭国乱にもこうした
局面は考えられると思うんですが。
282 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 11:02:06
『高地性集落』を軍事面でとらえるならば
(防御と情報収集)に集約されるでしょう
低地に造る環濠集落の防御は「柵と堀と武器」
高地に造る集落の防御は「天然の崖と柵」
では?
瀬戸内海に原因があり
その原因側に較べ陸側の装備の未成熟差を補うために高地へ
高地性集落が、瀬戸内海の海賊を恐れてのことなら、瀬戸内海はまともな交易路
として機能しなかったんじゃないか、と思いますがね。
まあ兎に角、高地性集落が緊急避難用の逃げ城として作られたものと
するなら、その増加は中央権威(この場合は筑紫勢力)の失墜、戦国時代の到来
と考えていいと思います。
そして、高地性集落の多さはそれだけ小豪族が乱立していたことを意味し、
妻木晩田のような大きな規模のものは、その地方の豪族(出雲勢力)がそれだけ
大きな豪族であった証なんですよ。
むきばんだが消滅する古墳時代初めに、出雲はヤマトの攻撃に遭い「国譲り」。
記紀には崇神や景行の頃とされてますね。
>>256のリンク先によれば、瀬戸内での防衛的高地性集落の分布は二世紀末(弥生後期)までで
その後は、急激に衰退しているとのこと。
これは、瀬戸内沿岸部における三韓系土器の出土が急減する時期と「概ね」一致しそうです。
このころ(弥生終末期)、瀬戸内の流通や安全保障システムなどに大きな変化があったことは間違いないでしょう。
285 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 12:30:49
>>283 別に海賊の来襲としなくてもよいのでは!
瀬戸内海を自分達と異質なものが通り過ぎるだけでも十分かと
286 :
283:2005/06/05(日) 12:55:22
>>285 いえ、私は「海賊を恐れて説」ではないです。
高地性集落の増加は、単なる治安の悪化が原因だと。
海賊行為もあったでしょうが。
>>283 普通の商船団が、相手の手の内を見切った途端に海賊に豹変するようなことは「普通」じゃないかな。
相手が強ければ平和的に商取引を、弱そうならば暴力的にことを済ます。
安全システムが確立していなくても需要があるところには物流が生じるのは当然でしょう。
そのシステムの一つの方法として、個別の自衛力を高めるのが「高地性集落」が存在するんじゃないのでしょうか。
また、広域的な通商関係にあっては、当事者を一部の認証を与え合ったものだけに限り、窓口で絞り込むような方法もあります。
後世、倭寇集団との識別なども考慮して、日明間で行われた勘合貿易などはこのタイプですね。
こういった認証システムのようなものを作るには、広域な政治組織の確立は不可欠でしょう。
それが邪馬台国体制の根幹かもしれませんね。
>>287 高地性集落は日本の戦国期の山城と同じようなものだと思います。
中央権力の統制が弱まって、治安が悪化。各地の豪族が蓄財や労働力を
守るため、山城を作るのは、別に当たり前のこと。
それをあえて瀬戸内海航路の海賊をクローズアップして、特定の意味を
付与しようとするあたりに、神武東征の亡霊の残滓を見てしまうのは
私だけでしょうか。
筑紫と大和が瀬戸内海で陣取り合戦を繰り広げた=倭国大乱。
高地性集落はその証拠みたいな言説には飽き飽きだ。
290 :
圭角:2005/06/05(日) 13:43:05
高地性集落の発生流行以前に、中央権力の統制が弱まって云々というご見解ならば
その中央権力の発生並びに高地性集落の発生の相互の時代世紀を、どのように、
お考えでございますか。
291 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 13:46:15
一概に治安の乱れが「高地性」に繋がるとは思えないのですが
年がら年中小競り合いが絶えないのであれば理解できますが
そんな様子は伺えません
日常生活そのものが
高地に移転するのですから
戦国時代ですら
生活基盤は低地です
日常生活そのものが広範囲な地域で移転とは
その要因の一部にやはり自然環境の変化を取り入れたほうが
292 :
圭角:2005/06/05(日) 13:47:42
289さんにわたしも賛成同意。
そもそも、倭国大いに乱れ、という記事から倭国大乱という根拠希薄な
歴史用語と概念を捏造しているのでは。
293 :
圭角:2005/06/05(日) 13:58:38
日本の古代史で、弥生時代に弥生文化と弥生経済が進展発展すれば、さこには
おのずと経済的欲望の衝突が激しくなるのは自然なこと。それを格別ことさら
倭国大乱という歴史文言として形容すべき必要性はありやなしや。
プラムさんの言うとおり、もし、気象条件の変化が要因とすれば解りやすい。
貝塚を見てもわかるとおり、生活基盤が高地では不自然。
>>290 >その中央権力の発生並びに高地性集落の発生の相互の時代世紀を、
>どのように、お考えでございますか。
奴国王が光武帝より印綬を貰った1世紀頃より、玄界灘沿岸部グループ
を盟主とした倭国王体制があったのでしょう。
その後、後漢の衰退で後ろ盾を失った筑紫は勢威を弱め、出雲が
反旗を翻す。
295 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 14:45:09
圭角さんこんにちわ
瀬戸内海沿岸中心にかなり広範囲に渡る『高地性集落』
この高地集落も皆いっせいに移動したのではなく 何かの原因により 最初一カ所のルーツがあり
それをきっかけに広まったはず
大事なのはその最初の一カ所が、どのような原因で集落を高地にいどうさせたかです。
後からの追随組と最初の発生組との移動原因は必ずしも同一理由とならないからです
296 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 16:01:51
今手元にある 寺沢氏の「王権誕生」P200 の高地集落の分布図
この一つ一つの点にしてもそこに集落が出来た原因は各々異なるはず
それを全て一纏めにして、その要因を語ることは かなり矛盾を生じる結果を生み出す事となるのでは
297 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 16:15:29
誰も「高地性集落の出現」=「倭国大乱」などと主張をしていないのに
自説の肯定のためなのか、わざわざ持ち出すひとがいますね。
298 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 16:23:49
299 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 16:44:43
300 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 16:55:46
更に、スサノオが大和のクシナダ姫を解放した事件もあったかもしれません。
また更には、神代のことで恐縮ですが、アマテラスによるスサノオの神やらい
ということがあります。これによって北部九州の部民の吉備、更には近畿への
移動が始まったということもありえます。
また、アメノヒボコの到来、後世の渤海と同じコースをたどる沿海州、かん鏡
北道方面からの鹿関係のツヌガアラシト、これは、鹿男、鹿女(シコオ、シコメ)
等がいるんじゃないかとも思っていますが、扶与系ツングースかな。
301 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 17:01:12
出雲とウラジオストークは12000年ほど前から隠岐島の黒曜石の貿易関係
があったようで、この辺に何かの腐れ縁があるのかもしれません。
302 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 17:13:14
303 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:25:22
>>301 はぁ〜?
>12000年前からウラジオストークと貿易関係があった
言論の自由は日本国憲法によってその権利を認められてるが
その事が可能かどうか物理的に証明してくれ
期待してるぞ
>>288 正しく、おっしゃるとおり。
別に海賊対策オンリーじゃないでしょう。
でも、あなたの「中央権力の弱体化」はいかがなものでしょうか?
>>294もあなたかと思いますが、
>>290が指摘するように弥生初期の段階にそのようなものを想定するのは
御英断すぎるかと思いますね。
やはり、発生の根源は、「守るべきもの」の変化でしょう。
水稲生産の開始により生産性が向上し、発生したもの、剰余物が新たに守るべきものとなったのですね。
縄文期における食料備蓄とは桁違いの数量と思しき蓄米、この富を巡って奪い奪われの騒動が発生の要因でしょう。
それと、労働力としての「人」も略奪の対象にされたものと思います。
当然、ここには海賊まがいの集団も登場してきますし、大掛かりなクニレベルの諍いもあったことでしょうが・・・
>>296(for Mr.プラム)
鴨禰宜氏が
>>256で掲げたものを単に高台に在るムラの分布図と認識しているようなので再度説明する。
リンク先の図は「防衛的高地性集落」の図だ。
山頂部にありながら掘割を設けたり、相当数の武器の出土などがあるものだけを抽出したもののようだ。
「防衛的高地性集落」の場合、低地にあった集落が丸ごと移転したようなものは少ない(無いことは無い)。
多くは、一部が分村したようなケースで墳墓などを伴わない純軍事施設と思われるようなものもある。
混乱を避けるために私は必ず「防衛的」「防御的」という言葉を冠して使用しているので、その苦労も理解してほしい。
そして、これ以上その他の有象無象の高台集落の存在とごちゃ混ぜにした話を続けるのは、迷惑なのでやめてもらいたい。
どうしても、高台ムラの成立について語りたいなら、「非防衛型高地性集落」などと明確に区分して欲しいものだ。
305 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 18:49:00
>>304 以後きおつけるよ
ところで
>発生の根源
軍事設備を伴う高地集落の発生の根源かな
306 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 18:55:11
307 :
元祖プラム:2005/06/05(日) 19:11:10
鴨禰宜氏こんばんわ
鈴木宗男にはうけました。でも
>>303が言ってることも何となく解るような
直接交易ではなく間接ではと私も考えます
>>305 そうですよ。
それ以前の採集・狩猟型社会にあっても、少なからず生じていた問題でしょうが、
生産性の飛躍的向上により生じた剰余物(富)の存在が、防衛型集落(平地環濠集落も含む)を生んだのでしょう。
剰余とは、個人レベルでも生じるものですが、灌漑や水防などの共同作業と同じく、剰余物自体も共有されるものだ
と思います(社会内部の階層化が進行すれば、新たに個人所有も生じますが)。
こうした社会の全生産物のうち個人・家族レベルのシステムを維持するために必要な部分以外の余剰生産物は、
より上位の社会システム(集落単位、更には水利権の調整や防災対策などを行うより広域なクニなど)に所属します。
上位システムは、それを備蓄したり、それを活用してより生産性を高めるための土木工事に人的資源を振向けたり
するわけです。一部は、交易にも回されたでしょう。
つまり、水稲農耕を可能にする水田と潅漑設備が整備され始めた弥生期においては、「富」の防衛自体が社会的
重要事項となったわけです。
特に防衛的高地性集落出現の第一波の流れは、弥生型社会の伝播の流れと関係があるように思います。
> でも、あなたの「中央権力の弱体化」はいかがなものでしょうか?
>
>>294もあなたかと思いますが、
>>290が指摘するように弥生初期の段階にそのようなものを想定するのは
> 御英断すぎるかと思いますね。
弥生初期とは言ってないですよ。高地性集落は昔からあったのでしょうが、
瀬戸内海沿岸部における増加を、倭国大乱の時期と考えている訳です。
私は邪馬台国畿内説で、卑弥呼の前の王は伊都王だと考えてまして。
310 :
鴨禰宜:2005/06/05(日) 20:15:11
>>307 ハッハー!!!なるほど、そうですね。丸木舟でA tiny boat to China.
なんてジャズがありましたが、そうか、わかりました。ありがとうございました。
>>309 二世紀後葉の話なんですか。
まあ、だれも否定しきれない部分でしょうね。
でも、漢委奴国王の存在をも『集権的』と呼ぶなら、違和感があります。
>>310 樺太経由ならありえなくもないかと思いますが、『商売』としてだったら
えらくコストパフォーマンスの悪い話ですな。
312 :
鴨禰宜:2005/06/06(月) 11:12:20
だから、黒曜石などという縄文時代のものはやはり交換、交換の連鎖の終点といった
ところとする元祖プラムさんの説が妥当でしょう。だが、後世の渤海時代だと季節風の
吹き始めの頃に朝鮮半島東岸を南下し、冬場を日本で過ごした後初夏の樺太・黒竜江
・ウスリー江で若干の貿易もありえるかなー。何回もやってるようで、定着したルーチン
があったのかもしれません。そして、対馬経由ではなくいきなり敦賀に「角」という
イメージで「鹿」を想起させるツヌガアラシトの出現は更にこうしたパターンが、更に
古代において満州の扶与と倭国の間にあったんじゃないかと思っているんですが。
313 :
サガミハラハラ:2005/06/06(月) 21:01:46
私は縄文時代には津軽と朝鮮北部(元山付近)はダイレクトで往来していたと考えています。
>>311 >でも、漢委奴国王の存在をも『集権的』と呼ぶなら、違和感があります.
集権的とは言えないまでも、奴王が倭国内でそれなりに広域な範囲で
権威として君臨していた、と私は思います。そのための印綬ですし。
後漢の威勢が倭国までも届いているように、直接実効支配していないと、
その影響力が行使できないと考えるのは、頭が固過ぎるように思いますが。
315 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 21:56:45
いつの時代にも、人々は秩序を求めるものだ。
力有る者に安全を保障されることで、初めて人々は安寧な生活を送ることが
出来る。
つまり人々は、本質的に強大な権威者に支配されることを欲するのである。
戦国期の一揆にしろ、戦国大名の煽動によるものも確かに多いのだが、
基本は無秩序の横溢などではなく、権力の空洞化に対して新たな秩序を形成しよう
という民衆側からの試みと捉えることが出来るだろう。
316 :
元祖プラム:2005/06/06(月) 22:50:20
>>315 戦国期において一般庶民が権力の空洞化などという
グローバルな視点に立って今の自分の置かれてる環境など冷静に
分析出来るのか?
それはあくまで 私達が過去を天から眺め降ろした
客観的な考え方ではないか
>>314 そういうレベルの話なら「金印」以前にも認められます。
BC1世紀代、漢の朝鮮半島進出に対応するかのように、北九州の那珂遺跡、三雲遺跡などが巨大化します。
韓系・楽浪系遺物の出土数も急増することから、半島との人的交流もより活発化したようです。
この時点で、倭地のその他の地域に対する壱岐・対馬も併せた玄界灘諸国の優位性が確立したと言えます。
その後裔の代表が奴国王や伊都国王なのだと思われます。
ただし、「防衛的高地性集落」出現の瀬戸内における第二波は、現在の年代観では紀元前にあたります。
これは、先の玄界灘諸国の強大化に対する瀬戸内諸国の対応なのかもしれませんね。
>>316 >戦国期において一般庶民が権力の空洞化などという
>グローバルな視点に立って今の自分の置かれてる環境など冷静に
>分析出来るのか?
グローバルとかそんな大層なものじゃなくて、中央権力の弱体化で
地方が色々混乱したなんて、民衆レベルで分かることだと思いますよ。
治安の悪化は自分たちの生活に直結することですし。
>>317 其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。
名曰卑彌呼。
から、玄界灘諸国を盟主とする政治体制を「金印」の頃に持っていっただけ
で。
確かにもっと早い段階で、玄界灘諸国の優位性は確立していたのかもしれませんね。
320 :
圭角:2005/06/08(水) 07:15:23
お久しぶりですが、ウマミミさんの壱与以降を 論じよう、というネタフリ本題に
そろそろ、戻りましょう、よ。ウマミミさんのネタフリつまり、邪馬台国のゆくすえ
においては、高地性集落はその出現年代世紀からして、あまり関係ないように思う。
東遷説の疑問
農耕民族であった彼らが国を挙げて瀬戸内海を横断航海移動は、ちと、非現実的。
彼らに漁労民族性が強く残っていたとするなら、漁労の民が内陸の大和に移住した
というのも不自然不合理。
お願い
記紀信奉は各人の自由であることは無論でありますが、神武東征神話無しという
条件にて、ここは論じたく願いあげます。よろしく。
321 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 08:09:14
山城型集落の激減後が、すなわち伊代ちゃん(古いな、
通じない世代の諸氏スマソ)の時代なんだから
まったく関係なくはないと思うゾ。
322 :
圭角:2005/06/08(水) 10:06:18
松本伊代ちゃんでしたっけ。私も知ってますよ。ところで
つまり前一世紀後半から一世紀に瀬戸内に主に分布する高地性集落が第一次と呼ばれ
ていますよね。第二次とされているものが、倭国乱の時代のものとされているのが、
寺沢氏他の通説になっています。
ですから、邪馬台国のゆくすえを考えるとき、つまり、伊代ちゃん以降においては
殆ど関係は希薄と思います。無論まったくないとは申しませんが。
ちなみに、倭国大乱は後漢書の文言表現形容にて、倭人伝では倭国乱との記述であり
大乱の大は誇大形容という説を支持しております。この説に従えば、高地性集落を
倭国乱に直結させて論じるのは無理があろうと存じます。
323 :
元祖プラム:2005/06/08(水) 11:42:22
圭角さんこんにちわ
「補足します」
(松本伊代)
1965年6月21日
東京都大田区出身
1981年 「センチメンタル・ジャーニー」で初リリース
1982年日本レコード大賞新人賞
花の82年組のトップアイドル
同期に
しぶがき隊、中森明菜、小泉今日子、石川秀美、堀ちえみ、早見優…etc…
324 :
圭角:2005/06/08(水) 13:38:11
プラムさん、こんにちわ。
壱与、伊代さんのプロフィールをご説明いただき有難うございました。
壱与を立てて王となし、という所で昔から疑問があるのです。
卑弥呼は共立、男王は更立、壱与は復立と陳寿は記しています。さて、一般には、
卑弥呼共立の主語は国人とか各国の首長とかに解されていますね。私は疑義がある
次第ですが、男王更立及び壱与復立の主語は、プラムさんは誰と思われますか。
張政が、檄を以って壱与を告諭したと陳寿は記しています。そうなると、壱与復立
の主語は張政と推測して自然かとも思われます。ご承知のとおり、復は再び重ねてと
言う意ですね。なんとなれば、復立卑弥呼宗女壱与の記述においての主語ははたして
国人か張政かという疑問、卑弥呼共立の主語がはたして国人かという疑問が深まり
もっと本質的疑問は卑弥呼宗女壱与年十三を立てて国中遂に定まったという謎さえ
浮上してきますね。どのみち十三の子供なら壱与がもっと幼少の時点で復立しても
不都合はなかった訳ですから。
このような点に疑問を持つことは、畿内説広域政治連合つまり半島南端、壱岐対馬、
九州、瀬戸内、近畿の広大な領域においての畿内説には、亦同時に不可解となる次第
でもあります。
325 :
圭角:2005/06/08(水) 14:02:03
告諭といえば、難升米も張政から告諭されたと陳寿は記していますね。
畿内説者の聖地王都に居て、半島南端、壱岐対馬、九州、瀬戸内、近畿を統治
領域もしくは広域大政治連合とする倭の女王の近臣と目される難升米が告諭
されたという学説は、歴史小説時代小説の読者著者の立場からすれば、
あまりにも、リアリティーが無くて受け入れがたいものでありましょう。
しかし、日本古代史にかかわる人や諸説においては、不自然もリアル欠如
もあまり問題視されぬのがなんとなく不思議です。
記紀の神話と前方後円墳の二大お題目の声高強弁ですからねー。
もっとも、神話の信奉者にリアルとか自然とかは不要なんでしょうがね。
だから、以前から私は言っているんですよ。大和中心主義なら、それでも
いいから、大和政権の拡大伸長発展の過程の説明あれかしと。ところが、
鎖国して黙々と国力の増大に励んでいた四世紀だったというのですからねー。
ま、人それぞれ各人自由だけど、実のところ自らのイメージさえも深い濃い
霧の中でしょうな。が、記紀派は違うんですなー。これが。
なにせ信奉している訳でしょ。信仰心をひたすらなおさら強く強くして
ひたぶるに信じるんですなー。
326 :
元祖プラム:2005/06/08(水) 17:47:11
圭角さんお久しぶりです
帯方大守は『卑弥呼』に対し檄をもって告論するために『張政』を遣わしたが
『張政』が到着した時には すでに『卑弥呼』は死んでおり、国政が乱れていた。
『張政』は新に『壹与』を擁立し、本来『卑弥呼』に対し告論すべきところを
『壹与』に対して帯方大守の檄を告論した。
ようするに
《目的》卑弥呼
↓
卑弥呼の死
↓
《実務》壹与 (張政が擁立した後継者)
327 :
圭角:2005/06/08(水) 19:13:17
プラムさん、返信有難うございます。恐縮ですが少しだけ違うと思います。
倭人伝の正始八年の記事を読んでいただければと存じます。
卑弥呼以って死す、は八年の張政が派遣招聘された後の記述となっています。
まあ、というのが普通の定説ですが、プラムさんのことゆえ、独自のご解釈が
あってのことかとも存じます。いずれにしろ、壱与への告諭の間においては
男王更立を経由した後のことだと、陳寿は記していますね。
ともかく、倭人伝は後半の外交記事に歴史小説的ロマンがありますね。
難升米や壱与に告諭したのであれば、なにゆえ、更立男王に対して告諭したと
する記述をしていないのだろうかと興味津々の次第です。
328 :
圭角:2005/06/08(水) 19:20:29
寺沢薫氏は、倭人伝のたかだか二千字足らずの文字ごときに拘泥する時代は
終わった、これからはリアルタイムで新事実を発見開拓していく考古学の
時代である、などとご自身の著作で述べておられますが、誰が誰に対して
告諭したなどということは、いかに考古学を極め新発見があっても、その点
のみは、この二千字の記事に遠く及ばぬと思料します次第です。
329 :
圭角:2005/06/08(水) 19:26:41
いずれにしましても、ウマミミ氏のネタフリの如く、
邪馬台国は大和朝廷になったのか、という点に関しましては
壱与以降の邪馬台国がどうなったのかについて、皆さんの討論を期待している
次第でございます。
倭人伝に拘泥するのは時間の無駄だと思います。
色んな解釈が出来てしまうのですから。
記紀と同じく、あくまで補完資料として利用すべきでしょう。
331 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 20:32:34
何、血迷ったことを・・・
このスレで、三世紀初頭に半島南端から機内までを含めた広域王権があった
などと主張した奴がいたか?
いったい、どのレスを縦読みするとそのような読解ができるのか。
有りもしない説を批判して何が楽しいだろうか?
ついでに疑問を提示させてもらうと、『立』は、
何れの場合も複数形の主語を受ける自動詞じゃないのか。
ここに漢文の人が居たら聞きたいものだ。
332 :
元祖プラム:2005/06/08(水) 22:41:39
圭角さんこんばんわ
遅レス(スイマセン)
サッカーを見ていたもので
『卑弥呼「以」死』
この「以」の文字のとらえかたで意味が違ってきそうです。
自分の場合「以」=すでにと訳してみました。
正始六年に難升米に「黄幢」を賜い
正始八年…遣塞曹掾史張政等因齎詔書「黄幢」拝仮難升米為檄告論之
「共立」はともかく「更立」、「復立」に深い意味は無いと思う。
三国史全編を見たって普通に使われている。
更に立つ、復立つ・・・ただ、単に代が換わっただけでしょう。
この単語自体には、臺與だか壹與だかの擁立過程を類推するような要素は見受けられない。
実際の擁立者が、誰なのかは判らないが、特段の記述が無いのだから、
文章の建前上は「普通」の方法で行われた読ませたいのだと思う。
普通の方法と言うの「倭人」のルールに則って決められたということ。
実際にはどうだか知りませんが・・・・
難升米が卑弥呼に代わって「檄」を受けたのは、その時既に卑弥呼が死んでいたか
死期まじかで執務能力が無く、魏朝側から見れば倭人のナンバー2(筆頭中郎將)である彼を
代役に見立てた為。
男王が相手にされなかったのは、当初より混乱をまとめられず、
統治能力を見限られていたためではないでしょうか?
そこらの流れについては、不自然とは思いませんし、疑問は感じません。
疑問を感じないことと九州説、畿内説の立場の違いに何か関係があるのかもわかりません。
そして、何かにつけて他説をこき下ろす書き込みをされる方が何を言いたいのかも皆目わかりません。
334 :
元祖プラム:2005/06/08(水) 23:23:13
正始八年の記事も
郡の大守が倭の援軍要請を受け魏の都に赴き
皇帝に事情説明をし
また郡に戻って来るだけで正始八年は終わってしまうだろうから
張政等を遣わし「倭」に到着するねは正始九年のことと考えたい。
正始七年頃卑弥呼の使者である「載斯、烏越」を送り正始九年の倭に張政到着
卑弥呼はこの間に死んだと思われる
335 :
元祖プラム:2005/06/08(水) 23:53:03
大和朝廷の前身を邪馬壹國とするならば
何故『記紀』から帯方郡や魏朝の名が登場しないのかご説明していただきたい
イザナギとイザナミが出会ったことや
天岩戸の前での出来事など事細かく書かれているのに外交交渉等はまるで知らぬが如く
神武東征に至っては『金の鳥』まで登場する
(鳥類図鑑を見ても日本においてそんな鳥いませんが)
>>335 何をいまさらと言う感もありますが、まあ、通説では、次のような説明になります。
七世紀初頭、当時の日本は、370年ぶりに中国を統一した隋朝に対し、
前代の倭王達とは異なり、冊封関係を拒否し、無謀にも日の出処の天子の国として対等外交を挑みました。
隋の煬帝から蛮夷の無礼者呼ばわりされたものの、対高句麗対策上の利点を認められたためか、
当初の目的どおりの外交関係を結ぶことに成功しました。
その後、王権として「中国王朝のお墨付き」に代わる対外的、国内的な権威を表すものとして、天皇号や独自の年号・官位、律令
などが必要となり、その一環として天皇紀・国記等の「歴史書」も作られました。
日本書紀は、その天皇紀・国記の後裔に当りますが、そこに「中国王朝の臣下であった歴史」が抹殺されていたとしても、特に不自然ではないでしょう。
中央集権を目指すためには天皇の正統性のみが重要なこととされたわけです。
ちなみに、新羅も百済も似たようなものでしょう。
ですので、あなたが、どのようなお考えをお持ちかは別にして、
記紀の記載云々をもって畿内説を否定しようとするのは堂々巡りになることをご了知ください。
>>332 > 『卑弥呼「以」死』
ここの「以」は、『卑弥呼が死んだ「ので」』という意味で、他には何のニュアンスもありえ
ないそうです。
338 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 07:12:30
朝鮮の王朝で本当に強かったのは高句麗だけだ。中国の王朝とガチンコでやって
勝ったことのあるのはここだけだ。新羅は内紛で弱体化しヘロヘロになった
高句麗をたたくのにさえ、唐の助けをかりてなんとかできた。
新羅のあとの王朝もへたればっかりだ。しかも栄光ある高句麗王の直系の子孫は
日本へ亡命してきて埼玉県の飯能市あたりを開拓して今も、健在だ。
JR高麗川駅、西武鉄道高麗駅の近くに由緒正しい高句麗神社がありそこの
神主をしておられる。高句麗神社でググッテ見れ!
ということで朝鮮人は追い出した王朝の経歴を自分達の実績のように詐称して
いるのにすぎない。高句麗人の血を引いている埼玉県民のほうがよほど正統性が
あるではないか。
よってこうだ!!
埼玉県民>>>>>>>>>>>>>唐>>>>>>>>>>>>>>>>チョン
339 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 07:16:11
埼玉県の高麗神社は出世神社とも言われ、
「鳩山兄弟」・小泉首相の関係者らの献木がある。
彼らは当然、高句麗族の子孫。
340 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 07:19:31
検察とか官庁関連は埼玉の高麗神社に行き、高麗王若光を拝むのが慣わしです。
高麗神社は天皇家も参っている神社なのだが
戦後すぐ頃までの歴代の総理が総理になる前に
参拝して、みんな総理大臣になっている、故に一部政治家等の間では
出世の神として思われていた時代があったそうだ。
341 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 07:21:39
埼玉県の高麗神社は高句麗の王族を祀ってるんだぞ。
当時日本にいて高句麗の滅亡したと聞いて帰れなくなった人々が
埼玉県の高麗郡辺りに移植したんだよ。
現在高麗神社の宮司さんは高麗さんでこの人は御祭神の末裔なんだよ。
他にも百済が滅亡して百済王子が日本に亡命していた。
鬼室福信が将軍となって百済再興のために尽力して白村江の戦いとなるが
この鬼室福信の子を祀った鬼室神社というのだってちゃんとある。
342 :
がいやまん:2005/06/09(木) 07:33:36
高句麗上層部は全て埼玉賢人となってしまったということは、朝鮮半島には
一切その血統は残していないと考えていいのか?まー、そうだろうけど。
343 :
檀君:2005/06/09(木) 07:35:52
高麗神社の主祭神は、高句麗国からの渡来人高麗王若光である。
そのほかに、猿田彦命・武内宿禰らを祭っているが、
彼らも当然、高句麗系渡来人であったことが伺える。
猿田彦命といえば、天孫降臨に登場し、
「国初のみぎり天孫をこの国土 に御啓行(みちひらき)になられた」神である。
武内宿禰は、代々、天皇家を補佐してきた人物である。
神代の昔から、天皇家・貴族と高句麗族とは切っても切れない関係だったのだ。
344 :
がいやまん:2005/06/09(木) 07:36:55
要するに朝鮮半島にはその名を残し、その実は日本に奉げたと・・・こういうことだな。
345 :
がいやまん:2005/06/09(木) 07:39:38
そうすると朝鮮半島には移動するツングース・モンゴリアン系統の血はほとんど
留まることはなく、朝鮮民族は民族の純潔を保持し、日本は逆にツングース・モンゴ
リアンの割合の強い国となったということか。
346 :
檀君:2005/06/09(木) 07:39:44
>>336 >前代の倭王達とは異なり、冊封関係を拒否し、無謀にも日の出処の天子の国として対等外交を挑みました。
つまり、この外交政策を立案したのも、
高句麗官僚だったと考えれば、辻褄があうというもの。
もっとはっきり言えば、邪馬台国体勢を終了させ、大和朝廷を生み出したのは、
高句麗の力添えがあったと言うこと。
347 :
がいやまん:2005/06/09(木) 07:43:24
朝鮮人は外人を異常に蔑視する。アメリカで黒人の暴動のあったときもピストル
を乱射して応戦していたのが印象に残っている。日本国内でも租界地を作る。
レード・カードを貰っても、踏み殺す精神は出雲の野見宿禰だったか、相撲の起源
を髣髴さす。
348 :
がいやまん:2005/06/09(木) 07:45:28
出雲のけはやっていったけ。あれは朝鮮系だったのか。
349 :
がいやまん:2005/06/09(木) 07:52:31
われわれ日本人はどちらかといえば埴輪の被写体となった巫女とか、人物
とかで、好戦的なことにはおおよそ縁遠いものであったと思う。サッカーには
多少不向きなところもあるのかと思っている。
>>336 ウマミミ氏おはようございます
別にこれをもって畿内、九州を語るつもりなどありません
しかし、そうなると記紀編纂当時、過去の外交事実を認識し意図的に無視したということですね
>>337さん
『以』をそのようにとらえると 過去形ではなくより現在形に近い意味ととらえ、張政は卑弥呼の死期をみとどけた可能性を含めたことになりますが
それに、卑弥呼の死に張政が関わった云々…と、いう説もあることですし
それさえも 可能性を持たせることになりますが
351 :
檀君:2005/06/09(木) 07:59:31
高麗王若光は、白髭をたくわえていたという伝承がある。
「高麗王は其髭髪白かりき、故に高麗明神を一に白髭明神と称トナへ奉る」
白髭明神は高麗王若光の別名で関東には若光と白髭明神の関連伝承多い。
白髭は、白髪と同じ意味であり、「白髪」を名乗る天皇も実在する。
「白髪武広国押稚日本根子(清寧天皇)」は、渡来系天皇だったとみて間違いない。
なにより、母の名は「葛城韓媛」だからね。
これで、倭の五王の正体も見えてきたことでしょう。
352 :
檀君:2005/06/09(木) 08:06:49
忠告しておくが、倭の五王=九州王朝という説は、
雄略天皇の妃が葛城韓媛で、
その子が、清寧天皇という家系図から見ても成り立たないからね。
誰だ 壇君引き込んだのはまた
ウリナラ万歳
天皇陛下万歳
合戦は御免だぞ
354 :
檀君:2005/06/09(木) 12:37:49
白髪武広国押稚日本根子の「白髪」は「しらが」の音を写したもので、
「しらが」=「新羅」を意味していたことはよく知られている。
ただ、この清寧天皇の子孫は天皇にはなれなかった。
新羅との抗争の歴史を重ねてみれば、もっと良く日本史が紐解ける。
真の日本史を知りたくば、朝鮮との繋がりを無視してはいけない。
>>350 書名は失念したが、確か東大寺関係の古文献で、
天武朝あたりの蔵書目録のようなものがあった。
そこに史記や漢書、三国史などの書名が見える。
遣随使が仏教典などとともに持ち帰ったものが多いだろうが、
楽老あたりでも入手可能だろうから、
それ以前に伝わっていたことも考えられるね。
>>351 4〜7世紀ネタが得意そうだね。
とりあえず古高句麗時代の話を期待します。
なんか急に高麗神社ネタが……w
受験生のの頃、受験必勝法みたいな本に
「東大合格を目指すなら高麗神社へお参りしろ」
とか書いてあった。
>>340 一族の高麗福信と言う人が奈良時代の警察官僚だったからカナ?
武蔵守にもなってたっけ。
となりのお寺は韓国をしのばれるものすごい公園があるよ。
ただ、金達寿氏によれば「しらひげ」はもともと
新羅の人が多くいたからで、そこに高句麗系の人たちが
かぶさったといってたよ。
357 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 15:00:22
街中で宣伝活動のアルバイトを遣っている、お姉ちゃんと思えばよい
一方的にベラベラと営業活動することも多く、しばしばトラブルの原因にもなる。
358 :
檀君:2005/06/09(木) 16:59:48
>>356 高麗福信という人物は、藤原仲麻呂の側近で、高麗一族を繁栄に導いた。
後に高倉姓を名のりました。
「高倉」といえば、「高倉下」を思い出すでしょう。
高倉下は、神武東征に同行し、夢のお告げで布都御魂という剣を天つ神から授かります。
このエピソードは、明らかに後世の創作でしょう。
渡来系の猿田彦と同じポジションとして挿入されたことがわかります。
359 :
太国:2005/06/09(木) 20:54:32
>>352 倭の五王の王朝はどこにあったと主張するのか?
もう気は済んだでしょうか。
363 :
太国:2005/06/09(木) 22:17:39
>>351 「韓」があるから渡来系だとは限らんよ。
「天津」があるから天津神の出身が中国とはならないし、
豊葦原の「中津国」が中国にはならないし、さらにだ、
日本の中国地方がシナの中国にはなるわけがな〜い。
364 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 23:49:00
>>325 >大和政権の拡大伸長発展の過程の説明あれかしと。ところが、
>鎖国して黙々と国力の増大に励んでいた四世紀だったというのですからねー。
4世紀末の半島出兵の準備段階だったのかもしれません。
少なくとも連合体制であった倭国内で政権闘争があり、
その中で勝ち残った国が、次代のニューリーダーになったと。
河内、葛城、吉備、日向などで大古墳が築造されているのは、その証左で
あろうかと思われます。
>>352 雄略って倭の五王なの
雄略って天皇なの
>>364 325で罵られている元レス者が私だ。
325氏はコピー&ペーストの仕方を知らんので、引用されると文章が何時も微妙に変わってしまう。
氏の脳内変換によっては、ニュアンスも違ってくる。
で、元レスの表現は”「鎖国」政策”だった。
そのときは詳しい解説もしていなかったので325氏の脳内変換を責めるつもりは無いが、
結論から言って、「4世紀の倭国が鎖国する」ことはありえない。
当時の倭では、ようやく鉄器の使用が定着化しつつあり、有ったかどうかもわからない国内産鉄だけで
弥生期の石包丁生活から脱却できたとは考えがたい。
「鎖国」政策と言うのは対中国外交を閉鎖したくらいの意味でしかないのだ。
逆に百済・新羅・任那諸国との通好は楽浪・帯方郡の支配が無くなった分活発化したはず。
対高句麗、対前燕対策に窮する百済・新羅の国情に乗じて、半島侵出を試みた時期だと思う。
その痕跡が三国史記や広開土王碑に残る倭人関係記事なのだろう。
後の考察は、鴨禰宜氏か檀君にでも任そうかな・・・・
367 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:17:24
>>366 確かに「鎖国」っていうのは有り得んでしょう。鉄だけを考えても。
>「鎖国」政策と言うのは対中国外交を閉鎖したくらいの意味でしかないのだ。
倭国内では大王権力の強大化が進んでいて、もうすでに倭国王就任にあたり、
中国皇帝の承認を受ける必要がなかった、と考えます。
高句麗の南下が無ければ、倭の五王も南朝に遣使なんかしなかったでしょう。
半島戦を有利に展開するため、遣使しただけ。
武以降、遣使が途絶えるのも、半島侵攻をヤマト政権が諦めたため。
継体以降、百済に肩入れして任那諸国を見捨てたり、完全な外交政策の転換が
あったわけです。
368 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:37:30
>>367 確かに、倭王武(478年)からアメタリシヒコ(600年)までも
結構年数が空いてるし。
なぜ、トヨから倭王讃までの対中国外交空白時期(4世紀)だけを問題視する
のだろう?
結局明確な目的でも無い限り、わざわざ中国まで遣使はしない、ってこと
なんだよな。
369 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 07:23:11
隋の前も中国側が混乱期な訳だが(ry
>>367 魏志韓伝によれば、鉄は倭人等も入手していたわけだか、
同時に楽老・帯方郡にも供給されている。
彼我の力関係を考慮すれば、物流は二郡向けがメインでしょうね。
これが三世紀末の二郡衰退・滅亡と言う事態を受けて大きく変化する。
大口需要家の消滅により、倭への供給量は増加したでしょう。
ここに至って、倭での鉄器使用、流通が本格化する基盤ができたわけです。
>>367 魏志韓伝によれば、鉄は倭人等も入手していたわけだか、
同時に楽老・帯方郡にも供給されている。
彼我の力関係を考慮すれば、物流は二郡向けがメインでしょうね。
これが三世紀末の二郡衰退・滅亡と言う事態を受けて大きく変化する。
大口需要家の消滅により、倭への供給量は増加したでしょう。
ここに至って、倭での鉄器使用、流通が本格化する基盤ができたわけです。
372 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 08:18:22
>>368 中国が混乱していて外交は後回しにされてたから、朝貢出来なかったのだろう。
373 :
圭角:2005/06/10(金) 13:17:04
二重重複投稿の370,371氏へ。
三世紀末は四世紀初めのお間違いではありませんか。
>>372 左様。「朝貢」は実体は「貢ぎ物とは桁違いのお移り目当ての割の良い貿易」だから、
安定した政権=収入が多くて金が余っている政権がないなら、「リスクを冒してまで
行く意味のある朝貢先が存在しない」わけで。
375 :
太国:2005/06/10(金) 19:45:30
>>365 雄略天皇は倭の五王の一人ではありませぬ。
376 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 07:36:25
讃=仁徳天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇、武=雄略天皇
377 :
太国:2005/06/11(土) 07:57:51
pupupu!! 大外れ。
二重投稿スマ・・・
>>373 私の書き方は雑なんでツッコミやすいですか?
どの時点の話をしているのか判りやすいように「三世紀末」と書きました。
正確には「三世紀末から始まった二郡衰退・滅亡と言う事態」と書くべきでしたね。
訂正します。
これで、これでご満足でしょうかね(w
ついでに、
>>370をもう少し補足
三世紀初頭の西日本では、半島由来の交易系遺物は博多(中心は西新遺跡)に集約されていました。
これは、二世紀以前に行われていた各地域バラバラな対半島交易が韓側優位のシステムであったのに対して、
新たに形成された西日本の新秩序が、倭人側の交易窓口を一本化した状態だったと言えます。
これが、三世紀末になると、倭人側が洛東江方面に進出し(倭系の交易付随遺物の増加)、
そこでも集約化された日韓交易(弥生期のバザール型との違いは明確ではないが)が行われた形跡が認められます。
この状態を作り出した原因が、二郡の統制力の衰退でしょう。
この時点で二郡と本国の間の陸路での連絡は既に絶たれており、百済、新羅の勢力拡大も認められます。
「邪馬台国を中心とした倭」が「倭国」となったのもこのころと言えるでしょうか。
>378で書いたように三世紀末に半島情勢は、転換期を迎えるわけですが、
列島側はどうだったのでしょうか。
中国の文献によれば三世紀後葉までは、邪馬台国体制の継続が認られます。
考古資料では、布留式など前代とは異なる画一的な様相を示す土師器の分布と
北部九州、瀬戸内、畿内、東海、関東を結ぶ交易システムの存在、
そして、同地域への前方後円墳の普及が認められます。
列島では、二世紀末から三世紀初頭にかけて認められたレベルの変動は、
この時は、起きていないと言えるでしょう。
つまり、三世紀に成立したシステムは、進化しつつ四世紀に引き継がれた
のです。
380 :
圭角:2005/06/11(土) 14:12:32
378の不可解について
この時点で百済、新羅の勢力拡大云々、においての、この時点とは、
文脈からして、三世紀末と読み取るしかありませんが、
百済、新羅が興ったのは、いずれも四世紀半ばのことです。
小生の申すこと、ご不信とあらば、お手元の史料にてご確認ください。
>>380 貴方は、三世紀末に両国の存在を認知しないのですか?
まさか、340年代、350年代に突然出現した国だとおっしゃりたいわけじゃないですよね。
そんなことを言ってると謝罪と賠償を要求されちまいますよ(w
382 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 23:05:28
>>371 >これが三世紀末の二郡衰退・滅亡と言う事態を受けて大きく変化する。
>大口需要家の消滅により、倭への供給量は増加したでしょう。
>ここに至って、倭での鉄器使用、流通が本格化する基盤ができたわけです。
成程。
圭角さんが「畿内で鉄が増えるのは3世紀末以降」という考古学的事実から
邪馬台国九州説の根拠としてましたが、それに対する明確な反論、異議申し立て
な訳ですね。
つまり、3世紀の畿内に鉄が少ないのは、単に倭国内で流通する鉄の絶対量が
少なかったせいで、3世紀末以後に増えるのは東アジア規模の政治変動で、
倭国への鉄の流入量が増えたに過ぎない、ってことですか。
圭角さんも細かい反論じゃなく、もっと本格的な議論をして欲しいものです。
383 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 00:00:34
>>382 それはチョットちがうと思うよ
流通する量が少なければ
少ないだけの結果が付いてくるはず
九州北部に片寄りが見られるのはいったいなに?
384 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 00:15:39
当時畿内で鉄の使用頻度が極端に落ちるのは
畿内などの遠方で商売しなくても 九州北部や周りのところで十分商売になったからだ
385 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 02:12:47
工房が他より九州にイパーイ在ったってだけだろ、あと匠も
386 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 03:05:26
邪馬台国って当時の中国人が聞き間違えて邪馬台国って名前になったってホント?
387 :
高校生:2005/06/12(日) 11:12:14
ウマミミさん、教えてください。
歴史の中間試験が来週あります。百済や新羅がおこったのは世界史の教科書には
四世紀の半ばと書いてありますが、教科書の記述は誤りなのでしょうか。
ウマミミさんのおっしゃるように三世紀末と答えの欄に記入しても大丈夫でしょうか。
ちなみに、僕の教科書は山川出版の詳説世界史です。
よろしくお願いします、ウマミミさん。
388 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 11:16:09
>>383-384 >流通する量が少なければ少ないだけの結果が付いてくるはず
書いてる意味が不明ですが。
>当時畿内で鉄の使用頻度が極端に落ちるのは
>畿内などの遠方で商売しなくても 九州北部や周りのところで
>十分商売になったからだ
北部九州→畿内への鉄の流出が無かったのは、鉄の量が少なくて畿内まで
回せなかった、という主張だと思いますが。
389 :
予備校講師:2005/06/12(日) 11:27:54
百済は三国志では馬韓五十余国の一つの伯済国だったが、特に目立った国で
もなく、王もいなかった。それが慕容氏の高句麗征伐の直後になって、漢江
渓谷の大国として姿を現したのである。
三四五年頃、高句麗から独立した百済は、古くからの馬韓と辰韓十二国との
関係にもとづいて新羅を支配した。しかし、百済と高句麗の衝突が激しく
なると新羅は百済から独立して高句麗の影響を受け入れた。
以上は、碩学著名な岡田英弘先生の著の中公新書の倭国の一節です。
参考にしてください。
390 :
予備校講師:2005/06/12(日) 11:46:09
ウマミミさんは神話を取り入れ過ぎのご投稿ではないかなー。
百済の神話によると、始祖温ソ王は高句麗始祖朱蒙の子であるとなっているが
これは、権威付けの神話の世界のお話。この話をまともにとるならば、
百済建国は紀元前十八年になってしまう。
ウマミミさんの三世紀よりはるかに古くなってしまう。
日本の邪馬台国女王卑弥呼は三世紀だから、韓国の方々も自国の百済新羅の
成立を同じ三世紀にしたいというイデオロギーからの発言と映るのである。
しかし、学問版にイデオロギーは有害無益。
>>382 >3世紀の畿内に鉄が少ないのは、単に倭国内で流通する鉄の絶対量が
>少なかったせいで、3世紀末以後に増えるのは東アジア規模の政治変動で、
>倭国への鉄の流入量が増えたに過ぎない
こうして、九州説最後の砦も陥落したわけか。
大体、マキムクを政権として認めないとか、かなり無理のある設定だった
けどな。
392 :
予備校講師:2005/06/12(日) 11:48:52
ウマミミさんの百済新羅の三世紀建国説とやらの根拠を尋ねたい。
予備校の授業でも披露したい。
393 :
圭角:2005/06/12(日) 11:53:44
391さんにご教示賜りたい。
マキムクがいわゆる政権たる根拠を。
無論、貴殿の仮説で可。
394 :
韓国人:2005/06/12(日) 11:57:20
朝鮮史に於ける三国時代とは半島および満州に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した時代をいう。
日本ではおよそ4世紀ころから7世紀ころまでを指す。
韓国他では紀元前1世紀から紀元後7世紀をいう。
韓国では新羅は紀元前57年に、斯盧が朝鮮半島の南東部で前漢から自治権を認められた年に始まったとする。
高句麗は鴨緑江以北にあり、紀元前37年に漢から独立した。
百済は紀元前18年に高句麗の二王子が王位の継承争いから逃れ、東明王の子温祚が半島の南西部に建国したとする。
これは中国史料と異なるため、日本の史学界ではこの数字を取らず、高句麗を除く二国の建国年代を多く4世紀におく。
百済の都ははじめ熊津であったが、のちに泗?へ遷都した。
紀元後1世紀には伽耶が百済から自立した。
高句麗は313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に入れた。
4世紀には百済が栄え、半島の南半分を支配した。
斯盧国は503年新羅と国号を改めた。
4世紀の始めに、新羅は国境を接していた伽耶を吸収したことが知られている。
新羅は唐と結んで、660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。
これによって三国時代は終った。
↑と、韓国人さんはおっしゃていますが、それはさておき・・・・
貴方は、山川他の教科書によく載っている古代の朝鮮半島地図のことを言っているのでしょうが、
紀元前では、北の方に楽浪・帯方郡と高句麗、南の方に三韓が収まり
後時代では、二郡に変わって高句麗が拡大、南の方は三韓に変わって百済、新羅、任那がある。
この後の地図がいきなり4世紀中葉に出来あがったと主張されるのですか?
二国の勢力拡大は、郡の弱体化と同時に進行しないと二枚目の地図の配置には間に合わないと
思いますがね。
ちなみに、私は百済・新羅の建国年次については、一切言及しておりません。
私が「三世紀末に建国したと言った」と思っているのは、
>>380氏の脳内の話です。
紀元前は四郡設置だったな・・・また、ツッコマれる前に訂正しとこう。
397 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 12:58:56
>>393 >391さんにご教示賜りたい。
>マキムクがいわゆる政権たる根拠を。
マキムク遺跡や大和古墳群の巨大さで充分じゃないでしょうか。
あなたは記紀を全否定しているようだけど、少なくとも人代以降はある程度
信頼出来るのではないかと考えます。
マキムクは、初期ヤマト政権の大王たちが三輪山山麓に居住したという
記紀の記述とも符合すると思いますが。
398 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 13:03:09
>>388 鉄の流通絶対量が乏しかろうが豊富であろうが
その流れは
必要性、高価買い取り、政治的誘導 等に左右され
地勢的な要素だけでは決まらない
そうゆうことですが
解りましたか?
399 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 13:24:36
>>397 では、
その中心となるマキムクにどうして大陸あるいは半島の文化が色濃く反映しないのか?
地勢的にどんな辺境の地であろうと、その中心都市には その国の最先端文化が集まるはず
マキムクを中心としている国々とは マキムクで出土される遺物を見れば その範囲は自ずと決まってくるはず
九州北部とはまるで違った異質文化であることは 貴方もおわかりの事かと
400 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 13:30:30
「日本語をさかのぼる」4回シリーズ 小林昭美(大正大学客員教授)が、
ラジオNHK第2放送で、6月5日(日曜日)から始まった。
(日曜午後8時〜9時)今日は2回目
@日本語はどこまでさかのぼれるか
A万葉集の成立
B「やまとことば」は純粋か
C古代日本語の来た道
邪馬台国は「やまと」で、
『古事記』は朝鮮漢字音で書かれている ・・・・・
エロいひと、チェックして、正しいかどうか教えて。
401 :
圭角:2005/06/12(日) 13:34:52
ウマミミ氏へ。
陳寿の死亡年次は297年、晋の武帝の統一は280年。つまり、陳寿が
三国志を著したのは280年から297年の間となる。要するに三世紀末だ。
貴殿も東夷伝の韓伝くらい読んだことがあるだろう。陳寿は、馬韓の政治
組織は非常に未成熟であり、邑に長はいても大君長はいないと明記している。
313年314年の二郡崩壊により、百済が勃興したとして自然だろう。
その経済的背景が弁辰の鉄の採取取得量の飛躍的増大だ。なにせ、郡が崩壊
したのだから、馬韓が一番、鉄供給の恩恵にあずかったとして自然だろう。
かくして百済は、鉄の経済力を背景に四世紀前半から興り半ばに建国した。
402 :
圭角:2005/06/12(日) 13:44:01
397氏へ。
古墳遺跡の巨大さで十分というなら、九州説者は鉄器出土量の多さで十分と
言うだろうさ。鉄器は重視しないというのなら、九州説者は古墳は重視する
に足らずと言うだろうさ。
ということはつまり、貴殿も記紀信奉論者か。
無論、仮説なんだから、貴殿の自由勝手だ。これからも拝聴するよ。
403 :
圭角:2005/06/12(日) 13:53:26
プラムさん、こんにちわ。
たしかに、おっしゃる通り、纏向が倭の王都であたとするならば
吉備の特殊器台や多地域の土器ばかりではなく、鉄器も大量に出土しないと
変ですね。それに、三角縁より古い鏡や絹も出土していて当然のはずです。
と言うと、畿内説の諸君は、
溶けちゃったのさ、と言うのですからね。非学問的ですね、溶けちゃったは。
>>401 それでは、貴方は魏志東夷伝は、晋代の状況に基づいて書かれたと思ってらっしゃるわけですね。
すばらしい発想ですね。
ところで、私は、ここを意見交換の場として昔から利用しています。
私の考える「意見交換」とは、当然、異なった考えの方との言葉のキャッチボールです。
ですから、投げた球をまっすぐ戻して来ない方、すり替え・詭弁・自作自演等の変化球ばかりの方
(私も394のように使わないわけじゃないが)とは積極的に交わるつもりはありません。
意見交換は「論争」とは違います。
しかし、ここを「論争」=言い争いを楽しむ場だと思っている向きも多いし、そう言う利用法も見てる分には
面白いのですが・・・コマ目にお付き合いするほどヒマではありませんので悪しからず。
405 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 14:24:08
圭角さんこんにちわ
お久しぶりです
どうして、マキムクの前身が邪馬壹國でなければ、いけないのでしょうか 理解出来ません
畿内は畿内の独自文化によりその基礎を築き、経済力の蓄積に伴いその範囲を広げ 少しずつ異文化を同化させながら『大和朝廷』へと
半島への進出も畿内の意志ではなく
交易商人達(又は宗像氏)の情報または誘導による「ヨイショ」
(神輿の上に乗せられて)的なところが最初の一歩のような(想像ですみません)
歴史などは必然性+偶然性の積み重ねではと…
406 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 14:34:32
>>398 >鉄の流通絶対量が乏しかろうが豊富であろうが
>その流れは必要性、高価買い取り、政治的誘導 等に左右され
>地勢的な要素だけでは決まらない
簡単に言えば「北部九州の方が畿内より半島に近いから鉄が多いのは当たり前」
とは言えない、ってことですか。
確かにそうなんだけど、だから「鉄の絶対量が少なかった」という前提を出してる
わけなんだけどね。
407 :
檀君:2005/06/12(日) 14:40:56
>>400 >『古事記』は朝鮮漢字音で書かれている ・・・・・
そうだよ。
当時の中国の漢字音では書かれていない。
倭国が中国より朝鮮半島と密な関係にあった証明だよ。
408 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 14:41:53
>>399 >その中心となるマキムクにどうして大陸あるいは半島の文化が色濃く
>反映しないのか?
また古典的な反論を。
半島に近い北部九州が、半島の影響が強いのは当たり前でしょ。
そもそも「邪馬台国が半島や大陸の文化の影響が強い」ってのは、君たちの好きな
倭人伝に書かれているのでしょうか?
409 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 14:50:51
>>403 >纏向が倭の王都であたとするならば
>吉備の特殊器台や多地域の土器ばかりではなく、鉄器も大量に出土しないと
>変ですね。
「鉄器が無いと王権とは呼べない」なんて、極端な鉄器史観ですね。
なぜ初期ヤマト政権がクロガネの軍隊を地方に派遣するような、
軍事的中央集権国家だと決め付けるのでしょうか。
君たちの大好きな倭人伝でも、呪術的祭祀者を共立して各国が連合した、
とはっきり書いてあるのに。
410 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 15:13:13
何度も言ってきましたが、鉄の多寡が国力の決定的な差だと決め付けるのは
どうかと思いますよ。
戦争など国家間競争で、鉄が全てを決めたなんて暴論。
少なくともマキムクは巨大古墳を建造出来るほどの財力、マンパワーを
集結し得た訳で。
その時期に初期ヤマト政権がマキムクで誕生した、と考える方が自然です。
それを鉄が少ないからという理由だけで、100年ほど遅らせるというのは、
邪馬台国を九州に持って行きたいがための無理矢理な方便ではないでしょうか。
411 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 15:53:20
圭角さんとか九州説の人に訊きたいのですが、
奴国や伊都国の戸数を大きく上回る邪馬台国や投馬国は、九州の何処に
あったとお考えですか。
倭人伝記載の多くの諸国を九州に押し込めてしまうのは、かなり無理がある
のではないでしょうか。
412 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:09:59
先ず、鉄は農業生産の基礎なんだ。
初期鉄器は殆ど農機具に使われている。
鉄がなければ田畑の開墾が困難になる。
人口だって増やせない。
国力に段違いの差が生まれる。
鉄が武具に使用されるようになる5世紀頃は
鉄が余っるようになったからだ。
纏向時代でも鉄は不足していたように見える
がね。
山陰に比べても見劣りしていた。
鉄を半島経由の九州に依存していた状況では
九州を凌駕する事は無理。
鉄の国内生産が始まってからだろう。畿内が
九州より優位に立ったのは。
箸墓は纏向に作られたが、相当に時代が下が
ってから。
413 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 16:30:10
>>412 そうそう。そういう言説なら納得出来るんですよ。
無理矢理、マキムクを王権ではないとか言うより、よっぽどスッキリ
しています。
マキムクを何世紀まで下らせるつもりか知りませんが、現代の考古学
の成果を全て無視する姿は痛快だと思いますよ。
出来ればその論拠を示してくれれば。馬具とかでしょうか。
414 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 18:00:21
>>406 量的なことは関係無いはず少ないなら全体的に少なくなるはず
偏りと量は、別問題では
415 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 18:33:56
>408
古典的な質問に対し 抽象的なご返答
『魏』より黄幢、詔書を下賜され卑弥呼並びに壹与は告喩されている
郡より張政が遣わされ
そんな国が先進文化を取り入れて無いとするほうが無理があるのでは?
416 :
圭角:2005/06/12(日) 18:58:12
412さん、いいことおっしゃいますなあ。まさしく同意の至りです。
412さんの書き出しの、
鉄は農業生産の基礎なんだ、いいですねえ。
鉄器は武器になるばかりか、農具工具ともなり、田畑の開拓、用水路の開削
森林の伐採、木工、造船、建築、等などあらゆる分野の生産を飛躍的に発展
させるモノだったという認識を、あらためてしたいですなあ。そしてそして
大和は鉄に飢えていたという考古学事実を再認識したいですねえ。
417 :
圭角:2005/06/12(日) 19:13:59
倭人伝好きの圭角という御書込みに対しまして。
倭人伝も記紀も同じじゃないかという方が以前いらっしゃいましたが、
その大きな差異は、著作の成立年代に存します。言い古されたことですが
正史三国志は、陳寿が生きた時代を書いたいわば陳寿の現代史です。無論
晋帝室の史官の陳寿には作為も誇張も致し方なかった部分はあります。
が、畿内説者のお好きな後漢書や記紀の成立年代と比較してください。
記紀などは卑弥呼邪馬台国の四百年後の編纂です。四百年とは長いです。
遠いです。現時点より約四百年前は江戸幕府開府。その約四百年前が頼朝。
その五百年前が大宝律令、その約四百年前が卑弥呼。四百年もの歴史時空と
記紀の成立背景を想起していただきたいです。
418 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 19:14:57
圭角さんが
>>416で言われている
>畿内は鉄に飢えていた
当時から九州を含む統一政権が存在しているのならば九州に伝わりし鉄が
マキムクに至らない訳はありません
珍しき貴重品は真っ先にその王都に集められ
そこを中心に地方へ分配されるはず その流通経路が整って初めてマキムクを中心にした統一政権では?
そのような流れは
仏教が伝来するまで「おわずけ」かと思われるが
419 :
アパム:2005/06/12(日) 20:02:14
魏志倭人伝もう一回読んでみ
鉄器だの貴重品だのきらびやかな王都
邪馬台国のイメージゼロだからw
やたらめったらと人が多いだけ。
420 :
アパム:2005/06/12(日) 20:07:40
兵用矛盾木弓 木弓短下長上
421 :
拓哉:2005/06/12(日) 20:09:18
ソーダナ、ツーカ、ナンニンイタンダロウ。
422 :
拓哉:2005/06/12(日) 20:11:26
423 :
アパム:2005/06/12(日) 20:12:29
其行来渡海詣中国 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉
不近婦人 如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物若
有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不勤
これは関係ないけど面白い 訳↓
「中国を訪れるため海を渡って行き来する時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、
シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、
婦人を近ずけさせないで喪中の人のようにさせる。
これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を与えるが、
もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。
そのジサイに至らぬところがあったというわけである。」
425 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 20:20:33
>>417 倭人伝は文章、情報量が少な過ぎますよ。そのために解釈が各人各説に
なってしまい、議論が袋小路になっているのは、皆が認めるところだと思いますが。
それと
>>411に対する回答を待っています。
426 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 20:21:39
スルーよろ
427 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 20:29:00
誰も「きらびやか」な王都などと言ってないぜ
>>419ヤシ
それに
>>422 >人口100万人
何処からの割り出しか
「鉄が過少だから王権ではない」、ですか。
なぜそこまで強弁できるのか分かりませんが、恐らくは九州説最後の砦だから
なんでしょうね。
3世紀の畿内に大きな勢力があることが、九州説には都合が悪いということ
なんでしょう。
だから、前方後円墳をも、マンパワーを集めることが出来た権力者の墓とは
考えず、公共事業だとか言ってしまうんですよ。
エジプトのピラミッドからの連想なんでしょうが、思いつきで語らないで
欲しいものです。
>>412 紀元後の九州でも岡本遺跡や立岩遺跡などのように依然として
銅鏃や石包丁が生産・使用されているのは何故だと考えますか?
実際に2世紀の鉄器に関して北部九州が占める割合は7割くらいです。
これは、埋納保存される威信材を含めた鉄器の比率ですが、
あなたは、実用品で消費されてしまう鉄製農工具に関して、何か具体的な数字をお持ちですか?
>>415 高塚型墳丘墓は、「後進文化」ですか?
>>418 2世紀の畿内でどの程度鉄器の出土例があるかご存知ですか?
突出して少ない奈良県の例を引き合いに出して、「福岡の100分の1」などと喧伝する方もいますが
奈良が1個なら福岡だって、たったの100個という計算になりますよ。
どうでもいいけど、近畿は鉄器が少なくても、銅器は多いんでしょ?
銅器じゃ農作業等はできないの?
教えてエロイ人。
431 :
文献偏重派九州説:2005/06/12(日) 21:22:16
仮に3世紀に畿内に大きな勢力があったとしても
九州説は説として機能するね。
432 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 21:24:52
>>411 陳壽ではないのでその正確な意図は解らないが
不彌国までの比較的細かな行程と それ以降の投馬国、邪馬壹国などの行程の変化に謎があるのでは
倭人の条の参考資料として陳壽は『漢書や魏略』を
過去の正史をそのまま引用した文節もあれば
その編纂時の事情による誇大化、歪曲… 現代史としての記録文もあると伺える(私的には)
五万や七万という数字は その前の韓伝やその他の記載伝に比べても異例な数字、必ずしも鵜呑みに出来る数字とは思えません。
編纂時の事情かと
>>432 倭人伝大好きの人でも、倭人伝の信頼性の無さを認めてるのね。
で、倭人伝のどの部分が正しくてどの部分が誤まりと、どのような方法で
判別出来てるのでしょうか?
「邪馬台国=九州」がまず有りき、の思い込みがあなたには有りませんか?
>>428 始めに結論ありきでは科学的な検証とは無縁の信仰の類いになってしまうわけですよ。
固定観念を排して、「倭人伝の伝える邪馬台国」として最も矛盾が少ない場所はどこ
か?を検証することが先決でしょう。
もし、その時点で畿内に存在した勢力とは別の物だったとしたら、畿内に存在した勢
力を抹殺する、悪質な捏造になってしまうわけです。信仰者なら、自分の信仰がすべ
てであって、客観的な事実などは関係ないでしょうけどね。
>>433 先入観に捕らわれて、書いてあることを虚心に読むことが出来なくなっていますね。
現代日本語文でさえその調子では、科学的な検証など不可能ですよ。
自覚はないでしょうけどね。
436 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 21:44:56
ウマミミさん
文章にすると長ったらしくなるので
もし寺沢氏の『王権誕生』をお持ちならP213 のグラフを参照してください
『こんなものはデタラメであてにならないと言われれば どうしようもありませんが』
それから、
各スレ主諸氏に注文があります。
『お願いです
アンカーレス付けて下さい。』
誰が誰に対しての意見かよく解りません
>>435 >現代日本語文でさえその調子では、科学的な検証など不可能ですよ。
だからー。
考古学の成果を中心に置いて、倭人伝や記紀は補完的に利用すべき
なんですよ。
>>434 >固定観念を排して、「倭人伝の伝える邪馬台国」として最も矛盾が
>少ない場所はどこか?を検証することが先決でしょう。
「倭人伝」信者ですか。倭人伝ばかり金科玉条にする態度は信仰に
近いものなんでしょう。学問的態度とは言えません。
438 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:56:35
>>429 >紀元後の九州でも岡本遺跡や立岩遺跡などのように依然として
>銅鏃や石包丁が生産・使用されているのは何故だと考えますか?
当然、鉄が不足していたからだろうね。
よそに廻すほどの鉄は九州でもなかった。それだけ。
>>432 倭人伝の「青玉を出す」、っていう時点で糸魚川のヒスイの事を語っていますよ。
倭人伝の記述する国の全てを九州に押し込めるのは、無理があると思いますよ。
このように反論しても、また倭人伝の記述を自説に都合のいいように【解釈】する
のでしょうが。
で、あなたは投馬と邪馬台を九州のどこだと考えていますか?
奴や伊都などの玄界灘沿岸部を上回るような勢力を、一体九州のどの地域に
見出すのでしょうか。
440 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 22:09:15
>>433 自分は九州説というよりも 九州にその比定地を置いたほうが違和感がないのでは説です。
ピンポイントで絞り込むには自分なりにまだ抵抗感を持っているし
現時点では不可能でしょう
それに 信憑性云々とは、少し感覚が違います。
倭人伝の内容も 圭角さんが言われる通り現代史感覚のものだと思います。
ただ全文すべて同じ時系列の元に書かれたものかと、問われれば NOでしょうね
>>440 >自分は九州説というよりも 九州にその比定地を置いたほうが
>違和感がないのでは説です。
だからそれを固定観念と言うのですよ。
>考古学の成果中心に
>>437 殆どのスレ主は今、考古学などあえて言わなくても暗黙の了解のもとに議論してる
無視するヤシなどいない
それでも、考古学にこだわり持つなら別な所にいいスレあるから誘導するよ
今そのスレは死んでいるので君の自由だ
443 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 22:25:46
444 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 22:26:46
倭人伝が第一級資料であることは間違いない。
当時の倭国を物語る文献が記紀しかないから、倭人伝は重要なのである。
ただ、倭人伝の一字一句を検証するのは、とうの昔に袋小路になっていて、
百家争鳴。
結局、近年の考古学の成果が3世紀の倭国の状況を明らかにしつつある
わけです。
名探偵も情報量が少ない段階では解決をしないですよね(結果的に
多くの被害者を出しますが)。
「倭人伝」という2千文字足らずの文献を聖書のように信仰する態度を
棄てて、もっと多くの捜査、情報収集を優先すべきだと思います。
>>437 > 「倭人伝」信者ですか。
いやはや、思い込みと決めつけがひどく激しいですね。
「倭人伝の伝える邪馬台国として最も矛盾が少ない場所はどこかを検証するこ
とが先決」と書いたら、反射的に「倭人伝信者」と決めつける。
実に没科学的な思考方法の持ち主。科学の思考方法から遠ければ遠いほど、
決めつけが激しくなるという好例、といったところですか。
446 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 22:30:09
>>442 自分と違う説を排除しようとする。
九州説はそこまで追い込まれているのでしょうか。
嘆かわしい限りです。
>>441 > だからそれを固定観念と言うのですよ。
当然、そうなるでしょうね。「九州にその比定地を置くと違和感がある説」の固定観念
に従うなら ね。
>>444 > 結局、近年の考古学の成果が3世紀の倭国の状況を明らかにしつつある
> わけです。
けっこうですね。それならそれで、「倭人伝のいう邪馬台国」は度外視して、
「倭人伝」との対比は放念すれば首尾一貫するわけです。意味が分かりますか?
>>445 「倭人伝が完全に正しくはない」という事は、あなたも理解してくれるでしょうか。
また文章量が少ないので、色々な解釈が成り立つということも。
で、先程も言いましたが、
「倭人伝のどの部分が正しくてどの部分が誤まりと、どのような方法で
判別出来てるのでしょうか?」
議論が感情的になってますね。クールダウンが必要でしょう。
とりあえず、「畿内勢力と北部九州勢力が合一して初期ヤマト政権
が誕生した。その倭国合一の時期は、早くて3世紀初頭、遅くて4世紀末
である」ということでコンセンサスは得られるでしょうか。
北部九州東遷→マキムク政権という説は、このスレでは完全に否定された
と考えていいのでしょうか?
>>436 あのさ、
>>429は二問とも簡単なんだからちゃんと答えてくれよ。
まず、高塚型墳丘墓は、大陸伝来の先進文化だろう。
で、三世紀の北部九州には畿内を凌駕するような王墓は見当たらない。
そして、2世紀の鉄器の出土比率では、畿内と北部九州の間に100倍の差なんて認められない。
北部九州>吉備・出雲>畿内・東海と言う図式は成立しても、貴方のイメージほどじゃないと思う。
そして、こういう図式もある、古墳時代の西日本>>>>>>弥生時代の西日本
最後に『お願いですアンカーレス付けて下さい。』って言うけど、
>>436でも附って欲しかったな。
452 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 22:49:02
>>444氏
倭人の条に限ればその文字数も二千字たらずで
その解析にも自ずと限界を生じる
しかし『魏書』を帝紀から追究すると
まだ限界点に達したとは言えないのでは
>>448 >けっこうですね。それならそれで、「倭人伝のいう邪馬台国」は度外視して、
>「倭人伝」との対比は放念すれば首尾一貫するわけです。意味が分かりますか?
極端な人ですねー。
倭人伝の記述を尊重する態度は私も同じですよ。
ただ倭人伝は間違いや言葉足らずな部分があって、色んな解釈が出来てしまう。
で、「倭人伝のどの部分が正しくてどの部分が誤まりと、どのような方法で
判別出来てるのでしょうか?」と言うと、それは考古学であったり記紀で
あったりする訳です。
>>449 > 「倭人伝が完全に正しくはない」という事は、あなたも理解してくれるでしょうか。
当然のことで、過去の事象はすべて「証明不能の問題」だから、完全に正しいかどうか問題
にする余地は存在しえません。その点、将来に向かって際限が可能の事柄とは異なるので、
混同しないように注意が必要です。
> また文章量が少ないので、色々な解釈が成り立つということも。
「日本で使っている漢字」の羅列として恣意的に読むなら、「解釈」の余地はひろいですね。
中国語として文法的に成り立つ範囲に限るなら、さほど解釈の余地がひろいとは思われませ
んが、まあ、程度の問題とはいえるでしょう。
> 「倭人伝のどの部分が正しくてどの部分が誤まりと、どのような方法で
> 判別出来てるのでしょうか?」
確実にいえるのは、「物理的にありえない事柄」は「どの時点で生じた誤りなのかはおいて、
当時においてもありえた可能性はないから誤りであると考えて構わない」。
端的には、たとえば、当時において陸地が存在し得なかった場所は、邪馬台国ではあり得な
い、など。日本列島の遙か南方の海上に存在したかのような記述は、わずか2千年にもみた
ない以前の時点なら「単なる記述の誤り」と考えるほうが合理的でしょう。
>>438 当然、鉄器の使用は、二世紀の段階では、実用利器にあっても北部九州>畿内の関係にあるのは間違いないが、
前代からの伝世も在り得る「威信材」中心の埋納遺物の出土比率を念頭に貴方は結論を出してないかな。
貴方が
>>412で
「先ず、鉄は農業生産の基礎なんだ。初期鉄器は殆ど農機具に使われている。」
と言う以上、農具、工具類の使用に関する畿内・北部九州の状況についての見識をご披露いただきたい。
そして
「鉄がなければ田畑の開墾が困難になる。人口だって増やせない。
国力に段違いの差が生まれる。」
と言うことは、三世紀以降に畿内が北部九州を凌駕してしまった事実がある以上、
これは、二世紀における畿内の鉄器使用の明白な証しと考えてよいのか。
最後に
「鉄が武具に使用されるようになる5世紀頃は鉄が余っるようになったからだ。」
これは、違うだろう。
>>453 > 極端な人ですねー。
はあ? 何がどう極端ですか?
「物的証拠に立脚すべき考古学の成果」に、「これは倭人伝でいう某である」という、
物証そのものから直接的には導き出されない「着色」を施してしまったら、事実を歪
曲する結果になる可能性が生ずる、というだけのことです。
当たり前のことですよね。仮に、「倭人伝に記されているのとは矛盾した特徴を備え
た墳墓」を「倭人伝が伝えている卑弥呼の墓」に比定することがあったら、事実を曲
げる荒唐無稽の説になってしまいますよね? もちろん、そんな荒唐無稽の捏造など
念頭にないとは思いますが。
457 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 23:20:47
>>452 神田行って百納本二十四史買うところから始めたら?
三国志第三巻の末尾に烏丸鮮卑東夷伝があるよ
東夷伝のいちばん最後が倭人伝だ
倭人の条なんて書いてるのは原文も読んでない怠け学者
そしてそれを鵜呑みにする歴史マニアだね
>>456 >「物的証拠に立脚すべき考古学の成果」に、「これは倭人伝でいう某である」という、
>物証そのものから直接的には導き出されない「着色」を施してしまったら、事実を歪
>曲する結果になる可能性が生ずる
だからー。
倭人伝の解釈は慎重であるべき、っていうのが私の主張なわけですよ。
あなたは同じ事を言ってるってこと、気づきません?
459 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 23:27:06
>>451ウマミミ氏
>高塚式墳丘墓
簡単ではありませんよ
墓そのものが大陸からの文化でしょう
原始的な墓は
洞窟の中に放置したり穴を掘って単に埋めただけでしょうから
それを埋葬し儀式の一つとしと取り入れたのは明らかに当時先進文化地の大陸の影響
高塚に関しては大陸の影響では無いですか
しかし、墳丘に関しては解りません
教えて戴けませんか?
>>454 >確実にいえるのは、「物理的にありえない事柄」は「どの時点で生じた
>誤りなのかはおいて、当時においてもありえた可能性はないから誤りで
>あると考えて構わない」。
おいおい。なんでそこまで倭人伝を絶対視するかねー。
「物理的に有り得ない以外、必ず正しい」って、証拠はあるのでしょうか?
君の信仰以外にね。
>>459 あのね・・・
レスのアンカーを辿っていただくと判ると思うが、貴方が
>>399で言い出した
「では、その中心となるマキムクにどうして大陸あるいは半島の文化が色濃く反映しないのか?
地勢的にどんな辺境の地であろうと、その中心都市には その国の最先端文化が集まるはず」
と言うお言葉へ疑問を提示させていただいたわけなんですがね。
>>459のお返事は、マキムクには「大陸・半島の文化が、倭の中心都市として立派に反映していました」と言う
回答と理解してよろしいのですか?
462 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 23:50:18
ウマミミさん
高塚式ではなく高塚型でしたね
失礼
それに、高塚型墳丘墓でなくてはいけませんか
古墳(高塚式墳墓)ではダメですか?
463 :
元祖プラム:2005/06/12(日) 23:56:24
>>457 買ってきますからその時の(本の代金、交通費、飲食費、その他の経費)を負担願います。
それに『倭人伝』ですか?『東夷伝 倭人』では
>>457 百納本だけが正しいとおもってる馬鹿ハケン。
相手にしないが吉。
465 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 00:07:03
>>461 大陸より直接マキムクに入った文化なら問題ないでしょう。
マキムクにある古墳が日本においての古墳第一号なら
レスアンカーにこだわり持っていますが
あれは貴方に言った訳ではありませんので
>>462 いや、だからさ、
マキムク型前方後円墳っていうものの存在を
王都に相応しい先進文化と認めるのですね、と尋ねてるんだがな。
467 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 00:27:51
先進文化というよりも 経済力の賜物では
マキムク型がそれほど異質とはみられないし
大陸からの先進文化とは結びつかないのでは
初めから貴方なら無理な事解ってるはず ウマミミさん
このスレを読んでいて、「九州説、頑張ってるじゃん」と思いました。
邪馬台国が九州にあったとするなら、邪馬台国は北部九州連合の地方政権で、
4世紀初頭に畿内政権に併呑された、と考えるしかありませんよね。
景行紀に出てくる、三種の神器を榊にかけて服従した女酋・神夏磯媛が
卑弥呼や台与の後継者なのかもしれません。
>>467 おいおい、相手によって「答え」が変わるってわけかい・・・・
>>458 何かトーンがブレてますね。故意かどうか知らないですけどね。
471 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 00:40:44
大陸(半島)より 『古墳』という形?が入ってくると
すぐ真似したり応用したりして 発生源を上回る形や広まりをもたらす事は日本人特有の気質
古代から伝わりし日本人固有の文化
形を独自のものとして変化させた辺り 素晴らしいマキムク独自の最新文化では
>>470 そうですか?
倭人伝を絶対視する態度は止めようと言ってるだけですが。
倭人伝、考古学、記紀を総合的に解釈してこそ古代の倭国が見えてくる
と思います。
考古学が主となるのは、文献が少ない以上仕方がないわけで。
473 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 00:50:14
ウマミミさん
>相手によって答えが変わる
???
いまだかつてウマミミさん以外の住人達と
マキムク型古墳と大陸文化の結び付きについてレスした覚えなどありませんが
以前マキムク型と吉備の楯築古墳についてはレスしましたが大陸文化云々などとは
474 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 01:00:51
ウマミミさん
貴方のおっしゃる先進文化は (大陸からの)先進文化でしょう
私が認識する先進文化は
大陸と直接的に影響を受けてる訳でない
豊かな経済力を基礎とするマキムク独自の先進文化の事です。
それなら大いに認めます
>>473 >467では、何が言いたかったのかな・・・
まあ、それは置いといて、鉄と古墳の話を。
「弁辰の鉄」のお膝元、「狗邪韓国」。
ここの製鉄関連遺跡は紀元前まで遡れるとのことで、鉄器遺物も倭よりは多い。
しかし、埋納遺物として飛躍的に増加するのは、三世紀末になってから。
主要古墳群である大成洞遺跡などでは、三世紀中葉までは、埋葬主体に差別化は認められず、
鉄器の副葬もお膝元とは思えない状況である。
しかし、三世紀後葉になって、木槨墓様式が主流となると、差別化が進み、鉄器の副葬多種多様化する。
こんころ、帯方群の支配から脱却し、弱小ながら自前の王権が誕生したといえる。
古墳自体は、さほど巨大化しないが、北方系の馬具などの副葬も始まり、
この時点で、はじめて鉄貿易の主体者と成り得たものと思われる。
お膝元でも、このレベルであるので、倭での鉄器普及を過大評価するのは如何かとも思う。
で、新しく生まれた半島側の鉄交易の主宰者との通商関係は、
列島側では三世紀初頭に成立した邪馬台国体制が、そのまま引き受けている。
ここで(三世紀末)、あらたな国内システムが構築された痕跡は認められない。
国内の交易ネットワークは、瀬戸内航路に限れば三世紀初頭と変化は無い。
前方後円墳は、確実に普及・巨大化していくが、その中心が畿内を離れることはない。
この時期に九州勢力が、畿内に侵出した痕跡も認められない。
以上のことから、邪馬台国体制とは、畿内ブロックを中心とした西日本の交易システムだったとしたい。
477 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 07:05:15
478 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 07:14:03
>>476 前方後円墳が各地に広まりを見せたのは四世紀〜五世紀ではないかな
479 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 07:44:38
ウマミミ氏おはようさん
鉄器の利便性を考えると 当時画期的な新製品のはずその絶対量が希薄とはいえ九州北部の集中度は他と較べ格段と違いを見せているのは
貴方もご承知と思います
その貴重かつ利便性に優れた新製品を王都マキムクに持ちこまなかたのは何故
神のお告げ云々は無しでお願いします。
480 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 07:53:37
ウマミミ氏へ
鉄器の出土分布グラフと前方後円墳分布図を比べても鉄器グラフが量的に少ないから云々という
結果には結びつかないと思います。
参考材料の多少に関わらずあのグラフはグラフの比較考証材料としてかなりの信憑性を持つ内容ではないでしょうか
少ない参考材料でも全体像をとらえるには十分かと
481 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 08:03:53
四世紀を境に鉄の使用頻度は明らかに西から東へ移動します。
これは明らかにグローバル的経済活動の中心が東へ移動した証明でしょう
東の大和においても
この流れは平行しているはず
周辺地域活動範囲が広がりだし、半島までもその視野に入りかけたのでは
それが鉄器使用頻度の移動とクロスする流れです
鉄は東へ 大和勢力は西へその境が四世紀代では?
482 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 08:30:15
なんと言っても箸墓は4世紀後半で決まり。
卑弥呼の墓であるはずが無い。
483 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 08:34:28
箸墓以前の前方後円墳のルーツは、阿波・摂津・近江にある。
いずれも3世紀初頭のもので、このあたりが邪馬台国連合の中心地と見るしかない。
484 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 17:36:25
前方後方墳や前方後円墳が沢山ある様子を見たら
「封土作冢」ではなく「積石爲封」って書いただろうね。
前方後円墳があるからこそ畿内は邪馬台国ではないと言う証拠なのだがねえ。
>>479ー481
○鉄器は当時画期的な新製品のはず
三世紀初頭の話に限らせてもらうが、違うだろう。
既に紀元前より、鉄製品自体は、伝えられている。新製品と言うわけではない。
ちなみに、マキムクは三世紀以降が発展期だね。
〇四世紀を境に鉄の使用頻度は西から東へ移動
使用頻度の意味がわからないが、石器と鉄器の使用比率と言う意味なら、間違いだ。
東も西も飛躍的に向上し、等質化しただけだ。
逆転したわけではない。
また、あなたがひたすら重要視する鉄器の出土量の差たが、
私は三世紀初頭において、鉄器全般に渡り北部九州が他の地域を圧倒しているとは思う。
しかし、弥生中期以前のような絶対性とは違うと思う。
また、四世紀以降の普及度とくらべれば、これは甚だ矮小なものだ。
そして、二世紀中の出土物の内、副葬物である威信財については、
前代からの伝世品である可能性も考慮してほしい。
これは、北部九州が他の地域に比して、真に優位にあった時代の遺産だからね。
さらに、三世紀になると九州では埋納遺物自体かショボくなってしまう。
平原のような王墓級ものは消滅したかのようだ
最後に、交易品としての鉄が、当時の倭人経済にしめる割合だ。
鉄はあれば便利だが、塩や油脂、食料と比べれば、絶対的に必要なものでは無い。
当時の九州でも以前として石包丁や銅製品が利用されていたことからもわかるだろう。
さらに、恒久財でもある鉄の物流が、交易全体にしめる比率も、
三世紀初頭にあっては、前述の塩等と比して著しく矮小であろう。
邪馬台国体制での交易システムでは主力とは、成りえなかったのだと思う。
東西比率に拘るのもよいが、五十歩百歩とか目糞鼻糞みたいなもんだなw
486 :
圭角:2005/06/13(月) 19:34:49
賑やかで 、ほんとたのしいことですな。
倭人伝信者という言説がついに登場したことを素直に喜んでおります。さればこそ、
記紀と倭人伝と考古学史料の信憑性について、議論する機会契機の到来かと存じます。
せっかく、皆さんはこの学問版に参加されている訳ですから、そうしましょうよ。
ウマミミさん、いかかですか。プラムさん、いかかですか。皆さん、いかかですか。
記紀信者が倭人伝信者と言う理由、倭人伝に史料価値を重視する者が記紀を軽視する
理由経緯などを詳らかにしませんか。そしたら、すっきり、しますでしょう。
あと、古墳と鉄器とまいりましょう。そして、各々が九州説もしくは畿内説の立場から
と前置きすれば、より解りやすく有意義な討論を楽しめると存じ上げます。
>>486 アフォか?
ここは、検証スレ、実質論議のスレだ。
アンタが観念論争をやりたいなら、そんなことは、別スレ立てて、そっちでやれよ!
それが、2chのルールだよ。
>>486 >倭人伝信者という言説がついに登場したことを素直に喜んでおります。
そう言いますが、
>>434-435のように、
>「倭人伝の伝える邪馬台国」として最も矛盾が少ない場所はどこか?
>を検証することが先決でしょう。
とか、
>先入観に捕らわれて、書いてあることを虚心に読むことが
>出来なくなっていますね。
とか書かれてしまうと気色悪く感じてしまうんですよ。
なぜ君はそこまで倭人伝に信を置くの?、と。なぜ倭人伝>考古学>記紀って
考えに凝り固まってしまうのか。
「倭人伝は明らかな誤りと分かる部分以外は全て正しい」とか、何故そのように
思えるのかも理解できませんし。
それと一応言っておきますが、私は別に、記紀>倭人伝と主張するような
記紀信者じゃありませんよ。
489 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 22:14:17
確かに
>>487の言ってることは正論ですし( 納得 )と頷けます。
ルールですから
かといって圭角さんの提案も面白いかと思います。
どうせ ネタがなくなればこのスレもよそのスレ同様死んでしまうでしょう
誰も見向きもしない止まったスレになるなら 何らかの筋に沿っての議論も一考かと思われます。
490 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:18:25
>>488 >なぜ倭人伝>考古学>記紀って考えに凝り固まってしまうのか。
邪馬台国は倭人伝に初出で、その後の史書は倭人伝を踏襲しています。
倭人伝は殆ど同時代の史書で邪馬台国と中国の交流が続いていた時代に書かれたのです。
著者が直接邪馬台国に行った訳ではないが、邪馬台国に行った事がある人間が読む可能性だってあるのだから、トンでもない間違いは無いだろう。
(写本を繰り返す内に誤写が起きた可能性は否定出来ないが。)
だから出来るだけ倭人伝に沿って考察し、どうしても矛盾の生じる所だけ誤写等を考える。という姿勢になる訳です。
初めから箸墓を卑弥呼の墓に決めて、倭人伝を箸墓に矛盾しないように読み替える、と言うやり方をするのは如何なものでしょう?
491 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:20:05
>>486 486の香具師は、別に倭人伝信者でもないよ。
強いて言えば、「ご都合主義」。
時にはよっては、倭人伝の記載を縦読みして粘着し、
場合によっては、他人を信者呼ばわりする。
彼が、ここの来たのは、九州説の某氏のマネごとをして見たかっただけだろう。
ただ、記紀や漢籍、考古の細かい話になるとついて来れないので、
今度は、抽象論でお茶を濁そうって魂胆だろう。
492 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:26:39
>>486 では手始めに。
圭角さんは、記紀は歴史書としての信頼性が出てくるのは何天皇の頃からだと
考えられますか?
>>475-476 >>485 ウマミミさんの論説は非常に興味深いです。こちらに関する議論も平行して
お願いしたい。
>>488 > とか書かれてしまうと気色悪く感じてしまうんですよ。
自らの些細な感情にとらわれて客観的な観察が出来なくなるタイプですね。
「自分は理知的な考察を不可欠とする科学的な分析は出来ない感情的な人
間である」と明確に認識したほうが良いです。
494 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:52:07
>>484 九州に径百余歩の円墳を見つけてからにして下さい。
どうせまた、都合のいい解釈=「短里説」とか持ちだすんだろうけど。
魏や晋が短里を採用していたなんて妄説なんだが。
30mの円墳なんてありきたり。わざわざ大きさを特筆しないよ。
「大いに塚を作る」という記述と違和感があるな。
九州説者が、又も論破されまくっているスレはココでふか?
>>493 じゃあさー
>「倭人伝は明らかな誤りと分かる部分以外は全て正しい」とか、何故そのように
>思えるのかも理解できませんし。
に答えてみてよ。
倭人伝を妄信する態度が科学的かは疑問だなーw
それと、君と僕との議論は内容が空疎で抽象的だから、次から
もうちょっと具体的に書くよう努力しましょうよ。お互いにね。
497 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 23:08:00
『記、紀』の神様
(神代巻)
個別神名
「記」…267神
「紀」本文…66神
「紀の一書」本文以外…115神
「記と共通する紀本文」…56神
「記と共通する紀一書」…56神
「記」の267神に対し「紀(本文+一書)」は181神というぐあいに「紀」より「記」の方が多く、「紀の一書」では独自の神名が59神も登場する
>>490 質問に対する答えになっていませんが。考古学は無視するってこと
ですしょうか。
まあそれはともかく、九州説の方々にもそろそろ、ウマミミさんのような
邪馬台国九州説の概略について語って欲しいものです。
倭国大乱の原因と範囲。女王共立による連合は何故必要だったのか。
マキムクや出雲、吉備との関係はどうだったか。倭人伝に畿内や
出雲、吉備はどのように描かれているのか。また邪馬台国体制はどのように
消長していったのか。
そして何より、邪馬台国は何処にあったのか。
499 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 23:28:29
『日本書紀編纂』
(梅原猛氏説)
はじめは川島皇子、忍壁皇子らがあたり、のち、舎人親王が中心となり、紀清人、三宅藤麻呂らが参画した藤原不比等の意図にもとずく。
現実政治家である不比等は、国家の中心イデオロギーを仏教ではなく、神道にもとめ、そのイデオロギーにもとづいて史書は撰修されたという。
500 :
元祖プラム:2005/06/13(月) 23:46:30
『古事記』
その序文によると、諸家に伝わる「帝紀」や「本辞」はすでに正実と異なり、多くのあやまちがあり、国家を治める大本である「帝紀、本辞」の「旧辞」を討議し、偽りを削り、実を定めて後の世に伝えようとする天武天皇の意志によって編まれた。
しかし、それはあくまで表向きであり、天皇家にとって都合の悪い伝えがあったので編修した。
502 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 00:07:59
『古事記』が帝紀と本辞を素材に「正説」を定めて編纂しているのに対し『日本書紀』は異なった叙述法をとっている。
本文の外に「一、一書、或本」と異説を採って並記していることである。
多いものでは本文に対し、十一の一書を引いている。さまざまな書の説を単に羅列したものか、あるいは同一の書の写本間の異同を書き留めたものか、その意図は不明である。
『日本書紀』の編纂姿勢はかなり異例で、範をもとめた中国ではついぞ見ないものである。
503 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 00:39:38
古事記の編纂目的の一つとして「氏族系譜」を明らかにすることであるから
当然女性が深く関わってくる
氏族の系譜を正すには女系を詳しく記すことが必要不可欠 、とくに皇統譜は衆庶の区別厳しくしたので
>>496 >「倭人伝は明らかな誤りと分かる部分以外は全て正しい」とか、何故そのように
>思えるのかも理解できませんし。
はあ? 当たり前でしょ? どこで誰がそんなことを言ってますか?
妄想が脳髄まで食い込んでいますよ。
>>504 じゃあ、あなたも私も同意見だよね。
倭人伝に書いてあることが必ずしも正しいとは言えない。
考古学や記紀との関連で考えていかないと。
倭人伝を虚心で読むだけでは駄目だよw
>>505 いけませんね、話を逸らしては。
>>496 >「倭人伝は明らかな誤りと分かる部分以外は全て正しい」とか、何故そのように
>思えるのかも理解できませんし。
このような「妄想」は、何番の書き込みをどのように誤読したせいですか?
まずそれを明確に「検証」しておかないと、そちらの思考の欠陥はいつまで
経っても改善されませんよ。
>>506 おいおい。
505に異論がないってことなら、別に君と議論をする必要はないと思うのだが。
異論があれば言ってみてよ。
508 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 02:10:05
箸墓より古いとされるホケノ山で、画文帯神獣鏡の他、
鉄製刀剣10本程、銅鏃60以上、鉄鏃60以上、農工具などの鉄製品多数、
出ていることは、このスレでは無視されているのか?
509 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 02:18:43
邪馬台国→ヤマダイ→ヤマト?→大和国
卑弥呼→ヒメヒコ?
511 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 07:35:54
>>508 今ここでは、弥生後期〜終末期の西日本について語られてるんだよ。
時間軸がメチャクチャなヤシが混じってるので、流しで観ると分かりずらいが
513 :
檀君:2005/06/14(火) 08:38:29
朝鮮半島との繋がりを考えれば、
3世紀初頭に繁栄していた邪馬台国は、
北九州にしか存在出来ないのは明白。
なぜ、この事実を皆は無視するのかねぇ?
514 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 10:50:41
>>510 >>453で書いた
>言葉たらず
そんな正史があるのか
だいたい意味不明な内容とか理解に困る内容は
すべて現代の我々の考えだろう
きちんと書かれている文を「言葉足らず」と解釈する我々の読み方に問題があるのではないか
515 :
がいやまん:2005/06/14(火) 11:24:04
安本さんの夜須町は倭面土(ヤモド又はワモド)国で国王帥升はスサノオ、でこれが
神やらいになり出雲に追放、一時は吉備に部民を集結したが後に纒向で安本さんの言う
大和郷の地名を中心とするあたりに邪馬台国を建国した後考えるのが順当。問題はこの
スサノオが伊都国、奴国を中心とする天孫を西都原方面に駆逐したのではないかという
ことだ。これは今後の発掘の展開を見てみたい。
516 :
がいやまん:2005/06/14(火) 11:42:47
さかのぼってこの倭面土(ヤモド又はワモド)国がどこから来たかというと
これは古田さんの言われるとおり:
それは中国の『山海経』という書物の記録である。周の戦国時代に書かれた
記録です。孔子より遅くて孟子と同時代です。日本では縄文時代晩期に当たる。
そこに蓋国という平壌(ピョンヤン)近辺らしい国の話が書いてある。「蓋国は
鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」(山海経、海内北経)このように
書かれてある。今の北京あたりが巨燕です。
そうするとこの倭は、どうも海の向こうではない。現在の朝鮮半島の南半部・
韓国部分のところを、倭と呼んでいる。倭に住んでいるのはもちろん倭人である。
そうすると海の向こうに住んでいるのは、志賀島の金印がしめしますように倭である。
これを、ぜんぜん別の倭と考えるのは無理がある。別の倭と処理をする学者
もいますが、わたしは無理だと思う。海一つ隔てたところが両方倭で、ぜんぜん
別人種の倭人だと考えるのは、机の上では言えるけれども実際問題としてあり得る
ことではない。つまり玄界灘の両岸に倭人が住んでいる。海洋民族であるギリシャ人
だって、多島海であるギリシャとトルコ側の両方に住んでいる。あれと同じだとおもう。
だから、ここに朝鮮半島の南半部に倭人がいたというテーマが出てくる。」
517 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 11:43:47
里程は5倍に記載されているんだろ?
墓の大きさも5倍じゃないか?
径百歩は実際は20歩。
殉葬者百人も20人。
水行二十日は4日。
陸行一月は10日。
人口7万は1万4千人。
程よく合っているように見えるがどうか?
518 :
がいやまん:2005/06/14(火) 11:51:00
要するに、倭が蓋国を通過して倭面土、邪馬台といった国を建国したものであり、
複数の氏族による集団で、場合によっては百済とか、呼ばれるのだと思う。モモソ
姫のモモソがこれに当るんじゃないか。ただし、アムール・サハリン・利尻・山形などを
結ぶ交易路は殷の中期からあるようでいわゆるエミシの形で入ってきたツングース系
の部族もあったとしておかしくない。
519 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 13:57:55
倭面土=やまと
520 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 14:43:26
スサノオウ
↓
大国主 → ニギハヤヒ
→ ウマシマジノミコト → 物部連、穂積臣、采女臣
ナガスネヒコの妹
イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下る。
521 :
圭角:2005/06/14(火) 15:29:28
記紀の記述をいかに鋭く分析し、いかに細かく検討したところで、
記紀の編者が古伝承に加えた歪曲を修正するどころか、ありもしなかった
史実を発明して、とどのつまりは新しい神話を創作する可能性すら大きい。
記紀が日本最古の史書だからといっても、書いてあることが本当だという
理屈は成り立たないし、古い伝承を忠実に棄集し保存したものだという保証
もない。
522 :
圭角:2005/06/14(火) 15:36:18
そもそも、歴史が初めて書かれた時期の史料は、歴史観念が確立した後世に
書かれた史料とは本質的に異なる。だいいち、何が史実かという基準が未だ
無いのだから、たとえ編者自身に歴史を偽作しようとする意識がなくとも、
結局は、国家というものはこうあるべきだという理想像をたてて、それに
記述を合わせていくことになってしまう。
523 :
圭角:2005/06/14(火) 15:43:46
記紀の編纂の時代は、白村江敗戦の衝撃の反応として、日本列島の種種雑多
な種族から成る住民を統合する新しい国家、民族、文化を創出し、日本を
創造しつつある時代であった。
そういう時代に、しかもはじめて書かれる記紀が歴史的現実を忠実に再現
しているか否かは、考えるまでもない自明のことである。
524 :
圭角:2005/06/14(火) 15:49:45
記紀の神話や物語は、その詩的な美しさのために我々の魂に訴える力を持ち
我々自身では合理的な思考をしているつもりでも、知らず知らずのうちに
歴史像の構成に影響を受け、それに支配されていることに気が付かなくなっ
てしまっている。
その好例が、日本民族はどこから来たかという問題だ。
525 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 15:51:45
改竄しまくで意味をなさない記紀を莫大な時間を要して製作したのは
製作者側の意図があったから、と決め付けるのも決してよくないでせう。
人には祖先を思う気持ちは根底にあるものなのです、おそらく人類が物心
ついた時より始まっているものと思われます。
私事で恐縮ですが10代前の先祖が知りたい。金と時間があるなら調べてみたい。
526 :
圭角:2005/06/14(火) 16:03:33
日本民族は、もちろんこの日本列島の中で発生したのである。
七世紀当時に日本列島各地に住み着いていた種族が結集して日本民族になった。
しかし、普通はそう考えたがらない。なぜだろうか。
どこか海外に日本民族の故郷の地があって、そこから集団をなして、押し渡って
来た人々が中心となって、日本民族ができたと漠然と考える人が多い。
その理由の背景根底は無意識潜在意識として、記紀が皇室の祖先が天上から
この島々に降りて来たと語るからだ。そのために、天上とは、どこか実在の
国土、降る神々とは外来渡来の人々という日本国家民族の海外起源説にも
結びついており、毒されているという自覚症状すら失わせているのが記紀で
ある。
そうだよ。イギリス人はイギリスで、アメリカ人はアメリカで発生したのだよ。
528 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 18:12:59
九州説と騎馬民族説は密接な繋がりがあるようだ。だから必死なのさ
529 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 18:50:38
昨夜ダラダラと「記紀」について思い当たる事を書き連ねて見ましたが
結局
>>499の内容が払拭されない限り 「記紀」への懐疑心は永遠に残り
参考資料の域を脱しきれません
いかがでしょう
圭角さん
530 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 18:54:44
531 :
圭角:2005/06/14(火) 19:17:19
プラムさんの言うとおり藤原不比等らまでも記紀の編纂過程の当初において
参画していたとするならば、記紀がその記述内容においてきわめて政治的な
色彩を強くするのは、もはや、否定し難いことでありましょう。
何度も重ねて申して恐縮ですが、卑弥呼の三世紀と記紀の七世紀の時間差は
実に四百年間もの歴史時空があります。今から四百年前は関が原の時代です。
三世紀の時代を語るのに、四百年後の政治的色彩の極めて濃い記紀の神話の
伝承を基にするというのは、どうしても不合理不自然理不尽に思います。
532 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:26:45
九州説な人達は、畿内自生説との論争から撤退して、
何故か突然にも記紀批判に勤しんでおりますので、代わりに吉備東遷説の立場で一言。
邪馬台国連合下の標準土器である庄内式土器、
これの最古型的なものが播磨に先行出現する件について、
意見の有る方はいますか?
533 :
太国:2005/06/14(火) 19:28:29
>>521 「史実の発明」と思われる箇所とは記紀のどこの部分なのか?
534 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:53:19
535 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 19:59:32
圭角さんはホケノ山のことをどう考えているのでしょうか?
536 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:28:14
>そもそも日本人種なんて存在しない。
日本人種の存在を証明する事は非常に簡単である。
日本人種に一番近い人種は間違いなく朝鮮人であるが、朝鮮人は日本人種と
似ているが、その容貌や身体的特徴はかなり違う。
頭示数、二重瞼率、発毛の具合、朝鮮人の外見は日本人種とはかなり違っている。
また朝鮮人のHLA遺伝子は日本人種と6割近くも違っている。
日本人種に一番近い朝鮮人でさえもこの程度なのである。
その他のアジアの人種ならば、それ以上に違っているという事になる。
つまり、日本人種は日本列島だけに存在する日本独特の人種である。
また、YAP+遺伝子を東アジアで唯一持っているのは日本人種だけである。
YAP+遺伝子は日本人種が間違いなく存在しているという決定的な証拠である。
日本の周辺人種にはこのYAP+が全くない。
http://recon.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/img-box/img20040907115249.jpg
537 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:29:54
>>535 多分、今まで存在すら認知してなかっだろうから
思うもナニもありゃせんだろう。
そんなことより、今は太クンと遊びたい一心で記紀ネタ邁進中のようだ。
538 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:35:26
>>530 ホケノ山は弥生時代終末期とされる庄内式期の墳墓なんだって。
539 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:40:07
>>534 吉備は、高地性集落の東進に併せ、播磨、摂津、河内と暫時進出。
近江や紀伊、伊勢などと連携し、
唐古や池上を圧倒したんだよ。
そう言うキミの考えはどうなんだ?
540 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:42:39
YAP+は縄文人の持っていた遺伝子だな。
所謂、古モンゴロイドの持っていた遺伝子だ。
古くは黒人から受け継いだ遺伝子で新モンゴロイドから失われた。
図では台湾人が少なくなっているが台湾の少数民族を詳しく調べればもっと多いはずだ。
YAP−のほうが繁殖力が強いから人口が希薄な所、離島などにYAP+は残り、民族移動が激しい所では消えてしまったのだろう。
>>539 マキムクの初期古墳に吉備の影響が少ないから、それはないでしょう。
542 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 20:52:17
>>539 藻れは 新大阪四世紀発のレールスターに乗ったのさ(瀬戸内海フェリーかな)
543 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 21:06:11
544 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 22:41:06
ホケノにしても結局、土器編年や画文帯神獣鏡によって割り出された年代でしょう。
放射線炭素年代識別測定ではトンデモ結果だったし
出土した庄内式土器(八尾市庄内)は三世紀末〜四世紀初期が妥当だろう。
>>544 でもマキムクや箸墓は、卑弥呼の頃と認めていたように読めましたが。
鉄が出てきたホケノだけは時代が下るわけなんですか。
546 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 23:07:49
>>545 いや、
別に庄内三式と布留一式がダブっていたって別に
変ではないだろう
それとも同じ時系列に二種類の土器を存在させることはタブーか?
余り歴史詳しくないので教えて下さいな
548 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 23:17:30
>>545 ホケノで鉄が出土
どんなに希薄な大和でも、ゼロとは言ってないぞ
マキムク周辺にはすでに古代型のマーケットも存在していたろうし
年に数回は海上商人が珍しき鉄や絹を持参しただろうから
でも、絶対量は九州と格段と違うはず
549 :
元祖プラム:2005/06/14(火) 23:24:40
>>548 ごめん。私も考古学、詳しくないので。誰かご教授してくれないでしょうか。
ただ
>>508を読む限り、かなり鉄製品が出ていると思います。
卑弥呼の頃に、畿内は鉄輸入の転換期を迎えていたのではないでしょうか。
つまりそれが、邪馬台国体制の成立による北部九州からの安定的供給であったと。
あなた方が4世紀初めに想定していた北部九州→畿内への権力移譲が
3世紀半ばには既に起こっていたと考えていいと思いますが。
マキムクのような大土木工事は鉄製品が使用されていたと考えた方が
シックリきます。
卑弥呼の弟が全国各地の鉄の産地に出向いている。
552 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 02:23:28
@邪馬台国九州説、A「九州北部東遷→畿内邪馬台国」説、が破綻している今と
なっては、B「畿内を中心とした倭国連合→ヤマト(邪馬台)政権」説が最終的に
残ったわけですね。
近年の考古学の成果が、図らずも、戦後「科学的でない」として否定的に語られていた
記紀の歴史書としての信憑性を増す結果となっているのも皮肉なものです。
553 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 06:43:11
554 :
元祖プラム:2005/06/15(水) 07:22:31
>>550さん
私の考えでは四世紀初めというよりも
『四世紀いっぱいかけてゆっくりと』と、考えています
>>544-550 私も素人なのだが、考古資料の実年代については、
専門家諸氏の意見にばらつきが多く、判定もころころ変わるようなので、
そう言う程度のもと考えている。
ただし、考古資料相互の関係、編年と言うやつ、
この相対的時間軸については、確固たる研究の成果がでているらしく、
それに基づいて考えるようにしている。
で、ホケノだが、
同じマキムクでも石塚などの最古期のものより
一世代新しいとされているようだ。
そして、副葬物である鉄製品、何度も言ったが、
こう言う威信財は埋納される前にある程度伝世されることが多い。
つまり、出土遺蹟の年代より古い実情を表すことが多い。
こう言うのを無視して考えるから、へんな結論がでるのだ。
556 :
檀君:2005/06/15(水) 09:59:41
なんという不毛な議論だろう。
ようは、北九州からの権力委譲が、
3世紀初頭(畿内派)か、3世紀末(九州派)か、ということだろう?
畿内派は、なぜ、3世紀初頭にマキムクに都を移動させなくてはならなくなったか、
なにも弁証してないではないか。
それとも、北九州勢力とは無関係に、マキムクに邪馬台国勢力が生まれたというのか?
その文化的経済的地盤は何だ?北九州を介さずに文化の発展が可能なのか?
少しは常識的に考えてみたまえ。
邪馬台国は北九州にあり、3世紀末の大陸情勢の混乱などで、
経済が左右されやすい北九州から都を畿内に移し、
国内地盤を固めたと考えるほうが自然である。
557 :
檀君:2005/06/15(水) 10:13:55
3世紀初頭の北九州の邪馬台国にとって、マキムクは、畿内市場を掌握するための施設だったろう。
畿内で集めた農産物などの物資をとりまとめて、北九州に輸送していたのだ。
マキムクで生産された庄内式土器が北部九州をピンポイントに目指して西進します。
これは今までの土器頒布の常識からしても極めて異常な状態です。
途中の瀬戸内各地には目もくれないかのように、北部九州のみに大量に投入されるからです。
マキムクが生まれた3世紀中も、北部九州が経済の中心地だった証明です。
558 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 12:55:07
纏向ってさ、竪穴式住居無いんだって。
高床式の家だけで当時の遺跡としては全く異質。
日本人じゃなかったんで無いの?
559 :
元祖プラム:2005/06/15(水) 17:00:40
>>557壇君さん
三世紀では少し早くありませんか
『倭人伝』には
女王国の東は 殆どよく解らない状態になっていますので
時期的にもう少し年代を下げたほうがよろしいのではないですか?
私の場合、
そこまで経済的流通のパイプが太くなるのは四世紀以降と考えており
畿内⇔北九州の窓口役に宗像氏の存在が…
560 :
太国:2005/06/15(水) 19:35:21
>>552 邪馬台国九州説は破綻しても、邪馬壹国九州説は破綻しないぞ。
561 :
プラム:2005/06/15(水) 19:44:01
太氏
邪馬壹国じゃなく邪馬壹國でしょ
562 :
太国:2005/06/15(水) 19:50:42
失礼 そのとおりです。慎んで訂正します。
563 :
太国:2005/06/15(水) 19:52:05
えらく、厳しい正字ですねぇ。
564 :
プラム:2005/06/15(水) 19:57:49
太氏
以前私に、最初指摘したのは貴方ですから
ほんの少しばかりの
プレゼント
565 :
太:2005/06/15(水) 20:08:18
プラム氏の逆襲かぁ〜w
566 :
プラム:2005/06/15(水) 20:34:38
いえいえ
>>565 『プラム』は 3 レスだけのお遊びです。
567 :
太:2005/06/15(水) 20:36:47
断固と守れその正字〜♪
>>557 『マキムクで生産された庄内式土器が北部九州をピンポイントに目指して西進します。』
上の文章は、微妙な内容ですね。
後続の部分 『北部九州が経済の中心地だった証明です。』と言う結論に達するものか怪しいよ。
先ず、『マキムクで生産された』が問題。
北部九州で出土する『庄内式』は、ほとんど九州産の胎土らしい。
『ピンポイント』に『西進』したのは、モノじゃなくて、使用者・工人などのヒトだよ。
もともと主力出土種の『庄内甕』は、搬送用じゃなくて煮炊用の土器だから当然のことだが。
時期的には、三世紀中葉から末くらいの現象。
それと、貴方の結論に影響があるかどうか知らんが、
九州の庄内は『大和型』ではなくて『河内型』に属する様式らしい。
想像するに、河内の主要港である久宝寺あたりの海事関係者の移動ではないかな。
この事実をもって、畿内<>北九州の瀬戸内ルート輸送の主従関係を判断するなら、
貴方とは逆の結論になりますね。
ところで、貴方が主張する「三世紀末に九州から畿内に遷都」ってのも、
三世紀初頭には、既に瀬戸内中心の西日本に交易ネットワークが成立していたとの前提だよね。
と言うことは、三世紀初頭の北部九州、吉備、河内・大和などの各勢力の中で
一番見栄えのするところが、その当時の『都』に相応しいと思うのだがどうだろう?
北部九州で『一番見栄えがする』と胸を晴れるところは何処だろうか?
>>568 > 一番見栄えのするところが、その当時の『都』に相応しいと思うのだがどうだろう?
割込ですが、その点はちょっと疑問でして、なぜかというと、倭人伝によるなら、倭国が乱れて、
何年も「相攻伐」という状態に陥ったので、どうもならんから女王を共に立てて小康を得たとな
っているのだから、「他を圧倒するような国は存在しなかったからこそそうなった」と解釈せざ
るを得ないし、卑弥呼の国が盟主とされたのも、卑弥呼さんのカリスマに寄りかかったものだか
ら、邪馬台国が倭国のうちの最大最富強の国とは限らない、ということになるはずです。
>>568 おっと、
>>569は誤解を招く余地がありますね。「邪馬台国が倭国のうちの最大最富強の国」
であっても矛盾はないことは事実。念のため。
>>569 考え方としては、それも有りですね。
ついでに、話を倭國乱に戻して、乱の原因は何だったのでしょうか?
帥升の後韓への朝貢が、AD107年。
帥升か、その後継者がヘタレだったのでしょうか?
それとも、遼東の公孫氏の影響でしょうか?
ともかく、2世紀代の倭人の間に何らかの争いがあったことは確かです。
畿内説的には、これが原因で、「倭王」の称号が、畿内へ移動するわけですね。
私は、争いの決着については書いたのですが、その発端については未検証でした。
考えが無いでも無いですが、決着以上に不明の点が多く、検証しずらい部分だと思います。
では、夜も更けてきたので、後は檀君にでも任せて、私は寝ることにします・・・
572 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 06:53:27
>>568 もし、安本の言うように箸墓が4世紀後半なら、北部九州で出土する『庄内式』の方が纏向より早い事になる。
であれば庄内式土器は北部九州から纏向に移った事になる。
布留式が北九州にないと言う事は、北九州と纏向の関係もあまり密な物ではなかった事を示すのではないか?
4世紀前半くらいに庄内式土器を作る連中が畿内に移動して土器を作ったと考えると判りやすい。
>>572 庄内式の発生が九州と言うのは否定されてますよ。
九州での庄内は後期様式のものばかり。
最古型のものは河内からしか出ません。
河内よりも古く、庄内式のプロトタイプみたいなものが
播磨から出ることは有るみたいですが。
574 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 07:38:57
日本はまとまってからまだ130年しかたってない。
関西と関東がようやく一つになったのもつい400年前だ。
国家としての歴史はアメリカレヴェルの浅い国なのだ。
>>571 盛衰の原因は、農業生産が国力とイコールだったはずの時代のことですから、後世の戦国期の
事情などから類推しても、まず間違いなく、農業生産に影響する「気候」の問題でしょう。
それも、備蓄が豊富で輸入も容易などという可能性は絶無の時代だから、何年も継続した天候
不順でなくても、ヘロヘロになってしまう可能性が高いわけだし、広域とはいえない局地的な
現象だったとしても、一国の存亡にかかわった可能性があるわけで、現時点で「これ」と推定
できるほどの規模の現象だったかどうかも不明。
干魃なり低温なりはもちろん、たとえば収穫期前を狙いすましたような短期の異常多雨とかも、
場合によっては「致命傷」になりえたはず。
これまた、局地的とはいえない、たとえば現時点での地方別で把握できるほど広域の現象とい
う可能性もあるわけですが、それほどではない現象も視野に入れないといけないはず。
勢力の移動があったとするなら、その原因は、「物的証拠」など残らないような「些細なもの」
であった可能性もある、ということになりますね。
>>575 >後世の戦国期の事情などから類推しても、まず間違いなく、
>農業生産に影響する「気候」の問題でしょう。
その類推するに至った訳を書いてみてよ。戦国期のどのような事情を考慮した上で、
「気候」が倭国大乱の原因だったと思うのか。
「異常気象が大乱の要因」って言う人も確かにいるけど、証拠は無し。
異常気象が乱を誘発するってのも、単なる思い込みじゃないだろうか。
577 :
元祖プラム:2005/06/16(木) 19:10:22
そもそも
『魏書』では
倭國乱相攻伐歴年
『後漢書』になって
倭国(大)乱更相攻伐歴年無主
倭国大乱は『後漢書』の表現で 『魏書』では倭国乱としている
>>576 > その類推するに至った訳を書いてみてよ。
ここは「聞けば何でも教えてくれる学校」ではないのでね。ヒントにして自分で調べてね。
> 異常気象が乱を誘発するってのも、単なる思い込みじゃないだろうか。
はあ? 国力の盛衰と、それに伴う勢力バランスの崩れの原因の「一つの可能性」の話ですが?
>>578 「類推」とか言うから、もうちょっとまともな類似性が提示出来るのかと思えば、
漠然とした思い付きに過ぎないんだな。
期待を持たせるような書き方をするなよ。
>はあ? 国力の盛衰と、それに伴う勢力バランスの崩れの原因の
>「一つの可能性」の話ですが?
その程度の可能性なら、わざわざ書かなくてもよいのでは。
根拠のない妄想なら幾らでも書けるよ。
580 :
元祖プラム:2005/06/16(木) 19:56:57
桓・霊帝の失政により楽浪郡においても
その管理下にある 韓族、[水 歳]族 そして倭族を統轄出来なくなり 各々好き勝手にやり放題
これが
倭國乱ではないか?
そんなバラバラな倭族も郡の肝煎りにより卑弥呼という女王を担ぎ上げ何とか納まりがついた。
しかし狗奴国はこれに承服せず、肝煎り女王とは一線をひいていた。
581 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 20:34:35
>>573 なぜ九州に庄内土器があって布留は無いんだ?
箸墓が卑弥呼の頃のものなら九州と一番密接につながりがあった筈じゃないか?
九州の土器も纏向に無いし。
582 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 20:37:01
後漢の権威失墜が倭国大乱の原因だよ。
「漢委奴国王」の時代よりの、玄界灘沿岸グループの倭国王体制が崩壊し、
畿内や吉備、東海らの連合政権が誕生した。
で、新政権が誼を通じていた公孫氏が魏と対立。司馬仲達の攻撃を受ける
に至って、急いで公孫淵→魏へ乗り換えたってことだろう。
583 :
元祖プラム:2005/06/16(木) 21:08:18
>>582 >畿内、吉備、東海の連合政権誕生
そんな連合政権誕生させてどうするの?
相手はだれ?
連合組む前は各々の政党同士で意見をぶつけ合っていたのか?
連合政権ということは 連合を組む前にすでに統一国家らしきものが存在していたと解釈出来るが
それでいいの?
>>579 やれやれ、手取り足取りに慣れている子供は疲れますな。
>>583 >連合政権ということは 連合を組む前にすでに統一国家らしきものが存在していた
>と解釈出来るがそれでいいの?
でも、君の好きな倭人伝にも「女王を共立した」って書いてるじゃん。
>そんな連合政権誕生させてどうするの?
倭国大乱で筑紫勢力の倭王体制が揺らぎ、瀬戸内海航路の安全を保障する
権威が改めて必要とされた、って、このスレでも何度も書かれていると思いますが。
納得出来てないようですね。
>>584 いえいえ。私は純粋に議論を楽しみたいだけで。
無根拠な書き込みをされると、それを信じてしまう人も出ますし、
議論も混迷しますので、否定してみましたw あしからず。
気分を害されたなら謝りますよ。
587 :
元祖プラム:2005/06/16(木) 21:42:31
>>585 『連合政権』
これって 数の論理で政権を左右出来る時にする行為だろう
連合国じゃなく
連合政権だよ!
畿内、吉備、東海等が属する主権国家とはなんぞや?
>>583 > 其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
> 乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。
その国にはもともと男の王がいた。七、八十年経った頃、倭国は混乱状態になって、
長年にわたって相攻め合う状態が続いた。
そこで(相攻め合っていた国々が)共に一人の女性を王とした。名を卑弥呼という。
> >畿内、吉備、東海の連合政権誕生
いずれかが上述の話に該当するかどうかは別の問題。
>>586 あ そうですか。でも面倒だから説明略ということで。
>>587 何を肯定したいのか否定したいのかよく分からない。
> 畿内、吉備、東海等が属する主権国家とはなんぞや?
何でその時点で東海までつながっていたとするのか意味不明ではありますね。
591 :
元祖プラム:2005/06/16(木) 21:51:57
そもそも日本において『連合政権』の最初って戦後だろう
戦前にもあったらスマソ
592 :
元祖プラム:2005/06/16(木) 21:56:32
>>590 三世紀
すでに『連合政権』が存在していたことを
否定したい。
>>591 連合国と連合政権の違いって、そんなに厳密なものか?
出来れば、個々について具体的に説明願いたい。
>>589 別に期待はしてませんよ。少し自信過剰じゃないかしら。
>>590 >何でその時点で東海までつながっていたとするのか意味不明では
>ありますね。
マキムクの搬入土器で東海の割合が高いからです。
妥当な推測だと思いますが。
597 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:48:30
>>595 狗奴国≠東海ってことね。
じゃあ、狗奴国は何処にあったの?
南九州か、もしくは紀伊の熊野ですか?
598 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:02:41
>>597 前方後円墳=邪馬台(ヤマト)、前方後方墳=狗奴っていうのは
単純過ぎる気がします。
葬送儀礼が違うからって、必ずしも対立していたなんて言えません。
畿内王のお膝元の葛城地方にだって、前方後方墳がある訳ですから。
畿内と東海は古くから同じ銅鐸文化圏で、人や物の交流があり、
婚姻政策などを通じて同族意識が強かったんでは、と思ってます。
むしろ東海が参加してくれたからこそ、北部九州を圧することが
出来たのでしょう。
背後に強敵がいれば、畿内・吉備が北部九州から倭国王位を奪取するなんて、
とても覚束なかったと思いますよ。
599 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 00:30:31
三輪山=太陽信仰の聖地だ。
で、いわゆる「太陽の道」と言われる北緯34度32分線が引かれ、
その東西線に基づいて世界観、神話世界が生まれた。
つまり東=伊勢=聖vs西=出雲=穢という思想で、記紀神話は創作された
のである。
ではその世界軸が引かれたのはいつのことだろうか。
崇神紀に書かれていることが、意外にも真相を突いているのでは、と私は思う。
つまり、アマテラスは伊勢に遷宮して頂き、当時最大の政敵・出雲征伐が行なわれた
崇神の頃に、その世界観が生まれたのだろう。
西暦で言えば3世紀中頃─
崇神の伝承が色濃い三輪山山麓にマキムク遺跡が出現し、
出雲の高地性集落が解体され近畿の土器が出雲に流入してくる時期である。
600 :
圭角:2005/06/17(金) 16:09:19
よい流れだなと思いながら、みなさんのご意見を興味深く拝見しておりますが
またまた、突然唐突に記紀神話の話が出てまいりましたな。東西線とか見ますと
昔に通学してた地下鉄を思い出しました。世界観とか世界軸とかいう語彙も
今の流れには不似合いに思います。
ところで、吉備と畿内の連合は未だ考古学的にも証明されたものに非ずと、は
奥野正雄氏他の見解ですが、一部の方は何の疑いもお持ちでないご様子ですが
仮説のひとつに過ぎないものにせよ、説得力のある仮説とは、自分には思えない
次第ですが、特殊器台のほかに何か格別の説得材料があるんでしょうかねー。
>>568,
>>573 よく勉強していらっしゃるようですが、
九州の庄内甕はむしろ大和甕系統のようです(タタキの向きや削り方)。
在地での生産がほとんどというのはその通りみたいです。まあ数が多いので考えてみれば自然です。
また近年の研究ではやや古い型式も存在するようです(もちろん大和での成立より新しいですが)。
播磨成立説は最近はほぼ無くなりました。むしろ新しい型式のみは九州より播磨ですね。
また、大和と河内の庄内甕の前後関係は、見込みで河内が優勢ですが、まだ証明されていません。
また
>>581ですが、九州にももちろん、布留式(厳密には畿内の布留式を模倣したようなもの)がたくさんありますよ。
むしろ西日本一帯では、畿内の次に「布留式化」が早く進む地域ですが。
>>93 ハケメ工具等の木製品は「大陸系磨製石器」で作れると思いますが?
ふつうに弥生早期からあるのはだからでしょ?
また例の歴博の年代論争でも明らかになってきましたが、石器か鉄器かの加工痕の区別も実際は難しいです。
あと、単純に鉄器の量的分布のみが問題ではなく、鉄器の質再生(=鍛冶)技術が問題です。
「鉄器の質<や>再生(=鍛冶)技術」です。
あと北部九州の鉄器化の早さは考古学的事実なので、それは認めてもらわんと。
村上恭通の本ぐらい読んでますよね?
>>599 3世紀中頃に出雲に畿内の土器は流入しているのか?
もう少し後だと思いますが、、、
3世紀中頃って畿内の土器様式ではいつと考えているのでしょう?
それと畿内と東海の連合の根拠が今一つあやふやだが?
赤塚説の裏返しをしているに過ぎないような気がしますが?
605 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:06:15
>>600 「鬼道に仕え、能く衆を惑わ」した女王の時代を語っているのに、いやに頭が
硬いですねえ。
宗教や神話を馬鹿にしてはいけません。少なくとも古代人はリアルに感じて
いたわけですから。
トトヒモモソ姫の墓の葺石を、わざわざ大坂山から運ばせたり、
近つ飛鳥に蘇我系の大王墓が造られたのは何故だと考えますか。
現代人の感覚でしか古代を見ないのは、片手落ちだと思いますよ。
606 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:11:33
土器の流入は米や、その他の産物を運ぶ為だろう。
出雲の畿内の土器が流入していたら、畿内は出雲の支配下にあったか、出雲の鉄を畿内の産物で交換するためみたいな理由しかない。
出雲は前方後円墳作られるようになるのも遅いし、長く独立を守っていたと推測できる。
607 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:14:16
>>605 纏向に石が足りなかったからに過ぎないわな。
勝山とか石塚あたりから剥がして使った可能性さえある。
>>605 残念ながら、箸墓古墳の葺石は大阪山からではなく、むしろ近辺の巻向川扇状地の河原石であったことが岩石学的に分析・推定されていますが何か?
609 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:15:06
トトヒモモソ=卑弥呼もまた現代人の糞生意気な妄想の結果なんだが
>>606 あのな、土器が流入したからって、搬出元が受け入れた方の支配下にあったことになるというのはおかしいんじゃないの?
相互に行き来する場合はどう言う解釈なの?
畿内系土器の移動=畿内の支配下というだけの単純解釈には漏れも反対だが、そういう解釈もまた一方的だよな。
611 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:22:10
>相互に行き来する場合はどう言う解釈なの?
相互なら対等の交流だろう。
>>608 しかし大坂山のサヌカイトも出たのは事実で。
>>604 >畿内と東海の連合の根拠が今一つあやふやだが?
では、東海が畿内ヤマト政権に参加したのはいつの頃だと思います?
>>606の論理だと、逆に山陰の土器は畿内にも少なくない数が搬出されているので、当然、畿内に貢ぎ物をもっていった結果であり、山陰は畿内に従属していたことになる、ということで宜しいか?
614 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:27:17
>>610 年貢を土器に入れて運ぶのは当たり前だろ?
土師器なんて耐久性ないから使い捨て土器だし
貰って有難いもんではない。
>>606 じゃあ、なんで出雲の高地性集落が無くなるのよ?
616 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:31:13
>>612 主体じゃないだろ?というか、報告書(寺沢が周溝を掘った分)の分析見てたら全く無いが?ソースキボン。
それと東海は主体的には参加してないと思ってます。労働力を提供させられたという点では参加したかもしれませんが。
箸墓古墳築造が契機ですかね。
あと、単に土器が多く出るから連合に参加とはどうでしょうか?
東海にとって、纒向が西からの文物を入手する最大の市場だったからでしょ。その反対給付で産物が土器に容れられ行ったのでしょう。
S字甕の多数出土は古墳造営土木労働(要するに出稼ぎか)ではないかと。
逆に例えば吉備系土器はむしろ少ないんですがね。
>>615 なくなるのは出雲の高地性集落だけじゃありません。瀬戸内、畿内、北陸もです。
しかも時期がもう少し古いと思いますが。
619 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:34:33
620 :
元祖プラム:2005/06/17(金) 21:35:07
畿内に外来系土器が多数出土するのは 地方から古墳造成の為に出稼ぎに来た人足達が持ち込んだり
大和の地がマーケットの中心だからだろう
プラムのくせに正論言いやがった、、、
622 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 21:41:40
ところで纏向には何故半島の土器が無いんだ?
ごく僅かにはあるが、、、
しかし「九州から交易権を奪取した」というにしてはちょっとおかしい気もするな。
624 :
元祖プラム:2005/06/17(金) 21:56:10
>>622 直接の取引がなかったからだよ
半島の品物は必ずどこかでブローカーが介在して間接的にしか入手出来なかったから
莫大な富を得ることが出来る大陸系の珍品
そんなブローカーを排除し直接取引をしたいがための西進
625 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 22:05:20
畿内って力なかったんだね。
626 :
元祖プラム:2005/06/17(金) 23:21:35
マキムクに於ける外来系土器の割合は
東海 49% 山陰北陸 17% 河内 10% 吉備 7% 関東 5% 近江 5% 瀬戸西部 3% 播磨 3% 紀伊 1%
と、なっている。
東海と関東で過半数を越える54%
畿内が大陸からの珍品に飢えてたように 東海や関東といった大和より東の地区もまた、西からの物資に飢えていた証明ですね。
畿内マーケットのお客さんは
主に東の国だと見ることが出来る
627 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 23:46:54
纏向に邪馬台国があって帯方郡と交流していたと考えることは無理と言う事ですね。
628 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:30:47
↑無理な訳ないだろ。
629 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:56:28
オレの中の邪馬台国は近畿7、吉備2、九州1なんだが
考古学見地からみて九州は絶望的だわな
九州1の理由が知りたい。
631 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:19:58
そりゃ九州諸説論の説得力が1に値するからだよ
632 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:21:55
邪馬台国は大和だよ。
634 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 03:08:25
北九州には畿内よりも鉄器が沢山あるから
北九州に邪馬台国があった事は明白なのだ。
635 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 03:13:34
絹も畿内からは少ししか出ないようだし。
畿内は人口はそこそこ居た様だが、北九州から比べると
文化的にはかなりのド田舎だった事が分かる。
こんな所に倭連合国の王都が有ろうはずが無いのだ。
636 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 03:19:29
今時九州説だなんて、アホか塵の類だろう
倭人どもがウッホウッホ逝ってた親分が倭国王
で所在地は筑紫田吾作集落ケラケラ
637 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 06:49:29
>>363 >今時九州説なんかアホか塵の類い
その根拠を拝読したいものだね
638 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 06:56:43
639 :
圭角:2005/06/18(土) 08:56:29
遺物遺跡が文献史料と大きく異なるのは、その物言わぬというところにありますな。
ゆえに、ひとつの遺物遺跡を巡ってまったく正反対の論証資料となる次第。さらに
近年の考古学界で論じられている狗奴国東海地方論は、邪馬台国論議における文献
無視の悪い風潮なり。
そもそも、邪馬台国の所在地は文献上の問題であることの認識が忘れられている。
女王国より以北の北、つまり、女王国と伊都国は南北の位置関係にあり、狗奴国も
邪馬台国の南。そしてまた、女王国東渡海千余里、復在国、皆倭種においてすらも
近畿説なら東にすぐ海が無く、解釈に明白な無理あり。
そもそも、邪馬台国所在地論は文献上の問題であるにもかかわらず、畿内説では
文献上の圧倒的不利を物言わぬ遺物の考古学事実を以って捏造解釈歪曲しているに
過ぎない。古墳の築造年代さえ定かにできない有様なのにもかかわらず。
640 :
圭角:2005/06/18(土) 09:58:23
土器の流入使用で発信地の支配非支配が解明できるかのような論議に一言。
それは、ナンセンスと思います。理由は土器は所詮フリマ商品ですし、政治的な
ものとは、無縁です。まして、大和が特定の土器使用を奨励強制もすることはないし
大和の被支配地域の住民がその使用を強制されて流行する性質のものでもありません。
その好い例が、清時代の景徳鎮の陶磁器でしょう。当時のヨーロッパ列強国に対し
景徳鎮の陶磁器は盛んに輸出され、列強国において珍重されています。この事実から
特定の土器の生産発祥地が政治支配で云々といった議論がいかに不合理理不尽かを
示しています。
古墳も近畿なら土器も近畿だという畿内説の大和中心主義思考以外の何物でもない。
ただ、鉄器も絹も溶けちゃったんだけどさー、という畿内考古学なんです、結局は。
>>640 経済、経済、経済・・・・ アナタもくどいですね。
一個や二個だけの搬入物と現地釜で生産されたようなケースも一緒に考えてませんか?
飯炊き用のカメのような生活遺物を何百個も出土させるような規模の集団が移動するんだったら「政治」とは無縁じゃないですよ。
アナタが、単にその現象を「経済」と呼んでるだけです。
それと、特定の貯蔵・輸送用土器を大量に継続して搬入しているケースを旅の行商人の活動痕跡くらいに考えてませんか?
アナタが言う「交易」にも「ヒト」レベル、「ムラ」レベル、「クニ」レベル、「王権」レベル、いろいろなレベルのものがあると思います。
交易と言うのは、どのレベルでも「財産」の交換(場合にはよっては一方が非物的な債務の提供になることもありますが)でしょう。
その財産の所属(所有)は、それぞれのレベルごとに行われるのでしょうが、「ヒト」レベル以外の場合は社会的共有財です。
「ムラ」レベルなら「ムラ」の、「クニ」レベルなら「クニ」の「財産」の処分権を行使するのですから、
私は、そういった行為を「政治」から切り離して表現することは間違いだと思います。
642 :
圭角:2005/06/18(土) 11:12:05
私の640と639の書込みに経済という文言はアリマセンヨ。ウマミミさん。
人の集団の移動は常に政治と関連しているという貴方の思い込みこそ、貴方も
くどいですな。
それと、アナタのいうところの
財産の所属がヒトレベル以外の場合が社会的共有財で云々
財産の処分権の行使云々、は意味不明ですなあ。だいたいなんのことですか。
>>641 横から割り込みますが、例えば北部九州の「畿内系」土器は、大半が在地生産のようであり、またその特徴は畿内と全く同じではないと言います。
この場合「搬入」でなく、集団の大規模移動とも考えにくい(古くからの大集落でも同じように出土する)ので、単純に政治的理由のみでは解釈できないと思います。
したがって、圭角さんの説にも一理あるので、ケースバイケースで考えた方がよいのではないでしょうか?
644 :
圭角:2005/06/18(土) 11:29:18
643さん、ご支持有難うございます。
御説の、搬入ではなく集団の大規模移動とも考え難いので単純に政治的理由
のみでは解釈できない、には意を強くさせていただきました。
645 :
643:2005/06/18(土) 11:32:27
でも私は畿内説なので念のため。
北九州の優位は2世紀末までは確実(鉄器、鏡、集落etc.)。畿内の優位は3世紀後半からが確実(大型古墳、鏡、鉄器etc.)。
問題は3世紀前半ということですね。
647 :
圭角:2005/06/18(土) 11:41:26
646さんがおっしゃる、その三世紀後半からの畿内の優位の背景について
ご説明をお伺いできますなら、よろしくお願い申し上げます。
648 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 12:26:55
>>626でマキムクの外来土器を見てると、記紀の四道将軍の記述とも合致してるなー
と改めて思う。
空想すれば、大和や吉備、越、東海、丹波などが三輪山の巫女(トトヒモモソ姫)
を推戴して、擬制的血縁関係を結んだ。
で、孝霊や孝元などの欠史大王たちと吉備王などとの間に血の繋がりがある
系譜が生まれた、と。
649 :
がいやまん:2005/06/18(土) 12:55:41
倭人伝は中国的な官僚社会としか描いていないね。記紀というのは逆に系譜を
付けるのが目的みたいな感じで旨くかみ合わない。邪馬台国の官は欠史大王、
1ラウンド4人(麻雀みたいだね)のような感じ。卑弥呼のスカートの下で2ラウンド
(連荘)をこなして崇神ってな感じがするが。
650 :
がいやまん:2005/06/18(土) 13:01:36
卑弥呼、トヨと各ラウンドごとに女王がいてその下に官が4人いたということかな。
トヨスキイリヒメ、ミマカキなんて考えると崩れるが。
651 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 13:02:25
よし、こうしよう。邪馬台国がどこにあった議論するのはもうやめだ。
邪馬台国はみんなの心の中にあるんだ。みんななかよし。
>>648 関東・東北の土器が少ないが?(『纒向』で「関東」とするのは実際は駿河)
四道将軍なら会津あたりの土器が出ないとおかしいが。
そもそも記紀の話を単純に結び付けるのはいかがなものか?
>>642 では、>640でアナタが言う「清の景徳鎮がヨーロッパ列強国に対し輸出され」と言う例示の場合と
輸出側、輸入側の主体が対応するような2〜3世紀の倭における土器移動を教えてください。
どのようなケースを想定されて例示されたんですかね?
まさか、土器の移動に汎用的に適用される「定義」でもないでしょう。
>>643 ”「搬入」でなく、集団の大規模移動とも考えにくい”
>>601氏にも別の点を指弾されていますが、九州庄内の話でしょうか?
だとしたら、特定工人だけの移動、又は単なる技法の伝播のケースで「集団」の移動は伴わないと言うことですか?
汎用土器の様式が単なるミームだけの移動とは、私の脳内レベルでは理解しかねます。
654 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 14:06:43
九州の大雄、金印で有名な倭奴国王は倭人伝時には追放あるいは滅んで消えさってる
これって他勢力によりアポーン喰らっちまった結果なのだろう。
イト国王は代々女王国に使えていたらしく女王国勢力に従順だったからこそ
かろうじて生き残これたといえる。
九州ハイテクノポリス国家集がこのザマだ。
よって俺の中の邪馬台国は確実に北部九州には存在しえない。
他勢力により食いものにされ、みじめで可哀想な九州、
ソレをカモにした××勢力、これこそ大和、邪馬台国だウホ
>>653 文化の伝播は集団移動だけで説明できるものではない。
問題の土器の場合、その土器文化に何らかの魅力を感じたとすればそれを受容することはありうる。最初に畿内系土器を受容したのは元から交易の中心の大集落や首長層であり、これらがまず受容して(ここですでに変容がある)その後で広く普及している実態があります。
まあ例えばですが明治維新と文明開化を考えてください。
>>654 奴国の3世紀の遺跡からは滅亡なんて根拠ありませんが。
伊都の方は土器はむしろ保守的でその点は単純に畿内になびいたわけではありませんが。
656 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:01:31
>>654 「倭奴」は「いと」と読みます。
「倭奴」=「伊都」
したがって倭人伝時にも倭奴国王家は存続しています。
657 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:03:04
↑
倭奴×
委奴○
>>643 厳密には、大規模な集団移動はなかったとしても、
新しい土器様式を自分のものにするために工人集団の招請があったでしょう。
またそれを可能にする、
あるいは土器文化の一体化を目指すような首長同志の特殊な関係性が成立した可能性は大いにあります(その点では政治性があるかと)。
ただし、社会全体に行き渡る理由としては、交易の増大による情報=文化の共有化や、
一度文化を受容した在地大首長勢力との関係性(畿内中枢との直接関係ではなく)など、
複合的理由が考えられるでしょう。
659 :
658:2005/06/18(土) 16:10:59
660 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:15:30
>656 まだその説の支持者が(+_+)いるのか
古代中国の印制から見て完全否定されていますが何か。
661 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:04:26
>>660 完全否定されてるのはお前の言い分の方だろ
662 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:21:28
もちつけよ
俺は「倭奴」=「伊都」で
倭奴国王家は存続していようがいっこうに構わん。
大和は邪馬台国は俺のハートに刻んであるもの
だから、ゆずれんが
>>660 では、最近のまともな学者で誰がいますか?仮にいても旗色の悪い極めて少数派のせつ。漢が与えたキョウド等の印制のあり方からも漢−(民族名)−(部族名)が規則なのは常識だが。したがって、漢−倭(=委)−奴国−王となる。
664 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:29:38
なんと言っても畿内に邪馬台国があって九州を支配し、半島と交易を行っていたのなら、畿内にもっと九州の土器や半島の土器が沢山あってしかるべきだ。
例を挙げれば半島でもっとも優れた土器は楽浪式瓦質土器だが、九州にしかない。
中国地方に楽浪土器を模した土器があるが、これは楽浪土器が倭人にとって憧れの対象だった事を示す。
これが纏向に無いことは纏向から楽浪帯方郡に出かけていった事はないと言う事を示している。
そして、畿内の連中は楽浪土器を見た事が無いのだろう。
考古学的にみて畿内に邪馬台国があった可能性は皆無だ。
665 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:40:29
またまた万物が集まる煌びやかな邪馬台国説支持者が出没しますた!w
666 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 21:28:17
>>664にほぼ同意
きわめて解りやすい説明だと思います。
細かい修正は多々あると思うが 大筋はそれでOKじゃない
667 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 22:10:22
>>664 >畿内に邪馬台国があって九州を支配
こーゆー内容の畿内説など聞いたことないし、誰も唱えてない筈なのだが
現在の考古学者が支持する畿内説とは、2c末〜3c初頭に連合が発生し
その中心としてマキムクを開発したってやつで、倭人伝記事でいう朝貢時に
やっとこさ北九州が参画したという話だよね。
668 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 22:18:04
>>667 考古学で連合の有無がわかるのか?
どんな出土品が連合の決め手なの
669 :
667:2005/06/18(土) 22:18:14
それとプラム氏、
>>544にて
>放射線炭素年代識別測定ではトンデモ結果
と書かれておられますが、これc14測定のことですよね?
c14では土器や金属器の作成時期は判りませんよ。
あくまで「炭素」つまり付着した有機物の残骸(煮こぼれ跡やスス、炭化米など)
の周期から「いつまで使用されていたか」が判るだけですので。
670 :
667:2005/06/18(土) 22:24:24
>>668 判りますよ。それまでの地方色豊かとでもいうべき墳墓建造技術や
土器製造過程(これは様式ではなく形式で)、また木製品などの
製作技術がいっせいに混ざり合うのが2c末からなんです。
このあたりの議論や説明は、あなたが参加し始めたPART10あたりで
散々ガイシュツですが、お忘れですか?
当時、参考文献も数多く挙げられていましたが、お読みになりました?
671 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 22:24:54
>>669 ご説明感謝
確かホケノの場合、木棺片の測定だと…?
記憶が薄れてしまいスマソ
672 :
元祖プラム:2005/06/18(土) 22:35:19
>>670 確かにあの当時こと覚えてます。
参考資料などは当時より現在のほうが利用させてもらってます。
古墳にしても土器にしても『形』にこだわり が共通項で…なにか引っ掛かるんですよ
日本人のとくちょうとして『オリジナル』より『応用』が大変似合う民族のような
673 :
667:2005/06/18(土) 22:39:48
>>671 いえいえ、わざわざ書き込んだのは別に弾劾するつもりではないのです。
市販されているいわゆる九州説の作者どもなど、それを知っていながら
書いているひどい奴が多いので、騙されてるのなら気の毒だなと思ったまでです。
ついでに、圭角氏、
>>640にて
>土器は所詮フリマ商品ですし、政治的なものとは、無縁です。
>まして、大和が特定の土器使用を奨励強制もすることはない…
とありますが、一度「土器」とは何の目的で作られたのか
またその性能(使用時の熱伝導率など)の差を考慮に入れてください。
庄内式や布留式が優れている点、遠く北九州に爆発的に広まった原因はそこにあるのですから。
これは単なる交換マーケットの開催ではなく、確実に政治が関与しています。
このあたりも本当に話題がループしていますねえ。
私はド素人ですが、このスレで挙げられた参考文献を読んだ上での発言です。
ここはひとつ、持論を述べる前にお互いもっと勉強しましょうよ。
674 :
667:2005/06/18(土) 22:48:09
>>672 そこですよね。土器製造技術や墳墓建設技術などの変遷が
連合に参画した勢力の順番を示唆しているというのが、最近の考古学会の流れですから。
かつて寺沢氏などは吉備影響説を唱えておられましたが
石野氏や村上氏などの説を取り入れて、讃岐が先ではないか
また山陰ルートから来た丹後の影響もあると修正されておられますし。
675 :
667:2005/06/18(土) 22:57:26
だから『オリジナル』というより『寄せ集め』なんですよ。
ホケノ山で出土した鉄製品などは、かなり早くから北九州が関与していた
可能性を示しています。従来では一番最後だろうと考えられていたんですけどね。
マキムクは明らかに新都市、しかも奈良盆地在野の文化圏だけでなく
特に西日本各地からの先端技術を結集させて造られた、いわばニュータウンですし
万博さながらの技術博覧会的な存在だからこそ、重要なんですよ、あそこは。
676 :
667:2005/06/18(土) 23:14:23
つまり邪馬台国そのものが、強大な権力など最初から有していない。
もちろん大王など当時は存在していなかっただろうというのが畿内説のキモですね。
当時のマキムクに卑弥呼がいたとしても、神託機関の設置場所だったに過ぎず
半島との外交などは伊都国王が実験を握っていたのでしょう。
それが崩れだして奈良盆地が勢力を発揮しだすのが、3c後期。
トヨかその次あたりじゃないですかね。
理由はもちろん大陸と半島情勢の混迷化です。
ここから北九州だけでなく、吉備も讃岐も出雲も弱体化します。
あとは東海がどのくらい勢力を維持できたのかが、現時点での謎ですね。
677 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 01:23:39
>>673 >庄内式や布留式が優れている点、遠く北九州に爆発的に広まった原因はそこにあるのですから。
布留式って九州から出ている?
678 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 02:12:00
>>677 >つまり邪馬台国そのものが、強大な権力など最初から有していない。
という事は九州の伊都国一大卒の専横も可能だったわけだね?
九州勢力は勝手に半島、帯方郡と交流していた。
だから半島の産品は九州にしかなくても当然なんだ。
なんか聞いていると情けない邪馬台国だなあ。
それで卑弥呼の鏡だけは倭人伝の記述に反して500枚もある。
そんな事言って恥ずかしくないか?
679 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 02:53:18
>卑弥呼の鏡だけは倭人伝の記述に反して500枚もある
情報が古いなあ、三角縁を「卑弥呼の鏡」だなんていってる香具師
今では誰もいないぞ。
しかもその説を一番最初に放棄したのが畿内説だよ。
1998年の黒塚古墳発掘以来の定説だな。
680 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 03:05:24
おつかれです。
日本と私たちの生活の危機です。
人権擁護法案という危険な法律が決まりそうです。
この法案の真の狙いは、
@社会的には、2ちゃん/ブログをはじめとしたネット世界の一般人の小うるさい言論の圧殺であり、
A政治的には、拉致問題強硬派&在日参政権反対の自民右派の消滅です。
民族(朝鮮・中国・韓国)/ 同和 /信条(宗教・層化・赤化)他に関する一切の差別的発言を禁じるという狂気の法律です。
この法律の前例の無い恐ろしい特徴は、特定人に関する言動は当然、不特定多数の集団に関する一般的発言
(朝鮮人は〜〜と書くこと)までも圧殺しようとする点にあります。
◆違反者には、無令状捜索・差押、出頭要求、矯正教育が待っており、それを拒否すると、
さらに罰金30万&氏名・住所などの全国晒し上げを食らう(61条)という仰天内容です。
まだ知らない人は人権擁護法案で検索するか以下URLを参照してみてください。
現在反対運動をしてくれている議員さんもいっぱいいます。
あなたの目で見て確認して、あなたの意見を何らかの形で表現してほしいです。
【首相官邸ご意見フォーム】【自民党目安箱】等があります。
絶対に国民の知らないまま決まるようなことがあってはなりません。
■□■人権擁護法ストップin日比谷公会堂 6/19(日)12:30〜16:00超大物国会議員登場・皆さん大挙してご参加を■□■
681 :
元祖プラム:2005/06/19(日) 06:09:58
>>676 それじゃまるっきり『倭人伝』を無視したような内容ですね
>>677 >>601を見よ
上の方で、庄内甕などの煮沸効率の話しがあったが、だとしたら政治性を強調しすぎるのはどうかなと。
と思いつつ、煮炊き以外の他の器種も畿内化するので、その理由も必要だが。 それに何故、他の地方の薄甕ではなかったのか。
>>669 炭化米や煮炊汁(これは海産物だと海洋リザーバー効果もあるが)ならともかく、ただの煤は、燃料木材の年代が出てしまうので、むしろ上限年代では?
縄文や弥生の始めならともかく、100年以内の細かい年代が問題となるここでの議論には問題が。
歴博の測定資料も煤が大半なので、そのまま土器の年代とするのはまだ問題。
684 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 09:55:27
>>682 何を持って模倣と言うのか、はっきりして欲しいな。
明らかな類似は見られないと思うが?
優れているのは半島の土器だ。半島の土器を模倣する事は畿内、九州共にあって似てくる事はあるだろう。
>>684 誰に対しての質問?
布留なら半島の土器とは全然違うのだが。
その評価や解釈はともかく、北部九州が布留式を模倣した土器様式になって行くのは事実。
ちゃんと調べてみて下さいね。
地域や遺跡で遅速があるが。
やや遅れて西日本全体が同様になる。
>>652 >関東・東北の土器が少ないが?(『纒向』で「関東」とするのは実際は駿河)
武渟川別は、紀では東海、記では東方十二道に派遣されたとされてます。
687 :
圭角:2005/06/20(月) 08:20:08
ウマミミ氏への反論です。
いわゆる弥生式土器一般においては、アナタの言う政治性はみとめられるのか。
弥生式土器一般は、いわゆる農耕生産並びに稲を持ち込んだ人々の影響を受けて
誕生発祥し各地に伝播したものだ。いわば生産生活等においての必要性利便性から
全国に普及伝播流行したものと考えるのが普通だろう。政治性は無い。
しかるに、布留式土器や庄内式土器やその他の特定の土器のみが、なにゆえに
独り政治性を有すると言うのかね。
自分の頭で考える訓練をお勧めするよ、ウマミミ君。
688 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:51:30
半島の遺物がない纏向が邪馬台国とは信じがたい。
>>687 > 普及伝播流行
しかも、最低限では意匠なり製法なりが伝われば足りるので、直接的な交流の存在を明示
していることにもならないですね。
690 :
圭角:2005/06/20(月) 19:08:13
688さん、同意。そのとおり。
691 :
圭角:2005/06/20(月) 19:09:53
689さん、同意。そのとおりです。
>>688 何らかの理由で発見されていないだけという可能性もないではないだろうし、存在した遺物を
ことごとく隠滅した可能性も絶無とはいえないとしても、痕跡も留めていないとするなら、
倭人伝のいう邪馬台国にしては不自然極まりない、といったところ。
>>688 朝鮮半島で製作されたとされる韓式系土器が出土してますよ。
>>687 いやー、なかなかセンスの文章ですね。
そんなこと、書き連ねて何か楽しいのですか?
ところどで、
""布留式土器や庄内式土器やその他の特定の土器のみが、なにゆえに
独り政治性を有すると言うのかね。""
また、可笑しな脳内変換していませんか?
私が、アナタの引用した上記の文章のような趣旨の発言をしまいしたか?
何番のレスについての質問なのか明示してください。
""弥生式土器一般は、いわゆる農耕生産並びに稲を持ち込んだ人々の影響を受けて
誕生発祥し""
上記の文章は「水稲耕作」と言う画期的なシステムが、単なる文化の伝播だとの主張でしょうか?
半島から九州へ、九州から瀬戸内・畿内・東海への人の移動・移住は認められないと言う主張ですか?
私は、水稲耕作と遠賀川式土器などの急激な普及は、当然人的な移動を伴うものだと思います。
その移動に伴って、集落の大規模化等、何らかの政治的な変化も起きたと考えるのが妥当でしょう。
アナタが言う「政治云々」に関しての私の基本的な主張は、政治史、文化史、経済史・・・
「歴史学」にはいろいろなジャンルがありますが、その一つだけを殊更重大視するのは意味が無い、
基となる歴史は一つしかないのですから、一つの経済的事象により、社会構造、政治システムにも
変化は起きるものなのだということですね。
最後に、私の
>>653の問いには答えていただけないのですか?
私は、アナタの主張の骨子を少しでも理解しようとして、不明な点について尋ねているわけなんですがね。
ちなみに、アナタが言う「経済」「政治」と言う単語の意味も私には理解できないところが多いのですが・・・
>>694 > 「政治」と言う単語の意味
特に考えるまでもなく、政治経済的な同盟関係とか、政治的な支配関係とかというニュアンス
が浮かぶと思いますが、いくら考えても浮かびませんか?
圭角とウマミミはちょっと両極端だな。
圭角は土器に一切、政治性を認めないのはどうかと。
ウマミミも土器様式の伝播に政治性を強く見すぎ。政治的背景で土器様式が広がるとしても、強制や征服から、政治交流の結果(優越あっても)の文化模倣まで色々あるだろ。
交易の増大の結果、文化が一体化することもありうるだろ。途中で有益なサジェスションがあったが無視してるし。
例えば聞くけど、須恵器の受容はカヤの勢力の支配を示すのかい?逆に東日本は古墳前期は畿内の土器様式の影響が少ないが、これは畿内の政治力があまり及ばなかったことを示すのかい?
土器文化と政治関係の問題は単純じゃないぞ。
と言っても、土器様式の伝播に政治が無関係でもない。
儀式用の土器もあり、古墳文化と同時に土器も広がるのもまた事実だから。
ただその背景はウマミミが思っているど単純じゃないぞ。
思ったが、ウマミミさんは文化の大きな変化は、人の「大量」移動(集団移住)でないと起こらないと思っているように見えますね。
そういう場合も少なくないですが、そうでない場合も多いのではないでしょうか?
例えば農耕の伝播にしても、一つの起源地から移住して伝播したというような見方は今は否定されています。
情報の交流によって、状況に応じて取捨選択し文化が変化するという当たり前の場合が多いのではないでしょうか?
>>695 私にも「政治」とか「経済」に対して「思い浮かぶ」ことはありますよ。
私が理解しかねるのは圭角氏の考える「政治」「経済」です。
それを承知でレスを付けられたからには、圭角氏の考えを理解されている方とお見受けします。
では、氏に代わって次の文章(圭角氏の
>>54番のレス)についての私の問いにお答え下さい。
>今般、EUの憲法批准が各国にて討議されている。
>しかし、この以前にEUは通貨をユーロに統合している。
>つまり、経済は、古今東西、憲法や政治統合に先行する好例だ。
>経済視点視野史観なしに、歴史を語るなかれ。
と、「経済は政治に先行する例」と論じられていますが、
「ユーロ」と言うシステムは、先ずそれを作り出した「EU」と言うシステムが存在しなければ
誕生し得ないものだと思うのですが、「EU」自体は「政治的」システムでは無いのですか?
EUと言う存在は前身のEECを含めて「経済的」現象なのでしょうか?
私には、理解しかねる点の一つです。
私自身は、政治と経済とは、にわとりと卵みたいなもんだと思うのですが。
>>696 別に私は土器の伝播をもって政治を語ったたりはしませんよ。
そう見えるのは、圭角氏が自レスの中で一方的な決め付けをしているからでしょう。
私は、圭角氏にご自身が「経済」と呼ぶ現象の中には、「政治」的現象と不可分のものが多いですよ、
と指摘しているだけです。
日本列島では、陸続きで漸進的に伝播する必要などなくて、船で「ワープ」できるわけだし、
地勢の関係で、そのほうがむしろ簡単。
船での伝播なら、大人数が大船団を組んで移住しないと成立しないということもない。
>>698 それはそうですね。必ずしも直接的に連動はしないから、一体のように把握するのは考えもの
ではあるが、さりとて無関係に独立した事象として成立するわけでもなおと考えるほうが妥当、
といったところですか。
ウガッ キリ番で変なミスタイプをブッこいてしまった。
> さりとて無関係に独立した事象として成立するわけでもなおと考えるほうが妥当、
なにが「なお」じゃい?!
↓
> さりとて全く無関係に独立した事象として成立するわけでもないと考えるほうが妥当、
・・・くらいの感じかな。
702 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 02:30:40
>>698 >653の後半部分などを読むと土器様式の伝播=政治的背景による移住と理解していると見受けられます(いちいちほかのレスは引用しませんが、これまでのいくつもの発言で明らか)。
あるいは自分はそういうつもりでないとするなら、何故にそういう受け取られ方がされるのか、考えるべきでしょう。
水田稲作の伝播についても、ことさらにまず集団の移動移住を強調することからも、ウマミミさんの考え方が分かります。(農耕の起源と伝播の一般論に言及した意図はそこです。)
多分、ウマミミさん自身が、実はやや偏った考えであることに、自身では気付かないのでしょう。
圭角さんが唯物史観でしか見れないように。
私はどちらにもくみしないので、圭角さんへの質問に答える必要性は無いと認識します。
703 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 03:47:15
>>702 貴方の今回のレスの内容は
私の土器様式の伝播=使用集団の移動と言う考え方
(別に全てがそうだと言い切ったことも、
圭角氏が決付けるように庄内等のみが
と言ったことも無いが。
特に布留と言う単語などは使ったことすら無いw)
に関してのようですが、
それと
>>695でわざわざ横レスされた
圭角氏の使用する「政治」と言う用語についての
嘲笑的講釈と何か関係があるのですか?
また新たな疑問ができてしまったw
705 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 12:45:10
一言
当時の人達が手軽にそしてローコスト大量地場生産できるのが土器だと思う
形云々にとらわれなければその生活の必要性においていつか必ず作られるべき用具のはず
物を作れば必ずその利便性を追究するのも自然 その形や利便性に優れし物が、他の地域に存在したとき
たった一人の人間がその利便性を認め、その土器の形容を自国に伝え その様式を真似し その繰り返しにより広い地域に伝わるのも一つの
土器の広がり方だと思うが
>>705 同感。
土器の形式については、残されたものを見くらべたときに目立つし、他に比較の手段が少ないか
らといって、単なるデザイン上の違いにすぎないものを、あまりに重大視しすぎている気味もあ
るような。
非常に特徴的な縄文式にしても、勢力の移動などとは全く無関係に、縄を転がして特有の凹みを
作って飾りと滑り止めの兼用にするというノウハウさえ伝われば足りていたわけで。
ま、土器の形式など女子高校生のルーズソックス程度の問題、とまではいわないですけどね。
707 :
元祖プラム:2005/06/21(火) 19:12:37
土器の文様に
ある一定の共通する文様や形、焼き具合があることは否定しない
初めは自分の所有物としての区別から家族、集落へと規模が広がり同じ文様や形の土器が多数出土するのであろう
それを全国レベルの年代測定材料にすることには
自分はまだ納得しない部分が多々ある
ある特定地域のみに利用することはその限りではありませんが
ま、素人の戯言として
708 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 21:51:23
>>708 じゃー、大量じゃないけど渡来人がいたことが、DNAや考古的にわかっているのですね。
>>708 > 弥生時代に弥生人が大量渡来したのではない事がDNA分析でわかっている。
どこにそんなことが書いてありますか???
712 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:10:14
禿げ
713 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 07:56:44
文化と言うものは、生活様式としての一面もあるのだから、
基本的には、人を介して伝わるものだろう。
たった一人の人物により伝わることもあるし、
大勢の集団により伝えられることもある。
ただし、集団が移動した場合、その生活行動全般の痕跡を残すこともある。
三雲の突出して楽浪色が強い遺蹟などは、そういうケースだろう。
714 :
サガミハラハラ:2005/06/22(水) 08:22:51
>>713さんへ
私は現在、箕子朝鮮文化の日本に与えた影響を考えています。
箕子朝鮮は現在のピョンヤンを中心とした王朝といわれています。のちの楽浪です。
そこで「三雲の突出して楽浪色が強い遺蹟」とありますが、どのような点で楽浪色が見られるのか関心があります。
簡単にご説明をお願いいたします。
715 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 16:52:59
>>693 >朝鮮半島で製作されたとされる韓式系土器が出土してますよ。
何処のものとも知れない瓦質土器の破片一つね。
瓦質土器は日本で作れなかったから、日本の物でない事は判るが、南韓式でも楽浪の物でもない。
高句麗式かな?高句麗の土器はよく判ってないようだ。
716 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:56:13
>>714 そんなことは、他人に聞かないで、自分で調べたまえ。
それに、俺は嘘吐きクンに教えてあげるような粋狂人ではない。
ちなみに、楽浪色というからには楽浪期のものだぞ。
717 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 19:13:02
・・・
718 :
サガミハラハラ:2005/06/22(水) 20:14:08
>>716 楽浪期といいますと、BC108の漢の武帝の時代からでしょうか。
それまでの衛氏朝鮮や箕子朝鮮とは異なったものなのでしょうか。それともその延長上にあるものなのでしょうか。
楽浪期といっても日本の土器の分類のように幾つかの期にわけられるのでしょうか。
前原の楽浪遺蹟群は楽浪期のどの時代からはじまっているのでしょうか。
生活行動全般の痕跡とありますけど、
遺蹟も土器のほかに住居や生活用具等も楽浪の特徴をしめしていると思いますが、そのような素晴らしい遺蹟郡を、秋に福岡に新しい博物館ができるので
ほかにもあちこち廻りたいと考えていますので、その際は是非前原の楽浪遺蹟群をみたいものです。
伊都博物館(だったっけか)で聞けばわかるでしょうか。
とにかくこの遺蹟群の存在は日本の始源にも関わる大きな問題だとおもいます。
>>713 文化といっても、保守的な度合いが高い分野と、流動性がある分野を分けて考えるほうが良さそう。
祭祀宗教の類い、要するに縁起の担ぎ方の様式みたいな類いは、団体ごとに特徴があって、かつ保
守的で、むしろ、それが特定の団体の象徴に近い性質を持つとか。
逆に、日常生活の様式の類いは、少なくとも祭祀の類いほど保守的でなければならない必然性が薄
いとか。
具体的な何がどれに該当するかは別論として、「倭人伝の伝える邪馬台国」と「大和朝廷」の関係
を考察するなら、邪馬台国については、倭人伝の記述と決定的な部分で矛盾しないことが必須。
その辺を、自説の都合に合わせて歪曲したら、真実を曲げることになりますな。何が決定的で、具
体的な誰が何をどう歪曲している、というわけでもないですけどね。
720 :
サガミハラハラ:2005/06/22(水) 20:37:01
>>716
楽浪期といいますとBC108の漢の武帝以来のことでしょうか。
その前の衛氏朝鮮や箕子朝鮮とは異なった形式なのでしょうか。
それともつながりがあるものなのでしょうか。
日本の土器編年のように楽浪期もいくつかの時期にわけられるのでしょうか。
前原楽浪遺蹟群はどの時期のものなのでしょうか。
生活行動全般の様式を残すとあるところから、住居や生活用具等楽浪の様式を残すものが
みられると思います。
秋に福岡に新しい博物館が出来るとのことで、見物に出かける予定ですが、他にもいろいろなところをみてよ
うと計画をたてていますが、
その中にこの前原楽浪遺蹟群もいれたいとおもいます。
この遺蹟群は日本の始源を考える上でも重要なものになると思います。
伊都博物館(だったっけか)にきけばわかるでしょうか。
けどあらかじめ下調べをしていけばよりくわしくわかると思いますので遺蹟名や出土物等是非教えて下さい.
721 :
サガミハラハラ:2005/06/22(水) 20:38:58
すみません、二重になってしまいました。
>>719 >邪馬台国については、倭人伝の記述と決定的な部分で矛盾しないことが必須。
だから〜。その「決定的な部分」をどこにするかで、恣意性が大きいんだって。
723 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 22:15:58
>>722 同感
>>719 ならば倭人伝記述と出土品に明らかな不一致があった場合、君ならどうする?
僕なら供述調書よりも物的証拠を重視するけどね。
>>723 > 倭人伝記述と出土品に明らかな不一致があった場合
特に考えるまでもない簡単なことでしょ。何らかの決定的な違いがあるなら、
それは「魏志のいう邪馬台国ではない」。それだけのこと。
> 僕なら供述調書よりも物的証拠を重視するけどね。
捜査関係者に、全体を虚心になって客観的に観察することなく、何かの強い先
入観にとらわれて、特定の何らかの面だけを見て決めつけて、それに合わせて
事実関係をねじ曲げて強引に辻褄を合わせる者がいたから、冤罪事件が多発し
たわけですよ。
>>722-724 何か、発展性の無い粘着ムードになりそうだから・・・このネタはやめようよ?
>>723 > 供述調書よりも物的証拠を重視する
そういった柔軟性を欠く硬直した思考方法の持ち主にとっては、たまたま近い地域で別に発生
した類似の形態の事件の証拠を、別の特定の事件の証拠と決めつけるくらい朝飯前。
いますね、そういう思考方法の持ち主。自覚はないでしょうけどね。
>>725 案外、問題の本当の根源が露呈しているところではないですか。
>>725 いや。ここらへんで、ハッキリさせておいた方がいいだろう。
つまり、邪馬台国比定地論争は推理小説の犯人当てをしているのではなく、
3世紀の倭国に実在した王国について語っているわけ。
倭人伝は、あくまでその場所を探る手掛かりに過ぎないんだよ。
倭人伝にも明らかな誤りがあり、その解釈には幾通りもあるんだから、
「倭人伝の記述と如何に整合性があるか」なんて考え方は、倭人伝至上主義。
それは学問的態度とは言い難い代物。
万世一系、皇国史観と同一であることを再認識した方がいい。
728 :
727:2005/06/22(水) 22:57:20
で、私が九州説論者にどうしようもない違和感を感じてしまうのは、
「邪馬台国が九州にあったとして、一体どこにあったのか」の疑問に
まったく答えようとしないから。
伊都国や奴国などの玄界灘沿岸部グループを統属させることが
出来るような巨大勢力が、九州の一体何処にあったというのか。
巨大な戸数を誇る邪馬台国や投馬国を九州限定で探すのは難しいよ。
>>727 頭っから「倭人伝にも明らかな誤りがあり、その解釈には幾通りもある」と決めつけている
手合いにとっては、「倭人伝の記述と如何に整合性があるか」を問題にされると自説に都合
が悪い部分が露呈するので、「倭人伝至上主義」として無視しようとする。
そういった態度は「学問的態度とは言い難い代物」である。
>>728 > 伊都国や奴国などの玄界灘沿岸部グループを統属させることが
> 出来るような巨大勢力
倭人伝を読んでいないなら間違えるのも無理はないですが、倭人伝にはそんなことは書いて
ありませんよ。もし読んだ上でそう書いてあると間違って思いこんだなら、文章の読解力が
全くないということを明確に自覚したほうが良いです。
>>729 冷静になりなよ。全て正しければ今まで論争は続いちゃいないだろ?
で、君は九州に径百余歩の円墳を見つけたのかい?
>>730 じゃあ
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す」
はどう解釈するの?
>>730 作中だけで完結したいなら、推理小説を読めば?
734 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:19:48
>「邪馬台国が九州にあったとして、一体どこにあったのか」の疑問に
まったく答えようとしないから。
各説あって九州内で分裂しているから。それぞれ自分はここだと思うくらいの答えは出すだろう。
>>734 でも、九州説の論客・圭角さんでさえ、明確に何処かとは書いて
なかった気が。
736 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:30:55
>>724 邪馬台国どころか、マツラもイトもナも全体一致してないのですが…
方角とか距離だけじゃなくね。まず資料を当たりましょうよ。
スレタイにあるように「信憑性」の問題ですよ。
それと冤罪は主に自白重視で起こるものでして、この例えは的外れですね。
>>726はさらに勘違いしているようですね。
というか、意地になってるご様子で…
1歩は1フィートか?
738 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:35:21
>>734 ところが「まだ発掘されていない」とか言い出す奴の多いこと
九州は未開のジャングルじゃないっつーの、馬鹿にするなよw
739 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:37:16
別にピンポイントで探し出す事はないでしょう
もしかしたら、もうすでに発見されていてべつな名前の史跡に指定されているかもしれない。
そしたら厄介だよ
全く可能性がゼロとも断言できないだろう。
まあ、倭人伝を妄信してるのは一人だけみたいなので、安心できました。
>>736 倭人伝を「虚心」で読めば「どこか間違いでどこが正しいか」は自ずから見えてきます。
あなたにはまず、「虚心になる訓練」が必要でしょう。
俗世間で濁ってしまった眼を、洗い流してあげて下さい。
742 :
725:2005/06/22(水) 23:48:38
>>741 もう、やめときなさいってば。
ネタ的には「倭人伝」スレでやるべきもんだよ。
ここは、「大和朝廷」スレだからね、一応は。
>>731 そういう風に自分自身の思い込みで先走るのが諸悪の根元なわけですよ。
>>732-733 邪馬台国が単独の力で検察させたというありがちな誤読に基づいているわけですね。
>>738 残されている文献にある「貴重な名前」だからといって、何が何でも既に発掘調査が行われた
遺跡に当てはめようとするから、ご都合主義の誹りを免れないわけですよ。
746 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:06:00
>>741 「虚心」とか「俗世間」って、どこかの新興宗教の方ですか?
僕たち霊感とかはありませんので、勧誘はお断りします。
747 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:11:52
>>745 マジで未知の遺跡が地中に埋もれていると思ってるのですか?
>>739 >べつな名前の史跡に指定
もし3世紀の遺跡かも知れないとなれば、大事件ですので
少なくとも業界内では瞬く間に情報が広まりますが、聞いたことないです。
>>744 誤読って。じゃあ、君の読み方の方が正しいと分かるのは、
やっぱり「虚心になる訓練」を積んだからでしょうか?w
「虚心になる訓練」って何?
750 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:27:33
ここはもう九州説とか畿内説とか関係なしで
「魏志倭人伝」や「記紀」その他の史料のみでは
邪馬台国の位置は判明しないってことでFA?
という訳で、議論に戻りましょうよ。
>>747 はあ? 地中に埋もれていないといけませんか?
>>748 固定観念にとらわれて誤読するような人には論理が通じる可能性は限りなく低いということ
など明白だから無駄な手間はかけないことにしてますんで、悪しからず。
753 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:54:17
やっぱり土器=人の流れだと思う。マキムクに地方色豊かな土器が沢山出土
するのは、他国から多くの人々が集まっていたからで。
で、なんで集まったのかと言うと、
@ 交易のため
A マキムクの王の下に参勤するため
のどちらか(もしくは両方)ではないでしょうか?
@だとするなら、その交易相手とは東海なんでしょう。
マキムクを交易拠点と見た場合、地勢的にそのように考えられます。
つまり瀬戸内海連合にとって、当時最大の貿易相手国は東海で、そのため東海系の
搬入土器が多い、と。マキムクは東海との交易拠点として相応しいから
選定されたに過ぎない。
マキムクに九州系土器が少ないのは、@で考えた場合、瀬戸内海航路の物資輸送の
担い手が九州勢力ではなかったから。Aだとする場合、九州が遠隔地であったため、
マキムクの大王へ直接仕えることを免除されたからではないでしょうか?
754 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 00:56:36
>>752 君が一番、固定観念に囚われてるよ
…
って言っても無駄か
>>752 気持ちの悪い観念論や宗教を振りかざさずに、
もっと具体的に書いてよ。
虚心で倭人伝を読めば、いったい邪馬台国はどのあたりになるの?
756 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 07:00:43
考古学の話になるとコテハン諸氏は沈黙するのだが
それではいくら書き込んでも説得力ないわな。
総論や観念ではなく、具体的な反論は出来ないのかな?
たとえば西新町遺跡の出土物については
九州説はどう考えているのかとか聞かせてほしいんだけどね。
757 :
716:2005/06/23(木) 08:21:07
>>720 しつこいな。
そんなことは、ちょっとぐぐりゃ直ぐ判るだろうが。
それか、キミの巣であるネタスレの方で、誰かさんに聞きゃよいだろう。
そんなことより、キミが持っているという角川の辞典の刷番を早く教えろ。
758 :
サガミハラハラ:2005/06/23(木) 09:04:37
>>ところが「まだ発掘をしていない」とか言い出す奴の多いこと
倭人伝の記述通りに進むと、伊都国は唐津の東南30kmの多久市庄集落の延寿寺で、
その東6.8kmが不彌国で、邪馬台国はその南の小城市甘木築です。卑弥呼の墓は、
その小城公園の中の桜岡です。 まだ発掘していないですよ。
759 :
圭角:2005/06/23(木) 15:43:07
このところ、しばしば 、倭人伝の信憑性についての議論を見受けますので、一言。
プラムさんも、以前に同様の発言をなされておりましたが、正史三国志の一部として
つまり、帝紀と同じ水準レベルとして、倭人伝記事を捉えるならば、かなりかなり、
正確な記述が行われていると、判断することも可能と思います。
無論、一番正確な記事は年号が付記された詔勅記事であると推測推定されますが、
東夷伝には、御伽噺も記されており、晋帝室への配慮にて誇張や故意の簡略記述も
明らかに認められる部分はあります。
なれど、倭人伝の信憑性独りのみを論及するのであるのならば、帝紀や他の伝をも
比較対応参照基準にして、論ずるべきであろうと、思料します。
760 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 17:06:40
おそらく邪馬台国と晋の交流が続いていた時代に書かれた三国志だから、そうそうデタラメは書けない。
邪馬台国に行った事のある人間もいたろうし、洛陽を訪れた倭人に遇った人間も多数いただろう。
後は写本を繰り返した事により、誤写が起きた可能性だけだな。
761 :
圭角:2005/06/23(木) 19:27:42
760さんの書込みを読みまして。
たしかに、誤写誤記の可能性におきましては、当然のことながら可能性を否定し得る
ことは、不可能かと思います。
が、しかし、南狗奴国の南、女王国以北の北、東渡海皆倭種の東、においてですね、
すべてことごとく、南は東、北は西、東は云々と、ことさらに全て誤記誤写されると
いう話も、非常に不自然不合理理不尽だと、常識的には思わざるを得ません。
第一、東西南北という字は誤記誤写され難い字であるなどとは、あえて申しませんが
畿内説に都合よく、南は東、北は西、東は云々と都合よく誤記誤写されたということ、
はたして素直に、頷ける説得力と自然な解釈においては、明白な無理が存するものだ
と、私は思っている次第です。
もっとも、距離里程においては誇張があったとして自然です。しかれども、方位を
歪曲する必要性は陳寿において無かったはずです。なぜなら、陳寿が正史三国志を著した
時点で、晋の中国統一は完了し、呉の牽制云々という根拠もありませんから。
「方位」については、「大きく間違えるような方向音痴では生きて往復できる可能性はない」
ということでよろしいのではないでしょうか。
それに対して、距離里程については、「正確に測量されて、その結果が伝えられた」と仮定
すること自体がナンセンス、というだけで足りるのでは?
>>760 基本的に同意。
ただ、純粋な勘違いの類いはありうるし、勘違いがそのまま記述されることはありうるわけで、
それが必ず倭人伝の読者からやり玉に挙げられたとは限らない、ということもありますね。
距離なら、測量した土木技師からクレームが入るとか、人口なら、一々数えた役人からクレー
ムが入るとか・・・ありえないですね。
だから、全般に、物理的にありえない度合いの高い記述から順に、眉にツバをつけてかかる必
要があると。
764 :
元祖プラム:2005/06/23(木) 20:28:16
お久しぶりです圭角さん
確かに方角訂正にはかなり無理があります。
しかし、それがまかり通るのも事実です
765 :
サガミハラハラ:2005/06/23(木) 22:28:43
前原楽浪遺蹟群はどうなったのでしょうか。
766 :
元祖プラム:2005/06/23(木) 23:17:51
>>756さん
誰に何を説得するの?
たとえ 万人を説得させても何の意味もないじゃん
相手にされなくても それが真実ならそれでいいんじゃないの
歴史の真実は最大公約数や多数決で決めるものじゃないだろう。
そんなものは学級会や国会だけで十分さ
>>756 西新町には、日本最古らしいカマド跡もあるし、馬韓系・弁辰系色の濃い土器も多く出土します。
ここが、三世紀博多湾岸(と、言うより倭地)での対半島交易の拠点でしょう。
前述のカマドの導入などは、渡来系住民も数多く雑居していた痕跡だと思いますよ。
この点については、意見が分かれることもないとないでしょう。
ここでの交易活動を主導したのが、何処の勢力かと言う点が問題ですが、
私は、瀬戸内航路を中心とした交易ネットワークに組み込まれた玄界灘沿岸諸国だと思います。
一応畿内説の端くれの私ですが、対外交渉などの実務は前述のように日常的に渡来系との交流のある
北部九州勢力に一日の長があると思うのです。
輸入品である鉄や絹、舶載土器に対する輸出品(翡翠や貝製品と生口)の調達も九州勢力が
中心かとは思いますが、国内交易システムを利用しなければ、集荷はままならないものと思われます。
ただ、国内全体の交易物にしめる博多湾交易関連の物流量は、
国内相互のそれと比較して少ないものと考えています。
>>760 倭人伝に描かれている倭人の地は、私が見ても九州島(ただし、向きも違うし、南方に遷移し過ぎているが)
のことでしょう。
どんなに誤写を繰り返していたとしても、本州島内の地理を認識した記述とは思えない。
ただし、倭人伝を縦に読んでも横に読んでも、邪馬台国にたどり着けないのも事実でしょう。
768 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 12:56:41
地理や距離を知らずに魏使が倭国まで旅行するとは考えられん。
おおよその距離、日程をつかんだ上で旅行計画を立てるだろう。
1000里が70km程度で、一日で渡りきれる距離、という事はわかっていた筈だ。
もし、1000里が400kmだと考えていたら、倭国を訪問しようなどとは考えないだろう。
769 :
歴史博士(自称)つーさん:2005/06/24(金) 13:24:43
邪馬台国が大和朝廷になったなんて馬鹿じゃないの?
初代天皇神武天皇が即位したのは紀元前660年のころだよ。
その時点でもう馬鹿としか言いようがない
770 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 14:04:07
↑
>馬鹿としか言いようがない
馬鹿はお前だろ。
771 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:32:04
学問板で釣りですか。
772 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:52:53
>>769 くだらない事を書くから馬鹿にされんだよ。
氏ね。
773 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:58:49
>>770はあ?おまえが馬鹿じゃないの?
神武天皇の即位年は紀元前660年のころというのは常識だよ?
検索して調べれば一発でわかるよ。
初代天皇は縄文後期の九州宮崎付近に都を構えたんだよ、あくまで僕の推測だけど。
そして紀元前後に奈良地方の縄文人を討伐してそこに都を移したのさ。これも僕の推測。
お前の意見を聞きたい。
774 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 18:08:07
自作自演乙
>>768 > 地理や距離を知らずに魏使が倭国まで旅行するとは考えられん。
「郡」の者とか、行き来の方法を知っている者に案内させれば済むことだから、必ずしも
そうとは限らないでしょう。
> おおよその距離、日程をつかんだ上で旅行計画を立てるだろう。
現代の「出張」とかのように事前に計画を立てたかどうか不明。行く先々で、恐れ多くも
世界皇帝の使いであるとか何とか恩に着せて、接待させながら進むなら、食糧計画も不要。
> 1000里が70km程度で、一日で渡りきれる距離、という事はわかっていた筈だ。
それは、「渡海の実際担当者」が知っていれば足りる事柄。半島と日本列島で行き来があっ
たということは、渡海のスペシャリストがいたと考えて大過ないはず。
> もし、1000里が400kmだと考えていたら、倭国を訪問しようなどとは考えないだろう。
過去にも何度か「向こうから来ている」わけだから、「行けば行ける」という認識はあっ
たはずで、それだけで十分じゃないですか。
もちろん、非現実的なほどの遠距離ではない、という認識はあったでしょうが。
776 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 23:07:39
>それは、「渡海の実際担当者」が知っていれば足りる事柄。半島と日本列島で行き来があっ
たということは、渡海のスペシャリストがいたと考えて大過ないはず。
もし、430kmであれば、どのくらいの日数が必要だったか。
船乗りでなくても想像できただろう。
船乗りでもない魏使が1300kmもの船旅に耐えられるはずも無い。
当時は丸木舟に毛の生えたような船しかなかったのだから。
>世界皇帝の使いであるとか何とか恩に着せて、接待させながら進むなら、食糧計画も不要。
430kmの間、途中に接待させるような島も無いわけだが?
777 :
元祖プラム:2005/06/24(金) 23:10:40
777げっとしたよ
>>776 なんか、思い込みで語っているね。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
>地理や距離を知らずに魏使が倭国まで旅行するとは考えられん。
>おおよその距離、日程をつかんだ上で旅行計画を立てるだろう。
なんて議論は不毛ですよ。
>>776 >船乗りでもない魏使が1300kmもの船旅に耐えられるはずも無い。
はあ。
じゃあ、小野妹子が連れ帰って送り届けた裴世清も船乗りだったんですかw
>>686 かなりアルコール濃度の高い脳みそで書いているので何だが、
後続の史書で倭人伝の路程を踏襲しているものは無いのじゃないかな。
奴国や邪馬台国、女王のことは触れても、魏志の路程は無視されている。
これは、東夷伝の性格を熟知している後世の読者が、
例え正史と言えど眉に唾を付けて対峙していた証し。
都合のよいところだけを摘み食いするのは如何かと思う。
九州説の人の主張は、概してピントがズレてるね。
地に足が着いてない、というか、邪馬台国が九州にあればそれでいい、
というか。
邪馬台国比定地論争は、あくまで古代日本の政治状況を手段であった筈
なのに、いつのまにかそれ自体が目的にすり替わったみたいで。
倭人伝至上主義はその最たるものだよ。
782 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 23:46:28
>>779 >じゃあ、小野妹子が連れ帰って送り届けた裴世清も船乗りだったんですか
船の大きさが違うだろうが。
783 :
780:2005/06/24(金) 23:47:00
間違った・・・
正しいアンカー先は
>>768だった・・・
>>782 なんか古代人を馬鹿にしてますね。
唐古・鍵遺跡の土器の破片の絵や、各地に出土する舟形埴輪から推察
するに、3世紀の倭国と言えども準構造船くらいは作れていたのでは
ないでしょうか。
外洋航海に「丸木舟に毛が生えた」程度では心もとないと思いますよ。
大体、全員船乗りでないと無理、っていう前提自体が、
はあ?なんですが。
>>784 準構造船というものは、丸木舟に毛が生えたと表現されることが多いですよ。
786 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 08:17:37
邪馬台国は大和です。魏志倭人伝を素直によむと大和であることがわかります。
まず不彌国が福岡県宇美町辺であることとそこまでの行程はどなたも依存はありません。
そこから南に20日で投馬国(宮崎県)につきます。そこから水行10日で和歌山県熊野につきます。
熊野川を遡っていくこと1月で奈良盆地に入ります.
投馬国から南とありますが、倭人伝では方角は東を東南とあらわしていますので「南」は
「東」のことで、水行のみをあらわします。この航路は頻繁に使用されたらしく熊野は熊襲
が転訛したものです。
宇美町から南とあるのは「東」の書き誤りか誤写によるものです。
以上から邪馬台国は大和であると断定できます。
尚この説は私が独自に考えたものであると思っていましたが、すでに発表した人がいるようです。
787 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 08:21:57
前スレで書き落としがありました。
福岡から宮崎まで20日で、はるかに遠い熊野まで10日しかかからないのは、
黒潮というかなり早い海流を利用するからです。
788 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 12:32:13
>>786-787 は、この暑さで脳内炎症でも起こしたか
お大事に
今度また同じカキコしたらスルーだよ
美味しいね
790 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 14:24:41
邪馬台国論争なんてもう終わったと思う。
791 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 14:38:33
反論無しの中傷だけってのは、納得しかねますね。
先ず、各々各人が説を建てるなりして、それに沿う容で討論すべきだと思うのですが
中身の無い批判だけというのは、非常に残念です。。。。
それと、このスレは《邪馬台国は大和朝廷になったのか?》です。
今度また同じカキコしたらスルーします、宜しく
一発目からスルーしなさいよ。
793 :
サガミハラハラ:2005/06/25(土) 18:16:31
前原楽浪遺蹟群はどうなったのでしょうか。
何故だれも相手にしないのでしょう?
あんたが、NGワードだからじゃないかな。
>>793 岡田英弘氏(モンゴル・満州史専門)の
「古代日本は中国の一部だった」説を証明してしまいかねないから。
796 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 19:11:47
>>753あたりに、議論の焦点を絞った方がいいんじゃないの?
797 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 19:43:20
そだね。
土器がたくさん出たからってすぐさま特定できるわけじゃない。
まだ単にみつかっていない可能性も十分にあるわけだし。
出雲で300本以上もの刀が山の斜面から見つかった例もあるし。
798 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 20:52:49
>>796 >>797 そのあたりの考察は過去スレにて詳細テンプレまでつけてやっていたのですが
よかったらそれ張りましょうか?
799 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 22:15:58
800 :
過去のテンプレ@:2005/06/25(土) 22:47:42
【邪馬台国畿内纏向説テンプレ】
@各地の有力首長が以前から存在した通商ルートを基にして、2世紀頃から徐々にまとまり始めた。
Aこの首長連合が畿内纏向に置いた物流基地&神託機関がヤマト、すなわち邪馬台国である。
B3世紀前半頃には老舗の北九州(玄界灘グループ)と連合したか傘下においたか、少なくとも圧力を掛けていたと思われる。
C狗奴国については、東海、近江、関東、南九州などの説あり。
D銅鐸消滅については、小部族祭祀から権力者祭祀へと変遷する過程で失われた。
この文化再編成は列島規模のものであり、同時に銅矛や銅剣も姿を消している。
E倭国大乱と称される2世紀には高地性集落などから緊張状態が考察されるが、実際に大規模な戦闘は行われていない。
この冷戦とも牽制とも取れる状態が逆に物流や人的交流を刺激し、連合を広域化させた。
F倭人伝に記載された邪馬台国(卑弥呼、台与)の時期に纏向において最古の前方後円墳建造が始まる。
【卑弥呼の正体についての仮説テンプレ】
@倭人伝記述通りの倭国連合の女王。連合内にて共立された巫女。
それを踏まえて、
a)ヤマト(畿内、九州問わず)土着のよく当たると評判の巫女。
b)特殊器台から考えて、吉備出身の巫女(畿内説限定)。
c)連合各地の首長ゆかりの女性を一箇所に集めた、神託専門の機関の代表。
d)北九州の女王国を連合のシンボルとした(九州説限定)。
e)連合運営の為に首都「邪馬台国」を新設した際に、意見調整及び司法担当の役割を与えた。
A男王(大王、為政の代表)とワンペアの巫女(皇后、祭祀の代表)。
B男王が実質的な支配者で、あくまで卑弥呼は神託系のアドバイザー。
C東方の「女島」伝説を拡大解釈した、魏の勇み足。
801 :
過去のテンプレA:2005/06/25(土) 22:49:22
>2世紀までは鉄貿易で繁栄を遂げていた北九州は、4世紀になると急激に没落する。
この没落傾向は2世紀中頃には遅くとも始まっています。唯一3世紀まで繁栄したのが
伊都国と見られる平原・三雲です。それも3世紀後半には見るかげも無くなります。
>代って、日向に多くの古墳が作られている。
日向に前方後円墳を含む大古墳群が発生するのは事実ですが、これは全国的な傾向です。
北九州でも副葬品は減少しますが、那珂八幡のような巨大前方後円墳も建造されます。
なお初期型前方後円墳の出現は、纏向に続いて豊前、肥前、筑紫、日向、吉備、伊予、讃岐、丹波、山城、近江、西上総で確認されます。
>3世紀の畿内からの鉄器出土は少なく
この鉄器については別項目にまとめます。あまりに誤解が広まっていますので。
鉄器が酸化して現存していないとの説の物的証拠を提示します。
>北九州〜畿内間の土器の移動も少ない。
3世紀中葉における(つまり邪馬台国の時代)福岡県の比恵・那珂遺跡群では100器以上の庄内式甕(畿内形式)が出土しています。
また同じく3世紀後半の福岡県西新町遺跡における出土土器の割合は
「在地系63%、大和25%、出雲9%、伽耶2%、吉備1%」です。
ここは在地系と外来系に住居も分かれており、対等な関係であったことを示す「市」の跡もあります。
また三雲遺跡でも同様の交流を示す土器流入が確認されています。
それぞれ伊都国、奴国と目される地域は3世紀中葉から後半には
濃密な経済及び人的交流があったことは動かしがたい事実ではないでしょうか。
802 :
過去のテンプレB:2005/06/25(土) 22:51:01
【鉄器についてのテンプレ】(前スレ590氏のまとめを補足します)
@現在の出土例は北九州500余り、近畿100余り
Aその時代区分は北九州が1〜3世紀中頃までが多く、近畿は3世紀末から4世紀が多い。
ただし畿内遺跡のうちホケノ山などは従来4世紀と考えられていたのが、年輪年代法によって
土器編年が遡られたので3世紀に区分されるとの説が有力視されている。
B九州、近畿以外の地域(関東、東海、上越、山陰、中部など多数)で1世紀の弥生遺跡から
鉄製品による木材加工跡が次々と報告されている。
C出土する鉄器の多くは、台地上の遺跡跡か墳墓石室内等の比較的保存条件の良い場所にて発見されている。
低湿地に隣接する遺跡からわずかに出土する鉄器は、ぼろぼろに錆びている。
具体例をあげます。低湿地である福岡の板付遺跡、平塚遺跡では鉄器は発見されていません。
わずかに板付で鉄斧?らしきものが一片出土しました。北九州を代表する弥生遺跡でさえも
低湿地に位置する集落跡や墳墓では鉄器は出ません。
逆に高台に位置する遺跡からは、列島中と言っていいほど鉄器が発掘されます。
もちろん高地、低湿地にかかわらず、鉄器での加工跡のある木製品や遺構は出土しています。
また鉄器が溶けてなくなった例として、大阪の土保山古墳(鉄の鎧の60%が酸化消失)、
同じく大阪の亀井古墳(90%が酸化消失)。いずれも4世紀後半から5世紀と思われる古墳です。
溶けたのになぜ鎧だと解ったのか?まわりに塗った漆がそのままの形で残っていたからです。
また酸化跡と思われる土痕跡も、地下水の量の為か残ったり残らなかったりです。
確かに副葬品としての鉄製品は、3世紀前半までは玄界灘グループ以外はあまり出ません。
しかしそれ以降は一気に広まります。
この事実も踏まえて北九州の連合参画を3世紀前半と仮定しているのです。
D全国的に未調査墳墓が多数あり、特に陵墓指定された古墳が多い近畿では十分な調査が行われていない。
よって鉄器の発掘分布データから、当時の貿易状況や各クニの国力を推測するのは極めて困難である。
803 :
過去のテンプレD:2005/06/25(土) 22:54:48
J卑弥呼の死により倭は一時混乱するが、台与により再びまとまる(後に台与(豊)の国と呼ばれる)。
K3世紀末には、その一族の墓として九州最古級の前方後円墳となる宇佐赤塚古墳や苅田石塚山古墳が
築造される。
L同時期、2代後の王もしくは孫にあたる人物を中心に邪馬台国は熊襲を日向以南まで後退させる。
邪馬台国は主力軍(あるいは首都も)日向におき(天孫降臨)、熊襲を監視下に置くが、やがて
和解・姻戚関係などで同盟関係となる。
M4世紀前半は日向が繁栄し、西都原付近で古墳が数多く造られるようになる。
Nこうして、日向をはじめ宇佐勢は九州内に領土を拡大し、その土地が後の宇佐神宮の荘園
「本御荘十八箇所」として引き継がれていくことになる。
N日向では政情が安定するが、更に領土拡大を目指し、3代後の王もしくは子孫にあたる人物(神武)が
東へ向け、進出をはかる。
O神武による畿内との併合は、多かれ少なかれ武力を背景にしたものであったと考える。
804 :
過去のテンプレC:2005/06/25(土) 22:56:23
貼り間違えました、こちらがCで九州豊前説です。
【邪馬台国九州豊前説テンプレ・総論】
@北九州には、稲作の流入と共に弥生時代初期には既に大陸との交流があったと考えられる。
A大陸からの渡来人は、北九州に稲作・潅漑をはじめ、青銅技術などを伝え、当時の日本において
北九州を文化の先進地とした。
B北九州での政治・経済の中心は、筑紫平野にあったが、一方、秦氏を中心とする渡来人は、銅を
産出する筑豊の香春を経由し、宇佐を含む中津平野、国東半島へと広がり、様々な文化・技術を
広めていった。
C秦氏の進出は、5世紀ともいわれるが、宇佐の弥生後期の遺跡で銅鏡や銅鉾、朝鮮式小銅鐸などが
発掘されており、大陸と香春・豊前の繋がりは実際は更に遡るのではないかと考えられる。
D筑紫は、男王を中心としたいくつかの小国家が点在し、絶えず混乱が続いていた。
E狗奴国については、南九州を基盤とする熊襲(後の隼人)と考える。
F一方、渡来人によりもちこまれた道教や政治を取り入れた豊前(邪馬台国)では、比較的政情が安定
していたが、熊襲の北進により筑紫勢と共同戦線を張る必要性が生じた。
Gその結果誕生した緩やかな連合国家が倭であり、紆余曲折して豊前の卑弥呼がその女王となった。
H連合国家を形成した倭は、それなりに安定したが、あいかわらず熊襲との対峙が続き、後ろ楯として
魏との交流進めた(渡来人一族に魏の有力者と繋がりがあったのかもしれない)。
I卑弥呼の死後、秦の始皇帝陵などを参考に現宇佐神宮の自然丘陵を利用して古墳を築造し卑弥呼を
埋葬する。これは前方後円墳の原型とも思われ、亀のような首をもつため後に亀山と呼ばれる。
805 :
過去のテンプレE:2005/06/25(土) 22:57:27
【邪馬台国九州豊前説テンプレ・各論(倭人伝位置編)】
@帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
よって末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里程度と考えられる。
韓国南端−対馬、対馬−壱岐、壱岐−唐津の間が、それぞれ千里余で50-100kmに相当。
したがって、最遠200kmでしかも直線距離としても広島県を出ない。
一方、唐津から宇佐までは、直線距離で100km程度、筑紫山地があるため、小倉を経由する実際の
陸路では150km程度であり、二千里として距離的につじつまが合う。
A月日での距離表示については、隋書などの「東西五月行、南北三月行」を採用。
当時の日本の範囲として長崎−愛知を五月、対馬−鹿児島を三月とすると、一月は約150km。
不弥国以降邪馬台国までは、放射説で考え、「水行十日または陸行一月」と解釈すると150kmで
里数とも整合性が得られる。
B末慮国から伊都国への方向や、後の中国の地図より、当時の認識として確かに45-60度程度の
狂いがあったと考えられる。
この狂いを当てはめると、玄界灘から関門海峡は南東に進むことになり、関門海峡から周防灘
へはまさに南に進むことになる。
そして、その左岸、つまり中国側が投馬国、右岸(豊前)が邪馬台国として説明可能である。
しかも、邪馬台国は「水行・陸行」より、陸づたいでも行けることが分かる一方、
投馬国は「水行」のみでの記載となっており、関門海峡をわたる必要がある中国地方を見事に
言い表している。
C水行二十日の投馬国は、もし陸行なら二月=約300kmとなる(ただし潮流の違いなどで
誤差が出ると考えられるが)。
よって吉備あたりと推定されるが、出雲や丹波などの中国地方を包括していたかもしれない。
D豊前(あるいは豊後も含め)を邪馬台国と比定すると、まさにその国の東(国東半島)から東に渡航
すると「女王国の東、海を渡る千余里」で、四国に上陸し「また国有り、みな倭種」となる。
E南には狗奴国として有力な熊襲があり、裸国・黒歯国は薩南・琉球諸島と考えられる。
806 :
過去のテンプレF:2005/06/25(土) 22:59:54
【西新町遺跡、三雲遺跡について】
福岡県西新町遺跡を例にとると、各地の土器が交ざり合って出土する地域が各住居跡とは別に確認されています。
もうひとつ象徴的なのが三雲、井原、平原から北西の加布里湾地域です。
御床松原、深江井牟田、神在横畠、補志、志登などの遺跡群からは楽浪系漢式土器、韓式土器、瀬戸内系土器などが在地系とほぼ同じ比率で出土します。
これらは3世紀中葉から末にかけて顕著に見られます。
西新町と同様に各土器がかたまっている地域と入り乱れている地域に区分されます。
その東隣の今津湾は志登から三雲、井原に向かって伸びる道路上の遺構が確認されています。
これも3世紀中葉と考えられています。
この志登、三雲井原ラインは4世紀初頭までのごく短い期間に最盛期を迎えます。
それまでの伊都国とは性格の異なる状況展開ですね。
なお今津湾沿岸は3世紀末か4世紀初頭から突如、御道具山古墳を始めとする前方後円墳が集中して建造されます。
私見ですが、ここが「一大卒」の置かれた場所であると考えます。
807 :
過去のテンプレG:2005/06/25(土) 23:06:44
【青谷上寺地遺跡について】
2世紀末ごろと見られる53体もの遺骨が環濠より出土しております。
年齢は乳児から50歳代までと幅広く、そのうち10体に殺傷痕が認められます。
骨盤に銅鏃が刺さったものや刺し傷、切り傷痕のあるもの。
女性の遺体にも後ろから刺されたと思われる傷跡が認められます。
発見当初は大量殺人、つまり相当な戦乱があったと考えられていました。
ところが次々に疑問点が湧き上がってきたのです。
まず、なぜ埋葬されずに環濠に捨てられていたのか?
遺跡内に焼き討ちなどを思わせる焼土痕が無いのは何故か?
その後も土器や埋葬様式にまったく変化が見られないのはどういうことか?
そもそも外敵との抗争ならばどこが攻めたのか?
これらの事から現時点での見解は、集落内での内部抗争ではないかとの見方が強いのです。
その理由として考えられるのは、連合に向けての賛成派と反対派の葛藤でしょうね。
結果的に連合反対派が勝利した可能性が高く、土器の流入が無いまま集落が消えていきますので。
808 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 23:27:15
なお「鉄器の酸化」については、同じ畿内説より
北條論文を参考にした反論が寄せられています。
個人的にはこの反論がかなり的を射ているのではないかと思います。
以上PART14からのコピペでした。
809 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 00:16:45
【邪馬台国畿内纏向説テンプレ】を読んでると、やっぱり、
少なくとも3世紀半ばには、九州にまで影響力を及ぼす政権が纏向に
誕生していたんだろうと思う。邪馬台国の時代にはすでに、畿内>北部九州
の力関係が決定していたのだろう。
ホケノ山が3世紀になった以上、邪馬台国九州説は成り立たなく
なってるよ、正直。
810 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 00:26:34
古墳時代の始まりが遡ったことで、魏の紀年鏡が何世代も受け継がれた
という、無理矢理な伝世鏡という設定自体が出鱈目であったことが
証明されたわけ。
卑弥呼の時代の魏の紀年のある出土物が畿内を中心に出ていることからも、
九州限定で邪馬台国を考えることは無理があるよ。
811 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 01:27:29
邪馬台国は大和朝廷になりなすた、はい。
812 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 01:59:25
まだ畿内説にしても確定事項があまりに少なくて
定説となるには至っていない(畿内説同士で論争が続いている)のだが
九州説の本質的な弱みは、邪馬台国に相当する遺跡がないことに尽きるんだよね。
逆に言えば、各地との交流痕跡を示す3世紀の遺跡が発見されれば
九州説は俄然有利になるのだが、どこをどう探しても無いんだもんなぁ。
九州説論者がまず示さねばならないのは、倭人伝解釈より遺跡のはずなのだが
その事実から目をそらし続けているから、説得力が無いとか揶揄されるんだよ。
上のテンプレでもまともな九州説論者は、ちゃんと考古学根拠を挙げて
候補とする遺跡を提唱しているようだし、そういう「まともな」話をしてほしいと切に願う。
813 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 03:04:56
814 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 03:14:57
>>813 むちゃくちゃデータが古いな・・・・・・と思ったら
なーんだ「邪馬台国の会」か
君らはさっさと甘木を掘って退散してくれたまえ。
815 :
九州説者:2005/06/26(日) 05:10:55
プラムさん、プラムさん。
出番ですよ。
816 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:19:25
文字が伝わるまでは西日本統一連合政権などできるはずが無い。
少なくとも三世紀から5世紀までは群雄割拠だな。
817 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:41:54
文字至上主義者ハケーン
ついでに文字伝来時期引き下げ論者ハケーン
818 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:43:26
>300年以降に邪馬台国が九州から畿内に東遷して大和朝廷になりました。
その通り。九州は見捨てられました。可哀相に。
819 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 06:58:26
>>816 天皇による強大な王権を連想しているようだが
そんなもん実現したのは早くて6世紀、下手したら桓武天皇の8〜9世紀だぞ。
あくまでもゆるやかな首長国連合だよ。
それと群雄割拠というより有象無象のほうが、実態に即してるんじゃないか。
820 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 07:15:19
>>812 >邪馬台国に相当する遺跡
その定義は?
どんな出土品や遺構が確認されれば(邪馬壹國)と比定されるのか
そのところ詳しくご教授あれ
821 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 07:18:35
816は連合政権と言っているのであって、強大な王権など想定してないと思うが。
>あくまでもゆるやかな首長国連合だよ
首長制論についてもっと勉強したほうがよいかも。
822 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 07:20:31
親魏倭王印が出れば全て解決。誰か偽造シル(
823 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 08:08:53
(連合並びにゆるやかな首長連合)
この「連合」という文字が飛び交いするのも
その根源は 東夷伝倭人に『乃共立一女子為王』
『共立』の文字はあるが『連合』という文字は一度も史書には登場していない。
『共立』についても、以前圭角氏が、その扱いかたについて問題定義したが未だ未解決のままで これとゆう結論が得られていない。
824 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 10:47:50
>>823 初期ヤマト政権が連合政権であった、というのは妥当な推測だろ。
4世紀でも、吉備の造山とか、葛城の馬見古墳群を見ても、当時のヤマト政権
も有力豪族の連合政権であったことが分かる。
大王が専制君主として強権を発動出来るようになったのは、各地の豪族を圧迫
しまくった大悪大王・雄略以降。
継体の時でさえ大王位は有力豪族に推戴される必要があったわけで、
それは卑弥呼の頃から続いている伝統なのだろう。
>>823 「連合」がイヤなら「共立王権」とか適当なネーミングを付けて呼びなよ。
「共立」ついて結論が得られていない・・・それは、間違いだ。
あなたが、他説を否定したいが為に、保留条項を増やしているだけだろう。
『其國』本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、『相攻伐』歴年。
乃『共立』一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。
相攻伐した後、一女子を共立したんだろう。
それを「連合」と呼ぼうが、別の表現を採ろうが意味に違いはない。
圭角氏の問題提起とやらは、何が問題なのか、具体的に説明してもらいたいものだ。
>>823 九州説論者も、九州諸国の連合として邪馬台国体制を捉えてるだろ、
普通。
>>820 そうだねえ。
例えば、倭人伝で「七万戸」と表現されるようなある程度「まとまり」の有る政治・経済ブロックの痕跡だな。
かなり大まかだが、「五万戸」を吉備だとして、大和に摂津・河内地方を含めたような存在が「七万戸」と呼べよう。
この場合、戸数自体は実数では無く、北部九州「三万戸」を基準にした相対表現だろう。
北部九州は三万くらい、投馬はそれよりも大きいので五万、邪馬台はもっと大きいので七万、その程度の表現だろう。
で、九州には既に「奴國」と言う大勢力圏が存在し、それ以外にもう二つ(狗奴を含めれば三つ)の勢力圏を想定するのは、
考古的にはとても考えがたいことだ。
七万を七千と読み替えたりしても単一遺跡だけでは比定しきれない、複数の遺跡群を抱合する地域が必要。
これの解決策として、倭人伝を「読解」しまっくり、「奴國」を韓半島に持って行こうとする人もいそうだけどねw
>>801 >3世紀中葉における(つまり邪馬台国の時代)福岡県の比恵・那珂遺跡群では
>100器以上の庄内式甕(畿内形式)が出土しています。
>また同じく3世紀後半の福岡県西新町遺跡における出土土器の割合は
>「在地系63%、大和25%、出雲9%、伽耶2%、吉備1%」です。
邪馬台国が九州にあったなら、倭人伝に大和のことが書かれていないのは
やっぱりおかしいよ。九州と没交流なら別だけど。
829 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 12:14:17
>>827ウマミミ氏
ご説明感謝します。
>>825 >他説を否定したいが為に保留条項を増やしている
そのように とらえられては、もはや議論になりませんなぁ
私は、まだそういう疑問点も、有るんじゃないかと言ってるだけです。
前にも 書きましたが
歴史の疑問解決は
多数決や最大公約数等で解決するものでないと、思いますので
830 :
825:2005/06/26(日) 12:28:58
>>829 だから、『共立』の何が『疑問』なのか、言いなさいってば。
それを顕かにしないで、「解決」してないと言い張っててもしようがないだろう。
「わからない」「わからない」と連呼してるだけじゃ埒がつかんのだよ。
「議論」にならないのは、あなたの態度のほうだ。
あなたが「思ってる」だけじゃ、他人にその内容が伝わるわけも無いだろうし、
「伝える」意思も無いなら>823のようなレスはするももじゃない。
女王は、共立王じゃなかったと言いたい訳なのか?
>>829 君みたいに、「なんとなく、邪馬台国は九州にあったんじゃないかな〜」なんて感想
を言うだけでは、話が前に進みませんし、議論になりませんよ。
議論を望まないなら、掲示板への書き込みは止めた方がいいと思います。
>>829 >歴史の疑問解決は多数決や最大公約数等で解決するものでない
なんか気持ち悪い言い方だなー。
証拠は殆ど無いけれど「それが真実だから仕方ない」って居直るつもりですか?
物凄い傲慢な態度だよ。撤回しなさいw
833 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 13:02:41
>>830 既存関連スレを全てROMってくれ 以前
圭角氏とウマミミ氏(間違っていたらスマソ)の間で『共立』の解釈についての議論が有りまだ中途半端のままの保留状態になっている私にしても、どちらの解釈が正しいのか未だ苦慮している所
だからこのスレの中において『共立=連合』と、とらえるのは 早いのではないかと 言っただけ。
議論上において個人の態度否定などするのは言語道断そのような行動は
学会等でやってくれ
この場は個人の利害関係無しに行っているのだから
>>833 >圭角氏とウマミミ氏(間違っていたらスマソ)の間で『共立』の解釈について
>の議論が有りまだ中途半端のままの保留状態になっている私にしても、
>どちらの解釈が正しいのか未だ苦慮している所
君の「共立」の解釈で苦慮しているポイントを書いてくれれば。
835 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 13:37:10
>>832 気に触ったらスマソ
撤回しろと言うなら『撤回します』
しかし、このスレの傾向として(2ちゃんねるの傾向)個人の貴重な意見をオチョクルカキコがあるため 書いたまでだから
『共立』については
私も以前、共立=連合と思っていましたが 圭角氏の考えも頷ける部分が多々有り一概に 共立=連合と位置付けられないなと思い
現在『魏書』読書中です。
尚、圭角氏の意見は正格性をきす為バックナンバーをご参照下さい。
>>833 「共立」について、某氏と議論をしたつもりは無いが、
勘違いじゃないですか。
以前、某氏が更立男王、復立女王と言う部分に特殊な読み方が有るような
書込みをしていたので、別に特別な意味はないだろう
と言う趣旨のレスを付けたことはある。
某氏から特に追加の説明も無いし、さして重要な事項でもないと思うが
このことと思違いをされてるのかな?
それは、さておき。
今の流れで、おかしいのは貴方の主張の方でしょう。
共立の解釈について疑義が有るなら、まずそれを提起すべきであって、
それを拒否したまま、「自分は違う思うんだよ!」と言うのは議論放棄と
言われてもしょうがないと思う。
837 :
圭角:2005/06/26(日) 13:59:58
プラムさん、こんにちは。
一昨日、伊都国の平原遺跡や三雲伊原遺跡に遊びに行って来ました。常陸のプラム
さんにとっては、背振山地の南の吉野ヶ里遺跡からすると、まさに南北の位置に在る
と言うと分かり易いかなと思います。まあ、素人の自分などが見学してみても、猫に
小判というところですが、自分なりの地理位置確認やイメージを持つには好いです。
この直前の書込みには以前わたしが卑弥呼の共立記事についての議論を見ましたが
あえて別のことを書かせてください。それは、どなたかの書込みにおきまして、
九州説の弱点は、九州説を主張するに足る遺跡が無いことだと、主張されています。
たしかに、弥生時代の大規模な集落は古墳時代に入る直前に衰退消滅している場合が
多いのですが、当時の全国の大規模な集落の大きさを比較記憶することも有意義かと。
吉野ヶ里21,7ha原の辻27,3ha三雲井原40,5haに対して、近畿の
唐子鍵 16,2ha亀井 14,5ha池上曽根11,7haという次第で断然に
九州の集落遺跡が近畿より広大であることは歴然としています。集落遺跡も遺跡です。
つまり、私は、古墳ばかりが遺跡ではない、と言いたいわけです。
838 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 14:00:05
>>831 何か勘違いしていないか?
このスレは邪馬壹國の比定地を議論するスレではないと思うが?
主に畿内における大和政権の成立を議論する所
畿内での邪馬壹國存在説を議論するものです。
だからこのスレでの九州比定地は お茶を濁す程度で十分かと
ただ、私は畿内においての大和政権は邪馬壹國とは直接には無関係説です。
その考えは以前カキコしたため省略します。
>>831氏の発言は、そのことを全て把握しての発言と受け取って宜しいですね。
839 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 14:05:32
>>836ウマミミ氏
それは大変失礼しました。お詫びいたします。
840 :
圭角:2005/06/26(日) 14:09:38
寺沢氏の著の王権誕生によると、纏向遺跡の広さは最盛期でも1,5キロ四方
とのことですから、伊都国の三雲井原遺跡の方がむしろ広大であり、なんら
遜色のないことが判ります。
ですから、あえて念のために申しますと、畿内説の皆さんが、九州説には九州説を
主張するに足る遺跡や痕跡が無いなどという主張は、再考していただきたいと
思います。
>>840 いやだから、そんな大きな伊都や奴を風下に置ける程の勢力を、
九州の他の地域から見つけ出すのは難しいと言ってるのですが。
>>838 >だからこのスレでの九州比定地は お茶を濁す程度で十分かと
何度も言いますが、倭人伝に出てくる邪馬台国や投馬国のような大国を
九州限定で探すことに無理があるのでは?という反論をしているわけです。
分かってもらえますか?
>>841 まあ、お茶を濁さざるを得んよなあ。
そんな遺跡は存在せんわけやから。
844 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 14:45:41
畿内を中心とする東海、吉備その他周辺地域の『連合』 かなりの広域にわたり相争っている時に各首長が協議し代表者を決めることなど可能なのか?
常識的には????だろう
だから、ここでの『共立』とは
以前より郡(魏?)の管理下にある倭が長い間野放し状態に放置され その間にお互い無秩序状態になった倭に対し何らかの圧力が郡よりかかり 郡の選任した雇われママが女王となり相争っていた周辺諸国はおとなしくなった。
そう考えているので
『共立=連合』は違うと思います。
周辺諸国への圧力による黙認
範囲も、九州の一部と考えてます
845 :
圭角:2005/06/26(日) 14:46:30
卑弥呼共立の一般解釈について疑義ありと書込みした一人として、補足します。
もうずいぶんと以前ですからpartのいくつか探すのも面倒ですのから、
あえて重ねて書きます。
共立記事は、東夷伝の高句麗伝と扶余伝にもありますが、卑弥呼の共立記事とは
大きな差異が在ると、書きました。ご案内のように、扶余伝の麻余も高句麗伝の
伊夷模もも同じく共立と記述されています。原文記載は省略させていただきます
が、扶余高句麗伝においては、その共立の主語が諸加国人と明記してありますが
卑弥呼共立においては、ご承知のとおり主語記述がありません。これが一点です。
次が、高句麗伝を読みますと、むろん陳寿の誇張でありましょうが、座食する
者一万人で周辺地域国はみな高句麗に従っていると期してりますので、三韓や
歴年主無く相攻伐の倭とは、共立の経緯事情において、異なるものがあった事を
推測して自然ではないか、という点です。この点は寺沢氏武光氏も私と同じ視点
視座ではないにしろ、ある程度は似たことを言っています。
さて、私の疑義の主点主題は、高句麗扶余伝の共立記事で見たように、共立の
背景には、相当に進展した政治機構仕組みがなくては事実上不可能だと推定され
るから、同じ共立においてもその範囲領域は狭小なものだったろうと推定する次第
なのです。つまり、そこには当然に政治的連合等の存在を前提にしなくては、
この共立記事からの畿内説主張には無理が生じるのです。なぜなら、鬼道にて
人を惑わすことにて共立し王と為すというのは、後世の天草四郎の例をみても
近畿大和を中心に広く西日本一帯の首長の間での共立には、リアリティーの
無さを感じずにはおれない、と以前書いた次第でした。スレ浪費で恐縮です。
846 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 14:50:39
圭角さん
おひさしぶりです。
>>841 その点については理解しています。
847 :
圭角:2005/06/26(日) 15:02:39
プラムさんが短く結論されているのは要領を得ていると私も思います。
共立から連合を導くのは不自然不合理と私も考えます。
そもそも、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼という記述
において、白石氏のような広域の政治連合を想起前提とするのは大変に無理
があります。
みなさん、願わくば、高句麗扶余伝の共立記事の再読並びに比較を。
848 :
圭角:2005/06/26(日) 15:11:44
841さんへ。
福岡の平塚川添遺跡にしても20haもの広大な遺跡です。
つまりですな、九州説の場合、その候補地に事欠かないということなんです。
畿内説の場合は、マキムクしかないから、それゆえに九州説は比定地にお茶を
濁すと、受け取られるのでしょうね。
>>848 不彌国から投馬国まで水行二十日。更に南、邪馬台国まで、
水行十日、陸行一月かかるんでしょ?
倭人伝で、玄界灘沿岸部に邪馬台国があると書かれていれば、まあ
まだ分かるのですが。
850 :
圭角:2005/06/26(日) 15:24:31
プラムさんへ。
伊都国の用いていた土器には、いわゆる楽浪系土器と呼称されるものが大変
多いことを再認識しました。壱岐対馬と同じくあるいはそれ以上に伊都国の
古よりの楽浪郡との交流の深さを想いました。
それから、ちなみに、伊都や壱岐の楽浪系土器を見て、土器に政治性を求める
姿勢は、やはりやはり、失当だと思いました。
土器は、やはり交易商業を視座とすへきと確信しました。
特定の土器をして前方後円墳体制論と結び付ける大和中心主義は整合性が無い
ということをあらためて認識した次第でした。
851 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 15:33:36
圭角さん
今からドッチボールの練習ですので後ほど
>>850 >土器に政治性を求める姿勢は、やはりやはり、失当だと思いました。
>>753でも書きましたが、
>マキムクに地方色豊かな土器が沢山出土するのは、他国から多くの人々が
>集まっていたからで。
というのは理解してもらえますか?
確かに「政治だけ」と考えるのは違うと思いますが、だからと言って
政治を完全に排除するのも極端に走り過ぎているように思います。
853 :
825:2005/06/26(日) 16:58:57
>>837 >>840 捏造しまくり過ぎw
いったい、何と何を比較して数値を示しているのやら。
まず、第一に三世紀前半の遺跡で比較しなければならないのに、
いろんな時代から、適当に見繕ってきて貼り付けてますね。
面積で競うなら環濠内部の面積とかでやって欲しいのだが、
何の説明も無く、数字だけ示す手法は安本とかが得意な詭弁的手段。
まず、「唐子鍵 16,2ha」・・・これは、遺跡の調査済み面積かな?
9割以上が私有地の下である唐子は、まだ半分も調査されていない。
市教委の予備調査では、30ha程度とされている。
11.7と書かれた池上曽根に至っては、60haと予想されている。
ちなみに、21.7と書かれた吉野ヶ里は40haくらいの規模になりそうである。
また、三雲井原の40.5haは、何を基にした数値だろうか?
弥生から古墳時代までに跨る複合遺跡群の面積を単一の環濠遺跡と比べてもしょうがないと思う。
最後に纏向、1.5キロ四方なら225haだ。
単位を変えて誤魔化そうと言う魂胆が見え見えですな。
これが、他説を何の根拠も無く、信仰だとか捏造だとか言って罵倒する人物の本質だね。
九州説には、この手の手合いしかいないのかな?
>>853 え? 圭角さんはもう少しまともな論客だと思ってましたが。
こんな明らかな捏造とかしてしまうの?
855 :
825:2005/06/26(日) 17:42:49
>>854 捏造かどうかは、ともかく。
日ごろ、御当人が大言壮語している「科学的考証」とは、
無縁の行為だね。
レベルの低さチラシの裏以下。
なんか、吉野ケ里見物に行ってきたらしから
そこで土産物屋のオヤジにでも吹き込まれたヨタ話だろう。
いい恥かきになっちまったな。
857 :
圭角:2005/06/26(日) 19:08:18
853氏、あのなあ、考古学資料というのは、為替相場、債券相場、株式相場とは
違うから、常にリアルタイムの統計数値でないことくらい、認識したらいかがかね。
自分は、伊都国当時のいわゆる古墳時代に入る前の各地の遺跡面積のデータを、ある
教育委員会もしくは歴史博物館の資料で書込み披瀝したまでだよ。
現在、博多以南の新幹線工事が進んでる。吉野ヶ里は背振山系を横断する高速道の
建設で発掘保存発見も進行したように、今から何が出てくるかは未知数さ。
君に言いたい。捏造という語彙は辞書を引いてかつ確認して用いているのかね。
私は、伊都歴史博物館の資料を、前置きして、使ったまでだ。失敬なことは言うな。
言葉は大事に使うべしだ。ついでに君に言っておく。俺は、君から論客と言われる
者でも何でもない。みなさんと、古代史を勉強し楽しみたいだけだ。
纏向その他の遺跡を一般に言う弥生、古墳という時代区分の正確な位置付け統計比較
なんかが自然科学じゃあるまいし、数式数量比較でそもそもでき得る訳は、はなから
無いさ。遺跡の地積にしても本質的には同じだ。
むろん、小生の書込みの不備間違いその他の揚げ足を採っていただくのは結構だ。
最後に追加補足しとく。三雲井原遺跡の南北の距離は2キロメートルを超えている。
それを、ただ、単純に纏向の1,5キロメートルと比べてみるかね、854君。
858 :
圭角:2005/06/26(日) 19:19:25
856君。
君ほど面白いことを書き込む人間ははじめてだなー。
私が、科学的考証という語彙を一度でも用いたことが、このスレであったらば
示してごらんなさい。
それこそ、君がいうチラシの裏の君のレベルでかまわんよ。
それに、私が吉野ヶ里見物に行ってきたなどとは、私は書いていない。
一昨日に伊都国の三雲遺跡を訪れたと書込みしている。
君は、三雲も吉野ヶ里も区別できずに書き込んでいるのか。まあいい。
勉強しなさい。
859 :
圭角:2005/06/26(日) 19:28:17
853氏。
君は、あえて番号名前で書き込んでいるが、文章の特色は隠せないから
君が、誰だか、私には判る。
面倒なことはしないで、記名して、書き込めばいかがかな。−−−君。
860 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 19:37:48
圭角さんにしては珍しく余裕のない書き込みですね。連投だし。
何かの資料を基に書き込みしたけど、それが間違えていた、でいいじゃ
ないですか。
862 :
太:2005/06/26(日) 20:03:51
九州説の人間は、不当に畿内遺跡やマキムクを過小評価するものだから。
圭角さんもそうだったということ。
以後彼の書き込みはバイアスが掛かったものだと、眉唾で読みます。
864 :
太:2005/06/26(日) 20:20:03
>>863 それは過小評価するよ。遺跡が多大にあるなら、もっと記紀に女王国の記述があるべき
確率も大となってくるが、それが全くと言ってよいほど記述が無い。
だから、畿内に遺跡が多大にあるということは、よく考察すれば畿内に女王国があった
とはまるで考えられず、ありえないことだと、畿内説に逆効果な意味となるんだよ。
865 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 20:32:10
>>863 >畿内の遺跡やマキムクを過小評価している
とんでもない認識ですよ
あれだけの巨大古墳群を造成出来る経済力は半端じゃないし その中心たるマキムクの集落にしても 当時の繁栄は私達の想像をはるかに越えるものだったでしょう。
だからと言って
邪馬壹國⇒大和朝廷という公式の証明とはならないでしょう
866 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 20:49:15
>>863 畿内の遺跡やマキムクが過小評価されていると思われるカキコを挙げてみてくれ
これからの検証材料としたいので
867 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 21:03:23
>>830 共立=連合の疑問点を自分なりに簡単に説明しましたよ
では
共立=連合の説明をしていただこうか
>>866 圭角さんの
>>840の発言、
>寺沢氏の著の王権誕生によると、纏向遺跡の広さは最盛期でも1,5キロ四方
>とのことですから、伊都国の三雲井原遺跡の方がむしろ広大であり、なんら
>遜色のないことが判ります。
869 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 21:13:33
>>869 >>857は長々と言い訳を書いたとしか読めません。単に1ヘクタールが
1万平方メートルだということを知らなかったということかもしれませんがw
圭角さんも間違いは間違いと素直に認めましょうよ。間違いを指摘される事は、
自分の考えを再検討する意味でも、悪いことじゃないと思いますよ。
まあ揚げ足取りばかりするつもりはありませんが、九州説の人は、
マキムクを王権でないとか言ってるし、過小評価してると言われても
仕方がないように思いますが。
871 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:18:40
>>870 まぁ 九州説と言ってもたくさん居ますから その辺はよろしく。
かと言って お互い様なところはありますが
872 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 22:25:57
>>869 プラム氏
いや残念ながら意図的かつ恣意的なやり口ですよ。
かばう気持ちもわかるし、あなた自身登場の頃から見ると
ずいぶん勉強されておられる様子ですので、それは明白でしょう。
>>848にて圭角氏は以下のように述べています。
>福岡の平塚川添遺跡にしても20haもの広大な遺跡です。
>つまりですな、九州説の場合、その候補地に事欠かないということなんです。
これはどう読んでも「平塚川添遺跡が邪馬台国の候補地のひとつとして考えられる」
という意味ですよね。
ところが平塚川添遺跡は、最盛期が遅く見ても2世紀前半
3世紀中庸にはほとんど放棄されているのです。
その後の再開発の後はありますが、4世紀以降です。
なぜわざわざこんな無関係とも言える遺跡を引き合いに出しておきながら
>畿内はマキムク以外にない
とばかりに、同じく1〜2世紀に隆盛した唐子・鍵や池上曽根遺跡をわざと無視するのでしょうか?
圭角氏が今後も議論に参加される意思があるならば、明確なな回答をいただきたく思います。
>>837 >当時の全国の大規模な集落の大きさを比較記憶することも有意義かと。
>吉野ヶ里21,7ha原の辻27,3ha三雲井原40,5haに対して、近畿の
>唐子鍵 16,2ha亀井 14,5ha池上曽根11,7haという次第で
とか言っときながら、
>纏向その他の遺跡を一般に言う弥生、古墳という時代区分の正確な位置付け統計比較
>なんかが自然科学じゃあるまいし、数式数量比較でそもそもでき得る訳は、はなから
>無いさ。遺跡の地積にしても本質的には同じだ。
とか言ってるし〜。
はなから無理なら止めとけよ…
874 :
872:2005/06/26(日) 22:39:57
ついでに言っておきますと、この誤情報による下手なプロパガンダは
>>786-787にて畿内説側からも出ていますね。
あまりに下手糞すぎて、単なる釣りじゃないかしらと思ったりしてますがw
弥生遺跡に関しては、過去スレにて西日本はおろか全国的に考察された実績があります。
このスレが本家を凌駕して短期間で伸び、かつ私のような古代史に興味のなかった層まで
ぐいぐいと引き込んだ大きな理由は、単なる妄想でない様々な事実を具体的に提示しあった為でしょう。
ですので意見や仮説を装った偽情報で、スレを汚すのだけは勘弁していただきたい。
876 :
825:2005/06/26(日) 22:58:05
>>867 あなたが、『共立』と言う言葉について、
何も考えを持ち合わせていないってことはよく分ったさ。
ついでに言うと、私の考えは、
>>825のレスにあるとおりだよ。
877 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 23:12:10
今時九州説だなんて、アホか塵の類
878 :
872:2005/06/26(日) 23:15:11
825氏、ちょっと教えてくれませんか。
倭人伝記事にある風俗、紀行のあたりですが
実際どう読んでも北九州の風俗であろうと考えられる部分と
もしかして列島以外の地域を混同したのではないかというところがありますよね。
九州説論者が「畿内の風俗や墓制、習慣とは一致しない」と指摘していますが
案外正しい見方であって、畿内どころか瀬戸内の情報すらないように思えます。
これって実際は魏使は邪馬台国に行ってないのではないでしょうか。
私は畿内説支持なのですが、比定地をどこに想定しようとも
不弥国以降の記述があまりに曖昧すぎ、それ以前の記述から見ても
具体性のない伝聞推定になっているのはそのためかと考えるのですが。
879 :
元祖プラム:2005/06/26(日) 23:23:47
>>876 あいよ。
>>877 もう そのカキコはあきたよ
違う言葉でも考えたらいかがかな
それに、少しは参加しろよ
畿内説側にとっても迷惑と感じてるよ
>>878 825氏じゃないですが
実際、魏使は伊都国あたりまでしか行ってないのかもしれませんね。
プラムは思いつきで書いてるだけだから。
適当に思いつきを書き込むことが、スレの議論を迷走させている自覚すら
プラムには無いんだろう。
882 :
825:2005/06/26(日) 23:37:39
>>878 風俗、他人に教えるほど詳しくないがな。
「畿内の風俗や墓制、習慣とは一致しない」って言い切るほどこともないさ。
其の人、壽命を考察するに、或は百年、或は八九十年。
其の俗、大人は皆四五婦、下戸は或は二三婦。婦人淫せず。
ここらあたりは、侏儒国の人長三四尺と似たようなもんかな。
それとも、サラセンの如く、戦争未亡人が多くて女が余ってたのかもw
883 :
872:2005/06/26(日) 23:54:15
>>880 >>882 ありがとうございます。
というのも
>>806の過去テンプレ7が「伊都国の再編成」を示唆しているように思えたからです。
加布里湾から三雲あたりの地域で、それまでと性格の異なる都市再開発が
3世紀に行われているというのが大きな鍵になるのではと思います。
伊都国の首長がかなりの外交権限を持っていたようにも考えられますし
その方が畿内勢力の完全な被支配化にあったとするより、自然ではないかと。
正直、圭角さんにはがっかりだ。
老教授以来の論客の登場かと思ったのに。
885 :
プラム:2005/06/26(日) 23:57:17
『正始元年に使を倭国に遣わし倭王に拝仮し詔や金品をおくった。』
このような文章があります
其八年大守王……張政……拝仮難升米為檄告喩之
このような文章もあります。
伊都國までとは書かれておりません。
886 :
プラム:2005/06/27(月) 00:08:22
>>881 私のカキコだけで迷走しているとは思えませんが
そうすると
>>885の記載文も私の作った思いつきのフィクションと言うのですね
>>885 なぜ張政は、卑弥呼でなく、難升米に黄幢をもたらし告喩したのか。
つまり張政は卑弥呼と会えなかったんだよ。
伊都国で足止めされたのかもしれない。
魏使ですら、宗教的権威であった女王とは会えなかったわけで、
張政はそれを恨んで、「鬼道で人をよく惑わす」と報告したのだろう。
888 :
825:2005/06/27(月) 00:20:28
>>883 一大率がらみの話ですか?井原地区が、常治の処だと。
伊都の二世紀末の中心は平原側だと思うが、
三世紀に三雲側も再開発が行なわれたということかな。
>>885 正始元年はともかく、八年には郡使は王都まで行っただろうね。
>>884 老教授の足元にも及ばないよ
テンプレのほとんどは彼の作成だろ
彼が書き込んでたあたりが一番の白眉だったな
>>888 では、不弥国以降の記述があまりに曖昧すぎるのは、それ以前の記述は
正始元年の梯儁の報告をベースにしているからでしょうか?
むしろ825氏が老教授の後継者じゃないかな
時間があるときでいいから825氏版の
「三国志が見た倭人たち」を熱烈キボンヌ
892 :
サガミハラハラ:2005/06/27(月) 00:41:45
>>888 前原説が既存事実化していますね
何度も申しますが前原説は倭人伝の文献記述をクリアしておりません
末盧の‘東南’30kmのところにある多久市付近が伊都になります
前原が伊都国であるとするならば、 それそうとうの証拠をだしていただかねばなりません
考古学上の研究は優れて膨大なものですが、証拠としてはまだ不充分なものです。
>>892 もう一匹蛆虫が涌いて来やがったな。
そう言えば、こいつも捏造しまくりのアンチ畿内厨だ。
>>893 まあ、そんなにムキにならんでも。
>>892はみんな無視してるし、NGワードに
登録することをオススメする。
895 :
とうりすがり:2005/06/27(月) 02:02:17
↑前原平原からは
他に例が無い程の大量の中国鏡他の副葬品が出土しているし、
イトの地名も残ってるし、距離的にも倭人伝の記述に一致してるし、
証拠は十分出てるだろうがよ。
多久市にはこれに匹敵するような物が出てないし、
出てくる見込みも無さそうだし、イトの地名も残って無いし、
多久市付近を伊都国にするのは無理がありすぎ。
倭人伝の方角は修正する必要が有るのは明かなんだから
素直に方角修正すれば済む事でしょうがよ。
896 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 10:13:00
オイオイ この流れは懐かしや『畿内説限定』スレへのプロローグではないかい。
住人達のレスも 何処ぞやで感じとったレスのニオイがするし
これでスレ荒すれば、王道まっしぐらだね
皆さん知らず知らずのうちに、流されてる
中にはもう感じ取ってる香具師も居るや居ないや
897 :
プラム:2005/06/27(月) 12:00:16
↑ 俺も嫌な予感がする
それはさておき
『伊都国』は奴国の20分1末盧の4分1の戸数である
伊都には王がいて外人さんもお泊りする、国際集落だ普通に考えれば
どの周辺集落と比べても華やいだ町に違いない
そんな町には、自然と人が集まり 人口も右肩上がりになるのが普通だ
しかし、目と鼻の先の奴国は伊都の二十倍の戸数
どうみても不自然
伊都が(マカオ)で奴が(オーストラリア)のような地勢ならしょうがないが
果たしてそうであろうか
普通に考えれば
伊都は奴国の20分1の戸数が限度の地理的環境にあると考えた方が
自然ではないか
898 :
サガミハラハラ:2005/06/27(月) 12:04:22
>>895 他に例がないほどーー
何度もいいますが、この場合遺蹟や遺物の多少できめられないのです。
九州には卑弥呼の墓らしき丘が桜岡一つしかないが、近畿には百以上あるから卑弥呼の墓は近畿で決まりだとも言う事と同じです。
地名も決定的なことではありません。同じ地名は全国あちこちにあります。
地名がおなじことから、大和朝廷は九州にあった、または関東にあったと考えている人もいます。
記述から考えていって、そこに同じ地名があればそこだと推定できますが、それでも決定的とはいえません。
地名が消えたり、変化する事もあります。現在の前原説は新井白石がイトという地名をみつけて、伊都
のことだと勘違いをしたことがそもそものはじまりです。
多久からは、大きな遺蹟がでてきますよ。場所は延寿寺です。寺の前は畑ですので発掘は住宅地より容易でしょう。
もしこの提示版をみている学者さん、発掘すると後世に名を残すほどの業績をのこしますよ。
なぜ方角修正することが素直なのでしょうか。私にはひねくれているように思えますが。
899 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 14:52:51
折れ 入院した時に偶然ある歴史学者と知り合った。
日本中国韓国の古書や、石碑を直接理解する数少ない人間だ。
日本のえらそうな歴史学者の大半は2次資料からしか歴史を見ていないぞ。
彼のような名も亡き歴史学者が実際の解析を行っている。
中国人も現代の学者お大半は古代の石碑の意味がわからない香具師多いらしい
文法的な意味もあるが当事のスラングのような言い回しも含まれていて
お行儀のいい文法では読めても意味不明になることが多いらしい。
その時常日頃から思ってた歴史に対する疑問を聞いてみた。
やはり、幕府側と朝廷側両方の記録がある鎌倉以前の歴史は怪しいというか、
信憑性が。。らしいね。 朝廷のプロバガンダといかナンというか。。
眠れない夜中に話し聞いたので詳しい事は覚えていないが。。
一つだけ興味深い話しを覚えている。 伊勢神宮と出雲大社の古書の歴史に
500年のずれがあるそうだ。
900 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 15:33:44
>>898 多久が伊都国だったと言うならば、
奴国は何処になるんだよ?
まさか吉野ヶ里だとでも言うのか?
それはダメだよ距離が離れすぎですから。
方角修正することがひねくれていると言うのであれば
修正せずに進んでみ、邪馬台国は九州の遥か南の海洋上に
有った事になりますよ(w
901 :
プラム:2005/06/27(月) 15:52:01
南へ『水行十日・陸行一月』
基点を何処にするかの問題@投馬国から
A不彌国から
B帶方郡から
C伊都国から
D魏の都から
E一大率から
この六つからの選択になると思うが
902 :
日本@名無史さん :2005/06/27(月) 18:24:45
@投馬国から ◎
A不彌国から ×
B帶方郡から △
C伊都国から ○
D魏の都から
E一大率から ●
903 :
サガミハラハラ:2005/06/27(月) 18:32:55
Bですよ。これは全日程に何日かかるかをのべたものです。
つまり、道を聞かれた時、道順を言ってから最後にどのくらい時間がかかるか
付け足すことがあるでしょう。それのことですよ。
904 :
サガミハラハラ:2005/06/27(月) 18:41:49
だから素直に進むと佐賀県小城市甘木地区になるのですよ。卑弥呼の墓は小城公園の
桜ケ岡です。室町時代までに多くの人骨がでています。殉死者の骨でしょうか。
奴国は肥前山口です。
905 :
プラム:2005/06/27(月) 20:37:20
>サガミ氏
奴国=肥前山口は解りました。
しかし私が
>>897で提示した人口比をご説明下さい
サガミ氏が比定する伊都と奴がどうして1対20になるのか?
906 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 21:33:04
圭角氏は、少し書込みを間違えたのみで、みなさんからさんざんな誹謗中傷ですね。
だけど、氏の言いたかったことは、氏の書込みをよく読み返してみると、古墳時代に
入ると弥生期の集落遺跡は大部分が衰退消滅しているが、という前置きには一応の
注目をすべきではないでしょうか。話はマキムクの遺跡年代が確定しているのかと
いう問題ではないでしょうか。遺跡というのは間違いなく年代の特定ができるもの
なのでしょうか。古墳においても同じ疑問を持つのはわたしばかりでしょうか。
907 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 21:38:02
遺跡の年代か。それは絶対的には無理無理。特定も確定もできない。
縄文も弥生もコロコロ変わっているのが実情さ。考古学の年代測定なんか
明日になったら、ガラりと変わるかもよ。
908 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 21:44:02
そうかなあ。そうなれば、全国通津浦裏にある遺跡や遺物などの考古学資料
でもって、いくら古代史を議論しても、それこそ議論百出で結論なんて、
望み得なくなるじゃない。オレ、素人からすれば、何をどう信じればいいの。
909 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 21:51:57
偉い人に質問があるんだけどさあ。考古学史料なんかいうのは、たとえばさ
文部科学省なんかでよ、公的に発表してるというか、統計してる訳かなあ。
このスレ見てるとさ、みんないろいろ考古学つーか、言ってるじゃん。その
根拠てさ、どのくらい信用性あるのかしら。ダレカ教えてくれよ。
910 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 21:58:35
マキムクとか九州とか吉備とか、よく皆さんカキコしてるよな。だけどさ、
土器とか古墳とかでさ、邪馬台国がホントに解るのかなあ。オレ、素人よ。
だから、そのへんのところ、ダレカ教えてタモレ。
>
>>888 平原は墳墓のみだよ。
伊都国の王都は終始一貫、三雲遺跡
あと、伊都国は魏略だと「萬余戸」なので、こっちが正解じゃない。原史料としては。
実数ではないかもしれないが、末盧国や一支国より小さいのはおかしいだろ。
あと須玖岡本や那珂比恵なんかは100haあるらしいが。
912 :
サガミハラハラ:2005/06/27(月) 22:32:45
>905
奴国は倭の西の端にあります。弥生人が九州の北岸に上陸し、先住民を駆逐しながらその勢力を
ひろげていって、一部を西の端の長崎県の方においこみ、その境界に置いたのが戸の国つまり奴国です。
奴国はやがて西へと更に勢力を広げていったのでやがて2万戸という大国になったのだと思います。
それと六角川の流域が陸地化するにつれ戸数を増やしたと思います。
913 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 22:34:39
>>910 遺跡、遺物が沢山あっても倭人伝に記された情報と違うものであれば、そこは邪馬台国ではない証拠でしかない。
つまり纏向には倭人伝に記された情報と違う物が沢山ある。
邪馬台国ではない事になるのだよ。
【封土作冢】はホケノ山や箸墓とは違うものだ。
径100歩と言うが箸墓は前方部も含めれば200歩以上になる。
好い物をやろうと言って下された鏡が出来損ないの三角縁神獣鏡であるはずが無い。
植物の植生も奈良県とは全く違う。
風俗も九州の風俗だ。
914 :
サガミハラハラ:2005/06/27(月) 22:43:21
遺蹟の年代について偉い人ではないけど一言。
十年ぐらい前、ある県(特に名を秘す)の博物館にいき、そこの偉い人(特に名を秘す)に
ある遺蹟の銅剣の埋納年代をどのように出したのかと聞いたところ「カンセイによる」と力強く答えられました。
カンセイが感性なのか官製なのか慣性なのか確かめそこないました。
915 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:51:22
今時九州説をとる学者はいないよ
古田や安本のようなアマチュアがわめいているだけ。
916 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:02:47
>>914:サガミハラハラ
お前こんなとこでネタばら撒かずに本に書いて出せよきっと売れるぞ。
んで、出版社は「たま出版」が良いだろうな。
あそこの会長の韮沢はお前と思考が殆ど同じだからな(w
陥穽
918 :
武田:2005/06/28(火) 00:26:27
>>916 なんで原田実がこいつに注目したのか考えなはれ。
919 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 01:04:29
韮沢会長と同じ思考ということは
救いようのないキチガイ馬鹿ということですね。
>>919 ボツを食らった底辺ライターの恨みはおそろしいぞ かね?
921 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 02:40:11
915は素人さんですか
922 :
サガミハラハラ:2005/06/28(火) 08:11:41
奴国2万戸については、上記の説明でもあの地域だけでは無理と思われるかもしれません。
倭人伝の戸数については、家と戸の違いも含めて、単純な建物の数とはいえないかもしれません。
一案あるのですがまだ固まっていないため、提示できません。
>>906 問題の某氏のレスの不自然なところは、
三世紀初頭の九州に邪馬台国や投馬国と比定すべき遺蹟があるのか、
と言う意見に対する反論なのに
それを別時期に隆盛した遺蹟などで対比した点です。
弥生後期に衰退したとご自身が言うようなものとではなく、
その後の遺蹟と纏向、久宝寺等を対比させるべきだったでしょう。
ただ、他の方がおっしゃっているように、
実年代の比定が不確定なのですから、
某氏は弥生後期前半くらいを
三世紀初頭と想定したのかもしれませんが。
最後に、弥生末に起こる主要遺蹟の衰退化は、
大雑把に考えれば交易網の再編に伴うものでしょう。
924 :
サガミハラハラ:2005/06/28(火) 08:17:24
もう2冊も出したのですが、さっぱりうれませんでした。
今3冊目を執筆中ですが、そうですか、「たま出版」がいいですか。
925 :
大本@名無しさん:2005/06/28(火) 11:09:08
>>924 原田実に泣きついて批評社から出してもらえw
926 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 13:12:22
>924
>そうですか、「たま出版」がいいですか。
馬鹿にされてる事に気付けよw
927 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:15:48
釣りだよ、からかわれているのに気づけよな、おまいらw
928 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 14:50:06
929 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 15:19:33
>924
ここのみんなに嫌われてる事気付けよなw
930 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 18:19:07
気づけよな!!!(w
| ̄| ピ
/ | ∧_∧
||| | ━⊂(・∀・ ) もうええわ 早送り
\ | ======== \
| ̄| || || ノ,_)
 ̄ ̄ ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒
932 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:02:04
九州説なんて滅亡した学説に意味なし
933 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:19:15
まったくだ(゚Д゚)/
934 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:19:39
まったくだ(゚Д゚)/
936 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:50:31
937 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:56:32
| ̄| ピ
/ | ∧_∧
||| | ━⊂(・∀・ ) もうええわ 早送り
\ | ======== \
| ̄| || || ノ,_)
 ̄ ̄ ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒
938 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 01:39:14
>>935 >ゴミは失せろや。
>二度と来るなよ。
まったくだ(゚Д゚)/
939 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 01:56:48
938は廃棄物だから
激しく氏んでいいよ。
940 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:35:51
>>939 ゴミがウザイなぁ〜ホント疲れるよ。
ゴミは、こんなとこ来てカキコしないでさ
ゴミはゴミらしくゴミ袋にでも入ってさ
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
わかったら二度と来ちゃだめだよw
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
941 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:39:03
>>940 ゴミがウザイなぁ〜ホント疲れるよ。
ゴミは、こんなとこ来てカキコしないでさ
ゴミはゴミらしくゴミ袋にでも入ってさ
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
焼却炉で焼かれちゃって下さいよ。w
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
わかったら二度と来ちゃだめだよw
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
942 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:41:15
>>940は生塵ギョーザ食ってるらしいね ´,_ゝ`)プッ
943 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:54:21
>>942 二度と来ちゃダメって言ってるでしょ。
いい子だから早く焼却炉で焼かれてねw
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
荒らしているのは圭角かサガミハラハラか
はたまたプラムか・・・
945 :
プラム:2005/06/29(水) 07:56:21
>>944 それはとんだ トバッチリを
それならまた、『畿内限定』スレとかにしたらどうだい?
どうせ ウザイ 九州説が排除されたほうが いいんだろう
946 :
サガミハラハラ:2005/06/29(水) 09:14:22
しかしこれだけさんざん書きならべられるということは、近畿説の方々の
受けたダメージは大きいらしいですね。
947 :
プラム:2005/06/29(水) 09:51:45
>>946サガミ氏
この件に関しては
どっちもどっち的な水掛け論ですが
この曖昧さがあるので
議論が長持ちしているところがありますね
948 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 10:04:36
>>945-947 二度と来ちゃダメって言ってるでしょ。
いい子だから早く焼却炉で焼かれてねw
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
949 :
プラム:2005/06/29(水) 11:10:18
こいつら
なーんも考えてないから
追い詰められたりしないよただ単に
スレに住み着く寄生虫
しょうがないよ 寄生虫も生き物、慈愛をこめて接してあげなくては
950 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:12:43
>>949 二度と来ちゃダメって言ってるでしょ。
いい子だから早く焼却炉で焼かれてねw
大爆笑!!!!!!!!!!!!!w
951 :
プラム:2005/06/29(水) 11:27:55
もう、かまってあげないよ
バイキンマンだって、一年のうちに何度かはアンパンチをされずに、ストーリーが終わる事あるからね
今日は 君達にとって祝日だ でも、そろそろ帰りなお母さんが心配してるから
今だけだよ 相手するのもじゃあまたね
バイバイ
また大本関係者の荒らしか?
原田実の関係者(この場合はサガミハラハラ氏だな)と見れば
見境なくコピペの連続投稿スレ荒らし・・・
953 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:20:30
| ̄| ピ
/ | ∧_∧
||| | ━⊂(・∀・ ) もうええわ 早送り
\ | ======== \
| ̄| || || ノ,_)
 ̄ ̄ ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒
954 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:37:59
カモネギ がいやまん さがみはらはら 圭角
955 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:51:21
が、荒しの犯人ですw
956 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:54:44
プラムもだろ。
957 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:37:52
結局〇〇説のコテハン吊し挙げかいな
958 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:54:23
カモネギ がいやまん は単に工作員だろ?
959 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:57:03
↑は、同一人物かも知れないぞ。
960 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:59:17
 ̄| ピ
/ | ∧_∧
||| | ━⊂(・∀・ ) もうええわ 早送り
\ | ======== \
| ̄| || || ノ,_)
 ̄ ̄ ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒
961 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 16:01:30
>946
ここのみんなに嫌われてる事に気付けよなw
962 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 16:35:03
 ̄| ピ
/ | ∧_∧
||| | ━⊂(・∀・ ) もうええわ 早送り
\ | ======== \
| ̄| || || ノ,_)
 ̄ ̄ ⌒~⌒~⌒~⌒~⌒
964 :
プラム:2005/06/29(水) 19:31:51
もう いい加減止めたらどう コテハン諸氏の何処が荒らしなんだ
単に 考え方の違いだけじゃないか
965 :
プラム:2005/06/29(水) 19:41:24
せっかくスレ主さん達が「畿内説限定」の枠を取り外し従来どうりのオープンスレを残してくれたんじゃない
それともまた 九州説を追い出し「畿内説限定」にするつもりか?
966 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 20:11:53
アラシは無視して、そろそろ次スレに向けた建設的な意見交換をしましょう。
とりあえずテンプレ
>>800-807は、次スレの2以降で貼りましょう。
議論の堂々巡りは避けたいですし。
出来れば、ウマミミさんや825氏、圭角さんにも自説をコンパクトにまとめて
貰えれば、と思います。
967 :
プラム:2005/06/29(水) 21:11:36
年輪年代法や土器編年でもとめられた数値は
その正確性に狂いはないのか 100年ズレただけですべての古代史の仮定がぐらつきだすと思うが
>>967 まあ、そう考えるのも無理はないと思います。
しかしあなたのように、魏志倭人伝を読んで「何となく九州かなー」
とか思ってるだけの人には、真面目に研究をしている考古学者の
方々の研究成果を貶める権利はないのでは、と思いますが。
考古学という学問に信が置けるかどうかの判断は、もっと最新の考古学
関係書籍を読まれてからでも良いのではないでしょうか。
969 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 21:40:11
>>967 ついこの間、弥生時代が500年繰り上がったのをお忘れ?
年輪年代法はぶっちゃけ、本州以東のヒノキや杉、コウヤマキなどでは
信頼度は高いが、年輪パターンが一定していない九州では
そのまま応用できない。これは奈文研の公式見解でもある。
土器編年は基本的に様式ごとに年代順に並べたものだから
熱ルミや蛍光X、ルビシウム&ストロンチウム分析によって
作成時期を確定させ、それに当てはめている。
但し様式ごとの順番が入れ替わるほどの事ではない。
このスレで論じている1世紀以降については、まず間違いないだろう。
プラムは思いつきで書くな、と何度言われたら分かるのだろうか…
971 :
プラム:2005/06/29(水) 21:53:10
「旧唐書倭国日本国」
倭国者古倭奴国也…
日本国者倭国之別種也…
外交上のはったり説と
事実説に別れると思うが
邪馬壹國⇒大和朝廷の道筋を作るには避けて通れない文献と思うが
>>971 分かったよ。
君も次スレで意見をまとめてみてくれ。
短めで頼みますw
けっこうタチ悪いからね、プラムは。
都合の悪いところは誤魔化すし
知識がないくせに「素人の直感」とか称して専門家に喧嘩売るし
参考文献を数多く教えてもらいながら礼もいわず、事実をわざと無視するし
反論があるなら言いなよ。
過去スレから具体的に証拠を挙げて貼り付けるから。
反省して新スレでは控えるのならば、そこまではしないが。
974 :
プラム:2005/06/29(水) 22:10:10
>>968 邪馬壹國の比定地に関しては全ての人が???ではないでしょうか?
だから 私の場合も???で答えたに過ぎませんよ
>権利
それは誰にもないでしょう
>近年年代測定の技術も最新され 極端な話今年と来年ではズレが生じるのも事実かと
だから、一番新しいデーターを使用するんだと言われればそれまでですが
確か弥生時代が一気に500年ほどズレたという情報を得たもので
975 :
プラム:2005/06/29(水) 22:11:33
>>974 いや、一応、学問板なんで。
書き込みをする以上、ある程度の基礎知識が必要かと。
コテハンを名乗る勇気は買いますが。
977 :
プラム:2005/06/29(水) 22:26:37
>>976 言われるとおり よりいっそうの勉強をし基礎知識を身につけましょう。
では、
>九州説は今やゴミか塵
>消却炉に入って下さい
このような無記名、悪レスはカキコ自由なのでしょうか?
梅田さん、もういいじゃないですか…
>>977 言ってることがおかしいですね。
>このような無記名、悪レスはカキコ自由なのでしょうか?
もしそれらが自由だとしても、あなたがそれを根拠に
だから自分もOKだと主張するのは、同じレベルに堕ちたという意味ですよ。
基本的にインターネットにノイズはつきもの。
それがどうしても嫌なら、管理人がそれらをこまめに削除する掲示板を探すべきでしょう。
2CHで書いている以上、ノイズは想定内の範囲ですよ。
>>977 畿内説にも、九州説にも、人格破綻者がいる。
ただそれだけのことで。
九州説に対する罵倒は、アンチ畿内説の自作自演のような気もしますが。
981 :
プラム:2005/06/29(水) 22:38:28
>>973 >礼を言わない。
そりゃ 忘れる事も有ったと思うよ
でも全てに無視ではないはず
過去レスをさらすのならば構わないよ
過去レスは事実だし 足跡だから
ただし、全てを晒してくれよ
誤解を生じないために。
982 :
プラム:2005/06/29(水) 22:46:21
983 :
プラム並びに元祖プラム:2005/06/29(水) 23:09:19
>>973 貴方は私に対してかなり根深い怨みを持っている見たいですね
私もこの頃、無記名の方の区別が若干ですがついて来ましたよ
以前私が貴方にどんな失礼な事をしたか 記憶に有りませんが 何かしたのであれば ここでお詫びします。
以前の私はかなり無鉄砲でしたし かなりの住人諸氏に対し度重なる失礼はしたと思います。
しかし、ここ半年間はずっと出ずっぱりで何処でどんな失礼をしたか申し訳有りませんが思い出せません。もし、よろしければ
過去レスを晒し 指摘下さい。その都度陳謝します。
984 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 23:27:23
STAR WARS 「シスの復讐」は、ルーカスの反戦平和のメッセージに他ならない。
キリスト教原理主義者に支えられ、イラク侵略以降、ますます独裁政権化
するブッシュ政権を銀河帝国成立に重ね合わせ警鐘を鳴らした。
おりしも平和憲法を踏みにじるファシスト小泉政権の動きが顕在化している
今こそ平和を愛する日本人としてルーカスのメッセージを真摯に受け止める
べきではないだろうか。
「スターウォーズ」評を配給会社が検閲!
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050611