第二次蔚山城戦闘
関連諸将および交戦兵力
東征軍―提督麻貴 副総兵呉惟忠(歩兵四千) 副総兵解生(馬軍三千) 指揮同知?虎臣(歩兵二千)
参将楊登山(歩兵一千) 参将王国棟(馬軍二千) 遊撃将陳?(歩兵三千) 遊撃将葉思忠(歩兵二千)
遊撃将陳寅(歩兵三千) 遊撃将?貴(馬軍三千) 千総麻雲 兵力合計二万四千
朝鮮軍―別将金応瑞 兵力五千五百
総勢 約三万
戦闘前の概況
日本軍―蔚山城守将 加藤清正 兵力一万
経理楊?が四万の軍勢を投じて、前年十二月二十二日から一月四日まで蔚山城を攻撃したが陥れられなかった。
秀吉は蔚山城の修築を命じ、防御施設の強化に努めさせた。清正は主力一万を率いて城内に立て籠もっていた。
日本軍が蔚山城の救援に駆けつけ得る兵力としては、西生浦城守将黒田長政軍五千の他に
釜山本城にいた毛利吉成・島津忠豊・相良頼房・伊藤祐兵・高橋元種・秋月種長らの手兵五千があるだけであった。
一方、提督麻貴をはじめ次の諸将は三月二十九日以後、分散配置して警備していた駐屯地を発って
先ず慶州に集結した後、蔚山に向かって南進した。
提督麻貴―尚州 副総兵呉惟忠ら―永川郡と新寧県
参将楊登山ら―安東府 指揮同知?虎臣―左水営
朝鮮の軍勢中、一千は東征軍の指揮同知?虎臣とともに左水営に駐屯し、その他の四千五百は別将
金応瑞の指揮の下に、慶州に集結していた。
あ、戦闘前の概況と日本軍兵力がw
戦闘情況の概要
提督麻貴は、副総兵解生を先鋒将に任じた後、九月二十一日、慶州から蔚山に向かって進撃を始めた。
先陣を受け持った解生は、参将楊登山と王国棟、遊撃将?貴の三将が率いる精兵六千とともに蔚山に
到着、小鶴城山に陣取って攻城の用意を整えた。別将金応瑞は、先ず温井に屯していた日本軍を撃退
して、蔚山と釜山間の連絡補給路を遮断した。
その日解生は、蔚山に進出し、城柵外に討って出た千余の日本軍を打ち破って城内に追い込んだ。
また二十二日には提督麻貴が主力二万を率いて蔚山に進撃、日本軍に戦いを挑んだ。
清正は、城外に討って出た後、敗走すると見せかけて麻貴軍を城門の間近に誘き寄せ、城内から主力
を繰り出してこれを包囲しようとした。これを見た千総麻雲は騎兵二百余騎を側面から突入させて城
兵を蹴散らした。鉄騎に踏み躙られた城兵たちは城内へ逃げ帰る途中、箭灘の方へ追いまくられて溺
れ死ぬ者が夥しかった。麻貴軍は余勢を駆って日本軍の外柵を占領し、これを焼き払った。
清正?下の守城兵は城内に立て籠もって一斉に鉄砲を撃ちかけて来たので攻城軍は幾らか退いた。
麻貴軍は日本軍を城外へ誘き出そうと、連日、遊撃兵を出撃させて挑んだり、総退却の真似を
したりしたが、清正は攻城軍の軍勢が大軍であるのを見破り、敢えて討って出ようとしなかった。
一方、別将金応瑞は作戦計画通り東ネ城を占領した。
その後二十五日までの間、日本軍に捕えられていた同胞一千一百余人を救い出し
たこと以外には、これといった戦闘もなく日を送り、小競り合いに終始した。
提督麻貴は遂に軍勢をまとめて毛火村を通って慶州城に帰り、十月六日には永川城まで後退した。
その頃、中路大将董一元が泗川城で敗退したとの急報が届き
麻貴は憂慮を禁じ得ず、決戦を避けて後退したのである。
戦闘後の概況
十一月十八日、加藤清正は蔚山城を焼き払って退却した。
麻貴は軍勢を率いて、守る者も無い城内へ入城し、一部兵力を割いて日本軍を追撃させた。