1787 フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html 1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7) 「竹島」での密輸事件で、死罪申し渡し書に「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
1849(嘉永2年) フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1858 ロシア、愛琿条約で清国から黒龍江以北の地を奪う。
1860 ロシアが北京条約で沿海州獲得。
1861 ロシア軍艦が対馬を占領。英国の抗議で撤退。樺太・千島・北海道にも触手。
[9/25] 韓国で「独島」名の発生が確認される。軍艦・新高の日誌に「韓人これを独島と書き・・・」。
勅令(1900)で鬱陵島付属小島「石島(ソクト)」が訛りトクドとなり、地元で勝手に現・竹島名に
流用?「独島(トクド)」名が沈興沢の事実と異なる出鱈目報告(’06)でいつの間にか全国区化。
http://whatever.say.jp/program/snap_shot/site/11134641348982/ [9/29] 中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出。
[11] 日本軍艦対馬、現・竹島に望楼建設可能と確認。
政府に「多数の鬱陵島の住民は、毎夏同島に上陸し、小屋をたて附近において
漁業に従事する」むね報告。ここで“鬱陵民”=隠岐→鬱陵島→現・竹島。韓人は和布刈りonly。
1905[1] 閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする。
[2] 島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかに。
韓国皇帝、日露戦さなか、ロシア皇帝に密使を派遣。
[4] 密使派遣の事実が露見しはじめ、激怒した日本、韓国への保護権確立を閣議決定。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kousou.html [5/17] 島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録
[5/27] 日本海海戦
[6/05] 島根県知事、中井らにアシカ漁を許可。
1946[1] 連合国軍総司令部の訓令で竹島は日本の行政権から除外。
1951[3] サンフランシスコ講和条約最終草案をアメリカが韓国へ提示。
[7] 日本放棄領土をもって建国領土となす韓国は、日本の放棄対象に竹島も列挙するよう要求。
[8] 米国は竹島が日本領土との認識を示し、韓国要求を拒否。
http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm 1952[1/12] サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に韓国政府が突然李ラインを宣言、竹島をその中へ。
韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
[2/8] 日本政府、韓国に抗議。
[4] サンフランシスコ平和条約発効。
条約発効後、米国は日本に対して射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用。
1953[2/14] 第一大邦丸の日本人漁労長が韓国艦の銃撃で射殺される。(第一大邦丸事件)
http://encyclopaedicnet.com/japan/c_/c_a___a_ae_c_.html 李ライン廃止(65年)までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数 抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻 死傷者数:44人。抑留被害者は、日韓漁業協定が成立する
1965年まで抑留され、韓国に人質として利用された。その年月、最大13年。
抑留者解放のため日本はのちに在日朝鮮人犯罪者472人を仮釈放し、在留特別許可を与えた。
1953[4] 韓国「独島義勇兵」が竹島に上陸。
1953[6] 島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す。
島根県、海上保安庁共同で竹島を調査、韓国人6名に対し退去命令、領土標識(木柱)を建てる。
[7] 海上保安庁の巡視船、竹島で韓国の官憲から発砲を受ける。韓国、竹島に領土標識を建設する。
1954[2] 日本外務省の覚書 1954年2月10日付亜2第15号。
7月頃より、竹島の東島に韓国警備隊員(警察)が常駐、宿舎、燈台、監視所、アンテナ等を設置。
[9] 日本政府、竹島紛争を国際司法裁判所に付託するよう、韓国に提案。[10]韓国政府が拒否。
1965[2] 日韓基本条約の調印。竹島問題は紛争処理事項とされる。
2005[3/16] 島根県議会、竹島日本帰属100周年記念に「竹島の日」制定条例案を可決。
2005[4/15] 2005年版外交青書において、竹島領有権主張を改めて明記。