1 :
日本@名無史さん:
いまだに兄弟殺しで極悪人扱いされてるけど
どうしたらイメージを変えられるか考えよう
全然そんなことはありませんが
3 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 10:32:34
冷酷な人だって印象は拭い難いな。
糞スレ立てた
>>1は氏ね!蛆虫がぁ!!!!
∧_∧  ̄ ̄\
. (#▼凵・厂Z-Uヽ
( ヽΖ/〃フ −ア
( \_つ 「/ ̄>
ノ )/ |ヽ/ ヽヽ ヴォォォォォン!!!
/L(__) |へ> ) 〉
/◆ /| ヽ__ノ
L__/彡| /
__ヽ<__/ ウワァァァン!!
U(__(==/ (;`Д´)
||ヒ ) ) ( O┬O ←
>>1 ヽ__ノ ◎-ヽJ┴◎ キコキコ
5 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 10:36:42
もっとイメージ悪いヤツなんか死ぬほどいるからなぁ。
別にいいんじゃね。
6 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 10:59:37
謝罪と賠償を六十年ほどする。
大河によると、北条政子に唆かされたみたいだね
9 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 19:12:39
義経はともかく範頼はなんで殺されたの?
やっぱり邪魔になったからかな
義経殺しは頼朝の推薦なしに朝廷から官位を授けられた義経に
非があるから当然だとしても、頼朝に終始従順だった範頼殺しは
頼朝の冷酷さの現れだと思われ
11 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 20:09:59
うじ虫がまたうじ虫スレ立てやがった。
いつ止めるんだろ。
12 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 20:27:44
頼朝=極悪人
初めて 聞きました
そんな イメージあんの?
13 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 20:33:10
そんなイメージ ない
頼朝=極悪人
聞いたことねえや!
14 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 21:09:56
範頼は頼朝暗殺のクーデターの主犯だったから、殺されて当然。
義経の方がかわいそう。
15 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 21:39:09
極悪人とまでは言わないが、あんまりいいイメージがないのは確かだな
>>14 詳細きぼんぬ
どうやらオレの遠い祖先は義経の家臣だったようだ。
逆落としに参加しているようなんだ。
>>義経の方がかわいそう。
知行を安堵してくれ・・・。だから守れんかった。無念。
17 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 23:07:14
義経は死んでないよ、あれは偽の首だよ。偽の首を差し出したときに頼朝もにせの
首だと知っていたけど、義経をかくまっていたと認めた証拠として使えるので、あ
えて偽首を本物だと断言して奥州に攻め入る口実としたんだよ。
つーか極悪なのは義経でしょ
19 :
日本@名無史さん:2005/04/22(金) 08:43:37
大きな事績をなしとげたひとが、冷酷な面を持っているのは今も昔も変わらんだろ。
天皇を中心とした国家観の人間にとっては、天皇より実力持ってる時点で、極悪人扱いだろうがな。
20 :
日本@名無史さん:2005/04/22(金) 09:07:03
ナムコが悪い。
21 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:50:58
いいじゃん悪役でも
22 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 21:19:38
極悪というより、猜疑心の強い小心者だな
.
23 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 11:48:39
なんか頼朝と徳川家康ってかぶんない?
24 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 12:27:33
そんなイメージないが。
25 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 12:43:06
北条政子=静岡の土豪の娘
26 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:07:16
自分の弟を殺そうとするとは、
もはや武士とは言うまい。
27 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:09:51
>>26 じゃあ信長も武士とは言えないな
もっとも戦国時代に武士道など無いが
知れば知るほど極悪人に思えてくる。
もう源氏など有難くもなんともなくなってしまた。w
29 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:50:00
>>26 家康は頼朝を模倣していたんだから、そりゃ被るわな。
30 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 21:56:27
最近の歴史書だと、頼朝の評価は高いんでないの?
バカな弟に思い煩わされるキレ者の兄貴。
晩年は猜疑心の塊ではなかったか?
猜疑心=小心者。
義経の死よりも本人にとっては範頼を間違って殺した方が痛手だったろう。
53で死亡しているがその理由が極寒の海辺で走らせた馬から落馬して
意識不明のまま死亡しているとのこと。
おそらく脳卒中、酒が手放せなかったのだろう。
>>32 流刑生活で、心における家臣ってどのくらいいたの?
今川に人質生活をした家康でさえ、三河には累代の家臣がいた訳だし。
いかに関東武士達に躍らせる振りをしつつ、自己の力をつけていく・・・
お互い利用しあっていったんでしょ?頼朝は。
誰か敵か味方か分からない環境ゆえの猜疑心が染み付いた。(京の生活、平治の乱での敗戦、流浪、親父の惨殺など)
幼少期に京で育ち、都での作法や言葉使い、または公家達の政治的な駆け引きなど、
子供ながら体験してるだけあって、関東の田舎武士達にとって、頼朝の存在価値はとても大きいし、
その事を頼朝を心得ている訳だし。
範頼にしたって、頼朝に謀反する気持ちがなくとも、北条など関東武士達が力を持ちすぎる頼朝打倒の旗頭として範頼を
担ごうとしているだろうし。
もしかしたら、義経の件から猜疑心(恐怖心)を持っている範頼を焚きつける輩も現れてもおかしくない。
そもそも頼家以降の主導権争いを見たら、関東武士達の陰湿さが分かるもの。
頼朝×範頼×義経だけでなく、
足利尊氏・義詮×直義(直冬)という争いもあったな。
尊氏と直義と明らかに血の繋がりが濃い兄弟であっても、
いざ治世を握る立場になれば、周りの家臣達の思惑もあいまって憎みあいが生まれてしまう・・・
頼朝も尊氏もドラマにみるような絶対的君主ではないんだろうな・・・
>>33 本人にとってはろくな人生じゃなかったろうなw
36 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 10:50:29
頼朝の死因ってなんぞや
『吾妻鏡』では落馬という事になっていますが・・・。
『愚管抄』巻第六
かかるほどに人思ひよらぬほどの事にて、あさましき事出きぬ。同十年正月
に関東将軍所労不快とかやほのかに云し程に、やがて正月十一日に出家し
て、同十三日にうせにけりと、十五六日よりきこへたちにき。夢かうつつかと人
思ひたりき。「今年必(心カ)しづかにのぼりて世の事さたせんと思ひたり
けり。萬の事存の外に候」などぞ、九條殿へは申つかはしける。
>32の「53で死亡しているがその理由が極寒の海辺で走らせた馬から落馬
して」は、『保暦間記』の記述を誤ったものか。
「所労」云々は『明月記』にも出て来ますが、『猪隈関白記』には飲水病と。
あくまで諸説でしょうが、「読める年表」という本で、
「曽我兄弟の敵討ち」が頼朝暗殺説(黒幕は北条時政か?)って、実際どうだったんでしょうかね?
39 :
源義経:2005/05/27(金) 18:19:43
婦女子に人気があるのが義経
歴史ヲタに人気があるのが頼朝
極悪かどうかは置いておいて、
冷酷ってイメージはあるわな。
北条政子と嫡流一点張りの母親が極悪
42 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 03:46:51
北条泰時の御成敗式目って、頼朝存命時代の裁きをマニュアル化したものらしい。
43 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:00:54
小学生・中学生の時に鎌倉に社会科見学に行ったのに大仏を見た記憶しかない…
今頃になって鎌倉に行って色々と見物したくなるなんて…
44 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 05:54:15
義経が道理知らずのバカだっただけじゃん。頼朝かわいそ
45 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 06:31:14
>>1 そんなイメージはない
嘘だと思うんなら回りに聞いてみろ
46 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 06:41:08
頼朝は天ざかる東路の果てに開幕した革新的な人物として
きわめて高く評価されて居るぞよ。
47 :
小田野ぶ長 ◆n418XWtIwM :2005/06/29(水) 11:07:44
右大将家れいにゃん
48 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 11:58:20
49 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:12:02
頼朝の墓にミキプルーンを備える奴はいないのか?
50 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 14:16:39
>>1 頼朝は政子の実家、北条家に利用されただけ。(頼朝の息子2人も暗殺される)
最悪なのは北条一門。
それよりも俺は、これと同じスレタイを狼で見たのが気になる
52 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:24:33
リセットボタンを押せ
53 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:40:38
義経は馬鹿でしょ?
軍事的には天才だったけど、やったことは木曾義仲と同じ。
田舎者がのぼせあがっただけ。
54 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 07:08:39
>>50 「何の力もない頼朝を天下人にしてやった」が北条一族の本音でしょう。
55 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 07:58:37
義経は好きになれぬ。
政治的立場というか、なんだかなぁ、危ない存在として見られることを
わかってない厄介者というか・・
56 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 10:23:52
>>53 北条一族や他の坂東武者たちも思い切り田舎者。
その田舎武者たちに担がれたのが頼朝。
57 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:14:48
頼朝=曹丕=信忠
58 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:19:03
>>54 その北条も幕府の中では「頼朝の姻戚」だけで
発言権を持っていた弱小豪族。
お互い様といったところ。
59 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:27:18
NHKの今後に期待しましょ。無理かなw。
60 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:37:55
>>59 義高殺害とその後の大姫の事があるからな。
イメージ良くないだろうと予想。
61 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 22:45:52
義経中心のドラマだからなぁ・・・
しかし、作者は義経は世間知らずと言ってたが。。。
62 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 00:31:42
清盛も、頼朝も、朝廷も、義経に政治の心得を授けるのはあまりにも危険と判断していたのではないか?
政治が出来る戦の天才ほど怖いものはない。無害な凡人だったら、それなりの教育を施された上で
どこぞに居場所をみつけていたかもしれない。
清盛は何で平治の乱で頼朝を伊豆に流したのかな?
流すんだったら源氏の勢力基盤から遠い西国の方が無難かと思うが
64 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 16:47:38
>>63 隠岐島にでも流しとけば確実だったろうにね。
奇怪ヶ島
>>63 殺せないのなら六波羅の中に監禁して、24時間監視すべき
67 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:39:57
>>63 平治の乱は「源平の戦い」ではなく
「院政派vs天皇親政派」の戦いであったというのが最近の学説では有力です。
義朝は武力を行使したもののこの乱の中では信頼の使い走りにしか過ぎません。
また、動員勢力も
平家1000騎に対し義朝200騎 格段の違いです。
つまり、義朝は清盛からみれば「小物」です。
そのような「小物」の生き残りが一人いても後に挙兵して平家を倒すとは
誰も思わなかったでしょう。
それから、東国が源氏の基盤というは事実ですが強固な主従関係は当時ありませんでした。
義朝が東国武士を動員できたのも
院などのつながり、国守などの提携があって初めて可能だった事でした。
そのような都の人脈を持つ義朝と結ぶメリツトがあったからこその
主従関係です。
事実平家時代になると平家の家人になった東国武士も続出しました。
つまり、戦に負けて謀反人となった人の息子を担ぎ上げるメリットは無い
状態でしたから東国に流してもその当時はなんの心配も要らなかったと思います。
頼朝の挙兵の成功の理由は
平家の東国経営の失敗に付け込んだだけで
長年の主従関係によるものではなかったのです。
68 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:42:22
>>63-67 また、西国ならば安全とは言い切れません。
頼朝の曽祖父義親は隠岐島に流されても濫行。
叔父為朝は九州で大暴れ。
弟希義は土佐に流されましたが、土佐ー熊野勢力圏に迎えいれられ
反平家活動を行う余地があったとの説もあります。
69 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:47:29
>>66 頼朝をどこかに流さずに六波羅監禁というのも当時の法体系から見れば不可能です。
頼朝はあくまでも「朝廷に対する謀反人」として処罰されたのです。
本来ならば「死罪」であったのを「刑一等減じて流罪」となったのです。
当時の刑罰は重い順に 死 流 牢 杖 鞭
です。
死罪でなければ流罪でなければならないのです。
六波羅監禁は現在でいうと
「死刑囚の死刑を減刑する代わりに警察官の自宅に拘束」という
奇妙な状態になったのです。
一方今若、乙若、牛若の三人は出家で済んでいますが
「出家」は刑罰ではありません。
かれらは律令上では「無罪」扱い。
出家は単なる圧力ということになります。
70 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:53:47
71 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:40:19
誰か】軍事板難民キャンプ75【飯作って】
http://aa5.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1118754680/ 411 名前:海の人 ◆STEELmK8LQ 投稿日:2005/07/03(日) 09:51:16 ?#
高松塚古墳の経年劣化放置にしろ、聖徳太子などという架空の存在を意固地になって
主張する態度といい、なんつうか・・・おまいら藤村新一と五十歩百歩やんけ。
などと日曜の朝から、新日曜美術館で、歴史の教科書なんかに掲載されてる頼朝像が
縦に読んでも斜めに読んでも画風と言いモデルと言い頼朝じゃねーだろ、という突っ込みに
どこだかの考古学博物館の副館長が「そんなことはハナっからあり得ませんよ」なんて
感情的な(かつ根拠レスな)研究者らしからぬ断言をするのをみながらおもターリ。
おまいらみたいのは「専門家」の面汚しだから、全員クビくくって逝ね。
専門家でいたいなら、松本清張「断碑」を百回書き取りしてこい。
自分は助命してもらったのに、義高許さないなんてやっぱ極悪人当確だわ
器が小さい
>>72 じゃあ、清盛は器が大きすぎて平家を滅ぼしたことになるね
74 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:38:48
>飲水病
って何?
75 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 13:40:33
頼朝は義家の晩期を調べ、嫡流がしっかりしてないことを確認。
義高殺害もその一つ。論理的政治的判断。性格ではない。
77 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:16:26
清盛ってマラリア死亡説をみたことがあるような
78 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 21:48:28
頼朝は頭が大きくおおあたま殿と呼ばれたらしい。
現代で言えば65cmくらいの帽子でないとかぶれない。
当時は平均身長が150cm位だから三頭身だな。
イメージよくなった?
79 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:09:40
>>72 清盛に命を助けられ、現在平氏を打倒するわが身を振り返れば、
自分に反感を持つ者を生かしていく怖さが一番わかっているから
情をかけないんだよ。一つの情が後に大きな災いになることが
頼朝自身が身に染めているから。
80 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:15:40
りちゃーどさんせいみたいなもんか
身内殺しとか
81 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 23:28:17
静御前と義経の間にできた赤ん坊も由比ガ浜に埋めたよね。
>>79 どうせ死んだらそれまでなのに、ちまちまと小さい奴だな頼朝って。
助命してやがて成長を遂げた義高の刃を甘んじて受け入れる位の度量が無いのかねぇ
ホントに武士なのかな?コイツ。
あ、だから義経や義仲の方が人気あるのか。
83 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 13:43:01
だから頼朝は幕府を作れた
ビジョンがあった
84 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 16:03:28
でも器が小さいから三代であぼーん。
85 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 16:55:49
家康も秀頼の5歳の子を貼り付けにしたから根絶やしにするのは作法といえなくもない。
俺が頼朝でも逆らう弟の血筋は根絶やしにするな。 清盛はアホだったという事だ。
義仲、義経、行家、全成や有綱はともかく範頼はなぜ殺されたんだ?
その一方で不遇だったとはいえ佐竹は生き残ってる。
87 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 17:42:32
北条家の陰謀
88 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:35:42
>>84 鎌倉御家人は最初から源氏の血筋を断つ魂胆だったとしか思えないくらい
頼朝周辺の源氏の血は絶えた。
89 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 18:50:05
90 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:16:47
>>86 鎌倉御家人たちにとっては自分たちの権益が守られれば、源氏も用済みと
いうことで源氏を絶った。
要するに頼朝はじめ源氏嫡流も権益を守るための飾りだったのだ。
源氏でも御家人化した足利、武田、佐竹らは生き延びた。
91 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:44:08
そのシステムは、頼朝が作ったんだけどね
92 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 21:53:36
>>91 頼朝とその家来(鎌倉御家人)たちが作ったと言った方が正しいと思う。
93 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:16:31
頼朝は個人崇拝に陥らぬように政所から安堵状を
出させたりしたが、御家人が頼朝本人からが欲しいと言うのもいた。
自分の子に跡継ぎさせたかったからだろうけどね。
だから、御家人たちにはわかっているものとわかっていないものがいた。
94 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 22:44:59
落馬して死んだというのマジ?
95 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:00:36
>>94 だから頭が大きかったんだから、落馬してアタマから落ちて
打ち所が悪くて死んだの。
96 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:10:08
97 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:27:35
北条義時が頼朝の孫の公暁を煽って鶴岡八幡宮で叔父の実朝を殺害させ、
その公暁もまとめて斬首にして源氏嫡流を絶やす行為をした説があるくらいだしね。
98 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 23:33:16
(株)頼朝商事と、(株)義経商事(義仲でも可)があったら、どっちに就職したいですか?自分は、トップが義経みたいな考え方の会社には嫌だなぁ
99 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/07/05(火) 23:41:48
100 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 00:05:43
100
>>82 個人的な恨みなら頼朝が一人で引き受けてそれで終わりでいいでしょうが
組織の長としては組織に壊滅的打撃を起こさせる可能性はつまなければならない。
個人的問題や度量の問題で済む問題ではない。
>>88 御家人が最初から源氏の血筋を絶とうとしたよりも
将軍独裁を進めようとした頼朝ー頼家と御家人勢力の対立によって
結果的に根絶やしにされたと見るべきでしょう。
後世のように絶対的な主従関係があったわけではないのだから
将軍と御家人に緊張関係があるのはむしろ当たり前。
範頼って何か反抗したんだっけ?
>>105 どうやら、その頃御家人の中で主流派から離れた人々が
範頼を担ぎ上げようとした動きがあったらしい
との説があります。
例の曽我兄弟事件で
多くの死傷者がでておりとても二人だけでは傷つけることが出来ない人数であったこと
不審な動きをした御家人がいたこと
領地を没収されたり、出家をした御家人がかなりいたらしいこと
などがあり、曽我兄弟事件は単なる敵討ちではないとの
説があります。
107 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 23:42:45
落馬というのは武士としてはあまりにも情けないね。
もみ消せなかったのかな。
病死とかで。
それとも、わざと流したのかな。
しかも流鏑馬とかやってたわけじゃなくて単に歩いててだからね。
裏に何かありそうだな。
109 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 10:44:52
その前に毒を盛られてた可能性はある。
毒と聞くと、金粉時頼が・・・orz
範頼ですら殺されるようでは、義経がどれほど要領のいい人物であっても多分殺されただろうね。
112 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 12:35:11
身内で殺し合いが源氏の歴史だよ。
平家は将門がらみを除けば、概して仲が良い。
113 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 12:58:08
>>112 清盛は叔父さん討っているが?
>>63 都の人は蛭ヶ小島は伊豆七島のさらに先くらいに思っていたらしい。
そういえば誰が流刑地決めたんだ。
114 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 13:55:14
>>113 >63の部分
流刑地の決定は頼朝の場合「従五位下」を有する官人でしたから
朝廷の会議で議決もしくは太政官制度の担当部門が決めたと思われます。
なお、頼朝はあくまでも「伊豆」に流刑になったのであって
「伊豆国内のどこに居住するか」を判断するのは
伊豆守であったとの事です。
115 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 21:55:28
98年の暮れ、相模川の橋供養に臨席した帰途に落馬し、
それが直接の原因となって翌年正月に死去した。
116 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 02:38:20
1192から7年後なんだ
短い天下だな。
後白河が死ぬまで待ってたんだよね、そういうところは後の家康にも被るかも。
117 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 12:44:42
将軍の実権は1180年代に持ってたと思うが
後白河が死ぬのを待ってたというより後白河が承認しなかった
118 :
:2005/07/10(日) 12:53:29
認証しなかったから、死ぬまで待ってたんじゃないの。
死んだ後の即、征夷大将軍でしょ。
地盤は固まってたから急ぐ必要も無かったというのもある。
119 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 06:59:08
来週からいよいよ身内殺しが始まるな
東洋のグロスター公
120 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 13:00:10
殺して当然だろう>人質
121 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 14:04:39
義朝は実質的に廃嫡されていたという考えもあるようで、
本来は義賢、義仲、義高の流が嫡流だというコンプレックスがあったのかもしれない。
122 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 14:25:35
>>121 確かに、義朝は為義の嫡男を外されたという見方があつたようですね。
それももしかしたら原因かもしれませんが、
もう一つ気になることがあります。
義高殺害の直後、頼朝は甲斐に兵を派遣した上で、
武田一族の一人一条忠頼を御所で謀殺しています。
もしかしたら、武田一族と木曽残党の提携という動きがあり、
木曽の旗頭として義高を迎えるつもりだったのではないのか
とも思います。
義仲の死後義高を殺すまで少し時間的に間隔があるのも気になります。
123 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:37:29
義高を頼朝が殺した後で、当然ドラマじゃ京都かどっかでみすぼらしい小池栄子
が出てきて「何故義高を殺した!!!お前は「義高どのは私の命に替えても御守りする!」
と逝ったではないか!!!」ってタッキーを責めるんだろうねw
124 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:40:54
スレタイからかなり外れるけど、
大姫との結婚を前提にしての話ではあるけど、後ろ盾のいない義高の方が結局妻の実家
というものが生じてくるはずの頼朝の子息たちより、北条氏にとっては都合が良い存在で
あったのではあるまいか?
それを恐れて頼朝が殺したとか言うと、これはもう妄想の世界になりますけどね。
頼朝って人は本質的にはコンプレックスの塊のように思える。
それだけでことを決するほど単純な人間ではないのだろうけど、政治的にはどちらを選んで
も問題ない場合は、コンプレックスが隠れた動機になっていそうだ。
まあ人間誰しもある程度はそう言うところがあるけどね。
125 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:44:44
器が大きすぎれば清盛みたいに放漫になるし、
器が小さければ頼朝みたいに身内殺しで自滅する。
126 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:48:24
127 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:52:42
いずれにせよ八つ当たりと浮気三昧はよくない。
128 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:49:50
身内殺しをできたから、幕府を開けた
なんだかタマゴ産むためにオスを食ってしまうメスのコオロギのようだな・・・
>27
信長の場合は弟の信行に謀反を起こされたが一度は許してるよ、
しかし懲りずにまた起こしたから殺したんだけど、当主の座を
巡っての争いだから殺すか殺されるかの二つに一つだったんだが。
世間では義経と頼朝が実母兄弟と勘違いしてる人も多いけど、
実際は異母兄弟だったからね、当時の感覚では月とスッポンぐらいだしね。
>>130 とりあえずは「自分が嫡流だ」ってセリフがあったから
ちゃんと見ていたら実母兄弟とは思わないのでは?
政子もそれを指摘してたしw
身内を容赦無く殺せる人は、皆恐れおののいて面従されるけど、悲惨な末路を辿るね
133 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 13:33:55
朝廷に対抗する政治権力を打ち立てたのだから、
身内を固めるのは当然だろう
134 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 16:29:20
殺す者は殺される。無常よの〜。
因果応報ってやつですな・・・合掌
鎌倉駅前に頼朝の像が無いってことはアレだよな。
自分の命令で義経に河越氏の娘を娶らせておきながら、
義経との関係が悪化すると河越氏を滅ぼしてしまう。
冷酷というより自己中なのでは?
138 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:26:05
頼朝が大人気になってたらとっくに国が滅んでるよ。
139 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:32:15
伊達政宗も弟を殺していなかったけ?
140 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 23:36:33
頼朝好きなのにな〜、人気無いみたいで残念。
うまく、暗い所や同族殺しの部分をミュ−ジカル風に明るく仕立てた大河ドラマでもやって
なんとか回復して貰うしかないよなあ。
141 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:36:33
>>139 殺さなければ殺されるような切迫した状況なら、とやかく言わんけど。。。
142 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 08:33:24
>>137 滅ぼしとらんぞ、失脚(多分後で殺したが)→領地没収
没収した領地は重頼の母に渡した。
それに、河越の娘が離婚に応じなかったと言うことは
河越氏が義経に味方しますと宣言したのと同意義。
どうしても河越氏が潔白を証明したいのならば
力づくでも娘を取り返すべきであった。
うがった見方だが、河越氏は義経に実は同心していたのですないか?
>>140 わからないなーwww
同族間の相克をミュージカルぅ?
明るく偽装して何の意味があるんだか。
頼朝好きなら、その心奥の闇の部分も好きになってやんなよ。
人気無くたっていいじゃん。
自分がその人物に魅了されているならさ。
まぁ、人質生活と事ある毎に嫡流である事を吹き込まれた生い立ちが、
彼の闇を作ったという事で、現在なら幾ばくかの同情は集められるクチだろ
やっぱしつけ、教育は大事。健やかな義経と比べるとよく分かる。
呪文のように吹き込まれて人質生活のために屈折
甘やかされてDQNまがいの世間知らず
どっちがいいんだろうなあ
>>133 身内を固めてねえぞ。それどころか殺しすぎで直系だけになっちまった。
147 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 12:57:58
>>144 嫡流と吹き込まれたのは今回の大河ドラマの中の話でっせ。
実際には
父の義朝は為義によって廃嫡されていたらしい。
義朝は自力で院に接近して、血筋以上に実力でのし上がった人物。
(為義の後継者は頼賢)
為義自身もずーっと五位にもなれず他の清和源氏の面々にリードされて
嫡流だったか疑わしい。
頼朝に関しても、官位は途中まで朝長がリード。(頼朝が抜いたけど)
鎌倉には長兄の義平がいて嫡子の座は安泰ではなかった。
148 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:02:21
>>144 それから「人質」ではありません。
「流人」という「罪人」です。
人質ならばそれなりの扱い(客分)を受けますが
流人は完全に罪人扱い。
義経が甘やかされたのも大河限定のお話ね。
149 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:34:51
そんな状況だからこそ余計に清和源氏の嫡流とか言う怪しげなものすがるしかなかったんだね。
他に何にも誇れるものがなかったから。
しかしそのコンプレックスをバネに出世したんだからたいしたものではある。
150 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:40:14
>健やかな義経
史実では性格が歪みすぎの卑怯者の異常者。
151 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:42:37
>>143 いや、おれは好きだよ?
あくまで他の人の”頼朝=極悪人というイメージはどうすれば消えるのか”だからさ。
152 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 13:55:01
>>149 確かに、後世頼朝は自分の家系の正当化や
御家人との「譜代関係」(東国武士との間にはそんなものはなかったのだが)
の強調をしている。
そして、後世の大名は自分の家を正当化するためによりいっそう
鎌倉将軍家の正当化や譜代関係の強調を繰り返し行った。
そうやって後世出来上がったイメージで最近まで惑わされていたとも言える。
153 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:35:27
為義の親父の義親は追捕された「賊」だからな。
本来は、義康が義家流の嫡流なんだろう。
154 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 15:06:30
>>153 そういえば新田氏も自分が嫡流だと主張していたという話を聞いたことがある。
また、「保元物語」「兵範記」では
清盛、義朝、義康が同列に記されており
都の貴族からみれば義朝と義康が同格であったと考えられていたのでは
ないかとも思われる。
義康は保元の乱直後に死亡した為影が薄いが
生きていたらその後義朝とどのような関係になったかが非常に興味がある。
155 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 15:08:14
義重のほうが兄だからね。
156 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 19:08:53
家康とどっちが嫌われているかな?どちらかが日本史上最大の嫌われ英雄だろうけど。
嫌われ“英雄”なのがポイント。梶原景時みたいなただの嫌われ者とは違う。
157 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:02:10
確かに義親は謀反人ですが、為義は義親の子としてではなく義家の跡を継いだ形なので
義家流の嫡流であったのだと思います。
さて義朝ですが、どうも為義の嫡子ではなく、関東における代官に過ぎなかったのではな
いかと個人的には思っています。
つまり保元の乱以前の義朝は、嫡流からはずされたために独自の経路で権門と結びつき
分流した河内源氏中の義朝流の初代当主と言うのが現実だったのでしょう。
乱後は河内源氏の嫡流に成りあがったと言ってよいでしょうけど。
その後平治の乱後は、後白河との政治取引で頼朝が復権するまでは、河内源氏の嫡流は
義康流だったのだと思います。
しかしこの時期清和源氏の嫡流などと考えられる存在があったと仮定すると、都の官吏とし
て出世した頼光流の方でしょうね。
個人的には頼朝以前には清和源氏の嫡流等という概念はなかったと思っていますが。
>>157 為義が義家流の後継者とみなされた辺りを詳しく書くと
義家の後継者とみなされていたのはその子義忠。
その義忠が暗殺される。
その黒幕とされた義家の弟義綱を追討したのが為義。
なぜ為義なのかと言えば
義忠の実子はまだ幼くて義綱の追討の大将にできなかった。
そこで義忠の養子になっていた為義が追討。
そして、為義が義忠の後継者とみなされるようになった。
という感じです。
>>156 いやいや、5年くらい前に「日本史人気投票」をNHKがしたところ
家康が人気NO.1だった。
一方源平時代はかろうじて義経がベスト10入りするくらい。
戦国、幕末に比べてこの時代のマイナー感は拭えない。
頼朝は嫌われているというよりは多くの人からは「無関心」なのだと思う。
160 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:16:06
知られると人気は極限まで落ちるのかと。
鎌倉のイメージも・・・
無関心な時点で既に人気の無さ極限状態とみなすべき。
むしろ、最近義経の人気低下のほうが甚だしい。
大河板を見ても、義経=DQNとみなす人が多いし、
滝沢に人気があっても義経の人気なさそう。
162 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 23:53:01
人気が落ちるまでならいいけど、頼朝由来のものものに
破壊活動が起こらなければ、いいのだが。イヤガラセ等々・・・・
義経は御伽噺の世界みたいなもんだから、
ロマンとして語られればいいんじゃないかな。
歴史のエンタメ化には役立ってるし。
163 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 00:24:24
>>159 家康が1位?
普通信長か秀吉じゃないか(もしくは竜馬かセゴどん)?
>>162 今回の大河見れば寧ろ頼朝が好きになる人が多いのではないかと。
吉川三国志読んで劉備よりも寧ろ曹操を好きになるような現象が起きると思う。
164 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 00:28:59
曹操は悪いこともできる快男子だが、頼朝はただの兄弟殺しだから。
>>163 最近は以前とは傾向が違うということでしょう。
>>164 ただの兄弟殺しという評価をする人最近減ってますよ。
むしろ義経の方がアホという評価が増えている。
>>163 追加、その人気ランキングでは信長が2位、秀吉が5位だったと思う。
NHKの解説によれば
高度経済成長期のイケイケ時代には信長のようなイケイケタイプがもてはやされていたが
低成長時代には「堅実と忍耐」の家康が合っているらしい。
167 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:00:05
あれほど秀頼の事を頼まれたのに裏切って殺した家康や
兄弟を殺してまで権力に拘った頼朝に人気が集まるとは、
世も末よのう・・・日本人の美徳はどこへ行ったのじゃ?
168 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:20:13
>>167 秀吉だって旧主の息子を死に追いやり、その母と妻子も処刑。
我が子かわいさに甥とその関係者一同処刑(20人以上)。
信長は功績大だか、やったことは・・・
義経にしても、一の谷は単なる虐殺だといっている人もいるくらい。
家康、頼朝のみ悪役扱いするほうがおかしい。
秀吉などは暗黒面が目立たなかったに過ぎない。
169 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:24:41
ついでに言えば
家康は信長がぶち殺しまくった武田の遺臣を自軍に加えたり
石田三成の子供を殺さなかったりしている。
必要のない殺戮をしていない。
頼朝も政敵には容赦がないが
滅ぼした敵の遺臣で最後まで主君につき従った人は
誉めて後に御家人に取り立てている。
人気者の秀吉の息子を殺した為悪く言われる家康や
判官びいきの影響で悪役にされた頼朝は寛大な部分が
逆に見過ごされてきた。
つまり、歴史上の人物にはそれぞれ
いいところと悪いところがあり
どこを見るかによって善悪に見えるかに過ぎない。
>>168-169 ほぅ・・目から鱗。なるほどねぇ。。
大河も、虐殺と言われる一の谷の一面を再現すれば、視聴者の視野も広がって良いのに。
前作も、薩摩の悪辣ぶりが目立っていたし。
ドラマや講談本が誤解の原因なのかな
171 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 09:47:14
スレタイ見て一瞬「朝鮮=極悪人」かと思たよ
172 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:10:10
スレ違いですが、後白河法皇=極悪人というイメージはどうすれば消えるのでしょうか?
>>172 少なくとも私にとっては極悪人ではない
遊び好きで男性好きで芸術好きで権謀も好きな愛すべき法皇様
174 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:37:21
175 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 13:06:33
どうしても政治家よりも武将のほうが人気出るわけだが
家康は武将としても凄い実績あるからいいが、頼朝はそれが無いから辛いな。
176 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 13:22:43
確かに実戦参加した二度は大敗ばかり。
総大将でも命からがら逃げ出す羽目に。
177 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 13:33:17
奥州攻めは楽勝ですた
>>176 負けたのは事実であるが
平治の乱は「参加」しただけで、敗戦責任は信頼と義朝にある。
石橋山はあれだけ兵力差があれば誰が指揮しても99%負ける。
追い詰められての挙兵だったから仕方が無いが。
といっても負け犬の遠吠えだろうが・・・・・
179 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 16:45:48
>石橋山はあれだけ兵力差があれば誰が指揮しても99%負ける
やはり屋島で勝った九郎は偉大ってことか。
180 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 17:02:48
まあ、義経はそれが取り柄なわけだし。
でも政治力ないからな。
足利直義が頼朝で尊氏が義経みたいなものかな?
182 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 09:01:41
石橋山の場合平家方の戦略目標が頼朝抹殺であったとしたら、
極端に言えば頼朝以外の全員が戦死か捕虜になったとしても、
頼朝1人が逃げ延びさえすれば戦略的には勝利かもしれない。
その場合は北条全滅で三浦か比企が執権?
尊氏は行政能力ないけど政治力はあると思う。
183 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 10:05:59
妻の北条政子の方が極悪という点では遥かに上だよ。
息子たちや孫たちが殺されても平然だし。
頼朝殺しだって北条でしょ。
184 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 12:11:09
というよりも頼朝=劉邦、政子=呂后 だな。
妻の一族のバックアップを受け、天下統一した点は似ている。
となると、恵帝の劉盈は頼家+実朝だな。
185 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:16:28
頼朝?いいじゃない。
漏れ的には好きな歴史上の人物で1位だけどなw
>>183 頼朝が殺されたのか単なる事故だったのかは不明。
ただし、頼朝が死んだ時点では北条が幕府内部で絶対的な力を
持っていたわけではなく、次期将軍は比企と梶原に固められていて
頼朝には死なれては困る状況だった。
頼朝の姻戚という事で他豪族に伍していただけの元小豪族でしたから。
(ちなみに他豪族より優位に立てたのは実朝以降
幕府を北条独力で動かせるようになったのは時宗以降)
政子も息子孫が殺されて平然ではなかった
「承久記」に次々と子供たちが亡くなっていった事を嘆く文章がある。
もちろんフィクションかも知れないが
彼女の偽らざる本音だったかも知れない。
187 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:38:40
>>186 時宗以降ってのが意味がよく分からんけど。
貞時以降ではなくて?
>>188 確かに少し言葉が足りなかったですね。
得宗の権限が強化されたのが時宗以降という意味です。
少なくとも泰時期までは有力御家人の合議制で運営されていたのですよね。
189 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 23:07:55
いわゆる得宗専制体制ね。了解しました。
190 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 00:31:20
義経の卑怯戦法は頼朝にばれてるんだから、もし義経率いる奥州藤原軍と頼朝率いる鎌倉武士軍が戦ったとしても
義経は勝てたかどうかわからね。
191 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 14:00:58
そりゃあ、関東武士の圧勝だろう
192 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 21:39:05
頼朝は九州からも御家人を集めた>奥州攻め
193 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 05:56:27
荒らしが現れたけど、ひろゆきが対応してくれず、ハックして住所を探り
懲らしめるストーリーで
194 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 22:02:04
頼朝は奥州藤原氏攻撃を、後三年の役をまねして戦っていたね。
195 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:12:49
話の流れ無視してすいません。
平家は身内以外冷遇していたというのが認識されてないからじゃないかな
源氏は身内に厳しく、家の子重視。その最たる人が頼朝。どちらが多くの人が幸せであったかという観点が欠けているせいだと思う
京雀は都内では和気藹々する平家を見ていたわけだし、京から賑わいを奪った頼朝に反感があるため、当然の風習を悪し様に言ったんじゃないかな
それに、源氏は坂東人って意識もあるんじゃないかとも思う。だから平家物語とかでよけい悪し様に言われていたんだと思う。
196 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 03:00:22
身内に厳しくも何も、他人の神輿に乗ってるだけの借り物の権力だもの。
それ以外にしょうがないでしょ。
197 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:28:01
>>196 頼朝自体は神輿ですから、まあ、そう言えなくもないですね。
ただ、源氏は歴代{義家公から特に}
>>195さんの言うような風潮があったわけですから
それだけともいえないんじゃないですか?
198 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:33:34
良い国作ろう鎌倉幕府だから、
4192年ってことでおっけ???
199 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 15:48:53
おっけ
頼朝は首尾一貫せずコロコロ態度変えてるからどうしても小者としてしか評価できない
201 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 22:34:24
>>200詳しく知りたいので説明お願い
>>198「良い国作ろう」までだから正確には4192年296日・・・・だったよね?
鎌倉時代初期は日本史上最も治安が悪かった時代
政治抗争に敗れて殺された武士の部下が盗賊になって各地を荒らしていた
203 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:12:02
三国志で言えばせいぜい劉表クラスの能力しかないんじゃないの?>頼朝
HARAKIRIの頼朝は悲しいくらい能力が低かった
伊達政宗でプレイし、義経と義仲を引き抜いて攻めたらあっさり滅亡した。
頼朝が人気ない理由
1.信長や秀吉などに比べて華が無い
2.清盛や尊氏などに比べて度量が狭い
3.源氏政権に徳川政権のような持続力が無い
4.鎌倉時代の文化レベルが前の時代より明らかに低い
>>203 なるほど面白い例えだな。
確かに荊州の統治システムは鎌倉幕府の御家人制度に酷似していたし。
207 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:55:20
>>205さん、確かに・・・・・特に1が致命的かもしれませんね。
戦えば連戦連敗・・・・不遇武士の唯一の救いであり、血統の良さでのし上がれた感が・・・・
>>203さんのいうようそれくらいの能力でしょうね。
ただ、自重を重ねたのと、部下の扱いは上でしょうが
坂本竜馬など、幕末の志士の大半は頼朝を「人間のクズ」と酷評していたらしい。
>>205 >1.信長や秀吉などに比べて華が無い
こればかりはしょうがないっしょ。朝廷の権威がまだ強かった平安末期と
朝廷の権威が有名無実化した戦国時代では単純に比較できないし。
>2.清盛や尊氏などに比べて度量が狭い
清盛に関しては、度量の広さがかえって仇になったと思うけどね。
でも尊氏の度量が頼朝なみに狭かったら間違いなく足利氏は三代ぐらいで
細川あたりにとって代わられていたんじゃないかな。
>3.源氏政権に徳川政権のような持続力が無い
義経を生かしておけとは言わないがせめて範頼が生きていればなあ…。
その点徳川御三家を作った家康はやはり凄いとしか言いようが無い。
>4.鎌倉時代の文化レベルが前の時代より明らかに低い
これも致命的だよなあ。文化レベルが低い=国力に余裕が無いということだし。
鎌倉幕府が武力で打倒された政権=戦火で文化財の多くが焼失したと考えても
こればかりは弁解のしようがない。せめて実朝がもうすこし長生きしてればなあ。
執権北条一族は頼朝に輪をかけて人気が無いが、
時政・義時が頼朝の劣化版のような存在だったことと、
最後の得宗・高時の悪政が泰時、時頼、時宗らの功績を
すべて無にしてしまうほど酷かったのが原因。
時政・義時の悪行の因果が全て高時に跳ね返ってきたというべきか。
>>209 >3.源氏政権に徳川政権のような持続力が無い
義経を生かしておけとは言わないがせめて範頼が生きていればなあ…。
その点徳川御三家を作った家康はやはり凄いとしか言いようが無い。
といっても、徳川時代とも状況がちがうでしょ。
強力な譜代と独自の経済基盤を持っていた家康に対して
「利害のみ」で東国武士に担がれていた頼朝。
血族が「警戒すべきもの」であると同時に「頼もしき状況」だった徳川将軍家
と
反対勢力に「担がれる可能性」しかなかった源氏一族。
範頼粛清の原因も反主流派による頼朝打倒の旗頭に範頼が担ぎ上げられたから
だとも言われている。
東国武士達も兄弟間の争いの絶えない時代だったし。
時代が違うのだから仕方が無い
むしろこんな殺伐とした時代に幕府というものを150年存続させたことを評価すべき。
>4.鎌倉時代の文化レベルが前の時代より明らかに低い
これは明らかに誤解です。
平安文化が完成の領域に入ったのは鎌倉初期です。
「新古今和歌集」などに代表される和歌の隆盛、
宮廷絵画の興隆
一連の軍記物
などは鎌倉時代に入ってからだそうですし、
この頃から公家には「家芸」というものに力を入れるようになったそうです。
鎌倉時代にはいって益々公家は文化に力をいれるようになったそうです。
鎌倉幕府の成立によって「武」という面のアイディアンティーを失った
宮廷貴族たちが自ら「文」や「芸術」に目覚めたといったところでしょう。
つまり、幕府はその方面に直接タッチしていなくても
その担い手たる人に意識を与えたといったところでしょう。
>2.清盛や尊氏などに比べて度量が狭い
これも、人物的な面での評価は難しいところですが
鎌倉幕府と平家や足利政権との違いも考慮しなくてはなりません。
平家政権の場合は
朝廷内部に多くの一族を送り込んで朝廷の「多数派」を占めなくては
政権は運営できません。
一方足利政権も、鎌倉幕府の方針を一部継承しつつ
都の宮廷社会をも飲み込むという方針で
一部平家的な所がありました。
つまり、一族の使い道はあったのです。
一方頼朝の時代は
頂点に立つ「鎌倉殿」は一人のみ
それ以外の一族は徹底して服従させるか、弾圧するかしなければなりませんでした。
当時は江戸以降と違い
相続は一子相伝ではなく、「嫡流」という意識が薄かった。
兄弟は同格に近く
その中で「鎌倉殿の絶対性」を浸透させるには
かなりの犠牲を必要とした。
つまり、一族の必要性はあまりなし。
むしろ、一族の存在は危険な部分もあった。
そういった政治的立場の違いも考慮にいれるべきかと。
>>210 高時が優れていなかったという点は同意しますが
当時は分割相続が行き詰まり、
その結果
御家人が貧乏になり
鎌倉幕府を支えていた経済基盤が崩壊していたという面も
みるべきでしょう。
215 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 10:07:31
家康って「吾妻鏡」を何度も読み返して
鎌倉幕府や頼朝を研究していたんですよね。
つまり、良い面も悪い面も含めて頼朝を参考にして江戸幕府を作り上げた。
江戸幕府安定の陰に頼朝あり。
一方頼朝はなにもお手本も先輩もいない中で
あちらこちらからブレーンをかき集めて
暗中模索しながら幕府をつくりあげた。
結構試行錯誤の連続だったんじゃないのかな?
216 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 12:13:34
御三家と譜代大名で周りを固めて200年も保つ日本というのは中国と比べると甘い国だね。
中国なら御三家が必ずどこかで反乱を起こすか内紛を繰り返して自滅するだろう。
218 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 13:18:18
いよ!頼朝、いい男!
219 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 15:17:44
ここに集まった全員が頼朝の格好をして日本全国を闊歩し、
市町村の方々に宿を借りつつ、「おれ頼朝、おれ頼朝」と名乗り、
世間話しをまじえつ愛想を振りまいていけば解決するであろう。
先週の義高斬首の影響で、頼朝と聞いた時点で叩き出されそうだけど
221 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 18:24:10
頼朝が好かれない理由、205以外、こんな物がある。
5.嫁の政子に頭が上がらない
6.梶原のような嫌われ者を重用
7.義経嫁の静ちゃんを口説いた
222 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 02:20:12
これからどんどん人気は低下するだろ
鎌倉のイメージも
>5.嫁の政子に頭が上がらない
これは、後世作られたイメージみたいですね。
政子は、派手な夫婦喧嘩をしたり義高や静の事を口出しした位で
頼朝の生前は政治向きな事には何の口出しもしていません。
後家になってから、政治の表舞台に出たのでこのような誤解もあったのでしょう。
しかし、当時夫の死後後家が絶対的な権限をもつようになったので
政子は当然のことをしたにすぎません。
江戸以降女性の権限が制限され、表向きのことを口出ししないという建前に
なってから、
政治に関わった政子=悪女、でしゃばり女
にされ、それが助長されて頼朝だらしない。
ということになったのでしょう。
>6.梶原のような嫌われ者を重用
梶原は別に悪ではありません。
彼は職務を忠実に遂行しただけです。
ただし、職務に忠実すぎて、嫌われたきらいがありますが
梶原失脚の原因は将軍独裁を進めようとした頼家の政策を実行しようとしたことで
将軍独裁反対派の矢面に立ったという面があります。
また、梶原氏排斥の中心的立場にいた「北条氏」が編纂した「吾妻鏡」が悪く書いたこと
「判官びいき」の影響で梶原が「悪役」にされた
という面があったからでしょう。
>7.義経嫁の静ちゃんを口説いた
頼朝は口説いていません。
口説いたのは梶原一族の景茂という男です。
頼朝が静に興味を示したいう記載は永井路子さんの小説にあるだけです。
ただし、静の子供を殺したことは嫌われる原因の一つにもなるでしょう。
といっても、「謀反人指定」を受けた者の息子は当時殺されるのが
当時の常識ですから、頼朝も当然のことをしただけです。
当時の世情ではその赤ん坊でさえ特定勢力の旗頭にされる可能性があったわけですから。
色々と書きましたが
「嫌われている」要因として上記のことがあることは否めません。
色々と調べると「誤解」や「イメージ」が多いのですが
特に「歴史好き」でもない限り
深く考えないで従来の「イメージ」で「好き嫌い」を言う人の方が多いでしょうから。
225 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 10:21:43
家康が尊敬してた男、頼朝。
すぐれていないはずがない。
226 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 11:06:36
真田広之あたりが頼朝をやって、平家や公家を極悪に描いて武士による
天下万民のためになる新たな世を築いた、みたいな大河ドラマを
やればイメージ変わるんじゃね?
227 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 19:55:06
義経を誰にやらせるかにもよるよな。
落馬で死んだ、というかっこ悪い最期が余計イメージを悪くしている。
捏造だったとしてもそういう話が伝わっている時点で
庶民にはあまり慕われていなかったという証拠だろう。
このスレで挙げられた美点を基に、ジャニーズ主演で大河「頼朝」をやれば
イメージ改善しそう
頼朝:真田広之、赤西仁(青年期)、神木隆之介(少年期)
常磐:落合夫人
義経:その息子
静:奥菜恵か広末涼子
231 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 11:15:40
今の大河って頼朝をかなり良く描いている部類だと思うが。
「頼朝は武士による天下万民のためになる新たな世を築いた。
義経は所詮“いい人”止まりで頼朝とスケールが違う。」
という印象を持たせるんじゃないの?
>常磐:落合夫人
>義経:その息子
うぎゃあああああああ
>>231 そうだね。「何故、九郎は事が見えぬのか」と言わせてたし。
234 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 16:14:01
『兄に物申す』の回で中井貴一がタッキーに武家社会、ご恩と奉公の実現の理想を説くシーンは
凄く迫力あるシーンだった。
あれで頼朝に対する見方が変わった人はいるんじゃないの?
235 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 21:50:22
頼朝は所詮北条の傀儡。
人の上に立つ器ではなかった。
>>236 北条の傀儡というよりは
御家人連合政権の担がれた旗頭。
北条はそんなに力がなかったことは散々ガイシュツ。
238 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:47:08
頼朝の判断はかなり適切。
平家と違い、武家の政府を作れた。
本人はともかく、周囲の人材活用がうまい。
239 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/26(火) 13:50:17
落馬で死んだというのはおそらく嘘でしょう。
朝廷よりに傾いたので御家人集団に殺されたというのが
真相だと思います
240 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 13:56:49
>>239 平氏{義父派}の陰謀と聞いたことがある。
このままだと、自分の影が薄くなるから{政子に功績による力を全て取られてるから}
>>239 その武家vs公家という視点はすでに学界では過去のものです。
強いて言えば将軍独裁に反発する動きはあったかもしれませんが。
>>240 北条氏にとっては、「将軍の外戚」であるだけがまだ頼みの綱状態。
まだ頼朝には死なれては困る状態だった。
ちなみに政子が政治的発言を開始したのは頼朝死後の話なので
「政子の功績による力」はまだここではない。
242 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 18:23:35
頼朝が源氏の総大将としての器量がなかったのでは。
範頼や義経を生かして使いこなせなかった。
それ以外の源氏一族も殺している。(義仲等)
一族がそろって繁栄しなければ、直系の子孫が亡くなった後は滅びるわけで。
一瞬スレタイが朝鮮=極悪に見えたんですが
244 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 20:26:11
>>243 頼朝も朝鮮もどっちも極悪。間違いない。
245 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:26:24
義家は源氏の内紛に苦しんだ。
それを知っていた頼朝は、直系を重視した。
大仏再建のとき息子を京都で披露している。
246 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:42:15
>>245 ていうかさ、義家自身が清和源氏の嫡流にいなかったから、当たり前なんだよね。
頼光の子孫こそが嫡流だからさ。
247 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:00:15
頼朝は義家に自分を重ねていたみたいね>東北攻め
248 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 22:32:19
ちょっとまて
一ノ谷は虐殺だったってどういうこと?
両家の存亡をかけた源平合戦の最中なわけだから
殺しまくって当然だと思うんだが
それと
義経が勝手に官位を授かったとはいえ
京に駐在していて後白河から直々に授かったら
その場で拒否なんてできないんじゃないの?
なにも木曽殿みたいに京を荒らし回ったわけでもないし
自ら政治的策謀で官位を奪取したわけでもないでしょ?
>>242 当時の東国は「兄弟は争いあうもの」というのが当たり前の状態。
財産の相続は分割相続。
それに
後世直系相続が定着していたが
その頃「直系相続」が始まろうとしていたところで
若い嫡子が世慣れた「叔父さん」に取って代わられることがよくある時代
だったから、
当主としても「弟」というものに警戒をしなければならない時代だった。
近世的なものの見方が定着しているが
このフィルターを離して見てみるべき。
対照とさせる平家の場合は
一門を要職に貼り付けて政権の中枢を占拠するという方式をとらざるを得なかった為
一族の使い道はあった。
>>248 一の谷の軍事作戦展開の院側の理由は「三種の神器」奪還。
それを果たせないのに
やたらと平家方の討ち死にが多いのは言わば「無駄な殺戮」
それに、平家方は後白河院の「偽和議」を信じて
鎌倉方が攻め込んでも暫くの間、「戦闘開始」とは気が付かなかったらしい。
つまり、最初の1時間くらいは鎌倉方のやりたい放題だったわけで。
さらに、神器と安徳天皇が海上に逃げ去ってからも
しつこく戦闘を源氏方は続けていたわけで。
>>248 >義経が勝手に官位を授かったとはいえ
京に駐在していて後白河から直々に授かったら
その場で拒否なんてできないんじゃないの?
それ以前に頼朝は都に使者を送り
「御家人の任官に関しては全て自分が推挙しますから
それ以外は任官させないでください」と申し入れている。
それを知っての上で頼朝の推薦なしに「任官」させた法皇はやはり
「鎌倉殿の意向を踏みにじったもの」であると認識される。
また、ドラマのように法皇がじきじきに義経と話をすることは当時の常識として
まずはない。
法皇が女房にささやき、女房が義経にことずてをするという方式である。
もしくは、近臣が義経に意向を伝えるということになるであろう。
義経の身分だと、たぶん後者であろう。
ドラマのように断りきれないという状況ではない。
しかしながら、当時「院から直接官位をもらってどこが悪い」というのが常識で
義経のほかに「無断任官」をした御家人も多数いた。
彼らは特に悪気も無く頼朝の激怒を知って初めてことの重大さを気づいたというところである。
後日彼らは御家人として頼朝に仕え続けている。
また、義経も「京都守護」として鎌倉の代官としての立場や権限が何一つ制限されていない。
つまり、頼朝も「今回は仕方が無いこと」と有る程度黙認していたものともとれるのである。
253 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:33:46
>>250 横レスですまんが
「三種の神器」を素直に返さないから殺戮したわけで
加えて源氏の本音は平家殲滅なわけで
敵方に甚大な被害があったという理由で義経が非難されるのは
どうも理不尽な気がします
殺されたくなければ返せばいいんだし
「偽和議」にしても後白河が仕組んだのは
平家を圧倒的に不利な状況に追い込むためでしょ?
その戦略どおりに戦闘を進めたのがまずかったと?
それならば非難されるべきは現場の指揮官ではなく
グランドデザインを設計した人なんじゃないですか?
254 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:57:09
という以前に、頼朝の全国支配構想がまちがっている。
武家中心の社会を作ろうと考えれば、当然それまで国を統治
してきた公家から反発が出る。
あえてそれを敢行したら当然、頼朝に相対する力のある人物、
すなわち義経を公家衆は味方にしようともちあげる。
義経が死んだのも、こうなることを見越してあえて改革をおし
すすめた頼朝のせいといっていい。
反発を恐れてたら何も出来ないのでは。
>>253 >加えて源氏の本音は平家殲滅なわけで
そうでもないようですよ。
頼朝の構想では、平家を滅ぼすつもりもなく、
「三種の神器」を返してもらえるならば、平家と和議を結んでもよい。
西国は平家、東を源氏、東北を奥州藤原氏で治めればよいと
考えていたというのが最近の見方のようです。
義経の暴走により平家が滅んだので
バランスが取りづらくなった結果
奥州にも手をつけた、と。
>>254 最近は武家vs公家という見方をしている専門家は減っています。
頼朝のとろうとした方針は
東国に独立性の高い政権を打ち立てつつ
軍事部門を源氏が独占する。
実質的な国の支配は従来通り朝廷に任せるという感じで
後の北条政権にくらべると比較的穏健だったようです。
>>257補足
軍事部門を源氏が独占というのは
朝廷の軍事部門という意味あいです。
事実、頼朝期の支配体系は
朝廷の荘園公領制度にのっかていた感じですし
荘園を増やしていった貴族は武士の持つ
武力にかなり支えられていた部分があったようです。
259 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 15:49:23
>>258 ならば義経を目の敵にするのは政治的戦略ではないってことですね
義経は朝廷の覚えめでたいわけですから
ただ単に怖かったのか嫉妬したのか・・・
>>251 直接言われようと伝言ゲームだろうと、権力のトップにいる人の意向じゃ断りづらいよなあ。
>>259 義経との対立の原因は
「壇ノ浦」にあったとされています。
「壇ノ浦」自体が頼朝の構想にはなく後白河院の命を受けたか
義経の独断で始めたこととの意見が最近強まっています。
つまり、義経は頼朝から独立しようとする動きを見せ
朝廷側もそれに手を貸したようなのです。
それは頼朝にとっては由々しき問題だったようで。
>>261補足
それまで「京都守護」を任じ、屋島攻めの大将をしていた義経が
まさかそのような動きをするとは頼朝も考えていなかったと思います。
武家vs公家の対立構造だったのはむしろ足利尊氏vs後醍醐天皇だな。
264 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:34:11
壇ノ浦って義経の独断だったのか・・
でもお目通りかなわぬと涙にくれてたわけだから
義経本人に独立する気なんてあったのかな
若くてアホでチヤホヤされたからうまく乗せられたってことか?
265 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 13:31:35
頼朝のグランドデザインはなかなかいい。西国は朝廷にまかせ、東国をきちんと把握している。
>>264 素直なのはいいことだが、、、
「そうではないかと言われている」「そういう説が有力」って話はそのまま受け取らないほうがいいかと
>>1 だいたい、兄弟殺しなんて歴史上たくさんいるわけじゃん。
そんなに極悪人のイメージ無いけどねえ。
兄弟の情を断じた決断をした、という選択をしただけ。
頼朝自身も業半ばで変な死に方してるし、
頼家と実朝の悲惨な最期もあり、因果応報でおあいこだな。
頼朝には朝廷を滅ぼそうという考えはなかったのかな?
副署長が自転車盗む 神奈川、警官が取り押さえ
神奈川県警は23日、緑署副署長(49)=警視=が放置自転車を盗み、警官に取り押さえられたと発表した。県警は占有離脱物横領容疑で書類送検する方針。
副署長は退職の意向を示しているという。
県警監察官室によると、副署長は22日午後10時すぎ、同県相模原市上溝のJR上溝駅前で、鍵が壊れた放置自転車(1000円相当)に乗って帰宅しようとしたのを相模原署員に見つかり、取り押さえられた。
(共同通信) - 7月23日20時2分更新
神奈川県警察のモラルの低さは鎌倉武士が生んだ悪しき伝統だったのか…。
>>267 頼朝=極悪人というより単に暗い印象が強いだけじゃないかな。
271 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:02:43
272 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:08:47
肖像画をみると結構イケメンだったと思いますけどねw
273 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/29(金) 12:12:07
頼朝は朝廷を滅ぼすというより
朝廷に憧れてたと思いますけどね。
晩年になって朝廷に接近したことからも
それがわかります。
274 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:15:59
あの肖像画は、最近、疑問視されている。
275 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 12:58:19
あの肖像画は、最近は足利直義だったって説が強いんだろ?
277 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:07:10
>>276 源氏の本拠地は鎌倉近辺だったと聞くけど、産みの母はそのあたり出身だった気がする。
知ってる方、情報お願いします。
>>273 鎌倉幕府はあくまでも御家人を守る政府だと学校の教授が言ってたよ。御家人以外にも武士はいるし、朝廷の支配する地もあるし
それに、法王には逆らっても、天皇には決して逆らわなかったみたいだよ。
勘違いしだし朝廷に完全敵対したのは北条時宗以降みたいだよ。それ以外は防衛で幕府から攻め込んでないらしいよ
>>273 頼朝生誕地説は
京都説と尾張説があります。
尾張説は母が熱田神宮の大宮司の娘だったことから
熱田神宮の近くで出産したのではないかということで
その近辺に産湯の井戸というのが残っています。
しかし、「熱田大宮司家」は基本的に都で院や女院に仕えていた
「都の公家」だったようですし、頼朝の母自身が宮仕えしていた可能性も高いようですので
「京都出生説」の方が濃厚です。
育った場所は京都とみてほぼ間違いがないようです。
>>277 頼朝の出身は「河内源氏」。つまり大阪に本拠があった。
本来の源氏嫡流は「摂津源氏」だが、こちらは源義経とともに没落。
「東の源氏西の平氏」というのは誰が言い出したのかしらんが、、、
280 :
277:2005/07/29(金) 16:43:44
>>279さん情報ありがとうです
朝廷は、東は坂東人と一括りに言うから、東下した源義家のイメージから、一口に「東は源氏」
また、平清盛達が瀬戸内にいたから、「平氏は西だ」と単純に考えたのではないでしょうか
京雀は無責任で偏見に満ちているというのが通説っぽいですから
281 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 17:10:29
静御前って踊り子だっけ
当時の踊り子って売春もするの?
それとも都のアイドルみたいなもの?
282 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 17:26:49
白拍子ね。
神殿娼婦の日本的進化形態だな。
283 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 21:11:42
白拍子って人気者?
284 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 21:55:44
285 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:53:27
白拍子は遊女が多かったそうで
まあかなりエロティックな存在だったろうね
いろいろと艶っぽい話も多いし
静御前がどうだったのかは分からないけど
人気があったという話もあることはある
286 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:56:34
清和源氏も桓武平氏も京都系。ゆえに、清和であり桓武。
287 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 13:46:36
>>286 清和源氏も桓武平氏も、支流に分かれてから、各地を根拠地にしたから、
>>279の言いたいこととは若干異なりそうだよね。
日本国民は一応、皆、天皇家と繋がりがあるから、その意味では皆、奈良・京都系だよね
288 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:03:24
出産後の静は、何してたんでしょうか?白拍子に戻ったのか、出家したのか、誰かに嫁いだのか?その辺の曖昧さも義経美談を手伝ってる感じかな
289 :
16歳中卒ヒッキー:2005/07/30(土) 20:08:05
そういえば足利尊氏の肖像もなんか
高師直のものらしいですよw
290 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 21:58:02
そうらしいね
291 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 15:41:47
静の子供は砂浜に埋められたんだよな
その後どうしたんだろ・・・
単に三種の神器取り返せなかったというのも間違ってないと思うけど
昔やってたのが石坂浩二で今は中井貴一か
293 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 17:49:38
頼朝の長男も絶壁から投げ捨てられたな
他の役者でってイメージも湧きにくいし、やっぱり情熱的な熱血漢でも豪傑でもなかった
んだろうね。
まあそれもこれも自前の兵力持ってない悲哀として、所詮はロボットと自覚してたかもしれんが。
ある日の閨
頼朝「さあ、一発やろうか」
政子「うっふ〜ん。ちょっとまってね。あの出っ歯どうしてるの?あそれはそうと明日は父が馬揃え
を(ry」
頼朝「・・・・・・・・・(つまりこれは九郎を始末しないと漏れの方が・・・・・(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル)
ああ。ヤシは捕縛いたす。」
政子「うっふ〜ん。さあ野暮な話は忘れてやりましょうよ。」
295 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 17:57:27
つーか軍監でも本体の大将でもない義経が
なんで三種の神器の奪取計画の失敗の責任を負わせられるの?
その前になぜ頼朝は任官の推挙をしなかったのか?
後白河につけこまれたのもそこだよね
わかんねえなあ・・・
296 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 18:13:41
義経は、一軍をまとめる位置にあっても、一番のりなどの手柄にこだわった。
その当時のまとめ役は部下達に手柄を上げさせ、それを褒めて、大将に伝えるのが役割。
いわば、配下の味方であり、保護者。だから、死んでも手柄を伝えてもらえ、領地の安堵、子孫の反映を約束してくれる存在。
しかし、義経は手柄を横取りし、しかも自分の手柄しか主張しないから、配下についた御家人は反感しかいだかない。最後まで人望が無かったのはそこが大きい。
頼朝もその辺を皆から言われているから、立場上、任官の推挙などとてもできないし、自重を促す注意{警告}を言うしかない
・・・・・後白河上皇はそこに漬け込み、不和にさせられたわけ
297 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 18:16:58
追加
責任取らされるのは、見せしめと注意的な意味もあったんだと思う。
頼朝の弱い立場と自分の立場をわからせ、自重を促す意味だったと思う。
無論、周囲の敵意・朝廷の評価への妬みも絡んでいたと思うけど
298 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:02:01
そうだったんですか・・・
義経はアホだなあ
頼朝の脆弱な地盤を考えると軽率ですね
>296
ただし何故義経がそういった功名駆けにこだわったのかと言うことも
実は同じ理由ではなかったかとも言われるけどね。
形式上大将であっても人事、賞罰等の権利は無かったようだし。
300 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 19:17:02
大江広元が300ゲット!
義経に手柄を取られたというなら、それを素直に頼朝に訴えればいいんじゃないの?と思うんだが、
具体的に誰のどの手柄を取ったとかいう記述はあるの?
302 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:17:15
>>301 その軍の大将はあくまでも、手柄を認める者。
なのに、功名一番の一番乗りを取られる。誰かの取った手柄を掻っ攫うのでなく、一番美味しい所をみんなから奪ってしまう。
そして、「俺は、優秀だ」と威張るから、「義経は俺らの手柄より自分の手柄を優先する」と配下に言われている。
小説などでもやや丁寧なものには、この出展が乗っていた気がするし、多くの作家・研究家がこのことを言っているよ。
また、義経は途中何度も戦線を外されているが、その際は、平家に負けているため、戦力として認めている頼朝は義経に出撃を命じている。
個人的にだが、頼朝は他の武将たちよりは義経を評価し、庇っていた様に感じる。でも、それも立場上、限界が・・・・・
303 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:21:39
>>299 一説によると、手柄を立てることにより、頼朝に「肉親として」認められたかったというのがあったらしいですね
仰るとおり、配下の讒言を信じる頼朝に対する忠告{文句?}の意味が大きかったようですし
小説家ですが、司馬遼太郎の義経では、肉親の愛に飢えた一種の異常者として書かれてました。
平家の肉親愛を元に考え、数少ない兄弟への過度の甘え・・・・それが
>>296さんの言うように・・・・
範頼&東国武士団が先発隊として平家討伐に行ってたのに、
後発の義経&西国武士・水軍が平家討伐に多大な功績を上げちゃって、
梶原景時は屋島に参加できなかったし、範頼軍も壇ノ浦にほとんど参加できなかった。
先発隊にしてみりゃ後発隊にしてやられた訳で、その不満が、合戦に参加できなかった=手柄を取られた、となった。
という見方もある。
大将が先陣をしてはいけないでしょ。
義経は先陣大好き。
範頼は御家人と先陣争いをして頼朝に散々叱責されている。
306 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 01:33:02
身内可愛さより、建前なんだよね、増してや、これからが鎌倉の土台を磐石にしていくのに、個人的な私情なんか通してはいけないですよね
なんだか本田技研とかさなりますね
307 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:59:37
308 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 07:41:54
平治の乱後の頼朝のガラは頼盛→池禅尼(仲介)→北条時政と池家グループ内でタライ回されてる。
頼盛はぶっちり独走態勢を築きつつあった清盛を毛嫌いしてて、頼朝が殺されなかったのは「源氏だし
何かのカードに使える」って下心があったからだ。で、全部終わってみれば勝ち組は頼朝だったと。
頼朝は「危険な芽は摘め」っつーのをその身でリアル体験してるワケだ。あの猜疑心は理解できん事も
ないな。
頼朝は義経を滅ぼしてから暴走し始めて源氏一族は人望を失った
→故に滅亡したと考えていいのかな?
>>308 頼盛と時政の関係は杉橋氏によって推測されていますが
牧の方の息子政範の年齢から考えて
頼朝配流の時点での関係はないとの説が出ています。
私もその説に同意です。
時政が頼朝の監視役になったのは伊豆の国衙の中職務の割り振りの中
単に担当になっただけだと思います。
>>309 人望というより
範頼、実朝、頼家の遺児など
鎌倉の有力御家人が次々と源氏の人を担ぎ出した為
パイが消えたと見るべきだと思います。
>>310 失礼知らんかったっす。確かに時政は頼朝の色恋に過剰反応してたあたり
清盛に相当びびってた感じはあるっすね。要は頼朝自身が「危険の芽」
出身者だったので同族でも容赦しなかった、は自然だと思えたのです。
もし、頼朝が義経討伐の兵を挙げる前に死んでいれば、
義経は東北で力を蓄えて再起してたかもしれないね。
頼朝が死ぬ→後を継ぐのは幼い頼家(実朝は生まれずじまい)
→弟の範頼を立てる御家人も現れるはず→後継者争い勃発
→関東御家人は結束力を失う→義経討伐どころではなくなる
そっちのほうが源氏にとっては良かったかも…。
>>1 兄弟といっても薄い関係や
幕府経営戦略や地盤固めの重要性からみれば
仕方のない処置かと。
普通に情勢を考慮すればちっとも極悪人ではありません。
親族が入り乱れた争いの末に伊豆に流されたんだから、
身内を信用しなくて当然。
北条親子だけを妄信してしまったから、簡単に乗っ取ら
れる。(祭り上げられただけの傀儡的存在だから当然と
言えば当然だが、傀儡される事を嫌った足利義昭より愚か)
極悪人というより、義経同様悲劇の主人公の一人。
結局は、世間知らずのボンボン。
征夷大将軍職=源氏の専売特許みたいな変な慣習を作った
悪い功績もあるが、せいぜい小悪党がいいところw
316 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 11:37:30
京都からブレーンを招くような点が優れたところかと
317 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 13:24:48
>>315 北条氏を盲信はしていない。
親族の配偶者は比企一族で固めているし
幕府の要職、嫡男の乳母いずれも最初は北条氏はありつけていない。
もっとも北条氏自体小豪族で大した力をもっていなかったのであるが。
北条氏が頭一つ出たのは実朝が将軍になってから。
後々の結果から北条を過大評価しないように。
頼朝=極悪人というより「暗い」よな。
319 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:44:02
せいぜい小悪人だな。
320 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:46:05
>>319 有る程度悪人でなければ政治家にはなれません。
奇麗事だけですまないのが政治というものです。
321 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 16:55:50
義経ヲタは土方ヲタと同じくマゾ
322 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:21:36
バカでも血統がよければ補佐が付くから政治はできるんだよ
頼朝はその代表例
323 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 21:48:23
頼朝にはビジョンがあった
324 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 22:26:20
>>322 それは違う。北条をはじめ多くの御家人は代々源氏に使えてきた
わけではないから、血統は否定しないがやはり、その人物に
惚れたのがついて行った理由だろう。
馬鹿でも補佐がついていたから政治ができたのは徳川家光など
でしょう。
頼朝のビジョンなんて信長に比べればちっぽけなもんだろ
歴史を学校の授業程度しか知らない人には、鎌倉幕府を作ったえらい人。
歴史に少し興味を持って関連の小説等を読んだ人には悪い人。
歴史オタには言われてるほど悪い人じゃない。
という感じだと思うが。
マジレスだが、
俺のご先祖様が源頼朝を折角追い詰めたのに、
内通者のせいで討ち漏らすが為に頼朝は生き延びて鎌倉幕府を開き、
後世に名を残す事になろうとはね…
その時ご先祖様が討ち取っていれば、歴史はどうなっていたのだろうと考える今日この頃…
ちなみに我が家のご先祖様は源頼朝と戦い、
勝ったがその時討ち漏らしたが為に富士川の戦いの後投降して、
斬首されて我が家は没落した訳なのだが…
>>325 時代が違えば描くピジョンは違って当然。
329 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:39:53
頼朝のビジョンは、家康が参考にした
信長のは参考にしなかった
330 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:58:33
信長のビジョンは無理だったんじゃないかな。
時間がかかるだろうし、抵抗もされまくるだろうし
331 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:05:20
頼朝の王権
332 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 13:24:28
朝廷との距離のとり方が絶妙。たいしたものだと思う。
白拍子萌え━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
中国史では頼朝タイプの群雄は長続きしないというジンクスがある
「中国には家康がおらず、日本には劉備がいない」
とよく言われるが、国民性の違いなんだろうか?
>>335 魏晋:
曹一族=信長
司馬一族=秀吉
で家康がいない
織豊:
織田=曹操
毛利ほか反織田勢力=孫権
で劉備がいない
って感じか?
頼朝の話をするとよく前漢の劉邦が引き合いに出されるが、
劉邦の戦略には柔軟性があるのに対し頼朝の戦略には柔軟性が無かった。
曹操は劉邦を手本にしていたが、
同じ革命児である信長は頼朝を全く評価しなかったことからもわかるように、
劉邦が多くの人間に慕われていたのに対し
頼朝があまり多くの人間に慕われていなかったということがわかる。
337 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:22:55
俺的には劉備≒家康だと思うが。
ただ国民性や民族性の相違には同意。
中国にも「家康」はたくさんいると思うよ。
ただそんな奴は途中で抹殺されてしまって有名になれないだけなんじゃないの。
339 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:43:13
というこは日本にも「劉備」がたくさんいたってことだな。
大体が天寿を全うできなかったのかも知れんな。有名にもなれずに。
340 :
m:2005/08/03(水) 12:45:56
頼朝を、キムタクが演じれば?
341 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 12:48:21
いや、ヨンさまだ
所詮蜀の親分に過ぎない劉備程度なら日本にもそこそこいたかもね。
343 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 14:18:29
柳眉とかいかがわしさの代名詞
>>305 総司令が先頭にたっちゃいけないというのは東アジアの特徴かな。
ヨーロッパやオスマン・トルコでは総司令が最前線にいるぞ。
345 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:09:03
なんだよ夏厨っぽいこの展開はw
仲達=家康に決まってるだろ。あんな頭は良くないがw
曹操=信長+家康
つまり人望も知略も革命性も全部あった画期的指導者で、ただ皇帝にならず
死後の展開にも恵まれなかったってことで。
上杉謙信こそ厨の代表格。内政も派閥もまったく興味なかったから
当人死んだだけで3年も内紛→越後半国に逆戻り。いい例には入らない。
348 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 19:05:43
孫権+司馬懿≒黒田如水入道孝高(官兵衛)
劉表=源頼朝
劉[王奇]=源頼家
劉[王宗]=源実朝
甘寧=源義経
蔡瑁=北条時政
蔡夫人=北条政子
黄祖=梶原景時
[萠リ]越=大江広元
350 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 08:51:12
義経は劉虎か劉盤でいいんでないの?血族だし。
教頼なら劉脩。
義仲なら、近縁に当たる劉必かなあ…。一応、劉封の族父という意味で。
(演義では泌で樊城の県令らしいが、どうも県丞か県尉くらいかと)
351 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 10:18:21
ほーら三国志馬鹿が湧いてきた・・・
なんだ、このひでぇ流れは
353 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 17:02:56
教頼→範頼…orz
354 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 23:14:04
>>349 大江広元をもっと知的にすごい人にして欲しい。張良だと言い過ぎかもしれんが
あと、甘寧=源義経は甘寧がちょっとかわいそう・・・・
355 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 12:28:24
大江広元は東国政権に貢献したね
356 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 13:51:00
それをうまく使ったのは頼朝の能力
357 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 14:06:32
義経=政治感覚ゼロの無能な奴
というイメージを定着させることだな。
358 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 16:52:09
まぁ、義経が生きてたら義経に潰されてたよ。
で、小説とかで無能なのでこれでは鎌倉幕府の安定は望めないから、
義経は断腸の思いで頼朝の権力を奪った風に描かれる。
それに現代人も納得する。
まだ殺して嫌な奴扱いされた方がマシ。
360 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:21:08
義経は武将として優れてたが、政治家の素質は全く欠如したということ!
義経が略奪などの悪政を行っていたから討伐されたというのなら話はわかるが…。
362 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 13:20:35
義経は頼朝追討の宣旨を出させてるからなぁ
363 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 07:31:56
極悪人ですらない。小悪人だ。
頼朝よりも梶原景時、北条義時、政子のほうがより悪人という印象だがな。
頼朝は暗い、死に方が情けない。実は暗殺かもしれんが、、、
365 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:09:26
そうか?聡明なイメージだけど
366 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:16:49
頼朝&義経はお笑いコンビみたいなもんだな
仲悪くなる→ピンで仕事し始める→片方だけ売れる(生き残る)
367 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:31:36
ピン芸人かw
368 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 13:20:58
頼朝は東国に都を作った
そういう誰が阿呆だったからとか、誰が専横だったからとかいう
個人的な次元で説明できるものではないよ。
371 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:24:21
最近の日本の概説書レベルでも頼朝の評価は高いよ。
実際にほぼ従来の体制の枠内に反する事なく、政治的な駆け引きで
実質上の自治政権を作り上げてしまった手腕は卓越な事には間違いないだろう。
やり方がまるでローマのアウグストゥスみたいだ。ちなみに合戦にも弱いのも同じだ。
恐らく日本史上屈指の政治家だと思う。惜しむのはティベリウスのような人物が
周りにいなかった事だ。
372 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:47:07
>実際にほぼ従来の体制の枠内に反する事なく、政治的な駆け引きで
実質上の自治政権を作り上げてしまった手腕
「体制の枠内に反」しない場合、どうして評価が高くなるのでせうか。
色々な意味でのリスクやコストが避けられたと考えるからでせうか。
373 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 22:54:36
>>372 >>371では無いけど、政治的摩擦を生じさせないからじゃないかな。
政治的摩擦が生じやり方だと、多くの人が深刻な被害を受ける。
明治維新とか摩擦が激しい良い例だと思う。
だから、被害が最小限で、スムーズな政権奪取は政治の最上の手段だと思うよ
とりあえず、現状のあんな山奥ではなく
鎌倉駅ロータリーの真ん中に銅像を建てることだな。
375 :
371:2005/08/17(水) 02:28:44
>>372 日本史はいまいち分からないけど、自分なりの理由を言うと:
たぶん頼朝の持つ権力が板東武士などの支持層のバランスの上に立って、従
来の門地の部下を持っていなかった事からすれば、実際に独自の権力基盤を
築くにはそれしかできなかったと思う。当時朝廷の追補令の可否によって恩
賞が出るかがどうか決まっており、それに群がる武士が多かった事を考える
と、微妙な支持基盤を空中分解させるリスクを負うよりも朝廷が持つ権威は
自分の権力の拡大に役立つ程度には利用する方が得策だった。実際、頼朝は
自分の権力の影響する範囲が奥州を含む東国にまで及んで、政敵後白河法皇
がいなくなると早々に征夷大将軍の肩書を返上している。官位の持つ有効性
と弊害を適格に理解していた証拠だろうと思う。
376 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 03:51:34
頼朝のイメージが比較的悪いのは事実。それは義経伝説があまりにも民衆に広まったため。
悲劇のヒーロー義経は「ヒーロー」として揺るがないから、それを殺させた頼朝のイメージが悪くなるのは当たり前。
問題は、一般大衆が主にヒーロー義経の視点で歴史を見ているのだということ。
義務教育課程じゃ義経が勝利を収めた合戦の詳しい経緯や頼朝の苦心なんぞ教えてはくれないだろ。
にも関わらず、様々題材にされやすいヒーロー義経の活躍は歴史教育としてではなく娯楽として多く親しまれていく。
だから、義経のヒーローとしてのイメージが多くの人間の中で一人歩きしていく。専門書を読んだり、高校から日本史を学んだ人間であればそんな事はないだろうが。
では、そのイメージを払拭するにはどうすればいいのか。
1つだけある。
この説を定着させれば義経の英雄的イメージに多少なりとも傷がつけられるのは間違いない。
つまり、
義 経 = チ ン ギ ス ハ ン 説 で す よ
377 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 04:30:08
↑かえって英雄視されると思うのだが‥‥
378 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 04:37:41
朝廷の争いに巻き込まれ父を失い、伊豆へ流罪となり、
義経が講談の影響で人気があるのは分かるけど、頼朝も書き方によっては
小説になれると思うけどなあ。そんな才能自分にはないけど。
朝廷の争いで父を失い、伊豆に流罪となり、平家の東国支配から挙兵。
今まで殿上人のいいようにあしらわれていた武士の武士によるクニを作ろう
として後白河と腹のさぐり合い、勝手な事ばかり言う武士団のバランスを
探り、必要とあらば粛清。外なる敵と内なる敵と同時に戦い続ける頼朝。
組織を作りあげるために、離ればなれになっていた弟たちまで殺さなくては
ならなかった男の心境とはどのようなものだったのだろうか?
という感じに(ゴッドファーザーみたいに)。
酷い物になると晩年の頼朝が暴走して悪政を敷いたために人望を失い、
そのために北条一族が源氏一族を粛清した、という話もある。
範頼を死に追いやったのは明らかに頼朝の失政の一つだろう。
>>379 秀吉も弟・秀長亡き後はそうだったね。
違いは、秀長が義経と違って病没だったということだが。
381 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 15:42:29
秀吉にとっての秀長の役割は、頼朝にとっては義経、範頼というより梶原景時
の方ではなかったろうか?やはり兄弟を頼朝は警戒していたんじゃないかな?
あれだけ雑多な武士団をかかえ、壇の浦以降、精神的なつながりのない西国の
武士もかかえるようになったろうから、後継問題で対立候補にかつがれるのを
恐れていたと思う。
382 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 16:09:47
小物は小物なりに必死なわけよ。責めるいわれはない。
383 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 16:31:24
弟、弟ってよく言うけど、現代の常識の兄弟とは全然違うでしょ
まずは、第一のライバルであるし
しかも血も半分しかつながってない(母違い)
さらに育つときもそれぞれ母単位での生活だから、兄弟という意識も育まれない。
まあ現代でいえば、せいぜい従兄弟と同じ程度のものではないか。
384 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 20:41:09
恐らく頼朝の脳裏にあったのは八幡太郎義家の事だったと思う。
朝廷の権威で都合のいいように振り回されて、親子兄弟反目しあって
結局天皇の近辺に侍り勢力の強かった源氏の勢力を半減させ、
もともと検非違使の役割を担っていた平家の台頭を許してしまった
事が頭にあったのでは?
だから自分の後継者の血統と兄弟や他の源氏ときっぱり上下をつけたん
だろうと思う。ただ、こういう直系、傍系の差別待遇するのは当時では
一般的ではなく、それに義経、範頼は気付かなかったんじゃないかな?
385 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 21:39:38
>>384 社会の相続制度がそこまで来てないのに、そういう無茶やるから自滅した。
>>385 逆にそのけじめをつけなかったら
後々までもっと混乱していたと思う。
>>379 だから、そのころは北条にそんな力はなかったんだってば。
頼朝の失政といえるかどうかはわからんが
将軍独裁を目指した頼朝と御家人とのあいだに微妙な対立があったとは
言われている。
>>385 当時の東国は親族の間では所領問題などを巡って争うのが当然という状況。
それをなんとかまとめようとするならば
やはり親族の間の序列を決めるのも
必要なことだったと思う。
それを自らの血族で範を示すのも必要だったのだろう。
ただし、争うのが当然の中で新しく秩序をつくろうとすると
色々な軋轢は出て当然。
しかし、それでも序列を作ったということは大きいと思う。
事実頼朝の時代は御家人の中で血族内部の戦闘は無かった。
「問注所」設置の効果も大きかったともいえるが。
頼朝は、旧時代のシステム(院政)を破壊せずに
先に新しいシステム(鎌倉幕府)を作ってしまったんだよね。
朝廷の権威に真っ向から立ち向かっていった足利尊氏や、
古い権威を全て否定して実力主義を徹底した織田信長に比べると
改革者としては中途半端な印象が拭えないと思う。
389 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 14:14:04
信長は改革者として分かりやすいけど、頼朝の業績は分かりにくいのは確か。
あからさまに改革していたら朝廷につぶされていた可能性もある
ので、頼朝の行動は適切だったと考えているが。
この頃の朝廷はまだ統治システムとしてはまだそこそこ機能していたので、
迂闊に手を出さずに、逆に御家人をいかにまとめるかに集中できたのだろう。
たぶん後白河法皇以外は頼朝が何をやろうとしているのかを理解できなかった
のではないだろうか?
幕府が朝廷の普通の公家から別組織として認知されたのは承久の乱以降だと思う。
390 :
日本@名無したん:2005/08/21(日) 14:20:02
>>389 同感!
彼こそ冷徹な政治理論家であり、現実を忘れない理想主義者だったと思う。
家康が尊敬するだけの男だった。
391 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 17:22:17
小物には小物なりの苦労がある。
源平の時代が男性より女性に人気があることからもわかるように、
頼朝も義経も繊細で信長や秀吉などに比べると男らしさに欠けていた。
源平で唯一朝廷と互角に渡り合えた清盛でさえも改革者にはなれなかったんだよね。
>>389>>390 時代の特性というものもあるが
古いものを徹底的に破壊するだけが時代を進めるということではない。
古いものと共存し、また古いものの持つノウハウを活かすということが
新体制にも必要。
明治時代も統治や行政のノウハウを持つ
旧幕府役人を新政府に登用したり
旧大名を華族として取り込んでいる。
徹底的に前のものを破壊してOKな時代は限られるし
下手をすると果てしない混乱を招くだけということが多いと思う。
394 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 19:31:14
>>393 まさしく、その通りだと思う。既存の社会制度を徹底して破壊
してスムーズに政権を樹立した時代は実を言えば少ない。話は近現代ヨーロッパになるが、フランス革命
がナポレオン戦争へ、ロシア革命が冷戦下の共産圏へのソ連の軍事介入へ
、中国共産党政権の成立が文化大革命へと移行した例から前政府を否
定して新政府を作るとなると、寧ろ大混乱、大虐殺を招く事が多い。
395 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 20:24:36
清盛は京都に独自政権を建てたわけではない。あくまでも太政大臣として
朝廷の臣とある。軍事恫喝による無言の圧力によって朝廷の圧力をかけれ
た事は確かだろうが、建前上、臣である以上限度がある。それ以前にそも
そも独自政権を立てようと言う構想が清盛にあったのかさえ疑問なところ。
それは個人の裁量に依存するところであり、平安期の武士がおのれの「武芸」を頼
みにしていたのと何ら変わりがないと思う。もちろん清盛の技量は卓越だった
のは疑いの余地はないが、清盛没後、後白河法皇に平家は手玉を取られる事
となった。
頼朝は個人的な武芸を頼りに近辺に所領争いばっかしていた武士団に武家に
よる秩序を与えた。その結果源氏将軍がいなくなっても制度としての幕府は
残った。つまり今まで朝廷から「あづまえびす」の差別に甘受していた武家
に武家としての自意識を与えた。でなければ承久の乱で朝廷を圧倒する事は
たとえ政子の叱咤がなくともありえなかったろう。
どちらが「男らしい」だろうか?
396 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 20:45:19
ピジョン
ピジョット
頼朝亡き後も幕府が残ったのは凄いと思う。
>>398 源氏幕府は潰れたけどな。
ちゃんとした政治システムが出来たのは北条幕府になってからだ。
>>399 御成敗式目には「右大将家いらいの慣例」というのが
重要視されている。
右大将=頼朝の時代に決めたことが
その後に大きな影響力を持っていたことを見なければなるまい。
また、政治システムというものは常に不動のものではない
根幹の部分はめったに変わらないが
流動する社会や政局にあわせて政治システムも変化するものである。
「ちゃんとした」という表現は決して適切ではない。
401 :
日本@名無史さん:2005/08/25(木) 00:18:17
御成敗式目を作った北条泰時の烏帽子親は頼朝だね。
実際頼朝は泰時を次世代の幕府を担う者として大いに
期待していたらしく、泰時の方も頼朝を尊敬していた。
泰時のような人物を見つけだしたり、言動が成文化され、
御成敗式目になるなど頼朝の影響力は計りしれないもの
があると思う。実際、朝廷よりも幕府の御成敗式目の方
が役にたったらしい。「税金と謀反人の取り締まりだけ
はやれよな。あとは知らん、そちらで解決してくれ」と
いうのが大凡の朝廷の対応で、領地争いなどの裁判には
関与しなかった。一方御成敗式目は適応が厳格で、式目
に反する裁定をした者がいれば裁定者の領地を取り上げ
られるという事まであったらしい。
こんなに有効な御成敗式目だったが、朝廷の公家からは
「武家どもが何やら朝廷の真似事をしおった」と嘲笑を
かっていたらしい。この事から当時の公家の武家に対す
る強い差別意識が伺えると思う。
泰時が実は義経の子だったという珍説もあるね。
義時と性格があまりにも違いすぎるし。
>>393 いや、明治政府は江戸幕府のシステムを徹底的に破壊していると思うが。
廃藩置県なんて最たる例だ。これぐらいやらないと欧米の列強に対抗できない。
鎌倉幕府の致命的な欠陥は、公家の統治システムを残したまま
武家の統治システムを作ってしまったという二重構造にあるわけで、
この状態では外国から攻められたらひとたまりもない。
史実のように運良く撃退しても崩壊の道を辿るのは必至といえよう。
404 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:32:10
>>403 確かに公家の統治システムを残したのは、統制が取れていず、中途半端な
印象を与えるが、これをもって鎌倉幕府の欠点とするのはいかがなもので
あろうか?
朝廷の権威が強く、武家が朝廷の御墨付きをもって武名を残そうとしてい
た武士団の多かったあの当時、頼朝にできたのは幕府を設立する事くらい
しか残されていなかったと思う。元冦、列強の侵略は後世の我々が知って
いる歴史で、頼朝の時代には認識されていなかったし、頼朝の敵は内外と
あった。後世全て知っている我々の常識をあの時代にまで押し付けて「だ
から欠点だったんだ」というのは適切ではないと思う。
405 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 01:35:18
「頼朝の的は内外」というのは
「外=後白河」と「内=幕府の統制下に入っていない独立武家」の事。
>>403 システムは破壊しているが
旧幕府時代の人的資源や人脈は大切にしていた。
例えば旧大名家の多くは
昭和初期に入っても「殿様のお国入り」といって
昔の領国に行くと物凄い歓迎されていたらしいし
女学校の成績優秀者が「殿様のお屋敷」に女中としてはいるということを大変誇りにしていたという
話もある。
つまり大名家の持つその土地でもカリスマ性は
それ以前の明治初期ではそれこそ絶大なものであっただろう。
その大名を敵にまわすか味方に取り込むかでは
新政府の統治に大いなる違いをもたらしたであろう。
つまり破壊すべきシステムは徹底して破壊するが
温存すべきもの利用するべきものは取り込む
この点も明治維新が成功した要因の一つであると思う。
旧貴族社会を徹底して破壊したフランス革命とは
この辺が違うと思う。
信長のように旧勢力と対立し、それを破壊する
というのも確かに必要。
確かに信長が仏教勢力を破壊しなければ日本の歴史はかなり混沌としたものになっただろう。
しかし、その後長期安定政権を維持できたかといえばそれは疑問。
信長が死んでしまったので 何とも言い切れないが。
しかし、最終的に長期政権を維持した
徳川の場合
武田の旧臣を抱え込み、関東に入れば関東の名士の子孫を召し抱え
関ヶ原では外様大名を味方につけ
その後、旧足利将軍家につらなる家を高家として召し抱えた。
しかし、その一方で朝廷を封じ込め
大名の力を押さえ込んだ。
政権の安定には、旧勢力も使えるものは使い
妥協と対立を繰り返し、基本的な部分は押し通すということが大切。
頼朝は朝廷には妥協と圧力をうまく使い分けながら
坂東武士の権益を守ったという
一番の目標を達成していたと思う。
ちなみに、当時の朝廷の力は現在の一般人の認識より強大な力を持っていたと思う。
408 :
日本@名無史さん:2005/08/27(土) 01:14:54
>>403 二重構造だから、欧米との対抗には適わないというのも疑問。
二重構造の中でも一方が権威を、もう一方権力を統括できれば
さしたる抗争に繋がる事はあまりないように見える。
叙任権闘争以降のヨーロッパや南北朝以降の日本がよい例だと思う。
逆に権威と権力が一ケ所に集まると文化的に停滞を起こす可能性も
ある。始皇帝の焚書坑儒、明初期の文字の獄など粛清、思想統制、
思想管理が起りやすい。現在の北朝鮮、中華人民共和国もその類いだ
と言っても差し支えはないだろう。
>>407 家康は一向宗を弾圧し国を二分する内乱を起こした末
一向宗勢力を駆逐したわけだが
信長は最後は妥協した
>>409 しかし、一向宗方についた家臣の帰参を許している。
また、これは家康若年の頃の話。
この事件やその後の色々なことで人心掌握や
対立と妥協の合意点を学んでいって
晩年の
>>407を達成したと思われる。
つまり、弾圧や破壊も時には必要だが
妥協や抱え込みも必要。
>信長の最後は妥協した。
つまり、妥協の必要。破壊のみではダメ。
頼朝は妥協すべき相手を間違えたな。
朝廷に対しては弱気なくせに、義経に対しては全く妥協しなかったのは何故?
幕府の根幹、御恩と奉公システムに反したから
>>411 御家人の上に君臨するためには
朝廷の権威や「荘園公領制度」を利用するのが
必要だった。
後世無力化した朝廷とその頃の朝廷とは実力が違う。
414 :
日本@名無史さん:2005/08/28(日) 10:21:45
>>411 頼朝が義経を抹殺したのは、事前に官位の下賜は頼朝が承認を必要と朝廷に
約束していたのに、後白河法皇が官位を義経に下賜し、義経がそれを受けた
からだろう。
頼朝が最も警戒していたのは配下御家人が朝廷が官位恩賞を餌にして幕府の
体制を切り崩しにかかるという事であったが、よりによって数ある源氏の中
でも最も頼朝に近い一族の義経がそれを受けてしまった。無論、後白河法皇
はそれを知ってて敢て義経を朝廷に取り込もうとしたのだろうが、頼朝にと
っては、それは許されぬ一線を越えた事に他ならなかった。これを見逃して
は悪しき前例になると判断したのだろう。
他の人も言っている事だが、当時の朝廷の法令の威力が絶大であり、平治、
保元の乱ではおおくの武家が朝廷の恩賞のもと家名を上げようとして戦乱に
巻き込まれた。義経の行動はそのまま他の源氏にも当てはまり、幕府の体制
が空回りに終わりかねない危険性を帯びていた。
しかしながら、義経の逮捕を理由に全国に地頭を置くよう朝廷にゴリ押しで
許可を取ったり、頼朝はちゃっかり幕府体制を補強していたりする。
そんな頼朝でも義経が奥州藤原氏に亡命したと聞いた時にはかなりの危機感
を持ったと思う。実際、朝廷からなかなか討伐の勅命が出ないので、頼朝は
軍事金恩賞など自分の身銭を切る覚悟(実際にはかなりの負担を強いられる
。八幡太郎義家がこれをやってしばらく源氏勢力が停滞し、結果として平家
の台頭を招いている)で奥州征伐に見切り発車している。
415 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 23:11:03
>頼朝は軍事金恩賞など自分の身銭を切る覚悟で
すまんがこれの史料を教えてくれんか
吾妻鏡でOK?
416 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 05:05:35
吾妻鏡、文治5年6月30日
少し妄想が入ったかもしれんが、7/19の院宣が9/9になってようやく
頼朝のところに来ているが、9/3に頼朝は泰衡を討ち取っている。
417 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 23:29:08
もし義経が秀衡の遺言に従って奥州軍を率いて鎌倉軍と戦い敗れた場合、
奥州の土地は没官領として幕府のものにすることが出来たのでしょうか。
追討の院宣が下ったのは奥州ではなく義経に対してだけですね?
奥州は義経の土地じゃないわけだし。
418 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 02:33:14
>>417 想像の域を出ないのだが、たぶんできると思う。ただ領土は誰のもの
であるかと言うと微妙だが。
実際に義経が抹殺された後に頼朝は圧力をかけて強引に奥州征伐を敢行
しているので、なおさら「賊」義経に加担した藤原氏を征伐する理由が
できる。
また最初は後白河は頼朝討伐の院宣を出して義経が挙兵に到っており、
これに怒った頼朝が北条時政を通じて朝廷に軍事恫喝させた経緯がある
ので、義経追討の院宣を出した以上頼朝の行動を干渉する事は後白河に
もできなかったと思える。たとえ奥州が義経の土地ではなくても、もと
もとこの時代、朝廷が全土を所有する建て前、義経捕縛のために地頭を
設置できた頼朝が征伐後の奥州に治安回復の名目で地頭なり守護なり置
く事は容易かったのではないだろうか?
419 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 15:56:33
>>415 もともとが借り物で身銭なんかねーじゃん。
420 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 22:07:45
>>418 レスありがとう。
奥州征伐が2年以上も引き伸ばされたのは何でだろうと疑問だったんです。
その内1年は頼朝が母の供養のため、今年は殺生をしないという記述が吾妻鏡にあったと記憶しているのですが、
それでも1年以上、鎌倉は待ったわけですよね。
討伐の院宣が下ったのは義経だけだから、どうせ奥州軍に勝っても土地を手に入れることは出来ないし・・・
という思いが鎌倉武士にあり、頼朝はこちらから攻めて行くことが出来なかったのかなあと。
でも義経を大将として奥州軍が鎌倉と激突し、それで負けても悪いのは義経だけだから奥州はなんのお咎めもなしというわけにはやはり行かないですよね。
それでも2年、奥州征伐を待ったのは奥州征伐自体に院宣が下って、
確実に奥州の没官領を手に入れられる保障を待っていたのでしょうか。
とはいえ結局は、頼朝は院宣が下る前に奥州征伐に見切り発車しているわけですが。
奥州征伐に時間がかかったことなんですが、
もしかして、奥州内部の分裂や切り崩しに時間をかけていたのではないでしょうか?
正面きって戦うと自軍の消耗は物凄いことになるでしょう。
強力な奥州軍があんなにあっさりか陥落したのが不思議なのです。
やはり奥州内部の方の分裂など内部崩壊の要因があったのではないでしょうか?
藤原氏が義経を匿ったため討伐した・・・というより、
頼朝は最初から奥州の地を手に入れるのが目的で、義経はその
口実に過ぎなかった、というのが大方の見方では?
ただ藤原氏が義経と結びついている内は負けるかも知れないので、
まず泰衡に圧力をかけて義経を始末させ、その後で奥州を攻めた。
423 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 00:37:10
義経&奥州十七万騎にはやっぱり勝つのは難しいって鎌倉は考えてたってこと?
でも奥州十七万騎って当時の史料にも出てくるから信じられていたんだろうけど、
その割りに奥州ってあっさり負けた気がする。
資金が豊富だからそのくらいの軍隊は持っているだろうと思われてただけで、
実際は十七万騎もいなかったのかな。
奥州藤原氏は資金力があるのだから朝廷に根回し出来たんじゃないかと思うけどしなかったのかな。
素人考えかもしれんが
425 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 20:54:56
>>422 それは絶対あったと思う。というのは頼朝にとって鎌倉殿の威光に従
わない大武士団=朝廷による対幕府との対立候補として取り上げられ
る可能性があるから。実際頼朝や源氏将軍の後でも承久の乱、宝治合
戦で朝廷や公家出身の将軍が幕府や北条氏に対抗しよう企てている。
この事から先行く反乱の芽をつんでおくという意味で頼朝には奥州藤
原氏の放置はどうてい無視できなかったものと思われる。
>>423 >>424 勝つかどうか思案していたのに加えて秀衡の実力と後白河法皇の謀略
が対幕府で合する事を恐れていたのかもしれない。ただし、他の公家
と同様、秀衡も鎌倉殿の本質が律領体制から超越したものだと見抜く
事はできなかったと思う。武家は朝廷に師事するものという固定観念
から脱する事ができなかったと考えれば自分と同じ武士団が鎌倉に座
しているくらいの感覚だったのかもしれない。
426 :
日本@名無史さん:2005/09/08(木) 21:19:30
>>421 奥州征伐は何事にも慎重な頼朝にとって一世一代の賭けだった可能性
がある。というのは義経が奥州藤原氏に来た時には恐らくかなりの危
機感を感じていたと思う。たいていの事なら独断で判断していて手の
内を見せない頼朝が珍しく迷っているように思えるし、大庭景能の、
悪い取り方をすれば無責任な励ましの言葉に奮起するというのも珍し
い。頼朝が部下の勧めで大決断としては京都に向かわず鎌倉で対平家
合戦の指揮を取った事があるが、これは頼朝が理にかなっているので
選択したのに対して奥州合戦はこれ以上リスクが拡大する前に見切り
発車した印象がある。義経と奥州藤原氏の武力、後白河の謀略が合わ
さる前に片づけねばならないという焦りがあったのではないだろうか?
427 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 00:24:27
もし義平が長生きしてたら、頼朝とどういう関係になったろうか?
少なくとも武将としては義平の方が上だと思うし、しかも長兄だし・・・
428 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 11:09:57
義平は嫡子ではなかったはずでは?当時は母方の血統のよさから
嫡子が決まるので頼朝が嫡男になっていたろうと思う。
ただ武門一辺倒で保元の乱で義朝軍の一角を担っていたの義平を
嫡男でも年下で軍の中心ではなかった頼朝が使いこなせたかは疑問。
頼朝のあの強さは長い流浪時代があったからこそだと思う。
頼朝の次兄の朝長は義平の同腹の弟だっけ?
鎌倉幕府って、今の感覚で言えば暴力団が政権を握るような物だな。
だから成立してからも内部抗争が絶えなかったのか。
暴力団というより野蛮人
当時の坂東武者に理性なんて無かったからね
>>429 尊卑分脈にいくつかの説があります。
義平母 三浦義明の娘
遊女
朝長と同じ
朝長母 波多野義通の妹
修理大夫則兼の娘
です。
それぞれ一番上に書いている説が濃厚ですが
実際のところははっきりしません。
433 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 13:29:40
>>431 どっちが野蛮か分からないよ。京都でも東国でも暴力が常に隣り合わせ
なのが中世だから。
この時代京都でもある上位の貴族が親王の従者を本当に
死にかけるほどリンチにかけても本人は謹慎処分程度で済んでいたりする。
それに比べて御成敗式目は当事者たちの格式や勢力の優劣にならないよう
制定したとはっきり明言しておりまた実際に適応には厳格だったので、
こちらの方が法の上の平等という点では朝廷よりは徹底していたのは確か。
434 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 13:34:00
義家以降の源氏はホント内ゲバ絶えない。
平治の乱で源氏が潰れなくても三浦畠山等関東武士を背景に勢力拡大する義平と
義朝、頼朝親子の間で内ゲバ起こりそうだ。
436 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 17:36:03
母親の実家で嫡子を決めるというのも、実はそれほど確立しているわけでもない。
その理屈だと、平清盛も例外だし、北条泰時も例外になる。
義平が生きていた場合、まず三浦が従うだろう。そうなると、隣接する武蔵、伊豆、
駿河も影響下に置かれる。頼朝には、足利と比企が従うと思うが形勢は不利だろうな。
上総、千葉、小山がどちらにつくか、佐竹、武田ら義光系の動向も分からないし。
義平も、素直に弟に頭を下げるタイプとも思えん。
438 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 20:47:30
頼朝が義平に攻め殺されて一件落着。
>>431 鎌倉時代が文化史的に見て地味でしょぼいのも坂東武者が野蛮だからか。
>>431 鎌倉時代は平安文化が完成された時期です。
歌では「新古今和歌集」などが発刊され
宮中では絵の名人の女房が多く輩出。
公家たちがそれぞれの「家芸」を持ち始めたのが鎌倉時代初期。
「宮廷文化」の最盛期は実は鎌倉初期である。
軍事を幕府に任せることによって、「文化の担い手たる公家」という
アイディアンティーが確立されたといえる。
また、幕府も都などから職人を呼び寄せてそれなりの文化活動をしていた。
もっとも戦乱が多かったため後世に残らなかったのであるが。
442 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 20:40:02
>>431 承久の乱以降、京都の治安は荒れに荒れたんだが、文化として
確率できる余力があったのだろうか?
いや。反論じゃなくって純粋な疑問。
443 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 21:01:33
もし承久の乱の段階で源氏の血が絶えていなかったら
京の天皇家は潰されてたんじゃないのかなぁ
で源氏が天皇を名乗るようになるか
もしくは将門のように新皇になったんじゃないだろうか
444 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 12:58:11
>>443 どこぞの神社の宮司にされておしまい。族滅まではせんだろ。
元を辿れば頼朝は皇族系だから、本家筋の皇室は
>>443の通りとなる。
447
448 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 22:02:49
死をもいとわぬ「突撃」これ一つつきるね。
真田家ってのがあるだろ。あれは普通なら「裏切り者の典型の悪人キャラ」
として後世に残っても全くおかしくない家だった。ところが現実は「非常に優秀な一家」
で通っている。
それはひとえに本来はただの自殺の場でしかなかった大坂の陣での幸村の突撃につきる。
第2次上田征伐でもそこまで活躍していない幸村が大坂で自殺or売名行為オンリーの突撃を
したことによって「真田日本一の兵」などと呼ばれ、
さらにそれのみにとどまらず真田家全体の評価も「ものすごい優秀で強い一家」
という評価に変えてしまったほでである。
それだけ、「突撃」には効果がある。
だから、後世の実朝あたりがそれこそどっかで「死をもいとわぬ突撃」を
敢行していたならば、よりとも一家も優秀強いとなったはずだ。、、、、、かも。
でも、ただの突撃ではだめだ。相手がうんこをもらすぐらい強烈な突撃でないとな。
449 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 22:45:28
>>443 宇多天皇が皇族時代に臣籍降下して源定省と源氏を名乗っていたが
皇族復帰、天皇に即位の例があるから、力ずくで無理やりこの先例を
持ち出して、頼朝以降の嫡流が皇族に復帰、天皇になることも
不可能ではないと思う。
450 :
mm:2005/09/15(木) 22:48:37
>>1もう無理っぽいゾ。。。
弟の子供殺してしまったんだから・・・
451 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 23:01:36
兄弟殺しは安康天皇、反正天皇、雄略天皇など古代天皇に
初まり、織田信長、伊達政宗もやっているし直接手を
汚さなくても摂関家や平家もやっているからなあ。
>>451 織田信長や伊達政宗の兄弟殺しはいわゆる家督争いで、
完全に邪魔者だったから排除する必要があった(しなければ殺されていた)。
頼朝の場合は家督を争っていたわけではないんだし、
義経や範頼に頼朝を殺そうとする意思は(たぶん)なかっただろうから、
無理に義経や範頼を排除する必要はなかったんじゃないかな?
(無論、木曽義仲は危険人物だったから排除されて当然だが)
453 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 01:17:32
殺さなければ殺される状況かどうかの違いだろう。
秀衡死後の奥州の義経は放置しておいても一向差し支えない。
454 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 03:48:54
死をもいとわぬ「突撃」これ一つつきるね。
真田家ってのがあるだろ。あれは普通なら「裏切り者の典型の悪人キャラ」
として後世に残っても全くおかしくない家だった。ところが現実は「非常に優秀な一家」
で通っている。
それはひとえに本来はただの自殺の場でしかなかった大坂の陣での幸村の突撃につきる。
第2次上田征伐でもそこまで活躍していない幸村が大坂で自殺or売名行為オンリーの突撃を
したことによって「真田日本一の兵」などと呼ばれ、
さらにそれのみにとどまらず真田家全体の評価も「ものすごい優秀で強い一家」
という評価に変えてしまったほでである。
それだけ、「突撃」には効果がある。
だから、後世の実朝あたりがそれこそどっかで「死をもいとわぬ突撃」を
敢行していたならば、よりとも一家も優秀強いとなったはずだ。、、、、、かも。
でも、ただの突撃ではだめだ。相手がうんこをもらすぐらい強烈な突撃でないとな。
>>452 義経については命まで狙っていたのではないのでは?
泰衡には「義経を差し出す」ように要求していたが泰衡はそうでは
なく殺してしまった。
まあ捕らわれて鎌倉に送られても殺されることに変わりはないかも
知れないが。
>>443 それはないでしょ。
「皇族の血を引く貴種」が皇統そのものを乗っ取ったら
自分の血統そのものを否定することになり
御家人の上にのるアイディアンティーそのものを失うことになる。
また、当時の公家社会は決して無力ではなく
かなりの力をもっていた。
>>442 道長の時代も治安最悪。
それでも「源氏物語」が書かれていた。
幕府の成立によって逆に地方の治安はよくなった。
また、荘園が急増したのは実は鳥羽院以降のことで
鎌倉時代もかなり増殖。
荘園がかなり増えたので、貴族達の生活が困ることはなかった。
弟とはいえ腹違いでは赤の他人と同じ。
同母の弟を殺した尊氏や信長なんかもいるわけだから、
頼朝だけが冷酷な人物といわれるのは気の毒。
>>458 失う物と得る物の差の違いだろうな。
足利はなんだかんだいって15代続いたし、
信長は尾張を一つにまとめて飛躍することが出来たが、
頼朝の場合は弟を殺したことが結果的に一族の滅亡につながってしまった。
460 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 22:22:07
>信長は尾張を一つにまとめて飛躍することが出来た
を挙げるなら
頼朝だって得た物はかなり大きかったと思うんだけど。
頼朝ばかりが失ったものを強調されすぎてないか?
義経の判官贔屓の影響としか思えないなあ。
461 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 23:13:25
義経が美化されるのは、それだけ頼朝に庶民からの人望が無かった証拠。
逆に直義が贔屓されないのは尊氏の方が庶民受けが良かったからかな?
だから足利は15代続いて源氏は3代で終わったのか。
よく、そうやって血筋が絶えるか絶えないかで比較する人いるけど
血筋に拘りすぎてると思うよ。
直系が3代以上も長々と政治の中心に居続けるのって
天皇家以外にどこがあるのか知らないから
珍しくもないことだと思ってる。
人望がなかった証拠というのも、
そう言い切るには当時の庶民の声の記録が
不足してると思うんだけど。
たんに戦で勝っただけで、政治に関わらない人の方が
美化はしやすいしね。
↑4行目頭の「当時」が抜けた…
465 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 08:44:07
>>456 しかし、その子供はその路線を完全にひっくり返した。
466 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 08:49:06
>>462 義経美化の裏には
「現実社会」への不満の裏返しでもある。
100%庶民の声を満たす政治というものはまず不可能であう。
当然為政者への不満というものは発生する。
そのはけ口として「こうだったらなあ」という希望として
死んだ人を美化するということがあると思う。
現実にも「何かした政権」は評価が高い反面バッシングも高い。
逆に「何もしなかった政権」はバッシングもない代わりにかげが薄い。
それから、源氏の血統は絶えたがこれは御家人内部の対立という問題
のほうが大きい。
庶民とは無関係な部分で起こったもの。
そんな対立抗争が続く地盤で「幕府」という存在を
100年以上続けさせた功績の方が大きいと思うし、
一代かぎりではなくとりあえず三代続いたことで
「将軍」の座というものの必要性を作り出した点も大きいと思う。
>>463 >たんに戦で勝っただけで、政治に関わらない人の方が美化はしやすいしね。
要するに政治家=悪人という現在のイメージとあまり変わってないということだね。
468 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 12:56:05
頼朝は偉大な政治家
家康も参考にしていた
469 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 15:16:27
ぶっちゃけ、腹違いの兄弟なんて何の感慨も愛情も湧かないよ。
むしろ憎悪しかない。
俺も腹違いの弟が二人いるけど殺してやりたいぐらいだし。
ここで個人の私怨を持ち出されてもねぇ
尊氏もそうだけど、明治政府の人間にとことん嫌われてたからな。>頼朝
廃仏毀釈運動で一番大打撃を受けたのは鎌倉だったそうだし。
472 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 11:03:54
長い目で見ると頼朝って必ずしも勝者じゃない。晩年は大姫入内の件で朝廷に振り
回されるし、彼の死も謎に包まれているし、源氏は三代で滅亡するし、また鎌倉殿
側近の御家人の多くは、承久の乱で後鳥羽方について没落する。で残ったのは
何かというと「思い出」。つまり義経もそうだが、実は頼朝も武家政権勃興の際の
「英雄伝説」なんだと思う。頼朝が悪く言われるのは、まあ、江戸時代末まで、
将軍は、一応頼朝の身内という名目だったのだから、政権への不平・不満を直接
表現するわけにもいかなかった庶民の、長年の恨みつらみの名残なんだと思う。
ま、鎌倉駅のロータリーに大頼朝像を創ることだ。
474 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 12:18:43
頼朝はそうでもなさそう。
伊藤博文がイギリス来訪も時に勲章を授与されようとしていた時に
義経が勝手に判官の位をもらって頼朝に怒られた事を故事にして
辞退したというから、それなりに評価はされていたみたい。
>鎌倉殿側近の御家人の多くは、承久の乱で後鳥羽方について没落する。
そうだったの?
476 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 13:44:50
>>475 主な京都方の頼朝関係者
二位法印尊長、一条信能→頼朝の妹婿一条能保の子孫
後藤基清→元一条家の家人
大内惟信→頼朝の生母の実家(熱田大宮司家)の一族
三浦胤義→頼朝の義理の子供
粕屋氏→比企一族の乱に連座して殺された一族の子孫
和田朝盛→和田合戦の生き残り
最後の和田一族以外は皆頼朝の関係者
正確に言えば、頼朝の関係者で尚且つ北条とも対立した連中。
>>475 この辺に関しては少し解説が必要だう。
二位法印尊長、一条信能→頼朝の妹婿一条能保の子孫
しかし、母は頼朝の妹ではない。
後藤基清→元一条家の家人
頼朝の死後直後の「三左衛門尉」事件で流罪にされた
その際、頼家が御家人である彼らを保護せずに
見捨てたという幕府に対する不信感があった
三浦胤義→頼朝の義理の子供
彼の妻は頼家の元側室で頼家の遺児禅暁の母
禅暁を実朝の死後将軍職につけようと画策するも
それが失敗し、禅暁も殺される。
そういった面での幕府に対する恨みもあった。
粕屋氏→比企一族の乱に連座して殺された一族の子孫
粕谷一族は比企能員の娘婿。
姻族のおきてに従って比企の乱の際は比企に同心していたらしい。
というわけでそれぞれの背景は非常に複雑だったのである。
↑これ見てると
頼家がもっと早くに生まれて
頼朝が死ぬまでにきちんと教育されてれば
その後の幕府も、少しは違った気がしてくる…。
>>478 足利義満も幼くして将軍になったけど、
細川頼之のおかげで立派に成長したんだよな。
源氏政権には頼之のような有能な忠臣がいなかったのが致命的だった。
480 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 05:42:56
足利にせよ徳川にせよ譜代の家来がいたが、頼朝にはないに等しい。
>>476-477 サンクス
承久の乱といえば後鳥羽上皇が勝手に宣戦布告して誰も応じなかったのでそのまま自滅したと思ってたんだけど、応じた武士いたんだ。
確かに
>>480の言うとおり頼朝は坂東の武士達の
意向を汲み取った上でのリーダーだからな
将軍になったから偉いんじゃなくって
将軍になったら更に彼等の意思を受け取らなきゃならない
色んな武士達の思惑を上手くバランスとらなきゃいけない分で
頼朝は相当の苦労をしたんだろうし
頼朝は覇王タイプでも仁君タイプでもないんだよね。
その中途半端さが現在の低評価につながっているのかと。
鎌倉の真の英雄は北条政子
>>483 確かに頼朝ってよく言えば中道、悪く言えば中途半端。
しかし、その頼朝のファジーさがあの時代に必要だったと思う。
坂東の君臨した「武家の棟梁」の部分と
朝廷に仕える「都の武家貴族」としての側面。
(このことが現在の「軍事権門論」と「東国国家独立論」にも
反映していると思う。)
これがあったればこそ、あの時代彼の成功があったと思われる。
486 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 01:29:47
>483
いや現在は評価高いよ。まあ小説講談レベルなら悪玉だけど。
487 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 01:33:49
>485
そこがアウグストゥスみたいな面があると思うな。
王政は立てず共和制を存続させると言っておいてローマでは元老院の一議員
なんだけど、実は強力な軍事力自体は持っているみたいな。
488 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 05:14:48
中井貴一を降板させて、他の役者に替えたら?
>>486 どちらかといえば江戸時代まで過大評価されてきたけど
明治以降化けの皮が剥がれて評価が落ちてしまった印象がある。
>>487 確かにアウグストュスに似ているなあ。
彼も日本では今ひとつ人気がないような気がする。
クレオパトラの敵だったせいもあるだろうが。
491 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 12:34:18
>489
いや、それがまた最近高くなってきているんだが.....
頼朝が人気ないのはしょうがないよ
人気出るようなこと自分で一つもやってないし
493 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:21:35
思うに鎌倉殿もローマ元首(皇帝とはまだ呼べない初期の)も
ケースバイケースで立場を使い分けていたんじゃないなかな?
鎌倉殿は「板東武士の頭領」と「朝廷の征夷大将軍」を、
ローマ元首は「元老院の第一人者」と「軍事司令官」を使い分けたと思える。
アウグストゥスは神になったから別格としてアウグストゥスの体制を固めた
ティベリウスが中世を通じて評判がすこぶる悪い。良くなったのは
ヴォルテールからで、やっぱり地味な作業は苦労のわりには評価されない
んだろうなあ。
494 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:25:27
>>488 小物だからあれぐらいでちょうどいいんだ。
495 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:29:59
>>488 中井貴一はなかなか、いいと思うけどな。
あまり感情ださないところとか、何かモノを言う時に
一瞬考えて言うようなところが微妙な政治センスを要求された鎌倉殿
を表しているように思える。
でも頼朝が現代で首相になったら海外からの信用がガタ落ちしそう…
(特に中国や韓国は今以上に反日感情が強まるかも)
義経みたいに後先考えず自分の名利だけ考えて大暴れするよりはましかと
>>496 頼朝は情報戦略はバッチリだったから
相手を刺激することだけはしないでしょ。
とにかく、情報を集めることにかけては一流だったらしい。
しかし、ブレーンがそろっていた鎌倉時代ならばとにかく現在の外務省では
>>489 江戸時代は「自称源氏」の徳川と武家政権の正当性を頼朝に求めたため
ある程度祭り上げられたという部分がある。
明治はその反動と江戸幕府とその源泉とみなされた「武家社会」創設者扱い
に対する風当たりの悪さというのもあったと思う。
また、どこまで信じていいのかわからないが「義経=チンギスハーン説」を軍部が
利用して義経人気をあおっていたとしたら
その反動で評価が悪くなった可能性がある。
一方、戦後「唯物史観」に鎌倉幕府成立が利用されたが
最近はその呪縛がとけつつある。
もう少しすれば過大評価でも過小評価でもない頼朝というものが
出てくるのではないかと思う。
いろいろな社会状況などが反映されて頼朝の評価がコロコロ変わった
可能性がある。
近代以降評価がコロコロ変わったと言えば足利尊氏のほうが顕著であろうが。
>>496 なんでそう思うのかわかんない。
外交上手そうに思うけどなあ。
>>500 頼朝の海外での評価の低さを見れば誰だってそう思うだろ。
昔「HARAKIRI」という日本好きのアメリカ人が作った
(色物系の)歴史SLGがあったが、
その中でも頼朝は能力値が他の大名に比べて低めに設定されていた。
ゲームかよw
503 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 13:48:20
HARAKIRIの制作者も日本語で資料を自分で細かく調べたわけでは
ないから、低めに設定されても仕方がないわな。
先述のティベリウスもヴォルテールが細かい信頼できる資料を
(スウェトニウスみたいなのではなく)読み込んで復権を
唱えたんだから、もうすこしまっとうな評価には時間がかかると思うよ。
オレは過大評価している方になるのかな?理由は鎌倉幕府を機に日本の社会
が中国や朝鮮半島などの社会と異なる社会になっていったから。
ちょっとうまくは言えないけど、鎌倉幕府のようにいつの文化圏に2つの
権力構造があったおかげで他の東アジアの専制国家とは違い、近代化のため
に体制そのものを移行していく思考の妨げにはならなかった。ちょうど中国が専制体制
の維持を目的に近代化を道具として使い、あげくに権力闘争に明け暮れた
のと大きく異なっていると思う。
ちょっと考え過ぎかな?
反面、鎌倉幕府の成立が有事への対応に遅れがちな日本人の体質を作った、
と否定的に捉える人も多いんだけどね。
505 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 20:53:25
>>504 それは興味深い。どうしてそうなるのか知りたい。
もちろん純粋な疑問。
どうあがいても名誉回復は無理だから、
思い切って頼朝を董卓やフセインのような暴君だったということにすれば?
「晩年の頼朝は己の私利私欲のために民に重税を課すなどの悪政を行い、
兄を諌めようと反対した義経、範頼は殺された。
そのため配下の御家人たちが立ち上がり、頼朝とその一族を暗殺した。」
新しい教科書にはこう書けばいいんじゃない?
507 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 21:31:30
この時代を勉強すれば、
頼朝好きが増えると思うんだが・・・
甘いか?
508 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 21:38:23
疑問だが、世間は言うほど頼朝を極悪人と思っているのか?
家康同様に少年時代は苦労をした苦労人を思っているのじゃ?
少なくとも自分の周りは、そう思っている人が多い。
余り日本史に詳しくない人のイメージでは清盛が極悪人、
頼朝は正義だと思うけど?
>>508 今更言うまでもないとは思うが、清盛との対比ではなく
昔からの大変な人気者の義経を殺したから、極悪人とまで
行かなくても、頼朝は人気がないんだよ。
腹違いとはいえ弟を殺すのはひどすぎるというのが、この人
たちの主張だが、それは違うと思う。
510 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 21:47:54
こすい小悪人ぐらいが世評だな。
511 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 21:49:30
小解決:中井貴一ではなく、ヒロシにさせる。
中解決:中井貴一ではなく、辻・加護のWにさせる。
大解決:中井貴一ではなく、レイザーラモンHGにさせる。
512 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 21:52:50
むしろ歴史に詳しい人は頼朝を評価しているしな。
義経の原作者自身、義経の方に非があるとか言っているし。
頼朝以降の武家の有名人は頼朝を尊敬しているのが大半だし。
今回の大河ドラマで頼朝の見方が変わった視聴者も結構いる
のでは。
>>508 義経のほうが苦労人というイメージが強い。
>>513 今回の大河では全然苦労してないがな・・・
515 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:01:13
>>513 そうか?
死罪寸前も経験して、伊豆に流されたのが有名でしょ?
それに比べ、鞍馬寺なんかやさしい方でしょ?
516 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:03:59
家康が頼朝を尊敬しているのは、自分と同じように少年時代に
いつ命がとられるかもしれない境遇から、這い上がってきた
ところが似ている点もあるのも理由だと思うな。
517 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:07:17
源氏は同族で相食み殺しあうのが運命。
所詮は源氏等、ただの神輿にすぎぬ。
神輿を担ぐ者の心得ひとつ。
518 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:11:34
>>517 平家も将門の時のように同じような物だろ?
北条や安達も平家では?
519 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:16:33
家康が尊敬してたのは幕府開闢の参考でもあるかな
521 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 22:26:27
朝廷に取り込まれなかっただけでも価値がある
522 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 23:42:40
この兄弟は腹違いと同腹の違いがあるが石原慎太郎、裕次郎兄弟に
似ていない?
頼朝・慎太郎=堅実努力型
義経・裕次郎=自由奔放天才型
堅実努力型で、逆に自重しすぎて国を滅ぼしてしまったのが北条氏政だな。
石田三成も案外頼朝に近いタイプだと思う。
もし、義経が承久の乱まで生きていたら、
1.大仏が鎌倉じゃなくて平泉に建てられていた
2.「北条高時腹切りやぐら」が「北条義時腹切りやぐら」になっていた
3.元寇は起こらず、元と友好関係を結んでいた
4.またまた手柄独り占めしようとして陸奥の武士たちからも総すかんを食らい逃亡
527 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 11:35:02
528 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 04:01:44
弟を殺しているという点では、ドラマ化すると人気がでる人物である織田信長も伊達政宗も同じ(しかも同母弟)。これ以外にも似たような例は多々あるのに頼朝ばかりが悪者にされる
ふと思ったんだが、これってドラマの作り方にも問題あるんじゃないのか?悲劇の主人公=義経(薄幸の美少年)とした方がバカなOLや暇な主婦にも受けがよい。義経の設定をワガママな醜男としてみたら良いと思う
529 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 04:36:04
>>521 頼朝自身は朝廷と近づきたがってた
生きてたら清盛と同じように大姫を朝廷に嫁がせて
もっと親密な関係を築いてたろうよ
>>529 頼朝の娘はみんな不審な死を遂げてるな
そして最後には頼朝自身もw
>>529 清盛並みに親密な関係は無理だろう。
まず、中宮として既に兼実の娘がいた。
頼朝自身鎌倉にいるし、平家みたいに親族を朝廷に送り込むこともできないので
中宮や生まれる皇子の親衛隊を作るのも不可能。
頼朝自身が「権大納言」をすでに辞めているので朝廷の中枢に入り込むことは不可能。
532 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 10:16:49
大姫に皇子が生まれてたら、
逆に朝廷を遠隔操作してたのでは?
>>532 当時の鎌倉にはそんな力はなかっただろう。
鎌倉の有る程度の「自治権」を確保した程度。
「承久の乱」の後さえも、上皇を配流にしたが
朝廷内部の事項に関してはそんなに干渉していない。
承久の乱じたい「朝廷からの干渉を幕府が撥ね退けるのに成功した程度」
と評している人さえもいる。
534 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 17:02:36
>>528 所詮、頼朝は北条の傀儡であったではないか。
義経のように敵と転戦したり、京の渉外事務をしていた訳でもなく、ただ
鎌倉に「ある」のが頼朝の平氏の次の支配権の看板としての役割。子供時
分から染みついた関東御家人と流刑人の関係を死ぬまで引きずってたんだ
と思うよ。自分の兵隊も、領地も、カネも、屋敷さえ持ってなかった居候
なんだから。
織田信長や伊達政宗のように、一国一城の具体的な拠り所や、周りから自
分で出陣もさせてもらえなかったんだから、何一つ北条の思惑の代行しか
できなかったんだよ。(関東御家人を味方に付けるまでは負け戦ばかりだっ
たから指揮能力も怪しいかも)
535 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 18:08:56
外交能力も高いと思うよ。
大仏再建の時に息子をお披露目し、関東武士の示威的なもの。
それに、後白河にもてあそばれてないw
>>534 北条の傀儡というのは言いすぎだろう。
北条は大切な後ろ盾とはいえ、弱小豪族だったんだから。
ただし、北条のみならず坂東武士団それぞれの意思の上に
乗っているので、かれらそれぞれの利害を
気にしなければならない面が強かったと思う。
それから、負け戦といっても
頼朝が陣頭に立って負けたのは実質石橋山だけだし(つまり唯一の敗戦)
その石橋山も兵力差が10倍負けていたのだから
戦闘に負けて当然。
(平治の乱の敗戦責任は、信頼と義朝にあるだろう)
>>534 むしろ北条の方が最初は「頼朝の姻戚」という地位に
頼り切っていたんじゃないのかな?
それを利用して頼朝の死ぬ頃までに勢力を伸ばしたしたたか者という気がする。
政子が御台所になれる「血筋」ではなかったと言っている人もいたし。
538 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 00:23:59
頼朝は傀儡ではないよ。むしろ乱立してちっともまとまりがない
板東武者をまとめあげた。北条と縁故を結んだのも勢力が強ければ
縁故は結んでいなかったかもしれない。当時の武者は一族の名誉
や利権が侵害されると即暴力沙汰になる事が多かったし、一族の者の
総意がまとまっていれば家長とはいえども逆らえなかった。
北条が有力な板東武者からは問題外の存在だったからこそかえって
特定の勢力に対立する事なく、また北条にも気兼ねなく独断で裁量を
仕切れたのではないだろうか?頼朝が頼みとしていたのは自分の持つ
武家の頭領としての家柄と朝廷にも通じる貴族としての権威だったろう
と思う。
頼朝のすごいところは自分の正統性を裏付ける武家の頭領としての家柄と
朝廷の権威ですら幕府をつくるための道具として割り切っていた事にある
と思う。これは平清盛が太政大臣として律令体制の中に飲み込まれていった
のと大きく異なる。この点で頼朝は同時代人の考えより一歩先をいっていた。
539 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:00:49
ただの北条家の一極支配の為の道具だよ。頼朝もその子や血族も。
生殺与奪の権利をすべて北条家に握られていた。
まあ、義経は本来、奥州藤原家の人形だったんだろうが・・・
北条陰謀説でも立てたらどうかな
541 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 01:47:46
>>539 実朝が殺された時、北条はかなり焦ったと思うけどな。
勢力は有力御家人に遠く及ばない上に縁故のあった源氏将軍は
殺される。ようやく朝廷から代わりの将軍を迎えたのはいいが、
後鳥羽法皇に幕府が混乱していると見られ、あげく源氏将軍がいなくなって
以来縁が疎遠になりがちな有力御家人に裏切られて承久の乱を起こされるわで
火の粉を払っていくうちにいつの間にか権力がついていったっていう
方がしっくりくると思うが。北条泰時も評定衆として合議制を重んじた
わけだし。頼朝の創設した鎌倉幕府を必死で守ろうとしたのが北条氏だと
思うよ。むしろ頼朝以来のほとんどの有力御家人の多くが朝廷の反幕府
運動と結託して消えていったといっていいんじゃないだろうか?
542 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 02:07:28
思い込みが激しいのは判るがもっと簡潔にな
543 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 02:18:12
思い込みが激しいというなら自分の考えを言ってみたらどうだ?
544 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 10:45:37
頼朝は北条の傀儡とはいえないと思う。
頼家からは別だが。
545 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 11:17:45
北条の源氏姻戚支配を嫌った、心ある坂東の御家人達がその支配の
基礎となりうる源氏自体を廃そうとしたんだよ。
実力のない格の低い北条なんぞに、平氏のようにのさばられてはか
なわないからな。
546 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 11:19:41
源氏を潰そうとした御家人たちって、誰のこと?
具体的にキボンヌ。
547 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 11:26:43
一番の上手はやはり朝廷、法皇様というオチ。
548 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 11:31:49
武士って案外、単純かつ妬み深いところがつけいる隙なんだろな。
平治の乱でも源平合戦でも、奥州討伐でも、承久の変でも、ヤクザ
とかわらん。
しかし朝廷は毒を使うのでこわい。
549 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 11:35:27
頼朝は鎌倉から出たがらなかったのは、身の危険を感じていた為。
頼朝って過去の武士の支配者達の歴史とかに学んだんじゃないかなぁ
平将門のようにあからさまな独立を唱えた末路とか
源義家のように余りにも軍功で目立ちすぎて朝廷からの危険視された事とか
何よりもバランスって言うものを一番重視した結果
自分自身が過剰に目立たない方向に行ったんだと思うけどな
551 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 12:03:06
要は自己保身で、危ないとこだけ九郎にさせたと。九郎も苦労するよ。
552 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 12:12:46
>>549 承久の乱で頼朝に近かった有力御家人ほど朝廷と結んで京方に
ついている。
北条憎しで取った行動だろうけど、実際やっていた事は頼朝の構想を
つぶそうとしている。私的な理由で頼朝が築いた公的な組織をつぶそ
うとしているのはとても評価できる態度とは言えない。
553 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 12:14:51
一番の上手はやはり朝廷、法皇様というオチ。
ふぉぉぉぉぉ〜!!
554 :
552:2005/10/09(日) 12:15:17
555 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 12:20:30
頼朝はただの流罪人で罪はなかったのです。後見人の北条が色目、
欲目を使ったからこそ、義経はじめ源氏一門は政争の道具とされ
謀殺されていったのです。
後見たる北条の品のなさが、すべての原因です。
555のレスはヤフーの日本史トピで独自の見解を定期的に
書き込んでいるB氏に似ているなあ。
>>541 そうなんだけど、
北条だけが権力を握っていたわけではないのだな。
鎌倉中期までは。
安達などの有力御家人との「連合政権」みたいなもので
彼らの顔色をみながら北条は幕府の運営をしていたんだよね。
560 :
541:2005/10/09(日) 13:47:09
>>559 それは分かっている。だから泰時の評定衆の事も書いた。
それから下って宝治合戦で宮将軍を使って幕府に干渉する朝廷の影響
を排除し、元冦で未曾有の危機なのになかなか動かない武士をどうやって
動かすかと模索をしていくうちに自然と得宗専制と呼ばれる体質になった
と思う。これは北条氏の代々の意図というより時代の要請だったと。
561 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 14:03:30
「鎌倉幕府は政権絶頂期につぶれた」
ってのは得宗制の事?
562 :
日本@名無史さん:2005/10/09(日) 14:07:55
北条氏の全盛期にってことだろう
朝廷や御家人に気を使いすぎて短命に終わった源氏政権の失敗を教訓にして
朝廷の権威に真っ向から刃向かったのが足利尊氏というわけか。
564 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 07:09:37
足利尊氏が立ち向かえたのはよくも悪くも個性の非常に強い
後醍醐天皇という存在があったからかもしれない。
565 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 08:35:05
566 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 12:18:19
政子がサザエさんで時政が波平さんなのは動かし難い事実。
「磯野家」こと北条家に住まわしてもらってる「フグ田」じゃなくて
「源」さんの肩身の狭さよw
567 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 12:31:12
白木の坂東武者共に、頼朝は骨の髄までしゃぶられつくした訳だ。
北条家と御家人共の政争の玩具。御家人共の尻をけったのは法皇だろうな。
奥州藤原氏に情報戦みたいな寝技は期待できん。
>>1 義経が極悪人であったことを、世間に暴露する。
570 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 23:06:28
頼朝は北条にとって、ただの種馬。
当て馬だ!
572 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 01:32:30
572
573 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 11:18:01
源氏が他の御家人との婚姻関係を結ぶのを阻むため、姫達をみな毒殺
したのは北条の仕業。
義経は空気読めない、構ってちゃんなDQNというイメージが強い俺は逝ってよし?
575 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 12:27:46
ま、ある意味時代の破壊者にはなれる。今でいえばホリエモンや村上ファンド
みたいなものではないか?
>>574 そうだね。近年の普通な認識だと思う。
やっぱ司馬氏や永井氏が言い出したのが広まったんか?
578 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 15:38:09
海外では歴史上最も優れた日本人として高く評価されてるってよ!その後
長く続く武家政治を最初に築いたってことで。
579 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 16:44:42
海外ってどこだ? 中朝なら却下ね。
580 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 17:13:33
なんで義経みたいな不良少年が大河の主役になるんだ!!!
義経の少年時代はほとんど謎のはずですが、どうして不良だってわかるの?
584 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 04:52:11
>>1 歴史小説家が頼朝を主人公にいいやつとして描き、それを原作に大河ドラマ
でやればイメージよくなるよ。もちろん頼朝役にはイケメンを起用。
>>578 いや、欧米での評価は低いと思う。
HARAKIRIでの低能力を見る限り、
世界史的に見れば頼朝はマイナーな人物だし。
586 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 05:51:52
>>585 そうかな?例えば「頼朝の肖像画」なんか「モナリザ」と並ぶ肖像画の傑作
として海外で知られてる。マイナーじゃないと思う。HARAKIRIは見た
ことないんで分からんが…頼朝は必要以上に悪く描かれてしまうからなぁー
587 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 05:58:00
その肖像画は足利直義ですよ。
588 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 06:03:47
はぁ?京都の神護寺にある「源頼朝像」だぞ。
589 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 08:03:54
「伝・源頼朝像」ね
画像が有名なのと人物が有名なのは別だと思うが。
モナリザって何者?
591 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 08:41:21
幕府を開いた武家の棟梁なんぞ、程度でいえば所詮、今の極道と変わ
らない荒くれの王様なんだから、足利尊氏、徳川家康からみても多少
のヒールで適当。
593 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 12:57:05
頼朝はただの権力厨。親族はみな殺してしまったし、子供も殺してしまった。
もって瞑すべし。
594 :
:2005/10/16(日) 13:12:10
>>584 山岡荘八が善人で書いてる小説があるがはっきりいってかっこ良くない。
今やってる大河も論外。
新・平家のブラック頼朝のほうが数百倍いい。ちゃんとブラックな理由とか掘り下げてるしね。
政子には優しいし。(打算で近づいたけどな。プ)
ゲームならチンギスハーンをやれ!能力高いぞ!
595 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 20:59:13
一番の上手はやはり朝廷、法皇様というオチ。
ふぉぉぉぉぉ〜!!
>>594 >ゲームならチンギスハーンをやれ!能力高いぞ!
確かにチンギスハーンシリーズの頼朝はやたら能力高かったね。
特にシリーズ初期は過大評価気味だった。政子も妙に美人だしw
光栄(コーエー)が元々足利市で設立されたので源氏びいきだからか?
「HARAKIRI」の源頼朝の能力
城攻29(大名16人中13位)
城守85(大名16人中3位)
格闘23(大名16人中15位)
戦闘44(大名16人中14位)
仁徳75(大名16人中13位)
格闘はともかく城攻・戦闘がこの数値では苦しい
唯一高いのが城守だがパラメータの重要性が低い
仁徳も他の多くの大名が軒並み80〜90台なのを考えると物足りない
「蒼き狼と白き雌鹿IV」の源頼朝の能力
政治87
戦闘68
知謀76
歩兵B
弓兵B
騎兵B
海戦E
戦闘技能:突撃
内政技能:農業・建築・外交・登用
トータルでは全武将中41位、日本では足利義満、足利尊氏に次いで3位。
昔のシリーズに比べると評価がだいぶ落ち着いた印象だが、
内政技能が充実しているのがポイント。
だからそんな大昔のゲームを例に出されてもなぁ
600
601 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 12:52:34
頼朝=極悪人というイメージはどうすれば消えるのか
落馬で死ねば・・・
予後不良で安楽死になったんだよね。涙無くしては聞けない物語です
>>601 鎌倉幕府を2ちゃんねるみたいなものと思えばいいと思う。
頼朝=ひろゆき
御家人=2ちゃんねらー
って感じで。
で、義経は意見の食い違いで住人に叩かれて追い出された元常連で、
義仲はルールやマナーを一切無視して荒らしまくる粘着野郎ってところか。
605 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 15:22:16
北条氏の操り人形であったという側面をもっと出してもらえればイメージも
ずいぶんと変わってくるんだろうね。
家康公も尊敬してました
みたいな宣伝文句を付ければ良い
607 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 21:15:25
ちなみに坂本竜馬はアンチ頼朝だったそうな。
そりゃあ坂本竜馬は組織から抜けてやりたい放題した人だから
竜馬の尊敬した人物は信長か秀吉ですから!
斬りッ!!残念、、、、
厳しい土佐の武士においても行われる身分差別の元凶中の元凶みたいなもんだからな
頼朝は。武士社会自体を憎んでいたと思われる。
【頼朝】 武士階級−−−革命−−−→貴族階級
【龍馬】 郷士階級−−−革命−−−→武士階級
頼朝はずっと貴族階級だったと思うが
頼朝鎌倉いいくにつくろう
頼朝が後白河法皇に対して「あなたは、日本国第一の大天狗」と述べる。
後白河法皇が頼朝に対して義経のことを「人を惑わす天魔」と述べた。
頼朝が征夷大将軍の宣下を発せられ、まだ勅使が鎌倉に向かっている途中、死の床の後白河法皇が
こう譫言で述べたという。「まだ、平家の方がよかった、源氏の世は恐ろしい、しょうこく(相国)〜〜。」と。
公家の雅は、公家にしか解らないということらしい。
616 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:25:15
結局、頼朝VS後白河法皇なんだよな。
この時代の中心人物って。
617 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:32:50
俺は頼朝を悪人とは思ってないぞ。
歴史上の一人物と考えているだけだし。
何で
>>1が頼朝を悪人と考えるかが解らない。
義経を殺したから悪人なのか?
義経だって、平家を滅ぼした訳だから視点を変えれば悪人になる訳だから、
頼朝は悪義経を殺した正義の味方と考える事もできるぞ?
618 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:33:59
義経は善ではないだろう。平家を滅ぼしている訳だから。
見方によっては、単なる悪人だぞ?
いんや、本物の悪党は、後白河だ。
で、最後の朝敵は、徳川慶喜だっけ、それとも西郷隆盛、江藤新平?
まさか、5.15とか2.26とか?
620 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 21:08:44
天皇家をすげ替えようとしている小泉純一郎。
第二の大室寅之助ですか?
622 :
日本@名無史さん:2005/11/06(日) 02:05:12
頼朝って性格が暗いというか、いじめっ子のイメージなんだよね。
>>622 むしろ引きこもりのイメージ
平家討伐の兵を挙げたときも頼朝はほとんど動かずずっと鎌倉に引きこもっていた
大河ドラマ的に言うと、
父親の世代 源頼朝=石坂浩二
平清盛=仲代達也
武田信玄=中井貴一
俺の親父曰く、中井が出演する番組は、全て暗くなる。
武田信玄は、松平健にすべきだった、と。
当初は、中井ではなく、松平健で決まっていて、トラブルがあって主役が変更されたらしい。
歴史的有名人物のイメージは、テレビによって変えられてしまうのですね。
625 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:34:19
静にした仕打ちを見れば
頼朝の性格はねじけているとしか思えない
626 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:38:34
後白川法皇が義経びいきだったのは間違いない。
頼朝に迫られて義経追討の院宣を出した後も
裏で各地の社寺に手を回して義経の逃走を助けたのだから。
627 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 20:44:16
頼朝将軍家は三代で臣下である北条家に
皆殺しにされました。
兄弟殺しに主君殺し、まさに血で血を洗う
汚らわしい政権ですな。
628 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:50:43
大和源氏の子孫の俺がきましたよ
義経はともかく、範頼はいい奴だったのに…
漏れは「蒼き狼と白き雌鹿」シリーズやるとき
義経、範頼は召し抱えるけど北条一族は全員斬首することにしている
>>625 頼朝には「武士の情け」などこれっぽっちも無いってことが解るな。
所詮鎌倉は野蛮人の都ってことか。
なにをまさら
坂東武者に理性なんか要求している奴はこのスレにはいないだろ
633 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 23:20:31
>>1 イノタケに頼朝を主人公にした漫画を描いてもらえ。。
そしたら、史実を全てメチャクチャに塗り替えてもらえるから(笑)
やだよあんな登場人物総ジャンキーみたいな絵の漫画家。
635 :
正一位関白征夷大将軍:2005/11/23(水) 07:27:48
頼朝と北条一族はうんこ?
鎌倉が衰退したのは今川範忠のせい
637 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 13:48:38
637
638 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 15:10:44
>>605 それでこそ俺らのような一般人に歴史が少し理解できる。
「しずやしず しずのおだまきくり返し 昔を今に なすよしもがな」
この歌を歌った静御前と当時の静の置かれた立場を考えれば・・・・
639 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 19:48:18
>>636 今川範忠って足利義教の時代の人物だろう?
それなら室町が衰退したの間違いだろう?
・・・とお約束のツッコミを入れておこう。
ってか今川勢が鎌倉を焼いたんじゃないっけ?
それなら範忠の祖父か曽祖父の世代の人じゃ・・・
今川範忠は義経を尊敬しておりアンチ頼朝だったらしい。
だから鎌倉の街を徹底的に破壊したとか。
今川範忠って今川義元のひいおじいちゃんだっけ?
645 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 21:14:34
義仲や義経の子供まで殺した頼朝て
まさに極悪人に間違いないだろ。
家来からも慕われてないし
647
>>645 頼朝や義経を助命したために滅んでしまった平氏を
反面教師にしたのだと思うが。
冷酷な人物だとは思うけど。
649 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 10:04:31
>>645 >義仲や義経の子供まで殺した頼朝て
>まさに極悪人に間違いないだろ。
頼朝が戦後になっても正当な評価をされない最大の理由はそれだろうな。
ましてや幼児が殺害される事件が多発しているこのご時世では
再評価は絶望的と言ってもいいだろう。
実は頼朝が清和源氏の嫡流というのは「勝てば官軍」というか大本営発表的欺瞞で、
そんなにきっちりしたものではなかった。
本来の嫡流は義仲系であり、義朝の子の中でも頼朝の嫡子は本当は確定した
ものではなかった。
そういう不安定な立場だったゆえに、自分を脅かす可能性がある正しい血筋
の義仲や義経の子孫の存在を許して置けなかったのだろう。
悪人と言うより単なる小心者であろう。
>>650 それもあるだろうが、単純に将来自分を親の仇と狙うのを
恐れたというのが大きいだろう。
652 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 12:30:21
源頼朝です・・・
幕府を成立させたのに極悪人のレッテルを貼られとるとです・・・
源頼朝です・・・
大河で主役を張った事が無いほど後世では嫌われてるとです・・・
源頼朝です・・・源頼朝です・・・(´А‘)
>>652 ワロタ
確かに頼朝って自虐的なイメージがあるね。
ついでに執権北条一族も自虐的。逆に足利一族はプライドが高い。
つうか頼朝って冷徹な様に見えながらも
しっかりと源氏の本能に従ってる気がする
結局、頼朝も御家人連中も私利私欲でしか動かない取るに足らない人物だったってことだな。
むしろ、鎌倉時代を本当の意味で支えていたのは数多くの名僧たちではないだろうか。
雲を掴む様な理想理念を政治に持ち込むほうがヤバイ
北条一族には朝廷を滅ぼして新たな王朝を作るぐらいの気概がほしかった
658 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 01:07:34
源頼朝です・・・
日本史上初めて武家政権を作ったのに、逆らった弟義経をいじめただけで
極悪人扱いされるとです・・・
足利尊氏です・・・
室町幕府を作り武家政権を存続させたのに、後醍醐天皇の裏切り者と罵られ、
同時代の楠正成や新田義貞よりも人気が無いとです・・・
徳川家康です・・・
江戸幕府250年の太平の世を築いたのに、タヌキ親父とか言われて、
織田信長や豊臣秀吉よりもパッとしないとです・・・
源頼朝です・・・ 足利尊氏です・・・ 徳川家康です・・・
何故か人気が無い、幕府開祖3人組とです・・・('A`)
659 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 06:31:11
頼朝、家康は人気あるとおもうよ。義経・信長に華を奪われてるけど。
尊氏も再評価されてるけど執権北条一族は人気なさすぎ
執権北条氏は初代の時政が凡庸なのが痛い
能力的には、泰時≒時頼≒時宗>義時≒政村>>>>>時政≒貞顕≒守時
>その他の執権>>>>>>>>>>>>>>高時って感じ。
北条一族の低評価は、戦前までは「日本の発展を遅らせた遠因」
(お飾り役職を作りすぎて優秀なリーダーが生まれにくい土壌)を作ったとして
徹底的に叩かれたことに加えて、
残っている資料が少なすぎるから再評価したくてもなかなか出来ない
という事情も重なってるような気がする。
だから「鎌倉幕府は単なる一地方政権説」とか「泰時は他人の子だった説」とか
「義経=チンギスハーン説」とか、奇妙な説が出てきてしまうんだろう。
吾妻鏡は北条一族に都合の良いように書かれているから、インチキだらけで信用できない。
源範頼の評価も豊臣秀長とかに比べると低すぎるね。
司馬遼太郎や境屋太一が小説にしてないからね
豊臣秀吉が朝鮮人から嫌われているのは有名だけど、
フビライが日本人から嫌われているという話は聞いたことが無い。
同じ侵略者なのに。
それだけ鎌倉幕府(というか頼朝と北条一族)が
現代の日本人にとって魅力に乏しいってことなんだよね。
元寇は(一応)自力で撃退した
日本は、外国に侵略されたのが太平洋戦争のただ一度だけで、
その“唯一の侵略者”であるGHQが善政を行っていたから、
「侵略者=悪」というイメージが薄いのかもしれない。
フビライはやられキャラだが、秀吉は違う。
朝鮮半島での豊臣秀吉、西郷隆盛、伊藤博文の嫌われっぷりは半端じゃないが、
頼朝の評価はどうなってるんだろう?
673 :
& ◆/HPq4mSsdY :2006/02/13(月) 19:32:05
NHK大河ドラマ「草燃える」 原作:永井路子をもう一度リメイクすれば
いいだろう。役者次第でイメージががらっと変わるからな。
毛利元就みたいにみんなが善人と思い込んじゃうかも。
去年のタッキー義経と中井頼朝の取り合わせはちょっと頼朝が不利だな。
674 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:07:28
単独主役で大河ドラマにしてやればいいんじゃないか。
草燃えるだと政子と結婚するあたりからだから。
平治の乱で父や兄を殺されて、伊豆に流され、
ひっそり生きざるをえなかった青年期などをうまく描ければ
好感度あがるだろう。
675 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:24:50
どう考えても頼朝は糞極悪人だね。
滝沢君がかわいそう。
676 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:28:31
ああやって長い間人質生活すると頼朝とか家康のような性格になるんだね
全国の人質マニアの人も気を付けた方がいいぽ
677 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 07:16:06
>668洗脳されてるな藻前
>>676 家康には太原雪斎という教育係がいたから理性があったけど、
頼朝はロクな教育を受けていないから人の痛みがわからない歪んだ人間になってしまった。
679 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:28:28
頼朝は、千葉常胤・結城朝光・八田知家・和田義盛を厚遇しているけど、
これらは考えてみると、庶流の連中なんだな。嫡流はそれぞれ、上総広常・
小山朝政・宇都宮朝綱・三浦義澄で、庶子を親衛隊として抱え込み、宗家に
対抗させて勢力を削減する狙いがあったのかもしれない。大武士団は味方に
いるときは頼もしいが、敵にまわすと脅威だから・・・。でも、結局は頼朝が
引き立てた連中も、頼朝死後は各自の判断で勝手に動いていくわけで、源氏
将軍に忠実な直轄軍は完成しなかった。頼朝の遺志を守ろうとしたのは、
梶原一族と比企一族だけだった。平賀、足利、安達、結城、千葉、畠山、
三浦、和田、誰も頼家を助けようとはしなかった。
結局、自前の領地・軍・家臣がほとんど無かったからなぁ
反対勢力に担ぎ出されるのを恐れて弟達を殺したはいいが
だからといってそれが自分の直系を守ることにはならなかったんだな。
鎌倉幕府は所詮、寄合所帯。よって、頭が消えればバラバラになる。
信玄病死後の武田家、信長横死後の織田家、ヒトラー自殺後のナチス、
ラオウ昇天後のラオウ軍などと同じ。
684 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 03:34:23
経基王と満仲がつながらんぞ。満仲の略歴もあやしい。
頼朝は誰の子孫なんだ?
担がれるまでもなく放置してたら義経は反対勢力になり得ただろ
せっかく平家倒したのに国が分かれてしまうくらいなら弟でも殺す
逆にそんな頼朝だからこそ天下人になれたわけだ
>>685 頼朝が死んでバラバラになったんじゃ意味が無い
鎌倉時代を執権さえ早死にしまくりの貧困の時代にしてしまった責任は重い
687 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 11:52:49
頼朝も人質時代はそれなりに悠々自適な生活してたように感じるけどな・・・
女のケツ追っかけたりして。
ロクな教育受けてない人が「幕府」というのをを開いて今までになかった武士の新しい形、
立場を築ける訳ないでしょ。
ましてや朝廷や奥州相手に脅威を感じさせるほどの当時無いほどの力を維持してたし。
血族には冷たかったかも知れないが。
688 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 18:54:09
頼朝と秀吉ってどっちがぬるぽ?
信長=長嶋茂雄
秀吉=王貞治
頼朝=江川卓
義経=堀内恒夫
スーパーファミスタのVチームの選手の元ネタだけど
690 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 08:51:33
>>1 今、こんなイメージは少数派だという
現代的な認識が
>>1とかこういう性向の人には必要
こういう人は「明智光秀は逆賊と言われていますが・・・」とか
「武田勝頼は無能とされていますが・・・」とか古い認識が今でも一般的で
あるとして、反論のためのHPを立ち上げたりしてしまう。
691 :
J.Lee:2006/03/29(水) 09:50:35
私たちの血管には半日と 嫌日という赤血球が歩き回って!!
それが私たち韓国人の精神だろう!!
いつかは日本列島を征腹してそのまま返すつもりの!!
半日は韓国を発展するようにする.
半日は韓国スポーツを発展させる.
半日によって韓国野球が日本を 2番(回)勝つほどの実力になった.
今度大会を通じて半日の数字が 90%越したことは良い収獲だった.
韓国人の政治,外交的半日は歴史のためだが..
スポーツの半日はIchiroのためだ..
今度大会の最大の収獲---->全世界に半日だけ増加させた
今度大会を通じてアジアの日本に対するイメージがもっと悪くなった
半日教育をまた財政費しなければならない.
半日が必ず悪事ではない. - 結果はいつも良かった.
スポーツに引き継いで経済面で
三星電子の 'ソニ?を勝とう'
半導体 ' 日本を勝とう'
朝鮮(船舶) '日本を勝とう'
LCD '日本を勝とう'
鉄鋼 ' 日本を勝とう'.........
半日精神が暮してある限り敗北はない
日本人の最後 1人になるその日まで... 韓国の半日は永遠だろう.
日本が滅亡するその日まで私たちは仇を討つ.
ここの日本人を見れば半日の価値もない
ただ嫌日感情だけ生ずるだけ
692 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 21:52:11
頼朝って、いつ、どこの人質になったんだ?
↑流人の間違いでソ。
そういやー伊東の八重姫との悲恋&長男殺害はなかったかも知れないと聞いたんだが(一級史料にはない話?)
それはそれでショックだ。
となると伊豆時代の相手は政子と亀の前だけか。ヌルいなあ。
ってこのスレまだあったんだなw
頼朝のキャラってなんかつかみ所がないよな。
どういう人物なのか結局のところようわからん。
いまどき悪いイメージ持ってる人ってそんなにいないと思うけどね。
判官びいきが流行らんのと紙一重。
694 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 09:13:58
>>693 女たらしなのに嫁に頭があがらなかったという立派なキャラがあるじゃん。
「妻の方が優秀」という点では山内一豊に通ずるものがあるな。
696 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 13:36:19
個人のキャラとしては確かに弱いねw
義経は小兵ながら戦には強いとか、激情的で軽はずみに助命とか言い出すとか
物語にしたときにナレーションのつけ方しだいで良い面として誤魔化せそうな所ばかり
頼朝は戦も弱いし、妻と義父の影が強くて霞んじゃう・・・
しかも弟追討とかよく知らない人が否定しやすい行いしてるからなぁ
反対に良いこととか優れた点は知らない人にわかりつらいしw
697 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 17:01:43
>>695 頼朝もすごい政治家なんだけど、
吾妻鏡を鵜呑みにしただけなら
状況判断力や統治力では嫁のほうが上だろうな。
まあそんな嫁がベタボレしてたってのはどっか魅力あったんだろう。
意外と毛利元就みたいな家では愚痴っぽいおっさんだったりして。
698 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 17:15:58
>家では愚痴っぽいおっさん
そうだと一気に親しみやすい存在になりそうだ
あれだけのことやっててこういう人間味とかあったとかわかったら人気でそうだね
なぜか日本じゃ政治力はあまりプラスイメージ持たれないね
政治力皆無で戦上手の方が印象良かったりする
700ゲットニダ ━━<ヽ`∀´>@∀@)`ハ´)´Д`>━━!!!!
701 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 06:45:50
大衆的な人気ないのはよく分かる気がする
702 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:27:43
いくら時代とはいえ、子供殺しだもんな。
703 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:29:53
いくら時代とはいえ、子供殺しだもんな。
705 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 14:47:32
評価が低いんじゃなくて、評価はそれなりに高いけど業績に比して知名度が低い、影が薄いんだと思う
京阪沿線住民として言わせてもらうと、義経は枚方公園、頼朝は枚方市ってイメージを抱いてしまう。
頼朝は偉人100人にランクイン出来るのだろうか?
日曜日に日テレでやる日本人が好きな偉人ベスト100ってやつ?
好きな偉人だとひょっとしたら入らないかもしれない
日本史限定ならともかく世界レベルだと厳しいな。
義経21位か。
どうやら頼朝のランクインはなさそうだな。
結局義経の説明で出てきただけか…しかも裏切り者扱いorz
裏切り者って義経のこと?
確かに幕府の期待を裏切ってばっかりだったが
武家の棟梁だってのに華々しい戦績が無いのが
一般受けしにくいのかな?
消防の頃、源平とか武士とかいう予備知識なしで義経の伝記を読んだ。親を
平氏に殺されてかろうじて生き延び、成長して兄のもとに駆けつけて戦いに
身を投じる義経にすごく感情移入した。
あと敵の平氏も、平教経がすごかった。崩壊寸前の平氏を必死になって支えて
いる気迫に圧倒された。壇ノ浦の義経と教経の一騎打ちは、手に汗握る展開で
今でもその興奮は覚えている。
そんな中で、頼朝は話に水を指す存在だった。周囲の意見にのせられて義経を
疑う、自分ではなにもしない、義経に兄弟という親しみをもたずいつも他人と
して扱う、子供心になんて冷たくて嫌な奴なんだと思っていた。
数年後、歴史の授業かなにかで頼朝は鎌倉幕府の初代将軍と聞かされて、「えっ?
アイツがそんなにスゴイ人だったのか!」と衝撃を受けたよ。いろいろ知ってしまった
今では懐かしい思い出・・・。
718 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 14:20:46
うほ
義経が政治センス0だったせいで…
政治家としては日本史最高クラスで一番強運だったな…
>>719 政治家と言うより「政治屋」という表現の方が相応しいと思うが。
俺は頼朝好きだぜ
なんか縁を感じる
鎌倉時代になると正確な資料はほとんど残っていないから捏造されやすいんだよね。
流れブタ切りスマソだが
義経が頼朝にラブレターめいた手紙を送ったのは
本当?
義経はブラコン?
724 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 02:29:02
わかんね
725 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 12:40:37
726 :
日本@名無史さん :2006/06/26(月) 20:10:01
>>719 義経の政治センスゼロ説はよく聞くけど、もう一人の弟・範頼も殺されている。
甲斐源氏の安田義定・一条忠頼は成敗され、摂津源氏の多田行綱は所領没収を命じられている。
単に頼朝が天下人になるうえで邪魔だから、義経を殺したと思う。
>>650 当時の武士団、豪族の間における求心力の高さでは明らかに頼朝が上と思われ
八領等、相伝の家宝も義朝→頼朝系に継承されてる模様…
にも関わらず義賢→義仲系が本来の嫡流という根拠はどの辺から?
>>726 範頼は殺されてないだろう。ただ、失脚後の動向が不明というだけ。
鎌倉時代は幕府側にあまり優秀な人間がいなかった分、
(歴代執権でも有能だったと言えるのは泰時、時頼、政村、時宗ぐらい)
数多くの名僧が歴史に名を残していたな。
730 :
日本@名無史さん :2006/06/27(火) 14:10:09
>>728 異説はあるが、頼朝の命令で結城朝光・梶原景時・仁田忠常らが伊豆の修善寺で成敗した。
墓もある。
平安時代は朝廷側にあまり優秀な人間がいなかった分、
数多くの武人が歴史に名を残していたな。
池禅尼の息子、頼盛を鎌倉に呼んで歓待。
自分に弓をひいた山内首藤経俊を乳母の嘆願で赦免。
妹の夫、一条能保を引き立てる。
いいところあるじゃないか、頼朝。
一条能保は妹婿であるが、都の動向を鎌倉へ伝える重要な役割を果たしており、厚遇はそのためと考えた方がよさそう。
他は同意。
昨日のもしもツアーズの鎌倉特集で頼朝の像が出てきた
735 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 23:33:58
極悪人でも好き
源頼朝を主人公にした小説で、お勧めって何かある?
伝頼朝像別人説を定着させるのも一案では?
あの像のおかげで冷徹な人物というイメージが増幅している
感があるから。
>>737 吉川英治の「源頼朝」は、作者の気が変わったのか途中から主人公が義経に
なっているんだよな。しかも、「いよいよ兄弟衝突かー?」というところで
いきなり終わっている。
740 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 15:49:02
作者が飽きたのかねえ
741 :
今歴史の勉強中11歳:2006/07/20(木) 18:54:56
じゃいj:fpsじえ:fじょえf:
742 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 10:34:57
新井白石は頼朝を酷評したらしいな
743 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 11:06:17
ちゃんと頼朝の一生を書ききった小説ってぢつはないんじゃない?
吉川版は
>>739の通りだし、山岡荘八も木曽義仲との対決あたりで
終ってる。
あえていうなら永井路子の北条政子が一番頼朝を描いてるとは
思うが、あれは政子が主役だからなあ。
漫画でいいなら華の王を…
でも竹宮恵子の方が脚色なくてイイけど
746 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 17:56:31
へい
747 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 19:09:49
頼朝は、極悪人じゃないよ。
むしろ公私混同せずに、弟といえどキチンと処罰した態度は立派。
頼朝の業績を考えれば、偉大な政治家という顔が見えてくる。
まぁ、義経や義仲の立場から見た小説では、冷酷に見えるかもしれないけど・・・
>>747 頼朝は弟の諌めも聞かず民に重税をかけて私腹を肥やした欲望の権化だろ。
だから北条一族に暗殺されたんだよ。(落馬事故というのはカモフラージュ)
749 :
747:2006/08/27(日) 10:48:57
>>748 頼朝の弟って誰のことを言ってるの?
確かに落馬事故ってのは、偽装っぽいけど頼朝が殺されたのは
武士政権を発足させたにもかかわらず、晩年朝廷に接近したりして東国武士団に
不信感を抱かせたからだよ。
まあ、その事を差し引いても将門以来の武士の悲願を叶えて、「武士による武士のための政権」を
うちたてた功績はでかいよ。
義経って鞍馬寺で寵童っていうか稚児やってたんでしょ。
そこをクローズアップすれば相対的に・・・
でも、頼朝も、後白河は無いとしても、もしかしたら・・・・・
751 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 14:28:18
別に頼朝がやらんでもいずれば武家の誰かが政権は作ったと思うがな
ただ朝廷から距離を置く考えはあの時代では先進的だったかもしれん。
>>751 白河の自滅によるところが大きいんじゃないの?
後三条もちょっと頑張りすぎたのが却って仇になったな。
>>749 たぶん範頼のことだと思われ。この男こそ源氏政権に必要不可欠な存在だった。
建久3(1192)年、実朝生誕の「五十日百日儀」の出席者の序列では、
範頼は第3位。第1位は平賀義信、第2位が足利義兼。頼朝としては、これらを
一門として重視してたんだろう。やっぱり欲得で集まってくる豪族は、心から
信頼できないだろうからな。
何をもって欲得と言うんだ?
酒、女、領地、高い官職、名馬、財宝
そんなのは小物だから信頼はしなくても利用すればいいだけだろ
758 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 22:09:06
信頼してた北条には乗っ取られたわけではあるが
>>1 史実に即した物語をやろうとするからダメなんだよ
暴れん坊将軍頼朝のタイトルで頼朝が悪い地頭を退治して庶民を助けるドラマを作ればいい
水戸光圀だって徳川吉宗だって大岡越前だって実際は別に庶民の味方ではないんだしな
760 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 00:09:45
頼朝って人のメンタリティーがいまいち分からん。
14,5歳のとき命からがら助かって、後は父の弔いと読経三昧の毎日。
んで、34歳の時挙兵。(見切り発車って説もあるけど)
現代の人たちに例えると、「絶対平和!戦争反対!」って叫んでもおかし
くないのに。
幸田露伴の「頼朝」って小説に、伊豆に流され行く頼朝に「出家なさいませ」
と家来が進言するのだが、それに対し頼朝はうんともすんとも答えな
かった、って個所があるらしい。
>>760 平家の目を誤魔化すためのカモフラージュだったのか・・・
やるな頼朝・・・
762 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 23:16:58
>>749 「武士による武士のための政権」とかいう意識は、当時はだれも持って
ないだろ。近代人の戯言だよ・・。
鎌倉殿が天皇の親戚になったら、鎌倉殿の家人はうれしく思うだろうに・・。
>738
頼朝であってもなくても、あの絵は好きです。
品があって素敵だと思う。
764 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 05:51:13
>>762 そうでもないという近年の研究。まあ政子の大演説の頃はまだ、よくわからない
天子様の怖さはあったようだが。
鎌倉殿が親戚にってあんた。京都に接近したから殺されたんだろうが。
摂家将軍なんて酷い扱いだよ。
京の人間が幕府に入って来るのと、源家の子女を朝廷に送り込むのとでは違うと思う
当初から鎌倉幕府は、朝廷と友好な関係を求める『親京都派』と「朝廷など無視しろ」と
言い放った上総介広常に代表される『東国独立派』が主導権を争っていたようだし、
頼朝も、その調停に神経を使ったんじゃないかな?頼朝は心情としては、『親京都派』に
なるんだろうが、支持基盤である『東国独立派』の意志を無視することもできず、晩年は
悩みが多かったかもしれない。
767 :
日本@名無史さん:2006/09/21(木) 18:34:08
頼朝が幕府を開く前の武士の扱いってのは、酷いものだったんだよ。
朝廷や公家から見たら、武士なんて犬のような扱いだったんだから・・・
源義朝なんて、「敵方に回った父を処刑しろ」なんて言われてるし。
為義が後継者にしていたのは四男の頼賢で、義朝とは「保元の乱」の前から敵対関係にあった。
次男の義賢なんか、義朝の子である義平に攻め殺されている。貴族はむしろ、死刑の復活には
反対意見の者が多かった。義朝にしてみれば為義一族の処刑は、河内源氏嫡流になるという利益が
あった。
へぇー・・・そうなんだ。
義朝は、摂関家の忠実・頼長に仕える為義(ちなみに義賢は頼長の男色相手)とは違い
妻の父、熱田宮司季範が待賢門院の側近だったので、待賢門院の子である後白河天皇や
上西門院(後白河の同母姉)に接近するようになった。
頼朝は上西門院の蔵人を務めているので、死罪にならなかったのは上西門院の嘆願が
あったのかもしれない。
>>763 実物を2回ばかりじっくり見たことがあるけど、すばらしい作品だね。
だから、あれが頼朝だと一度思い込んでしまうと、そのイメージがなかなか払拭できない。
頼朝が上西門院の蔵人をしてたのなら、幼少の頃に土御門通親と会っていたかも。
三十年の時を経て、武家政権の創始者と公家政権の実力者として邂逅したとしたら
なかなか面白そうだ。かつての親友同士という設定だったらなおさら。
どうせ、頼朝の幼少時代なんてほとんど分からないから、このくらいの創作(捏造?)は
小説としてなら、許容範囲だろう。
773 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 18:43:11
だろう
774 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 20:31:35
770さん、あの学者の著作を読み込んでいるね。
たしかこれは首肯できる説。
なんにしてもこの時代、人脈と血筋がものをいう時代。
775 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:45:14
どこの会社にも団塊っているけど、悪いイメージしかないんだな。
・いうことがコロコロ変わる
・決め付けでものを言う(人のいいとこを見ようとしない)
・イヤミ、皮肉を言う
・すぐに自分の味方をつくろうとする(一人で行動できない)
自分たちがやられた世代だから?それをやり返すって大人がやることじゃ
ないと思うけどね。
お前も十分決め付けで嫌味だと思う
777 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:45:57
確かに。
このスレってもう本質からかなり外れてるわけだが必要あるのかね。
もうひとつのほうで語れば・・・
779 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 20:12:45
確かに。
らいちょうって読んじゃうよね
義経が政治力ゼロとは思えません><
じゃあ1/100くらいで
783 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 16:58:15
紙幣に顔乗せればいいんだよ・・
確かに。
785 :
2ちゃん若葉:2006/12/17(日) 20:49:32
吾妻鏡のエピソード。
後の北条時房が元服のときに、頼朝が加冠役を三浦議連に命じた。
「いや、私より偉い人がここにはたくさんいるから、」と義連が驚いて辞退しようとしたら、
「以前三浦に行ったとき、広常と義実が喧嘩になって、私はとても困ったことがあった。あの時そなたがうまく仲裁してくれて本当に助かった。この子は私の義弟だし、将来を期待している。だからこそそなたに頼みたいのだよ」
8年前のいきな恩返しですよ。
ほかにも斬罪にするはずだった山内常俊を、自分の乳母の常俊の母に泣いて頼まれて、なんだかんだ言いつつ、許してしまったり。
こういうとこが知られてないだけだと思う。
私は頼朝好きだな。
786 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:19:13
確かに。
北条マジ外道
>>785 義実が頼朝の服を欲しがって云々、ってエピソードですね。
あれには頼朝も困ってたのか・・・そうだろうなぁ。
このときの頼朝には義連が輝いて見えていたのかも。
789 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 18:32:21
で
結局北条の子は元服して時連になる
後に時房に
790 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 08:52:26
>>789 字が悪いから変えろって言われたんだっけ?
北条の人間にお前の名は悪いなんて良く言えるなー。
791 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 05:22:57
792 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 07:25:56
極悪人のイメージ
良いじゃない
793 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 16:07:33
日本人が好きな偉人ベスト100でまたしてもランク外だったね
弟の義経はこれで三度目なのに(今回の英雄編は自己最高の5位)
極悪人とは思わないけど日本人に好かれてないのは事実だな。
悪人というより走れメロスの王様みたいに身内を信用できない哀れな人間だったと思うよ
昔テレビの特番で心理学者が頼朝は一族が親子兄弟に分かれて戦争するのを見て育ち
流刑先でいつ殺されかわからない思いしながら生きてきたので他人信用できなくなったといってた
なるほどと思った。
反対に弟の義経は一番母親に甘えたい時期にいきなり寺に預けられて寂しい思いして育ったので
家族に対して甘えたい気持ちが異常に強くなったと
その価値観の違いが兄弟の温度差になったということだ。
794 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 16:11:33
頼朝には沢山の兄弟がいたそうだが、頼朝ぐらいの年齢になるまで生存できたのは、
他にいないだろ?
795 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 16:21:47
義経の実兄・全成が唯一頼朝死後もしばらく生きていたが
頼朝より長生きしたかな?
796 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:51:31
頼朝ってすげーイケメンじゃね?
政子が惚れて押しかけ女房になるくらいにはな
798 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:58:35
頼朝好きだけど静ちゃんの子供殺しちゃうのはなー
799 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:04:46
平家の前例があるからな。
800 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:09:35
殺したってことにして実はどこかの寺にでも預けたかもよ?
世間的に死んだことになってればいいわけで本当に殺したかどうかは分からない。
>>800 その逆をやってるから悪人説が出るワケだが・・・
6台
803 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 17:52:20
亀の前萌え
他の親戚や兄弟みたいな武勇での豪快なエピソードに欠けてて陰気なイメージはあるな
為朝とか最高に面白い
805 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 07:54:11
朝廷を武力で脅して 軍事政権をつくり
武士の日本支配のきっかけとなった極悪人
その後、日本国民は凶器を持った武士に脅されながら
明治になるまで武士に搾取され続けた
806 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 13:04:24
平将門は負けたから悪人扱い
源頼朝は勝ったから英雄扱い
似たようなことしたのに この差はひどい
将門は関東の英雄だよ。
808 :
武陽陰士:2007/06/03(日) 11:13:11
極悪人というイメージはパンピーの抱いてるもんだよ。
昔もいまも政治家、知識人には評判がいい。
アカデミックな中世史家の間では頼朝の評価は高いよ。
どうでもいいが為政者で聖人みたいなイイ人いるのか?
どいつもこいつもホジクレば陰険極まりないことやっている。
司馬りょうの小説でパンピー受けの良い竜馬も、けっこー陰険なことしてるし。
まあ他の同時代の志士連中に比べればずっとましだけど
809 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 16:34:14
陰険と言えば新撰組だな
810 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 16:46:18
14歳から32歳まで雌伏生活を強いられると、陰険にもなるのかな>頼朝
つーか、頼朝の陰険なイメージは、弟殺しに象徴されている気がする。
頼朝と同母の兄弟は、都で育った妹が一人いるだけで、
(頼朝はこの唯一の同母妹を夫と一緒に鎌倉へ呼んだり、結構かわいがっている)
あとはすべて異母兄弟、一緒に育ったわけでもないから、
いきなり「兄上」などといわれても変な感じだろうな。
弟に情を見せろといわれてもな〜って感じかも。
811 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 20:09:36
同腹兄弟だった、崇徳天皇と後白河天皇でさえあの様だから
異母兄弟でしかも成人するまであったことがない弟なんて他人と
一緒のようなもんだよなあ。
>>810 >頼朝と同母の兄弟は、都で育った妹が一人いるだけで
ああああ?
頼朝の同母弟に土佐に流された土佐冠者 源希義というのがいるんだが
頼朝蜂起後、平家に討ち取られたから歴史の表舞台にはでなかった
知識もなく ろくに調べもせず脳内世界の思いこみを
書き込むのは見苦しいから やめれ
わりと後の方まで生き残った同腹の兄弟は、って事じゃないか?
頼朝が鎌倉に居着く前にさっさと歴史から消えてしまっては
悲しいけど議論の対象外って感じだからなあ
814 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 08:52:57
>>811 崇徳上皇と後白河天皇は 母親は同じでも父が違う
しかも崇徳上皇は 名義上の父から嫌われていた
815 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 08:55:37
>>814 それをいいだしたら、
待賢門院が産んだすべての子供について父親はわからんのだが。
白河法皇が何歳まで生殖能力があったのかはわからんが、
祟徳も後白河も白河法皇在世中に誕生している
兄の祟徳の父は白河で、同母弟後白河の父は鳥羽だとは認定できない
頼朝と関係なくなってきているからこのあたりでやめるが
義経って本当に戦争強いの?
頼朝って地味だけど義経より好きだな
結構歴史上の人物で華々しい奴って過大評価されてる奴
多いし 地味でもしっかりした仕事した頼朝が俺は好きだ
頼朝って地味かぁ?
日本史上見渡しても、最重要人物のひとりだと思うが。過小評価されているようにもみえないし。
オレも頼朝が大好きだが過小評価されてるいうより誤解されてるかもね
ただ、義経はそれほど好きでもないけど戦上手なのはガチ
頼朝はたしかに悪人ではあるけど善人でもある
ウィキの吾妻鏡のページ見たけど明らかに北条家は
頼朝の死因を詳しく供述していないね
明らかに北条の連中が捏造したんだよ
信長と同じように捏造された悪人なんだ
頼朝は悪人としてでっち上げられたんだよ
822 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 17:25:38
娘の許嫁殺したせいで娘に死ぬまで毛嫌いされてざまぁwwww
頼朝が悪の象徴なんて明らかにおかしいと思うけどなぁ
なんか裏があるようにしか思えないんですが、
兄弟を殺すこと自体別に他人に迷惑かけてないからそこまで悪ではないと
思うんだが あくまで身内の問題だと思うし
昔の悪の定義自体が「強い=悪」だけどなぁ
そもそも身内殺しは源氏の家系ではよく見られることで頼朝特有ってわけでもない。
頼朝の評価が分かれるのは、味方をさしたる理由もなく粛清したから。義経は
行家と組んで謀叛を起こしたから、しょうがない。ただ、一条忠頼や安田義資は
言いがかりとしか思えない。功績があろうが身内だろうが、自分にとって邪魔に
なったら迷わず排除する。武家政権を確立した業績はまぎれもないが、冷酷な
権力者の一面も否定できない。
そういう意味では、洪武帝(朱元璋)・スターリンなどと同じ。もっとも、北条氏の
編纂した『吾妻鏡』が頼朝の冷酷さを過度に強調しているフシがあるので、多少は
割り引いて見るべきかもしれない。
827 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 18:04:17
>>814 崇徳上皇は父天皇から「叔父御」と呼ばれて毛嫌いされたよね。
>>826 義経が謀叛を起こす原因を作ったのが頼朝じゃなかったっけ?
官位だの人望だの
兄貴が最初に嫉妬したんだろ、それが対立の始まり
>>828 元を正せば、義経が頼朝の承認なしに法皇から官位をもらっちゃったのがまずかったな。
義経が頼朝の家来である以上、褒美は頼朝からもらわなきゃいけない。
例えそれが官位で、最終的には朝廷がくれるものでも「頼朝の推挙があった」という手順が必要。
義経のやったことは子会社の社員が親会社の社長からボーナスをもらっちゃったようなもので、
こんなことを認めてたら、鎌倉は成り立たなくなってしまう。
>子会社の社員が親会社の社長からボーナスをもらっちゃったようなもの
そのこと自体に問題はないよ。
その子会社の社長が、親会社から独立しようと画策していたから引き抜きに過敏になったわけで。
だとしても、それなら武功のあった義経にきちんとボーナスを弾んでおけばよかった話。
それがなかったからこそ、後白河につけこまれた。
>>830 問題なら大有りだろ。
義経のやったことを見過ごしてたら、他の部下も義経の真似をしかねない。
それに、この時点では頼朝は守護・地頭の任命権もなかったから、やりたくてもやれる褒美はない。
だから、「頼朝の推挙によって部下に官位をもらってやる」という手順が必要だったんだから。
義経は三種の神器の回収には失敗したけど、大功を立てたことには違いないんだから、
法皇からの餌に食いつかずに大人しく鎌倉に戻ってれば、頼朝も何らかの褒賞は与えたと思うんだが・・・
>義経のやったことを見過ごしてたら、他の部下も義経の真似をしかねない。
だから、それが問題になるのは子会社の社長が親会社からの独立を画策している場合だって。
本来、子会社の人事に親会社が口を挟んでくるのは当たり前のこと。
むしろ、密かに独立を画策していたのなら、親会社に取り込まれないようしっかり根回し足固めをしておかねば
ならなかった。後白河を甘くみていた頼朝の油断だよ。
>>832 頼朝が朝廷からの独立を目指してたのは明らかだろ。
だから鎌倉の人事に朝廷が口を挟んできて、しかも頼朝の弟っていう幹部がそれに乗っちゃってるんじゃぁ
何時までたっても独立できない。
頼朝の油断とはいえ、頼朝の立場としては義経の処断は妥当だ。
義経の処断は妥当だよ。
独立を理解しておらず、親会社に取り込まれてしまった以上、処断するのは当然だ。
問題は、そのような事態にならぬようあらかじめ手を打たねばならなかったということと、
その後も義経を起用している(せざるをえなかった)ように、処断も徹底しきれていないこと。
・義経が取り込まれてしまったのは、頼朝の見通しの甘さのせいでもある。
・それでいて、戦局の都合上、やはり義経を起用するという処分の非徹底ぶり。
・では功績によって無断任官を不問にするかといえば、結局都合のいいところだけ義経を利用した挙句やはり切り捨て。
このへんが頼朝が極悪人イメージもたれる理由なんだろうな。政治家としては評価するが、イメージはやむをえない。
835 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 13:06:13
ナムコのせい
これで勝ったとおもうなよ
頼朝が世話した義経正妻の実家河越氏って
単に比企尼婿の一豪族、ってだけじゃなく
秩父党の総領家で武蔵検校職って武蔵国の軍事統率権
もってる一大勢力じゃん。畠山重忠も衣笠合戦で
河越重頼に動員要請してる。
範頼、全成嫁はほんと「身内」で固めた感じだが、
義経に河越娘をやるという事は、監視役なんてもんじゃなく
かなり大きな後ろ盾を作る事になると思うが・・。
これを無断任官の後に送ってるからなあ。
この時点では義経信頼してたのか。
>>837 自由任官問題が実際にあったのかは疑問です。そもそも、義経が勝手に検非違使に
任官したため、頼朝が激怒して平家追討使から外したと説明するのは、『吾妻鏡』
元暦元年(1184年)8月17日条だけで、同時代の記録には見られません。他に義経が
自由任官をしたと書いているのも、『平家物語』諸本では『源平盛衰記』だけです。
頼朝の叱責を受けたとされる後も、義経は内裏・院御所への昇殿を行っており、
叱責による素行の変化は見られません。また、平信兼(山木兼隆の父)追討のため
平家の本領・伊勢に出陣するなど、代官としての職務にも変化はありません。
もちろん、頼朝が平家と戦争中に内紛を起こしている場合ではないので、あえて
義経の行動を不問に付したとも考えられますが、義経の叙位・任官は頼朝にとって
特に問題ではなかった可能性も否定できません。元暦元年には頼朝と義経の関係は
悪化していなかったと仮定すれば、義経と河越氏の婚姻は一門としての優遇策であり
頭を悩ませることではないと思われます。
日本の独裁者
梶原景時の讒言とかは、やはり信憑性が薄い?
やっぱ決定的な原因は壇ノ浦にあるのかな。
それまでの積み重ねがあった上でだろうけど。
河越娘を嫁にやれば、義経の後ろ盾になるだけじゃなく
当然子供が出来るわけで、嫡男が生まれれば
生まれながらに武蔵武士団を地盤に持つ源氏の子が出来る事になる。
義経を警戒してたらそんな危険な婚姻はさせないだろう。
壇ノ浦前までは、義経に期待や信頼があったと思う。
河越家の処分は、娘が妊娠して帰れなかった為だろうとは
思うけど、十代そこらで頼家の乳母子である河越重房や
旗揚げ以来の近臣だった下河辺政義まで処分したのは酷過ぎると思う。
決裂後の極端な処分は、可愛さ余って憎さ百倍にも見える。
頼朝と義経の関係悪化について、『吾妻鏡』が元暦元年説をとるのに対して
慈円は「関東ガ鎌倉ノタチヘクダリテ、又カヘリ上リナドシテ後、アシキ心
出キニケリ」(『愚管抄』)と、元暦2年説(宗盛の護送前後)をとっています。
ただ、慈円もその原因までは記していません。
考えられるのは、次の事柄だと思われます(推測になりますが)。
1 「壇ノ浦の戦い」に参加した東国武士は水軍をもっていた三浦義澄のみで
平氏追討の功績は義経率いる畿内・西国武士のものとなり、東国武士の間に
義経への不満が高まった。
2 頼朝は天皇・神器を無事に回収することで戦後交渉を有利にするつもり
だったが、義経の性急な攻撃で水泡に帰してしまった。
3 義経は壇ノ浦から凱旋した直後に、院の軍馬を管理する院御厩(いんの
みうまや)の長官に任じられた。これは院の親衛隊長ともいえる役職で
武力の一元化を目指していた頼朝にとって、見逃せることではなかった。
4 平時忠の娘との婚姻で、平氏残党との結合を疑われた。
5 義経は8月に、平氏追討の功績として伊予守に任じられるが
在京義務のある検非違使・左衛門尉に留任した。これは
鎌倉帰還の拒否と受け取られた。
頼朝と義経の間にどのような心の葛藤があったのか、今となっては
知るよしもありませんが、10月に義経は行家と組んで頼朝打倒の兵を
挙げることになります。
846 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/22(土) 05:00:54
>>840 こんな胡乱なトコで質問なんかするより、元木泰雄氏の『源義経』吉川弘文館2007年刊を読むべきだね。
最新の研究動向にも目配りした本だ。
パンピー向けだが悪くはない。
君が知りたい答えはここにある。
すべからく購うべし!
先ずは自分が「読む」べし
848 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/22(土) 18:41:17
>>847 とっくに読んでる。
私は元木氏の書いたものは学界(会)誌、紀要に載っかったやつまで読んでるよ。
別に元木氏の見解を無条件に認めているわけじゃないが、
現代を代表する気鋭の中世史家であることは間違いないからね。
分かったかカバやろう。
840じゃないが、元木氏の著作買ってきた。
無駄がなくて読みやすく面白かったよ。
京都史料中心の裏付けで説得力あるし。
たしかに元木氏が書かれた通り、義経が失脚して
そっくりそのまま京都代官の地位も、武蔵国の勢力も
手にしたのは時政なんだよね・・。そして吾妻鏡を編纂したのは北条氏。
頼朝を非情に仕立ててる面がある。
それを思えば静関連のエピソードも、政子マンセー、頼朝sage話なんだよな。
殺された静の子も吾妻鏡で「義経の子」と断定してるけど、
厳密に計算したら義経の子じゃないと思うし。
(妊娠から出産まで仕込んでから9ヶ月、つまり難破の後、
吉野でという事になるが、そもそも逃げ回ってた数日間に
そんなヒマがあったのか疑問なのと、仮に静が捕まった
11月17日の前日に仕込んだとしても、予定日は
8月(閏7月)の5日前後になり、29日出産では遅すぎる。)
まあ、誰の子かわからなくても、本人が「我は義経の妾なり」
と名乗ればそりゃ産んだ子は殺されるだろうけど。
VC、PCE版源平討魔伝配信
俱利伽羅峠の戦い
義仲vs惟盛
3万vs7万 惟盛軍は兵力の大半を失い無様に京に敗走
852 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 11:35:33
ほう
頼朝、義仲の妹を呼び出して厚遇してるねえ。
義仲は美形だったから、妹も美人だったかも。二十代くらいだろうし・・。
静にしてもわざわざ呼ぶ必要があったのかと。
兄嫁未亡人にちょっかいかける節操のなさだから、
単に品定めしたかったんじゃねーかと思う。
兄嫁にちょっかいかけたと言うのもどれだけ信憑性があるんだ?
吾妻鏡だけの記述の場合、頼朝を貶める為に捏造してる可能性があるぞ
そもそもその未亡人って既にそのとき40前後のはず
40前後と言えばその時代では婆さんだ
わざわざそんなのに手を出すか?
兄のことを慰めたのを、艶文を送ったと書きたてた可能性は?
静のエピソードは、夫が追われて心身ともに消耗しきってる時に
舞を見たいなんてせがんで体調不良だからと嫌がる静に無理に躍らせて
挙句その後、3度も躍らせてるのを見ると
政子が女心を理解した優しい女と言うより
都の白拍子を見てみたいという興味本位だけで静の心情などお構いなしの
思慮の足らない無神経な女としかうつらなかったが
当時は側室を持つのが普通だし、頼朝の状況を見れば
子供を多くなして子孫繁栄に勤めたかっただろうに
それさえ理解せず、妾を襲撃させ御家人の面前で夫の面子を台無しにしたり
そのわずかな子孫さえ自ら率先して暗殺・殺害に及び
夫を立てようと思うなら出家させた貞暁を戻し養子にすればいいのに
目にもかけず血縁のない親王を養子にとって実家の傀儡にし
挙句、記録には夫をことさら悪人に書き連ねることをも黙認
頼朝は結婚した相手とその実家が最悪だったとしか言い様がないね
その実家の力を借りて旗揚げしたんだからしかたあるまい。
>856
白拍子なんて人間扱いされなくて当たり前だろう。
そもそもが遊女で義経の妻でさえない妾の芸人でしかないんだし。
芸人としてもてはやされても、身分絶対のこの時代では所詮卑賤階級。
平家物語の妓王と妓女の話読めばわかるじゃん。
貴人に気に入られれば寝所に連れ込み、飽きればポイ捨て。
それを思えば、鎌倉での扱いは丁寧だと思うけどね。(子捨ては別として)
しかし静はやたらと私は義経の妾よ!と連呼していてプライド高いが、
腹の子は誰の子だかわからんだろ・・。
まあ、いくら実家が強いとはいえ、政子の独占欲は常軌を逸しているが・・。
父親の時政なんか政子の母親や牧の方の他にも複数妻がいて、
子女がわんさかいるのに、自分の夫には妾の一人も許さないってのは
あの時代の感覚として明らかに異様。頼朝も義朝が失脚しなければ、
貴族の姫と結婚してただろうに。
北条家は歴史の大局から見れば、頼朝の後を引き継いで
復権を目論む朝廷を押さえ込み、武家政権を揺るぎないものにした
実績があるけど、そこに至るまでの陰謀と内ゲバがあまりに凄惨で嫌だ。
頼朝の死後に抹殺された息子達、比企、畠山、和田・・あまりにも黒すぎる。>北条
初期の頃の吾妻鏡見てると、御家人達への気の使いよう=頼朝の立場の弱さが
ひしひしと伝わるね。最大勢力の千葉氏には親とも思うと涙を流し、
範頼への手紙にも何度も御家人達を粗略にするなと念を押していている。
義経、頼家、調子に乗った後の時政は御家人の支持を失って失脚した。
頼朝は、関東武士達をどう扱うべきかを熟知していて、上手くまとめていたから
将軍でいられたんだな。
頼朝は幕府に結集した御家人(在地領主)を守護・地頭に任命して、軍事・警察権、
現地の土地・農民を支配する権限(領家に年貢を出すのが条件だが)を与えることで
支持を獲得した。
一方で、頼朝自身も関東御領・関東御分国を経済基盤とした荘園領主・知行国主となり
荘園公領制の維持では、貴族・寺社と利害が一致、御家人の過度の権利拡張を抑制した。
両者の立場を考慮しなければならかった頼朝は、並大抵の苦労では無かったはず。
頼家・実朝には調整者の役割を果たせなかったことが悲劇の原因かな?
兄弟殺しが悪人のイメージなのか?
一族内で拮抗する勢力をたたくのは当然では?
棟梁として自分の地位を確立させねばならない時期に、義経のようなのがでるわけだしな。
頼家は職務を全うしようとしたが将軍としての実権を認めず
13人の御家人による評議会なんてもんで権利を奪っていったからやる気をなくしただけ
そして手元で育てた次男・実朝を将軍にしたいが為に北条に幽閉され暗殺された。
実朝は傀儡だったが年齢を重ねるごとに将軍として自覚していってるし
息子達が駄目だったんじゃなくて、北条が実権を握りたいが為に
息子や孫や甥である彼らを排除して行ったんだよ
>>859 その差別階級である白拍子を非人間的に扱ったかと思えば
無理強いした舞の席で善人ぶってみたり
後の子供のことでも政子マンセー話作ってみたり支離滅裂な女だな
あと頼朝の立場が弱いから御家人に気を使ったとかじゃなくて
元々上に立つ人は周囲のものを大切にしないと誰もついて行かないし
恐怖で従わせても一時的なもので、すぐに離反者が相次ぐから気を使って当然だよ
戦国時代の大名だって領民の暮らしが豊かになるような策をとって
領民の意見にも耳を貸すことで、領主としての地位を保ってたんだし
それを大名の立場が弱いから領民に気を使ってたとは言わないでしょ。
気に入れば寝所に連れ込み飽きればポイ捨ては貴族同士でもあったからなぁ
でも、静がそれなりの身分だったら、御家人が幽閉先に押しかけて
宴会してセクハラしたりはしないだろう。所詮「そういう女だ」と見下されてるって事。
政子で最悪なの嫉妬より何より、命令で義高を討った堀親家の家人を晒し首にした事。
頼朝はこの件でも亀の前事件でも、結局政子・北条サイドに押し切られてるし。
このあたりの話見ると、嫁の実家に頼るしかない頼朝の立場が哀れで情けない。
869 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 09:15:41
○鎌倉幕府成立が“イイクニ”から“イイハコ"になったってホント?
問題です。鎌倉幕府成立の年は? はい、1192年。僕ら世代にとって「イイクニ作ろう鎌倉幕府」
は代表的な年号の覚え方。でも、最近の教科書を読んでびっくり。山川出版社の詳説日本史Bには
『1185年、頼朝は諸国に守護・地頭という役人を任命する権利などを獲得。東国が中心だった支配権
が西国にも及び武家政権としての鎌倉幕府が成立』との内容が書いてある。「イイハコつくろう鎌倉幕府」。
正直締まらない…。
調べてみると、どうやら鎌倉幕府の成立時期には諸説あるらしい。1185年説の根拠は、守護と地頭を
置くことで全国に支配権をもったから。1192年説の根拠は源頼朝の征夷大将軍任命。ほかにも、後鳥
羽上皇(朝廷)が幕府に敗れた1221年の承久の乱をもって成立といった説も。『世界一受けたい日本
史の授業』などの著作をもつ河合 敦先生によると、学会では1192年説は少数派なのだとか。
http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB001120/id/200711081116
>>868 白拍子=遊女だからね。
勿論、舞を舞うのも仕事だが、宴に侍って、舞を見せ、男と戯れ、
そのままベットインでお金を貰って生計を立てていた。
あの舞をまったことで静は有名になったが、
義経には静以外にも都に大勢の愛妾たちがいて、
当初、都落ちの際には20数人もの愛妾を小船に乗せて伴おうとした。
義経に惚れていた静はほかの愛妾たちが都へ帰るのもかまわず
義経を吉野まで追っかけていって伏し戸を共にし、妊娠。
静が義経に惚れていたのは分かるが、義経の静に対する扱いは
それほど情深いものでもなかった。
871 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 13:23:15
永続政権の創業者は、大概あまり印象良くない。
藤原不比等、頼朝、足利尊氏、徳川家康、大久保利通。
この中で尊氏は個人としては明るいイメージあるけど、
水戸学では逆賊で、特に戦前は悪人だった。
対抗者の楠正成が忠臣の象徴で、楠公像が皇居はじめあちこちに今でも残っている。
「秩序の破壊よりも、秩序の建設は遥かに俗っぽい仕事」だから、ロマンが託せないせいだろうね。
頼朝は神になって消えたんだ
873 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:51:10
>>871 水戸学および、その大本になった朱子学があまりにも偏狭だと思うんだがねえ
最も、それを官学として採用したのは他ならぬ徳川幕府なんだが
ある意味、逆賊とされている奴等のおかげで単一の王朝である天皇制がここまで存続したのだと思うがねえ
>870
吾妻鏡しっかり読むと、難破の後に静が義経と一緒にいたのって五日程度なんだよね。
難破の後、静はいったんその場に残されて迎えがなければ都に帰るように言われてる。
二日くらいで馬を寄越して来たので吉野で合流したが、五日くらいでそこに
居られなくなって雑色付けて都に返されている。静はそれでもまた追っかけていって、
僧に女人禁制なんだから入るなと追い返されているというこの食い下がりっぷり。
このしつこさや惚れ込みっぷりは妾の屋敷ぶっ壊した政子に通じるものがあるね。
頼朝と義経唯一の共通点は、この異様に惚れてくる女が居る所だと思うわ。
頼朝=謀叛の系譜
曾祖父頼親ー祖父為義ー父義朝ー本人ー孫公暁
為朝・行家等叔父達、義経等弟たち
なんて見事な反骨の系譜、筋金入りの謀反人。
877 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 19:40:03
頼朝 義経
ロムルスとレムス
信長 秀吉
カエサルとアウグストゥス
878 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 19:46:40
王政ローマから帝政ローマまでと日本の鎌倉から戦国までの歴史を対比すると面白いよ
よく似てると思うけどな
信長や義経ってもしかしてユリウス氏族かもね
879 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 19:53:48
旧約聖書の冒頭にも
書いてあるがカインとアベルも弟を殺してる
ロムルスとレムスは双子で狼に育てられたけど
この神話でも弟を殺している
頼朝と義経も案外この話に近いんじゃないかね
本当に不思議な兄弟だな
880 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 20:37:23
>>879 バーカw
頼朝に兄弟はたくさんいるんだよ。第一、義経は異母弟だろーが
881 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:49:13
これは消えない
でも頼朝さんは兄弟というか傍流をほとんど壊滅させてしまった。
北条の思う壺w
883 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:55:22
>>879のたとえは
むしろ尊氏直義兄弟にあてはまるよ
それから信長信行もかな
884 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 21:56:48
885 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 22:12:27
↑おまえイタすぎるよw
886 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 22:14:53
最初からずっと対立してた弟を殺したのならともかく
利用するだけ利用して、いらなくなったらポイってイメージだからな。
頼朝と違って東国武士に共感なんて全然持ってなかっただろう義経が戦ったのは
源氏の再興のためだろうに、結局北条に乗っ取られる始末だし。
887 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 22:41:04
>>886 任官問題も知らないバカw
菱沼のトンデモ説なんか持ち出すなよw
888 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 23:05:23
>>887 源氏の再興のために田舎武士どもを利用してるだけだと思ってたのに
逆に田舎武士どもに利用され担ぎあげられてるだけだとわかって
義経は頼朝に失望しちゃったんじゃないの。
それなら自分が・・・と後白河に接近。
889 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 23:14:47
890 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 03:05:48
塩野の大好きなローマ人が日本にも来日してるよ
斎藤家とか
891 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 09:59:23
頼朝は名古屋生まれの
京都育ちで関西弁。
岐阜の堂上干し柿を献上された
頼朝は
「まるで蜂蜜や」
と言ったことからその地を
蜂屋と名付けたという。
そろそろ大河ドラマ『頼朝』をやるべきじゃないか。
・・・と思ったが、頼朝って一番の見せ場な後白河との対決が、
お手紙ばっかりの政治劇だからなあ・・画面的に動きがない。
戦はパッとしないし、粛清は多いし・・。主役でドラマが作られないはずだよ。
893 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 06:24:43
891
信長 秀吉 家康はご存知の通り愛知生まれ
源家も非常に愛知県と縁は深い
894 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 14:28:54
頼朝は京生まれの説もあり。
頼朝が尾張生まれだという説があるのは
母方が尾張国熱田神宮の神主の家系であるため。
母親は藤原南家の出身で、源氏とは関係がない。
895 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:10:27
三枝夕夏殺人罪で逮捕
それに限る
896 :
武陽隠士:2008/02/27(水) 23:46:05
>>893 岡崎出身の男の子に「信長と同じふるさと。カッコイいいじゃない?」
って言ったら、
「あれは尾張です。自分は三河です!」
って怒られちった(^o^;)
頼朝は京都生まれでしょ。京都か関東にいた義朝がいちいち子作りに
名古屋に通うのもめんどくさいじゃないか。
898 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 18:00:28
義朝=暗殺
義経=兄に責められ自害
頼朝=嫁に家業を乗っ取られる
大変な思いしてるんだな
範頼モナー
900 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 19:07:33
頼朝は源家宗家を滅亡させた元凶ともいえる。得意の猜疑心を北条氏には生かしていない。
自分の系統の存続を考えるならば、為義や義朝のようにあちこちに、子孫を残しておくべきであった。
多くの側室を持てなかったのは致命的であったと思う。
901 :
武陽隠士:2008/03/16(日) 10:43:41
>>900 為義も義朝も滅びたじゃない?
頼朝には一人庶子がいたし(出家。最期は怪しいか?)、
頼家も比企氏所生以外の子供が何人もいたが殺されてる。
何人いたって殺されるだけだよ。
902 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 15:46:27
頼朝は北条氏に対しての警戒が薄かった。結果的に北条氏を増長させ、
後の源家滅亡となったのだ。
903 :
武陽隠士:2008/03/16(日) 19:05:04
>>902 頼朝は比企氏に対しての警戒が薄かった。
結果的に比企氏を増長させ、比企氏を自滅に追い込み、
北条氏の台頭を許してしまった
…………だろうが。
君のなんかユルいよW
904 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:34:03
さげまん北条政子
905 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:39:35
企氏を増長させ、比企氏を自滅に追い込み・・・・
wwwwwwwwwwww
906 :
武陽隠士:2008/03/16(日) 23:56:30
>>905 頼朝が比企氏が重要視したのも知らないの?
比企氏は頼朝の死後も頼家の外戚として威を振るおうと
油断していたところを
北条氏にやられたんじゃない?
君は通俗歴史読み物の読みすぎ。
才能ないよ。
頼朝生前は別に北条氏優位じゃかったのさ。
まあバカなのかな('-^*)/
907 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 01:57:37
このスレで藤内能員を知らないやつなんていないだろ
908 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 02:13:04
つーか実朝もいい年まで生きてたのに子供一人もいないってのも駄目だよな。
909 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 02:22:14
どうでもいいが頼朝の息子たちが消えても源家が滅んだわけじゃないから
910 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 13:17:59
頼朝は後白河の子っていう解釈の小説あったよね。
911 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/18(火) 22:50:44
>>907 知らないと同じ。
頼朝生前から北条がスゴいとか抜かす、北条過大視の君らはね。
912 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 04:23:22
ハ_ハ゜゚・*:.。..。.キタワァ*:.。..。..:*・゜゚ハ_ハ
('(゚∀゚∩∧,,∧ ∧..∧ ∧..∧∩゚∀゚)')
O,_ 〈(´∀`)(´∀`)(´∀`) 〉
`ヽ_)゚○-J゚ ゚○-J゚ ゚○-J゚ (_/
914 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 20:03:02
未来永劫、頼朝は義経には勝てない・・・
915 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 21:48:25
頼朝165p前後
義経150p前後
身長は勝った。
頼朝頭65p前後
日本のロムルスとレムス
ロムルスとレムスは同格でほぼ同じだけの勢力基盤があったけど
自身と数人の供しかいない義経は・・・
せめて藤原一族引き連れて来ればもっと重んぜられたのにね。
カイン、アベルとロムルス、レムスはほぼ同一視するべき
兄が国(エノクやローマ)を造り
弟は兄に殺されている
何故アベルが殺されたかというと神に
兄より愛されたから嫉妬したらしいです
ロムルスとレムスをカインとアベルと比べる
なんて昔からヨーロッパで研究されていたと思うけど
何故そういったデータが発表されないか不思議
義経頼朝は世間では英雄扱いだけど
全然勝ち組に思えない 勝つ側でも苦しいと源氏一族から伝わってくる
親父は暗殺され兄弟で殺し合い幕府は乗っ取られる
戦争は勝つ側にも犠牲がでるもの
決して勝つ側=悪や幸せではないんだよ
頼朝は政治家、義経は軍人として、両方違った才能の子供を
同時に世に送り出した義朝の胤は優秀ですな。
どちらが欠けてても歴史が違っただろう。
頼朝も義経も、不幸とは思わないな。死に方がどうあれ、
やるべき事はやり遂げた人生だったから。
本当に不幸なのは、源氏の業を一身に受けた頼朝の子供達だろう。
特に大姫、頼家なんか、哀れすぎて救いようがない。実朝も
幕府の権力闘争の前には簡単に始末されるコマでしかない。哀れなり。
923 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 01:58:09
>>908 実朝は、思春期に疱瘡やってるから、たねなしだったんだろうな。
いまの皇太子さんも中学くらいでハシカにかかったから、自然な性交での懐妊は始めから無理だった。
東大の不妊治療と男女うみわけの権威の教授を利用したが、生まれたのが、女。
うみわけの権威は、東大での公費使い込みを理由に追放。
女を産んだ雅子さんは酷い鬱病に。
妃候補だったときに雅子さんが、何度も辞退したのは皇太子が種無しなのが公然の秘密だったから。
外務省の役人という立場の小和田氏を人質に取られた形で、結婚を断るわけにいかなかった雅子さんは諦めて結婚。
国辱仮病女の話などスレ違いだ。
「日本中にバラまかれた俺の種・・・ガキ供といい親友になりそうだぜ」by義朝
頼朝は北条に担ぎ出された御輿であってただの無能男
結果的でもなんでもなく最初から北条の傀儡
927 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 10:10:47
>>926 御輿であることも天下人の資質。
御輿の才能がないと、部下と功を争うかたちで危うくなる。
928 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/21(土) 10:48:29
>>926 そのナイーブな北条中心史観はなんなの?
ネットのデータ?マンガ?インチキ三文小説?
くだらねえw
929 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 11:42:37
義朝は9男も作ったのに、その種は絶えたよな?
930 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 21:07:08
極悪人のイメージ?
未来永劫消えない・・
>>928 流されて一兵卒も引き連れていなかった頼朝に権力を渡すわけが無いだろうが。
だから頼朝の血筋は北条氏によって滅ぼされてるじゃねーか。
脳みそ足りないにも程があんだろwww
932 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/22(日) 10:36:45
>>931 それって(北条中心史観)学界はおろか在野の中世政治に詳しい奴らでは非常識だよ。
江戸時代とか戦前のしょうもない史観だなw
ああ君みたいなバカの間では未だに神通力あるようだなw
頼朝生前は北条なんて、ただ頼朝の舅だってくらいで別に贔屓はされていない
(代官にはなってるが)。
頼朝蜂起の時だって確かに北条の手勢はあったが、他の在地領主の力も借りている。
頼朝と政子の間に生まれた嫡子(頼家)は比企氏と婚姻してる。
官位も北条は全然よくない。
幕府内の地位もよくない。
北条なんて弱小だよ。
少なくとも頼朝の舅であってそれだけの権威。
大したもんじゃない。
君はあまり勉強というかまともな書物読んだことないみたいだ。
マンガとか読み物ネットばっかみてないで
少しは勉強したまえ
君みたいなばかはどうしようもないな
ああバカとか本当のこといっちまった
今から礼拝なんだ
くだらんレスかかせやがって
くずめ
933 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 13:06:06
平和な現代人から見れば、弟を殺した冷血なイメージだけど、
当時の感覚では、保元、平治の乱や、兄の悪源太義平が叔父の義賢を殺したりと
肉親、親族であってもヤルかヤられるかの世界だからなあ。
しかも、頼朝がやられてしまえば、ようやく固まりかけてきた鎌倉政権による
秩序が再び乱れて再び領地争いによる混沌な世に逆戻り。
冷酷でも自分が負けるわけにはいかないという思いもあったのでは。
>>897 義朝が京都と鎌倉を頻繁に往復する時の、宿駅ごとに女がいて、それぞれ子供が生まれたと
海音寺潮五郎の武将列伝で読んだ。と4ヶ月前の書き込みにレス
京都−常盤−七男今若八男乙若九男牛若
美濃青墓−大炊長者の女延寿−娘
尾張熱田−熱田大宮司藤原季範の女−三男頼朝四男義門
遠江池田−遊女−六男範頼
駿河香貫−藤原友忠の女−五男希義
相模秦野−波多野義通の女−次男朝長
鎌倉−三浦大介義明の女−長男義平
子作り街道www
でも義平のオカンは遊女じゃね?長男なのに官職もないし。
義朝18で最初の子ならそこらの筆下ろし遊女に産ませてそう。
たぶん既出と思うが
「朝鮮=極悪人というイメージは・・・」と読んでしまったスレタイ
938 :
日本@名無史さん:2008/06/22(日) 22:25:39
義朝┳義平×
┣朝長×
┣頼朝┳頼家┳一幡×
┃ ┃ ┣公暁×
┃ ┃ ┣栄実×
┃ ┃ ┗禅暁×
┃ ┣貞暁×
┃ ┗実朝×
┣義門×
┣希義┳隆盛(土佐吉良氏祖説あり)×
┃ ┗希望(土佐吉良氏祖)━(戦国期に滅亡)
┣範頼━吉見氏?(子孫説あり)
┣全成┳頼全×
┃ ┗時元━(阿野氏として南北朝期までは記録あり)
┣義円━義成(愛智氏祖)━(南北朝期までは記録あり)
┗義経━男子×
義朝の男系子孫として、希望と時元と義成の子孫がどこかに
残っていてもおかしくはないが記録上は不明だね。
>>1 まず鎌倉市民の意識改革が必要なんじゃないの。マジでな。
940 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 11:50:31
>>935 頼朝と希義って同母兄弟じゃねーの?
それに頼朝母は上西門院に仕えてたらしいから京にいたんじゃ?
941 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 16:38:22
>>1 頼朝は北条氏に利用されただけでは?時政・義時・政子や和田氏・三浦氏など
の取り巻きにさ・・・・・幕府機関成立後は河内源氏は用済みでは?
頼朝は一族血統の根絶やしを近習に唆されてしたことがすべて頼朝の性格の
せいにされたのでは?
942 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 16:49:06
>>935 平将門の曽祖父「高望王」も坂東(関東)の在地豪族の娘と間に国香・良将(将門の
父)・良兼・良文と坂東へ子孫を広げたのだろう?
昔は子供は母系に育てられ嫡流という事でその地盤と母系豪族従えたのだろう?
943 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 22:16:28
愛知三河最強伝説
944 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 18:49:05
朝鮮長州こそ正義です
>>888 半分同意
義経は坂東人を信用してなかった気がする
父・義朝が殺されたように、己の利欲(所領)の為には
寝返りも厭わないような猛々しい奴等なんだし
奥州から手ぶらで来てしまった義経は、頼朝に土地や兵を提供してる
御家人達から常に馬鹿にされてたんじゃないかと、海音寺潮五郎が言ってた
あいつらを見返したい、あいつらと一線を引きたいと義経が思っても
不思議じゃないと思う
義経=政治的痴呆者というのは、あくまで鎌倉側から見た意見だと思う
秀衡だったら、任官ぐらいで目くじら立てず、上手く扱っただろうね
>>936 義平の母は越前足羽の豪族の豪族林光成の娘という説もある。
どっちにしろ地方豪族の娘では、頼朝の母より地位低いだろうけど。
あと藤原季範娘の同母兄弟は頼朝と希義だが、義門もその説がある。
他に頼朝の妹にあたる坊門姫。
947 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 00:30:01
主殺しは尾張長田
なぜか越前w
949 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 14:14:10
頼朝は女房一族に利用されまくって弟まで殺されたかわいそうな男です
ってことでイメージ回復すればあるいは……。
腐った貴族達から民衆を救うという崇高な目的のために、
使える物は何でも使う頼朝、だが心の中でひっそり泣く頼朝。
というスタンスで漫画(小説じゃみんな読まない…)を描けばいいんじゃね?
事実かどうか?そんなのは知ったことでは無い。崇高な目的のため(ry
>>949 弟っつーか子孫一族皆殺しにされてます。
952 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 15:18:30
>>949 弟を殺したのは頼朝自身。
政子はあくまでも義経の愛人らに同情的だった
というスタンスだからね。
953 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 23:41:52
>>952 その逸話は
北条サイドが編纂したという吾妻鏡がソースなんだがw
吾妻鏡じゃ義高、義仲妹、義経の子、「源氏の子」に関しては大抵
頼朝は非道だったのに政子は庇護したって構図になってる。
滅びた系統だからどうにでも書ける。生き残った系統は族滅してるくせになw
静の子も妊娠期間逆算すると義経の子には成り得ないし、
遊女の産んだどこぞの馬の骨に過ぎないが、吾妻鏡は出産日の
静の様子までわざわざ詳しく描いて、頼朝が義経の赤子を殺しました、
それを政子はかばってあげたんです!と静絡みは政子マンセーの極み。
全部が捏造とは言わんが、吾妻鏡の政子age頼朝sage話は
ある程度差っ引いて読むのが常識。
955 :
終わり男児:2008/07/21(月) 02:08:16
そうだな
956 :
日本@名無史さん:2008/07/22(火) 23:47:56
意外にも和歌の才能もあったようだね。
流罪なんかならずに京でちゃんと学んでいれば歌人としても名を残してたかもしれない。
まぁその才能は実朝が受け継いだんだろうが。
>>939 そうだね。鎌倉より伊豆〜富士宮にかけての方が頼朝に
好意的だし誇りにしている印象がある。
富士山という最高の観光資源がある地域なのに不思議。
960
962 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 02:20:44
>>957 静岡東部は頼朝が源氏再興祈願してからある意味一番幸せだったと
思われる時を過ごした舞台だからな。
鎌倉はどちらかというと頼朝がある意味不幸になっていった舞台。
両者で明暗があるのは仕方なかろう。
いっそうのこと、富士山の加護も願って富士山背負っている富士あたりに
幕府を開けばまた違ったか・・・?
963 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 04:34:16
だが結局の処、静岡東部でも政子や北条抜きにしての頼朝関連というと
富士や富士宮あたりぐらいにしかない感じ。
964 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 00:49:34
一般的には吾妻鏡や小説の影響などで北条家や政子あっての
頼朝みたいな感がぬぐえないからどうしてもセットにされる傾向が…。
言うなれば頼朝は鬼で政子は菩薩。
対象的に書くことで政子ひいては北条家の株があがる。
頼朝のイメージというのは史書というものは
勝者のためにあるものの典型みたいなもんか。
頼朝の記録を最終的に編纂したのが北条氏だから
どうしても都合のいいように編集してるからね。
北条はやり手一族で承久の乱とか武家政権を定着させた功績も
大きいのは分かるが、やっぱりそのやり口が生理的に好かんわ。
畠山なんかも嫁を送り込んで家を乗っ取り重忠の血を絶やしてる。まさに寄生虫一族。
比企能員がもっと有能で、頼家を上手く操作して御家人をまとめ、
北条を駆逐しておけば・・。坂東出身でもなかったし、能力よりも
縁故だけの人物だったのがいけなかった。
967 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 00:35:01
まー、その分散り際もすさまじいのだが。
968 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/01(金) 00:42:15
>>966 ある在地領主が滅びるということは
その土地を新たに得る者たちがいるということ。
梶原、比企、和田が滅亡して潤ったのは北条だけじゃない。
梶原を滅ぼすときは比企も和田も賛成していたし、
比企が滅ぶときも和田は賛成している。
鎌倉という場所は生き馬の目を抜くとんでもないトコだ。
こんな狭いとこで熾烈な闘いがあったなんてある意味驚きだ
969 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/01(金) 00:57:54
「梶原には恨みがあったから」
それが理由、
と突っ込みしてくる奴らがいそうだな…
理由としては確かに一つだが
ある在地領主が滅亡する際、
恩賞を嬉しく感じる御家人が多いのは鎌倉時代によく見られた話だよ
変な血縁とかない他人だと(いや血縁でも。庶家が嫡流になるチャンス)みんな涎たらしている
>>966 吾妻鏡をよく読むと主人公が変わるポイントがある。
このスレで頼朝を悪人にしたてている政子にしても
義時死後はあまり評価された書き方はされていないよね。
比企をうまく倒した時政の晩年も散々だったし北条贔屓なのは
事実だけど大鏡みたいに「道長スゲー」にオチをもってくるような
書き方じゃないように思えるなあ。
971 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 16:00:35
頼朝が武家政権を作ろうと思ったのはいつ頃なんでしょうかね?
この人は天才ではなく、良くも悪くも凡人なんだと思う。
他人の悪口を落書きしてウサ晴らししたとか聞くと、人間臭すぎるというか
こういう凡人ならではのいみじさがパワーになってるんだなと。
忍耐と根性こそが凡人の特権だし、天才的な閃きがないかわりに
ありとあらゆることを考え抜き、新しいものを作り出すかわりに
情報を集めては利用できそうなものを貪欲に吸収していった。
武家政権の構想も、頼朝の独創性ではなく、独立自尊を守ってきた
奥州という生きたモデルが目の前にあったからだと。
天下を取って、これからがカリスマ性の発揮どころって時に
ただのつまらない凡人に戻ってしまった。
あれだけ朝廷を警戒しながら、なんで大姫を天皇の嫁さんにしようなんて
考えたんだろ。
973 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 19:21:00
東国源氏って義朝の代あたりまで一族で争って平治の乱で平家に潰されて。で頼朝。たんに御輿として担がれただけの存在だったわけでしょ?
その立場をよく理解してたように思う。
頼朝死後あえなく途絶えたのがなによりの証
974 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/02(土) 01:20:03
>>972 「他人の悪口」ってさ
京で勝手に任官しちゃった御家人たちのことでしょ。
悪口は悪口でもただの悪口じゃないよ。
975 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 02:35:57
足利の方が先を見る目があったのか、ただのビビリだったのか。
御輿を自認してた奴が親族殺しまわるかよw
977 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 22:38:08
中学時代部活のバスケに打ち込んでいた頼朝
苛められていた同級生を救う頼朝
978 :
日本@名無史さん:2008/08/06(水) 22:38:21
>>974 この悪口が頼朝の記憶力の良さを証明してるらしいな
内容はアホらしくて笑えるが
980 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 00:52:18
御輿はひとつでいいわけで。功名あげた親族がいると危険が大きいと思ったんだろう。
それが逆に家を滅ぼす結末になるとはね
>>979 鎌倉幕府の「御恩と奉公」システムを根幹から覆すことだからじゃね
982 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/09(土) 00:21:59
>>978 >>979 むしろ頼朝のユーモア(皮肉?)たっぷりな描写力に感心したけど。
あとよく吾妻鏡は記述残してくれたなって
感じだ。
御輿にすぎないからこそ、別に頼朝でなくてもよかったわけで。
代わりになる立場の者を消していったのは間違いじゃない。
985
987 :
日本@名無史さん:2008/08/09(土) 21:37:35
吾妻鏡の現代語訳がハードカバーで出ていたけど買いかな?
出費がひどそうなんだが。。。
990
995
1000 :
日本@名無史さん:2008/08/10(日) 00:07:22
2もいくぞ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。