20 :
日本@名無史さん:05/03/11 00:55:12
日華情勢も刻々と変化した。寺内内閣の外交調査会における原総裁が
「援段政策」を厳しく批判し、むしろ南北妥協をはかるべきであるとの
持論を展開した。原内閣がその方針に従って対華外交を進めていくが、
事態は寺内内閣の時と大きく変化しようとしていた。
つまり、山東問題に端を発する反日暴動の激化、また段祺瑞の直隷派と
安徽派の戦争(安直戦争)が始まり、原内閣はあわてて北京親日派に
大規模な梃子入れをせざるをえなくなっていった。南北妥協どころではない、
日本は満蒙権益を守るために汲々とせざるを得なくなっていたのである。
ここで日本が目を付けたのが、安直戦争においてキャスティング・ヴォートを
握った奉天軍閥の張作霖である。日本はこれ以降、急速に張と結束してゆく
ことになる。
21 :
日本@名無史さん:05/03/11 00:58:02
第二十代:高橋是清内閣 (任:1921/大正十.11.13-1922/大正十一.6.12)
http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/20-Takahashi.htm 新内閣は原内閣時の閣内不協和音まで引き継ぐことになった。内閣改造問題である。
原の時には彼の絶大な指導力は全政友会を覆うの感があったが、高橋首相は
「原といふ人は政党の事は大小軽重ともに多大の興味と熱意を持って居たので、
党員の名前や顔は勿論の事、その人の履歴、その人の勢力など何もかも知って
居たし、又知ることにつとめたものだ。
所が私はそんな事は全然興味を持たず、誰が何といふ人か、どんな顔をしているか、
殆ど知らなかった。そんな風だから政党の総裁なんか私には最も不適任で、
原の後に総裁になるなんか思ひも寄らなかつた」
という調子で、自然原のような指導力は期待し得なかった。
ここに、改造派と非改造派の政争が展開することになる。
22 :
日本@名無史さん:05/03/11 01:00:06
第二十一代:加藤友三郎内閣(任:1922/大正十一.6.12-1923/大正十二.9.2)
http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/21-Katou-tomo.htm 内閣の大仕事は、ワシントン会議での取り決めに従い、シベリアからの完全撤兵と
海軍軍縮を遂行することであった。
組閣後間もない六月二十四日、加藤政権はシベリア撤兵を声明した。そのあいだに
設けられた日ソ長春会議は決裂したものの、十月二十五日までに逐次撤兵を行い、
完了させることに成功した(尼港事件の賠償を求めて、北樺太のみは占領を続行する)。
こうして、寺内内閣以来の懸案であったシベリア撤兵問題はようやく解消したのである。
軍縮問題に関しては、加藤首相・兼・海相がワシントン条約に基づく海軍軍縮を断行した。
戦艦「安芸」「薩摩」などは廃棄、建造中の「赤城」「加賀」などは航空母艦に改造された。
将校・兵約七千五百名、職工一万四千人がリストラの対象となった。
海軍が軍縮に踏み切ったとなれば、その対抗勢力である陸軍も座視しているわけには行かない。
山梨半造陸相のもと、いわゆる「山梨軍縮」が行われ、兵員五万三千、馬匹一万三千を軍縮
する代わり、軍備の近代化が進められた。
総じて、この時代は、少佐の軍靴に付いている拍車が邪魔だと言って大工が文句を言った、
というエピソードが物語っているように、軍人の社会的地位が大いに下落し、
「軍人に娘はやれない」世相だったようである。
大正十二年八月二十五日、折から病床についていた加藤友三郎首相逝去。
内田康哉外相が臨時に首相代行に就任した。この直後の九月一日正午二分前、
東京・京浜地域を激震が襲った。
23 :
日本@名無史さん:05/03/11 10:42:46
まあタイムリーなことに、細谷千博の「シベリア出兵の史的研究」が復刻された
から、とりあえずこれに目を通せ。
古書店での価格は暴落したねw
24 :
日本@名無史さん:05/03/11 10:51:25
強引さが足らない、で、手遅れになったところで、いきなりがんばり始める。
何事も、もっと最初っからきちんと戦略立てないと。
鎖国してのんびりしてた癖が抜けないのかね。
「シベリア出兵従軍記」
という本が出ており珍しいので買った。
まだ読んでないけど。
26 :
日本@名無史さん:05/03/12 13:20:11
シベリア出兵の当事者の記録だと、やっぱり
石光真清の手記、第四巻
「誰のために」中公文庫
が珠玉だと思う。
27 :
日本@名無史さん:05/03/12 13:25:34
「シベリア出兵の史的研究」って本買ってきたけど、本文が半分くらいしかなくて損した気分だ。
28 :
日本@名無史さん:05/03/12 13:27:52
あほかああ
あの註は、ひとつひとつ吟味して読み進むものなんだ。
註が多くて損したなんて発言、はじめて聞いた。
ちょっと面白い。
29 :
日本@名無史さん:05/03/12 14:25:20
アメリカでいえばベトナム
ソ連で言えばアフガン
実質的には日本帝国の初めての敗戦
これを転機に領土的野心を抑えること出来ていれば('A`)
>>29 だから日本に領土的野心があったのは確かだがそれは2の次で、第一にWW1連合国共同の
革命干渉なんだったてば。これを分かってない奴が多すぎる。
「無益な戦争だった」って、戦争で利益が得られると決まっている訳じゃない。
幼稚な主張だな。
たしかに、ロシア革命干渉で、チェコスロバキア軍救出の名目で
アメリカを始めとする何カ国かと一緒に1918年に共同出兵したが、
他の国はほどなく撤兵したのに日本だけが1922年まで派兵を続け、
他国から領土的野心を疑われ強い不信を買ったのである。
33 :
日本@名無史さん:05/03/12 16:41:00
WWTにおける日露関係
http://ww1.m78.com/sib/exhortation%20for%20expedition.html 参戦要請ではないがロシアからは装備・武器弾薬の供給要請があった。
この当時日露関係は非常に良好だった。イギリスとは開戦時の地域制限
論争が気持ちのうえで最後までつきまとった。これに対しロシアの要求
は日本の実情を考慮し非常に懇切ではあり丁寧(*)なものだった。
朝野では日露同盟論が沸きあがったという。この気分がシベリア出兵に
影響したことは確実だ。戦時中の帝政ロシアは自ら総動員によって開戦
原因を作ったためか同盟国にたいして誠意でこたえた。
(*)ニコライU世は大正天皇の即位式(1915年11月京都)に
花瓶と手箱を贈った。ダイアモンドをあしらった工芸品で当時500
万円を越えると噂されたという。ニコライU世の工芸趣味はイースター
エッグで有名であるが、この2品は他の国のものを圧倒していたという。
日本も小銃や野砲の供給でできる限りのことをした。当時全世界で武器
供給能力のある国は日本のみだった。アメリカは生産能力は圧倒的だった
がこの時は民生品に限られていた。1916年のロシア軍の攻勢、
ナロッチ湖の戦いとブルシロフ攻勢はこの日本の援助と関係がある。
34 :
日本@名無史さん:05/03/12 16:44:35
第十八代:寺内正毅内閣
(任:1916/大正五.10.9-1918/大正七.9.29)
寺内内閣は成立当時から不人気な政権であった。寺内は「二ヶ月持てばよいほう」と
かなり暗い観測をしていたし、民衆たちも寺内の頭がビリケン人形よろしく尖って
いたために「非立憲(ビリケン)内閣」と呼んで攻撃の手を弛めなかった。
とはいえ、そのビリケン内閣にも使命がある。大隈内閣によって混乱させられた
対支外交(「二十一カ条要求」)の刷新がそれであるが、寺内がとったのは朝鮮
時代の知己である財界人西原亀三を使っての西原借款であった。借款先は、
袁世凱亡き後の中華民国の最大実力者・段祺瑞。寺内内閣は段に梃子入れする
ことによって中国統一をなさしめようとしたのである(援段政策)。
三浦悟楼の肝煎りによって「天皇直属機関」として成立した外交調査会の
メンバーであった原敬、牧野伸顕などはこれに反対した。当時の中国は
北京に段祺瑞、奉天に張作霖、徐州に張勳、そして南方に孫文を中心に
する革命派があって相攻伐していたが、原はむしろこれらの勢力に宥和を
図らせる「南北妥協」の促進こそがパワーポリティックスの面からも
有利だと説いたが、内閣は寺内首相、勝田蔵相、そして西原亀三を中心に
密謀的に援段政策を進めていった。
このように日本が対支策に大わらわの間、北の雄国・ロシアにおいて
社会主義革命が勃発した。ロシア革命である。この革命によっていわゆる
第一次大戦の東部戦線は崩壊。ドイツ勢力がシベリア鉄道を経て東漸
してくる虞が生じてきた。アメリカもこれを恐れ、シベリア抑留中の
チェッコ・スロヴァッキア兵団を救うために日本に対して共同出兵を
求めてきた。日本は外交調査会における原、牧野、西園寺などの反対を
押し切ってこれに応じ、ウラジオストックに相次いで日米陸軍が上陸
していった。(
>>18に続く。)
35 :
日本@名無史さん:05/03/12 17:32:46
>>32 出兵当時、英仏は領土的野心を持っていたけれど、(+反共産革命)
戦線の停滞や厭戦気分によって撤退した。
アメリカは始めから、領土的野心は無かった。
ドイツは途中で脱落した。
その中で日本だけが残ったため、孤立していった。
尼港事件は何故起きたの?
37 :
日本@名無史さん:05/03/12 19:51:28
>>35 シベリア出兵によって、アメリカで反日感情が生まれたと言えるね。
WWTにおける米国
http://ww1.m78.com/sib/exhortation%20for%20expedition.html 米軍も潜水艦攻撃を避けるため、スコットランド上陸ドーバーと直接マルセイユと
二つコースをとった。日本の逡巡に比べアメリカは参戦すぐに欧州派兵という決断を
行った。しかもアメリカは当時徴兵制でなく志願兵を募っての派兵だった。
そして戦死12万人、戦傷者22万人を出して国民が動揺しないのだから驚くべき
だろう。しかも領土も賠償金も大戦中から興味を示さなかった。
日本の3個師団をシベリアに派遣、4600人が戦死して政府が領土を求めて
撤兵を遅らすというのは、いかに当時の大国の常識に反しているかわかる。
38 :
日本@名無史さん:05/03/12 20:07:23
>>36 尼港(ニコライエフスク)事件
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/nikoujiken.htm 大正9年(1920年)5月、尼港事件が起こった。露のパルチザン軍が、
尼港の日本軍守備隊、居留民を虐殺したのである。
大正8年
ウラジオストク付近から逃れてきたパルチザンと過激派十数名が
尼港に潜入して工作を開始し、勢力を急速に拡大。
過激派軍は、赤軍系パルチザンと韓人教師朴エルリアが組織した
「サハリン部隊」とが連合したものであった。
大正9年
1月24日、過激派の使者が、和議を申し込んできたが、守備隊長(日本)は一蹴した。
2月5日、過激派軍は、近郊にあるチヌイラフ旧要塞を奇襲占領し、海軍無線所を破壊した。
このため守備隊(日本)と外部との通信連絡は全く遮断された。
2月24日、過激派軍から休戦を提議してきたので、守備隊長がこれを容れて28日
交渉がまとまった。ところが尼港に入った過激派は、協約を全く無視して、
反過激派を投獄、虐殺し、労働者を集めて軍隊を編成し、勢力を拡大して、
日本軍撃滅の準備を進めた。
3月11日、過激派は、尼港守備隊(日本)の武装解除を要求。
3月12日、午前2時、尼港守備隊(日本)は、過激派の主要拠点を不意急襲するも全滅。
5月12日、多門支隊が、アレクサンドロフスクを出帆し、樺太対岸のデカストウリに上陸。
5月25日、尼港の過激派は、日本軍の来襲にたいする準備を行なっていたが、
ついに尼港放棄を決定した。そして5月25日から、監禁してい
た日本人と、残っていた反過激派の人々を惨殺し、市内の建物
全部を焼き払って、西方のアムグン河谷の森林内に逃走した。
まあ、他国の内政に干渉するとろくな結果を得ないという教訓だね。
アメリカなんかも今それで苦しんでるし。
>>39 確かに。軍事介入は火事場泥棒と見られて反発されるし、兵の士気が下がるみたいだね。
資金介入が良いだろうけど、既存政権の方は慨して赤字で返済能力が無いからな・・・
41 :
日本@名無史さん:05/03/12 23:06:53
>>39>>40 しかもその苦しみを負うのは出先の連中。
田中義一なんか、この事件の機密費着服しちゃうんだからw
イラクで儲けている連中と、ばたばた死んでいる層とに断層があるって構図も
まったく同じだw
42 :
日本@名無史さん:05/03/12 23:31:24
田中義一、原敬って軍と政治家の逸材じゃん。
当時の日本が本気だったら、ロシアをシベリアから駆逐できたんじゃ?
43 :
日本@名無史さん:05/03/12 23:48:26
田中義一っていったらシベリア出兵のときに軍資金をプールして私腹を肥やしていただけだよ
こんな香具師が本気になってなんになるのか
44 :
日本@名無史さん:05/03/13 00:21:28
>>43 田中義一は、シベリア出兵を利用するだけ利用してただけで、
まともに働いて無いからなー。
彼にとっては、所詮「負けがない戦争」だったわけで。
45 :
日本@名無史さん:05/03/13 01:59:18
Who is 田中義一?
田中義一は長州閥出身の陸軍軍人で、若い頃から優秀な作戦家として
ブイブイいわしていた。陸軍大臣を2期務めた後、立憲政友会総裁へ
と転身する。この立憲政友会というのは今で言う自民党みたいな存在かな。
しかし、彼はクリーンな方法で政友会総裁に登り詰めたわけではないようだ。
彼には「陸軍機密費横領疑惑」があった。この「陸軍機密費横領疑惑」とは、
田中義一が陸軍大臣時代に陸軍の機密費約300万円(現在の約100億円に相当)
で公債を購入、その利子を私物化し、その金を政界にばらまいて政友会総裁に
就任した――と疑われた事件である。この事件は新聞にも大々的に報じられ、
国会でも大審議となった。もう少しかみ砕いて言うと、国にお金を貸すことに
よって発生する利子をあっちこっちにばらまいて政友会のドンになった、
つまり金で総裁の座を買った、ということだ。これだけ大問題となった事件
だったが、結局田中は不起訴になっている。
46 :
日本@名無史さん:05/03/13 02:04:10
田中義一は中国権益のために山東出兵などの強硬外交を行い、
また、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)で昭和天皇の不信を買い、
退陣に追い込まれた。
田中義一・蒋介石密約
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/7154/tanaka_shankai.html 満蒙特殊地域擁護のためには機宜(きぎ)の処置をとる、つまり武力行使も
辞さないということであって、この東方会議の考え方が、張作霖爆殺事件、
ひいては3年後の満州事変勃発につながるのである。
ところが、この2つの構想の他に、もう1つの構想が立てられていた。
じつは田中義一首相もこの第3の構想ともいうべき考え方に大乗気であった。
もう1つの構想というのは、松井石根の構想である。
松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを
抱いていた。
日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を
可能ならしめるよう助力する。
そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、
ただし蒋の国民政府による中国統一が成就したあかつきには、わが国の満蒙の
特殊権益と開発を大幅に承認せしめることを条件とする、という案である。
松井は、日露戦争当時陸軍随一の中国通として令名高い北京駐在武官長青木
宣純少将(当時)の同門である佐藤安之助とはかり、彼を政友会から立候補
せしめ、田中内閣成立と同時に、田中の対支政策のブレーンとしてこの構想を
田中に吹き込んだ。
田中はこの構想に強い関心を示した。
いつでも蒋介石と会おうというところまでこぎつけた。
一方松井は、旧知の総参謀長張群を通じて蒋介石の来日を促(うなが)していた。
同時に佐々木到一中佐に「将来は蒋介石の国民党時代がくる。
貴公は蒋介石の顧問として赴任し、蒋の対外政策を誤まらしめんよう、
よろしく梶(かじ)を取れ」と命じ、佐々木を蒋の顧問にあっせんした。
49 :
日本@名無史さん:05/03/13 10:36:45
蒋介石がこっそりと日本を訪れたのは、(昭和2年)9月28日のことである。
随行は張群と秘書の棟方之らわずか5名であった。松井はひそかに張群とも
蒋介石とも会い、佐藤安之助も交えて「田中・蒋会談」の根回しにつとめた。
10月15日、青山の田中私邸で両者の会談が行われた。
この会談に参加したのは、日本側では森格と佐藤安之助、蒋側は張群が陪席した。
(田崎末松著『評伝田中義一』568ページ)
この会談の模様は『外務省外交年表並に主要文書』に詳しいが、省略して、
その結論だけを述べると、田中の主張は、蒋のこのたびの下野の態度をたたえ、
その将来性を高く評価して、昭和2(1927)年11月3日、東京目白・梅屋庄吉宅の庭で
(1)この際、揚子江以南を掌握することに全力をそそぎ、北伐はあせるな。
(2)共産主義の蔓延を警戒し、防止せよ。
(3)この(1)(2)に対して日本は支援を惜しまない。
この3点であった。
蒋介石はもっぱら聞き役であったが、最終的に2人の間に合意したのは、
国民改革が成功し、中国統一が成功したあかつきには、日本はこれを
承認すること、これに対し国民政府は、満州に対する日本の地位と
特殊権益を認めるということであった。
(「知性」別冊第5号〔1956年〕鈴木貞一述『北伐と蒋・田中密約』)
蒋は汪兆銘の招電で帰国するが、帰国した際は、上海に上陸した際、
記者団との会見において次のように語っている。
「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。
また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。
孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、
考慮を払うことを保証していた」と。(前掲「知性」山浦貫一述『森格』)
50 :
日本@名無史さん:05/03/13 10:37:50
歴史にif(もし)という仮定は許されないと言われるが、ここまで組み立てられた
松井構想が、このまま順調に生かされたならば、日中の歴史は全く変わったものに
なっていたに違いない。
ところがその翌年の6月4日、前述のような張作霖爆死事件が起き、
3年後には満州事変が勃発し、松井構想は音を立てて崩れ去ってしまうのである。
51 :
日本@名無史さん:05/03/13 14:09:22
満州事変のやぶ蛇で、張学良に金を無心していたことがバレタ床次萌えw
52 :
日本@名無史さん:05/03/13 20:17:37
日帝軍はポーランドの孤児を拉致してきたんでしょ?
54 :
日本@名無史さん:05/03/14 12:41:57
その通りです。近年ポーランドを訪問された天皇陛下に、涙を流して当時のことを訴えるポーランド孤児の姿は未だ記憶に新しいですね。
55 :
日本@名無史さん:05/03/15 05:17:59
>>33 >(*)ニコライU世は大正天皇の即位式(1915年11月京都)に
>花瓶と手箱を贈った。ダイアモンドをあしらった工芸品で当時500
>万円を越えると噂されたという。ニコライU世の工芸趣味はイースター
>エッグで有名であるが、この2品は他の国のものを圧倒していたという。
今でもこれ日本に、あるのだろうか?
何か悪い事言ったのならあやまる。ではポーランドネタは禁止ね↓
で、白人の貞操観念に軽蔑の念を持つようになったってのは、
困窮した貴族の女性が簡単に日本軍将校に身を売ったってことなんですか?
でもそれは生きるか死ぬかなんだから、緊急避難だと思うけどなあ。
今でもウラジオストクに行くと・・・
61 :
日本@名無史さん:05/03/16 02:31:36
>>59 明治前期も遊郭には、武家の女性が多かったらしいよ。
生きるか死ぬかって言うより、
はした金のために、人の下で汗水垂らして働けない性分なんだろうねー。
従軍慰安婦や強制連行という名の出稼ぎも緊急避難
でも謝罪と賠償は永久にしてもらうよ
>>61 賤民の嫉妬と優越感のないまざった複雑な感情が伺えて興味深い。
64 :
日本@名無史さん:05/03/20 18:26:55
実は日米の代理戦争
65 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 23:04:15
なんでチェコ人が居たんだっけ?
66 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 23:06:49
また連合国の列強はソヴィエト政権が帝政時代の債務を放棄し、
秘密外交文書を暴露(1917.12)したことに強い反感を持ち、
ソヴィエト政権を打倒するために反革命軍を支援し、対ソ干渉
戦争(1918.3〜22年末)に乗りだした。
特に1918年5月、大戦中にロシア軍に投降した4万5000のチェコ兵
が西部戦線に参加するためにシベリア鉄道で移動中に反乱を起こし、
シベリア鉄道全線を占領して反革命軍を支持した。このチェコ兵
救出が連合軍の大規模な干渉の口実となった。
1918年8月以降、北ロシアのアルハンゲリスクからイギリス・
アメリカ・フランス軍約1万5000が、そしてシベリアから日本・
アメリカ・イギリス・フランス軍約2万5000がチェコ兵救出を
旗印にロシアの内陸に向かって進撃した。シベリアに出兵した
兵力の約半数が日本軍であり、日本は最盛期には7万5000の
兵力を送り込んだ(シベリア出兵)。
またロシア国内の反革命軍は連合国から大規模な軍事・
経済援助を得て、1919年にはウラルに前線をおく
コルチャック(ロシアの海軍少将)軍や南ロシアの
デニーキン(ロシアの中将)軍が攻勢に出、
デニーキン軍は一時はモスクワに迫ったがいずれも翌年には敗北した。
対ソ干渉戦争と反革命によってソヴィエト政権は一時は
危機に陥ったが、連合国各国の利害の対立・ソヴィエト
民衆の抵抗・増強された赤軍の奮戦の前に、連合国軍は
1920年夏までには日本軍を除いてほぼ撤兵した。日本軍
だけが、1922年まで沿海州に、1925年まで北樺太に駐兵し、
内外から非難された。
67 :
日本@名無史さん:2005/03/24(木) 23:23:50
一応、第一次世界大戦の一環なんだな・・・
68 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 00:33:51
ロシア革命当時、レーニンは
帝政ロシアが武力で併合した土地は返還する声明を出したが
この時、これをうまく利用して日本と中国が共同で
ロシアから領土を返還させるという考えはなかったのかな?
日本→北樺太
中国→スタノボイ山脈(外興安嶺)以南
69 :
日本@名無史さん:
>>59 シベリア出兵について広島の郷土資料から「当時の金で10億円という
大金を浪費し列国の信用を失い、さまざまな悲劇の種を残しただけ。
戦死1,387人・戦傷2,066人・その他の傷病941人のほか、
この数倍に達する凍傷患者を出したが、問題は性病である。
陸上自衛隊衛生学校には、この出兵の衛生関係書類が保管されている。
全8巻に及ぶ詳細な報告書だがそれによると、大正7年8月〜9年
10月間の性病患者数は2,012人である。この数は公式に軍医が
カルテを作成したものだけで、実数はこの数倍といわれている。出兵の
ピークは約7万5千人だから、いかに性病患者が多かったか判る。
無統制なロシア女性との性行為が恐るべき結果となった。
(余談:戦後シベリアに抑留された連中は、ソ連女性が貞操観念に
乏しいことを痛感している。もっとも当時のソ連では、男どもに
希少価値があったことも事実。なにしろ精力絶倫で熊のような女性が
各職場で大半をしめていた時代だから、栄養失調でキリギリスのような
日本男性にも彼女らは盛んに色目をつかい、モーションをかけてきた。
これ以上は省略)」と記されています。