1 :
天之御中主神:
天孫降臨の際、天孫に天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と天太玉命(アメノフトダマノミコト)の二神が随行し、後に天児屋根命の子孫は中臣氏に、天太玉命は忌部氏となった。
天孫の嫡流は天皇家となった訳だが、このように神代からの氏族や古代の豪族の系図を探りながら、その後どうなったか等いろいろ語りあっていきたい。
2 :
日本@名無史さん:05/03/09 19:18:53
古代、軍事に関わったのが大伴氏と物部氏。
大伴氏は天忍日命(アメノオシヒノミコト)、物部氏はニギ速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫である。
3 :
日本@名無史さん:05/03/10 09:55:55
日本の最も由緒ある御三家って天皇家、中臣家、忌部家な訳だ。
鎌足の時に藤原の姓を貰ったが、不比等以外は中臣に復姓した。
忌部氏は勢力を拡大した藤原氏の影響で中臣氏に神事を奪われていったんだよな。
4 :
日本@名無史さん:05/03/10 09:59:30
5 :
日本@名無史さん:05/03/10 10:07:39
6 :
日本@名無史さん:05/03/10 10:33:02
斎部氏は現在どうなってる?
7 :
万年救護大本尊の朴蓮:05/03/10 17:48:17
平凡に生きるのが幸せさ
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/10 18:35:19
>5
ま、
正統は早い段階で滅びたのが良く分かるな。
あとは大和朝廷になびいた裏切り者の傍系だ。
系譜とも出来ないし意味は無い。
9 :
日本@名無史さん:05/03/11 01:21:19
斎部氏ってかなりの名門みたいだがあまり聞かないね。
表舞台からは消えてしまったと思われる。嫡流の子孫はどうしているんだろう?
10 :
日本@名無史さん:05/03/12 10:44:47
11 :
日本@名無史さん:2005/03/21(月) 16:32:11
12 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 15:36:05
忌部氏のなかで最も有名なのが「織田信長」
織田氏は平家の落胤だと自称するが忌部氏であるのが通説。
13 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 19:22:32
九州の阿蘇や信州の諏訪はランクがだいぶ落ちるの?
大伴氏→三河伴氏 甲賀伴氏 薩隅肝付一族・・・
15 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 11:16:02
諏訪は神代からの系図と源氏の系図があってはっきりしない
諏訪氏は金刺姓。源姓は仮冒。
物部氏→長門厚東一族 近江物部氏(浅井・脇坂など) 三河平岩氏・・・
18 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 16:06:03
現在、物部や大伴の嫡流の子孫はどこ?
19 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 22:15:31
俺の実家は本姓が、卜部氏。
北陸のほうで、興福寺か春日大社から室町時代に荘官として派遣されてきたが、
土着して坊主になった。600年位前のことらしい。
20 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 09:24:58
大伴氏とたまに見かける大友という姓との繋がりは?
21 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 09:35:10
戦国時代、九州にいた大友氏と立花氏は古代豪族の大伴氏、橘氏となんら関係はない。
22 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 20:32:47
九州の大友氏は藤原の末流って言ってたはず。もっとも本当かどうかは不明。
古語拾遺って読んだ事ないけど、忌部氏も悔しかったんだろうなw
五木って名字は斎だから斎部氏に通じるなんて話を聞いた事があるがマユツバもんだ。
23 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:20:09
>>18 江戸時代にも地下の官人では残っていたんじゃなかったっけ。
それが「嫡流」なのかは知らんけど
25 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:52:59
織田信長は平氏などと言わずに堂々と忌部氏を称して欲しかったな。
で藤原氏を駆逐して欲しかった。
斎部宿禰信長
賀茂朝臣家康
27 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 01:13:04
織田家は婿入りで二重に氏をもってるからな。
って、別に日本じゃ珍しくないが
28 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 10:27:57
29 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 10:47:07
30 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 10:57:03
代々朝廷に仕えた土御門家というのもあったね。
時間、天文を司ったとか
31 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 15:40:40
菅原朝臣利家
菅原朝臣宗矩
大江朝臣元就
大江朝臣忠清
32 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 14:39:49
前田と柳生か贋流なのは言うまでもあるまい。
33 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:55:31
>>4 その前に大中臣氏があるだろう
>>30 そっちの土御門は安倍晴明の子孫の嫡流だろう。
34 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 11:23:05
35 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 22:03:03
>>34 あえて意見すれば、足利義満の側近で陰陽師で最初に公卿になった安倍有世の解説が抜けているが…。
ちなみに有世の子孫がうちは他の安倍一族と違うんだと名乗ったのが「土御門」ね。だから、室町中期以前に陰陽師の土御門氏は存在しないというのが今日の定説。
36 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 17:23:17
安倍晴明=将国(将門の子)という説の信憑性は?
37 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 15:38:32
ゼロ
38 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:53:57
将門なんて、しょせん、皇孫。
39 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 15:19:26
清原氏筆頭が舟橋家
菅原氏筆頭が五辻家
で大江氏筆頭はどこ?
大江氏筆頭は北小路家?
舟橋家は偽清原だったなw
41 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:15:39
42 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 21:16:09
芳賀には紀姓とする説もあるし。
豊後清原や出羽清原は果たしてどうか・・・
43 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 10:42:11
忌部信長
天皇家、中臣家、忌部家は最初の御三家だった訳だから、信長が忌部で通せば藤原氏に対抗できたのにな
44 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 10:51:14
46 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 10:01:53
そりゃまあ阿波だからな。
っていうか指摘しなくても分かるだろ
47 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 17:45:20
中臣が神代から続いていた事を考えれば、
太平洋戦争勃発時の近衛文麿の「二千六百年、永い夢でした」
と言う問題発言にも重みが感じられてくるね。
48 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:48:04
なんで
49 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:02:46
50 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:10:41
他は全部出雲系の朝鮮帰化人の末裔です。
大伴、物部等々・・
51 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 17:20:32
神代とは具体的には出雲(新羅)族ね
出雲大社の千家(だっけ?)も相当古いのでは?
記紀神話にも出てくるし「国造」って今も使われてるんじゃなかった?
53 :
竜平:2005/07/23(土) 18:56:39
どなたか、聖武天皇について知っている方がいましたら、
教えてください。
夏休みの宿題なんです。
54 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 17:14:46
聖武天皇の子孫っているの?
ニセモノなら
56 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 17:46:56
どこに?
58 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 20:27:20
車氏系図
藤原南家工藤氏流
∴【砥上氏】忠員(但馬守)-通忠-【好間氏】隆景(上総介)-【車氏】東風(藤五郎)-加風+
+--------------------------------------------------------------------+
+一風
+夕斎=義秀(兵部大輔)+義英(信濃守)-義照。
+斯忠(丹波守)+【水戸車氏】弥七
+【浅草車氏】善七--(略)---+寅次郎
+女子(桜)
59 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 03:28:17
中臣氏のルーツは、判り易く言うと、
どこがルーツなの?
60 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 03:46:57
天児屋根命を祖とする神別氏族ですから高天原起源です。
61 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:51:09
>>59 ありがとう
この出典は、日本書紀なんですか?
新撰姓氏録でもよか
63 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 00:18:23
中臣氏が、高天原起源て、信憑性は、どのくらいですか?
皆さんの、個人的な意見で結構です
自分的には、藤原不比等あたりに、随分、改ざんされたように思えますが
64 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 00:23:31
藤原氏って百済系って聞いたけど
65 :
日本@名無史さん:2005/10/10(月) 01:14:42
藤原、中臣の改竄については忌部氏はちゃんと反論のようなものを残している。
改竄はそれほど大きなものだったとは思えない。
古墳の埋蔵品から言えば、有力豪族の性格は祭祠者、武人、文人と変化していっているのであり、
ここから古代の有力豪族は祭祠者にはじまることが考えられるので、
そのような性格を持つ天皇家、忌部、中臣が古代の有力氏族だったという推論がなりたつ。
また、祭祠者の興りと神話の形成は同時期だったと考えられるので、
そのような氏族が高天原起源とされるのも、おかしくはない。
仮に改竄があるとすれば、中臣―藤原という部分。
66 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 21:45:49
67 :
妄想中:2005/10/15(土) 07:58:17
名門の百済系がいいので、白木系が化けてるのがあるらしい
68 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 17:58:27
俺の祖先は大津彦って神様
大津彦なんて聞いたことないお
70 :
日本@名無史さん:2005/10/25(火) 21:55:40
>>1 >天孫降臨の際、天孫に天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と天太玉命(アメノフトダマノミコト)の二神が随行
それにしちゃあイワレヒコの東遷に子孫が随従した記録がないんだが。
大伴氏と違って。中臣氏の本貫は河内だし。交野の磐舟神社の神官家は
何氏だったかな。
天児屋根命の孫「天種子命」は出て来る
72 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 19:28:48
>>9 >斎部氏って...嫡流の子孫はどうしているんだろう?
そりゃあ本貫の高市郡忌部(橿原市忌部町)集落の長が本流だろう。
>集落の長
誰?
って既に>4で出てるし
76 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 01:23:39
◎中臣 鎌足(614〜669)
7世紀中頃の官人。初名は鎌子。字は仲朗。
父は中臣連称気(御食子)、母は大伴夫人。藤原氏の祖で藤原不比等・定恵・氷上娘(ひかみのいらつめ)・
五百重娘(いおえのいらつめ)の父。
「家伝」によると大倭国高市郡の人。推古22年に藤原第で誕生とあるが一説に常陸国で出生していたとの説もある。
幼少より好学にして書伝にわたっており、特に兵法書である「六韜」を好んだといわれている。
中臣氏の宗業である祭事よりも政治に関心があり、舒明朝の初めに神祇伯への任官を辞退したりしている。
舒明13年、舒明天皇が崩御し皇極天皇が即位すると、皇室の衰微を憂い、皇族と接触を持ち始める。
初め、軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、後に雄略英徹と名高い中大兄皇子(後の天智天皇)と親交を結んだ。
蘇我入鹿が聖徳太子の皇子・山背大兄皇子一族を滅ぼすなど蘇我氏の専横が極まると、入鹿打倒を謀り、
皇極4年(645年)6月、鎌足と中大兄皇子は入鹿を暗殺し、ついで蘇我氏宗本家を滅ぼした(乙巴の変)
大化2年(646年)、改新の詔が示され政治改革が推進されることになるが、近年の資料批判が進み大化の改新については
その内容事態が疑問視されている。
蘇我宗本家滅亡後、皇極天皇は皇位を中大兄皇子に譲ろうとしたが、鎌足は軽皇子を皇位に即けるよう中大兄皇子に進言し
皇子が進言を容れたため、軽皇子が孝徳天皇に、中大兄皇子がその皇太子に就くこととなった。
鎌足の進言はかつてのパートナー(軽皇子)と現在のパートナー(中大兄皇子)の融和を図り、皇族間の権力闘争を防ぐ意図
があったと見られている。
その後、鎌足は大錦冠を授かり、内大臣に進み皇太子を補佐した。
斉明元年(655年)、皇極が再び即位し斉明天皇になると大紫冠を授け、封五千戸を加増され、さらに政治の中枢へ登ることとなる。
斉明7年(662年)、斉明天皇崩御し、中大兄皇子が称制すると鎌足と皇子との仲は以前にも増して緊密なものとなっていく。
77 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 01:24:22
(続き)
天智2年(663年)、白村江の戦いの敗報が届くと、翌3年には甲子の宣を公表し、制度改革による国内支配体制の確立を目指し
さらに同6年の3月には近江の大津に遷都した。
「家伝」では7年のこととし、天智天皇は鎌足に礼儀を撰述し、律令を制定する事を命じ、鎌足は時の賢人と旧章を損益して条例を
作ったとある。すなわち「近江令」の制定に功があった。が、「近江令」の実態については疑問を示す見解もある。
天智7年、天智は正式に即位し、群臣を召して琵琶湖畔で酒宴を開いた際、天智の実弟、大海人皇子(後の天武天皇)は天智の
不興を買ったが、鎌足の取り成しで大事にいたらなかったという。
「家伝」によれば以後、大海人皇子は鎌足を厚く信頼し、鎌足在命中は両兄弟の間は保たれていた。
しかし、天智8年10月、鎌足は重病にかかり、天智自ら見舞い、ついで大海人皇子を遣わして大織冠を授け
大臣に任じ、藤原の貴姓を賜わったが、日ならずして病没した。
「日本世記」によると春秋56歳であった。
78 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 00:52:49
保守
79 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 10:38:14
80 :
日本@名無史さん:2005/12/17(土) 00:31:43
賀茂族は?
誰か知らん?
役行者?
賀茂役君
82 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 19:47:19
大伴氏は淳和天皇の時に伴氏になってずっとそのままだったの?
83 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 21:19:56
だいたい全員そうだったのか?
84 :
日本@名無史さん:2005/12/18(日) 23:24:34
越智氏はどうなんだ?
物部氏系って言う人もいれば孝霊天皇系って言う人も居る。
越智氏は小市国造の後裔で、本来は称・物部氏族。
越智氏の氏神である大山津見神がたまたま吉備氏族の
氏神でもあったため、孝霊天皇裔説が生まれたらしい。
考霊天皇の孫の小千御子からじゃねーの?
『国造本紀』小市国造条に「軽島豊明(応神)朝御世、物部連同祖大新河命孫小致命定賜国造」。
一般に孝霊天皇の孫とされる小千御子は「小致命」のことで、物部氏族であったことが分かる。
88 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 16:59:59
age
小千・河野・井門家の系図によれば、小千御子は開化天皇の時代に活躍し
崇神天皇の三年に亡くなっているようだよ。
それに伊予国造だと思うんだけど。
だから「小致命」ってのは別人なんじゃない?
90 :
日本@名無史さん:2005/12/22(木) 18:48:30
今の研究では「旧事本紀」の「天孫本紀」「国造本紀」をもとにした
饒速日命から出た小致命の子孫で物部系とする説が妥当らしい。
他にも越智氏の出自に関しては諸説ある↓
孝霊天皇説 「予章記」
武内宿禰説 一乗院本「河野系図」
大山積命説 「三島系図」「水里玄義」
武国疑別命説 「和気系図」「与州新居系図」
>>90 小致命の父親って誰になってるかわかる?
89の系図では彦挟嶋王(孝霊天皇第三子)なんだけど
伝説では三人の赤子を舟にのせ放流させたってのがあるw
なんでも
一人目が伊豆に着き三嶋大三宅氏の祖也
二人目が吉備に着き児嶋三宅氏の祖也
三人目が伊予に着きこれが小千御子也 となったんだそうな。
92 :
日本@名無史さん:
age