833 :
日本@名無史さん:
室町期だと地政学的に駿河はかなり目立つ位置にあるからね。
たしかに三河は地味だな
>>833 「室町期」で駿河が特に地政学的に重要だと言えるかなあ?
駿河の、特に駿府は南アルプスの山蔭で後背地を持たず、
単なる一本道の中間点で複数街道が交わる交通の要衝でもないので
地政学的に特筆すべき地域とも言えない気がする。
逆に、糸魚川のようなところだから、ここを一箇所遮断すれば
バイパスも含めて東海道の往来は完全に止まるがw
むしろ、特に戦国時代になって、
今川氏という大勢力の中心拠点が存在することを前提にして
はじめて地政学的に意味のある地域になるような気がするよ。
>逆に、糸魚川のようなところだから、ここを一箇所遮断すれば
>バイパスも含めて東海道の往来は完全に止まるがw
これは地政学的に重要だということにはならないのか?
俺は地政学も室町時代も、しっかりした知識がほぼ皆無なので素人考えなのだが、
駿河が上記のような地なら流通管理やら関所収入やらで重要じゃないかと思った。
837 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 04:16:13
室町時代の駿河は、幕府が政策的に「都鄙」の境界にしちゃったんだよ。
要するに駿河は京都の幕府が直接管轄する東端の国。
しかも駿河が境界を接する五ヶ国のうち、三ヶ国(甲斐・伊豆・相模)が鎌倉府管轄の国。
だから都鄙(幕府と鎌倉府)の関係がこじれると、単なる東西の中間地域という以上のしわ寄せが駿河に来る。
これこそ駿河が「室町」時代限定で、全国有数の超重要地域になる根本要因。
なお
>>835は室町時代の今川氏を大勢力と表現しているけど、実際には今川氏が大勢力といえるようになるのは戦国になってから。
応仁以前だと守護職を持っている国も駿河だけだし、その駿河での支配権も結構不安定かつ弱体。
838 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 04:20:47
あと室町の今川氏の当主に比較的有名な人が多いのは、都鄙の間にことが起こると、必ず今川氏の当主が戦争に駆り出されるから。
それと定期的にお家騒動を起こして、その度に中央が介入するから。
もっとも南北朝時代に九州で大暴れした了俊は別格だが。
>>837>>838 室町時代の鎌倉支配領域と京都支配領域の境界が
駿河国東端だったことは確かだし、
特に駿豆国境には地形的障壁が「存在しない」ので、
このような境界が逆に緊張度の高い物になるというのも頷ける。
これは、前代の鎌倉政権が「関東政権」というよりは
むしろ「伊豆頼朝」率いる「南関東・東海政権」であって
政権重心が関八州というよりかなり西よりだったことの残影なんだが
その結果としての東西境界の不安定さは、
駿河だけをとりたてて別格扱いできなくさせる気がするんだが。
結局、中世を通じて「関東畿内二眼レフ」の太平洋側境界は、
関が原と箱根の間の東海地方全域を大きくふらつくことになる。
その時々の政治イシューに応じて、尾三国境だったり、三遠国境だったり、
駿遠国境だったり、駿豆国境だったり、細かく見ればいろいろだ。
そう考えると「三河は地味」とも言えなくなってしまう。
840 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:54:48
で、なんで吉良家は目立たなかったんだ?
841 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:47:18
主人公としての今川義元を時代劇で扱わない制作者はいい加減頭膿んでる。これほどドラマティク終わり方をする大名もおるまいて。
誰か優秀な時代小説家が、
劇的な小説を一本書いてくれたら、きっと盛り上がるだろうにな。
843 :
辻小姐:2006/12/29(金) 05:53:59
>>841 橋田須賀子脚本で、義元の妻・定恵院、義元の娘・嶺松院、氏真の妻・早川
殿、義元の姪・築山殿、ついでに信玄の娘で北条氏政の妻・黄梅院を主人公
に、
「大名の奥方なんて不幸の見本よ」
と愚痴り続ける陰々滅々のドラマが見たいです。松平信康はえなりかずき
で。
>>841 義元のドラマもおもしろいと思うけど、
その前に貞世をドラマ化してほしいなぁ
845 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:16:42
別に主役じゃなくてもいいけど
戦国末期を題材にした時代劇なら
足利義輝の壮絶な討ち死にシーンがほしい。
時の将軍様であんな死に方をしたなんて
義輝以外にいない。
衝撃のシーンになると思うのだが。
でもほとんど場合、描かれた試しなし。
846 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 18:29:49
黒澤明のパクリだって訴えれられるからな・・・司馬遼太郎もやってるがあれば7人の侍と同時代なので
しょうがない。
>>845 >壮絶な討ち死にシーン
義教公では駄目ですか?
むしろ義教の方が
だって首の扱いが公方様の首とは思えんくらいに室町時代だもん
3時間ほど抵抗した末、自害じゃなかった?義輝は
850 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 21:01:12
講談社の「日本の歴史12 室町人の精神」桜井英治
ってのを買ったまま、まだ読んでないんだけど
これって歴史好きの理系人間が読んでもついていける?
室町時代といえば
義満=金閣寺=北山文化
義政=銀閣寺=東山文化
ぐらいの知識しかないですけどw
851 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:13:11
>>850 それだけの教養があって歴史好きなら全く問題ない!
買ったんなら読めば良いだろ
買う前にあれこれ悩むなら分かるが買ってからあれこれ悩むって意味がわからん
853 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:05:11
昔の京都と現代の位置を比較できるムックが発売されてるよ。・・・東山ってけっこう遠いな
豚肉が遠いよ
855 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:40:57
>>839 >これは、前代の鎌倉政権が「関東政権」というよりは
>むしろ「伊豆頼朝」率いる「南関東・東海政権」であって
>政権重心が関八州というよりかなり西よりだったことの残影なんだが
初期の頼朝政権の基盤は、あくまで伊豆以東の南関東であり、駿河・遠江への
影響力は弱い。
治承・寿永の内乱当初、駿河・遠江両国は頼朝ではなく甲斐源氏の勢力によって
占領されており、頼朝も現状を追認する形で甲斐源氏の武田信義・安田義定を
それぞれ駿河・遠江の守護にせざるを得なかった。
この地域への頼朝の支配が直接及ぶようになるのは、頼朝によって甲斐源氏の
勢力が削減されたあと。
その後の駿河・遠江は北条一族が守護になり、表面的には確かに南関東と一体の
扱いを受けたようにも見えるが、この地域の地頭職の補任形態を見ると、地頭に
補任されているのは大部分が伊豆や相模の御家人であり、いうなれば鎌倉期の
駿河・遠江は南関東の御家人による植民地状態だったということになる。
これは、関東(含北関東)における地頭の補任形態、つまり基本的に在地豪族を
そのまま地頭に補任する方式、とは大きく異なっている。
つまり鎌倉幕府での扱いに関して見れば、同幕府が南関東を北関東と同一視する
ことはあっても、南関東と箱根以西を同一に扱うことはなかったといえる。
856 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:42:08
>>839 >結局、中世を通じて「関東畿内二眼レフ」の太平洋側境界は、
>関が原と箱根の間の東海地方全域を大きくふらつくことになる。
>その時々の政治イシューに応じて、尾三国境だったり、三遠国境だったり、
>駿遠国境だったり、駿豆国境だったり、細かく見ればいろいろだ。
しかし西駿河から濃尾平野までの地域は、街道沿いを進む限り地形的には大きな
障壁となるものがない。
だから西の勢力が東へ進む場合は不破関・鈴鹿関を突破すれば駿府あたりまでは
あっという間に進めるし、逆に東の勢力が西へ進む場合は箱根を突破すれば
木曽川あたりまではあっという間に進める。
室町の場合は、政権の中心が西にあるため、政権側から見れば箱根の手前の
東駿河あたりが最前線となる。
しかしこれはあくまで「室町期限定」での話であって、中世全体を通じての
話ではないので、誤解なきよう。
もっとも永享の乱後は、幕府の駿河の緊張を緩和するために駿河の北隣の甲斐を
鎌倉府管轄から幕府管轄に移したりもしている。
ただこれには禅秀の乱以来、家中が滅茶苦茶になっていた甲斐守護家を幕府の
支援で立て直す意図もあったかも知れないが。
豚過ぎたのか?
858 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 00:53:38
歴史の知名度ってつくづく語り部によるところが大きいな
三国志だって、たったの100年程度しかないのに
豚汁うまいねw
>>845 将軍義輝の最期は大河ドラマ「信長」で
描かれてたよ。
最近、南北朝をテーマにした漫画なら増えてるな。なんでかわからんけど。
逆に源平は減ってる。
ググってみたら山賊王は読んでたけど、この時代の漫画って他にもあるんだね
>>862 劇画雑誌で吉川の私本太平記を連載するらしい。
あと、今やってるかわからんが女性向で阿野廉子の漫画やってたな。
山賊王の作者はもう一つの判官漫画をメインで描いてるっぽいからなかなか新刊が出ないな。
さすがに義教の時代の漫画とかって聞いたことないな。小説はあるけど。
>>855>>856 伊豆というのが関東でなくて東海地方であるというのが、最大の問題だろうよ。
平将門にとっての伊豆は、関東キー局の天気予報に伊豆が出てくるのと同じだが(おまけだ)
源頼朝にとっての「伊豆」は本拠地そのもので全く意義が違う。
箱根の西側の三島が伊豆国に含まれることがもたらす地政学的問題はあまりにも大きい。
それから、
北関東(正確には関東北東部。茨城栃木という現在の県単位のほうが的確)と
東海南部(駿河・遠州)の間の問題は、「征伐の時間差」の問題だと思うが。
北関東奥州方面は、対奥州藤原氏戦争で幕府草創期に一回ローラーがかかっているし、
それ以前にも源義家が一度「北上ローラー」をかけている。
西への征伐ローラーがかかるのは、それよりかなり後になるからね。
そんなに平準化圧力がかかっても、今の利根川本流あたりを境にした
関東平野中央を横切る文化的・政治的分断ラインは中世を通じて明らかで、
これが見えないと、古河公方を軸にする関東内乱の実態も見えてこない。
これは現在に至るまで文化気質の差として続いているからね。
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強き幕府に生まれ変わらせたワシが狙うのは朝廷・・・
過激に皇位簒奪編 連載中・・・
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1157332882/l50 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレC
ネタとはいえ、すこし過激な部分もありますが・・・
天皇家のシステムがよく理解できていない所もありますので、
よければアドバイスを下さいませ。
866 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:10:39
>>864 >伊豆というのが関東でなくて東海地方であるというのが、最大の問題だろうよ。
現代的な「関東地方」「東海地方」という区分けで、前近代の歴史を見ることは
全く無意味。
東海地方=東海道沿線の諸国の意でとるなら伊賀から常陸まで東海道。
また伊豆は歴史的には関東の一部として見なされることも多い。
特に中世の場合、伊豆出身の勢力が鎌倉を拠点に幕府をつくったという経緯から
前代以上に伊豆と相模の一体性はかなり高くなっている。
そしてこれは鎌倉期だけでなく室町期になっても変わらない。
室町期の伊豆が京都管轄ではなく関東府管轄であったことは周知の事実だし、
これは戦国期の後北条氏の勢力範囲や、豊臣政権期における関東移封後の
徳川家康領国の範囲にも踏襲されている(つまり伊豆は関東と同じ扱いを
受けている)。
さらにいえば近代においても、明治初年には伊豆は西相模と合わせて足柄県に
なっていた時期があるし。
よって伊豆は関東ではないなどという話はナンセンスであり、まして現代的な
「東海地方」「関東地方」の区分けのイメージでこの時代を見ることは、さらに
ナンセンスと言わざるを得ない。
867 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:23:46
なお余談だが、現代における現代的な区分けとしての「東海地方」「関東地方」を
語る場合においても、伊豆を東海と関東のいずれに含めるべきかは、とても
難しいことだと言える。
現在伊豆に住んでいる一般の人に「伊豆は東海か関東か」と質問したら、
8割〜9割くらいの人は何の疑いもなく「伊豆は関東」と答えることが明らか。
さらにいえば、伊豆どころか東駿河においても自分の住んでいる場所を関東と
認識している人はいないとはいえない。
またこれと似たような話は、伊賀についてもいうことができる。
現在伊賀に住んでいる一般の人に「伊賀は東海か関西か」と質問したら、
8割〜9割くらいの人は何の疑いもなく「伊賀は関西」と答えるだろう。
つまり現在の現地住民の認識においてさえ、そうした地方界は都道府県境に
沿って簡単に線引きできるものではない。
今の平成という時代が南北朝のような混乱した時代に共感を感じるんじゃないだろうか
昭和戦後は江戸がリンクしてたんだろうね
869 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:01:18
1466年(文正元年)7月、義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。
これは義政が父親と同じように強権的に家督を決めようとしたのでは?
今の大河はどう?
>>869 斯波家って幕閣で一番地位が高いのだっけ?
細川京兆家のように、管領職を補任される一族を分家して作ればよかったのに・・・
幕閣での出世競争に熱心になりすぎて、守護代が力を付けてしまったし(甲斐家、朝倉家など)。
斯波義淳以降、惣領に不幸が多すぎて家を纏める事が出来なかったのも痛かった・・・
その間に細川や畠山、山名などに介入されて(他の派閥からの妨害は政界では良くある事か・・・)
義将以降にカリスマ性のある惣領がいたなら・・・
畠山持国、細川勝元・政元、山名持豊などみたいにね。
>細川京兆家のように、管領職を補任される一族を分家して作ればよかったのに・・・
これは義将の直系が管領家を相続しているので京兆家と一緒だった。。。
ふと思ったけど、同じ管領家の細川一族って幕府に近い位置(畿内、中四国)に多くが守護としてあるね。
873 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 05:31:32
>>871 たぶん義政は強権的にやろうとしたけど山名持豊や細川勝元が反対したから
近臣のせいにして逃げたんじゃないかな
874 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:36:24
観世元清で大河は無理かな。
875 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 08:05:47
素人ですが失礼します。
趣味の芸事を調べていたところ、奉公衆の一家に行き当ったんで
奉公衆がどういったものだったのか詳しく知りたいのですが、何かいい本ありますか?
二木謙一の「中世武家儀礼の研究」で少し情報を得られましたが、
ちょっとテーマがずれていたもので。
また、奉公衆のリスト(御番帳というのでしょうか)を探しているのですが、
どうも見当たりません。どなたかお助け願います。
876 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 11:20:47
>>837 なるほど、ノブヤボでも東国の割には
駿河の文化値がすこぶる高いのは
そういう理由があるからか。
ノブヤボ(笑
878 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:56:18
>>876 ノブヤボでイメージが出来てる奴にレスしてもどうかと思うが、
一応マジレスすると、
戦国期の駿府の文化的繁栄は、同時期の越前一乗谷や周防山口の繁栄と
背景は同じ。
学問板でゲームを引き合いに出すってそれなんてリア厨?
一瞬、戦国板に来ちまったのかと思ったよ
一般人が縄文土器より覚えてる室町時代の人物ってどれだけいるだろう
薄い影も日を当ててやれば濃くなるものです
883 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 21:14:43
将軍と戦国大名以外の人物なら、楠木正成、吉田兼好、山名宗全、一休、観阿弥、世阿弥、蓮如ぐらいかな
雪舟とか永徳は…微妙なところかな
885 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:45:58
永徳は安土桃山時代だな
室町は元信が正解だが、ことほどさように狩野派は誰がいつの時代かややこしい
受験生の頃苦しめられた分野の一つだったw
886 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:12:27
永徳は室町時代の元号。
887 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:54:55
そういえば室町時代って「徳」の字がつく元号が多いね。
888 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 08:46:55
「永」がつく元号も多いね。
そして天文が一番長い
890 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:01:37
>>889 前近代で一番長い元号は「応永」ですが何か?
OA
892 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:33:58
ゲーム脳の奴には戦国板ってガキの遊び板があるのにな
昭和→平成でも年数計算で混乱するつーのに
あんだけころころと変わってんだもんな…
戦国厨お断わりってLRに入れてくれねーかな、まじで
896 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:33:55
>>894 室町は他の時代に比べると比較的長い元号が多いと思うが。
897 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:39:09
鎌倉幕府と江戸幕府は全国を支配する政権だったが、
室町幕府は弱々しいお公家政権だったので全国を支配する能力がなかった。
例えば各幕府の将軍のなかで公家みたいな細長い帽子をかぶっているのは室町だけ。
ほ、細長い帽子!!!!!!
改元の周辺事情なんかも、まぁ面白いね。
899 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:53:58
990 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:36:11
鎌倉幕府と江戸幕府は全国を支配する政権だったが、
室町幕府は弱々しいお公家政権だったので、全国を支配する能力がなかった。藁
991 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:37:34
例えば各幕府の将軍のなかで公家みたいな細長い帽子をかぶっているのは室町だけ。
992 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:40:01
摂家将軍や皇族将軍は被っていたんじゃないか?
993 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:40:49
でも頼朝はちょんまげ
994 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:42:07
平家も元は武士だったのにお公家化したために滅んだよね。
995 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:44:19
豊臣家も公家みたいな格好をし始めたから滅びた。
900 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:56:15
>>894 んだな。俺は平成になってから
西暦で覚えようにしているわ。
901 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 00:26:14
今川家は吉良家の傍系というが
戦国期にはその傍系が吉良家より目立っているな。
吉良家はなにやってたのか。全然目立たんな。
でも西暦って味気なくね?便利だけど
>901
「寛政重脩諸家家譜」を見ると吉良家の当主が松平広忠の烏帽子親だったように読める記述がある。
妄想半分に聞いて欲しいのだが、ひょっとしたら西三河の国主だったけども、徳川に不都合なので
その事跡が消されたのかも。
室町が影薄い理由って開幕の経緯がややこしいのと、室町ってどこ?って点じゃないか。
将軍の個性とか権力争いの騒動は一番印象強いけど。
>>897 >例えば各幕府の将軍のなかで公家みたいな細長い帽子をかぶっているのは室町だけ
おいおい、見当違いも甚だしいぞよ
鎌倉殿、少なくとも実朝から守邦までは確実にかぶっていた
頼朝と頼家もかぶっていたと思うが
せめて烏帽子と言ってクレヨン
そこで皇紀2667年ですよ。
909 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:53:18
>>904 戦国の吉良家ってよっぽどショボかったんだな…
名ばかりの足利一門か。
910 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 10:14:21
当初は南北朝分裂、中期以降は戦国時代。
安定感がないから影が薄い。
教科書に出てくる将軍は尊氏、義満、義政、義昭くらい?
911 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:04:14
>>904 吉良は形式上の三河国主だったから、上野介が高家肝煎になれたと聞いたのだが。
912 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:08:00
>>906 江戸時代だって、素襖を着るときは立烏帽子だよな
913 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 20:03:38
チーン、いっきゅうさ〜ん
は〜い、チャーララチャーララチャラチャッチャ。
>911
形式だけでなく実際上も三河の国主で、松平広忠の岡崎城奪還を
後見したように深読みできるわけですよ。
まあ、公式の記述では隣国の今川家の援助を仲介しただけのように
書いてありますが。「徳川」の公式資料が「吉良宗家断絶後」に
書いたことですからね。
915 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:00:29
>>904 信忠か清康の娘が吉良に嫁いでいなかったか?
親戚関係にあるのだったら、烏帽子親になっても不思議ではない。
>>912 素襖に立烏帽子という組み合わせ自体、近世にしかあり得ないよな。
鎌倉・室町だと、立烏帽子に対応する服装はどう考えても直衣。
立烏帽子の場合、素襖どころか直垂でも違和感がある。
>915
でも、片諱までもらってますからねえ。
天文8年に吉良持広から「広」の字をもらって広忠となり、
その3年後の天文11年に岡崎城奪還を果たしている。
まあ、吉良は言われるほど三河での力は弱くなかったのではと
思われるわけです。まあ、「全てお前の思いこみだ」と言われて、
反論できるほどの材料を持っているわけではありませんが。
917 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 03:00:26
>>916 偏諱は本来的には烏帽子親子関係を示すものであって、必ずしも主従関係を示す
ものとは限らない。
偏諱を与えることは、本来的には同じ字を持つ者同士で連帯意識を深めるための
慣習であり、そのため単に親族間や友好関係にある家の間で行われていることも
多い。
例えば室町後半期の若狭武田氏の当主は、細川京兆家の当主を烏帽子親として
元服することが多いため、名前に「元」の字が入っていることが多い。
しかし若狭武田氏が細川京兆家に臣従しているなどとは誰も思わない。
もっとも烏帽子親と烏帽子子の関係が主君と臣下の場合は、烏帽子親子関係を
結ぶこと自体が即ち主従関係の再確認ということにもなり得るし、特に
足利義満以降の室町将軍は、烏帽子親子関係(偏諱の授受)を主従関係の確認に
有効的に利用した側面はある。
しかし室町期以降においても、例えば将軍の公家に対する偏諱に象徴される
ように、明らかに主従関係の確認という意味ではない偏諱もあり得る。
918 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:19:28
足利義教はもっとドラマ化されてもいいキャラだと思うが。
次々と政敵を倒し権力を固めていく非情さはかっこいいし、
最期のあっけなさも、信長に引けをとらない。
ただ登場人物に誰一人知名度の高いものがいないorz
朝青龍主役の今の相撲界みたいな感じだな。
主役以外がかすみすぎ。
よくわからんが主役って信長あたり?
戦国も室町だし、そういう意味では室町が一番影うすくないのに
室町だということを忘れて、逆転して戦国時代って言葉だけ一人歩きしてるのは不思議だな
室町時代が影薄いんじゃなくて室町幕府が影薄いんじゃないか
水戸学以降、室町幕府=悪と言う概念ができたのも関係してるのかな
信長は室町時代より安土桃山時代って印象だなぁ
924 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 13:35:32
室町時代だと戦国を入れなくて考えるんじゃないか
戦国時代の前期もかなり人気がないと思うけど
戦国時代は安土桃山時代の事とか言うレスを某所でみて放心した
>>918 三宝院満済(黒衣の宰相だっけ?)、山名宗全
>>918 万里小路時房
世阿弥は途中退場か
あと持氏
928 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 16:53:37
満済は日本史板では有名だが一般人100人中何人が知ってるんだ?
世阿弥ぐらいかな、有名なのは。山名宗全は日本史の成績がよかった人は知ってる
山名宗全は細川勝元とセットで義政時代の人ってのが一般のイメージなんだよな。
930 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 00:57:13
>>927 持氏は上杉憲実とセットで登場
しかし、憲実もこれまた知名度低いな。足利学校はけっこう知名度高いのだが
931 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 01:17:14
世間の知名度なんて
上杉ならばせいぜい戦国期の上杉憲政ぐらいしか知らんわな。
足利も知名度あるのはせいぜい義輝、義昭程度。
戦国前期と戦国後期の分かれ目ってどこだろう?
早雲とか宗滴は普通は知らないよな、教科書レベルというより戦国に詳しい
人間の間で話題になる感じ。
>>931 義昭は信長と絡んでるお陰で大河出演率高いってのもあるだろうが
義輝知ってるやつが義満尊氏知らないって、それ戦国厨じゃね?
だったら上杉は謙信しか知らないヤツの方が多いんじゃね?
義教の話題からなぜか戦国期に移行しちゃうの見て悲しくてつい・・・
美術史的には義満義政は両巨頭
義昭と見て、ギショウかと思ったが最後の公方の方か
義教といえば籤引き、比叡山延暦寺、万人恐怖、首は寺にポイ捨てがキーワードか?
比叡山焼き討ちは信長と思ってる人に、オリジナルは義教だと教えてやらんと
一条兼良も義教時代だっけか?
一休さんのおかげで義満は滑稽なおっさんとして有名なんじゃ
首塚のある安国寺=アニメ一休さんのいたお寺?
うは
首塚つーか、宝篋印塔です・・・
アニメ一休で架空キャラ「寺社奉行蜷川新右衛門」となったため
有名になり損ねた蜷川親當
尊氏や義満より義昭のほうが有名という現状は
はっきりいって異常としか思えないんだが。
943 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:38:17
たまにでいいので足利義栄様のことを思い出してください。
義勝もね
945 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:11:55
資料が誇張された表現が多く、とても資料にならない。資料消失とともに室町文化は闇に葬られた
946 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:21:33
秀吉が関白になった時点では
まだ義昭は将軍だったと思うが
将軍のことは完全無視?
実権のみならず名目上の権威においても秀吉が上になっちゃったんじゃねえ
948 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:27:16
北朝、南朝って北朝鮮、南朝鮮みたいで嫌だよね
義勝てw
将軍になってすぐ腹こわして死んだヤツだろ
思い出しようがないだろ
>938
そういや、一休さんが厭世的ってか、反権威的になった原因って、
義教の介入で皇位継承できなくなったからだったっけ?
すると、一休さんも、いくらかは活躍の余地があるよな。被害者として。
将軍になれなかった人達のことも、時々でいいから思い出してあげてください。
義視とか義維とか
一休はむしろ後花園擁立に動いたのではなかったかな?
やっばり風狂は養叟へのあてつけだろうな
>>932 戦国前期は細川家が畿内で勢力が強い時
後期は三好長慶が実験を握ったあたりから
954 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:11:23
北山文化の義満
万人恐怖の義教
東山文化の義政
義持にもなんかください
幕府黄金期なのに
つ[もみあげ]
958 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 22:42:09
次スレは「義教〜義勝の室町時代を語るスレ」でどうた?
あまりに影薄すぎて、速攻DAT落ちかw
義教のどこが影薄いんや、こら
義勝は………
細川勝元の勝は義勝の勝だよね?
義持、義量、義教、義勝の4代が室町時代で、その前後は
南北朝と戦国にかかってるから別枠でとか言ってみる
てか、この4人て日本史の教科書本文にでてるのか?
以前、本屋で中学の参考書を見比べたことがある。
一種類にだけ(いちばん詳しそうなやつ)義教の名前があった。
俺的には南北朝も戦国期も室町時代というイメージだな。
平安時代での初期、摂関全盛期、院政時代みたいな。
信長登場以降は近世だと思っている。
964 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 05:06:00
イメージは似てるけど
南北朝は天皇家が2つに割れてるから明らかに室町と違う時代だよ
明らかに違うって…
南北朝も戦国期も室町時代の出来事じゃねーの?
朝廷基準にしたら、他の時代区分もかわるんじゃねーの?
イメージは似てるけど
アメリカ統治時代はアメリカと日本とに割れてるから明らかに昭和とは違うよ
って事?
>>965 >南北朝も戦国期も室町時代の出来事じゃねーの?
言われてみれば確かにそうだなぁ・・・
1573年の室町幕府崩壊までは紛れもなく「室町時代」。
毛利元就、今川義元、長尾景虎、武田晴信らは
どれもみんな室町時代の人物だ。
>>967 占領時代は外交史上は違うね。
それはともかく、「やたら影が薄い」ということは、南北朝
時代と戦国時代を除く狭義の室町時代という意味だろ。
このスレの渋さを守るにはこの解釈がイイと思う。
>>966 一般人にはあまり知られてへんから
まあよろしいやないどすか。
室町の「花の御所」で幕府が機能していたかどうかで
このスレの時代を画することも考えられるのでは?
971 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 20:44:44
天皇家が2つに別れたことの大きさが
分からない人がいるようだ
南北朝時代と室町時代が完全な別物だとすると
室町時代はいつから始まったのだろう?
>>966 1392年に北朝に皇位が移ったと考えるべきだと思うが
>>972 ネタで言ってるの?
1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまで
974 :
973:2007/02/04(日) 00:16:11
1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一する所から
の間違い
後深草・亀山天皇以降は鎌倉時代じゃないってことか?
両迭時代とでもするかw
>>975 マジで言ってるの?
天皇が二人同時にいたことの違いが分からないとは・・・
>>976 後深草・亀山天皇の名前を出せるなら
それなりに日本史の知識のある人だろう
本気も本気、魂を込めた男の本気だよ
じゃあ安徳・後鳥羽天皇の時期は東西朝時代ってことでw
天皇がいなかった時期はどうなるのさ?
中大兄皇子の称制時代とか
>>976、
>>977 天皇が二人同時にいたことの異様さは十分わかってるつもり。
ただ、それと時代を区分することとは別問題だと思うんだな。
所詮、時代区分なんて便宜的な呼び方なのであって
時の流れとともに、世の中は変化していくけど常に繋がっている。
ぷっつり切れてるわけじゃない。境界は、あいまいで当たり前。
981 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 03:06:02
でさ、やっぱり次スレは室町第4〜7代時代の影の薄さについてがテーマだよね
新・時代区分案
鎌倉時代 1185年〜1333年
建武・南北朝時代 1333年〜1392年
室町時代 1392年〜1493年
戦国時代 1493年〜1573年
天正・慶長時代 1573年〜1615年(「安土桃山時代」なる名称は破棄すべき)
江戸時代 1615年〜1868年
983 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:57:18
個人的には戦国時代の始まりの時期は1507年の永正の政変からがいいと思っている。
建武中興と南北朝は分けなきゃいけないんじゃないの?
>>971の基準に従えば。
建武期は一応、天皇は一人だったんだから。
986 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 10:57:46
971基準で光厳帝期はどういう位置付け?
990
次スレないけど埋め立てか?
>>969 一般人には南北朝時代もかなり影が薄いよ
>>981 足利第2代、第9代、第11代、第12代、第14代も影が薄い
義輝も義教と同じくらいだろう
995
>所詮、時代区分なんて便宜的な呼び方なのであって
時の流れとともに、世の中は変化していくけど常に繋がっている。
ぷっつり切れてるわけじゃない。境界は、あいまいで当たり前。
単に南北朝時代、室町時代は一般の説を述べてるだけで
新説でもなんでもない
東西時代、中大兄皇子の称制時代とやらの
新説を述べたいなら学会で発表してください
天然か?
それじゃ
埋めて
おきますね
1001 :
1001:
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