1 :
日本@名無史さん:
,,,r-‐───‐--、
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リ ,,,r==、 ,,r===ュ、 ┐ソ 語れ。
゙i -=・=-ヽ i -=・=- ` ン }
゙i ヽ--‐ .| l `'─‐'" ノ ト‐/
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.|、 ノr' レ ヽ¬、,,.... -‐ |
゙iヽ‐' ヽ,,,,,r''´ ノ |
ヽ ト‐==─イ~、 / .ト、
\ ヽ  ̄__ ‐' y ノ
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`ー--──'"-'
>>1 あんたの頭の方がはるかに薄いと思うが・・・。
3 :
日本@名無史さん:05/03/05 23:02:48
↑ちがわい
薄い?
まさか。
三戦板の人間だけだろ、そんなこと思ってるの。
くそぅ不覚にもワロテしまった…
6 :
日本@名無史さん:05/03/05 23:31:13
時代の印象
7 :
日本@名無史さん:05/03/05 23:34:11
大河ドラマ「花の乱」は濃かったぞ
無知な人には薄い時代に見えるんだね
平安時代は、王朝文化に象徴されるような、日本独自の、第1回のアイデンティティが
出来た時代で、室町時代は、第2回のそれと言える。
中央の権力が弱かった分だけ、公家の地方分散もあり、いろいろの文化が花開いた。
日本が日本たりうる基盤ではないか。これを軽視すると、半島の人がいうように
日本は、半島のものまねということになる。
時代の後半は乱れに乱れたが、小さい政府の雛型があった。なにがよくてなにが
悪かったかの教訓は、山ほどある。
時代が乱れた戦国時代も、その荒々しさと華美好みから
豪華絢爛の安土桃山文化が花開いた。
11 :
日本@名無史さん:05/03/06 09:08:59
なんか全体的に見て荒れた時代という印象が濃い。
12 :
日本@名無史さん:05/03/06 10:45:54
清水克行「室町社会の騒擾と秩序」(吉川弘文館)読むと室町時代が熱い時代だったってわかるよ。
南北朝時代のお話もなかなか面白いですよ
南朝の天皇の末裔が吉野山にいたいなかった とか
くじ引きで決まった将軍とか
14 :
日本@名無史さん:05/03/06 12:22:16
>>12 いや、江戸以後を「春」とすると室町はなんていうか「冬」の時代という感じ。
というか江戸時代以前はゴミ屑みたいなもんだから
>>14 根拠無し。
江戸時代が春というのもわからんし、室町が冬だとも思わん。
マンガドラマレベルのイメージで語るなよ。
一休さんだってこの時代だぞ
俺は室町は春、江戸は秋のイメージだな。
明治に洋風化して多少修正されたが、日本風な生活様式というのは、このころ
確立したのではないか。めしも3度食うようになったし。文芸が宗教から分離
し出したし。狂言のおかげで、全国共通語がまがりなりにも出来たし。
20 :
日本@名無史さん:05/03/06 22:17:10
現代は間違いなく「春」だが。
奉公衆の整備とかは絶対王政に比されたりもするね。
庶民とか文化とか日本独自の風俗とか
そういうものが芽生えた時代という印象
雑談だが、
>>18 の言い方は
>>20 と対比すると、
>>20 はホリエモンで、合い方は
現代が「秋」だろうなと思った。境遇、立場で見方が違ってくる。
24 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 22:26:32
金閣銀閣の和風建築をあげるまでもなく、
日本文化の基礎はすべて室町時代にできた。
25 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 19:06:27
俺は華やかな時代よりも、しみじみとした時代のほうが好きだけどな。
26 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:27:03
承久の変から応仁の乱までが日本史の黄金時代。
最高に面白い。
鎌倉室町に比べたら、
戦国や幕末は子供向け番組
27 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:34:41
北畠顕家公や菊池武光公が活躍した時代だぞ!!室町時代をバカにするな!!南朝万歳!!
28 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 00:28:52
アゲ
29 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 22:27:00
室町時代の影が薄いのは、当時の太陽の活動が弱かったからに相違ない。
そういえば、14世紀は、欧州では氷河期のような気候で、いろいろ困ったり、
ペストがはやったりしたというのがあるが、日本での具合の悪い話をそんな風に
説明というか、述べている例は、目にしないな。
浜名湖では、このころ地震があって、水路が変わって、今切とかの地名が生まれ
たが、関係ないかな。
31 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 12:03:02
ただ尊氏が天皇裏切ってるから戦前の教育で逆賊→あまり話になってない→影うすいって構図?
鎌倉、室町こそ日本と支那朝鮮との分岐点なんだけどなあ。
地方の自発性と衆議という習慣があったからこそ、日本の近代化は可能だった。
御成敗式目こそマグナカルタに相当するな
明治維新は反日親中革命だからな
35 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 13:03:31
ほとんど印象に残ってないなあ・・・。
日本の教育は古代、江戸幕府、近代史の三点セット以外は無視されてるような気がする。
室町時代に現代日本の基礎ができたんだけどな。
>>32 > 地方の自発性と衆議という習慣があったからこそ、日本の近代化は可能だった。
これって定説みたいなもんなの?
38 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:59:31
こんな地味な時代の歴史に夢中になる人っているの?w
39 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 01:33:47
経済的にも社会安定でも文化的にも暗黒時代であったといえる。
なにせ武力政権の全盛期。
おまいらほんとに日本史やってるのかと小一時間(ry
いちみさんざん北条氏以降はかけあしで、すぐ江戸時代に行く教え方しかしてない
からではないの。明治に入ると時間切れとか。
少なくとも50年前はそうだった。
42 :
日本@名無史さん:2005/04/19(火) 09:53:54
>>41 俺の高校はかなり変わっていた。
日本史は高2・高3の2年間にかけて学んだが、まず最初の1年目にペリー来航
から始めて第二次世界大戦終了までの近代史を学び、次の2年目は織豊時代
から幕末まで学び、最後に古代史から中世末までの歴史を学んだ。
しかし時間が足りなくて、結局鎌倉・室町は間に合わなかった。
でも正直言って、日本の中世史はどうでもいいような気がする。
足利義満の時はやばかった。
こいつは中国との朝貢貿易やってて日王の称号もらってたのは知ってるな。
で、さらには天皇になろうともしていたのも知ってるか?
こいつが天皇になっていたら、形式上日本は中国の支配下になっていたわけだ。
南北朝の尊氏生前と戦国の信長登場までは、
いろいろ調べると面白いが、時代の英雄達の知名度は低いと思う。
>>38 夢中ってわけではないが、見なおしてもいいのではって気分。
>>36 の言われるように、平安時代に次ぐ日本のアイデンテティの形成時期では
ないかと。昨今日本ってなんだと思うとこの時代に来る気がする。その割に
>>31 のお考えのような経緯で、陰が薄い。
NHK で尊氏をやったときにやっと尊氏が世に出たとかの話があった。話が前後
するが、家康が足利でなく新田の後裔と詐称したのも、あの時代から外聞をはばかる
風潮があったのかと勘ぐったりしている。
話題が飛ぶが、田舎に行くと大きな農家なのに、門もなく玄関もない家がある。
入り口を入ると土間があってすぐ居間みないなところを見る。
NHK の家族に乾杯とかにも出てくる。
都会でせまい敷地でブロック塀をめぐらし、家と塀の間も歩けないくらいなのに
玄関があったりするのを見ると、地方ではまだ室町時代の建築様式を引きずって
いるのかと思ったりする。これぞ日本かなと。
尊氏の評判を悪くしたのは徳川光圀でしょ
>>31 社会全体に暗雲が立ち込めた時代であったことは事実。
48 :
日本@名無史さん:2005/04/20(水) 18:22:37
>>47 こりゃあからさますぎて釣られにくいだろうに
なんか、明治時代によくあった「江戸時代暗黒論」みたいな陰謀くささを感じるな
>>47 釣られを覚悟で。
京都を中心とした情勢はそうだろうけれど、小京都といわれる各地では、
小金持ちが生まれて、公家まがいの栄華を満喫したところもあった。
南北朝にかかわる豪族同士の争いも尾を引いてあったろうが、余り記録が
ないので、話が京都中心にかたよる傾向にある気もする。
期間の問題はあるが、加賀、山城、堺などもいい目を見たのではないか。
51 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 19:57:25
52 :
51:2005/04/21(木) 20:02:24
と、思わず釣られてしまった俺。
>>50 俺も釣られる。
戦国時代って応仁の乱終焉から信長上洛までの間は、
京都を中心に語る奴ほとんどいないぞ。
>>50 でも室町時代って荒れた時代って印象あるよ。
240年の歴史のうち、始めの60年は南北朝、最後の100年は戦国。
南北朝にかかわる豪族同士の争いも尾を引いてあったろうが、余り記録が>>
ないので、話が京都中心にかたよる傾向にある気もする>>
ん?
これについてもうちょっと詳しく。
56 :
50:2005/04/21(木) 23:26:03
>>53 突っ込まれるとくわしくないんで困るんだが、
>>47 の暗雲とか言われると京都で
大勢の難民(戦火などで)が出たのを思い出す。地方でも食えないんで都へ人が
集まるってのもあるんで、地方でも食えなかったんだろうとは思うが、地方で
どうだったかが(おれには)分からない。その割に公家なんぞ(人数は知れてるが)
地方へ行っている。
57 :
50:2005/04/21(木) 23:52:56
>>55 荒れた時代ってのに異論はない。(また司馬厨といわれるのをこれも覚悟で
言うと)街道へ行くだったかなにか、南北朝時代以降相続制度が不確定で、叔父甥、
兄弟の争いが多かった、アコギな人間しか出ていないので、小説に書く気がしない
と書いていた。ま、欲得で荒れて人倫がなかったと言うことでしょう。
南北朝が尾を引いているというのは、南朝派北朝派の色分け地図を見ると全国で
モザイク様に分かれている。隣同士で違うというのは動機を押して知るべしと。
一方こういう世の中でありながら、僧侶や連歌師や寺社の御師が全国に散って
いて文化の平準化が進んでいるというのは面白いと思う。
58 :
日本@名無史さん:2005/04/22(金) 21:38:49
日本中が親類同士で争ってるので、敵味方が同姓だったり、裏切りは
日常茶飯事で色分けがわかりにくい。ヒーロー不在ということもあり、
小説に書かれたりすることもない。
歴史が人口に膾炙するのは文学からといういい例
要するに、学ぶべき時代ではないということですね。
わが校の先生が近代史を優先して中世史をあぼーんしたのには
理由があったのか・・・。
そういう悪さが横行していたのかと、悪智恵がつくのをおそれる人は教えたくない
時代だという気もするが、歴史を知ることにムダはない。
61 :
日本@名無史さん:2005/04/23(土) 13:37:28
惣や惣村など農民の自治要求が高まったことからもわかるように
支配者層がDQN過ぎ立ってことだな。
兄弟親類入り乱れての喧嘩、返り忠といって昨日の敵が今日の友になる
道徳心のなさ、ばさら大名などというほりえもんみたいな金と権力の亡者
が跋扈していたし、二条河原の落書に現れたような治安の荒廃が全時代
通じて続いていた。こんなDQNな時代、とてもじゃないが誇れないよ。
人間の質が著しく低かったんだろな、この時代は。こんだけアホぞろいだと
織田信長や豊臣秀吉がかえって偉く見えるね。
人間の質が低いとどうなるかを示した、壮大な社会実験だな。
>>62 2ちゃんねるについて仰っておられるのですか?
>>63 そういう見方もできるねえ。全世界から見られているかも知れないので、
壮大な恥さらしかも知れない。
いやあ、韓国のネチズンの方が恥さらしだから大丈夫だよ。
66 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 18:22:53
室町時代の混乱の最大の理由は、
政権担当者の武士階級が経済の現役でなくなったことが最大の原因だろう。
鎌倉時代には、武士は武装地主としての利権代表者だった。
室町時代には、武士が商業活動の主役にならなかった。このため、経済の実態を把握できなくなった。
また、相続を平等に行ったために、代を経る毎に、
かつて大領主だった武士の家系も零細地主へと転落していったことも大きい。
関東武士団の弱体化の原因はまさしくこれである。
んで、「たわけ」がという。今は「戯け」の字を当てているが。
68 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 13:54:59
室町時代に今の日本文化や風俗の元になったものが
ほとんど確立したんだが、
そんなDQNな時代か?
69 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 13:57:18
ちなみに、歴史上
中世があるのは、ヨーロッパと日本だけだぞ
飢饉が多いイメージ
71 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 20:59:51
室町ってずっと騒乱ばっかりじゃないのか
土一揆とか
こんな時代だからこそ、ただひたすら忠義を尽くした
楠木正成みたいな人物が評価されると思うのだが、
今の扱いの軽さはなんなんだよ・・・
正成も戦後評価がた落ちだよね
本人のせいじゃないのに
正成がただひたすら忠義とかw
a
77 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 09:47:55
78 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 20:55:29
漏れは江戸時代の髪型より室町時代の髪型の方が好きだな。服飾もまた然り。
あの淡い色の服にロングヘアー(若い娘の話だけどな)
江戸時代の髪型が髷になったのは、華美になったという側面もあるが、ものの本に
よると活動的になったためというのもある。
現代でも(言葉は古いが)職業婦人はショートカットが多い傾向。歳を取って長い
とボリューム感が出難いというのもあるが、仕事のし易さを優先しているとも言える。
長い髪はグウタラな場合もあるが、どの生活シーンを重視しているかが分って面白
い。と駅などでヒマなときは眺めるのも面白い。
80 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 01:48:49
>>31 戦前のウヨ史家の神様・平泉澄は「逆賊足利の子孫の歴史を教える事は国民の教育の為によくない」と言っている。
(今でも講談社の学術文庫で平泉の「物語日本史」が発売中)
もっとも、そう言って足利義満の皇位簒奪の野望の事実を隠蔽しているとマトモなウヨなら怒るべきところだろうがな。
光栄が「足利将軍の野望」「細川氏の野望」を出せばいいだけのことだ
82 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 02:17:19
「細川氏の野望」・・・1.室町 2.戦国 3.平成
久秀の野望
84 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 20:27:33
室町って東山文化ってイメージ
85 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 03:38:20
後醍醐天皇の野望
86 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 03:39:48
>85
南北朝
どうでもいいが饅頭と羊羹と外郎は室町文化ざんすよ。
88 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 15:34:24
平安時代だそうだよ。ただ練り物は、お汁に入れて食すものだったので
今の感覚とは違う。
食し方は、豆腐に近い。
90 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:18:23
室町時代に関する資料ってどれくらい残ってるの?
太平記や義満関係の他、よく知らないのだけど
91 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:27:10
室町時代には公家日記がけっこうたくさん残ってますよ。
荒暦、薩戒記、建内記、満済准后日記、看聞日記、二水記、親長卿記、後法興院日記などなど。
室町幕府の役人が江戸幕府の旗本として生き延びて残した文書もけっこうあるし。
もちろん東寺や石清水みたいな古い寺社にもいろいろ残ってるし。
ちょっとぐぐればいくらでもひっかかると思うけど。
92 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:30:27
>>91さんありがとうです
室町時代って史実に関すること{4代目から応仁の乱前まで}を細かく調べようとしたら翻訳本とか無くて
なので、史実に関する本で有名なのはないのかと思っていた
93 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 23:41:14
素で室町時代が一番面白いと思うが?
政治的に荒れていたからこそ、文化的には最高点に達した。
日常に死に直面していたからこそ創造力が花開いた。
将軍以下みんなが禅の修行者にして、文化の担い手だった。
シナにも西洋にもない、日本独自の深い精神文化とは何か?
曰く能、茶道、古流武術。これらはみんな室町起源のものだ。
日本の絵画の黄金期はいつか?宗達や等伯の出た室町末期だ。
日本の陶芸が最高度に達したのはいつか?言うまでもなく茶の湯の流行により
独創的な茶碗が創作された室町〜安土桃山時代だ。
近代以前の文化としては、和歌は奈良・平安に、俳諧は江戸に及ばないものの
他のものは大抵、室町時代が最盛期だと言っても過言ではない。
>>91 『北野社家日記』、『大乗院寺社雑事記』、『蔭凉軒日録』、『碧山日録』、
『臥雲日件録抜書』、『山科家礼記』なども、お忘れなく。
一条兼良の著作もあれば、『応永記』以下の戦記物も、案外多い。
禅僧の著作や、抄物も豊富です。『庭訓往来』は、近世にも有名でした。
『閑吟集』の知名度は、低いのでしょうか。
95 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 21:03:20
>>93 「シナ」なんて言葉を平気で使うキチガイに日本文化を論じて欲しくないな。
96 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 21:17:51
確かに、普通に一般世間の常識に合わせることができないようじゃな。
室町おもしろいネ〜
京都と鎌倉のバトルサイコー!
三管領四職でバトルロイヤル
>>95 じゃあ西田幾多郎も和辻哲郎も、日本文化は論じられませんね
chinaがおもいっきりシナですが。
シナチクでもチャンコロでもなんでもいいんじゃない?
あっちも日本のこと日本って言ってないでしょ。
岡本綺堂が論じていますが、シナはよいが、支那は駄目という(悪字の為)。
あちらからすれば、やはり「中国」と呼んで欲しいでしょうし、わざとらし
くシナ呼ばわりする事も無いでしょうが(都知事の世代ならまだしも)。
近世の話ですが、「唐史」では、日本を「日本」と呼んでいるのだから、倭
と呼ばず、日本と呼んで欲しいと、朝鮮通信使が頼まれています。
もっとも、対応した人間の、どちらかといえば個人的な要望であり、日本側
も「唐人」と呼んでいるではないかという反論もあって、立ち消えましたが。
>あっちも日本のこと日本って言ってないでしょ。
流石に、公では「日本(リーベン)」と呼ばれています。
相手がああだから、こちらも中傷めいた言い方を、というのは子供っぽい。
戦中派世代ならともかく、2ちゃんねらーの世代なら、普通に「中国」でしょ。
公教育の場でもマスコミでも、全部「中国」で育ってるんだから。
悪いけど、今の時代、「シナ」なんて特殊な場合以外、めったに使わない。
本当は脳内でも「中国」とまっさきに浮かんでくるくせに、わざわざ「シナ」と
おきかえて発言したり書いたりする不自然さは滑稽なだけ。
石原の場合は、自己のスタンスの表明や挑発のための意図的なものであって、
本人だって自然に使ってるとは思えない。そんなのを真似してもアホらしいだけ。
102 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 23:21:51
それにしても、Made in China ってのはよく見る。
104 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:38:52
>>102 「シナ」という一語で
>>93の内容はまったくの無価値と化している。
他を貶めることで自らを高めようとする言動になんの価値があろうか。
105 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:45:07
某都知事の場合はマッチョ気質の男根主義の表れだな>他を貶めること
106 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:15:32
>>104 不思議なことをおっしゃる。
どこにもない日本だけの文化のことを語っているのに内容が無価値とは。
>>他を貶めることで自らを高めようとする
おまえの脳内変換による妄想。そこまで書いてねーだろ。
107 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 22:19:47
某都知事は明らかに自分以外のものをなんでも貶めて、豪傑ぶってるわけだが。
108 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:15:38
>>106 地球上に、他国・他民族の文化の影響を受けていない「どこにもない」文化など存在しない。
すべての文化は対外交流を前提とするもの。孤立した文化は文化とは言わぬ。
109 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 22:16:53
| l, | __L -|‐‐ト| ト|、l_i_ / l、 |
|、ノi | ト,|_ヽ|ハ| ノノノノルレノ ,' | |
|、!ハハl !:::::r、i' !:::::::r /ハ,/ | ,'
| `| l ー '"´ , `ー' l l-ゝ | |
| l. ト、 ノ l .| | 影が薄い・・・かも
| ー-ゝ、` 、 ' _,. - 'i´ ! | .|
| | ', `ヽ、`i'"´,ト、 ー┘ | |
| | ヽ ,、 `ー'/ ヽ. | .|
| | /天',´ ヽ、 | |
|', ,l ヽ/ ヽ,〉/ , '"´ i. | |
| ',ノ /'´ / | |
室町と言えばみそしる
111 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 02:15:32
イルボンの文化はすべてウリナラ起源ニダ。108も認めているニダ
文化と文明の概念を混同している気がする。
113 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 21:10:26
政権は安定してなかったが
中央対地方のバトルがたくさんあり
おもろいとこあるけどね!
>>109 なっちんはだまってろ
「もののけ姫」は室町時代をモデルにしていたらしいが、
庶民の生活レベルはあんな感じだったのかねぇ。
115 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:40:05
薄いかね〜
116 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:45:14
試しに手近な人間に「室町幕府の室町はどこにある?」って聞いてみよう。
自信をもって答えられるやつがどのくらいいるか。
117 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 22:46:57
将軍権力が弱すぎたんだ。
なのに義満だけは異常ともいえる権勢を誇った。
不思議だ。
118 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 23:02:17
>>116 「鎌倉幕府は鎌倉のどこにありましたか?」って聞いてみても結果は同じじゃないの。
個人的にはこの時代の絵巻物とか結構好きだったりする。
(特に「十二類合戦絵巻」。)
>>118 鎌倉は狭い。
室町は京都の一角。しかも常に将軍がそこにいたわけではない。
122 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 18:18:03
尊氏"やい、おまいら!!幕府ができますた。室町に集合しる!
後村上"詳細キボンヌ
義満"1392年は南北朝合一ですが、何か?
後小松"南北朝合一キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
後亀山"キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
後醍醐"南北朝合一程度で騒ぐ厨は逝ってヨシ
尊氏"オマエモナー
義持"--------勘合貿易終了-------
義教"--------勘合貿易再開-------
富子"再開すなDQNが!それより息子うpキボンヌ
赤松"嘉吉の乱うp
義教"↑誤爆?
義昭"将軍age
義政"ほらよ息子うぷ>富子
義視"息子?降臨!!
義昭"将軍age
義輝"15第将軍ageんな!sageろ
義昭"将軍age
義輝"将軍age厨uzeeeeeeeeeeee!!
朝倉"ageっていれればあがると思ってる香具師はDQN!
松永"弱い将軍がいるのはこの幕府ですか?
義晴"氏ね
義栄"むしろ生きさせて
義昭"将軍age
義輝"義昭必死だな(w
123 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:02:01
/: : : :/ ハ \
/: _: : : / _/ : : \_ヽ
. /: : /: \:L -‐.:':´!: : : :l.: :l: : : : :\
/: : :'‐- 、_7‐ 、l:: : :|: /|/|:./|l: |: : : : :ヽ
l : : : 「 : : ̄イ  ̄!: :|:.l/ ' j;ハ:| !:l: |: :| : : !
. l: : : : :ゝ'´::::l'´ ̄l: ハ! ̄` ー-j//|::/ : : |
l: :l: : : : .::;:-l:: : : :l/´「「J下ヽ く´!/://
| :l : .: :.::/ ' 〉:: : : :l 弋_ソ ,.、/:://
|:l: :.:::/:l:!. l.l:::,:: : l、ヽ:.:.:.:. {ソlイ
|l: .::/:::!:::`lj/_ヽ:: ! ヽ\ ノ:.|〈
l.:::/::::l:::::::l::::l \ ` cュ ノ :l
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義昭といえば、ぎしょうと読む坊さんがいたっけか?
125 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 23:45:44
>>99 中国人は日本人の事を小日本って呼んでいましたよ。(シャオリーベン)
飯食いに行った時も店の小姐(女性店員)が真剣に小日本ってって言ってました。
一週間ぐらいいたらそれぐらいの悪口は聞き取れるよ。
って言うかあいつ等日本人を舐めすぎ。ちなみに上海です。
宗主国ですからエライつもりなんです。
中国4千年の勘違いですから、簡単には直りません。
127 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 23:43:59
よく分からんが、自分より小国に劣ってるのは、自虐なのか?
利泰
129 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 23:21:11
日本文化っぽいことは、たいてい室町が発祥です。
130 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 23:38:52
>>124 足利義満の息子で大覚寺門跡だった男だな。
兄の足利義教が将軍になった後、京都を脱走して反乱軍に参加、
最後は逃げ込んだ先の薩摩で幕府の命を受けた島津家の手で殺害されている。
131 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 08:19:11
おとなしく門跡をやってれば天寿を全うできただろうに。
132 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 09:32:34
何となくだが、武士が公家化してきた時代のような気がする。
133 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 09:49:02
134 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 10:06:29
一休さんスレ、いつのまにか行方不明に・・・。
なんだかなあ、とほほ・・・
影が薄いと思ってるのは一部の人たちだけでそ。
最初期と最後期には日本史上まれに見る大混乱期があって、中期には応仁の乱で鎌倉からの
守護地頭体制の崩壊。
文化的にも現代まで続く庶民文化の萌芽が現れた時期。知れば汁ほどおもしろいよ。
136 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:28:12
>>132 むしろ公家が平気で武家みたいなことをやってた時代というイメージがあるのだが。
137 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:40:02
>132 >136
未だ公家と上級武家が完全には未分化だった時代なのでしょうか。北畠家なんかは公家か武家かよく分からん。
完全に分化したのは「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」が制定されて以降でしょうか。
(それでも広幡家の者が武士になった後に公家になって清華に列せられたり
鷹司家の一員が武家として大名になってたりするけど)
支那
139 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:49:01
室町は、幕府が朝廷を吸収したことで画期的!
140 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:52:57
>>137 おっしゃるとおりだと思います。
公家と武家と間の垣根は、時代がくだるとともにだんだん高くなっていったと思われます。
広幡家や吉井松平家(鷹司家)も、室町時代だったら伊勢北畠家のように、
公家の身分と武家の身分を両方保持できていたでしょう。
どちらかを選ばなければならなくなった時代、それが江戸時代。
141 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:55:19
官位の面でみれば足利将軍は大納言クラスだっけ?
鎌倉将軍や徳川将軍に比べればランクが低いような。。。
142 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:57:56
>>141 末期の頃だけで考えてないか?
義満・義持は太政大臣までいってるぞ。
143 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:22:55
義満は前太上大臣・前将軍として権威を高めた
義満は源氏長者もいってた?
144 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:38:15
清和源氏で最初に源氏長者になったのは義満では?
145 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:46:21
>>142 義持は生前は内大臣までしか行ってないよ。
足利家が「望めば太政大臣になれる家柄」だったのは確かだが。
146 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:47:28
>>144 清和源氏で最初に源氏長者になったのは足利義満です。
ただし、その後も村上源氏から何人か源氏長者が出てますけどね。
147 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 20:49:33
鎌倉将軍の最高は実朝の右大臣?
148 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:24:01
土佐一条氏も公家なのか武家なのか。
一条教房の子孫が本家を継いでるし。
149 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:26:29
足利義昭は将軍になる前に興福寺の門跡をやっているけど、なんで
藤原氏の菩提寺の門跡なの? 本人は清和源氏なのに。
150 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 23:51:10
室町幕府って、鎌倉幕府や江戸幕府と比べても、将軍の独裁政権という性格が強いね。
だから、嘉吉の乱みたいなことが起こると大混乱に陥る。
151 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 00:02:08
逆にいえば、将軍個人を暗殺すれば政権を転覆できると考えるような奴が出るのも、将軍独裁政権である所以か。
>>137 京都で幕府をやったせいもあるような気がした。
153 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 01:02:48
>>152 北畠の場合はそれ以前に南北朝の遺産という面が・・・
154 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 07:42:23
鎌倉・室町将軍は突出した者は大臣クラスの官位を得るけど
普通の将軍は大納言クラス。
江戸時代は公家の官位と別枠で武家の官位が用意されてたので
徳川将軍が大臣になってたといっても前時代の将軍達より格が
上がったとも言いがたい。
>>137 武家の故実というのが、ようやく成立しつつあった時代でしょう。
それまでの故実といえば、「弓馬の日記」などが中心では。
貴族化=軟弱化というイメージが強いですが、寧ろ上流化といった方が良い
かもしれません。文化程度も京都が圧倒的な時代でしたし。
中世なら貴族が武力を振るった例も多いですし、地位が低いと荒事に関る可
能性が多かったのは、公家側だろうが武家側だろうが同じ事。
どうも、近世の相反するイメージで捉えられる事が多いですが。
156 :
愛国者:2005/08/10(水) 12:12:57
逆賊の作った幕府など影が薄くて当然です。
157 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 13:51:56
>>156 北朝に対しては逆賊ではない。
南朝が正統ということにされたのはいつだか知ってるか?
158 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 15:28:48
逆賊高氏の汚名は千古に残る!!!
159 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 18:26:52
時代劇板と大河ドラマ板でさんざん叩かれたのに、こっちでもやってんのか。逆賊厨
160 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:24:35
>高氏
>高氏
>高氏
後醍醐天皇から尊の字をいただきましたが、なにか。
161 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 22:14:21
ぎゃくぞくこうし
162 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 01:33:13
本日は逆賊高氏の生誕700年目に当たります。
希代の逆賊の西端を盛大に祝ってあげましょう。
あきらけく岩戸を出し朝より天てる神の国ぞさかゆる
君は百世宝は三の護りにて異国よりも国ぞ久しき
164 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:24:08
>>162 :日本@名無史さん :2005/08/11(木) 01:33:13
>>本日は逆賊高氏の生誕700年目に当たります。
で、今日が誕生日というソースは?
尊氏の幼少時の記録が残っているなら貴重だ。早く出せよ。
165 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 23:44:51
曰 \ もう、わかんないんです…. /
| | \ ∧_∧ ∧_∧ /
ノ__丶 ∧_∧\ ハァ...( ><) ≡3 (>< )うう… /__|
||鬼||( ><) \ | ⊃ヽC C/⊂ | /|||||
_ ||殺||./ [¢、) \ 、_( )) ( ( )_ノ.. / | ̄| ∧ ウウ・・・
\ ||し.||∪ ̄ ̄. ̄ ̄\ \ ∧∧∧∧∧. ... ./ | |<)
||\.`~~´ ((二゚。◎彡) \ \ < の わ > / | |⊂ | わかんないんです…
||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ \ < か > ...../ | | ∪
. || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| \< 予 ん > /
わかんないんです… < な > /
―――――――――――――――< 感 い >―――――――――――――――――
∧ ∧ < ん >
/ ;わかんないんです / <. !!! で >
/ '; / .< す > ∧_∧∩ / ̄ ̄
/ ;______/ ;/∨∨∨∨∨\ ( >< ノ<先生、わかんないんです
/ / .\ __/ノ / \__
/ ┯━┯ ┯━┯ ./ \\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
.| ..) ) _____ ) )/ / ヽ .\||\ \
| ...( ( ;, / ( (/. / ヽ ..\ || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
166 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 12:46:27
鎌倉幕府からみたら逆賊高氏。
167 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 14:31:30
>>166 それは逆臣。朝廷に従っての行動なので逆賊とは呼びません。
168 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 14:47:01
>>166 高氏と書き続けるお前はそのレベルね。
恥ずかしい奴だ。
>>148 >>153 土佐の一条家、伊勢の北畠家、飛騨の姉小路家は後醍醐帝によって国司に任ぜられた家柄
でしょ。もともと南朝の側近公家だったのだから、(公家が武家化したとかいうことではなく)
成り立ちも意味合いもハッキリしてると思われ、、、
>>169 姉小路、北畠はともかく、土佐一条は応仁の乱後にできたのだが。
171 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 18:52:02
成立が似ているというのなら、伊勢北畠・飛騨姉小路・伊予西園寺が本来の意味での3国司だよな。
172 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 19:18:48
逆賊高氏は決して自分の手を汚しません。
汚い仕事・危険な仕事はすべて直義や師直にやらせる男です。
>>171 北畠さん家は何であんなに尚武の気風なの?
顕家サンはアレだし、具教サンは“一の太刀”修めてんだよね。
174 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 20:45:51
>171
伊予西園寺って国司だっけ?
175 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:47:49
176 :
169:2005/08/13(土) 09:20:29
うあ、間違って覚えてたか、、、
伊予西園寺についてどなたか詳しく
177 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 19:19:10
>175
単に宇和庄の領家というだけだったんでは。。。
で、南北朝時代に西園寺家庶流の西園寺公良が食い詰めて
宇和庄に下向したら現地の人達に主君として暖かく迎えられたと。
178 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 23:33:56
>>177 鎌倉時代の西園寺は明らかに伊予の知行国主だよ。
愛媛県史にもそう書いてある。
179 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 13:21:17
時代小説、大河ドラマなどでの取り上げられ方が、他の人気時代に比べ少ないのが原因か?
調べれば面白いエピソードが色々あるのに。
明応の政変とか。
知名度が無いけど。
歴史の教科書にも出てないかな。
180 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 13:22:38
康暦の政変とか寛正の政変も。
181 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 21:40:23
古川薫「炎の塔」を読んだけどつまりません。
南原幹夫「天下の旗に叛いて」は物足りない。
安部龍太郎「彷徨える帝」はまあまあ。
PHP文庫の「佐々木道誉」「小説太田道灌」は金返せ
182 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:52:17
>>181 PHPなんて読むのなら、まともな人物叢書を読め。
183 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 00:59:36
>>182 はて? なんで人物叢書を読んでないって決めつけるかな。
>>183 すまん、早とちりだった。
今は反省している。
戦国初期は一般認識では室町時代とは思われてないし、応仁の乱はその後に続く戦国時代
への過渡期といった感じでドラマにするには最後の盛り上がりに欠ける。肝心の
建武から南北朝あたりまでは人間関係が複雑すぎて視聴者に理解されにくいってのが
あるかも。大河ドラマの「花の乱」と「太平記」(だったか)もやや難しかった。
186 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 18:55:24
太平記はあの時代が舞台であれだけ視聴率を取ったのは奇跡。
187 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:29:07
俺の受信料が逆賊礼賛ドラマに使われたなんて〜
許せ〜ん
逆賊厨のおかげで、賑わってきたな。
189 :
日本@名無史さん:2005/08/16(火) 21:02:14
>>185 >戦国初期は一般認識では室町時代とは思われてないし、
どういうこと?
190 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 10:55:38
室町時代は将軍の統制が弱すぎたといことでは?
年表を見ると前半は南北朝時代という別名があるし、後半は戦国時代
という別名がある。平安時代や江戸時代にそんな別名はない。
191 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 11:50:06
>>190 そうか?
室町は鎌倉や江戸に比べて、将軍個人の意志や性格が幕府の政策に一番ストレートに反映されやすい幕府だと思うが。
幕府所領や幕府軍なしで権威と名目だけでよく統制が取れたものだと不思議に思う。
193 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:05:28
麻原尊氏
194 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 17:25:27
それにしても近現代スレばっかだなぁ
195 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 01:15:34
>>192 それは貴方が近世以降の社会システムを基準に中世を見ているからだと思います。
ちなみに、
奉公衆=将軍直属軍
奉公衆所領=原則幕府料所
一休さんの話をもっと!
太平記は歴史に興味ないクラスメートも見てたな。
花の乱は・・・
198 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 14:34:26
一休ってどこで語ればいいんだろうね。
漢詩の話なら股間板いくべき?
199 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:06:04
室町幕府における奉公衆と、
江戸幕府における旗本って、
性格似てる?
200 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:14:43
戦国時代、奉公衆はどこに消えてしまったの?
201 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:21:22
>>200 大部分は最末期まで消えずに残っていると思うけど。
あと義晴期には奉公衆の再編も行われている。
美濃の明智や遠山って奉公衆だったそうだが、
あいつら早々に奉公やめて専業の地元の豪族になってない?
京都から離れたところに所領を持ってた奉公衆は
地元の大名の家臣化してたんでないの?
203 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 21:58:08
奉公衆ってのは、有力守護家の一族なんかが結構いるから、そういう家は場合に
よっては守護の一族として行動することはあると思うけど、奉公衆が完全に
守護の被官化してしまうことなんてあり得るのかね?
あと奉公衆の所領ってのは基本的に畿内近国にある。
六角や若狭武田のような大名は、かなり末期に至るまで自分の勢力圏内にある
幕府料所や奉公衆所領を保護している。
204 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 02:04:29
最末期まで存在している有力な奉公衆というと、
伊勢、摂津、大館、三淵、荒川、本郷といったあたりかな?
あと、常時在京しているのかどうかわからないけど、
細川(典厩家)、赤松(有馬)、佐々木(朽木)あたりも奉公衆だよね。
奉行人の飯尾、松田、布施なんかも最後の頃までちゃんと残っているな。
室町幕府の奉公衆って鞆について行ったのと、本能寺後に光秀に付き従ったのといるけど
鞆について行った連中は、その後どうなったの?
209 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 03:02:12
>>208 さうですよ。
古文漢文と言うと敬遠されがちですが股間と言えば親しみがもてるので
なかなか素敵な略称でせう。
股間痛でも室町時代は影薄いんですよねえ…。
五山文学が好きな人なんて少ないでしょうし。
210 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 03:29:56
>>207 家が断絶しなかった奉公衆の多くは、最終的には江戸幕府によって旗本とかに拾われているんじゃない?
211 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 16:44:34
幕府創設で結構雇ってるからね。まぁ大名になったやつはいないんだけど・・旗本
でも大盤振る舞いだよね。
212 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 21:38:06
躁鬱病のくせに幕府作るな
うざいんだよ
氏ね
214 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:53:46
足利尊氏
丸顔でニコニコ社交上手、話術巧みで友人や親を大切にします。
見栄っぱりで金づかいは荒いほうです。自分の理想実現のためにに全力
尽くす方です。親や他人にも精神、物質両面で惜しみなく援助して
いく方です。神経が細かく直感力が鋭く偏屈強情な直情型です。
頭はよいが金運が弱く配偶者や実子との縁も薄く病難周囲にあるでしょう。
小数グループの人と力を合わせて互いの才能が認められれば最高です。
資産家、商売人として成功して金持ちが多い家系です。よい収入源を得て
金運、子供運、仕事の実績運強く内外の信用は抜群で生活は堅実、一時的
損もすぐ取り戻す事ができます。極端で黙っているのでおとなしい人かと
思うと人や場所が変わるとまるで人が変わったようにぺらぺらとしゃべる
人が多く極端から極端へはしります。また競輪、競馬、競艇、株、マージャン、
パチンコなどの投機性の強い趣味の持ち主で一度悪い楽しみを覚えると
せっかくの蓄財も使い果たして一家が悲惨な状態に追い込まれることが
ありますので注意してください。身内より他人に気前良いでしょう。
しかし着実に努力してすすめば吉となる運です。
健康面では、手足の病気ケガに注意してください。開運法は、
自分のやりたいこと、好きなことを徹底してやることが大切です。
216 :
日本@名無史さん:2005/08/31(水) 03:30:13
躁うつ病っていうよりキチガ(ry
司馬遼の「妖怪」をきっかけに室町に興味を持ったんだけど
なんか面白い本ある?
218 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 12:33:51
>>217 平泉澄「物語日本史」を読むことをお勧めします。
>>217 山田風太郎「室町少年倶楽部」
永井路子「銀の館」
ちょうど「妖怪」のころの話だね。
220 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 21:00:19
後醍醐尊治
内運A21○
内運B40△
後9
醍16
醐16
尊12
治8
天格41○
人格28×
地格20×
社会運53△
外格33○
---------- ------ -------- ----------
家庭運52○ 総画61○
[解説]
アゴ鋭り逆三角形の顔で神経質、勘が鋭く心を読むのが上手い。
差別意識が強く口が悪いところもあります。責任感が強く義侠心に富み頑張り屋でスロースターター、
両親子供運は弱いです。ロマンチストで頭がよく独創性に富むのですが金運は弱いでしょう。
221 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 21:02:30
楠木正成
内運A18○
内運B10×
楠13
木4
正5
成6
天格17△
人格9×
地格11○
社会運22×
外格19×
---------- ------ -------- ----------
家庭運15○ 総画28×
[解説]
周囲の人の影響で気苦労が多く頭はよいのですが人一倍苦労しても報われず共業事業運もなく傷害、殺傷運が
あります。独立心が強くピンチにも強いのです。男性は嫁の親に可愛がられ女性は長男との結婚をしがちで
一族一家の責任者となります。瞬間的判断の鋭さがあり観察が細かく自分にも他人にも妥協を許さずまじめに
努力しますが毒舌で人を不幸にする事もあります。手先器用、美的感覚生かせる。職場、職種を選べば成功します。
武家大商人教育者など財力名誉の両方に恵まれた者が多く繁栄力があり芸事に優れた家系です。
他人との協調性に富み共用事業が得意ですが少々ぜいたくで浪費家となります。女性はいつも精神的な苦労に
付きまとわれて悩み、男性は職業や住居を転々とし変更してあれやこれやと何にでも手を出してみては、失敗すると
いう波乱万丈の道をたどり、果ては殺傷刑罰に関する事件に遭ったり、家族の生死別などが起こりやすい大強運です。
特に金銭面で豊かになると病難、配偶者、実子と離別や金銭トラブルが起こります。しかし貧困に強く、人一倍努力を
して独自の才能を発揮します。健康面では、眼や手足のケガ腰部の病気にかかります。
開運法は、よきライバルを持つことです。
222 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 21:07:29
新田義貞
内運A26×
内運B14×
新13
田5
義13
貞9
天格18○
人格18○
地格22×
社会運31○
外格22×
---------- ------ -------- ----------
家庭運27△ 総画40△
[解説]
目と髪が魅力的で誠実、義理堅い、のですが男女共色難があります。美男美女が多く音楽や芸術に才能を発揮する
でしょう。料理、ファッションの工夫は一流ですが子供にはスパルタ教育を行います。平和主義者で計画性や他人との
協調性があり精神・物質両面で常に余裕があり金持ちで喧嘩せずの典型人です。人の世話、仲介をしてお金を得られる
サービス関係で頭角を表わすでしょう。代々財産家か社会的信用があり地位のある名誉職についている人が多く
男性を中心に繁栄する家系です。くそまじめで誠実、金銭管理が上手く家庭円満ですが大財を持つと道楽して
離婚もあります。自他共に厳しさ求め正義責任感強い人ですが外見は、無口でおとなしく、あまりしゃべらないで
孤独を楽しむような静かな雰囲気を持った人です。また知謀は抜群で、直感力に富んでいて思い切った決断力を
発揮して成功することもありますが、人の言葉に耳を貸さず生意気で傲慢な態度をとりやすいため、人から嫌われて
大失敗を招くので、常に言語動作に注意して進むことが大切です。そうすれば凶は変じて成功の吉運となります。
健康面では、胃腸や盲腸の病気に注意してください。
開運法は、他人と自分を比較しないこと。マイペースを守り気を散らさないことです。
223 :
日本@名無史さん:2005/10/22(土) 15:45:25
岡野某の新説・珍説・愚説?
室町時代は公方国家体制
224 :
日本@名無史さん:2005/10/26(水) 21:15:32
.,Å、 .,Å、
.r-‐i'''''''''''i'''.r-‐i'''''''''''i''''‐-、
o| o! .o! o| o! .o i o !o
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225 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 03:33:46
8代将軍のころで既に将軍家の直轄領28万石
箱庭造りするしかないよ それにしてはその後も
よく持ったと思う
226 :
日本@名無史さん:2005/10/27(木) 03:55:40
室町時代は複雑怪奇だから試験にはむかないな。
227 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 05:59:28
足利将軍家はなぜみんな剣術が強いの?
228 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 22:50:51
室町期以前は、弓馬の道といって騎射が基本で、剣術は下賤のする芸に過ぎなかった。
他の側面としては室町期に儀礼主義が確立され様式などが決められて太刀などが
下賜されることが多くなり、刀に意味が付託されることになった。(領地とかを与えるより
安上がりというのもあったと思われる。安土期になると茶道具とかがそれに加わる)
また刀剣が輸出品として珍重され装飾、技法、外観などが精錬されて刀剣自体の価値が
上がったのも大きい。将軍家は、その刀剣の庇護者かつコレクターにもなっていた。
(正宗とか室町期なのな)
江戸期も刀剣の価値がさらに格式となったが、完全に儀礼用になり死蔵されることが
当たり前になった。酷い話だが、鑑定書などを偽造して名刀があるという前提で贈答され
たという。格式優先で実用品ではないのだ。江戸期の将軍で刀を抜いての逸話は
殆ど見受けられない。
>>228 剣術が下賎のする芸に過ぎなかったというソース希望。代表的な下賎の剣術家もね。
っていうか、当時の剣術ってどんなもの?
刀は平安時代から既に武士にとって重要なものだったが?
例:平家の小烏丸、源氏の髭切
>>228 草薙の剣、フツノミタマ、童子切・・・
価値の高い刀など古代からあるぞ。
231 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 20:06:36
、ヾ'"''; /ゝ
ミ 彡 wWw _/´ `ヽ ビクッ!
ミ 彡 、ヾ ヾ/ ,! Σ
. ミ ミ ミ ゝ o, oミ
ミ ミ ミ `ミ __,xノ゙、
ミ ミ ミ ミ ヽ.._,,)))
ヾ、 ! ミ i
´"'`、 ミ ヽ. 、ゞヾ'""''ソ;μ,
. ` ーー -‐''ゝ、,,)) ヾ ,' 3 彡
ミ ミ 日蓮
彡 ミ
/ソ,, , ,; ,;;:、ヾ`
232 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 20:22:35
草薙の剣は、伝説では使われたことになっているが
本来は祭祀用の剣・鏡・玉のセットでしかない。
基本的に実用性はなく、シンボルとしての存在。常時帯同
するような慣習では当然なく、それらを使用する風習もなかった。
武士は弓を持って侍うものであり騎馬を所有しそれに騎乗できる
身分がやがてもののふとなる。 ・・・室町期は、それがくずれて
武士の世の中が廃れて悪党や足軽が生まれた時代。
・ ・
室町時代に天下五剣(鬼丸国綱、大典田光世、三日月左近、数珠丸恒次、童子切安綱)
と俗に言われるようになった。
平安時代に価値があったかは、かなり疑問符がつく。もっとも所有者の伝説がつくことで
室町期には、かなりプレミアがついていたようだ。刀剣の神格化は三種の神器
からのモチーフとも考えられるが、宝刀、護法刀思想はもっと後世になる。縁起は
眉唾だが寺社に献納された刀剣の由来で脚色されていく。
幕末の話だが、勝海舟も厳島に奉納したそうだ。献納側がお金を払って寺社に献納
するシステムのために名を名乗らなかった勝(海軍のトップなのに)は、献納を渋られて
余計に金を払うことになったという。
籤引き将軍足利義教なんて、織田信長に以上の非道ぶりなんだが、
ほとんど知られてないしな。でもそれなりに魅力的な時代だが。
234 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 22:43:08
>>232 そもそも大和朝廷が武力で日本を統一する過程で、
武力の象徴として刀に特別な霊力があるとする信仰が生まれ、神剣に繋がっていったのだろう。
235 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 23:06:07
剣とか鏡は、インゴット代わりに贈答されたのではないかという
説もある。出雲とかの出土数がちょっと異常だったりすることも
祭祀ではなく、貴金属そのものの取引と考えるならば蓄財と
考えられるからだ。大和政権の資金提供先だったとすれば
出雲を別格扱いにしている意味も理解しやすい。時代が下るが
宇佐の神託事件も宇佐の経済影響力が皇位自体を左右できるほど
だったこととも解釈できる。後世では神託などの宗教権威の影響力が
古代政権自体に及ぶという解釈がなされるようになるが。
鏡は神道の霊代として比較的残っているが、剣の方は一部を
除いて宗教儀礼に残っていない。武器の系統もまったく継承して
いないことからも実用品ではなかったと考えられる。
より便利な刀が発明されたから役立たずの古い刀は継承されなくなった。
刀が実用品なら当然のことじゃん。
237 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 19:11:47
要するに北斗の拳のような時代だったんだろ?
238 :
日本@名無史さん:2005/11/04(金) 19:16:28
結城合戦で足利持氏の幼い子どもを斬殺した事。
南朝の史料が極めて乏しいらしい、実像が伝わりにくい時代ではある。
241 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:06:00
あんまり大したことなかったのでは?南朝
242 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:13:36
ははうえさま〜、いっきゅう〜
世界中の子供に一番知られている時代は室町時代。
金閣寺はその代表的な建築物。
イスラム圏でも、放映されている。
>>242 仏教はイスラム教にとって不倶戴天の敵なのだが、
いいのか放送して。
>>243 視聴者にとってはそんな事関係ないからいいの。
イスラムでも神秘主義的な連中は仏陀とその母の話だかを
外伝みたいに取り扱ってる。
つーかこの時代のヒーローというか
だれでもしってる有名人って一休さんのみか?
それなりに興味深いと思うが、奉公衆の研究等や足利義満の
皇位簒奪問題などを深く掘り下げて研究してほしい。
奉公衆は過小評価され杉。
つまり新右衛門さんをもっとよく研究せよ、と。
純粋に歴史学の対象としては研究が進んでいるとは言えないな。
金閣・銀閣などの美術、観阿弥・世阿弥などを哲学の対象として
扱っているな。足利将軍の9代目〜14代目が影が薄いから。
足利義稙の人物像なんか調べてみると面白いのだが。
251 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 02:05:20
高校の教科書には『織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府は滅んだ』って書いてあるんですけど、室町幕府はそんな簡単に倒せたんですか?
戦争とかにはならなかったんですか?
253 :
日本@名無史さん:2005/11/10(木) 11:10:58
一休さんて、30代以下の世代の人は知ってるのかな?今はなき、日本のフィクサー笹川良一が番組を提供してたんだよな〜。
大館氏以外で新田一族から奉公衆になったのって、いる?
あれだけ足利と戦っておきながら、うまく立ち回ったなあ、と。
今参局の最期は悲惨だけどさ。
255 :
日本@名無史さん:2005/11/12(土) 14:33:35
応仁から享禄まで(1467-1532)を春秋時代と呼びたい。
吉良って足利一族の中でも家格だけはやけに高かったみたいだけど影が薄い。
子孫が発狂した若者に切りつけられなければ全く無名じゃないの?
逆に細川は一族中では家格が低かったのに存在感ありすぎ。
257 :
:2005/11/12(土) 15:58:53
でもナムアミダが出ちゃう.だって浄土宗なんだもん.
258 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 06:44:19
>253
なにげに高級公家、高級武家出身の小僧さんばかりの寺だったな。
一休さんも皇子様だし。
足利義稙は大内義興の傀儡ですから。
>>258 よく考えると、すげぇな。
子供の頃にはよく分らんかった。
261 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 21:01:50
安国寺の小僧達は足利義満に少しも臆する様子は無かったし、
気軽に冗談言えるような香具師ばっかりだったな。
最年長の新田家出身の哲斉さんだけは決して将軍様と口をきかなかった
(哲斉さん将軍様双方とも声をかけようとしない)という細かい設定も
大人になって再放送を見て知った。
262 :
日本@名無史さん:2005/11/18(金) 22:48:51
小僧達のリストきぼんぬ
263 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 06:51:50
うろ覚えなので間違ってる可能性も高いが、
秀念:摂家のいずれか(弥生さんにメロメロだった年長の小坊主)
哲梅:どっかの守護大名(作中最も影が薄かった)
哲斉:新田家(最も色男?、新右衛門さんが安国寺にしょっちゅう出入りしているのは彼の監視のためとも)
陳念:今出川家(他の小僧と同じものを食べているはずなのに肥えているのは密かに食糧隠匿?)
黙念:?
一休:皇子(母が南朝方の公家の出身ため、数少ない後小松天皇の皇子にもかかわらず出家を余儀なくされる)
年少の一休さんが小僧さんたちに一目置かれてたのは
一休さんが聡明なことに加えて出自に拠ることも大きい。
和尚もかなり格が高いんだろうな…
265 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:35:36
>264
五山に次ぐ十刹のひとつである安国寺の住持だから
清華家クラス出身の可能性が高い。
高貴な皇子は粗末な山寺に押し込められたというというような話じゃないな…
267 :
日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:59:06
安国寺の外鑑和尚は実在の人
一休さんて実は生臭坊主だもんな。
庶民の苦しみなど分かろうはずもない。
270 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 19:16:49
アラブ圏では、休(きゅう)の発音がありませんので、
「いっくうさん」と呼ばれております。
ジャッキー・チェンをも脅かす存在感です。
271 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 11:29:34
室町時代まではまだ庶民の顔が見えないんだよね
その点江戸時代は庶民の顔が見えてくる
ヒント:識字率
室町時代の庶民の生活様式がわかる資料ってあるの?
274 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:52:30
室町時代の面白い資料はなんですか?
275 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 06:58:05
田楽とかで庶民は庶民で歌舞音曲を持ち始めた時代だよ。
都で戦争が始まると出稼ぎにでてきて、小銭を稼いだりしている。
公家の日記なんかにも「足軽とかいう奇妙な戦闘集団が洛中で現れた」とか書かれている。
この時代の京都以外の地域って
何やってたのかイメージできんのだけど。
277 :
日本@名無史さん:2005/11/24(木) 22:34:26
忍たま乱太郎も舞台が室町(コッソリ)
おお、長年続くアニメは室町時代か。
室町メジャー宣言だな。
でも、時代劇的には不人気だ。
いまいち室町時代ってピンと来ないんだよな。
なんでだろ。
室町を舞台にした「ぐわんげ」ってゲームがあった。99年頃だったか。
>>275 >足軽
一条兼良の『樵談治要』以外でですか?足軽という名称の雑用を司った兵で
あれば、鎌倉時代以前から存在していましたが。
>>273-274 連投失礼。能や狂言(もおそらく室町期から今の様な台本で演じられていた
でしょう)、往来物や『看聞御記』はどうでしょうか。解説書もある。
庶民の生活という事では、横井清先生が好んで書いておいでです。
282 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 18:19:27
>>277 乱太郎って室町時代が舞台なの?戦国以降に広まった月代の髪型の人を良く見かけるけど
283 :
三寅(藤原頼経):2005/12/01(木) 20:43:04
でも室町時代の小説はあまりないみたいだよ。
とりあえず良く知られているやつはこんなもん。
「応仁の乱」(「賊将」の中にある) 池波正太郎
「室町抄」 南條範夫
「獅子の座」 平岩弓枝
「炎の塔」 古川薫
「天下の旗に叛いて」 南原幹雄
「陽炎の旗」 北方謙三
「銀の館」 永井路子
「彷徨える帝」 安部龍太郎
「バサラ将軍」 安部龍太郎
「犬死将軍」(「運命の剣のきばしら」の中にある) 鳴海 丈
「花僧」 澤田ふじ子
「七福盗奇伝」 澤田ふじ子
などなど…
総数はこれの2倍から3倍程度。江戸時代と比べると少ない。
284 :
日本@名無史さん:2005/12/01(木) 20:46:27
↑すいません、「ここだけ〜」に書いたそのままで書いたので
名前欄がこんなになってしまいました。
哲斉さんて楠木の縁者じゃなかったっけ?記憶違いかな。
>>282 鉄砲つかってるし、原作はよく閑吟集詠ってるし
室町と言っても後半っぽいね。
287 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 00:57:13
史上初の農民による支配層への蜂起・現代日本文化の原点等々室町時代は知れば知るほど面白い
288 :
無官鷲尾隆冬 ◆uYNB6iFD.k :2005/12/05(月) 02:24:48
>>287 >史上初の農民による支配層への蜂起
おそらく、正長の土一揆の事を言ってるんだろうけど、
マルキストとかなら、文和4年の院の御所突入事件の方が面白く感じるんじゃねーの?
農民が空っぽの仙洞御所(当時、北朝の上皇は南朝に拉致されていた)に
押し入って火をかけようとした事件ね。『園太暦』に書いてあるよ。
大体、室町時代の定義がいい加減なのでは?いつからいつまでを室町時代というかについてなんだ。
一般的には尊氏が将軍になった1338年から義昭が織田信長に追放された1573年までを言うらしいのだが、
1378年に足利3代将軍義満が、「花の御所」と讃えられた豪奢な室町殿をこの辺りに造営した年から数えると、応仁の乱で室町幕府が衰退する約100年くらいしかない。
そのうち、1391年の南北合一までは南北朝時代だし、そう考えると室町時代というのは、87年間くらいじゃないの?
文学関係でも、『太平記』以外は、まるで存在しないかの様に影が薄くあり
ませんか。岩波文庫で出ていた『明徳記』など、存在を忘れられている。
『室町時代物語大成』も、量が多い割に影が薄い。CD化したものもあった
様に思いますが・・・。
バーバラ・ルーシュ先生がお嘆きになられた頃と、余り変化が無い。
南北朝時代や戦国時代が3分の2を占める。それでも室町時代は永享の乱やら明徳の乱やら結城合戦やら嘉吉の乱なんかもあるんだから全然、平和な時代でもないがな
南北朝時代・・・尊氏〜義満
室町時代・・・義満〜義政
戦国時代・・・義政〜義昭
最近では、応仁・文明の乱ではなく、明応の政変から戦国時代とされている様な。
絵画史料が少ないのも、イメージを作りにくいのかもしれませんね。
真宗系の絵巻、結城の合戦図、十二類合戦や妖怪の絵など、どれもマイナー。
出せば面白い筈ですが、多彩かつ中世の世界観を反映したものであるせいか、説
明が面倒なのでしょうね。教科書や資料集での出番はまず無い。
ところが一般的に戦国の始まりは、伊勢宗瑞の堀越御所討ち入り(明応二年)からと言われてる。
あるいは尼子経久の月山富田城奪還(文明十八年)という説もある。
294 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 10:34:52
室町時代の終わり=中世の終わりなのですか?
295 :
日本@名無史さん:2005/12/08(木) 17:09:13
いいえ。日本の場合、
中世=戦乱の時代=源平合戦〜鎌倉〜南北朝〜室町〜戦国〜信長政権
近世=平和な時代=豊臣政権〜江戸時代
つまり秀吉の天下統一から大坂の陣までが中世から近世の分かれ目と言えるでしょう
信長政権は近世に入ってる。大体、秀吉政権自体は信長政権の後継なんだし
297 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 20:46:45
平和になっていないから信長と秀吉との間には大きな断絶がある。
そもそも信長は天下人ではないから除外すべき。
戦国時代と室町時代は分けて考えたほうがいいのか。戦国時代末期は安土桃山時代とまたがってるしね
将軍が室町御所を追い出された時点で室町時代終了<スッキリ
300 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 14:12:11
それは足利義昭が京都を追い出された時点ってこと?
そう。1573年 元亀四年までが室町時代。天正と改元されてからは室町時代ではありません。
ただし戦国時代は安土・桃山時代の途中まで続きますが
しかし義昭は1588年まで征夷大将軍でいた
義昭に限らず、多くの足利将軍は時勢により京を追放された経緯がある。
仮に義昭が再び勢力を増して(もしくは有力大名が義昭を担ぎ上げて)
再び入京していたら、室町幕府は1573年以降さらに継続していたことになる。
303 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:17:39
age
304 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 20:25:48
朝廷が信長を中央権力の主と認めた時点でアウト。
室町時代は将軍が追放されても、幕府自体は否定されてなかったが、
信長は幕府そのものを否定し、朝廷もそれを事実上認めた。
>>302 それは無いだろう。足利幕府は信長以前にも三好・松永などに傀儡だったわけで幕府ももうすでに存在していない。ここで完全に足利幕府は消滅したんだよ。
毛利氏が信長と敵対するのを恐れたため、足利義昭を広島に入るのを拒否して鞆ノ津に留めたくらいなんだから
誰が何の価値も無い人間に力を貸すんだよ
ではなぜ朝廷は義昭が信長によって京から追放された時点で義昭の征夷大将軍を剥奪しなかったのか?
308 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 23:19:30
義昭は腐っても鯛
戦乱の世にドサクサ紛れで勃興してきた成り上がり者の織田・秀吉と
まがいなりにも源氏の血を引く足利将軍家とでは朝廷の見る目が違う
朝廷は時の権力者に擦り寄る嗅覚は長けているが、決して有名無実の権威者を軽んじることはしない。
なぜならそれは自らを否定することにも繋がるからだ
309 :
日本@名無史さん:2005/12/12(月) 01:44:55
日本文化の源流の殆どがココだぞ
>>1は相当無知だな
_ _ ',:|:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.|:.:.:|
_,、 ‐ ' ´ '|:.:.:.:.:.:./:.:.:.:.:.|:.:.:.:|
´ ̄ |:.:.:.:.:.i:.:.:.:.:.:.:ハ:.:.: | すいません源流と言えるのは
| ノ ィ _,、.r‐ァ'''フ´|:.:.:..:.l:.:.:.:.:.:∧:',:.:.:| 本当は江戸です。ちなみに
|! _,、 ' ´ / イ近f::::ー'}' |:.:.:.:.|:.:.:.:.:./::::ヽ:.:.:| 一般化したのは明治です。
: ヽ _ 二 _ ゞ‐''' ´ |:.:.:.:|:.:.:.:.:/:::::::::::',:.:|
:.:.:.:ヽイ弍ヵコ, //// |:.:.:.:|:.:.:.:/、_::::::::::::',:.|
: :.:.:.:.:ヽ ゞ‐''´ /|:.:.:.|:.:.:.∧ ` ' - 、
:.:.:.:.|:.:.:.:ヽ//// 、 /:.:.:.:.:|:.:.ノ:.:.:!
:.:.:.:.|:.:.:.:.|ム, 、っ /|:.:.:.:.:.:./:.:.:.:.:/
:.:.:.: |:.:.:.:.|:/ ` ‐- 、. _ / /ヽ:.:.:.:.:.:.:.:.:/
:.:.:.:.::|:.:.:.::ハ \ \`' ー ´ / ∧:.:.:.:.:.∧
10世紀と言う人もいれば、13世紀という人もおり、16世紀、19世紀
という人もいますからね。見方次第でしょう。
宗教観は16世紀に成立したものの影響が続いていると思いますが。
まあ、反論するのも主張するのも難しい問題ですから。
一般庶民が畳敷きの家に住むことができるようになったのなんて明治に入ってしばらくたってからだろうな。
東山文化辺りで現代日本建築の原型が出来たとして、支配者・富裕層→一般庶民へと浸透するのには数百年の年月がかかっているということか。
綿の布団の庶民が使えるようになったのは、明治からだというしね。
どの家でもすべての部屋に畳が引けるようになったのは戦後のことらしい。
畳自体がぜいたく品だったからね。
でも、すぐ洋室が好まれるようになって畳自体が邪魔になったと。
>>9 典型的な大宰府や京都府宗教的発想だ。
国が出来た=日本独自の文化だよw
ところでなんで室町時代って日本中異常気象で餓死者が多かったんだ?
世界中だったんじゃ?
>>316 でもまんが日本の歴史から足利将軍や雪舟などの伝記に至るまで必ず日本中大飢饉だったかのような記述が出るんだけど、
世界中だったの?
318 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 23:11:43
age
319 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 23:42:16
室町期は大雪が降ったり寒冷化してた時代。新田義貞が遭難したってのは有名な
エピソード。異常気象は、大規模噴火とか海流の関係とか言われてるけど
周期的に寒冷化と温暖化が交互に来るようだ。室町期はその振り幅がやや大きい。
ちなみに末法の時期とされて人々は現世に諦めを持つほどだったという。
後期は温暖化して農業の生産性が上がって人口が爆発的に増えたらしい。
>>319 寒冷期は総じて19世紀前半まで続いたので江戸時代にもそれに伴う異常現象は起きていた。
産業革命の成熟と温暖化がはじまって19世紀は未曾有の大発展時代に突入し、それとともに人口も大爆発していった
全然雨が降らなくて日照りになって京都でも餓死者であふれていたとどこかの本に書かれていたけど・・・。
鎌倉公方って室町幕府の機関というよりは完全に室町幕府とは独立した政権だよね?
だから鎌倉時代同様に、この時代は京都と鎌倉の2元的政治体制だったわけだよね。
323 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 01:47:30
>>91 『満済准后日記』は公家の日記なのかと小一時間・・・。
>>94 地方の武家文書とか在地に関する史料の残存率も鎌倉時代に比べればかなり
高いよね。
324 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 02:05:29
>>254 大館氏が北朝に寝返る手引きをしたのは佐々木(京極)道誉だといわれる。
建武政権期に道誉の娘が大館氏に嫁いでおり、婚姻関係があった。
義詮期の幕府は道誉のおかげで持っていたようなものだから、道誉の手引きなら
北朝への帰参は容易だったと考えられる。
325 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 02:09:06
>>292 東大の史料編纂所では永正の政変からを戦国時代と考えているらしい。
大日本史料の第9編が永正4年から始まるのはそうした考えによるらしい。
326 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 02:11:43
>>293 明応の政変も明応2年だよ。
あと伊勢盛時の伊豆侵攻は中央政界の動き(要するに明応の政変前後の動き)に
連動したものという説もあり。
>>322 鎌倉公方は京都室町の幕府から派遣された、親王達で何の力もありません。
328 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 02:24:20
>>296-298 太閤検地を中世から近世へ移行する過程での最大の社会変革と考えて、
信長政権を中世の最後に位置付ける説はある。
どの程度支持されているかは知らない。
>>299-308 鞆幕府論ってのも戦国史の学会の一部では提唱されているね。
しかし義昭以前にも現職の将軍を京都から追放した人物は多くいたが、そうした
奴らと信長が大きく違う点は、別の将軍を立てることをせず室町幕府の存続を
否定してしまったこと。
ただ当時の人々が天正元年の時点で幕府が滅びたと実際に思ったのかという
点では、そうは思っていなかった可能性が濃厚だけど。
329 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 02:31:50
>>322 鎌倉府は京都の幕府に類似した組織を持つのは事実だが、幕府から独立している
わけではない。
鎌倉公方の地位は、京都の幕府による承認を必要とするし、鎌倉公方は代々
将軍の名前の一字を貰うのが通例だった。
また鎌倉府管国(関東8カ国+伊豆+甲斐)であっても守護の最終的な
任命権などは京都の幕府が握っている。
330 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 02:34:18
>>327 建武政権期の鎌倉将軍府かなにかと勘違いしてません?
>>308 それに追放されたからといって義昭の権威が完全に消滅した訳ではないからね。
彼が地方の大名に御教書なり御内書なりを出せば、それに呼応する者が現れる
可能性が多分にある状況は変わっていないし。
もっとも、義昭と決別した後の信長は、こうした事態に対応するために
足利将軍よりもさらに上位の権威として天皇・朝廷の名前を積極的に利用する
ようになる訳だけど。
・・・あと義昭もそうだし、義晴・義輝にしても足利将軍って末期に至っても
個性強すぎ。
腐っても独裁者って感じが溢れている。
それに比べると、後半期の徳川将軍なんかは最後の慶喜を除けば自分の意志で
政治的に動くことなんてほとんどないし、いてもいなくても大差ない存在感の
薄い人物ばかり。
332 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 03:41:35
>>210-211 赤松有馬氏とか佐々木朽木氏とかは元々奉公衆だけど、子孫が近世大名として残るよ。
>>328 鞆幕府か・・・確かに以前にも、放生津に置かれた亡命政権の足利義材の越中公方があったけどな。
でも鞆ノ津御所とか鞆ノ津公方という呼び方は聴いた事が無いんだが。
334 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 19:41:48
そもそも中世においては「公方」とか「御所」とかは多義語だから、必ずしも
将軍を指すとは限らない。
天皇陛下は
平城の京から行幸中、
山城の京を捨て
現在は東京に足を延ばされておるな。
336 :
日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:17:42
>>333 鞆幕府論って、その前にそもそも足利義維の堺幕府論ってのがまずあって
じゃあこれもって感じで出てきた議論だったと思う。
>>336 なるほど。そうだったのか・・・教えてくれてありがと
338 :
これは笑うべきでしょうか:2005/12/29(木) 00:09:11
339 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 00:34:55
戦国時代は永正からでFA?
340 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 02:23:39
義満と世阿弥の関係を大河でやって欲しい
ジャニタレ使えば絶対視聴率高い
341 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 03:25:26
342 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:20:05
足利義教でどうよ?
第1回タイトルは「万人恐怖」
343 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:23:09
室町が影薄いなんて、たんなる勉強不足だろ。
344 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 18:33:34
>>343 実際には日本史で一番面白い時代なんだけどね。
345 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 19:07:10
>>91>>94 『師守記』『園太暦』『兼宣公記』『師郷記』『康富記』『斎藤基恒日記』
『斎藤親元日記』『蜷川親元日記』『鹿苑日録』『実隆公記』『政基公旅引付』
『蜷川親俊日記』『大館常興日記』『言継卿記』『天文日記』などもお忘れなく。
>『蜷川親俊日記』
最近、水藤真先生の御本が出ましたね。史料講読の様な内容でしたが、これ
からの展開のさせ方を考えると、なかなか興味深く楽しめました。
しかし、なんとも色気の無い文章です。
面白いのは、『看聞御記』や『言継卿記』あたりですね。
風俗や文化に関する記述が多い。
>>339 俺は文明十八年(1486年)に起こった尼子経久による月山富田城奪還からだと思うんだけどな。
それは地方における幕府権威の失墜と戦国大名による古い権威への否定を意味する大きな事件だったからな
伊勢宗瑞の堀越御所討ち入りをもって戦国時代の始まりだとする説もあるが。
いずれにしても戦国時代は信長の入京の1568年(永禄11年)までだから、100年も無かったろう
>>347 尼子氏は守護京極氏の内紛に敗れた政経を最後まで保護しているし、のちに
幕府に対して山陰山陽諸国の守護への補任を求めたりしている。
しかもそのやり方が明らかに京極氏の先例を念頭にしているような感じ。
あくまで京極氏の後継者としての出雲の統治者という意識が強い。
まあ元々尼子氏自体が京極氏の一族だから当たり前だけど。
あと尼子経久は主君の京極政経から偏諱を受けた名前を一生使い続けるし、
孫の晴久は守護職補任と同時に将軍義晴の偏諱を受けている。
前代の権威や幕府権威を否定する者がやることとは思えない。
351 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 01:16:08
戦国時代を永正の政変からとするのは主にこの時期の中央の歴史を研究している
人の考え方だが、『大日本史料』(第9編の開始が永正4年から)の分け方に
影響されている面もある。
この時期の中央においては細川政元の暗殺と細川京兆家の分裂のインパクトは
実際かなり大きい。
但しおそらく現在の戦国史の研究者のなかで、もっとも一般的なのは明応2年を
戦国時代の開始とする考え方だと思われる。
この年に中央では例の明応の政変が起こっているし、伊勢宗瑞(北条早雲)が
伊豆に侵攻したのもこの年という説もある。
伊勢宗瑞の伊豆侵攻が、明応の政変などの中央の政局に連動したものである
ことは、もはや常識だし。
352 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 01:18:49
>>351補足
関東に限れば享徳の乱を戦国時代の開始とする意見も根強い。
>>348 戦国時代の最終的な終焉は天正18年でよいと思う。
353 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 01:21:35
>>346 あの日記は刊本が活字になってないってのがネックだよね。
しかも刊本が原本に忠実な写本なのかというと、そうともいえないところが何とも・・・
354 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 02:25:03
>>345 『政基公旅引付』は泉佐野市史に完璧な読み下しと解釈が載ってしまったため、
史学科の中世史ゼミのテキストに使用できなくなったという話もあるね。
355 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 02:54:59
>>91 一条経嗣の『荒暦』って活字本あったっけ?
一条兼良の父親の日記ってことで割と有名な割には、大日本史料以外で見たことない気がする。
356 :
日本@名無史さん:2005/12/30(金) 03:05:43
>>346 『言継卿記』を見ていると、山科言継がいかに酒好きかということがよくわかるね。
こたつって室町起源と「のだめカンタービレ」2巻にあった。
>>356 言継に限らず、あの時代は老若男女僧俗を問わず皆飲んでいますね。
言継に進めた側も飲んでいた筈で、酒屋が隆盛する訳です。
『酒飯論絵巻』は有名ですが、酒と餅を対比させた例もあり、今の食中酒よ
りも重要な地位を占めていたと言えるでしょう。
大袈裟な人ですが、フロイスも女性の飲酒を特筆していますね。
359 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 01:16:48
『政基公旅引付』は歴博に行くと現代語訳の音声が聞けるよ。
360 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 14:03:08
ネタ切れか?
戦国が絡むとレスが進むんだが、それ以外だとダメポ。
已然としてその状態である(幕末以降は別板に移動)事が、この板の問題と
いうか、課題でしょうね。マイナーであり、かつ面白い時代であるからこそ、
喧伝して、正確な知識を伝えたいところです。
平安・鎌倉・室町の数百年間の間を扱ったスレの少ないこと。
>>361 室町時代の話になると必ず、南北朝と戦国に絡んでくるからな
364 :
日本@名無史さん:2005/12/31(土) 21:23:14
足利義教の生涯なんて面白いよ
籤引きで将軍になったかと思ったらそれまでの権力者が仏罰を恐れて誰もできなかった
延暦寺を攻撃したり守護大名を暗殺したり勘合貿易を復活させて財政力を高めたりと
傾きつつあった幕府の再興に努めたが最後は暗殺されてしまうなど信長に共通する要素
を持っていた将軍だ
『二人の天魔王』とかいう本をお読みになられたのでは。
包囲しようとして成立せず、金輪院らを殺害したものの、根本中堂ごとの焼
身自殺が口外される事を防ごうとしたりと、割と常識的(でも無いか)な対応
だったと思いますが。「誰も出来なかった」とまで言うのはどうかと。
信長レベルまで行けば、前人未到でしたが、こちらも後で恐れて吉田に相談し
ていますからね。
366 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 00:07:42
でも足利義教って20代で青蓮院門跡&天台座主だよ。
この当時だと普通は皇族か摂関家の子弟にしかあり得ないような超エリートコースを、
将軍になるずっと前から歩んでいる。
南北朝と戦国期の間の義満〜義政時代が一番面白いんですけど・・・
368 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:07:04
『看聞日記』って、続群書類従本と図書寮本とどっちのテキストが良いですか?
369 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:10:28
>>332 有馬も朽木も近世に大名になったのは庶流。
赤松有馬の嫡流は戦国期に断絶、佐々木朽木の嫡流は近世には旗本扱い。
370 :
日本@名無史さん:2006/01/01(日) 18:15:47
>>323 むしろ残存している史料が多すぎることが室町の研究が進まない一因かもな。
例えば『吾妻鏡』と『玉葉』さえ見てれば研究ができる鎌倉初期なんかとは
扱わなきゃならない史料の量的に次元が違う。
江戸はいらんほど資料があるのに人気はあるぞ…
372 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 03:01:14
>>371 史料と資料の違い分かってる?
人気の有無と研究蓄積の有無の違い分かってる?
373 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 03:27:22
ドナルド・キーンの”足利義政”という本を読んだ。
彼はすばらしい文化人じゃないかね。
374 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 08:07:16
足利氏って義昭が追放された後どうなったんですか?
376 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 10:03:36
>374
14代義栄の弟の家系は現在に至る。
里見八犬伝も室町時代が舞台だよな。
江戸時代から見た室町時代だろうけど、今から見てもいい雰囲気出ているの?
時代考証的に。
378 :
日本@名無史さん:2006/01/03(火) 19:28:31
>>376 阿波の平島家だろ。
明治維新後足利に復姓し、岩倉具視に華族にしてくれと泣きついたが失敗。
現当主はどっかの大学の教授じゃなかったっけ?
どういうわけか室町時代というと、竜安寺石庭をいつもイメージしてしまう
俺は廃墟と化した京都をイメージするが
廃墟にはなってなかったっけ?
>>377 作者がよくも悪くも歴史オタクでしたからね。
(悪くも=尊大で人間関係に難あり。同タイプの山崎美成と不仲)
火縄銃や遠眼鏡が出ている様な点もありますが。
因みに、役行者や一休宗純が出て来ます。
>>380 応仁・文明年間かその直後でも、廃墟という事は無いでしょう。
山鉾巡航中断時が寂れていたとも言えるでしょうが、住人がいた訳ですし。
382 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 19:13:40
奉公衆は明応の政変で分裂・縮小してるが、
船岡山の合戦では義材の直属軍が2000ほどいるんだよね。
細川高国が3000、大内義興奮が8000なんで見劣りするけど。
典拠は『細川両家記』だけどw
あんま話題に出てないようだが、赤松家の復興ストーリーもおもしろいぞ。
嘉吉の変でお家断絶くらったのち、遺臣ががんばるんだわ。
南朝残党が御所から盗み出した三種の神器(鏡だったか)を奪回するため、
遺臣が吉野山中に潜入する。
383 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 02:13:50
384 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 02:43:16
>>382 嘉吉3年の禁闕の変だね。南朝の残党が御所に乱入して神器を奪った事件って。
確かこれを手引きしたのは日野有光とかっていう公家だったはず。
室町時代の日野家って足利将軍家にくっついているようなイメージがあるけど、こんな時期になってもまだ南朝の残党なんかとコネクションがあったんだろうか。
あと、このとき御所が燃えちゃったから伏見宮邸が臨時の御所になったりもしてる。
もっともこのときの伏見宮(貞成親王)は天皇(後花園)の実父だけど。
385 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 04:35:41
>>377 上杉定正を単に「扇谷定正」と呼ぶのはどうなんだろう?
一応正しくは、正式な苗字=上杉、上杉一族内での通称=扇谷、
って感じでしょう。
あとドラマ中では定正のことを「関東管領」っていってたけど、
実際には関東管領に補任された事実はないよね。
扇谷上杉氏って、そもそも関東管領になれるような家柄じゃないし。
386 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 05:43:33
関東管領になれる家柄は山内と犬懸だよね。
だけど禅秀の乱で犬懸が潰れたから、関東管領は山内が独占するところになったって感じでOK?
387 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 13:56:03
>385
全然家系が代ってるとはいえ、大名家に「上杉家」が存在する世に
あからさまに「上杉定正」とは書きにくかろう。
その点、「扇谷」とすれば大部分の人には分からないし、
分かる人には分かる、ということだろう。
江戸では太田道灌は人気があったから、主君の定正もそれなりに知られた名前だと思うが。
389 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 19:27:57
>>387 でも室町時代の公文書とかみると、扇谷も正式な場面では「上杉○○殿」みたいに書かれてるよね。
390 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 19:29:46
そりゃ源家康とかになるくらいだからな。
正式な文では。
391 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 19:49:12
>>387 あと“大名家に「上杉家」が存在する世”って、「里見八犬伝」が書かれた
江戸時代のことだと思うけど、そうすると足利成氏や里見義実はそのままででいいのかな?
こっちは江戸時代に直接の子孫がいるし、里見氏の子孫は江戸時代でも里見姓のままだし。
392 :
389:2006/01/09(月) 20:04:44
>>390 いやそういう朝廷関連の文書(源平藤橘のような本姓で書かれる文書)での話じゃないです。
室町幕府や鎌倉府なんかの発給文書とかで扇谷が宛所になる場合の話ですよ。
似たような話で、幕府の公式文書では、世保や池田が必ず「土岐○○殿」と書かれるとか、
六角や京極が必ず「佐々木○○殿」と書かれるとか、そういうのあるでしょう。
こういう場合、正式な苗字は幕府の公式文書で書かれるほうで、
そうじゃないほうは通称なんじゃない?
393 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 21:01:16
>391
安房里見家は1622年に断絶してるが。
足利氏は名字かえてるし。
394 :
足利政知:2006/01/09(月) 21:26:28
国がこの時代を粗末に扱うのは、やはり明治時代の「南朝正当事件」以来
の伝統だろう。
でも、大衆の視点でみれば、室町ほどおもしろい時代はないんだけどな。
情報量の比重としては戦国→南北朝→室町の順だが、一番おもしろいのは
室町時代(義持〜義政)だ。
395 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 08:08:37
>>393 里見氏は大名としての改易後も、旗本として残っている家系や、水戸藩に
仕官してその重臣となった家系なんかがある。
江戸初期に無嗣断絶になった大名家の多くは、無嗣断絶とは表向きで
ほとぼりが冷めたら旗本なんかで再興されるのが普通でしょう。
名跡を継ぐ者がいなくなって完全に家が消滅することのほうが珍しい。
396 :
日本@名無史さん:2006/01/10(火) 08:11:28
>>394 >情報量の比重としては戦国→南北朝→室町の順だが、
どういうこと?
史料の残存率ということなら、常識的に考えて普通は時代が下るほど情報量が
多くなると思うけど。
397 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:53:19
南北朝正閏問題のおかげで南北朝・室町の歴史がタブーになったっていうのは
よくいわれるけど、明治・大正の頃だと研究者レベルでは南北朝・室町の
政治史を研究することはそれほどタブーとはされてないみたい。
この時期の政治史研究が研究者レベルでもタブーになるのは昭和初期の
天皇機関説問題とかの頃からみたい。
398 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:19:20
>395
旗本、陪臣クラスなら一般庶民に全く知名度無かったので
そんなに遠慮なく作品にできる。
それと里見忠義にいたとされる3人の側室出生の男子は
里見氏再興の旗印を必要としたために家臣の子を偽って
「忠義の子」としたとする説もあり、どうも胡散臭い。
胡散臭くとも旗本になったり鯖江藩士になったりしてるけど。
399 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 04:33:16
>>393 いくら名字を変えているからといって、喜連川家が古河公方家の末裔であること
くらいは、江戸時代(の特に関東)では常識レベルだったのでは?
当時武家が江戸城に登城して徳川将軍に対面するときに、その将軍に対して
臣下の礼をとらなくてよいことになっている唯一の家だし。
400 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 16:52:58
で、里見義実って実在の人物?
ところで、室町幕府の開幕以降から義昭追放の幕府滅亡の間、反幕の意思を示し続けた土地って何処だろう?
(大和奥地の南朝は除いて)
朝鮮
403 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 03:16:15
404 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 03:20:03
扇谷が関東管領だった証拠ってある?
405 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:43:52
なかなか上がらないね。
406 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 19:56:24
ちょっと聞きたいんですが、足利茶々丸は堀越公方になってからもなんで、茶々丸なんですか。元服してないの?
407 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:36:46
>>406 40過ぎで童体だった伏見宮貞成みたいな例もある。
408 :
日本@名無史さん :2006/01/19(木) 14:22:10
歴代の将軍はどうやって側室選びをしておりましたの?
409 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 19:04:36
日野家から
元服をしないのはどうしてなの?
本当は勝手に元服していたけど、幕府未公認だったので幼名のままと聞いたが。
412 :
日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:04:31
>>410>>411 茶々丸の場合、元服後のイミナが全く記録にないので、本当に元服していないという説もある。
この説に立てば、烏帽子親になってくれる人がいなかったからって可能性もあるかと。
父親の先例に倣うなら、将軍が烏帽子親となって一字貰うのが筋だと思うけど。
413 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 01:07:27
義経は勝手に元服したらしい
義は義家、経はお経
政宗の政は義政の政ではない
稙宗、晴宗、輝宗ときてだいぶ前の政宗(八代)からとった
本当なら昭宗になるのだが。
細川範頼の頼は秀頼の頼
範ってなんだろう。
政元、澄元、晴元、昭元
頼元でよかったんでは?
頼之の弟の頼元とかぶるから避けたのか?
414 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 06:38:46
>>413 政宗が元服する頃には、すでに伊達氏は信長政権とコンタクトをとっているので、
足利義昭の一字を貰うというのは考えにくい。
>細川範頼の頼は秀頼の頼
この時代に貰った字を下に付けることってあり得るのか?
>>412 本来、烏帽子親になるはずの人に拒否られちゃっているのね。
伏見宮のケースはどうしてなんだろう
416 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 12:57:48
417 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 03:58:36
>>415 当時の室町幕府は、伊勢盛時(北条早雲)の伊豆侵攻を黙認しているあたりから
しても、茶々丸を積極的に公認する気はないでしょう。
それに明応の政変で将軍に就任した足利義澄やそれを擁立した細川政元に
とっては、義澄の庶兄である茶々丸の存在は目障りだろうし。
>>416 むしろ特別であるのなら、字を与える側が自分の字の上の字のほうを与えるのが
自然な気がするが。
つまり秀頼が特別な相手に一字与えるのなら、「頼」ではなく「秀」を
与えるはず。
もっともこの場合、それで名前が「秀元」になると、毛利秀元と同名になって
しまうが。
418 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 04:36:43
細川氏で「範」の字って確かに他に見ないね。
室町だと、一色氏や今川氏とかは「範」をよく使う大名な気がするけど。
419 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 07:01:07
今川焼きは地方によっては回転焼きとも呼ぶ
420 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:56:57
細川範頼は頼元とも言うでしょう
範頼と言う名前はきっと誤って伝えられたんだよ
421 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 05:45:29
南北朝期の細川頼元は初名は頼基だね。
堀越公方って謀反人・古河公方を討つために足利義政が弟の政知を送り込んだ新・鎌倉公方の事だから、それを滅ぼした伊勢宗瑞は幕府からすれば謀反人なんじゃないか?
茶々丸は政知の実子だし。
423 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 21:13:30
>>422 伊勢宗瑞の伊豆侵攻が中央の政局と連動しているのは、今となっては常識では?
幕府が彼を謀反人などとは見なしていないのは明らか。
なぜなら、その後も伊勢(後北条)氏と京都の幕府は連絡を取り合ってるし、
宗瑞にとって本家筋である政所執事の伊勢氏とも親戚付き合いを続けている。
424 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:33:40
将軍足利義澄
を擁立した
管領細川政元
と仲がよい
政所執事伊勢貞?誰だったけ。山城国一揆を鎮圧した人の親父
と従兄弟である
伊勢盛時
が殺した
堀越御所足利茶々丸
は将軍義澄(政知二男)の兄(政知長男)であるが、義澄の母円満院と実弟(政知三男の潤童子丸)を殺した男であり、
関東管領上杉顕定
と仲がよい。
政元がだいっきらいだった畠山政長は越中守護であり、越後守護家(顕定の実家)とは仲が良かった。
425 :
日本@名無史さん:2006/01/24(火) 01:39:46
要するに伊勢盛時(宗瑞)の伊豆侵攻は、
将軍義澄の生母を殺害した茶々丸を始末することと、
伊豆の守護職を持つ上杉(山内)顕定の勢力を抑制するという
2つの意味合いがあったわけか。
426 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 13:19:51
小和田哲男は、伊勢新九郎は幕府権威に対抗するために伊豆に攻め込んだっていってたけど。
427 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 14:15:47
南北朝・室町があったから現在の日本があるようなものだ!
428 :
名無し募集中:2006/01/30(月) 23:12:26
足利義昭の息子が早死した陰で、徳川家康が征夷大将軍になれたという
話は本当なの?詳しく教えて
429 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 13:57:38
430 :
426:2006/02/01(水) 16:36:08
小和田説が正しいんじゃないんですか?
431 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:06:40
たぶん家永説(幕府の命を受けて茶々丸討伐)の方が現在では主流。
432 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 00:22:02
家永三郎さんは近世史の研究者では?
433 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 00:47:43
家永遵嗣
三郎先生も、古代から近代まで幅広くやっておいででしたよ。
435 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 23:22:05
わけのわからん時代。
最初の60年は南北朝が対立して、やがて北朝(幕府)が優勢になるものの、
幕府に反逆する武将がたびたび南朝方を担ぎ出すから南朝がなまじ生き延びて戦乱が長引く。
義満のときに各地の武将を平定して絶対的な権力を持とうとするも、失敗。
義教も同様にしたが、また失敗。
将軍は形骸化し、ただの有力守護大名の寄り合い所帯になった幕府は
有力守護大名の勢力争いで崩壊。有力守護大名も家臣に領地取られて、やがて崩壊。
こんなくそったれな時代だから庶民の不満が爆発し一揆が度々発生。
それに上手く乗じた坊さんたち
436 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 00:40:01
室町幕府は最末期まで将軍独裁政権ですよ。
437 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 09:31:56
荘園制から領国制に変わる長い過程が室町時代だからしかたがない。
438 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:07:10
領家からも武家からも税を取られたからね・・・・・酷い
で、その不満が爆発したのが室町時代後期
439 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:15:44
>>438 さすがに室町くらいだと、下地をわけていることのが多いと思うけど。
もっとも安易に下地の中分とか三分とかをやっても結局それぞれの領主の
知行分が飛び地状態でバラバラに点在することになるからな。
だから戦国大名なんかは多くの場合、自分の勢力圏内の荘園とかでは、政策的に
そういう複雑な領有関係の整理をやることになる。
440 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:17:41
441 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:53:05
最終的に複雑な領有関係の整理を全国規模でやったのが太閤検地か。
442 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:57:17
>>415 伏見宮貞成がどういう境遇で生まれて、どういう経緯で伏見宮家を継いだのかを
考えれば、わかることだと思うぞ。
443 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 19:19:00
結局南朝正統論が国家によって認定されてしまった時代の影響が
まだ根底に残ってるからでしょう。
南朝を正当化してしまえば、室町幕府は天皇に逆らった存在。
すなわち天皇=日本と見る皇国史観においてはこの時代は暗黒の時代なわけだ。
この影響を濃く受けた戦前の教師が子供に教え、その子供がまた教師になって教え・・・
時代は変わっても影響は残ってしまうものなんだよ。
>>442 中卒だから分らんのですよ。
おせえて。
445 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 23:58:31
446 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 01:49:59
>>437 なんでもいいが「守護領国制」なんていう今では学界でも誰も見向きもしない
大嘘が、未だに教科書には堂々と書かれているのが不思議だ。
447 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:25:21
蜷川親当って本当に寺社奉行してたの?
448 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 06:02:52
>>444 何で中卒なの?
中卒で歴史を語っているのか?
449 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 01:07:29
>>447 蜷川氏は伊勢氏の被官だから、伊勢氏のもとで伊勢氏が就いている幕府の役職の実務を担当していることはあり得ると思うけど。
例えば、伊勢氏が政所頭人(執事)なのに対し、蜷川氏が政所代みたいな。
でも蜷川氏自身が直接幕府の役職に就くことはないんじゃないかな。
450 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 00:15:43
蜷川親当は一休さんが皇胤ということは知っていたんだろう
一休皇胤説は一休さんが死んだ後が初出
452 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 00:15:32
家礼と家来と家臣と被官って全部同義ですか?
453 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 00:16:11
あと郎党も。
室町時代は歴史作るの面倒くさくなっちゃったんじゃないの?
ちょっと、手抜きしたみたいなw
455 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 00:25:28
とりあえず山口にいる俺は山口の代表人物を高杉や伊藤から大内義弘にかえたいところ
和歌、貿易、一騎討ち、南北朝とか話題性抜群
>>452 学校の先生は家来と家臣の違いについて、家来は外から来た者だから主人に言いたいこと言ったり
敵に降伏してもOK、家臣は家の臣だから戦に負けたとき主人に殉じることが多いと言っていた。
458 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 14:02:58
>>447>>449 蜷川親元は御物奉行(確か将軍の衣類担当)を勤めており、
伊勢氏が奉行、蜷川が実行役という体制ではない。
確か親元日記に出てきたはず。
まあ将軍の家政に属することだから政所管轄の仕事の一部だが。
しかし寺社奉行(別奉行とも呼ぶ)は基本的に、奉行人(飯尾・松田・布施氏など)が就任。
普通の訴訟は、訴訟受付→担当奉行の決定→審理、であって受付から審理まで順番待ちなど時間がかかる。
それが大寺院・有力神社はあらかじめ特定の奉行人と契約(?)していて受付・担当決定を省略できる。
寺社奉行はそういう訴訟受付に関する役目なので、
訴訟過程に関わらない蜷川氏の就任は考えにくいのでは。
確か家永遵嗣・設楽薫・青山英夫氏あたりが研究してたはず。
ちゃんと調べずに書いているので間違いがあったらスマン。
>>456 義弘の子孫・義興(義隆の親父)もいいぞ。
亡命してきた前将軍・義材を擁して京都に進撃。
副管領となって管領・細川高国とともに10年に渡り畿内を支配。
その間、阿波の将軍・義澄と細川澄元との抗争あり、
伊勢氏との文化交流あり、和歌会あり。
459 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 20:17:01
アニメの一休さんにでてくる新右衛門さんの寺社奉行は、
ストーリー進行上の配役なんですね。
>>456 あのおっさん手が早すぎ
オヤジと喧嘩して家でして手勢200で九州暴れるし
南北朝合体を自分でやりませんかとか誘いいつつ自分が使者になって合体させてるし
461 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 21:24:15
大日本史を作るに当たって徳川家が支配の正当性を高める為に足利家を悪者にした事からそういう按配になったらしい
462 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 21:56:51
とんちは鮮やかだよイッキュウひん
>>458 義興は確かに傑物だったと思う。ただ、尼子と正面から激突するまで
長生きして欲しかった・・・。
464 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 15:14:40
尼子経久もある意味で傑物。
でも中国地方の戦国大名って、大内・尼子・毛利みんな前代からの系図が
はっきりしてる家だよね。
465 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 15:23:51
>464他の痴呆は違うとでも?
というか、はっきりしていない家のほうが少ないと思うけど。
>>460 手が早いだと意味が(ry
墓は国宝指定の瑠璃光寺五重塔だしオヤジがボソボソとやってた朝鮮との貿易を明にも拡大したということで
勘がいいにしといてくれ
468 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 00:35:22
中国地方西部って、出雲・隠岐が京極(永正以降は尼子)で、周防・長門が
大内だけど、実は室町期にはその緩衝地帯の石見・安芸・備後あたりに山名が
いたんだよね。
山名ってどうしてこの地域からは消えちゃったのかな?
>>468 以前から反抗的だった国人が応仁の乱を境に見切りを付けて追い出した
470 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 01:17:30
>>457 家礼、被官、郎党についても教えてください。
471 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:48:00
所謂「家人」型と「家礼」型の従者について述べられたのでしょうか。
473 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 23:59:09
山野さん、代わりに説明してよ。
474 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 00:02:16
>>469 でも毛利元就の祖父の豊元の「豊」って山名からの偏諱だよね。
で、元就の父の弘元は大内政弘からの偏諱。
>>474 その後から山名の影響力はなくなってしまったってことだろ?
豊元は応仁の乱前後の人だし。
476 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:15:53
備後には天文年間くらいまで山名いるはず。
>>474 こうか? 見事な鞍替えだな
山名時熙→毛利熙元
山名持豊→毛利豊元
大内政弘→毛利弘元
大内義興→毛利興元
478 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:31:32
大内義隆→毛利隆元
足利義輝→毛利輝元
479 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 12:18:49
豊臣秀吉→毛利秀元
480 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 15:33:49
いつから毛利スレに?
481 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 15:41:14
482 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:05:13
室町幕府はどうして堀越公方を滅ぼした謀反人(北条早雲)を討伐しなかったのですか?
それはしょうがないだろう。将軍はもうそのころは関東に力を振り分ける余裕なんて
なかったはずだし。
485 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 01:06:49
北条早雲は堀越公方を武力で倒し、室町幕府体制からの独立を宣言した。
その後、関東へ攻め込み、古臭い権威にしがみつく関東管領上杉家から、関東地方を解放した。
486 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 13:56:40
源頼朝も腐りきった朝廷の支配から関東を解放したね。
487 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 17:53:40
>>482>>485 堀越公方
=8代将軍義政の弟政知に始まる。
その子の一人が京に迎えられ、11代将軍義澄に。
政知死後、義澄の弟が次代公方になるはずだった。
が、妾腹の兄(?)茶々丸が弟とその母を殺害し、簒奪。
伊勢盛時
=諸説あるが、将軍家の準側近の出身らしい。
妹の縁で、今川家の家督争いに介入、妹の子を家督に着ける。
→幕府の権威を背景とし、幕府も今川の新当主に恩を売った形。
今川家を親幕府にしておける。
つまり、茶々丸は幕府の出先機関でクーデターを起こした反逆者。
また西相模の大森氏は幕府に敵対的な扇谷上杉家側。
相模侵攻あたりまでの盛時は、むしろ幕府のエージェントと言っていいと思う。
応仁の乱後は完全崩壊したと思っている人が多いが、
この頃までの幕府は意外としっかりとした活動をしている。
なお2代氏綱、3代氏康も親幕府的な戦国大名。
>>486 戦前の歴史水準デスカ
もちっと勉強せい
488 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:44:57
>>487 承久の乱のときの北条政子の名演説って知らない?
>>487 別に完全崩壊とまでは言っていない。だが、幕府と伊勢盛時がそこまで仲が良かったか?
結局回りのことで将軍様は手一杯だったことにかわりはなさそうだが。
490 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 22:25:39
>>489 将軍義澄自身の活動はそれ以前の将軍よりも制限されてはいる。
しかし義澄を担いでいる細川政元政権はかなり積極的に外交活動してる。
中には政元本人が越後まで行ったなんつー話も(政元のキャラクターもあれだが)。
前将軍義材が越前や近江から京を狙っていたりしてるが、
それなりに落ち着いていた時期ではある。
結局は養子やら国人やら足元がお留守気味になってた訳だが。
駿河下向自体が幕府の命だったのか、盛時がすでに下っていたのか。
幕府の意向がどんだけ盛時に及んだか、など程度の問題はあるだろうけど、
>>482>>485などの見方は妥当じゃないと思うぞ。
>応仁の乱後は完全崩壊したと思っている人が多いが、
これは個人に向けていったみたいになってスマン。
>>488 あのアジ演説から
>源頼朝も腐りきった朝廷の支配から関東を解放したね。
に直接つなげるのは無理だろう。あまりに安直。あくまでアジ演説だし。
京寄りの施策に反感を持つ武士も居たし、
また治承・寿永内乱で獲得した成果について朝廷側に譲歩してる(現実的な判断だが)。
えらいはしょるが、頼朝も当時の国家機構の枠内にいるわけで。
491 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:09:16
そこまで幕府と親密で幕府の意向にしっかり答える伊勢盛時やその子孫が、その支配地である伊豆や相模の守護に任命されないのは不思議だな。
>>490 そこまで言うならやはり幕府の意向を拡大解釈しすぎな気もする。積極的といっても
かつてとは比べられないし、やはり足元がお留守なのは変わりないし。結局大和すら
制圧できていない。あれを成し遂げていれば評価も変わっていたのに・・・。
親幕府的とはいっても、当時の中央政権である細川政権の高国、晴元は関東に関心
を向けるだけの余裕はなかったはずだから、北条側の一方的な気持ちだったのかも。
そもそも幕府って誰のことなんだろう?将軍か、管領か、守護か、守護代か。はたまた
その下の国人か。
493 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 01:20:27
あと政元のときに親幕府的で明応の政変にも一役かっていたのなら、義稙が
復権した高国時代にはどうなるのだろうか?
義稙・高国の幕府とはうまくやって行けるのだろうか?
結局目に見えるくらいの強いつながりはなかったんだろうな。
>>493 まあ、関係なかったんだろうね。将軍が二派に分かれていた時は地方でも
分裂することがあったのかもしれないけど。
12代義晴以降は将軍は一人だったし。堺公方がいたことはいたけど、
支持母体は所詮阿波、讃岐等限定されていたし正式に将軍にはなって
いなかったから畿内以外では影響力はあまりなかったんじゃないの?
細川を倒した三好だけど、細川晴元が三好元長を殺さなければ
三好家は細川家と、良好な関係を続けていられたかな?
497 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:30:19
あの当時の細川や三好は内紛になり得る要因が一つや二つじゃないから結構厳しいと思うよ。
なるほど。細川晴元はわりとあっさり三好元長を殺しているが、それが恩知らず
のそしりをうける理由になった。それで息子の長慶に倒されるのだが、もし
元長を殺していなかったら下克上されていたかも知れないし、難しいな。
499 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 21:29:12
足利義満が、馬鹿みたいに「日本国王」を気取ったばかりに
暗殺された。
それから一気に幕府が弱体化し、応仁の乱以降戦国時代に突入。
下克上という乞食でも天下人になれる時代が到来した。
500 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:16:54
>下克上という乞食でも天下人になれる時代が到来した。
すると信長って乞食だったんですね
501 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:38:44
もっと本質的な問題として、義満が暗殺されたって根拠はあるのかよ?
義持〜義教の頃は最も幕府が安定していたはずだが。
普通、後継者を決めずに最高責任者が死んだら、なにがしか乱れるよ。
宿老がしっかりしていた。
503 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 06:25:42
信長は、乞食とは言わないが
家康はろくなもんじゃないよ。
秀吉なんて、訳判らん!
504 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 06:30:26
あくまで、説だよ。
結構根強いぜ!
急にアホが沸いてきたな。
506 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:35:17
>>493 斯波義寛は不承不承ではあるが政元を支持した。
今川氏親は当初政元と連携したが、途中から義稙支持に転向。
そのため将軍に還補された義稙は遠江守護を斯波から今川にすげ替えたのであった。
507 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 02:55:05
今川って室町期の中央政界との接し方では一貫して親細川って感じだね。
508 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 03:35:26
御伽草子のような民衆文学の成立期でもあるよね。
509 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 08:50:48
お寺に行ったら「六地蔵」って言って、お地蔵さんが六つ並んでいるのがありました。
笠地蔵の話はこれだなと思いました。
510 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 09:30:27
京都の六地蔵駅?
511 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 11:10:20
六地蔵は日本の各地にあるよ
うちの周りにも六つのお地蔵さんが並ぶお寺は多数
またひとつの石に六つの地蔵を彫ったものや
六角柱の塔の各面に地蔵を彫ったものもある
512 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 16:30:16
室町時代は、1333年〜1590年でいいですか?
513 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 16:44:12
信長を天下人とせず秀吉の統一をもって足利将軍の時代が終わったとすればそうだな。
ただ秀吉の統一後も義昭はなお将軍であり続けたから、
足利将軍の時代と定義すればもう少し長くなる。
514 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 17:11:22
>513
ありがとうございます
515 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 17:23:29
>513 1597年までともいえますよね?
>>507 今川と細川は、足利一門のうちでは
傍流/庶流って共通点があったのかもな。
一門には違いないけど、むしろ家臣に近い位置。
逆に、格式が高い斯波とかは、
やたら自立志向が強い感じか。鎌倉公方と似て。
どうとでも言えるだろ。早い時期としては1573年でもいいし。
最近は異論が出ているようだが、結局義昭はまともには京に帰ってくる
事が出来なった訳だしな。それぞれの人の考え方次第じゃない?
鎌倉幕府が滅んだ時期はわかりやすくて異論も出ないけど。
519 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:02:43
それ俺も思ってた。
というか、源平・戦国・幕末だけメジャーなのであって、
その間の部分はほとんど見向きされないわな。
南北朝の騒乱とて上三つに較べると問題にされない。
520 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:13:44
南北朝時代と戦国時代はむちゃくちゃ有名だろ
いやだから
>>519は、戦国と比べて南北朝はマイナーだって言ってるじゃん。
古代、飛鳥、奈良もそれほど人気ないわな。鎌倉・室町時代って源平と戦国
の間で、人気のない時代でひとくくりにされているみたい。
522 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:12:35
>>521 補足THNX。
平安時代も有名なのは源平合戦を別にしたら平将門と保元・平治くらいか。
それから江戸時代(大坂の陣後〜黒船来航前)も人気ないね。
でも平安時代は源氏物語があるから、あれで雰囲気はカバーできるし。
江戸時代も史実に忠実なものはあまりないけど、銭形平次とか、暴れん坊将軍、
鬼平半科帳とか時代劇の舞台としては他の時代と比べられないほど多いし、
時代劇といえばまずこの時代という認識が一般人にはあるんだろうね。
そう考えると江戸は割りと近く感じられているのかも。昔ほどじゃないけど
忠臣蔵もあるし。
524 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:30:00
>>512-515 室町時代の開始について
1333年(北朝正慶2年、南朝元弘3年)は鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇の
建武新政が始まった年であり、この段階では室町幕府は成立していない。
室町時代の開始は、足利尊氏の京都制圧によって室町幕府が事実上成立した
1336年(北朝建武3年、南朝延元元年)、もしくは尊氏が征夷大将軍に
なった1338年(北朝暦応元年、南朝延元3年)とするのが普通。
1333〜1336年は、建武政権期としか言いようがない。
室町時代の終了について
1573年(天正元年)の時点で、幕府を名乗る政権が中央から消滅し、朝廷が
織田政権を承認しているんだから、基本的には通説通り1573年でよい。
また仮に京都追放後の足利義昭にも幕府組織の存在を認める立場に立ったと
しても、義昭が征夷大将軍を辞職した1588年(天正16年)の時点で、
室町幕府は消滅したと考えざるを得ない。
1590年(天正18年)は、室町時代の終了の年ではなく、戦国時代の終了の
年と言うべきだろう。
525 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 01:01:47
幕末から戦後まで幅を利かせていた水戸学が影響もあるんじゃないかな?
足利尊氏が大日本史編成のさいに日本史上で1,2を争う大悪人にされたでしょ?
戦前の教科書にゃ室町期を扱うことは少なかったとされるし、
逆に江戸時代は庶民は室町期に親しみあったでしょ。「仮名手本忠臣蔵」等の時事ネタ的な歌舞伎の演目は時代設定が室町期として書かれたのだからさ
やはりここは一休禅師に頑張ってもらわねば
527 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 00:16:37
将軍が暗殺されたってのに、誰も気にも留めんし・・・
528 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 00:21:33
室町時代が人気ないのは、戦後の現象。
江戸時代も明治大正も、一番人気の歴史物語は「太平記」。
529 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 16:22:10
いや義経記の方が人気あった。
歌舞伎でも何の関係もなしに義経が登場しなければ客は満足しなかったという。
でも、大河ドラマになったじゃん。「太平記」。
源平時代って人気ないよ・・・。
中高年にはあるみたいだけど若者は戦国か幕末かって感じだな。
70年代に2回も大河化されてたなんて信じられんw
ちなみに鎌倉はマニア人気はあるぞ。
532 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 02:08:07
世阿弥はどーよ?
533 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 10:45:27
戦国・幕末しか興味を示さない奴は、単なるミーハー的な歴史ヲタ。
学問的な興味を持って歴史を見る奴は、室町の面白さに惹かれるはず。
534 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 01:23:20
>>530 1990年?にあれをやるのもなかなか英断だったみたいだぞ。
撮影などに実害はなかったみたいだが、あっちこっちから突かれはしたみたい。
原作は私本太平記なんで、主人公は尊氏だったし。
未だに尊氏が逆賊だと思っている奴がいるのか。
何に囚われているのか。
536 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 05:54:51
日本史の面白さは中世で極まる。
幕末、戦国は甘いものしか食えない子供のおやつ。
古代史は文献が乏しいから妄想天国&電波合戦。
近代史もウヨサヨがウジャウジャ沸いてきて政治臭くてウンザリ。
近世もしゃぶりつくされた。
前九年くらいから源平、鎌倉、南北朝、室町、応仁まで。
最高に面白い。
特に南北朝はリアル「仁義なき戦い」。
後醍醐=山守
?別に、尊氏主人公でいいじゃん。
>>536 少し言いすぎだけど、割と俺の考えに近い。そんなに他の時代をバカにしている
わけじゃないけど、江戸はみんなが知っているから興味が薄れちゃうんだよね。
後、応仁以後でも信長以前の畿内戦国史は面白いと思う。たいていの歴史物でも
スルーされ、研究価値の無い時代とか、小物しかいないとかボロクソに言われる時代。
おかげで戦前戦後、今に至るまでまともな研究がされていないというひどい扱いだけど。
人が注目しない時代だからこそ興味がある。かなり個人的な趣味嗜好ですが。
井沢元彦の「逆説の日本史」でもこのあたり華麗にスルーされていた。
>>538 自分も信長以前の畿内戦国が一番好きだ。
噛めば噛むほどに味が出てくる時代だし。
最近はここら辺時代の研究も随分活発になってきたように思うよ。
書籍も以前に比べて随分発行されているように感じるし、
今後に期待してもいいんじゃないかな。
つか、井沢はかえってスルーしてくれて良かったんじゃないか?w
541 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 00:34:11
542 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 08:41:22
俺が持っている戦国時代小説では、
応仁の乱〜太田道灌〜北条早雲〜毛利元就〜武田信玄と上杉謙信〜信長登場
のストーリーだな。
義尚・義稙・義澄の従兄弟同士将軍争いを伝えてもらいたかったのお。
543 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 14:49:12
…木沢長政(;´Д`)ハアハア
細川一族と木沢長政を知らずして戦国史を語る事なかれ。
応仁の乱から、彼が死んだ頃(鉄砲伝来の頃)まで知識が抜け落ちている。
学校教育もこの辺りはほとんど取り上げず。偏っている気がします。
一番影響を与えているのはゲームでしょうが、知名度だけあってもいいとい
う訳では無い様ですね(「戦国武将好き」を見ていると)。
546 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 17:09:48
信長の野望に細川高国が登場したことがあるが、あまり強くない。
大内義興がなかなか強力な設定で、船岡山や、大内下国後の劣勢が反映される。
細川高国はまだましな能力値。晴元なんてそこらのカスと一緒。
おいおい、一度は畿内を支配した人物なのに・・・。
>>547 最近の信長の野望の晴元の絵もひどいだろ。公家風のカッコでいかにも弱弱しい
イメージだった。結構戦場にも出ていたのになんでこういうイメージなんだろ?
阿波出身で京都にもそんなにいたわけでもない。
549 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:49:06
政元、澄之、澄元なんかは?
550 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 01:46:11
>>538 賛成
このスレで日本人の戦国時代偏愛を悪くいってもしょうがないんだが、
司馬が元凶なのか、戦国時代は信長からスタート という発想は
歴史として間違ってるとおもう。
551 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 22:09:32
司馬氏には一応「箱根の坂」というのがあるんだが。
まあ現在の歴史学の水準からいえば問題の多い作品ではあるが。
>>549 政元は今まで一作のみの登場だが政治力は90台とずば抜けている。顔グラも
それなり。統率力は低めだったが。
澄元、澄之は晴元より下の能力値。だいたい50台といったところか。顔グラ
は可も無く不可もなくと言った感じ。この二人も一作のみの登場。
553 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:05:42
稙国、晴国、氏綱なんかは出てるの?
あと阿波公方系の義維、義栄、義冬なんかは?
さすがに高国嫡男植国、高国弟晴国は登場しない。氏綱は登場する。能力値は
カスだが。
阿波公方系は全滅。そこまで手を出すと他の地方とのバランスがとれないからだと
思う。
信長の野望基準の話題進行ワロス
三戦板かよw
別に聞いてるだけでしょ。参考までに。話題進めるほど登場しないし。
557 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 01:08:37
>>554 晴国の子孫って一応戦国末まで備中の国主だし、登場させてもいいのにね。
558 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 11:56:13
高国の父の政春は登場する?
出てきません。さすがにマイナーすぎる。阿波守護は何人か出てくる。
あと細川尚春とか、細川元常とか、登場させとかないと武将の空白地
が出てきてしまうところに仕方なくという感じ。
560 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 03:29:28
尚春は淡路守護。
元常は和泉半国守護。
どっちも阿波じゃないよ。
561 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 03:35:30
てか細川尚春を登場させないと淡路って武将の空白地帯になっちゃうの?
安宅とかじゃダメなのか?
逆に政春・晴国を登場させなくても備中は武将は足りてるの?
政春って高国が京兆家を継いだ段階でまだ生きてる(というか高国政権下で備中を新たに貰ってる)んだし、むしろこっちを登場させてもいいのに。
>>560 言葉がたらなかったな。阿波守護以外の細川氏の武将を書いたつもりだったんだけど。
>>561 というか信長の野望をやったことないだろ。淡路は狭いから阿波とあわせて一国なんだよ。
備中は1511年「船岡山合戦」シナリオ以降尼子の属国扱い。鶴首城には尼子の
属将として三村宗親がいる。
あと細川氏の武将としては細川尹賢、細川元有、細川義春、細川之持、まで。
細川元春(自称和泉半国守護)は末裔が残ったのに
歴史上全く無名になってしまった
564 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 05:48:24
細川尹賢・・・氏綱の実父
細川義春・・・澄元の実父
細川政春・・・高国の実父
どうして政春だけ登場しないの?
565 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 08:13:08
細川護熙とは繋がってないの?
566 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 20:42:08
熊本城主は和泉上半国守護の系統だから
>>564 だから備中は信長の野望では群雄割拠で、尼子か毛利の領地なの。
代表武将としては鶴首城の三村氏が備中の顔です。
細川尹賢は高国の配下としての出番が、細川義春は阿波守護としての出番があるが、
細川政春は高国の父で備中ではなあ。くどいようだが備中はそのころは尼子の属国
なので細川氏の出る幕はない。少なくとも信長の野望ではそういう扱いだ。名目上
の国主のようなややこしい設定なんか、切り捨てるでしょう。全国一律のルールで
ゲームにしなければならないのだから。何より知名度低いし、登場させなくても
問題ない。そもそも信長誕生以前は基本的には扱わないのがこのゲームだし、
ここまで時代がさかのぼったのは「蒼天録」が初めて。
568 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 22:22:14
史実としては備中に尼子の勢力ってそんなに浸透してたの?
569 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 02:48:08
尼子氏ほど虚構の繁栄をほこった一族も珍しい
中国十一カ国の覇者などとよく言えたものだ
570 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:32:16
てか高国の弟の晴国の子孫は戦国末まで備中の鴨方城を拠点に土着しているはず。
地元に全く影響力がない名目上の国主というのは間違い。
備中に土着していたから、織豊期以降は、中央の政権や大名として残った一族を
頼ることなく尼子氏の子孫なんかと同様に毛利氏の客将(事実上は長州藩士?)になった。
571 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:35:48
のぶやぼに安宅冬康や十河一存の養父って出てくる?
>>570 間違いでも正しくても、文句はコーエーにいってね!
>>571 出てくるよ。出てくるだけだけど。能力は当然最低レベル。
出ている作品のうほうが少ないかな。
575 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 23:10:37
>>573 安宅冬康と十河一存の養父の名前って、それぞれ何ですか?
576 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 04:54:55
村町時代に興味あるけど
参考になる本を教えてください
村町時代は南北朝合一から応仁の乱まで
あとはおまけみたいなものでしょ
>>574 コーエーだって今まで登場させていないのだし、似たようなものでしょ。
579 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 20:52:11
いや、だって話題が信長の野望に関連して続いているからね。
信長の野望にOOが登場しないのはおかしい!って話だろ。
しかしそろそろこの話題も終わらせたほうがいいかも。話ひろがらないからなあ。
582 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 18:35:16
源平、戦国、幕末の時代の様に厨でも理解できる
分かり易い英雄譚が存在しないのは大きいな
この時代の面白さを伝えようと顛末を教えようにも
あっという間に黒板の人物相関図が埋まってゴチャゴチャになって厨は付いてこれない
583 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:41:55
花の御所
永享の乱、結城合戦後の関東についてですが。
義教は、後の関東の治世はどのような構想を持ってたのでしょうか?
推測できるような資料とか残ってます?
義政を鎌倉公方に・・・って事はありえないか・・・
585 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 19:48:57
>>584 ずい分前で出典も覚えていないが、義教は子の義永というのを鎌倉に
下向させ「宇都宮公方」と称させた、というのを読んだ記憶がある。
本当ならわが子を鎌倉公方にして関東を治めようとしていたと思われるが・・・・。
ただ、それ以降にいくら調べても上記のような資料には出逢わず、
逆に義永は後年に罪を得て隠岐に流されたらしい。
586 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 20:05:11
>>585 それは一次史料で読んだのですか?
それとも後世の編纂物や軍記物とかですか?
足利義永ですか。。。
義勝、義政、義視、政知以外にもいたのか・・・
>逆に義永は後年に罪を得て隠岐に流されたらしい。
幕命ですか?どのような罪だったのだろうか・・・
鎌倉下向は、持氏切腹後?それとも結城合戦後?
どっちにせよ、結城合戦直後に義教の憤死で、中央は混乱する事になるけど・・・
588 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 20:18:48
>>586 どこかの県史か市史だったと思う。残念ながらコピーもとってない。
ただ宇都宮公方という語彙が強烈に印象に残っている。
>>587 大日本人名事典で調べたが、いつとかは書いてなかった。
想像するに、本当に鎌倉に下っていたなら、義勝早世後に
家督争いでもあったのではなかろうか。鎌倉公方が将軍職を
狙うのは常のことだから。
伝統というと何でも良いものだと勘違いしている者が時々居るが、大きな間違いだ。
悪しき伝統、悪弊と言うものも有る。
天皇制は正にそれに当る。
天皇制が出来てからと言うもの、日本人は長い間、重税や徴用に苦しめられて来た。
自民党と公明党は教育基本法を改定して子供達に「伝統を重んずる国を愛する心」を押し付けようとしている。
伝統に固執した時、進歩は止まる。
インカやアステカの様になると言うことだ。
男尊女卑、封建的上下意識、天皇万歳、談合、天下り、癒着、町内会。
みんな伝統だ。
悪しき伝統、悪弊を断つ改革なくして、進歩は無い。
その進歩に必要な心を子供達から摘み取る積もりらしい。
国の行く末は子供達がどんな教育をされたかによって決まる。
間違った教育を受けた場合、もう、自力では元へ戻すことが出来なくなるのだ。
それが教育の恐ろしいところだ。
またバカをやって外国の軍隊に進駐してもらって正してもらうしかないだろう。
まぁそれまで、国民は散々苦しむだろうな。
590 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 19:01:52
平成は室町時代のような感じだな
>>588 神奈川県史の通史編じゃない?
と、確かめもせずにいってみたりして
永享の乱の直後に義教が息子を関東に送ろうとした一件は
『蔭涼軒日録』にちょこっと出てたりするけど
592 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 17:10:05
>>589 何を言っても通用しない箸にも棒にも掛からないバカが製造されるだろうね。
「伝統だ、天皇万歳、君が代、日の丸、男尊女卑、男はこうあるべき、女はこうあるべき」
行き着く先は民主主義の破壊だね。
伝統を突き詰めて行けば、日本には元々民主主義なんて無かったんだから、
民主主義が否定されるのは時間の問題だろう。
>>585 宇都宮公方ってことは鎌倉じゃなくて、その名の通り宇都宮に御所を置くつもり
だったのでは。
関東全域を睨むにはちと北すぎるが、要は幕府の威令が届けばいいのであって、
必ず鎌倉である必要もあるまい。
企画倒れに終わったのが、ちともったいない気もするな
鎌倉の宇都宮辻子のことじゃないの?
知らんけど
595 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 22:34:55
>>593鎌倉に宇都宮辻子ってところがあったのでは?
確か九条頼経がそこに新築した御所に住んでいたように思うが。
597 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 11:08:49
>>589 心が歪んだ右翼爺が頭の悪い若者を洗脳して右翼にする為に書いた洗脳文を
洗脳された右翼小僧が掲示板に張りまくり、それを見た自民党の国会議員が洗脳されて作ったのが
今回の教育基本法改正案だ。
洗脳される者は洗脳する者よりも知能が低い訳だが、自民党の国会議員は、心が歪んだ右翼爺よりも
知能が低いことが分かったw
598 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:35:52
599 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:30:27
政知は義政から鎌倉公方として関東下向を命じられたものの伊豆までしか行けなくて
堀越に居を構えて堀越公方と称された。
義永は義教から鎌倉公方として関東下向を命じられ鎌倉に入ったが、
関東管領上杉氏から拒否られて実質的に鎌倉公方になれず、
居を構えていた宇都宮辻子の地名をとって宇都宮公方と称された。
そんなとこじゃなかろうか。
>>599 >関東管領上杉氏から拒否られて・・・
義教の憤死がなかったら拒否してなかったのかな?持氏一族を滅ぼした訳だし。
でも、上杉氏は幕府側で持氏一派の討伐の主力だったから、結城、里見、千葉、山入などに恨まれて、
関東の国人衆を束ねる事は難しいし・・・
義教在命中に拒否する度胸はなかっただろうかな?
601 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:39:00
で、義永ってどうなったの?
殺されたの?それとも京都に逃げ帰ったの?
602 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 22:49:19
応仁の乱の前に細川勝元の被官某と謀叛を企てた罪で隠岐に流されたようだ。
ということは、逃げ帰ったかどうかはともかく帰京してるということになるな。
小松谷義永って称していたらしいから、かつて平重盛の住んでいたとこらに住居してたのかな。
603 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:24:18
男性差別大国日本
http://love3.2ch.net/test/read.cgi/gender/1149207900/ ★男性差別社会における人口減少・・・現在のロシアに見る「男性寿命の異常な低さ」!
<<主要各国の男女別平均寿命>>
日 伊 仏 米 英 独 露
男 77 75 74 74 74 73 58(←余りにも酷すぎる!)
女 84 81 82 79 79 70 71
差 7 6 8 5 5 3 13
主要先進国の男性の寿命が70台で並ぶ中、なんとロシアの男性は戦時中並みの衝撃の「50代」。
男女の寿命差も「13歳」・・・。ロシアの出生率は日本をさらに下回る「1,17」。
さらに年間自殺者が「5万人」、交通事故死が3万人に上る。・・・なぜこんなことになるのだろうか。
交通事故に関しては、もちろんインフラや交通マナーに起因するものだが、
それ以外の点で、極めて深刻な「男性が置かれた厳しい環境」つまり「男性差別」が存在する。
ロシアには1000万の就労女性が存在するが、 しかし男性に目を向けると、2000万の労働可能男性のうち、
100万人は刑務所に収監されており、400万人は軍役に就かされており、500万人が失業中であるのだ。
ここから読み解けるのは、「男性ばかりが早死にする・自殺したくなるような厳しい世界で生きることを余儀なくされてる」という現実だ。
さらには日本同様、女に社会進出の権利を与えたのに、 女は男性子供を養う義務は果たさないため、
男性は権利を一方的に奪われると言う形になり、女性に職を奪われたのに主夫として養われない
→結婚できない→女性も結婚できない→子供産めないの悪循環になっている。
ロシアは深刻な出生率の低さに追い討ちをかける形で この男性寿命の低さがあるため、ついに昨年1年間で人口が
「マイナス73万5000人」と言う驚異的な減り幅を記録した。これはさらに急速に拡大する。
「男性差別型社会」と言うのがいかに社会を破壊するかがよく分かるだろう。
しかしさらに問題なのは、どの国でも「男性差別」が原因だと言うことまで、 男性差別・女優遇でメディアや政府が口にできないことだ。
日本もロシアと似た男性差別型社会を構築しており、 ロシアに次いで女性と男性の寿命格差が大きいことからも、
社会が急速に歪んでいっているのがよく分かるだろう。
そういえば、義満が作った直参の兵は義満死後どうなったんだっけ。
細川や一色とか守護大名に頼らない兵力を作る目的だったのに。
大内 持世は足利義教に忠義を尽くした方か?
606 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 01:45:05
いわゆる「室町時代」をひと通り学ぶのに良い本を教えてください。
中公文庫の『日本の歴史』の中の一冊(佐藤進一)は有名ですが、少し難しいそうなので、ワンクッション置いてから読みたいんです。
現代新書の新書日本史シリーズの中の『戦乱と土一揆』(上島有)はこの時代を一通りカバーしているようなのですが、どうでしょうか。
あと中公新書の『室町時代』や山崎正和の本はどうでしょうか。
>>603 全然関係ないけどすごい
607 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 02:14:05
>>443 んなアホなwww
だったら他の時代も・・・
608 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 04:23:14
>>607 ちゃんと教えられたことがないから、教師達もあまり理解できていないんだよ、この時代は。
もっともそれ以前に掴みにくい時代ではあると思う。
ある意味、なんでもありというか・・・。
教師もアホだからな。
私本太平記はおもすろい?
611 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 08:53:45
時の最大権力者がひじょうにわかりづらい時代ですな。
よくいえば、小さな中央政府の時代。
好き勝手できたから、民間活力が旺盛で文化面では日本独自のものが多く生まれた。
政治面では欲のつっぱり合いで抗争が続いたので、子供たちにはつぶさに教えたく
ない時代だから、先生もムニャムニャっと済ませた。
単に知らないと思う。
ちょっと突っ込むと、黙る歴史の教師が多かったし。
614 :
612:2006/06/24(土) 23:56:35
>>613 そういうの残念だよね。
天竜寺船は村上ファンドの原点みたいなとこあるし、一揆も住民自治の萌芽を
感じるし、大徳寺の僧が外交機能を果たしたり、商業が活発になるのに貨幣制度
は未整備だったし、足軽の発生は職業軍人のハシリだろうし、これからの日本の
地方分権で出てくる問題のサンプルがあるような気もする。
あ、もう誰かが言ったことかな。
でも、こんなの当てにならないと
歴史の授業を聞かなくなる良いきっかけだったよ。
616 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 00:56:29
井沢史観の受け売りみたいな教師もいたな。
それこそ、この人、室町あんまりわかってないんだって思い知らされる
場面だった。
617 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 23:26:43
いざわ?
618 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 14:25:00
餓死者が都にあふれてた時代だな。
時の帝が、庭ばっかり造ってないで、おまえナントカしろや。
と将軍に言ったとか。
619 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 11:08:56
そういう事もあったが、それだけではないし、ず〜と餓死者が出ていたわけでもない。
620 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 05:59:27
京に行けば餓死するというなら地方の食いつぶしが京に集まるわけないよね。
ところで京に地方から人が集まるのは、応仁の乱の頃からですか。
富子が関銭取るとかしているから人の出入りが増えたんだなと思うけど
なぜ増えたか、主な理由は何だろう。
テレビの義経なんかでも、百姓やってない人は京にいたようだが、あの
ころは餓死は無視できる程度だったんだろうか。
あ、このスレ質問めいたもんはまずかったかな。
621 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 08:21:00
将軍義教・義輝が暗殺されたというのも衝撃的でしたな。
物騒な時代だったとも言える。
622 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 12:25:31
>>620 室町後半期の京都で頻繁に飢饉が起こる原因の一つには土一揆の頻発がある。
土一揆は幕府に自らの要求(多くの場合は徳政要求)を認めさせるために、
京都の七口を封鎖して物資の流れを遮断し、京都を締め上げようとすることが
度々あった。
そのため周辺地域は全然なんでもないのに京都市中だけ餓死者続出ということも
結構あり得た。
623 :
620:2006/07/12(水) 14:54:08
>>622 どうもありがとう。
役立たずの幕府は、土一揆の対象になるくらいの存在価値?はあったということね。
あ、そういえば幕府や朝廷を当てにしない公家は地方へ出ていったんだ。
う〜ん、国内難民だな。身に芸がないと難民にもなれないちゅうことか。
624 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 03:09:35
>>623 実効力がどの程度あるのかは別にしても、幕府が何らかの法令を発することや
幕府による裁判なんかは(特に畿内周辺では)最末期の義昭の時代でもかなり
意味を持っていたといわれる。
また公家が地方へ下向していくようになったのは、京都にいても荘園からの
年貢が上がってこなくなったから。
守護とか現地の武士が年貢納入を請け負ってきちんと京都に納入してくれてる
間は良かったのだが、それが応仁の乱の結果滅茶苦茶になってしまったことが
大きい。
なんとしても収入を確保しようとする公家のなかには、直接自ら現地に出向いて
荘園の直接支配を始めて在地領主化する者もいたし、有力な大名に保護を求めて
その食客のようになってしまう者もいた。
土佐の一条家もそんな感じだよね。末路はアレだけど・・・。
副産物として各地に小京都、あるいはその原型が出来たのかな。
627 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 23:32:32
大内は、そうだね。
大内は、雪舟のスポンサーにもなったんじゃなかったかな。
628 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 21:04:16
九条政基の場合はちょっと事情が特殊だけど。
殺生関白か。あ、豊臣秀次のことじゃないよ。
630 :
日本@名無史さん:2006/07/19(水) 00:31:41
黒衣の宰相って一般的には金地院崇伝だけど、本当は三宝院満済だよね。
631 :
日本@名無史さん:2006/07/19(水) 01:28:18
清盛と後醍醐と信長って似てるね。
>>630 そうだな。影響力という点では金地院崇伝を上回っている。まあ向こうは
天海とかいう化け物も相手にしなければならなかったし、違いはあるだろうけど。
633 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 01:56:43
一条家の当主って盥に乗せられて海に本当に流されたんだっけ?
634 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 01:31:38
-‐ '´ ̄ ̄`ヽ、
/ /" `ヽ ヽ \
//, '/ ヽハ 、 ヽ
〃 {_{'´ ヽリ| l.│ i|
レ!小l● ● 从 |、i|
ヽ|l⊃ ⊂⊃| .|ノ│ え?
|ヘ. r‐-、 j | , |
| /⌒l`ニ`, イァト |/ |
. | / /::|三/::// ヽ |
| | l ヾ∨:::/ ヒ::::彡,
|;;;;;;;;;;;;:;;;;;;;;;;;;; | )
〔i_二八二二二i〕 ) 誰ぞ、ネタを投入してくれぬか?!!
{ r' ⌒-、ノ ,r‐l| ) (※持氏、義昭は死亡済みですが・・)
,-l l ‐=・=´;;l;;;;;;ト, ノ_
ヽl l ', ,_ ! ,'ノノ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
ハ. l r'"__゙,,` l|
. / lヽ ノ ´'ー'´,ハ___ , -‐ 'フ ̄ヽ
_,<´ l ヽ,,,,二,,,/ トへ / / | 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレB
, --,.─ヶ┴‐,‐‐--‐'´ / /_ノ |
ttp://p2.chbox.jp/read.php?host=academy4.2ch.net&bbs=history&key=1154227935&ls=all / フ´ /彡'´ /
/ / \ 、 /
// \ー--=―┬‐' ビシッ!
| 丶 \/ ,| |
6代将軍・足利 義教
636 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 01:31:27
足利義昭(最後の将軍)って、どうして大覚寺義昭と同じ漢字にしたのかな?
そんな不吉な名前にするから幕府が滅ぶんだと小一時間・・・
山門攻めて来るね。何か燃えてる燃えてる。萌え萌え。綺麗。
俺はこのぐらいで止めとくけど、何か、もう少し後にもっと派手に山門が燃えそうな気がする。
南北朝・室町時代は日本の歴史上で最も重要な時期だと思うんだが、
文部科学省やNHKなどはそう考えてないんだろうな。
>>636 確かにそうだ。「ぎしょう」と「よしあき」で読みは違うけど、不吉は不吉。
640 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 22:35:45
足利義輝を主人公にした暴れん坊将軍を作れば人気も出るだろう
足利義満を主人公にしてジャニー喜多川 を配役して夜の暴れん坊将軍として
世阿弥を始めとした寵童にジャニジュニアを配すれば人気出ると思う。
642 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 23:57:13
やはり 古代史が1番激しかろう
壬申の乱が日本を変えた最初の戦争じゃ
室町幕府は将軍独裁の色彩が強いけども
これは逆にいうと官僚機構の未発達なんじゃなかろうか。
だから将軍が傑物であるほど、死ぬときに政権が揺らぐ。
江戸幕府とくらべると統治機構としては劣るということにならないか。
将軍独裁?守護大名の支持がなければ跡継ぎすら決めれず、くじ引きで将軍
が選ばれているのに?挙句の果てに家臣に殺されても?あの義満ですら直卒の
軍を持たず、ようやく作ったのはいいけど一代かぎり。数々の争乱だって細川、
一色、畠山ら親族の軍事力に頼らなければ鎮圧することもできなかったのに?
将軍の領地なんかほとんどないから兵もいないのに?
室町幕府の仕組みをわかってるの?
このスレ1から熟読しろ。
しばしば将軍の独裁的な親政が行われている。
問題はそれが続かなかったことだが
熟読しているが?独裁的な親政とはいっても、守護大名の支持を
失えば管領すら自分の思い通りにならない。これは独裁とは呼べないのでは?
>問題はそれが続かなかったことだが
続かなければ独裁とはいえないと思うけど。まああなたとは独裁の定義
そのものが違うようだな。権力基盤が不安定であれば独裁をしたとしても
そんなものは泡沫にすぎない。だからそれをもって「将軍の独裁」とは
呼べない。すぐつまづくからだ。これは俺の考え方。あなたとは違うようだがね。
横レスで悪いけど、
> 室町幕府は将軍独裁の色彩が強いけども
ほんとかよ。15人のうちでどんだけいるんだ。
> これは逆にいうと官僚機構の未発達なんじゃなかろうか。
未発達はその通りだがそれと独裁は関係なかんべ。
軍事力が官僚化されてるほうが独裁はやりやすいぞ。
> だから将軍が傑物であるほど、死ぬときに政権が揺らぐ。
傑物でない奴の場合元から揺らぎっぱなしなだけじゃないのか。
そもそもダントツの傑物である義満の死で揺らいだかな?
義持による政策転換はあっても義持政権に揺らぎがあったとは思えん。
> 江戸幕府とくらべると統治機構としては劣るということにならないか。
結論だけはその通りだが独裁とは関係なかんべ。
江戸幕府の15代に占める「独裁」将軍の割合を
室町幕府のそれと比較してみたら有意性はないと思うが。
6代義教が最強の御所様だったことは
意外なほど知られていない
北条貞時が最強の執権だったことが一般には
殆ど知られていないことと似ているが
義教の最強はともかく最凶は間違いないな
僧籍経験者が殺戮をためらわなかったのはこれ如何に
651 :
>>643ではないが:2006/09/24(日) 23:47:12
>>644-647 とりあえずこの時代についての近年の研究状況をよく確認したほうがいいと思うよ。
義満の時代に完成されたといわれる室町幕府の組織は、鎌倉幕府や後の江戸幕府と比べても、将軍独裁を前提としている面が強い。
そのため将軍がある程度独裁的に権限を行使している時期には安定するが、義勝や義政の初期のように将軍が幼かったりすると、不安定になりやすい。
もちろん義政期においても義政が成年に達すると、やはり将軍独裁を指向する傾向が出てくる。
また室町将軍の独裁指向の傾向は戦国期になっても基本的に変わらない。
地方に対する幕府の影響力が低下する一方で、幕府内部での意思決定に将軍個人の意志が強く影響する状況は、たぶん最末期まで変わらない。
結局室町期の将軍は実際に行使できる力の大小に関わらず、常に独裁を指向する傾向が強く、そのことが有力守護との間に軋轢を生むことも多い。
もし仮に室町期の将軍が、江戸幕府の後半期の将軍のように、政治決定の場に自らの意思を滅多に表すことのない象徴的な地位に満足していられる存在であったなら、
義教・義輝は暗殺されずに済んだかも知れないし、義昭もああいう形で信長と決裂することはなかったかも知れない。
その近年の研究状況の参考文献表を
短いものでいいのでお願いします。
653 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 07:45:29
654 :
日本@名無史さん:2006/09/25(月) 09:04:21
僧兵なんてのもいたしな。
655 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:59:40
室町時代って、一般人と歴史研究者の持つ認識が一番乖離している時代でも
あるよな。
このスレの独裁か否かの論争を見ていてそう思った。w
一般的には、室町幕府とか室町将軍とかって、不安定・弱々しいってイメージが
強いだろうから無理もないけど。
まあ、教科書に書かれていることが古すぎて最新の研究動向をほとんど
反映していないことにも原因があると思うが。
656 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 02:45:38
東山文化や北山文化とかあるのにな。
657 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 03:02:26
太平記の時代を地味って・・・・
>>1は腐女子ですか?
658 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 10:12:06
なぜ足利将軍は16代15人とはいわないのでしょうか?
天皇重祚の場合は代数をそれぞれカウントしているのに
太平記が好きな腐女子はいるな。
>>655 その最新の研究動向の参考文献を
2、3でいいので教えてください。
661 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 11:41:57
662 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 01:30:41
室町時代って要は戦国時代のことなんですけど。
織田信長が活躍した時代。
>>663 お前が小学生ならよく知ってるねと褒めてやろう
お前が中学生ならきちんと勉強してるなと言おう
お前が高校生なら何当たり前なことをと言おう
いずれにしても嘘を言うわけだな
666 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 02:39:27
オイこそが 666へとー
室町時代と戦国時代が等しいんですか。
668 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 20:57:21
みなさん、今年の日本史研究会は行った?
この時代の一般庶民の名前ってどんな感じでしょうか
670 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 18:17:28
室町時代の農業について詳しい方おりませんか・・・
学校の宿題で
室町と鎌倉の農業について発表があるんです・・・。
教科書でも読んどけばいーやん。
672 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 20:52:26
正解を引き当てることより「自分で調べる」ことが勉強です
履修問題の関係で、室町と鎌倉の農業をまとめろって言われたんです。
って正直にいえ
675 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:32:57
履修問題の関係で、室町と鎌倉の農業をまとめろって言われたんです。
なんて言わないんだからね!
最悪の幕府と言われてたんだから仕方がない
朝廷の敵として唯一の幕府だし
×朝廷の敵
○南朝の敵
時代祭と現在のNHKは、室町時代そのものを「無かったこと」としているな
時代祭には今後室町時代も加える予定みたいだね
680 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 02:54:25
>>678 平泉澄先生の理想がついに達成されたのか!
681 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 17:23:30
履修じゃないよ・・・
682 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 08:48:45
>>678 「花の乱」で転けたからだね。
ただあのドラマの場合、低迷した理由は、時代が室町だからということより
ドラマの作り方のほうに原因がありそうだけど。
同じ室町でも「太平記」は結構高視聴率だったわけだし。
683 :
日本@名無史さん :2006/11/11(土) 14:04:33
アニメの「一休さん」だってかなり評判良かったもんな。
>>679 緑髪将軍吉尚の出陣時の姿を加えるとか。
685 :
684:2006/11/11(土) 23:41:55
変換ミススマン。
「吉尚」→「義尚」
686 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 12:10:55
そういえば、昔どっかの民放で義尚を「よしなお」って読んでるDQN番組があったな。
687 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 22:08:50
室町時代は、鎌倉幕府滅亡後の混乱が続いた暗黒時代
幕府の権力が弱すぎ
義教卿は一時的に権力を確定したんだけどね
689 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 09:48:57
将軍個人の権力は明らかに鎌倉期より強いわけなんだが。
まあ室町幕府自体、初期の頃を除けば完全な将軍独裁政権だけど。
690 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 09:51:26
>>688 義教は最終的に左大臣まで登っているから、継承をつけるなら「卿」ではなく「公」だと思うが。
691 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 09:52:05
>>690訂正
× 継承をつけるなら
○ 敬称をつけるなら
692 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 14:47:49
鎌倉幕府は将軍の権力が弱くても、執権北条一族の権力が絶大だから
幕府の権力としては強大で、日本全土を統治していたと言える
それに引き替え、室町幕府は将軍が多少実権握った時期があっても、
幕府全体としてはひ弱。
おまけに鎌倉府なんてつくって、統治を放棄しているようなもので
とても全国政権とは認められない
693 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 14:58:03
なわけないやん
694 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 15:42:24
前半は全国政権ではないかい?
義教あたりまで。
南朝も見掛け倒しだったからね。
室町幕府は最後まで全国政権だったよ。
7代義勝以降は御所の権勢が落ちたとはいえ、
細川京兆家などがちゃんとしていたし。
696 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:05:58
その細川京兆家も氏綱の代で……
697 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:17:00
そもそも我々が言う「日本的」というのは、室町時代にできた物だぞ。
698 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:53:32
699 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 11:04:47
応仁の乱以前と以後の日本が違うらしいな。平安的なものがあそこで
完全に終わってしまった。
700 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 11:05:28
日本は だな。
701 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:56:03
応仁の乱以後云々の話は、内藤コナン(学術文庫にあり)が言い出したんだけど
本当にそうかなって思う。あれ読んでもどうも納得できなかった。
だって南北朝の動乱だってある種の切断じゃない?
それとも荘園史なんかからのアプローチだと応仁から激変するのかな?
702 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:58:00
26の言っていることに俺も全面同意だ。
戦国江戸幕末はハッキリいって退屈。
703 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:01:19
室町幕府弱体史観ってのが根強いね。
704 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:04:52
室町期の文学者・インテリといったら後崇光院貞成太上天皇や一条兼良、二条良基
がいますね
705 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 01:19:27
三宝院満済
大乗院尋尊
季瓊真蘂
も忘れずに!
>>703 その史観を脱出するのに適した
本や論文を教えてください
707 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 04:35:45
てか室町時代が専門の研究者で室町幕府弱体史観の人っているっけ?
708 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 04:36:37
709 :
アマゥ:2006/11/24(金) 22:59:02
710 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:45:35
日本史教科書でのページ数があまりにも少なすぎないか?
なかでも政治分野の酷さは目に余るものがある。
(文化・芸術分野は割かしちゃんと扱われいるが)
711 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:35:43
中世が一番おもしろい
中世>古代(特に平安)>>>近世>幕末
712 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 19:54:48
上に同じ!しかし世間的には人気なし。
観応の擾乱や応永の乱あたりについて興味があるんだけど
このスレでさえ一言も触れられていないのは、マイナーな
室町時代の中でもさらにマイナーなのか・・・
最近まで堺に住んでいたので、応永の乱で大内がどの辺りに
陣を敷いていたのか知りたかったのだが、ネットで検索した
ぐらいじゃ全くわからんかった。
715 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 18:24:10
>>714 堺付近の地下を調査すると、応永の乱のときと見られる焦土層が分布している
範囲は半径1キロにも満たない狭い範囲らしい。
つまりこの段階での堺は、まだまだ大小路と熊野街道の交差点を中心とした
わずかな地域しか市街化されていなかったということになる。
要は堺が大商業都市に発展するきっかけは応仁・文明の乱なので、それより前の
応永初年の堺なんて、後世の戦国期の堺とは似ても似つかぬような小規模都市に
過ぎないということらしい。
716 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 05:54:25
俺のハートの中で山名氏が急速に勢力拡大中です
誰か山名氏関連書籍を教えて
大河ドラマ板でも「室町時代を取り上げて」という意見は本当に少ない
なぜ大河ファンは南北朝・室町時代にもっと目を向けてくれないんだ・・・
718 :
日本@名無史さん :2006/11/27(月) 08:52:50
大河ファンはその程度ということだ。
戦国幕末しか興味をもてないから。
719 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 09:00:25
720 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 09:04:54
室町って史学的には豪華絢爛百花繚乱だろ
現在の日本文明の基礎は足利義政公が作った
722 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 11:49:44
日本文明って何?
723 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 16:34:00
724 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 18:59:53
日本文明は韓半島文明のパクリだから
日本が倭冦でパクリに盛んに盗んだ時期が室町時代
>>715 ご教授多謝。
>堺付近の地下を調査すると、応永の乱のときと見られる焦土層が分布している
>範囲は半径1キロにも満たない狭い範囲らしい。
>つまりこの段階での堺は、まだまだ大小路と熊野街道の交差点を中心とした
>わずかな地域しか市街化されていなかったということになる。
俺が無知なのかも知れんが半径1キロって聞いて結構でかいと思ってしまった。
当時は海ももっと近かったのだろうが、よくあんな平べったい地形で結構
長いこと持ちこたえられたもんだ。
726 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 04:11:45
NHKの「その時歴史が動いた」は室町時代を全然取り上げないよな。
大坂の乱みたいな大したことの無い事件は何度もやるくせに。
727 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 11:50:11
>726
室町幕府成立の過程はやっとことあるけどな。
>>727 南北朝・室町時代は過去にたった3回(尊氏、楠木正成、日野富子)、
純然たる室町期にいたっては日野富子のたった1回だけらしい。
もちろん応永の乱、永享の乱、嘉吉の乱、等々の大事件も完全無視。
(観応の擾乱は尊氏のときに取り上げたかどうか・・・)
尊氏と直義との骨肉の争いは太平記でやった。
結構ハイスピードだったけど。
あの太平記は尊氏が九州まで落ちて再起するまでもすごく端折ってたからなあ。
直冬の母親絡みのエピソードをもう少し削っていれば…
730 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 06:48:18
むかし「そのとき歴史が動いた」で、北条早雲の伊豆侵攻についてやってた
ことがあったけど、今や定説となった明応の政変との関係なんかは完全に無視してたね。
花の乱の視聴率が14%で停滞したからね
732 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 18:04:25
室町幕府の出先機関である堀越公方府を攻撃することによって、
早雲は室町幕府体制からの独立を高らかに宣言・・・なんていうトンデモ説を
平気でやってた。
733 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:47:52
>>732 トンデモ説というより、完全な史実誤認だね。
734 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:10:30
アニメ「一休さん」があれだけ人気を博していたんだから、
少なくとも一昔前は決してマイナーな時代じゃなかったはずだよ。
それがいつの間にか忘れ去られた(影が薄くなった)って感じがするんだが・・・
735 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:33:48
室町時代の関東の歴史って華のないイメージしかない
将門や鎌倉時代、高時自害の頃は面白いのに。
江戸城大改築、日光東照宮の建築、利根川東遷事業。
南北朝以降、関東の歴史が華やかになるのは上の三つの
出来事が起こってからだな。
736 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 03:11:06
鎌倉公方と上杉氏のいざこざって結構面白いと思うけどな
>>735 当時の裏日本的な位置づけだからね
でもなんといっても武士の本場みたいな土地だから見所は結構ある
738 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 11:30:25
歴史的資料が他の時代に比べて少ない?ってのがマイナーな理由じゃない?
一番の歴史的資料が、一介の旅坊主と思わしきのが書いた太平記ってのが寂しすぎる。
余程の混乱期だったんだろうなー。
蜷川日記とか日記類はたくさんあっただろ?
室町末期になるけれど言継卿記とかね
畿内は公家の日記多し
しかし滅びまくってるお陰で武家文書少なし
地方はどうか知らないけど
他の時代と比べて研究者の数が少なかったりはしない?
742 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:24:41
菅浦文書とか地下の史料も忘れないでくれ
743 :
名無し募集中。。。:2006/12/15(金) 21:02:11
八犬伝の舞台というだけで興味ありありなんだが
如何せん素人の俺にはどこから手を付けていいのかわかりません
とりあえず通史でも何でも読めば?
一口に室町時代と言っても地方と京都、前期、中期、末期でかなり変わるし
八犬伝なら末期関東か
後北条周辺なら論文、考察本多いだろ
影が薄いといえば鎌倉時代も薄いと思う
元寇もそれほど語られない
746 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 06:26:40
>>745 鎌倉期だと、貞時の治世がすっぽり抜け落ちたように影が薄い。
貞時は義教と同じく、事績(良し悪し混合)と知名度が全く釣り合わない。
時宗と高時、義満と義政は多くの人が知っているだろうけど
それぞれ全盛期を築いた貞時と義教は・・・・
747 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:09:57
世間では本気で尊氏についで義昭が有名そうだな
いや、義満と義政も有名だろ。
それぞれ大事件と建築物持ちだし。
なにしろ義昭(とその時代)は異常なほど映像化されてるからねぇ
ドラマ化される頻度が多いと自然に知名度も上がるよね
映像化の頻度(鎌倉時代込みで)
時頼・時宗・貞時、義教・義政 各1回ずつ(北条時宗、花の乱)
尊氏・高時 各3回ずつ?(大河太平記、「大楠公」なる映画&ドラマ)
義満 なんと0回(らしい)・・・
一休さんは映像化には含まれないかorz
751 :
749:2006/12/16(土) 18:55:53
>>750 大変失礼、「映像化の頻度」ではなく
「ドラマ化の頻度」というべきでした・・・・
752 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:25:54
753 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:26:29
>>741 大日本史料の編纂が第6編から始まったって知ってる?
754 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 20:38:27
>>738 花園天皇宸記、園太暦、祇園執行日記、師守記、後愚昧記、兼宣公記、
満済准后日記、看聞御記、師郷記、康富記、建内記、蔭涼軒日録、
実隆公記、政基公旅引付、二水記、斎藤基恒日記、斎藤親基日記、
蜷川親元日記、蜷川親孝日記、蜷川親俊日記、大館常興日記、天文日記、
鹿苑日録、言継卿記、言経卿記、御湯殿の上の日記、etc...
ちょっと考えただけでも、刊本が出ていて活字で読めるものだけで、こんなに
思いつくけど。(他にもたくさんあるだろうけど)
755 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 22:55:08
講談社のシリーズ読んでると室町時代の人気がない理由がよくわかるよ。
登場人物がうつ病とか池沼ばっかりじゃん。
雨が降ったら面会お断りの管領とか、妹を公開レイプする皇子とか。
空飛ぶ管領は、麻原彰晃なみにすごかったらしいぞ
757 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:22:00
まさもとかw
758 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 00:26:58
妹を公開レイプする皇子?誰??
759 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 01:27:40
>>758 室町時代に興味わいてきただろ?
こうやって不人気な室町時代を盛り上げよう(w
760 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 01:43:00
761 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 01:44:43
しかし、ドラマ化するならば、鎌倉公方と室町将軍の確執とかそういうのにスポットあてた方が面白いと思うんだよね。
下手に有名どころを主人公にして、架空人物をどんどん入れて、ゆがめちゃうよりも、歴史資料が少ないほうが、
脚本家の腕の見せ所みたいな感じになる気がするんだが・・・。
762 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 01:57:29
平泉澄先生→皇国史観で室町時代をぼろくそ
永原慶二先生→マルクス史観で室町人気挽回をはかるもかえって一般人が引く
桜井英治先生→躁鬱変態史観で室町ファンは肝オタ限定になる
763 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 02:55:30
>>761 鎌倉公方と室町将軍はこの時代の一番の有名どころじゃないのか?w
764 :
735:2006/12/18(月) 07:58:14
大河ドラマじゃ北条五代なんかをやってもらいたいね
小田原、八王子、河越、千葉等々、関東全体が注目されるし。
ラストで渡良瀬遊水地あたりで撮影して、家康が関東平野の広さに
感嘆の意気をもらしているところで終わり。
>>764 それじゃ、関東ばっかりじゃないかー
義教かなぁ、大河で
関東も絡めるし
坊主時代にくじ引き当選、富士山麓まで出かけたり、万人恐怖の政治とか延暦寺とかダラダラやって
最後は首捨てられてENDという後味の悪さで目指せ最高視聴率
766 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 15:33:42
花の乱を超える暗い大河になりそうだ
>>765 関東には日本人の1/3が住んでいて、しかも地域間の垣根が低い。
関東以外の住民を完全にスルーしてアド街みたいな大河にしても視聴率取れちゃうと思うぞ。
ここで超名門斯波一族の華麗なる興亡を描く諸行無常の大河ドラマを期待
769 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:23:56
大河でやるなら室町中期の関東動乱を“炎立つ”みたく何部かに分けて。
導入部分は“伊達政宗の乱”辺りから入って、
締めはあえて・・伊勢新九郎が今川氏に仕官する所で終了。
でついでに翌年の大河は北条早雲で
>>769 関東繚乱なら、持氏と憲実で旨味十分とは思うが
どうせなら北条まで一気に出そうぜ
政宗なんてうっかり出した日には、独眼竜な人と間違える人大量発生
→後北条氏登場で歴史に疎い人の更なる勘違いを誘う大河ドラマ
室町時代については全然詳しく無いんだが
>>755をみて興味がわいた。
講談社のシリーズってどれのこと? 読むから教えてくれ。
正直、大河で室町は止めて欲しい。
多数派の大衆がマニアの要求に合わせる必要はない
>>764 司馬の「箱根の坂」を大河化して欲しいと、後北条ファンはよく言ってるね
あれじゃ1年はキツい気もするけど
せめて正月時代劇くらいにならんかな
774 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:41:34
>>773 原作にない早雲死後の話も入れて戦国末までやる。
具体的には早雲に薫陶を受けた今川氏親(→氏輝→義元)・北条氏綱(→氏康→氏政)を
ダブル主人公にして、今川・北条両氏の栄光と没落を描く。
・・・そして最終回では、徳川家康が登場して今川・北条領国を基盤にして
江戸幕府が成立。めでたしめでたし。
775 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:17:55
北条は事績が五代に分散されて傑出感がないしなぁ
山名氏清とか大内義弘もラストで敗死してつまらんし
776 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:27:04
戦国時代は誰がラストでも太平の世が待ってるから
なんだかんだでハッピーエンドに近いものになるけど
室町時代は、ドラマが終わってもその後がないから、
最終回をみても何かピンとこなそうだ
もうあえてチャングムみたいに一休や一条兼良
などの文化人を主人公にでもしてみるか
>>767 いやいや、逆だ。地域間の垣根が低くて大量の新住民が住んでいるから、
「郷土史ネタ」のドラマなどが成立し得ないんだよ。
郷土史・地域史への関心と言うのは、
「お国自慢」的な排他的かつ土着的な地元民意識が支えるものだからね。
関東の大多数の住民には、そのような土着意識は希薄だ。
新住民も何世代も経てば根付いて「お国意識」も発生するだろうから、
25世紀あたりになれば、「室町時代の関東史大河ドラマ」は
関東の住民に大人気のコンテンツとして成立するかも。
その時代にテレビの大河ドラマが存在するのかは知らないがw
>>776 チャソグムなんて例が悪過ぎるw
あそこまで1から10まで創作できる「歴史モノ」が許されるならば、
それこそ何だって出来るよ。
「古河公方がロケットを発明して火星に行った歴史ドラマ」だって出来るw
778 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 01:16:05
ポルノ……なんと懐かしく芸術的な響き
第40回「老盛ー老いてなお盛んー」
781 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:22:51
782 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 15:06:16
>>769ー770
いっそ・・9世伊達大膳大夫政宗(儀山)を渡辺謙主演で大河にするか?w
ネタねぇけど。
チャングムは歴史ドラマつーより
時代劇だわなw
おりんとかと同じ
784 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 15:13:54
前半の主役を太田道灌にして、後半の主役を北条早雲での大河は?
>>777 新住民といっても大抵は首都圏の範囲内で動いているだけだし、
地方出身者でもそのまま首都圏に留まり続ける人が多い。
つまり、大東京が丸ごと郷土になるわけ。
例えば、埼玉県民とって小田原の歴史は身近な歴史になる。
>>785 ずっと以前埼玉に住んでる人や、住み着いて暫く経った人はともかく
埼玉に最近出てきたばかりの人にとっては
小田原の歴史は別に身近でもないしアイデンティティにもなりにくいので
色んなところから来た人の多い関東では郷土史が人気を持ちにくい
(今住んでるとこの歴史ではなく、実家とか代々住んだとこの歴史に興味がある人が多い)
ということが>777は言いたいんじゃないかな?
787 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 21:50:27
チャングムで思い出したが三浦の乱ってどうよ
日朝の歴史問題のあいだにあるわりには、放置プレーされている
>>785 ほぼ趣旨は
>>786が書いてくれているんだけど、
武将の戦いの歴史の場合、「地域の垣根の低さ」は致命傷になるんだよ。
結局、一般的な意識として郷土史を楽しんでいるヤシというのは、
現代の排他的な「地元お国意識」を過去の武将間の抗争に勝手に投影して、
疑似体験をして楽しんでいるということなんだから。
愛知人が飽きもせずに、信長秀吉家康ネタで延々楽しんでいられるのは
愛知が尾張やら三河やら細かい土着文化の違いを今でもぐだぐだ言っていて
「地域の垣根の非常に高い」ところだから。
あのような狭い郷土意識を関東の住民に求めるのは不可能というものw
しかも更に、
「大東京」という都市意識が出てくるとさらに状況は悪化する。
東京は江戸まで遡っても、1590年以前の都市としての歴史が「無い」。
正確に言うと、江戸前島の歴史の記憶は家康により完全に抹消されている。
そもそも都市民というのは、今に繋がる都市建設以前の歴史には関心が無いもので、
京都人とて794年以前の京都盆地の歴史には関心が無いし、
大阪人も、秀吉以前の渡辺津の時代の歴史などには殆ど関心が無い。
「大東京」意識が関東平野に広まると、中世関東史への関心は更に薄れてしまう。
関東というか、東京で郷土愛ある人のほうが少ないかと
京都人なんかすごいぞ
やつらにとっては、未だ東側はいなか
お国自慢尽きないぜ、ウチに一人いるが
江戸っ子だって勝てねーよ
尾張と三河はそりゃ対立するよなあ。
そこそこの商業地帯と戦国期の田舎オブ田舎三河じゃ。
おまけに織田がつき羽柴がこねし天下餅座りしままに食うは得川じゃ。
お国自慢のすごさなら九州も負けてない
792 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:02:36
>>790 三河は東三河と西三河の間にも断絶がある(地域的にも文化的にも言語的にも)。
現在の愛知県は、豊橋を中心とする東三河、岡崎を中心とする西三河、名古屋を中心とする尾張が事実上別々の県みたいな状態。
793 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:07:10
馬琴の八犬伝が江戸開府から200年くらいたって江戸人の中にも自分たちの
地域の歴史を振り返ってみようという人たちが現れたころに書かれた本だろ。
柳田国男が確かそんなことを書いていた。
だから東京圏も高度経済成長期に人口が急増してから200年もすれば関東の中世にも興味を持つようになるよ。
もっともその前に江戸時代の旗本とか譜代大名とかにアイデンティファイしそうな気もするが。
>>783 大河ドラマでもあったじゃないすかw
武蔵という一年かけた時代劇が
>>788 > 結局、一般的な意識として郷土史を楽しんでいるヤシというのは、
> 現代の排他的な「地元お国意識」を過去の武将間の抗争に勝手に投影して、
> 疑似体験をして楽しんでいるということなんだから。
なるほど、俺は北海道育ちだから全然そういうの気付かなかったよ。
郷土史といえば石炭とか鰊とか、とにかく産業関係ばかりだったから。
明治末期の鰊番屋を見て江戸時代に思いを馳せたりw
796 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 11:16:16
義満が諸勢力をだまらせるまでの話でいいじゃん
まずは室町時代のイメージアップから始めようぜ
義材で諸国巡遊世直しの旅
798 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:43:44
>>797 義材=義植の流浪については「毛利元就」の序盤に出てきたね。
最後にたどり着いたのが山口で、大内義興の協力で室町奪還・・・
799 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:57:11
800 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 02:05:46
田口トモロヲが義材だった
801 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 02:56:27
でも毛利元就は最初のほうでちょっと出しただけで、結局当時の中央政界について、まともに描かなかった。
802 :
798:2006/12/21(木) 04:01:01
毛利は国人で終盤に大勢力になるまで中央と絡みがないからな。
出自はそれなりに中央と関係があったはずなんだが。
大江氏だっけ、安芸毛利は。
805 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:42:21
>>803 >毛利は国人で終盤に大勢力になるまで中央と絡みがないからな。
そういうことは最低限毛利家文書の戦国以前の分を全部めくってから言おうね。w
806 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:45:19
807 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:55:03
苗字の地である相模国愛甲郡毛利庄は宝治合戦で失ったんだっけ?
そうだった越後毛利もあったっけ
北条と安田がこの流れだっけ?
清和源氏追って尽き果ててから系図とか見ると鳥肌たっちゃうよ
>>805 そういう揶揄は意図的に下の行を無視するような読み方をしないようになってからしようねと言われてもしらんぞ。
>>807 YES
毛利家はあわや族滅寸前だった・・・
811 :
805ではないが:2006/12/21(木) 19:54:48
義教は自ら軍を率いるよりは政治工作で平定してるね
この辺が分かりにくかったのかな
大河の毛利元就なんて、
尼子経久がかっこよかったことしか覚えてない
814 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:18:23
>>813 あとは、元就が下戸で甘いもの好きってところかな?
って、あれは史実の設定じゃないよな?さすがにさ?
>>809 俺は下の行を意図的に無視したりはしていないぞ。
要は
>>803の認識って、毛利氏はその成立した鎌倉初期には中央との関係を
ある程度持っていたが、その後は中央からは忘れ去られた無縁の存在になって、
戦国末期に急成長するまでは中央と関係は殆どなかったって、いうことでしょ?
俺は決してそうではないと言いたいわけ。
最初からそういう真面目な言い方をすればいいのに〜しようねだのwだの言うから揶揄って言われるんじゃ…
個人的にネトゲやVIPみたいなところでもないのにw使うやつは程度が低いと思ってるけど、
そういう新興文化?への差別意識って室町時代にもあったんだろうなあ。
うはwwおkwwwwwwwwwww
日本語でおkってそれを言ってるやつが一番日本語でおkだよな
新興文化っていうと、東山文化あたりか?うーん違うな・・・
風流踊りとかか?
文化じゃないけど
一向宗
室町時代って、田舎じゃ戦さばかりしていたみたい。
南北朝時代が終わったと言っても、第二次世界大戦のように国民全体がいっせいに戦争をやめたわけじゃない。
先祖の年譜を調べると、鎌倉時代以前頃からの在地勢力との戦い、同じ一門の中での分家間の争いとかが多い。
戦死ならまだしも、内輪もめに巻き込まれて切腹した人もいるし。
あんな世界じゃテレビドラマになんかしようがないし、歴史小説だって書けない。
今川貞世や細川頼之の知名度はもっと高くならないといけないな
せめて義元や勝元のレベルまでは引き上げたいが
823 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:11:12
くどい
825 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:50:10
つーか毛利家文書には鎌倉時代の文書は含まれてないよ。
826 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 22:22:50
>>825 皆無ではないけど、ほとんどないよね。
全部で千数百通くらいある文書のうちで、鎌倉期のものは三十通程度だし。
まあそういう意味でも
>>809のレスはかなり見当外れなわけだが。
827 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 18:09:06
>>821 南北朝は面白いことは面白いけど、
時代の中心人物がいないから「太平記」もなんかぼやけるんですねぇ。
尊氏さんがお亡くなりになってからはイマイチ面白みにかけるところがあったりした。
828 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:49:34
義満や義教は十分に時代の主役なわけだが。
大河で大コケした義政夫妻もそれぞれ文化的、経済的な室町時代を象徴する人物だよな。
830 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:30:13
富子はともかく義政に経済的なセンスがあるとは思えないが。
831 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:03:07
それぞれ、だから義政が文化で富子が経済じゃないか。
室町時代、今川家には有名人物が複数いるのに
本家筋の吉良家にはまるでいないような・・・・
833 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 23:06:07
室町期だと地政学的に駿河はかなり目立つ位置にあるからね。
たしかに三河は地味だな
>>833 「室町期」で駿河が特に地政学的に重要だと言えるかなあ?
駿河の、特に駿府は南アルプスの山蔭で後背地を持たず、
単なる一本道の中間点で複数街道が交わる交通の要衝でもないので
地政学的に特筆すべき地域とも言えない気がする。
逆に、糸魚川のようなところだから、ここを一箇所遮断すれば
バイパスも含めて東海道の往来は完全に止まるがw
むしろ、特に戦国時代になって、
今川氏という大勢力の中心拠点が存在することを前提にして
はじめて地政学的に意味のある地域になるような気がするよ。
>逆に、糸魚川のようなところだから、ここを一箇所遮断すれば
>バイパスも含めて東海道の往来は完全に止まるがw
これは地政学的に重要だということにはならないのか?
俺は地政学も室町時代も、しっかりした知識がほぼ皆無なので素人考えなのだが、
駿河が上記のような地なら流通管理やら関所収入やらで重要じゃないかと思った。
837 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 04:16:13
室町時代の駿河は、幕府が政策的に「都鄙」の境界にしちゃったんだよ。
要するに駿河は京都の幕府が直接管轄する東端の国。
しかも駿河が境界を接する五ヶ国のうち、三ヶ国(甲斐・伊豆・相模)が鎌倉府管轄の国。
だから都鄙(幕府と鎌倉府)の関係がこじれると、単なる東西の中間地域という以上のしわ寄せが駿河に来る。
これこそ駿河が「室町」時代限定で、全国有数の超重要地域になる根本要因。
なお
>>835は室町時代の今川氏を大勢力と表現しているけど、実際には今川氏が大勢力といえるようになるのは戦国になってから。
応仁以前だと守護職を持っている国も駿河だけだし、その駿河での支配権も結構不安定かつ弱体。
838 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 04:20:47
あと室町の今川氏の当主に比較的有名な人が多いのは、都鄙の間にことが起こると、必ず今川氏の当主が戦争に駆り出されるから。
それと定期的にお家騒動を起こして、その度に中央が介入するから。
もっとも南北朝時代に九州で大暴れした了俊は別格だが。
>>837>>838 室町時代の鎌倉支配領域と京都支配領域の境界が
駿河国東端だったことは確かだし、
特に駿豆国境には地形的障壁が「存在しない」ので、
このような境界が逆に緊張度の高い物になるというのも頷ける。
これは、前代の鎌倉政権が「関東政権」というよりは
むしろ「伊豆頼朝」率いる「南関東・東海政権」であって
政権重心が関八州というよりかなり西よりだったことの残影なんだが
その結果としての東西境界の不安定さは、
駿河だけをとりたてて別格扱いできなくさせる気がするんだが。
結局、中世を通じて「関東畿内二眼レフ」の太平洋側境界は、
関が原と箱根の間の東海地方全域を大きくふらつくことになる。
その時々の政治イシューに応じて、尾三国境だったり、三遠国境だったり、
駿遠国境だったり、駿豆国境だったり、細かく見ればいろいろだ。
そう考えると「三河は地味」とも言えなくなってしまう。
840 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:54:48
で、なんで吉良家は目立たなかったんだ?
841 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 00:47:18
主人公としての今川義元を時代劇で扱わない制作者はいい加減頭膿んでる。これほどドラマティク終わり方をする大名もおるまいて。
誰か優秀な時代小説家が、
劇的な小説を一本書いてくれたら、きっと盛り上がるだろうにな。
843 :
辻小姐:2006/12/29(金) 05:53:59
>>841 橋田須賀子脚本で、義元の妻・定恵院、義元の娘・嶺松院、氏真の妻・早川
殿、義元の姪・築山殿、ついでに信玄の娘で北条氏政の妻・黄梅院を主人公
に、
「大名の奥方なんて不幸の見本よ」
と愚痴り続ける陰々滅々のドラマが見たいです。松平信康はえなりかずき
で。
>>841 義元のドラマもおもしろいと思うけど、
その前に貞世をドラマ化してほしいなぁ
845 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:16:42
別に主役じゃなくてもいいけど
戦国末期を題材にした時代劇なら
足利義輝の壮絶な討ち死にシーンがほしい。
時の将軍様であんな死に方をしたなんて
義輝以外にいない。
衝撃のシーンになると思うのだが。
でもほとんど場合、描かれた試しなし。
846 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 18:29:49
黒澤明のパクリだって訴えれられるからな・・・司馬遼太郎もやってるがあれば7人の侍と同時代なので
しょうがない。
>>845 >壮絶な討ち死にシーン
義教公では駄目ですか?
むしろ義教の方が
だって首の扱いが公方様の首とは思えんくらいに室町時代だもん
3時間ほど抵抗した末、自害じゃなかった?義輝は
850 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 21:01:12
講談社の「日本の歴史12 室町人の精神」桜井英治
ってのを買ったまま、まだ読んでないんだけど
これって歴史好きの理系人間が読んでもついていける?
室町時代といえば
義満=金閣寺=北山文化
義政=銀閣寺=東山文化
ぐらいの知識しかないですけどw
851 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 14:13:11
>>850 それだけの教養があって歴史好きなら全く問題ない!
買ったんなら読めば良いだろ
買う前にあれこれ悩むなら分かるが買ってからあれこれ悩むって意味がわからん
853 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:05:11
昔の京都と現代の位置を比較できるムックが発売されてるよ。・・・東山ってけっこう遠いな
豚肉が遠いよ
855 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:40:57
>>839 >これは、前代の鎌倉政権が「関東政権」というよりは
>むしろ「伊豆頼朝」率いる「南関東・東海政権」であって
>政権重心が関八州というよりかなり西よりだったことの残影なんだが
初期の頼朝政権の基盤は、あくまで伊豆以東の南関東であり、駿河・遠江への
影響力は弱い。
治承・寿永の内乱当初、駿河・遠江両国は頼朝ではなく甲斐源氏の勢力によって
占領されており、頼朝も現状を追認する形で甲斐源氏の武田信義・安田義定を
それぞれ駿河・遠江の守護にせざるを得なかった。
この地域への頼朝の支配が直接及ぶようになるのは、頼朝によって甲斐源氏の
勢力が削減されたあと。
その後の駿河・遠江は北条一族が守護になり、表面的には確かに南関東と一体の
扱いを受けたようにも見えるが、この地域の地頭職の補任形態を見ると、地頭に
補任されているのは大部分が伊豆や相模の御家人であり、いうなれば鎌倉期の
駿河・遠江は南関東の御家人による植民地状態だったということになる。
これは、関東(含北関東)における地頭の補任形態、つまり基本的に在地豪族を
そのまま地頭に補任する方式、とは大きく異なっている。
つまり鎌倉幕府での扱いに関して見れば、同幕府が南関東を北関東と同一視する
ことはあっても、南関東と箱根以西を同一に扱うことはなかったといえる。
856 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:42:08
>>839 >結局、中世を通じて「関東畿内二眼レフ」の太平洋側境界は、
>関が原と箱根の間の東海地方全域を大きくふらつくことになる。
>その時々の政治イシューに応じて、尾三国境だったり、三遠国境だったり、
>駿遠国境だったり、駿豆国境だったり、細かく見ればいろいろだ。
しかし西駿河から濃尾平野までの地域は、街道沿いを進む限り地形的には大きな
障壁となるものがない。
だから西の勢力が東へ進む場合は不破関・鈴鹿関を突破すれば駿府あたりまでは
あっという間に進めるし、逆に東の勢力が西へ進む場合は箱根を突破すれば
木曽川あたりまではあっという間に進める。
室町の場合は、政権の中心が西にあるため、政権側から見れば箱根の手前の
東駿河あたりが最前線となる。
しかしこれはあくまで「室町期限定」での話であって、中世全体を通じての
話ではないので、誤解なきよう。
もっとも永享の乱後は、幕府の駿河の緊張を緩和するために駿河の北隣の甲斐を
鎌倉府管轄から幕府管轄に移したりもしている。
ただこれには禅秀の乱以来、家中が滅茶苦茶になっていた甲斐守護家を幕府の
支援で立て直す意図もあったかも知れないが。
豚過ぎたのか?
858 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 00:53:38
歴史の知名度ってつくづく語り部によるところが大きいな
三国志だって、たったの100年程度しかないのに
豚汁うまいねw
>>845 将軍義輝の最期は大河ドラマ「信長」で
描かれてたよ。
最近、南北朝をテーマにした漫画なら増えてるな。なんでかわからんけど。
逆に源平は減ってる。
ググってみたら山賊王は読んでたけど、この時代の漫画って他にもあるんだね
>>862 劇画雑誌で吉川の私本太平記を連載するらしい。
あと、今やってるかわからんが女性向で阿野廉子の漫画やってたな。
山賊王の作者はもう一つの判官漫画をメインで描いてるっぽいからなかなか新刊が出ないな。
さすがに義教の時代の漫画とかって聞いたことないな。小説はあるけど。
>>855>>856 伊豆というのが関東でなくて東海地方であるというのが、最大の問題だろうよ。
平将門にとっての伊豆は、関東キー局の天気予報に伊豆が出てくるのと同じだが(おまけだ)
源頼朝にとっての「伊豆」は本拠地そのもので全く意義が違う。
箱根の西側の三島が伊豆国に含まれることがもたらす地政学的問題はあまりにも大きい。
それから、
北関東(正確には関東北東部。茨城栃木という現在の県単位のほうが的確)と
東海南部(駿河・遠州)の間の問題は、「征伐の時間差」の問題だと思うが。
北関東奥州方面は、対奥州藤原氏戦争で幕府草創期に一回ローラーがかかっているし、
それ以前にも源義家が一度「北上ローラー」をかけている。
西への征伐ローラーがかかるのは、それよりかなり後になるからね。
そんなに平準化圧力がかかっても、今の利根川本流あたりを境にした
関東平野中央を横切る文化的・政治的分断ラインは中世を通じて明らかで、
これが見えないと、古河公方を軸にする関東内乱の実態も見えてこない。
これは現在に至るまで文化気質の差として続いているからね。
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強き幕府に生まれ変わらせたワシが狙うのは朝廷・・・
過激に皇位簒奪編 連載中・・・
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1157332882/l50 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレC
ネタとはいえ、すこし過激な部分もありますが・・・
天皇家のシステムがよく理解できていない所もありますので、
よければアドバイスを下さいませ。
866 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:10:39
>>864 >伊豆というのが関東でなくて東海地方であるというのが、最大の問題だろうよ。
現代的な「関東地方」「東海地方」という区分けで、前近代の歴史を見ることは
全く無意味。
東海地方=東海道沿線の諸国の意でとるなら伊賀から常陸まで東海道。
また伊豆は歴史的には関東の一部として見なされることも多い。
特に中世の場合、伊豆出身の勢力が鎌倉を拠点に幕府をつくったという経緯から
前代以上に伊豆と相模の一体性はかなり高くなっている。
そしてこれは鎌倉期だけでなく室町期になっても変わらない。
室町期の伊豆が京都管轄ではなく関東府管轄であったことは周知の事実だし、
これは戦国期の後北条氏の勢力範囲や、豊臣政権期における関東移封後の
徳川家康領国の範囲にも踏襲されている(つまり伊豆は関東と同じ扱いを
受けている)。
さらにいえば近代においても、明治初年には伊豆は西相模と合わせて足柄県に
なっていた時期があるし。
よって伊豆は関東ではないなどという話はナンセンスであり、まして現代的な
「東海地方」「関東地方」の区分けのイメージでこの時代を見ることは、さらに
ナンセンスと言わざるを得ない。
867 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:23:46
なお余談だが、現代における現代的な区分けとしての「東海地方」「関東地方」を
語る場合においても、伊豆を東海と関東のいずれに含めるべきかは、とても
難しいことだと言える。
現在伊豆に住んでいる一般の人に「伊豆は東海か関東か」と質問したら、
8割〜9割くらいの人は何の疑いもなく「伊豆は関東」と答えることが明らか。
さらにいえば、伊豆どころか東駿河においても自分の住んでいる場所を関東と
認識している人はいないとはいえない。
またこれと似たような話は、伊賀についてもいうことができる。
現在伊賀に住んでいる一般の人に「伊賀は東海か関西か」と質問したら、
8割〜9割くらいの人は何の疑いもなく「伊賀は関西」と答えるだろう。
つまり現在の現地住民の認識においてさえ、そうした地方界は都道府県境に
沿って簡単に線引きできるものではない。
今の平成という時代が南北朝のような混乱した時代に共感を感じるんじゃないだろうか
昭和戦後は江戸がリンクしてたんだろうね
869 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:01:18
1466年(文正元年)7月、義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。
これは義政が父親と同じように強権的に家督を決めようとしたのでは?
今の大河はどう?
>>869 斯波家って幕閣で一番地位が高いのだっけ?
細川京兆家のように、管領職を補任される一族を分家して作ればよかったのに・・・
幕閣での出世競争に熱心になりすぎて、守護代が力を付けてしまったし(甲斐家、朝倉家など)。
斯波義淳以降、惣領に不幸が多すぎて家を纏める事が出来なかったのも痛かった・・・
その間に細川や畠山、山名などに介入されて(他の派閥からの妨害は政界では良くある事か・・・)
義将以降にカリスマ性のある惣領がいたなら・・・
畠山持国、細川勝元・政元、山名持豊などみたいにね。
>細川京兆家のように、管領職を補任される一族を分家して作ればよかったのに・・・
これは義将の直系が管領家を相続しているので京兆家と一緒だった。。。
ふと思ったけど、同じ管領家の細川一族って幕府に近い位置(畿内、中四国)に多くが守護としてあるね。
873 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 05:31:32
>>871 たぶん義政は強権的にやろうとしたけど山名持豊や細川勝元が反対したから
近臣のせいにして逃げたんじゃないかな
874 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:36:24
観世元清で大河は無理かな。
875 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 08:05:47
素人ですが失礼します。
趣味の芸事を調べていたところ、奉公衆の一家に行き当ったんで
奉公衆がどういったものだったのか詳しく知りたいのですが、何かいい本ありますか?
二木謙一の「中世武家儀礼の研究」で少し情報を得られましたが、
ちょっとテーマがずれていたもので。
また、奉公衆のリスト(御番帳というのでしょうか)を探しているのですが、
どうも見当たりません。どなたかお助け願います。
876 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 11:20:47
>>837 なるほど、ノブヤボでも東国の割には
駿河の文化値がすこぶる高いのは
そういう理由があるからか。
ノブヤボ(笑
878 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:56:18
>>876 ノブヤボでイメージが出来てる奴にレスしてもどうかと思うが、
一応マジレスすると、
戦国期の駿府の文化的繁栄は、同時期の越前一乗谷や周防山口の繁栄と
背景は同じ。
学問板でゲームを引き合いに出すってそれなんてリア厨?
一瞬、戦国板に来ちまったのかと思ったよ
一般人が縄文土器より覚えてる室町時代の人物ってどれだけいるだろう
薄い影も日を当ててやれば濃くなるものです
883 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 21:14:43
将軍と戦国大名以外の人物なら、楠木正成、吉田兼好、山名宗全、一休、観阿弥、世阿弥、蓮如ぐらいかな
雪舟とか永徳は…微妙なところかな
885 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 23:45:58
永徳は安土桃山時代だな
室町は元信が正解だが、ことほどさように狩野派は誰がいつの時代かややこしい
受験生の頃苦しめられた分野の一つだったw
886 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:12:27
永徳は室町時代の元号。
887 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 07:54:55
そういえば室町時代って「徳」の字がつく元号が多いね。
888 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 08:46:55
「永」がつく元号も多いね。
そして天文が一番長い
890 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:01:37
>>889 前近代で一番長い元号は「応永」ですが何か?
OA
892 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:33:58
ゲーム脳の奴には戦国板ってガキの遊び板があるのにな
昭和→平成でも年数計算で混乱するつーのに
あんだけころころと変わってんだもんな…
戦国厨お断わりってLRに入れてくれねーかな、まじで
896 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:33:55
>>894 室町は他の時代に比べると比較的長い元号が多いと思うが。
897 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:39:09
鎌倉幕府と江戸幕府は全国を支配する政権だったが、
室町幕府は弱々しいお公家政権だったので全国を支配する能力がなかった。
例えば各幕府の将軍のなかで公家みたいな細長い帽子をかぶっているのは室町だけ。
ほ、細長い帽子!!!!!!
改元の周辺事情なんかも、まぁ面白いね。
899 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:53:58
990 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:36:11
鎌倉幕府と江戸幕府は全国を支配する政権だったが、
室町幕府は弱々しいお公家政権だったので、全国を支配する能力がなかった。藁
991 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:37:34
例えば各幕府の将軍のなかで公家みたいな細長い帽子をかぶっているのは室町だけ。
992 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:40:01
摂家将軍や皇族将軍は被っていたんじゃないか?
993 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:40:49
でも頼朝はちょんまげ
994 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:42:07
平家も元は武士だったのにお公家化したために滅んだよね。
995 :日本@名無史さん :2007/01/16(火) 23:44:19
豊臣家も公家みたいな格好をし始めたから滅びた。
900 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:56:15
>>894 んだな。俺は平成になってから
西暦で覚えようにしているわ。
901 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 00:26:14
今川家は吉良家の傍系というが
戦国期にはその傍系が吉良家より目立っているな。
吉良家はなにやってたのか。全然目立たんな。
でも西暦って味気なくね?便利だけど
>901
「寛政重脩諸家家譜」を見ると吉良家の当主が松平広忠の烏帽子親だったように読める記述がある。
妄想半分に聞いて欲しいのだが、ひょっとしたら西三河の国主だったけども、徳川に不都合なので
その事跡が消されたのかも。
室町が影薄い理由って開幕の経緯がややこしいのと、室町ってどこ?って点じゃないか。
将軍の個性とか権力争いの騒動は一番印象強いけど。
>>897 >例えば各幕府の将軍のなかで公家みたいな細長い帽子をかぶっているのは室町だけ
おいおい、見当違いも甚だしいぞよ
鎌倉殿、少なくとも実朝から守邦までは確実にかぶっていた
頼朝と頼家もかぶっていたと思うが
せめて烏帽子と言ってクレヨン
そこで皇紀2667年ですよ。
909 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:53:18
>>904 戦国の吉良家ってよっぽどショボかったんだな…
名ばかりの足利一門か。
910 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 10:14:21
当初は南北朝分裂、中期以降は戦国時代。
安定感がないから影が薄い。
教科書に出てくる将軍は尊氏、義満、義政、義昭くらい?
911 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:04:14
>>904 吉良は形式上の三河国主だったから、上野介が高家肝煎になれたと聞いたのだが。
912 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 11:08:00
>>906 江戸時代だって、素襖を着るときは立烏帽子だよな
913 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 20:03:38
チーン、いっきゅうさ〜ん
は〜い、チャーララチャーララチャラチャッチャ。
>911
形式だけでなく実際上も三河の国主で、松平広忠の岡崎城奪還を
後見したように深読みできるわけですよ。
まあ、公式の記述では隣国の今川家の援助を仲介しただけのように
書いてありますが。「徳川」の公式資料が「吉良宗家断絶後」に
書いたことですからね。
915 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 16:00:29
>>904 信忠か清康の娘が吉良に嫁いでいなかったか?
親戚関係にあるのだったら、烏帽子親になっても不思議ではない。
>>912 素襖に立烏帽子という組み合わせ自体、近世にしかあり得ないよな。
鎌倉・室町だと、立烏帽子に対応する服装はどう考えても直衣。
立烏帽子の場合、素襖どころか直垂でも違和感がある。
>915
でも、片諱までもらってますからねえ。
天文8年に吉良持広から「広」の字をもらって広忠となり、
その3年後の天文11年に岡崎城奪還を果たしている。
まあ、吉良は言われるほど三河での力は弱くなかったのではと
思われるわけです。まあ、「全てお前の思いこみだ」と言われて、
反論できるほどの材料を持っているわけではありませんが。
917 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 03:00:26
>>916 偏諱は本来的には烏帽子親子関係を示すものであって、必ずしも主従関係を示す
ものとは限らない。
偏諱を与えることは、本来的には同じ字を持つ者同士で連帯意識を深めるための
慣習であり、そのため単に親族間や友好関係にある家の間で行われていることも
多い。
例えば室町後半期の若狭武田氏の当主は、細川京兆家の当主を烏帽子親として
元服することが多いため、名前に「元」の字が入っていることが多い。
しかし若狭武田氏が細川京兆家に臣従しているなどとは誰も思わない。
もっとも烏帽子親と烏帽子子の関係が主君と臣下の場合は、烏帽子親子関係を
結ぶこと自体が即ち主従関係の再確認ということにもなり得るし、特に
足利義満以降の室町将軍は、烏帽子親子関係(偏諱の授受)を主従関係の確認に
有効的に利用した側面はある。
しかし室町期以降においても、例えば将軍の公家に対する偏諱に象徴される
ように、明らかに主従関係の確認という意味ではない偏諱もあり得る。
918 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 21:19:28
足利義教はもっとドラマ化されてもいいキャラだと思うが。
次々と政敵を倒し権力を固めていく非情さはかっこいいし、
最期のあっけなさも、信長に引けをとらない。
ただ登場人物に誰一人知名度の高いものがいないorz
朝青龍主役の今の相撲界みたいな感じだな。
主役以外がかすみすぎ。
よくわからんが主役って信長あたり?
戦国も室町だし、そういう意味では室町が一番影うすくないのに
室町だということを忘れて、逆転して戦国時代って言葉だけ一人歩きしてるのは不思議だな
室町時代が影薄いんじゃなくて室町幕府が影薄いんじゃないか
水戸学以降、室町幕府=悪と言う概念ができたのも関係してるのかな
信長は室町時代より安土桃山時代って印象だなぁ
924 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 13:35:32
室町時代だと戦国を入れなくて考えるんじゃないか
戦国時代の前期もかなり人気がないと思うけど
戦国時代は安土桃山時代の事とか言うレスを某所でみて放心した
>>918 三宝院満済(黒衣の宰相だっけ?)、山名宗全
>>918 万里小路時房
世阿弥は途中退場か
あと持氏
928 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 16:53:37
満済は日本史板では有名だが一般人100人中何人が知ってるんだ?
世阿弥ぐらいかな、有名なのは。山名宗全は日本史の成績がよかった人は知ってる
山名宗全は細川勝元とセットで義政時代の人ってのが一般のイメージなんだよな。
930 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 00:57:13
>>927 持氏は上杉憲実とセットで登場
しかし、憲実もこれまた知名度低いな。足利学校はけっこう知名度高いのだが
931 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 01:17:14
世間の知名度なんて
上杉ならばせいぜい戦国期の上杉憲政ぐらいしか知らんわな。
足利も知名度あるのはせいぜい義輝、義昭程度。
戦国前期と戦国後期の分かれ目ってどこだろう?
早雲とか宗滴は普通は知らないよな、教科書レベルというより戦国に詳しい
人間の間で話題になる感じ。
>>931 義昭は信長と絡んでるお陰で大河出演率高いってのもあるだろうが
義輝知ってるやつが義満尊氏知らないって、それ戦国厨じゃね?
だったら上杉は謙信しか知らないヤツの方が多いんじゃね?
義教の話題からなぜか戦国期に移行しちゃうの見て悲しくてつい・・・
美術史的には義満義政は両巨頭
義昭と見て、ギショウかと思ったが最後の公方の方か
義教といえば籤引き、比叡山延暦寺、万人恐怖、首は寺にポイ捨てがキーワードか?
比叡山焼き討ちは信長と思ってる人に、オリジナルは義教だと教えてやらんと
一条兼良も義教時代だっけか?
一休さんのおかげで義満は滑稽なおっさんとして有名なんじゃ
首塚のある安国寺=アニメ一休さんのいたお寺?
うは
首塚つーか、宝篋印塔です・・・
アニメ一休で架空キャラ「寺社奉行蜷川新右衛門」となったため
有名になり損ねた蜷川親當
尊氏や義満より義昭のほうが有名という現状は
はっきりいって異常としか思えないんだが。
943 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 23:38:17
たまにでいいので足利義栄様のことを思い出してください。
義勝もね
945 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:11:55
資料が誇張された表現が多く、とても資料にならない。資料消失とともに室町文化は闇に葬られた
946 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:21:33
秀吉が関白になった時点では
まだ義昭は将軍だったと思うが
将軍のことは完全無視?
実権のみならず名目上の権威においても秀吉が上になっちゃったんじゃねえ
948 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:27:16
北朝、南朝って北朝鮮、南朝鮮みたいで嫌だよね
義勝てw
将軍になってすぐ腹こわして死んだヤツだろ
思い出しようがないだろ
>938
そういや、一休さんが厭世的ってか、反権威的になった原因って、
義教の介入で皇位継承できなくなったからだったっけ?
すると、一休さんも、いくらかは活躍の余地があるよな。被害者として。
将軍になれなかった人達のことも、時々でいいから思い出してあげてください。
義視とか義維とか
一休はむしろ後花園擁立に動いたのではなかったかな?
やっばり風狂は養叟へのあてつけだろうな
>>932 戦国前期は細川家が畿内で勢力が強い時
後期は三好長慶が実験を握ったあたりから
954 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:11:23
北山文化の義満
万人恐怖の義教
東山文化の義政
義持にもなんかください
幕府黄金期なのに
つ[もみあげ]
958 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 22:42:09
次スレは「義教〜義勝の室町時代を語るスレ」でどうた?
あまりに影薄すぎて、速攻DAT落ちかw
義教のどこが影薄いんや、こら
義勝は………
細川勝元の勝は義勝の勝だよね?
義持、義量、義教、義勝の4代が室町時代で、その前後は
南北朝と戦国にかかってるから別枠でとか言ってみる
てか、この4人て日本史の教科書本文にでてるのか?
以前、本屋で中学の参考書を見比べたことがある。
一種類にだけ(いちばん詳しそうなやつ)義教の名前があった。
俺的には南北朝も戦国期も室町時代というイメージだな。
平安時代での初期、摂関全盛期、院政時代みたいな。
信長登場以降は近世だと思っている。
964 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 05:06:00
イメージは似てるけど
南北朝は天皇家が2つに割れてるから明らかに室町と違う時代だよ
明らかに違うって…
南北朝も戦国期も室町時代の出来事じゃねーの?
朝廷基準にしたら、他の時代区分もかわるんじゃねーの?
イメージは似てるけど
アメリカ統治時代はアメリカと日本とに割れてるから明らかに昭和とは違うよ
って事?
>>965 >南北朝も戦国期も室町時代の出来事じゃねーの?
言われてみれば確かにそうだなぁ・・・
1573年の室町幕府崩壊までは紛れもなく「室町時代」。
毛利元就、今川義元、長尾景虎、武田晴信らは
どれもみんな室町時代の人物だ。
>>967 占領時代は外交史上は違うね。
それはともかく、「やたら影が薄い」ということは、南北朝
時代と戦国時代を除く狭義の室町時代という意味だろ。
このスレの渋さを守るにはこの解釈がイイと思う。
>>966 一般人にはあまり知られてへんから
まあよろしいやないどすか。
室町の「花の御所」で幕府が機能していたかどうかで
このスレの時代を画することも考えられるのでは?
971 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 20:44:44
天皇家が2つに別れたことの大きさが
分からない人がいるようだ
南北朝時代と室町時代が完全な別物だとすると
室町時代はいつから始まったのだろう?
>>966 1392年に北朝に皇位が移ったと考えるべきだと思うが
>>972 ネタで言ってるの?
1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまで
974 :
973:2007/02/04(日) 00:16:11
1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一する所から
の間違い
後深草・亀山天皇以降は鎌倉時代じゃないってことか?
両迭時代とでもするかw
>>975 マジで言ってるの?
天皇が二人同時にいたことの違いが分からないとは・・・
>>976 後深草・亀山天皇の名前を出せるなら
それなりに日本史の知識のある人だろう
本気も本気、魂を込めた男の本気だよ
じゃあ安徳・後鳥羽天皇の時期は東西朝時代ってことでw
天皇がいなかった時期はどうなるのさ?
中大兄皇子の称制時代とか
>>976、
>>977 天皇が二人同時にいたことの異様さは十分わかってるつもり。
ただ、それと時代を区分することとは別問題だと思うんだな。
所詮、時代区分なんて便宜的な呼び方なのであって
時の流れとともに、世の中は変化していくけど常に繋がっている。
ぷっつり切れてるわけじゃない。境界は、あいまいで当たり前。
981 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 03:06:02
でさ、やっぱり次スレは室町第4〜7代時代の影の薄さについてがテーマだよね
新・時代区分案
鎌倉時代 1185年〜1333年
建武・南北朝時代 1333年〜1392年
室町時代 1392年〜1493年
戦国時代 1493年〜1573年
天正・慶長時代 1573年〜1615年(「安土桃山時代」なる名称は破棄すべき)
江戸時代 1615年〜1868年
983 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 09:57:18
個人的には戦国時代の始まりの時期は1507年の永正の政変からがいいと思っている。
建武中興と南北朝は分けなきゃいけないんじゃないの?
>>971の基準に従えば。
建武期は一応、天皇は一人だったんだから。
986 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 10:57:46
971基準で光厳帝期はどういう位置付け?
990
次スレないけど埋め立てか?
>>969 一般人には南北朝時代もかなり影が薄いよ
>>981 足利第2代、第9代、第11代、第12代、第14代も影が薄い
義輝も義教と同じくらいだろう
995
>所詮、時代区分なんて便宜的な呼び方なのであって
時の流れとともに、世の中は変化していくけど常に繋がっている。
ぷっつり切れてるわけじゃない。境界は、あいまいで当たり前。
単に南北朝時代、室町時代は一般の説を述べてるだけで
新説でもなんでもない
東西時代、中大兄皇子の称制時代とやらの
新説を述べたいなら学会で発表してください
天然か?
それじゃ
埋めて
おきますね
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。