871 :
日本@名無史さん:05/03/04 23:46:48
邪馬台国は、筑後平野。
平塚川添遺跡がそれに該当するのではないか。
872 :
日本@名無史さん:05/03/04 23:53:20
「王権の誕生」は、かなり幅広い時代を扱ったむものですが、ここでは、邪馬台国関連の時代について、紹介します。
1:二世紀の段階では、包括的(畿内、九州を含む)王権は誕生していない。
2:三世紀初頭、纏向遺跡が誕生する。これこそいわゆる大和政権(寺沢説の用語では、「新生倭国」)の成立によって建設された、王都である。
3:纏向政権(新生倭国、普通にいう、大和政権。面倒なので、纏向政権で統一)は、九州から、瀬戸内、畿内にいたる諸勢力が共同で樹立した、「対等連合政権」(この語を寺沢は使用していない。私が寺沢説を理解するために使用する語である。妥当なものと思う)である。
寺沢説の特徴は、纏向政権を、それまでの唐古・鍵遺跡とは断絶した(発展ではなく)「対等連合政権」であるとるところに、特色がある。つまり、大和勢力が、他地域を屈服させた、とう従来の立場に真っ向から対立するのである。
また、纏向政権成立の段階に、北九州(つまりは伊都国)が参画しているとするのにも、注意したい。
873 :
日本@名無史さん:05/03/04 23:54:20
さらに、寺沢は、諸地方勢力が、纏向に出先機関を置いていたとする。
4:さて、大陸との関係である。
寺沢によれば、三世紀初期においては、大陸系文物(公孫氏系)の量は、北九州が畿内を凌駕する。「対等連合政権」とするのも、そのためだろう。北九州伊都国の隆盛は、三世紀前半を通してつづく。
5:卑弥呼は、むろん、纏向政権の女王である。「倭韓郡に属す」で公孫氏に属した倭は卑弥呼であり、公孫政権滅亡とともに、卑弥呼は魏に属することになる。
「卑弥呼の鏡」は、画文帯を中心としたもの。△鏡は、三世紀後半以降の倭鏡とのこと。
874 :
日本@名無史さん:05/03/04 23:57:14
6:ここで、問題なのは、伊都国が、寺沢説では、「畿内と対等」になって
しまうことである。三世紀初期において、伊都国が纏向政権の勢力圏にあり、
しかも大陸文物の優位を誇るとなれば、このような解釈とならざるをえない
のだろう。纏向政権初期においては、伊都国が大陸通交のメイ
ンとなっていたということになってしまうのだから。しかし、
「世々王有り、皆な女王國に統屬す」の記述上、大いに問題である。
しかも、「大率」というのは、
伊都国が纏向政権の一員として管掌した役職だというのだ。
7:その後の纏向政権について。
対等連合政権の諸勢力首長は、畿内に常駐し、やがては畿内豪族と
なった(!)巨大古墳の密度が畿内で高いのは、実に、彼らが本国
ではなく、畿内に古墳を建設したためだという。
つまり、伊都国が三世紀後半衰退するのは、伊都国王が、本拠地を
畿内に移したためらしい。他の地域でも、同様だとのこと。
875 :
日本@名無史さん:05/03/04 23:58:16
寺沢がこのような主張をするのは、
1:纏向政権成立期の、諸地域の独立性
2:伊都国の問題
3:纏向遺跡・遺物が各地のローカリティを併せ持つ問題
4:初期の畿内前方後円墳が、異常に同時代並行で建設されている問題
5:さらに、畿内前方後円墳が各地のローカリティをもつ問題
を踏まえたものらしい。
876 :
日本@名無史さん:05/03/04 23:59:53
ついに北條信者は逃亡したな。
877 :
日本@名無史さん:05/03/05 05:08:35
三世紀初期において、
1、伊都国が纏向政権の勢力圏にある
2、伊都国の大陸文物の優位性
といってるけど、
1、の前提が、「畿内からの土器の搬入」だけだろ。
そんなもの、ただの「貿易」がされていたという状況証拠でしかない。
>「世々王有り、皆な女王國に統屬す」の記述上、大いに問題である。
問題なのは、「卑弥呼は畿内説にいたことを前提にしてるから」であって、
こういうのを「循環論法」という。
>>873 >5:卑弥呼は、むろん、纏向政権の女王である。
>「倭韓郡に属す」で公孫氏に属した倭は卑弥呼であり、
>公孫政権滅亡とともに、卑弥呼は魏に属することになる。
なんで、ここだけ、文献に頼るの? しかも卑弥呼かどうかも断定も出来ない。
878 :
日本@名無史さん:05/03/05 07:53:15
庄内というとちょうど神宮皇后のころですね。百済本紀によると天皇と皇太子が崩御したらしい。
これにより、自生説が裏付けられますね。
コトシロ主が蘇我だというなら話は分かるが、
>>874 >対等連合政権の諸勢力首長は、畿内に常駐し、やがては畿内豪族と
>なった(!)
このあたりの論法に飛躍がありますね。
まあ、各地の豪族たちが郎党を率いてマキムクに上り、大王に直接仕えていた
というのはあり得るとは思いますが。マキムクにおける各地の搬入土器が証左
であり、「土器=人の流れ」なわけで、北部九州は畿内宮廷に直接参加は
してはいなかったと思います。
遠方だったというのが一番の理由であろうが、必然的に畿内王権における
序列では下位に甘んじていたと。実力は別として。
北部九州は徐々に畿内王権に既得権益を奪われ、衰退していきます。
戦争による制圧ではないから、緩やかな変化だったのでしょう。
880 :
日本@名無史さん:05/03/05 22:34:58
なんかレベル低いのが一人いるな。
881 :
日本@名無史さん:05/03/05 23:27:02
882 :
日本@名無史さん:05/03/05 23:38:14
>669
>さらに、文献の立場からは、伊都国王が中国王朝から倭国王に
>任命されていることは広域の支配の傍証とはなるでしょう。
>もちろん、私は、
>T 伊都国を中心とした九州西部四国地域
>U 4隅を共有する山陰地域
>V 特殊器台を共有する吉備地域
>W 阿讃地域
>のU〜W地域において、そのような政治的・経済的ブロックが
>形成されていたことを否定するつもりは毛頭ありません。
それは疑問。
第一そういうのは国家とは言えない未熟な部落の集まりにすぎない。
都出比呂志の言う首長制(首長は存在するが階級的支配者でない、
状集落の内廓に首長が住み、外廓内部に成員が住むという差異は
あるが、首長と成員の両者が共存する、首長一族の墳丘墓と一般
成員の共同墓地とに分かれるが、隣接しあって共存し、隔絶して
いない。)の段階にすぎない。
倭国なんてトンデモだろ。
883 :
日本@名無史さん:05/03/05 23:42:55
>879
>というのはあり得るとは思いますが。マキムクにおける各地の搬入土器が証左
>であり、「土器=人の流れ」なわけで、北部九州は畿内宮廷に直接参加は
>してはいなかったと思います。
巻向の土器は労働力の移動によるものなんだから、政治的に優位な九州
の土器が少ないのは当たり前。
なんども当スレッドで指摘されてるぞ。
>>883 その前の
>各地の豪族たちが郎党を率いてマキムクに上り、大王に直接仕えていた
を読んでよ。
北部九州が畿内王権に直接参画していたなら、兵士を連れていっていた筈。
当時の兵士が、君の言うところの「労働力」とどう違うのか説明して
もらいたいな。
885 :
日本@名無史さん:05/03/06 00:10:51
>884
アホですか?
巻向は祭祀都市で、居住区はありません。
886 :
名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/06 00:14:56
土器が人の流れ?だと、
言語障害だな。
100年単位の広域の流れは主流の人の流れ、
それ以下は局地的な戦闘の結果で奴隷の流れだ。
土器は奴隷が作っていたからな。
つまり、
畿内系の土器が九州に点在したり、
出雲系・東海系の土器が巻向に大量にあるのは
畿内が本来の正統の王権ではないことの証明だ。
887 :
日本@名無史さん:05/03/06 00:14:58
>879
そのとおりだ。
このスレッドで指摘されていた畿内ローマ説はもっとも
説得力があると思う。畿内勢力の北九州文化の模倣や北
九州勢力の堕落と弛緩は、ローマ、ギリシャのそれと
まさに符号している。
888 :
日本@名無史さん:05/03/06 00:16:29
土器の流れが権力の流れなら東海地方が倭王権の主体ってことだぞ。
そんなのありえんだろ。
>>888 >土器の流れが権力の流れなら東海地方が倭王権の主体ってことだぞ。
なんでそうなるかなー。
「東海の王たちが兵士を引き連れてマキムクに出仕していた」でいいだろ。
890 :
日本@名無史さん:05/03/06 00:25:12
>>885-886 口汚く他人を罵っている割に、自分が書いている内容が意味不明
なのはどうだろうかw
もう少し分かり易く書いてくれない?
892 :
日本@名無史さん:05/03/06 04:13:33
纏向と同時期に、東海に巨大都市が存在したことをどう説明するわけ?
纏向は、交易の利便性から生まれた「市場」であって、
王権の主体は東海にあったというのが、最新の成果となりつつあるわけだが。
893 :
日本@名無史さん:05/03/06 06:45:34
応神は東海から来た
894 :
日本@名無史さん:05/03/06 09:47:43
>879
そのとおりだ。
このスレッドで指摘されていた畿内ローマ説はもっとも
説得力があると思う。畿内勢力の北九州文化の模倣や北
九州勢力の堕落と弛緩は、ローマ、ギリシャのそれと
まさに符号している。
似非方丈を挑発しているヴァカが一人いるみたいだが、あまりの議論のレベルの低さに馬鹿馬鹿しくなったのだと思われ。
>>887とか前に完全に論破されてるし。
>>857,
>>881なんか、本当は相手にされなくて淋しいだけじゃないの?
>>781,
>>771 だから比較の対象としてローマやスパルタとするのもどうかと思うよ。同じ意味で。
それにいろんなことが歴史ではありうるので、
>>781のような否定はどうだろ?当時の軍制って本当にそうなの?
ヒミコの周りとか常備軍がいたようにも受け取れるけど?
>>787 議論がもりあがっていいること自体、影響があると普通に思いますけどね。根拠の変わらない、古くからの自生説が錆び付いていることに気がつかない方がおかしいですね。
ここに登場する自生説厨は言葉汚く北條や寺沢を罵倒するだけで具体的な批判はあまりない。自生説の根拠は古くからの定理で、それらへの批判については無視する。それだけですね。
それと「見直す」ちゃんと読んだのですか?
3人のうち一人は東遷説なんか言ってませんが。
読んでもないのに支離滅裂とかよく言えるな。支離滅裂な頭は誰だろうか?
一応、聞くけど、畿内=サヌカイト軍団説って、ネタだよな?w
897 :
日本@名無史さん:05/03/06 10:59:07
>892
>王権の主体は東海にあったというのが、最新の成果となりつつあるわけだが。
木製兵器で武装した東海軍団が畿内サヌカイト軍団に馳せ参じたってとこですね。
898 :
日本@名無史さん:05/03/06 11:14:30
支離滅裂な頭は誰だろうか?
669 :日本@名無史さん :05/02/27 11:46:41
>602
まず、北九州地域が
・政治的には青銅器威信財、祭器などを共有する地域であり、
・経済的に見てもこの地域内において、鉄、石斧、石包丁といった
生産財が流通する
ことは考古学的に確認されています(下條等)。
また、伊都国・奴国地域を中心に威信財が配布され、この地域を
中心にピラミッド型の階層が形成されていたのではないかとの
推測がなされています(原田、寺澤等)。
さらに、文献の立場からは、伊都国王が中国王朝から倭国王に
任命されていることは広域の支配の傍証とはなるでしょう。
もちろん、私は、
T 伊都国を中心とした九州西部四国地域
U 4隅を共有する山陰地域
V 特殊器台を共有する吉備地域
W 阿讃地域
のU〜W地域において、そのような政治的・経済的ブロックが
形成されていたことを否定するつもりは毛頭ありません。
しかし、T地域がこれらより少なくとも考古学的に見れば政治的
・経済的ブロック形成が強く確認されていることは確かなことと
言ってよいのではないかと思います。
899 :
日本@名無史さん:05/03/06 11:38:12
>>897 >木製兵器で武装した東海軍団が畿内サヌカイト軍団に馳せ参じたってとこですね。
古代の戦争の実像をまったくわかってないね。
鉄剣を持ってたとして、何本あったの? その兵士の数は?
短い鉄の棒振り回して、実戦でどれくらい有効だと思う?
戦争で最も有効なのは、弓矢と竹槍。これ最強。
900 :
日本@名無史さん:05/03/06 12:03:16
>896
マジだろ。畿内には鉄がないのだからしょうがない。
901 :
日本@名無史さん:05/03/06 12:05:24
関東や東海の畿内5式は、畿内勢力の関東・東海征服の証拠じゃないの。
畿内が弱いというのは先入観にすぎないと思う。
902 :
名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/06 12:42:58
まったくレベル低いな。
畿内5式で関東東北が征服できてれば
5世紀から奈良時代だ。
馬鹿もん。
903 :
日本@名無史さん:05/03/06 12:50:21
東海の土器が畿内に持ち込まれたんじゃなくて、
東海の土器が周辺国全体に散らばってるんだが。
つまり、勢力は東海が上。
904 :
日本@名無史さん:05/03/06 12:52:45
そうだな、畿内は東海の傘下だ。
>>895 >
>>781のような否定はどうだろ?当時の軍制って本当にそうなの?
> ヒミコの周りとか常備軍がいたようにも受け取れるけど?
「守衛」と「国体保持のための軍事組織」を一緒にするない。
初期ヤマト朝廷の主力軍は諸豪族の混成軍であったが、
その後大王家の権威が高まり→伴(大伴・物部)
→名代を基盤とした舎人軍と発展していった、とみるのが一般的だが。
何か異説があるの?
>>900 だから、畿内の鉄は低湿地で溶けたんだって。
考古学の徒なら、そんな事例があることも知ってるだろ。
そりゃ北部九州とかと比べれば、畿内は圧倒的に鉄が少なかっただろうけど、
まったく鉄が無かったみたいに書くことは、どうかと思うぞ。
要は、考古学専門バカが、畿内在地勢力を必要以上に執拗に貶めているだけ。
地方出身者(九州?)の僻みなんだろう。
908 :
日本@名無史さん:05/03/06 15:38:05
大和朝廷=畿内≠邪馬台国
とすれば、ここに出てくる大抵の矛盾は説明可能なわけだが。。
「大和朝廷=畿内=邪馬台国」で問題ないよ。
>>905 学会でも、守衛や近衛(権力者の身辺護衛)と常備軍の違いが全然わかっていない研究者が多くて困る。
そういう人間は、軍事を未だに「階級の暴力装置」としてしか理解していないから
両者の違いにつっこむとあからさまに不機嫌になったりするので・・・。
院卒業してから文句付けろって?
そりゃそーだけどね。
911 :
日本@名無史さん:05/03/06 16:44:48
>>906 加工技術も劣ってたのだが、それも低湿地のせいか?
考古学者ならもっと証拠を重視しろ。
畿内に鉄が無くとも、畿内王権は十分すぎるほど証明できる。
912 :
日本@名無史さん:05/03/06 16:49:49
>>909 邪馬台国を持ち出すとスレが直ぐ荒れ出すぞ
オレは知らないぞ
「生口」の性格を中国側が名づけたとおり「戦争捕虜」と見做せば
個人所有の財産である「奴婢」とは別に、「国家」所有(王所有とは違う)奴隷としての「生口」制度が仮定できます。
そして、これらの「国有」財産である生口の捕獲及び管理の為に武力組織としての職能集団が必要となるでしょう。
それは、かなり常備軍に近いものだと思います。
914 :
日本@名無史さん:05/03/06 17:38:45
>>913 >「生口」制度が仮定できます
仮定しなくても、江戸時代まで奴隷はいたよ。奴隷貿易もしてたし。
東北地方の農民なんて明治以後も半分奴隷だしな
>914
いや、仮定したのは、「国有」奴隷制度としてですよ。
例えば、後世の物部氏などにつながる「職能集団(=常備軍)」があって、
それが、「公有財産」としての奴隷(=生口)を管理していたんじゃないかと。
917 :
名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/06 18:08:20
まあ、生口とか書いても
5色の賎民のどれか知らないレベルなんだろうな。
>917
そうは言っても、魏志では「奴婢」と「生口」は、使い分けてるわけだが・・・
>>889 服従する地方有力者たちが兵士をつれて都に集住する
政治制度はこの当時まだ成立していません。残念!
サヌカイト原始人軍団=畿内軍なんてチョロイもんです。
鉄のやじりで、簡単に死んじゃいます。
こりゃ、ゲーム感覚だ!!
・・・辛くも生き残った神武の強がり