おまいらに官位を与えてやるスレpart9

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952征夷大将軍左大臣源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :05/03/16 01:22:06
陣触れ!みな、1000取り合戦じゃ!ネタを出しつつ1000目指して頑張れ。
1000ゲトーした者には、千姫を・・・。というのは冗談。

よし、いくどー。ネタ一発といきたいところだが、明日にする。
953日本@名無史さん:05/03/16 01:51:46
将軍就任おめでとうございます。
ところで、沙汰やみになっていた三戦板よりの使者受け入れの件、
いかが処置なさることになったのでございましょうか?
公卿の方々の御意向は、なかなか我ら地下の者には伝わってまいりませんので、
お知らせいただけるとうれしく思います。
なお、三戦側は現在も遣使の方針を変えていないようです。
ネタは帰宅してからということで・・・



あ、それじゃ1000に間に合わないじゃん・・・orz
>>左大臣様
征夷大将軍御就任おめでとうございます。
これからの幕府の発展、心より祈っておりまする。
956畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 08:45:04
おおっ!残り50を切ったか!!
皆の者ぉ!千取合戦、ここからが正念場ぞぉ!!
進めや、者どもぉ!!
957日本@名無史さん:05/03/16 09:09:50
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958佐竹重隆 ◆lr.SvCnhCc :05/03/16 09:58:20
備中、伯耆国境より天駆ける白馬にて

六条左大臣様、征夷大将軍御就任まことにおめでとうございます。
959畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 10:34:08
ネタを以って、押し出せぇい!!

《御霊・橘逸勢》
逸勢の生年は不詳である。彼の祖父は奈良麻呂で、嵯峨天皇皇后の嘉智子は共に祖父を同じくする
従妹でもある。

延暦23年(804)に最澄・空海らと共に入唐。若い頃から文学・書道に秀でた事が知られ、彼
の地の文人からは「橘秀才」と呼ばれ賞賛されたという。帰京後は従五位下に任じられ承和7年
(840)には丹波権守となる。彼が内裏の諸門の額を書いたのはこの帰国後の事であった。しか
し承和7年(840)に淳和上皇が崩御し、承和9年(842)7月15日に嵯峨上皇が崩御。元
々藤原氏の母を持たない皇太子恒貞親王(父は淳和天皇、母は嵯峨皇女正子内親王)は、嵯峨上皇
の力によって皇太子位に納まっていたものの、嵯峨上皇という巨大な存在の喪失によりその立場を
危うくさせていた。その2日後に、逸勢は春宮坊帯刀伴健岑と共に皇太子恒貞親王を奉じて謀叛を
企てた廉により捕らわれた。逸勢は橘姓を剥奪され非人と改めさせられ、『橘逸勢伝』によれば伊
豆国に配流の途中遠江国板筑駅で病死したという。この承和の変は藤原良房の陰謀といわれ、藤原
氏の政治的基盤は確立された。恒貞親王は皇太子を廃され、代わって道康親王(父は仁明天皇、母
は藤原良房の妹・順子。後の文徳天皇)が立太子した。

逸勢の娘は彼の檻送に従って東海道を下り、彼の死後は尼となり妙沖と名乗った。逸勢が復位した
のは嘉祥3年(850)の事。正五位下を贈位され、本郷に帰葬も許され、また従四位下を追贈。
貞観五年(863)の神泉苑での御霊会には御霊の内の一人でもあった記録が残っており、彼の怨
霊を恐れていた事が窺い知れる。また終焉の地といわれる静岡県伊佐郡三ケ日町本坂には、妙沖尼
が父の菩提を弔って建てた庵の跡に逸勢を祀った橘社が建てられている。
960征夷大将軍左大臣源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :05/03/16 10:39:34
それがしの一存もあるが、朝議の決しないものを一廷臣が明らかにするのものぅ。

強いて言うのなら、御所での議事推移を見守って頂きたい。今後、何らかの沙汰はあるやもしれんしな。
961征夷大将軍左大臣源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :05/03/16 10:45:31
橘氏は祖父 奈良麻呂が乱をしてから、藤原氏の後塵を拝する地位に成り下がった。
それでも、橘氏からは壇林皇后を出すことが出来ただけに皇別氏族としての体面を高め、
家を維持するこど出来た。政略とはいえ、人物的には臭みのあった人物として書かれる
ことも多いだけに藤原氏からは邪魔な存在だったのかもしれんな。
橘秀才と弘法大師は嵯峨上皇によく侍ったというが、崩後は惨めよな。
壇林皇后はどんな気持ちだったかのぅ。

しかし、この政変なくば我が清和源氏は誕生しなかったわけでそれが皮肉よな。
962日本@名無史さん:05/03/16 10:53:00
瓦板は便利だった…
963日本@名無史さん:05/03/16 11:03:51
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964畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 12:28:08
>>963
今更、待てるかぁ!!構わぬ!!ネタを以って、さらに押し出せぇい!!

《冥官・小野篁-1》
弘仁6年(815)陸奥守となった父・岑守と共に任国に下向、同10年帰京。嵯峨天皇は岑守という文人
を父に持ちながら少しも学問を顧みる事なく、馬ばかりに狂っている篁を「弓馬の士」となるかと嘆いたと
いう。これを聞いた篁は憤慨して学問に志し、僅か3年後定員20人という難関を突破し21歳で文章生の
試験に及第した。この嵯峨天皇の御代における彼に才学に関する逸話は『江談抄』『宇治拾遺物語』『きの
ふはけふの物語』『十訓抄』などに詳しく、『篁物語』の異母妹との恋愛もこの大学時代の事である。天長
元年(824)巡察弾正となり官吏としての第一歩を歩み始め、その後昇進を進めていく。仁明天皇即位に
伴い新東宮恒貞親王(後に廃太子)の東宮学士となり弾正少弼となった。
965畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 12:29:19
《冥官・小野篁-2》

翌承和元年(834)任遣唐副使。初めの渡航は大風の為に失敗し一時中断。承和4年(837)の渡航も
失敗し、大使藤原常嗣と共に大宰府に留まる事となる。しかし再度の出発を目前に、篁が病を理由に乗船を
拒むという事件が起こった。また篁は「西道謡」を作って遣唐使を風刺。それが嵯峨上皇の逆鱗に触れ、死
一等は許されたものの隠岐島に配流される事になってしまう。遣唐使は副使不在のまま渡唐。因みにこの承
和5年をもって事実上の派遣は最後となり、次第に日本は国風文化が花開いていく事となる。

遣唐使が無事に大役を果たして帰京した事や、篁と親密であった嵯峨上皇の力もあったのだろう、1年余り
で帰京が許された。承和14年(847)には従四位下参議(兼弾正大弼)に任じられた。後に野宰相、野
相公と呼ばれる事になるのはこの参議という官職が唐名を「宰相」という事に由来する。嘉詳2年(849)
頃から病を得、仁寿2年(852)一旦は平癒するものの再び再発。12月には家に就いて従三位を授けら
れたが22日に没。時に51歳。
篁は「身長六尺二寸」(約186センチ)という大男であった。そしてこの大男は何かしら人とは変わって
いた。白楽天にも比する漢才は人々を驚かせた。彼が口を開けば、美しい詩歌が零れる。病と称して国命に
背き、配流となる。当然その行動は理解し難い。法によって事を裁き人を裁く姿は薄気味悪い印象を周囲に
与えた。様々な冥官説話はこうした篁に当然といわんばかりに結び付けられていく。人々はそんな彼を「野
狂」と呼んだ。「狂」とは他と異なる人物という意味合いがあるのである。
966日本@名無史さん:05/03/16 12:34:41
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967藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :05/03/16 12:55:38
我らもいざ参らん!!
968畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 13:02:06
方々ぁ、残りもあと30余りを残すのみで御座りまするぞぉ!!
千取合戦も終盤に差し掛かって御座れば、いざ、御出会い候えぇ!!

>>前中務大輔殿
前中務大輔殿に遅れをとるわけにはいかぬぞぉ!!
それぇ!陣をさらに前へ押し出せぇい!!
969日本@名無史さん:05/03/16 13:03:25
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970征夷大将軍源氏丸 ◆7TFwpvkt0s :05/03/16 13:29:04
者ども(幕臣ども)、1000を取ったものには、一国一城を与えようぞ!
天下は幕府軍の手に。畠山に遅れをとるでないぞ。
勝軍地蔵山城の先遣隊をはじめ後詰めの猛者どもにも陣触れを発せよ。
971永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :05/03/16 13:30:55
まじっすかぁー、がんばっちゃうよおいら!!
972日本@名無史さん:05/03/16 13:33:37
くっだらねースレだな
973藤玄隠 ◆eENusiPA8M :05/03/16 13:35:08
1000はぜひ朝廷で。。
974日本@名無史さん:05/03/16 13:36:10
>>971>>972

オマイラ、イラネ
975畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 14:09:12
戦は、兵の衆寡で決するものに非ず!!
引くなぁ!!現スレ主は、我等が院庁別当鎌倉大納言殿なるぞぉ!!
1000を、別当殿に献ずるのじゃぁ!!それぇ、押し出せぇい!!

《謎に包まれた御霊・文室宮田麻呂》
姓は「ふんや」と読み一般的には文室の字をあてる。その生年没年共に不詳であるが、承和年間の記
録が残っている事から、仁明天皇の御世の官僚という事になる。宮田麻呂は承和7年(840)に筑
前守となり、任地に赴き、その地で新羅人・張宝高と知り合う。張宝高は天長元年(824)に清海
鎮大使に任ぜられ、朝鮮半島西南海域の莞島に設置された清海鎮を本拠地として海賊の取り締まりを
勤め、その傍ら唐や日本との海上貿易に従事していた人物である。しかし、承和の当時は日本と新羅
の国交が絶たれていた。張宝高も承和7年(840)12月に使者を大宰府に送り朝貢を申し出たも
のの認められなかった。民間でのみという条件のもと交易が許されたのは翌承和8年3月。宮田麻呂
は官職にありながらも張宝高と交易を行い、それを咎められ解任されたのである。

承和9年(842)の宮田麻呂を表す言葉は前筑紫守である。官職を解かれても、彼はそのまま現地
に留まり新羅の廻易使・李忠らと折衝を重ね、今度は私的に貿易を行っていた。しかし翌年従者の陽
侯氏雄から新羅人と結託して謀叛を企てたとの讒言を受ける。京や難波の邸宅への捜索を受け、兵具
を押収され、宮田麻呂は弁明を聞き入れられないまま伊豆に配流と決まる。罪は子供におよび忠基は
佐渡へ、安恒は土佐へ配流となっている。彼がその後どう生きたのか知る術はない。

宮田麻呂は『日本三代実録』貞観5年(863)5月20日条に神泉苑で行われた御霊会で祀られた
御霊の一人として数えられ、人々が早い時期から彼の無実とその怨霊を恐れていた事が分かる。また
近江国にも家十区の他水田数十町を所有していた記録が残っている。
976局長永井尚志 ◆Hnj5LxD7GA :05/03/16 14:17:34
隊士募集でーす。
今は浪人の身分ですが、本家官位スレから兄弟スレなので将来性抜群です。
皆で日本史板の治安を守りましょう!!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1110488222/
977武田小監物正七位下源譲新斎高信 ◆BZiSH5Yf.E :05/03/16 14:30:40
>>上様
遅ればせながら将軍就任誠におめでとうございます って俺幕臣じゃないから上様はおかしいか まあいいや

小ネタですが
日本で初めて緯線・経線を引いた日本地図を作った人といえば、普通は伊能忠敬だと答えたくなりますが、実は長久保赤水という人が既に忠敬に先だって全国図をつくっていました。そして江戸末期〜明治初期において日本地図といえば長久保赤水のものでした。
何故こうなったのかというと、赤水の地図は実測ではないため、やや精度に難があります。伊能忠敬のものはいうまでもなく実測です。
幕府は忠敬の地図のあまりの正確さに軍事的に悪用されることを恐れて機密文書扱いにしてしまいました。皮肉にも赤水の地図の不正確さが幕府から発禁をくらわなかった理由なのです。
きっちりやりすぎると嫌われちゃうっていう教訓をこの話から感じませんか? え こじつけすぎ? 失礼しました
978:05/03/16 17:04:41
おまいら?おまえらだろ
979日本@名無史さん:05/03/16 17:55:16
2ch語にツコムな。ハズカシイ
980長宗我部信頼 ◆7xhzCExEeo :05/03/16 18:39:51
くそっネタが見つからないぞ〜!あっ向こうに見えるは
畠山殿の軍勢。ネタをくれ〜〜〜〜〜〜〜!
981日本@名無史さん:05/03/16 19:11:40
>>977
泥棒は来るな!
982畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 19:50:56
>>長宗我部殿
ネタは御自分で探すものにて、他人を頼られるのは如何なものかと。
おお!残り20を切ったか!!方々ぁ、1000も目前で御座るぞぉ!!御出会い候えぇ!!

《悲運の内親王・井上内親王-1》
「いのうえ」「いのえ(へ)」「いがみ」などの読み方があるが、ここでは「いのえ」とする。
養老5年(721)9月伊勢斎王に卜定され、神亀4年(727)に伊勢へ下向。天平16年(744)同母弟の安積親王の薨去によって伊勢斎王を退下。帰京の後は
天智天皇皇孫にあたる白壁王の正妃となった。天平勝宝6年(754)に酒人女王を、天平宝字5年(761)に他戸王を生んだ。但し他戸王の生年は他説あり、75
1年というものもあってはっきりしていない。

神護景雲4年(770)に異母妹にあたる称徳天皇が後継者を示さないまま崩御し、井上内親王の縁で夫君である62歳の白壁王が即位した。これが光仁天皇である。
とはいえ、この在位は聖武天皇の直系にあたる井上内親王の子供・他戸王への皇位継承の中継ぎのようなものだったと考えられる。天智天皇系の諸王の一人であった白
壁王が皇位に就く事自体、不満を持つ氏族が少なくなかったからである。この時、井上内親王の同母妹・不破内親王は称徳天皇の不興をかって内親王位を廃され京外追
放中だった。同年11月立后。また光仁天皇の子女は親王・内親王の宣下を受けた。酒人内親王はこうした中、四品を賜った長兄山部親王を上回る三品の位を得ている
が、これは母親の身分もあるのだろう。翌年他戸親王が立太子。
983畠山勘解由次官従五位下平重忠 ◆OtHPw98ikE :05/03/16 19:51:31
《悲運の内親王・井上内親王-2》

しかし立后から僅か数年後の宝亀3年(772)3月2日、巫蠱の罪に連座して位を廃され、5月27日には井上内親王の大逆罪により、他戸親王は位を廃され庶人に
落とされてしまう。母である井上内親王の厭魅大逆が度重なり、そのような女性を母に持つ子供を皇太子とするのは憚られるというのが理由であった。そのような中で
同年酒人内親王は伊勢斎王に卜定。また姉の失脚とは対照的に不破内親王はその後徐々に位を回復しているが、何か作為的な意味合いがあるのかもしれない。翌年他戸
王に代わり皇太子には山部親王が立った。後の桓武天皇である。10月光仁天皇の姉・難波内親王を厭魅した罪で他戸王と共に大和国宇智郡没官宅に幽閉され、宝亀6
年(775)4月27日、母子共に同日謎の死を遂げる。これらの事件は山部親王を擁立しようとする藤原式家百川らの陰謀ともいわれている。百川は称徳天皇崩御の
折に兄・良継や藤原北家永手らと謀り白壁王を皇太子と定める宣命を作成し、光仁天皇擁立に成功した人物なのだ。しかし百川の真の狙いはこうして即位させた光仁天
皇ではなく、その息子・山部親王の即位にあったというのだ。この年、酒人内親王は伊勢斎王を退下。母弟のいない京へ一人戻る事となる。

井上母子の薨去後、京にはあらゆる異変が続いた。これを朝廷は井上内親王の怨霊の仕業と考え、恐れた。特に恐れていたのは井上母子を退けて皇位についた桓武天皇
であったといえる。井上内親王の遺骸を改葬し墓を御墓と追称。桓武朝の延暦19年(800)には皇后位を追復称し、その墓を山陵と称した。山陵は吉野陵と呼ばれ、
これによって井上内親王は吉野皇后、吉野皇太后などと呼ばれている。また非業の死を遂げた人々を慰める為に催された御霊会や御霊社の創建は、それを物語っている。
そしてこれは偶然なのだろうか。井上内親王の御陵は長岡京の真南に位置しているのだ。
984日本@名無史さん:05/03/16 19:53:49
>>977
うざい
985京の人:05/03/16 20:02:43
川田は辞めたらしいのう…ヒソヒソ
この静けさは何なんだ?千取の為にお互い牽制し合ってるのか
987藤原政頼 ◆xc4U1tzaOQ :05/03/16 20:41:59
着陣!
988藤原政頼:05/03/16 20:44:05
前進
989藤原政頼:05/03/16 20:44:06
前進
990藤原政頼:05/03/16 20:45:21
前進
991藤原政頼:05/03/16 20:45:24
前進
よっ!
993藤原政頼:05/03/16 20:46:22
前進
994藤原政頼:05/03/16 20:47:39
よっしゃー
995藤原政頼:05/03/16 20:47:50
いよー
996日本@名無史さん:05/03/16 20:47:56
なんだこのやる気の無い1000取りは。
997藤原政頼:05/03/16 20:48:42
いよー
998藤原政頼:05/03/16 20:49:21
はい
999藤原政頼:05/03/16 20:49:26
1000
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