吾妻鏡などの資料上で山木襲撃の人数が明記されたものはない。
ただ、後方に待機していた頼朝が応援を3人差し向けたというのはあるらしい。
この3人は頼朝を警護していた3人なので、残りは頼朝1人だけになった。
とすると・・・山木襲撃の人数は・・・
ま、政子が1人いれば一騎当千か。
>>736 「郎従」を伴った兼隆の後見人である信遠を襲撃した後に兼隆を襲撃してい
ますし、武士として独立していた以上、『法然上人絵伝』に描かれている様
な規模の館にいるくらいの人数はいますよ。
景廉ら「三輩」が次に山木邸を襲撃したといいますが、頼朝が一人だけにな
ったという事、どこに書いてありましたか。
>>738 『玉葉』でしたか。すみませんが、何年何月何日条です?
『吾妻鏡』によれば、少なくとも舎人が傍にいて、木登りをして煙が上がる
のを確認させられたという事ですが。
>>735 そういう鎌倉武士のはなやぎというのは、この大河では期待できそうもない。
女子供の視聴率を稼ぎたくて、親子兄弟の情のやりとりばかり。
そのうち、義経はあれほど頼朝、源氏のことを思っていたのに、殺されてしまった。
世間は無情ってことで終わる。
情だけではメシが食えないという話は出ない。
741 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 13:49:59
>>737 山木の館がどれくらいの規模だったか、関心があります。
目代は伊豆国司の副官ですよね。
一国の治安に責任を持つ立場だから小さいわけがない。
吉良邸とは比較にならないほどだと思うんですが。
まあ、祭りで人が少ない時を狙ったそうですが。
742 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 17:23:04
山木館襲撃は合戦なのですかね。はっきり合戦での源氏初勝利となると、『吾妻鏡』
では甲斐源氏の安田義定ですよね?
>>742 あくまでも「襲撃」だから、合戦じゃないだろうな
山木方が準備万端で迎え撃ったわけじゃないし
>>741 吉良邸は2557坪もありましたが、大河ドラマの時代の武士の館というも
のは、さほど大きくも無いでしょう。周囲に下人・所従の住む掘立小屋もあ
り、それらも含めれば、範囲は広くなりますが。
当時の武士の館は、恒常的に堀などで武装したものではありませんでした。
無論、見張りもいれば楯も立ててありましたが、常設された城郭の様な護り
が山木邸にあったとは考えにくいですね。
『一遍上人絵伝』に出て来る武士の館の前には小川の様なものが流れています
が、防備用の堀というよりは、農業用水とする説が有力です。
>目代
元々、国司が現地採用も含めて書・算といった能力に重点を置き、出自をそ
う問題とはせずに雇用していた秘書官の様なものです。
また国司が直接赴任しない遙授の場合、代官を務める事となりました。
>743
自然規模は小さくなりますが、「夜討」も「楯突戦」などと並ぶ戦の形態の一つ
として認められました。『新猿楽記』等を見ても、外道扱いはされていません。
745 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 01:43:35
>>701 あそこらへんの俳優さんは顔がわからんしね
時政と堀しか区別つかん
>>712 墨俣で戦うのはこのあと?
746 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 01:48:17
>>700 畠山重忠も華麗にスルーされた
千葉も佐原もでなかったりして
佐竹攻めもスルーの予感
>>725 平六時定は時政の郎等だっけ
747 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 01:57:19
>>725>>716 時政・宗時・堀・天野・安達
ここまでドラマに出てる人
義時・時定・加藤・狩野・宇佐美・工藤
その他挙兵に参加してる人
佐々木兄弟も駆けつけてたような
馬上(多分)だけで20、30いきそうなきもする
748 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 02:27:55
おもいっきり強制終了くらった。むかつく
ここでいうことじゃねーけど、なんで不安定で穴だらけのもんが製品として流通してて
ボスのゲイツが世界一の富豪なんだよ不良品だろ
んー、このネタ散々既出したか
一応『吾妻鑑』みてみました、731さんも書いてるけど
工藤・土肥・岡崎・宇佐美・天野・佐々木4兄弟・加藤・堀がいました
郎等いれたら40、50軽くいきそ
>>733 水野
>>734 佐々木は渋谷の居候だから特にヤバイんじゃ
渋谷腹の異母弟もいたわけだから、上の4人は肩身せまかったでしょうな
749 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 02:33:35
八月二十日の面々は山木攻めから参加してたってことじゃないか
750 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 02:36:20
すっげー連投になってるな
武士の館って方20、30メートルぐらいでしたか?
751 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 03:49:55
話は変わるが(w
ドラマでは、義経が平泉から連れて出陣したのは、
武蔵坊弁慶、喜三太、伊勢三郎、駿河次郎、佐藤継信、佐藤忠信、以上6騎であったわけだが。
いろんなサイトを見てみると、80人から300人まで諸説あるよう。
6騎だけってことはないよね、
いくらなんでも、これでは、秀衡ミタチ、ケツの穴が小さいといわれても仕方がない。
義経は、実際は何人を引き連れて参陣したのだろう?
752 :
◆MBAno3PP.o :2005/04/13(水) 04:00:04
6人では心細いです
各々が百人力なんで大丈夫です。
騎兵には普通は3、4人の歩卒がつくのでは。
ピクニック気分には丁度良い。
三郎「いやー、申し訳ござらん、腹が減り申した」
義経「よし、ここでお弁当にしようぞ」
喜三「うわーーやったあ!」
弁慶「御曹司、カニの申し出なぞ・・・」
次郎「しょうがねぇな」
兄弟「やれやれ・・・」
で高視聴率だ!よろしく>NHK
>>750 大きなものになると、九十間四方あったり。
>751
『吾妻鏡』には、人数の記載はありませんね。都の方では、義仲追討の時点
になっても、「九郎御曹司」が誰なのかは知られていませんでした。
>754
それが常識ですね。『義経記』には、奥州に行く時には馬を飛ばして吉次の
伴の内、徒歩の者たちに先行したとあり、富士川に臨む時も、騎馬の者す
ら振り切り、馬の腹すじが切れ、蹄が欠けるほどに急いだとありますが、
下人・所従や雑色を伴わないと後々困りますし、馬も大事ですから、奥州
〜駿河間の長距離をそんな調子で飛ばしたとは考えにくい。
757 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 13:11:10
>>751 軍団を引き連れて行ったかも疑問だし、
あの格好(鎧兜で武装)で行ったかも疑問です。
奥州から駿河までの間の、
国司や、関所や、縄張りを守ることに命をかける武士たちが、
あの集団をすんなり通したとは、大いに疑問です。
758 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 14:52:56
>>733 浦野氏。尾張だけでなく美濃から近江にかけて分家は山ほどある。知多半島なら小河か?
759 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 15:02:38
いざキャバクラ!
760 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 18:29:43
>>756 >馬も大事ですから、奥州
〜駿河間の長距離をそんな調子で飛ばしたとは考えにくい。
それはあくまで普通の人の考えであって、
鵯越といい屋島渡海といい、義経ならそういう無茶でもやりかねない。
>義経ならそういう無茶でもやりかねない
その「義経なら」という発想自体、英雄像が定着しているからこそ出て来る台詞
だと思うのですが。
『吾妻鏡』や『玉葉』などで見る限りでは、戦功は間違いなく立てているものの、
特別奇抜な手段を用いていた訳でも無い様に思えるのですが。
そもそも、「鵯越」は険阻と書いてあるだけで、具体的にどこかも分からない。
単に山中を通って「丹波城」を落としてから一谷にかかった様です。
少なくとも、崖を滑り落ちたという事は、無いのではありませんか。
屋島の方も、風雨をものともせずに移動し、風を味方につけて迅速に移動した
点は「無茶」ですが、それくらいでしょう。
>>748>>758 レスありがとさんです。
先週はスルーされてたから、危うく自作自演で「南セントレア氏だよ」、とか書くとこでした。無事回避。いや、よかった。
水野氏って源氏だったんですか。平安時代には、三河から尾張にかけて、結構な所領を持ってたんでしょうか。
浦野氏は、八島、山田、泉なんかと同族で、「重」を通字にしてる一族ですね。大河も、知多じゃなくて、濃尾近国境らへんにポイントしてくれれば良かったのに。
>>761 特別奇抜なことはしてないってこと?
素人質問で悪いが、
範頼ではきっと東に鎌倉、西に平家、北に藤原の3勢力に分断されたのでは?
それが義経があっという間に平家を滅ぼしたから軍事バランスが崩れた。
時代の流れで平家側から鎌倉に付いたってのは結果論で、
やっぱり義経の武功や活躍によるところが大きい。
と思ってたんだが?
>>763 武功は否定しておりませんよ。実際有能であったでしょう。
ただ、「義経」という一個人に限定される様な奇抜さがあったかどうかは。
少なくとも、100km、200kmを歩兵も伴わずに騎馬で走り抜ける
といった常識外れな真似を「義経なら」で片付けるのは無理でしょう。
実際に何を為し得たかは、実際に記録されている事から判断すべきであっ
て、イメージから判断する事は、出来ない筈です。
>時代の流れで平家側から鎌倉に付いたってのは結果論で、
一応、平家敗北の理由(規制権益を奪われた在庁官人や武士の不満、源氏と
異なって前九年の役の様な大規模な戦闘による各地の武士との紐帯が希薄で
あったなど)もいくつか言われてはいますが、平家が頼朝に対し、絶対的に
不利であったとは、私も思いません。長続きしたかどうかは別ですが。
>規制権益
「既得権益」で。
766 :
763:2005/04/14(木) 02:18:11
>>764 誰かと勘違いしてるみたいだけど、
>>763以前に俺は書き込みしてないので(´・ω・`)
>>766 いえ、同一人物でなくても、問題としているところはほぼ同じであろうと
思いまして。特別視するには、義経は案外情報が少ない。
768 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 02:37:28
>>757 俺も、奥州から駿河までは、鎧兜姿で颯爽と騎馬で走る、、、てのはないと思う。
旅の商人の姿で移動したのではないだろうか?
吾妻鏡でも、
今日、弱冠一人御旅館の砌に佇む。鎌倉殿に謁し奉るべきの由を称す。
(今日、一人の若者が、御旅館の入り口に来て、鎌倉殿に拝謁したいと申し込んだ)
どうも、軍勢を引き連れて来たとは想像できない。
ドラマを盛り上げるにはあの格好で草原を走った方が格好いいだろ。
実際は違ったのは当たり前だろうが。
絵面がイイか悪いか、それを史実レベルで話し合うことに価値はないと思わないか。
奥州藤原氏は平家に敵対するつもりはなくあくまで中立なのだから義経に兵をつけてやることはできない。
>>769 >奥州藤原氏は平家に敵対するつもりはなくあくまで中立なのだから義経に兵をつけてやることはできない。
ソースは?
>>769 >絵面
「○○クン、カッコイイ」で盛り上がりたいんならTV板へでも逝け。
>史実レベルで話し合うことに価値はない
日本史板は、それを語り合う板だよ。
772 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 07:37:56
でも佐藤兄弟は実在で奥州からついてきたんじゃないのか?
数騎+歩兵各数名ぐらいはいたのでは。
その程度の参戦は、珍しくも無かったでしょうし。
下野あたりから移動していったのではないかと。
素で不思議なのは、
頼朝と義経が初対面した時、頼朝は義経を自分の弟だと認めた(認識した)のかどうか。
どこの馬の骨とも知れない奴が「俺は義朝の子だ!」と言うことだってあるだろうし。
775 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 20:25:34
>>774 > 實平・宗遠・義實等これを怪しみ、執啓すること能わず。
> 刻を移すの処、武衛自らこの事を聞かしめ給う。
> 年齢の程を思わば、奥州の九郎か。早く御対面有るべし。
頼朝は事前に、義経が奥州にいることを探知していたようだす。
しかも、年齢、名乗りも知っている様子。
俺は、義経はまず実兄の全成に連絡して会い、
その取次ぎで頼朝に対面したのかと想像していたけれど、
吾妻鑑によれば、一人で訪ねて行ったようだすな。
776 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:12:11
>>775 そういう根回しのできないところが義経の魅力w
絶妙のタイミングでの登場の描写が、後三年の役における義光の参戦を想起
させるためのものだといいますが、推測ですからね。
>俺は、義経はまず実兄の全成に連絡して会い、
妥当なのは、こちらの行動でしょうけれど。
778 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:43:10
>俺は、義経はまず実兄の全成に連絡して会い、
全成さんはどこにいらっしゃられるのでしょうか?
779 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:51:35
頼朝も実兄なわけだが・・・・。
>>778 『吾妻鏡』で確認をとっておりませんが、丁度富士川の辺りにいた筈。
>779
同母兄という事ですね。
781 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 02:21:06
とゆうか、
頼朝から見れば、異母弟は家臣のようなものでしょう。
実際、家臣として扱っていると思います。
頼朝は、弟は希義だけだと思っていたんじゃないかな。
>>778 全成は、京都の醍醐寺にいたようだから、たぶん奥州よりも情報伝達が早い。
義経よりも先に、頼朝の元に来ていたと思います。
全成と義経は実の兄弟だから顔見知り…のはず。
ま、かなり会ってなかったとは思うけど。
となると今度は、頼朝は全成を弟だとどうやって認めたんだろうということ。
昔は写真もないんだし、噂や書物が情報発信源なんだから。
家系を名乗って矛盾がなければ認めるのでは
784 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 04:10:15
>>782 平治の乱後の、義朝死亡時、
頼朝は14歳、全成は6歳だっけ。
父の生前、会ったことはあるかもしれないが、
ううむ、面影が残っているかなー。
しかし、
>>775も指摘しているように、頼朝は弟たちがどこにいるか、
把握していたようなので、全成のこともすぐにわかったのだろう。
全成と義経は、牛若が乳児の時に別れているが、
同じ京都の醍醐寺と鞍馬寺に入れられたのだから、
会おうと思えば会えたはず。(史料にはまったく出てこないけど)
というより、牛若が清盛を父と慕い、知盛らと遊んだというドラマの設定よりもずっと自然だ。
となると、牛若に出自を教えたのは、行家ではなく全成であった可能性が高いな。
吾妻鑑には、兄弟対面の場面には全成は描かれていないけどね・・・・・・・・・
p.s. ドラマでは、義経の本人確認は、父の形見の刀であろう。
頼朝「これは確かに父義朝殿が所持せし刀。弟に間違いなし」なんてな
>>784 NHKの義経本による次回の流れは、
義経が頼朝に面会
→義経に富士川の見張り役をさせる
→義経に政子が危機感を覚える
みたいになってる。
政子と梶原がやぱーり悪役になるんだなw