>>120 まあきみが荒らす理由は他の方法では誰も一切相手にしないからだとはっきりしてるわけだがw
>>121 お前は荒らしてるのは自分だということに気づいてないのだな。
>>122 キチガイなんだから気づくわけ無いだろ。
重複スレ平気で立てるやつだぞ。
>>122>>123 自作自演乙、自分が自作自演をやり過ぎてるせいで他人のレスもみんな同一人物にみえるらしいですなw
↑
自己紹介乙
126 :
日本@名無史さん:05/02/01 14:36:20
>>118 城壁厨が複数いるなら、そのひとたちが同時刻に3行以上の書き込みを
一斉にやってみせてほしいね。もちろん大好きな城壁についての内容で。
所詮ひとりなんだからサーバーに負担もかからないから心配いらんぞ。
ひとりじゃ無理だろがな。
城壁厨→嫌城壁厨 に替えただけのマヌケなレスが戻ってくるのかなあ?
>>126 城壁スレをみればたくさん来ているみたいだけどねw
>>128 ×城壁の話をしようと思った、もしくはした人
○禁止されて無い以上城壁の話をどこでやっても構わないだろとわがままを言う人
◎城壁スレでもないのに城壁の話以外が容認できない人
禁止されて無い以上
城壁の話をどこでやっても構わない
ということはわがままでもなんでもなく、自然な意見です。
城壁スレでもないのに城壁の話以外が容認できないということがわがままなことです。
>>130 そんな正論が通じないからやめとけって。
自演を追い出す為に強制ID導入運動でもしないか?
強制IDも止む無し、って雰囲気だよな最近。
本来の雰囲気なら、別にIDでも困る人は少ないだろうし、オレも導入に賛成だな。
まあ、0じゃない分やってみる価値はあるだろう
>>133 > 本来の雰囲気なら、別にIDでも困る人は少ないだろうし、オレも導入に賛成だな。
曲がりなりにも「学問板」と号している以上、発言と発言者が一貫した同一性を保てないと
意見交換が成立しないだろう。一方、コテが叩かれる風潮もあるので強制ID辺りで妥協す
るのが現実的だと思う。
例えば、学会誌や啓蒙書の著者が全部「日本@名無史さん」だったら、それはそれで面白
いかもしれないが、まともな学問として扱われないんじゃないかな。
嫌城壁厨一人で荒らしているだけだからな。
136の意見は発言に責任を持たせないと建設的な話が出来ない、という話で直接城壁やら自演云々は関係ない訳だが
それに自演の問題はこと城関係のスレのみに限った事でなく他のスレでも頻発していて板全体の問題
安易な自作自演が無くなるのはマトモな学問的話を進める上でかなりのプラスになると思うが
「1人とはいえ嫌城壁厨が荒らしている」のが無くなったらお前にとっても万々歳だろ?
普段から自作自演を繰り返してるならまた別なんだろうがなw
直接城壁やら自演云々は関係ない訳だが
を
直接城壁やら自演云々について言っている訳ではない
に訂正
まあ、どの道困るのはほとんどが荒らしで
まともに話がしたい奴にとったら否定する理由が無い筈だわな
>>139 それは、全てあなたの思い込みです。
つーか、それ以前に池沼の発言を引用している時点であなたもDQN。
>>141 DQN認定だけならそれこそDQNにでも出来る、せめて具体的に否定してくれや
どうして思い込みと言い切れるのか、なぜ強制IDを導入するのが拙いのか言ってみろ
馬鹿らしさだけで説得力が微塵も無いぞ (説得する気も無いし 出 来 な い んだろうが
嫌城壁議論厨は荒らすこと以外はできないらしいw
>>142 >>141のDQN認定はともかく、強制IDを導入すればまともな学問話ができるとか考えている
のがイタタだと思われ。
つーか、まともな学問話がしたいヤシは最初からこんなところに来るなと(ry
学問話とはいわずとも、普通の日本語でキャッチボールはしたいね。
嫌城壁議論厨なんて言葉を日常の会話で使うか?
>>144 136も曲りなりにって言ってるしガチで学問として話をしようとしてる奴は流石にいないと思うぞ
VIPの様な何でも有りな板や自作自演もOKなネタ板じゃあるまいし、という話では
>>146 問題は、議論を潰そうと荒らす人がいるからなんだって。
それがなければ、このような話は出てこないよ。
148 :
これでアラシが静まりますように。:05/02/05 01:13:54
私見ではあるが・・・
中国式城壁は、構造としては「扇の勾配に」、機能としては「総構え」に内包されていると思われ。
それまでの野面積みで緩傾斜だった日本式の城壁もしくは石垣は、秀吉の朝鮮出兵後、現地の
中国式城壁の影響も受け、中国式急斜面と日本式緩斜面を上下に組み合わせた宮勾配を生む。
これは登り難さと堅固さとを兼ね備えている。そして打込ハギ以降の積み方でなければ築けない。
中国式をそのまま導入するのではなく、和式に中華式の良い部分を加え改良したのではないか。
つまり中国式城壁が日本でもそのまま普及する為には、日本の城壁が性能面で中国式に劣って
いるという大前提がなければならないのだが、そのような事実は無かったので、ハイブリッドな形と
なったのでせう。現に秀吉軍は占領した朝鮮の城を放棄するか、日本型に改造して使っていたし、
倭乱後の朝鮮王朝内では、朝鮮(中国)式を廃して、倭城を使おうという議論も起こっていたそうな。
149 :
これでアラシが静まりますように。:05/02/05 01:14:45
町ごと守るという機能面では、東国の小田原城に始まり、それを攻めた秀吉により全国に広まった
総構えが中国/大陸的だが、これは護民的性格を持つ後北条氏による自生的な構造物であろう。
それが磚や石作りではなく土塁なのは、第一に、築城コストが安いこと、第二に、土塁の防御力が
石や磚にそれ程劣らないこと、第三に、そしてこれが一番重要な点なのだが、城に対する彼我の
軍事思想の違いであろう。つまり、中国式の如く、一次元の「線」でデジタルに敵を防ぎ、また味方
を護るのでは、線が破れた時点で敗北が決定するので、築城のリソースは必然的に外郭城壁の
巨大・堅固化に集中的に注がれるのに対し、日本式の場合、二次元の「面」に敵を誘い込み、惣構
→三の丸→二の丸→本丸と、徐々に出血を強いて撃破するアナログ型のため、個々の城壁には
それ程過剰な防御性は必要とされない(外郭が立派過ぎて敵が攻め込んでくれないと却って困る
(例…北条征伐・大阪冬の陣(その最大の激戦地が土塁の真田丸だった点に注意)))からである。
日本の城の防御力は、その縦深性にあり、各郭の総和である。また、この日本式のほうが戦略的
柔軟性も高く、兵数の多寡に関わらず、常に城としての防御性を発揮できる。兵が多い時にはフル
に城を守り、少ない時には、たとえば惣構と三之丸は放棄して、二ノ丸以内に立て籠もるということ
も可能。中国式では、兵数が少ないとたちまち城壁の防御力が低下して、敵の突破を許してしまう。
なんつーか、意図を計りかねる
が、何の解決にもならないだろうということだけは言える
151 :
これでアラシが静まりますように。:05/02/05 02:23:40
あと付随的に、城郭の全体的なデザインとしては、日本人の美意識が幾何学的・左右対称的な形
を好まないという理由もある。時代的に遡るが、各地の方形館は、それゆえ当時の日本人にとって
非日常的構築物であり、逆にそれが権威の源泉でもあったとも云ふ。更に遡るが、中国の都城を
模したはずの平安京ですら、早い段階でその矩形が崩れている。城壁はもともと(殆ど)無いし〜。
結局、中国式城郭はあくまで古代型の城であり、中世を過ぎ、まさに近世になんなんとする戦国
後期の日本の城と較べれば、時代遅れの遺物なのである。ほぼ同じ頃、欧羅巴でも城郭様式の
変化・進歩が始まるが、逆に日本では、その後偃武の時代になり、新規築城が停止される。だが
却ってそのお蔭で、近代欧羅巴のような規格化された個性の無いべトン築城に進歩することもなく、
今、我々城好きの目を楽しませている。偃武のタイミングがもう少し早かったら、日本の城はもっと
みすぼらしかったろうし、遅かったらみんな五稜郭になっていたかもしれぬ。 家康 Good Job!
城壁厨が自分の思いこみ>>>>>歴史的事実ということだけは判った
そりゃ基地外扱いされるわな
154 :
日本@名無史さん:05/02/05 21:54:36
>>151 > 遅かったらみんな五稜郭になっていたかもしれぬ。
真田丸は西洋式築城術でいうところの突角堡のような機能を持っていて、
その両側の入り口がキルゾーンであったようだ。
柵を設けて機動を封じ、鉄砲を射掛ける仕掛けがされていたらしい。
これは真田丸守将の信繁の叔父が戦死させられた戦術
(敵をキルゾーンに誘い込み、柵等で敵の機動を封じ、銃撃を浴びせる)
を皮肉にも甥が受け継いでいたことを意味する。
このような戦い方は敵味方問わず戦理として受け入れられていたようだ。
しかし真田丸は外観としては、いわゆる丸馬出し(武田氏の古典的築城形態)にしか見えない。
日本の築城が遠戦火力重視の多層的なキルゾーンを持つ形態で、優れた点が多いのは同意だが、
放置すれば、五稜郭のような多数の突角堡を持つ形態に日本の城が進化しただろう、というのはどうだろう?
古典的な形態でも、機能上は問題ないわけだし。
156 :
日本@名無史さん:05/02/06 00:52:26
>>155 > 古典的な形態でも、機能上は問題ないわけだし。
外来の文化を未消化でも急速に取り入れようとした幕末のような状況でなければ、材質面
など部分的に取り入れる形で消化したと思うなあ。
原地形を根本的に改変することはあまりしないので、幾何学平面の縄張りへは向かわない
と思う。
158 :
日本@名無史さん:05/02/06 01:41:54
明日、奈良の高取城に逝ってきます。
天守址まで徒歩50分って・・・
でかい山城らしいですね。楽しみです。
>>155 西洋でも、ちょっと遡れば、石造りの縄張りが複雑な構造の城があったわけで、
あの幾何学的な平面構造に進化したのには、それなりの意味があったはずです。
昔読んだけど大まかにいうと、
1.大砲が大型化すると、石垣の上では平地が狭くて、設置・射撃スペースが取れない上に
射撃できる方向・距離が制限されてしまう。
2.当時の大砲というのは、簡単にいうと砲丸の玉を飛ばすような感じなんですが、
城の素材が硬い石などだと、命中した後、素材の破片が周囲に飛び散り、被害がひどくなる。
(現在の砲弾(榴弾)みたいな効果をもってしまい、広範囲に被害が出る)
3.鉄砲・大砲の射程が延びるにつれて、その射程を生かすため、曲がりくねった進路にして攻撃を防ぐ構造でなくて
射程一杯に平地を延ばすような構造に変化していった。
敵に対しては、複数方向から射撃を集中したり、高低差や遮蔽物を利用することで火力を優越させる。
みたいな方向に進化したみたい
だから、江戸時代の平和が続いておらず、兵器の進化が続いていれば、日本もそれに合わせた城の縄張りに
なっていった可能性はあると思います。
ただ、個人的には、日本は西洋と比べて土地(田)の生産性が高くて、人口密度も高いから、西洋そのままに
重要拠点の周りを五稜郭みたいな形の要塞がぐるりと取り巻くということにはならなかったのではないかと思います。
(生産力が落ちるのを懸念してしまうような気がする)
>>159 > 1.大砲が大型化すると、石垣の上では平地が狭くて、設置・射撃スペースが取れない上に
> 射撃できる方向・距離が制限されてしまう。
> 2.当時の大砲というのは、簡単にいうと砲丸の玉を飛ばすような感じなんですが、
> 城の素材が硬い石などだと、命中した後、素材の破片が周囲に飛び散り、被害がひどくなる。
> (現在の砲弾(榴弾)みたいな効果をもってしまい、広範囲に被害が出る)
> 3.鉄砲・大砲の射程が延びるにつれて、その射程を生かすため、曲がりくねった進路にして攻撃を防ぐ構造でなくて
> 射程一杯に平地を延ばすような構造に変化していった。
> 敵に対しては、複数方向から射撃を集中したり、高低差や遮蔽物を利用することで火力を優越させる。
極端にいうと、1と2は、真田丸でも実現可能ですね。
真田丸は小平地を土塁が囲んでいる構造なので、大砲設置スペースは土塁の裏斜面に小段を設ければいい。
土塁で囲まれた小平地は砲弾から保護されている形になる。弾片が飛び散ることはない。
問題は3の、白兵突撃を迎撃するための内部的な仕掛けより、銃の進歩によって、有効射程が延びたので、
遠くまで火線が通る単純な構造の方がよい、という点だが、
実際には第1次世界大戦まで、堡塁を準備砲撃と白兵突撃で落とすのは良く行われていたから、
機関銃の登場まで、守備側の火力だけで突撃を討ち取れるわけではなかったようだ。
したがって、狭いところに追い込み、討ち取る仕掛けはあった方がいいと思う。
日本の国情では、火薬が輸入の貴重品で、全員を銃で武装させられるわけではなく、
弓や槍や投石がそれなりに重要な意味を持つはずだから、日本の城塞は、
白兵戦重視の要素をかなり残すと思われるが。
欧州の城塞が虎口の仕掛けをあまり凝らないのは、火器の進歩より、
4輪馬車等の、大型で軸重がある輸送手段があるので、それを使いたいという事情があるのでは。
161 :
& ◆VYbusZGOgo :05/02/06 22:17:10
>真田丸は小平地を土塁が囲んでいる構造なので、
その真田丸は何で紹介されてた真田丸?
構造はおろか位置までも不明で、現在の真田丸は推定地に過ぎないよ。
>161
どこぞの火葬戦記じゃないすか(w
163 :
日本@名無史さん:05/02/16 10:57:39
158さん、高取城、如何でしたか?
赤穂城行ってきました。赤穂五万三千石には大きくまた立派すぎる城だなあ、と感じました。甲府城並に立派。本丸の各角には必ず櫓を設け、折れも効かせまくっています。
築城者の浅野公、かなりの城オタだったのでは!?
なんで、こんな重複スレが立てられているんだ?
削除依頼だすべきでは?
165 :
日本@名無史さん:05/02/16 23:30:29
高松城天守かっこいいね。
167 :
日本@名無史さん:05/02/17 12:19:16
168 :
日本@名無史さん:05/02/17 12:37:25
朝鮮人が朝廷を作った証拠は朝廷の手でことごとく証拠隠滅されてしまったのですが、
厳しい朝廷のお達しにも拘わらず、もぐりで朝鮮特有の岩城を作っていたアフォが居た様です。
今でも中国地方に行くと幾つか残っています。
170 :
日本@名無史さん:
>>163 赤穂城は、たしか山鹿素行先生による縄張りだったかと。
西洋流(ヴォーバン様式風の稜堡★)を一部取り入れているとか。
埋め立て前は、瀬戸内交通を扼する海城でもありました。