870 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 12:20:20
だれか琉球と薩摩藩ってどれぐらいの距離があったか知っている人いませんか?
>>868 中国歴代の侵略王朝が如き手際を当時の日本ができると思うか?
そもそもあの時代の軍隊がちょっとした打撃で壊乱しやすいなんてどこの国だろうとデフォだろ。
872 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 23:15:32
秀吉が長生きしていたらどうなっていたのでしょうか?
873 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 00:41:08
>>868 >明が生き延びたのは秀吉の寿命に救われただけ。
慶長の役では、文禄のような快進撃どころじゃなかったけどな。
夜郎自大って、このこと。
>>871 中国歴代の征服王朝だって最初から上手くできたわけではないよ。
875 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 02:28:51
民族や宗教に基づく対立というのは、日本人が考えているよりずっと根が深い
例えば商朝の時代に弾圧を受けた少数民族の中にはいまでもその話を語り継いでいるのもいる。
実際、民族間の抗争が激しい地域ほど大量虐殺の歴史も長いだろう
明治に朝鮮を併合した日本はそのことがわかっていなかった。
近代化すれば日本の国民となりひとつとなると考えていた節がある。
其の点、異民族支配になれたイギリスなど徹底していたな、支配民族である自分達と被支配民族を厳密に区別していた。
フランスも搾取の対象として植民地を位置づけ、植民地の発展の余地を徹底的に摘み取ってしまっていた。
こうした異民族との抗争のすさまじさを知らないことが、いまの日本人の致命的な弱点のように思えるのですよね。
秀吉時代に大陸に出てそれを知っていれば、日本の近代化はもっと進んだのではないだろうか?
そんなことを考えることがあるな
876 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 03:57:58
夜郎自大というのは、朝鮮征伐が秀吉の死に伴って中断され、
悠々と立ち去る日本軍の後ろ姿を見ながら勝ち戦だと勘違いする朝鮮人の事だろうよ。
>>873 夜郎にしてはやられたことがでかすぎやしないか。
まともな戦いで一度も勝てなかった相手を夜郎と呼ぶほうが、
本当の夜郎というんだろうな。
878 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 06:33:08
まともに戦うことさえしなかったのは朝鮮人
南岸の城にひたすら立て籠もり続ければ良かったのに。
880 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 22:02:29
われもの戦争
881 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 22:26:47
>>876-877 慶長の役、経過調べろ矢。
海戦大敗、篭城戦、兵員撤退、戦線縮小の末、秀吉死去後、追撃戦くらって、逃走。
どうせ匿名でしか、発言できないヘタレだろうし、
ついでにベトナムでアメリカが敗北した理由も
項羽が劉邦に敗北した理由も分からんのだろう。
やられたことがでかすぎで、まともな戦いで一度も勝てなかったベトナムが
糞というなら別だけどな。
ttp://homepage2.nifty.com/H-Suga/kan9.html >秀吉軍は冬に向い陸上の戦線を縮小したが、
海戦の敗北、明軍の蔚山城加藤清正包囲などあり、
翌慶長三年(1598)年三月、宇喜多秀家らは蔚山・梁山・順天を放棄して釜近地に移る事を請う。
秀吉は徐々に、諸将の撤去帰国を命じ、宇喜多秀家・毛利秀元・蜂須賀家政らは
五月二十九日帰国した(中公文庫『日本の歴史』巻十二「天下一統」林屋辰三郎・四八二頁・参照)。
慶長三年(1598)八月十八日秀吉没、こののち五大老連署状(鳥取県立博物館保管「菅文書十一」)により、
菅平右衛門達長は朝鮮から撤退した。
883 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:28:41
>882
韓国と違って得たものを戦後に役立ててるから、決して惨めな敗北じゃない。
>>882 香ばしい人ですね。
どうしてそこで
項 羽 と 劉 邦
が登場するのか!?
さておいて、過去レスよめや。
>翌慶長三年(1598)年三月、宇喜多秀家らは蔚山・梁山・順天を放棄して釜近地に移る事を請う。
結局これは秀吉が却下し、結果的に奏効したわけだ。
戦線縮小ではなく予定の行動。兵隊を半分引き上げたのも予定。
明年には大軍を再編し繰り出す計画もあった。
随分古い本を見ているようだが、その本はダメだよ、文禄慶長の役に関しては。
李舜臣への評価が無批判に称揚されている。
まだまだ貫井博士のほうが価値がある。
885 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 09:11:03
>>882 >海戦大敗
よせばいいのに、日本軍を追撃した李舜臣が無様に返り討ちされた件か。
886 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 11:34:35
>>885 どんなに優勢であっても決して深追いしてはならない
これ戦術の基本だな
888 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 18:58:37
李舜臣を惨めに敗死させたのは、同国人の元均(巨済島で朝鮮水軍大敗北)
の背信も遠因にあるだろう。
889 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 21:07:53
ないない全く関係ない。
890 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 21:10:42
韓国の捏造教科書では李舜臣は敗死しなかった事になってるよ。
891 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 23:05:44
>>890 偶然勝ってるのに死んじゃった
ネルソンって言う例があるから
捏造もしやすいのでしょう
でも明・朝鮮がわ名のある大将が死にすぎだけどな
ネルソンと言えばアレだ、キスミーハーディってどう言う意味?ホモだったん?
逸話 立花統虎(宗茂)の知謀
文禄の役当初、釜山に侵入した諸将はみな漢城に直行するつもりであった。
この時、宇喜多秀家が「先ず太閤の裁可を仰いだ後、釜山から北上すべきか、
それとも、直ちに漢城に向かって進撃すべきか」と問うたが、
福島正則と加藤清正の意見が一致しなかったので結論が出なかった。
小早川隆景が立花の意見を問うたところ、統虎は再三辞退したが、止むなく答えて
「拙者の知るところによれば、将軍たる者戦陣に臨めば、
たとえ君命と雖も聞く能わざる事ありという。
今、将に海外に出兵したるに、万事を悉く報告し、
然る後進退を決するとすれば戦機を逸する懼れあらん。
今、漢城の防備整わず、各地で軍兵を召募中という。
軍勢未だ集まらざれば、則ち長駆して速やかに王城を攻め落とすべし」と。
隆景が「王城の防備整わず、軍兵の召募振るわざるを如何にして知りたるぞ」と反問した。
統虎はこれに答え
「若し、この国の防備整いたりとせば、釜山と東?のかくも容易に崩壊することなし。
釜山、東?の防備無きを見て、王城も又防備無からんと察知したり。
且つ吾、王城への道程を地方民に問いたるが、途中艱峻要害地、数処有りという。
若し、我が軍遅滞して速やかに進軍せざれば、
敵必ずや要害地を分守するか、然らざれば明国に援兵を請うなり。
かくの如くなれば我が軍の勢いはそがれ、進撃し難し。
よって、果敢にして迅速なる進撃あるのみ」
と卓見を述べたので、並み居る諸将はすべて感歎し、遂に進撃に移ったという。
時に二十六才で、柳川城十三万石の領主であった。
この場合の情勢判断は老成の域に達したと評されよう。
895 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 06:41:50
ウェキの記述もそうだけど何で戦死なのに李舜臣は 流れ弾に当って 死んだことになっているんだ?
現代戦であっても、スナイパーライフルで将官が狙撃された時に、
狙撃手の狙撃位置が特定できない場合は、流れ弾扱いされる罠。
討ち死にしたという事実を率直に記述すると、日本に負けた事が明白だから面白くないんだろう。
そこで流れ弾に当たって死んだという物語を強調する。
そうすれば李の死は戦いの勝ち負けから切り離されるので、史実を歪曲しやすい。
ホレイショ・ネルソンみたいに勝ち戦の中で死んだかのように思わせる為の詐術だろう。
お前はそれでいい。
鉄砲隊が充実していた島津軍と衝突してる最中なんだから、
斉射を浴びている中で射殺されたのは明白。
亀船はどうしたんだよって感じだな。
装甲板からひょこっと首でも出した所を狙撃されたか?
お前はそれでいい。
最後の戦闘は明軍の艦だからかな?
何か湧いたようだ。
誰か答えてくれているぞ。
よかったな、チンカス。
チョンは黙ってろ。
誰がチョンじゃい。
隆景の全羅道に入るや、占領地の韓民の?撫に努め、官穀を分給し、
逃亡者を召集したから、一旦逃げ去った韓民も自ら還り来たるようになった。
熊?の戦には敵の死傷するもの多かったが、
隆景はその死骸を集めて路傍に埋葬せしめ、数個の塚を築き、
その上に標木を立て、「朝鮮国忠肝義?弔」の八字を書し、篤くその霊を弔うた。
これ韓史に伝うるところで、
隆景が敵兵ながらも君国のため倒れた義勇の英霊を慰めた風懐は、
蓋し士林の美談とすべく、韓人をしてその人と為りを欣慕せしめたのである。
文禄の役に於て隆景と行動を共にした立花宗茂が島津忠恒に語るところによれば、
諸将の朝鮮にあるや、各意を用いて兵士の休養を図り困苦を憂えたが、
殊に隆景は部下の疲?せんことを虞れ、
絶えず陣中を巡同して、下賤の僕隷に至るまで仔細に注意を加えた。
その軍を行るに、諸将の五六里を進むる時にも、
隆景は三里前後に過ぎなかったから、
福島正則の如きは隆景に対して頗る不平であった。
然るに明の大軍南下して平壌を陥れ、京城に迫るに及び、諸将皆狼狽の色があったが、
隆景は従容としてあたかもこれを予期していたように見えたので、
宗茂、正則の如きも初めて明・朝鮮の大軍と戦うには、
正に隆景の如く慎重な態度を取らなければならぬことを悟ったという。
908 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 16:33:55
隆景は全羅道で権慄に敗退したんだっけ?
909 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 17:45:09
この朝鮮の役で秀吉は衰えたがそれ以上に明が衰えた
もし家康に秀吉のような野心があれば、日本が明を滅ぼし、
新興の清と対峙することが出来たのではないか
いや台湾の鄭成功への援軍を送り、清と戦うなんて未来図も面白いのではないか
何て未来図を予想したりするな
でも確か清も同盟の使者をよこしてなかったか?
日本の大名が明側と清側に分かれて戦ったりして。
>>908 李舜臣と同じで、
少数で行動していた足軽共を大勢で待ち伏せて勝ったと言っているだけだろ。
だろ。
か?
913 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 15:40:37
野戦の規模と言えば最大は碧蹄館?
あとは禝山ぐらい?
しらんのだが小早川隆景は全羅道で野戦やっていたのか?
ヘキテイカンは日本の大勝だったが、
ショクサンというのはどうだったのか。
チャンコロは自分らが勝ったといっているらしいが、
日本はこの戦場に暫しとどまっているので、
チャンコロを追い払った結論が出ている。
915 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 23:13:22
忠州の戦いは?
916 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 08:45:29
日本軍と朝鮮軍で野戦をやったケースってあるの?
917 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 11:26:59
当時の李朝朝鮮と日本では陸軍は軍事力が違う。
日本は百年に渡る戦争を繰りぬけてきた歴戦の猛者揃いで、練度も装備も世界的に見てもかなりのものだっただろう
一方、李朝朝鮮の方はその逆で泰平の世に惰眠を続け、おまけに伝統的に武官を軽んじていた。
頭数だけ揃えた兵士より、戦いなれした兵士がコンビネーションを組んで戦った方が強いのは当然のことだ
準備不足とか他にもいろいろあったようだが、陸戦では李朝朝鮮は日本側にひとたまりもなかっただろう。
919 :
日本@名無史さん:
臨津江の戦い