常盤御前&静御前専用スレッド・其ノ壱

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1日本@名無史さん
いろいろあるんだろ、語りたい事がさ♪
2日本@名無史さん:05/01/10 20:46:52
おまんこ女学院
3日本@名無史さん:05/01/10 20:48:25
>>1が語りたいのでは?
4日本@名無史さん:05/01/10 21:02:13
常盤御前は色々悪く言われてても色々あったわけだから他の人が気づかなくても本人には色々な苦悩や葛藤があったと思います。
以上。
5日本@名無史さん:05/01/10 21:04:47
>>1
熊野御前は語らないのか?
6日本@名無史さん:05/01/10 21:53:35
>>4
その「色々」を語るのがこのスレの意義だろ
7日本@名無史さん:05/01/10 21:55:04
どんな匂い?
8日本@名無史さん:05/01/10 21:58:21
稲森いずみキレイだったよ、いやマジで。色っぽかった。
上原さとみには期待していない。
靜御前やるなら、最低10kgはダイエットして欲しい
あんなデブの白拍子がいる訳ねーだろ!
9日本@名無史さん:05/01/10 22:01:37
当時の美的感覚からすれば美人な方ではないかとw
巴御前はダメ〜(・∀・ )っ/凵 ⌒☆チン チン☆⌒ 凵\(\・∀・)?
10日本@名無史さん:05/01/10 22:04:29
>>8
上原さとみ???????????
11日本@名無史さん:05/01/10 22:40:46
白拍子って風俗嬢なの?
12日本@名無史さん:05/01/10 22:57:41
源平藤、3氏の子供を生んだ常盤御前はすごい。。
13名無し三等兵:05/01/10 22:57:42
売春婦というのがむしろ正しいのではないか
14日本@名無史さん:05/01/11 00:58:24
なんで、白拍子が売春婦なの?
史料あるの?
15日本@名無史さん:05/01/12 02:18:51
>>14
てきとうな史料がみつからなかったがとりあえずほれ

>遊女はもと白拍子なり 「異本洞房語」

なんかこの手の腐女子っぽいのが増えたなぁ質問する態度が気に入らない
そもそもこの時代は遊女の地位も上から下まであるぞ
公家で母遊女もかなりいるし、範頼だって母遊女だし

吾妻鏡文治二年五月十四日条
工藤祐経、梶原景茂らが静のもとへ押しかけ酔った彼らは

「此間艶言於静。々頗落涙。予州ハ鎌倉殿御連枝。我彼妾也。」あ〜引用めんどくさい

「豫州は鎌倉殿の弟君、私はこのお方の妾です。御家人の身であるあなた様は、私たちがただの男女の仲でないことは承知のはず。もしも豫州が罪咎を問われなかったら、あなたにこうして対面することもなかったはず。ましてや今の立場で何を言おうと言うのですか」

このエピソードを見る限り御家人の馬鹿息子共は静を遊女としてみなしていたね
静が反発したのは格の低い遊女としてみられた為もあると思ってる

白拍子≧遊女ぐらいだと思う、(遊女は全部白拍子だったのかよ!って突っ込みは無しね)




16日本@名無史さん:05/01/12 02:26:44
「異本洞房語園」だった・・・
17日本@名無史さん :05/01/12 08:06:54
13ですが15さんありがとう
18日本@名無史さん:05/01/15 03:07:19
フェラチオ100人の件は?
19日本@名無史さん:05/01/24 02:53:14
常盤と静って最後はどうなっちゃうのですか?
20日本@名無史さん:05/01/24 13:51:06
吉水神社に年2回(?)里帰りするという静御前の能衣装が
普段、預けられている(?)という京都の博物館ってどこでしょうか?
展示はしているんでしょうか?
21日本@名無史さん:05/01/24 20:28:25
常盤御前も静御前も生没年未詳
22日本@名無史さん:05/01/24 20:49:26
巴御前は?
23日本@名無史さん:05/01/24 20:51:46
巴御前も生没年未詳
24日本@名無史さん:05/01/24 22:18:17
しずやしず
しずのおだまき
くりかえし
むかしをいまに
成吉思汗

義経殿へ
静より
25日本@名無史さん:05/01/24 22:56:06
宮中の行事のなかで、舞楽が舞われることがあるが、本来朝廷では
舞楽人を役人として雇うことになっていたが、平安末には廃れてし
まい、保元の乱で実権を握った、後白河上皇の乳母人(めのと)
藤原信西が内裏の再建を行ったときに、あわせて、宮中行事の復活を
図ったが、舞楽人の人材に欠けていた。そのとき白拍子たちを、宮中
の舞人として組織することを発案。日常歌を詠み舞踏を生業として、
容姿に優れている彼女達は適任と移ったことであろう。つまり舞踏芸能
役人としての役割を公的に認められていたとおもわれ収入も得ていたと
思われる。しかし、組織した信西は、平治の乱で首を討たれるが、その
恩恵をその後独り占めしたのは、今様のと道楽と衆道の大家である、
後白河上皇。静御前を義経に近づけたのは彼差し金である。きわめて、
白拍子は政治的な要因で成立している。

西の白拍子は現代の舞妓、芸妓さんにあたり
東の遊女は現代のキャバ嬢やピンク系職業の従事のオネエサン方といった
ニュアンスと思われる。
26日本@名無史さん:05/01/26 01:06:37
幕末の憲君等もオネイサン方と結婚しているし、いいじゃん。
学があって独立した仕事を持っている女なんだから。
27nanasi:05/03/09 17:11:34
>>21
常盤は1138年生まれらしい。
28日本@名無史さん :05/03/13 19:03:18
>>27
1138年・・・良いサンバの年
29日本@名無史さん
>>11
>>14-15
白拍子とは平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞の事
また、それを舞う女の事でもある
ここで重要なのは白拍子=遊女は江戸時代の事
基本的に>>15の言う通りだが敢えて言わせてもらえるのなら
静御前が生きた平安〜鎌倉時代では白拍子>遊女である
舞を踊る芸者と考えればそう遠くないんじゃないかな