男系断絶!女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part26
117 :
日本@名無史さん:
予想される皇位継承順位と皇室の将来像
0 天皇明仁 →75歳を契機に皇太子徳仁に譲位
1 皇太子徳仁 →明仁の譲位を受けて即位
2 敬宮愛子 →徳仁の即位とともに立太子→結婚して皇統存続
3 秋篠宮文仁 →眞子内親王に継承
4 秋篠宮眞子 →結婚して文仁親王の跡を継ぎ宮家存続
5 秋篠宮佳子 →新宮家創設、結婚して宮家存続
6 紀宮清子 →新宮家創設、結婚して宮家存続
7 常陸宮正仁 →将来断絶
8 三笠宮崇仁 →寛仁親王に継承
9 三笠宮寛仁 →彬子女王に継承
10 三笠宮彬子 →結婚して寛仁親王の跡を継ぎ宮家存続
11 三笠宮瑶子 →皇籍離脱
12 桂宮宜仁 →将来断絶
13 高円宮承子 →当主となり結婚、宮家存続
14 高円宮典子 →皇籍離脱
15 高円宮絢子 →皇籍離脱
皇太子徳仁親王が即位したあかつきには敬宮愛子内親王が皇太子に冊立される。結婚しても皇太子の地位にとどまる。
秋篠宮家は文仁親王の後は眞子内親王が当主として継承し、結婚しても皇族の身分にとどまる。
佳子内親王は成年または結婚を契機に新宮家を創設する。ただし、本人の意思と皇室会議の議により皇籍離脱を選択することもできる。
紀宮清子内親王は結婚を契機に新宮家を創設する。ただし、本人の意思と皇室会議の議により皇籍離脱を選択することもできる。
三笠宮家は、崇仁親王、寛仁親王の後は彬子女王が当主として継承し、結婚しても皇族の身分にとどまる。
瑶子女王は成年または結婚を契機に皇籍を離れる。
高円宮家は、承子女王が当主となり結婚しても皇族の身分にとどまる。
典子女王、絢子女王は成年または結婚を契機に皇籍を離れる
118 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:09:12
とりあえず、
>>1=スレ主が隠蔽した過去を晒しておかねばなるまい。
>6 紀宮清子 →新宮家創設、結婚して宮家存続
>6 紀宮清子 →新宮家創設、結婚して宮家存続
>6 紀宮清子 →新宮家創設、結婚して宮家存続
>6 紀宮清子 →新宮家創設、結婚して宮家存続
恥ずかしいヤツw
119 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:09:38
妄想典範のノリノミヤの部分をさんざんバカにされたもんだから、
さりげなく削除してるな。
恥 ず か し い ヤ ツ
120 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:10:15
次に恥をかきそうな「妄想」(「予想」ではない)はこれだな。
>予想される皇位継承順位と皇室の将来像
>0 天皇明仁 →75歳を契機に皇太子徳仁に譲位
>1 皇太子徳仁 →明仁の譲位を受けて即位
122 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:15:57
123 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:16:45
東京明治天皇(写真)
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html (1866年1月。当時。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を
着た方。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が
東京明治天皇。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)
一念奮起して、自分のHPを立ち上げ、多くの賛同者に励まされて
今日を迎えてますが、様々な投稿があります。
しかし、まさに玉石混交の感があります。今回神様からの投稿は、今までの中で一番衝撃的内容です。
しかし、読んでお分かりのように、内容は「強力な論理と論証に拠る証明」という観点からは、いささか脆弱性も窺えます。
しかし、次の文は、神様の私に対する励ましの言葉であり、大いに賛同できました。
何故なら、伝承も重んじるのが「八切史観」ですから。
124 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:17:17
大室寅之祐の弟、庄吉(1853〜1926)の孫、大室近祐(1905〜1995)は祖父庄吉から聞いた話として、
「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」
という。
石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。
このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。
孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。
そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。
彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。
大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。
大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。
さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。
同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。
やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。
(便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。)
125 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:17:54
こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。
ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、
>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。
>寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。
>睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。
>寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。
>睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。
性格だけは父の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉らはついに邪魔者として片づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。
遺体は母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。
官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。
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当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。
藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。
実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。
126 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:18:38
防長における南朝の系譜/松重 正(転載その壱)
大室家の人々の篤くべき証言
大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田
家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人
は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年87才、故あってず
っと大室家で暮らしてきた方である。
この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれる
のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解
説する。
一、田布施町役場の戸簿謄本を見ると、頭出しに、
山口県熊毛郡麻郷村第五百五拾四番屋敷
前戸主亡夫大室弥兵衛長男
大室庄吉(嘉永三年正月十日生)とあり、つぎに庄吉の母として、
亡祖父文右衛門長女・亡夫弥兵衛妻
ハナ (文化十二年十二月五日生)
つぎに庄書の妻(同村峠嘉右衛門長女)
マチ (嘉永二年八月二十三日生)
そして庄書とマチの間の子として、
長男儀作(明治十九年十一月二十三日生)
長女モト (〃四年正月八日生)
二女タカ (〃八年十一月二十四日生)
三女ツネ(〃十一年十一月一日生)
四女ヨネ(〃十四年十月二十四日生)
五女ツユ(〃十七年六月二十八日生)
二男音吉(〃ニ十二年九月二十六日生)
と記してある。
127 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:20:05
男系派のむなしい抵抗が続いています。
みじめだね。
おまいらの大事な皇統はもうすぐ断絶するんだよ。ざまあみろ。
128 :
日本@名無史さん:05/01/05 22:21:27
不敬罪復活させっぞ!ゴルァ!!!!!!
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皇 族 ご 一 同 お 怒 り で す